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米国放浪記(4)

2014 AUG 29 23:23:15 pm by 東 賢太郎

 

子供は反省しない

グランド・キャニオンでの野宿の寒さを昨日のように思い出しながら僕はいまぞっとしているが、日記の中の僕らはちっとも怖気づいていない。のんきにノース・リムを見物して、何のことか今やわからないが「甘いメシ」を食い、砂漠で遊ぶために「インディアンハット」を買いこんでから「豪雨の中100キロで飛ばし」、昨晩に苦労して南下したくねくね道をジェイコブ・レイクまで北上している。これがまた至極危険だ。先日もサンディエゴで日本の大学生が運転を誤って事故死した悲しいニュースがあった。赤いプリマスがエンコしてくれて神に感謝するのみだ。

モーテルというのは車がないと成り立たない米国社会で、通りすがりのトラベラーが泊まるいわば東海道の宿場の木賃宿みたいなものだ。こういう自然の要衝のような奥まった景勝地を通りすがる者などないからそんなものがあるはずない。いま大人の僕はそう思うが、この時はタコ糸の切れた無知な子供だ。この旅程でも日記を寝る前に毎日つけていたが、書いてあることといえば、初めてみる物珍しさから面白かった米国人の風貌や他愛ない出来事の無邪気な顛末ばかりだ。砂漠の日没や星空やオレンジ色の大峡谷を見た感動の言葉はない。その景色をありありと思い出して感動しているのは今の僕なのだ。

ラスベガスへ

「フランケンにいちゃんのところでガス」を入れ、「ロッジで***な(書けない用語)ねえちゃんのところでハンバーガー」を食べ、僕らは一路89号線をラスベガスへ向かった。「170km出した」上に途中で「砂漠のインディアン・シリーズ」をして遊んでいる。シリーズというからには何度もやっていたのだろう、昨夜の大失敗の反省のかけらも感じられない。そこからは道のせいなのか交通事情のせいなのか「平均時速110km」とある。170kmからは大幅減速ではあるが、それでも制限時速55マイルを20キロオーバーなのだ・・・。そして日が暮れた。

予想外のことで驚く

ラスベガスを飛行機で訪れるとたぶんこの感動はわからないから一度はお薦めしたい。フロントガラスの向こうに無限に続く漆黒の闇のなか、一直線のハイウエイが少しづつ星空に向かって登っていく。丘のてっぺんを超えると、行く手の眼下にそれまで見たこともないまばゆい光源が忽然(こつぜん)と現れる。百万個の宝石をちりばめた巨大なシャンデリア。ラスベガスの全景だった。うわーっと驚きの一声を発した僕らは黙りこくるしかなかった。スピルバーグの映画だってこんなものは絶対に出来ない。暗闇の底からぽっかり浮かび上がる不夜城。これほど驚異的なシーンは以来一度も経験することなく還暦を迎えようとしている。

このことを一言も記していない我が日記をいま読んで、これまた大変驚いている。ふと思い出したものがある。モーツァルトが子供のころ、イタリア楽旅でナポリからポンペイに観光に行った時に書いた手紙だ。ベスビオ火山の噴火で瞬時に街ごと埋もれた悲劇は当時から知られていたのだ。遺跡が今ほど発掘されていなかったのは割り引くとして、彼がそこから母親に送った手紙にその風景描写やそこから受けた感動のようなものをぜんぜん記していないのをずっと不思議に思っていた。天才と比較など不遜は承知だが、ああ子供は万国共通でこういうものなのかと思った。当時の僕よりモーツァルトの方がずっと子供ではあったが。

バクチの戦果

ネオンがまぶしい夜のラスベガス!カジノを渡り歩いて夢中で遊んだ。当時クレジットカードはまだない時代で僕らの持っていたのは現金とトラベラーズチェックだ。それが全財産ですったら終わりだから無謀なことはしなかった。時計がない。閉店がない。これが最高だった。時間なんか関係なく遊びたい人、金を手に入れたい人がいる。それを認める国家的なメンタリティーがある。これが自由主義、資本主義の根っこなんだと思ったかどうかは覚えてないが、ラスベガスで嗅いだあの空気は後の価値観に影響したと感じる。ホテルに帰ったのは朝の5時だった。

翌朝、とても昼までにチェックアウトはできず「誰が(延泊をフロントに)言いに行くかジャンケン」してまた寝ている。起きたのはついに午後4時である。日記は恥ずかしくも「ウルトラマンを見る!!2次元怪獣ガバドン」を大書している。米国のTVでやったのが珍しかったのだろう。「きのうのところで化け物的ステーキ」を食べ、もう一晩勝負にくりだしルーレットで結局「12ドル勝った」。丸2日ぶっ通しで遊んでこれは我ながら評価できる。これが嵩じて後にアトランティックシティやロンドンやアムステルダムでカジノに入りびたることになる。泊まったフレモント・ホテルをネットで調べたら部屋代は33ドルだ。当時と大差ない。カネがなかったくせに「チップ」を置いて出ているからサービスが良かったのだろう。

やけどをする

翌日10時、「ハムのハンバーガーとミルクシェーク」の朝食をとって出発しサンフランシスコを目ざすことになった。「郵便局」とあるので家に絵葉書を送ったようだ。「ジェットコースターのような道」をまた他の車を抜きっこしながらデス・バレーの近くまで行って28ドルのモーテルに泊まった。まだ日暮れ前だ。場所は書いていない。たぶんアマーゴサ・バレーあたりだったろうがラスベガスからは200kmも走っていないところで、ずいぶん控えめな移動だ。カジノ疲れと腹痛で無理するのをやめたからだ。つまりデスバレー行きは予定したわけではなかった。ガイドブックには「冬行く場所、夏は危険」のようなことが書いてあったからだ。

たしかに、モーテルのあたりですら凄まじい暑さで、乾いた風が顔に当たると「目ん玉が熱い」!眼球に神経があるなど知らず、これでひと騒ぎになった。僕は部屋のキーをどこかに落とし、H は370ドルをどこかに落とした。いかにカジノ遊びと炎熱地獄でへろへろになっていたかわかる。ところが7時ごろに「少し涼しくなったぞ、やるか」とフロントでラケットを借りてテニスを始めてしまう。サンダルは脱いで素足でやった。部屋に戻ってじゅうたんを歩くと、どうも足の裏が変だ。見て驚いた。ヤケドで水ぶくれになっていた。テニスコートの表面がちょっと熱かったが、外気があまりに熱いので気にならなかったのだ。食事の後、バーでフェニックスから来たおじさんとスクリュードライバーを酌み交わし、「星を見て」「天文の話」をして寝た。若さというのはすごいものだ。

死の谷に立つ

翌日、僕らはガイドブックがお薦めしないデスバレーなる、これまた地球ばなれした場所に勇気を出して行った。盛夏の8月13日、よりによって真っ昼間の炎天下にそこへ行くのがいかに命知らずなことか、それは何時間も走って対向車が1,2台しかなかったことが雄弁に物語っている。昨日のやけどは無理もない。デスバレーは調べると地表温度は93.89度Cを記録したことがあるそうで1年間雨が降らなかった年もある灼熱の谷だった。観測史上最高気温は56.6度Cで、この日、気温は50度Cぐらいは優にあったのではないか。というのは、車を停めて一歩踏み出した瞬間に熱気で頭がふらっときたことを最後に、そこからの記憶があいまいになるからだ。

一言でいえば、ここは金星だ。ザブリスキー・ポイントを南下する。巨大な塩水湖が干上がった、見渡す限り、地平線の彼方まで真っ白な塩の海である。恐る恐るそこに足をふみ入れると、塩はザラメ雪みたいにザクザクしていて靴が埋まる。やや水分がある。水たまりもあって、目を凝らすと、得体のしれない虫がうようよ泳いでいた。そこの地名はバッド ウォーター(飲めない水)といい、ゴールドラッシュ時代、のどをからした西部開拓者の落胆と怒りをうかがわせる名だ。この地点は西半球最低点の海抜マイナス85mであり、岩山の崖の上の方に海面の印がある。ここから米国最高点である標高4418mのホイットニー山のあるシエラネバダ山脈までたった200kmしかないという異常値の塊のような所だ。

デヴィルズ・ゴルフコースという場所もある。悪魔でなければここでゴルフはできないという意味だ。開拓者たちはどこでもゴルフ場を造るあのイギリス人だったんだろうが、悪魔だって夏はここではやりたくないだろう。とにかく、そこにどのぐらいの時間いてそれ以上何をしたか何の会話をしたか、記憶も記録もプッツンと途切れている。車に戻ってエンジンをかける瞬間だけよく覚えている。電撃のような恐怖を感じたからだ。もし初日のあの時みたいにかからなかったら・・・・、僕らは確実に死んで半日も発見されなかったろう。それほど人っ子一人いなかったのだ。老プリマスじゃなくて命拾いと何度も書くが、アメリカ西部はそういう所だ。昨日は凍死しかけたと思ったら今日はあわや激暑で昇天だ。いったいなんてところだ!

