クラシック徒然草-ユリア・フィッシャーのCD試聴記-
2013 NOV 29 23:23:16 pm by 東 賢太郎
ハチャトリアンのヴァイオリン協奏曲は高校時代にダヴィッド・オイストラフと作曲者の指揮によるLPをすり切れるほど聴きました。いつぞや書いた「遺伝子の記憶」だったのかどういうわけだったのか、初めて聴いた時からこの曲にはゾクゾクして魅かれるものがあり、コーガン、シェリング、ヘンデル、エルマンなども愛聴してきました。アラム・ハチャトリアンはアルメニア人です。つい先日のブログに書きましたがいま僕は仕事で旧ソ連CIS(Commonwealth of Independent States、独立国家共同体)を調べています。アルメニアはCIS加盟国であり、たまたま、しばらくご無沙汰だったこのコンチェルトが気になり始めていたところでした。
先日N響で聴いたトゥガン・ソヒエフはチェチェン共和国も含まれる北カフカース連邦管区の北オセチア出身で、CISではないが地域的にはしごく近い。カフカースとはいわゆるコーカサスのことであり、アルメニアは南コーカサスである。僕がクラシックに入った曲がそのコーカサスを描いた「中央アジアの草原にて」だったことはブログに何度も書きました。そうしたら、不勉強で申し訳ないが最近気にいっているユリアのCDデビュー曲がそのハチャトリアンだったことを知りました。彼女は11歳でこれを聴いて好きになったそうです。このコンチェルトを指揮者クライツベルグとやった演奏会がすばらしくて、そのことが録音のきっかけとなったそうです。その演奏会の場所がフィラデルフィアであったそうで、これまた僕の留学先です。どうも縁を感じてしまいます。
というわけで彼女のCDを2枚買って聴きました。まずは新しいブルッフとドヴォルザークです。期待しましたが、どうも音が奥に引っ込んで散漫な感じがする。このチューリヒ・トーンハレというホールで僕はこの管弦楽団を2年半聴きました。そのこけら落としだったでしょうかブラームスが来て自作を振ったそうで、その100周年のブラームスシリーズもここで聴きましたし、感動的だったショルティの最後の演奏会もここでこのオケでマーラーの5番でした。当時小学生でチューリヒ日本人学校にいた長女がここの舞台で和太鼓を叩いたりもして、けっこう思い出の深いホールなのです。
しかし、どうも見かけほどは音がよくない。音が拡散気味でコクがない。コンセルトヘボウやムジークフェラインとは比ぶるべくもなし、オケもそこの2つのオケとは比ぶるべくもなし。大吟醸と清酒ぐらいの差。ジンマンという指揮者は器用でうまいが好みではなく、自然とやや足が遠のきました。チューリヒ湖畔で会社から歩いてたった10分の所だったのですが・・・・。このCDは忠実にあの音ですね、残念ながら。ホールトーンを多めに独奥系の音を狙って遠目のフォーカスにしたかもしれないが、あの音を2階席奥から聴く感じです。ブルッフは特にオケが重要な音楽です。
これが老舗の名門Deccaの音だと主張されるならそれはそれで構わないが、平板でつまらないものは正直に仕方ない。ブックレットのクオリティも含めてどうも感心しない。クラシックレーベルの経営が楽でないことは重々承知だが安易な感じがします。灘の剣菱という赤穂浪士が討ち入り前に飲んだという清酒の老舗が商業化して味が落ちたことがある。ああいうことにはなってほしくない。マイナーレーベルのPentaToneは大事に作っていたが、ユリアもFA移籍で読売ジャイアンツに行った大物選手みたいにならないように切にお願いしたい。
ユリアの演奏は彼女らしい張りと緊張感があります。しかしこの遠い位置の録音だと彼女の室内楽的なオケとの交歓がよく察知できない。ライブは確かにこう聞こえるが視覚情報がない録音ではもっと聞こえてほしいものがたくさんあります。このCDはユリアよりも全体ポリシーが勝ったもので、ソリストは彼女でなくてもいいという性質のもの。それにしてもブルッフの第2楽章の高音は音楽に没入して彼女にしては珍しくやや甘い。ライブならこれでもいいが・・・。ブラームスの第1楽章コーダもそうですが、そういう部分を彼女は重視していて(それは大賛成だが)、知情意のバランスが動く。基本的にそのバランスがきっちりしている人だけに、そういう部分では若さが顔を出すように思われます。
次にいよいよハチャトリアンです。これは良かった。この曲の最高級の演奏と太鼓判を押します。オイストラフに比べるとローカル臭は希薄であり、エルマンの訛り(なまり)もヘンデルの色香もなく、中央アジアの草原をスポーツカーで走る観なきにしも非ずですが、こういう方向の演奏でこれほどの完成度のものはなかったでしょう。ロシア国立管弦楽団が小味で繊細な音を出しており、クライツベルグは非常に良くつけています。この曲の伴奏としてトップクラスの名演です。彼は11年に51歳で癌で亡くなりましたがユリアとは実に音楽的気質が合っていたことがこのCDで分かりました。
