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ベートーベン ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 作品31-3

2014 AUG 24 22:22:14 pm by 東 賢太郎

バッハの平均律をピアノの旧約聖書、ベートーベンの32曲を新約聖書という人がいます。ベートーベンが「キリストは単に磔(はりつけ)にされたユダヤ人」と言い放ったからではありませんが、僕は彼の音楽に宗教的な辛気臭さを感じません。第九の歌詞からも彼は天上の神を信じていたと思いますが、自分の生の声を天上ではなく地上の民へ向けて書きました。聖書に関係のない我々にも、なん百年たっても色褪せることなく開かれた音楽と思います。

この変ホ長調ソナタが大好きな僕は9曲の交響曲の第8番に当たるものという感じで聴いています。ビールのCMではないですが「深刻度ゼロ%」。ベートーベンの書いた音楽でこんなに明るい、全曲にわたってノリまくってはしゃいでいるものはひとつもありません。いったい彼に何起きたんだと心配になるほど。どうしてといって、陽性の交響曲第7番の後に書かれた8番と違い、この18番はハイリゲンシュタットの遺書を書いたころに出来ているのです。謎めいています。

18番は04年に完成しました。エロイカの初演が1804年12月、ワルトシュタインも1803-4年に書かれており、18番もそのグループである可能性があると思います。第1楽章でF3、F2、F1と2オクターヴをフォルテでの下降。これはまるで低くてよく響くF1を書きたかったかのようです。速い音型を軽々と弾きまくる第2楽章、第4楽章の左手。冒頭の精妙な和音。まったくの私見ですが、これはワルトシュタインと同じくフランスのエラール社のピアノを得た嬉しさで作った曲ではないでしょうか?

だとすると18番はワルトシュタインに献呈されなかったワルトシュタイン・ソナタだったかもしれません。16番と17番(通称テンペスト)と一緒に作品31、1-3とくくられたのは何か出版等に関わる事情があったのではないでしょうか。また、あの遺書が本当に遺書なのかどうかは議論がありますが、躁状態で書いたということは少なくともなかったでしょう。うつ状態から苦難の道を経てエロイカが生まれた。これなら納得がいくのです。ところが同じあたりでポツンと躁状態の極みみたいな18番ソナタが出てきた。

これは交響曲でいうと第4番がワルトシュタイン・ソナタと近親性があってということをここに書きました( ベートーベン交響曲第4番の名演)。遺書を書くまでの重たいことは全部エロイカにぶちこんで、その「重たいこと」は純化して第5番運命に結晶化していく。そうじゃない脇道の部分、もっと人間的なものは別な入れ物に盛っていく。空想ですが、彼を聴覚を失うという恐怖のどん底から救ったのは女性かもしれませんね。それは上記のブログに書いた。そうでもなく彼がひとり部屋に閉じこもってこんなソナタを書くに至ったとは僕にはどうしても思えないのです。

17番(テンペスト)第3楽章が一貫して「運命リズム」(タタタターン)で出来ているのは有名ですが、18番第1楽章にもそれが出てきます。第3-6小節です。最初の2小節、同じ音型を2度繰り返して幕を開けるのは運命と同じ、しかしリズムは第9交響曲の第2楽章のはじめを思い出しませんか?このソナタ、猫と思ったらライオンの子だったという存在と思います。

beeth18

いきなり遭遇するサブドミナントの五六の和音。これが序奏ならともかく、第1主題なのに肝心のトニックは第6小節まで現れません。それも開始のバスはド(a♭)なのにこっちのバスはド(e♭)でなくソ(b♭)。どうも煮え切らない主役の登場です。交響曲でいきなりトニック(あるいはその根音)が鳴らないのは1番だけです。剛球を封じてまず初球は変化球。18番は1800年ごろ書いた1番の実験精神も継いでいる、いろいろな側面で初期と中期のブリッジとなった興味深い曲です。

