ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(4)
2015 APR 2 22:22:57 pm by 東 賢太郎
クリストフ・フォン・ドホナーニ / クリーヴランド管弦楽団
ドホナーニの祖父でハンガリーの作曲家エルンスト・フォン・ドホナーニはバルトークの同窓生で、自作をブラームスに称賛された人だ。また兄のクラウスはSPD(ドイツ社会民主党)の政治家で、ブラームスの生地ハンブルグの市長だ。彼のブラームスが筋金入り正統派であることに何の不思議もない。ロンドンでこのコンビのマーラー5番を聴いたが、音のクリスタルな透明度では同じ頃に同じロイヤル・フェスティバルホールで聴いたショルティとシカゴ響を上回る気がした。この2番のピュアトーンも格別だ。遅い部分もまったくもたれずすがすがしいほど。速い部分のきびきびした弦のアーティキュレーションと管のタンギングの縦線の合い方も名人級だ。速めでエネルギッシュな終楽章が一切安っぽくならず上質感を保ったまま最高の興奮を与えてくれる。こういうのを高級品という。(総合点 : 5)
ジャン・バプティスト・マリ / コンセール・ラムルー管弦楽団
フランス人にブラームスがどう聞こえているか?このCDはその回答として最高に面白い珍品だ。60年にパリのサレ・プレイエルにて録音。冒頭のホルンが薄く軽めのフランス管で期待が高まるが、コーダのソロはここまでいくと何が始まったのかと唖然とするしかない音で鳴る。トロンボーンは実に音程がいい加減で日本の学生オケでも低レベルな部類。金管アンサンブルは各楽器ばらばらに聞こえ、ティンパニのリズムは垢抜けない。弦は多少ましだが終楽章でトランペットが入れる合いの手が浮き出て祭りのお囃子(はやし)みたいになって吹きだしてしまう。第2主題も何ともいえず奇妙だ。大真面目にやってるだけに実に興味深い。並録のアルト・ラプソディのエレーヌ・ブーヴィエ(メッツォ)もどうも違う。大学祝典序曲の金管のコラール風の部分はエキゾティズムに溢れる。しかし、どうしてどうしてこのオケはドビッシーの「夜想曲」「海」、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」「ピアノ協奏曲ト長調」を初演した由緒ある団体なのだ。まあフランス人にシュバイン・ハクセ(ドイツ料理、豚のすね肉ロースト)食べろといってもきっと無理なんだろう。曲をよく知っている利点は、それをプリズムとしていろんなものの微妙な差異を投影して分析できることだ。それにしても文化の違いというのはどうしようもない。これを聴くと独仏が混じりあうなんて千年たってもないだろうし、やっぱりユーロは破たんするしかないんだろうと思ってしまう。(総合点 : 0.5)
カール・ベーム / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1975年、ベーム80歳のスタジオ録音で、この全集が出てLPで聴いた時の興奮はよく覚えている。ちょうどVPOと来日して話題でもあった。1番は名盤の誉れ高いBPO盤があるが、こちらは「VPOでやるブラームス」という意識を感じた。BPOのハガネのように硬質で緊張感が支配する世界ではなく、アルペンホルンが響くザルツ・カンマーグートの自然ののどかさを包含したアプローチだ。そしてこの2番は後者の路線でVPOの美質を最も活かした演奏と思う。第2楽章のゆったりした深い情感、第3楽章の絶妙なリタルダンド、ハンス・フォン・ビューローが「ブラームスの田園交響曲」と呼んだ意味が分かる気がするがこのテンポと歌はVPOでなくてはもたないだろう。終楽章もあわてず急がず4分音符4つ振りのテンポで、僕はこれがしっくりとくる。この速度のままコーダで音楽を加熱させられるかどうか?それが指揮者の腕であり、オケを野放図に走らせてもそうなるわけではない。再現部の前でテンポはかなり落ち、そこからコーダまでの高め方は実にうまい。奏者が真っ赤になって熱くなっている感じはないが、音楽の方はちゃんと高まっていく。VPOの音を活かす、それは奏者がウィーン流の自然の摂理で出す音を引き出すことであって奏者たちも求める音楽になる。ベームでなければ退屈で凡庸と言われかねないアプローチがかえってオケをのせている。このオケをドライブするには腕力でねじ伏せるかこれしかないと思うが、晩年のベームにして為せる熟練の業であったと思う。2番鑑賞のマストアイテムだ。(総合点 : 5)
