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カテゴリー: ______体験録

ドイツが好きなもう一つの理由

2017 FEB 9 18:18:07 pm by 東 賢太郎

留学、ロンドンの8年を経て日本に戻り2年たった1992年5月、37才の時のことだ。フランクフルトへ行けと辞令が出た。やっと巣鴨に落ち着いてロンドン生まれの娘2人もおじいちゃん、おばあちゃんになついていた矢先だ。フランクフルトは当時強力なドイツ連銀があり、いまも欧州中央銀行、ドイツ4大銀行本店がある欧州金融市場の要だが、証券市場としてはメインストリームではない。ドイツ語も第2外国語ではあったができないし、MBAまでとってどうしてという気持ちもあった。

会社を辞めようか?

まじめにそう考えた。ロンドン時代に某有力外資にけっこうな年俸で誘われている。引く手はあった。

結局そうしなかったのはまだ若かったのと野村が好きだったからだ。行って辞めてもどうにでもなるさ、よし行こうと意を決したもののドイツ赴任そのものに意欲が出たわけではなくまったくの受け身の気持だった。フランクフルトに飛んでオフィスに行ってみる。1000人の大拠点であるロンドンから見ると甚だうら寂しい都落ち感があり、中小企業に再就職したようでああこれで俺も終わりかなと思ったものだ。

しかもドイツ拠点の現法のステータスは銀行(ノムラ・バンクGmbh)である。ゲシェフツフューラーなる社長は要は「頭取」であって本社の辞令など関係なくドイツ銀行監督局の承認がないとなれず、それには1時間ほどのドイツ語による口頭試問がある。そんなものを僕が通るはずもない。結局1年間はぶらぶらして見習いでドイツ語を覚えるみたいなものだった。試験に合格して社長に就任したのは38才のときということになる。

さて人生で初めての社長の椅子に座ってみる。気分は悪くない。ところが、目の前の50がらみの白髪の部長の顔には「ドイツ語もできん若造に何がわかるのかね」と書いてあった。おっさんは仕事もしなかったし英語もおそろしく下手だった(彼の言葉をしゃべらないこっちの責任だが)。ドイツは労基法の壁が厚く英米と違いプロ職もリストラは難しく、引き継いだ幹部社員の任免権が事実上ないのは新首相が組閣できないようなもので、新任のマネジメントとしてカラーが出せず非常に苦しいのである。

彼はシンジケーション部長だがまったくヒマだった。言い分があって、「社長が東京から引受玉を引っ張ってこれない無能だから俺は暇なんだ、当たり前だろ?お前のせいだ、首にはできないぜ」ということだ。難敵である。命令を下して動かすしかなかったのでやってみると、ドイツは上意下達意識の徹底した国であって「命令の威力」は予想外にあることがわかった。上官の言葉は絶対であって、だから労基法が強いのだ。首相を縛る憲法の役目だ、首相権限が強い分だけ壁も厚いということだろう。

こういう立場に立つと年齢差は関係ない。「俺の言うことを聞け」とあれやれこれやれと頭ごなしに野村流に命令した。こっちは暇人がオフィスにいるのが空気を乱して不愉快なだけであって、しょうもないことを命じた。嫌になってやめてくれればそれでいい。ところが彼はまじめに几帳面なきれいな字でレポートを書いてくる。しかも嫌々という感じでなく、くだらないことでも仕事は仕事だと半ば喜々としているようにも見える。彼だけでない、ドイツ人はそういうところがあると不思議に思った。

モンターク(月曜日)という姓の営業マンが実に不調な時期があり「今日からゾンターク(日曜日)に名前を変えろ」と励ましもこめて罵倒したが屁の河童である。ところが、来週までにこれをやれ、やらんかったら席次を落とすぞと脅かすと必死にやる。クビじゃないからそれはできるわけだ。要は、軍隊調でいいのだなと心得た。日本人は僕に逆らう奴などいないし、体育会調ということだから何の抵抗もなく水を得た魚だ。いま思うとぞっとっするほどひどい経営者だった。

ただドイツ人にも一部オカマっぽいのやオタク風がいて、これはだめだ。それが通じないし反発を買うだけであったからむしろまともだったということだろう。しかし営業部門は気質が合う連中が多く、滅茶苦茶な社長に反乱も起こさずよくぞついてきてくれた。ドイツ拠点として空前絶後に違いない400億円の新発債も全員で売り切って、まるで弱小校が甲子園で優勝したみたいなお祭りムードになった。おっさんもゾンタークも獅子奮迅の大活躍をしてくれた。若葉マーク経営がうまくいったのはドイツの軍隊調と僕の体育会調が奇跡的にシンクロしただけでたまたまだが、皆さんもボーナスが大いに増えて喜んだからこの2年間は結果オーライだった。

ところがうまくない部分もあって、その営業部門に当時ドイツでもハシリだったと思うが大卒エリート女性を採用した。彼女は美人で賢かったが、軍隊調がさっぱり通じない。逃げるわけでなく淡々と「ヴァルーム(なんで)?」とくる。男なら「うるさい、じゃあ何でお前はここにいるんだ?」で終わりだが、女のオーラにあたって女性参政権とか男女雇用機会均等法とかの言葉が頭をめぐりはじめ、言えない。ここは戦場だよ、「撃て!」にいちいち説明なんかないでしょという全体観がないのである。

