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カテゴリー: ______海外出張記

ハノイ訪問記(ハロン湾)

2015 NOV 25 0:00:41 am by 東 賢太郎

2477e8db-sハロン湾はハノイの東方170キロ、トンキン湾北西部にあります。「いつか絶対行きたい世界遺産ベスト100」に紹介されている絶景の地のうちでは行きやすい所でしょうがとはいえハノイからバスで4時間もゆられるので楽とはいえません。

今回は仕事をくださっているL社様がアレンジして下さったJTBさんのお計らいで我々7名で小型バス2台貸切り、日英語がペラペラでクリントン大統領の通訳も務めたガイドさんが2名ついてくださるという万全の旅でした。

実は僕はここは2回目ですが、前回は野村時代に接待役でしたからあんまり楽しめず、今回は貴重な時間でした。ハロンは下龍であり、その名のとおり竜が下ったという伝説があり、「海の桂林」とも呼ばれます。

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この船で湾内を3時間かけて周遊し、ランチはここで獲れた海産物を船上でわいわいといただき、ワインで存分に酔っ払い、鍾乳洞を見学するというものです。船も7人で貸切であり、すいませんが非常にぜいたくでした。

 

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デッキはこういう感じになるのです。40-50人は楽にクルーズできるParadise社のでっかい船です。

 

 

 

島にある巨大な鍾乳洞は奇観でありました。これも一見の価値ありです。

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まるでクラゲです。自然の産物とはいえ一つの造形美です。

 

 

 

 

 

 

 

 

帰りも4時間で爆睡でしたが大変でした。一泊がおすすめです。ハノイから水上飛行機がありそれだと30分だそうです。また行きたいので次回はそれを検討ですね。

夜はナムフォン(Nam Phuong)というレストランにて夕食に。小泉、安倍首相の食べた部屋で同じメニューをいただきました。

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この巨大なロブスター、血を目の前でぬいてくれます。ちょっとかわいそうでありました。

 

 

 

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登場した3人娘のベトナム楽器の合奏です。右の人の弾くダン・バウという1弦楽器はエレキギターの チョーキングみたいな音ですが、音が持続するので旋律を歌えます。面白いですね。

 

 

(つづく)

ゴルフへの情熱について(ハノイにて)

ベトナムへ行ってきます

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ベトナム、ハノイにて

2015 NOV 24 0:00:25 am by 東 賢太郎

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今日はベトナムのハノイにいます。56階のこういう部屋です。昨日は休みだったのでハロン湾にバスで4時間かけて行きました。明日帰って詳しくレポートします。

 

ハノイ訪問記(ハロン湾)

 

 

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赤いと思われる借景を二枚

2015 JUL 23 16:16:23 pm by 東 賢太郎

西室の朝やけ、夕やけの写真がたいへん面白いですね。それをみていていて、色覚がちがう僕のきれいと普通の人のきれいは違うんだろうなということが、もちろん今までもずっと思って生きてきているのですが、ますますそう思うのです。

この写真は今回撮ってきたミクロネシアの夕陽なんですが、撮った時点ではあることに感動があってシャッターをおしました。それが失敗で、さっきいらねえなって消そうとしていたものです。「あること」は最後に書きます。

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これはまちがってシャッターおしちゃったかなと思って捨てかけてました。

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この2枚が登場することになったのは赤いかもしれないと思ったから。西室が赤い、胸騒ぎがすると書いたのが僕にはそうでもなくてますます自信がなくなってしまった、それは僕の方が西室よりもより一般からとおい、要は色弱度が重いということなんだろう、そんなおれが判断しちゃ写真がうかばれないと思ったのです。

こちらをご覧ください。これがミクロネシアの朝6時すぎです。上の2枚と同じ西の海を見ています。

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これはなんかモヤっていて、やっぱり捨てようとしていた。空のブルーですね、これに反応して撮ったにちがいない。いま見ていると日本の6倍ある紫外線がじりじりきて首すじが痛くなってきそうだなあという感覚がおそってきます。

「(芥川龍之介が)思わず筆をとって文章を書きつけるまでに彼の感性が発酵していなかったため、意識に残らなかったのではないか」

西室の文章ですが、なるほど、感性が発酵するという表現がいい。色を見て感性が発酵して文学になる。そういうことかもしれない。

ぜんぜん発酵せずに写真を捨てかけていた僕のきれいと普通の人のきれい。文学的才能の欠如はさておき、やっぱり両者は違うのだろうとますます思います。色のないものはないですからね、そこが違っている僕のきれいは、視覚に関するかぎり万事で違っていて不思議なしです。

酔って人の顔が赤いとか青いとかきくと豆まきの赤鬼・青鬼を連想。桜吹雪は白い。お絵かきで木は幹も緑に塗ってました。三毛猫は描けない。地下鉄の路線図はごちゃごちゃ。女性の化粧は白っぽくなるだけで究極は舞子。真っ赤はよくわかるのでマリリン・モンローは歩くクチビル。

ということで、最初の写真の「あること」に戻ります。これを撮った唯一の理由は「太陽が丸く見えたから」です。映るかなと思ったら映ってなかった、だから捨てようと。

丸いもの、球体に弱いのです。色より形が大事なんです。それはもの心ついた時からで、東大教養学部時代に哲学の井上忠先生が「パルメニデスの有」なるものを授業でやって、それが何かはついに最初から最後までわからなかったのですが、「完全なものは球体をしている」というフレーズだけは天啓のようにスッとわかったのです。

