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カテゴリー: ______ブラームス

クラシック徒然草-ユリア・フィッシャーと楽天マー君-

2013 NOV 6 13:13:28 pm by 東 賢太郎

ユリア・フィッシャーさんについては書きたいことがたくさんある。驚いたことにこれが8歳の彼女だ。

まず少女の堂にいったうまさに唖然とするわけだが、それだけではない。もっと驚いたのは彼女の音への厳しさだ。音というものが音楽を生成し、人のこころを打つのがどういうことか、この少女は知っている。そのために耳元でどういう音が響かなくてはならないかを。僕はそのようなことをカーチス音楽院できかせていただいたチェリビダッケの講義で知った。しかし彼女には生まれつき当たり前のこととして備わった感性のように見える。あえてそれを音楽哲学と呼ばせてもらうなら、この8歳の子には哲学があるのだ。驚くしかない。

このブラームスの凛とした入りを聴いてほしい。

この揺るぎのないフレージングとピッチ。高原の山肌に湧きでる清冽な泉だ。それも軟水ではなく硬水の。先日N響で聴いたライブとは雲泥の差だ。腕前ではなく演奏者の音楽観や哲学がである。彼女のソロが出るやオケのおじさん方に電気が走り、スイッチが入っていくのがわかる。ほんとうにすごい。

ユリアは pp にも電気を持っている。みな今日はいっちょうやるしかないなという空気になる。第1楽章コーダの静かなところを聴いてほしい。なんという見事な高音だろう。西の天空をオレンジにそめる夕陽。人生のたそがれの慕情をぎりぎりゆっくりのテンポで歌う彼女の眼はどこか「入って」しまっている。第3楽章の全奏がバシッと決まると彼女はオケににこっとする。「いいね」のサインだ。オケはまたその笑顔がほしくて燃え、いい音を出してしまう。指揮者もオケも彼女のしもべだ。なんという大器、大物だろうか。

こちらで同じブラームスをヤコブ・クライツベルグ指揮ネザーランド・フィルでより良い条件で聴ける。

http://youtu.be/S8EfvCqf7gs

ユリア・フィッシャー(Julia Fischer)の二刀流 で「同曲トップを争う名演」と紹介したチャイコフスキーと指揮者は同じだ。残念ながらここではオケがやや硬くて小じんまりしており、フィッシャーもさすがにブラームスでは表情がまだ若くて同曲トップとはいかない。しかしいずれ彼女はこの曲にふさわしい大人の奥深さと風格をまとった演奏を聴かせてくれるに違いない。

話は飛ぶが、先日、楽天のマー君がなぜ負けないか考えていた。日本シリーズの投球を見ていてわかった。技術だけではない、彼の「気」だ。160球投げても翌日志願して敵をやっつけに出てくる。この「気」がナインにもベンチにも伝播する。ナインはみんなもと野球少年である。野球好きの血が騒ぐ。彼が投げたら変な試合はできないぞという電気がみなに走る。「勝てる」「勝つぞ」となる。だから勝てるのではないか。球の速い投手はいくらもいるのにどうして彼だけ連勝したかというと、そういう「気」を発することができる人がほとんどいないからだ。そしてそれはユリアの持っているものと、とても似た気がするのである。

そう考えるにつけ、日本の演奏家やオケというのはどうしてあんなにクールにお仕事みたいに弾くのだろうと思う。うまいのだが「気」が出ていない。楽しくないのだろうか。女の子にはピアノというのが本邦の定番だ。女性がピアノを弾けるというのはいいものだが、別に音楽にジェンダーはない。ピアノが弾けないと嫁にいけないわけでもないし、ピアノがうまくなっても音楽好きになるとは限らない。一流音大ピアノ科に入ったが田園交響曲を聴いたことがない子に会ったこともある。僕が驚いたら「そうなんですか?周りも似たもんですよ」と逆に驚かれた。

なぜ驚くかというとそういうことは野球では絶対にないからだ。草野球だってやってる子はすべからく野球が飯より好きだ。外野手だからピッチャーのことは知りませんなどということはない。だからその頂点にまで行き着いたプロ選手が、実は親にいわれてやっただけです、本当は興味ないんですがなどということは100%ない。彼らは勝ちたくて試合している。だからいいプレーが出る。グラウンドで客を感動させようとショーを演じるわけではないが、野球の好きな客はいいプレー、自分ではできないプレーが見たい。だからそれを見て感動するのだ。 先日行った日本料理「くろぎ」の黒木氏は「舌が鈍るから夜は食べない」という。自分が感動できないものは客に出したくないということだ。人を感動させることを職業とするプロいうものはそういうものだ。

ピアニストだから交響曲は知りませんというのはどうもおかしい。練習が忙しくて聴く暇がない?そんなことはないだろう。今どきはi-phoneで移動中でも聴ける。要は興味がないということだろう。田園交響曲に感動しない子が悲愴ソナタには感動できるとは、どうしても思えないのだ僕には。好きでもない子が弾いたピアノが人を感動させるのだろうか?よくそこまで練習したね、お上手お上手と感心はされるだろう。しかしそれは芸術創造というよりもミスのないことを良しとする銀行やお役所の仕事に近い。

これはモーツァルトのk.364(ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲)だ。

オケの前奏部分をユリアは一緒に弾いている。楽しそうに!もうソロが出る前から「気」が出ているではないか。ヴィオリストもそれを受け取って同じオーラの波を立てる。彼がちょっとしたミスをしたらユリアが「あっ、やっちゃったね」と笑いかける。彼女がリーダーなのだ。それがまたいい「気」を出す。そしてそれがオケに伝わっておおきな波となっていくのだ。楽員はみんなオンガク少年、少女だった。ハートに火がともっていく。見ているだけでこちらも楽しくなる。モーツァルトの喜びが伝播しているのだ。これが音楽というものだ。

マー君も並ぶもののない投手として金字塔を立てたが、ユリアさんはどうだろう。まだ若いが、僕は彼女が21世紀のハイフェッツになると固く信じている。

 

 

 

ブロムシュテットのブラームス

2013 SEP 28 1:01:22 am by 東 賢太郎

今年は面白そうなものを適当に聴くようにしている。今や残された数少ない巨匠となった感のあるヘルベルト・ブロムシュテットのブラームスのヴァイオリン協奏曲と交響曲4番を聴いた(N響)。

ブロムシュテットは比較的好きな指揮者であり、本当は2,3番が聴きたかったが、あいにく出張に重なった。だからちょっと期待はあった。座席はいい。一階正面中央9列目だから常識的にはこのNHKホールで最上級の一角のど真ん中であった。前半の協奏曲が始まると、しかし、だめだった。トゥッティが、特にヴァイオリン群がにごる。はっきり言うが、高音の強奏がとてもきたない。ブラームスを聴くのに最も聴きたくない音だ。対向配置の第2ヴァイオリンはステージ後方に向けて発音するが、それが奥の壁に反響するのがこの座席だと聞こえて微妙な時間差が気になる。おまけにフランク・ペーター・ツィンマーマンのヴァイオリンは音程が悪い。速い部分とはいえ、どうしてああいういい加減な音を取るんだろう。第1楽章コーダの夕映えはあっけらかんと通り過ぎた。第2楽章のオーボエはどこか即物的だ。終楽章は速目のテンポで見栄も切るがどうも心を打たない。

