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カテゴリー: ______ブラームス

ブラームス交響曲全集(ジョルジュ・レヘル指揮)

2014 OCT 6 15:15:44 pm by 東 賢太郎

先日、中古レコード屋で輸入盤のLP全集を発見し狂喜した。1番だけを88年にロンドンで買って以来ずっと気になっていた、比較的新しい83年の録音だ。ただその1番はCDであってどうにも音が芳しくなく、いまi-tuneにあることも知っていたがどうしても全集はLPでなくてはと思っていたのだ。

lehelフンガロトン(Hungaroton)というレーベルは、読んでのとおりハンガリーの国営レコード会社だ。オーケストラはブタペスト交響楽団で実体は国営放送のオケ、日本ならさしずめN響である。アルパッド・ヨーの稿に書いたが、83年というとアナログ⇒デジタル、LP⇒CDという移行が同時に起きていた時期であり、当録音はデジタルでフォーマットはLPだから貴重なのだ。

もう一つ貴重なのは、共産国時代の演奏がクリアな録音で聴けることだ。ベルリンの壁の向こう側のコンサートホールでブラームスがどういう音が鳴っていたかが如実にわかる。興味津々である。中古とはいえこれが1800円とは有難い。まあ僕のようなブラームスマニアしか買わないだろうが、これを最初に買われた方はお目が高いなと感心する。

Lehel-Gyorgyジョルジュ・レヘル(1926-89、左)はヤーノッシュ・フェレンチク(1907-84)と並んで、第2次大戦でハンガリーから外に出なかった国宝級の指揮者である。ジョージ・セル、フリッツ・ライナー、ゲオルグ・ショルティ、ユージン・オーマンディ、フェレンツ・フリッチャイ、イシュトヴァン・ケルテスなどが西側に出たのに対し、国に残って自国の楽壇を支えた大物指揮者といえる。お国ものを中心に録音は多いが、国威発揚的なスタンスでポピュラー名曲を振らされた盤も多く、演奏スタイルはいかにも地味なため今となっては価値が薄く手に入る物は多くない。一方このブラームス全集やJ.S.バッハのヨハネ受難曲のような本格物もある。こっちの価値は別物だ。

上記の国を出ていった人たちが米国に渡って作り上げた「スコアを正確に明晰に鳴らす演奏」というのはイタリア移民であるトスカニーニに顕著なスタイルだ。それは当時の米国の音楽メディアが圧倒的にラジオ放送依存だったことに関係があると思う。欧州で伝統的である教会的な音響、低音を基盤としたピラミッド状、オルガン状で残響の多い音造りというのは高音が勝ったラジオにはうまく入らない。それでは米国人好みの派手さが出ないのだ。

その点、残響の少ないオペラハウスで情熱的なイタリアオペラを振ってきたトスカニーニの音楽性は適任だった。同様に、ハンガリー人亡命指揮者たちの理知的で明晰さを重んじる音楽性もその流れに沿ったものだった。ワルターやクレンペラーの音楽性はザッハリヒ(即物的)な音響である米国のオケだと一抹のもの足りなさがあるが、ハンガリー系ではむしろそれが彼らの音楽特性を助長してよい成果をもたらしたと言えるのである。

ところが元祖ハンガリー系であるレヘルの指揮はライナーやショルティとは大きく違う。まず中音重視だ。この全集でもハイファイ 的な高音域、低音域の強調は全くなく、ブラームスの好みである中音域が厚めのオーケストレーションが見事に鳴っている。あざとい強弱のデフォルメやキレの良いアレグロで興奮をあおることもまったくない。ラジオで流して米国の聴衆が気に入る音とは遠いものだ。

ラジオの影響に加え、米国には貴族がない。いわば全員が市民、庶民である。米国のポピュリズムの結晶のひとつがディズニーランドだろうが、あれが海外で人気なのはアジアであってフランスに作ってみたが欧州は一向になびかない。元はレヘルのような指揮をしていた人も、米国ではディズニー風に転向するしかなかった側面があるのではないか。聴いていていろいろ考えることがある。

フルート奏者の腕は良く、オーボエ、クラリネット、ファゴットも素晴らしい音程でボディのある木質の音を出しており、木管の和音はオルガンのようだ。ホルンはややロシア的でウィーン、ドイツとは違うのが意外である。技術的には微細だがほころびがある。トランペットはいかなる時も浮き出ず、トロンボーンは威圧的でなくこれもオルガン的に和音を支える。ティンパニは要所以外は常に控えめである。

弦楽器奏者の腕が特に良いとは感じない。しかし2番の第2楽章、3番の第3楽章でのチェロ、ヴィオラなど中音の美を十全に醸し出し、存在感はあるが出すぎないヴァイオリンとよくブレンドする。それがマスとして木管、金管とブレンドして、ややくすんだダークグレーのような奥ゆかしい音色を作る。

つまり弦がメロディーラインを強調してヒステリックに自己主張する性質のオケではなく、指揮もそうではないということである(僕はどちらも大嫌いだ)。一言で評すれば教会のオルガンを模したオーケストラという存在の原型的な遺伝子を保持したドレスデン・シュターツカペレの美質に近く、それをシルクの感触とするとこっちは高級なウールだ。ただ、アレグロの質は遠く及ばず、緩徐楽章にそれが活きている。

以下、演奏の寸評。

1番

思った通りで、霞がかかったようなCDより音がずっといい。第1楽章再現部前の減速はやや大きめだが、全般に解釈はオーソドックスである。レヘルの棒はリズムが前のめりにならないのが特徴だ。指揮棒が打点に落ちてから間をおいて各楽器がついてくる感じで、縦にはあまり合っていない。だから曲のリズミックな側面には焦点を合わせておらずアレグロの精緻さには欠ける。共産国時代はこうだったのだろう。一糸乱れぬ合奏力はトスカニーニ以後の米国の産物と思う。

逆に第3楽章の木管とホルンには、米国のオケでは絶対に出ないこのオケの素朴で味のある個性がくっきり刻まれている。上質の木製の工芸品の感触だ。終楽章のホルンのくすんだ音は独特、フルートソロは音楽性満点である。どこも気張ったり大向こう受けをねらう大仰なポーズがなく、高性能ヴィルチュオーゾ・オケでこの曲を攻めまくろうという大道芸人的嗜好がまったくないのは実に奥ゆかしい。

2番

第3楽章までは高水準だ。第1楽章では見え隠れする対旋律が意味深く彫琢され、どこといって変わったものはないが、何かが耳をそば立たせる。良いブラームスだ!ライナーノートを読みながら聴き始めたが、途中でそれを床に置いてじっと耳を澄ますことになった。第2、3楽章もドイツの田園風景のように美しい。ところが終楽章がいけない。どうして?このテンポは遅すぎるだろう。それがコーダになってギアチェンジして加速するのは、ヤノフスキー盤ほどではないが、安っぽい解釈だ。本盤はそこまでやってもなお熱が上がらない。もったいない。

3番

可もなく不可もなし。この曲だけは弦の魅力がもっとほしい気がする。この演奏の美点は第3楽章が無用にロマンティックに流れず、たえず節度を保っていることだ。そういうreserved(慎み深い)な態度は商業的には当たらないだろうから、恐らくベルリン壁と一緒に消え去った遺物だ。ブタペストのコンサートホールでは日常的にこんなブラームスをやっていたんだろうと思わせる貴重な記録である。

4番

これは面白い。こんな朴訥でいぶし銀の4番が何気なくぽんと出てくる、これがヨーロッパというものだ。古風にくすんだ光沢の弦、目立たないがあるべき存在感のある管。上述したオケの美質が4番の本質にだけ奉仕するような指揮。各楽章とも隙がない。それもかっちりとした枠組みをまず作り、外形のプロポーションから構築するという方法とは思われず、自由な流れの中でそれを作っている感じがする。

管楽器があらゆる側面から言って「良い音」で鳴っている。ソリスト的なテクニック主義ではないこういう奏者をうまいというのだ。そしてそういう音で吹いているブラームスの「中声部」というものが、どれだけ好ましいものか。そしてその音によって、リズムのちょっとした後打ちまで命が通っている充実感。ブラームス自身がこういう指揮をしていたのではないかと想像する。20世紀初頭、ロシア革命時点の演奏がタイムカプセルから出てきたようだ。この4番はこれから僕の愛聴盤の一つに加わるだろう。

(この全集は一般にお薦めするものではないが、ブラームスに食傷気味の人には一服の清涼剤になるだろう。itunes storeにてGyorgy Lehelと入れると6000円でダウンロードできる)

 

トータルな感想

今の商業録音のポリシーの中でこういう演奏が録音される可能性はまずゼロである。都会的センスはかけらもなく、僕は南ハンガリーの片田舎のあぜ道で車がエンコしたときの畑の風景とにおいを思い出した。ヨーロッパですら演奏会で聴くことももはやないだろう。自己顕示のためのデフォルメに満ちたブラームスの演奏会チケットやCDが市場に並ぶ。それを聴いて、ブラームスはそういうもんだとなる。