フォードLTDⅡは力強いエンジンの爆音をとどろかせた。ゴーッというクーラーの冷気にあたって、僕らはノアの方舟に乗せてもらった気分だった。

 

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米国放浪記(5)

 

 

 

 

 

 

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米国放浪記(3)

2014 AUG 28 20:20:06 pm by 東 賢太郎

2つの失敗

ロスを出たのは日記によると午後2時だ。別な現地の方にお会いして話をきき、サングラスやサンダルを買ったりしていた。ラスベガスへ向かう前に寄りたいところがあった。その約250km真東に位置するグランド・キャニオンだ。とするとロスからバーストウ、ニードルス、フラッグスタッフに通ずる40号線(ルート40)ということになる。後で思うと、大きな失敗が2つあった。ロスでモーテル宿泊作戦がつつがなくいっていたため、その日もその延長で考えていたこと。そしてアメリカ地図の縮尺で眺めると、ラスベガスとグランド・キャニオンはすぐ隣に見えたことだ。

この計画が大甘だった。スタンドで笑われてもアメリカの馬鹿でかさをわかっていない。しかも、グランド・キャニオン観光なんて箱根の大涌谷を見るぐらいに考えていた。百聞は一見にしかずを身をもって味わうこととなった。

砂漠にはいる

40号線はアリゾナ州の砂漠を東西に突っ切っている。バーストウをこえてだんだん景色がそれっぽくなってくると、なにかボートで大海に船出してしまったようで不安にもなる。砂漠なんてものは日本で生きていれば一生見ることがない代物だ。鳥取砂丘も行ったことのなかった僕にとって、360度見渡す限りサボテンしかはえてない砂の海は強烈だった。途中で降りてみようとなって外へ出ると猛烈な夏の陽ざしに肌が焦げた。コヨーテやサソリがいると脅されてはいたが、2mもありそうなサボテンに触ってみたかった。 H がそれに隠れた。 I が保安官役で狙撃する。二十歳のいい大学生が西部劇ごっこをやっても様になる風景であった。

ひたすらまっすぐの道だ。アップダウンも信号も交差点もめったにない。まっすぐなハイウエイだからハンドル操作もブレーキを踏むこともほぼ皆無だ。アクセルを同じ角度に保って走り続けるのは運転というより磔(はりつけ)の拷問みたいだ。だからオートクルーズができたんだと腑に落ちた。行けども行けども同じ景色なので走っている感覚がなくなる。最大の敵は眠気だった。だからグレイハウンドバスと競争した。抜くと向こうも突進してくる。彼も眠いのかもしれない。「一度も抜かれず、時速140km」と日記にあるがアメ車で初の遠出なのに今思うとぞっとする。途中で日が暮れた。鮮烈なサンセットだった。見渡す限り何もないオレンジ色に染まった大砂漠のまん中で、それは太陽と地球との荘厳な儀式に見えた。地球にいるのは僕らだけだった。

星を見る

やがて真っ暗になった。また車を止めてちょっと冷んやりし始めた砂の上に横たわって見上げたアリゾナの星空は、いかなる想像をも打ち砕く絶世の美しさだった。その後の人生で見たオーストラリアのポートダグラスの夜空、そしてハワイ島の標高4千mから見た夜空も息をのむ素晴らしさだったが、これにはかなわない。星空はいくらきれいでも彼方にある無縁のものだ。ここでは星たちがたわわに実ったぶどうみたいにぐいぐいと自己主張してきて、手を伸ばすと取れる気がした。流星がいくつも飛び、一点をぼーっと見つめていたら見えるか見えないかのかすかな光点が遠い星の間をゆっくりと動いて消えた。日記にはUFOと書いてある。あれはいったい何だったんだろう?

グランド・キャニオンに驚く

ウイリアムズというグランド・キャニオン(G.C.)の100km南にある小さな町までなんとか行きついてモーテルに泊まるというところまでは、相当に体力の限界ではあったが計画通りだった。着いたのは午前零時だ。ロスからG.C.までは7-800kmは走るだろう。東京から四国へ行くぐらいだから、この一日で岡山あたりまで10時間で走ったことになる。モーテルを見つけて「24ドルを23ドルにねぎる」、と日記にある。それでも元気だ。体当たり英語は少し上達していた。3人とも死んだように眠った。

なんのことはない。せっかく頑張って近くまで来たのに出発したのは午前11時だ。前日の疲れもあったが、箱根のふもと小田原まで来たんだからと甘く見ていたのもある。64号線を真北に進んでいよいよグランド・キャニオンに到達した。そこには僕らが二十年の人生で知っている地球のあらゆるイメージを根底からくつがえす奇観があった。コロラド川を眼下にのぞむ大峡谷。眼下といっても100mやそこらじゃない。真下に直角に1kmだ。ここまでいくと僕の高所恐怖症も正常にはワークせず、大パノラマを前に3人無言で立ち尽くした。絶景という言葉はあまりに無力。「これは火星だ」、言葉使いの天才である H もたしかそんな言葉しか出なかった。

最悪の想定外

64号線を真東に進むとキャメロンという街から89号線を北上する。東西に横たわるG.C.をぐるっと回って北側のノース・リムでモーテルに泊まろうという作戦だ。途中、コロラド川を超える大きな橋がある。マーブル・キャニオンだ。橋を渡りながら凄いものを見た。あの夕日が大峡谷の岩肌をオレンジに照らした荘厳な光景は一生忘れない。かなり標高は上がっている。「おい、雪があるよ」、慎重な I がちょっと不安げな声を出した。「うそだろ、真夏だぜ」、いったん笑ったH もじっと目を凝らしてから「確かにあるな」と言った。日がとっぷりと暮れた。人里離れた道を100kmほど南下すること約2時間、目的地のノース・リムにへとへとになってたどり着いた。その先は大地が裂けたような大峡谷だ。そこで初めて僕らはモーテルというものが存在しない場所があるということを知った。

これには参った。キャメロンからは人気もまばらな田舎道で、ここで道は行き止まりなのだから戻るしか手はない。しかしキャメロンまで街灯もない夜道を4、5時間もかけて戻るぐらいなら徹夜で大阪から東京まで運転しろといわれた方がまだましだった。アメリカの巨大さをこれほど思い知った瞬間はない。決死の野宿が決定した。車の中とはいえ、周りはまばらに根雪が積もっている。最低気温は氷点下だろう。これはまずい、こんなとこで凍死するわけにはいかない。エンジンをかけて寝るのは一酸化炭素中毒が危険だ。トランクからありったけの缶ビールを取出し「ガソリンを入れて寝ろ」となった。

朝5時に寒くて目が覚めた。全員生きていた。

 

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米国放浪記(2)

2014 AUG 27 13:13:44 pm by 東 賢太郎

ついに車が現る

新しい車を持ってきたエイヴィスのおにいちゃんたちは親切で丁重だった。カウンターでキーを投げたおばはんに比べてこの2人はなんていい人なんだ、嬉しさと安堵と語彙の乏しさから僕らはサンキューを百回ぐらい言った。砂漠の遭難者だってレスキュー隊にあんなに礼はしない、きっと。帰り道で「あのバカどもなんであんなヤバいとこ行ったんだ?」と笑ってたろう。とんでもない車を押しつけられて大事なアポがパーになった、料金はいくら引いてくれるの?ぐらいは覚悟で来ている。いま思うと連中のご丁重は当然だった。