丸いものというと子供のころ山手線、中央線、総武線の屋根の上に並んでた通気口のまあるいの、なぜかあれがよく飲まされてたエビオスの色と質感に見えて気になって仕方なく、国電を見下ろすポジションに電車が来ると毎度そわそわして窓に張りついて、どうしても触ってみたい、できれば盗んででもひとつ欲しいという小学生でした。

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地球が球体である。僕は飛行機で窓から毎回欠かさずにそれを視認します。高所恐怖症なので必ずアイル席ですが、窓側席の人の怪訝な視線を顧みずします。月や金星や木星もそう見える。しかし太陽は影がないからそう見えないのです。だから僕には太陽が球体というのは仮説に過ぎない。本当にそうなんだろうか、そうならぞくぞくします。触ってみたい、それは電車のまあるいのを見たときと同じ欲求です。

太陽というのは宇宙で唯ひとつ、肉眼で視直径が確認できる恒星であります。それだけで観音様みたいにありがたく、ひれふして拝むに値する。日没で太陽の輪郭の丸さが肉眼で見えると、その触った質感を想像してしばし恍惚とする。そういう小学生であり、パルメニデスの「完全なものは球体をしている」は、当たり前だろそんなのというふてぶてしい納得感、既視感で満たされたのです。

それをミクロネシアの日没で見つけた。それが最初の写真であり、ところがぜんぜんそう映ってなかった。そういうお粗末な顛末でありました。

 

 
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ゴルフとビールと五十肩に教わる

2015 JUL 22 1:01:20 am by 東 賢太郎

ミクロネシアはユナイテッド航空でグァム経由でしか飛べません。そこでグァムで一泊の中継をすることになります。前2回もそうしましたが、今回は米国MRAと我々との橋渡しをしてくださったN先生がご一緒でした。

ついては考えたことがあります。かねてより後遺症が心配であった左肩(シャドーピッチングの無謀なやり過ぎで五十肩が悪化したもの)ですが一応腕を真上に上げても痛みはあまり感じなくなっています。ゴルフができるかどうかを確認したく、先生に無理をお願いして一緒にラウンドしてもらうことになりました。

五十肩というと経験ない方はおわかりにならないでしょうが、腕を振ると関節が脱臼しそうであり、可動域はすごく狭まってそこを超える動きをすると激痛が走るのです。高校時代に野球で痛めた肩の痛みと似ており、そのトラウマもあってゴルフはできませんでした。最後にしたのが一昨年の夏、ハワイ島での1ラウンドですから2年前です。それ以来、ゴルフクラブには触ってもいません。

さて、朝7時にヒルトンホテルを出発してレオパレスリゾートカントリークラブにてプレーという段取りでしたが、ロビーに下りてくるとメガネがないことに気づきます。あれがないと目が見えないのです。ところがどうしたことか、チューク島にいた2日前から裸眼がよく見えていて、不思議なことなのですがその日はメガネなしでもできそうだと思い至り、メガネなしで回れたのです。そのような記憶はありませんし、ミクロネシアで目が良くなったのだろうか?

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レオパレスでスタートしたのは8時半を回っていました。快晴です。ジャック・二クラウス設計のそこそこいいコースです。1番はフルスイングできるかが不安でドライバーをいきなりチョロしました。それでも肩に痛みはなく、なんとか行けるかもしれないと感じました。先生には4、5ホールでリタイアするかもしれませんと断わってありましたが、どうやらその恐れはなさそうです。

結局、最初の9ホール(ハイビスカス・コース)のスコアは57。2つのロングホールが9と11(なんせ飛ばない!)でしたが、とにかく痛みなく回れただけで大満足です。

ところが次の9ホール(オーキッド・コース)に入るところで先生がちょっと待ってとスパムとスポーツドリンクを買ってくれてそれがやけにうまかった。というのは、もう太陽は真上に登りつつあって、とてつもなく暑いのです。これね、香港のゴルフ思いだしちゃうんですよね、このぐらい暑くて湿度は90%もあって、パットの時なんかメガネに汗がたまって牛乳ビンの底みたいになって見えないんです、などと言いながら毎週末、土日とやっていたあの頃を思い出し、淡々とプレーします。

気がつくと6番をおわってまだ3オーバーでした。なんということか、ひょっとして2年ぶりの病み上がりで30台が出るかもしれない。決してやってはならないことなのですが、それを先生に口に出して言ってしまった。すると案の定、7番ロングのティーショットを左に曲げてOBです。ダボ、ボギー、ボギーでなんのことはない43でした。思えば香港ではシャングリラホテルが所有する西麗ゴルフカントリークラブでハンディはシングルの8でした。この気候が当時のスイングとリズムを呼び覚ましてくれたかもしれません。

スコアは水ものだからどうでもいいんですが、このあと、貴重な教訓を得ることとなった。それを書きます。

18ホール無事回ってランチの前に飲んだ生ビール、これがうまかったんです。人生かつてビールがこんなにうまかったことはない。暑さ、乾き、肩がもった安堵感。一気に飲み干して大声でうまい!その日本語を聞きつけてボーイさんがもう一杯もってきてくれたタイミングの良さ。

人間、飢えるってことが大事と知りました。期待値は低い方が人生は幸せかもしれません。たかがビール一杯、東京でそんなものに感動し、一生忘れないなんてことがあるでしょうか?先生は限界効用価値逓減の法則をもちだされ、なるほどと腑に落ちました。

あったねえ、6枚目のパンより5枚目がうまい。東京のは100枚目でしょうね。でも1枚目がこんなにうまいなんてことは教科書にはなかったね。僕はあのビール一杯に一万円払ってもいいぞ、なんてしょうもない話になっていきます。

