チューク島にて(その3)
2014 SEP 14 11:11:38 am by 東 賢太郎
春島の防空壕を見に行きました。車でしばらく小高い丘を登ると、米国統治下になって米軍の上官が住んでいたという洋風の家が斜面に並んでいます。てっぺんにはチューク州知事公邸が立派な大木の前に建っていますが、空き家です。島民は市長に選ばれるとそこには住まず、自宅を公費で改修して住んでしまうのだそうです。
そこで車を降り、さらにジャングルへ入っていきます。暑さは全く感じません。東京のデング熱騒ぎで蚊を心配していましたが、去年と同じく滞在中に一匹も蚊とハエを見ませんでした。「日本ならもう10か所は食われてるね」と笑いながら登っていきます。
やがて防空壕の入り口に着きました(右)。入って20mほど進むと右に折れて丘の向こう側に出ます。百人は入れそうな巨大な人口洞窟であり、入り口と出口の位置を測量して固い岩盤を穿つという、精巧かつ気の遠くなるような土木作業が行われたことを伺えます。
反対側の出口には大砲が一門据えられていました。英国の軍艦に搭載されていたものだそうです。
重さは1-2トンほどあるでしょうか、この巨大な鋼鉄のかたまりを縄で丘の頂きまで引っぱり上げてきたそうです。これまた気が遠くなるほどの作業だったでしょう。
これが砲門の狙っている方向です。パンの木で見えなくなってしまっていますが、その先が港です(右端のほうに海が見えます)。敵軍の上陸作戦を想定していたことが分かります。
・・・・
ところが結局、兵士たちの苦労と工夫にもかかわらず、この大砲は一発も砲弾を発射することがありませんでした。終戦1年半前の昭和19年2月17日、18日、米軍機の大群が襲来し、トラック諸島の日本軍は空から一気に殲滅されてしまったからです。これがその惨状を実写した米軍のフィルムです(お気の弱い方はご覧にならないことをおすすめします)。
ここに集結した米軍機動部隊は戦艦6隻、空母9隻、駆逐艦、潜水艦を含め総数70隻からなる大艦隊で、空母から発進する爆撃機は延べ1200を超えました。環礁内に沈められた日本軍船舶は100隻近く、航空機に至ってはその実数は不明のままです。
「夏島の海岸と道路には死体が延々と並べられ、腐敗臭が鼻をついた。死体から流れ出る血のりで道路も歩けなかった」と土地の老人は語り、「遺体の焼却が間にあわず大きな穴を掘ってどんどん埋葬した」そうです。2日間の戦死傷者は1万5千にのぼりました。
言葉がないほどの残酷かつ屈辱的な光景です。この先に東京大空襲、広島、長崎が来ることを思うとやり場のない怒りを禁じ得ません。しかし敵に怒っても仕方ないのです。これが戦争ですから。フィルムの声の主が勝ちどきを上げているように、これは怨念のこもったパールハーバー(真珠湾)への復讐でもあったのです。
後世の我々はこの戦争という事実から目をそらしてはなりません。事実を直視し、冷静に分析し、いかにこの惨事を繰りかえさないか、この1万5千の方々の犠牲から何かを学び取らなくてはならないと思うのです。
相手には圧倒的な性能の武器と物量があったという事実。上陸を想定した大砲が無用な大規模空爆であった事実。奇襲を予測も通信傍受もできておらず丸腰状態だった事実・・・・。
武器、物量というハードの敗戦であったことは明らかですが、諜報、敵情分析、暗号解読、戦略、智謀というソフトの敗戦という側面を僕は強く感じます。腕力よりも、むしろ知力で負けたのだと。
戦後のインテリ層はそう認めたくない、しかし、このフィルムはそれを明明白白に示しています。こちらが防空壕を掘る間に、敵はカメラマンを乗せて実況中継できるほど楽勝の確信をもって軍備を整えていた。悔しいが、それが歴然とした事実です。諜報、敵情分析、暗号解読、戦略、智謀なくしてどうしてそれができたでしょう。物量は、そのあとについてくるものなのです。
そういう「ソフト」を重視しないのは日本人の民族特性かとすら思います。平和の世になった今になっても、一部の日本企業にはそれを感じます。モノ作りやおもてなしの力を過信し、諜報と智謀に基づいた大きな戦略がない。この大空襲を知ってしまった僕らが、あの防空壕の砲門を見る思いがしてしまうのです。
・・・・
空壕の入り口です。「さあ戻りましょう」。車のほうへ丘を下りようとしたら、夕方のスコールに見舞われて立ち往生となってしまいました。バケツをひっくり返したような豪雨。誰かがぽつりと言いました、「なんか、東京を思い出しますね」。
とても重たいものをいただいた日でした。
(本稿に書きました史実は、当日に案内をして下さった末永卓幸さんの「トラック島に残された六十五年目の大和魂」から引用させていただきました。当地にお住まいになって36年の知見と博識、すばらしいガイドに心より感謝しております。)
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釣り人の夢
2014 SEP 13 18:18:01 pm by 東 賢太郎
青年が湖畔で糸を垂れ、静かに釣りをしていると、後ろから老人がやってきました
老人
お若いの、舟を貸しましょう。それで沖に出れば魚は10倍釣れますよ
青年
10倍釣ってどうするのですか?
