某社との案件会議
2014 FEB 28 18:18:45 pm by 東 賢太郎
人には色々なタイプがあって、物事の決断のしかたは様々です。今日も某社との会議でそういう話が出ました。「自分は若いとき将来が不安でいちど十二指腸潰瘍になりました。それ以来、病気が怖いので決断には悩まない性格になりました。」という方がおられました。簡単に聞こえますが、理由はどうあれ性格を変えるというのはなかなかできることではありません。セルフ・コントロール力が非常に強い方です。
僕は基本的に臆病なので、自分が理解できないことをやると非常に不安になります。将来はもちろん不安といえば不安ですが、将来の不可抗力である物事はお天気と一緒で自力で変えられません。だから意味ないので考えません。ですから「将来どうなるだろう」という漠然とした不安は持ったことがありません。その結果、楽天的です。ひとことでいえば、「運は天にまかす」、「勝てるケンカしかしない」、「努力は勝率を上げるためにする」という性格です。臆病者と楽天家は同居できるのです。
ビジネスにおいて「理解できる=勝てる」とは限りませんが、「わからない=負ける」の確率は非常に高いです。負けに不思議の負けなしです。特にプロ同志の(B to Bの)証券ホールセール・ビジネスの世界は猛獣のひしめくジャングルであって、そこに丸腰で入っていってライオンに襲われましたといって誰も助けてくれないし、食われてしまっても同情する人はいません。そこでダマされましたと裁判などしたらあいつは素人だと永遠になめられるだけなのです。
ではジャングルでどうやって「勝てる」と判断するか。まず自分の力を客観的に評価しなくては危険です。チータと競争して勝てるはずありません。そこから先は人それぞれですが、僕は頭は使わず「鼻でかぎわける」ことになります。それは「匂いがいい」=「理解できる」と言ってほぼ正しいです。いいアイデアはわかりやすいのです。「わからない」ものはだいたい失敗します。言葉で聴いても数字にしてもわからないもの、数式で説明したがるもの。そこまで聴いてみて頭を使わないとわからないというものは、どこかがおかしい不良品だという判断をするわけです。
いま「匂い」と書いたものですが、判断をする段階ではまだ形が見えません。ほわっとした煙みたいなものです。それが形が見えてスペックまで決まってしまえば「理解」は中学生でもできます。だから利益率はゼロです。そして利益が出ないビジネスは失敗なのです。「匂い」でわかるかどうか。金融に限らず、すべてのビジネスの成功はそれにかかっています。
今日の某社案件会議では、いままで錯綜していた複数の部分が一つに収れんしてすっきりしました。そしてトータルには大きな仕掛けとなっています。自画自賛ですが、とても「理解できる」「匂いのいい」ものに仕立てられたように思いました。これから某社様とこれを進めていくことになりますが、一社の利益だけではなく社会的貢献度も高いところへ目線を置いてやることで僕のモチベーションも高いところにキープできる気がいたします。短距離走型の狩猟型なので、それはとても大事なことです。
皆さまにおかれても、まずは自分をクールに知っておくこと、自分の決断の仕方、くせというものを分析して知っておくことは大切で、ビジネスや交渉ごとはそれだけでも勝率をあげられるように思います。
「バンクーバーの朝日」に感動(フェアであることの強さ)
2014 FEB 27 22:22:40 pm by 東 賢太郎
TVで戦前の日本人野球チーム「バンクーバー朝日軍」を知りました。
第2次大戦前の日系カナダ移民の話です。ある日、日系人に職を奪われて怒り狂ったカナダ人暴徒に襲われて被害を受け、それに反撃を加えたために暴動は国と国の憎しみあいにまで発展してしまいます。その後も徹底的に人種差別を受けた日系移民たちは、現地のスポーツ野球で白人を見返そうと立ち上がって野球チーム「朝日軍」を作ります。しかしカナダのナショナルリーグには入れてもらえず、何年かたってやっと一番下のインターナショナル・リーグでの参加を認められます。
徐々に力をつけた朝日軍は白人チームに勝ち始め、やがて連戦連勝の戦果を挙げるまでになります。するとカナダ人チームは徹底したラフプレーを仕掛けて汚い手段で勝に行きます。けが人が続出し試合は一触即発の事態となりました。それでも朝日軍を出場停止にしなかったのは「ジャップをやっつるカナダ軍」が興業として客寄せになるからでした。同じ目的で、今度は審判までもがカナダ軍に味方をして、明らかなえこひいきのジャッジでカナダを勝たせるようになります。
怒り心頭に発した朝日軍の選手たちは審判に体を張った抗議を試みます。それをなだめたのが朝日の監督でした。「みんな暴動を思い出せ。あの時に反撃して何が得られたんだ?判定がおかしくても抗議は一切するな。日本軍はフェアプレーに徹しよう、それをカナダ人にわからせよう。」と言ったのです。
ある日、6-3で朝日が勝っている試合の9回、満塁走者一掃のヒットでカナダは同点とし、打者走者がホームにつっこみました。誰が見てもアウトでしたがジャッジはセーフ。カナダの逆転勝ちとなりました。その時、怒った観衆たちがグラウンドになだれ込み審判に猛抗議しました。それはカナダ人の観衆だったのです。
こうしてまたフェアな野球ができるようになると朝日軍は再び強豪チームとして返り咲き、カナダリーグで堂々たる戦績を挙げてカナダ人ファンの称賛を大いに浴びることとなったのです。そして日米開戦。すべての日系移民は資産を没収されて収容所に送られます。朝日軍は解散となり、終戦後ももはや復活することはありませんでした。
それ以来この話は忘れられていましたが、カナダプロ野球機構が朝日軍を異例中の異例として「殿堂入り」させることを決定し、日の目を見ることになったそうです。サムライとして称えられたのです。それを知った当時の選手の方がWe received spotaneous standing ovation. It was unexpected and will stay in my memory for the rest of my life. とおっしゃっていたのが焼きつきました。