旅先で何の準備もなく貸しクラブでゴルフする、2年もやってない、五十肩のリバウンドが怖い、気が狂いそうに暑い、こういう期待も何もない状況、そしてノドがカラカラで飢えた状況、これぞ人生のスパイスであって、求めてでもそういう状況を作り出した方がいいのかもしれません。

ホテルに戻って夕食はコンシェルジュのあけみさんのおすすめの中華料理店VIPに。これまた先生も僕も飢えと期待値の低さの相乗効果からか大満足で、あけみさんの評価は急上昇しました。うまいうまいとほめたからか、女将が帰りついでに車でヒルトンまで送ってくれました。

バーで先生と反省会を開きます。2年前に鳥取で対戦して僕が負けたのですが、今日は僭越ながらもタテ・ヨコ握って僅差で勝たせていただき、スイング等につき幾つか指摘もさせていただきました。先生ね、ラフ入ってねティーグラウンドの景色で覚えてないでしょ、それからあのショートで9番持って軽く振るって言ってたね、それどっちもダメですね、青いですね、シングルの人でそんな人は絶対いないんです、みたいなことを。

翌朝です。東さんのバック9を見て納得したんで、夜のあれ全部ノートに書きましたとのこと。これはまずい、酔った勢いで余計なことを教えてしまった。次回はやられそうです。なんせ280ヤードも飛ぶ人だし一回りも若いしこっちは200ちょいだし。でもその研究熱心な姿勢は好きですね。学ぶ人は何事も伸びるし、負けても悔いなしです。でもスコアはともかく僕は賭けは強いからね、いざというホールは今日みたいにまず負けないから大丈夫でしょう。

帰りの機内で、東さん最近欲が減ってきてますねと。彼はいろんな局面で見てくれていて、そういえばあるディールで海外で大勝負の会議は同席してくれてました。僕のああいう場面を目撃した人はあまりいません。そりゃ、ああいうことはもうないですよ、もういらないから、と言いつつも、たしかにそうだそれじゃいかんと思いました。ゴルフも自転車みたいなもんで体が覚えてますが、ディール、交渉もまあそうでモチベーションさえ出ればまだまだできます。

モチベーション、やっぱりそれですね、先生もそっち派だけど僕なんか完璧に燃えるものを求めてやってます。もう金じゃなくってね。仕事も人もね、燃えさせてくれるものが欲しいんです、老若男女誰でも。欲があるとしたらそれにですよ。もう行きたい国も食べてみたいものもやってみたいこともない。好きなミステリーなんか全部読んじゃって。ある意味、若い時に恵まれすぎてたんですが限界効用価値がもうかなり薄いのね。

しかし、そういいながら、ふと思ったのです。なんでそんな僕が一杯のビールに感動するんだろう?五十肩で特にもうやりたくもないゴルフをやってみようと思ったんだろう?

 

(こちらへどうぞ)

東京ビッグサイトにて

 

 

 

 

 

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大和、武蔵、五十六、慰安婦、そして戦争という愚

2015 JUL 21 18:18:57 pm by 東 賢太郎

「夏島」(トノワス島またはデュブロン島)は戦時中つけられた和名であり、前回は時間がなく上陸できませんでした。このブログに書いた春島の「ザビエル高等学校の高台から眺めた」写真の島です。

チューク島にて(その1) 

この島こそが、このブログで「お気の弱い方はご覧にならないことをおすすめします」と書いたビデオにある、米軍による真珠湾攻撃の報復とされる大空襲の標的となった夏島です。

チューク島にて(その3) 

1944年2月17、18日、戦死傷者は1万5千人、環礁内に沈められた日本軍船舶は100隻近く、撃墜された航空機(2百数十機)に至ってはその実数は不明のままです。連合艦隊は敵の無線を傍受してパラオに移動しており被害にあったのは基地と輸送船でした。

戦艦大和と武蔵が並んだ写真はこれ1枚しかないそうです(右が武蔵とみられる。「戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦〈2〉、朝雲新聞社)1943年5月とあるので山本五十六長官の戦死直後の姿と思われます。

YamatoClassBattleships

 

 

 

 

 

これはそのあたりと思われる船上から後方の春島を撮ったもの。島の形はそのままです。

 

 

 

 

 

 

 

 

船の前方に見えるのが武蔵を係留していたブイです(後方は春島、ここまで流された)。

 

 

Yamamoto-Isoroku

 

 

写真下は夏島の水上艇飛行場です。ここから第27代連合艦隊司令長官・山本五十六(右)はラバウルに向けてトラックからの最後の離陸をし、ゼロ戦滑走路だった写真対岸の竹島からゼロ戦数機が護衛についた。そしてラバウルから前線視察のため向かった1943年4月18日にブーゲンビル島上空で撃墜され戦死しました。山本五十六の視察飛行は戦艦武蔵からの無防備な暗号電文が米軍に傍受され狙い撃ちにあった。海軍派遣でハーバード大学に留学しナショナルジオグラフィックまで定期購読していた山本五十六ですが、配下の軍はそのレベルになかった。敵将である太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツは山本を殺せばもっと優れた司令長官が現れるのではないかと暗殺命令を下すことを逡巡したが、太平洋艦隊情報参謀エドウィン・レイトンから「山本より優れた司令官が登場する恐れは無い」との回答を得て命令書を作成したそうです。敵ながらあっぱれの諜報力であり、傍受にとどまらずそこまでつかんでこそインテリジェンスを成すのです。そしてそれほどの将が戦死すれば日本の士気、モチベーションが大きく低下することを見越した狙い撃ちだった。これまで僕はブログでインテリジェンスとモチベーションの重要さを何度も指摘してきましたが、それをご理解いただけると思う。あの戦争は物量で負けたことになっているが僕はそうは思わない。智恵がなかったから負けたのです。「東さん、知ってるかい、今の子はやまもとごじゅうろくって読むんだよ」、そういう危機感から東映に役所 広司主演の映画制作を働きかけた僕のお客さんが言ってました。名前を覚えるのも大事だが彼の戦死から敵軍の意思決定の要諦を学ぶことが弔いになるのではないかと思うのです。