プロコフィエフの1番。第2楽章はN響ライブで聴いたイザベル・ファウストと双璧の名演です。透明な叙情がいくばくかの妖しさを秘めた和音が印象的な第3楽章には彼女の感情移入を感じます。よく聴かないとわかりませんが。そうした密やかなエモーションがクールな知性と細部まで神経の通った研ぎ澄まされた技巧でラップされているのが彼女の演奏の個性で、ここでは成功していますし、ハチャトリアンでもそれは一貫しています。これと2番とどっちを弾くかで性格が分かりますがユリアがこっちを採ったのはわかる気がします。僕はどっちも好みなので、いずれ2番もお願いしたいですが・・・。
PentaToneの録音につき一言。SACDの効能はオーディオ通ではないのでわかりませんが、よろしいですね。情報量、クリアネス、弦の質感ともいい。これはモスクワのスタジオのホールトーンとオケの優秀さにかなり由来していますが技術者の耳の良さ、音楽性、良心も感じます。この会社は旧PhilipsのエンジニアらがMBOして設立したそうで、少なくともこのCDは僕の好きだったPhilips系のオケの音がします。この業界のMBOではおそらくキャッシュフローが楽ではないはず。看板のクライツベルグがいなくなったのも不運です。頑張ってもらいたい会社です。
グラズーノフ、これはロマン派の残り香がある名曲ですがあまり演奏されなのが不思議です。是非広く聴かれるようになってほしい。ハイフェッツ、オイストラフの名演がありますが、ユリアは彼女の個性で大家に対抗できていますね。G線の色香もなかなかで、彼女はけっして音程が良くて、左手が動いて、清楚なだけのヴァイオリニストではない。こういう表現は若くないと、逆に大家ではできないでしょう。クライツベルグのオケがここでもよく支えています。9年前の録音ですが、いやはや凄い才能を再確認いたしました。
N響 トゥガン・ソヒエフを聴く(1月21日追記あり)
2013 NOV 17 19:19:12 pm by 東 賢太郎
この36歳の指揮者は何者だろう。まったく名をきいたことなく、何の期待もなく、そして驚き、そういうことをしたことはかつて一度もないが、帰りに彼の来週のBプロを買いにNHKホールの窓口に並んだ。完売だった。
最初のボロディン「中央アジアの草原にて」のヴァイオリンの高音がひそやかに鳴った瞬間に、おやっ今日はいいぞと思った。何となく集中力がちがう。結局そのe音からプロコフィエフの最後の音まで、今日のN響の弦はかつて聴いた最高の音を出した。後で調べるとソヒエフの出身地北オセチアは黒海とカスピ海の中央で、来年の冬季オリンピック開催地ソチに近い。ボロディンがこの曲を構想した中央アジアはこの辺だろうから、これは彼のご当地ソングということだろうか。実はこれをライブで聴いたのは初めて。とても面白く、弦も管もとても良かった。この演奏がオケも客席も集中力を高めさせた。
続くはチャイコフスキー・コンクール優勝者ボリス・ベレゾフスキーとのラフマニノフのピアノ協奏曲第2番ハ短調だった。とても上手い。しかし速い。第2楽章などかつて聴いた最速の部類だ。ベレゾフスキーにスイッチが入ってしまっていて先へ先へと駆り立てられてオケが合わない。タメが全然ない。ソヒエフは彼の指を見ながら合わせる部分も。難しいパッセージを弾ききるといちいち見栄を切る。pもmfぐらいに弾く。前から4列目で目の前でそれを聞かされ見せられて辟易してしまった。第1楽章にして早やこっちの集中力は切れ、ウルトラ剛腕の体育会系のピアノの轟音を前にしながら、昨夜の宴会疲れもあって眠気に襲われそのまま終了。ラフマニノフ自身もこういう感じで弾いた可能性はあるがこの曲はそうではない名演を何十回も聴いており、これはノーサンキューである。
そして休憩後のプロコフィエフ。ラフマニノフとはうって変わって人生で最高のプロコ5番を聴いた。かつてロンドンでチェコフィルをアシュケナージが振った演奏がライブでの僕のベストだったがこれはそれをはるか上回る。ソヒエフの指揮は見ていて実にわかりやすい。パントマイムによって全身で何か伝えるように表情豊かで、手や動作による指示は交通整理のように手際よく、タイミングが絶妙で運動神経がいい。そういうことが一切あざとくなく、音楽の自然な呼吸であり要求であるとして奏者にびしびしと電気のように伝わるのが見ていてわかる。
経営者が社員に経営ヴィジョンを明確に伝えるのは大事だが、それは言葉でできる。声を出せない指揮者がどんな音を求めているかを楽員に明確に指示するのはやはり動作と表情なんだろう。その欲しい音というものが聴衆にまでわかるというのは珍しい。あの通り弾けばいい音楽ができて楽しそうだ。それを恐らくそう受け取ったコンマスの篠崎史紀さんが気持ちよさそうに弾かれ、それがオケ全体に連鎖する。全員が自発性を全開しながら棒に集中している。当たり前のようだが、こういうことは滅多に感じないほど稀なことだ。
N響がのったときのベルリンフィルみたいだった。だめなときは草食系っぽいが燃えさせるとすばらしいオケだということをわからせてくれた。トゥガン・ソヒエフ恐るべし!トゥールーズ・キャピトル国立管音楽監督とのことだが、いつの日かN響のそれをやっていただけることを切望したい。
(追記。16年1月21日サントリーホールN響Bプロ)
忙しく、チケットを忘れてきてなんとか入れてもらった。疲れていて、前半ラフマニノフPC2番まで夢うつつ。そして後半、チャイコフスキー白鳥の湖。これが良かった。マズルカを聴いてふと悲愴交響曲第3楽章の原型を見る(コントラバスの半音階低下するバスなど)。本当に素晴らしい音楽!