ターンタターン、ターンタターン、この5度下がる頭出し、僕にはルートヴィッヒ、ルートヴィッヒと聞こえてなりません。彼はまだベッドでまどろんでいて、誰かが起こしてくれる(交響曲第4番の稿に書いたあの人か)?第3小節、うーん、まだ眠い、彼は不機嫌。第6小節のトニックでやっと目が開くとまぶしい朝日が。いい天気だ!起きろ!変ホ音の連打に乗った軽快なアレグロは朝の浮き浮きです。

変ホ・変ロ・二の長7度のワサビの効いた和音を作る左手の動き。これは17番までのソナタからこの曲が突然変異的にエロイカよりの存在になった印。よし今日もやるぞという活力がこんこんと湧き出ている音楽ですが、そういうひそやかな和音の色合いが誰かの深い愛情にも包まれているという感じも添えています。これが大好きなんです。こんなに幸福なベートーベンが他のどこにいるでしょう?

この曲、全編にわたって会話が聞こえてきます。居間のおしゃべりの声があちこちから飛び交い、笑い、皮肉、冗談のオンパレード。第2楽章のおどけたスケルツォ。タターンタターンタターン、単音が中断してシーンとする、それが意味深に半音上がるとまた同じどたばたが始まる。爆笑。どこに聖書が出てきます?3拍子でなく2拍子のスケルツォ、それもソナタ形式でトリオを持つ三部形式でないというのも珍しいです。

一転してたおやかに始まる第3楽章は Menuetto, Moderato e grazioso と記されています。スケルツォというのは彼がメヌエットをやめて置き換えたものですから、第2楽章がスケルツォ、第3楽章にメヌエットというのは実は変なんです。その変なことを後でもう1回やっている。それこそが交響曲第8番です。8番もメトロノームをからかってみたり、歌って踊って笑ってに満ちあふれた突然変異的なシンフォニーでした。

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そして、どちらのメヌエットも名品です。18番の方、これはやがて第九のアダージョに繋がっていく高貴さです。ここを弾いてみてあれっと思ったのは8小節目です。ここの真ん中の音のc、d♭、dの半音階上昇は交響曲第8番のメヌエット(下)の青枠のf、f#、gを想起させます。ちょっとしたことですが何か血のつながりを感じます。ピアノ・ソナタでさえメヌエットはこれを最後にもう書いていません。それがどうして最後から2番目の交響曲に出てくるのか不思議じゃありませんか?

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この楽章はモデラートですが、アダージョ楽章がないせいか遅めに弾くピアニストが多いようです。「中ぐらいの速さで」とはアンダンテ(歩くような速さで)より速く、アレグレット(やや快速に)より遅いということですが後者により近い。フリードリヒ・グルダのテンポが適当だと思います。

第4楽章のPresto con fuoco 非常に珍しい。火のように情熱的に急速に弾けということです。ベートーベンではこんな表示は他にないんじゃないでしょうか。バックハウスは自身最後となった1969年6月28日の演奏会で18番を弾きましたが、心臓発作を起こしました。そのため第3楽章まで弾いたのですがこの第4楽章はシューマンの幻想小曲集より2曲に変更してコンサートを終えました。その7日後に彼は亡くなったのです。彼は26日の第1回目演奏会ではワルトシュタインを弾いていますが、第2回目には18番を選んだということは興味深いものです。

演奏ですが、youtubeで初めて聴いたべラ・ダヴィドヴィッチをお借りしましょう。これをUPしていただいた方には感謝です。

第1楽章の出だしの呼吸がいいですね。全体に構えの大きなベートーベンではないですが、とにかくピアノが素晴らしくうまいです。ショパンコンクール優勝者ですからうまいのは当たり前なのですが、それが売り物に感じないところがよろしいです。京料理の名店の懐石という風情で、何もとがったものはないですが良いものをいただいたという手ごたえがじんわり残る。こういう演奏が好きです。彼女の録音が全部欲しくなって探してみましたがほとんど廃盤のようです。もったいない話です。