ドイツのどこのオペラハウスだったか、マイスタージンガーの舞台設定がマンハッタンみたいで吹きだしてしまった。そのノリで、革ジャンでハーレーにまたがるブラームスがいてもいいじゃないかと言われて否定するすべはない。伝統破壊は芸術の原動力だから。だがそれにしてもそれはないだろうというのがある。スペインの教会で聖人画が素人のおばさんの手で猿みたいになってしまった。あれが破壊だと真剣に思いだす人もいるんじゃないか心配になる。

共産主義というものはショスタコーヴィチのように作曲家にとって悲劇に働く場合があることを認めたうえで、少なくとも真の演奏芸術を保存するという意味においてはパトロン兼シェルターである可能性を秘めていたとも思う。この録音はその証しだろう。20世紀初頭の演奏芸術がロシア革命以降、真空パックされて保存され、デジタル録音で鮮度の高いまま試食できた、そういう感想が残る。

国家に替わるパトロンが仮に存在しないなら、芸術にとって市場原理こそ最低の原理であることは間違いない。東京では石原元知事の都響への補助金削減、大阪では橋下徹 市長の文楽への補助金削減が問題になった。日本だけではない、ニューヨークのエイブリ―フィッシャーホール建設は納税者の大反対にあったし、税金の補てんに頼っていた欧州のオペラハウスの経営が財政破たんによる緊縮で国より先に破たんしそうである。

チャイコフスキーにはフォン・メック夫人が、ショパンにはジョルジュ・サンドがいたし、ストラヴィンスキーにはディアギレフがいた。芸術を破壊的な力で前進させたのは天才の才能だが、その裏には物好きの大金持ちという触媒がいたのだ。国がその役目を負うなら、物好きであるためには民主主義ではならない。僕は文楽を味わう素養を持たないから衆愚の一員にすぎず、自らの税金をその補助のために使うことに賛成票を投じるとは限らない。

衆愚政治は政治をやる側にとってはともかく国民にとっては危険であるが、衆愚芸術というのはもはや定義矛盾であり、芸術をやる側にも国民にも危険である。

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クラシック徒然草-秋に聴きたいクラシック-

2014 OCT 5 12:12:43 pm by 東 賢太郎

以前、春はラヴェル、秋にはブラームスと書きました。音楽のイメージというのは人により様々ですから一概には言えませんが、清少納言の「春はあけぼの」流独断で行くなら僕の場合やっぱり 「秋はブラームス」 となるのです。

ブラームスが本格的に好きになったのは6年住んだロンドン時代です。留学以前、日本にいた頃、本当にわかっていたのは交響曲の1番とピアノ協奏曲の2番ぐらいで、あとはそこまでつかめていませんでした。ところが英国に行って、一日一日どんどん暗くなってくるあの秋を知ると、とにかくぴたっと合うんですね、ブラームスが・・・。それからもう一気でした。

いちばん聴いていたのが交響曲の4番で毎日のようにかけており、2歳の長女が覚えてしまって第1楽章をピアノで弾くときゃっきゃいって喜んでくれました。当時は休日の午後は「4番+ボルドーの赤+ブルースティルトン」というのが定番でありました。加えてパイプ、葉巻もありました。男の至福の時が約束されます、この組み合わせ。今はちなみに新潟県立大学の青木先生に送っていただいた「呼友」大吟醸になっていますが、これも合いますね、最高です。ブラームスは室内楽が名曲ぞろいで、どれも秋の夜長にぴったりです。これからぼちぼちご紹介して参ります。

クラシック徒然草-ブラームスを聴こう-

英国の大作曲家エドワード・エルガーを忘れるわけにはいきません。「威風堂々」や「愛の挨拶」しかご存じない方はチェロ協奏曲ホ短調作品85をぜひ聴いてみて下さい。ブラームスが書いてくれなかった溜飲を下げる名曲中の名曲です。エニグマ変奏曲、2曲の交響曲、ヴァイオリン協奏曲、ちょっと渋いですがこれも大人の男の音楽ですね。秋の昼下がり、こっちはハイランドのスコッチが合うんです。英国音楽はマイナーですが、それはそれで実に奥の深い広がりがあります。気候の近い北欧、それもシベリウスの世界に接近した辛口のものもあり、スコッチならブローラを思わせます。ブラームスに近いエルガーが最も渋くない方です。

シューマンにもチェロ協奏曲イ短調作品129があります。最晩年で精神を病んだ1850年の作曲であり生前に演奏されなかったと思われるため不完全な作品の印象を持たれますが、第3番のライン交響曲だって同じ50年の作なのです。僕はこれが大好きで、やっぱり10-11月になるとどうしても取り出す曲ですね。これはラインヘッセンのトロッケン・ベーレンアウスレーゼがぴったりです。

リヒャルト・ワーグナーにはジークフリート牧歌があります。これは妻コジマへのクリスマスプレゼントとして作曲され、ルツェルンのトリープシェンの自宅の階段で演奏されました。滋味あふれる名曲であります。スイス駐在時代にルツェルンは仕事や休暇で何回も訪れ、ワーグナーの家も行きましたし教会で後輩の結婚式の仲人をしたりもしました。秋の頃は湖に映える紅葉が絶景でこの曲を聴くとそれが目に浮かびます。これはスイスの名ワインであるデザレーでいきたいですね。

フランスではガブリエル・フォーレピアノ五重奏曲第2番ハ短調作品115でしょう。晩秋の午後の陽だまりの空気を思わせる第1楽章、枯葉が舞い散るような第2楽章、夢のなかで人生の秋を想うようなアンダンテ、北風が夢をさまし覚醒がおとずれる終楽章、何とも素晴らしい音楽です。これは辛口のバーガンディの白しかないですね。ドビッシーフルートとビオラとハープのためのソナタ、この幻想的な音楽にも僕は晩秋の夕暮れやおぼろ月夜を想います。これはきりっと冷えたシェリーなんか実によろしいですねえ。

どうしてなかなかヴィヴァルディの四季が出てこないの?忘れているわけではありませんが、あの「秋」は穀物を収穫する喜びの秋なんですね、だから春夏秋冬のなかでも音楽が飛び切り明るくてリズミックで元気が良い。僕の秋のイメージとは違うんです。いやいや、日本でも目黒のサンマや松茸狩りのニュースは元気でますし寿司ネタも充実しますしね、おかしくはないんですが、音楽が食べ物中心になってしまうというのがバラエティ番組みたいで・・・。

そう、こういうのが秋には望ましいというのが僕の感覚なんですね。ロシア人チャイコフスキーの「四季」から「10月」です。

しかし同じロシア人でもこういう人もいます。アレクサンダー・グラズノフの「四季」から「秋」です。これはヴィヴァルディ派ですね。この部分は有名なので聴いたことのある方も多いのでは。

けっきょく、人間にはいろいろあって、「いよいよ秋」と思うか「もう秋」と思うかですね。グラズノフをのぞけばやっぱり北緯の高い方の作曲家は「もう秋」派が多いように思うのです。

シューマンのライン、地中海音楽めぐりなどの稿にて音楽は気候風土を反映していると書きましたがここでもそれを感じます。ですから演奏する方もそれを感じながらやらなくてはいけない、これは絶対ですね。夏のノリでばりばり弾いたブラームスの弦楽五重奏曲なんて、どんなにうまかろうが聴く気にもなりません。

ドビッシーがフランス人しか弾けないかというと、そんなことはありません。国籍や育ちが問題なのではなく、演奏家の人となりがその曲のもっている「気質」(テンペラメント)に合うかどうかということ、それに尽きます。人間同士の相性が4大元素の配合具合によっているというあの感覚がまさにそれです。

フランス音楽が持っている気質に合うドイツ人演奏家が多いことは独仏文化圏を別個にイメージしている日本人にはわかりにくいのですが、気候風土のそう変わらないお隣の国ですから不思議でないというのはそこに住めばわかります。しかし白夜圏まで北上して英国や北欧の音楽となるとちょっと勝手が違う。シベリウスの音楽はまず英国ですんなりと評価されましたがドイツやイタリアでは時間がかかりました。

日本では札幌のオケがシベリウスを好んでやっている、あれは自然なことです。北欧と北海道は気候が共通するものがあるでしょうから理にかなってます。言語を介しない音楽では西洋人、東洋人のちがいよりその方が大きいですから、僕はシベリウスならナポリのサンタ・チェチーリア国立管弦楽団よりは札幌交響楽団で聴きたいですね。

九州のオケに出来ないということではありません。南の人でも北のテンペラメントの人はいます。合うか合わないかという「理」はあっても、どこの誰がそうかという理屈はありません。たとえば中井正子さんのラヴェルを聴いてみましたが、そんじょそこらのフランス人よりいいですね。クラシック音楽を聴く楽しみというのは実に奥が深いものです。

 

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指揮者アルパッド・ヨー(Arpad Joo)の訃報

2014 SEP 27 3:03:24 am by 東 賢太郎

この人を知っている方はかなりのクラシック通でしょう。訃報といっても3か月近く前の7月4日、66歳の若さでシンガポールで亡くなったようです。本当に惜しい。生まれはハンガリーで後に米国に帰化しています。父方がハンガリー貴族、母方は英国王室ウィンザー家という血筋でした。

あのゾルタン・コダーイが6歳のヨーの才能に感嘆し、自分の音楽院に入学させ、13年後に亡くなるまで教え続けたというから異例なことです。20歳の時にピアニストとしてボストンのリスト国際コンクールで優勝しましたが、のちにマルケヴィッチ、ジュリー二の教えを受け指揮者としてのキャリアを積みました。メットのオーケストラの史上最年少音楽監督にもなっています。