音楽は生ものだ。うまく調理して供してくれたソヒエフの腕に敬服。N響が信頼してぴったりついていく。すっかり頭が冴え、たまっていた滓をきれいに掃除してくれた。音楽の魔力。今日のような気分の日にそうしてくれたことに感謝。
(こちらへどうぞ)
クラシック徒然草-おふくろの味だったティーレマン指揮ウィーンフィル-
2013 NOV 12 0:00:04 am by 東 賢太郎
今日はウィーンフィル演奏会でベートーベンの7番と5番を聴きました。サントリー・ホールでのD社ご主催の日で、小泉元首相はじめ僕の古巣である両社の元社長などもおられ(久しぶりにお会いしましたが)全部招待客だったようでうす。ご隆盛をきわめるD社のH会長、Y常務には大変お世話になっており、弊社をこのような席にお招きいただき心より感謝申し上げたいと思います。
さて演奏ですが、多言を弄するまでもなく実に良いものでした。クリスティアン・ティーレマンは名前は聞いておりましたが聴くのは初めてです。前半が7番、後半が5番でしたが、伝統的かつ保守的そのもののベートーベンです。このオケが100年前から営々と演奏してきた流儀を損なうことのない、悪く言えば創意工夫のないものでしょう。
しかし、この流儀、僕らの世代がフルトヴェングラー、ベーム、イッセルシュテットらで聴きなじんできた昔のウィーンフィルの音を思い出すのです。なんとも懐かしい「おふくろの味」!堪能しました。漬物と佃煮にご飯とみそ汁なんだけど、どれもが極上品で舌鼓を打つばかり、とでも申しましょうか。ティーレマンの棒もあまり細かい部分にこだわらず、7番は奏者たちの伝統にまかせ、それを要所要所で盛り立てるという風情です。
古楽器だベーレンライターだという世の風潮ですが、ではヨハン・シュトラウスのワルツがそんな風にできますか?ニュー・イヤー・コンサートを古楽器でやりましょうか?そんなとんがったことしなくてもこれで充分でしょう?だって我々はウィーンフィルなんですから、とでもいう感じです。参りました。その通りでございます。
ふっくらした芳醇な弦(特にヴィオラ!)、あでやかな花園のような木管、木質で浮き出ない金管、革張りのティンパニ、特筆すべきはフルートの見事な縁取りと完璧なピッチ、上質のクリームのように滑らかなクラリネット、木管・ホルンのアンサンブルの天国的美しさ。まさに極上のウィーンフィルの音であり、これ以上は何も要りません。同行した長女もそれを楽しんだようです。
5番は名演でした。拍手が終わらぬうちに開始。リズムが生き、音色に見事なコクのある第1楽章。古雅な音がする第2楽章。ウィンナホルンが魅了する第3楽章、そして圧巻の加速で閉じる終楽章。ティーレマンはテンポのうねりで大きな波を作り、金管群をあおりにあおるなど自発性に任せながらムチはしっかりと入るという指揮であり、カラヤンよりはフルトヴェングラーを思わせるものがあります。期待の大器ですね。
今どきこんな古風なベートーベンが聴けるとは思いませんでした。ブラヴォー!
ヌーブルジェのラヴェルを聴く
2013 NOV 11 13:13:11 pm by 東 賢太郎
J.S.バッハ パルティ―タ第2番 ハ短調 BWV826 ショパン ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 op.58 リスト 巡礼の年第1年「スイス」から 郷愁 ラヴェル 高雅で感傷的なワルツ ラヴェル クープランの墓
先日これを聴いてきました。なんとも魅力的なプログラムです。オペラシティは1階の前の方だとピアノはなかなかいいです(オケは音が上に飛んでしまう)。スタインウェイですがやや木質の暖か味があり、残響と程よくブレンドしてくれます。ジャン・フレデリック・ヌーブルジェ(Jean-Frederic Neuburger)はフランス人ですが独語読みではノイブルガーだからドイツ系なのでしょうか。
僕はラテン・スクールのピアニストが好きでミケランジェリ、ペルルミュテール、ポリーニ、アルゲリッチ、チッコリーニ、ルプーなどコンサートを聴きましたが、録音でもコルトー、カサドシュ、ロン、ユボー、ルフェビュール、バルビゼ、フェブリエ、フランソワ、ケフェレック、ティーポ、メイエ、ルヴィエ、アース、ウセ、クリダ、あたりをよく聴いています。ということでヌーブルジェはそれなりに気になったわけですが、何か情報があったわけではなく、ひとえに「クープランの墓」が聴いてみたかったのです。
彼の特色を結論から申し上げると、大変なテクニックながらそれを前面に出さない趣味の良さ、知性と品格でしょうか。ショパンの第2楽章。スケルツォ主題を弾く右手の弱音のレガートが印象に焼きつきました。極上の滑らかさであって、例えるなら上質のペルシャ絨毯を撫でた感触。凡庸な人とは同じ楽器を弾いているとは思えないような音です。それがあまりに楽々と出るのは、ぜひピアニストの方にきいてみたいですが、大変な技術なのではないでしょうか。
i-tuneで売っていたので「クープランの墓」を比べてみましたが、前奏曲はライブの方が心もち速くやや淡泊でした。オケ版のオーボエやトランペットの音色を意識する風でもなく。フーガはほぼ同じ。対位法を紐解くイメージで面白く、最後を遅目にするのがユニークです。フォルレーヌは同じテンポでしたがCDの方が和音への反応が繊細。ライブは中間部のフレージングもちょっと中途半端に感じました。リゴードンはライブが活気があってよかったですね。丹念に彫琢したメヌエットは中間部のバスの入れ方が好きです。これは両方とも非常にいい。そしてトッカータ。力演でした。
