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カテゴリー: ______ブラームス

ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(3)

2015 MAR 27 1:01:07 am by 東 賢太郎

ハンス・シュミット・イッセルシュテット / 北ドイツ放送交響楽団

110第1楽章は微妙に速めのテンポでコクのある表現だ。本物の手触りがある。オケは弦がトップクラスとは言えないが自然体で立派なブラームスになってしまうという風情。第2楽章ももたれずテンポは曲想に添って自在に変化する。第3楽章のオーボエは歌うというより何か主張している。終楽章もトスカニーニのように速いが無機的な響きにならない。筋肉質で武骨に聞こえるが第2主題に絶妙なギアチェンジなど細かい芸が見え隠れしている。コーダはやや加速して熱く締めくくる。オケは素晴らしい集中力で弾ききっており破綻は一切なし。録音がややくぐもっているのが実に惜しく0.5減点するが、これは純正北ドイツ流かつ達人の一筆書きの勢いある誠に立派な2番である。厳しい男性的なブラームスとしては最右翼の演奏だろう。(総合点 : 4.5)

 

カルロ・マリア・ジュリーニ / ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団

510冒頭のゆったりしたテンポからジュリーニの世界に引き込まれる。全楽章にわたるこの特異な遅さについていけるかどうかで好悪が分かれるだろう。晩年のジュリーニはロンドンやアムスで何度も実演に接したが、バッハもロッシーニもフランクもそういうテンポでなくては語れないことを語る指揮者であったしそれをVPOがやらせてくれる指揮者は当時数人しかいなかっただろうと思う。細部にまで考え抜かれ神経が通った演奏は満足をくれるがそのアプローチが最も成功したのは4番であり、この2番は個人的には求める物とちがう。(総合点 :  3)

 

ホルスト・シュタイン / バンベルグ交響楽団 (July 1997、ライブ)

51hxQfCYaZL95年にフランクフルトでこのコンビのベートーベン「田園」とブラームスピアノ協奏曲第2番(ルドルフ・ブッフビンダーpf)を聴いて大変感動した。郊外にあるヘキストの体育館みたいなホールで日本人は僕しかいなかったかと思うほどドイツの奥座敷みたいな所。そんな中でブラームスを聴く幸せは人生格別の思い出のひとつになた。このKochの全集も地味だがあのときの音がしている。何も肩ひじ張らない、ドイツ地方都市の普段着のブラームスはこういうものだと思って聴いていただきたい。2番のコーダでこんなにゆったりと慈しみ、興奮をあおらないのは見識だ。これをベルリンPOやシカゴSOの名技やらデモーニッシュな指揮者の切る見栄に欠けると批判するのは簡単だが、逆にそういう演奏のほうがよく出会えるのだ。(総合点 : 4)

 

エンリケ・バティス / メキシコ国立交響楽団

429シュタインとは対照的な速さ。湿気のないラテン的な音。指揮は実にメリハリに富み、旋律をじっくり歌うというよりリズミックな音型をすべてスタッカート気味に処理するというブラームス演奏においてあまり意味を感じないことに力点が置かれ、句読点を切った早口言葉にきこえる。と思えば意外なところで内声部が浮き出たりする変幻自在さを持ちあわせ先が読めない。第2楽章冒頭チェロ旋律はもうModeratoの別な曲だ。普通は9分ほどかかる終楽章が上記のシュタインは10分半と最遅クラスで、一方このバティスは7分台と超快速のショルティよりさらに1分近く速いというウルトラぶりである。初めての人にこれとシュタインを連続して聞かせたら同じ曲と思わないだろう。クラシックの面白さだ。マニア向き。(総合点 : 1)

 

ヤッシャ・ホーレンシュタイン / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(8 Sep 1966、ライブ)

SOMMCD037モントルー音楽祭のライブ。ホーレンシュタインはロシア系ユダヤ人で現代音楽に強く、GHQ憲法草案制定会議のメンバーとして日本国憲法の起草(特に第24条)に関わったベアテ・シロタ・ゴードンは彼の姪である。チェコPOは主席アンチェルの指揮のようには好調ではない。ホルンソロがこのオケ特有の音で第2楽章のヴィオラ、チェロとの絡みは美しい。指揮者のブラームス演奏への適性は感じるがなにせオケが不調で終楽章コーダの第一トロンボーンはよれよれだ。(総合点 : 1.5)

 

エーリッヒ・ラインスドルフ / ボストン交響楽団

leinsdorf客演が好評だったスタインバーグをBSO理事会はミュンシュの後任として音楽監督に据えるつもりだったが、レコード会社のRCAがリストのトップに持っていたラインスドルフを押し込んだのだった。そうでなければこれはスタインバーグのCDになっていただろう。しかしこれは前任者ミュンシュをさらに正統派にしたような名演でオケがウィーン・フィルだったら歴史的名盤ものだったのだからRCAの独断には感謝しなくてはならない。BSOも大変見事な演奏をしておりまったく文句はつけようがない。カセットを留学中に愛聴したせいもあり耳に焼きついて僕の2番の原型を形成している演奏の一つで、右のCDは89年にロンドンで買って夢中で聴いたもの。ラインスドルフは最晩年にNYでブルックナーの3番を聴いた(NYPO)がワルターの弟子であり独墺ものは実に素晴らしい。ベートーベンとブラームスは広く聴かれてほしい。(総合点 : 5)

 

クルト・ザンデルリンク / ドレスデン国立管弦楽団

sanderling2番の滋味あふれる表現は何度聴いても飽きず、いつまでも聴いていたい。DSKの木質の管弦のブレンドはブラームスに実にふさわしく、全楽章が理想的なテンポで揺るぎのない堅固な構成を見せる。この全集の1番がLP(独オイロディスク)で出たのが僕の高校の頃で、当時の日本の評論家に凡庸な指揮だと酷評されたのを記憶している。そうではないからこの録音が欧米で長く生き残っているのであって、何か奇天烈な個性がないと無能という評価はまったく音楽の本質と遠いものだ。ザンデルリンクは96年にチューリッヒでシューベルト9番の名演を聴いたが、やはりこういう語り口で感動的だった。ドイツ人がドイツ語でやったブラームスがどんなものか、まずそれを熟知するのがブラームスを味わう第一歩と思う。(総合点 : 5)

 

キリル・コンドラシン / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 (29 Nov 1975、ライブ)

51S6Wz7A4ZL__SL500_僕のCD(右)は93年にドイツで買ったもの。指揮者晩年のアムス・ライブ・シリーズで全部が格別に素晴らしく、全部買っておいた判断に感謝している。2番は全体に速めで第2楽章などそっけなく聞こえるが、語るべきは語っている真打の落語のようなもの。コンドラシンがN響を振ったビデオを見ると特異な魔性を感じる男前の風貌で、ださいロシアの田舎もんのイメージが覆った。ACOをここまで自在に歌わせコントロールする磁力は納得だ。並録のシベリウス5番がこれまた魅力的でこのCDは大事にしている。セカンドチョイスとしてぜひ一聴してみて欲しい。(総合点 : 4)

 

(補遺、2月28日)

ダニエル・バレンボイム / シカゴ交響楽団

51NWRQBNYBLこのコンビの2番はフランクフルトのアルテ・オーパーで聴いたがあまり印象がない。これで聴き直すと、重量級だ。第1、4楽章第2主題はCSOの弓の圧の強い弦の合奏、このたっぷりした歌はききもの。第1楽章コーダ前のホルンソロのpp、そこからの滑らかな起伏は逸品だ。2番で非常に重要な金管アンサンブルも敢然とするところなし。うまい。第2楽章は彼のロマン的な表現がはまっており名演である。しかし終楽章のコーダの加速がいらないのだ。トロンボーンのソロなど全演奏でも特筆ものなのだが、どうしても趣味に合わない。(総合点:3.5)

 

(補遺、3月28日)

カルロ・マリア・ジュリーニ / ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団

51XCKSqLWZL79年12月11日、ドロシー・チャンドラー・パビリオンでのライブ。アンサンブルは荒っぽく、録音も高音がやせて弦が薄い。テンポのアップダウンが少ないのは上記盤VPOと同じだがライブのせいかこちらは熱気がある。同じオケでのDG録音はこれの約1年後になるがここから練り上げていったということだろう。ジュリーニ節は既に健在だがいかんせん音が悪い。終楽章コーダは大人の扱いで加速は少ないがティンパニが1発多くたたいたり最後は楽譜と違うので気になってしまう。(総合点:2)

 

(補遺、2018年8月26日)

サイモン・ラトル / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

youtubeのビデオですが、あまりに素晴らしいので。この第1楽章の出だし、すぐに惹きこまれ心がふるえる。深い呼吸は最高に素晴らしい。これぞ2番だ!第2楽章も弦も楽器奏者たちの歌ごころを引きだしてあまりなく第3楽章が室内楽アンサンブルのよう。指揮者は奏者たちの呼吸を合わせているだけだからだろう、終楽章第2主題への減速が実に自然だ。展開部最後の深い霧。堂々たるインテンポの終結。BPO音楽監督就任2年後である。ラトルを選んだ理由がわかる。(総合点:5+)

 

ヨーゼフ・クリップス / チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団

1960年5~6月 、トーンハレ (チューリッヒ)の録音。オケは好調で技術も音程も良く、弦が主体のアンサンブルが中心だが木管とVa、Vcの内声が希少なほどくっきりと聞こえ、しかしバランスを損なわない録音のセンスも良し。クリップスは活躍の場がウィーンで王道。昔は微温的と評されていたが、我々世代がこれぞブラームスと安心、納得する音楽をやってくれる。終楽章コーダだけが僕の賛同しかねる部分だが、これが好きな方はおられるだろう。(総合点:3)

 

カルロ・マリア・ジュリーニ / ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団

ジュリーニがLAPOとドイツ・グラモフォンに録音したベートーベン(5)、シューマン(3)、ドヴォルザーク(9)は評価が高く(9)、特にブラームス(1,2)は垂涎だった。ジュリーニ一流の遅めのテンポ。濃厚な時を刻んだ2番の第1楽章はブラームスの後期ロマン派的側面を意識させるのはいいが総じてVPO盤に書いたことになる。オケの魅力は落ち、fではバックの金管(特にホルンはうるさい)、ティンパニが弦とは浮いて聞こえるバランスもあまりブラームスには好ましくない。終楽章コーダはトランペットの信号音のところで速くなるが(VPO盤も)全く賛同できない(総合点:2)。

 

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ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(4)

 

 

 

 

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ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(2)

2015 MAR 25 1:01:35 am by 東 賢太郎

ハンス・クナッパーツブッシュ / ドレスデン国立管弦楽団(27 Nov 1959、ライブ)

871同指揮者ではミュンヘンPO盤(56年)、VPO盤(59年)も持っているがこのDSK盤(仏TAHRA)が音に深みがありオケにコクもある。第1楽章のテンポは意外に普通で展開部でティンパニを強打して頂点を築き、終結のホルンは感動的。第2楽章もオケの美しさが活きる。第3楽章のPrestoはずいぶん遅く田園風景を各駅停車で眺めるよう。終楽章の入りはさらに遅く主部はティンパニがくさびを打ち込む物々しさで何だこれはとびっくりするが、オケは納得して熱い不思議な演奏である。コーダに入るとほんの少しテンポが上がり、また下がる。まったく特異な演奏だが彼のシューベルトのグレートを楽しめる人には面白いだろう。(総合点 : 2)

 

ジョン・バルビローリ / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

Cover 2僕のCDは右のRoyal Classics盤。EMIのVPO録音はDeccaの艶と華に欠ける。第2楽章中間部と第3楽章はVPOの管の魅力が聞こえるが、いつくしむような解釈はわかるが指揮者が目論んだほどオケが反応していない感じがあり時に微温的にきこえる。終楽章再現部ではフォルテでトランペットが派手に音をはずしておりスタジオ録音なのに杜撰だ。コーダも安全運転でオケがちっとも熱くない。世評の非常に高い全集だがどれも僕にはピンとこない。(総合点: 2)

 

湯浅卓夫 / 大阪センチュリー交響楽団(3 Nov 2005、ライブ)