彼の演奏会を聴いたわけではないですが、80年代にロンドンでSefelというレーベルから出ていた彼のブラームス4番、同ドッペル、マーラー1番のLPを買い、とても印象に残っていたのです。ただ、それは当時売出しのデジタル録音が珍しく、盤質が別格的に良いレコードで、音質の好印象が大きかったという気がします。

jooさきほど、ブラームス4番(下の写真の人物がヨー氏)を30年ぶりに聴いてみました。これがなかなか宜しいのです。一切奇をてらわずの正攻法でロンドン交響楽団をどっしりと鳴らしていますが、木管、特にこの曲で要であるフルートが雄弁に語っていて聴かせます。第2楽章のロマンは渋めで深々としたもの。第1楽章コーダは加速がなく、第3楽章も安定したやや遅めのテンポをとり、終楽章は古典的なたたずまいでjoo2ほとんど見栄を切らずに堂々たる終結に至ります。80年録音だから32歳、それでこの4番は立派なものです。録音は格別で、オケの立体感、弦の質感、木管・金管の定位と実在感はホールの2階席最前列でライブを聴くがごとしの素晴らしさ。音響面では僕のライブラリーにあるすべてのブラームス4番の最上位にあるもの一つといってよろしいと思います。

次に聴いたのが、昨日も書いたチャイコフスキー5番でした。

joo3これはフィルハーモニア管弦楽団とのCDで、ドイツで買ったもの。ケンペと同じく「チャイコ5番」の稿にはご紹介していない理由は演奏のせいではなく、ARTSというレーベルなのですが製造がいい加減で左右チャンネルが逆に入っているからです。こんなひどいクラシックのCDは珍しい。ところが演奏はというと、これが名演なので困ったものです。94年録音でヨーは46歳。オケがいきなり初めから気合いが入っていて、指揮者がやる気にしている気配をひしひし感じます。ケンペよりずっとロマンティックで一般のリスナーがこの曲に求める要素はほぼ過不足なく、非常に高いレベルで盛り込まれていてオケも素晴らしくうまい。とにかく良く鳴っています。金管のレベルの高さは感涙ものであり、終楽章のテーマをフルート、オーボエ、クラリネットのユニゾンでffで吹く大事な部分は9割のオケは僕には音程が不満なのですが、このオケは合っていて満点です。音響はやや残響が多めですがエッジも充分で、自分の部屋でこれを大音量で聴くのは最高の快感です。

しかし、さらにこのCDのうれしいのは付録で入っている幻想序曲「ロメオとジュリエット」です。これはロンドン交響楽団との演奏ですが、こっちもオケが良く鳴っているばかりか、ホールトーンとのブレンド、楽器の定位・実在感と質感、演奏のクオリティ、どれもが最高で5番よりさらに一枚上手。これは僕の持っているロメジュリの中で文句なく最高位のディスクであり、オケの音響という面でもレファレンス級。これだけの素晴らしいオケの音はなかなか聴けるものではありません。お客さんに装置を聴いていただくならまずこれからというレベルで、これを耳にすれば東京のホールなんかにカネを払って聞きに出かけるのはアホらしいというのはご理解いただけると思います。

音の話になってしまいましたが、いくら高級な装置で録音したり再生したりしても、鳴っている元の音が美しくなければ意味がありません。ロンドンのオケからこれだけの音を紡ぎだしたヨーの実力のなせる業に他ならず、当たり前のことをやってこれだけ高水準の仕事をできる人というのはいそうでそうはいないでしょう。何があったかは知りませんが、コダーイの高弟でコンクール優勝というこれだけの実力者がポスト面でも録音面でも日陰に置かれたというのはリスナーにとっては不幸というしかありません。ぜひ一度実演を聞いてみたかった指揮者がまたひとり逝ってしまいました。

 

(補遺、25 June17)

ブラームスのドッペルも大変に素晴らしい。エミー・ヴェルヘイのヴァイオリン、ヤーノシュ・シュタルケルのチェロ、アルパッド・ヨー指揮アムステルダム・フィルハーモニック管弦楽団。オランダの女流ヴァイオリニスト、ヴェルヘイはチャイコフスキー・コンクール大会始まって以来の最年少17才でファイナリストになった神童でオイストラフの弟子。やや線は細いがシュタルケルの向こうを張って室内楽のような味のある合奏を繰り広げる。オケも堂々たる正攻法のブラームスであり、コンセルトヘボウの空気感までとらえた録音はあらゆるオケをこの音で聞きたいと思わせる。ロンドンで30年も前に買ったLPだが、一聴して以来長く心に残り愛してきた逸品だ。

 

 

 

 

(こちらへどうぞ)

チャイコフスキー交響曲第5番ホ短調 作品64 

 

 

 

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「女性はブラームスを弾けない」という迷信

2014 JUL 15 19:19:26 pm by 東 賢太郎

ときどき音楽を聴く気がない、受けつけないような固まった精神状態になることがある。いわばアタマの肩凝りで、この週末までそうだった。日曜日にちょっと気分を変えようと、ショスタコーヴィチの交響曲第10番をかけたが、途中でうたた寝して終わった。寝不足でもないのに、どうしても頭に音楽が入ってこない。だからこちらも音楽に入っていけないという困った事態だ。

それがその次にかけたブラームスの第1ピアノ協奏曲でこうも変わるものか?眠気が吹っ飛び、すっきりと凝りがとれたものだから少し驚いてこれを書いている。いや、この稿よりも先に、そのブラームスに触発されてすぐに書いたものがある。昨日上梓した「シューマン交響曲第2番  ハ長調    作品61」の稿だ。それは2番について、書きたいと思っていたが凝りのせいでさぼっていた事々だ。

気分が沈んだ時はモーツァルトのピアノソナタ何番ですよなどと音楽をサプリメント化して効能分類する人がいる。それは多分に主観的であり、商売に過ぎないように思うが、だからといって効能を否定するにも及ばないだろう。僕には自分なりの音楽サプリメント集があるし、無意識にその時々に聴く音楽をそうやって選択しているように思う。今回そういうわけではなかったが、こうやって劇薬みたいに効いてしまうこともあるようだ。

ブラームスのピアノ協奏曲第1番はLP時代から知ってはいたが特に好きでもなかった。僕にとって2番変ロ長調の存在が大きすぎたからだが、それを初めて知ることになったのはロンドンでのある演奏会でのことだ。スティーヴン・ビショップ・コヴァセヴィッチのピアノ、アンタール・ドラティの指揮で聴いたそれはブラームス観を変えるものだった。ひとことで言うなら、それまで女々しいと思っていた1番が男性的に聞こえたのである。

日曜日に僕に革命をもたらしたのは朝比奈隆と伊藤恵が新日本フィルとやったCDである。いうまでもなく伊藤さんは女性ピアニストだ。僕には女性はブラームスを弾けないという偏見があった。そうしたら解説に面白いことが書いてある。伊藤を高く評価する朝比奈が「伊藤さんは男ですから」とほめた?そうだ。すごい!どこかの議員と一緒でセクハラになりかねないが、僕のような者にはこれが最高級の讃辞であることがわかる。

「男らしいブラームス」という評価は西洋にはない。たぶん。感覚的に共有する男はいそうだが、ある指揮者が女性の多いオケは台所に見えると言い放って無事に仕事ができた時代は遠い昔だ。しかし、誤解のないことを祈るが、僕にはブラームスは男らしく響いて欲しい。それは奏者の性別のことではなく、鳴っている音楽がそういう風であって欲しいということで、男とはマッチョのことではなく、剛毅を装って生きてきたが本当は弱くてシャイである、しかしまだ枯れてはいない初老の男のイメージである。

このCDでの伊藤さんのピアノは、そういう男の味そのものである朝比奈の棒に寄り添って剛毅にも響くが、とてもナイーヴなものを秘めている。クララ・シューマンへのラブレターである第2楽章は、あんまりそういういい男でもない僕のハートにも熱く熱く届く。ラブレターに聞こえるのだ。いや、あまりあれこれ書くのはひかえよう。こういう演奏を言葉は壊してしまうかもしれないから。

朝比奈隆のブラームスはいいと思う。彼がそういう男だったかもしれない。伊藤さんは男?いや、指揮者の意をくんで男らしくもふるまえる腕前をもった類まれな女性でしょう。ジャン・フルネのラストコンサートで弾いたモーツァルトの24番。老体の遅いテンポに夫唱婦随で懸命に合わせる伊藤さんを見たのはサントリーホールだったか。大和撫子でした。そしてやはりフルネと共演したブラームスの2番で、女性は弾けないという偏見を打ち砕いて下さいました。この1番は日本人が世界に誇ってよいものではないでしょうか。

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ブラームス ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 作品83

 

 

 

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カラヤン最後のブラームス1番を聴く

2014 APR 22 13:13:53 pm by 東 賢太郎

1988年の10月6日、愛車ボルボでテムズ川の真ん中あたりにかかるウォータールー・ブリッジをいつも通りに渡る。ヴィヴィアン・リー、ロバート・テイラー主演の名画「哀愁」の舞台となったあの橋だ。橋げたの少し先を右折してパーキングに車を駐めると、辺りはもう真っ暗である。湿気を含んだ空気はもう冷んやりしている。ロンドンの冬は早くて長いのだ。