「高雅で感傷的なワルツ」は各曲を微妙なニュアンスを弾き分けていて楽しめました。この曲はサントリーホールで聴いたツィマーマンの名演が耳に残っていますが、第3曲(Modere)など静かな場面での見事なタッチなどはヌーブルジェの個性が際立っていました。これは名演でした。
アンコールにプーランクのトッカータとショパンを2曲(エチュード、ノクターン)がありましたが、これを聴いてみると彼のタッチはショパンに最も向いているんじゃないかな、どうもそう感じます。平行3度の速めのパッセージを軽いレガートで歌うなど、ショパンだからできたのではという奏法が彼は苦もなく出来て、聴いたことのない味を出せるのです。ショパンには興味がないですが、あれなら聴いてもいいな。
ただ、繰り返しになりますが、それがウリではなく、知性と品格でそれを支配するセンスの良さ。恐るべき27歳です。作曲家でもあり、23歳で最年少でパリ音楽院の教授就任という人だから何年に一人という天才なのですが、彼の演奏に感じたのは技術、テクニックではなくそれを用いて描き出そうとしている彼の音楽のモチーフの大きさです。
最初のバッハはハ短調の重い曲であり、次のショパンもロ短調。重いです。コンサートのトリに来てもいいぐらい。それを彼はあえて重いまま弾くのです。バッハの冒頭の和音の暗い音色は印象的でした。後半のリストもそう。暗いのです。だからそれに続くラヴェルのコントラストが眩いほどにきわだつ。プログラム自体で彼は大きなモチーフに基づいた作曲をしたのかなと思います。
Youtubeにあったショパンのエチュードです。ポリーニのデビューの同曲は衝撃でしたが、それを思い出します。わが国ではまだ知名度がいまひとつなのでしょうか空席が目立ちましたが、いずれチケットがプラチナになる人と思います。
http://youtu.be/KkOPqgpBxME
クラシック徒然草-ユリア・フィッシャーと楽天マー君-
2013 NOV 6 13:13:28 pm by 東 賢太郎
ユリア・フィッシャーさんについては書きたいことがたくさんある。驚いたことにこれが8歳の彼女だ。
まず少女の堂にいったうまさに唖然とするわけだが、それだけではない。もっと驚いたのは彼女の音への厳しさだ。音というものが音楽を生成し、人のこころを打つのがどういうことか、この少女は知っている。そのために耳元でどういう音が響かなくてはならないかを。僕はそのようなことをカーチス音楽院できかせていただいたチェリビダッケの講義で知った。しかし彼女には生まれつき当たり前のこととして備わった感性のように見える。あえてそれを音楽哲学と呼ばせてもらうなら、この8歳の子には哲学があるのだ。驚くしかない。
このブラームスの凛とした入りを聴いてほしい。
この揺るぎのないフレージングとピッチ。高原の山肌に湧きでる清冽な泉だ。それも軟水ではなく硬水の。先日N響で聴いたライブとは雲泥の差だ。腕前ではなく演奏者の音楽観や哲学がである。彼女のソロが出るやオケのおじさん方に電気が走り、スイッチが入っていくのがわかる。ほんとうにすごい。
ユリアは pp にも電気を持っている。みな今日はいっちょうやるしかないなという空気になる。第1楽章コーダの静かなところを聴いてほしい。なんという見事な高音だろう。西の天空をオレンジにそめる夕陽。人生のたそがれの慕情をぎりぎりゆっくりのテンポで歌う彼女の眼はどこか「入って」しまっている。第3楽章の全奏がバシッと決まると彼女はオケににこっとする。「いいね」のサインだ。オケはまたその笑顔がほしくて燃え、いい音を出してしまう。指揮者もオケも彼女のしもべだ。なんという大器、大物だろうか。
こちらで同じブラームスをヤコブ・クライツベルグ指揮ネザーランド・フィルでより良い条件で聴ける。
http://youtu.be/S8EfvCqf7gs
ユリア・フィッシャー(Julia Fischer)の二刀流 で「同曲トップを争う名演」と紹介したチャイコフスキーと指揮者は同じだ。残念ながらここではオケがやや硬くて小じんまりしており、フィッシャーもさすがにブラームスでは表情がまだ若くて同曲トップとはいかない。しかしいずれ彼女はこの曲にふさわしい大人の奥深さと風格をまとった演奏を聴かせてくれるに違いない。
話は飛ぶが、先日、楽天のマー君がなぜ負けないか考えていた。日本シリーズの投球を見ていてわかった。技術だけではない、彼の「気」だ。160球投げても翌日志願して敵をやっつけに出てくる。この「気」がナインにもベンチにも伝播する。ナインはみんなもと野球少年である。野球好きの血が騒ぐ。彼が投げたら変な試合はできないぞという電気がみなに走る。「勝てる」「勝つぞ」となる。だから勝てるのではないか。球の速い投手はいくらもいるのにどうして彼だけ連勝したかというと、そういう「気」を発することができる人がほとんどいないからだ。そしてそれはユリアの持っているものと、とても似た気がするのである。
そう考えるにつけ、日本の演奏家やオケというのはどうしてあんなにクールにお仕事みたいに弾くのだろうと思う。うまいのだが「気」が出ていない。楽しくないのだろうか。女の子にはピアノというのが本邦の定番だ。女性がピアノを弾けるというのはいいものだが、別に音楽にジェンダーはない。ピアノが弾けないと嫁にいけないわけでもないし、ピアノがうまくなっても音楽好きになるとは限らない。一流音大ピアノ科に入ったが田園交響曲を聴いたことがない子に会ったこともある。僕が驚いたら「そうなんですか?周りも似たもんですよ」と逆に驚かれた。