4番の方は少しましだったがやはり弦のピッチのズレが微妙にひずんだいやな高音の強奏は同じだ。こういうストレスのたまる音をカネを払って聴く意味があるのかと思ってしまう。くどいようだが、ここはS席のしかも前寄りの中央も中央のベストロケーションなのだ。ホールなのかオケなのか指揮者なのか?よくわからない。第2楽章はトランペットがオルガンのように隠し味で和音に加わるが、その音の入りが無神経に大きいから存在を感じてしまう。ぞんざいである。第4楽章冒頭の入りは今度はオーボエが出てしまう。ほんの微妙なタイミングなのだが、そういう細かいところに厳格でないとブラームスはだらしない感じがしてしまう作曲家である。ブロムッシュテットはそういうことに厳しいと思っていたのでとても意外だ。全体的には彼らしい引き締まった演奏コンセプトだったが、それに徹すればいいのに熱演風にもっていこうとしてアンサンブルが雑になる。なんとなくゲネプロという感じであった。最後の和音がスコア通りに切りあがると、間髪入れずの盛大なブラヴォーと大喝采が続いた。

 

クラシック徒然草-僕の好きなウィーン・フィルのCD-

2013 MAY 18 9:09:04 am by 東 賢太郎

「僕の好きなウィーン・フィルCD」の番外編です。

リヒャルト・シュトラウス 「ばらの騎士」 ハンス・クナッパーツブッシュ指揮      (55年11月16日、ウィーン国立歌劇場こけら落とし公演)

僕が一番好きなオペラCDのひとつ。ばらの騎士はチューリヒ等で3回、そしてザルツブルグ音楽祭ではカラヤンとウィーン・フィルで聴きました。しかしこのCDのライニング、ギューデン、ユリナッチ3人の女声の蠱惑にまさるものではありません(特に僕はユリナッチが好きなので)。そしてクナです。練習嫌いで好き勝手な演奏をしていたイメージがありますが、シュトラッサーによるとすべて暗譜しており高度な指揮技術があって振り間違えたことは一度もないそうです。なぜスコアを置いて振るのかと尋ねられたら「僕は楽譜が読めるからね」と答えたのは有名です。「皆さんはこの曲をよく知っています、私も知っています。では何のために練習しますか」と言って帰ってしまった逸話も有名ですが、その時の公演がこれです。

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練習場が響きの異なるアン・デア・ウィーン劇場だったので「諸君も私もここで練習することを望んでいない。ではゲネプロで会いましょう」だったという説もありますが、僕はこの説が事実で、面白おかしく尾ひれがついたのが通説と思います。R・シュトラウスを得意としたクナは56回も薔薇の騎士を振っていて、おそらく当時この曲を最も知り尽くした指揮者でした。オケと女性歌手3人は前年にエーリヒ・クライバーとこれを録音しています。だから合わせるのはゲネプロで充分で、むしろクナは本番では良い流れをつくって自発性、緊張感を重視したのだと思います。そして結果はまさにそうなっています。ライブなりのアンサンブルの甘さや声のうわずりはありますが、それこそクナが望んだものでしょう。スタジオできっちり整理された演奏よりよほど面白く、今そこでこの曲が無から生み出されているのに立ち会っているようです。録音も、とてもなまなましく、絶好調かつ貴族的なウィーン・フィルの音が聴こえます。オーケストラピットに近い特等席で聴くよう。なんという贅沢でしょう。この奇跡的な録音が残っていたことを天に感謝するのみです。

 

シベリウス交響曲第4番、交響詩タピオラ ロリン・マゼール指揮

ウィーン・フィルに春の祭典をやらせたのはショルティが最初かもしれませんが、録音したのはマゼールが初めてです。そのレコードが出た時は興奮しました。大学時代です。しかしワクワクしてレコードをかけてみると祭典フリークの僕としては極めてロースコアのマンガ的演奏。ねこが無理やりお手をさせられているのが面白いだけの二級品でがっくりきたのを覚えています。以来一度も聴いていません。最後の20世紀巨匠のひとりマゼールは昨年N響に来て法悦の詩(スクリャービン)をやりましたがオケが良く鳴るなあ(これは立派)というだけのものでした。しかし8歳でニューヨーク・フィルの指揮台に立ちモーツァルト以来の神童と言われたこのロシア・ユダヤ系アメリカ人指揮者は若い頃にすごい録音をいくつか残しています。1963年、彼が33歳のときに録音したこのシベリウス交響曲全集は今でもウィーン・フィルによる唯一の全集ですが、その中の4番とタピオラを初めて聴いたときの衝撃は一生忘れません。41D9C9A1ZHL__SL500_AA300_

このオケにとってシベリウスの4番は春の祭典以上に共感のない曲でしょう。しかしこの演奏は最高に素晴らしい。鳴りだした瞬間から得もいえぬ緊張感で金縛りにあい部屋は極北の雪原に様変わりします。氷が張りついたような冷厳なスコアなのですがこんなに人の息吹を感じさせない大自然に放り込まれたような寂寞感を音楽から感じた経験は一度もありません。しかし灰色一色の水墨画的風景かというとそうではなくウィーン・フィルの音彩がくっきりと浮き出た強いメリハリと自己主張のある構造的な演奏なのです。相容れないものが同居している。マゼールとウィーン・フィルという別々の個性がぶつかり合って非常に微妙な均衡のもとに一期一会で成り立った奇跡的な演奏です。交響詩であるタピオラはより明確に情景を喚起します。樹氷の森の中、突風に舞いあがった雪が粉のようにきらきらと陽光に輝きながら落ちてくる半音階フルート・パッセージ!世評の高いオーマンディーの演奏と聴き比べれば僕の言いたいことがお分かりいただけるでしょう。これは映画館かディズニーランドで見る霧氷の景色です。部屋は暖かいのです。ちなみにマゼールはピッツバーグ響とシベリウスを再録していますが、極北の風景と気温は消えています。

 

 

ブラームス交響曲第2番 フェレンツ・フリッチャイ指揮

48歳で白血病で亡くなったハンガリーの名指揮者フリッチャイは死の2年前にザルツブルグ音楽祭でイドメネオを振りましたがそれが好評でウィーン・フィルとの追加演奏会が開かれました。そのライブがこれです。第1楽章からフリッチャイの声(歌?)が聴こえ音楽に没入しているただならぬ雰囲気です。第2主題はテンポを落としてじっくり歌い抜きます。第2楽章中間部のチェロ主題の呼吸の深さ!音楽は止まりそうなほどに心がこもり、こんなにロマン的なこの楽章の味わいはめったにありません。第3楽章はオーボエソロを始めウィーン・フィルの魅惑的な木管がちりばめられ至福のひと時です。第4楽章のトゥッティの入りは全楽器が息をひそめて飛びかかる緊張感がすごく、フリッチャイの気合いを入れる声が聴こえます。

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フリッチャイがウィーン・フィルを振った録音も珍しいのですが、さらにこの演奏、ほとんど練習していないぶっつけ本番という様子で、気合いが入りすぎ気味の棒にウィーン・フィルが必死に合わせているという意味でも珍しいものです。ということでこのオケとは思えないミスがあります。少々はいいのですがコーダの金管のミスだけはいただけなく、この曲をまだ覚えていない方にはおすすめできません。あくまで通のかたに第2,3楽章を聴いていただきたい。

 