793第1楽章の弦がやや薄いのはVPOの後に聴いてしまうと分が悪いが管はとても良いピッチで鳴っており聴き劣りがしないのはライブという条件を考えると大変立派だ。ホルンが好演でブラームスらしい彩りを添える。第2楽章もホルンと木管とのアンサンブルは秀逸、第3楽章Allegretto、Prestoのテンポも快適である。終楽章は腰が重い快速でティンパニのアクセントを効かし第2主題の歌わせ方も満足、コーダのトロンボーンもまったく危なげなしだ。素晴らしい。湯浅の解釈は彫の深さを感じ、良いブラームスを聴いたという手ごたえが残る。(総合点 : 4)

 

アルトゥーロ・トスカニーニ / フィルハーモニア管弦楽団 (29 Sep 1952、ライブ)

710inwxsbvL__SL1059_このロンドンライブも世界中で伝説の名演と語り尽くされたものだ。しかし僕の結論はトスカニーニもフルトヴェングラーと同じぐらい2番には向いていなかったということだ。第1楽章に漲る緊張感は先を期待させるが第2楽章が速すぎる。Adagio non troppo でこれはないだろう。第3楽章中間部はPrestoだからこれでいいがどうも全体にせかせかした印象を受ける。終楽章は大変なエネルギーを噴射しつつ突っ走る。会場は熱狂しているし、これが好きだった時期もあるがずいぶんと昔のことという気がする。(総合点 : 2)

 

ブルーノ・ワルター / コロンビア交響楽団

819lqKBwIDL__SL1500_僕のCDは89年にロンドンで買ったJohn McClure盤(右)でこれは音がいい。第1楽章の第1主題が展開してゆくのびやかなフレージング、第2主題の素晴らしい呼吸。本物のブラームスを聴いている実感がある。最後の和音の素晴らしいブレンドなどプロ中のプロと感じ入る。第2楽章のチェロの歌の見事さ!深いロマンの森に分け入っていく心地よさ。第3楽章のAllegretto はまさにgrazioso だ。終楽章のテンポはこれだろう、これならあまり急ブレーキを踏まずに第2主題に移行できる。すべての楽器がバランス良く鳴って血が通っており、ワルターの意志で強力にコントロールされているが自然に聞こえるという大変に高度な指揮がなされている。ファーストチョイスに選びたい名解釈、名演奏である。(総合点 : 5)

 

ウイリアム・スタインバーグ / ピッツバーグ交響楽団

steinbergスタインバーグ(1899-1978)はクララ・シューマンのピアノの孫弟子で、ケルンでクレンペラーが助手に選びNYではトスカニーニがNBC響の稽古をさせた人物である。このブログに書いたマーラー「巨人」がこのスタインバーグの指揮だった(米国放浪記(7))が、亡くなる9か月前だったことになる。オーマンディーと同い年で19世紀生まれの人というのが感無量。右のCDは88年ごろロンドンで購入。冒頭は木管のピッチがいま一つ。弦も固いがこれは残念ながら録音のせいだ。第1楽章はこれぞ2番というまことに良いテンポである。トスカニーニばりに筋肉質で第3楽章のアンサンブルは緊密だ。終楽章は速めで無用のアッチェレランドなど一切の虚飾を排したストレートな解釈。ちなみにこのCDに入っている4番はさらに素晴らしい名演である。玄人向きだが一聴をお薦めしたい。(総合点 : 3.5)

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(補遺、16年2月12日)

まったく同じ音源による全集が右のMemoriesで出ており、これのほうが音が良い。LPはもともとCommandレーベルでのイシューだったが、61-62年のピッツバーグ(ソルジャーズ・アンド・セイラーズ・ホール)での録音は当時の最先端技術である35mm磁気テープで行われ演奏のクラリティを忠実にとらえている(はず)。このブラームス2番とラフマニノフ交響曲第2番がCommandへのデビュー(May 1/2, 1961に両曲を録音している) でありブラームス2番は1962年のグラミー賞クラシック部門にノミネートされている。4番が大変な名演であり、これを所有する価値は大いにある。

 

スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー / ハレ管弦楽団

bra2フィラデルフィアでブルックナー8番に感動し楽屋へ行って会話までしたMr.S(この指揮者の略称)のブラームス。87年頃にロンドンでワクワクして買った思い出のCDだ(右)。第1楽章は遅めだが意味深く実に素晴らしい。音楽のひだに添ったダイナミクスの振幅が大きく、弱音はデリケートでフォルテのティンパニの打ち込みは心に響く。第2楽章のチェロもいいなあ、これぞブラームスだ。第3楽章、音程がいい、彼の指揮を聴くといつも作曲家の耳を感じる。ミネソタO.を振ったVoxのラヴェルやストラヴィンスキーのピッチの良さときたらブーレーズより上なほどであり、ここのハレO.も同様なのがお分かりいただけるだろうか。最後のトロンボーンが下手なので0.5点減点するがファーストチョイスでもOKと思う。悲劇的序曲の濃い表現もぜひ聴いていただきたい。(総合点 : 5)

 

(補遺、3月29日)

アルトゥーロ・トスカニーニ / NBC交響楽団

R-1514545-1299855271.jpeg52年録音で日にち記載がないのでスタジオ録音と思われ、こちらが正規盤ということになっている(らしい、そういうことはよく知らない)。第1楽章第2主題のぶつ切れのフレージングが不似合に思う。f は気合が入るがブラームスの本質と無縁の頑張りと思う。コーダの重要な場面でホルンがよく入っておらずがさつな弦が勝った音も、録音スタッフがブラームスを心得ていない。第2楽章、速すぎでありヴァイオリンのヴィヴラートが過剰でうるさい。シューリヒトのVPO盤のように音程がおかしくないのは一抹の救いだが。終楽章アレグロはコン・スピリトを地で行くが、このオケは非常にうまいはずでありそれをトスカニーニが振っていてこれかというレベルに留まる。硬派の2番であり叙情的な部分では常に不満であるのだからアレグロでずば抜けないと感動はうすい。ハイティンクの稿に書いたがコーダは①の最後でタメを作ってサスペンディッド・コードに敬意を表する(疑似終止)が、それを補おうと②でスコアにない安っぽい加速をしない。こういう楽譜の読みがトスカニーニのトスカニーニたるゆえんなのである。しかし、総じた印象として彼が2番に向いているとは思わない。(総合点:1.5)

 

(補遺、11 June17)

シャルル・ミュンシュ / フランス国立管弦楽団 (16 Nov 1965 ライブ)

パリのシャンゼリゼ劇場でのステレオ録音。僕のは88年にロンドンで買った右のディスク・モンターニュ盤で音はいい。第1楽章は管がフランスの音色とヴィヴラートで音程が良くないが、ティンパニを強打した骨太の表現にミュンシュの声もきこえ弦のレガートの色も濃いなど尋常の気合いではなく、だんだん引き込まれる。第2楽章はテンポが動くが自然の脈動と感じる。第3楽章は速めだが表情は深い。終楽章。アレグロで棒があおっているのでアンサンブルが雑になるがミュンシュの指揮というのはそれが持ち味である。再現部の第2主題はいいテンポで入り、そこからコーダまで一気呵成の一筆書きだ。もちろんアッチェレランドがかかるが、この一流の芸に異を唱える気にはならない。終結は大時代的な急ブレーキがかかり最後の音が長く長く伸び、こらえきれず聴衆の拍手がかぶる。こんな演奏はもう体験できないだろう。歴史ドラマだ。(総合点:4)

 

(補遺、21 July 17)

ジェームズ・レヴァイン / シカゴ交響楽団

まだレヴェイン30台前半の演奏で、そんな小僧がブラームス?と、この全集は日本の評論家に無視されたと記憶する。しかし、彼らと違いCSOのプロたちは小僧の才能を鋭く見抜いている。このオケが真面目にやればどうなるかは若かりし小澤の春の祭典やトーゥランガリラでわかる。指揮者は何歳であれ、音楽評論家ではなくオケをその気にさせるかが勝負だ。第2,3楽章のデリケートなニュアンスも老成の感すらあり録音もそれにうまくフォーカスする録り方で大変好感が持てる。数年後にCSOはショルティと全集を録るがそれはあくまでショルティのブラームスであり、このレヴァイン盤は(微妙にアンサンブルの齟齬があり、あまり入念に練習した感はないものの)その見事な生命力と柔軟性で独自の美質を誇る。終楽章第2主題への減速など堂にいったもの、コーダは微塵も安物のアッチェレランドなどせず。本質追求型の大物の指揮だ。(総合点:4)

 

 

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ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(3)

 

 

 

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ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(1)

2015 MAR 24 0:00:43 am by 東 賢太郎

オーストリアのザルツカンマーグートは映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台です。バート・イシュルはヨハン・シュトラウスお気に入りの温泉地であり、トラウン湖畔のグムンデンはブラームスが1890年 から6年間、シューベルトは1825年から2年間暮らしました。どちらもスイス時代の夏休みに車で旅行しましたが、息をのむほど美しい所です。

交響曲第2番ニ長調作品73はヴェルター湖畔のペルチャハで着想され、クララ・シューマンの家があったドイツはバーデンバーデンのリヒテンタールで完成されました。そこで彼が借りていた高台の家の風情はまことに好みであり、拙宅はそれに似せました。彼が好んだ避暑地はどれも非常に好きで、単に景勝地として美しいという以上に趣味に合うものを感じます。彼の音楽に深く共鳴するのは、そういう底流があるかもしれないと思っております。

以下、前回に書きました通り、2番の録音で印象にある物につきコメントします。順不同であり、どれがお薦めというわけでもありません。(総合点)は1~5点で、自分が仮に2番を初めて聞くとしたならこれだというのが5点、そうではないのが1点です。

 

エヴゲニ・スヴェトラーノフ/ U.S.S.R.国立アカデミー交響楽団

20502672645381982年、ソ連時代のオケがどういう音がしたかはドイツものでわかる。冒頭ホルンの音がロシアで、トランペットも弦に混じらない。コーダのホルンソロ、ヴィヴラートのかかった特異な音!テンポは恰幅が良くフレーズはごつごつと武骨で第2主題の弦のフレージングも念を押すようだ。第2楽章は遅いテンポでねばるが、各セクションが融和せず鳴りっぱなし。第3楽章のアンサンブルはどこか洗練されずコーダのそっけなさも妙だ。終楽章も遅めのテンポで最後まで通しだんだん白熱する鋼鉄のような質感。最後のトロンボーンの和音を切らずに引き伸ばすのはびっくりするが、総じて大変に面白い。曲を知り尽くした通向きの演奏だ。(総合点 : 2)

 

ハンス・スワロフスキー / 南ドイツフィルハーモニー管弦楽団

147テンポは模範的で楷書体の演奏だ。木管は古いドイツ風でフルートはうまいがオーボエ以下は落ちる。弦は少人数でヴィヴラートが大きくピッチが合わず下手だ。しかし、録音がオンでありオペラのピットのオケがブラームスのシンフォニーをやっているようなあり得ない風情が僕には貴重で、この全集は珍重している。アバド、メータ、ヤンソンス、尾高忠明の指揮の先生スワロフスキーの頑固で理屈っぽく四角四面の指揮もブラームスのそういう一面を投射している。スヴェトラーノフもそうだが終楽章コーダが狂乱の場みたいにならないのがいい。通向き。(総合点 : 3)

 

ラファエル・クーベリック / バイエルン放送交響楽団

934れぞブラームスという音であり表現である。湿度があって練れた弦のブレンド、これがあって第1、4楽章の第2主題は生きるのだ。第2楽章のチェロを聴いてほしい。特にうまいわけではない、このうねりだ。これ全オーケストラに伝播して「うまみ」や「コク」を醸し出す。ホルン、フルート、トロンボーンは自己主張をちゃんとしながら浮き上がらず、ティンパニのアクセントは決然と打ち込まれる。熟練の指揮だ。第3楽章のオーボエの歌!ここはこれでなくては。終楽章は見事なテンポで進み合奏は彫りが深い。良い装置で聴くと理想的な音で心からの満足感が得られるだろう。名録音であり、万人向け、ファーストチョイス向けである。(総合点 : 5)

 

カール・シューリヒト / シュトゥットガルト放送交響楽団(16 March 1966、ライブ)

