ヘスス・ロペス・コボス/N響の三角帽子を聴く
2014 MAY 18 2:02:44 am by 東 賢太郎
N響定期Cプロを聴きました。前半はクリストバル・アルフテルの「第1旋法によるティエントと皇帝の戦い」とラロの「チェロ協奏曲 ニ短調」。アルフテルはオルガンのような音で始まり、後半は戦闘を模した派手な音楽に。ラロはヨハネス・モーザーのチェロ。楽器はグァルネリで中高音が明るいのびやかな音で好感が持てました。
音楽というのは一定の時間の集中を要しますから、心に余裕と隙間がないとだめですね。今日は仕事のことで頭が一杯で特にそれがなく、ラロは残念ながらうつろに響くのみでした。そもそもオケ・パートが平板で、音楽になんというか上質感がありません。ラロの曲は有名なスペイン交響曲にしても進んで聞きたいと思ったことは一度もなく、彼の音楽に何かものを申す資格もありませんが。聞きながら退屈で、ひょっとしてモーザーのバッハ無伴奏なんていいかもしれないなと想像していたら、なんとアンコールに1番のサラバンドを弾いてくれたではないですか。これはなかなか良かった。
さて、後半はファリャ「三角帽子」でした。この曲はブログをしたためましたとおり、けっこう好きであり、非常にたくさん聴いております。ヘスス・ロペス・コボスさんの指揮ですが、特徴的なのは、棒を振り下ろして打点から上がりきったところで音が出るように見えます。それがかっちり整然とした美しい指揮姿であり、出てくる音はラテン的な透明感のある、本当にいい音なのです。それがものすごく印象に刻み込まれた演奏会があって、ドイツ時代の95年2月4日、僕の40歳の誕生日にフランクフルトのアルテオーパーでやったベートーベン英雄交響曲(シンシナティ交響楽団)でした。このエロイカは僕がかつて聴いたベスト3に入る名演でしたが、スペイン人の彼にこういうレパートリーは録音の機会がないんでしょう。本当に惜しい。ぜひもう一度聴いてみたいものです。
三角帽子は彼の十八番であり、秀演でしたが、少々思う所もあったことを記しておこうと思います。この曲の名演をたくさん聴いてしまった僕の耳にはこれは綺麗すぎます。ヘスス・ロペス・コボスさんの明快な指揮にN響がまじめに反応するとこういうことになってしまう。音に「えぐみ」、「えげつなさ」がまるでないのです。この音楽の筋書きには権力、エゴ、性欲、復讐、嘲笑といった人間の本性丸出しのどろどろした汚さが隠れています。それをワーグナーのようにどろどろのまま提示するのではなく粉屋の女房の仕返しというカラッとした風刺劇に仕立てていて、音楽もその路線に沿ってさっぱり目に書かれているわけですが、ピカソのゲルニカがあえてモノクロで描かれていて血の色がないゆえにかえって血なまぐさい効果があるように、この曲はやはり血の匂いがしないともの足りない、これを聴いた気がしないのです。
まずメッツォの林美智子が今日の演奏を象徴しているのですが、全然毒気のない声で、田園調布の若奥さんがカクテルパーティーの余興に出てきたという風情。「悪魔がいるわよ!」と歌っているんですが、譜面をきれいに歌うというだけ。N響の管楽器団員がなんとなく恥ずかしげに掛け声をかけているのと似た者同士でした。カラオケのモノマネと一緒で、やるんだったら根っからスペイン人になりきらないと白けるだけなんですね。だいたい日本人のカルメンのタイトルロールもこういうことになります。アバズレのアグネス・バルツァみたいなワルが出てくることはてんで想定しがたい。三角帽子はエンリケ・ホルダ盤の野性味あふれるバーバラ・ホーウィットを聴いてみてください。クラシックは高級舶来品、皇室御用達。お下品はだめざます。鹿鳴館のにおいがぷんぷんする化石のような業界ですね。
外人御用音楽士のご指導でお上手にベートーベンをやる明治時代のスタイルをいまだに踏襲しているのがN響です。外人じゃない小澤征爾は嫉妬で排斥してしまう。御殿女中の世界でしょうか。自国人のチョン・ミュンフンを立ててドイツ・グラモフォンにマーラー、ブラームスといったメジャーな曲を堂々と録音して欧州で評価されているソウル・フィルハーモニー。サムソンと日本の家電の差の見本であります。韓国のかたを持つ気などさらさらありませんが、N響の団員がよくサヴァリッシュ先生は・・・スヴェトラーノフ先生のリハーサルは・・・などと一介のファンか白人狂いの女みたいなことを書いているのを見かけると、我が国のクラシック界の精神的独立のためにもそろそろそういう時代は卒業した方がいいんじゃないかと思うのです。
そのN響の音は今でもやはり肉食系とは遠く、印象派の綺麗な音楽を聴いたという感じでした。和の食材で作ったスペイン料理ですね。食材がそうなんだからシェフのロペス・コボスもそれでいくしかないでしょう。それなりに美味で食べていると舌鼓を打つのですが、終わってみるとあれっこういうもんだったっけ?という感じになる。初演者アンセルメとスイス・ロマンドOの原色的な音を聴いて下さい。名演中の名演という誉れ高い演奏ですが決してきれいだけじゃない。指揮というよりもオケの方がああいう鮮やか系のきらきらぎらぎらした音で強いメリハリをつけて弾くから、肉食系だから、対照的な「近所の人たち」のたおやかな弦のメロディーが出てくるとはっとして耳が引きつけられるのです。
映画、アニメ、ゲームなどの世界ではもう「ジャパンスタンダード」ができていて、西洋コンプレックスはとうの昔に吹き飛ばした観があります。この精神的独立はまじめとお上品を旨とする官業とは最も遠い部分から始まったのです。官業(東大)と官製御用西洋音楽(芸大)。西洋コンプレックスから最も抜けていない時代遅れの権化かもしれませんが、その対極である西洋かぶれはもっとたくさんおり、巨人ファンとアンチ巨人みたいなもので同じ穴のむじな、自立できていない者同士です。どっちも都が東京に移った明治時代(それを「東京時代」と呼ぶ人もいますが)からの精神的産物が敗戦でさらに歪んだもので、そういう借り物のアイデンティティからは何のジャンルであれ、作曲であれ演奏であれ、永遠にホンモノは生まれないと思います。
クラシック音楽が西洋的精神に深く根差したものだということは理由にならないでしょう。難しく考える必要もなく、ありもしないスパゲッティ・ナポリタンを生んでしまうたくましい精神、あれでいいんじゃないでしょうか。もしも佐村河内があの交響曲ヒロシマをほんとうに作曲していたなら、あれは過去に日本人が作曲したどの交響曲よりも世界で有名になって残った可能性があると僕は思っています。しかし新垣氏は実名ではあれは書けなかった。調性音楽など書いたら業界からつまはじきになってしまうからです。これが「東京時代」のくびきなのです。偽名だから遊び精神で自由になってああいうものが書けたのじゃないかと考えます。それならみんなでくびきは忘れてしまおう、そうなればいいと思うのです。
クラシック音楽を深く愛する者として、日本人による日本のアイデンティティに満ちたジャパンスタンダードを生む天才が現れて欲しいと切望しますし、もし現れれば是非支援したいものだと思っています。
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クラシック徒然草-グレン・グールドのモーツァルト-
2014 MAY 5 17:17:54 pm by 東 賢太郎
ゴールドベルグ変奏曲の稿で「人類の箱舟に載せられる録音の最右翼に列せられるもののひとつではないでしょうか」と書いたピアニスト、グレン・グールドの今度はモーツァルトである。
はじめに、僕が精神分裂をおこしていると勘違いされないためにも、僕の人間観を記しておく必要がある。孔子の言葉、「古之聴訟者、悪其意、不悪其人(昔の裁判所では罪人の心情は憎んだが人そのものは憎まなかったの意味)」(「孔叢子」刑論)、あるいは、聖書(ヨハネ福音書8章)の「罪を憎んでも人を憎まず」というものこそがそれである。誰かのdeed(やったこと)の考察と、それをやった人間のpersonality(人格)の考察は別なものだという考え方である。