老人
市場で売るのです。金持ちになれますよ
青年
なってどうするんですか?
老人
お金があれば夢がかないます。あなたの夢は何ですか?
青年
ここで釣りをすることです
チュークではひと家族に平均10人の子供がいるそうです。食料は庭や海に自生しています。野菜など島にないものを買うお金があればいいそうです。
運転手の青年もいっしょにみんなでお昼にしました。僕らにとってご馳走はやっぱりこれです。
露店なら値段は50セント、このレストランだと1ドルだそうです。すすめると青年は、
No,thank you.
と笑って手をふりました。
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僕の唯一の迷信
2014 SEP 13 0:00:29 am by 東 賢太郎
特に迷信深いことはないが、ひとつだけある。メガネを壊すかなくすことだ。そうすると必ず仕事で何か起きる。良いのも悪いのもあった。過去に3回あり、3回ともすぐに普通でない大きな変化があった。一度はロンドンで、一度は北京で、オフィスで神隠しの様に消えた。金縁でもない使い古しのメガネを誰が盗むものか。そう言ってみんなで探し回ったが、ない。一度は伊豆の温泉で、理由もなく壊れた。
そして去る8月21日、また壊れた。古かったからかもしれないが気味が悪いのでそれ以来かけておらず、かけるつもりもない。ミクロネシアへは別なのを携帯した。
そうしたら、帰りのグアムのホテルで、心待ちにしていたメールがついに来た。吉報だが、まだ安心とまではいかない。本当なら興奮ものだ。今回はこれが「それ」なのか?
そうしたら翌日の午後にホテルがゆれた。地震?ここはグアムだ、まさかと思ったが、ネットで調べたらまちがいなくM4.8だった。
こうも色々あるとかなり気味が悪くなっていて、翌日昼の帰国フライトはいつになく緊張した。ただでさえ高所・閉所恐怖症+パニック障害で、椅子に縛られるのは床屋ですら耐えられない。だから窓側席は危険だが、通路席が東京では予約できていない。なんとか取れ、ワインで爆睡して事なきを得たが、飛行機はほんとうにいやだ。あのメールの通りになるなら、今来月はまた海外出張、また飛行機だ!こまったものだ。
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チューク島にて(その2)
2014 SEP 12 10:10:18 am by 東 賢太郎
南洋の島に行く異(い)なる味わいというのは一度やってみないとわかりません。ハワイやグアムに何度行っても計り知れない鮮烈な味であり、人智を超越したものです。我々の築いてきた常識や人生経験など、文明こそないが原始の強靭な精神を今も持って豊かに満足に暮らす人々の前で粉々に崩れ去ります。
そして溢れかえるような大自然の力が人間の五感を野生の本能にまで巻き戻してくれます。そこに立ってジャングルの香りのする大気を吸い込んでいるだけで何かが変わります。東京で雑事に追われていて耳鳴りがしていたのが一日でぴったりと止んでしまいました。何かが確かに体内で起きているのを感じます。 去年の6月に人生で初めて北緯7度の南洋の島、ポンペイ島に行きました。
このような強烈な洗礼を受けていましたから今回は意外なほど何があっても驚きがないのに自分で驚きます。精神的な免疫という物はたしかにあるのです。昨年は会社設立という大作業があって、ミクロネシア政府代理人である米国資本MRA(ミクロネシア・レジストレーション・エージェンシー)が水も漏らさぬテークケアをしてくれました。今回2度目、株主総会、取締役会とあってそこまではありません。
ただ、2度目とはいえ前回とは島が違います。今後の事業展開のことを考え、全部を知っておくという意味でMRAにそうお願いしたのです。ミクロネシア連邦の4つの州、ポンペイ、チューク、ヤップ、コスラエでは言葉も種族も違うと聞いていました。しかしチューク人がポンペイ人とこんなに違うとは大幅に想定外でした。前回の経験値でのかなり低めのアテンション・レベルを2段階ぐらい引き上げる必要をすぐ感じることとなりました。
チューク空港は日本海軍の滑走路をそのまま使っています。僕らに用意された空港わきのホテルL5(レベル5、右)は島で一番高い5階建ての意味で、昨年お世話になった元駐日大使のミタさんのご経営です。まだ一部は工事中でしたが新しく清潔なホテルが一泊一万円ですからリーゾナブルでしょう。手前は廃墟と化したスタンドです。