女性は頭が柔軟で勘が鋭く、人の本性を見抜くのに優れている。しかしそれを知るには当時は若すぎた。男も女も体育会もオカマもオタクも適材適所があるのであって、それをうまく配置するのが経営だ。ところが男女雇用機会均等などと杓子定規に義務付けられるとその自由度が減る。無理して入れられた方も不幸である。プロ野球選手に女性を入れろはさすがないだろうが、程度の差だけであってそういう性質の男の職場はあると思うし、そこではれ物に触るようにお姫様を置けというのは経済効率を損なうだけでナンセンスではないか。

僕はドイツの80人を皮切りに海外で140人、500人、日本に帰って120人、20人、50人、100人、250人のいろんな集団を指揮させていただいた。企画室や調査部という完全な文化部的組織もあったしほとんどが銀行出身者という僕にとっては別世界の組織もあった。その結果として、真の意味で目が行き届いた適材適所の組織というと50人が上限というのが実感である。さらに少なければ少ない方が良い。なぜなら一人の分け前が増えるから、よりインセンティブが高まるからだ。

人には2種類あって、もらった仕事だけする人と、もらわなくても仕事を作る人である。ステークホールダーに例えるなら前者はボンドの、後者はエクイティのホールダーである。後者だけ10-20人が僕の理想だ。分け前が多いのだからのりしろのある人がもっと創造的に働く。指揮者は適材適所ができる。2重の強みがあるのだから組織、株主にとっても社員にとってもベストなフォーメーションなのである。

そういうことは野村ドイツの社長業で学んだことがベースになってこそわかったことだ。価値は無限大だった。30代でそんなことを体で覚えるなんて大企業のオーナーの息子でない限りあり得ないだろう。音楽のことばかり書いているのでバイロイト音楽祭やらラインガウ音楽祭やらで浮かれてたみたいだがそうではない、こういうことが起きていたついでにそれもあった。音楽経験の充実ということでもフランクフルト時代は人生最高だったが、初めて社長という名刺を持って店を背負ったという意味で職業人としてのベンチマークであり、経営を覚えたのはここなのである。

あそこで会社を辞めていたら以上は全部なかったことだ。人生、何が幸いするかわからない。何度でも繰り返すが、野村證券は本当にすごい会社でその海外部門は米軍なら誇り高きマリーンであったと思う。入れていただいたことを心より誇りに思う。

(こちらもどうぞ)

フランクフルト空港の謎

世界のうまいもの(7) ― ドイツのビットブルガー ―

 

 

 

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ジャガー・ルクルトのレベルソ

2016 DEC 23 0:00:26 am by 東 賢太郎

ロンドンの金融街シティをサヴィル・ロウの老舗仕立て屋ギーヴズ&ホークスのスーツを着てチャーチを履いて闊歩するともう気分はにわか紳士だ。まったく柄にもない、今思うと田舎の成り上がりもんで恥じ入るばかりなのだが、服装の流れで自然とウォッチが欲しくなった。留学を終えて赴任したばかりの二十代だ、給料なんて二束三文である。そもそも米国ではマックも食えなかったのにチェロを大人買いしてなけなしの貯金は使い果たしていた。

シティのはずれにあった宝石屋マッピン・アンド・ウエッブは入るだけで敷居が高かった。おそるおそるのぞくと、お目当てのそれは凛と涼しげな風情でケースの中から柔らかい高貴な光を放っていた。僕はその姿をコヴェント・ガーデンで見た魔笛のプログラムにブロンド美女と一緒に写っていたおしゃれなアドで知ったのだ。絵にかいたような一目惚れである。1985年のことだ。

jaegerそれはジャガー・ルクルトのレベルソなるリバーシブルのウォッチであった。このメーカーはスイスのル・サンティエに16世紀に逃げてきたユグノー教徒末裔のルクルトがパリで海軍の時計を製造していたジャガーと創始した最高級の時計メーカーで、400の特許を持っている。二人のイニシャルが合わさったロゴ(左)が見えない正三角形を成す造形センスが象徴するようにデザインも抜群にいいのだが、それよりもなぜ僕として数あるスイスのブランド時計屋で最高級と評したくなるかというとメカと補修に対する偏執狂的なまでのこだわりが感性に合うからだ。

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例えば右はアトモスという置時計だが動力は何もいらない。はるか後にスイスで入手した際に「1日の気温差が1度以上あれば動きます」というので「じゃあ南極でも動きますか」ときいたら「ええ、凍らなければ」だ。「で、何年動きますか」「200年」ときてそれ以上質問が浮かばなくなった。あれからとりあえず20年だが、たしかに問題なく動いている。マニアックな名器だ。

さて初めて足を踏み入れたマッピン・アンド・ウエッブで柄にもない大人買いをしたのはレベルソのピンクゴールドだ(下がその表と裏)。ポンドが250円のころで円ベースで70万ぐらいだった。昨今この時計はそこらじゅうで有名になってしまって面白くない。ことに芸能人に人気らしく嵐の誰それもご愛用らしいが、当時は誰も知らず飲み屋で裏返してみせると瞬間芸にはなった。同じころに東独August Förster社製のアップライト・ピアノも買ったもんだから家計は火の車だったろう。こういうことで好き放題やって家内には面倒をかけっぱなしであったが、こうやって常に背伸びをして生きてきたから背はちゃんと伸びたんだということにして許してもらっている。

