滋賀出張で日本古代史に再度めざめる
2013 SEP 14 22:22:25 pm by 東 賢太郎
一昨日、お客様である某社の関係で大阪で会食をした。1泊して昨日は滋賀にある工場へお邪魔した。その途中、インターで休憩して昼食となった時のがこの写真だ。大津から琵琶湖を望んでいるが、霞があってよく映っていないとは言い訳で、撮り手の腕の問題であった。
このインター、なぜか近江牛の「ひつまぶし」というのがあり、ちょっと名古屋のことを思い出しながら戴いた。とても美味であった。そうしたら、どういうわけかその名古屋の知人から偶然メールが入った。仕事に急展開があるという知らせだった。それで急きょ予定を変え、帰りに名古屋下車してそちらへ寄ることになった。世の中、面白いものだ。山は登ることが目的だが、楽しいのは頂上についた後でなく登る途中だと言ったのは誰だっけ。
さて工場である。少し前のこと、別な会社の工場を見学したが、その工場はあの桶狭間の合戦のあった古戦場跡に建っていた。そして今度の会社の方はというと、忍者で有名な甲賀の里にあった。そうでもなければ行かないような場所に2回も行けてラッキーだ。中はこんな塩梅だ。
甲賀も伊賀と一緒で三重県だと思っていたら滋賀県だった。「伊賀の影丸」を座右の書としていた割に浅学だったのを恥じ入る。忍術でもあるまいがこの工場のスペース活用の妙と工員さんたちの匠の技は見事だ。「下工程はお客様が喜ぶ顔を思い浮かべよう」なんていううれしい標語が貼ってある。上工程はいいのかと思ってしまうが、心配はご無用。これぞお・も・て・な・しの精神だから言わずもがなだ。この工場の技術は中国も韓国もまったく及ばない。だからアジアに輸出ができている。そのコンサル等につき弊社がご用命を受けているのだが、こういう会社は見ていて頼もしい。
工場長さんにすみません、急きょ名古屋に6時に行くことに・・・・と言ったら、ご親切に車を出して守山駅まで送って下さった。運転してくれた工員さんは13年目でずっと近所にお住まい。今年念願の家を建てるという。農家のご養子さんで滋賀から出ることはあまりなく、たまに家族で行く一番の都会は大阪だそうだ。名古屋は大きいんでしょうねと聞く。夏は村祭りとお彼岸で大変で、野菜は自給自足で買ったことがない、お休みの仕事は野菜を狙う野猿と闘うことだそうだ。滋賀はどんなところですか?と聞いたらしばらく考えて一言、「静かです」。ああいいなあと思った。そんなところに住めたら最高だ。
守山駅からは、京都行の電車に乗った。名古屋方面なのだから米原行でもよかったのだが着く時間はほぼ一緒だし、単に京都行がすぐ来るからであって何ら深い意味はない。しかし、こういうところが人間の運命を決めるのは松本清張なんかによくある。せっかくだから琵琶湖側をしっかり見ようと席には座らず、小学生のように立ったままドアのところの大きめの窓に張りついた。栗東、草津、瀬田、石山、膳所、大津と電車が進んでいくと、どうしたことか何となく書物でなじんだ古代の地名の記憶がよみがえってきてしまった。意識が興奮してくる。こりゃあここに一度来ないとだめだという声がどこからともなく聞こえてくるではないか。小説より奇なることはあるのだ。
先日、メンバーの中村順一氏が読めといってくれた本に、小林よしのりの「女性天皇の時代」というのがある。これは彼のブログ
にある本であり、なかなか面白かった。実は10年ほど前、僕は日本古代史にはまっていた時期がある。だから本は相当読んでいる。大津から琵琶湖の写真を撮ったのも、この画面のあたりのどこかに天智天皇の近江朝廷なるものが存在し、武力行使で天皇が地位を得た史上唯一の大乱であるあの壬申の乱も、ここのあたりの瀬田橋の戦いでのちに天武天皇ということになる大海人皇子が大友皇子を破って決着したのだという格別の思いがあったからだ。
僕は日本書紀が相当に歴史をねつ造しており、ことに天智と天武が兄弟であるなど大嘘であると信じている学派の信者である。紀記より前はほぼ先史時代という我が国の寂しい文献環境であるため、紀記の文献性を重視するのは学問的には正当性がある。しかし、それが後世に正当性を持つことを確信した高度な教養をもった知能犯がそれを書いたとしたら、それを金科玉条とすること自体が犯人の思うつぼなのだ。
だから、エセ学説のそしりを覚悟してでも、どんなに荒唐無稽に聞こえても、サイエンスの思考回路から少しでも史実と整合性のとれる説に組したいと思うのは僕の生来の論理潔癖症のなせる業だ。10年を経て記憶がややあいまいになっているのでここでは言及を避けるが、聖徳太子の存在も、藤原鎌足の存在も、持統天皇の存在も、どうも僕には直観的にうさんくさいと見えてしまう。しばらく忘れていたこのテーマに気を向けてくれた滋賀出張と中村兄に深謝だ。
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西室 建
9/15/2013 | 12:14 PM Permalink
東 大兄、私もある学説に取りつかれています。日本書紀は藤原不比等が都合の良いように作り変えた、と言うのです。
私のヨット仲間に藤原系の由緒正しい者がいるのですが、彼に言わせると藤原家の祖は鎌足は関係なく、不比等からだと伝わっているそうです。そして、不比等とは天智天皇の実子で正当性を確保するため、鎌足の子として送り込まれ(実際には二人養子にいっている異説あり)天皇の藩屏としての基礎を日本書紀編纂を通じて行った、平安時代を創り上げた日本史上の巨人だと言うのです。どうですか、傾聴に値しますか。
東 賢太郎
9/15/2013 | 6:41 PM Permalink
傾聴どころか興奮に値しますね。中大兄皇子も鎌足も青年期以前の記録がなく、非常に高い確率で日本人ではないと考えています。日本人の定義を固めないと軸がぶれるが、「少なくとも縄文人オンリーではない」としてでも、日本人ではない。非常に直近の渡来人で私見では百済の王室の人。しかし殺された蘇我入鹿(天皇という呼称がなかっただけで実質天皇)もそういう定義なら少し前の渡来人であり、乙巳の変は渡来人を含めた先住民を侵略者が誅したクーデターである。それを「改新」と言ってしまうところにねつ造っぽさをぷんぷん感じるのです。明治の「維新」という呼称が同時代的には存在せず、新政府が後付けで美化、正統化したものであるのと同じですね。