例えば、「悪事を働いたから罪を負わせる」という現代社会において誰もが当然と思い込んでいる社会正義というものも、それ自体は万能の正義ではないかもしれない。正義が裁くべき「悪事」とは何かという定義の問題はここでは論点ではない。何が正義であれ、それは法治国家という近代的統治が成立していて、しかも量刑法定主義が保障されている限りにおいての限られた人工的な正義なのだということが論点だ。法律がそう定めていないなら、人を殺めたからという理由だけで死刑になるという理は、リンゴが木から落ちるというような自然界の定理ではないというのが上記の含意でもある。
余談になるが、そういう立場でものを見る僕として、マスコミによる小保方氏の人格否定的報道や番組は実に見苦しい。僕が彼女のdeedに社会的危機感を覚えることに何ら変わりはないが、それと彼女という人への攻撃や否定とは話が違う。それは正義に反しているとなればその人のしたdeedは何でもかんでも盲目的に「非」とするという、中世の邪教並みの野蛮な精神がすることだ。それが魔女狩りをしたのであり、今もいじめの芽はこういう所に潜む。メディアにそのdeedを放任しながら「いじめ問題」をなくすことは難しい。一方で、逆に、似た改ざんを他の科学者がやっていたとして、それで彼女のしたdeedの危機性がいささかも減じることはない。みんなやってるじゃないかと言ってスピード違反を減刑しようという作戦をとるなら、あの弁護士も中世の邪教徒程度だ。書いてきたように、彼女にそれをさせた教育の質やAO入試制度や組織のガバナンスこそが社会的問題と考える。
ややこしいことを述べて申し訳ないが、他人様の丹精込めた演奏に対してまがりなりにもああだこうだと意見を公にするにおいて、自分の立ち位置を明確に公開しておかないのはアンフェアだろうと思うので書いている。僕は広島カープが100連敗しても、その結果(deed)に怒ることはあっても、カープファンを辞めることはないだろう。熱情ソナタの下手くそな演奏を100回聞かされても、熱情ソナタに辟易することは同じくない。同様に99回下手くそな演奏をしたピアニストが100回目に名演を成し遂げれば、僕はなんのためらいもなくブラヴォーを送る人間である。大事なのは目の前にあるdeedであり、誰がそれをしたかということはクリアーに別問題だという処理を常にするというのが僕の哲学である。
こう書けば、僕がバッハの鍵盤作品を聴くときにまず頭に浮かべるほどレファレンスになっているグレン・グールドというピアニストのモーツァルト演奏を、僕がどれほど毛嫌いしているかをご理解いただける可能性も出てくるだろうか。はっきり書こう。クラシック音楽でこれほどひどい、disgustingなものを僕は聴いた記憶がない。誰もが知っているトルコ行進曲がこうなる。
これを最後まで我慢して聴く忍耐力を僕は持ち合わせない。コンサートでこれに出会えば、他人様に迷惑にならないように万全を期しつつ、僕はそっと後ろのドアから退場することになるだろう。BBCのインタビュー番組でこのソナタの第1楽章を彼は普通のテンポで弾いて「これじゃ僕はつまんないんだよ。異常なくらいスローにして、ブーイングというか反応を仰いで、そうやって信じられないほど聴衆をじらして・・・モーツァルトには悪いがアダージョの指定をアレグレットにして・・・」と語っている。
何のことはない、僕の嫌悪は彼の術中であるわけだが、それが曲の最後に至って何か芸術的な感興を万人にもたらすわけではないということだ。つまんないなら弾かなければいいし、そうなんだけど何かの手管を弄して楽しませてみようという考え方はスマホゲームのプログラマーと変わらない。それで感動する人がたくさんいるのなら耳の肥えた人の多いクラシック界では希少な現象であり、彼のアプリには盲目的信者、つまり彼という人が好きで彼がやったdeedなら何でも是とする信者がたくさんいるということだ。申しわけないが僕にはAKB48で当てた秋元という人のHKT48も売れてしまう現象とダブルフォーカスになる。
グールドにとってモーツァルトのソナタは技術的なフェーズに限っていえば「牛刀をもって鶏を割く」がごときであり、普通に弾いて他人と違いを発揮できる題材でもなければ自分の耳をエンターテインできる素材でもなかったのだろう。それはホロヴィッツやルービンシュタインのような人があまりモーツァルト録音に熱心でなかったことにも重なる。そう、ヴィルトゥオーゾは彼のソナタなどに熱心ではないのだ。ところがグールドはそれを結構熱心にたくさん録音している。どういう風の吹き回しなのだろう。そして、イ短調ソナタK.310のように、彼の耳の要求に合う要素を一部分として含んでいる(その要素が核心を成すものではないのだが)と思われる音楽になるとこういうことになる。
これは彼のゴールドベルクの世界にモーツァルトを招待したものだ。モーツァルトがその招待を楽しんだか?そうかもしれないし、そうでないと言い切る術はない。これを快適な演奏だと感じる人もいるのだろう。そういう方には、この演奏がテキサス州の竜巻のように軽々と吹き飛ばしてしまっているもの、展開部で心の深奥に広がる暗闇の不安や、提示部でそっと琴線に触れてくるやさしい和声といった重大なものが譜面にはひそんでいることをぜひ知っていただきたいと思ってこのビデオをお示ししている。
BBCのインタビューは、彼がコンサート会場の聴衆を意識して演奏解釈をしていたことを明らかにしている。その流儀は落語家が高座へ出てきて、出し物に入る前にまず軽い笑いをとってその日の客の質をつかむのに似る。客質が噺の輪郭を左右するのなら、客なしでマイクロフォンに向かった時、彼がどんなタッチで噺をするのか興味があるところだ。録音したものが唯一絶対のものでないのだから、いったい彼のその古典の解釈はどういうものなのか、録音は語ってくれないということになる。
グールドの初見力は超人的だったそうで、モーツァルトなど鍵盤なしに目で覚えてどんな流儀でも、オーソドックスなウィーン風にでもビデオにあるようにハリウッド風にでも弾けたろう。彼の演奏行為は、そのどれが今日の会場に来ている聴衆を喜ばすかを模索するところから入ったのだろうが、それでは飽き足らず、どうしたら客をじらし、最後は屈服させられるかに賭けるようになってしまったようにも思えてくる。そして、だんだんと、そのどっちにせよ、会場を埋めている聴衆という名の大衆のレベルが、自分にそうやって影響を与え従属を強いるに足る、そして自分の鋭敏な知性とプライドがそれを認容する、というような性質のものとは程遠いことがわかってくる。それに耐えられなくなって、彼はコンサートという場を忌避するようになったのではないか。
こういうモーツァルトを世に残して彼は満足だったのだろうか?僕にとって、彼のベートーベンが(それも一風変わったものだ)ここまで神経を逆なですることはないのも面白いが、それがあの素晴らしいバッハを弾いた同じ人間の演奏であるということの方はもっと不思議である。ひょっとして、あのゴールドベルクだって本当はこのぐらい奇っ怪なものなのかもしれない?などと想像がふくらむ。バッハの譜面は速度指定どころか「フーガの技法」みたいに楽器指定すらないものがあるからだ。
どんなピアノニストだって自身の個性による、解釈という作曲要素が演奏には入っている。グールドの場合それが尋常でないほど大きかったということだろう。彼自身作曲家になりたかったと言ったそうだが、解釈が作曲家の領分にまで達していて、作曲は密室でやるのものだから公衆の面前から姿を消した。あの、二度と耳にしたくないモーツァルトを聞かされたといって、もちろん、僕のグレン・グールドという天才への評価がどう変わるわけでもない。バッハ「平均律クラヴィーア曲集第2巻」をお聴きいただきたい。大バッハとの共同作品かと舌を巻くしかないこんなdeedの前には、どんな理屈も例外も色褪せて見えるしかないだろう。