クルマはずっと新しくて輝いて見えた。3人乗ってもありあまるぐらいでっかい。こりゃあ部屋だね!H がうまいことをいう。アクセルを踏むとその部屋がスーッと油の上を滑るように進む。家のファミリア、あれはなんだったんだ?これがアメ車だ、ハリウッドの豪邸にあるみたいなやつだよな!僕はそう叫びながら、運転できるだけで胸が躍った。モーテルはすぐ見つかった。というより、ちょっと郊外に出るといくらでもネオンサインが出ている。ベッドはたいがい2つあって、くっつけて3人川の字で寝た。じゃんけんで負けた者が真ん中の谷間になる。これを H がvalley man と名付けた。オレは運転するんだからぐっすり寝たいという主張は通らず、ときどきヴァリーマンをやった。

食い物の感動

その日に何を食べたかわからないが、食事はほとんどマックかその辺のステーキハウスだ。それで5ドルもしない。マックはサラダとケチャップがタダなのに感動してたらふく食べた。ステーキはわらじの様にでっかい。4-500gぐらいで最初は食べきれない。肉というのはライスがいらないぐらい大量に食べるものなのだと知った。それを白髪のおばあちゃんがペロリと平らげているのを目撃し、僕は山本五十六と同じことを想った。こんな国と戦争しちゃあいかん。

さらに感動したのがオレンジジュースのうまさだ。カリフォルニアだから当然もぎたてのようにフレッシュである。空気が乾いていて喉が渇くので1リットル平気で飲めてしまう自分に驚く。このジュースをこの勢いで日本で飲んだらいくら取られるだろう?貧乏性なことが頭に浮かんだ。そういう浅はかなことだけで日本に住むのは人生バカらしいなと思ってしまうのが若者だ。今でもビッグマック、A1をかけたステーキ、オレンジジュースは光り輝く3種の神器に感じる。

支店長のお家に憧れる

翌日、予定通り親父の同僚の方の家におじゃました。奥様と大歓迎して下さり、いろいろご指導や注意もいただき、昨日ひどい目にあった不安がすっかり消えた。お家のさまは当時の銀行の支店長だから今とは大違いだろう。プールがあるだけで憧れた。すごいなあ、海外駐在だとこんなとこに住めるのかとまぶしかった。結局、長じて自分も海外の長として駐在の身になったが、この時の憧れが根強く残っていてああなりたいあんなところに住みたいとずっと考えていたからそうなったかもしれない。若者は願え、願わばかなう。

第2の事件おこる

ロスのダウンタウンを見物しようと愛車を人と車でごった返す裏通りの路上に停めた。あちこち見て歩いていざ出発となった。停めたあたりに戻ってみると、車がないではないか。あれ、この辺じゃなかったか?いや、もうちょっとあっちだっただろ?物珍しさに興奮していて3人とも場所など覚えていなかったのだ。お前が覚えてると思ったのに・・・いわゆるポテンヒットである。この通りじゃないんだろう、もう一本向こうの筋だ。そうかもな・・・通りの感じも似ていて歩けば歩くほどますますわからなくなる。1時間以上3人が手分けして必死に探して、へとへとになった。すべての悪いことを考えたのは道理だ。

盗まれた?違反で持っていかれた?おい、あのエイヴィスのおばちゃんになんて言うんだ?そうしたら、ついにいつも冷静沈着な秀才である I の最後の審判がおごそかに下った。「仕方ないからお巡りさんに届けようよ・・・」。それで観念した。僕らは今度はお巡りさんを探して足を棒にして歩き回ることになった。お巡りさんというのはなるべく関わりたくはないが、こちらが必要になって探しだすといないものだという真理を僕らは学び取ったことになる。なぜならお巡りさんを見つける前に愛車を見つけたからだ。それは何事もなかったかのように探し始めた場所にあった。

スタンドのおっさんに馬鹿にされる

ロスはどうせ最後に帰ってくる。まずはラスベガスに行こうぜということになった。よし、それじゃあ給油だ。たった2日のうちに車がらみで2度も冷や汗をかいているので3人とも用心深くなっている。アリゾナの砂漠の真ん中でガス欠はやめようぜとなったのだ。飛び込んだスタンドのおっさんに代金を渡しながらキャン ユー ショウ ミー ザ ウエイ トゥー ラスベガス?ときいた。エクスキューズ ミー?ときた。もう一回くり返すと ハァ?ラース ヴェーイガス? と豪快に笑って、アホかこいつという感じで道のない方向をあっちだと指さした。東京の千代田区のスタンドで北海道はどっちですかとでもきけばこういうスリルを味わうことができるだろう。

そんな道案内は不要だった。すでにマップの見方を完全攻略していた H のナビが完璧だったから。いよいよ愛車はスピードを増した。55マイル?そんなの平気だろ、65で行こう。向かうはラスベガス!なにやら怪しい響きだ。そして間に広がるはアリゾナの大砂漠である。地平線の彼方までまっすぐなハイウエイ。ハンドルなんかいらないねと I が後ろからつぶやいた。ほんとだ、それを見て荒井由美の歌が聞こえた気がした。

中央フリーウェイ
右に見える競馬場 左はビール工場
この道は まるで滑走路

 

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米国放浪記(3)

 

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米国放浪記(1)

 

 

 

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米国放浪記(1)

2014 AUG 26 0:00:12 am by 東 賢太郎

あれは大学3年の夏。どういう風の吹き回しか麻雀仲間で法学部のI君、経済学部のH君とアメリカへ行こうということになった。本郷の東大正門前の葵(あおい)という雀荘で、打ちながらこの話はまとまった。とにかく時間が無限にあった。世の中には知らないものが無限にあるような気がしていた。

当時、バイトは時給3千円ぐらいの家庭教師と塾講師をしたが、もらうそばから使ってしまい渡米費用はとてもない。親父に頼むしかなかった。親父はアメリカ映画が好きでクラシックやらシャンソンやらロシア民謡やらのレコードをもっていて、これからの世の中は英語だと口酸っぱく言っていた。定年後にインドネシア国立銀行、トーマス・クックにも勤めたから英語は少しはできたというのがあったろうが、どうやって親父を説得したかとんと記憶にない。とにかく快く資金を出してくれ、この滅茶苦茶で無計画な米国放浪を許してくれたから僕の今がある。この放浪はそれほどのインパクトがあった。旅は若者を成長させるのだ。

行くんならそりゃあロスだとなったのは親父の三井の同僚が現地支店長でおられたからだった。彼に指南を仰ぐんだぞということになってOKが出た。立派な知り合いがいるから大丈夫ということでIもHも安心した。その実、その方のお家にはご挨拶して後は好き勝手に好きなところへ行きまくろうという魂胆だったが。「予約なんかレンタカーだけでいい、ホテルはモーテルがいくらでもある。それを渡り歩けば大丈夫」。幼なじみで野球を教えてくれたお兄ちゃんが石油プラント会社にいて、ご指南はすでにそっちに仰いでいた。

英語など3人とも当然できない。飛行機すら人生初めてだ。羽田を離陸するとすぐ、肩ならしのつもりで白人のスチュワーデスにウォーター プリーズといった。通じない。なぜかカフィ?ときたのでアー オーケー コーヒー プリーズといったらまた通じない。けげんな顔でワゴンを押して行ってしまった。そうか、水はウォーターじゃないんだ。「ワラ」が飲めたのはずっと後だ。小倉高校のIと前橋高校のHは、東京のシティボーイは少しはしゃべれると思っていたろうが、ぜんぜんシティボーイでないのがこれでばれた。

ロス空港のタラップを降りながら深呼吸し、アメリカにも同じ空気があるんだと妙なことを感心した。エイヴィス・レンタカーの契約はワラの注文以上の大苦戦を強いられた。1時間ぐらいああだこうだしてやっと無愛想なおばさんがキーをカウンターに放り投げるようにくれた。ガレージに行ってみるとでっかくて年期のはいった赤いプリマスである。「おい、こんなボロ、エンジンかかるか?」が第一声だった。

そんな心配はご無用のようだった。おごそかに、しずしずと動き出した老プリマスは予想外にしっかりとした足取りでダウンタウンまで我々を難なく運んだ。ロスの街はでっかい。人も車も多い。運転の僕はというと右側通行だぞと自分に言いきかせてハンドルにかじりつくのがやっと。ナビ役のHはというと地図の読み方すらまだわかっていない。夕方だし、とにかく今晩泊まるモーテルなるものを探そうということになった。米国のモーテルはその名のとおりモーター・ホテルで、妙なものではない。

