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僕が聴いた名演奏家たち(ニコラウス・アーノンクール)

2019 JAN 7 22:22:16 pm by 東 賢太郎

ニコラウス・アーノンクール(Nikolaus Harnoncourt、1929 – 2016)はオーストリアの貴族ウンフェアツァークト伯爵家の長男であり、ウィーン国立音楽院(現・ウィーン国立音楽大学)でチェロを専攻、卒業後1952年から1969年までウィーン交響楽団にチェロ奏者として在籍した。わが国なら宮様が芸大を出てオケに入りましたというところだが、それで終わらず古楽器オーケストラ「ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス」を立ち上げて指揮者になった。

僕は古楽器演奏ムーヴメントにはアンチだが、そうなった一翼は彼の演奏への幻滅も担っている。マタイ受難曲はカール・リヒターで覚えたので違和感があった。アーノンクールのバッハは学究的でプログレッシブ(progressive)と思い忌避していた時期もある。しかし、僕が古楽嫌いになったのは実はそのせいではなく、後に雨後の筍のように出たピッチの低い古典派のせいだった。ブリュッヘンの「ロ長調のジュピター」に衝撃を覚えて以来だ。

人には長年かけて培った音感がある。モーツァルトが今のロ長調で作曲したのだったとしても音感を矯正するのは不可能だ。我々が彼に近寄るのは、もし18世紀に生きていたらという試みなのであり、それが何らかの意味を持つならば、もし彼が我々に近寄って今のオーケストラを知ったらという試みだってあり得るだろう。どちらであれ、モーツァルトは聴衆の心をつかむ方を選択するタイプの人間であり、ハ長調でも受けがいいなら文句は言わなかったと思う。

私見ではアーノンクールは学者よりも演奏家である。それも熱いハートのある。楽譜の魅力の根源を突き詰めていくと、背景には歴史のパラダイム、すなわち宗教、政治、社会、風俗、美意識、階級、風土、慣習、様式、楽器の種類、特性などが横たわっており、演奏しようと思えば制約条件として無視できないゆえにそれらを演奏行為と同等の重みをもって解釈に取り入れた人だと思う。その考え方はバッハに限らずロマン派でも近現代音楽でも大なり小なり無視できないものであって、そのこととピッチを半音下げることとは決して同じ行為ではない、ここは重要だ。

音楽におけるauthentic(歴史的に真正の)とは楽器の製作年代やピッチやヴィヴラートの忠実な再現、模倣であっても字義的に間違いではないだろう。ドイツ赴任時代にアイゼナッハのバッハ・ハウスで一日過ごしたのは忘れられないが、しかし、そこに展示されているバッハ時代のヴァイオリンやガンバを鳴らしてみるだけなら博物館のショップに売ってる土産物のCD以上のものではないという事実のほうが僕は重要だと思う。authenticな楽器を使おうと使うまいと、聴衆の心を打たない演奏はそれなりのものでしかない。

ブランデンブルグ協奏曲第6番について語っているこのビデオは面白い。ここから多くを教えてもらった。

当時までヴィオラは伴奏楽器で主役(ソロ)の場面はなく、ガンバは旋律楽器でもあり主役というのが常識だった。6番でバッハはそれを逆転したのであり、アーノンクールはそれをプロレタリアート(ヴィオラ)による市民革命だと表現している。学者は6番を6曲のうち最も保守的だとしているが、だから、彼は弦の書法において最も急進的だと述べている。テンポ・ルバートはロマン派の発明ではなくバロック時代のものとも語っている(実際に6番でそれをきかせている)。彼も学者だが、なにより演奏家であるゆえの包括的な洞察であり、現場のリアリズムからくる見解でもある。

僕は彼の厖大な知識と教養からくる多面的な譜読みに対し、常に納得はしていないが、少なくとも一理あるものとして傾聴はしている。マタイを初めて聴いた頃からこちらも変化している。私見では演奏家は一種の霊媒であるのが理想であり、数世紀も前に死んだ人の意図を当時のパラダイムのまま理解、咀嚼したうえで、それを21世紀のパラダイムに変換してオリジナルな意図通りのメッセージを現代人に伝える人たちだ。記号に過ぎない譜面を字面どおりに音にする職人ではないわけで、それが左脳的作業であるなら極めて右脳的なものだ。前者の能力は訓練で誰でもある程度は獲得できるが後者は直観やひらめきのようなもので誰でもあるということはない。

その変換とは、わかりやすく言えば大河ドラマの「時代考証」に近いが、困ったことに史実に忠実すぎると現代人には理解できず、現代に寄りすぎれば史実と乖離する。だから考証を第三者(歴史学者)が頭で考えてやるのはだめなのである。霊媒型を僕が理想とするのは、モーツァルトの霊が乗り移って「なりきって」しまえば、姿形が違おうと怖いものはない、強烈なオーラとインスピレーションで聴衆を引っ張りこむことができるからだ。何かオカルトめいて聞こえようが、コトバを言霊と呼ぶように、音楽演奏にも多分にスピリチュアルな要素があって、それが伝わった時の感動は尋常でない経験を何度もしているからだ。

アーノンクールの学んだウィーンの古典派(ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルト)にそれは感じたことがない(モーツァルト40番の緩徐楽章のテンポぐらいだ)。氏素性や育ち、教育で霊媒になれるわけではない、テンペラメントがその誰とも違うということだ。なりきれたのはやはりJ.S.バッハであったと思う。彼の「クリスマス・オラトリオ」は名演でこの曲の筆頭の愛聴盤となって久しい。新旧あるがこのビデオはアーノルド・シェーンベルク合唱団との新盤(右)の冒頭だ。全曲をおすすめしたい。