ロイヤル・フェスティバル・ホールの1階ロビーは夕刻8時の開演を待つ人の熱気と煙草のにおいでむんむんしていました。まだ1時間半もある。妻とK夫妻で地下のビュッフェの軽食をとることになりました。いつもの3ポンドぐらいのパスタ、ハンバーガーは、これが毎度毎度おそろしくまずいのですが、空腹だと音楽に入れないから仕方ない。30分も並びサーブを待たされ、あわてて食事をかきこんでコーヒーは熱くて飲めないので残し、息せきこんでホールへの階段を駆け上がる。「開演は1時間遅れます」のアナウンスでずっこけたのはそのあたりでした。カラヤンと団員は到着したが、別送していた楽器がパリでストライキにあって着いていない?そこから情報の進展はなく、延々と待たされるうちに疑心暗鬼になってきて、まさかキャンセルはないよねと真顔で心配するほど周囲はざわざわし始めました。

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大拍手に迎えられてオケが正装で入場し開演はアナウンス通り9時でした。しーんと静まり返った緊張のなか、腰を少し曲げてゆっくりゆっくりと帝王カラヤンが登場。拍手は最高潮になります。彼も疲れているだろうに大丈夫だろうか、心配の方が先にたってしまうほどカラヤンは老い、そして僕らは待ちくたびれていたのです。

しかし指揮台に立って堂々と喝采に答礼する姿はそれは杞憂だということを物語っていました。最初のシェーンベルグ「浄夜」。僕らの席は1階正面やや向かって右手で、コントラバスが正面にずらっと並んでいます。その音たるや楽器が普通より大きんじゃないかと錯覚するほどごうごうと強くて太く、その低音ががっちり支える弦楽器群のピラミッド状の音響たるや、もうロンドンのオケとも日本のオケとも別個の存在とでもいうべきものでした。

この日のプログラム

休憩をはさんでいよいよメインのブラームス交響曲第1番です。リハーサルなしだったせいか、出だしの強烈なティンパニの2発目が棒より一瞬速すぎて心臓が凍りましたがすぐ修正。しかし、これだけ気合いの入った怒涛の出だしというのも記憶になく、ハ音の重低音が物凄い音圧で腹に響きます。カルロス・クライバーのブラームスでもそう感じましたが、本気になったベルリン・フィルの音はとにかく音波の振幅がとてつもなく大きいのが特徴です。

ブラームス1番は僕の音楽人生にとって特別に重い意味のある曲ですが、カラヤンが指揮した生涯最後の1番がこれということになったという意味でも格別の思い出を残してくれることになりました。カラヤンの指揮姿は老人のものではなく、一切の振り違いや危なげすらもなく、翌年7月16日の彼の訃報をきいても実感がわかなかったほどです。

この日のブラームスはごつごつせず流麗に音楽の内包する摂理にのって流れる、磨き抜かれた美音とffの強烈な威力で形どられた生々流転のドラマでした。彼の音楽は日本では形だけの空虚な美のように評価されていましたが決してそうではなく重い実質を伴った音楽です。同じオケを振った先輩フルトヴェングラーの1番とは似ず、しかし先輩はカラヤンを強く嫉妬したのはその実質を生む実力を音楽家の嗅覚で見抜いたからと思います。

どこがどうということはなく、一流の演奏だけが持つ輝きとオーラを放って見事に全体の均整がとれた1番だったのです。ウィーン・フィルを振ってDeccaに録音した1番とコンセプトが違うということがなく、指揮台の彼は最後まで老いるということが許されなかった、ヘルベルト・フォン・カラヤンでなくてはいけなかったのだと思います。老成、大家然を拒むところに彼の芸術は存立していました。だから1番こそが彼にふさわしいものだったし、それがロンドンでの最後の姿を飾ったのは天の配剤だったのでしょう。鳴りやまないブラヴォーと拍手にはお疲れさまという気持ちがこもっていた気がします。

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この演奏がCDになって出ましたが、まさかと思ってジャケットを見てみると、やはりそのまさかが起きていました。このジャケット写真をよーくご覧ください。カラヤンの左手の高さ、彼の背中側後方の客席に日本人風の女性が映っています。左がK夫人、右が家内、そしてその右が僕であります。記念写真まで残ってしまいました。BBCに深謝です。

 

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(6)

 

 

ブラームス クラリネット五重奏曲ロ短調作品115

2014 MAR 23 1:01:40 am by 東 賢太郎

これをモーツァルトの同じ編成の曲より先に書いてしまうのはやや抵抗があったが、今日これを聴いてしまったので仕方ない。これはロンドンで毎日ブラームスばかり聴いていた頃があって、4番と一緒で日課のように家中に響いていた曲だ。ところがそれ以来、あまり進んで耳にしようとは思わなくなっていた時期もある。

音楽をどう聴くかは各人各様だ。僕は恐らく非文学的な脈絡で聴いている。だから劇や情景描写と結びついたオペラや交響詩はあまり近寄っていないし、バレエも音楽しか関心はない。春の祭典のように10代で暗記した曲でも標題は頭に入らず、今でも「祖先の儀式」がどの部分なのか知らない。僕が感応するのは100%「音」だけである。

その音というものが何を心に喚起するか。例えば、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番第3楽章のある部分で僕は幽体離脱を思い浮かべる。同25番の第2楽章のある部分は振り上げた腕が見え、それと同じものがプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番の第3楽章のある部分にも見える。春の祭典の第2部の序奏のバスドラムが入るところではマグマのような光る熱い巨大な岩の塊がぷすぷすとガスを吹きながら崩れていく光景が見える。弦チェレの第3楽章では光のない真っ暗闇の宇宙空間を飛ぶ夜光虫の群れが見える。どれも、そんな感じという程度ではなく、はっきりと「見える」。

僕の色覚が他の人と共有されていないのであくまで自分が知っている色としての話になるが、レ(D)の音(これをブラームスのヴァイオリン協奏曲の出だしの音と覚えている)はオレンジ色、 ミ♭(E♭)の音(これをシューマンのラインの始めの音と覚えている)は青緑色のような気がする。こういうのを共感覚と呼ぶらしいが、12音のうちこの2音しかないからそういうものではないだろう。ただニ長調、変ホ長調にはその色がついて見える。

ニ長調の並行調であるロ短調を主調とするこの五重奏曲はクラリネットの質感(クオリア、これも赤色系の暖色だ)によってオレンジ色が増幅されて感じる。それがこの曲特有の粘着質のコード・プログレッションのクオリアを増幅して、こちらの気分と体調によっては誠に強い効果を及ぼしてくる。第2楽章はところどころで鳥肌が立っては消え、平静な鑑賞ということがかなわないことがある。

終楽章コーダで冒頭主題がひっそりと回帰して音楽が淀む部分はいつ聴いてもつらい。悲しいからである。自分に何らの悲劇が起こったわけでもない。音楽にストーリーやテクストがあるわけでもない。それでいて、ただただ抽象的に、悲しい。こんな感情を引き起こすものが世の中にまたと有るとは到底信じがたい。あなたが何かもの(物体)を見たり触ったりして、その行為だけによって泣くということを信じられるだろうか。同じことだ。音(音波)を聞いてどうしてそうなる道理があるだろう。

一つだけ似た効果を及ぼす音楽がある。J.S.バッハのマタイ受難曲である。僕はいまのところあの曲を畏敬しながらもどこか敬遠もしているのだが、ブラームスのこの曲も、それと似た気持ちで遠ざかってしまっていたのである。だからこの曲は僕が好きであり、かつ楽譜を見たことのない唯一の曲である。見たくない。見てしまうと嫌いになるかもしれないと思うからだ。なんとなく、「僕が見てはいけないもの」を秘めている気がする。

ブラームスがこれを書いたのは58歳になってである。その前年に弦楽五重奏曲作品111を完成したが創作力の限界を痛切に感じ、持ち物を整理して遺書を書くまでになっていた。そこで出会ったのがマイニンゲン宮廷楽団のクラリネット奏者ミュールフェルトだった。彼の演奏に魅せられたブラームスはクラリネット三重奏曲、2つのソナタ、そしてこの曲を書いた。

ブラームスは何を想ってこの曲を書いたのだろう。それを伝えるものはない。モーツァルトがクラリネット奏者シュタートラーに触発されて五重奏曲を書いたことが胸にあったかもしれない。しかし、ブラームスの場合はそれとは違う動機があったかもしれない。これはまったく僕の空想であるが、この音楽のすべては強く女性を暗示しているように聴こえる。

第4交響曲と同じ変奏曲の終楽章。それを静かに閉じる冒頭のテーマ。あれは何なのだろう。僕は彼の年齢を一つ越えてしまった。

 

(補遺・16年2月6日)