(こちらへどうぞ)
クラシック徒然草-庄司紗矢香のヴァイオリン-
2014 FEB 18 19:19:32 pm by 東 賢太郎
ユリア・フィッシャー(Julia Fischer)の二刀流 | Sonar Members Club No …
このブログにコメントをいくつか頂戴したのでどうしてかなと思って調べてみると、SMC経由ではなく直接インターネットからこのブログを検索された方だけで1750人おられました。「ユリア・フィッシャー」でググるとwikipediaの次、なんと2番目にそれが出てきて、原語の「Julia Fischer」で検索しても2番目です。こうなるとフィッシャーさん自身の目にもとまるかもしれないし、応援団長みたいな気分です。
彼女のヴァイオリンは大好きなのですが、ただし、あのブログはもともとそういう意図で書いたわけではなくyoutubeを聴いた感想を自分が忘れないようにという程度のものでした。まだ実演を聴いたわけでもないし・・・。そうしたら偶然にグリーグを見つけてしまい、がぜん彼女がもっと好きになってもう一度ヴァイオリンを聴いてしまい・・・という風に出来上がったことを覚えています。面白いことが起こる時代になったものです。
ところで、そこに「ミ」の音の話を書きました。僕のミとシのこだわりはアメリカで1年間チェロを習った時にできました。初めはどうにもうまく取れません。先生のは抜群にきれいなのにどうしてだろうと・・・。それはたぶん自分の楽器がピアノとギターという平均律で転調がお手軽にできる分だけ自然音階の本当の美しさを犠牲にしている楽器だったからだったと解釈しています。平均律は自由な転調を可能にするための人工的音階であり、ドラえもんなら「ラクラク転調マシーン!」なんて名前をつけそうです。本当はチカチカ点滅している蛍光灯が残像現象で目をごまかして「ずっと光っている」ように錯覚させているのと似ています。自然光の方が、当たり前ですが自然であり目に優しいのです。
音楽を「歌う」という表現がよくされますが、僕はピアノで「よく歌っている」という評論家のコメントがどうもピンと来ませんでした。ところがチェロを弾いてみて分かったのです。歌というのはヴィヴラートがかけられるかどうかというよりも、ミとシのようにそのメロディーの背景となっている和声の流れに沿って自在に自然に音のピッチ(高低)を変えられることで生まれるのではないかということを。
もう少し説明が必要でしょう。整数比から求めた自然な音程を純正音程と呼びますが、平均律のミとシは純正音程より高いのです。ところが、例えばですが和音がドミナント⇒トニックと行く場合のシ⇒ドというメロディのシはチェロならある場面では平均律より高めにとってその和音の流れをより強調したり感情をこめたり聴き手に予感させたりという高度な技が発揮できるのです。そうやって「旋律に感情を乗せる」、つまり歌うことができるのです。ここで書いている「歌う」とは、僕の感覚でいえば「和声に深く共感する」もっと露骨にいえば「それにエクスタシーを感じる」ぐらいに書いてしまっていいでしょう。
つまり、この2音を高くとったり低くとったりで、平均律楽器には真似のできない微妙な感情表現、こころの移ろい、切々と訴える人間らしさや恋心のようなものを表現できる。これが「歌」と言われているものの大きな要素となっている感じがするのです。それができるから弦楽器は熱く歌えます。そしてピアノはこの表現手段を決定的に欠いています。だから弦楽器ができる歌というものを単音楽器のピアノができるということはないのです。「良く歌っているピアノ」というのはあたかも奏者がそうしたいという気持ちが明白でそれが聴衆に伝播している状態を第3者が描写したということにすぎず、物理的にはそれがレガートであれ音の連鎖の漸強漸弱であれ、音高(ピッチ)のズレというものには到底かなわないものだと言うしかありません。そのためにピアノ音楽は「ピアニスティック」と後世に呼ばれることになる表現方法を獲得して進化しました。人工音階は人工なりに独自の美があるのであり、それに初めて気がついてそのエッセンス、結晶を抽出した人がショパンだったといっても大きくは間違っていないと思います。
もうひとつ加えますと、モーツァルトは自身がヴァイオリン、ヴィオラの名手でもあり、常に歌手の声を念頭に作曲していたと思われます。ピアニストでもあった彼はもちろん僕が気づいたようなピアノで書く平均律メロディの限界、調性や和声変化に則してメロディの構成音をズラすことができない限界を知っていたはずです。早くにピアノ協奏曲の筆を折ってオペラに集中した理由はここにある気がいたします。これは終生ピアノで思考していたベートーベンとは対照的であり、彼には管弦楽スコアですらピアノ的に発想して書いたような部分があります。ベートーベンがモーツァルトと違って旋律の美しさではなく音楽の構築性を主眼に作曲し、声楽には目立った成果がない理由はそこにあるかもしれません。彼の交響曲のピアノ版はそのままピアノソナタとして聴けますが、モーツァルトのそれは異質なものとして響くのです。
話が飛びましたが、その平均律でミとシを覚えていた僕がサンサーンスの「白鳥」を弾くと、このメロディーがト長調でドーシーミーラーソードー・・・でいきなりシとミがあって、それをちょっと高めにとってしまう感じ。ピアノとはそれで合うんですが、どうもチェロとしては違うんじゃないのという気がだんだんしてきて、これが何度弾いても気にいらないのです。美しくない。ユリア・フィッシャーの「音程の良さ」を上記のブログに書きましたが、彼女の耳の良さはあれだけピアノで平均律の音楽をしていながら、ヴァイオリンを持つと弦楽器世界の音階、音程で鳴らすことができる、そういうことへの賛辞のつもりでした。
そのブログを読み返していて思い出した演奏家がもう一人います。庄司紗矢香さんです。この人のヴァイオリンは非常に不思議で、音があるべき高さでピタッと収まるという意味では音程はあまり良くありません。ところが音楽には説得力があるのです。こういうミとシの取り方が僕はしたかったのかもしれないと思います。ヴァイオリンという楽器の世界の内部で音程、音階が自己完結していて、オーケストラの独奏部として溶け込むというよりも「別個の小宇宙」を作っている感じとでもいいますか、次の和音へ向けて音を取っているので鳴っている時点で合っていないというか・・・感覚の問題でうまい言葉が見つかりませんが。
論より証拠、youtubeで聴いてください。まずチャイコフスキーから。いかがでしょう?素晴らしい演奏です。
ユリアとは全く別の美点が彼女のこの演奏にはあるのです。それはソロ楽器としてのヴァイオリンという楽器がもっている他のどの楽器にもない特質、つまり聴き手の感情をばらばらにかき乱して熱く訴えかける力を強く感じさせる点です。それは例えばG線の激してねばりのある鳴らし方や高音部の陶酔感のある歌、そして汚い音になることに頓着もないボウイングは時に激してごしごしした感じなのですが、それらがぐいぐい心に入ってくる。テミルカーノフも彼女の「濃い演奏」にのせられています。
ユリアは器楽的であり彼女の弾き方で立派なカルテットや合奏団ができますが、庄司はプリマドンナの集まりが合唱団にはならないように、そういうイメージがもてません。この楽器のソロだけが発揮できて合奏にすると消えてしまうもの。そういう魔性があるのです。彼女が優勝したのがパガニーニ・コンクールというのもうなずけます。第2楽章のヴィヴラートのきいた中音部の歌など、けっして僕の好きなタイプではないのですが、ここまで思い切り歌われると魅力に押し切られますね。お茶漬け風味の多い日本人には非常に珍しい、こってり系の強い個性を持った人です。