晩年に至ってチューリヒ・オペラでヴェルディまで振った彼だがきいていない。一度だけ彼を聴くチャンスがあったのは1997年7月11日にチューリヒ・トーンハレでヨーロッパ室内管を振ったブラームスの交響曲第1番と2番だ。友人2人とゴルフをして夜にホールに行った。あまり期待していなかったが、流れが良くてテンションの高い1番は会場を大いに熱くして意外であった。曲想に沿って攻めるべきところはぐいぐいとアップテンポで攻め快哉を叫ばせる。僕の趣味のアプローチではないが、冒頭に書いた「アーノンクールは学者よりも演奏家である。それも熱いハートのある」という印象はこのライブで得たものだ。彼はブラームスに強い共感があって、きっと「なりきれる」作曲家だったのだろうと確信する。

古楽器のイメージのせいだろう彼のブラームスは正当な評価をされていないが、あのライブが当日の聴衆を熱狂させたのは証言できる。チューリヒの聴衆は耳が肥えていて日本人のように何でもブラボーなんてことはない。ショルティが人生最後のマーラー5番を振った時(このブラームスの2日後、7月13日だった)に劣らぬ喝采だったのだからTELDECがベルリンフィルと交響曲全曲を録音したのも無理はない。

さらに良いと思うのは、ルドルフ・ブッフヒンダーをソリストにしたピアノ協奏曲第2番変ロ長調である。このピアニストの弾く同曲はフランクフルトでホルスト・シュタイン/ バンベルク交響楽団という、いまになると我ながら羨望すら覚える組み合わせで聴いて心の底から感動していたからそれもある。アーノンクールとのCDは伴奏がコンセルトヘボウ管でこれがまたすばらしい。終楽章の最後のアップテンポだけは少しやりすぎで交響曲のアプローチと同じだが、コクを求めなければ痛快であり、おおむね満足できる出来だ。ノン・ヴィヴラート気味に聞こえるが第3楽章のチェロ・ソロはかけている。第1楽章をお聞きいただきたい。

 

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僕が聴いた名演奏家たち(オイゲン・ヨッフム)

2018 DEC 2 21:21:14 pm by 東 賢太郎

1983年にフィラデルフィア、1986年は1月にロンドン、12月にアムステルダムでのことだったが、最晩年のオイゲン・ヨッフム(Eugen Jochum、1902年11月1日 – 1987年3月26日)の欧米でのライブ演奏に接することができた幸運を音楽の神様に感謝するしかない。彼はドイツ王道のレパートリーを二キッシュ、フルトヴェングラー、カイルベルト、ベームらと同様に19世紀の演奏解釈に深い脈絡のある伝統と格調高い様式で演じ、眼前で体感させてくれた。あの経験なくして僕のモーツァルト、ベートーベン、ブルックナーへの理解が現在のようになることはなかったろう。いわば双葉山、大鵬、北の湖の巨峰の列であって、こういう格の人の音楽を聴いてしまっていると、昨今の相撲界と同様で誰が出てきても小物感が否めなくなってしまう。加えて、日本はホール事情の問題がある。「本場の巨匠」やオケが来ても、ウィーン・フィルもドレスデンSKもチェコ・フィルも、あれでは彼らに出稼ぎ感覚になるなと言っても人間だから難しいだろうと思う。ギャラも食事もホテルも客席も。僕はひとりでドイツの歌劇場を普段着でめぐっていたが、モーツァルトやワーグナーやR・シュトラウスがああいう風に日本のホールで鳴るとは到底信じがたい。双葉山、大鵬、北の湖は地方巡業でなく国技館で観ないといけないのである。

ちなみに、事情は後述するが、ヨッフムはフルトヴェングラーの葬儀の際にベルリン・フィルでモーツァルトの「フリーメイソンのための葬送音楽」(K.477)を演奏し(ハイデルベルク聖霊教会)、生誕百年記念演奏会をフィルハーモニア管弦楽団で振っている(ロンドン、ロイヤル・フェスティバル・ホール)。この人の演奏を聴くというのは司祭の典礼に列席する趣で、ヨッフム自身が儀式めいた重みを漂わせたということではなく聴衆と舞台の音楽家たちの醸し出す深い敬意がどの名演奏家の演奏会とも違う雰囲気を作っていた。

初めて聴いたフィラデルフィア公演の印象は鮮烈だった。ただし、上述の文脈からすればこれは出稼ぎの地方巡業だ。しかし、なにせ定期会員だったフィラデルフィア管弦楽団の演目が指揮者ムーティーの好みかドイツ物が少なく、会場の音響もデッドで僕の趣味からほど遠く、ヨッフムが連れてきたバンベルグ響のオール・ベートーベン・プロは選曲も音もまさに天の福音だった。レオノーレ3番が鳴るや否や、ああこれだ、これぞドイツの音だと電気が走り、ピアニストのベロニカ(令嬢)が4番の協奏曲を弾いたがインティメートな好ましさがこれまた脳天を直撃し、これを毎日でも味わいたいとないものねだりの渇望に襲われてしまう。7番はVnのボウイングにいささか驚いたが、砂漠のオアシスの如しで楽の音が五臓六腑に染み渡るとはこのことだった。このオーケストラは後にフランクフルトのヤーレ・フンダート・ハレで何度も味わって至福の時を過ごさせてもらうことになるが、この1983年10月9日を思い出さないことはなかったように思う。外国でいくつの演奏会に足を運んだか数えようもないが、これほど待ち望んで満ち足りたものはひとつもない。ヨッフムは大学時代に買ったギレリスとのブラームスPC、カルミナ・ブラーナのイメージが強くベートーベンは認識がなかったが一気に僕の中ではドイツ物の巨匠の地位になった。