なぜ驚くかというとそういうことは野球では絶対にないからだ。草野球だってやってる子はすべからく野球が飯より好きだ。外野手だからピッチャーのことは知りませんなどということはない。だからその頂点にまで行き着いたプロ選手が、実は親にいわれてやっただけです、本当は興味ないんですがなどということは100%ない。彼らは勝ちたくて試合している。だからいいプレーが出る。グラウンドで客を感動させようとショーを演じるわけではないが、野球の好きな客はいいプレー、自分ではできないプレーが見たい。だからそれを見て感動するのだ。 先日行った日本料理「くろぎ」の黒木氏は「舌が鈍るから夜は食べない」という。自分が感動できないものは客に出したくないということだ。人を感動させることを職業とするプロいうものはそういうものだ。
ピアニストだから交響曲は知りませんというのはどうもおかしい。練習が忙しくて聴く暇がない?そんなことはないだろう。今どきはi-phoneで移動中でも聴ける。要は興味がないということだろう。田園交響曲に感動しない子が悲愴ソナタには感動できるとは、どうしても思えないのだ僕には。好きでもない子が弾いたピアノが人を感動させるのだろうか?よくそこまで練習したね、お上手お上手と感心はされるだろう。しかしそれは芸術創造というよりもミスのないことを良しとする銀行やお役所の仕事に近い。
これはモーツァルトのk.364(ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲)だ。
オケの前奏部分をユリアは一緒に弾いている。楽しそうに!もうソロが出る前から「気」が出ているではないか。ヴィオリストもそれを受け取って同じオーラの波を立てる。彼がちょっとしたミスをしたらユリアが「あっ、やっちゃったね」と笑いかける。彼女がリーダーなのだ。それがまたいい「気」を出す。そしてそれがオケに伝わっておおきな波となっていくのだ。楽員はみんなオンガク少年、少女だった。ハートに火がともっていく。見ているだけでこちらも楽しくなる。モーツァルトの喜びが伝播しているのだ。これが音楽というものだ。
マー君も並ぶもののない投手として金字塔を立てたが、ユリアさんはどうだろう。まだ若いが、僕は彼女が21世紀のハイフェッツになると固く信じている。
クラシック徒然草-イザべラ・ファウストのヴァイオリンー
2013 NOV 1 22:22:30 pm by 東 賢太郎
以前にユリア・フィッシャー、イザべラ・ファウスト、ヒラリー・ハーンが気になる3大ヴァイオリニストだと書きました。実は昨日そのひとりイザべラ・ファウストさんがサントリー・ホールでチェコ・フィルとベートーベンを弾いていて、さんざん迷ったが日本シリーズが気になって失礼してしまった。罪滅ぼしに今日は某CDショップでの彼女のプロモーション演奏を聴きに出かけました。
J.S. バッハを弾きましたが、パルティ―タ3番のプレリュードなど彼女の音楽は非常に人を集中させ、惹きつけるものがあると感心しました。トークもあって、バルトークを11歳から弾いていた話、その1番の協奏曲は校訂が進んでいないため自分でブダペストのアルヒーフまで行って初演時の手稿まで研究した話など面白かった。本当に音楽が好きで没頭しないとプロとはいえ普通はそこまでしませんね。大変知的だがお人柄もよろしい純真な方という印象でした。
このCDを買って、普通そこまでしないのですがあまりに気に入ったので列に並んでサインまでもらってしまいました。
このJ.S. バッハ無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティ―タBWV1004-1006は愛聴しそうです。僕の愛聴盤はシェリングなのですが、彼女のきりりともぎたてのレモンのような、それでいて聴き手をまきこむ強い求心力のある演奏は実に新鮮です。
近くで聴いて深みのある楽器でもあったのでおたずねすると「ストラディヴァリウスです」とのこと。これだけひとことお礼を言いたかったので「以前きいたN響とのプロコフィエフが良かった。ありがとう。」と伝えると、驚いたようににっこりされました。
ノリントンとN響のベートーベンを聴く
2013 OCT 27 2:02:32 am by 東 賢太郎
レオノーレ3番、ピアノ協奏曲第3番、交響曲第5番というオール・ベートーベン・プログラム、ピアノはラルス・フォークトであった。3曲とも主音がハで、ハ長調で始めてハ長調で終わる。
東日本大震災の1か月後、原発事故に恐れをなして外人はおろか一部日本人も関東から逃げ出していた4月16日のことだ。ノリントンさんは予定通りに来日して、NHKホールでN響のAプロ、ベートーベンの交響曲第1番とエルガーの同1番を指揮した。思えばそれがこのベートーベンシリーズの幕開けだった。外国のオペラハウスやタレントが次々と苦しい言い訳をして東京公演をキャンセルしていた中でのことだった。あの日の指揮台からの震災犠牲者への追悼の言葉と、そうして演奏された誇りに満ちたすばらしいエルガーを僕は一生忘れないだろう。
若いころ6年イギリスで生活した僕はいろんな英国人とつきあい、たくさんのことを彼らに習った。知識はアメリカで教わったかもしれないが、紳士たること、そして大人の男のダンディズムとユーモアみたいなものを教わったのは断然イギリスなのだ。ノリントンさんにはそれを強く感じる。大人なのにある稚気、子どもみたいな好奇心やいたずら心にも魅かれるものを感じる。ああいうお客さんがいたなあ、一緒にゴルフしたなあ、東京や京都なんかを企業調査トリップしたなあ・・・もう無性に懐かしい。
例えば、レオノーレは舞台裏でトランペットが鳴るが、普通は奏者は演奏後も舞台に登場しない。しかし彼はカーテンコールでその奏者をソデからひっぱって連れ出してきて万雷の拍手をうけさせた。これがイギリス人だ。上手く吹いた彼の名誉のためでもあるが、舞台裏の仕掛けまで明かして楽しませる、これは彼一流のユーモアでもある。マジシャンが前座ネタで見せた手品のタネをわざと明かして笑いを取ったような。会場の気持ち一つにしようという試みのようであり彼は一見、和気あいあい型の指揮者であるかのように見える。