街の中心部にそんなものはないから少しはずれまで行ったあたりで道に迷った。というよりHのナビはとうの昔にギブアップになっていて、なんとなくあてもなく走っただけだ。裏路地に入りこんでしまってわけがわからなくなり、仕方ない、誰か歩行者に道を聞こうとなったが、そういう時に限ってさびれたところで人も歩いてないのだ。そして、僕らがそうやって困り果てるのを待ちかまえていたかのように、老プリマスがプスプスいいだした。わざわざその辺でいちばん人がいなさそうなあたりでエンストすると、永遠と思われる休眠状態にはいってしまった。

やっと見つけた公衆電話から僕がしゃべった言語を理解したエイヴィスの社員はカンがいい。質問を何度もしてくる。しかしワラを初めて覚えたんだからわかるはずがない。5回目ぐらいについに聞きとれた。ゆっくりとひと単語ずつ、「ウェア アー ユー ナウ?」 おおそうか、おいH、ここどこだったっけ。誰もわからない。HとIが近くの町工場みたいなところに必死で飛び込み、身振り手振りでここどこだっけ?をやってる。ああ、こりゃだめだ。エイヴィスの電話が切れた。黒人の工場長がやっと事態を察して電話してくれ、ここで待ってろとだけいって消えた。有難かったが、ここからまた長かった。

路上で3人ぼけっと待った。通りがかりの黒人が笑いながらおめーら何やってんだ?という感じで寄ってきた。僕らを指さしてユー、ミー、タメダーシ、OK?、タメダーシとほざく。おいあいつ、タメダシってなんだよ?知るかよ、そんな具合で無気味であった。ここでホールドアップされたら・・・もちろんアウトだ。ひょっとしてトモダチのつもりじゃないか?Iが気がついた。どうもそのようだった。よかった。初日から先が思いやられる事態になったが、愚痴は誰もなかった。なにせ帰りの航空券は1か月先だ。泣いても笑ってもそれまでアメリカにいなくちゃいけない。参ったね、そうだよここはアメリカなんだ。

工場長が何か勘違いしたかと思うほど長い時間が経過した。すでに暗かったと思う。今度はちょっとはましな車が到着した。ロールスロイスでも来たかのようにうれしかった。それがそこから我々の足になってくれたフォードだ。このエンスト騒動でずいぶん英語をしゃべらされた。水も注文できなかったくせに、もうブロークンでもいけるぞと自信がついていた。後で思うと、老プリマスがここで臨終になってくれて良かったのだ。そのままあれで出発していたら3人とも命がなかったかもとぞっとする。初日のカウンターパンチは強烈だったが、人生、何が幸いするかわからない。

放浪はこうして始まった。

 

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米国放浪記(2)

 

 

 

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シティ銀行の個人業務売却

2014 AUG 21 2:02:26 am by 東 賢太郎

シティ銀行の個人業務売却にはいろいろ思う所がある。国内の資金量3兆6千億円は地銀の30位ぐらいで決して小さくはないが、そこからの預貸業務収益がシティの株主の眼から充分に大きいとは思えない。低金利下で資金需要が伸びない現況から、グローバルの資本配分で日本が劣後したとして不思議ではない。

シティがリテール業務でターゲットにしたのはハイネットワース(HNWまたは富裕層)の取り込みと思われる。今回の決定は、長年にわたるそのターゲット追求を放棄したということであり、長期にわたるデフレがあったとはいえ個人の貯蓄が減少したわけではない日本市場にどうして見切りをつけたのか、非常に興味があるところだ。

日本のHNWビジネスは砂漠の蜃気楼だ。巨大な湖に見えるが、近づくと消える。シティに限らず世界の名だたる金融グローバルブランドがプライベート・バンク(PB)の看板を掲げて試みているが、成功したという話はただの一度も聞いたことがない。海外ブランドに弱い日本人なのにどうしてなのか皆が不思議に思っているが確たる正解はどの外資も見えていないようである。

いや正確には、見えていないのは外資系の本社幹部で、日本で執務に当たっている日本人幹部や社員の気の利いた人はわかっている。わかってはいても、せっかくいい給料をくれるのだからそれを教える必要もない。今回、シティ幹部や株主はやっと長年のレッスンを経て蜃気楼の真実に到達したということなのかもしれない。

スイス時代にクレディ・スイスのPB部門の幹部がこう教えてくれた。「PBとはね、お客様と一緒に遊んでプライベートを共有するビジネスなんです」。この原則に照らすと、日本がダメな理由がおぼろげだがわかる。それをご説明しよう。

日本のサラリーマンはお客のプライベートを自分の上司や会社と共有する。まずこれが論外である。信用して秘密を明かせる人のことをセクレタリー(secretary)という。会社でペラペラしゃべる人にシークレットを言う道理がない。コンプラ部門に報告義務でしばりつけられたサラリーマンには困難である。

しかしもっとダメなのは遊ぶ方だ。HNWと遊んで「プライベートをこの人と共有したい」と思うほど楽しませるのは、満員電車で通い500円の弁当を買っているサラリーマンには気が遠くなるほど無理だ。なぜかは説明できない。つまらないからだろう。

接待ゴルフや宴会が遊びだと思っているならHNWビジネスは永遠に無理である。それが通用するのは大企業のサラリーマン社長や経営者である。なぜ通用するかというと、彼ら個人はHNWの一員ではないからだ。

HNWの多くは日本における事業の成功者である。日本国内のなまじっかな話題や知識でサラリーマンが太刀打ちできる相手ではない。海外についても、仕事も遊びもよく知っている。付きあっている人のレベルが高いので情報はもとより諜報も知っている。

資産は自社株がほとんどで事業はうまくいっている。うまくいったからHNWなのだ。だからその配当利回りを上回らない事業や運用など興味をもつ理由がない。証券会社や銀行の店頭にチラシが置いてあるような金融商品を紹介してみればいい。二度とアポイントは取れなくなるだろう。自社商品だけ売ろうと意図するなら自殺行為だ。

最後に、これが一番大事だ。HNWは人を見抜く。見抜いてきたからHNWになったのだ。巧言令色などひとたまりもない。だから本音で体を張って付きあわなくてはならない。本音のないプレゼンやセールストークだけの人、体を張る胆力のない人とは毛頭無縁のビジネスである。

僕の経験から思いつくことをざっと書いてもこんなもので、シティが大志を抱いてHNWビジネスの看板を掲げたところで、それを現場でやるのは所詮は日本人だ。金融経験が必要だから全員が元はどこかのサラリーマンだ。

だから必然的に無理なのである。

 

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クラシックは「する」ものである(8)-「ニュルンベルグの名歌手」前奏曲ー

2014 AUG 18 20:20:44 pm by 東 賢太郎

私事で恐縮ですが、下の写真は1995年6月にライン川のほとり、ヴィースバーデン・ビープリッヒ(Wiesbaden-Biebrich)のヴィラ・ワーグナー(上)で撮ったものです。フランクフルトからチューリッヒに異動辞令が出た直後で、思い出深いドイツとお別れした折に家族5人で立ち寄りました。当時弱冠40歳、まだ髪も黒く細身でした。

3年間のドイツ滞在で、最もよく劇場で聴き、身近に思うようになった作曲家はリヒャルト・ワーグナーです。それまでも序曲集は好きでしたが、長大な楽劇(オペラ)全曲のほとんどは実演に接した経験がありませんでした。バイロイト音楽祭、フランクフルト歌劇場、ドレスデン・ゼンパーオーパー、ベルリン国立歌劇場、ベルリン・ドイツオペラ等でワーグナーの毒にどっぷりとつかり、ヴィースバーデン歌劇場ではリング・チクルスを堪能し、ドイツでワーグナーの神髄に触れさせてもらいました。だからドイツでの最後に、彼が滞在したヴィラにどうしてもワーグナー詣でをしたくなったのです。

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ヴィラのこの銘板に「1862年にこの家でワーグナーがニュルンベルグのマイスタージンガー(名歌手)を作曲した」と書かれています。真ん中の、写真がここから見るライン川の風景です。滔々(とうとう)と水をたたえてゆっくりと流れるこの川、この景色なんです、ワーグナーがあの有名な「第1幕への前奏曲」を発想したのは!ここに立ってみて、あのハ長調の壮大な出だしを思いうかべてみて、ああ、確かにこれだなあと感動したことを覚えています。