 

ロンドンに赴任していた3年後にヨッフムがロイヤル・フェスティバル・ホールにやって来た。フィルハーモニア管弦楽団がゆかりの深かったフルトヴェングラーの生誕百年演奏会にロリン・マゼールを呼んでいたが、体調不良でヨッフムが急遽代役になったのである。その旨がプログラム右上に記載され、ヨッフムから「急なことで準備の時間がなく、予定されていたブラームスの交響曲第2番をモーツァルトのジュピターに差し変えることをご了解いただきたい」ともある(僕としてはブラームスを残してベートーベン7番を変更してほしかったが)。面白かったのはフィルハーモニア管でも7番第4楽章第1主題の第1Vnを各プルトがスラー有りと無しに分かれて弾いたこと(この効果はLPOとの録音ではよく聞き取れないが)。ヨッフムのジュピターは良かった記憶がある。81年にウィーンフィル定期演奏会の初日で振ったライブ録音(下)があるが、こちらもかように素晴らしい演奏になっている。

この年、ザルツブルグ音楽祭の最中にカール・ベームが逝去し、9月20日のオープニング公演はヨッフムにゆだねられた。最初の「フリーメイソンのための葬送音楽」の最後に1分間の黙とうがありそれも録音されている。彼は期せずしてフルトヴェングラーとベームの生誕百周年と追悼を任された指揮者となったが、ウィーン・シュテファン大聖堂におけるモーツァルトの命日ミサ典礼も指揮しており(1955年12月5日)これは僕の生まれた年だ。

最後にヨッフムを聴いたのは1986年12月4日木曜日、底冷えのする真冬のアムステルダム・コンセルトヘボウでのことある。僕はロンドン赴任時代にオランダの投資家も担当しており、月に一度はオランダに出張していた。ところが丁度この頃にアムステルダム現法に日本人担当者を置くことが決まり(オランダは膨大な年金の運用資産があり野村にとって重要なマーケットだった)、その引継ぎで後任を紹介する出張の折にこれを聴いたのだ。

これはヨッフムの生涯最後のコンサートでもあったようだが、僕にとっても生涯忘れがたいコンサートになった。「ようだ」というのはTAHRAの解説にin his last but one concert on 4 December 1986とあるからで、とするとこのCDの演奏は12月3日のものということになり、CDの記載は「3&4 December」だから2日間の録音を編集したものだが3日がメイン(少なくともこの解説者はそう思って書いている)ということになる。僕が聴いたのは4日で、だからそれはヨッフムの生涯最後のコンサートであったということになるのだろう。

聴くほうも集中しており疲れていたが、足がおぼつかず階段を登れなかったヨッフムが最後の力を振り絞ったアンコールが終楽章とは驚いた。ヨッフムはスコアにない金管を増強(記憶ではHr4,Tr3,Trb3,Tuba1)していたが、そうしないと奏者は肉体的負担が大きく終楽章のコラールが天界に響き渡るほど豪壮に鳴ることはない。彼らには受難だったかもしれないが、オーケストラにとってもヨッフムにとっても、もしかしてこれが最後という思いはあったと思料する。そうでなければこんな音楽は生まれないだろうというほど稀有な演奏で、こういう質のものは「聴く」という言葉では浅く、「参加する」「体験する」とでも書くしかない。ヨッフムはこの3か月後に亡くなった。

この演奏会が録音されていたとは驚きだが、TAHRAからCD(右)になって出たときは嬉しかった。コンセルトヘボウの音響を見事にとらえており、あの日の情景がよみがえる(彼の顔をちょうどこのビデオの写真の角度からみる位置の席であった)。クライバーのブラームス4番とともに、自分史の生きた記録となった。

この演奏のCDはそこかしこで絶賛されているが異論はない。よい装置でかければ「体験」を実感していただけるにちがいない。

 

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僕が聴いた名演奏家たち(フランコ・グッリ)

2018 AUG 15 0:00:21 am by 東 賢太郎

僕が実演を聴いて最も感動したヴァイオリニストの一人がイタリアの名手フランコ・グッリ(Franco Gulli、1926 – 2001)です。残された録音でその美音をどこまで味わえるのかは心もとないですが、ベートーベンの協奏曲にその片鱗があります。演奏についてはここに書いた通りです。美音というと他が抜ける、歌でないパッセージがいい加減、音程がどうもという人が多い中でそれがない。色気も艶も華もあるが身持ちの堅い女性という処ですな、僕はこういうヴァイオリンが好きなのです。

ベートーベン ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品61

56才の脂の乗ったグッリの美音を最初に聴いたのは渡米した1982年のフィラデルフィア管弦楽団定期演奏会でのブラームスの協奏曲でした(10月22日)。指揮はユージン・オーマンディで、今になるとなんて凄いものを聴いたのか!