ARC-2_5シューリヒトというドイツの名指揮者の指揮の細部を悪くないステレオ録音で味わえるライブ。アルプスを望むような悠揚迫らざる開始だがテンポは終始生き物のように動く。コーダのホルンが素晴らしい。第2楽章のチェロの音色は森のように暗くホルンの木漏れ日の和声がほのかに射すが、ここはテンポはあまり伸縮せず淡々とすすむのが良い。第3楽章はオーボエが上質でなく落ちる。終楽章はかなり遅めのテンポに聞こえるがスコアを見ると4分音符を4つ振りするアレグロだからこれが正しいのだろう。最近の指揮者は2分音符2つ振りのテンポが多いうえに、コーダはアッチェレランドまでかける不届き者がいる。ブラームスの本旨と程遠いといえよう。傾聴に値する演奏だ。通向き。(総合点 : 3)

 

ゲオルグ・ショルティ / シカゴ交響楽団

947このオケは実演も録音もだがうまい割に出だしが不調なことが多い(ここでもヴァイオリンの音程が良くない)。次第にエンジンがかかりショルティ流のエッジとリズムのばねが効いてくる。1,4番はそれがうまく作用しても2番は違うだろうと思うのだが、聴き通すと納得してしまう。管楽器がどれもうまいのだ。もうこの技量は他オケと雲泥の差である。第3楽章のオーボエやホルンを聴いてほしい。だから全奏に透明感がありこういうブラームスもありかなと思ってしまう。終楽章は最速クラスで僕は上記のようにこれを支持しないが、若造の思いつきテンポと違い、第2主題の減速なども堂に入っていてショルティらしい堅固な造形と一体化しているうえにオケの圧倒的な力でねじ伏せられて感動してしまう。コーダ第401小節の第1トロンボーンの下降音型など、普通のテンポですら危ないオケが続出でここでトチられると非常に興ざめになるのだが、この快速テンポで難なく吹いてしまう!シカゴ響恐るべしだ。終止和音のタメと古来ゆかしい減速。ショルティさん参りました。セカンドチョイスだが是非一聴をお薦めしたい。(総合点 : 4)

 

ピエール・モントゥー /  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

4988005845733ブラームスを敬愛していたモントゥーだが正規盤は2番だけ2種類あって、もうひとつロンドン響盤があるが第1楽章コーダのホルン独奏を聴いていただきたい。ロンドンのオケにこんな音は出ない。第2楽章のチェロ、これもそう。ヴァイオリンもオーボエも自然にブラームス語でしゃべっている。モントゥーは何も変わったことをしていないがこれがブラームスでしょということ、それで気難しいVPOがちゃんとついていってる。というよりVPOペースでコトが進んだ観の部分もあるが、テンポについては概ね穏当であり、終楽章コーダは加速していない。見識である。現場は認めてるのにDecca経営陣が彼をフランス屋と決めつけて全曲録音しなかったのが惜しい。持っていたい1枚。(総合点 : 4)

(補遺・21 july 17)

ピエール・モントゥー / サンフランシスコ管弦楽団(1951)

マイクが楽器に近接して管の生音が目立ち主旋律よりオーボエの対旋律が浮き出す。バランスが悪いうえ、音程の甘い弦楽器がクリアに拾えていてアンサンブルはかなり荒っぽいときている。ブラームスのリアライゼーションには誠にふさわしくなく、オケそのものの技術レベルも低い。モントゥーはかなり熱くなっておりVPO盤とは全くの別物。こちらが本音かもしれないがせめてBSOとやってほしかった。SFSO盤は2種あるらしいがこれしか聞いておらずマニアには珍重されるが何がいいかわからない。Mov4のテンポ、第2主題への減速はあまりなく常に突っ走る。コーダはティンパニがずれたりしながら突進し、軽微ながら最後の最後で加速してしまっており、やはりVPO盤はVPOの演奏だったかとも思う。(総合点: 2)。

 

ピエール・モントゥー / ロンドン交響楽団

第1楽章に提示部の繰り返しがあり20分もかかるから全体のバランスとしてどうかとも思うが、第二主題のテンポを落とし句読点を刻む万感こもるフレージング(VPO盤にはない)、弦の内声部の強調、終結に向けてのテンポの伸縮(ホルンソロに入る直前!)などを聴くとこの曲への指揮者の耽溺を知ることになる。モントゥー(1875-1964)最晩年1962年の録音であり、ブラームスのスコアに想いを刻印するには伝統に縛られたVPOよりLPOが好適だった(技術も上だ)と想像する。終楽章に至るまで自然体の素晴らしい2番であり、モントゥーが敬愛したブラームスが自分の培ってきたそれとそんなに違わないことを知って伝統というものの重みを再確認する。終楽章コーダに興奮をあおるアッチェレランドのような無用のものはかけないのはもちろんである。

 

ウィルヘルム・フルトヴェングラー / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団                         (7 May 1952、ライブ)

フルトヴェングラーと聞くとすべて神憑りの名演奏と信じている人が多い日本という国は世界でも稀有な国家である。これはその迷信を解くいい例だろう。第1楽章の第1主題、45年のVPO盤は第2主題に入る前(第50小節)に突然に意味不明のアッチェレランドがかかって凍りつくが、ここでは第59小節のfに向けて徐々に加速する(48年のロンドンSO盤はその中間)。僕はその(彼としては最大限に抑えた)加速でも違和感を覚える。第134小節のつんざくトランペット、その先のポルタメント、227小節の地獄落ちのごときffは僕の趣味とは程遠い。終楽章は第1主題がどんどん速くなっていき、再現部も同じ羽目になって第2主題は快速になってしまう。これでは深みや滋味など雲散霧消である。そしてコーダに向けてはティンパニが暴れまくる。大変な名演である1番そのままの流儀の2番というユニークなアプローチは敬意を表するが、解釈のスタンスとして僕はまったく賛同することができない。初聴して絶句してから2度と聞いておらず、今回本稿のために2度目にチャレンジしたがもう聴くことはないだろう。好事家向け。(総合点 :  1)

 

シャルル・ミュンシュ / ボストン交響楽団

200x200_P2_G5360403W良いテンポで始まる。なんていい曲が始まったんだろうと。弦が極めて上質で録音も本当に素晴らしい。このオケは高性能でありながら米国で最も欧州的な音色を持ち金管はフランス的な軽さもある。ミュンシュのリズムはスタッカート気味にはずみ、推進力に加勢する。それが活きた彼の1,4番は実に男らしいブラームスで僕は好きだが2番は第2楽章の呼吸だけは浅く深みに欠けるきらいがある。終楽章は速めだが羽目は外れず、オケが鳴りきっている。ミュンシュは爆演指揮者だと思われているが、コーダは興奮を加えながらもアッチェレランドなしであるのにご留意いただきたい。そんな安物ではないのだ。トランペットが明るすぎるのが唯一欠点だ。セカンドチョイス。(総合点 : 3)

 

オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団

200x200_P2_G3281644W第1楽章は弦と木管のフレージングに細かな配慮があるのに耳がいく。まったく一筋縄でいかない指揮者だ。加速、減速があるがシューリヒト同様に意味を感じ不自然さがない。オーボエが目立つなどDGやフィリップスの感性ではないEMIの音で細部の分解能が高めの録音はあまりブラームス的ではないが、不思議なバランスで様になってしまうのは指揮の力だ。テンポも表情も違和感なく、立派な2番を聴いたという感興だけ残る。一度は聴いておきたい名演。(総合点 : 4)

 

(補遺、3月28日)

カール・シューリヒト / NDR交響楽団

71eDJ5ZFR-L._SL1261_1953年1月8日、ハンブルグでのライブ。Urania(イタリア盤)の音は意外に良い。演奏は上記シュトゥットガルト盤よりあっさりして速めで、これほどもたれない2番も希少だ。では淡泊かというとテンポの動きが即興と思われるほど自在であって表情は濃いから良いブラームスを聴いた充実感が残る。薄味だがうまみの芳醇な出汁という所で、指揮者の至芸だ。オケは充分にうまく、良く反応していて聴かせる。適度な速さでティンパニを効かせた終楽章は特に素晴らしく、これほどテンポを自由に操ってきたシューリヒトがコーダでほとんどアッチェレランドをかけないというのをぜひお聴きいただきたい。僕が何故それにこだわっているか。これぞこのスコアに対する良識と敬意であり、それを選択する趣味の良さの問題であって、こういうことは人に教わるというより人間そのものだから争えないものであると思うからだ。僕はこのCDを聴くのが喜びだ。(総合点:4.5)

 

カール・シューリヒト /  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

41p31a3pW5L._SS28053年、ムジークフェラインでの録音でこれがシューリヒトの正規盤とされ定評がある。しかし申しわけないが僕には何が良いのかさっぱりわからない。第1楽章は主部が加速したと思うとブレーキがかかり、ヴァイオリンにポルタメントがかかる。こういうのはウィーン風と喜ぶ人もいるようだが僕はブラームスの本質に資するものとぜんぜん思わない。和音は音程が悪く興ざめである。第2楽章の冒頭チェロセクションは不揃いで実にヘタ、第2主題も同様であり内声部に回っても音程もフレージングもいい加減だ。棒がテンポをあおるとアンサンブルはライブかと思うほど雑になる。この楽章は楽器の録音のバランスも悪く正規盤としては相当低レベルな部類と言わざるを得ない。第3楽章はVPOの木管の魅力で救われるが弦はかなりひどい。終楽章はヴァイオリンの雑なのに閉口で、第2主題の弦の安っぽい音は救い難い。コーダのテンポの扱いは順当に思う。指揮はNDR盤とそう大きくは変わらないが、とにかくオケが今ならアマチュアなみであって到底もう一度聴きたいとは思わない。これがウィーン・フィルとクレジットされていなかったらこの世評はなかったのではないか。こういうのをプラシーボ効果というのであって、未開地の人に歯磨き粉を薬だと教えて飲ますと本当に風邪が治ってしまうあれだ。この演奏で幸せになれるい人が多いならあれこれ書くこともないが、僕は常に本音でいたい。(総合点:1.5)

 

(補遺・シカゴ響のうまさについて、16年1月18日)

「もうこの技量は他オケと雲泥の差である」と本文に書きました。全盛期末期のフィラデルフィア管を2年間定期会員として聴いた僕が「うまい」と驚くオケはもう世の中にほぼ皆無なのです。ところがこのビデオで冒頭のトランペットにいきなり耳がくぎづけになった。ムソルグスキー(ラヴェル編)「展覧会の絵」です。

いや、すごい、この金管、木管・・・。弦も半端でないのに格落ちに聞こえてしまうではないですか。ライナー時代にレベルアップしましたが、ショルティの耳でしょう。85年2月にロンドンのロイヤル・フェスティバルホールでチャイコフスキー4番を聴きましたが終楽章の物凄さは言葉もなし(この演奏会はDVDになってます)。そして、このバルトークだ。技量においてこれを上回るものは、まず、もう出てこないでしょう。最後の減速もなく、まったくもって素晴らしい。

 

(つづきはこちらへ)

ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(2)

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クラシック徒然草-ブラームスを聴こう-

2015 MAR 22 11:11:33 am by 東 賢太郎

音楽をきいて昔のことを思いだすというのはよくいわれる。それは小説でも絵でもあるから特別なことではないが、音楽は特にその力が強いように思う。といっても、若い頃によくきいていた曲というのが年をとってみて自分の中でどんな風になるかというのは当の若い人にはわからないのだからそれを分かりやすく説明する必要があろう。

結論から先に明かせば、音楽はタイムマシンであり回春剤でもある。「あの頃」を思い出すどころではない、「あの頃の自分」に戻ってしまう。だから元気になりたければ簡単だ、一番元気だった時によくきいた音楽をきけばいいのだ。

我々は視覚に頼って世界や時間を認識しているように思っているが、実は聴覚や嗅覚にも大きく依存している。鼻をつまんで食べるとカレーの味がわからない(本当だ!)。味は舌だけで感じるのではなく鼻腔でも感じていて、むしろ嗅覚こそ微妙な「味わい」を作っている。

触覚も大事だ。雪というのは物質としては水でありH2Oだ。それを我々は白い色の冷たいふわふわの触感で水とは別物と認識している。「白」「冷」「ふわふわ」というタグが付くと我々の頭の中で水は雪というものになる。同じことだ。過去という時間に「音楽」のタグが付くと、それは思い出や経験や郷愁とか呼ぶものになったりもするのだ。

音楽の威力だなと感心するのは、当時を思い出すだけではない、その頃の心境やマインドセット(心の持ちよう)まで手に取るように浮かんでくることだ。ハートまでタイムスリップするといってもいい。

アルバムで中学時代の学校や修学旅行の写真を見てみよう。それだけでは思い出さないことが校歌を口ずさんでみると蘇った経験はないだろうか。景色ではなく当時の気持ちや感情や恋心や先生の声や教室のにおいまで。