ところが、7時に頼んだモーニングコールがなく焦りました。人生で二度目です。この島では他人を当てに出来ないことを学びます。朝食は唯一の近くのレストランが7:30オープンだとホテルではいうのですが、その時刻にはまだ人がおらず、結局開いたのは8時ごろでした。中へ入るとびっくりです(左)。窓はすべて厚めの赤いカーテンで覆われて朝っぱらからナイトクラブではないですか。女の子でも付くのかな、ウイスキーでも頼みますかと冗談を言いながらウエートレスのおばさんに開店は7時半とききましたが8時ですねと念を押すと、7時半?とんでもない、7時だと堂々の主張です。この島では1時間は誤差のうちだということを学習します。出てきたハンバーグライスは荒っぽい味ながら現地風ソースでまあまあ食べられましたが、別なご当地風名称の料理が来てみると僕のとほぼ同じ具材を高く積んだだけ。それで値段は高い。パンケーキは分厚いのを3,4枚無造作に積んだだけ。アテンション・レベルはこうして徐々に上がっていったのです。
ホテルへ戻り会議室ですぐ懸案の仕事にかかります。午前中には万事無事に終了し、そこから車で島の南西の突端にあるブルー・ラグーンへ直行しますが、大変な事態が待ち受けていました。一本道なのですが、舗装してない道路(右)は深い穴ぼこだらけでそこに昨夜の雨が巨大な水たまりを作っています。車は右に左に、上に下に、前に後ろに、時おり斜めに、日本人の経験値などぶち切る物凄い振幅と角度で揺れまくり、プロのレーサーでも時速5km以上出すのは至難の業でしょう。これを日本語の「でこぼこ道」と形容するのには強いためらいを禁じ得ません。エボラ出血熱を風邪だとするに匹敵するでしょう。直径10mもある池みたいな水たまりを舟みたいな気分になって進みますから、もしこれで気分が悪い人が出たら車酔いでなく船酔いと診断すべきです。これは元々は舗装道路だったのが、だんだん穴が開いてこうなったそうです。それを誰も気にしないおおらかさ!これは首都パリキールのあるポンペイ島ではまず考えられないでしょう。歩いた方が速いじゃないかと思いましたが、そうもしない。島民気質が根本的に違うようです。治安もこちらの方が悪く、車に道を譲らず迫ってくる酔っ払いがまっ昼間からいましたし、ホテルの玄関前もロックして2-3人が見張っています。
舗装すれば5分で着く4-5kmの道のりを30-40分のドタバタの末、やっと目的地に到着しました。ここまでの苦労が嘘のように静かで平和なリゾートです。ここが日本軍の沈船で世界的に有名なダイビングスポットであることは知っていましたが、このリゾートがその拠点でした。通常深くて50mのところ70mも潜らせるそうです。大勢の欧米人ダイバーがこのリゾートから朝早く沖へ出ていきます。ダイバーでない我々がいること自体が実に場違いだったわけです。午後から船で夏島と無人島を巡る予定でしたが、ガイドの方が飛び込んできて「すみません。今朝来たダイバーに船が回されてしまいました」と謝りに来ました。この島では契約という概念が成り立たないことを知った瞬間でした。
仕方なくランチにしましたが、写真の地魚ラプラプ(ハタですね)の塩焼があまりに美味で憤慨も跡形なく引いてしまいます。醤油はポンペイ島はキッコーマンでしたがここは「ヤマサ」で、それをかけると香ばしいアツアツの白身魚としては完璧の域に達します。ライスはやや固めでワイルドですが不味くはありません。これは日本の居酒屋で通用する一品ですね。海に出られないので車で陸の案内をしていただくことで手打ちをしました。
リゾートがどこにあるかというと、左の写真のWENO(春島)の左上の滑走路の横から海岸線に添って南下した南西の突端に位置します。その距離が4-5kmです。そのまま海を南下した三つの島の真ん中あたりに戦艦大和、武蔵が錨をおろして停泊していたのです。TONOWAS(夏島)は小さいことがわかりますが戦時中は産業まであって、沖でカツオを捕って上質の鰹節を生産していました。日本の鰹節の60%が夏島製だったそうです。戦後に日本政府がODAで鰹節製造用の冷凍庫を建造して現地に引き渡したところ、数年で廃墟と化したそうです。仕方なく新潟鐵工がもう一度造り直して現地に引き渡したところ、再び廃墟と化したそうです。
リゾートの庭を散歩しました。どういうわけか僕をめがけて猫が寄ってきます。毎度のことです。広い敷地を歩き回るとずっとついてきます。この時点ではダイバーの聖地とも知りません。真っ昼間から歩く者も海で泳ぐ者もなく、僕らと猫しかいません。岩合さんの世界ネコ歩きみたいだなあ、妙なところだなあと思ってましたが、猫の方もきっと妙な連中だなあと思っていたんでしょう。
