我がふるさと神保町風物詩
2026 MAY 14 14:14:04 pm by 東 賢太郎
5月9日、土曜日の事。久しぶりに古本屋街を歩きたくなった。半蔵門線を降りて、神保町交差点に出ると、GW明けにしては心なしか日差しが強い。そういえば去年の事、やっぱりふらっとここへ来て、さあ帰ろうと地下鉄の入り口に向かっていると、階段でも何でもない平らな歩道で急につまずいて転び、ぶざまにひっくり返った。とっさについた右手の親指が逆向きに、爪の半分のところで折れ曲がってしまい、今でも自在に曲がりにくくなってしまった。あれ何月何日だったかなと日記をめくると、なんと本日、5月13日だった。
足が向いた理由は、久しぶりにレコード屋を覗きたくなったことと、駿台予備校時代にずいぶん通った洋食屋とかカレー屋が懐かしくなったからだ。靖国通りにあったディスクユニオンは消えていた。じゃあ御茶ノ水店に行こうとそこから裏路地に入り錦華公園にさしかかったとき、ふと気がかわって猿楽町方面に足が向いた。そこに東家の聖地があるからだ。明治17年に我が曾祖父・東由松(1952~1917)が能登の寒村から上京し現在の猿楽町2丁目に銭湯を作った。ボイラーの機械釜をを初めて風呂釜に利用し「キカイ湯」と呼ばれ、絵師に壁に描かせた富士山の絵は、その後全国の銭湯のスタンダードになった。いまはビルなっている。
キカイ湯の目と鼻の先に、東京音楽大学発祥の地の石碑が建っている。わが国最古の私立音大で明治40年の創立だから曾祖父は存命中だ。錦華公園の隣にあったのが夏目漱石が通った錦華小学校で、「吾輩は猫である」の冒頭を刻んだ石碑がある。だからといって僕がクラシック音楽好きになったり漱石ファンになったりしたわけではなく、こうした事はつい最近になって知っただけだが、僕は運命論者でもあるからこういうものは人生の符牒だと解釈している。
僕は毎朝ぎゅーづめの総武線を水道橋駅で降り、東京ドームの反対側になる東京歯科大の前から白山通りを歩いて千代田区立一橋中学校に通っていた。当時、クラスに容姿の気になる女の子がおり、密かなマドンナとなっていた。彼女は地元の子であり、毎朝道の反対側の日大経済学部のちょっと先あたりから白山通りに現れた。ということは猿楽町あたりに家があったのであり、昭和46年まで営業していたキカイ湯を知らないはずがない。まだ猿楽町が自分の祖地とは知らず、女子に声をかける勇気も持ち合わせない子供であったから、お近づきにすらなれず誠に情けない思い出であるが、この方のお名前に曾祖父と同じ文字があるのだからこれも何かの符牒だったのかもしれない。
ハイティーンで陸軍新兵として徴兵され散々な目にあった父だが、男子の徳育には軍隊調も辞さずの厳しさだった。かたや母はそれを嫌い、欧米調のリベラルな気風である成城学園が好みだった。一橋中に入れられた事は完全に父親路線に鞍替えさせられたということだった。キカイ湯は由松の長男が継ぎ、次男の我が祖父は人力車を企業化した秋葉大輔2代目と事業を起こしたが自動車の台頭と関東大震災で途絶えた。震災の翌年に生まれたのが父である。写真のプレートを掲げた長男系の東堯氏と子息の実氏は東芝の取締役で東京理科大の教授であり、次男系の父の兄弟もみな理系だ。だから僕も本来は東大なら理科一類に行くのが筋で文系にはおよそ縁がなく、色弱という理由でそっちになってしまった悔いは今でも残る。
ディスクユニオンに来たのは転んだ時以来だ。その折は何も買っていない。さすがに10,000枚も持っているともう隙間がなくなっているし、持っているものだって聴く時間があるかどうかわからないのだ。今回はしかし目当てがあった。フランスのピアニスト、マルセル・メイエの全集が欲しく、娘に買ってくれと頼んだのだがまだ買ってない。だから入店すると真っ先にピアニストのCDコーナーに行ったものだ。これがまた奇跡としか思えない。なんと17枚組のそれが棚に鎮座しているではないか!