ハイドン 交響曲第100番「軍隊」、101番「時計」、104番「ロンドン」            モーゲンス・ウエルディケ指揮

市場にはLPしかないようで恐縮ですが買う価値があると思います。ヴァンガード録音で契約上ウィーン国立歌劇場管弦楽団と書いてありますが、これがウィーン・フィルと同じものであることはもう拙稿でお分かりでしょう。ハイドンはこのオケにとってお国ものであり誇りでもあります。ハンブルグ生まれのブラームスは交響曲88番の第2楽章を聴いて自分の交響曲の緩徐楽章はこのように聴こえなくてはならないと言ったそうですが、ソナタ形式音楽の父としてだけではなくウィーン的な音楽情緒の範もそこに見出していたのではないでしょうか。そのようなチャーム、ウイット、ユーモアが堅固なソナタという宝石箱におさめられてきらきらと光り輝いているのがハイドンの音楽なのです。

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ウェルディケ(1897-1988)は作曲家ニールセンに学んだデンマークの指揮者で、ハイドン学者を義理の息子に持つハイドン演奏の大家です。ウィーン流の優雅、流麗さなどどこ吹く風でティンパニを強打し、ベートーベン奇数番号につながる自己主張を見せる104番(ロンドン)が僕は好きで、こういう骨太で彫の深い演奏をウィーン・フィルにさせたウェルディケの手腕に拍手です。オケの方もバリリの頃の色合いを残したコクのある音が懐かしく、タテにそろわない合奏のバランスも古風です。アンサンブルが交通整理されてきれいではあるがどこか蒸留水のように味気ない現代オケのハイドンへのアンチテーゼです。

 

ベートーベン交響曲第3番「英雄」 カール・ベーム指揮 

フルトヴェングラーは楽譜の背後に自分が読み取ったものを重視し、その表現のためには楽曲の構築美は従属的となる場面が多々ありました。ベームにそれはありません。あくまで音楽自体の持つ自然な美に忠実であろうとする意思を感じます。したがって、ドイツ音楽において構築美というものは美の重要な要素ですから、それを従属的に扱うという選択肢はないのです。それがもの足りない人には「ベームのスタジオ録音はつまらない」と評されましたが、それはない物ねだりというものです。先日TVで、宮大工の名匠が、弟子が一人前になるには「10年毎日鉋(かんな)の刃を研ぐことのみ」と言っていたのを見てベームを思い出しました。職人気質の頑固おやじだったベームは指揮者に肝要なのは「音楽の常識だ」と言い、815その常識に添うようオーケストラには厳しい練習を課してウィーン・フィルにも恐れられていました。しかし幸いなことにベームの持っていたドイツ系音楽演奏の常識というのは、私見ではフルトヴェングラーやカラヤンのそれよりずっと普遍的であり、また、現代の指揮者があえて構築美を前面に出そうとするような場合に感じる力こぶや作為もありません。今やろうとするとそうなってしまうものが「当たり前」という良い時代だったのであり、その時代の大らかさも感じる演奏で、練習が厳しいと言っても紡ぎだされる音楽は骨ばった北ドイツ風ではなくオーストリア風の流麗でチャーミングなものです。フルトヴェングラーには「恋人」だったウィーン・フィルはベームには「正妻」がふさわしいでしょう。これは最晩年にそのウィーン・フィルで録音したベートーベンの交響曲全集(上)のエロイカです。この全集、田園ばかりが名演とされ有名ですが、51ZIrYXx0wL__SL500_AA300_このエロイカこそがムジークフェライン大ホールにおけるウィーン・フィルの音を見事にとらえ、その音響、残響、両者のブレンドが 「要求」 する最良のテンポとダイナミクスで演奏されている理想的な例としてぜひお聴きいただきたいものなのです。あの名ホールに聴衆を入れずに演奏するとこういう音だろうという絶妙の音です。このテンポが「遅い」のではありません、この音だとこのテンポになるというのがベームのいう「音楽の常識」なのです。ホームグラウンドでのウィーン・フィルを知り尽くした指揮者のもと、オケは盤石な演奏で応えています。百花咲き誇るあでやかな木管、コクのあるウィンナホルン、深い森のような弦、もしこれが良い音で聴こえないようなら再生装置がクラシック音楽と合わないと思われた方がいいでしょう。録音技術がベームに間に合ったのを感謝したいと思います。一つだけ、オタクレベルの話を記しておきます(一般には無視して結構です)。非常に微細な差ではありますが、右のKarl Bohm Edition(日本プレス盤)はドイツプレス盤と比べると音のバランスが良くありません。同様のことは高音質を謳ったブルーノ・ワルターのソニー・リミックス盤でもあり、かなり古い録音に許容度を持った設定になっている僕の装置でも高音のぎすぎすしたものでした。これを初めて聴いたらワルターを嫌いになる人もいるでしょう。それほどではありませんが、この日本盤もできれば避け、中古でもいいのでドイツ盤を探された方がいいでしょう。

PS

ベームは1977年6月にFM放送があったシューベルトの8番、9番のムジークフェラインでのライブが素晴らしく感動的で、天国からの響きのようで、いつまででもひたっていたい名演でした。これはカセットに録音したものをCDRにして今も愛聴しています。人為的ないやな刺激音や指揮者の体臭など一切なく、音楽はシューベルトが書いたままの自然な姿を紡ぎ出して神々しい高貴さをたたえながらコーダへ向けて高揚していきます。こういう音楽空間は何千回の演奏会に一度というものでしょう。僕はベームのこういうところに宮大工の棟梁を思い出すのです。ベルリン・フィル、ドレスデンskとのCDも良い演奏であり世評も名演との誉れ高いものですが、法隆寺、東大寺のようなこれに接してしまうともう別物です。

同じく1977年の8月、やはりNHK FMで放送したムジークフェラインでのライブでゲルト・アルブレヒト指揮のシューマン交響曲第2番。度肝を抜かれる大名演でした。これもカセットに収めたのですが、度重なる海外での引っ越しに紛れて紛失してしまいました。もし可能なら何としてでも手に入れたいです。

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勝手流ウィーン・フィル考(3)

2013 MAY 5 11:11:10 am by 東 賢太郎

最初にウィーン・フィルの実演を聴いたのがいつどこで何だったか、どうも記憶にありません。

1676305416_4da46769a0オペラとしては83年夏にウィーン国立歌劇場でホルスト・シュタイン指揮の「パルシファル」でした。当時、曲を知らなくてあまり感動はありません。85年にロンドンでマゼールのブラームス1番と火の鳥、オケとしてはこれが最初だったかもしれません。僕は80年代以降のマゼールはあんまり好きじゃなく、これもつまらなかったですね。94年フランクフルトでのマゼールのメンデルスゾーン4番も印象が残っていません。92年にはシノーポリと来日してマーラー1番とドン・ファン。NHKホールの音もさえず、ドン・ファンのオーボエ部分の異様な遅さなどオケのいじめにでもあってるんじゃないかと思うほど生気がなく、誰がやってもブラボーであるマーラーも珍しい冷めた演奏でした。この1番、2年後にフランクフルトでマゼール指揮でも聴きましたが、これもだめ。このオケ、巨人が嫌いなんじゃないかと本気で思いました。

1124484793257o真価を感じたのは、ニューイヤーコンサート以外では以前書いたロンドンでのプレヴィンのハイドン。それから94年にフランクフルトでのムーティのベートーベン8番とチャイコフスキー5番。83年のザルツブルグ音楽祭でのカラヤンのばらの騎士、やはり96年ザルツブルグ音楽祭でのマゼールのダフニスとクロエとベートーベンのヴァイオリン協奏曲、というところでしょうか。確かハイドンのアンコールで、打楽器の人が嬉しそうに小太鼓を運び込んでやったJ・シュトラウスのワルツ、何だったかは忘れましたが、これが自家薬篭中という風情でノリまくり大変良かったのも印象にあります。