それは当時目にした情景からだけでは必ずしも蘇らない。視覚情報というのは食べ物でいえば舌の情報で甘味、辛味、塩味、酸味のようなものだ。嗅覚まで含めて味の記憶は成り立っているとすれば香りを蘇生させてくれるのは音楽ではないかと思う。

今僕は60才になって昔の自分を意識するようになっている。たとえば身体能力だ。記憶力、根気、体の柔軟性、酒の強さ、諸欲、未知の事へのチャレンジ精神など。結論として、何一つ30代の自分にはかなわない。それを言うと多くの同世代は、それ言っちゃ終わりだろ、判断力や経験値は今の方が上だよという。

そうだろうか?判断力や経験値なんてあったって実行しなければ意味がない。でも実行力は結局は身体能力がものをいうのだ。今の僕が30代の自分と変わらないのは家族と猫と音楽と広島カープへの愛情ぐらいのもので、それ以外は全滅の敗北だ。カラ元気は役に立たない。現実を直視しないで何かやってもうまくいかないのだ。

だから少なくとも気持ちぐらいでいいから30代に戻りたい。そういう時に力をくれるのは、30代、まさに自分が心身ともに最もパワフルだった頃に聴いていた音楽、モーツァルト、ベートーベンとブラームスなのだ。それがドラえもんのタイムマシンのように、僕をあの頃の夢、心境、ヤル気、自信、諸欲、すべてのものを持った自分に連れ戻してくれる。

あの最盛期にモーツァルト、ベートーベンとブラームス!この僥倖は僕の人生を左右したといってまったく過言でない。だって音楽自体もべらぼうに強いのだ。

これから人生の最盛期を迎える20代、30代の人たちにクラシック音楽を聴きなさいとお薦めするなら、これほどに雄弁な理由はない。そうすれば皆さんは60才になって、世の中でも最もパワフルな音楽をBGMとして「あの頃」を思い出す贅沢を手に入れられるのだ。これがいかに自分を鼓舞し、力と希望をくれるか!

今は仕事がそういう自分を求めている。そこで、最近聞いてもあまりピンと来ていなかったブラームスだがこちらから近寄っている。必要だからだ。有難いことに、そういう風向きで聴いたブラームスが今度は発汗作用をもたらして、あたかもそれが自然に求めたものであるかのように感じている。こうやってタイムマシンの回春効果がやってくる。

ブラームスの4つの交響曲やすべての協奏曲や管弦楽曲や室内楽というのは、僕にとってBGMで流して本を読んだりビジネスプランを練ったりして頭や耳は全然聞いていないのにノドだけは音楽に合わせて勝手にバスを歌っているという領域に至っている、いわば血肉になってしまっているものだ。

米国の金融誌Institutional Investor社のオーナー、ギルバート・キャプラン氏(Gilbert Kaplan )はマーラー・フリーク、というより第2番「復活」フリークで、ついにウィーン・フィルを指揮して同曲の録音までしてしまったが、もし自分がそんなことができるならやっぱりブラームスの4番なんだろうなと思う。

40代を過ぎた人も希望がある。これを書いたブラームスは50代だったのだ。音楽を聴くのに遅いということなんて全然ない。むしろこういうものを知らないで死んでしまう人がいるとすればそれは人生の一大損失であると声を大にして言おう

それを人生の糧に生きてきた僕がいささかなりとも伝道師の役目を負うことが許されるならブラームスに対するプライベートな恩義を果たせると思っているし、やるならば記憶がしっかりしているうちに書かなくてはいけない。

僕の自宅の地下室にあるリスニングルームとオーディオ機器はブラームスをベストに再生するために10年前にあつらえたものだ。そのために相当な時間と労力とコストを費やした。それが僕のブラームスに対する敬意であり、何よりも、その音楽がそれに値するからだ。

4番の終楽章主題がバッハのカンタータ150番から来たと楽譜をお示ししても役には立たないだろう。ブラームス作品は細部に立ち入ると別種の関心から全体がわからなくなる。モーツァルトにはそういうことはないし、ベートーベンはそれが理解の助けにはなるが、ブラームスはそのどっちでもない。

ということで、ここは至極単純に、様々なCD、LPに残された演奏を例に引きながら、それをたたき台にして各曲の良さや個性を僕なりの視点でご説明してみたい

どれがベストであるかというような試みに意味はない。そうやって多面的な姿を味わうことがクラシック音楽の楽みであり、ブラームスも例外ではないということだ。ただ、ビギナーにとって『最初に覚える演奏』の記憶は意外にその後の影響が大きいというのが僕の経験だ。

そこで、各録音へのコメントの末尾に「総合点」として5段階の点数をつけた。僕がその曲を初めて聴くならこれがよかったなと思うCDが5点、そうでないのが1点だ。世間がお楽しみでやっている「名演」とか「ベスト盤」という意味合いではない。

くりかえし聴いて頭に刷り込むに値する演奏であって、それをベンチマークにすればその他の演奏の特色がよくわかるという演奏だ。つまり作曲家の意図(ほぼスコアと同義)をよく体現し、のみならず音楽的インパクトも強いという演奏だ。あえて言うなら、僕にとってそういうもの以外に名演はありえないと思っているのは事実だが。

30代の頃、いつの日かもっと大人になったらブラームスの4番を渋く味わえる苦み走った男になりたいと夢想していた。そうしてその2倍の60才になって今それを聴きながら思うことは、何のことはない、そう思っていた30代に戻りたいということなのだ。

まずは春にふさわしい第2交響曲からスタートしたい。卒業、入学、進学、入社、桜の咲く時期にこんなにぴったりの音楽もないだろう。一気には書けないが、すこしづつ思い出のLP、CDを思い起こして、それをプリズムとして僕の曲への想いを書いていきたい。

 

ブラームス交響曲第2番に挑戦

 

 

 

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クラシック徒然草-音楽の好き嫌い-

2015 MAR 20 9:09:35 am by 東 賢太郎

人間何ごとも好みというものがございます。食べ物、酒、色、車、服装、異性、ペットなどなど。愛猫家の僕ですが、どんなひどい猫でも犬より上という事はあっても猫なら何でもいいということでもなくて、やっぱり順番はあります。

はっきり「嫌い」というのがあるので音楽は僕の中では好悪がはっきりしているジャンルに入りますが、不思議なものでクラシックファンで「私はモーツァルトが大好きです」という人はいても「**が大嫌いです」という人は会ったことがありません。

嫌いと無関心は違います。全然別物です。好きがプラスなら嫌いはマイナス、無関心はゼロです。ゼロは何倍してもゼロですから、クラシックは何を聞いても何も感じないという人はどの曲も好きにならないかわりに嫌いになる心配もご無用ということであり、逆にどの曲も嫌いにならない人はある曲だけ好きになることもないのが道理だろうと思うのですが。

食べ物の場合は「何でもOKです」ということだってあるし、親がそうなるように教育もします。食べないと死んでしまうのだから全部が無関心ということはまずあり得ません。しかし聞かないと死ぬわけでもないクラシックは、幼時から聞いて育つわけでもない場合が多い日本人にとっては無関心か食わず嫌いがスタートというのは当然です。

それがある日突然に全部好きですなんてことは異様であって、一度フランス料理を食べたらフォワグラから羊の脳みそまで一気に好きになっちゃったなんて、そんな頑張る必要はぜんぜんないのです。「ほとんど全部眠いですが第9の第4楽章だけは感動します」、そういうのがきわめて真っ当、普通です。

僕の場合は縷々書いてきた曲は「もの凄く好き」ということなのでプラスが大きい、だから正反対のことでマイナスが大きい曲だってちゃんとありますし、それが自然体鑑賞法の自然な帰結なんじゃないでしょうか。クラシックと名がつけば全部名曲であって何でも好きですというのはホンマかいなと思ってしまうのです。

さらにいえば、あの退屈極まりない(僕にとってはほぼ拷問であった)音楽の授業で無理やり楽聖の名曲だと押しつけられる。だから日本人にとってクラシックを聴くということは教科書にあった曲は全部うやうやしく好きにならないといけない、そういう強迫観念で縛られているのかなと思ってしまいます。だとすると三島 由紀夫の指摘したとおり、日本のクラシック好きはマゾっぽいですね。

僕のように音楽の通信簿が2だった子がある日めざめて好きになる、すると当たり前ながらちゃんと嫌いな曲もたくさんあることが自分でわかってくる。それで君はクラシックが分かってないねなんて通の評価が下ってもSo what?(だからどうしたの?)ってことじゃないでしょうか。

僕は京料理が好きですがハモが苦手です。夏場はそれが売りだからどうしたって出てくるんですが僕はカウンターで抜いてくれという。変な顔をする店がありますがいい店の主人はかえって歓迎してくれますね。それでも京料理屋に来てるんだから見栄や酔狂でなく本当に好きなんだとわかってくれる、それで鮒ずしなんか頼むと完璧にわかってくれる。そういうもんだと思うのです。

音楽のハモにあたるものはこういうものです。

マーラーの6番というのは全クラシックの中でも最も嫌いな曲の一つで、あのティンパニのあほらしい滑稽大仰なリズム、おしまいの方で板とか酒樽みたいなのを鏡割りみたいにぶったたくハンマーは作曲家は大まじめに書いたり消したりしたらしいがまあどうでもいいわなとしか思えず、全曲にわたって音楽的エキスはなし、あんなのを1時間半も真面目な顔して聴く忍耐力はとてもございません。

チャールズ・アイヴズという米国の作曲家の和声に吐き気を催した(本当に)ことがあって、それ以来トラウマになって一度も聞いておりません。あれは一種のパニック障害の誘因になるのじゃないかと思い譜面を見るのも恐ろしく、それがどういう理由だったかは謎のままです。

メシアンのトゥーランガ・リラ交響曲に出てくるオンド・マルトノという電子楽器、あのお化けが出そうなグリッサンドは身の毛がよだつほど苦手です。結局あの曲を覚えるには勇気を奮ってライブを聴き、視覚的にそれが出てくる箇所をまず覚えて(見えると怖さが減る)、来るぞ来るぞ(いや、お化けが出るぞ出るぞだ)と心の準備をしながら10年以上の歳月を要しました。

ヴェルディはコヴェントガーデンやスカラ座でたくさん観たのですが、椿姫の前奏曲のあのズンチャッチャ、あれが始まるとああ勘弁してくれここは俺の居場所じゃないと家に帰りたくなってしまう。運命の力序曲のお涙頂戴メロディーなど退屈を通り越して苦痛であり早く終わってくれと願うしかありません。閉所恐怖症なので床屋も苦手で、ああいうつまらない曲でホールの座席にしばられると床屋状態になるのです。

パガニーニのコンチェルト、カプリース、およびリストの超絶技巧。ヴェルディのズンチャッチャよりは多少ましですが、この手の曲が不幸にして定期公演で舞台にかかってしまったりすると行くかどうか迷います。ましというのは、一応ソリストの技巧を見るという楽しみはあるからで、演奏家の方には非礼をお詫びしますが僕にとってその関心はボリショイ・サーカスや中国の雑技団を見るのとあまり変わらないです。

一歩進めてこれが演奏のほうに行くと、大嫌いなものは無数にあります。好ましいと思っている演奏家であっても曲によってはダメというのがあって、例えばカルロス・クライバーのブラームスは4番の方は実演であれほど感動したのに2番は到底受け入れ難い。リズムが前のめりで全然タメがない快楽追求型で、妙なブレーキがかかったり弦を急にあおったり、あんなのはブラームスと思わない。カイルベルト、ザンデルリンク、コンドラシンなどと比べると大人と子供です。

ティーレマンはサントリーホールで聴いたベートーベンは割と良かったのですが、ブラームス2番はだめですねえ。youtubeにあるドレスデン・シュターツカペレとのですが、オケはせっかくいい音を出していて第3楽章までは悪くない(クライバーよりいい)ですが、終楽章のコーダに至って100円ショップ並みに安っぽいアッチェレランドがかかってしまう。そこまでの感動がどっちらけですね。お子様向けです。

モーツァルトというとグレン・グールドのソナタとの相性の悪さについては既述ですが、同じほどひどいのにカラヤンの魔笛というのもあります。ベルリンPOのDG盤は多少はましですが古い方のウィーンPO盤。どうもカラヤン先生カン勘違いしてるなと思いつつ我慢して聴いていると、タミーノとパパゲーノが笛と鈴をもらう所で3人の童子が出てきますが、これがなんとヴィヴラートの乗った色気年増みたいな女声で実に薄気味悪く、もう耐えられず降参です。

演奏について書きだすときりがないのでこの辺にします。以上、嫌いなものオンパレードで皆さんがお好きなものが含まれていたら申しわけありませんが、もっとたくさんある好きなものの裏返しということで、これでハモの価値が下がるわけでもないということでご容赦いただきたく存じます。

(補遺、2月1日)

今日、ピエール・ブーレーズ追悼番組の録画を見ました。ノタシオン、レポンの映像は貴重です。03年東京公演のベルク、ウェーベルン(マーラーユーゲントO)の精緻な演奏は感涙ものです。しかし後半が蛇蝎のように嫌いなマーラー6番というのが残念。これが好きな方にご不快は承知の上で、よりによってこれはないだろう。神であるブーレーズが振れば大丈夫かと恐る恐る聴きましたが第1楽章でもう降参。消しました。

 

マーラー交響曲第6番イ短調(ついに聴く・読響定期)

 

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クラシック徒然草-カティア・ブニアティシヴィリ恐るべし-

2015 JAN 31 18:18:44 pm by 東 賢太郎

先日、ラヴェルのマ・メール・ロワを書きながらyoutubeを見ていたら、こんな演奏にあたった。ラヴェル 「マ・メール・ロワ」 の最初の楽譜(第3曲 「パゴダの女王レドロネット」)を見ていただきたい。

とても速いテンポで始まる。それが中間部に入るや第二ピアノの女性がすごいブレーキを踏んで、完全に集中して自分のペースに持ち込んでしまう。相手はいまやピアノ界の大御所、天下のマルタ・アルゲリッチ様である。この女性は何者だ?