レナード・バーンスタイン / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
97年のニューイヤー・コンサートの後にウィーンフィルのヴィオラ・セクションの人たちと同じテーブルで食事したが、バーンスタインを異口同音にほめていた。それはマーラーだけの話であったが、この2番はブラームスでもそうだったんじゃないかと思わせる好演だ。ベーム盤ではやや弾かされているような部分にも自発性を感じる。バーンスタインのリハーサルに立ち会ってみて、オケを乗せるのがうまいのに感心したがそれは学生オケでもVPOでも等しく効果を発揮したと思われ、ベームやカラヤンとは違う要求にオケが嬉々として付いていったのかなと思う場面もある。ややアンサンブルに精度を欠く部分があり、終楽章コーダへの持ち込みはベームの方が一枚上だ。(総合点 : 4 )
朝比奈隆 / 大阪フィルハーモニー交響楽団
「オーケストラ、それは我なり」(中丸 美繪著)によると朝比奈はフルトヴェングラーに会って「スコアは原典版を使いなさい」と薫陶をうけたと語ったそうだが、それはAKBに握手してもらったファンみたいなものだったろうと推察する。京大卒で阪急電鉄のサラリーマンだった彼はドイツの巨匠に憧れる偉大なるアマチュアだった。誤解を恐れずいえば朝比奈の指揮は芝居であり、音大で教育されたら恥ずかしくてできないような「ドイツ巨匠風」の演技ができた。ちなみにドイツ人でもそんな人はおらず、朝比奈の演奏がドイツで懐かしがられたという話も僕はドイツに3年住んで聞いたことがない。ところが今はティーレマンという若手が出てきてドイツで高く評価されているではないか。彼がウィーンフィルでベートーベンを振ったライブを聴いたがあれは復古調路線であって、それなら朝比奈の方が先輩だったといってもいい。「ブラームスはセンチメンタルで多情多感」、「大衆小説、メロドラマ的な要素がある」と語った朝比奈に僕は賛成だ。彼もそういう資質の人だったかもしれず、ブラームスに向いていたと思う。同じメロドラマでもこれは老いらくの恋であり、渡辺淳一の世界だ。ブラームスという人にはそういう面があり、交響曲の2番、3番はそれが色濃く出た曲だ。僕は朝比奈のおっかけではないからこのポニーキャニオン盤しか知らないが第1楽章は名演で、彼の憧れの人フルトヴェングラーよりいい。クラリネットが上質でない、弦のアンサンブルはアバウトなど欠点も多いが、そういうこととは違う次元に価値観をおいた演奏様式だからそれも美質とすら思わされてしまう。作曲家と気質の合ったアマチュアが演奏したものは気質の合わないプロの演奏よりしっくりくるということはあるのだということを教えてくれる。彼の「ドイツ巨匠風」はここまでやれば立派な芸であり、ブラームスが欧州でロマンティックに解釈されていた時代の空気を伝え、そういう演奏を聴いて育った僕より上の日本のクラシックファンの琴線に触れる。僕は彼の「オヤジを泣かせるブラームス」を高く評価している。(総合点 : 4.5)
ルドルフ・ケンペ / ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
ケンペは好きな指揮者でありこれが大学時代76年3月に出てきたときは大いに期待して1番(LP)を買ったが、がっかりだったという印象が残ってしまっている。演奏はMPOのアンサンブルが特に上質ではないが、それよりなにより録音のせいだ。弦が薄いのは致命的であり、トゥッティは各セクションのブレンドが不満、ホールトーンもいまひとつ。ブラームス録音において必要なものをこれほど外してしまうセンスのなさは残念。1番で戦意喪失してしまったので2-4番を買ったのは89年、ロンドンからの一時帰国時になった。ところがこのCD(テイチク)がまただめなのだ。この全集とは不幸な出会いになってしまったが、ケンペが2番を録音したのは1975年12月12、13,15日で1976年5月12日に彼は亡くなったからラストメッセージなのだ。3番など大変な名演と思われ(不味い録音から推察するしかないのだ)、損失である。点数は録音を考慮。(総合点 : 3)
ジョージ・セル / クリーヴランド管弦楽団