レオノーレから弦はいい音で鳴っていた。前回とほぼ同じ席だったが音がまるでちがう。まずは古楽器流ノンヴィヴラートである。その効果は音の純度を高めるだけでない。和音が美しい。音取りは一発勝負でごまかしがきかないから奏者の集中力も高めただろう。これに耳が慣れるとヴィヴラートが汚らしく感じてくるな、と今後の身の危険すら覚える音だ。ノリントンはコンセルトヘボウ管弦楽団のコンサートマスターであるヴェスコ・エシュケナージを連れてきて弦をリードさせた。リーダーを入れ替えないとできない。そこまで徹底してやるぞという意志を見る。和気あいあい型?とんでもない。彼は一流の支配者である。これがイギリス人だ。
P協3番には驚いた。蓋をはずしたピアノが完全に向こうむきでピアニストは客席に背中を向けて座る。オケはピアノを中心に半円形に並んでいてオーム(Ω)のような形に座っている。Ωの開口部からピアノが見えていて、開口部両わきの第1、2ヴァイオリンも円形に添って半分は客席に背を向けている。指揮者はピアノの奥、やや左から客席を向いてピアニストと向き合って棒を振るというあんばいだ。大きな室内楽空間という感じになり、貴族の大きな館でやっている演奏会をバルコニーからでも見ている感じだが、面白かった。その空間あってのインティメートな音楽は3番として異例であり、月明かりのように幻想的なppの支配したホ長調の第2楽章は、聴衆に向けているというよりもスコアにある内省的な感情を掘り下げるようで大変ユニークであった。
ラルス・フォークトはたしかP協1番をドイツかどこかで聴いた。今回はその時のイメージとはちがっていた。徹底したレガート主体、弱音重視であり、弦の柔らかいノンヴィヴラートに融和する音色を出していたのが印象的だ。シューベルトよりのベートーベンといったところだ。第3楽章展開部で各声部がフガート風に入っていくところの弦のテクスチャーなど聴いたことがない精妙なものだった。思わず耳をそばだてたが、ピアノもそのデリケートな透明感と一体になっていて、指揮者とのアイコンタクトによって、触れれば電気が走るような絶妙の間合いとインスピレーションにあふれる音楽を生んだ。コーダのユニゾン下降ですらffで弾かないのは驚いたが、それがノリントンのコンセプトなのだ。アンコールのショパン夜想曲20番嬰ハ短調もデリカシ―の極致であり、美しかった。
第5交響曲。冒頭は物々しさとは無縁だ。あくまで主題の提示であり、あくまで「管弦楽のためのソナタ」として快速で進み、あちこちで鳴る運命主題はスタッカート気味に自己主張する。実に刺激的で面白い。テンポはほとんどルバートせず、大家然とした手垢のついた解釈をあざ笑うかのように快速テンポで疾走。楽譜にないユニークな強弱設定があると思えば、第2主題を導くホルンは2度目はファゴットと楽譜通り。これがどういうわけか余りに自然であり、むしろファゴットでなくてはならないと納得した次第。こんなことは人生初体験だ。「楽譜にない」とつい書いたが、作曲家の本音はそうだったとして不思議でないとまで思った。大家然の手垢のほうがおかしいのではないか?僕らは妙な5番を刷りこまれてきたのでは?
第1楽章の最後の和音が重々しく鳴り終わるやいなや、彼は客席を振り返り、おどけた顔で額の汗をぬぐって「ふう~」とため息をついて見せる。「あ~力いっぱいやってみんなちょっと疲れちゃいました、一休み」とでもいう感じだ。客席から笑いと拍手がこぼれる。運命は扉をこうたたくなどと学校でくそ真面目に教わっている我々はここでまた「妙な刷りこみ」の呪縛を解かれる。そしてそっと鳴りだした第2楽章。好対照である柔らかい音色。あれはそこへの巧みなブリッジ、お口直しだった。
この楽章から第3楽章のピッチカート部分のアクセントにいたるまで、細部では凝りまくったことが行われた。弱音部では弦5部とも最後尾のプルトを弾かせないのも驚いた。全員がpp で弾けばいいだろう?いやそれとは違う効果を狙ったものだ。これぞ楽譜にはない。ヴァイオリンが12人もいる大オーケストラなら作曲者はこうしただろうという主張を見る。和気あいあいとは程遠い強靭な意志の徹底だ。管のほうではこの日のN響はクラリネットとファゴットがいい音のブレンドとなり、中間楽章でオケ全体に暖かい質感を与えていたのが印象に残る。
第4楽章ではト長調第2主題に、第2ヴァイオリンがfpで嬰二音を入れるが、彼はこれを闖入者みたいに強調して弾かせ、それどころか客席に「これを聴いて!」とばかり目くばせまでするのだ。彼は「サプライズとユーモアがなければベートーベンではない」と持論を語るが、僕も同感だ。あの音の強調を高邁な「解釈」として押し付けるのではなく、「サプライズを一緒に味わって!」と客席まで巻き込むのだ。どう、ベートーベンって楽しいでしょ?というスタンスだ。大賛成である。
彼は他人をインスパイアできる人だ。5番が「できたてほやほやの音楽」だった息吹を聴衆に体感させ、クラシック音楽が博物館の干からびた聖遺物みたいになるのを救っている。僕は音楽をショーマンシップのだしに使う演奏家は徹底して嫌いだが、「嬰二音」を強調して見せても何のショーにもならない。彼はあれにいつも「サプライズ」を感じるのではないかと推察する。それを皆さんにも味わわせたい。それがベートーベンを聴くということだからだ。料理人が良い食材を手にしたときと同じで、それはプロとしてまったく自然な動機ではないか。