以上のようなものですから、どうもこのオケの実演ということでは僕は割とハズレが多く、ネコが真剣にならないイメージの方が強いのです。ただ、ハズレの時でもこのオケの音色美はいつも堪能していますから因果なものです。それだけで普通の客は満足だろうと高をくくられても仕方ないぐらい魅力的な音なのですから、ネコ型にもなろうというものです。

このオケを味わうならウィーンへ行って、ムジークフェラインで聴かないとというのが僕の今の結論です。ネコが遊びを選ぶように彼らはハコを選ぶのです。NHKホールやサントリーホールの音響で彼らが本気になるとは到底思えません。ベームの時(75年)は聴衆の安保闘争なみの異常な熱気で目覚めましたがあれは例外でしょう。ニューヨークでも、格段にひどい音のリンカーン・センター(エイブリー・フィッシャーホール)じゃあだめです。あそこでこのオケが弾いている姿を想像さえしたくありません。ワシントンDCのJFKセンター、あのホールでもチェコ・フィルは懸命にいい音を出しましたがウィーン・フィルは無理でしょう。フランクフルトのアルテ・オーパー、あそこは一見音がよさそうに見えるホールなのですが、大したことありません。ドレスデン・シュターツカペレの弦ですらしょぼい音でした。だからウィーン・フィルはやはりあまり真価は出してくれませんでした。それでいいんです。超美人ですから顔を出すだけで普通の客は喝采するのです。

ということで、他のオーケストラはともかく、ウィーン・フィルが来日しても、僕は絶対に聴きません。金の無駄です。いいオーディオ装置で、ムジーク・フェラインかゾフィエン・ザールでの録音を聴いた方がよっぽどいい音がするからです。

それでは次回、僕が好きなウィーン・フィルのレコード、CDをご紹介しましょう。

 

勝手流ウィーン・フィル考(4)

 

 

勝手流ウィーン・フィル考(2)

2013 MAY 4 21:21:23 pm by 東 賢太郎

1996年の年の瀬のことです。野村スイス勤務だった僕は両親、家族とお正月を迎えるために年末から一時帰国して東京の自宅にいました。そこへ突然、秘書室より「社長が所用でウィーンに行くからすぐ現地で待ってお供しろ」という耳を疑う電話があったのです。

当時、欧州ビジネスに力を入れていた野村證券はウィーンに駐在員を置き、ウィーン・フィルを日本に招へいするなどウィーン楽友協会(Wiener Musikverein)と近しい関係を築いていました。その関係で楽友協会長からのニューイヤーコンサートへのご招待だったのです。僕の仕事はそれと関係はありませんでしたがなぜか白羽の矢が立ってしまい、急きょ12月30日のフライトを取って現地へ飛びました。

6955999451_7f8879de7d_z1997年1月1日、ウィーンは零下20度という極寒の朝を迎えました。世界の40か国以上に生中継され元旦の風物詩になっているニューイヤーコンサートは黄金の間(上)と呼ばれる楽友協会(ムジークフェライン)大ホールで行われます。このホールでウィーン・フィルを聴くのは全クラシックファンの究極の憧れと言っていいでしょう。僕も初めてであり、時差ボケも吹っ飛んで五感を全開にしてコンサートに臨みました。

4988006865471指揮者がフィラデルフィアで2年聴いたリッカルド・ムーティだったのもご縁でした。右はその時のCDです。この時聴いたウィーン・フィルの音は一生忘れません。まさにレコードでなじんだ「あの音」なのですが、ムジークフェラインという天下の名ホールのアコースティック、空気感の中で聴くと、他のどこでも味わったことのない馥郁たる芳醇な美味とでも表現するしかない、暖かくも細部までクリアな音が体を包むのです。夢のような時間はアッという間にすぎ、終演後はムーティーのサインをもらったりしながらあまりの幸運に頬をつねりたくなる気分でした。これがその時の楽屋の写真です。後方の左から2番目が僕です。

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その後、僕らは楽友協会アルヒーフ、つまりウィーン・フィルにまつわる大作曲家たちの自筆楽譜などをしまってある収納室へ招かれました。協会長が白手袋をはめて腫れ物に触るように慎重に開いて見せてくれたのがモーツァルトのピアノ協奏曲第20番K.466、シューベルトの交響曲第9番ハ長調、ブラームスのヴァイオリンとチェロの二重協奏曲などでした。シューベルトの最初のホルンが現行譜と違うのに驚いたら協会長に驚かれ、ブラームスはバーデンバーデンで初演したのになぜここにあるのかと尋ねたら、ウチで働かないか(笑)と言われました。

出てきませんでしたがシュトラウスの青きドナウも、ベートーベンの第九も、エロイカのナポレオンへの献辞もここの書庫に眠っているのです。本当に雇ってもらいたいぐらいです。これは千利休の茶室で彼の茶碗でお点前をいただいたようなものです。指揮者マーラーのコメント入りフィガロの結婚パート譜なんかもあるのです。違う風にフィガロをやろうとすれば、マーラーに挑戦することになるわけです。ショルティは「ウィーンで一番好きな道は?」と聞かれたら「空港へ行く道だと答えるね」、と言ったそうです。このオーケストラを指揮するのがいかに大変か、でもやり遂げたらいかに名誉なことか、何となくわかりますね。

その日は楽友協会幹部とウィーン・フィルのメンバーの方たちとの盛大な夕食会でした。丸テーブルがたくさんあって、僕のテーブルはヴィオラ・セクションの方々でした。僕は昨夜時差ボケであまり寝ておらず、ワインが回ると酒に弱いので眠気もきておりました。しかもこっちはスポンサーですから楽員の方がホストして下さって、野村のことをたくさん質問されたりしました。つまらない説明をしている時間が長く、残念なことに楽員のお話もお名前もけっこう失念してしまいました。「ウィーン・フィルは団員も若くなって変わろうとしている」、「伝統は大事だが時代も変わる」というご発言は印象に残っています。はっきり覚えているのはマーラーの話です。「自分たちはマーラーの演奏の仕方をよく知らなかった(!)。ウィーン・フィルにそれをたたきこんだのはバーンスタインだ。」これは驚きました。バーンスタインは信頼されているという感じでしたね(少なくともヴィオラ・セクションでは。でも、良く考えると彼らが好きな「死んだ指揮者」だったんですが・・・・)。

これがそのテーブルの写真です。 muti.jpeg

勝手流ウィーン・フィル考(3)

 

勝手流ウィーン・フィル考(1)

2013 MAY 4 19:19:34 pm by 東 賢太郎

 

 

51F737CVVDL__SL500_AA300_彼らが望むのは、死んだ指揮者や死にかけた指揮者ばかりで、他の指揮者には関心を払わなかった   (「レコードはまっすぐに」ジョン・カルーショー著)

デッカの大物プロデューサーだったカルーショーのこの本は実に面白いです。レコード会社のサイドから見たウィーン・フィルの生態が生き生きと描かれているからです。ビジネス書としても示唆に富み、このオーケストラに関心のあるかたにおすすめします。

 