世界ではサムライというのは人殺しなどではなく「フェアな人」であり「どんなに苦しくても正しいと信じることを粛々と行える強い人」だという意味に理解され始めているのかもしれません。それこそ日本人だけが誇ることのできる強さです。朝日軍へのカナダの方々のご評価はこれからの「世界の中の日本」を考える中でとても示唆に富む話ではないかと思いました。
この話は「バンクーバー朝日」というタイトルで今年映画化されるそうです。見てみようと思います。
映画『バンクーバーの朝日』公式サイト
原鉄道模型博物館(Splendid Hara Railway Museum in Yokohama)
2014 FEB 27 1:01:23 am by 東 賢太郎
横浜駅から徒歩5分、三井ビルにあります。1919年生まれの原 信太郎(はら のぶたろう)氏は戦中・戦後、復興・高度成長期を通して鉄道好き・技術好きを貫き、世界中を旅し、模型を製作・収集。これまで訪れた国、延べ約380ヶ国、所蔵模型数約6,000両、撮影したスチール約10万枚、フィルム約440時間、という鉄道の鉄人です。
僕は少年時代の絵は電車のみです。関心は線路と車輪、台車などメカ部分ばかりであり、その血は鉄研の息子が継いでいます。子供のころ買ってもらったのはOゲージでし
た。HO以下は質量感がなくまったく興味なし。大好きな湘南電車を “サンタクロース” にもらった日のことは忘れません。以来、大型模型にはうるさいのですが、どこを見るかというと上の写真のD51の車輪をご覧ください。脱線防止のため、レールの内側に入り込むように車輪の外周に「フランジ」というでっぱりがありますね。これが低いと脱線しやすいのでほとんどの安物の模型はこれの背が「高い」のです。そうなると現実感がさっぱりなく、僕はいっきに興味が失せます。そもそもそこで手を抜く程度の製作者の模型などまず子供だましで、ここもそれが高かったらすぐ帰宅したでしょう。ところがご覧のとおり、原氏の模型は原寸どおりの高さ!う~ん、おぬしやるのう。これ見た瞬間にもうクオリティを感じました。右の京阪電車もいい味出してます。
ジオラマは世界最大30m×10mの壮大なスケールで、線路は一周80m、幅は45mmの1番ゲージ(実物の1/32)でとにかくでかい! しかもレールと車輪が合金でなく本物と同じく鉄製であり車両は自重がかなりあるのでつなぎ目で発する音がリアルです。これはこたえられません。これが全望です。
このムードはヨーロッパそのものですね。造作物、人間すべてに一切の手抜きがありません。いや、ちょっと端っこでも手を抜いてしまったら、車輪のフランジにこだわった意味が消えてしまうのです。だからそれは当然なのです。ジャンルこそ違いますが僕もこだわり趣味人ですからその辺の厳しさはよ~くわかります。
この駅舎は巨大なフランスのリヨン駅です。建物のリアル感も見事です。このジオラマがある巨大な部屋の天井もリヨン駅と同じ造りになっています。
奥の係りの男性まで約10m、とにかく壮大です。
夜景です。幻想的です。模型と思えません。
これはチューリヒ時代に住んでいたクスナハト駅を思い出します。すごくなつかしい。こんな感じの高台の家で、暗くなって車を運転して帰宅する途中がこんな風景でした。
わざとボカシを入れたわけではありません。写真が下手くそなだけです。
この模型は架線から電気を取っているのもこだわりです。また本物の電車はモーターの動力をオフにしても慣性走行しますが模型はすぐ止まってしまいます。そこで試行錯誤を重ねてギアを工夫してそれができるようにしたそうで、世界にそこまで凝った模型はないそうです。原氏の一生を賭けたこだわりは壮絶なものがあります。日本人のクラフトマンシップの原点を見る思いです。慶応幼稚舎からエスカレーターだったのに鉄道好きが嵩じてわざわざ東工大に入り、コクヨ(株)でサラリーマンをしながらこれだけの模型を作ってしまうという のは趣味の域を超えています。
童心に帰ったといいますか、子供そのものの格好で写真を撮りまくってしまいました。鉄道好きの方には一見の価値あり、おすすめします。
(こちらへどうぞ)
ブルックナー交響曲第7番ホ長調
2014 FEB 25 19:19:10 pm by 東 賢太郎
このところかなり精神的、体力的に疲れていて気持ちがロウになりがちで、体調の方も先週は咳が止まらなくなって参っていた。漢方をいただいて何とか収まったが・・・。
こういう時に僕には何が効くかというと、ブルックナーである。それも7番がいい。5番、8番はちょっと押し込まれて重い。9番は平静にはなるが気持ちが前に出ない。7番の泣きからの復活こそ波長が合うのだ。この曲とつき合って39年になるがそれはずっと変わらない。
ということで日曜日は7番の第2楽章とピアノで格闘することになった。これは素人にとって非常に難しい。格闘という言葉しかなく、後半は一人で弾くのはどう見ても無理。だからせいぜい提示部ぐらいだ。しかし出てくる音はあまりにすばらしい。下はワーグナーの死を予感したブルックナーにやってきた嬰ハ短調の弦の慟哭の主題のあと、ぱっと陽がさすように長調に転じて第2主題を用意するつなぎの部分だが、ここが僕は大好きだ。この部分の目が眩むような「和声の迷宮」の見事さはどうだろう!それがぎらぎらした感情ではなくどこか信仰心(そんなものは僕にはないが・・・)からくる安寧、諦観とでもいうような心の落ち着きをもたらす。疲れた頭を芯から癒してくれる気がするのである。
下のModeratoからが第2主題だ。何といういい節だろう。これは彼が遺骸の頬にキスしたほどシューベルトを敬愛したという脈絡に位置するものと感じる。この美しさは筆舌に尽くし難い。天国への道はこんな感じなのかもしれないとさえ思う。
このあたりを弾いていると、僕は本当に骨の髄までブルックナーが好きなんだと思う。2-3時間この楽譜と向き合って、もうほかの楽しみはいらないどうでもいいという境地に至ってしまった。音楽パワーさまさまの一日であった。