今度はブラームスです。これもyoutubeにあります。こんなに歌いまくって熱くて骨太のブラームスも珍しい。ここでも音程をはじめとする細部のアーティスティック・インプレッションはユリアより落ちます。しかし彼女は軽率に弾き飛ばして音をはずしている凡庸の奏者と違い、強い共感とパッションが先に立って一音一音に魂がこもっているのが表情から見てとれます。第1楽章カデンツァから終結までの魂が天に上るような恍惚のドラマ!涙が出ました。重音でも歌って歌って粘り気のある音で押しまくります。こぎれいでピッチの合った音を出そうなどという策は一切なく体当たりの真剣勝負。実に見事です。アラン・ギルバートという指揮者もいいですね。北ドイツの頑固者の集まりみたいなオケが心服していい音楽をつけていることも注目です。日本の女の子が彼らを向こうに回して堂々の立ち回り。あっぱれです。何人が弾こうとこれは天下に誇れる最高のブラームスですね。
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仲道郁代サントリーホール演奏会を聴く
2014 FEB 16 21:21:06 pm by 東 賢太郎
きのうは写真家の齋藤清貴氏のスタジオにお邪魔して某案件の打ち合わせでした。彼のWEBはこちらをご覧ください。
齋藤清貴 オフィシャルサイト: Kiyotaka Saito Official Site
ついでに写真とりましょう!となってスタジオで本格的に撮ってくださったのがこれ。これを見た西室が「詐欺だ」と叫び、自分でもう~ん確かにと思うほどの出来栄え。現物をご覧になれば一目瞭然なのですが、明らかに普通の写真ではない、プロの作品です(被写体は粗悪品でも!)。これ200枚以上も撮ってそこから選んでくださったものなのです。
齋藤さんはあーせいこーせいは最小限で、そもそも誉められてもこっちも気持ち悪いだけだし、何となくの独特のリラックスした会話と雰囲気があって自分を引き出してくれるという感じ。まさしくプロでした。全国に5万人いる写真家の内、食えているのが千人ぐらい、一線で活躍しているのが百人ぐらいという厳しい世界だそうです。そこに入っている人のレベルを見せていただきました。
彼が撮っている音楽家が仲道郁代、諏訪内晶子、村治 佳織など。今日はその仲道さんのリサイタルへ彼と行ったのでした。ちなみに、今日のこのポスターは彼の作品です。これがあるので昨日彼女のショパンのCDを思い出したのです。そして今日の演奏も期待にたがわぬ楽しいものでした。プログラムは
モーツァルト ピアノソナタ第3番 K.281 ブラームス:3つの間奏曲 Op.117 シューマン:交響的練習曲 Op.13 ショパン:バラード全曲
でした。各曲の演奏の前に彼女のお話があるのですが、まず声と発音が美しくて癒されました。 内容もわかりやすく、特にショパンは勉強不足なので2番の唐突な曲想の変化などそういうことだったのかと学ばせていただきました。モーツァルトはいいテンポで心地よかった。ブラームスの暖かい音色と切々とした歌も良かったですね。シューマンは他の人に比べ作曲がうまくないとおっしゃっていましたが、まったく同感であります。 それでもこの曲のオーケストラのような分厚い和音は見事でした。
このホール、今日の座席あたりはオケであまりいい印象がないのですが今日のピアノはとても良く鳴っていたと思います。そしてショパンのバラードは僕のあまり得意な曲ではないのですが 、唯一愛聴しているクリスチャン・ツィマーマンとは違ったアプローチです。弱音部の切なさがやわらかい美音でデリケートに紡ぎだされ、急速部分は過度に攻撃的に響かず、女性的な優しさに満ちあふれていました。こういうショパンならいいなと思いました。
ショパン ピアノ協奏曲第1番ホ短調 作品11
2014 FEB 16 2:02:54 am by 東 賢太郎
ショパンのコンチェルトについて僕がなにか書こうというのは自分でもあまり予想していなかった。ショパンは聴かなくなって久しいけれど、嫌いというわけではない。というより一時はよく聴いていて、1番の録音は22枚も持っているし、何曲かは自分でも弾きたいと思った(挫折したが)。
シューマンという人は音楽と文学を結んだ「物語性」というか、必ず何か物語をもっている人間というもの、それが恋であれ嫉妬であれ絶望であれ、そういう生身の人間から生まれるものが共存するところに音楽というものを発想した。だから彼は著書の中でベルリオーズの幻想交響曲に強い共感を寄せている。そして同い年のショパンの「モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の『お手をどうぞ』による変奏曲」作品2を「諸君、帽子を取れ。天才だ!」と讃えた。
ところがショパンはそういう文学的な見られ方を、「このドイツ人の空想には死ぬほど笑わされた」と書いた。ロマン派と解釈されることを嫌い、敬愛したのはバッハとモーツァルトだった。マヨルカ島にもっていった印刷譜はバッハの平均律クラヴィーア曲集だけだったという。彼は恋人を思い浮かべて音楽を書いたこともあるが、その音楽に我々が感じる詩情というものは彼のまったく独自の「音楽語法」そのものであり、彼は何が作曲の契機であれ、自分の音を純粋に抽象的に紡ぎだしたと僕は考えている。
だから彼の音楽のロマンティックな表題はほとんどが後世の人間の創作である。彼の語法がはからずもロマン派の扉を開けることに貢献したのは事実だが、彼が開けなくとも開いたその扉が彼の曲に時代の空気に添ったレッテルを貼ってしまった。僕がショパンを聴きたくなくなった最大の原因は、その偽りのレッテル風情の演奏が増えてきて我慢がならなくなったからである。ベートーベンの5番を運命とアダ名しておいて、いかにも運命でございと無用に物々しく演奏することにアレルギーがあるのと同じことだ。
ショパンの協奏曲1、2番は両方とも20歳の若書きである。後に書かれた1番の方が音楽的にやや熟していると感じるが、2番の第1楽章の美しさは1番をしのいでいるかもしれないと思う。彼が3番を書かなかったのはこの2つが若さと関係しているからだ。こういう曲を大家がばりばり名人芸で弾くよりも、僕は20代の若いピアニストで聴くのが好きだ。若さは若者の感性でしか表現できない。たとえばマウリッツィオ・ポリーニ(1番)は18歳以来もう録音していない。アシュケナージにも18歳、ショパンコンクールでの素晴らしい2番がある。そのアシュケナージが伴奏に回って、ウズベキスタンの20歳、エルダー・ネボルシンが独奏した初々しい1番は格別に愛好している。
エルダー・ネボルシン(pf) / ウラディミール・アシュケナージ / ベルリン・ドイツ交響楽団
これがそれ。ただこの録音は廃盤になってしまった。もったいないことだ。ドイツで買ってひとめぼれしてしまい、未だに、ほんのたまにだがこの曲を聴こうとなるとまず第一にこれに食指が動く。このピアノ、もぎたてのレモンとはこのことで、全編が夢のようにみずみずしい。二十歳のショパンがそこにいる。アシュケナージがまたそれに感じきっていい伴奏をつけている。録音も見事にそれをとらえきっている。満点。amazonで新品が6,314円の値がついていた。
クリスチャン・ツィマーマン(pf) / キリル・コンドラシン / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