ヴァイオリンとはこういうものかと教わった鮮烈な出会いです。美音の洪水でした。それでもまだ耳は未熟でしたから、ワインでいうならいきなりロマネ・コンティ(ペトリュスというよりもね)の味をしめたようなものだったかもしれません。第3交響曲も予想外に骨格が立派で、オーマンディーのドイツ物が不評だったのはCBSの録音のせいだろうと思ったのを覚えてます。

次もやはり同じオケで、リチャード・デュファロ指揮によるモーツァルトの協奏曲第3番です(1983年3月16日)。この年の2月4日、僕の誕生日、カーペンターズのカレンが拒食症の末に世を去ったというニュースが流れ愕然とした1か月後でした。

こっちのグッリは水を得た魚で、唖然としているうちにあっという間に終わってしまい歌、歌、歌だった以外細かくは覚えていません。この演奏で曲の魅力がわかり、カーチスに留学中で親しかったヴァイオリニストの古沢巌さんに無理いって自宅でこれの第1楽章を弾いてもらったのが思い出です。後半のシェーンベルクですが、このコンサートは遊びに来ていた母も連れてきていて、もう少しポップな曲を聴かせてあげたかったと思った記憶があります。それにしても現代音楽の旗手だったデュファロ(1933 – 2000 )の忘れ難い名演でした。

モーツァルト3番のプログラム

先日にロジェストヴェンスキーが亡くなって、もう大家の時代は終わったと観念したのです。寂しいですね、自分の歴史が風化していくようで。僕は20世紀の最後の5分の1ほどを欧米で過ごし、片っ端からクラシック音楽演奏史に残る大家たちを聴いてプログラムやFM放送のエアチェック音源を保存して印象記までこまめにつけたというヒマ人です。まだまだストックがありますが、退蔵するのでなく少しでも世界のクラシックファンの皆さんと共有できるよう公開してまいります。

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僕が聴いた名演奏家たち(ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー)

2018 AUG 4 16:16:39 pm by 東 賢太郎

6月の読響定期。サントリーホール、入り口に見慣れぬコーナーがあり、近寄るとロジェストヴェンスキーさんの写真が目に入りました。去年のあの凄まじかったブルックナー5番シャルク版のポスターもある。あれ、また来るのかな?まずい、買ってないぞ。いやいや、そんな話はきいてない、指揮棒やスコアが展示してあるし、そうではないぞ、まさか、まさか・・・。嫌な予感がしてネットを検索し、最悪のニュースを知りました。

恐れていた日がいよいよやってきてしまった。僕がクラシックにめざめた中学のころに大家~中堅だった指揮者は本年6月16日のロジェストヴェンスキーさんの逝去をもってすべて故人になったということです。巨星墜つ。同世代のクラシックファンの皆さん、大家の時代の終焉です。

若い皆さん、いま大家である小澤、メータ、ハイティンク、プレヴィン、レヴァイン、インバル、ムーティ、ブロムシュテット、デ・ワールト、デュトワ、シャイー、ラトルらは、当時はまだまだ小僧か青二才の扱いで、一部の人は極東の島国ではレコード市場の表舞台に現れてもいなかったのです。

高2だった1972年に、夢に出るほど没入していた悲愴交響曲がどうしてもききたくて、清水の舞台から飛び降りる心持で高価なチケットを買ったのがロジェストヴェンスキー / モスクワ放送交響楽団の来日公演でした。プログラムは紛失し前半の曲目もまったく覚えてませんが、今はなき渋谷公会堂だったことは確か。そこで「海外オーケストラ来日公演記録抄」というブログを拝見すると、これだったことが判明しました。

 

5月27日(土曜): 渋谷公会堂
チャイコフスキー / ピアノ協奏曲第1番 (Pf・ヴィクトリア・ポストニコワ)
チャイコフスキー / 交響曲第6番

 

これぞ僕が人生初めて聴いたオーケストラの演奏会でした。行った理由はもう一つあって、中学生のころ父に買ってもらったスッペの「軽騎兵序曲」と「詩人と農夫」のEP盤(右)が1万枚あるレコード/CDの記念すべき最初の1枚でその指揮者がたまたまロジェストヴェンスキーだったからです。初物づくしの指揮者でした。

高2の5月27日というと僕は硬式野球部で夏の大会予選に向けて投げまくって故障した頃でした。我慢してましたがやがて激痛で右ヒジをまっすぐに伸ばせなくなりました。鍼灸師、電気治療院に通いましたが治癒せず、背番号1番から14番に降格された絶望のときです。クラシックという違う道の喜びを見つけたのか偶然そうなったのかは覚えてませんが、運命だったと思うしかありません。

後の欧米赴任時代にはロジェストヴェンスキーのライブを聴いた記憶はなく、もっぱら彼はレコード上の大家でした。スヴェトラーノフと違い独奥系レパートリーのイメージが薄く、交響曲がプロコフィエフとシベリウスの全集、シュニトケ2、3、4番、ミヤスコフスキー1,2,5,22番、マーラー5番、ブルックナー5、8番、チャイコフスキー4,6番、幻想、ショスタコーヴィチ5、12番、グラズノフ2、6番、あとラヴェルのダフニスを買っていました。

ライブでは帰国してから読響で何度か。奥さんとのR・コルサコフのP協、チャイコフスキーのイオランタなんて珍しいものも聴かせていただいたし、この人はどんな複雑な楽譜でもすぐ読めて解析できるんだという鮮烈な印象があります。なんといっても火の鳥と春の祭典は、なぜこれを録音しないんだと不思議なほどの深みある演奏でした。そして昨年のブルックナー5番(右)。その前のショスタコ10番を仕事でパスしていたのでこれが聴けて本当に良かった。芸劇で5月19日、母が亡くなる10日前でその前日も病室で泊まりでしたが、この演奏は衝撃でした。きっとこれは母が行かせてくれたんでしょう。