僕はウィーンという土地が好きであって何度も訪れ滞在しているが、それはモーツァルトの「気」を感じたいからであって、信長の安土城址となんら変わりない。ウィーンそのものに執着はなく、むしろモーツァルトをいじめておいて後でカネになると利用する商魂には近づきたくない人間だ。ムジークフェライン(芸術家協会)の会長さんやウィーンフィルの団員さんと会食したりもしたが、まあ京都みたいなもんだなと思った。伝統で食える街とはそよろしゅうんなものだ。皆さん音楽はお仕事だし名誉や金銭にも立派にご関心があって、金融マンの立場でお会いすればそういうアングルからものが見えてしまう。

我が国の古いクラシック好きにはウィーンときくと思考停止する傾向があって(そんなのは日本だけだが)、ゆかりの曲ならまずはウィーンフィルとなる。先方様もそれがいい商売になることをご存じである。日本人は旦那さんなのだ。あのオケ全員がウィーン人なんてことはなくてハンガリー、チェコの人も多い。舞妓ちゃんに京都っ子がいないと似てそこで仕込んだ芸こそ伝統ということになっていて、旦那の日本人は「よろしゅうおたの申します」でいちころだ。

ブラームスはウィーンに住んだし大学で教えたしお墓もある。しかしクラリネットは原型がフランスの楽器でミュールフェルトはマイニンゲン宮廷楽団の首席クラリネット奏者だ。クラリネット五重奏曲はバート・イシュルで作曲され、非公開初演はマイニンゲンの宮廷だし公開初演はベルリンだった。私見では生涯独身のブラームスにとってウィーンは日常生活の場であって、彼が作曲のインスピレーションを得たのはイタリア、ザルツカンマーグート、スイスの非日常の中だったと確信する。そのひとつ、3年のあいだ近郊に住んだヴィースバーデンの森を歩いていて僕はいつもそう感じた。

この曲はウィーン風演奏が讃美され僕も長らくそう思っていた。しかしブラームスはこの五重奏がウィーンで称賛の嵐となると「三重奏の方が好きだ」と逃げている。なぜだろう?ウィーンの人たちがこれを好んだのは事実だ、しかしそれの何が悪いんだろう?彼は元来皮肉屋でシャイなひねくれ者だが、単にそれが原因だったのだろうか。

1891年作曲のクラリネット五重奏曲では、第3交響曲では濃厚に現れ、第4交響曲(1885年)では周到に回避され隠蔽されたロマン的情動への明白な回帰がある。前者はヴィースバーデンで惚れてしまったヘルミネ・シュピースへの感情であり、こちらは何だったかはどの文献でも明らかでない。ミュールフェルトの演奏が何かを触発し、第2楽章で爆発し、ハンガリー舞曲で試みたジプシー音楽への接近すら感じさせるのに。

そういうものの裏にあったもの、深層心理に沈んでいたもの、それが公衆に知れてしまうのを彼は恐れたのではないか。ラヴェルが「亡き王女のためのパヴァ―ヌ」が評判になってあわてて隠した何物かのように・・・。ブラームス博士もなにかの情動に操られ、それを自覚し、それを隠しながら生きたのかもしれないと思う。その人間味こそ彼の本性であり、魅力の源泉であり、彼の音楽はそれの吐露と隠そうとする仮面の相克だと僕は思っている。

クラリネットの大家、カール・ライスターはこう書いている。

ブラームスはその音楽を理解するために、長い時の流れを必要とする作曲家であると思います。彼の音楽が表現している内容は、自分の人生を通して体験しなければ理解できないような要素を多く含んでいるからです。

とすると僕はやっと作品120のクラリネット・ソナタがわかる年になったのだ。

 

ヴラディミール・ルジーハ(cl) /  スメタナ四重奏団

552スメタナ四重奏団。べたべたしたいい加減な歌でごまかさず、第1楽章の歌とスタッカートを対比しながら曲想を掘り下げる姿勢は真摯でブラームス演奏としてまことにふさわしい。彼らは暗譜で弾いているのである。第2楽章がムード音楽になる演奏は最低だが、これをお聴きいただきたい。ルジーハの独奏。僕は「クラざます!」と出しゃばったのが御免で、彼のくすみがかかった音とスメタナの絹のような音の融和こそ理想。いわばチェコフィルの五重奏だが古雅な品格で群を抜く。

 

カール・ライスター(cl) /  アマデウス四重奏団

UCCG-5023_PlC_extralargeルジーハ盤は厳しい聴き方をすると少し音程が甘い部分がある。味わいより音楽の完成度を求める時は上記ライスターのこれ(67年盤)だ。カール・ライスター(1937-)はベルリンの、アマデウスQはウィーンの音楽家だがソロとカルテットの音楽性の相性は良く、ウィーン風というよりもベームが振ったウィーン・フィルの剛直なイメージであり、そこに趣味の良い深いロマンの彩りを添えたような名演だ。ライスターは7種類も録音したが僕はこれがベスト思っている。

 

レオポルド・ウラッハ(cl) /  ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団

51PWkyjfqhLウィーン風とはこういうものだ。ウラッハ(1902-56)は音楽院の教授で短気であり、生徒に机を20発(!)もぶっ叩いて怒ったという。若い頃の僕でも5発ぐらいだから負ける。口の中に楽器を差し込まれて死にかかった生徒もいる。ウィーン風はそうやって叩き込まれている。知られていないが舞妓ちゃんもそうであり、伝統芸事の奥義は畏敬すべきものなのだ。四重奏の方が甘めで僕は趣味でないが一度は聴いておくべき演奏と思う。

 

ホアン・エンリク・ルナ (cl) /  東京クヮルテット

685日本人音楽家で真のワールドクラスというと小澤征爾、内田光子、そしてこの東京クヮルテットぐらいだろう。Deutsche Grammophone、Philipsのアーチストとして録音を多発するというのは野球ならメジャーでスターになるようなものだ。ジュリアード出身の彼らの解散が実に惜しく僕はベートーベンを全部買った。このブラームスもべたつかず明晰、しかし馥郁たるロマンがありまことに趣味が良い。第2楽章の表現として僕の理想に近く、最後の慟哭もきわめて印象的だ。

 

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ブラームス ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15(原題・ブラームスはマザコンか)

 

 

 

 

 

 

 

 

ブラームス 交響曲第1番(その2)

2014 MAR 17 13:13:29 pm by 東 賢太郎

1985年にアテネへ行って初めてパルテノン神殿に立った。その時に、強い陽射しのなかどういうわけか、これがブラームスの1番だなと思った記憶がある。

「1番は強靭な鉄骨、鋼(はがね)によって組み立てられた音楽である。第1楽章主部アレグロはその鋼鉄の建造物が金属摩擦で高音に加熱される様相を呈した音楽であり、柔らかい音質は一切排除されねばならない。」と当時の日記に書いてあった。

「高温に加熱される様相」。僕が整った演奏ではなく乱れていてもライブを選好するのはそれを求めるからだ。1番を21年かけて仕上げたブラームスの前に立ちはだかったのはベートーベンである。第1楽章には「運命主題」のリズムが鳴り、終楽章は第九を想起させる主題が弦で奏されるが、そういう表面の造りよりも「鋼鉄」のパーツでできているというベートーベンの奇数番の特性を継いだところがより本質的な1番の個性だと僕は思う。

先人の偉業の継承を成し遂げたと判断したのだろう、2番以降に鋼鉄の音楽はもう書かれなかった。1番で名演を残した指揮者が2-4番でもいいとは限らないのはそういうことではないだろうか。フルトヴェングラーは1、4番で神品を残したが2、3番ではいただけない。ミュンシュの2番は熱さで勝負の音楽になってしまう。ベートーベンの偶数奇数のようなものだろうか。

現在はどれが好きかというと、1番はあまり聴かない方になっている。4曲どれも気軽に聴ける曲ではないが、1番は特にブラームスの気合いがみなぎっているので重い。しかし、1番を知らない人に恐れてもらっては困る。それだけ重いということはそれだけパワーが強力ということだ。ツボにはまった時の感動の大きさということで数々の名曲を思い起こしてみても、1番はクラシック音楽の中でも筆頭格に属するものであることは間違いない。こういう曲に足がふらつくほど打ちのめされる体験をしてこそ、クラシックの本当の魅力、すばらしさというものが実感できるのである。

1番が鋼鉄できた音楽であると書いたが、それは交響曲への挑戦状を仕立てようという肩ひじの張った一種の気合いから来ているように思う。モーツァルトが「ハイドンセット」作曲に見せたそれと似るものだ。しかし、ブラームスの音楽は本質的に非常にロマンティックである。古典の装いでそれを隠蔽するのがブラームスのシャイな男ぶりであり、クラリネット五重奏曲の第2楽章など、これはもうロマンを通り越してエロティックな世界に踏み込んでいる。1番がハガネの形式論理に偏ったのとちょうど同じように、正反対のロマンの方角に向けて彼にしては赤裸々なほどに越境しているときこえる。

そういう音楽はブルックナーには一曲たりともない。「赤いはりねずみ」の逸話は必然のことなのだ。ブルックナーは彼特有の旋律、リズム、和声を駆使して総体的に醸し出す、 ヴァルター・ベンヤミンのいうところの「アウラ」を生んだ作曲家だ。美しい旋律を書いて聴衆を酔わせたり、ワーグナー流の和声でエロティックな陶酔に迷い込ませようという意図はない。旋律は一要素にすぎず、彼の交響曲でそれを一緒に口ずさんだところで音楽の聖域に入っていける気はしないという性質のものだ。どこか凡俗の侵入を拒むものがある。だから聴き手の精神から超然としたところのない、人口に膾炙しようというベクトルの働いたブルックナー演奏というものはまったくのまがい物なのだ。