79年録音(ピアニスト23歳)の快演。廃盤ばかりで申しわけないが、いいのだから仕方ない。ツィマーマンは何度も録音していて、ポーランド祝祭管との新録など立派な限りだがその貫禄が僕にはピンとこない。このACOとのライブと同時期にジュリーニ(ロス・フィル)とのスタジオ録音もあるがオケ(大事だ)が明るく、このライブの生命感のほうが断然素晴らしい。終楽章の出だしの若鮎のようなリズム感、オケとの感興の乗った受け渡しの見事さ!これぞショパン・コンクールで勝てる人だ。i-tunesでzimerman kondrashinと打ち込むと出てくる。
マルタ・アルゲリッチ(pf) / ヴィトルト・ロヴィツキ/ ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団
女性を一つとなるとこれ。8才でベートーベンの1番、9歳でモーツァルトの20番と協奏曲を弾いた天下のアルゲリッチの24才(1965年)ショパンコンクールのライブ。その5年前、19才ですでにドイチェ・グラモフォンからレコードを出していたわけで、この1番もあまりに称賛された演奏ゆえ書くのも気がひけるが、改めて聴きかえして、やっぱり素晴らしい。第1楽章展開部から鬼神が乗りうつった一期一会の演奏で、うまいというより破天荒な感性の勝利だ。彼女のその後の演奏もたくさんあるがポートレートと一緒でトシをとっても凌駕できないものがここにはたくさんある。
クラウディオ・アラウ / エリアフ・インバル / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
67才のオトナの演奏をひとつ。アラウのピアノは何を聴いても和音のバランスが最高によく、「うまみ」のきいただし汁をいつも思い出す。すごい技術と想像するがちっともメカニックな感じがしない。普通の奏者が一所懸命弾いてどうだ!と見栄を切る部分もあっさり進み、うまいのでファインプレーに見えないというやつだ。すぐれたアートというものは常にごまかしのきかない最高の技術の上に成り立っているということを知る。極上の京料理のようであり、何もとんがったものはないが食後の満足感は絶妙。子供にはわからない味かもしれない。インバルのオケが序奏から大変にシンフォニックでドイツ音楽のような偉容を示すのも面白い。
(補遺、17June 17)
ロジーナ・レヴィーン / ジョン・バーネット/ NOA学友管弦楽団
youtubeでこれを見つけて驚いた。たいへんな名演だ。ロジーナ・レヴィーンはヨゼフ・レヴィーンの奥さんで、ジュリアードの名教師として多くの弟子、ヴァン・クライバーン、ジェームズ・レヴァイン、中村紘子などを世に出した。何というニュアンス豊かなフレージングだろう!第2楽章など夢のような歌に満ちるが最高の品格を伴い甘さに淫することがない。名技で唸らせようなどという魂胆はかけらも見えず、心の献身で音楽に奉仕するスタイルであり、オーケストラも同調する。管弦とも一流の奏者ぞろいと思われ立派きわまりない。最高だ。高雅で貴族的でないショパンなど僕は聴く気にもならない。こういう一級の芸術家が忘れられ、ショーマンや芸人風情のピアニストがもてはやされるならクラシック音楽はつまらない世界になっていくだろう。
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ネヴィル・マリナーN響を振る
2014 FEB 14 23:23:24 pm by 東 賢太郎
雪が強くなっていて、もう足元がかなり危なくなりつつあるなかをNHKホールへ向かいました。ネヴィル・マリナーさんでなかったらパスしてました。残念ながら空席が目立っていましたが、7時の開演直前になって後の方から拍手が。何かと思ったら2階席中央に皇太子浩宮さまがご入場されました。生放送するので音を立てるなと注意があり開始。曲目はドヴォルザーク交響曲第7,8番でした。
マリナーさんは今年90歳。1歳上のスクロヴァチェフスキーさんとならび指揮界最長老です。思えば僕は40年前に彼のレコードでモーツァルトやバッハを覚えたのです。モーツァルトのクラリネット協奏曲がそうですし、交響曲39番を初めていいと思ったのは彼の演奏です。忘れられないバッハのブランデンブルク協奏曲第6番のなれそめについてはブログで書きました。だから人生の恩人とでもいう感じがするのです。雪などと言ってられません。
席は1階9列目のど真ん中で、前後はがら空きでした。定期会員はご高齢が多いのでこの雪では仕方がありません。昨日までヨッフムのコンセルトヘボウのブログを書いていたので無意識にあそこの音を求めていたのでしょうが、やっぱりこのホールは紅白歌合戦用であります。N響はマリナーさんの棒にこたえて熱演でしたがどうしても弦がやせてしまいます。高弦は立ってしまいます。音の情報は来るのですが低音と丸みが足りません。コントラバスを10人にしたいぐらい。オーケストラというのは弦が全体をしっとりと包みこまないと管がブラバンみたいに浮いて充実感のある音がしないのです。弦が命のドヴォルザークではちょっと気の毒でした。
7番の第1楽章、僕はこの第2主題が大好きです。春の木洩れ日みたいにふわっと暖かくて懐かしいあの和音。とても良かったです。8番の冒頭、チェロ、ホルン、クラリネット、ファゴットのト短調のメロディをトロンボーン(!)が和音で支え、最後をチューバが低音で締めてヴァイオリンがト長調の和声を囁く。それに乗って森の小鳥が歌うようなフルート・・・魔法のように美しいオーケストレーション!コントラバス・セクションが奏でる和声!ドヴォルザークのデリカシーをマリナーさんは非常にうまく表現されたと思います。やや遅めのテンポで慈しむように。前回N響を振られたシューマンの3番は僕がライブで聴いた最高の演奏でした。今日の2曲はきっと僕はもうたくさん聴きすぎているのです。
楽しい時間を過ごさせていただきました。マリナーさん、お元気で末永くご活躍されることを祈っております。
(こちらをどうぞ)
彼のレパートリーのイメージではないチャイコフスキーもバランスよくまとめる力量が光る。人柄がにじみ出るような温かさがとても良い。
クラシック徒然草-ブルックナーを振れる指揮者は?-
2014 FEB 14 11:11:37 am by 東 賢太郎
前回ブルックナーについて書かせていただきました。後期ロマン派としてなぜかブルックナーとマーラーは対比されるのが常ですが、この2人に何か精神的な基盤となる共通項を見出すことは大変に困難です。僕にとってブルックナーは人生に不可欠ですが、マーラーはもう一生聞かせないと神様に取り上げられてもあまり悔いはございません。食わず嫌いではなく全曲を真剣に聴いてきた結果そういう結論に至っているのでご容赦いただくしかありません。マーラーファンの方は、きっとお怒りを感じると思われますので、以下はなにとぞお読みならないようお願いいたします。
また本稿が何らかの宗教的な意味合いやアンティ・セミティズムのようなものから発しているわけではなく、また他人様の趣味に意見しようというものでも毛頭ないことを最初にお断りしておきます。僕が「マーラーは嫌いです、まったく聞きません」というとたいがい「ではブルックナーも?」とくる、たぶん日本人だけが持っている大きな勘違い。それがテーマです。前稿に書きました「ちゃんとしたブルックナー」とは何か?「どの指揮者がそれを振れるのか」?という僕なりの見解を述べることです。
ですから、大変申し訳ないのですが、マーラーもブルックナーも同じだけ好きだという方が、マーラーはともかくブルックナーの方をどう聴いておられるのか僕にはちょっと想像がつきません。僕のイメージでは、ブルックナーは宗教画、風景画、静物画であるのに対し、マーラーは人物画、さらに言えば自画像、時にカリカチュアですらあります。同じ美術館の同じ時代の一画にはあっても、同じ部屋に並べられると違和感がぬぐえません。