凄かったロジェストヴェンスキーのブルックナー5番

僕のクラシック音楽史は彼の「軽騎兵序曲」によってはじまり、これによって幕を閉じました。思えばウィーンで初めて聴いたニュー・イヤー・コンサートは軽騎兵で始まり、やっぱり最後のコンサートになったオイゲン・ヨッフムの演奏会もブルックナー5番でした。

「エースと4番は育てられない」(野村克也監督)。そう思います。名指揮者もそうでしょう。長らくお世話になり、たくさんの楽しみをいただきました。心よりご冥福をお祈りします。

(PS)

1966年8月21日、ロイヤル・アルバートホール(プロムス)でのライブ。ここに書いた1972年の東京公演はこうだったのかと推測する演奏。人生初めて聴いたオーケストラの演奏会で何もわかるはずないが打ちのめされて帰宅したのだけがうっすらと記憶に・・・

ラヴェル「ダフニスとクロエ」の聴き比べ

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僕が聴いた名演奏家たち(アルミン・ジョルダン)

2018 MAR 2 23:23:24 pm by 東 賢太郎

おにぎりは実に不思議な食べ物で、最近、食欲がなくても食えることに気がついた。茶碗によそうと多いなと思う分量でも握ってもらうとぺろりといけるのだが、ぎゅっと隙間がつまるから実は茶碗の方が米は少ない。どうしてそうなのか、いくら考えてもわからない。

しかも冷や飯でも具なしの塩だけでも良しときている。もっと不思議なのは、こんなうまい食べ物が外では出てこないことだ。コンビニの棚に無機質に並ぶ以外、そんなものを供してはいけないかのごとき冷遇を受けている。日本人にとって米は命なのに。足利義満の好物は湯漬けだったし、奈良時代からある鮒ずしの飯(いい)、僕は酸っぱいあれで冷酒というのが至福なのだが。

ところが最近、音楽も「米」になってしまったものがあると気づいた。バルトークの管弦楽のための協奏曲。高校時代から没入しているこれは一音一句記憶してシンセで弾いて録音もした。おかずではない、ご飯であり聴くと何時でも没入し十代に戻るが、しかし最近、逆にどの演奏でも満足できないという妙なことにもなってきた。何秒かごとに、違うなあ、そうじゃない、なんでだよ、となって、止めてしまう。

さきほどyoutubeでこれを聴いた喜びは、だから大層なものがある。アルミン・ジョルダンがスイス・ロマンド管をジュネーヴのヴィクトリア・ホールで振ったライブだ。

もう、まったくもって素晴らしいとしか言葉がない。4年前に書いた下のブログに思いのたけはつづったが、4年のうちにこっちの好みも変わってきて非常にこだわりのある終楽章のエンディングだけとっても満足なのはひとつもなくなってきた。ライナーも微妙なルバートがあるし、オーマンディーすらやや速いかなと聞こえだした。

ジョルダンのエンディングはまさしく僕の理想だ。何の奇もてらわないインテンポで安物のあおりは微塵もなく、ギリシャ彫刻のような均整と品格で決然と終結する。何度聴いても心が熱くなり、これを待ってましたありがとう!とひとりで何度もブラボーと大拍手を送っている。ストレスフルな毎日だが、お米になっているバルトークがどれだけほっとさせてくれることか、どれだけこの曲を愛してるか、改めてしみじみとかみしめる。

多くの方はこの演奏が何で?と思われるだろう。ショルティ / シカゴ響みたいなスーパーハイテクでもない、カラヤン / ベルリン・フィルのポルシェでぶっ飛ばす爽快感もない、第1楽章の金管なんて危なっかしいし録音もぱっとしない。なんにも豪奢なものがないからだろう、ジョルダンはエラート・レーベルにそこそこの量の録音があるがこの曲はない。なんともったいない。聴けば聴くほど滋味あふれる最高の演奏だ。なじみのない方はこのビデオを何度も聞いて覚えてしまうといい、レファレンスに値する演奏だ。

下のブログに書いたが1996年2月28日に彼とSROのラヴェルをこのビデオのアンティークな味わいのあるホールで聴いた。ジョルダンの指揮は全く芝居っけや外連味がないが、それでいてライブとして最高のラヴェルであり彼の名前は脳裏に焼きついてしまった。フランス物だけはない、彼のシューマン交響曲全集は好きだし、マーラー4番は数少ない愛聴盤だ。なぜ?地味だが素材のうまみをたっぷり引き出しているからだ。上等なお米のおにぎりなのだ。

しかし、これをCDにしても高級料亭の懐石料理であるショルティ、カラヤンより売り上げがあがったとは到底思えないのは悲しいことだ。よく耳を凝らしてお聴きいただきたい。完璧な技術で鳴らすのが良いオケだなどという主張は虚空に消えてしまうのであって、オーディオファンのいわゆる HiFi が良い音とは全然思えないのとよく似ている。それは商業的に宣伝で作られた「良い音」であって、そのキャッチコピーとともに耳に刷り込まれたブランドにすぎない。