そういうことをうるさくて嫌う人がいるだろう。第4楽章のコーダでテンポがにわかに速くなって終結へ向かうなど、不自然だ、恣意的解釈だという人もいたに違いない。正統派ベートーベン好きからすれば許し難い冒涜かもしれない。おそらくそういうことでブーも飛んでいた。これはノリントンにとって名誉なことだ。個性は賛否両論を呼ぶのが常である。いつも全員賛成で不感症にちかい日本のコンサートホールに個性を叩きつけて、認められたということだ。僕はといえば、非常に楽しんで、涙が出るほど感動した。過去の大指揮者たちの気ままな恣意とショーによる手垢がきれいに剥げ落ち、まるで積年の埃を洗い流したモナリザを見たような、ベートーベンの原画が秘めていたパワーに触れたような思いだった。
さっき5番のスコアを見返していて、残っている楽譜って何なのだろうと改めて考えた。 P協3番の初演のピアノをベートーベンは即興で弾いたのだ。弟子が弾く時に、ある意味レファレンスとして譜面にしたのが元になって今の出版譜になっている。これは現代ならジャズにきわめて近いだろう。例えばモーツァルトの26番のピアノパート譜はレファレンスどころか自分のための備忘録程度の部分もあり、音からして「まったく不完全」なものだ。それをくそ真面目に音にしているクラシックオンガクとは何なのか? だいぶ前だが、女の子が運転する車が古いカーナビの指示するままスーパーマーケットに突入してしまうCMがあったが、それを思い出して滑稽ですらある。
そう書いてあるから絶対ということではないのだろう。スコアを初演前後のパート譜からおこした場合、その時の演奏会の奏者や楽器やホールなどの様々な特殊事情でたまたまそうなった部分が印刷されてしまったかもしれない。ノリントンが譜面からベートーベンの「サプライズとユーモア」を読み取ろうとするのは、だからとても刺激的な試みだ。それは音符にはならない。音符から感得するしかない。音楽家の知性、感性、常識、教養、好奇心はだからこそ重要なのだ。日本人の演奏はどうも「カーナビの言うとおり」という感じがしてならず、N響もそういう性向がある。それを啓蒙専制君主のごとくぶち壊しにかかったノリントンさん、賛否両論の域までもっていって見事であったし、それを高い集中力で具現したN響も好演であった。
カントルーブ 「オーヴェルニュの歌」
2013 OCT 17 22:22:24 pm by 東 賢太郎
なごり惜しいのですがスペインを後にしましょう。今回からいよいよ南欧シリーズ<フランス編>に入ります。
ほとんどのクラシック好きの方は知っていて一般の方には知名度がほとんどない曲をご紹介します。「これ
が好きです」と言って嫌味にもならず、あっけっこう通だなと思われる曲です。パリから約400キロ離れたオーベルニュ地方(右)の首府はクレルモン・フェラン、周辺の重要都市はリオン、ヴィシーなどです。世界有数のタイヤメーカーであるミシュランの本社はここにあります。高原地帯で土着の文化が濃厚にあり、言葉もオック語という固有言語を持っています。スイスの山岳地帯でロマニッシュ語を話すサンモリッツあたりのイメージに近いでしょう。東京から400kmというと盛岡市、神戸市あたりですが、そこの住民が外国語をしゃべっているというのは想像がつきにくいですね。
この曲集はそのオック語で書かれています。ほとんどの人は(ひょっとしてパリッ子も)何を言っているかはわかりません。オーヴェルニュ地方に伝わる民謡をカントルーブが採譜してソプラノにオーケストラ伴奏をつけた曲なのでそうなっているのでしょう。この音楽はオーヴェルニュ地方の清涼な空気そのものであり、僕にとっては疲れた時の最高のいやし、精神の漢方薬でもあります。オーベルニュ地方の田園風景はこんなもののようです。
初夏の陽だまりの中、この風景の中にいる気分になってください。そして、全身がリラックスしたら、これにのんびりと耳をかたむけてみて下さい。何も考えずに。
歌はフランスのソプラノ、ヴェロニク・ジャンスでした。ただただ美しいですね。今の2曲目が「バイレロ」(Bailero)といって、この全5集(27曲)からなる曲集の中でダントツに有名な曲ですので覚えておいてください。
次にそのバイレロをポルトガルのソプラノ、マリア・バヨで聴きましょう。
指揮者とオケが繊細ですね。声はジャンスよりコシがあり感情の起伏も大きいですが、とても曲想にマッチしていると思います。
バイレロの最後です。これを聴きください。
歌はイスラエルのネタニア・ダヴラツ。何という懐かしさ、純朴さでしょう。「うさぎ追いしかの山・・・」か新日本紀行か。オーケストラの木管の鄙びた味!あまりうまくないのに、そのほうがどこか良かったりする。民謡を完璧な合奏でやっても、大事な何かを失ってしまうのです。都会で疲れている僕たちに、それが人間らしいということだよといつも気づかせてくれます。
世界はオーヴェルニュといえばダヴラツ、ダヴラツといえばオーヴェルニュなのです。
ピエール・ド・ラ・ローシュ / スタジオ・オーケストラ ネタニア・ダヴラツ(sop)
CDはこれです。僕の永遠の愛聴盤です。そして世界中のどこへ行っても名盤中の名盤と評価されているのです。言葉はいりません。
お知らせ
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ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
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オスカー・ピーターソンを聴く(Oscar, the Great)
2013 OCT 2 1:01:58 am by 東 賢太郎