鑑賞する方はさておきましょう。さらに申し訳ないのですが、本質的にマーラー指揮者である音楽家がブルックナーを振っていると、まがい物かレコード会社のイエスマンではないかという風に僕は見えてしまうのです。マーラーに徹していればよかったのに何の因縁か振ってしまったバーンスタイン、ショルティ。悪くないのもあるがワルター、マゼール、インバル、クーベリック、アバド、シノーポリ、ノイマン、テンシュテットもやめておいた方が評判を損ねなかったでしょう。ブーレーズにいたっては何を勘違いしたのか意味不明です。聴けるのはジュリーニ、クレンペラー、べイヌム、ハイティンク、シャイーですが後者3人はやはり ACOというオケの美質に多くを負っています。
ブルックナーの音楽は自然のアブストラクトな表現という最も核心となる一点においてマーラーとは遠くシベリウスによほど近いのであって、ブルックナーにあってシベリウスにないのは神という視点のみです。しかし、自然は神が造った万物であるというのがキリスト教ですから、そこに三位一体の中間に立つ人間という存在が介入しないのは同じことなのです。ところがマーラーというのは真逆であって、神と自然が欠落して人間のみが出てくる。しかも勘弁してほしいことにその人間は彼自身であるのです。ご異論があれば、上記の勘違い組の中でシベリウスをまともに振れる人を挙げられますか?バーンスタインはそこでも異質。唯一、若いころのマゼールが例外なだけです。
つまりブルックナー、マーラーとは完全に補集合的存在であって、たまたま近い年代のウィーンで時を過ごしただけのこの両者が「同一の精神領域」に存在すると感じること、つまり両方を演奏したり共感を持って聴いたりすることは僕にはまったく考えられません。マーラーの2、6、7など私小説かつ自画像の陳列であって、彼という人間になんの共感も持てない僕には聴くのが苦痛でしかありません。その自画像がR・シュトラウスの英雄の生涯などという見るからにチープなフレームではなく一見立派な金縁の「交響曲」というフレームに収まっている、いや確信犯的にそこに収めている手管がまた嫌なのです。チャイコフスキーも悲愴という私小説を書きましたが、それは交響曲である前に強烈な自殺メッセージであり、彼の自慢の髭面を四六時中眺めさせられる拷問ではありません。個人の好き嫌いを書いて大変申し訳ありませんが。
上記のリストに挙げなかったのがカラヤンです。誰の何のウンチクだか知りませんが、
カラヤンをけなすのが通だと勘違いしている人が際立って多いのがわが国音楽界の顕著な特徴です。僕は彼の57年録音(EMI)のブルックナー8番(右が買ったLP)を高く評価しています。これはおそらく彼のBPOデビュー近辺の録音で、そんな大事な1枚に当時は欧米でも通しか聴かなかった売れそうもない8番を持ってくる指揮者がどこにいたでしょう。カラヤンけなし派の方々は彼のシベリウスの4、6番という大変な名演をどう評価しているのでしょうか。2番はフィルハーモニアOへのお義理で録音だけして実演ではやらなかった彼が4、6番をじっくり研究した、そういう趣味と耳と読譜力とオケを率いる技量を持った指揮者をけなすのが通という人たちが一体何の通なのかさっぱり理解できません。そして、述べたようにシベリウスとブルックナーは遠くないのです。
カラヤンはマーラーを4、5、6、9、大地と振っていますが4、9、大地の3つは音響プロデューサーではなく芸術家としての彼の資質をよく表わした選曲と思います。ブルックナーは全曲録音した彼が1~3、7、8をやらなかったのはそもそも作曲家に共感がなかったからでしょう。DGに進出して自分の縄張りであるベートーベン、ブラームスに侵食してきたバーンスタインを彼は意識していたそうで、その逆襲ぐらいのものだったのではないでしょうか。バーンスタインの手垢がついたショスタコーヴィチ5番を振らなかったのも意識があったのだと思います。
僕のブルックナーのレコードはそのカラヤンの8番をはじめ、コンヴィチュニーの7番、クナッパーツブッシュの5番(右)、ワルターの4番、マタチッチの9番、ヨッフムの6番が大学時代に買ったものです。このクナの5番はシャルク版というひどいカットがあるものなのでもう聴いていませんが、演奏は非常に良くていい入門になりました。
5番は最も好きで、前回書いたヨッフム盤に加えて、カール・シューリヒトが1963年2月24日にウィーン・フィルを振った楽友協会ライブ、ルドルフ・ケンぺがミュンヘン・フィルハーモニーを振ったもの、ギュンター・ヴァントがケルン放送交響楽団を振っ
たもの、エドゥアルド・ファン・べイヌムがコンセルトヘボウを振ったものが好きでよく取り出して聴いています。LPで非常に感心したのがハンス・ロスバウドが南西ドイツ放送交響楽団を振った7番(右)です。この物々しくなさ、軽さ、速さはユニークでこんなにどろどろしない7番も珍しい。しかし見事にツボをおさえていてちゃんとこの曲を聴いた満足感を与えてくれる、これぞ通好みの演奏でしょう。
これまた日本の「通」がほぼ無視しているのがバレンボイムです。彼はシカゴとベルリンで2度も全集を入れていますが僕は評価しています。フィラデルフィアで彼が僕の嫌いなリストのソナタを弾くのを聴いたことがあって、これが一生の記憶に残る名演でした。テクニックのひけらかしは皆無でテンポの遅い部分が語りかける。曲のイメージが一新しました。バッハの平均律(CD)も表面の美観ではなくあの時のリストに似た深い沈静感が彼の美質なのだとわかります。それはブルックナーに適合した美質でもあります。彼はユダヤ人ですが、ユダヤ人が振るマーラーをステレオタイプ思考で誉める傾向にあるお国もの好きの日本の評論家からすると、その彼が振るブルックナーというのは収まりどころがないのかなと見えます。そういう御仁たちのつまらないウンチクなどお忘れになった方がいい。ちなみにバレンボイムは日本人にはブルックナーはわからないという意味の発言をしたそうですが、これはメニューインの田園交響曲発言と同じで、そうかもしれないと思ってしまいます。
こうして書き出すときりがありません。日本で神格化され「ブルックナー大権現」と化しているクナやシューリヒトや朝比奈を今さら論じるのも時間の無駄ですから、ここでは評価していない指揮者、評価されてもいい指揮者だけにしました。僕が「ちゃんとしたブルックナー」として聴いているものがどういうものか片鱗だけでもご理解いただければ幸いです。各曲ごとの「各論」はいずれ書いて行こうと思います。
最後にブルックナーの版の問題について一言。これは曲によりますが非常に差が大きく、原典版の場合別の曲というほど違うこともざらにあります。しかし僕は前回書きましたが、作曲者自身がそれに寛容だった背景と思想から、ベートーベンのベーレンライター版の是非論とは全く反対にあまり版にはこだわらず聴くことをお薦めします。せっかく良い雰囲気を体感させてくれている指揮者に対して、シンバルの一打ちがあったかなかったかのような些末なことで評価を変えてしまうようなことはブルックナー鑑賞の本筋を大きくはずれています。別に「正しい版」があるわけではないのです。そういうウンチク好きのマニア向けマーケットはクラシックでは大事ですが、古楽器演奏がはやったのと同じ商業的動機を強く感じてしまいます。どの版を選んだかとか、誰も演奏したことのない版を探してきてやってみせるみたいなことよりも、「ちゃんとした演奏をできるかどうか」の一点の方がよほど大事で、ブルックナー演奏の本質探究はそこだけでよろしいかと僕は思います。
(追記、2月3日)