7番の第1楽章はブルックナーの書いた最も素晴らしい音楽の一つだろう。僕はブルックナーの音楽は宗教音楽と思っている。ヴァイオリンのトレモロに導かれるあのホルンとチェロのユニゾンの上昇。神的、霊的なものへの扉が開く。7番は精神が天へ向かっている。181小節のフルートソロのパッセージ、この部分の前後は見事にショスタコーヴィチの第5番第1楽章にエコーしている。ほぼパクリといってもいい。あの不可思議な空騒ぎで終わる交響曲の非常に感動的な第1楽章の静寂部分と第3楽章はブルックナーに負うものがあると考えている。終楽章を彼が負ったのはマーラーだ。
3つの主題があるが2番目の主題は驚くことにロ長調で入って2小節目からもうロ短調、ト長調、変ロ長調、ヘ長調、変イ長調・・・と小節ごとに調が万華鏡のように変わる。ドビッシーはフランクを転調機械と皮肉ったが、この平明な主題の気分の変化は機械的でも気まぐれな女心でもなく、微妙な天候の移ろいのようだ。最初の主題のホ長調からハ長調もそうだが、主題そのものに転調がビルト・インされているのは自然の生生流転、諸行無常というパーツでこのシンフォニーが構築されているということだ。そしてすばらしい終結部、高弦のトレモロとティンパニに伴われて第1主題が回帰する部分は宗教画の金色に輝く天空を思わせる。こういう音楽にヒューマンな要素、感情、快楽のようなものを表現したり聴こうとしたりということは僕の場合は一切ありえない。
第2楽章でハースが削除した打楽器は僕はあっていいのではないかと思っている。原典版(クレンペラーが使っている)がどこまで原典だったかということだ。ブルックナーはそれをするには禁欲的であったとする人もいるがワーグナー崇拝者でもあった。だからワーグナーチューバを借りてきているわけであり、トライアングルとシンバルの組み合わせはワーグナーがマイスタージンガー前奏曲で使っているが、あそこで2回鳴るシンバルの箇所からしてこの第2楽章の頂点(それはこの交響曲全体の頂点でもあるが)でそれを使うことに違和感は感じなかったのではないだろうか。それを弟子に指摘してほしかったという程度の禁欲はあったかもしれないが。
彼は1882年にバイロイトでワーグナーに会い、パルシファル初演を聴いた。ワーグナーは彼をベートーベンと比肩させるほど高く評価した。俗に「ブルックナー開始」と呼ばれる弦の密やかなトレモロは第九の冒頭に由来していると思われ、3人は一本の線でつながる。その翌年2月に彼はヴェニスで客死した。その報はブルックナーを打ちのめし、その結果が第2楽章の終わりのワーグナーチューバによる悲痛な4重奏として刻印された。このシンフォニーにヒューマンなものが混じっているのがこの楽章で、難しい。それがもろに表に出てしまう演奏、クナッパーツブッシュやフルトヴェングラーのようなものは僕は好かない。レーグナーの粗暴な金管の音など酷いものだ。そういう無用な演奏家の「劇」は音楽の美しさを損なうだけだと思う。
第3楽章スケルツォは「悪魔的」がいいのかどうか。この楽章は最も早く書かれており6番の作曲が完了してから間もないころだ。1,2楽章の深みとはどうも乖離を感じてしまうのは僕だけだろうか。趣味の問題だが僕は主部にあまりトリオとの芝居がかったコントラストを着ける流儀は好かない。そんなことをしないでもトリオは十分に美しい。チェリビダッケのゆったりしたテンポによるどぎつさのない表現、トリオはさらに遅くというあのテンポを堪えきれないと感じる人は多いだろうが僕はあれぐらいでいいと思う。
第4楽章はこれも上昇音型である弦の喜びの主題で始まる。シューマンのラインの終楽章を思わせ好きだ。しかし、第4交響曲変ホ長調ほどではないにしても第1、2楽章にくらべて重みと内容のバランスをやや欠く印象は否めない。ジュピター音型に似た並びの第2主題には不思議な和音が付き、巡礼の隊列を見るような深い宗教的な気分が支配する。最後の審判を告げるような峻厳なトゥッティに続きワグナーチューバがジークフリートを思わせる和声を奏でるのが印象的だ。「喜び」「巡礼」「審判」が対位法で骨格を形成するのは5番の終楽章を思わせるが、特に出来の良い楽章とは思われない。
こうして書いていてわかったことだが、ブルックナーの音楽というのはいくら文字にしても満足な着地点がない気がする。全曲が複数の主題の対位法的な変遷と和声の迷宮の巣窟のようなものでまことに捉えどころがない。それは演奏についても同様で、各曲とも一個の小宇宙でありその総体を俯瞰した演奏でなくては説得力がない。しかし細部に磨きをかけた美音と演奏技術なくしては表しえない物も包含している困った存在だ。
7番のライブは海外ではいろいろ聴いたがフランクフルトのアルテ・オーパーでやったクルト・マズア指揮ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管は良かった。しかし何といっても最高だったのがチョン・ミュンフンがN響を振った2008年2月9日のAプロだ。あのオケの弦が最も美しく鳴った演奏の一つであり、この曲に一番感動させてくれた演奏の一つでもあった。
7番の録音は昔はカール・シューリヒトがハーグ・フィルを振ったものを好んで聴いていた。同じくシュトゥットガルト放送響を振ったもの、前回書いたハンス・ロスバウトのも好きだった。ただ最近それらは指揮の癖が気になってきて聴かない。とくに引っ越しをしてオーディオ装置を替えてからは音響というものがブルックナー鑑賞に不可欠と感じるようになったことも大きい。どうしても深々とした「良い音」で鳴ってくれないと物足りない。
ベルナルト・ハイティンク / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
これぞあのコンセルトヘボウの特等席の音である。僕はそれを思い出してどっぷりと浸りたい時にこの全集をよく取り出して聴く。ノヴァーク版としてまったく普通の良い演奏であり、強固な主張は聞こえずスコアの音化にまっすぐに奉仕するという姿勢で、それに充分の成果を上げている。この録音の頃にロンドンのプロムスで聴いた9番がまさにそういう名演であった。第2楽章の第2主題の彫琢が甘いなどアラを探せばある。しかしこのあらゆる点で高水準のコンセルトヘボウ管の演奏をこの美音で聴けていったい何の不足があるだろう。冒頭のホルン、チェロを聴いただけでもう納得である。この曲にストーリーを求めず、スコア、音符の美しさを愛でることのできる人にはお薦めである。
オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団
クレンペラーの他のブルックナーはあまり聴かないがこの7番はいい。原典版によるこの録音は彼のこれも音楽の神髄だけを突いたモーツァルトのオペラ録音と同質の精神に基づいたものである。そうでもなければカソリックでない彼がこれを演奏する立脚点がないだろう。第1楽章の天へ向かう精神、第2楽章の祈りの表情、深々とした音の弦、第2主題のいぶし銀の歌など最高に素晴らしい。第3楽章は一転ワーグナーを思わせる起伏をつけるが端正である。終楽章も力ずくの場面がなく、静かな部分はマーラーの4番での彼に通じるものがある。スコアにないコーダの減速は賛同できないが彼の主張として許容しよう。総じて人間くささを排除して神的領域に踏み込もうかという演奏で、それには不可欠である音程の良さに彼が心血を注いだ観があるのは同じく作曲家であるブーレーズがストラヴィンスキーに臨んだ楽譜の読み方と通ずるものがあるように感じる。凄い耳の良さである。
セルジュ・チェリビダッケ / ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
7番の初演はライプツィッヒで行われたが、2か月後にミュンヘンで演奏され好評でありその指揮者ヘルマン・レヴィの勧めでワーグナーの庇護者であったバヴァリア王ルートヴィッヒ2世に献呈された。これはカソリックの音楽である。マーラーを振らなかったチェリがこのスコアをこう読んだというのはどこか納得がいく。「人間というファクターの排除」だ。全く賛成であり、音楽の自然と神秘の流れにいつまでも浸っていたい聴き手にとっては福音のような演奏である。カーチス音楽院で見たあの練習の流儀で磨き抜かれたオーケストラからしか発しようのない高純度の結晶のような音である。
ヘルベルト・ブロムシュテット / ドレスデン国立歌劇場管弦楽団
ACO以外にブルックナーを見事に表現できるオーケストラとして僕はウィーン・フィル(VPO)よりもDSKを買う。カラヤン、ベーム、ジュリーニといい演奏はあるがピッチの高いVPOの美質はブルックナーの禁欲性と合わない気がするのだ。このオーケストラでいえばヨッフムの全集があるがこの7番はやや構えた第1楽章のテンポなど特に好きになれない。それよりもハース版を使い飾り気のないこのブロムシュテットの方がいい。音はやや古いがしっかり再生すれば非常に美しいことがわかる。i-tuneで900円で買える。
エリアフ・インバル / フランクフルト放送交響楽団
都響との素晴らしい演奏もあるインバルのこのオケとのシリーズは彼の原点だ。97年にパリのサル・プレイエルで聴いたバルトーク弦チェレに彼の音造りの粋を見た。神は細部に宿るのだ。それを悟らせない悠久の流れがあるから気づきにくいが実に緻密で集中力に富んだ指揮であり、矛盾のようだがブルックナーを振ったブーレーズより余程ブーレーズ的である。この録音はスコアの重要な部分をたくさん教えてくれた、僕には記念碑的なものだ。
オイゲン・ヨッフム / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
世評の高いEMIのDSK盤も見事な演奏だが、僕はまだ彼が老成していないこれが好きだ。BPOシェフのカラヤンが脂ののった64年の録音だが、12月というと彼はスカラ座でフレーニとの椿姫の上演が完全に失敗(カラスの呪い)した、そのころの間隙をぬった浮気返しの録音ということになる。そのせいか?オケは良く反応して集中力が高い。第2楽章の祈りの深さは出色であり、頂点の築き方も(シンバルはあるものの)劇的ポーズを感じさせない。
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お知らせ
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アガサ・クリスティ 「葬儀を終えて」
2014 FEB 23 13:13:53 pm by 東 賢太郎
葬儀を終えて (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)を読んだ。
クリスティの作品は全部読んだわけではなく、まだ評判の高いのが残っていてありがたい。本作は今回初めて読んだ。本作をクリスティのベストにあげている人も多くいる。日本クリスティ・ファンクラブ員の投票では9位だそうだ。
犯人は当たらなかった。これだと思って読んでいた人間が犯人であることも可能だが、動機が意外なところにあり、それが分からないと犯人の目星はつかないし、もし分かれば確実に当たるという性質のものだ。だからこの小説はフーダニットでもありホワイダニットでもあるだろう。
ネタバレにしないように注意して書こう。推理小説は叙述者、つまり物語の「語り手」が誰なのかという問題が常にある。読者は語り手から情報を得て、語り手と同時にそれを共有していくのが一般である。クリスティの場合、語り手が読者にとってパートナーとは限らず対決する相手であるのが特徴だろう。
つまりワトソンというパートナーである語り手がいたり著者と同名の探偵エラリー・クイーンの犯罪記録という体裁にして叙述に仕掛けはない仕立てにする小説とクリスティのそれは根本的に宗派が違う。読者は最初の文章からして、叙述者ではなくて、クリスティ本人が仕掛けた落とし穴に注意して旅することを要求されるのだ。つまりマジックショーを見ている状態に近い。
本作の落とし穴は大変に巧妙に掘られている。その時点で気がつく人は100%いない(これが最大のヒント)。後でそれを見破る手がかりは叙述者がちゃんと提示していて、フェアはフェアであるが、どれがウソかわからないマジックショーの中でそれだけを事実としてとらえてもっと大きなウソを見破るのは相当難しいだろう。