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山本五十六ら司令長官公邸があり帝国海軍司令本部を置く要塞と化していた夏島には2万人の日本人が住み、港の周辺に商店街、学校、病院、百貨店、映画館、野球場、芝居小屋、料亭、遊郭までありました。遊郭は女性が900人おり軍の職位で格式が決まっていたそうです。料亭、商店等と同様に経営側からはビジネスでもあり客側からは慰安婦と言わば言えぬこともない。

下の写真は商店街跡です。この道の両側に商店がびっしりと立ち並び、雨が降っても店先の軒を伝って濡れることがなかったそうです。今はただ灼熱のジャングルをぬう一本道であり、往時をしのぶものはかけらもありません。2万人の居留がうたかたの夢の如し、秀吉が朝鮮出兵の根城とした佐賀・松浦半島の名護屋城跡の光景を思い出しました。

狩り出され何か月も故国、家族と隔絶された幾万の男たちが明日死ぬかもしれないという環境におかれて管理される事態というのは南洋のジャングルのど真ん中に百貨店が出現するほど異常なことです。そういう状況において慰安がいいことだ悪いことだと言ってみても仕方なく、女性がかわいそうでもあるが意に反して徴兵され戦火で殺されていった男たちもかわいそうなのです。男女平等に全員が戦争遂行責任者である国に補償、賠償を求めたらいいのだろうが、戦争という行為においてそんな議論が出た国は聞いたことがありません。人間はそんなによくできた理性的な動物でもないしそうだからこそ戦争をした。まずどうしたら戦争が起きなくなるか、智恵を磨いて考えるべきではないでしょうか。

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(こちらへどうぞ)

戦争の謝罪をすべし、ただし日本史を広めるべし(追記あり)

 

 

 

 

 

 

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オローラ島での瞑想

2015 JUL 21 0:00:33 am by 東 賢太郎

今回はもうひとつ、一昨年にミクロネシアに設立した会社の定例の株主総会、取締役会も行いました。間に入っているMRA(Micronesia Registration Advisors, Inc.)は米国人経営の政府エージェントであり、ミクロネシアへの補助金援助を打ち切る予定になっている米国が後ろ盾になって海外企業家を誘致し、財政的な独立を援助するスキームとなっています。

そのパワー・バランスの変化に目をつけているのが中国であり、4島の一つヤップ島では大規模なゴルフ場付リゾートホテル開発を進めようとして住民と対立しています。ミサイル戦の時代に入り、グアム以南の太平洋諸島は米国にとって戦略的重要度を失って米軍は退却の方向であるため中国が進出を虎視眈々と狙っていると思われます。太平洋の反対側でニカラグアに運河まで作ろうかという国です。沖縄、尖閣、台湾、フィリピンを超えた外洋に彼らの戦略的視点は移っています。

L社社長とはそういう観点からの問題意識の共有をさせていただいており、お金儲けや節税ということではなく日本のゆかりの地に日本人の手で何ができるかということを常に考えております。電力をはじめとするインフラ整備はその可能性の一つであり、インフラなくして産業はなく、産業なくして雇用も税収もないわけです。満足な教育もなくそれを推進する人材も育ちません。

そのような眼でこの国を観察しますと、国家の基盤やその発展というものが何を必要条件として進むのかが肌で分かります。明治時代の日本国も規模こそ違え同様のプロセスを経て近代国家を形成したのですが現代の日本国のぬるま湯につかってそれを体感するのは困難です。ミクロネシアに3度来てそれを知ったことは僕にとっては事業を超えたモチベーションになりつつあります。

問題は現在のミクロネシアの年配の人々に豊かになろうという意欲が希薄なことで、こればかりは社会システム、教育、労働に対する価値観などに起因した難しい底流です。自給自足で満足な生活を無理に変えることが善ではありません。だからそれをアメリカンなもの、物質文明、消費社会という方向ではなく、日本的なやわらかな共存共栄社会、金銭を仲介しない助け合う社会という方向でより生活の満足度を上げられるというのがいいのではないかと考えます。

そういう考えがふと出てきたのは、今回連れて行ったいただいたオローラ島でしばし休憩しているときのことでした。オローラ島は帝国海軍司令本部があり連合艦隊停泊地であった夏島の東方沖に位置するサンゴ礁の小島であります。

 

我々が今回宿泊したブルー・ラグーンから小舟で30、40分でこんな色の海になります。

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これがオローラ島です。

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ごく少人数の宿泊もできますし無人島ではないですが、一周歩いても5分もかからない小島です。電気もガスもWiFiもなし。南洋の孤島というのはいっさいの日常的思考を断ち切る力があります。

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ミクロネシアは自然環境からいえばゴルフ場とビーチこそないが一級のリゾートになり得るでしょう。ただ我々日本人には他の国の人とは違った思いがある。なにせ目の前の海には何十隻という日本の艦船やゼロ戦が沈んでいるのです。