その問題はオリジナル楽器で春の祭典をやりましたのようなものにまで波及していて、いくつかそういう「祭典」を買って聴きましたが実に本質を外れたつまらない演奏であって、原節子や吉永小百合の「そっくりさん」が往時の彼女らの映画の役を演じたリメイク画像のようなもん。アホらしくてすぐ捨ててしまった。音楽の王道ど真ん中のブーレーズ盤に正面から対抗できないことを自ら告白するようなものだ。アーチストとして二流ですね。
(追記、2月24日)
ブルックナー交響曲第8番について
8番を書かずに終わってしまったのでやや悔いがあり、演奏のことだけでも書いておきたい。8番はフィラデルフィア管弦楽団定期演奏会でスクロヴァチェフスキー指揮の強烈な洗礼を受け(1983年10月28日だった)、まったく特別な曲となった。ずっとのちに東京でMr.S指揮/読響(02年)も聴いたがあれと比べてしまうので感銘は大したことはなく、これより尾高忠明/N響(07年)が良かった。フランクフルトのアルテオーパーで聴いたギュンター・ヴァント/NDR響も印象に残っている。曲を知ったのは大学時代に買った上記カラヤン盤。CDで感銘を受けた筆頭はシューリヒト/VPO盤だが、この語り尽くされた名演に僕が加えることは何もないだろう。90年にニューヨークで買ったクナッパーツブッシュ盤はよくきいたが録音に深みがなくもったいない。
ウィルヘルム・フルトヴェングラー / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(49年3月15日、ベルリン、ティタニア・パラストでのライブ)
僕はフルトヴェングラーのブルックナーは好きでない。この演奏もコーダのアッチェレランド、ティンパニの不可解な爆発、ハース版とあるが一概にいいきれないなど認容しがたいもの続出なのだが、それでも彼が聴衆の心をわしづかみにしたのはこういうことだと示す好例がこのライブなのだ。この前日(14日)に放送用録音がありEMIから出ているが、圧倒的にこれだ。僕は彼がピアニストだったらといつも思う。ハンマークラヴィールソナタやさすらい人幻想曲や交響的練習曲などぜひ聴いてみたいし、そう思わせる指揮者は他に浮かばない。彼の視座は常にマクロにあって帰納的で、ミクロから演繹する人と対極にあるのが最大の特徴であり、それが彼を今に至るまでオンリーワンにしている。凄いことだ。大発明は帰納法的に発想され演繹的に証明されるのだ。この終楽章の加速は何だ?といぶかるのはミクロの次元の話で、8番の鳥瞰図ではそれでピタリとはまるのかもしれないと思わされてしまう。スコアを広げてそれを眼から俯瞰できるのは天賦の才であって凡人は知ってから気づく。現にこれを知ってしまった凡人の僕にはスコアの方が違うとみえてしまう(そんな筈ないだろ・・・)。ブラームス1番と並んでそうなってしまった罪作りな演奏であり、嫌いだと言っているそばから自分も信者なのではと不安になってくる。写真のSACDも買ってみたが、もともとフルトヴェングラーのライブではトップクラスの良い録音であり僕の装置ではそうご利益も感じない、好き好きだろう。
カルロ・マリア・ジュリーニ / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ジュリーニの残した数々の名盤の中でも1,2を争うものと思う。ノヴァーク版はあまり好きでないし、第1楽章の金管は音程がずれたりVPOならではのアバウトさがあるが、この極上・究極の管弦のブレンドとジュリーニの打ち立てる盤石のフォルムの前にはどうでもよくなってしまう。押しても引いてもびくともしないとはこのことだ。ホルンとチェロの合奏の綾など音楽演奏の媚薬とすら感じる。ワインでいうならペトリュスの82年がこうだった。美味だけでない、美に梃子でも動かぬフォルムがあるのだ。ムジークフェラインで正月に聴いた実物のVPOもここまででなかったのだから録音の美なのか?それを用いて一切あわてず騒がずのテンポとバランスで建築していくのだが、こんなに綺麗でいいのということにならないのがジュリーニなのだ。何度も書く「フォルム」、構造でもカタチでも形式でもない、うまい日本語がないこの言葉、彼の指揮芸術の根幹をなすそれをお感じになって欲しい。こんな指揮者もいなくなってしまった。
(補遺、3月14日)
エドゥアルド・ファン・べイヌム / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
こういう8番を好まない人は多いかもしれない。長大な8番というとやたらと意味深げに構えて、偉大なるスピリチュアル・イベントでございといった雰囲気の演奏が横行するが、そういう皮相な解釈をあざ笑うかのようにこれはスコア(ハース版と思われる)を直截的に音楽的に鳴らすだけの直球勝負だ。実に小気味よい。スケルツォはきっぷの良い江戸っ子の啖呵のようで豪快、全体にさっぱり系でメリハリあるリズムと推進力に圧倒され、アダージョは辛気臭さが皆無で純音楽美をひたすら追求。僕の最も好きな演奏の一つ。
ヨゼフ/カイルベルト / ケルン放送交響楽団
1966年11月4日、カイルベルトが最後に振った8番の記録。彼ほど音楽を巨視的視点からとらえ、聴き手を納得させられた人は少ない。それはブラームス2番の稿に書いたことだ。20世紀初頭のオーケストラはこう響いていたのかという音。フルトヴェングラーのように異形を演じることなく自然な造りでそれを成し遂げるのは伝統という言葉の真の意味を開陳する。8番としてはずいぶんあっさり聞こえるが、要所を知り尽くし、十分なクラリティのステレオ録音で内声まで浮き彫りにするそれは、ドイツ人のブルックナーの良識と感じる。
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ブルックナー交響曲第9番ニ短調
クラウディオ・アバドの訃報
2014 JAN 23 0:00:54 am by 東 賢太郎
1月20日にクラウディオ・アバドが亡くなったことをさっき知った。たまたまモーツァルトのピアノ協奏曲をいろいろ聴きかえしていて、皆それなりにいいと思った中で彼の指揮したものだけがどういういわけかピンと来ずに妙に意識にひっかかっていた。何か悪い予感だったのだろうか。
僕は彼の熱心な聴き手ではなかったが、ひとつだけ忘れられないコンサートがある。1983年のアメリカ留学中の夏休みに欧州旅行してザルツブルグへ行った。運よく買えたチケットがカラヤンのばらの騎士とアバドの幻想交響曲だった。座席はオーケストラの後ろでアバドを正面から見る位置だった。ロンドン交響楽団がどう演奏したかまでは記憶にないが彼の指揮姿は今も目に浮かぶ。鐘の音が重々しく、それが非常な緊張感を持って鳴らされた。あんなのは2度と経験がない。
思えばアバドは僕の世代の中では「若手」だった。小澤さんやムーティーもそうだ。なにか友達をなくしたようですごくさびしい。彼が80才だったなんて・・・。
持っている彼の録音で好きなのは
1.ヴェルディ「シモン・ボッカネグラ」 2. ロッシーニ序曲集 3.ヤナーチェク「シンフォニエッタ」(68年) 4.プロコフィエフ交響曲第3番 5.ラヴェル全集
である。特に僕がヴェルディを第一に挙げるなどまったく異例のことだが、これは最高に、圧倒的に素晴らしい。ぜひ広く聴かれることを心から願う名盤中の名盤である。彼の指揮でライブを聴けばヴェルディがもう少し理解できたかもしれないと強く思う。
ご冥福をお祈りしたい。
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クラシック徒然草-小澤征爾さんの思い出-
2014 JAN 20 17:17:36 pm by 東 賢太郎