関東の女性の方からボレロについてメールをいただいたと書いたが、そこに「グルジア人でKhatia Buniatishviliという現在27才の大変美しいピアニストがいます」とあった。まったくの偶然だが、タイトルを見てみるとこの第二ピアノの女性こそがまさにそのカティア・ブニアティシヴィリだった。

さっそく他の演奏を聴いてみる。このブラームスの第2協奏曲には仰天した。見事に曲想をつかんで弾けている。しかし第2楽章で同じミスタッチを何度もする。圧巻は終楽章のコーダに移る部分。完全な記憶違いで音楽が止まってしまい会場が凍りつく。本人も驚いてすぐ弾きはじめるが、大事な経過句をぶっとばしたかなり先だ。オケがついていけずしばし独奏状態となるが、やがて事なきを得て終わる。

なんともおてんば娘だが、それでも満場の喝采をうけ、オケも祝福している。これは彼女21歳のルビンシュタイン国際コンクールの映像で、第3位に入賞している。いや、その年でこの曲を弾けているだけでも普通じゃない。そして大チョンボをしでかしても周囲を応援団にしてしまう。この子はものすごいオーラを持って生まれている。

このシューマン、かなり恣意的だが説き伏せられる。終楽章のテンポなど僕は容認できないが、頭はそう思っても最後は拍手している。そしてアンコールのリストを聴いてほしい。指揮者もオーケストラ団員も一人残らず彼女の世界に引きずりこまれ、息をひそめて彼女の「聴衆」になってしまっている。こんな光景はなかなかない。

このグリーグは参った、降参。これは男には描けない究極のフェミニンな世界だ。それにこんな風に視線を送られたら指揮者も彼女に指揮されてしまうしかない。ちなみにこの指揮者はここで絶賛したトゥガン・ソヒエフだ( N響 トゥガン・ソヒエフを聴く)。彼も彼女もグルジア人。スターリンを出した地ではあるが、才能の宝庫でもあり、一度行ってみたくなるばかりだ。

終楽章のコーダは傑作である。ピアノが猛スピードで突っ走って指揮者がえっという表情を浮かべ、オケのトゥッティでいったんテンポを引き戻す。しかし火がついてしまっている彼女は駆け登るアルペジオでオケより先に頂上に行きついてしまい、最後を2度くりかえして帳尻を合わせる。最後の和音連打はもう早くしてよと催促し、最後のイ音を思いっきり連打して溜飲を下げて終わる。こんなのは普通ありえないが、彼女のヴィジュアルを含めた総体が発する強烈なオーラがそれを正当化してしまい、ご愛嬌になってしまう。これはこれでひとつの芸だ。

スタジオで録音されるためのミスのない、きれいに整えることを目的としたような演奏はほんとうにつまらない。スーパーに並ぶF1のパック野菜のようだ。カティアの産地直送とりたて丸かじりはそれに対する新鮮で野性味あふれるアンチテーゼだ。少々トマトの形が不ぞろいでもいいじゃないかということで、彼女のたくさんあるミスタッチは勢いに飲みこまれている。このままだと、彼女が有名になればなるほど賛否両論が出てくるだろう。

ベートーベンにピアノを教わったチェルニーは「たとえミスタッチが無くても、義務的な気のない弾き方をすると怒られた」と書いている。逆に自発的で気の入った生徒のミスには寛容だったそうだ。そういうことだろう。上記ブラームスも、彼女は曲を良くつかみ、共感し、曲に「入ってしまっている」ことは争えない。2番を女性が苦労して弾いている危うさが全然ないのであって、じゃああのミスは何かといえば、第2楽章も第4楽章も技術不足ではなく記憶違いだ。つまりスコア・リーディングの問題である。

この破竹の勢いでモーツァルトやベートーベンを弾いて今すぐ世界を納得させられるかというと疑問だが、スコア・リーディングは学習と共に人間の内面の成熟にも関わることで、時間が解決するのではないか。それよりも、彼女の持っている天真爛漫さ、集中力、聴くものを金縛りにする吸引力といった、訓練によっても時間をかけても獲得できるとは限らない天性のほうを買いたい。1987年生まれの27歳、恐るべし。

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ブニアティシヴィリを初めて聴く(2月18日、N響B定期、サントリーホール)

 

東京一と思ってる世田谷の鮨屋でのこと。ユーモアのセンス抜群の脳外科医の先生が、ちょっとほろ酔い加減で、「知ってます?大きな声じゃいえませんがね、ここのスシはね、親父がこっそり麻薬いれてるんですよ。だからときどき食いたくなって困るんです。」とわりあい大きな声でおっしゃって、親父も客も爆笑。たしかに、また来たくなる味なのだ。

今日初めて実物を見た彼女、それを思いだした。曲はシューマンのコンチェルト。ビデオで見た通りの美貌だ。たまたま同曲の画像を本稿に貼ったがひょっとしてドレスは同じものか?(すいません、女性の服はあまり見分けがつかないので)。しかし「麻薬」はそれじゃない。

満場を金縛りにするピアニッシモの威力のほうだ。

オケの一撃に続き、脱兎のごとく下るピアノの和音。クララ主題は触れればこわれるほどひっそりとデリケートに奏でる。このピアニッシモが電気みたいに痺れる。くせになる。この人、静かになるとおそくなり、大きくなるとはやくなる。その静かなところの吸引力たるや、ブラックホールみたいだ。

と思うと、最後に急にアッチェレランド(加速)してそのまんまポーンとオケにぶん投げる。オケはあらぬ速さで受け取ってしまい、早送りの画面みたいにあくせく弾く。それを楽しんでる風情だ。カデンツァもゆっくり弾きこむと思いきや、中途でいきなりトップギアが入る。テンポは常に生き物みたいに流動。こういうのは男性ピアニストがやろうものなら、お前、今日ちょっと大丈夫?っていう性質のものだ。これは僕がかつて聴いた、ボラティリティ(振幅)最大のシューマンである。

男はこういうイロジカルな情動はあんまりないし、ついてもいけない。指揮者(同じパーヴォ・ヤルヴィだ)はじっくり彼女とアイコンタクトして合わせてしまうからフレキシブルなこと称賛に値する。圧巻は第3楽章だ。ビデオも快速だがこんなのかわいいもんだ、今日のは驚天動地としか言いようもない。僕の人生で、いやもしかして人類最速のシューマンだ。仮にだが僕が指揮者だったら?ごめんなさいと棒を置いて家に帰るだろう。ピアニストが男だったら?なんじゃ、おい、それはラヴェルか、ええ加減にせいと棒を投げつけるだろう。

腕前はフォルテのタッチが荒っぽく、緩徐楽章に一音だけ変なのがあったが、まあうまい。しかしこの人をクラウディオ・アラウやユージン・イストーミンと比較はできない、女性の子宮感覚みたいなものかもしれないし、女性であってもマイラ・ヘスやアニー・フィッシャーと比べてもナンセンスだろう。伝統とか様式とか思考という言葉や概念を超越した、感性のピアノだ。

その演奏スタイルが彼女なりにビデオより格段に自由自在に操れるようになっており、手の内に入っている。なりふりかまわぬ我が路線で、現在進行形で進化しているようだからやはり恐るべしだ。しかし、魅力的なところもたくさんあったのだが、暴れ馬に結局ふり落されたまんま終わってしまった感じが残る。残念ながら不完全燃焼だった。 会場もブラボーは飛んだが僕と同じ思いの方も多かったのではないか。

そしてそおっとひそやかに始まったアンコールのドビッシー「月の光」。

したたかな女性はちゃんと自分のチャームポイントを心得ているのだ。緩急自在、伸縮自在のピアニッシモの嵐!もうシューマンは忘れ、忘我の境地に入っている自分を発見する。やっぱり麻薬にやられてしまった。

 

(その前後の演目、R・シュトラウスの変容とツァラトゥストラについて。後者は並みのオケだと音がだんごになって濁りがちな部分があるが、まったくなし。23パートのソロ・アンサンブルである前者は言うに及ばず、この日は良いピッチで透明感のある弦がまことに効いており、その純度が管にも伝播しているようだった。何度もしつこく書いてきたことだが、この日はコンセルトヘボウ管弦楽団のコンマスであるヴェスコ・エシュケナージがそこに座ったのだ。ヴァイオリンのみならず、弦の質感が違う。ネロ・サンティもそうだったがヤルヴィも、おそらく、そう感じているのであり、ワールドクラスの音を作ろうという強固な気構え、コミットメントが見える。本当に良い指揮者を迎えたと思う。このツァラトゥストラはかつて聴いた最高の名演であり、世界に問うてN響の名誉になるクオリティの演奏だった)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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僕が聴いた名演奏家たち(サー・コリン・デービス)

2015 JAN 10 0:00:11 am by 東 賢太郎

コリン・デービスの名はずいぶん早くから知っていた。それは名盤といわれていたアルトゥール・グリュミオーやイングリット・ヘブラーのモーツァルトの協奏曲の伴奏者としてだ。リパッティのグリーグ協奏曲を伴奏したアルチェオ・ガリエラやミケランジェリのラヴェルト長調のエットーレ・グラチスもそうだが、超大物とレコードを作るとどうしても小物の伴奏屋みたいなイメージができて損してしまう。

それを大幅に覆したのが僕が大学時代に出てきた春の祭典ハイドンの交響曲集だ。どちらもACO。何という素晴らしさか!演奏も格別だったが、さらにこれを聴いてコンセルトヘボウの音響に恋心が芽生えたことも大きい。いてもたってもいられず、後年になってついにそこへ行ってえいやっと指揮台に登って写真まで撮ってしまう。その情熱は今もいささかも衰えを知らない。

彼は最晩年のインタビューで「指揮者になる連中はパワフルだ」と語っている。これをきいて、子供のころ、男が憧れる3大職業は会社社長、オーケストラの指揮者、プロ野球の監督だったのを思い出した。ところが「でも、実は指揮にパワーなんていらない。音楽への何にも勝る情熱と楽団員への愛情があれば良いのだ」ともいっている。これは彼の音楽をよくあらわした言葉だと思う。

サー・コリンが一昨年の4月に亡くなった時、何か書こうと思って書けずにきてしまったのは、ロンドンに6年もいたのに驚くほど彼を聴いていないのに気がついたからだ。彼が晩年にLSOとライブ録音した一連のCDを聴いていちばん興味を持っていた指揮者だったのに・・・。youtubeにあるニューヨーク・フィルとのシベリウス3番のライブを聴いてみて欲しい。こんな演奏が生で聴けていたら!