南国の潮風で緊張は弛緩するのですが、こんな気候風土の地に巨大な基地を建造した海軍の知恵と努力というものは戦争の是非とはべつなところで日本人の有能さと勤勉さについて強く語りかけるものでした。昭和16年に無謀な戦争に思慮なく突入した責任は問われるべきものですが、思慮なく戦争反対を唱えれば何も起きない平和な国が保てるというものでもないというのはこの地に来て戦争の歴史をみればわかる。

戦争はくり返したくないと叫ぶのは同感なのですが、何も学ばずにそれをくり返すのも甚だいけない。おばあちゃんがこういったと涙を流す女性原理で大国間の国際政治という非情なインテリジェンスの戦いは動かない。怜悧で貪欲な連中のパワー・バランスの中で、軍隊もなしに大国でいられる国が百年後に果たしてあるのだろうかと真剣に思います。カルタゴの運命をたどらないためにも、日本国には徹底した非情なインテリジェンスとそれを形成する情報が必須です。ただのハンタイは無智なのです、無智は国際政治に何の影響力もなく、無力です。

戦争を本当にしたくないなら、誰であれ智恵の形成に向けてパブリックにものを言い、歴史観とコモンセンスをもって参画し、自民党はそれに聞く耳を持つべきであろう。

そういうことを考えるに、この島はとてもいい場なのではないか、そう思いました。

 

 

陛下の生前退位報道とミクロネシア

 

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ミクロネシア電力案件

2015 JUL 20 21:21:03 pm by 東 賢太郎

先週よりミクロネシアに出張中のため、ブログは中断いたしました。

同国訪問はこれで3回目です。同国にて可能性のある事業はいくつかありますが、そのひとつとして発電があります。日本の電気料金は個人向けで23-30円/KWH(京電力)ですがミクロネシアはディーゼル主体(一部は太陽光)で50-60円ほどです。停電が多いという事情もあります。

今回はチューク州、ポンペイ州の電気事業部門幹部および民間事業者にホテルにご参集いただき、小型水力発電のシステムなどいくつかの提案を含めたプレゼンテーションを行ったものです。結果は相応のご関心をいただく形となり、今後の進展が期待されます。

本件は単なる営利目的だけの案件とは一線を画し、現地国民の生活と福祉の向上に連なるという使命感をもって行っており、技術供与する会社様はもとより顧問を務めさせていただいているL社様との共同プロジェクトとして関わらせていただいているものです。

事業プランとしては当然ながら採算性の精査が必要ですが、水力(マイクロ・ハイドロ・プラント)ですと設営初期費用が24時間稼働で約2年で回収可能であるなど現実的であります。商社等を経由することなく政府と直接に折衝したわけですが、むしろ当方の趣旨がストレートに伝わったと思われます。

このような事業を前提にL社様および弊社ソナー・アドバイザーズ株式会社が一定額の資本金をもってミクロネシア連邦にリスクをとって起業しているわけであり、そのコミットメントが先方政府関係者との間の信用を築いているということが確認できた会議ともなりました。

今回もグアム経由で去年と同様にチューク島に一泊しました。昨年と様子は変わっておらず、例のがたがた道がほんの一部舗装された程度でありました。前回行かなかった帝国海軍司令本部のあった「夏島」に行くことができましたが、終戦から70年ということもあり感ずるところがありました。

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最高の夏だった地中海クルーズ(今月のテーマ 夏休み)

2015 JUL 12 0:00:03 am by 東 賢太郎

夏休みは何回あったんだろう。物心ついた幼稚園からとすればかれこれ55回ぐらいか、そんなにあったのか!

全部がそれなりに楽しかったのでしょうが全部を覚えてるわけでもない。よほど印象に残ることをしていないと60になれば悲しいかな忘れるもんです。

なかでも、スイス駐在時代の最後の夏に家族で行った地中海クルーズは最高の思い出かもしれません。よく覚えている。クルーズはいまどきは行かれた方がけっこう多いかと思いますが、86年ロンドン時代にもギリシャの島めぐりクルーズをしましたが東洋人はひとりもおらず、この2回目でも子供連れが珍しがられたような時代でした。こういうのにスッと入れたのも海外勤務あってのことでした。いまだったらちょっと面倒くさいかもしれない。

1997年7月27日にチューリヒからスイス航空でイタリアのジェノヴァに飛びました。まだ長女は9才、次女は7才、長男は3才とかわいい盛りでした。ヴァウチャーを見てみると空港に昼前についたようです。きっちりしたスイス人の世界からええ加減でスリの多いイタリア人世界に入ったぞと頭のスイッチを切り換えます。

ジェノヴァ(ここはここでいい街だった)

子供3人というのは夫婦の4本の手に余るのでこれまた危険です。出迎えのバスを何とか探し、両手いっぱいの荷物といっしょに子供も運び込んだという感じで無事に乗船すると、うれしいよりもほっとしてが気が抜けました。

一連の乗船手続きを済ませるといよいよ出航です。やっと家族だけのプライベートで静かな空間になる。汽笛が鳴っていよいよ出航。緊張の瞬間です。向かう先はどこまでも真っ青な地中海。そこから8日間の船旅でした。だんだん遠ざかるジェノヴァの街並みと丘陵が霞みのかなたに消え、夕闇が波ひとつない大海原をすっぽりとおおうと夕食です。黄金のような時間でした。