だから犯人は充分に意外であり、動機もそう明かされれば納得でき、なるほど面白い!と誰もが思うだろう。上質のエンターテインメントであることは間違いないし、こういう小説こそ大好きだという人はきっと多いと考える。
最後に、ここからはエラリー・クイーン派の僕としての感想だから無視していただいて結構だが、それはそうであってもいいがそうでなくてもいいというもので、ポアロが確定的にその結論に至った研ぎ澄まされた論理性を感じない。そういう真相であったなら探偵小説として満足感が高いというところに真相を配置することにかけて極めて巧妙だなということだ。やはり女性の書いたものという感じがする。
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ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番の名演
2014 FEB 23 0:00:34 am by 東 賢太郎
前回のフォローアップです。曲にはおなじみという方にお薦めしたいCDです。世評の高いリヒテル、ルービンシュタインは好みでなくコメントは世の中にいくらも出ているので控えます。今後も良いと思ったものは日々追加してコメントしていきます。また、過去に書いた他のすべての曲についても同様でCDリストはだんだん長くなっていきますので、僕のブログページの右下の方にある「カテゴリー」から検索して適時ご覧ください。
セルゲイ・ラフマニノフ / レオポルド・ストコフスキー / フィラデルフィア管弦楽団
作曲者のピアノによる自作自演盤です。1929年、僕にとっては2年通った思い出のアカデミー・オブ・ミュージックでの録音です。このテンポの速さはSPの収録時間かあの残響のないホールトーンと関係があるかもしれません。あまり粘らないロマンにひたらない演奏であり、下記ヴァ―シャリ盤はこの対極です。和音のつかみには手の大きさを感じますし、指の回りと打鍵の強さからは大変なヴィルトゥオーゾだったことがわかります。彼のピアノのフレージングは音が高く登ってまた降りてくる場面で、登りはだんだん遅くなり下りはだんだん加速するという傾向があり面白いですね。重力加速度のイメージです。こういうことは楽譜に書けないのでこの録音は非常に貴重です。
タマス・ヴァーシャリ / ユーリ・アーロノヴィッチ / ロンドン交響楽団 
アーロノヴィッチが熱くうねるようなフレージングでこの曲のロマンを徹底的に味あわせてくれる名演です。この曲にひととき身をゆだねたい人に強くお薦めします。雄大な起伏で盛り上がった頂点から崩れ落ちてくるかのような第1楽章展開部はカタストロフィー寸前のものすごさ。終楽章第2主題の登場にいたるリタルダンドと一瞬の静寂の間など、これはもうマーラーの世界です。気迫をこめて低音を打ち込むヴァ―シャリのピアノも感情の振幅を押さえる気配すらなく、オケとのバランスなどものかは感じるままの起伏で対峙します。それでいて第2楽章中間部の叙情、細かいパッセージの切れ味とも一級品。これがライブだったら! 第1楽章です。
アレクセイ・スルタノフ / マキシム・ショスタコーヴィチ / ロンドン交響楽団 
これは多くの人に聴いていただきたく、ここに取り上げます。ピアノのスルタノフはウズベキスタン生まれで89年にヴァン・クライバーン・コンクール優勝、95年にショパン・コンクールで1位なしの2位、オリンピックなら2大会で金メダルという人でしたが2005年にくも膜下出血のため35歳で亡くなりました。これは19歳の演奏で若々しい詩情とデリカシーに満ちており、ショスタコーヴィチの息子マキシムの指揮も貴重で大きな流れを作って感動的です。
ベンノ・モイセイヴィッチ / ヒューゴ・リグノルド / フィルハーモニア管弦楽団 
モイセイヴィッチ(1890-1963)は作曲者自身が「精神的な後継者」と折り紙をつけ、ヨゼフ・ホフマンにも称賛されたユダヤ系ロシア人ピアニストです。55年録音のこの演奏は独自の緩急とアクセントのあるピアニズムで弾きとおした個性的な演奏です。作曲者自身がショパンの楽譜を自由に解釈して演奏していますから自作に対してもこういう解釈であれ何の問題もなく許容していたと僕は思っています。これぞ19世紀のピアノ演奏であり、自演盤よりずっと録音のいいこの演奏はラフマニノフ存命の時代の空気を濃厚に感じることのできるタイムマシンです。
アビイ・サイモン / レナード・スラットキン / セントルイス交響楽団 
ホロヴィッツのようにそれが前面に出る奏法ではなく録音も地味なので目立ちにくいのですが、最もピアノの技術が高い演奏の一つであること間違いないと思います。弾きながら歌う声が聞こえますが、恐らくこの人は実演でもミスタッチをするイメージのまったくないピアニストでしょう。本当にうまい。野球でいえば井端や宮本の守備のようなもので、あまりにうまいので難しいゴロをさばいても一般の人にはファインプレーに見えず、野球をやった人は鳥肌が立つという。幸いこれは音楽だから心して聴けば誰にもわかります。スラットキンの指揮もサイモンの呼吸にぴったりと合ってシンフォニックなメリハリが最高です。僕は愛聴しています。
セシル・ウーセ / サイモン・ラトル / バーミンガム市交響楽団
ウーセはヴァン・クライバーン・コンクール優勝のフランス女性です。今年まだ78歳ですが残念なことに病気で引退され、後進の指導や世界のコンクールの審査員をされているようです。僕は彼女のフランス物を愛聴していますが、ブラームスの2番を弾いてグランプリを受賞するほどの剛腕でもある。この2番の男勝りのタッチでばりばり入るバスの効いた第1楽章、いいですねえ。僕は第1主題の伴奏ピアノが聞こえる方が好きです。第2楽章も速めでさらさら流れ、ラテン的感性でいっさい粘りません。同じフランス人のグリモーも以前はこんな風だったかもしれません。終楽章はラトルの指揮がやや僕の感性とは合いませんがメリハリは充分で、ウーセのピアノを聴いているだけでなぜか気持ちがいいのです。スイス勤務時代に車に入れて毎日聴いていたほど気にいっています。
フェリシア・ブルメンタール / ミヒャエル・ギーレン / ウィーン国立歌劇場管弦楽団