一方、ブラームスの場合はそうではない。「歌える」のだ。それは旋律がそういざなう場合もあれば、和声の流れにのる場合もあるから一概に「歌」とはいえないものだろう。彼の和声は単純ではないが、どんなに知らないところへ連れて行かれてもいつもその先には安心して家に帰れる道が見えてくる。そっちへ向かうのがまるで母に教えられた道であるかのようにいとも自然なのだが、それでいて周囲を見渡すとやはりそこは初めての土地なのだ。僕のように何百回もその道を行った者であっても、そこに立つとまたそう感じる。だからブラームスのファンは多いのであり、僕は397枚も彼のシンフォニーを集めてしまうのだ。

そういう味わいは、おそらくブラームスの音楽だけがもたらすものだ。「歌える」というのは、心地よく母のいうままに従うということであって、オペラをききながらアリアを鼻歌でなぞるのとは全然ちがう。それがどのパートかというとフルートであったりコントラバスだったりホルンだったりするわけだが、僕の場合は鼻歌か口笛でそのパートを通じて全体に「唱和」することになっている。それで音楽に迎え入れられ合体するという経験ができ、アンサンブルの一員であるかのように無上の喜びを得られるという感じなのだ。

1番でお示ししよう。山あり谷あり。ベートーベンの交響曲という霊峰に挑む気概に満ちたこの曲はいばらの道をつき進み、いよいよハイライトである第4楽章のアルペンホルンに到達する。ここが全曲の頂点であり、そして山の頂からブラームスはクララへ「何千回も挨拶」を送るのである。先人は超える対象、クララは向かう対象であり1番はこの部分を分水嶺としている。キスでなく挨拶であるところがいかにも奥手の彼ではないか。それが清澄なフルートにうつり、やがて充足感に満ち満ちたハ長調の弦楽合奏の主題がやってくる。第九に似るといわれるものだ。この主題をぜひ「歌って」みてほしい。

ぶら1

おそらく10人中9人のかたはヴァイオリンのメロディーを歌うのではないか。僕もそうだった。ところがこの地点を何百回も歩いていると、ある時から僕はヴィオラを歌うようになっている。第九のこれに似た喜びの歌の弦楽合奏でも僕はチェロを歌っているが、この部分の両者の近似は単にメロディーが似ているというよりも、対旋律まで歌えてしまう「書法」の近似であると思う。こういう音楽を書くことができたからブラームスはベートーベンに対峙できる交響曲作曲家と認められたのであり、何百回聴いても飽きのこない秘密はこういういう細部にひっそりと隠れているのである。

ブラームスに興味ある方、これから極めてみたいと思われる方は、とにかく何度も聴いて全曲を一緒に歌えるまでなってしまうことを心から推奨したい。ブラームスの曲は実はそれが難しくない。母に導かれる道だ。おそらく誰にとってもそうであり、だから誰でもできるはずなのだ。そしてそれができるようになった時の喜びは、これはもう半端なものではない。1番のみならず4曲とも人を感動させるパワーは折り紙つきの強力な音楽なのである。「感動して打ちのめされる」という経験をあなたは必ず味わうことができるだろうし、クラシック音楽というものの底知れない魅力をきっと知ることになる。僕がそうだったように。

以下、僕のリストで二つ星のCDの補遺である。

スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー / ハレ管弦楽団

1373101453_brahmsymp1弦のバランスが素晴らしい。鋼鉄と呼ぶには誠にしなやかで、決め所は充分な硬度がある。銀色に光る軟鉄のようだ。フレージング(語り口)が自然でなめらかであり、ppのニュアンスにも富む。第2楽章はオーボエ、ホルンの呼吸が聴かせる。音楽が生きている。ぶっきらぼうな朝比奈とは別な音楽だ。第3楽章の鳴りきった管の音程の見事さ。作曲家の耳だろう。ppには思わず息をひそめる吸引力を感じる。終楽章はやや弦の薄さを感じるのが残念で、これがコンセルトヘボウのようなオケだったらとない物ねだりしたくなる。ホルンの強調など、後年の演奏でより顕著になる理屈っぽさのの萌芽がみられ、それが好悪を分けるだろうが僕はそれでも高く評価している。

 

マルクス・ボッシュ / アーヘン交響楽団

COV30704徹底的に楷書風のライブ演奏である。ロマン的なブラームスを求める聴き手にフレンドリーな指揮ではない。ベートーベンでいえば1,2,8番あたりを古楽器演奏を取り入れた現代オケがやる感じといえば近いだろうか。しかし珍しいだけではない。才気煥発な指揮にオケが敏捷に反応しており、技術的にもきわめて安定している。第1楽章の小気味良い運動性は聴きもので、ブラームスの組み立てた鋼の構造を設計図ごと見せられるよう。フルトヴェングラーの呪縛から最も解き放たれた解釈であり、とにかく胃にもたれない。スコアを忠実に鳴らせばこんなに感動させてくれるという見本のような演奏であり、これはこれで建築構造の理にかなった見事さを実感する。だからパルテノン神殿なのだ。i-tuneで買える。

 

(補遺2月15日)

アルトゥーロ・トスカニーニ / フィルハーモニア管弦樂団

toscanini52年9月の伝説的ブラームスチクルスのライブ。冒頭の怒涛のような勢いは圧倒されるばかり。現代も激しい指揮をする人はいるが、こういう苛烈な、激しい緊張を伴った音は出ないだろう。まさに灼熱の鋼の1番だ。音楽演奏とは奏者の人間性の開陳であり、指揮者は音を引き出しているのでありそれを意識しているわけではないだろうが、恐らく、不思議とそういうことになってしまうという性質の行為と思う。すなわち彼はきっとこういう人なのであり、大指揮者トスカニーニを知る意味で代表盤のひとつといっていい。

 

 

(未完)

 

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ブラームス ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15(原題・ブラームスはマザコンか)

 

 

 

ブラームス 交響曲第1番ハ短調作品68

2014 MAR 16 11:11:07 am by 東 賢太郎

昨日は本当に久しぶりにブラームスを聴いた。交響曲第1番を大好きなシャルル・ミュンシュで。僕は彼の交響曲4曲だけでLP、CD、テープを合計397枚もっている。横浜の鉄道模型博物館の原さんもすごいが、ブラームスに関しては僕も負けない。

それなのにどうしてご無沙汰だったのか。以前に書いたがモーツァルト・ブラームス・サイクルというのが僕にはあって、モーツァルト家に行っているときはブラームス家はお留守になるし、その逆も同じことになる。ところが今はモーツァルト家に入りびたっているという感じもないから、自分の中で何かが変化したように思う。やっぱりアラカンかな。

ブラームスとブルックナーはライバルだったし作風は対照的で、お互いのシンパたちが相手を認めず仲が悪かった。ところがご両者とも肉団子が大好きで、ウイーンの「赤いはりねずみ」(Zum Roten Igel)という同じホイリゲ(料理屋)の常連だった。お互い顔を合わさないようにしていたが、友人が仲をとりもって一度だけ2人を同じテーブルに座らせたことがある。「私はいつもこれだ」「私もだ」「この団子こそが我々の共通点でしたな」で会談は終わったらしい。

この話は大好きだ。一家言を成した男とは実にこういうものだ。こういう人達でなくてはああいう交響曲が生まれてくるイメージなどとうてい持てない。余談だが佐村河内という男はこういう雰囲気をうまく演じていたと思う。髭も効いていた。だから皆だまされた。女なら相手を無視はできても何か目や口で空気に反応するだろうからこういう逸話が残ると思えない。自分というものがある男はというと、爬虫類みたいに無反応なのである。

どうして大作曲家が男ばかりなのか、理由はいろいろあろうが、この逸話はある一面を雄弁にもの語っているように思う。女性に叱られるのは覚悟の上で書くが、ブラームスもブルックナーも、まさしく「男の音楽」なのである。男のためのではない、男のサイドからのという意味である。女性にわからないとまではいわないが、ユニセックスなショパンやリストみたいな音楽とは水と油の要素があると強く感じる。

この2人がオペラに目もくれなかったのは興味深い。男だけのオペラはない。モーツァルトはオペラで女性を描くのがうまかった。ショパン、リストがピアノで熱狂させたのも女ばかりというイメージである。一方、お二人の女声への音楽は禁欲的だ。私生活においても、ブラームスは年上、ブルックナーはかなりの年下の女性好きだったが、2人とも結局独身だった。ブラームスの年上の人はクララ・シューマンだった。先輩の奥さんだ。

交響曲第1番の第4楽章に出てくるアルペンホルンを模した主題は、クララの誕生日を祝う手紙の中で「高い山から、深い谷から、君に何千回も挨拶しよう」という歌詞が付けられている。ブラームスはこの曲を作るのに21年もかけているのだ。この真摯さ、入念さ。真剣になった時、男はコピペなど絶対にしない動物だ。化粧までする最近の男はどうだか知らないが、あまたある音楽の中でも、この曲は男というものの本質、本性を抉り出したような存在なのである。