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チューク島にて(その1)
2014 SEP 11 21:21:56 pm by 東 賢太郎
4泊でミクロネシアへ行って来ました。去年はポンペイ島でしたが今回はチューク島です。下の地図でCHUUKとあるのがそれで、二重丸のWENOとあるのが今回上陸した島です。ご覧のようにミクロネシアにチューク島という島はありません。大雪山という山がないのと同じで、珊瑚礁に囲まれた大小百の島々をまとめてそう呼ぶのです。左上にグアム(GUAM)、サイパン(SAIPAN)がありますからだいたいの位置はお分かりいただけるでしょう。日本からはグアム経由となり、成田-グアムが約3時間、グアム-チュークが約2時間です。
チューク島はトラック島ともいい、戦時中、呉の日本海軍の基地をそのまま前線に移転したのがここです。ですからあの連合艦隊が停泊し、山本五十六連合艦隊司令長官の邸宅があり、帝国海軍総司令本部が置かれた南洋の最重要拠点でした。環礁内ですから湖のように波がなく、大型艦が侵入できる充分な水深があり、面積は神奈川県ほどと広大です。海軍スタンダードの1200m滑走路ができる平地と兵隊の駐屯スペースが確保でき、山には猛獣、害虫がおらず疫病のリスクが低く、ヤシ、マンゴー、パンの実が自生し、雨水で毎日潤い、マグロ、カツオが捕れるので最低限の食糧は調達できそうです。司令本部を置く地勢として格好の場所であることは、行けば体感できます。
最大五万人の日本兵、承認等が居留し、中心である夏島(TOUNAS島)は小都市のように賑わったそうです。なぜ夏島というかというと、環礁内に長期居住可能な四つの大島があり、軍はそれらを貼る島、夏島、昭島、冬島と名づけたからです。その他、日月火水木・・・、子丑寅卯辰巳・・・などと命名されます。本部は中央の夏島に置かれ、山本五十六長官の邸宅は同島の丘の中腹にありました。
チューク州政府や飛行場は春島にあるので夏島へはボートで渡るしかありません。今は現地の人が数千人のんびりと暮らす何でもない緑の離島で、大日本帝国の国運を握る大連合艦隊と総司令長官、幕僚と幾万の軍人がそこにいたなど想像もつかぬ景色です。ボートが確保できなかったので仕方なく僕らは春島のでこぼこ道を登ったザビエル高等学校の高台から夏島を眺めることになりました。これがその写真です。
この海に戦艦大和と武蔵が停泊していたのです。大和と武蔵が並んだ写真は一枚しか現存しないそうで、それが撮られたのがここです。日本軍が撤退する時、軍艦を錨に係留する浮きを爆破しましたが、その浮きだけは今も夏島との中間にある小島の脇に漂っていました。山本五十六の邸宅は朽ち果てているようで、次回来たら行ってみたいがと聞いてみたところ、「ジャングルの山道を登らないと行けません、お年寄だとちょっと厳しいですね」とのことでした。
戦争に勝っていれば邸宅は戦勝記念館となり司令長官の銅像は遠くアメリカの方向を悠揚と見やっていただろう。きっと高校生の修学旅行コースにでもなっていて、日本人の地球儀の眺め方を根底から別なものにしていたに違いない。僕のお客様で、東映の映画山本五十六の制作に関わった方が、今の高校生はひどいもんですよ、やまもとごじゅうろくって誰?なんて聞くんだよと嘆いておられました。そんな子でもマッカーサーぐらいは聞いたことがある。何なんだこの国はと。
(続きはこちら)
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上海元旦記
2014 FEB 3 2:02:01 am by 東 賢太郎
1月31日元旦は朝9時に集合でしたが、まずルネッサンスホテルのロビーで獅子舞?が始まりました。太鼓の音がとどろきます。昨夜は午前零時の花火と爆竹にはじまり、明けがたの連発の破裂音がすさまじくて目が覚めてしまい、結局かなり寝不足の朝となっておりました。たぶん我が国の獅子舞もここから来たんだろうと思いつつ外に出ました。
ところがさすがに元旦だけあってショッピングモールは9:30になってもほぼ全休。写真のような有様で上海とは思えぬ閑散ぶりです。こういう光景はなかなか見られません。それでもちゃんとスタバだけは開いていて、コーヒーとクロワッサンにありつくことができました。