48642030こんな感激を味わって、その上になお報酬をもらえるとは・・・・ウィーン・フィルのクラリネット奏者レオポルト・ウラッハがフルトヴェングラー指揮の或るコンサートの後で(「栄光のウィーン・フィル」オットー・シュトラッサー著)

シュトラッサーはウィーン・フィルのヴァイオリン奏者を45年つとめ、58-67年は楽団長の地位にあった人。この本はオーケストラの中から見た指揮者像、経営の内部事情、政治などが生々しく書かれています。以上の2冊でこの名門オーケストラがどういうものか、彼らが残した録音がどういう背景でできたかおおよその輪郭は知ることができるでしょう。

 

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このシュトラッサーが第2ヴァイオリンとして活躍したバリリ弦楽四重奏団はこのような名録音を残しています。ウィーン・フィル団員がこのように室内楽団をつくる伝統はベートーベンの弦楽四重奏曲のほとんどを初演したイグナーツ・シュパンツィヒまでさかのぼり、ウィーン・フィルが作曲家のオリジナル演奏の遺伝子を脈々と継いでいることがよくわかります。

 

51PWkyjfqhL__SL500_AA300_フルトヴェングラーに感激したウラッハのクラリネットが聴けます。モーツァルトとブラームスの2大クラリネット五重奏曲です。ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団とのアンサンブルはミニ・ウィーンフィル と言っていいでしょう。全楽器がタテに合わせるよりヨコの歌を重視。誰が主役ともつかない自己主張、微妙に流動的なテンポと間、華と艶(あで)やかさのある音程の取り方、クリーミーで暖かい音色の肌触り。これらの独特のねっとりした甘さは五感を刺激してやみません。これがそのままウィーン・フィルの魅力になっているのです。

 

WienerMusikvereinQこちらはより新しい録音でウィーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団によるハイドン、モーツァルト、シューベルト、ブラームス。これとは違った流儀の名演はたくさんありますが、これは最高の美音で弾かれたもののひとつであり、何の違和感も抱かせません。のびやかに自然体で奏でられたウィーン流の演奏はやはり作曲家の出自にかなったものと思わされてしまいます。無言の説得力があるのです。

 

ウィーン・フィルはネコ型だ書きましたが、何が彼らを誇り高いネコ属にしているか、大きな理由はここにあると言っていいでしょう。

この人たちは土地っ子です。こうしてウィーン生まれの音楽を自分たちの流儀で毎日のように演奏しています。ウィーン・フィルというのは、こういう人たちの集団なのです。だからこの人たちの前に立ちはだかって、ベートーベンのカルテットの楽譜を出してよそ者があーせいこーせいと言ったところで「キミ、ところで誰?」と一蹴されるのが落ちでしょう。ウィーン古典派の大作曲家を千利休とすれば、ウィーン・フィルは表千家の家元と許状をもった弟子たちの集団と言ってそうはずれていないと思います。

この人たちは夜はウィーン国立歌劇場のオーケストラピットでオペラの伴奏を弾いています。国立ということは国家公務員ですから、給料はアメリカの一流オケより低い。そこで、アルバイトをしようじゃないかと組織したのがウィーン・フィルです。自主運営団体だから常任指揮者は置かず、団員の意見で誰を呼ぶか決めます。もちろん芸術的な相性を考慮するのですが、「死んだ指揮者」は呼べないし、相性は良くても客が入らず印税が稼げない指揮者では困るのです(なんといってもバイトですから)。

「和音は少しずれたほうがまろやかな音になる」と伝統的に考えているこのオーケストラに対し「私はそうは思わない」と真っ向から立ち向かったゲオルグ・ショルティは、最も好かれなかった指揮者のひとりでしょう。しかしウィーン・フィルは彼とワーグナーの「ニーベルングの指輪」全曲をデッカに録音してレコード史上に残る売り上げを記録しました。その制作上の裏話は前掲書に詳しく書いてあります。

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愛憎とビジネスは相反することもあるのです。

ショルティはハンガリー系ユダヤ人でありレナード・バーンスタインはロシア系ユダヤ人です。何より、指揮者としてこのオケに君臨した作曲家グスタフ・マーラーはチェコ系ユダヤ人です。ブルーノ・ワルターはドイツ系ユダヤ人ですが、相思相愛だった彼の遺産はこのオーケストラに相続されています。前掲書には「ユダヤ系指揮者は好きでなかった」とあるのですが、それが愛憎の直因であるほど事は簡単ではないということでしょう。こうした書物も著者の主観があり、一部の奏者に聞いただけの話かもしれず、流布している噂話も尾ひれがついていると思います。

どうせ主観なのですから、自分の耳で聴いたものだけを信じて、これから独断と偏見にもとづいて大好きなウィーン・フィルのことを書いてみようと思います。

 

勝手流ウィーン・フィル考(2)

 

ユリア・フィッシャー(Julia Fischer)の二刀流

2013 APR 28 23:23:28 pm by 東 賢太郎

目下、僕が気になっているヴァイオリニストが3人います。ユリア・フィッシャー(Julia Fischer、ドイツ)、イザべル・ファウスト( Isabelle Faust,、ドイツ)、ヒラリー・ハーン(Hilary Hahn、アメリカ)です。何故かぜんぶ女性です。ハーンはエルガーのコンチェルト(CD)で、ファウストは去年N響で聴いたプロコフィエフの1番でノックアウトされました。

今日は3人のひとり、ユリア・フィッシャーを聴いていただきたいと思います。この人はどうしてもライブを聴いてみたい。まず、メンデルスゾーンです。

彼女が「大好きな曲を弾いて幸せ!」と言わんばかりにオケにアイコンタクトしているのにお気づきでしょうか。オケ(特に木管奏者)が それを受けて、音楽する(Musizieren)喜びを音にして投げ返す。奏者の間を音と一緒に飛び交う「幸せ!」こそ、作曲家への最大の敬意でなくしてなんでしょう。楽譜から感じ取ったスピリットを皆が共有、交感しあっています。室内楽ならまだしも、大勢でやるコンチェルトでこういうのはあまりない。彼女の精神的影響力は尋常でなく、この人はあまり類のないすぐれたミュージシャンであると思います。

しかし、それだけかというとそうではない。そこに僕は感心しています。彼女はたぶんすばらしく理知的な女性で、自分の出している音をシビアに吟味している。まず自分に厳しい人だろうと思います。それはプロなんだから当然と思われるかもしれませんが、僕の聴く限り、普通の演奏家はさっと流してしまうとか、厳密に意識がそこに集中していないとか、少なくともそう感じる部分がどこかあるのです。経過的なパッセージでそういうことがおきても、聴く方もあまり気には留めません。

普通の演奏家どころかオイストラフやスターンだってライブだとそれが結構あります。人間のやることですから、常にパーフェクトということははないのですが、しかし商品化して繰り返して聴かれる録音の場合は問題です。そこでいざ録音となると今度は安全運転に意識が行ってしまい、演奏にパッションがなくなる人が、これも多いのです。ハイフェッツなみの技術があれば弾きとばしてもほつれは見えないかもしれませんが、そういう場合、弦楽器というのは特に音程が僕にはとても気になることが多いのです。先日某CDショップへ行くと自分のCDのプロモーションで男性ヴァイオリニストがパガニーニを弾いていました。曲芸のような曲であるのはまあいいとして、音程の悪いのには閉口して鳥肌が立ち、なかなか終わってくれないので諦めてその日は家に帰りました。