 

 

この楽劇はフランクフルト、ベルリン、ロンドン、ニューヨークなどで聴き、LP、CD、DVDも何種類も持っていて、好きなことではトリスタンと双璧です。そのトリスタンがこれの前作に当たり半音階的で解決しない「トリスタン和声」で書かれたのに対し、この曲は全音階的で古典的であり好一対を成すというたたずまいがあります。全曲については機会を改めて書きたいと思います。

今回はこの「第1幕への前奏曲」のバス・パートに声またはピアノでご参加いただくことを目的としております。これを開いてください。

2.1.2Vorspiel (Act I)

Vorspiel (Act I)のComplete Scoreをクリックすると前奏曲の全曲スコアが出てきます。今回はスコアを読む練習ということで、それを使ってください。最初のページに楽器名が書いてありますね。それの「CONTRABASSE.」もしくは「BASS-TUBA」のパートをやっていただきたいのです。特におすすめは26ページの第2小節からです。ここは非常にわかりやすく、歌ってもピアノで弾いても最高に気持ちいいですよ。

ちなみのこのペトルッチ楽譜ライブラリーはまだコピーライトのある現代曲を除いてほとんど全部のクラシック音楽の楽譜が無料で入手できる便利なライブラリーです。

さて、声でもいいのですが、前回のブログに書きましたように僕のお薦めは「ピアノ」です。楽器をお持ちの方はぜひ、このバス・パートを左手で弾いて合奏してみて下さい(簡単ですから誰でもできます)。ひとつだけ注意点があるのですが、合わせる演奏は「イギリスのオーケストラ」にして下さい他の国のオケはピッチが高いのでピアノと合わず不快です。ロンドン交響楽団、ロンドン・フィルハーモニー、フィルハーモニア管弦楽団、BBC交響楽団など英国オケならどれでも大丈夫です。

 

ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」

 

 

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音楽人生に「足るを知る」

2014 JUL 1 11:11:48 am by 東 賢太郎

クラシック音楽とつきあって半世紀。ブログに書いているのは僕のそのつきあいの総集編みたいなものだ。音楽についてだけは僕は人生のまとめに入っている、と最近思うようになってきた。深い思い出があるのは100曲ぐらいのものだろうか。ちょっとつき合ったぐらいまで入れると200ぐらいか。あの時知り合って、あそこでああしてこうしてと、いずれそう遠くない将来にはすっかり忘れてしまっているに違いないことごとを、とにかく書いて記録しておきたい。

どうして「まとめ」と思うかというと、どうも最近新しい曲を覚えられなくなってきたからだ。新しい曲を知ろうという冒険心もちょっと薄れたような気がするが、覚えないのではなく覚えられない。昔は3回もレコードを聴けば1時間の曲がだいたいは頭に入った。音程が良く聞きとれない歌(オペラなど)は苦手だったが器楽曲は真綿にしみこませるがごとく、片っ端からものにした。そのかわり、最近は、もうこれで財産は充分、逆に、最高の音楽人生を歩ませていただいたという満足感にどっぷりと浸ることができるようになった。足るを知るとは、こういうことなのかなあと。

今なら、ベートーベン、シューマン、ブラームスの全交響曲、協奏曲の演奏間違い探しクイズをしたら僕はスコアを見ずにほぼ満点を取る自信がある。出題範囲にモーツァルトの主要オペラ、協奏曲、交響曲、室内楽を加えたっていい。それを覚える分、多くの時間を費やし、脳みそはきっと他のものをはじき出してきただろうから、単に生きていくということでいえば僕はずいぶんと無駄をしてきたものだ。そう、クラシック音楽を趣味とすることは、実は多大な犠牲を要するのだ。

そうやって僕がブラームスの第4交響曲をどんなに愛するようになり、どんなに身近に知っていても、それは他の人には関係がない。世の中に何の貢献も迷惑もない。では演奏したらどうだろうと考える。そうやって僕はシンセサイザーを買って勉強しピアノを練習し、自分で演奏した。しかし同じことだ。聴き手がいないからではない。仮に千人が褒めてくれたって、それはそれ。4番が僕のものになったという気持ちにはきっとならないだろう。音楽はつまり幻(まぼろし)か蜃気楼のようなものであって、近づけば近づくほど消えるか遠ざかるものなのだ。

音楽を聴いている脳で何が起きているのかは興味深い所だ。途中のある部分で鳴るハ長調の主和音は、それだけ切り取って鳴らせばただのドミソだ。曲の流れの中で鳴るからなにか意味があるのであって、どういうことかというと、その音楽の生々流転の脈絡の中でだけ湧き起る「ある感情」をもたらすから意味があるのだ。4番を聴くという事は、その部分部分で出会うある特定の感情、それを曲の進む順番に丁寧に陳列した展覧会に赴くようなものであって、曲が終わった瞬間に、胸に堆積していたそれの集大成がどっと押し寄せてくる。そういう顕著な効果をもたらすものだけを我々は名曲と認知していて、その効果のことを「感動」と呼んでいる。良かった演奏会で夢中で拍手している時、心を占めているのはそれだ。

それは映画や芝居を観た感動と似て非なるものだ。音楽には物語がない。映画館でみな一様に笑ったりため息をついたり、そういう、誰でもそう反応するだろうというものが明らかでない。ブラームスの第2交響曲で、第1楽章のあの平安とカタルシスに満ちた第2主題が鳴っている至福の時、隣の席の人がどう感じているのか知るすべはどこにもない。映画でデートはまず失敗がないが、クラシックコンサートはおすすめしかねる。いくら自分は感動していても、肝心の相手はさっぱりということがありえるからだ。

だからその感情の集大成とは、とてもプライベートなものだ。言葉や文字で伝えられるものではない。平安とカタルシスに満ちた、と形容を試みているそばから、ああやめとけやめとけという声がする。それでも勇気を出してブログにそれを打ちこんでみて、そして多くの方が読んでくださるのだということを知って、僕はなによりも安心していることを知る。そのために、僕は人生でそれが貴重な時間であろうことをうすうす知りながら、それを書いている。そういう行為が必要なほど、僕にとってブラームスの2番や4番の交響曲は人生で重たいものになっているのである。

4番において記憶にのこる演奏、フルトヴェングラーやクーベリックやジュリーニやヴァントの素晴らしい演奏は、最高の名画をそろえた展覧会のようなものである。それを1番目からお終いまでじっくり眺めれば望みうる、おそらくベストの4番体験が味わえる。僕はそれを知ってしまっているので、時間とコストの割にあまり確率の良くない、演奏会場で一期一会の名画にめぐり会おうという冒険を進んでしようと思わなくなっている。それよりもその4人の名演を、少々カネをかけてでもオーディオで理想的に再生した方がいいと思う。幸いクルマにとんと関心のない性分だから、そういうことで車1台分ぐらいはそっちに投資してしまっている。

フルトヴェングラーにしても、何度か録音した4番はどれもちがう。テンポも表情も。それは同じ人が同じコースを回っても同じゴルフにはならないのと同じだ。聴く方だってそうだ。その日その日で同じCDなのに聴こえ方が違うという事を経験している。こっちの脳みその状態は自分が思う以上に実は日々様々であって、それによって名画1枚1枚の喚起する感情は微妙に異なっているから最後の感動もちがってくる。年齢とともにそういうことがだんだんわかってくる。録音された音楽といえども、実は一期一会なのだ。おまけにこれから記憶力が減退を始めてくれる。いずれ僕の7千枚のCDは全部お初、おニューと等しくなる。老後に退屈する心配はなさそうだ。

音楽で新規開拓に関心がなくなってきたのは、だから、たぶんその他のことにもそうなってきていることへの穏やかな警鐘かもしれない。仕事はもう自分の事業を始めてしまっているから、これは出資していただいている株主のためにやめることはない。ぼける前の日までやるしかないしそれが本望だから始めたのだが、そういうことよりも、僕は信頼して下さった方を裏切ることが嫌なのだ。それは、社会正義に反することをした人間を断罪したいという、僕がたぶん人一倍強く持って生まれた心の動きと同じかもしれない。裏切り者の自分というものは蛇蝎のように嫌いだ。還暦とは節目としてちゃんとうまいタイミングに来るものだなあと感心する。仕事を採るならばその分ほかにしわ寄せがいくという事なのだ。