大学4年だった僕は半分遊び、半分英語の勉強でアメリカは東部のカナダに近くにあるバッファロー大学の夏季講習に参加した。別に何のためということもなく、最後の夏休みだしまったくの好奇心だった。ちょうどそのころ50をこえて外国銀行へ出た親父に英語だけはやっておけと口酸っぱく言われたのも影響したと思う。1か月ぐらいいたアメリカは楽しかった。渡米は2回目だったが最初は西海岸を車で1700km突っ走る無鉄砲旅行だけであり、東海岸、特にニューヨークへ行ってアメリカの大学を見てみたかった。その後にペンシルバニア大学で修士号を取ることになるなど夢にも思っていなかったが、この時にすでにそういう思いがあったから野村證券が企業派遣留学生に選んでくれたと思う。この時何も聞かずにポンと金を出してくれた親父のおかげだ。思えば他愛のない英語の授業をうけていたわけだが、まがりなりにも学生証をもらって米国の大学にいるというだけで気分がうきうきした。時間が無限のようにあったのだ、あの頃は。
今は知らないが当時の東大法学部生でそんなのに一人で参加する奴はまずいなかった。だからアメリカに興味を持ったあたりから僕はあそこの卒業生としては異色の道に進む定めになったと思う。学外の人と接することもあまりなかったので20人ぐらいいた他校生からは珍重はされるが敬遠もされるものだということを初めて知り、こちらから進んで飲みニュケーションに徹して仲良くしてもらった。こんなことでも証券業界に入るとやっておいてよかったと思えるようになる。みんなでナイヤガラの滝からトロントへ行ったり、ボストン、ニューヨークへも旅行した。もうすっかり溶け込んでいた。エンパイアステートビルやロックフェラーセンタービルに上ったのはそれが初めてだ。すべてがカルチャーショックだ。こんなのと戦争しちゃあいかん、凄いなあと思った。
ボストン郊外のタングルウッドでは小澤征爾さんとボストン交響楽団を聴いた。いま日経新聞で私の履歴書を連載されている。好きなことにものおじせず挑戦して勝ち抜かれた姿は実にすがすがしい。スクーターでやってきた何の実績もない日本人の若僧がブザンソン・コンクールで優勝してしまうのもすごいが、それをちゃんと認める欧米人もいいなと思う。それが誰か?ではなく能力だけを別個に評価する。実力はどうか?よりもそれが誰かを先に見てしまう日本とは大違いだ。日本が一番ダメなのはそれである。まじめに努力してどうしてもやりたいやらせろと言う若者に対して、日本はともかく、世界の門戸は開かれているのだということを教えてくれる。彼は英語もできずpieをパイとも読めずに外国へ飛び出していったのだ。もういいトシの僕ですらいま勇気をいただいているところだ。若い人は是が非でも小澤さんの私の履歴書を読むべきである。
さて、タングルウッドだ。ここは野外音楽堂でボストンSOがサマーコンサートをやっている。ボストン・ポップスという名でやっている。ちなみに「そりすべり」のルロイ・アンダーソンもそれを振っていた。その後継者が僕がクラシック入門したレコードの指揮者アーサー・フィードラーだ。だから一度は行ってみたい憧れの場所だったのだが何せ野外だから音響は良いはずもなく、こういうところでクラシック音楽をやってしまうのがいかにもアメリカだと思った。でもみんな寝っころがったりそれぞれの格好で楽しんでいる。何はともあれ音楽が好きな人たちが集まっているのはよくわかり、やがて気持ちよくその一員になった。曲目は後半が何だったか忘れたが、前半にチェコの名ピアニスト、ルドルフ・フィルクシュニーが出てきてモーツァルトの協奏曲24番をやった。フィルクシュニーは亡くなったが今でもCDを見つければ全部買うぐらい大好きなピアニストである。24番も当時から好きな曲であり嬉しかったが、どういうわけかピアノのキーがひとつおかしな音を出して、残念ながらそれが気になってしまうともう楽しめなかった。
小澤征爾さんを見かけたのは、その1か月が終わってボストンから日本へ帰る飛行機の中だった。トイレに立ったら通路側の座席によく似た人がいて、本を開いたまま眠っていた。エコノミークラスだしラフな格好だったのでまさかと思ったが、Tシャツに大きくBoston Symphony Orchestraと書いてあった。それで目を覚まされたときにおそるおそる話しかけてみたら、小澤さんだった。何を話したかよく覚えていないが、自己紹介したところこっちに来てみてどんなだったと逆にいろいろ聞かれた。音楽のことはあまり話さず先日のコンサートのこと、東京ではドヴォルジャック(そう発音された)のスターバト・マーテルをやる予定であれは有名でないがいい曲ですよなどだ。英語の辞書にサインをいただいた。それだけのことだが、23歳だった僕にとっては人生で初めてお話をさせていただいたビッグネームであり、偉いかたは謙虚なんだと心に焼きついた。結局その1か月何を特別にしたわけでもないが、若いときの外国の経験というのは学校の勉強より後々に残ると今になって思う。勉強はほったらかしだった劣等生のいいわけだが。
デュトワとN響のプーランクを聴く
2013 DEC 7 22:22:04 pm by 東 賢太郎
今日は1階中央10列目でほぼ理想的な音がきけました。プーランクの「グロリア」、ベルリオーズの「テ・デウム」という宗教音楽2曲は通好みでした。指揮者シャルル・デュトワはニューヨークで幻想交響曲(モントリオールSO)、東京ではN響とのサンサーンス3番など、ライブではやはりフランス物が印象に残っています。
ロンドンにいたころ、85年ごろというとちょうどLPからCDへの移行期でした。デンオンのCDプレーヤーを買って何枚かCDを購入、これも買ったばかりのタンノイのスターリングというスピーカーでワクワクして聴いたのを懐かしく思い出します。その1枚がデュトワ/モントリオールSOのラヴェル(ダフニスとクロエ・右)でした。それまでのLPレコードのような内周部の歪みの心配がなく、音も艶があってきらめいていたのに感動し毎日のように聴きました。仕事に追いまくられていた当時、人生を明るくしてくれた思い出の演奏です。
デュトワのプーランクを聴くのは初めてでしたが、今日の「グロリア」は僕の好きな曲であり実にすばらしかった。この曲と同じくプーランク作曲の「スターバト・マーテル」は近代フランス宗教音楽の傑作です。とはいえグロリアはどこかオペラティックでもある不思議な曲なのですが、デュトワは非常にデリケートな音を紡ぎだし、フランス風の色彩感にあふれた透明度の高い音楽にしておりました。またソプラノのエリン・ウォールの声も大変美しく純度の高さがデュトワのスタイルにマッチしているのも楽しめました。どうせなら後半もプーランクで行って欲しかったぐらいです。
後半はベルリオーズの「テ・デウム」でした。この曲はパリ万博の祝賀行事の一貫として1855年に初演されましたが、その場所はパリ1区北部にあるサン・トゥシュタッシュ教会(写真上)だったのです。この教会は僕には特別な場所で、1778年にモーツァルトの母がパリで客死し、その葬儀を行ったのがこの教会なのです。モーツァルトが落胆し涙を流したに違いないその教会を僕は2010年7月に感無量の思いで訪れました。
その「テ・デウム」ですが、合唱も含め熱演でした。テノールのジョゼフ・カイザーも好演。しかし僕はどうもベルリオーズの一部の作品は好きでなく、この曲もその一曲です。旋律の出来からしても、対位法的にも和声法的にも一流の作品に聴こえない。教会の音響の中で聴けばオルガンとオーケストラの掛け合いなど残響を伴って一定の効果はあるのでしょうが・・・。
ベルリオーズは型破りの天才で27歳にして幻想交響曲を書きました。幻想交響曲を愛することで僕は人後に落ちませんが、その後の作品はどうもそれほど愛情はない。これはやはり28歳からバレエ3部作を書いたストラヴィンスキーへの愛情が3部作とその後で差があるのと似ております。天才との付きあい方は難しいのかもしれません。
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