まずは水郷の街、七宝古鎮に行きました。上海の観光地というとここと豫園でしょう。神山先生いわく、みんな行くところがないからここへ来る。物凄い人でした。車は路地に滅茶苦茶に駐車していて、渋滞で止まっていたら対向車線に無理に並んできた車がサイドミラーをぶつけました。どうせ対向車とお見合いになって下がるだけなのに。しかし当てた方も当てられた我が方運転手リュウさんも我関せず。おおらかなものです。日本人とは根本的にメンタリティーが違いますね。右が七宝老街の入口のあたりです。やがてリュウさんが合流しましたがいったいどこに駐車してきたんだろう?まったく謎です。昨日とは一転してスモッグはあまりない晴天でジャケットを着ているとやや暑いぐらいの気温でした。親子連れが多く日本でいうと初詣の景色でしょうか。水郷は川の両側に広がっていて橋のたもとに食事処がたくさんあります。お昼前でお腹もすいています。そこに入る前に神山先生が左の店でお正月用のお餅をおみやげに買いました。とことんローカルにやろうということです。ただ彼も日本へ行ってから中国のお正月は20年以上ご無沙汰だったそうで懐かしかったのでしょう。屋台のおばちゃんからは不思議なものも買ってくれましたが、ひと目見て奇怪な虫と思いました。そうではなくて、名前は忘れましたが何か川辺の植物の根っこのようで、固い殻を割って中身を出すと栗のようなほっこりした味がします。意外においしい。この時期しかないそうで貴重なので家に持って帰れと言われましたが迷いました。日本人だけでこれを食べることはまずないだろうと持って帰ると、これも意外に家ではけっこう好評でした。食に対する中国人の執念はいつも感嘆しますが、なんでもおいしくしてしまう技術は世界に冠たるものですね。さて食事処に入るとまずさっき買ったお餅を蒸してもらったのが出てきました(下)。4-5種類あって少しづつ味が違います。お店に並んでたのは左のようなものです。食感は日本のお餅ほどねばりがなく、桃の節句の菱餅に近い感じです。アンコ入りのが特に好きでした。それから出てきた卵と鳥だしのスープ、チャーハン(下)は絶品。何の奇もてらっていないのにシンプル、簡素で驚くほどおいしい。中華の美食というとゲテモノ食いのイメージもあるのですが、こういう美味の王道を行く味があるので本当に深いものです。毎度野球ですいませんが好投手は軽くキャッチボールしてもタマが伸びてミットをパーンとはじく音が鳴る。このチャーハンはそういう感じですね。日本で一度も食べたことがない水準です。そういう投手が全力で投げたら、もう凄い球が行くわけですね。参りました。これは薄皮のギョーザみたいなものですがいい食感です(右の左側)。右側のはイタリアンの「ニョッキ」みたいな歯触りのお餅であり、これを長く引き伸ばすと麺になって、それが中東から西側に伝わってパスタになっていったというのは納得のいくお味です。同じ東洋人として我々も中国文明には誇りを持っていい、世界規模で考えればそれに違和感を持つ必要は毛頭ないと思うのです。
店は天香楼でした。上海料理というと僕は香港時代に江蘇省浙江省の同郷会というのに入れてもらっていて、メンバーオンリーの両省出身財界人専門の料理店で食べることを許されていました。上海ガニは特級品だし両省の料理はほぼ食べつくして(これを一般に上海料理という)詳しいほうです。しかしここの庶民料理もとても口に合います。我が国でいう中華はだいたいが広東料理ですが日本人の舌に合うのはむしろ上海料理ではないかと思います。店を出て右へ向かうと橋がかかっており、そこから川を望みます。せり出しているのは全部料理店ですね。こうやって眼下に水を眺めながら食事をする風情はどこか京都を思い出します。それはいいんですが料理にも出てきた「臭豆腐」というものがあります。豆腐を発酵させたもので各地にあり、くさやも鮒ずしもOKの僕としては何でもないのですがどうもここ七宝のだけはちょっと難物です。一応出たものはいただきましたがこれを焼くニオイが橋を渡っていると臭ってきて、美しい景色を忘れてしまうという感じはございました。納豆みたいなものという人がいましたが強烈さでその比ではありませんね。これと韓国料理のエイの燻製(きついアンモニア臭あり)だけは敬遠です。ただ地元の人は大好きで先生も全部平らげてしまいました。ここからしばらく細い路地を入っていきます(左)。すごい人であり人並みごとゆっくりゆっくり進んでいくしかありません。