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レベルソは僕の人生で背伸びの第一歩であったから特に思い出深い。掘ってもらったイニシャルのKAは息子も同じだから与える。まあしかしこんなのは序の口で、その後ポルシェより高いオーディオ、箱根のでかい地面を経て家の建築へとつづく。誤解を避けたいが余資があったことなどない。いつも買ってしまってからどうしようと焦り、その最たる家はデフレのさなかに年収**年分の大借金を背負うというファイナンス専攻のMBAにあるまじき事態を伴った。この性格は何があろうと変えられないからあのままサラリーマンしてたら即死だったと思うとぞっとする。物体として買いたいものはもうない。次はたぶん会社かなという新年を迎えそうだ。

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どうでもいいことの排除(今月のテーマ:インテリジェンス)

2016 DEC 16 17:17:33 pm by 東 賢太郎

断言するが、テレビが日々ばらまく情報というのは皆さんの生活において99%はどうでもよいものである。僕は海外族で日本のテレビを16年間も見ていないが、それで困ったり損したり日本人として知らずに恥ずかしい思いをしたことなど一度もない。

株式投資をした人ならわかるが、テレビのニュースで流れる情報で株が上げ下げするなど100%あり得ない。つまり何の経済的価値もないのである。もとよりそんなものに知的価値、学問的価値など存在しないないのだからヒマ人の茶飲み話のネタができるぐらいのことであって、知ってお得なことは何もないのである。

きのうクラブのゴルフ好きの女の子が「うまくなりたい」というので教えた。右側が林だとか、目の前から100ヤード池だとかは「情報」だよね?キミのドライバーは180ヤード?じゃあまっすぐ打てば林の存在も池の存在も「どうでもいい情報」でしょ?それを心から消さないから何の意味もないミスショットが出るの。つまりどうでもいいものを意図的に心から消す訓練をすることが重要なのよ。

ライ見てる?100回あったら100回違うでしょ?芯で打たないとちゃんと飛ばないでしょ?だから、これ、ものすごく大事な情報。練習場は毎回同じでしょ?だからラウンドしないとだめ。で、ミスしたらなんで?と考えてる?考えてないでしょ?だから君は100切れないの。飛距離の筋トレ?コース戦略?そんなの君にはぜんぜんどうでもいいの。

こういうとだいたい目が点になってしまう。僕はプロでも何でもないが、しかし、以上の2点だけ、つまりどうでもよくてむしろ有害な情報の意図的排除と、決定的に大事な情報の重視と訓練だけで誰にも教わらずにシングルになったから正しいと証明されている。こういうものを情報(インフォメーション)ではなく諜報(インテリジェンス)という。

僕は猫と一緒に育っており、もとより猫型人間でもあったのだろう、そのせいでそう考えるようになったような気がする。猫は日夜かけずり回ってエサを探すとか犬みたいにあさましく尻尾をふって媚びを売るとかは馬鹿だと思っている。獲物を待って瞬発力で1,2秒でつかまえるのが楽でいい。

だから予習復習とか筋トレとか朝練とか、そういう日々コツコツや根性論的な訓練が嫌いになった。日本人にあるまじき非農耕民族的性格となってサラリーマン社会の集団農作業みたいな文化にアホらしくてついていけなかった。子供時分にそれを見抜いていた母親がこう育てた作品かもしれないが。

誰にもお勧めする性質のものではないが、ゴルフや受験や成果主義の仕事にはけっこう効果の保証できる方法ではあると信じている。

(ご参考)

情報と諜報の区別を知らない日本人

僕のゴルフ修得法

 

 

 

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畏友・中村とカープ・黒田に

2016 NOV 6 13:13:45 pm by 東 賢太郎

ありがとう。

9

黒田の投球を球場で見たのはたった一度だけ、去年の7月1日、東京ドームでの巨人戦のことです。中村から急に「チケットがあるんだよ」と電話があったのでした。

どういうわけかあの日、もう黒田を見るのはこれが最後かなと思っていて、彼の一球一球、一挙手一投足、ボールの握りまで目を凝らして観て、歓声の轟く中で中村にそれをああだこうだと大声でいちいち伝えて、最後はサヨナラ負けしたけれど「すごい試合を見たな、こんなのはもう二度とないぞ」とふたりで感動し、あまりに万事納得しており、帰りに一杯やるかと言っていたのをやめて帰路について目黒線の大岡山で別れ、興奮冷めやらずアップしたのがこのブログでした。

黒田の投球を初めて見る(追記あり)

いま読み返してみて、最後に、

「結局、黒田一人対巨人軍ベンチ全員となって、負けた。だから結果はいい。わかる者には黒田がいかに凄い勝負師かが目に焼きつきました。20億円もらう男は違うんですよ。3千万円ぐらいのやつらにわかるかどうか。これを見てカープの全員がどうするか。そこですね。」

と書いてます。そうだったんだ。まさにそこだったように思います。それが去年はわかっていても出来ずに屈辱の4位だったけれど、今年に一気に花咲いての優勝だったのではないでしょうか。黒田の背番号15が永久欠番、当然のことと思います。