僕がクラシック覚えたてのころ彼のお決まりの評価は「英国風の中庸を得た中堅指揮者」だ。当時、「中庸」は二流、「中堅」はどうでもいい指揮者の体の良い代名詞みたいなものだった。それはむしろほめている方で、ドイツ音楽ではまともな評価をされずほぼ無視に近かったように思う。若い頃のすり込みというのは怖い。2年の米国生活でドイツ音楽に飢えていた僕があえて英国人指揮者を聴こうというインセンティブはぜんぜんなかった、それがロンドンで彼を聴かなかった理由だ。

それを改める機会はあった。93年11月9日、フランクフルトのアルテ・オーパーでのドレスデンSKを振ったベートーベンの第1交響曲ベルリオーズの幻想だ。憧れのDSK、しかも幻想はACOとの名録音がある。しかし不幸なことに演奏は月並みで、オケの音も期待したあの昔の音でなかったことから失望感の方が勝っていた。これで彼への関心は失せてしまったのだ。もうひとつ98年5月にロンドンのバービカンでLSOとブラームスのドッペルを聴いているが、メインのプロが何だったかすら忘れてしまっているのだからお手上げだ。ご縁がなかったとしかしようがない。

davisしかし彼の録音には愛情のあるものがある。まずLSOを振ったモーツァルト。ヘレン・ドナートらとの「戴冠ミサ」K.317、テ・カナワとのエクスルターデなどが入ったphilips盤(右)である。このLPで知ったキリエK341の印象が痛烈であった。後にアラン・タイソンの研究で 1787年12月〜89年2月の作曲という説が出て我が意を得た。ミュンヘン時代の作品という説は間違いだろう。

5969523僕のデービスのベスト盤はこれだ。ACOとのハイドン交響曲第82,83番である。もし「素晴らしいオーケストラ演奏」のベスト10をあげろといわれたら彼のハイドン(ロンドンセットは全曲ある)は全部が候補だが、中でもこれだ。なんという自発性と有機性をそなえた見事なアンサンブルか。音が芳醇なワインのアロマのように名ホールに広がる様は聞き惚れるしかない。こういう天下の名盤が廃盤とはあきれるばかりだが、これをアプリシエートできない聴き手の責任でもあるのだ。

16668gこのハイドンと同様のタッチで描いたバイエルン放送SOとのメンデルスゾーン(交響曲3,4,5番と真夏の夜の夢序曲)も非常に素晴らしい。オーケストラの上質な柔軟性を活かして快適なテンポとバランスで鳴らすのが一見無個性だが、ではほかにこんな演奏があるかというとなかなかない。昔に「中庸」とされていたものは実は確固たる彼の個性であることがわかる。5番がこういう演奏で聴くとワーグナーのパルシファルにこだましているのが聞き取れる。

51BSnT5oJxL__SX425_シューベルトの交響曲全集で僕が最も気に入っているのはホルスト・シュタインだが後半がやや落ちる。全部のクオリティでいうならこれだ。DSKがあのライブは何だったんだというぐらい馥郁たる音で鳴っており1-3番に不可欠の整然とした弦のアーティキュレーションもさすが。僕は彼のベートーベン、ブラームス全集を特に楽しむ者ではないが、こういう地味なレパートリーで名演を成してくれるパッションには敬意を表したい。4番ハ短調にDSKの弦の魅力をみる。

41AQABHVRZL春の祭典、ペトルーシュカだけではない、この火の鳥もACOの音の木質な特性とホールトーンをうまくとらえたもので強く印象に残っている。この3大バレエこそ彼が中庸でも中堅でもないことを示したメルクマール的録音であり、数ある名演の中でも特別な地位で燦然と輝きを保っている。 オケの棒に対する反応の良さは驚異的で「火の鳥の踊り」から「火の鳥の嘆願」にかけてはうまさと気品を併せ持つ稀有の管弦楽演奏がきける。泥臭さには欠けるがハイセンスな名品。

51k8eFkIMIL__SX425_ブラームスのピアノ協奏曲第2番、ピアノはゲルハルト・オピッツである。1番はいまひとつだが2番はピアノのスケールが大きくオケがコクのある音で対峙しつつがっちりと骨格を支えている。オピッツはラインガウ音楽祭でベートーベンのソナタを聴いたがドイツものを骨っぽく聞かせるのが今どき貴重だ。この2番も過去の名演に比べてほぼ遜色がない。ヘブラーやグリュミオーのモーツァルトもそうだがデービスはソリストの個性をとらえるのがうまい。録音がいいのも魅力。

 

あとどうしてもふたつ。 ヘンデル メサイアより「ハレルヤ」(Handel, Hallelujah) に引用した彼のヘンデル「メサイア」は彼のヘンデルに対する敬意に満ちた骨太で威厳のあるもので愛聴している。そしてLSOとのエルガー「エニグマ変奏曲」も忘れるわけにはいかない代表盤である。

(こちらへどうぞ)

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

エルガー「エニグマ変奏曲」の謎

 

 

 

 

 

 

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クラシック徒然草-僕がクラシックが好きなわけ-

2014 NOV 2 16:16:27 pm by 東 賢太郎

 

私は物理学者になっていなかったら、音楽家になっていたことでしょう。私はよく音楽のように物事を考え、音楽のように白昼夢を見、音楽用語で人生を理解します。私は人生のほとんどの喜びを音楽から得ています。

アルベルト・アインシュタイン

 

先日の皆既月食の時、アマチュア天文好きはほとんどが「観測派」なので友達がおらず子供のころ寂しい思いをしたことを思い出しました。

僕は恒星にしか興味がありません。日食や月食はかくれんぼみたいなもので物理現象でないし、何がおきるか完全にわかっているのだからただのショーです。皆既日食の時はカラスが何をするかの方が気になっていましたし、どうしても赤色超巨星の変光や130億光年先の未知の星雲での出来事のデータの方が気になります。

こういう趣味は幼児のころからはっきりしていて、僕は2歳から無類の電車好きでしたが車輪と線路以外は一切興味がありませんでした。非常に変な子だったと思われます。もしも鉄道会社に入るなら社長でも運転手でもなく線路の補修工をやりたい。今でも彼らを見るとうらやましい気持ちがわきおこります。

恒星の物理現象の何が楽しいの?と聞かれても猫好きとおんなじで、好きだという事実が先に厳存するのであって考えても意味のないことです。実際にそれを見た者はないわけですから頭の中だけの世界ですがそれでもそこに浮かぶイメージは時としてどんな名画より美しいと思います。

音楽も同じことです。どうしてクラシックが好きかというのは、どうして恒星がどうして線路が好きかということと同質です。なぜこの曲はこんなにいいんだろう?これを解明することとシリウスの伴星の質量への関心とは同じであり、シリウスを夜空に見上げるのはその曲を聴くことと同じことです。

音楽は人為的な物理現象です。それを耳にして頭の中に何が浮かぼうと、快感、感情、風景、ポエム・・・なんであろうと勝手です。ただその段階ではもうそれは音ではなく、脳内の現象になっています。それを心象と呼べば、それは聴く人の脳の数だけあります。ある曲を聴いて万人が同じ心象を抱くとは限らないのです。

ラヴェルのボレロを聴くと僕は極めてメカニックなゼンマイ仕掛けの時計を思い浮かべます。ところがさる女性の方があれはセクシーよねとおっしゃって頭が凍りつきました。セクシー? 同じものを見聞きしてかように天と地の差が出る、これは音楽が多面体であって、見事にカットされたダイヤモンドのように見る角度でいろんな魅力があるということなのです。

10年ぐらい前に僕はボレロをシンセでMIDI録音しました。なんとなく時計のゼンマイをばらばらに分解してみたくなったのです。すると、そこには和声や対位法の秘技はちっともなくて、ひたすら単調な2つの旋律とリズムの繰り返し、それに楽器法の多様なスパイスがふりかかっていくだけという造りなことが現実として見えてきました。

つまり、部品にバラしてみるとどのひとつも珍しくもなく、楽器の面白い組合せの効果だってシンセで忠実に再現できてしまう。まるで精巧なプラモデルみたい。作りかけで内部が中空の戦艦大和を上から下から眺めてぞくぞくする、ああいう感じを味わいながら全曲を完成してみて、ああやっぱりこれはゼンマイ時計だったんだよかったと得心したのです。

ちなみにご存知の方も多いでしょう、ロンドンにドーヴァー・ソウル(シタビラメ)で有名なWheelersというレストランがあります。素材は同じヒラメのムニエルですがソースの違いでたしか10何種類ものメニューがあり、どれもうまい(お薦めです)。ボレロはあの舌平目を片っ端から10種類食べるのとおんなじだったんだということです。1種類のソースで10枚はとてもとても。ボレロはピアノリダクションしてもちっとも面白くない曲です。

しかし、そういうことをぶっ飛ばしてセクシーだとかいう人が現れる。「おおジュリエット!そなたの瞳は・・・・」みたいな宝塚風世界が見えてきて、そういうのは僕とは縁遠い世界なもんでもうアウトです。こっちはボレロとくればホルンとチェレスタにピッコロがト長調とホ長調でのっかる複調の部分が気になっている。しかし何千人に1人ぐらいしかそんなことに関心もなければ気がついてもいない。ここで、日食や月食が好きな子と遊べなくて寂しい思いをした子供時代に戻るのです。

たしかにラヴェルはゼンマイ時計を造ったのですが、もし彼がセクシーという評価を知ったらひょっとして喜んだんじゃないか、それこそ彼の思うつぼだったかもしれない。伝記を読んでいてそう思ったのも事実です。素晴らしい時計ですね、そんな評価は欲しくなかったかもしれない。そう感じてなにかまた寂しい気持ちになったりします。こういう人間は孤独なのです。

そこで後日、ブラームスの4番の交響曲の第1楽章、これも僕にとってはバラバラに分解したくなる対象なのですが、それをMIDI録音してみました。するとこっちはソースではなく食材そのものに多種多様なアミノ酸、タンパク質が含まれたものであることがわかってきました。彼の3度、6度音程がそれの重要要素で、12音の全部を基音とする長短調主和音が含有されていることも。

でもそれはらっきょうをむいたようなもので、何も出てこない。どうして僕が惹きつけられるのか、その効果をもたらす核心、根源は悔しいことに分解した部品は教えてくれないのです。原子論が脳を解明できないのはこういうものでしょうか。音楽としては全然似てませんが、結局これもボレロのセクシーと同様によくわかりませんでした。

そういう、いわば「形而上の何ものか」を名曲といわれるものは含んでいるようです。すると僕はそれを形而下におろして分解したくなる。いろんな人の演奏をいわば「聴感実験」としてきいてみたくなる。そうやってその曲を覚えこんでしまう。その積み重ねで僕は50年もクラシックにのめりこんできたようなのです。分解癖がうずかない曲はぜんぜん関心がない、どうもそういう事のようです。

ブログで譜面をお示ししたくなる部分、そここそ分解したい箇所であって、それこそが僕のブログの主題だからそうしないといけません。今はそういうものの合成効果を僕は好きで、それが感動をくれていると考えています。それは自分だけの心象かもしれないので普遍性があるかどうかは知りません。たぶんないでしょう。日食・月食派の方にはどうでもいいことでしょうが、物理現象派の方にはわかっていただける 一縷の望みをかけております。

僕はリストやマーラーやヴェルディやほとんどのショパンに興味がないことを明かしているので、いくらボロカスに書いても無視してください。所詮好き好きです。なぜといって分解したいところがないのです、一ヵ所も。だから楽譜を見たいとも思わない。おおジュリエット!も僕の音楽観にはいっさい出てきません。

音楽の教科書に載っていた曲はみな名曲だ、聴いてわかなければいけない、わからければあなたがおかしいのだなんていう呪縛はクソくらえなのです。僕は中学まで音楽の成績2の劣等生ですが、ピアノが弾けて笛がうまくて5だった人たちが今の僕よりストラヴィンスキーの音楽について理解していることはたぶんないでしょう。そういうことは育ちや教育や技術ではなく、すぐれて遺伝子のなせるわざと思います。

レコードの批評はくだらないので読みません。つまらない曲の演奏などどうあろうとつまらないわけで、そんな曲を批評できるほど真面目に聴いていること自体趣味が悪い。そういう人のおすすめに従ってみたいとは思わないです。良い曲はプロがちゃんと演奏すればよほどひどい解釈でないかぎり良いはずです。だからCD屋へ行って棚に並んでいる有名演奏家のものを買っておけば間違いはありません。