いまあるプロジェクトの起草にとりかかっています。けっこう遠大なものであり、コンセプトだけはしっかりあるのですが各論に落とすのに苦労しています。毎日頭だけ使って完全に運動不足なのですが、占いによると今は運があるらしいので一気にやるしかありません。下手の考え休むに似たりです。
こういう疲れた時にいいなと思っているのが実はジャズです。頭の凝りがほぐれる感じがします。アメリカにいた時にジャズ好きの友人がいて、よくニューヨークで一緒にヴィレッジヴァンガードやブルーノートに行きました。そのどっちだったか忘れましたが、入ると暗闇にタバコの煙の中でもうステージが始まっていて、ドラムスの目の前のテーブルに案内されました。ステージといってもひな壇の上ではなく同じフロアなので、本当に目と鼻の先です。ちょっとトシの黒人ドラマーがビシバシ叩いていて格好いい。友人に「あれ、誰?」ときいたら「アート・ブレーキ―だよ」と教えてくれました。
いま久しぶりに聴いて元気が出るなあと感激したのがオスカー・ピーターソンです。彼の
The Trio というシカゴライブが僕は好きでよく聴きます。座席のグラスの音なんかが聞こえてきて、アメリカを思い出すのもいいんです。余談ですが、クラシックのピアノ・トリオは相棒がヴァイオリンとチェロだけれどジャズはドラムスとベースです。このレイ・ブラウン、エド・ティグペンとの定番トリオがいいみたいですが素人の僕には違いがよくわかりません。しかしとにかくピアノが上手い。代表盤のWe Get Request で彼はちらっとバッハを挿入していますが、グレン・グールド並の指の回りだからイタリア協奏曲でも聴いてみたかったですね。
2番目のスローなナンバー、In the Wee Small Hours of the Morning が実に素敵です。弾いてみたいなという曲です(まあ無理でしょうが)。印象派というのも少し違う、やはりjazzy としかいえない和音がちょっとクラシカルなムードの中にそっと香ってきてとてもいい。次のChicago は有名だけど、こういうのよりも Scrapple from the Apple みたいなノリの方が好きであります。この曲、クラシック的に言うと「対位法的」であって、そういう造りの曲は(おそらく)クラシックとジャズしかありません。旋律と伴奏和音という造りとは違う精密な音楽で、クラシックでもバロックでジ・エンドになりました。モーツァルトも大勢で見れば対位法的作曲家ではありません。
それにしてもピアノが上手い!どう練習したらこんなに弾けるんだろう。モーツァルトとい
うと、キース・ジャレットのはそう面白いもんではなかったけど、オスカー・ピーターソンのは様になる気がします。そういうタッチのピアノです。彼は腕だけでなく耳というか和声感覚が研ぎ澄まされていたであろうと想像します。というのはIn Tuneという、これまた僕の愛聴盤があって、これはザ・シンガーズ・アンリミティッドというアカペラグループの伴奏をオスカーがしているのですが、ここの近代的な和声はもう最高に素晴らしいのです。聴いたことない方はだまされたと思ってあのセサミ・ストリート(sesame Street)を聴いてみて下さい(i-Tuneにありますよ)。このグループを自分で見つけて伴奏を買って出たそうなので彼の音楽趣味がよくわかります。よくバカテク・ピアニストの元祖みたいに言われるそうですが、ちょっと違うんじゃないかなと思いますよ。
いや、すっきりしました(アルバム聴きながら失礼しました)。
ブロムシュテットのブラームス
2013 SEP 28 1:01:22 am by 東 賢太郎
今年は面白そうなものを適当に聴くようにしている。今や残された数少ない巨匠となった感のあるヘルベルト・ブロムシュテットのブラームスのヴァイオリン協奏曲と交響曲4番を聴いた(N響)。
ブロムシュテットは比較的好きな指揮者であり、本当は2,3番が聴きたかったが、あいにく出張に重なった。だからちょっと期待はあった。座席はいい。一階正面中央9列目だから常識的にはこのNHKホールで最上級の一角のど真ん中であった。前半の協奏曲が始まると、しかし、だめだった。トゥッティが、特にヴァイオリン群がにごる。はっきり言うが、高音の強奏がとてもきたない。ブラームスを聴くのに最も聴きたくない音だ。対向配置の第2ヴァイオリンはステージ後方に向けて発音するが、それが奥の壁に反響するのがこの座席だと聞こえて微妙な時間差が気になる。おまけにフランク・ペーター・ツィンマーマンのヴァイオリンは音程が悪い。速い部分とはいえ、どうしてああいういい加減な音を取るんだろう。第1楽章コーダの夕映えはあっけらかんと通り過ぎた。第2楽章のオーボエはどこか即物的だ。終楽章は速目のテンポで見栄も切るがどうも心を打たない。
4番の方は少しましだったがやはり弦のピッチのズレが微妙にひずんだいやな高音の強奏は同じだ。こういうストレスのたまる音をカネを払って聴く意味があるのかと思ってしまう。くどいようだが、ここはS席のしかも前寄りの中央も中央のベストロケーションなのだ。ホールなのかオケなのか指揮者なのか?よくわからない。第2楽章はトランペットがオルガンのように隠し味で和音に加わるが、その音の入りが無神経に大きいから存在を感じてしまう。ぞんざいである。第4楽章冒頭の入りは今度はオーボエが出てしまう。ほんの微妙なタイミングなのだが、そういう細かいところに厳格でないとブラームスはだらしない感じがしてしまう作曲家である。ブロムッシュテットはそういうことに厳しいと思っていたのでとても意外だ。全体的には彼らしい引き締まった演奏コンセプトだったが、それに徹すればいいのに熱演風にもっていこうとしてアンサンブルが雑になる。なんとなくゲネプロという感じであった。最後の和音がスコア通りに切りあがると、間髪入れずの盛大なブラヴォーと大喝采が続いた。