あれから1年4か月。10月25日の日本シリーズ第3戦、黒田が人生最後の登板を終えたその翌日が畏友の告別式でした。

 
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畏友、逝く

2016 OCT 21 5:05:26 am by 東 賢太郎

なんか悔しくて、
よくわからない、眠れない
なぜ、君みたいないい奴が、
俺は何に怒ればいいんだ

京都の春は2度、ほんとに行ってよかったなあ
こんな桜もおどりも初めてと喜んだが
その喜び方が、そのすなおでポジティブなこころが、最高だと思った

去年8月九州を旅したばかりだ、嬉野、有田、吉野ケ里、博多、大宰府
楽しかった
どこで何してどうしたかって、会話だって覚えてるぞ
あれは7月に急にヤフオクで野球見ようといってきたんだ
あれはなんだったんだ、腰が痛いのに

あれでよかったのか

あたまが深くて、つよいな
これはかなわない、といつも思ってた
でも、好奇心も探求心も博識も、話し相手は君しかない
あったかくて、人肌があって、こころが空みたいにひろい
俺の勝手もめちゃくちゃもなんでもいったんのみ込んでくれた
そういう人といると安らぐんだ、不安だらけだから

みずほに移らせていただくことになって、最初の日だった、
ファーストスクエアのロビーで、忘れもしない、
あした夜いけないかと
はじめて声かけてくれたのは君だ
送別会かなにかがあって、すいませんといったら
そうか、東とは飲めないのかなあ、とちょっと残念そうにいった
あのひとなつっこい笑顔で、なにかすっと新しい職場に入れそうな,

どれだけ初見参にのぞむ新入りの気を楽にしてくれたか

君はそういう人だ

仕事は引受とシンジケーション、ずっと緊密なパートナーだったね
こっちは優秀な3行のバンカーのみなさんに後押しされただけだった
後日に君のブログの博覧強記と強靭なセンテンスを見ることになって、
わかった気がしたよ、こんなすごい人たちだったのかと

君の外国旅行記を読んで、
行った先々でこんなに物事をすぐ学んで帰ってくる人なんて知らない
足元にもおよばないといつも口惜しかった
そういう人が幾人かいたが、君はまさしくその筆頭だ

ゴルフは何度か行ったね
絶対勝つつもりだったが、
どうも調子がおかしくて負けた
どこかにスコアカードあるぞ、見たくないけど

そうやって仕事も遊びも、大みずほに引き入れてくれたのは君だ

それがなければ人生変わっていたかもしれない

そうしてちっぽけな会社を作った俺を当時となんの変りもない目で見てくれてSMCにはいってくれた

それがどれだけうれしかったか

君はそういう人だ

きのうブログをぜんぶ読みかえした

ちゃんと声が聞こえてくる

今日もう一回読みかえす

千年残してやるからな

でも中島さんのコンサート、おい、あれが最後ってのはないだろう

 
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クラシック徒然草―ミュンシュのシューマン1番―

2016 OCT 2 15:15:41 pm by 東 賢太郎

アメリカに住んだ2年間(1982-84)というのは僕のクラシック・ライフにとって危機だった。フィラデルフィア管を聴いたりオーマンディーやバーンスタインやチェリビダッケに会えたりといいこともあったが、とにかくMBAの勉強というのは朝から夜中まで殺人的に激烈で、時間もないし心の余裕なんか微塵もない。最初は英語がさっぱりで授業についてさえいけず、発狂寸前だったと書いてちっとも誇張ではない。

野村證券は当時からハーバード、ウォートン、コロンビア、スタンフォード、シカゴ、MITなどのMBA取得者がごろごろいて、金融界最高峰であるウォートンの入試になんとか合格はしたものの渡米前にそういうこわい先輩がたに散々脅かされた。それも「お前、落第などしたら一生の赤恥だぞ」「また支店に戻すからな」なんてドぎつくだ。人事発令があった当初は、ビジネススクールなんてタイプライターの練習でもするんかいとお気楽トンボの無知であった僕は、それで一気にシベリア出征する兵士の悲愴な心境となっていた。

当時、社則で社費留学資格は独身ということになっていた。留学したいと挙手したわけではなく突然の社命だったのでこれは調子悪かった。梅田の寮生活が2年半あってそろそろと思っており、2月の結婚を決めてしまった。先日先輩のご令息の結婚式があって、イケメンの彼はコロンビア大学のMBA留学が決まって「アメリカに一緒に行こう!」がプロポーズだったそうだが、こっちはそんなカッコいいもんじゃない、家内には結婚して一緒に行ってくださいとお願いしたのであり、その先には人事部長へのお願いという難事が立ちはだかる綱渡りだった。このお願いが通ったので社則がかわり、野村の若手ホープであるご令息はプロポーズできた?ということになるのを彼は知らないだろう。

そんなドタバタだったからアメリカに送る荷物にLPレコードを入れようなんて発想は出ようもない。認めてやるから最初の半年は一人で行けという会社の妥協的お達しで新婚もへったくれもなく単身赴任、しかも大学院の寮で米国人とルームシェアだったから音楽なんてきけない。これは参った。授業はわからないし予習復習に追いまくられてマックで外食する時間も惜しく、毎日自炊?でラグーソースをぶっかけたスパゲッティで生きのびていた。心身ともに栄養失調でふらふらだった。