50mほど続きますが両側は全部食べ物屋さんで臭豆腐をはじめ、鶏や鴨のバーベキュー(頭だけ足だけなど)、うずらの丸焼き、鶏・うずら・アヒルの卵、数々の野菜の漬物、餅、麺、果物、菓子、いちご飴などなど、この街が宋の時代にできた1000年前からこのままだったのではと思わせるような品々が並んでいます。古代の浅草仲見世通りという感じでしょうか。これは実に楽しかった。次回はここで「買い食い」したいなと思いました。中国人は貧しかったのですが、これを見ると食に関する限り世界でも有数のクオリティ・オブ・ライフを謳歌していたのだと実感します。肥沃な長江流域は特にそうでしょう。これだけの人口を養うほど食料はあるわけで、しかも素食ながら実にうまく料理して楽しんでいる。13億人を統治するシステムの根底にあるのはこの「食の満足」が大きいのではと真面目に考えてしまいます。右は紋身(刺青)屋ですね。本当に彫るみたいです。日本と同じような筋の人が客なのかよく知りませんが2件ありました。それなりに需要があるんでしょうね。食と刺青。七宝はなんとも不思議な街ですが中国の精神文化の深い部分に触れたような感じがいたします。やはり、自らが足で歩き、見て、聞いて、触れ、食べ、嗅いで五感で味わった物だけが本当の理解となると僕は信じます。書物や映画では一面的になります。さて現地から書きましたが夕食は昨晩の爆竹で自社ビルを火事にしてしまった料理屋(左)で7人で食べました。先生の客人に江さんという上海市文部省で小中学校を管轄する高官がおられ、楽しく過ごしました。しかしこれだけ失火で焼いても営業できるというのがそもそも考えられません。爆竹は邪気を払うものらしく昔は家の中でもやったそうで、その煙を吸い込むと縁起がいいというのだから役所も大目に見るんでしょうか。料理はこれまたすばらしく、前日に頂いた政治家御用達レベルであろう高級料理とはまた違った良さがありました。こういう美食を丸テーブルを囲んでつつきあえば、皆が幸福感に満ちてきて、仮にどんな憎しみがあっても当座はそれが消えて手を握る気になってくるという大きな効果があると思います。丸いのが上下を感じなくていいです。中国人の知恵ですね。それで思い出しますが、ユーロが成立した欧州で、フランクフルトに欧州中央銀行ができた時です。テーブルは議長が中央になるのでなく、丸テーブルにしたそうです。
最後に、この日を終えてホテルに戻る途中でどうしても爆竹を試したくなりました。香港時代も音だけ聞いていて長年の好奇心と遊び心が満たされていなかったのです。道端のテントでこういう風に売っています。
花火はこういう感じですね。けっこう重くて大きい。爆竹1000発で800円ぐらいなのでそれをすぐ目の前で「実射」しようということになりました。
道路にこうやってヘビみたいに横たえます。東京で昔2Bという爆竹がありました。小学校の帰りにいつも吠えついてうるさい近所のスピッツの犬小屋に5本ぐらい投げ込んでやったりしました。あれぐらいの太さで長さ5cmぐらいのが並列でこの長さに1000個並んでいるわけですから迫力満点。血が騒ぎました。
実射の図です。音は機関銃の連射のようで相当威力がありました。これは下手すれば火事になるでしょう。花火も日本の市販のような子供だましではなさそうです。やることは豪快ですね。しかしこれだけでもスモッグはかなり出るだろうなあと他人事ながら心配になった元旦でありました。
帰国しました
2014 FEB 2 21:21:49 pm by 東 賢太郎
現地で写真を送れませんでしたが、初日はまず経済事情を見るべく商業施設を視察しました。
まず右が久光という百貨店の大晦日の「福袋」です。久光とは香港で「そごう」フランチャイジーである利福國際が経営する日本式デパートの名前です。値段は高いそうですがお米は中国で栽培したものですが「こしひかり」まであり、玄米売り場には精米機で好みの厚さに精米までできる凝りようです。日本食人気はとどまるところ知らずです。
福袋をよく見ると、中国家庭の必需品となっている日清の食用オイル、キッコーマンの醤油が人気のようです。それにしても、透明なのにどうして福袋になるのかよくわかりませんね。
アルコールドリンクはというと欧米のビールが人気のようでした。もう生活レベルは東京とぜんぜん変わらないところまで来ています。ここで買い物するのは金持ちと日本人が多いのでしょうが、それでも僕が香港にいたころ仏系スーパーのカルフールに人が殺到して欧州製品に群がっていた頃とは隔世の感がありました。