僕はお米に昇格したこの曲を料亭カラヤンで食べようとは金輪際思わない。ブーレーズの新盤(DG)、バーンスタイン、チェリビダッケ、マゼール、小澤、ぜんぶお呼びでない、論外。二度と耳にする必要はない。指揮者が無用の芸当を披露してお粗末な味付けなどしなくても、この曲は新米の銀シャリのように滋味があるのであって、こうして普通に握ってもらえばおいしく食べられる。

 

バルトーク「管弦楽のための協奏曲」Sz116

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カルロス・クライバー/ベルリン・フィルのブラームス4番

2017 APR 2 1:01:57 am by 東 賢太郎

レコード芸術誌の「巨匠たちのラスト・レコーディング」という企画によると、僕が聴いた演奏会のライブ録音が人生ラストだったという大指揮者が二人いました。オイゲン・ヨッフム(ブルックナー5番)とジャン・フルネ(ブラームス2番)です。

ほかにも最後のマーラー(ショルティ、5番)や最後のブラームス(カラヤン、1番)なども指揮姿とともに鮮烈に記憶にあって、「巨匠の時代」があったとするならばそれは僕らの世代の眼前で静かに黄昏を迎えていったのかもしれないという感慨を新たにいたしました。

幸いなことにその4つの演奏会はすべて正規の商業録音が残っています。音がいいだけに会場の空気まで生々しく蘇ってきます。もうひとつ、カルロス・クライバー(1930-2004)の、最後ではないがたった2回しか人生で振らなかったベルリンPOとは最後だった演奏会(ブラームス4番)があって、これについてはすでにブログに書きました。

カルロス・クライバー指揮ベルリンフィルの思い出

クライバーは日本通で和食も好きで、お忍びでよく来日していたと某社で彼を担当していた人に聞きました。ベルリンの演奏会は正規盤がなく米国製の海賊盤が残っていますが彼はこれを秋葉原で買って愛聴していたそうです。それをyoutubeにアップしましたのでどうぞお聴きください。

これをいま聴きますと不思議な気持ちで、モノラルであるせいもあるのでしょうか、レコードを擦り切れるほど聴いたフルトヴェングラーやトスカニーニも実演はあんな感じだったのだろうかと逆体験の空想に浸ることになります。

好きなオーケストラ、好きな曲だけ振って、好きなようにスケジュールを組んで貴族のように生きた男。前述のかたに彼の出自もお聞きしましたが、もうこういう人は二度と出てこないだろうと思います。

それは現在の我々がクラシック音楽と思って聴いている音楽が最後に生まれたのが20世紀前半のことであって、その作曲現場の空気を知っていた世代の演奏家が世を去っていったことで終焉を迎えたものだからです。

個人的に、第2次ベル・エポックとでも名づけたい良き時代であり、そういえばこんなに長く70年も大きな戦争がなかったのも良きことでした。ご本家ベル・エポックは第1次大戦で終焉しましたが、今度はその禍なきことを祈ります。

 

クラシック徒然草―フルトヴェングラーのブラームス4番―

 

カラヤン最後のブラームス1番を聴く

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

 

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テンシュテットのブラームス交響曲第4番

2017 MAR 11 1:01:11 am by 東 賢太郎

youtubeにアカウントを作りました。

まず第一回として、クラウス・テンシュテットが正規録音を残していないブラームスの4番からいきましょう。フィラデルフィア時代に当地のFMを録音したカセットで、放送自体の音質がこういうものでしたし音はあまりよろしくありませんが、貴重な音源と思いますのでファンの皆様と共有できれば幸いです。

最近LPとともにカセットというフォーマットも見直されていると聞きました。デジタルというのは単なる信号だから消えたらおしまいでありCDなどのディスクはモノとしての保存性に問題があります。34年前のカセットですが意外に録ったままの音が残ってるなという印象です。

これはこのブログに書いた演奏です。

僕が聴いた名演奏家たち(クラウス・テンシュテット)

「この本番は聴けず地元FMがステレオ放送してくれたのでそれをカセットに録音したが」と書いてありますが僕が聴いたのはリハーサルで、このビデオの録音はその本番でした。アカデミー・オブ・ミュージックできくフィラデルフィア管弦楽団はこういう音がしていたのです。

いま聴いてもたっぷりしたテンポで悠揚迫らざる大人の演奏でした。この人は巷で言われる爆演型の指揮者などではありません。

当日のプログラム(このページにテンシュテットのクレジットはないが

このページにシュロモ・ミンツと一緒にある

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

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スクロヴァチェフスキーとの会話

2017 MAR 2 0:00:26 am by 東 賢太郎

「83年にフィラデルフィア管弦楽団で聴いたブルックナーの8番が奇跡的名演で、終演後に楽屋の廊下でスクロヴァチェフスキーを飛び込みでつかまえて話した」と先日ここに書きました。

スクロヴァチェフスキーの訃報

我が国ではおじいちゃんのイメージですが、当時は60才でこの写真に近かったです

34年も前のことですが、痩身で背の高い彼の表情も片言っぽい英語の口調なども、大筋は妙にリアルに覚えています。廊下で正面からばったり会っていきなり話しかけたのだから驚いてもよさそうなものなのに、全く自然に真剣に答えていただいたから印象が強かったのでしょう。

隣で聞いていた家内にもたしかめましたが、そこで交わした会話のおおよそはこういうものでした;