やっと半年たって家内が来てくれて生き返った。部屋は家族用の寮に引っ越した。しかし勉強はますますハードになってきて毎日図書館にこもって猛勉強で、深夜0時に来る校内警察のパトカーで帰宅していた(そんなに治安が悪かったのだ)。そうこうして、やっとなけなしの貯金で念願のオーディオ(安物のカセットプレーヤー)を買った。ダウンタウンのサム・グッディというレコード屋に毎週末しけこんで飢えた狼みたいにカセットテープを買いあさった。これと家内がつくってくれる日本食でなんとか発狂と餓死だけはまぬがれたというところだ。

しかしだ。店頭に並んでいるカセットのレーベルはというとCBSやRCAやVoxなど米国ブランドばかりで、英国のEMIとDeccaは少しあったがDGなどドイツ語圏レーベルはほぼ皆無だった。なるほど、これが「米国市場」というものなのか。指揮者はトスカニーニ、ストコフスキー、ミュンシュ、ライナー、セル、ワルター、オーマンディー、ショルティ、ラインスドルフ、スタインバーグ・・・おいおいドイツ人はどこだよ?おれはドイツ人がやったベートーベンが欲しんだ。

欧州から呼んだり亡命してきたりした彼らはいわゆる「外タレ」軍団で、彼らが振った米国のオーケストラのレコードを「本場もの」として付加価値をつけて売る。そうやって米国市場は「閉じて」おり米国資本が潤う仕掛けが出来上がっていた。それは英国もそうで、フルトヴェングラーやカラヤンに英国のオケを振らせたのだが米国は亡命ユダヤ人に強みを発揮していた。ドイツ語を母国語とするオーセンティックな巨匠がベートーベンやブラームスを本場流に聞かせる、そこに価値があったのである。

余談だが、そうやって拡大したクラシック米国市場は情報・メディア・テクノロジーを牛耳るユダヤ産業であり、外タレにドイツ人がいないのも道理であった。ナチだったカラヤン招聘など論外であり、真偽はともかく反ナチといわれたフルトヴェングラーはドイツ系に熱望されたがユダヤ勢力に潰された。クレンペラーは首尾よくシェーンベルグもいたロスに呼んだが、あいにく彼はチープな米国文化が大嫌いだった。そこで産業が熱望したのは米国国産のユダヤ人のスターだ。それがレナード・バーンスタインの正体である。

ふたりのユダヤ人、ワルターが持ち込みアブラヴァネルがユタで全曲録音したマーラーの交響曲はバーンスタインの伝道で新たな「旧約聖書」となった。ドイツ音楽産業の本丸DGはLPの恰好な長時間コンテンツとして無視できなくなったマーラーをおずおずとカラヤン、イタリア人ジュリーニ、はたまた極東の小澤に録音させた。遠巻き作戦を転換してウィーンフィルによるバーンスタインのマーラー録音に踏み切ったのは、バレンボイムがイスラエルでワーグナーを振ったぐらいの歴史的事件だ。僕はVPOのヴィオラ奏者から「マーラーはバーンスタインに教わった」との証言を得た。それがいい口実になったということだ。

英国EMIはフィルハーモニア管を人質に差し出して米国を逃げ出したクレンペラーを囲い込み、マーラーの弟子としてワルター、バーンスタインの向こうを張らせにかかったが、彼のマーラーは辛口で大衆うけせず、審美眼から駄作は振ろうともせず、結局は旧約聖書ビジネスとしてはうまくいかなかった。米国・ドイツの狭間でユダヤ資本を巧妙に抱き込んで立ち回る英国の政治経済でのずる賢さをここにも見るが、それがいつもうまくいくわけではないということだ。ちなみにその近年最大の失敗策がEU離脱国民投票実施の愚だったのである。

閑話休題。

ところがフィラデルフィアはイタリア系移民が多い街だ。ドイツ物の需要はさほどでもなくストコフスキー、オーマンディーに独墺のイメージは薄い。だからナポリ人のムーティ―が後任にうまくはまったがサヴァリッシュはいまひとつだったのだ。ムーティーはドイツ物音痴ではないが僕が定期会員だった2年間、あんまり取り上げなかった。「サム・グッディにドイツ語圏レーベルはほぼ皆無だった」のは理由があったわけだ。マーケティングの生きた勉強にはなったが、部屋のカセットは増えてもドイツ人によるドイツ物への渇望はちっとも癒えない。そうでなくても僕のチェコフィルやDSKを好む東欧趣味は既に確固としてできあがっていたものだから、ドンシャリのアメリカ流の安っぽいブラームスなど歯牙にもかけたくない上から目線ができてしまった。

51npsfxd1el-_sx425_そういう飢餓感のなかで、オイゲン・ヨッフム(!)がバンベルグ響(!)を連れてきてやってくれたベートーベンのPC4番(娘のヴェロニカのピアノ)と交響曲の7番、アカデミー・オブ・ミュージックの忌まわしいほどくそひどい音響にもかかわらず、かつてこんなに渇きをいやしてくれたコンサートはなく、まさしく絵にかいたような砂漠のオアシスであった。ドイツ物タイトルを買い揃えていたらシューマンのシンフォニーで、米国のオケではあるがとてもドイツ的な音と演奏の楽しめるものを発見した。セムコウ/セントルイス響の全集がそれだ。感涙ものだった。本当にお世話になった。