日本の店舗も出ていてこれは山崎パンですね。日本ブランドが人気なのですが、消費者は賢くてmade in Japanかどうかまでこだわりだしているそうです。日本人が日本ブランドで中国の原料で中国で作るのはだめで、日本で作った輸入品に人気が集まるようです。ここもいい感じでした。
こちらはメガネのパリミキです。これは別なショッピングモールでしたが、ここはオーナーのポリシーで各社とも大きな店舗にしているそうです。清潔感のあふれるおしゃれなお店で、もちろん風水も見てベストなレイアウトになっているそうです。日本の店と見間違えるようですね。
驚いたのですが、デンマーク製で中国にはここと病院に一台づつしかない聴力検査器です。非常に微細な検査ができどんな音が聞こえないかはもちろん、どんな言葉(センテンス)が聞きとれていないかまで家族がスクリーンで目視したうえでおじいちゃん、おばあちゃんにぴったりの補聴器を選んであげられる。これはいいですね。
補聴器というのは本人よりも家族が大声を出さなくてはならないので困って買うというケースが多いそうです。だからこの検査で家族が納得すれば少々高くても売れるそうで、検査予約はびっしりのようです。中国の中流家庭の昨今の経済力を物語るエピソードですが、祖父母の余生を楽しませてあげようという気持ちもあるように感じます。お店側には土地が高いから置くスペースの問題があるのでしょうが、それでももっと経済力があるはずの日本にこの検査器が一台もないというのはどこか考えさせられるものがありました。
大晦日でしたが6時までモールは開いていてじっくりと見て回ることができました。
中国はどこに行くか (上海にて思うこと)
2014 FEB 2 14:14:40 pm by 東 賢太郎
香港で2年半過ごしましたが中国のお正月は初めてで貴重な体験をさせていただきました。
まず到着したら視界数百メートルかというほどのスモッグで驚きました。飛行機の窓から外を見て着陸が可能かどうかと思うほどで、まさかスモッグではなく霧か靄と思いました。上海在住のかたでもここまではなかなかないそうですが、市民は気にすることなくマスクの人も見かけません。こうなり始めたのは比較的最近のようでPM2.5を気にする風情もないのは危険性の報道がされていないせいでしょうか。日本の駐在員の方はスマホで大気汚染指数を日々チェックされているようですが、これは上海に限ったことではなくいずれ大きな内政問題になる気がいたします。
この二日、七宝、豫園、南京路の雑踏を歩きました。いつも中国、韓国に来て思うのですが、民間人と接していると領土や靖国問題などすっかり忘れて本当にいい人達だと感じます。昼食で大声で日本語でわいわいやっていても、隣りのテーブルの家族がかたことの日本語で美味しいですか?とくる。はい、というと家族から笑顔が返ってきます。お正月気分もあったかもしれませんが気持ち良く過ごせました。
人気スポットの雑踏というのが渋谷109か新宿アルタ前の密度を倍にして面積を百倍にしたようでおそらく何十万人というレベルでしょう。注意してないとすぐ仲間とはぐれます。レストランは戦争状態。これでケンカもなく皆が満足しているのを目のあたりにすると、個々人はまったく無秩序に動いていても全体はうまく回っているわけで、これはこれで立派な政治システムなんじゃないかという気持ちさえしてきます。
先生のご友人で35歳で2000室あるビルを持つ富豪に会いましたが、社会主義の統制経済ながらそういう人もいる。上海で35億円以上の資産家が1500人だって、へえ意外に少ないねなんて会話が平気で飛びかっている。こういう国が共産国か資本主義国かは議論するだけ無駄に思えてきます。騙したり騙されたり、裏切ったり裏切られたりが当たり前の国ですが、それはそうされる方が悪いという考えのようです。思えばアメリカもそういうところがありました。
久しぶりに中国に三日いましたが、やっぱり日本は特殊な国だという思いは強くなるばかりです。
(応用編です)
明けましておめでとうございます
2014 FEB 1 1:01:46 am by 東 賢太郎
今日は上海で今年二度目の元旦を迎えました。目出度いことに息子が今日二十歳の誕生日を迎え、奇しくも神山先生の誕生日でもありました。
昨日はお世話になっているM社様に一日ご案内いただき、最新の中国事情を教えていただきました。ご駐在20年を越えるT取締役のお話しはさすが現地で様々なご苦労をされた方の言葉だと感服しました。先生をご紹介しようということだったのですが、それにとどまらず大変面白い新規ビジネスのヒントまで頂戴し興奮してなかなか寝つけませんでした。心より感謝します。