その曲の本質をより突いた演奏というのはたしかにあります。それは語られるべきですが、それもこれも、曲が良いという大前提があってこそです。必要なことは「良い曲」を探して、それを良く知ることなのです。そしてそれぞれの人によって持つ心象が違うのですから何が良い曲かもかわってきます。他人の評価やおすすめはそれはそれとして、とにかく自分の耳で聴いてみること。それしかございません。

僕はいい曲かどうかを分解したいかどうかで選んでおり、ある人はおおジュリエット!で選んでいる。どっちでもよい。そういう事だということを知ったうえで自分の「良い曲」のレパートリーを増やしていくこと、それを探し求めることこそクラシック音楽の森に足をふみ入れることです。その道を歩いてさえいれば、どんなにレパートリーがまだ少なくとも、「自分の趣味はクラシック音楽です」と堂々と語ることができる、僕はそう思います。

 

クラシック徒然草-はい、ラヴェルはセクシーです-

クラシック徒然草-ラヴェルと雪女 (ボレロ)-

 

 

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シューマン弦楽四重奏曲第3番イ長調作品41-3

2014 OCT 10 18:18:40 pm by 東 賢太郎

シューマンの室内楽で好きなものというと筆頭格になるのがこの曲です。室内楽の年と言われる1842年にピアノ四重奏曲、同五重奏曲、ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための幻想小曲集とともに3曲の弦楽四重奏曲(順にイ短調、ヘ長調、イ長調)ができましが、その最後のものが3番です。ピアノ入りの曲の方が一般にはよく聴かれており、弦楽四重奏はあまり人気がないようですがもったいないことです。

schmann sqこの曲とつき合うきっかけは米国留学中、83年8月に行った欧州旅行の折、ザルツブルグで買ったLPでした。地味な曲ですがすぐ耳になじんできます。特に終楽章アレグロ・モルト・ヴィヴァ―チェの弾むようなリズムは前年に初稿が書かれた交響曲第4番との近親性を思わせる特徴あるもの。ロマンティックで静謐な第3楽章アダージョ、高貴で心にしみいる味わいをもった深い音楽なんですが、そう思うと短2度が美しいバラの棘のようにささってきて一筋縄ではいきません。彼の室内楽の緩徐楽章でも出色のもの、この楽章は何度聴いてもいいですね。

第1楽章の出だしは序奏部(Andante espressivo)がありますが、主調ではなくニ長調の6の和音(d-b-f#-a)に乗って5度下降する主題から入ります(スコア赤枠内)。この主題 f#-b-b は移動ドで読むとミ-ラ-ラ-ですが、変イ長調の6の和音に乗って c-f-f とやはり五度下降でミ-ララ-と入るベートーベンのピアノソナタ第18番の冒頭と酷似しておりびっくりします。

ベートーベンの当曲の稿に書きましたが、僕には18番の出だしは Ludwig、Ludwig! と聞こえるのです、どうしても。それはきっと恋人がおこしてくれる声じゃないでしょうか。それならこっちは?  いわずもがなですね、Clara(クーララー)でしょう。

 

schumann sq

もうひとつびっくりがあります。スコアの青枠内です。第1Vn、第2Vn、Va 、Vc と受けつがれる下降音型はブラームスの弦楽四重奏曲第1番ハ短調作品51‐1の第4楽章にも現れ、もっと有名なものでは交響曲第1番ハ短調作品68の第3楽章にも現れるのです(これは一聴にして明らか、誰でもわかります)。

つまり、師匠の傑作であるこの曲をブラームスが敬愛してまず自分のカルテットに、そして後に同じハ短調である交響曲に本歌取りしたことは(誰も指摘したのを見たことがないので僕の想像になりますが)充分あり得ることと考えております。シューマンが宣言した 「ベートーベン=シューマン」 のリンク。それにつなげて自ら 「シューマン=ブラームス」 と宣言することでベートーベンとつながるのです。

両曲ともブラームスにとっては満を持したジャンルの処女作です。だからこそどちらもモーツァルト、ベートーベンを強く意識したハ短調であります。その特別なメルクマールである両曲に、もうひとつ、自分を世に出してくれた恩人でありもう故人となっていたシューマンの刻印を押す。それによって自分はベートーベンにリンクする。「師匠のおかげで」という実にブラームスらしいメッセージと思うのです。もちろんそれはクララに聞かせるためであり、彼女はそれに気がついたことでしょう。

余ほどのクラシックマニアかシューマン・フリークを除くとこの曲を全部記憶している方は少ないでしょう。この機会にお耳になじませていただければ幸いです。

melos僕がよく聴いているCDはこちらです。メロス弦楽四重奏団の86年の録音で、89年ごろロンドン時代に買ったものです(29.97ポンドのタグがついている)。この団体は第1Vnのメルヒャーが亡くなって残念ながら2005年に解散しました。このCDでは第2Vnはゲルハルト・フロスですが93年からイーダ・ビーラーに交替しました。彼女の演奏をその93年にフランクフルト時代に住んだケーニッヒシュタインのお城でのコンサートで聴きました(ラヴェル等)。途中で彼女の弦が切れて大変でしたが、シュロス(お城)コンサートの素晴らしい雰囲気は忘れがたく、まだ小1と幼稚園だった2人の娘が人生初めて聴いた(寝ましたが・・・)コンサートはこれでした。そういうことでも思い出深いCDであります。

ブルックナーとオランダとの不思議な縁

 

(こちらもどうぞ)

シューマン ピアノ五重奏曲 変ホ長調 作品44

 シューマン トロイメライ

 モーツァルト 弦楽四重奏曲集 「ハイドン・セット」

 テツラフ・カルテットを堪能(ベートーベン弦楽四重奏曲第15番イ短調作品132)

チャイコフスキー弦楽四重奏曲第1番ニ長調作品11

 ラヴェル 弦楽四重奏曲ヘ長調

 クラシックは「する」ものである(3)ーボロディン弦楽四重奏曲第2番ー

 

 

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ブラームス ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15(原題・ブラームスはマザコンか)

2014 OCT 8 21:21:47 pm by 東 賢太郎

本稿は原題が

クラシック徒然草-ブラームスはマザコンか-

であり、自分で好きなブログの一つです。原文には手は加えず、「ピアノ協奏曲第1番ニ短調」の部分を書き加えます(2016年1月31日~)。

・・・・

ブラームスの音楽がどういうものか、それを知るには伝記や評論を読むことも大事だが、なによりその音楽にどっぷりとつかってみることだ。もちろんそれはモーツァルトでもベートーベンでも言えることだが、彼らの音楽は伝記で知った生き様や性格からくる印象とそうずれることはない。モーツァルトは恐らくあの音楽どおりの男だったろうし、ベートーベンの生きるための信条、ステートメントは9曲のシンフォニーにだけでも雄弁に語られていると思う。

ブラームスの人となりはどうもつかみにくい。彼の生涯についてはガイリンガー著『ブラームス 生涯 と芸術』など多くの著作があるが、書かれているような人だったかどうかはわからなくなることがある。それが、音楽を聴くことを通してなのだからいよいよややこしい。どこか優柔不断であり、寡黙な節度と奔放な振幅、繊細でいて無頓着、情熱的でいてシャイ、頑迷なのに優しく、神のように高貴でいてジプシーの様に粗野という本質的矛盾をたくさん秘めている。どっぷりつかると五里霧中になるという迷彩のようなものがブラームス・ワールドの入り口だ。

僕は彼はアレグロやプレストを書くのがへただと思っている。音楽が軽やかに滑らかに一直線に走らない。主題がハイドンやモーツァルトのように細身でしなやかでなく、紆余曲折をたどって快速で走りだすと機関車の疾走みたいにモメンタムがつく。ソナタ形式の外形としてのアレグロは書いても本音は遅い部分に聞こえる。宗教曲以外で神や自然をストレートに暗示、賛美、模倣することもない。ドラマティック(劇的)であからさまな感情の吐露を忌避しているのも顕著だ。だから合唱曲はたくさんあって声楽の作曲に非常に長けているのに、劇的そのものであるオペラがない。

それはマーラーがオペラを書いていない(未完に終わった)のとはわけが違う。マーラーという人はプロのオペラ指揮者だ。オペラをメディアとして知り尽くしており、人生を劇的に理解する性向があり、恐らくそれが故にストーリーのあるオペラは自己を投影し感情を吐露することに向かないことを知っていた。白いキャンバスである交響曲こそ彼の「私の履歴書」に好適のメディアであったのだと思う。最晩年のベートーベンがそれを弦楽四重奏曲に見いだしたのと同じ意味で。交響曲を4つ書いたブラームスは、しかし、どうだったのだろうか。

彼はロマン派の時代に生まれながら古典の枠組みに本質的な音楽美を見出そうとしたように見えるし、多くの伝記や著作がそういう意味のことを書いている。たしかにソナタ、変奏、シャコンヌなど鋳型に執拗にこだわっており、その作りが堅牢巧緻きわまりないことは譜面から理解できる。一方、先輩のシューマンは反対に自由でファンスティックな発想に長け、ピアノ協奏曲が元々は幻想曲であり後から第1楽章の鋳型に入れられたことが象徴するように、彼の交響曲や室内楽にあるのはソナタ形式であるための必要条件としての鋳型であって、それ自体がブラームスの場合のごとく絶対無比の意味合いを持って我々を説得するとはいいがたい。

そうしたブラームスが頑強に形式論理が情緒に流されることを拒否する姿勢は新古典主義と呼ばれ、ストイックであることを是とする人々にポジティブに評される場合もあるが、それをもって彼の主義とするほど自己の吐露を全面的にそれに依存したものだとは僕は思わない。それは彼のいわば鎧(よろい)のようなもので、同時代の他人にも後世にも開示したくない何物かを覆い隠すすべだったのではないかと思っている。この点は本稿でもっとも強調しておきたいことだ。

彼の4つの交響曲、それが彼の押しも押されぬ代表作であり、彼自身もそう考えており、現に僕自身もっとも聴きこんだクラシック音楽がどれかといえばその4曲であるわけだが、マーラーの場合の様に彼の「私の履歴書」がその4つの交響曲かというと、どうも違うという気がしてならない。「名刺」ではあってもそうではないかもしれないと思ってしまう。ここのところこそが、ブラームスという作曲家を知れば知るほど五里霧中となってしまう要諦なのである。なにか僕は彼の二重三重にはりめぐらされた用意周到な煙幕にまかれているような感覚を禁じ得ないのだ。

鎧を纏っているブラームスの生身、その本質はロマンティックどころか非常にセンティメンタルである。27歳で書いた弦楽六重奏曲第1番変ロ長調の第2楽章がその例だ。

これはなんだったか映画にも使われていた。音楽の方から映画ができてしまいそうなほど耳にまとわりつく感傷的なメロディーだ。

彼がシューマンの奥さんであるクララに好意を寄せていたことはすべての伝記作家が慎ましくあるいは積極的に肯定しているが、この曲やピアノ協奏曲第1番の第2楽章は、彼の好意というものがそんな淡くて生やさしいものではなかったことを物語っているように思う。この曲の最後の方、チェロが沈黙して高弦だけでひっそりとハーモニックスのような音を奏でる部分は、恋人たちが死んで魂が浄化されるかのようなイメージを僕は持つ。晩年のクラリネット五重奏曲にもそれを見るが、ワーグナーの作り物だけの愛の死などよりずっと危険なにおいがする。

そのブラームスが20歳で書いてシューマンに意見を求めたピアノソナタ第3番ヘ短調は、はじけんばかりの情熱と挑戦意欲に満ちた5楽章の大作である。アレグロ・マエストーソで開始するこのパッションは、しかし若者の雄叫びのようなどこか外形的なものだ。僕にはそう聞こえる。そして第2楽章Andante espressivo には「若き恋」という詩が冒頭に置かれている彼の本質はここにひっそりと姿を見せている。彼が本音をソナタ形式の鎧で包むという、それこそ本音の人間性を構造的に見せてしまっているという意味で、この曲はまさに若書きである。

そういう本質を見抜かれたくなく、あえて隠すための古典主義の鎧だったのかもしれない。そうだとするとなぜだろう。何を隠したかったのだろう?シューマンが亡くなってからのクララとの関係にそれを解く鍵があるのかもしれないとの指摘は多いだろう。彼の両親が結婚したとき、父親は24歳、母親は41歳だった。17歳上の姉さん女房である。思うに、彼自身がその24歳前後になったころの理想の恋人像がクララ・シューマンという14歳年上の現実の女性に一気に収斂していったということはここで指摘するまでもなく多くの人の想像や下世話な憶測をも呼んでいる。