僕が最初に覚えたブラームスの交響曲はこの1番だ。高1の時に買ったミュンシュ/パリ管のLPだった。 ちっともいいと思わなかったが、カラヤン/ウィーンPOの千円盤が出たのでまた買い、だんだん耳になじんだ。そして決定打となったのが大学2年の年に出たフルトヴェングラー/ベルリンPO(52年2月10日ライブ)である。体に電気が走り、僕のブラームス遍歴はその日から始まった。

所有する103枚のうち三ッ星がついているのは上記フルトヴェングラーとベーム/VPOの79年東京ライブだけ。二つ星はミュンシュ/BSO、トスカニーニ/PO(52年9月29日ロンドンライブ)、クレンペラー/ケルン放送O(55年10月17日ライブ)、ギーレン/BPO(78年ライブ)、カラヤン/BPO(87年盤)、カラヤン/BPO(88年10月6日ロンドンライブ)、スクロヴァチェフスキ―/ハレO、朝比奈隆/大阪PO(94年11月9日ライブ)、ボッシュ/アーヘンSOだけだ。

 

フルトヴェングラー/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(52年2月10日ライブ)

41NH5HDH2YL__SL500_AA300_ブラ1の原像となった強烈なインパクトをもらった演奏である。76年に新譜で出たLPはこのジャケットではないが音も良く、至宝を手にした喜びがあったことを思い出す。どこがどうというレベルの演奏ではなく、初めてアテネでパルテノン神殿の柱を見上げた時のような偉容と均整感に圧倒されるばかり。第1楽章や終楽章の個性的なテンポ・ルバートは楽譜にないが、それがないともの足りないほど曲想にぴたりと決まっており、全曲を高所から俯瞰した必然を強く感じる。フルトヴェングラーの全録音の中でも1、2を争う名演中の名演であり、この曲が好きな人、これからを聴こうという人には迷わず一聴をお薦めする。

クラシック徒然草《フルトヴェングラーと数学美》

 

シャルル・ミュンシュ / ボストン交響楽団

51FSG-Xf6OL__SL500_AA300_パリ管との新盤の世評が高いがどう聴いても弦が薄い。管が明るすぎる。ドイツのオケと比べてもわからないなどと書いている評論家がいるが、どんな装置で聴いているんだろう。このボストン盤はちゃんと再生すればボストン・シンフォニーホールの特等席の音がする。最高にブラームスらしい音だ。演奏も新盤にまったく遜色なく、フルトヴェングラーの陰影はないがさらに剛直でストレートな表情が加わるのが素晴らしい。男のブラームスである。

 

朝比奈隆 / 大阪フィルハーモニー交響楽団(94年11月9日ライブ)

31XAK0390JL__SL500_AA300_堂々たる開始。ティンパニーが効きテンポはかなり遅い。主部も同様で、ここぞという箇所のffの打ちこみは最高。第2主題はさらにテンポを落としてロマンティックだが辛口だ。展開部はオケが先に行きたがるが許さず、その遅さだからこそ生きる「運命主題」を叩きつけてなだれこむ再現部クライマックスの爆発は見事。第2楽章はオケの限界が出てしまい第3楽章の最後の減速はだれるなど気持ちはよくわかるがどことなく素人くさい指揮でもある。終楽章も走らない。一歩一歩大地を踏みしめながら要所で切る見栄。古臭いと言わば言えという頑迷さすら感じる。金管コラールのルバート!こういうことをマゼールのような人がやれば鼻につく芝居にきこえるだろう。そうならないのはシャイな男ブラームスを無骨に描こうというこの親父さんの頑固な執念と不器用さが、人為的なあざとさを感じさせないからだ。誰にもお薦めする演奏ではないが、彼の思うブラームス像に僕のように共感する人にはわかってもらえるだろう。

 

(続きはこちら)

ブラームス 交響曲第1番(その2)

 

ブラームス ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15(原題・ブラームスはマザコンか)

 

クラシック徒然草-庄司紗矢香のヴァイオリン-

2014 FEB 18 19:19:32 pm by 東 賢太郎

 

ユリア・フィッシャー(Julia Fischer)の二刀流 | Sonar Members Club No 

このブログにコメントをいくつか頂戴したのでどうしてかなと思って調べてみると、SMC経由ではなく直接インターネットからこのブログを検索された方だけで1750人おられました。「ユリア・フィッシャー」でググるとwikipediaの次、なんと2番目にそれが出てきて、原語の「Julia Fischer」で検索しても2番目です。こうなるとフィッシャーさん自身の目にもとまるかもしれないし、応援団長みたいな気分です。

彼女のヴァイオリンは大好きなのですが、ただし、あのブログはもともとそういう意図で書いたわけではなくyoutubeを聴いた感想を自分が忘れないようにという程度のものでした。まだ実演を聴いたわけでもないし・・・。そうしたら偶然にグリーグを見つけてしまい、がぜん彼女がもっと好きになってもう一度ヴァイオリンを聴いてしまい・・・という風に出来上がったことを覚えています。面白いことが起こる時代になったものです。

ところで、そこに「ミ」の音の話を書きました。僕のミとシのこだわりはアメリカで1年間チェロを習った時にできました。初めはどうにもうまく取れません。先生のは抜群にきれいなのにどうしてだろうと・・・。それはたぶん自分の楽器がピアノとギターという平均律で転調がお手軽にできる分だけ自然音階の本当の美しさを犠牲にしている楽器だったからだったと解釈しています。平均律は自由な転調を可能にするための人工的音階であり、ドラえもんなら「ラクラク転調マシーン!」なんて名前をつけそうです。本当はチカチカ点滅している蛍光灯が残像現象で目をごまかして「ずっと光っている」ように錯覚させているのと似ています。自然光の方が、当たり前ですが自然であり目に優しいのです。

音楽を「歌う」という表現がよくされますが、僕はピアノで「よく歌っている」という評論家のコメントがどうもピンと来ませんでした。ところがチェロを弾いてみて分かったのです。歌というのはヴィヴラートがかけられるかどうかというよりも、ミとシのようにそのメロディーの背景となっている和声の流れに沿って自在に自然に音のピッチ(高低)を変えられることで生まれるのではないかということを。

もう少し説明が必要でしょう。整数比から求めた自然な音程を純正音程と呼びますが、平均律のミとシは純正音程より高いのです。ところが、例えばですが和音がドミナント⇒トニックと行く場合のシ⇒ドというメロディのシはチェロならある場面では平均律より高めにとってその和音の流れをより強調したり感情をこめたり聴き手に予感させたりという高度な技が発揮できるのです。そうやって「旋律に感情を乗せる」、つまり歌うことができるのです。ここで書いている「歌う」とは、僕の感覚でいえば「和声に深く共感する」もっと露骨にいえば「それにエクスタシーを感じる」ぐらいに書いてしまっていいでしょう。

つまり、この2音を高くとったり低くとったりで、平均律楽器には真似のできない微妙な感情表現、こころの移ろい、切々と訴える人間らしさや恋心のようなものを表現できる。これが「歌」と言われているものの大きな要素となっている感じがするのです。それができるから弦楽器は熱く歌えます。そしてピアノはこの表現手段を決定的に欠いています。だから弦楽器ができる歌というものを単音楽器のピアノができるということはないのです。「良く歌っているピアノ」というのはあたかも奏者がそうしたいという気持ちが明白でそれが聴衆に伝播している状態を第3者が描写したということにすぎず、物理的にはそれがレガートであれ音の連鎖の漸強漸弱であれ、音高(ピッチ)のズレというものには到底かなわないものだと言うしかありません。そのためにピアノ音楽は「ピアニスティック」と後世に呼ばれることになる表現方法を獲得して進化しました。人工音階は人工なりに独自の美があるのであり、それに初めて気がついてそのエッセンス、結晶を抽出した人がショパンだったといっても大きくは間違っていないと思います。

もうひとつ加えますと、モーツァルトは自身がヴァイオリン、ヴィオラの名手でもあり、常に歌手の声を念頭に作曲していたと思われます。ピアニストでもあった彼はもちろん僕が気づいたようなピアノで書く平均律メロディの限界、調性や和声変化に則してメロディの構成音をズラすことができない限界を知っていたはずです。早くにピアノ協奏曲の筆を折ってオペラに集中した理由はここにある気がいたします。これは終生ピアノで思考していたベートーベンとは対照的であり、彼には管弦楽スコアですらピアノ的に発想して書いたような部分があります。ベートーベンがモーツァルトと違って旋律の美しさではなく音楽の構築性を主眼に作曲し、声楽には目立った成果がない理由はそこにあるかもしれません。彼の交響曲のピアノ版はそのままピアノソナタとして聴けますが、モーツァルトのそれは異質なものとして響くのです。

話が飛びましたが、その平均律でミとシを覚えていた僕がサンサーンスの「白鳥」を弾くと、このメロディーがト長調でドーシーミーラーソードー・・・でいきなりシとミがあって、それをちょっと高めにとってしまう感じ。ピアノとはそれで合うんですが、どうもチェロとしては違うんじゃないのという気がだんだんしてきて、これが何度弾いても気にいらないのです。美しくない。ユリア・フィッシャーの「音程の良さ」を上記のブログに書きましたが、彼女の耳の良さはあれだけピアノで平均律の音楽をしていながら、ヴァイオリンを持つと弦楽器世界の音階、音程で鳴らすことができる、そういうことへの賛辞のつもりでした。