それに加えて新年好、シンニェンハオを祝う爆竹と花火の音がものすごく、32階のホテルの部屋でも爆音が響きわたります。日本の花火大会でクライマックスに乱れ打ちがありますが、あれと同じくらいの連発が午前零時から30分はつづきましたからスケールがでかいですね。おまけに今日の夕食を予約していたレストランが自分の爆竹で玄関を燃やしてしまうというハプニングも。ところが爆竹は本来家の中でも鳴らすものでその煙をたくさん吸うと縁起がいいとのこと。むしろそれはいいじゃないかと先生は三名のご友人と何事もなかったように悠然と夕食をホストして下さったのです。大人、タイジンの風格とはこのことでありました。
息子の門出に号砲と祝宴、新規ビジネスの種、いただいた皆様に感謝申し上げます。
百済旅行記(2)-倭国に来たもの-
2013 SEP 26 0:00:39 am by 東 賢太郎
今回泊まったロッテ・扶余リゾートホテルの10階の部屋からは、このように8番ホールが目の前に見えます。こういう風に部屋から見ているギャラリーがそこそこいて、池の右横から画面左方向へのティーショットは緊張しました。
こういう古都で遺跡を見ながらゴルフに興じるというのは乙なもので、2番ホールからははるかあの落花岩を望むこともできる。下の写真の奥の山がそれです。キャディーさんが観光案内役でもあって、それを教えてくれました。
このあたりはおそらく古戦場であり、ここであの合戦が繰り広げられていたと思うと感無量なのですが、こちらもグリーン上の合戦の真っ最中であり感傷はご無用でした。
終了後、宮南池(クンナムジ)に案内されました。武王の庭園で王宮の南に位置するのでこう呼ばれます。この大きな池の周囲は小さな池が点在します。入り口にはこれが。
名前はなんだか知りませんがいわゆるここの「ゆるキャラ」ですね。後方にはたくさんの蓮(はす)の葉っぱが見えます。池ごとに50種類もの蓮(はす)が集められているそうです。こういう美へのこだわりは百済の特徴と感じます。こんなのもありました。25kgまで載せても沈まないそうです。
宮南池には東屋まで橋が架かっています。ガイドの黄さんによるとわが国の飛鳥時代の庭園造形の技術に影響があるそうです。
どこか中国風でもありますが、たしかに日本庭園に通じる風情があり、ここを経由して日本に伝わったもののひとつかもしれません。仲たがいした男女がこの池を一周すると仲直りできるという言い伝えがあるそうで、そのせいかカップルが目につきました。
このあと訪問した国立扶余博物館では館長さん(女性)御自ら蓮の葉のお茶と茶菓子をふるまって下さり、棒振り合戦でこちらも棒のようになった足を休めさせて下さいました。松の花粉で作った菓子は韓国でも貴重だそうで、美味でありました。
そこで拝見したのがこれです。百済博に備えて別室で公開していない実物を特別に見せていただきました。今や扶余のトレードマークとも言ってよい有名な「百済金銅大香炉」であります。
この見事に均整のとれた曲線美に僕は音楽を感じます。自然界に直線はありません。この香炉にもありません。曲線が造形する調和というものは宇宙の調和です。何も置かれていない広々した棚にこれがポツンとあって、館長さんがスイッチを入れて光を当てました。すると、この香炉ではなくて、周囲の空間の方がこれに吸いよせられているような、そうして光っているような、不思議な光景が現れました。
この香炉にはわが国の飛鳥文化に深く投影されている何ものかを感じます。
しかし僕にとってさらに興味深かったのは、この6-7世紀に造られた香炉が制作時は金箔が施されて金色に輝いていたことです。「金箔を貼ったのですか?」と伺うと館長は「いいえ。金と水銀を混ぜていったん塗り、後で熱して水銀を蒸発させました」 とのこと。それは水銀アマルガム法といいます。「奈良の大仏がそれで塗られましたね」と指摘すると目を丸くされて、ひときわ大きな声で、「その通りです。当時の最先端技術なんです。」 なにか日韓の小さな絆が一つできた気がしました。
黄さんはそれを聞いて何も言いませんでしたが、
「百済はここで終わりました。でもそのすばらしい文明と文化はここから日本へ行ったんです。そして、日本で花開いたんです。」
と顔に書いてありました。
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