ベートーベン 「クロイツェル・ソナタ」(ヴァイオリン・ソナタ第9番作品47)
2013 FEB 11 0:00:51 am by 東 賢太郎
トルストイの小説名にもなった「クロイツェル・ソナタ」は実はクロイツェルのために書かれたのではありません。この曲を献呈された主は黒人の混血ヴァイオリニスト、ジョージ・ブリッジタワー(1780-1860)で、タイトルはなんと「気分屋の混血のためのソナタ(Sonata per uno mulaticco lunatico)」という奇妙なものでした。
ブリッジタワー(右)は幼時からモーツァルトに比肩された天才ヴァイオリニストで、ヨーロッパ中で知られていたそうです。1803年5月24日にウイーンのアウガルテンで催されたブリッジタワーとベートーベンによる演奏会は、朝8時に開始したにもかかわらず、カール・リヒノフスキー侯爵(ベートーベンの後援者、交響曲第2番を献呈された)らの貴族や英国大使がつめかけ盛況でした。そこで2人によって初演されたのがこの曲だったのです。しかし、ベートーベンが急ごしらえで楽譜を作った(第3楽章はヴァイオリン・ソナタ第6番の第3楽章だったものを転用)せいかリハーサルの時間がなく、当日の朝4時半に弟子のフェルディナント・リースをたたき起こしてヴァイオリンパートを清書させたほどです。結局ブリッジタワーは初見で全曲を演奏し(!)、しかも第2楽章はパート譜すらなく、ピアノを弾くベートーベンの肩越しにピアノ譜を見ながらヴァイオリンを弾いたのです(凄い能力です)。
ベートーベンが10歳下のブリッジタワーになぜそこまでしたのかはわかりません。パトロンのリヒノフスキー侯爵の家で紹介されて才能に関心を持ったのでしょう。彼のlunatico(ころころ気分が変わりやすい、感情の起伏が激しい)な気質に合わせてこのソナタの曲想が編み出されたと考えていいのではないでしょうか。これは私見ですが、当時ブリッジタワーが英国王太子(後のジョージ4世)に才能を認められて仕えていたことも関係あるのではないかと思います。当時の金持ち国イギリスにハイドンは行きましたが、モーツァルトもベートーベンもおそらく行きたかったと僕は思っています。
ところがこの2人はすぐ仲たがいしてしまいます。ブリッジタワーが、ベートーベンの気に入っていた女性の悪口を言ったのが原因とされています。そこで献呈は取り消しになり、パリで有名だったヴァイオリニストのルドルフ・クロイツェルに改めて献呈され、現在の名となったのです。彼を選んだのは自分もパリに行き人気を博したいからでした。ベートーベンの人間臭さが出ていますね。さてこんな名曲をもらったクロイツェルですが、もともとあまりベートーベンを買っておらず、一度他人が初演しているソナタでもあり、「難しすぎて弾けん」と投げ出してついに一度も演奏しなかったのです。「クロイツェル・ソナタ」ほど見当はずれの名前で有名になってしまった曲も珍しいといえましょう。
僕にはまだこの曲の充分に満足できる録音がありません。「ヴァイオリン付のピアノソナタ」でしかなかったこの合奏形式を、両者が対等に渡り合う協奏曲のようなものに高めた歴史的ソナタなのですが、それはヴァイオリンパートが難しくなったということです。しかしそれに対峙するピアノパートも一段と充実していて一筋縄ではいきません。
アルゲリッチの宝石のようなタッチと若鮎のようなリズム感は他の誰とも違います。1984年にカーネギーホールで、もと夫のシャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団でプロコフィエフの第3ピアノ協奏曲を聴きましたが、音楽に没入して髪を振り乱し鬼神が乗りうつったような様の凄まじい演奏にはのけぞるほど圧倒されました。ベートーベンでそれはありませんがやはり強い推進力と挑みかかるような差し込みは健在。名手クレメールでもややたじたじ感があるところがこれの唯一の欠点かもしれません。しかし第5番「春」の第1楽章はこのクレメール以上に美しい演奏を知りません。
ヘンリック・シェリング(Vn)イングリット・ヘブラー(Pf)
ヘブラーのピアノはまるでモーツァルトを奏でるよう。堅物、こわもてのベートーベンを期待すると肩透かしを食います。この曲にもっと激しさの欲しい人はいると思いますが、僕はヘブラーの素晴らしい間合いとタッチの際立ったこれが好きです。彼女はグリュミオーとも同曲を録音しましたが、ピンと背筋の通ったシェリングとの方がベートーベンには合っていると思います。並録の第5番「春」もいいのです。第1楽章の美しい第1主題をヴァイオリンが提示し、今度はピアノが受け取る直前のバス!ふっとテンポと音量を落とす間合いは彼女のモーツァルトのソナタ演奏に通じる名人芸です。何度聴いても飽きのこない絶妙のアンサンブルとしてお薦めします。