1958年録音。ポーランドのピアニスト、ブルメンタール(1908-91)はLP時代に廉価盤の常連で、レパートリーは広いがその程度のピアニストと思ってました。しかし彼女はシマノフスキーの作曲の弟子で、ヴィラ・ロボスにはピアノ協奏曲第5番を献呈された20世紀前半の需要なピアニストである。このラフマニノフ、ギーレンの硬派の解釈と曲をやり慣れてないお仕事風情満載のウィーン・フィルの伴奏が実に面白く、ピアノは弾けてしまって流してる感じの所もあるが、最後は帳尻があっていい音楽を聞いた充実感を残してくれる。曲ができたころの息吹があり、演奏者がつまらん小技など弄さなくても偉大なものを聴いたと感動できる。ラフマニノフの作曲能力の高さがおのずと語る演奏であり、彼の自演がまさにその見本であり、合成甘味料フリー。マニア的視点からは完璧主義でないスタジオ録音というのが希少品で、最近のいたずらなお上手主義で大仰にプレゼンされた、実は何の主張もない「大演奏」に飽き飽きしているのでこれは高級なお茶漬けの味であり、時々聴いてます。 i-tunesで600円です。
ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番ハ短調作品18
2014 FEB 22 16:16:34 pm by 東 賢太郎
浅田真央のフリー、何度見てもいいなと思い、今日もまた見てしまいました。キム・ヨナさんのオリンピック最後の演技も大拍手を送りたいし、優勝のロシアの子のジャンプも凄かった。しかし、それでも、真央さんのあの試合直後のインタビューには演技と同じほどの驚きと感動と涙を何回もいただいているのです。あの心の底からでてくる数少なくて重たい万感のこもった言葉にはもう年齢など関係なく、畏敬の念しかわいてきません。修羅場をくぐって何かをやり遂げた人は静かで美しい。
彼女がこの曲にのって劇的リカバリーを演じたというのはとても意味があるように思います。というのはラフマニノフも彼女と同じ24歳のときに大失敗をしてどん底まで落ちこんだ人だったからです。それは自信満々だった交響曲第1番が評論家から想定外の低評価を受けたためでした。ショックから作曲不能に陥った彼を救ったのはニコライ・ダーリという精神科医で、快方に向かったラフマニノフが書き上げた起死回生の一曲がこのピアノ協奏曲第2番だったのです。
そういう生い立ちのせいでしょうか、この曲は切ないセンチメンタリズムに聴く物を酔わせ、暖かくハグしてくれるような包容力に満ちあふれ、勇気と生きる力を与えてくれて鼓舞してくれます。圧倒的に素晴らしい「第1楽章展開部の終わりの数ページ」はいつ聴いても血沸き肉躍りますし、夢うつつのように安らぐ第2楽章。最後の1~2ページ、秋空の夕焼けが広がってこころに希望と深い平安が訪れます。終楽章はロマンスと歓喜の嵐であり、全曲を締めくくるコーダの興奮となにか難事を達成したかのような充実感!修羅場をくぐりぬけた人だからこそ書くことができた音楽に、生きる喜びがぎっしりと詰まっているのです。本人のピアノです。
この曲との42年のつきあいは17歳の時、チャイコフスキーPC1番の稿に書いたヴラディーミル・アシュケナージ盤(コンドラシン指揮モスクワ・フィル)によって始まりました。そのLPで知って、こっちの方が好きになってしまったのです。すぐに夢中になってしまい、第3楽章のエキゾチックな第2主題、あの変ロ長調をそこだけ何度も何度も練習してついに弾けるようになった快感といったらありませんでした。そのアシュケナージの絶妙のテンポ・ルバート!今これを聴いても初恋の記憶がリアルによみがえります。
3番は技術的にはより難しいといわれます。その2と3を両方弾く人が多いのですが、どちらかだけというこだわり派の人もいてなかなか面白い。リヒテル、ルービンシュタインは2番だけ、ギレリス、ホロビッツ、アルゲリッチは3番だけ、ですね。ミケランジェリは4番だけという変人ぶりを発揮していますが。ラフマニノフは弾かない人もいます。アラウ、バックハウス、ケンプ、ゼルキン、カサドシュ、ブレンデル、ポリーニなどです。
いろいろ聴いたライブでは01年にオペラシティでテミルカノフ/ザンクト・ペテルブルグ・フィルとやった中国人のラン・ランのテクニックの冴えには驚きました。アメリカでFM放送で聴いた故アリシア・デ・ラローチャのサンフランシスコ響(エド・デ・ワールト指揮)での84年のライブは忘れられません。彼女は一度香港でリサイタルを聴きましたが小柄で手が小さい人でした。しかしそれを補ってたおやかで優しく、ツボを押さえた名演が非常に印象に残っています。第2楽章の夕焼けはこれを凌ぐ演奏を知りません。
それを髣髴とさせる美しさがあったのが、N響で聴いたアンナ・ヴィニツカヤでした( N響 フェドセーエフ指揮アンナ・ヴィニツカヤの名演!)。これも正統派の名演ですね。タッチの折り目正しさがいい。これでスケールを身につけていったら将来非常に楽しみと思います。
最後にもう一つ。花ごよみさんに教えていただいたカティア・ブニアティシヴィリです。まずお断りしますが、僕はこの演奏を買いますが全面的には支持できません。テクニックはけっこうラフであり、第1楽章提示部の最後や終楽章コーダの入りの加速などあまりに唐突で僕は到底ついていけない。前者など満場あ然の急発進でオケはマンガ的スピードにされたまま置き去りとなり、再現部冒頭は指揮者がわけがわからなくなってピアノとばらばら。この楽章の白眉がぶちこわしです。局部的にかきたてる興奮、最後は前代未聞の超特急ぶりで聴衆はロックコンサート並みに湧いてますが、この曲は真っ当にやってもっと巨大な感動を生み出せるのです。
そうは思いつつも、このお嬢さんの天衣無縫のじゃじゃ馬ぶりはいとも抗しがたき魅力がある。この人は他人を理屈でなくオーラで巻き込んで説得し、えいっとねじふせて支持者にしてしまう何かを持って生まれているのです。そういうものを肯定してしまうDNAを持って生まれているらしい自分として、理屈でなく感性で賛成票を投じている。人間とは不思議なものです。
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自分に勝った浅田真央