もうひとつ、リチャード・グードの見事な演奏を。これもうまいです。

200x200_P2_G3022270W僕はフランクフルトで彼のベートーベンを聴きましたがこれは興奮ものでした。一緒に行かれた娘のピアノの先生に「いかがでした?」ときかれて「これはマーラーが弾いたベートーベンです」とわけのわからないことを口走ったのをなぜか覚えています。全曲バックハウスばかり聴いていましたが、今いちばんよく聴く全集はグードです。特にベートーベンが嫌いな人こそぜひ。好きにしてくれる可能性のある全集と思います。

そのバックハウスの晩年のスタジオ録音はこの18番も立派な造形のものですが、ちょっと重たく指もまわっていない感じの部分があります。クラウディオ・アラウは僕の好きなピアニストですが18番は曲の持ち味とやや合っていない感じがします。素晴らしいのはアルトゥル・シュナーベルでしょう。テンポもニュアンスも最高ですが、録音がやや古いのが気になる方は同じ路線の名演を聴かせてくれる上記のグードが良いと思います。ブルーノ・レオナルド・ゲルバーもお薦めです。彼のショパンをスイスで聴きましたが美しいレガートと強い打鍵が印象的でした。この曲ではそれが活きています。マレイ・ぺライアもいいです。この曲を覚えたのはロンドンで買ったこのCDで、これのおかげですぐ曲が好きになりました。彼のモーツァルトは大変な美演で一世を風靡しましたが、その路線にあるベートーベンであり18番ではプラスに出ています。リヒテルはこれが簡単な曲に聞こえるほど。腕前でいうならこれが一番でしょうが、曲のニュアンス(特に第1楽章)は今一つ。終楽章は凄い、降参です。マリア・グリンベルグは大変に素晴らしい。これはお薦め。女性ながら実に豪腕でもありますがちょっとしたトリルなどソプラノ声部のニュアンスなど血が通っています。アニー・フィッシャーは男勝りでややごつごつしますがその分造形がしっかりしていて僕は嫌いではありません。ウィルヘルム・ケンプは技術が弱いですね。この曲は満足できません。ペーター・レーゼルは何一つ不足のない正統派の演奏ですが、もう一味のニュアンスが欲しいという贅沢をいいたくなります。アルフレート・ブレンデルの冒頭はニュアンスがいっぱいでおっこれはいいぞと名演を期待しましたが、どうも品を作りすぎで後半は飽きました。ラザール・ベルマンは80年ごろ剛腕で鳴らしたロシア人でここでも技術は冴えていますが、味わいには欠けます。フリードリッヒ・グルダは時々聴く演奏で興がのった快演ですがAmadeoの録音のせいかタッチが冴えません。惜しいです。ウラーディーミル・アシュケナージの磨かれた美音は千疋屋の1万円メロンのよう。技術も文句なし。モーツァルトの協奏曲録音の路線にあり、それはそれで魅力的ですが買ってでも聴きたいかというとどうもという困ったもの。曲の破天荒なところが常識化した観があるのが理由かもしれません。エミール・ギレリスはメヌエットの中間部の強奏や終楽章の低音の強打などこの曲の精神とやや離れている感じがします。エリー・ナイは第1楽章が遅い、これじゃあ朝の浮き浮きにならない。主張の強い面白い演奏ですが技術の衰えが気になり僕はダメです。アンドラーシュ・シフは巷の評価の高かったモーツァルト・ソナタ全集を買ったらちっとも面白くなくちょっとイメージが・・・。18番も綺麗ですが、美演なんですが・・・So what?。ダニエル・バレンボイム(EMI)は若い割にまとまった演奏。第2楽章の左手のスタッカートが甘いなどエッジがないのが不満。ハンス・リヒター・ハーザーはカラヤンとのブラームスPC2番の打鍵の強さに驚きましたがその路線の18番というレア物です。そういう曲じゃないですがもしもベートーベンがスタインウエイを与えられたらこう弾くかもしれないと思わないでもないです。クン=ウー・パイクのベートーベン・ソナタ集は非常に素晴らしいです。自信を持ってお薦めします。18番は特筆するほどではなくワルトシュタインがベスト3級の名演です。ゲルハルト・オピッツはドイツ時代にラインガウでベートーベンを聴きました。残響が多くて遠目の録音ですが現代のドイツ人による演奏としてトップレベルでしょう。ポール・ルイスは全般にテンポが遅く趣味でありませんがその速度でやるだけの個性は感じます。ジャン・ベルナール・ポミエは曲想によく感じていていいですね。メヌエットのテンポ、右手のトリルのセンスなど最高です。H.J.リムは第1楽章が気まぐれでまとまりがないと思ったら第2楽章はもの凄く速くてうまい。よくわからない演奏ですがひょっとして天才的かも。ラヴェルも聴きました。青臭くて荒削りですが、小さくまとまる感じでないのはいいですね。ソナチネの第2楽章などそれが即興的で良い方に出ています。