レストランはテーブルが8日間同じです。イタリアンがメインでこれが一番美味ですがメニューは毎日趣向がかわり飽きることはなし。ホールでは音楽、ショー、マジック、ダンスなど夜遅くまでアトラクションがありカジノがあり、デッキでカクテルを飲みながら寝そべっても快適で、ホテルごと移動して朝めざめると翌日の停泊地に着いているのだから贅沢です。

そして上陸すると英、仏、独語のガイドがいるバスにそれぞれ乗って当地をあちこち観光する。 寄港したのは2日目カプリ島、3日目シチリア島(パレルモ)、4日目チュニジア(チュニス)、5日目マジョルカ島(パルマ)、6日目イビサ島、7日目バルセロナです。船の名前はメロディ(Melody)でした。

カプリ島の昼飯のパスタは最高で、今でも覚えてる。快晴でした。丘の上のかなり高台の館風レストランで垂直に近い下に深いブルーの海。人生かつて見た最も美しい景色の一つです。ローマ皇帝のティベリウスがここに別荘を建てて治世の後半を過ごしたのも納得です。そしてクルーザーで沖に出て、小舟に乗り換えて「青の洞窟」です。天候によってダメな日もありラッキーでした。この島は行く価値があります、ぜひお勧めしたいと思います。

3日目のシチリア島はどうしてもマフィアのイメージがありパレルモの街をバスで行っても街は殺伐として見えました。丘の上の寺院のようなところから海を見たことぐらいの記憶ですが、ここの絶景もすごいものでした。飲んだワインのセッコがカラッとした空気にしっくりしていた、これ以来シチリアの白というとここを思い出します。街の雰囲気ですがローマとアラブが混じった独特のもので、ジャック・イベールの交響組曲『寄港地』(第1曲がローマ~パレルモ)が見事に描いてます

シチリア島のパレルモ

そして4日目はアフリカに渡ってチュニスです。シチリアは観光に子供たちを連れて行ったのですが、なんとなく防御本能が働き、この街では船に3人置いていきました(そういう親のため子供用プレイルームが完備している)。どうしてそうしたのかもう忘れてましたが、3月にあった博物館の襲撃事件に続き先月26日にはビーチリゾートでISによる発砲で観光客38人が死亡する近代チュニジア史で最悪の襲撃事件が起きており、やはり危ない場所だった。英国政府が自国民に退避勧告したようで、もう観光どころではない場所になってしまいました。

カルタゴ遺跡にて(当時41才)

ここのハイライトはカルタゴ遺跡です。これが見たかったからこのクルーズを選んだようなものでした。船はチュニスに停泊します。カルタゴはチュニス市ではありません。街を離れてバスでけっこう走った小高い丘の上「ビュルサの丘」にありました。カルタゴはここから地中海貿易を支配し、シチリア島をめぐってローマと対立して第1次ポエニ戦争でその領有を失いました。そこでイベリア半島の開発に注力し、名将ハンニバルが象を伴って進軍してローマをあわや陥落まで追い詰めたが戦線は膠着。大スキピオに攻められたカルタゴがハンニバルを呼び戻してローマ軍と戦ったがザマの戦いで敗れました(イベリア半島経営がわが国の満州にかぶります)。

カルタゴ勢力範囲(紀元前264年頃、青色部分)

この第2次ポエニ戦争の講和条件が厳しく、ローマへの船の引き渡しと多額の賠償金支払いと共に「アフリカの近隣国と勝手に戦争したらいかん」というのがあった。ローマの許可がいるのであってこれは憲法第9条と日米安保体制と見事にかぶるわけです。ところがカルタゴの西隣にはヌミディアという凶暴な国があった。第2次ポエニでローマと同盟を組んでいるいわば連合国です。こいつがそれをいいことにカルタゴ領を頻繁に侵略してきた(これも中国のあいつぐ領海侵犯とかぶります)。

ついに堪えきれなくなったカルタゴはヌミディアを攻撃。ローマに使者を送って開戦の許可を求めるが、元老院のカルタゴ撲滅論者らがそれを認めず勝手な攻撃は条約違反であるとしてカルタゴの武装解除、市民の立ち退きを決めた(ここも真珠湾の発端とかぶる)。そしてそれに激怒したカルタゴは籠城を決め3年も抵抗を試みたが、もうハンニバルはいなかった。将軍職を退いて首相に当たる職にありましたが国政の改革を断行したため一部貴族に追い出されてシリアに亡命、ローマの追っ手の前に毒をあおいで自殺してました。

BC146年、この第3次ポエニ戦争でカルタゴはローマの小スキピオという男に徹底的に殲滅されたのです。カルタゴが建設されたのは紀元前816年で、それから668年間続いた国家が消えた。籠城した市民がここで15万人殺され5万人が捕虜となり、市街は更地になるまで17日間燃やされぺんぺん草も生えないように塩までまかれた。これは軍人同士の殺し合いという戦争の概念にはとうてい当てはまらないおぞましい限りの大虐殺、民族抹殺であり、戦争はそこまで正当化できるものでもないし、そこにいかなる正義があったと主張しようにも白々しいだけの衝撃的な数字です。

カルタゴ遺跡

実際にその土地に立ってみてそう感じましたが、思えば我が東京の地だってそういうことがあった。1945年になって民間人10万人が一夜にして殺された米空軍司令官ルメイによる東京大空襲です。カルタゴは2160年前のことだが東京が焼夷弾で焼き尽くされたのは僕が生まれるほんの10年前のことでした。近代世界史で最悪の民間人襲撃事件でしょう。ルメイは民間人襲撃について、日本人は家で武器を作っている、武器工場を攻撃したのだと述べています。