右は1985年に買った全集CD。ロンドンでCDが出始めのころでデンオンのプレーヤーを購入して新しいフォーマットの音にワクワクしていたころを思い出す。前年までいた米国ではアパート住まいで大きな音が出せずに欲求不満が貯まっていたものだからロンドンのタウンハウスでこれらを聴くのは楽しかった。セルの指揮はオケを自由に走らせたという感じの部分が皆無でピアノ演奏を想起させる。ピアノはそうでなければ弾けないようにすべてはアンダー・コントロールでありそこが好悪の分かれ目だろう。朝比奈と完全に対極にあるプロ中のプロの芸であり、アンサンブルの精妙さは格別である。しかしホルンの鳴らし方が時としてあざとく人工的に感じられることがあり、そのために僕は彼のドヴォルザークは好きでない。この2番にもややそれを感じ、第3楽章などのテンポの緩急にあまり同意できない。(総合点 : 2)
(補遺、2月28日)
小澤征爾 / サイトウ・キネン・オーケストラ
このコンビのLDで聴いた4番にはたいそう感動した。小澤さんは僕がアメリカにいた82~84年頃よくBSOでブラームスの交響曲をやっていて、FM放送をカセットに録音してある。ただそれらは彼の良さが充分出ているとは思わなかった。この2番はSKOの透明感のある管と棒に反応の良い弦セクションがプラスになり、オランダのホールトーンがブレンドした名演となっている。第1楽章は文句なし。緩徐楽章も高雅な室内楽のようだ。終楽章のティンパニも効いている。問題のコーダだが小澤さんは「①のみ派」だ。②③④のアッチェレランドは微塵もない(参照: ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(8))。指揮者の譜読みの見識と品格であり、安っぽい興奮を煽る輩とは一線を画している。伊達に米国でトップに登りつめたわけではないのはしかるべき理由があったのだろうと思う。(総合点:4.5)
(補遺、3月27日)
ルドルフ・ケンぺ / バンベルグ交響楽団
鄙びたホルン、くすんだ弦。バンベルグSOの素朴で古色蒼然の味が効いていて第1楽章は格別の暖かみがある。木管の音色もピッチも素晴らしいのである。僕はこれのLPを77年6月、大学3年の時に買い魅せられてしまい、のちに右のCDも買った。こういうオーケストラの音色を愛でる文化は世界的にほぼ消滅したように思う。いわば猫も杓子も食事はマクドナルドでOKの時代だ。ストラヴィンスキーを古楽器でやりました?コカコーラが「クラシック」と銘打ったのとおんなじだ。あほらしい。人類の耳がどんどん子供になってる。終楽章、アレグロに入るや指揮がほんの少しテンポを上げるとアンサンブルががさつになるなど高性能オケではないのが如実だ。しかしブラームスにそんなものが必要だろうか?この手作りの惣菜のような味は捨てがたい。コーダの加速の扱いもきわめて穏当で大人の演奏である。トロンボーンも危なげない。録音もまずまずで、ケンぺを聴くならこっちだろう。(総合点:4)
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東 賢太郎
4/3/2015 | 10:02 AM Permalink
日記にはおそらく似たニュアンスの事が書かれていると思いますが、今回これらを書くにあたっては見てません。僕のブラームス2番鑑賞の集大成のつもりなので「今どう聞こえるか」が主眼だからですが、20代に初めて聴いての印象と大きなずれがあるということはこの曲に限らずあまり経験はありません。テーストは一貫してるので、ご存じない演奏でも僕の反応を通して演奏の個性と傾向ぐらいは掴んでいただけると思料いたします。良し悪し、好き嫌いは、誰がこういう試みをしようと単なる主観にすぎません。もし貴君がご存じでお好きなCDを僕が低く評価しているならばそれはテーストが違うとご理解いただければよく、僕のつけた総合点の低い演奏の方がお好きな可能性があるということですから、買ってみようと思うCDのスクリーニングにはお使いいただけるかもしれません。
花ごよみ
4/4/2015 | 11:50 AM Permalink
こんにちは。東さんに代わって一句♪
「泣かせるぜ 男のロマンに ブラームス」 ははっ!
いっそのこと、「男」の代わりに「オヤジ」にしようか、一瞬だけ迷いましたが、何しろ「お品」に邪魔をされまして。 コホッ♪
真面目に一句。
「月明かり 鳥は眠りて 花は舞い」
交響曲はエネルギッシュで情感深く豊かで男性ファンは多いかもしれませんね。
東 賢太郎
4/5/2015 | 11:43 AM Permalink
一句ありがとうございます。ジジイにはまだなりたくないんでオヤジでいってます。オヤジのロマンはやっぱりブラームスなんです。