(こちらをどうぞ)

http://シューベルト ピアノ・ソナタ第18番ト長調 「幻想ソナタ」D.894

ポミエのベートーベン ピアノ・ソナタ全集

 

 

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ベルリオーズ 「幻想交響曲」 作品14

2014 JUL 28 14:14:41 pm by 東 賢太郎

220px-Henrietta_Smithsonほれた女にふられるならまだいいが、無視されるのは堪え難いというのは男性諸氏は共感できるのではないか。まだ無名だった24歳のベルリオーズは、パリのオデオン座でイギリスから来たシェイクスピア劇団の舞台に接し、ハムレットのオフィーリアを演じたアイルランド人の女優、ハリエット・スミッソン(左)に夢中になってしまった。熱烈なラブレターを出すがしかし彼女は意に介さず、面会すらもできない。激しい嫉妬にさいなまれた彼はやがて彼女に憎しみを抱いてゆくことになる。

間もなく劇団はパリを去ってしまい、ハリエットをあきらめた彼はマリー・モークというピアニストと婚約した。ところが、踏んだりけったりとはこのことで、ローマ賞の栄冠に輝いてイタリア留学に行くとすぐに、モークの母から娘を別な男に嫁がせることにしたという手紙が届く。怒ったベルリオーズはパリに引き返し女中に変装してモーク母子を殺害して自殺しようと企んだ。婦人服一式、ピストル、自殺用の毒薬を買い馬車にまで乗ったのだから本気だった。幸いにして途中(ニース)で思いとどまったが彼は危ないところだった。

しかし、この事件の前に、彼はすでに殺人を犯し、自殺していた。

それは1830年にできたこの曲の中でのことである(幻想交響曲)。恋に深く絶望し阿片を吸った芸術家の物語だが、その芸術家は彼自身である。彼はおそらくハリエットを殺しており死刑になる。ギロチンで切られた彼の首がころがる。化け物になったハリエットが彼の葬儀に現れ奇っ怪な踊りをくりひろげる。これと同じことがモークの件で現実になる所だったわけだ。ベルリオーズが本当に阿片を吸ったかどうかはわからない。阿片は17世紀は医薬品とされ、19世紀にはイギリス、フランスなどで医薬用外で大流行し、詩人キーツのように常用した文化人がいた。ピストルと毒薬を買って殺人を企図したベルリオーズが服用したとしてもおかしくない。