そうなれば音楽とのつき合いは現状維持がせいぜいだ。ということは自分にとって大事な曲と録音をもっと大事にしていくということだ。そこにはヨーロッパ生活での11年半の思い出以上の素晴らしいメモリーがある。それ以上にはもう望まないし、それを望まない方が今の僕には重要だ。第2の人生、まだ若い、もっと前進するぞというと威勢はいいのだが、虚勢でもあるように思う。そういう人生は歩みたくない。若いことと前進するかどうかは別だ。「足るを知る」ということばは含蓄が深い。お金でもなんでも、物的なものは結局は幸福をもたらさないのだろう。増やそうという欲は捨てて、在るものを大事にする。これだと思う。

 

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コダーイ 組曲「ハーリ・ヤーノシュ」作品15

2014 JUN 22 18:18:27 pm by 東 賢太郎

map01ハンガリーに友人Kが駐在していて、スイス時代に仲間と4,5回は行っただろう。それが毎度ゴルフであり、彼の運転でペーチュという南部の街のあたりまで4時間ほどブダペストからぶっ飛ばして行く。もうクロアチアに近いところだがそこにけっこう難しい36ホールのある立派なゴルフホテルがある。ジャパニーズなんて珍しいからだろうか奴の性格の良さだろうか、Kはそこのオヤジにえらく気に入られていて番犬までなついていた。ホールインワンをやったホールのティーグラウンドわきに石碑を立ててもらっているほどだからこんな奴はそうはいない。気安くゴルフができるわけだ。それに味をしめて何回も行ったのだが金曜にチェックインして土、日で4,5ラウンドやるからまるでプロのトーナメントだ。もう20年も前のことだが、まだホール全部の景色とレイアウトや使用クラブ(番手)をはっきり覚えているところをみるといかに真剣勝負していたことか。

一度夜に4人で街へ出ようと車で向かったとき、ベンツがエンストしてしまった。えらい田舎道で人っ気どころか街灯もなく途方に暮れた。当時まだ携帯電話なんてなかったのだ。1時間ぐらいしてやっと通った車に2人が乗せてもらいガソリンスタンドまで行って何とかしてもらおうとなった。釣り帰りの気のいい若者たちであり、車内は釣果のナマズで臭かったそうだ。ホールドアップのない国で良かった。僕は残留組だった。またひたすら車内で待った。暗闇と静寂の中で凍えるほど寒かった。「こんなとこで死ぬのはかなわんね」と笑っても冗談にきこえない。1-2時間だったろうか永遠みたいに長いこと待った。後方からごうごうと地響きがしてきた。煌々とライトを放った大型トレーラーだった。遠征組の大手柄だ。スタンドで絵を描いてやっと緊急事態が通じたみたいだが、夜中によく出してくれたもんだ。ハンガリーの人はいい人なのだ。車ごと高々とした荷台に乗せられて我々は大いに快適だった。ホテルに凱旋帰還したのは朝の4時だ。Kになついている番犬が突如出現した巨大トレーラーに仰天して気弱に吠えた。

一度は上司とウイーンからブダペストまで車で行ったこともある。90年のことだ。バラトン湖で食事してなんだったか忘れたが屋台で果物を袋いっぱい買って食べながら行ったが食べきれなかった。仕事後にバルトークとコダーイのお墓詣りをさせてもらった。ハンガリーというとグーラッシュだ。パプリカのきいたビーフシチューみたいな料理でご飯があればもっといいのにといつも思う。フォアグラは地元の名産で、それとトカイワインがあれば言うことない。ハンガリーにはモンゴル由来のアジアの血が入っているそうだがどの程度だろうか。ハンガリーのHunはフン族のフンというがそうではないという説もある。ただ姓名の順番は東洋式だからアジアが残っているのかもしれない。ヤマダ・タロウと同じくリスト・フランツでありバルトーク・べラである。

コダーイ・ゾルタンの名作「ハーリ・ヤーノシュ」は同名のほら吹きオヤジが、”七つの頭の竜を退治した”、”ナポレオンに勝って捕虜とした”、”オーストリア皇帝の娘から求婚されたなどの冒険譚をたれる物語だ。ほらでも捏造でもここまで豪快だと憎めない。原曲はプロローグとエピローグを持つ4幕の劇音楽「五つの冒険」であり、そこからコダーイが6曲を選んで以下の演奏会用組曲とした。

1. 前奏曲 おとぎ話は始まる                                 2. ウィーンの音楽時計                                     3. 歌                                                4. 戦いとナポレオンの敗北                                  5. インテルメッツォ                                       6. 皇帝と廷臣たちの入場

第3曲、第5曲で活躍する「ツィンバロン」という打弦楽器にご注目いただきたい。グランドピアノの弦をバチでたたく原理で、そういう音がする。スイスはジュネーヴのレストランでこの楽器の名手のソロを聴いたことがあるが音も大きく感銘を受けた。

第1曲はいきなり「くしゃみ」の音まねで始まる。「聞いている者がくしゃみをすればその話は本当」というハンガリーの言い伝えだそうだ。ほら話がくしゃみで始まるのは逆説のジョークだ。第6曲の最後はバスドラムの一発で閉じる。そんな曲はこれしか知らない。ティンパニ・ソロの一発で閉じるのにドビッシー「海」があるがそれはリズムの拍節どおりに鳴る。ここでは微妙に記譜された拍節からずれて、遅らせて鳴らしている指揮者がいる。例えばセル・ジョルジ(米国名ジョージ・セル)だ。この絶妙の間、文字通りの「間ぬけ」がぜ~んぶホラでしたと聞こえるから不思議だ。これでこそ「くしゃみ」の入りと対称形になって全曲の意味がくっきりと浮き出る。

僕はこの曲がエスニック料理みたいに大好きだ。ハンガリー風味が満載。ときどき無性に食いたくなる。クラシックファンには当たり前の曲だが入門者は知らない人も多いだろう。とにかく病みつきになるほどのおいしい曲なのでぜひ6曲とも聴き込んで覚えていただきたい。ハンガリー民謡のメロディーが不思議と我々日本人の「口に合う」音楽なのだ。

僕の場合、病が嵩じて第3曲「歌」と第5曲「インテルメッツォ」をシンセで弾いてMIDI録音した。前者はヴィオラソロで始まり、練習番号1で Dの和音の上にクラリネットが第3音(f)と第7音(c)が半音下がったジャズでいうドリアンスケールの旋律を奏でる。この長調短調のぶつかりはビートルズの後期の音を連想させる。和音だけがB♭7→Gと東洋情緒あふれる変化をするがこの部分はジプシー(ロマ)音楽風であり、ブラームスのクラリネット五重奏曲を思い出す。 ロマと黒人、ジプシー音楽とジャズ。西洋音楽の周辺、エスニックなところのエッセンスがビートルズにあるというのが彼らの音楽のパワーの源泉だろう。

練習番号2。Poco piu mossoからD、C、F、G、Asus4と続く和音は、特にFが出てくるところが非常にビートルズのStg.Peppers的である。この次にホルンにフルートのトリルが絡まる部分の素晴らしい和音(Dmaj7/b→ E6・7・9→Em7)!なんていいんだろう。作りながら興奮した。この6曲にはこういう興奮箇所が満載だ。いちいち書いていたらブログ10回分になってしまう。そういうマニアがおられればいつかじっくりと喜びを分かち合いたいと思う。ともあれ、ハーリ・ヤーノシュ、旋律は平易に聞こえるが和声進行の個性は絶妙であり他の誰とも似ていない。コダーイオリジナルの天才的作品なのである。

 

フェレンツ・フリッチャイ / ベルリン放送交響楽団

haryi-tuneの自作自演盤は(僕のメモリーにないものだが本物とすると)かなり味付けが濃い。劇音楽そのものだ。コダーイの愛弟子であったフリッチャイの演奏がこれに近い。例えば第4曲のトロンボーンのグリッサンドからの表情づけ、サックスのトリル。曲尾のバスドラムも見事に「間抜け」で鳴る。僕はこれをLPで大学時代に聴き込み、CD(写真)をドイツで買った。僕にとって特別な思いのある演奏であるが、これがスタンダード名曲化する前の原型の香りをたたえた名演として皆さまにも広くお薦めできる。