6700247そしてなんといっても毎日のように聴いて格別に思い出深いのはミュンシュ/BSOの1番「春」だ。これは本当に素晴らしい。ラッパがあっけらかんと明るいが、ミュンシュはそれを逆手にとって終楽章のトランペットの合いの手、パラパパパパの軽妙なリズムを浮き立たせて個性としてしまっているからしたたかだ。それが耳に残って離れないから作戦大成功だ。こういうきわめて特別(occasional)な思い出と一体となった音楽の記憶は一生ものなのだろう、聴くとちょっとしたフレーズの特徴にでもあの頃を思い出すが、それは昭和の歌謡曲で学生時代が目に浮かんでくるのとなんらかわりない。この演奏はアメリカのオケ=チープという、今思うと大きく見当はずれの偏見を根底から払しょくしてくれた恩人のような存在で、本稿に縷々書き綴った我が若き日の物語が詰まったものだ。いま我が家の装置で鳴らした堂々たるボストン・シンフォニーホールの音響は、当時のカセットの貧しい音からは想像もつかぬ、有無を言わせぬシューマンの音である。ミュンシュという人はスタジオ録音でもライブのような棒であったとみえ、アンサンブルはテンポの変化でやや乱れたりするがそれが魅力であったりもする。僕のような思い入れがなくとも、当時のボストン響は非常に優秀でありこの演奏も活気に満ちた名演となっている。これをぜひ聴きいただきたい。

 

ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(2)

 

 

 

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本音で生きる

2016 MAY 13 2:02:16 am by 東 賢太郎

本屋に行く時間がなく、たまに飛び込んでは目についたのを5,6冊バサッと買う。最近は子供(もう大人だが)が読むだろうという軽いノリが、面白いので自分が読んでしまうのもあり。

ホリエモンこと堀江貴文氏の「本音で生きる」がそれ。こういうブログを書いたら、

ソナー・ファイル No26 (お金がないと起業はできません)

その本には起業にカネはいらんと書いてある。なになにと思ってめくるとなかなかもっともである。

基本的に僕と違う人だが、共通するところもすごく似たところもある。最大公約数の秀才なんかよりよっぽど楽しい。

・結局、言い訳して行動しない人間は「暇」なのだ

・時間は誰にも平等に有限

・うまくいく人は「やるか」「やらないか」それだけ

・本当にやりたいならリスクは考えない

・小利口が一番よくない、動けないのは自分の小さなプライドを守るため

・他人は誰もそんなに自分を見ていない

まったくそのとおり。情報は覚えるな、浴びろ。アウトプットしまくれ。量が質を作る。これも同感。

プライドを捨てると人生変わる、これはこの5年でわかった。会社はトイレの掃除まで自分でする。そういうことは人生の辞書になかったが、別になんのことはないかえって辞書が厚くなる。

つまらないプライドなど、どうせ誰も見てないそんなものを後生大事に守って死んだら実にくだらない。便所掃除ができたら怖いものはない。そうすると何げなくできることが増えてしまい、それでこんなに楽しい時間を過ごせている。

サラリーマンというのは基本給が同期より500円多い少ないで一喜一憂するよう会社に洗脳されている。会社の階段登りには大事でも人生には全くどうでもいいプライドだ。定年になって階段が外れてもそれに人生を支配される人が多い。

できないことはアウトソース、これは勉強になった。全部やりたいタイプだがもうそんな時間はない。自分の得意を磨く、といってその時間もない。だからできることだけやって、あとは人にまかす。まかすというのは実は一番難しいが。

 
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僕が出会った人生最高の男

2016 APR 13 22:22:58 pm by 東 賢太郎

サムライは日本にしかいないことになっているが、そんなことはない。

野村香港に赴任して、偶然にその男と出会った。1998年のことだった。大柄なスコットランド系のオーストラリアンで、英国にもスコットランドにもわりあい冷淡な男だった。年は7つ上だ。地元の新聞の記者をしていて株に興味を持ち、香港にやってきた。そしてクロスビーという証券会社を作って大きくして売った。次いでクレディ・リヨネというアジア株など全く門外漢のフランスの銀行の役員会に乗り込んで大立ち回りして香港に証券子会社を作らせ、それの社長になった。それが僕の赴任した当時、アジア株式業界で最も幅を利かせていたCLSAという会社だ。

50歳を目前に彼はCLSAをリタイアしていて、保有株はゴールドコーストでゴルフ場まである広大な牧場に化けていた。サラブレッド50頭のブリーダーになりホンコン・ジョッキークラブ(香港競馬会)で走らせる余生の計画だったのだ。やがてその夢はかなったのだが、しかしその時は邪魔が現れた。あなたの「3回目」のアジア株業務の立ち上げに一緒にたちあわせてくれ、馬なんか60になってもできるだろうと僕が口説いたからだ。何度会ってもけんもほろろに断られたが、10回目ぐらいに会ったときだ、「お前のホビーはなんだ」ときかれた。間髪入れず「ゴルフだ、ハンディは10ぐらいだ」と答えた。当時10なんてない、大ボラだ。でもあそこで日本人らしく律儀に23ですなんて答えたら終わっている雰囲気だった。でっかい手の男だったが、それで初めて、ぎゅっとくる握手がかえってきた。