そう思ってしまうほど幻想交響曲はぶっ飛んだ曲であり、「幻想」(fantastique、空想、夢幻)とはよく名づけたものだ。これが交響曲という古典的な入れ物に収まっていることが、かろうじてベートーベンの死後2年目にできた曲なのだと信じさせてくれる唯一の手掛かりだ。逆にその2年間にベルリオーズは入れ物以外をすべて粉々にぶち壊し、それでいてただ新奇なだけでなくスタンダードとして長く聴かれる曲に仕立て上げた。そういう音楽を探せと言われて、僕は幻想と春の祭典以外に思い浮かぶものはない。高校時代、この2つの音楽は寝ても覚めても頭の中で鳴りまくっていて受験会場で困った。

この曲のスコアを眺めることは喜びの宝庫である。これと春の祭典の相似は多い。第5楽章の冒頭の怪しげなムードは第2部の冒頭であり、お化けになったハリエットのEsクラリネットは第1部序奏で叫び声をあげる。練習番号68の後打ちの大太鼓のドスンドスンなどそのものだ。第4楽章のティンパニ・アンサンブル(最高音のファは祭典ではシに上がる)なくして祭典が書かれようか。第4楽章のファゴットソロ(同50)の最高音はラであり、これが祭典の冒頭ソロではレに上がる。第3楽章のコールアングレがそれに続くソロを思わせる。「賢者の行進」は「怒りの日と魔女のロンド」(同81)だ。第5楽章のスコアは一見して春の祭典と見まがうほどで僕にはわくわくの連続だ。

この交響曲の第1楽章と第3楽章は、まことにサイケデリックな音楽である。第1楽章「夢、情熱」の序奏部ハ短調の第1ヴァイオリンのパートをご覧いただきたい。弱音器をつけpからffへの大きな振幅のある、しかし4回もフェルマータで分断される主題は悩める若者の不安な声である。交響曲の開始としては異例であり、さらにベートーベンの第九のような自問自答が行われる。gensou1

感情が赤の部分へ向けてふくらんでfに登りつめると、チェロが5度で心臓の高鳴りのような音を入れる。そこで若者は同じ問いかけを2回する。青の部分、コントラバスがピッチカートでそれに答える。1度目はppでやさしく、2度目はfで決然と。まるでオペラであり、ワーグナーにこだまするものの萌芽を見る思いだ。

若者は納得し(弱音器を外す)、音楽は変イの音ただひとつになる。それがト音に自信こめたようにfで半音下がると、ハ長調でPiu mosso.となり若者は束の間の元気を取り戻す。この、まるで夢から覚めていきなり雑踏ではしゃいでいるような唐突で非現実的な場面転換、そこに至る2小節の混沌とした感じは、まったく筆者の主観であるが、レノン・マッカートニーがドラッグをやって書いた後期アルバムみたいだ。両者にそういう共通の遠因があったかどうかはともかく、常人の思いつく範疇をはるかに超え去ったぶっ飛んだ楽想である。

この後、弦による冒頭の不安な楽想と木管によるPiu mossoの楽想が混ざり、心臓高鳴りの動機で中断すると、再び第1ヴァイオリンと低弦の問答になる。ここでの木管の後打ちリズムはこの曲全体にわたって出現し、ざわざわした不安定な感情をあおる。やがて弦5部がそのリズムに引っぱられてシンコペートする。これが第2のサイケデリックな混沌だ。ここから長い長い低弦の変イ音にのっかって変ニ長調(4度上、明るい未来)になり、しばし夢の中に遊ぶ。フルート、クラリネットの和音にpppの第1ヴァイオリンとpのホルン・ソロがからむデリケートなこの部分の管弦楽法の斬新さはものすごい!これはリムスキー・コルサコフを経てストラヴィンスキーに遺伝し、火の鳥の、そして春の祭典のいくつかのページを強く連想させるものである。