そしてさらに推定14万人が殺されたという広島、そして長崎の原爆投下、これは一体なんだったのかと思う。ましてそのルメイが勲一等旭日章の叙勲者という力学は一体なんなのか、日本国の叙勲というもの、ひいては日本国というものはなんなのか。第2次ポエニ戦争でのカルタゴと同じく、敗戦国なのです。だから現代のわれわれはこの疑問を引きずったまま未解決の国に住んでいるのです。1945年を終戦というのはおかしい。カルタゴの運命を日本国民は記憶しておくべきでしょう。そしてカルタゴが殲滅された経緯が既述のようにいちいち敗戦後の日本(すなわち今)と嫌らしくかぶってくるのだということも。

だいぶ話がそれました。カルタゴ遺跡を後にチュニスの街へ戻ると、雑踏はもうアラブ系アフリカのムードです。どんな映画のシーンより迫力ありました。きょろきょろしながら雑踏をかきわけ、道行く人々の顔をしげしげと眺めながら、カエサルが進軍しクレオパトラと出会った古代エジプトもこんなものだったんだろうか、パルミラ王国のゼノビアもあんな女だったんだろうかなど歴史ロマンにひたりました。

ここまでが強烈過ぎたのか、マジョルカ、イビサはあんまり覚えてない。海岸で子供と遊んだぐらいでまあ普通のヨーロッパの島でした。昔からいかにショパンに興味ないかお分かりいただけると思います。そしてバルセロナなんてのは1度すでに行ってたし普通のヨーロッパの街であり、特に僕はガウディの妙ちくりんなあれが大嫌いなもんでさっぱりでした。

ジェノヴァに戻ってきてフライトまで少しあったのでタクシーを借り切って観光しました。子供に水族館を見せたりコロンブスの家を見たり。ランチをしたレストランZeffirinoはイタメシに食傷気味だったにもかかわらずかつて食したイタメシのベスト3に入る最高のものでした。ぜひ一度行かれるといいです。youtubeで見つけたのでご覧ください。

運ちゃんがいい奴であちこちで家族写真を撮ってくれ、アルバムの最後にジェノヴァがかなりの分量があるのもスマホのないこの時代ですね。ええ加減だけどにくめないイタリア。僕の地中海好きはこのとき決定的となりました。

すばらしい思い出を運んでくれた船、ミス・メロディ(Melody)はこれです。

 

さっきWikipediaを見てみると1982年に建造され大西洋クルーズに使われていましたが、我が家がお世話になった1997年にこのMSCという船会社が買って地中海クルーズに就航させたからデビューのころだったことがわかりました。こういうことがすぐわかるのも便利な時代になった、あのころネットがあったらもっと情報があって楽しめた。今の若い人は幸せです。

その後、メロディは南アフリカ航路になって2009年にはソマリアの海賊の攻撃を受けて大きなニュースになったようですが知りませんでした。そして12年に日本の船会社に売られたので会う機会はあった、残念です。翌年は韓国に売られさらにヨーロッパへ戻り、13年の11月に引退が発表されました。現在はインドのコングロマリットが購入し、Qingとういう船名に変わってインドの西海岸のゴア市で海上ホテルとして余生を送っているそうです.

もう一度会ってみたい。強くそう思います。

 

(こちらもどうぞ)

  イベール 交響組曲「寄港地」

 

 

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MERS騒ぎ真っ最中のソウルへ行く

2015 JUN 20 13:13:32 pm by 東 賢太郎

急に大事な仕事が2つもでてきてソウルに行く流れになったのが先週。そうしたらMERSのニュースが日増しに幅をきかせてくるではないですか。いやだなあと思っていたらどんぴしゃのタイミングでアポイントメントが入ってしまい、抜き差しならず水曜から二泊三日で出張しました。海外業務が長くSERS、鳥インフルエンザ、狂牛病、口蹄疫など大流行の国々に住んだり出張したりしてきましたから、今さら何だという感じではありましたが・・・。

seoul

ソウルは観光したことはありませんが仕事ではもう何十回も行ってます。18時着のJALは特にすいているということはありませんでしたが機中ずっとマスクの人は多く、僕も大量に買い込んで着用しました。金浦国際空港の待合ターミナルはいつになく人気が少なく、タクシー乗り場はガラガラでした。右は定宿のロッテホテル29階の客室からの展望。荷物を解いてすぐ明洞にビジネスディナーに出ましたが、普段なら若者でごった返すこの時間のこの繁華街で人出がこんなにまばらなのは初めてでした。ここまでは予想通りという光景でした。

韓国ではMERSはメルスと呼び大統領が訪米を見送る非常事態です。観光はツアーのキャンセルで中国人が10万人減るなど大打撃で、地元の人の方も百貨店、スーパーなど人ごみは避け、野球場までも客足が半減するなど影響が出ているようです。しかし感染はほとんどが病院関係ということで街を歩く人も計8件のアボイントメントでお会いした多くのビジネスマンの方々もマスクはしておらず、粛粛と台風が過ぎるのを待つというところなのは意外でした。「ウィルスはマスクを透過するから意味ないそうなので」という声もあり達観ムードも混じるのは4年前に放射能騒ぎで銀座や赤坂が閑散となったころの東京を思い出します。

seoul1

今回は韓国を代表するグローバル企業の電機メーカーとアドバイザー契約の調印があり、ソナー・アドバイザーズ起業5年目にしてありがたい栄誉となりました。調印式、写真撮影は同社研究所のあるソウル大学(左)で行われました。キャンパスの敷地は広々とした丘の上で見晴らしもよろしく、韓国の受験戦争は激烈で有名ですがそんな空気とは無縁で静寂です。ランチは教職員専用食堂でいただきましたが、魚介類のチゲ定食が美味でございました。