ユージン・オーマンディ / フィラデルフィア管弦楽団(1961年12月28日録音、CBS)

unnamed (22)こちらは17歳の時にバルトークを買ったらいわゆる「B面」も良かったというもの。指揮者のハンガリ―名はオルマーンディ・イェネーである。現代オケのスマートな快演として評価されているがとんでもない。欧州的な音がしており随所に懐かしい香りがある名盤である。前述「歌」の練習番号2Poco piu mossoのフルートをこんなに見事に「わかって」入念に入れている指揮者は皆無である。この曲の要である管楽器のうまさはいうに及ばずだが「インテルメッツォ」のシンフォニックな弦も格別に颯爽としている(実にかっこいいのだ)。万人のスタンダードとしてお薦めしたい。

(こちらもどうぞ)

バルトーク「管弦楽のための協奏曲」Sz116

Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band

 

 

 

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僕の愛国心というもの 日本のルーツ 序章 (今月のテーマ 出雲)

2014 JUN 8 21:21:30 pm by 東 賢太郎

 

僕が先日に出雲へ行って感じた愛国心というものをご説明するには、ずいぶんと長い長い前置きが必要になります。それは海外で16年暮らした僕の今に至る半生をかけた思いであり、お読みいただければ幸いです。

 

クニとは何か?

あなたが「おクニはどちらですか?」と初対面の日本人に尋ねてみたシーンを想像してください。相手に「日本です」と真顔で答えられたらどうでしょう?あなたはおそらく絶句するに違いなく、しばらくして、ふざけるなと怒りを覚えるか、なにかまずいことをきいてしまったかと心配するかもしれません。このクニは「郷里」を意味するのが正しい日本語であって、それを理解しない人が「日本です」と答える、つまり日本人であると宣言するというのは何か大きくて空恐ろしい定義矛盾であって、そういう場面に遭遇することを我々はあまり想定していません。

ペンシルヴァニア大学に留学したてのころ、僕はその日本的な「おクニはどちらですか?」感覚で、軽い気持ちで初対面のアメリカ人にWhere are you from?とよくききました。すると、Where?  What do you mean? と怪訝な顔でききかえされることが多く、New Jersey. など即座に答える人もいましたが、どうも妙なことをきいているのかという一抹の不安が常にありました。天下の誇り高きアイビーリーグの学生に「おクニは?」ときくと「ずいぶん訛ってますね」ととる人もいるというということを知ったのは後日のことです。ましてご先祖の出身国などはきかない方が安全でしょう。彼らはみんなそれを捨てて「アメリカ人」であることが誇りなのです。それを喜んで答えてくれたのはピルグリム・ファーザーズの末裔であられた女の子だけであり、だいたいが米国人は母国で貧しくて危険を冒して海を渡ってきた人ですから触れたくない場合も多いのです。

次はところ変わって、野村時代に中国は福建省の福州から山奥に6時間走った農村でのことです。大雨で日帰りの予定が想定外の宿泊となってしまいました。仕方なく日本人が誰も行ったことはなさそうなホテル?の食堂でくつろいで酒もまわり、日本語でわいわいやっていました。すると隣のテーブルの地元のオッサンが大きな声で何か話しかけてきました。いかん、まずかったかなと思うや、通訳が笑いながら「東さん、どこのクニの方言?ときいてますけど・・・」。ド田舎ですから彼は我々を日本人はおろか外国人とも思っておらず、どこかの少数民族と思ったんでしょう、日本語を中国の方言だと思ったのです。中国では国をきくのは非礼でもなく、お互い言葉も通じないのがいかに普通かうかがえるでしょう。

クニと国の違いは各国でこれまた違うという難儀

米中の「クニ」は日本のクニではなく、米国人のクニと中国人のクニもまったく違います。そしてその3つのクニは、これまた「国」とはどれもがそれぞれの違い方で違います。そしてさらに厄介なことに、それは英国で、ドイツで、スイスで、香港で違い方がみんな違います。例えば英国ですがイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つの代表チームがWカップ参加資格があることはご存じと思います。こういう国でWhere are you from?ときくのは、スコットランド人が英国人(一応イングランド人の訳語)と思われることに誇りを持っていることなど絶対にありませんから米国より危険度は少ないでしょう。ただそういう「違い」ぐらいは2,3年も住めばわかるでしょうが、「違いの違い」を知るにはもっと多様な経験と観察を要します。

今ふりかえってみると、僕の中で「その違いのわかり度合い」というのにはグレードが存在していて、管理職になってしまっていたスイス、香港ではその理解度がずいぶんと表面的で甘いことに気づきます。逆に、学校で米国人と競って落第しないかひやひやし、仕事の現場で英国人のお客に怒られ、ドイツ人の行政官にガキ扱いされてこの野郎と憤慨するような「底辺人生」だった米英独のそれは肌身に染みてわかります。スイス、香港に2年半ずつ住みましたが、管理職はいわば「お客さん扱い」されていてそういううちはわからないことです。

そのグレードの差というのは僕にとって野球を見るのとサッカーを見るぐらいの大差です。現場で苦労した、戦ったという体験はそのぐらい大きい。例えば、野村證券ではお客様から注文をいただいて伝票を書くことを「ぺロをきる」といいましたが、それが初めての時、どれだけ手が震えるほど重かったか、それは野球場で球を追っかける経験と同様やった者しかわからないという性質のものです。野村では「株の怖さというのはぺロをきらないとわからない」と教わりましたがまったくその通り。だから野村のベテラン社員でもぺロをきったことのない人を僕は1分で見抜けますし、そういう人と1分以上株の話をしても時間の無駄と即座に判断します。

愛国心と愛郷心もこれまた違う

僕が愛国心というものを明確に意識し、日本という「国」の姿を初めて意識するには5か国に住んでそういう経験を10年はする必要がありました。その前から愛国心らしきものはありましたが、それは今思うと愛郷心、生まれ育ったクニへの愛情です。そこに「国」という姿は、あったつもりではいましたが、それは五輪で掲揚された日の丸を見た時の熱い感情のようなエモーショナルなものにすぎず、今の僕の目から見て愛国心と呼べる次元のものではありません。君が代で起立しない者が総理大臣にまでなる時代ですが、彼らもWカップでは日本を応援するかもしれず、クニを愛することと愛国心があることとは別なのです。

いま、僕の愛国心はクールで静かで冷徹なものです。それは、アメリカで厳しい教育を受けたからだろうと思っています。世界の支配者であるアメリカが自国のエリートを育てるための教育、いわば原爆を広島と長崎に無慈悲に落とした側の本丸で支配者の本音の教育を一緒に受けたからです。あのビジネススクールでのMBAカリキュラムの勉強という理不尽かつ殺人的な物量、そしてそれをこなすべき日程のいじめとしか思えない気違いじみた短さに比べれば日本の大学など至極常識的で、だから僕は学歴欄にはペンシルヴァニア大学経営学修士と書きます。そんなものは日本ではほぼ理解されませんが、あまりまじめに勉強しなかった東大よりそれのほうが実感にずっと近く、その後の人生への影響の甚大さからして当然のことです。

その上で、僕は11年半のあいだ欧州で日本株を欧州人に売るというこれまた英語による理不尽な学習量と時間に追いまくられるハードな仕事をしました。そこで付き合ったお客様はみな歳がやや上の、最上級の教育を受けた欧州のエリート層です。欧州の金融界というのはそういうところであり、日本の銀行は入れてもらえませんが当時世界最強レベルのパワーがあったノムラは名誉メンバー待遇でした。そしてそこである驚きの現実を知りました。彼らがいかに米国を「上から目線」でカウボーイ国家と見ているかということです。その米国に敗戦した国に生まれ、その米国で勉強して誇りを持っていた僕はそこでまた世界観の大転換を迫られました。だから僕の愛国心と日本観は、そういう中で変転しつつ醸成されたものであり、オラがクニといったエモーションとは遠いものになりました。