それは極端な経験でしたが、大まかに言いますと、世の中の弦楽器の録音は、パッションか音程のどっちかに不満があるケースが非常に多いのです。上記の名手ヒラリー・ハーンもメンデルスゾーンのライブがyou tubeで聴けます。比べてください。良い演奏ですが、僕の基準ではパッションが勝って音程が少しだけ甘い。技術的に下手なのではありません。彼女のメンタリティーというか、どこに重きを置くかということです。こういうことを一般に演奏の「解釈」と言いますが、それはハーンの解釈なのであって、優劣ではありません。それを聴き手のひとりとして、僕が自分に合う、自分のメンタリティーからして好ましいと思うかどうかということです。

結論として、僕のメンタリティーは、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトという題材においては、ハーンよりもユリア・フィッシャーに近いものがあるということなのです。僕はなにも演奏は完璧でなくてはならないと言っているわけではありません。そうではなく、そういう微細な部分に演奏家の性格、心のあり方、音楽観などが見えるわけです。「身なりは靴で見られる」とよく言いますが、ちょっとした経過的パッセージは弾きとばしておいて朗々とした歌で勝負するというようなメンタリティーの演奏家は、すべてのジャンルで僕はあまり好きでありません。

ユリア・フィッシャーを「まず自分に厳しい人だろう」と僕が想像している根拠はまず音程です。彼女は音程の甘さをヴィヴラートでごまかそうというアバウトな弾き方を拒絶しています。音程というのは、要はドレミファ・・・です。ピアノにこの問題は存在しませんが、それ以外の楽器には、ミの取り方という大問題があります。ハ長調のミはホ長調ならドです。ピアノでは同じ鍵盤でも、純正調で和音が変化していくと微妙に違う音に弾かなくてはなりません。ヴァイオリンが主役となる音楽。協奏曲なら、チャイコフスキー冒頭、メンデルスゾーン第2楽章、ブラームス第3楽章はぜんぶ出だしの音がミです。タイスの瞑想曲もそうです。ミをきれいに取ることがヴァイオリン音楽の華であり、命だということがおわかりでしょうか。

ユリアの音程への厳しさは自然に他の奏者たちに伝播して、オーケストラまで素晴らしい音程で鳴っています。耳のいい人たち、音楽が大好きな人たちの集団ですから、いいものが聴こえてくればいい音で返す。そういう音楽家の本能が掻き立てられているように感じます。こういうことは僕は室内楽の演奏、たとえばスメタナ四重奏団のモーツァルトやジュリアード四重奏団のバルトークなどで経験したことはあっても、ずっと大きな合奏体であるコンチェルトという場では、実に珍しいことだと感じるのです。

次はチャイコフスキーです。今日初めて聴き、驚きました。すばらしい技巧とデリカシー!ここでも彼女は作曲家の言いたいことに敏感に反応し、それがオケに伝播している様を感じ取ることができます。指揮のクライツベルグがそれに充分に共感し、コクのある音響でオケをユリアと同じ方向に導いています。録音も良く、これは同曲トップを争う名演CDといえるのではないでしょうか。

ユリアは現在30歳。21世紀前半、世界を代表するヴァイオリニストになることはまず間違いないでしょう。彼女の室内楽というのはすごく関心があります。カルテットをつくれば最右翼級になる資質という意味でも同世代のヴァイオリニストで群を抜いているし、その気になれば指揮者だってあり得るでしょう。

さて、ここまで書いてyou tubeを見ていると、さらにびっくりするものを見つけました。これです。

なんとユリアさん、ヴァイオリンを置いてグリーグのピアノ協奏曲を弾いちゃってます!これも立派なものです。ちょっとのミスはご愛嬌。彼女がこの曲を愛していることがハートでわかります。僕も愛してますから。そう、これはヴァイオリンじゃあ弾けないよね。ただ、クリティカルに見れば、指揮者がだめなせいが大きいですが、彼女は欲求不満がたまったかもしれません。

日本ハムの大谷くんの「二刀流」はどうなるかわかりませんが、彼女のは堂々と世界に通用してしまいそうです。おそるべき才能に脱帽!

(追記)

彼女のインタビューをきいて、最も尊敬するヴァイオリニストはダビッド・オイストラフであるということを知りました。僕にとって彼は音程が圧倒的に素晴らししい人であり、やはり最も好きなヴァイオリニストの一人であることはこれでお分かりいただけるでしょう。

クラシック徒然草-ヴァイオリン・コンチェルトの魅惑-

また、このブログでたまたま二人のCDをトップに並べておりますが偶然ではなかったかもしれません。

ハチャトリアン ヴァイオリン協奏曲ニ短調

やはりインタビューでユリアのお父さんが数学者と知りました。読みかえすと僕はこの3年前のブログに「理知的な女性で、自分の出している音をシビアに吟味している。まず自分に厳しい人だろう」と書いてますが、やはり後で知ったことですがアンセルメ、ブーレーズと僕がひとめぼれして影響を受けた演奏家が数学に関係ある人というのは何かあるのかと感じます。

 

(追記、3月14日)

バッハの音楽というのは楽曲解釈という次元において好き嫌いが生じにくいと思う。少なくとも、僕には生じない。ソロの曲はもちろんだが、管弦楽組曲のような音楽において、オーケストラ曲なのだから楽器のバランスとか強弱のコントラストとか、ベートーベンやブラームスだったら気になる物事が演奏の是非のファクターとして認識されていないことに自分で気づく。

それは楽曲の方が宇宙の調和の如くに、あまりに完璧に書かれていて、もちろんベートーベンがそうではないということではないが、誰にも真似られないバッハ的な完成度という意味において、演奏家がエモーションや個性というもので色付けを行う余地が随分と限られているからのように思う。

バッハの時代、調律は現代と違った。違ったから平均律(ほんとうはwell tempered、程よい具合に調律されたという意味)という名前の音楽ができた。バッハがヴァイオリンやチェロの単旋律で宇宙の広がりのような音楽を発想し書き留めたのは、調律(音律)そのものに宇宙の調和の原理を見届けていたからだ、とそれを聴いていつも僕は感じる。

「ユリアの音程への厳しさ」について散々書いたが、バッハの小宇宙を描ききるのにこれほど必要とされるものはない。楽曲解釈ではない、彼の楽譜にはその手がかりとなるものは何も書かれておらず、何が正解かを知る者もいない。厳密に正確な音階と、調性に応じたピッチの取り方と、我々の時代が伝統的と感じる明確なフレージングと、それ以外に音楽の生死を決する要素の何があげられるだろうか。

これは耳を研ぎ澄ませて味わうことできる演奏だ。

 

クラシック徒然草-ユリア・フィッシャーのCD試聴記-

 

 

 

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ヴィヴァルディ 「四季」

グリーグ ピアノ協奏曲イ短調 作品16

 

 

 

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クラシック徒然草-ヴァイオリン・コンチェルトの魅惑-

2013 APR 27 0:00:53 am by 東 賢太郎

僕は幼稚園のころヴァイオリンを習ったらしい。らしい、というのは、さっぱり覚えていないのだ。母によると「泣いて嫌がった」ようで、これは思い当たる節がある。音の好き嫌いというのがあって、電車の車輪のガタンガタンは好き、ガラスを引っ掻いたキーは嫌い。まあ後者を好きな人はいないだろうが嫌い方は尋常ではなかった。耳元でキーキーいうヴァイオリンが嫌だったのはそれだと思う。