「有難うございました。素晴らしい演奏でした」

「そうですか、それはよかったです」

「ブルックナーを演奏してこのオケはいかがでしたか」

「とてもいい。弦が厚みがあって向いていますね。今日の演奏はそれがとてもプラスに出ていました」(彼も演奏に満足していたことがわかった)

「金管はブルックナーにはやや音色が明るすぎませんか、トランペットなど」

「そんなことはありません。ブルックナーの金管はとてもパワーが必要なのです。PHOはそれを完璧に備えています」(この答えはやや意外感があった)

「日本は来られないのですか」

「行ったことはありますよ。好きなので行きたいのですが、なかなか呼んでいただけなくてね(笑)、お誘いがないと行くのは難しいのです」

「残念です。あなたのブルックナーは日本で人気が出ると思いますよ」(お世辞ではなく本気でそう思って申し上げた。Sさんの目がぱっと輝く。関心を持った表情になる)

「そうですか、そう思われますか、あなたは音楽評論家ですね」(そう思って話していたらしい。だから真剣だったのか・・・?)

「いいえ、ウォートンの学生です」

「どうしてそう思われますか」

「私は日本人がブルックナーに共感が深いことは知っています。あなたの今日の8番なら日本できっと高く評価されると確信します」(なんとなくの直感ではあったがこれもお世辞でなく)

「そうですか有難う、覚えておきます、それならぜひ行きたいですね」(ぎゅっと握手してくれる。すごく大きな手であった)

 

このどうということのない会話を公にする時が来るなんて28才のあの当時夢にも思わなかった。思えばこの時のスクロヴァチェフスキーはいまの僕の年齢あたりだったのです。のちに読響やN響の指揮台で見た姿から見ればずいぶん若い。そう思えば自分もまだまだやらなくちゃと思います。

別れ際にサインをくださったのですが、長い苗字を絵文字に丸めずそのまま長い(巷はミスターS なのに)。この几帳面さとリアリズム、どこか彼のスコアの解釈を髣髴とさせますね。

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

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僕が聴いた名演奏家たち(ニコライ・ゲッダ)

2017 FEB 11 0:00:13 am by 東 賢太郎

ついこの前にジョルジュ・プレートルが亡くなって、歴史的名盤であるカラスとのカルメンのことを書いたばかりでした。そうしたらドン・ホセのニコライ・ゲッダも亡くなってしまったそうです。伸びのある高音の美しい正統派ベルカント唱法のテノールとして理想のホセ、ロドルフォ、タミーノ、フェルランドでありました。

このカルメン、聞きようによってカラスは年増の姐御(あねご)風情であってやや特別でもある。ゲッダの純情な好青年ぶりでそういうユニークなカップルという引き立ちかたがあるようでもあります。この素晴らしいミカエラ(アンドレア・ギオー)との二重唱「母の便りは」! 何度これを聴いたことだろう。

5099996677957もうひとつ忘れられないレコードが、若鮎のようにみずみずしいトーマス・シッパース/ローマ歌劇場管弦楽団とのラ・ボエームです。ゲッダの声の若々しいこと。しかも20世紀を代表するミミであるミレラ・フレー二がこれまた若いときている。この青春オペラにこれ以上なにを望みますか?僕の長年の愛聴盤の一つであり永遠に価値のある名盤であります。

次に、ここに書きましたが(クラシック徒然草-クレンペラーとモーツァルトのオペラ-)これまた歴史的名盤であるクレンペラーの「魔笛」のタミーノがゲッダなのであります。この役でもスイトナー盤のペーター・シュライヤーと双璧の美声を聞かせますが、ホセと同じく純情気味なのがなんともいいですね。夜の女王にころっとだまされる感じが出ています。

61yQk9l7zoL._SX355_20世紀を代表する叙情派テノールであったゲッダが総督を歌ったのがレナード・バーンスタインがロンドン交響楽団を指揮したヴォルテールの原作による自作の「キャンディード」であります。1989年12月12日、ロンドンのシティに近いバービカン・センターでのライブ録音です。ゲッダとクリスタ・ルートヴィッヒとは凄いキャスティングでありました。

公表されてませんがこのコンサートは野村ロンドンが主催で、ビデオに写っている聴衆はお客様そして我々だったのです。34才の僕もきっと右の方に映ってるでしょう。この17日後、12月29日 に日経平均株価は史上最高値 38,957.44円を記録し、時価総額で日本株が米国株をぬくという驚愕の、2度とないだろう歴史的事件がおきます。

この翌年、野村ロンドンはモニュメントからセント・マーティンズ・ル・グラン(旧郵便局)という歴史的建造物に本社を移転しますが、その祝賀スピーチを首相のマーガレット・サッチャーさんに依頼したのです。すると首相からは前日に丁重な詫び状があり、明日は代理として腹心のジョン・メージャー財務大臣を送るとありました。そして翌日、祝賀会の時間にはすでにメージャー氏の首相就任が発表されていたのです。そのころ東京に帰任していた僕は社内テレビに出て女子アナとそれを実況中継で全店に解説したという懐かしい思い出もあります。

candide史上最高値は何兆円という巨額の「外人買い」によって達成されたのはご記憶の方もおられると思います。その「外人」のほとんどはビデオの客席にご夫妻で座っておられる紳士たちであり、彼らを担当し日々運用のアドバイスをしていたのが僕が所属したロンドン株式営業部でした。SMCメンバーの安岡氏、吉田氏もその主力メンバーとして大活躍された戦友です。