香港証券界の伝説的大物だ。言い値を覚悟してたら、言ってきた条件(給料)はえっというほど少なかった。カネはもうある、でもお前はおもしろい奴だ、信用するよと。そうして、目をじっと見て、This is absolutely my last job.といった。そこから始まったいろんな顛末は限りがないが、内部事情を書くことは控えたい。いわば本邦企業のグローバルチャレンジ物語の縮図であり、小説より奇なりの展開があり、日本企業としてはそういうことに手練れのノムラでもそうだったということであり、うまくいかなかったのは万事を併せのむべき司令長官としての僕の器量不足、実力不足に尽きる。

本当に男らしい男だった。あとにも先にもいない。絶対に逃げない。ゴールを決めたらテコでも動かない。いいわけしない。陰口をたたかない。ルールは守る。これはだめだと言うと、お前の言うのはルールにないからルール違反はお前だと柔らかくたしなめる。アジア株を世界に売る仕組みをゼロから作る経験を当時彼以上に持っていた人間は地球上に誰もいない。そういう行動は強いプライドとリーダーシップの裏返しだった。業界新参者の日本企業のリクルートに応じてくれる者は限られる。来ても大枚をふっかけられる。レベルは雑多だったが、彼がいたから採れた者が多くいた。

当時の僕は負けないぐらいプライドの高い日本軍の司令官だった。彼の率いる50人の英米軍は計ってそれをぶち壊しにきた。クリスマス・パーティーだ。僕が舞台にでる余興があるよと聞いていてジョークのきいたスピーチぐらいすればいいだろうとなめていたら、直前にオカマをカミングアウトしている奴が「女装しろ」ときた。我ながらおぞましい化粧までされ、目をつぶってろというのでそうしていると爆笑と口笛の渦だ。オカマがキスしようとしていてのけぞった。そして親玉同士がぼてぼての相撲取りの着ぐるみで本当にすもうをとらされ大喝采のおひらきとなった。

ゴルフは彼は凄くうまかった。格好良くはないがシュアなスコアメーキングができたのだ。だいたい彼の牙城である香港ゴルフクラブ(ファンリン)で奥さんも入ったりしてなごやかだった。最初はなめられていたが、香港地下鉄公団主催の80人ぐらいの金融機関コンペで僕が82ぐらいで個人優勝したら認めてくれた。彼の元同僚とつるんでブリティッシュルールで僕をへこましにきたが、賭けに大勝ちしてさらに認められた。転勤辞令が出ると、葉巻をくわえゴルフクラブと野球のバットをもった似顔絵をプレゼントしてくれた。その送別会は「ロスの大手投資家の会長が急に来た、すぐ同席されたし」という緊急メッセージを装って僕をだまし、サプライズで喜ばせてくれた。

あれに成功した夢をいまでも見ることがある。凄いことになっていて、世界のノムラなんてもんじゃない、世界の証券界の帝王だ。そのチャンスはあの時だけはひょっとして本当にあったかもしれず、もし会社が僕より有能な人をあそこで起用していたらと今でも悔しく思う。会社にもそうだが、それが本当にlast jobになった彼にはことばもでない。馬なんか60才でやれよとそそのかした僕は後悔することになった。彼は還暦の4年前に亡くなってしまったからだ。

早すぎる訃報は神田の寿司屋の2階で、苦労を共にした後輩の口からきいた。絶句してぼろぼろ泣いた。ジム・ウォーカー、あんな男気のあるいい男、いやサムライに会うことはもうないかもしれない。彼は僕に勝ち方と負け方と、オトナの男の責任とはなにかとを教えてくれた。信用に応えられなかった僕は負け犬になった。僕が60になっても馬みたいなもんに走らないで株をやりたい、やっていたいのは、それにまだ応えていないからだ。

 

うまくやってね

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もの忘れ(その2・実践編)

2015 DEC 25 23:23:55 pm by 東 賢太郎

きのう「もの忘れ」の記事を書いた。そうしたら今日、ある会社さんの支店にハンコと通帳をカバンごと忘れてきた。実践編であった。信頼できる担当者のLさんがすぐ電話をくれて自宅に届けてくれたのでよかったが、もう我ながらどうしようもない。

ハンコをついたらその瞬間に次にやらなくてはいけない仕事に頭が100%行ってる。だから僕はそういうものを持つべきではないし、もともと自分を信用してないからなるべく信用できる人にまかせたい。

今日はもうひとつ仕事があったわけだが、その二つを終えれば今年は終わる。別途走っていた半年勝負の案件は今日、静かに決着した。これはソナーがいままで仕上げた最大のディールである。そして、10月に手帳に書いた「今やるべきこと」がやっと全部消える。

この1週間のあわただしさは半端でなく、過労死してもおかしくなかった。多くの方々のお力を借りて綱渡りの中を次々と、幸運にも助けられて、何とか切り抜けられるのかもしれない。これを間近で見ていたS君いわく「持ってますよ」だが、僭越ながら自分でもそう思う。