2014 FEB 21 13:13:14 pm by 東 賢太郎
浅田真央に感動しました。
そう思いたくないのですが団体、ショートはどことなく自信なさげな雰囲気があったように見えました。皆さんどうでしょうか。彼女ほどの人であっても、勝負事ですから、いろいろのことがあったのでしょう。
村上 佳菜子を見ていて、ジャンプの前にほんの一瞬のことですが構えるというか、あっちょっと流れが悪いなと思ったら失敗でした。スケートのことはなにもわかりませんが、やっぱりそういうものなんだなと思いました。
浅田真央は負けてからがすごかった。得意技で勝負をかけ、そしてそれを完璧にやりきりました。いろいろのことを全部はねのけました。なんとすがすがしい。あの舞台でそんなことができる人が地球上に何人いるでしょう。試合後のインタビューも、意地とかそういうものではなく、スケーターとしてどうということでもなく、僕は彼女という人に人間の尊厳を教わりました。
このフリーは日本人の記憶に永遠に残るでしょう。浅田さん、お疲れ様でした。金メダルですね。
チャイコフスキー弦楽四重奏曲第1番ニ長調作品11
2014 FEB 20 23:23:27 pm by 東 賢太郎
前回のブログで庄司紗矢香さんのヴァイオリンの音程について持論を述べました。僕は弦楽器のピッチが非常に気になる人間で、昨日のキムヨナの最後の音は低い。減点だ(カンケイないか・・・)。鈴木明子のヴァイオリンは旧友古澤巌氏だったみたいで、こっちはまずまずでしたが。
ここではそれを一歩進めて弦の合奏について書きます。
弦楽合奏は二重奏から八重奏までが普通ですが、最も無駄がなく完成度が高い曲が多く作られたのは四重奏です。ヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ1という合奏体はひとつの小宇宙といえます。音楽にとって、調性の変転に即応して最もピュアで美しい「純正律」の和音を鳴らすことが理想です。純正律の和音とはわかりにくいでしょうが、簡単にいえば混声四部合唱がアカペラできれいにハモッたときのお腹に響くぐらい曇りのない和音です。カーペンターズやビートルズのハモリもそれです。
オーケストラというのは含まれる楽器(鍵盤楽器以外)が半音以下の音程操作ができるので理論的にはそれを鳴らすことが可能ですが、実際には第1ヴァイオリン12人のユニゾンだけでも微妙なピッチのずれが発生して「うなり」が生じます。ホールによってそれが目だってしまうと汚い音に感じてもう耐えられません。若いころはそのぐらい指揮者が直せドアホと切れてしまって演奏会の途中で退散したこともあります。良いホールで良いオーケストラを聴いた場合、音楽は最高の効果を発揮しますが現実はそうはいかない場合がほとんどなのです。
僕は良いカルテットによる「弦楽四重奏」こそ最も完璧で美しい音楽の王者であると思っています。管や打楽器が添える音色のバラエティはそれなりに楽しいものですが、それを売り物にした楽曲の価値が特に高いわけでもありません。そういう曲は指揮者が勝手にスコアをいじって「プチ整形」したりもありです。管、打楽器が活躍する曲でもピアノ版にリダクションして感動できる曲はありますから、やはり音色美というものは「化粧」にすぎず、素顔の美しさがすべてを決めているのです。そして弦楽四重奏曲は一切の整形も化粧もなし、素顔美人の宝庫であります。
「ユリアフィッシャーの二刀流」なるブログに僕はこう書きました。
世の中の弦楽器の録音は、パッションか音程のどっちかに不満があるケースが非常に多い
これはソロについて書いたのですが、カルテットとなると奏者が4人ですから不満あるケースは4倍になります。特に「音程」の方はほとんど満足な団体がないという困った事態になっています。僕が学生の頃、ブダペスト弦楽四重奏団のベートーベンというものが日本の音楽評論家たちの絶賛を浴びて神格化していました。しかし曲によりますが僕には聞くのが苦痛なほど音程がひどいのです。そういうものを趣味の問題だというなら僕は趣味が悪いのかもしれませんが、汚いと思うものは仕方ありません。あれを崇められる評論家がうらやましい。
僕の聴く限りソプラノ(第1ヴァイオリン)とバス(チェロ)に難があるプロはまずありません。まれに前者が弱い団体がありますが、入場料をとっていること自体不思議です。キーとなるのは第2ヴァイオリンとヴィオラです。たいていはこの2人が和音の真ん中を弾きますから、ドミソのミです。これが半音高いか低いかで長調か短調かが決まりますからこれが下手だと悲惨なことになります。下手というのは技術ではなく、和音の感じ方に応じた音の微妙な高低の取り方です。つまり音楽性、耳の良さです。音楽家だから耳がいいだろうと誰もが思うのですが、疑問に思うケースはけっこうあります。
以上音程についてですが、音楽というのは音程の良さは「必要条件」でしかありません。4人の呼吸、テンポ感、アインザッツ(音の入り)、フレージング(フレーズの意味づけの仕方)、アーティキュレーション(音の発音)などがピタリと一致して、あたかも一人が楽器を弾いているようになることが理想なのです。そんなことが可能なのか。非常にまれですが、可能です。youtubeでひとつだけ発見しました。ボロディン・カルテットのチャイコフスキー1番です。
この曲、第2楽章の速度記号であるAndante cantabileが「アンダンテ・カンタービレ」というニックネームになって有名曲となりましたから聴いたことがない人は少ないでしょう。しかし全曲がとてもいい曲ですからぜひ通してお聴きください。
終楽章だけはやや緊張が切れて雑になっているのが残念ですが、第1、2楽章は僕が本稿に書いてきた重要な要件をほぼ満たしている「稀有な名演」であります。第1楽章展開部の第2ヴァイオリン、ヴィオラの見事さ!完璧なる純正調で鳴っている和音の心地よさ!4人が同じ言語(ロシア語?)語るフレージングの圧倒的な説得力!これぞカルテットの醍醐味であり、ピアノでもオーケストラでも及ばない音楽の奥義であることがおわかりでしょうか。これぞカルテットのロマネ・コンティでありペトリュスです。この味を覚えていただいて、ここから何かが欠けたものはだいたいが安ワインであると思っていただいて結構でしょう。