ヴァイオリン協奏曲、なんて魅力的なんだろう。我慢してやっておけばよかった。ピアノ協奏曲には、嫌いなもの、興味のないものがけっこうある。しかし、ヴァイオリンのほうは、ほぼない。バッハ、モーツァルト、ベートーベン、メンデルスゾーン、パガニーニ、シューマン、ブルッフ、ブラームス、ヴュータン、チャイコフスキー、シベリウス、サンサーンス、ラロ、R・シュトラウス、グラズノフ、ヴィエニャフスキー、ハチャトリアン、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキー、バルトーク、シマノフスキー、マルティヌー、エルガー、ウォルトン、ベルク、コルンゴルド、バーバーなど、綺羅星のような名曲たち、全部好きだ。

100000009000008221_10204しかしいつでも聴きたいものはベートーベン、メンデルスゾーン、ブラームス、チャイコフスキー、シベリウスの5大名曲だろうか。この各々についてはいずれ書こうと思う。LP時代はメンデルスゾーンとチャイコフスキー表裏で俗に「メンチャイ」と呼ばれていた。僕もアイザック・スターン/オーマンディー/フィラデルフィア0.のメンチャイ(右はそのSACD)で初めてヴァイオリン・コンチェルトの世界へ入った。スターンのヴァイオリンの素晴らしさ、オーマンディーの伴奏のうまさは天下一品であり、これを永遠の名盤と評してもどこからも文句は出ないだろう。この2曲の最右翼の名演でもあり、ヴァイオリン協奏曲というジャンルがいかに魅力的かわかる。

アイザック・スターン(1920-2001)は84年4月にデイビッド・ジンマン/ニューヨーク・フィルとフィラデルフィアに来てブラームスをやった。忘れもしないが、第2楽章に入ろうとしたときだ。ちょっと客席がざわついていると首をこちらに向けぎょろ目で睨みつけ、客席は凍って静まった。マフィアの親分並みの迫力だった。しかしその音色はこのメンチャイそのものの美音で、すごい集中力で通した迫真のブラームスだった。

41ZJ740DQEL__SL500_AA300_               ベートーベンは94年にミュンヘンで聴いたチョン・キョン・ファの壮絶な演奏が忘れられない。右のテンシュテットとのCDはあの実演の青白い炎こそないが89年のライブであり、これもこれで充分にすごい。

また、ベートーベンはこれも84年2月17日にスターンで聴いたがこっちはムーティーの指揮が軽くて感興はいまひとつだった。名人がいつも感動させてくれるとは限らないのだ。

 

4197TCSJ9DL__SL500_AA300_さてこのチョン・キョン・ファだが、84年2月3日に フィラへ来てムーティとチャイコフスキーをやった。ベートーベンはだめなオケもチャイコはオハコだ。この演奏の素晴らしさは筆舌に尽くしがたく、彼女の発する強烈なオーラを真近に受けて圧倒され、しばらく席を立てなかった。右のCDも彼女のベストフォームに近い。この曲、一般に甘ったるいだけと思われているが、とんでもない。この作曲家特有の熱病にかかって精神が飛んだような妖気をはらんでいるのだ。そういう部分を抉り出すこの演奏は実におそろしい。出産を境に弟ばかり活躍が目立つようになってしまったが、ぜひ輝きを取り戻してほしい。

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さてチャイコフスキーだが、どうしても書かざるをえない物凄い演奏がある。ヤッシャ・ハイフェッツ/ライナー/シカゴso.盤(右)である。トスカニーニが最高のヴァイオリニストと評したオイストラフその人が、「世の中にはハイフェッツとその他のヴァイオリニストがいるだけだ」と言ったのは有名だ。ブラームスはいまひとつだがチャイコフスキーはここまで弾かれるとぐうの音も出ない。超人的技巧だが鬼神が乗り移ったという風でもなく、サラサラと進んで演奏が難しそうにすら聞こえない。これでは「その他のヴァイオリニスト」たちに同情を覚えるしかない。

 

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ブラームスは名演がたくさんあって困る。ピアノ協奏曲2番とともに僕が心の底から愛している音楽だから仕方ない。まずはダビッド・オイストラフの名技を。クレンペラー盤(右)とセル盤があって、どっちも聴くべきである。前者はオケがフランスで腰が軽いのが実に惜しい。それでもクレンペラーのタメのある指揮に乗って絶妙なヴァイオリンを堪能することができる。

 

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シベリウスは一聴するとちょっととっつきにくい。僕も最初はそうだった。しかし耳になじむと他の4曲に劣らない名曲ということがだんだんわかるだろう。ダビッド・オイストラフはオーマンディー盤(右)、ロジェストヴェンスキー盤とあるが、どちらも素晴らしい。シベリウスを得意としたオーマンディーはスターンとも録音していて、これも甲乙つけがたい名演である。

 

 

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最後にメンデルスゾーンをもうひとつ。レオニード・コーガンがマゼール/ベルリン放送so.とやったものだ。この頃のマゼールは良かった。この曲の伴奏として最高のひとつだ。コーガンはやや細身の音で丹念に歌い、この曲のロマン的な側面をじっくりと味わわせてくれる。終わると胸にジーンと感動が残り、演奏の巧拙ではなく曲の良さだけが残る。本当に良い演奏というのは本来こういうものではないか。

以上、この5曲は、ヴァイオリン協奏曲のいわば必修科目であり、クラシック好きを自認する人が知らないということは想定できないという英数国なみの枢軸的存在だ。ぜひじっくりと向き合ってこれらのCDを何度も聴き、心で味わっていただきたい。一生に余りあるほどの喜びと充実した時間を返してくれること、確実である。

 

(補遺、2月15日)

チャイコフスキーでひとつご紹介しておきたいのがある。

藤川真弓 / エド・デ・ワールト / ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団

いまもって最高に抒情的に弾かれたチャイコフスキーと思う。じっくりと慈しむような遅いテンポは極めて異例で、一音一音丹精をこめ、人のぬくもりのある音で歌う。第1楽章の高音の3連符は興奮、耽溺して崩れる人が大家にも散見されるがそういうこととは無縁の姿勢だ。感じられるのは作曲家への敬意と自己の美意識への忠誠。チャイコフスキー・コンクール2位入賞の経歴をひっさげてこういう演奏をしようという人が今いるだろうか。

(曲目補遺)

ボフスラフ・マルティヌー ヴァイオリン協奏曲第2番

1943年の作だがミッシャ・エルマンのために書いたロマン派の香りを残す素晴らしい曲。近代的な音はするが何度も聴けば充分にハマれ、食わず嫌いはもったいない。第2楽章などメルヘンのように美しい。

 

(こちらもどうぞ)

マスネ タイスの瞑想曲

 

 

 

 

クラシック徒然草-秋のブラームスと春のラヴェル-

2013 APR 22 23:23:08 pm by 東 賢太郎

クラシック音楽が心の薬かどうかは知らない。ヒーリング(癒し)として聴く人も多いらしく、そう銘打ったCDも売られているから何かの効果があるのかもしれない。僕も疲れた時に海や川の「水の音」に癒されるということはある。しかし音楽(器楽)は人為的、即物的な楽器の音である。

季節によってある作曲家が聴きたくなることは、僕の場合は、ある。秋のブラームスと春のラヴェルである。これは歳時記といってもいいほど規則的、周期的にやってきていたが、今年は何故かラヴェルがやってこない。ぜんぜん聴く気がしない。心がまだ春になっていないのだろうか。