そういう目で見た私見と愛国心

僕は、敗戦以来日本は米の属国だと思っています。憲法はGHQ占領下で、すなわち主権在民でない状態で書かれ押し付けられました。日本人は一般にそう思っていませんが、意地でもそれを認めたくないからであり、しかしそれは客観的には厳然たる事実で世界中のエリートもそう思っています。いや、属国は国だからまだましです。他国に土地を与えて防衛をお願いしているわけですから正規軍というものがなく、軍事権(そんなのは元来が権利ですらないが)とそれをベースにした外交権がないというのは世界の常識において地方政府の定義そのものです。家畜か観葉植物みたいなものです。こういうことを言ったり認めたりしないのが愛国心だプライドだというのは現実逃避であって何も生みません。かわいい息子が運動会でビリで泣くから運動会はやめましょうという母親と同じで、結局かわいい息子は将来もっと泣くことになります。

そういう国ですから、政財官ともに「アメリカかぶれ」が権力を握ってうまく立ち回るプライドなき恥ずかしい国になって久しいのです。GHQ占領下の秘密諜報機関であったキャノン機関の長、ジャック・Y・キャノン陸軍少佐がこう言ったという記録があります。「さすがに吉田茂は砂糖をやると言っても受け取らなかったが、知事や警視総監は嬉しそうな顔をした」。私事で恐縮ですが僕は野村のころ3回外資系に誘われました。その一つはロンドン時代、30歳ちょっとの若僧に「年収30万ポンド(当時7500万円)でジャパンデスクのヘッド」という望外なお誘いでしたが、当時すでに同じ敗戦国のドイツ人を含む欧州人エリートたちの強固な自国へのプライドに接して「これだ」と思っており、全部即座にお断りしました。

誤解されると困るのですが、僕は米国が嫌いなのでも、そこで立派に生きておられる日本人の方々を否定する者でもまったくありません。米国の文化や教育の素晴らしさはもちろん実体験として良く知っていますし、そこに住んでおられる方にそもそもアメリカかぶれなど存在しようがない。僕が嫌っているのは日本でトラの威を借りる「アメリカなりすまし」連中なのです。そういう恥ずかしい者には死んでもなりたくないし、いくらカネを積まれても英語ができる程度で買われる高級奴隷になりたくないと思っただけです。砂糖を受け取らないというその判断を今でも誇りに思います。

僕は強固な愛国主義者であるということを外国で隠したことは一度もありません。それが尊皇攘夷派やら右翼思想やらに短絡する国は世界でも極めて稀で、どこの国の人でも母国を愛するのは家族を愛することと同じく当りまえであり、そうでない人は外国では信用されません。政権を支持しない人はどこの国にもいますが国家ごと否定する、国旗も国歌も認めないというのは別な国になれということで、クーデターが起きるような国は知りませんが、日本の左翼以外には世界の先進国でお目にかかったことがありません。出雲大社禰宜の千家国麿氏が床に日の丸を書いた羽田空港に怒りを表明されたそうですがむべなるかなでしょう。

自分が外資系を蹴ったのはその話がいずれも本社の幹部にはなれない高級奴隷だったからです。外国が嫌いなのではなく、奴隷があり得ないだけです。対等ならいいのです。その証拠というわけでもないですが、僕は西洋音楽を平均的西洋人よりはるかに愛していますし、僕の会社には外国人の出資者が2人いますし、学歴は日本のではなく米国の大学名を名乗っていますし、内定をくれた日本企業ではなく米国企業に就職したいと言いだした娘は応援しました。心の中で何の矛盾もありません。何国人が作ろうが良い物は良いですし、米国大学院での勉強は実学として本当に役に立ちましたし、娘の採用はいいものかもしれず、娘の人生は娘のものだと思うからです。

出雲に行って思ったこと

たかだか1度ばかりの訪問ですが、僕が出雲で感じたものは先に書きました欧州各国のエリートたちが仕事を通して僕に教えてくれた強いプライドを思い出させるものだったように思います。それは30歳代だった僕の考え方を根底から変容させるインパクトがあり、日本で同じものは京都にあると思ってそれ以来お客さんを誘って何度も企業訪問を兼ねた京都トリップをやったものです。今も京都へ行くたびにその気持ちは新たになります。京都は僕の愛国心のよすがになりました。東京生まれ東京育ちなのに京都。16年も住んだ海外でできた僕の愛国心がクニ(東京)という次元で発したものではないことをお分かりいただけるでしょうか。

ところが出雲大社や稲田姫神社に参拝し奥出雲のたたら鉄の工法を見たりするうちに、どうもここは京都とは違う、なにかもっと奥深くオリジナルなものの宝庫ではないかという直感が訪れてきたのです。京都というのは平安京遷都いらい天皇家、公家がいたから京都なのですが、京都文化を天皇家が直接作ったわけではなく城下町のようにそれを取り巻く武士、寺社、民衆が育んだものです。一方出雲の方はそこまで「城下」が大きくならなかったからでしょうか、もっと大社や神話の主に直接のルーツがある文化がそのまま地元の人たちの中に残っている、もちろん神話ではなく、現実的、日常的なものとしてすぐそこにあるような気がいたします。

例えば出雲大社の高層神殿建造やたたら鉄工法の最先端科学と合理主義です。ああいうものは細部の処理にまで妥協を絶対に許さないという精神、英語に周到、細心、厳密の注意を施す精神を表す形容詞でmeticulousというのがありますが、そういう精神のない人たちには絶対に起こしえないものです。それは半島の新羅あたりから伝来したタタール由来のものかもしれませんが、カウボーイ文化に近い漁師の気質とは対極的であり、沿海部ながら漁師ではない特別な集団が出雲にいたということは確実でしょう。

北陸人のねばり強さなどといわれますが日本海沿岸部にはmeticulousで原理追求型の性質、気質の人は多いと思われます。僕の父方先祖は能登の半農半漁民のちっぽけな村の出身ですが親戚は理工系技術系ばかりでmeticulousを絵に描いた様な一族です。僕自身もその血を強く感じます。ある本によると古墳の調査から出雲の神話時代の一族が海流に乗って多く移住したのが地形的に漂着しやすい福井と能登だそうです。そういう歴史があったのかどうかはともかく、どこか強い近親性を直感したのが出雲の方たちでした。

神話は完全なフィクションではなく、聖書と同じくある程度の事実を古事記、日本書紀が一般人にもわかるようにして後世に残し、永く信じさせるために神話化したものだと思います。そういう意図があったと仮定して神話を逆探知し、出雲国の真実の姿を探るというような試みは大変に面白いところです。先日、ある奥出雲のご高齢(93歳)の方から立派な直筆のお手紙をいただき、それがまさにその逆探知の手掛かりになるような内容であり、とても興味深く拝読させていただきました。

次回以降、そのお手紙をご紹介させていただきつつ、何冊か読んだ出雲関係本も参考にしながら、「日本国のルーツ・出雲」なる大きなテーマに迫ってみたいと思います。

 

千家国麿様と高円宮典子女王とのご婚約に思ふ -今月のテーマ 出雲ー

 

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千家国麿様と高円宮典子女王とのご婚約に思ふ -今月のテーマ 出雲ー

2014 MAY 28 23:23:52 pm by 東 賢太郎

 

「2000年を超える時を経て、今こうして今日という日を迎えたということに深いご縁を感じております」

 

2014年(平成26年)5月27日、千家 国麿様と高円宮典子女王とのご婚約が発表されました。千家国麿様は第84代出雲国造で出雲大社宮司であられる千家尊祐様のご子息です。不肖ながら千家尊祐宮司にお会いさせていただいたことは、拙文にしたためさせていただきました。

 奥出雲訪問記

千家家は代々出雲国造を務めており、古事記、日本書紀によると、天照大神、天穂日命、建比良鳥命の家系であると伝えられています。この日本国の歴史に刻まれるご婚約のニュースを知ったのは、たまたま、まさにその5月27日に会議を予定されていた某社様の社長室においてでした。このご縁には大変驚きました。その某社様は拙文「奥出雲訪問記」にある畏れ多い体験を積ませていただいた会社であり、「奥出雲発のグローバルな会社」をつくるという発想を頂戴し、5月27日はそれを具体化する提案を実行させていただこうという日だったからです。

そしてその日に拙案をご快諾いただいたことを重く受けとめています。出雲発ということは真の日本発という意味であり、16年日本を離れて生活した日本人として是が非でも成功させ、ご信頼にお応えしたいと思っております。

 

出雲について考えること

 

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