こういう時は麻雀でいうと単騎で5面待ちに勝ってしまう。最後の1枚の西単騎がオーラスで出てしまう。逆に何をしてもそんなのに振り込んだ時期もあったからこの勢いは絶対に消すわけにはいかない。

前も書いたが僕はツキのある人としかつきあわない。ツキはあげることもできるがもらうものでもある。それはつまらない手に振り込むと消える。だから何をしてでもそうするわけにはいかない。そのことの損得だけではないのである。だからこの1週間ほど、自分でも鬼気迫る状態にあったと感じる。

 
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ライオンはウサギを獲るときも手を抜かない

2015 DEC 8 23:23:10 pm by 東 賢太郎

野村證券という素晴らしい会社に入れていただき、そこで厳しく育てていただいたのが人生の幸運だったのですが、梅田支店で僕が尊敬するメンターだった土屋次長(のちの三洋証券社長)が、

「人の2倍ならやるな。足を引っ張られるだけだ。10倍やれ。誰も何も言わなくなる。」

と言われたのが忘れられません。

大学出たての若造にこんなことを教えてくれる会社があるでしょうか。それが頭に焼きついて、以来本気でそう思ってやってきました。普通なら若造が先輩の10倍やるぞなんて世界はないだろうし、そんな心意気を持っただけでもう足を引っ張られるでしょう。

ロンドンで日本株営業をしていた時代に「一銘柄で180億円買い」という注文を取りました。野村といえども大きな商いで、これが土屋さんへの恩返しでした。たしかに教えのとおり、それから誰も何も言わなくなりました。

ところが一方で、子供のころ親父に口癖のようにいわれた言葉があります。

「ライオンはウサギを獲るときも手を抜かない」

これと土屋さんの教えは一見矛盾するようであり、だから長らく僕はこれを忘れていたのです。会社を辞めて独立してから5年の歳月がたち、いまこの「ライオン」のほうの意味がやっと分かってきました。矛盾するのではなく、それをするから10倍できるのだということに。

血液型Aの僕はズボラに見えて、やろうと思ったことには尋常でなく細かいのです。普通は誰も気にしない細部まで徹底的に執着しますからB型、O型には一緒にやるのが耐えられないでしょう。それは親父の「ライオン訓話」による性格です。ブログはA型全開なので、これでしか知らない人は逆に僕がこだわりのない場面や分野ではいかに何も気にもしていないか驚かれるでしょう。

例えばゴルフは握り(ベット、かけ)に勝つことに全精力を傾注しますから、東はラウンド中ひとことも口をきかないというのは仲間内でジョークになるほど有名です。でも無駄口やらヨイショをしながらアバウトにやるなんてゴルフと思ってませんから気にもならない。

他人のプレーは、マスターズや全英オープンなどのTVも見ません。選手の名前も知らない。プロをいくら見たって僕のパットが入るようになるわけじゃなし、握りに影響のないことはどうでもいいのでそっちは極度にアバウトなんです。これに僕の万事が象徴されてます。

土屋さん方式ではウサギはいくら獲っても他人の10倍やるには効率が悪く、獲るに値せずとなります。そうするとアバウトな僕が現れてしまう。するとだんだん獲り方を忘れてしまっていざという時に腕がなまってウサギも獲れなくなります。そんなライオンは大物も獲れないのです。

「ライオンはウサギを獲るときも手を抜かない」

これは万事の基本中の基本です、親父は正しかった。それをしながら「10倍」を狙う目線をキープしておくこと。これは両立するし、そうでないと10倍は絶対にできません。大物は獲れるけれどもウサギはのがしてしまうようなライオンはいないということです。いえ、自分はウサギで満足です?そういう人が顕著に多いのが我が国なんです。ネズミでいいから毎日取りたい?そういう人はもっと多い。

クラーク博士のBoys, be ambitious!はだから発せられた言葉じゃないかと僕は思ってます。最近はboysより girlsのほうがよほどambitiousじゃないかと思う局面も増えています。

「人の2倍ならやるな。足を引っ張られるだけだ。10倍やれ。誰も何も言わなくなる。」

土屋さんは2倍のambitionはあると認めて下さったのかもしれません。そこでいただいたこの言葉、劇薬のような効果でした。目線をあげると色々新しい景色が目に入ってきます。

 

(追記、3月16日)

「ライオンに追われたウサギが肉離れになるか?」 (イビチャ・オシム、サッカー日本代表監督)

僕が言われたわけではないが、鋭い言葉です。肉離れで離脱する選手が相次いだ時にチームに発した警鐘だったと思います。「お前ら、たるんでっからケガするんだ、バカヤロー!」ってことですが、「そもそも死ぬ気でやってねーんだろ?」という強烈な叱咤が下地にあるのが怖い。いや、そう言わないのがエレガントだ。しかも、いけいけオヤジの精神論ではない、「一流選手なら自己管理ぐらいせ~や」というニュアンスなのがカッコいい。そして「それもできんお前は一流とは無縁だ」と突き放し、言ってることがわからん?なら頭も二流だぞという袈裟がけの切り捨て御免。オシムさん、すごい。この一言だけで知性とウィットが光る。くだらない質問をする記者に厳しかったそうだが、気持ちは実によくわかります。サッカーはあまり興味ないが、彼のファンです。

 

(こちらへどうぞ)

どうして証券会社に入ったの?(その1)

 

 

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