モーツァルトとブラームスが同時に聴きたいということは、ない。これは不思議で、両方聴きたくないという経験もない。2択である。今はブラームス期にあるようでモーツァルトは全然聴く気がしない。飽きたということではなく、いずれ戻ってくるということは経験的に知っている。

飽きた曲はたくさんある。そういう曲は、例外なく、細かいところまでよく知っている。知りすぎると飽きるかというと、そうでない曲もある。いわゆる「名曲」は飽きないかというと、そうでもない。むしろ名曲が多い。ひっそりと日陰に咲いている花のような曲がいつまでも大事だったりする。

元気が出る曲というのは、ある。まず群を抜いて、ベートーベンである。だから車で通っていた海外では、朝に聴きながら出社した。かなり仕事のパフォーマンスに影響したのではないか。ヒーリングには向かないかというと、悲愴ソナタの第2楽章などとても癒される。これの影響と思われるショパンの別れの曲よりずっと胸に迫る天上の調べと思う。

悲しい曲というのは、僕においては、ない。悲しげな曲があるだけである。モーツァルトのレクイエム、バッハのマタイ受難曲も、曲の偉大さに圧倒されることはあっても悲しいわけではない。ブルックナー7番の第2楽章も。悲しいというのは、僕の場合、喪失感である。何かを失った心象風景を喚起するから悲しい。その時流れていれば、どんなに明るい曲も悲しいと記憶されるだろうが、それは曲の性質に由来するものではない。

脳細胞が活性化する曲というのは、ある。「頭が良くなるモーツァルト」ではない。バルトークである。彼の音楽が美しいと思えることは宇宙の真理が美しいと思うことと同じ、と思う。宇宙を見て美しいと思う人は少数派かもしれない。それでも、彼の曲のレコードが増えるのと、高校時代には赤点で大嫌いだった数学が好きになったのとは、数値として緊密な相関関係があったことを証明できる。

癒される曲、これはやはり、よくわからない。僕が最も好きなヴァイオリニストはヨゼフ・シゲティとダヴィッド・オイストラフである。とても心地がいい。しかしそういう判断を、例えばメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を聴かずにしても、それは意味がない。音楽に癒されるということが仮にあるとすれば、それは演奏家と楽曲が完全に合体した時しかないと思う。知らない曲を「アダージョ・カラヤン」で聴いて癒しを感じたとすれば、それは音楽ではなく、リクライニング・シートのおかげだ。

秋のブラームスと春のラヴェル

これは僕が癒しを求めているからやって来てくれるのかもしれない。

 

 

 

 

 

ウォルフガング・サヴァリッシュの訃報

2013 FEB 25 23:23:14 pm by 東 賢太郎

強いていえば、何かアブストラクトな高貴なものに触れた心の衝動だ。それはブラームスが産んだものであり、ナヌートが目の前で再現したものだ。久しぶりにそこで音楽が産みだされ、生成されているのを感じることができた。こういう音楽を、僕たちの時代人はいつまで聴くことができるのだろう。

つい一昨日、こう書いた。そうしたら今日、そういう音楽を聴かせてくれたドイツの巨匠の訃報を知った。

1984年にフィラデルフィア管弦楽団とハイドンの104番、ヒンデミット「画家マティス」、ドヴォルザークの8番、エルガーVc協(ポール・トルトゥリエ)、ブルックナー交響曲第2番、85年にロンドンでフィルハーモニア管弦楽団とカルミナ・ブラーナ、2004年にN響とベートーベンの7番。これが僕がサヴァリッシュを生で聴いたすべてだったと思う。

カール・ベーム亡き後、ドイツの保守本流をいった人だが、ベームよりさらにレパートリーはドイツ中心だったように思う。奇をてらわず常に正攻法であり、風貌もまじめな銀行員というお堅そうな印象のためだろうか、壮年期の日本での評判はいまひとつだった。しかし大学時代の当時LPで買ったシューベルトの交響曲やメンデルスゾーンのイタリアやモーツァルトの魔笛を僕は愛聴したし、何といっても、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団を振ったシューマンの交響曲全集こそは、今になっても凌駕するもののない逸品として僕のLPレコード棚に君臨し続けているのである。

このシューマンでサヴァリッシュが産みだしている造形は信じがたいほど堅固であり、ドレスデンのいぶし銀の光彩を放つ弦、蠱惑的な木管が生み出す歌、朗々たるホルン、ヴァイオリンにユニゾンで重なるフルートの極上の愉悦感、ティンパニのはじけるようなリズム感と古雅な音色、どれをとっても「最高級のオーケストラ演奏」であると言ってまったく過言ではない。僕はこの演奏によって、ドレスデン・シュターツカペッレという天下の名器とでも表現するしかない老舗オーケストラに、永遠に魅惑される運命に陥った。演奏の細部がどうのという次元の楽しみではなく、シューマンの音楽そのものにひたっている幸福感がひたひたと心に満ち溢れ、それこそそれが永遠に続いてほしいと願うしかないような喜びを与えてくれる。

これはシューマンのシンフォニーのような音楽の演奏としてはあまりない体験であり、優れたバッハの演奏でしかおそらく経験のない、要は演奏者の個性はあまり印象にない、しかし聴いた後にずっしりとした音楽的充足感が残るという稀有の性質ものだ。何かドイツ音楽というものだけが醸成している固有の完結した世界、一つの有機体とでもいうべきロジカルな存在、それに明快で簡潔な数学的な解を与えられたような印象がある。こういうことはベームでもカラヤンでもないことであり、僕はそういう印象を、こともあろうにロンドンで聴いた彼のカルミナ・ブラーナでも抱いたのである。

CDになっている彼のブラームスとベートーベンの交響曲全集もそれに近い成果を上げている。特に、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団という、これもドレスデンSKと性格は違うが同じほど素晴らしい個性を持つ名門オーケストラを振ったベートーベンは、演奏としては何一つとして変哲ないが、僕が世界で最も愛するコンセルへボウという音楽堂のそれ自体が芸術品である音響を見事に活かした演奏であるという点において、特筆すべき価値を有している。

こういう本道の演奏が、妙な変哲を売り物にした奇演に駆逐されていくとすればクラシック音楽はいずれグレシャムの法則にのっとって質的に衰退していくだろう。僕が世界第1号機を買った米国ホヴランド社製のパワーアンプ「ストラトス」は、某オーディオ評論家が誉めながらも「音楽的で本格派だから売れないだろう」と書いていた。まったくその通りだろうが、そこで「だから」となってしまうのが日本の悲しい所だ。このアンプで鳴らしたサヴァリッシュのベートーベンは、まったく皮肉なことに、最上級の意味において音楽的で本格派なのである。

2004年11月、最後の来日となったN響とのベートーベン7番は忘れられない名演で、もう耳にタコができてしまっているこの曲にもかかわらず、まさにそこで音楽が生成されているという現場に立ち会う幸福感にひたらせていただいた。余分なことは何もしないということのぎりぎりの美しさを教えていただいた。ほんとうに、これからは世界のどこの誰が、あんな風な立派なベートーベンを聴かせてくれるのだろう?

昨日のように思い起こすかなりご高齢だったお姿と、生気に満ちあふれたその日の7番の感動の記憶が、どうもひとつの点においてうまく交差いたしません。

 

心よりご冥福をお祈り申し上げます

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

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