スープの冷めないうちに・・・
2014 FEB 19 20:20:33 pm by 東 賢太郎
「スープの冷めない距離」というのが何メートルなのかは知らないが、書きたいのはそれではない。「スープの冷めないうちに」である。
ビジネスはbusinessと書く。busy+ness(名詞形)であり「busyである状態」、それが転じて「busyでないと出来ない物事」=仕事になった。それでは、その原意であるbusyというのはどういう状態だろうか。
「忙しい」というのは「あくせく何かをしていること」だ。しかし、どんなにそれをあくせくしたとしても、飲んだり食べたり遊んだりに「忙しい」とも「busy」とも言わない。それは、「必ずしも本意ではないのだが、何か避けがたい理由で自分の時間を拘束されている状態」でなくてはいけないのだ。
英語で、何かにお誘いを受けて断るときに、I’m afraid I’m busy today. となるが、I’m afraidが付くところに「本意ではないのだが・・・」のニュアンスがにじみ出てくる。
「飲み会?本当は行きたいんだけどね、***があんのよ今日。ごめんね。」
ということ。何かの理由で***の方を飲み会に優先させなくてはいけない事情を残念がって見せている表現だ。そして、ここが重要なのだが、***は「飲んだり食べたり遊んだり」ではだめなのだ。誘っている人が先輩だったりすると、
「先約の飲み会がある?っていうと俺の酒が飲めねえってことかい?」
なんて言われかねない。「今日は焼き肉が食べたいので・・・」なんて理由だったらバカヤローで二度とお誘いは来ないだろう。つまり、busyというのは、なにか先輩も文句を言えない「やんごとなき理由」なのだ。ということはその名詞形であるbusinessというのもそのはずだ。
ところがもうひとつ仕事を意味するoccupationというのがある。「自分をoccupy(占有)するもの」である。しかしこれは、「その人が24時間の大部分をつぎ込んでいるもの」であり、その時間シェアという静的な部分に視点があるから「職業」というニュアンスだ。一方でbusinessは「時間がない」、「やんごとなき理由で」と人間臭くて生々しい動的な言葉だ。だから商業的なニュアンスが強く、大統領や役人の仕事をbusinessとはいいにくいだろう。
では次に、どうしてbusyなのだろうか。明日に回して先輩の飲み会に行けばいいではないか。ここがポイントである。ビジネスというものの本質を鋭くついている部分だ。それは「今やらなければいけないもの」なのだ。今やるから商売になるのであり、明日ではだめなのだ。その火急性がbusyの理由であり、タイムリーにやるからお金をいただけるのであり、いつもbusyな状態にある人のことをビジネスマン(businessman)と呼ぶのである。
僕は証券業務のおかげでこのことが骨身にしみている。株価は時々刻々変動する。5分前までの売れ筋商品が今は不良在庫だなどという恐ろしい経験を山ほど積んでいる。だからこそ「busy」なのだ。先輩と焼酎など酌み交わしている場合ではない。そして、これが大事だが、いつでも職場に張りついているわけでもないのである。そんなことをしたら過労死してしまう。飲んで遊んで憂さを晴らす日が絶対に必要だ。だから、
今が「その時」かどうか?これを判断することが、「ビジネス」には大変重要なのである。
ずばり指摘するが、この嗅覚が鈍い人でビジネスができる人を僕は人生この方一人も見たことがない。古今東西、万国共通どころかもう宇宙定理である。そういう人でもつとまるのは役所とそのデリバティブのような業界だけである。そして、そういう業務はbusinessなどと呼んではいけない。それこそがoccupationの正しい定義なのである。
意味もないことを頑張ったり、意味もなく役職にこだわったり、意味もない会議を延々とやったり、意味もなく残業したりさせたり。そういう組織は短い人生をすばらしくoccupyしてくれる。親方日の丸だから安全だ。だから五感がどんどん退化する。そうなったら「その時センサー」は錆びついてボロボロ、復活は難しいだろう。
「その時」というのはいつ来るかわからない。だから面白いのだ。それが来たら、すぐやる。まさに「今でしょ!」である。僕はそのことを「スープが冷めないうちに」と部下に教えてきた。日本の組織には名コックはたくさんいる。だからスープはうまい。ところがわけのわからんお毒見役などがたくさん出てきて、OKが出るのに1年もかかって皿ごとカビが生えていたなんていうケースが増えたのがこの10年だ。「その時」を逸したら仕方ない。あっさりあきらめる。深追いは危険だから絶対にやめた方がいい。
意味不明のお毒見役が日本経済の振興機会をかなり損ねてきたのが失われた20年の後半戦だった。「その時」というのはリスクがない時ということではない。そんなところにリターンがあるはずもない。「リスク・リターンが良い時」なのだ。だからアクセルを踏んでいいし、踏めば踏むほどいい。ところがお毒見役の見解を待っているうちに半年もたってしまい、よし安心だと満を持して踏んだときには「すっ天井」だ。これは日本の金融機関の海外ビジネスのお家芸として世界中に認知されている。
「リスク・リターンが良い時」に一気に攻め込むと、余剰のリターンでリスクをさらに潰せるから勝率が高い。この状態でのみ「ブルー・オーシャン戦略」が可能になるから当たり前のことである。資本力があるから少々「レッド」になってからでもいいだろう、だからその前にまずはお毒見だとなり、機を逸して参入してしまい、自慢の資本力にあかせた豪快な大損をこいてきたわけである。毒見は無用だ。ブルーならやる、レッドになったらあきらめるでいい。サムスンと日本企業の戦いはそれを絵にかいたようなものだった。
今日このブログを書いたのは、今がブルーだと我が身を鼓舞するためだ。10年前よりは瞬発力も気力も落ちている。おまけに風邪気味だ。3月末当たりが期限だ。赤信号に変わる前にやってしまおう。