もうひとつそれとは別案件ですが、プライベートエクィティファンドの設立に関わる関係者と協議がありました。国民年金など政府レベルで海外投資の必要性に目が向きつつあります。日韓は投資というフィールドでは組める部分がありますが先例はあまりないようです。法律、行政、金融など基本的なインフラは日本がモデルで比較的理解しやすく、言葉のハンディを埋めてくれる有能な社員さえいれば壁は高くないという実感です。

この国とは政府間はいろいろありますし、両国ともそういうものに反応しやすい一定の世論のマネジメントという側面もあるため今後も変わらずあり続けると思います。ビジネスというものは、個々人レベルでは多様な感情があるにせよそれを百も承知のうえで、語弊があるかもしれませんが、お互い酒の肴にするぐらいの冷めた視線で成り立っていると言っていいでしょう。だから歴史に無知ではいけないわけで、わかっているがあえて口にしない理解と節度が望ましい。

僕はやや親しくなった人にですが閔妃暗殺事件への私見を述べたことが何度もあります。これは乙未事変とも呼ばれ韓国では明成皇后弑害事件と呼ばれる。日清、日露戦争と密接に関わるものであるにもかかわらず日本国の関与も実行犯も不明で日韓の学者の見解も裁判所判例も合致しないまま、日本人のほとんどは知らず韓国人は誰もが知っているというものです。

この事変の真相を知る手立てはなさそうですが、韓国人の大多数は日本国の関与ありと信じている、それが嫌日の一因であり朴大統領が従軍慰安婦問題でああいう形になってしまうことの遠因の可能性もある。そのことを知らずして腹を割った会話もビジネスも成り立ちません。まして事変そのものを知らないのでは話にも何にもなりません。我々だって日本が被爆国であることすら知らない外国人と真面目につきあいたいとは思わないでしょう。

米国で広島カープファンだと言うと相手がほんの微妙に引いたスタンスになることがあって、ああヒロシマと響いたんだなと合点しましたが、そういう人には理性と親近感を感じたものです。彼が投下したわけでもない、ただその国民として一人の人間としてまともな感情があって、それは同じ人間であるこちらと変わらない。そこから話はスタートするのです。

今回の出張は自由時間が皆無で昼食も落ち着いてとれずに忙しい3日間となりましたがビジネスとはbusiness(=busyなこと)ですから仕方ありません。帰りにガラガラの空港免税店で土産のノリを買ったら、そんなに買ったわけでもないのに店員さんに感謝されておまけをたくさんくれました。ありがたいがそれもビジネスマンとしてはどこか寂しいことです。早く騒ぎが収まることを願っております。

 
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急遽ソウル出張となるの巻

2014 SEP 25 1:01:05 am by 東 賢太郎

ミーティングしたいから来いというということで急遽ソウルまで飛びました。片道2時間とはいえ、最近は一泊で海外というのはちょっと体がしんどいですね。飛行機が嫌だし。帰りは台風でフライトがキャンセルかもしれないとおどかされましたが、基本晴れ男なので無事帰ってきました。2時間のプレゼンテーションはにわか作り資料でアドリブになりましたが・・・。

政府レベルではもめていても民間レベルでは関係ありません。僕は韓国料理は何でもOKですが、昨晩はSMC三田君と明洞(ミョンドン)のブデチゲ(部隊鍋)のうまい店へくりだしました。朝鮮戦争で米韓の兵士がお国の材料を出し合ってできた友情の鍋料理というふれこみで、C級メシですが僕はこれが好物なのです。特にインスタントラーメンが入る庶民性がいいですね。あと脂のしたたる豚ロースの焼き肉を野菜で包む料理。辛みそとネギと生ニンニクをあえていただきますが、牛より美味。元気も出ます。

5年前までであればここから2次会、3次会にくりだすのが定番でしたが、さすがにもうぜんぜん気力なし。長年僕を知り、昨年あたりまではそんなはずないでしょと引っぱっていってくれた三田君も最近は老体を気遣ってくれて大人しくホテルへ戻ります。けっきょく部屋で差し入れワインなど3人でいただいて酔っぱらって終り。慎ましいものです。それでも弱いもんで酒は今日まで残りましたが・・・。

前にも書きましたが、僕は韓国では完全に韓国人だと見られるのでスチュワーデス、ホテルのレセプションのお姉さん、食堂のおばちゃんを問わず、100%韓国語で話しかけられます。例外これまでになし(すごい)。そうでないのは僕が知られている某社の中だけです。最近はもう開き直っていて、ハングルで話しかけてきたホテルのラウンジの女性に「韓国人にみえるでしょ?」(えっという顔)「は、はい、そうですね(日本語)」(はにかんだ笑顔)というソフィスティケートされた会話を楽しむレベルに至っております。

台風が去ったのは良かったのですが帰りの飛行機はいつもながら気が重く、ヒッチコック・サスペンスの「ダイヤルMを廻せ」で気を紛らわすことに。ところがこれが大変に面白く、110分ものなのでいい所で羽田に着いてしまいました。残念!と思いましたが、何事もなく着いたのでこれはラッキー。しかも停止するまでずいぶんかかり、ねばって見ていたら映画もめでたく終わってますますラッキー。いい一日でした。

 

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