作曲家バルトークは1905年にパリのルビンシュタイン・音楽コンクールのピアノ部門で2位になっている(1位はウイルヘルム・バックハウスだった)名ピアニストでもありました。しかし、同コンクールには作曲部門もあり、そちらにも出場しましたがなんと入賞せず、「奨励賞の第2席」だったのは笑うしかありません(こっちの1位はその後どうなったんだろう)。人生、1回の試験程度では何もわからないという見本のような例ですね。さてバルトークは米国に亡命して管弦楽の協奏曲などを書くのですが、これは1940年にワシントン国会図書館での演奏のライブ録音です。シゲティのヴァイオリンはやや音程が甘いですが、直線的に突き進む迫力に富み緊張感の高いアンサンブルを展開しています。大作曲家のピアノのうまさをご堪能ください。
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Categories:______ベートーベン, クラシック音楽
花崎 洋 / 花崎 朋子
2/11/2013 | 8:04 AM Permalink
ベートーヴェンが最も好きな作曲家と以前申し上げましたが、ヴァイオリンソナタとチェロソナタは、たいへん恥ずかしいことに、前回のバッハに引き続き未開拓分野です。(ピアノソナタの32曲でしたら、何番が来ても詳細にコメント出来ますが) このクロイツエルソナタ、学生時代に一度、FM放送で聴いたことがありますが、やたら難しそう(演奏する側にも聴く側にも)という印象があります。ベートーヴェンは交響曲や協奏曲では万人に分かりやすい音楽を狙いましたが、こと、室内楽に関しては、「大胆な実験の場」や「自己との内面的な対話」のような位置づけで、聴衆を交響曲ほどには意識していないように、個人的には感じます。この点に関しまして、東さんのご見解は如何ですか? 花崎洋
東 賢太郎
2/11/2013 | 12:57 PM Permalink
同感です。「大フーガ」はカルテットで着想し、一般人に理解されないので入れ替えたのです。カルテットではモーツァルトですら「ハイドンセット」で交響曲という大勢に聴かせる音楽と違う道に来ています。この道の延長にベートーベンは来ざるを得なかったし、その結果あの12-16番が聳えてしまうと今度は後世が交響曲以上に手も足も出なくなりました。ブラームスでさえダメだったのです。そのアイガーのような壁を克服した人こそバルトークなのです。カルテットはもちろん、弦チェレだってあの1楽章がベートーベンの14番の第1楽章の影響なしに書かれたとはどうしても信じることはできません。「後期」は19世紀作曲家には壁であり聴衆には難解とされて敬遠されていましたが、この価値をまず見抜いたのはストラヴィンスキーでした。ベートーベンは100年先の音楽を書いていたのです。音楽には①献呈者や演奏家の好みに合わせたもの②大衆に合わせたもの③自分の趣味に合せたもの、がありベートーベンの頃は①が主②が従でしたが、だんだん大衆が聴衆として参入してくると②が増えました。彼がロンドン、パリを狙っていたのはそのためだし第九の第4楽章などはまさにロンドン市場を意識したビジネスとして書きました。動機が①でも②でも結果は巨大なのが楽聖たるゆえんです。しかし③は孤高の道をたどり、本当にわかる人だけとの交感のメディアとして永遠に聳え続けています。ベートーベンはカルテットで、モーツァルトはハイドンセットとピアノ協奏曲24番で、「①②」と③の間にある高い高い壁を、意識的か無意識にか、超えてしまったのです。
花崎 洋 / 花崎 朋子
2/11/2013 | 3:55 PM Permalink
詳しくご説明いただき、有り難うございます。バルトークとストラビンスキーの偉大さの理由も良く分かりました。ベートーヴェンの後期カルテットにつきましては、正にほんの少しずつですが、楽しみ方が徐々に分かってきたところです。14番嬰ハ短調は孤高に聳える高い高い壁ですね。(個人的には15番イ短調が好きですが)バルトークの室内楽やモーツアルトのハイドンセットやピアノ協奏曲24番など、楽しみは、もう少し後にとっておきます。