以下、法学者、ピアニスト、音楽評論家であられた藤田晴子氏の著作を参考にさせていただいたことをお断りする。

クララの長女マリーが記したところによると、ブラームスとクララは1886年にお互いに相手からもらった手紙を返しっこしたそうだ。クララはそれを廃棄し始め、マリーが子供たちのためにそれを残してほしいと懇願して全部の廃棄は免れた。そうして残っているのだけでも約800通もある。チャイコフスキーのフォン・メック夫人のように手紙だけのつき合いとは違い、一緒に過ごした時間に交わされた生の会話はもっと重要だったろう。なにせ1853年から96年までの44年分だ。それはクララにとっては35歳から77歳までの後半生だがブラームスにとってはシューマンの尽力で楽団に登場した20歳から死ぬ前年の63歳まで、つまり作曲家としての全ての期間をカヴァーしてしまう。

ここからは私見になるが、17歳年上の女性と結婚した彼の父親は女性依存の強い人、今でいわゆるマザーコンプレックスだったのではないだろうか。そしてその家で育った息子の方も。彼はクララからお金持ちのお嫁さんを早くもらいなさいと母親のように言われており、間にすきま風が吹いていた期間も何度かある。クララの娘に恋情をいだいたこともある。それでも彼は生涯にわたって新作をクララに送って意見、批判を仰ぐことをやめていない。「作曲家ブラームス」は精神的にクララに依存していたといって間違いではないだろう。彼が同時代の他人に、後世に、決して知らしめたくなかったことはそれに関わることではないかと思うのだ。

晩年のクララが音楽的に頑固な保守主義者となり、ワーグナーやリストに背を向けたという事実は注目に値する。それはブラームスという後継者が現れたことを心から喜び、それを広く紹介してから世を去っていった夫ロベルト・シューマンの音楽の敷いた路線でもある。その夫の音楽を各地で演奏して広めていくという献身的な活動は、クララの生涯にわたることになる。そのことをブラームスが内面においてどう受け止めていたかは大変に興味深い。その女性の精神的支配下にブラームスがあったから、彼の音楽性がロマン主義的であるにもかかわらず常に古典主義の衣装を纏い続けたという説明はもっともらしいが皮相的だろう。事はもっと深層心理的なものだ。

マザコンという言葉が奇矯に響くかもしれないが、誰しも子供時分は母親の強力な影響下にあるのが一般的だろう。それがどう残るかということであって、それは程度の問題ではないだろうか。僕の母は「男子厨房に入らず」を頑として貫徹して育ててくれた。家事能力はなしで今も家庭においては全面的に女性依存となったが、そのおかげで好きなことばかりを伸び伸びとできていっぱしに食えるようになったのだから感謝以外の言葉もない。しかし、もしそれが仕事でも女性依存となれば僕はもたない。男としての精神的基盤が崩壊してしまうだろう。

th6いくらクララが当代きっての名ピアニストではあってもシューマン未亡人ではあっても、彼女がブラームス以上の作曲家であの4つの交響曲以上のシンフォニーを書く能力があったわけではない。自己を存立させる基盤である仕事、人生をかけている作曲というものにおいてそれが女性依存に支えられたものだったかもしれないというのは僕にはとうてい信じられないが、ブラームスにおいてはそうだったのかもしれない。彼はチャイコフスキーやショパンがフォン・メック夫人やジョルジュ・サンドにもらっていたものとは違う何かかけがえのないものをクララから得ていたのだと思う。1896年、77歳で彼女が亡くなった翌年、ブラームスも後を追うように世を去った。63歳だった。

ピアノ協奏曲第1番 ニ短調作品15はシューマンが亡くなった翌年、ブラームス24歳の大作だ。父親が結婚した年齢である。ブラームスはクララへの手紙でその第2楽章アダージョについて、「あなたの穏やかな肖像画を描きたいと思って書いた」 と綴っている。これは音楽のラヴレターにほかならない。秋の夜長、じっくりとお聴きいただきたい。

・・・・

ピアノ協奏曲第1番ニ短調ニ短調作品15

ブラームスが24才で書いた最初のピアノ協奏曲である。ご参考までに、大作曲家たちが最初のピアノ協奏曲を書いた年齢はおおよそこのようになる。

モーツァルト11、メンデルスゾーン13、ラフマニノフ18、ショパン20、プロコフィエフ21、サンサーンス23、グリーグ24、リスト24、ウエーバー24、ベートーベン25、ショスタコーヴィチ27、ガーシュイン27、シューマン31(完成稿)、フンメル33、ハチャトリアン33、チャイコフスキー35、ドヴォルザーク35、バルトーク45、ラヴェル55

ブラームスは比較的若くに随分重い曲を書いたものだと思う。交響曲を書こうとしてベートーベンの壁に当たり、2台のピアノのソナタが発展してこの協奏曲になったとするのが通説だ。壁の存在は第1交響曲を書くまでの年数が明らかにしているわけで事実だが、それとともに影響したのはクララの存在の重みではないか。

そう思いあたったのはロンドンに赴任して間もないころ、ロイヤルフェスティバルホールでのことだった。スティーヴン・ビショップ・コヴァセヴィッチのピアノが何かを訴えかけ、アンタール・ドラティの伴奏に何かを見た。そういうことというのは音楽鑑賞においてそうあるわけではないが、そのとき僕は1番を初めて知った。

その前か後にやった交響曲第1番は残念ながらちっとも覚えがなくて、これだけが残っている。ドラティという大指揮者を聴いたのはその一度だけなのだけれど、あの演奏は不思議な律動があって、それが自分の奥底に響き、記憶に焼きついている。ひょっとして1番には若いブラームスの恋の熱でも封じ込められていて、やる方も聴く方もそれに共振できるかどうかなんじゃないかと思ったりもした。

これが第2楽章のピアノの入りだ。第1楽章の入りも憂いと慕情に満ちているが、これは自分で弾いたらわかる。恋してない男が書けるものではない(第1ピアノのほう)。

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もうひとつ、非常に印象的なシーンがこれだ。終楽章のコーダの入り、ホルンが期待と憧れに満ちた上昇音型をppで吹く。それが木管に広がり、最後はフルートが受け取って感動的な至福の場面をつくる。

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交響曲第1番の第4楽章に出てくるアルペンホルンを模したホルンの主題は、クララの誕生日を祝う手紙の中で「高い山から、深い谷から、君に何千回も挨拶しよう」という歌詞が付けられている。ラブレターなのだ。そして読者はその場面で、ホルン主題をフルートが受け取ることをご存じのはずだ。

 

名曲ゆえおすすめCDは数多あるが、①意外に女性が弾いてない②名手でもミスタッチのまま録音をOKしているケースが多い、ことで不思議な曲だ。要は技術的に難しいのだろうが、もっとそうである2番は女性がけっこう弾いている。テンペラメントの問題なのだろうか。

 

アルトゥール・ルービンシュタイン / ズビン・メータ / イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団

941ルービンシュタイン(1887-1982)の1976年の録音だ。24才の恋の曲と書きながらなぜ89才のピアニストの演奏なのか?聴いていただくしかない。僕の父も91で達者至極だが、記憶力はともかくこの指の回りはイメージできない。終楽章コーダはさすがに苦しいが、だからこそメータもオケも深い敬意をもって老ピアニストを支えているのがわかる。ルービンシュタインというと何とかの一つ覚えでショパンとなるが、彼自身は好きな作曲家はときかれ、ブラームスと答えている。

 

ジュリアス・カッチェン /  ピエール・モントゥー / ロンドン交響楽団

41DNVH0H64Lピアノの素晴らしさでは僕はこれがいちばんと思う。どこがどうではなく、こういうものだという感じを最も受ける。モントゥー(1875-1964)84才の録音だ。モントゥーによると、ブラームスはウィーンで彼がヴァイオリンを弾く自作の弦楽四重奏を聴き、「私の音楽をうまく弾くのはフランス人なんだね。ドイツ人はみんな重すぎてだめだ。」と言ったそうだ。モントゥーというとこれまたフランス物となっているが、彼自身は最も敬愛する作曲家はときかれ、ブラームスと答えている。

 

ウイルヘルム・ケンプ / フランツ・コンヴィチュニー / シュターツカペレ・ドレスデン

POCG-90123ゆっくりと始まる。ピアノを導くオケの律動は誠に見事。上記2盤にない古色蒼然たるドイツの味わいをコンヴィチュニーが存分に聴かせて魅力が尽きない。ホルンや木管を聴いてほしい。このオケはもはやこういう音はしないが、法隆寺を近代建築法で改装するような愚をなぜ犯したのか理解に苦しむ。ケンプのピアノは時にメカニックの弱さを感じることがあるがここでは立派で、第2楽章は誠に滋味あふれる名演だ。良い1番を聴いたという充足感がずっしりと残る。

 

ラドゥ・ルプー  /  エド・デ・ワールト / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

uccd-4561_rPH_extralarge出だしのオケの序奏部から彫が深く引き込まれる。理想的なテンションとテンポ、こくのあるティンパニ、この著名な録音、ピアノニストばかり誉められるが指揮の方もこのまま交響曲をやって欲しいほどで全録音中でもトップクラス。僕はこれが一番好きだ。そこにそっと寄り添ってくるルプーのデリケートなピアノ、この剛毅と抒情の対照は実に捨てがたく、この曲の本質を見事についている。ルプーはモーツァルトの17番k.453をフィラデルフィアで聴いたが、第2楽章のppなどライブでもこういう音がしたのを思い出す。

 

ルドルフ・ゼルキン / ジョージ・セル / クリーブランド管弦楽団

71fhCaNeR7L__SL1077_入試合格直前の74年11月末に1、2番の入ったLP(右のジャケットだった)を買って熱中していたが、これで落ちたら馬鹿の余裕だったからいい度胸だった。久しぶりに聴きかえし、各所でああなるほどこれだったとひざを打つ。2番で書いた通り、オケが楷書的で2台ピアノ版を想起させるほど競奏の味わいに満つ。オン気味に録られたゼルキンの技は切れているが上記②のミスタッチはあってなぜかそのままだ(終楽章冒頭など)。セルの指揮はアンサンブルの精度に絶句。こんなに研ぎ澄まされたオケの音はもうどこからも聞けない。襟を正して聴くしかない、立派の極致。

 

伊藤恵 / 朝比奈隆 / 新日本フィルハーモニー交響楽団

asahinaなにやら指揮者の気迫のこもったものものしい開始。どっしりした重心の低いオケがたっぷりしたテンポでロマンティックに歌いこむ。大変にブラームスにふさわしく絶賛したい。そしてひそやかに入ってくる伊藤のピアノがやがて高揚し、オケに添ってバスを効かせつつもロマンの味をたっぷり湛える。朝比奈が「伊藤君は男ですから」と冗談めかして誉めたピアノは心のひだをとらえて本当に素晴らしい。男と並べても当曲ナンバーワンクラスの名演であり、ライブの熱さもあり、僕はこのCDが大好きである。

 

ヤコブ・ギンペル/ ルドルフ・ケンペ / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

ginpel昼休みだった。会社の裏通りをなにくれとなく歩いて鄙びた雑貨屋にふらっと入った。そこにこれが、捨てられたようにあった。17.95マルクの安売り。その時の喜びったらない、今でもはっきり覚えてるぐらいなんだから。94年あたり、フランクフルトでのことだ。欲しいと思っていたディスクだった。聴いてみるとなんとも硬派だ。これがドイツのブラームスでなくてなんだろう。ケンペとBPOのごつごつ角ばった音作り、ホルンの重い音。白眉の第2楽章は遅めのテンポでロマンを語りぬく。昔の恋の述懐のようだがギンペルのピアノは媚のかけらもなく硬質で辛口。それゆえに上記楽譜のホルンの上昇音型がなんと感動的に響くものか!男のブラームス。音楽は弾く者の人生を語るのだ。ごつごつした木目もあらわな千年杉の一刀彫のような風情。僕はこのCDに浸るのが無上の喜びだ。きれいに表面の整ったつるつるのプラスチックみたいな現代の演奏。テクニックがどうの、ミスなく弾くことがどうのなどくそくらえである。

 

 

 

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