バブルといわれようが何だろうが「株式時価総額」という数値は問答無用、有無を言わさぬ経済の実力指標であって、日本経済が米国を凌駕した衝撃の証拠を米国人に突きつけてホワイトハウス、ウォールストリートを震撼させたのは真実です。だから米国は90年代にゴールドマン・サックス会長のロバート・ルービンを1993年にクリントンがホワイトハウス入りさせ、1995年には第70代財務長官に就任させて徹底的な「日本の金融界潰し作戦」を仕掛けてきたのです。僕はその戦争の当事者として内情をみな知っている。

当然政府を通じて大蔵省(当時)にも圧力はあったと思われ、我が国は実に情けない損失補てん事件の発覚という経緯を経て野村を筆頭とする証券界を証券局もろとも葬ってしまうのです。ルービンはエール大学法学部の秀才ではあるがアービトレージ(鞘抜き)王としてウォール街で四半世紀生きたいわば株屋であって、同じ株屋のドンがかたや財務長官、かたや失脚。政治家、役人のインテリジェンスの差である。あれは「バブル崩壊」などというお気楽なものでなく日本の致命的な敗戦であったのですが、その引き金となったのがこのコンサートにいた投資家の方々の日本経済への厚い信認であった。ビデオを見て感無量としか申し上げられません。

終演後に野村ホストのパーティーがあり、最後の方にひと仕事終えて悠然と現れたバーンスタインと話をしたのはこの時でした。彼ばかりでゲッダ、ルートヴィッヒと話す時間がなくなったのはなんとも痛恨でした。

 

 

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ビゼー 歌劇「カルメン」(Bizet: Carmen)

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僕が聴いた名演奏家たち(サー・チャールズ・グローブズ)

2017 JAN 14 22:22:35 pm by 東 賢太郎

音楽は浮世離れしたものではありません。演奏家は生身の人間であり、その人となりが演奏に現れるものですが、ごくまれに教わることもあります。この演奏会はまさにそれでした。

grovesバービカン・センターで聴いたラフマニノフの第2協奏曲、指揮はサー・チャールズ・グローブズ(ロイヤル・フィルハーモニー管)、ピアノはピーター・ファウクでした。1986年1月13日、ちょうど今ごろ、シティに近いホールなのでふらっと行った特にどうということない日常のコンサートでした。

第2楽章、ピアノのモノローグに続いてフルートが入りそれにクラリネットがかぶさりますが、どういうわけかクラが1小節早く入ってしまい会場が凍りついたのです。指揮台のグローブズの棒が一瞬止まりましたが、ここがすごかった。慌てず騒がず、木管のほうに身を乗り出して大きな身振りでテンポをとり、クラが持ち直して止まることなく済みました。

13338_2あのとっさの危機管理はなるほどプロだなあ、大人の対応だなあと感心しきりでした。サー・チャールズ・グローブズ(1915-92、左)、温厚なご人格もさすがにサーであります、終わってオケにやれやれとにっこりして、きっと楽屋でクラリネット奏者にジョークのひとつでも飛ばしたんだろうなという雰囲気でした。これがトスカニーニやセルやチェリビダッケだったらオケは大変だったろう。英国流マネージメントですね、指揮者は管理職なんだとひょんなことで人生の勉強をさせていただいたのです。

 

グローブズはボーンマス響、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団のシェフを長く務め、イギリス人でマーラーの全交響曲チクルスを初めて振った人です。

このアルゲリッチとのビデオに人柄が出てます。

チャイコフスキー2週間で覚えたわ、それであれ2回目の演奏だったのよ、コンサートの2日前になって練習1回でやったのよ~、よく覚えてないんだけどお、練習時間にぎりぎりで前の夫のデュトワの車でね~、でもワタシ何としてでも止めようとしてたの、遅れちゃえばいいって思ってたのよ、だっておなかすいてたんですもの。でも彼はどうしてもやりたかったのね、そうしたらポリスがいてね彼ぶっ飛ばしちゃってね~、つかまっちゃったのよ、考えられないわ、ハハハハとラテン色丸出しのアルゲリッチ。かたや英国紳士を絵にかいたようなグローブズ。こりゃ合わないでしょう。

そこでサーはさりげなく子供のことに話題をふっておいて、いよいよ、

「さて、ところで、僕が指摘したちょっとしたことで君をチャイコフスキーに戻さなきゃいけないよ。君のオクターブのことだがね、わかってるかな」

「あ~はい、わかってます、テンポですよね~ハハハ」

「そうだ、あそこのフェルマータね、僕は速くできない、だから君も速すぎちゃいけないよ」

<リハーサル。アルゲリッチめちゃくちゃ速すぎで止まる>

「でも、いざワタシの番だってなると緊張しちゃうんです~、それで~、でもワタシ、スピードこわくないじゃないですか」

880242798589「そうだね、それが君の問題だねえ」

<本番。やさしそうに語ってたグローブズはちっとも妥協せず、問題個所のテンポは全く変わっていない。が、アルゲリッチもあんまり直ってない>。これはDVDになってます(右)。

 

こっちは小澤征爾さんとラヴェルです。

楽屋で靴が壊れてるとさわぐこのきれいだけどぶっ飛んだお姉さんに合わせられる。英国紳士には無理でしょう。我が小澤さん、さすがです。「(練習より)20%速かったよ」だからますます尊敬に値しますね。世界に羽ばたく人はこのぐらい危機管理能力がないといけないんでしょうね。

グローブズ卿は英国音楽の重鎮でありこのCDが集大成となっています。

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