そのブログを読み返していて思い出した演奏家がもう一人います。庄司紗矢香さんです。この人のヴァイオリンは非常に不思議で、音があるべき高さでピタッと収まるという意味では音程はあまり良くありません。ところが音楽には説得力があるのです。こういうミとシの取り方が僕はしたかったのかもしれないと思います。ヴァイオリンという楽器の世界の内部で音程、音階が自己完結していて、オーケストラの独奏部として溶け込むというよりも「別個の小宇宙」を作っている感じとでもいいますか、次の和音へ向けて音を取っているので鳴っている時点で合っていないというか・・・感覚の問題でうまい言葉が見つかりませんが。

論より証拠、youtubeで聴いてください。まずチャイコフスキーから。いかがでしょう?素晴らしい演奏です。

ユリアとは全く別の美点が彼女のこの演奏にはあるのです。それはソロ楽器としてのヴァイオリンという楽器がもっている他のどの楽器にもない特質、つまり聴き手の感情をばらばらにかき乱して熱く訴えかける力を強く感じさせる点です。それは例えばG線の激してねばりのある鳴らし方や高音部の陶酔感のある歌、そして汚い音になることに頓着もないボウイングは時に激してごしごしした感じなのですが、それらがぐいぐい心に入ってくる。テミルカーノフも彼女の「濃い演奏」にのせられています。

ユリアは器楽的であり彼女の弾き方で立派なカルテットや合奏団ができますが、庄司はプリマドンナの集まりが合唱団にはならないように、そういうイメージがもてません。この楽器のソロだけが発揮できて合奏にすると消えてしまうもの。そういう魔性があるのです。彼女が優勝したのがパガニーニ・コンクールというのもうなずけます。第2楽章のヴィヴラートのきいた中音部の歌など、けっして僕の好きなタイプではないのですが、ここまで思い切り歌われると魅力に押し切られますね。お茶漬け風味の多い日本人には非常に珍しい、こってり系の強い個性を持った人です。

今度はブラームスです。これもyoutubeにあります。こんなに歌いまくって熱くて骨太のブラームスも珍しい。ここでも音程をはじめとする細部のアーティスティック・インプレッションはユリアより落ちます。しかし彼女は軽率に弾き飛ばして音をはずしている凡庸の奏者と違い、強い共感とパッションが先に立って一音一音に魂がこもっているのが表情から見てとれます。第1楽章カデンツァから終結までの魂が天に上るような恍惚のドラマ!涙が出ました。重音でも歌って歌って粘り気のある音で押しまくります。こぎれいでピッチの合った音を出そうなどという策は一切なく体当たりの真剣勝負。実に見事です。アラン・ギルバートという指揮者もいいですね。北ドイツの頑固者の集まりみたいなオケが心服していい音楽をつけていることも注目です。日本の女の子が彼らを向こうに回して堂々の立ち回り。あっぱれです。何人が弾こうとこれは天下に誇れる最高のブラームスですね。

(こちらもどうぞ)

ブラームス ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品77

 

 

 

 

 

クラシック徒然草-テレサ・テン「つぐない」はブラームス交響曲4番である-

2013 DEC 15 14:14:52 pm by 東 賢太郎

きょうTV でたまたま今年のカラオケで歌われたランキング上位曲でテレサ・テンの「つぐない」をやっていました。この曲は昔からちょっと気になっていました。

つぐない1984年の曲のようです。だから僕はロンドンにいてこれもテレサ・テンもたぶんあまり知らなかったし、そもそも興味がなかった。東京本社に転勤になった90-92年のどこかです。僕の課の忘年会か何かでカラオケに行き、部下の女性がこれを歌ったのは。「えっ、Fさんなに償うの?」ときいてしまうような明るい人で、不思議な笑顔でひょうひょうと彼女が歌った意味ありげな歌詞にみんな爆笑でよく覚えているのです。92年にドイツへ転勤になり、2000年に帰るまでこれを聴く機会はほぼなかったと思います。

海外生活16年の僕にとってカラオケで知ってあとから本人の歌をきくなんてことは日常茶飯事。これもそのひとつで、「つぐない」はテレサでなくFさんの曲だったのです。聴いていきなり気になったのは、とてもstickyでsoulfulな和音です。何ともいえず体にまとわりついてくる。「優しすぎたのあーなたー」のところのバス!これはすごい。弾いてみたい。と思いつつ、いつもカラオケで誰かのを聴いていつもそれっきりで忘れてしまっていたのでした。

ということで家でこれを聴けて思い出したのは僥倖であり、さっそくピアノに向かい、そして驚きました。

これが今も歌われている。なるほど。納得です。耳コピですが和音をコードネームでふってみました。

(Aaug)窓に(Dm9)西陽があたる部屋(Gm)は                      いつも(A7)あなの 匂る(Dm)わ                         (Aaug)とり(Dm9)暮らせば (D)お(Daug)もい(Gm9)出すから         壁の傷(Dm)も 残したま(A7)ま おく(Dm)わ

愛をつぐ(Gm7)なえ(Gm6)ば (A7)別れな(Dm9)けど
こんなおん(Gm9)でも (C7)忘れないで(F)ね
(F7)優し(D7)すぎの (Gm9)なた
(A7)子供みたいな(Dm9) なた
(B♭)あすは人(E7)志に(A7)なる(Aaug)けれ(Dm)ど

コードネームの所で和音を変えます。太字はaug(オーグメント、増三和音)というコードが現れる部分です。augが四か所ではっきりと鳴りますが、ご覧のように、メロディーの通り道でも各所で一瞬だけ鳴っています。augの哀調が全曲を染めあげているのです。それから、下線はメロディの頭が倚音といって三和音からはずれた非和声音の部分ですが、ご覧のように、7度、9度の倚音があちこちに散りばめられています。主音をめぐってさまよいながらフラフラと落ち着くことがない。あーなたー、あーなたー、と2回もあーに倚音でアクセントがつくのは男心にグッと響きます。うまい。もうニクイかぎりです。

この曲はニ短調(Dm)なのに「まーどーにーにしーびがー」という出だしで主音の「レ」が出てくるのは「びがー」からです。そこまでにまずラーファード#-と来て(この部分がaugです)じらされる。さてやっと「レ」が出るかと思いきやまたまたミミ-(倚音)に飛んで、それからやっとレレーが出ます。このうじうじして主音になかなかたどり着かない様は主人公の迷い、切なさでしょうか。彼女が何をつぐなっているのかは明かにされませんが、詩と音楽が見事に融合して女心の葛藤を描いていると思いませんか。

そのぐらいはまだかわいい。この曲を大名曲にした決定打はご覧のようにaugに始まりaugに終わることでしょう。augで終わる曲は?ほとんどないですが、クラシック好きならまず一つ浮かびます。J.S.バッハの最高傑作である「マタイ受難曲」です。曲の最後の最後、ハ短調Cm主和音(ド・ミ♭・ソ)に無理やりシを食い込ませ、あえて強烈な不協和音として血のにじむような苦しみ、心に突き刺さるような痛切な音でマタイ受難曲は幕を閉じます(だから厳密に言えばCm+7であってGaugではないが、バスがcかgかの違いです)。「つぐない」の最後は僕にこの音を思い出させます。

しかし「つぐない」の救いようのない哀調、失っていくものへの後悔のような感情をもっとよく表している曲があります。ブラームス4番第1楽章です。曲頭のシソー、ミドー、ラファ#ー、レ#シーの最後のシーにレ#が残る形でaugがすぐ出てきます。「愛をーつぐ(Gm7)なーえ(Gm6)ばー」の部分も非常にブラームス4番的であります。「明日は他人同士にー」の「同志にー」の所のE7も、ブラームス(ホ短調なのでF#7)にまったく同じ和声的脈絡で出てきます。そして、コーダではまぎれもないBaugが3回痛烈にたたきつけられ、有無を言わさぬ悲痛な終結となる。これもaugで終わる曲なのです。

作曲家の三木たかしさんがそれを意識したのかどうか。亡くなったのでお聞きすることはできないのが残念でなりませんが、(F7)優し(D7)すぎたの(Gm)あーなたー、こんな素晴らしいメロディーを書かれる作曲家にそんな想像はかえって失礼な話かもしれません。三木さんには「津軽海峡冬景色」という名曲もあって、やはりマイナーキーの哀調を生かし切っています。今時のテレビで短調の曲が流れることはまれではないでしょうか。これがもう戻ってこない昭和なんでしょうか。しかし平成の世でも、「つぐない」が日本の女性に広く歌われ愛されているのはなにかほっとする気もいたします。ちなみに娘も好きだそうです。

最後に、 これを歌ったテレサ・テンさんは外省人であった軍人の娘で4種の中国語、日本語、英語、マレー語、フランス語を話せたそうです。台湾の国民的歌手、アジアの歌姫として国内外で一世を風靡したのに気取りのない人柄だったそうです。彼女をほとんど知らず、95年に亡くなったときもニュースとして淡々と聞いただけ。今初めてじっくりと聴きました。透明なのにあたたかくて癒される声です。何となくずーっと聴いてしまいました。何とも気の毒なことに旅立たれたのは42歳だった。

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