それがこれだ。彼女の全スタジオ録音アルバムで、シャブリエ、ドビュッシー、ラヴェルはもちろん、クープラン、JSバッハ、スカルラッティ、モーツァルトがクラヴサンの如き軽妙なタッチで弾かれた絶品の嵐である。これほど欲しかったものがドンピシャで中古で手に入った経験は無い。しかし、去年もそうだったが、今回もそれしか触手が伸びるものはなく、唯一興味を引いたフランツ・クサヴァー・リヒターのレクイエム変ホ長調も購入した。彼の作品はもう1枚あったが、他を見ているうちに消えていた。この店の客層はなかなかだ。
駿河台へ下るとやたら外人が多い。中国人でなく白人である。聞くところによると、ガイドブックだかYouTubeだかで神保町が話題になってる。海外にも古書店はあるが、ここ靖国通りみたいにずらっと軒を連ねてとなると見たためしがない。早速、新装なった三省堂に入ってみた。この本屋は創業が明治11年でキカイ湯より3年早い。1階を通り抜けただけの印象に過ぎないことをお断りするが、今風、若向けにこだわったのかどこかダダっ広いだけの印象で味気ない。本屋の魅惑であるあの智の凝集感がなく、前のほうがまだよかった。
腹がへったので、反対側の天ぷら屋に入った。ここの天丼は昔からうまい。この通りは「神田すずらん通り」といい何百回歩いたか知れない。一橋中学はスパルタ教育で名が通っていて校則がやたらときつかった。もちろん制服は詰め襟で、布製の肩掛けカバンは往路と復路で右左が決まっていた。所定の通学路以外を歩くことは厳禁で、復路での立寄りや買食いなど論外。見つかると生徒手帳を没収され体罰を喰らう。校則は無きに等しく自由放任主義の成城学園から来た僕は目が点であり、あらゆるお店がキラキラして見えたすずらん通りの魅惑には勝てず、教師の目を盗んで毎日のように立ち寄っていたのだ。勉強がゆるい学校からきつい学校に転校したのだからひとかどの向学心は出ていたが、それは教科書よりも文房具に向かっていた。万年筆が欲しかったのだが、アメリカ帰りの友達のお父さんにパーカーをいただいており、買ってもらえなかった。だから、三省堂の前にあるひときわ古風な出立ちの画材店「文房堂」にはぞっこんで、目がクラクラするほど眩い万年筆のショーケースの前にたたずんで、早く大人になりたいと願ったものだ。この店、外観は当時ののままだ。創業明治20年。キカイ湯ができて3年後である。開国してまもなくに西洋画の立派な画材屋ができている。日本人の進取の気性と好奇心は凄まじい。神保町はそのスピリットの横溢した、わくわくする街だったことがよくわかる。今、百花繚乱の神保町の洋食屋、カレー屋はその文化の末裔であり、輸入書籍店やレコード屋もまた然りである。中学生の僕はその空気を毎日吸って感化され、やがて関心は西洋画ではなく西洋音楽に芽生えていったと思われる。
東京堂書店にぶらっと入った。三省堂と書店グランデとこれが御三家だった。東京堂はキカイ湯より6年遅く明治23年の創業である。僕は東京堂が好きだ。大きすぎず、小さすぎずでコンセプトがくっきりした感じがするからである。入店すると、すぐのところに大きめの台があり、新刊本が平積みになる。重厚感のある知的な書籍が多く、チャラいものは一切置いてない。このこだわりこそ書店というものである。店内が明るすぎないのも落ち着きがあって良い。売れ筋ばかり平積みにして、軽薄な音楽で売り上げを促進しようなんて姿勢の書店は潰れて当たり前である。書店はデパートではない。そのコンセプトでロングテールを武器とするネットに勝てるはずがない。概ね思想は左がかっているが、それは大学と表裏一体だ。僕は読書において左右なんて事は気にしない。旗幟不鮮明、無思想、商業主義なんてものよりよほどマシだからである。
古書店が生き残ってるのは各店のカラーがとても濃いからに相違ない。そこで「当たり」に出会えれば値段など少々高くても構わない人が多いということだ。ちなみに、マルセル・メイエのCDに出会った僕はそれと同じ感覚であり、まして、それが2000円位で買えたなんてお得感は格別のものがある。そういう商売は、どんなに生成AIが人間の職業を侵食しようと必ず生き残る。いや、その議論の対象は、商売のみならず、人間がそうなのだ。どんな職業が淘汰されるかという考え方も一理あるが、僕はそれ以前に、淘汰される人間とされない人間があると思っている。されるタイプの人間がこぞって選択する職業から消えていくという順番なのである。要するに、旗幟不鮮明、無思想、商業主義の人間は真っ先に淘汰されるのである。元より、僕自身、中学の頃まではそっちになる運命の人間だったと思う。おそらくは、田園風景に囲まれた世田谷の学校へ行っていたら、そのままだった。往復3時間もかかる通学はとても大変だったが、毎日、延々と書店街を練り歩き、古書店の紙の匂いに馴染み、智の殿堂の空気を吸っていなければ今のようにはなっていなかった。
去年の今日、どうしてここへ来て、けっつまずいて転んだのだろう?思えば、あれから半年というもの、見事なほどに良いことがなかったから明らかな凶兆だったのだ。それが11月になって、僕の大事な「猫」であったフクが天国に旅立ち、仕事は超常現象としか説明がつかないほど一気に形成逆転の様相を呈してきたのである。そうして怪我から1年経ち、すべての状況は天地がひっくり返った位に好転した。本当に世の中というものはわからない、一寸先は闇だ。
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