この変イ音のバスが半音上がり、a、f、g、cというモーツァルトが偏愛した古典的進行を経てハ長調が用意される。ここからハリエットのイデー・フィックス(固定楽想)である第1主題がやっと出てきて提示部となる。つまりそこまでの色々は序奏部なのだ。この第1主題、フルートと第1ヴァイオリンが奏でるソードソーミミファーミミレードドーシである。山型をしている。ファが頂上だが、ミミファーと半音ずり上がる情熱と狂気の盛り上げは随所に出てくる。第2主題はフルートとクラリネットで出るがどこか影が薄い。しかしこの気分が第3楽章で支配的になる大事な主題だ。これはすぐに激した弦の上昇で断ち切られffのトゥッティを経て今度は深い谷型のパッセージが現れる。すべてが目まぐるしく、落ち着くという瞬間もない。ここからの数ページは、やはり感情が激して落ち着く間もないチャイコフスキーの悲愴の第1楽章展開部を想起させる。

展開部ではさらに凄いことが起こる。練習番号16からオーボエが主導する数ページの面妖な和声はまったく驚嘆すべきものだ。第381小節から記してみると、A、B♭m、B♭、Bm、B、Cm、C、C#m、C#、Csus4、C、Bsus4、B、B♭sus4、B♭、Bm、B、Cm、C、C#m、C#、Dm、D、D#m・・・・なんだこれは?何かが狂っている。和声の三半規管がふらふらになり、熱病みたいにうなされる。古典派ではまったくもってありえないコードプログレッションである。ベルリオーズは正式にピアノを習っておらず、彼の楽器はギターとフルートだった。この和声連結はピアノよりギター的だ。それが不自然でなく熱病になってしまう。チャイコフスキーは同じようなものを4番の第1楽章で「ピアノ的」に書いた。それをバーンスタインがyoung peoples’でピアノを弾いてやっている。

ところで、ハリエットは第4楽章でギロチンに首を乗せると幻影が脳裏に現れてあの世である終楽章でお化けになることになっているが、僕は異説を唱えたい。最初から殺されていて、全部がお化けだ。第1楽章の熱病部分に続くffのハリエット主題はG7が呼び覚ますが、そこでイヒヒヒヒと魔女の笑いが聞こえ終楽章の空飛ぶ妖怪の姿になっている。そこからもう一度ややしおらしくなって出てくるが、それに興奮して騒いだ彼の首がギロチンで落ちるピッチカートの予告だってもうここに聞こえているではないか。しかしそれはコーダの、この曲で初めてかつ唯一の讃美歌のような宗教的安らぎでいったん浄化される。だからとても印象に残るのだ。本当に天才的な曲だ!このC→Fm(Fではなく)→Cはワーグナーが長大な楽劇を閉じて聴衆の心に平安をもたらす常套手段となるが、ここにお手本があった。この第1楽章に勝るとも劣らないぶっ飛んだ第3楽章について書き出すとさすがに長くなる。別稿にしよう。

第2楽章「舞踏会」。ここの和声Am、F、D7、F#7、F#、Bm、G・・・も聞き手に胸騒ぎを引き起こす。スコアはハープ4台を要求しているが、この楽器が交響曲に登場してくるのがベートーベンをぶっ壊している。第3楽章のコールアングレ、終楽章の鐘、コルネット、オフィクレイドもそうだ。ティンパニ奏者は2人で4つを叩きコーダで2人のソロで合奏!になる。ラ♭、シ♭、ド、ファという不思議な和音を叩くがこのピッチがちゃんと聴こえた経験はない。同様に第4楽章の冒頭でコントラバスのピッチカートが4パートの分奏(!)でト短調の主和音を弾くが、これもピッチはわからない。これは春の祭典の最後のコントラバス(選ばれた乙女の死を示す暗号?)のレ・ミ・ラ・レ(dead!)の和音を思い出す。

この交響曲の初演指揮を委ねられたのはベルリオーズの友人であったフランソワ・アブネックであった。彼についてはこのブログに書いた。

ベートーベン第9初演の謎を解く

幻想交響曲はハリエットという女性への狂おしい思いが誘因となり、シュークスピアに触発されたものだが、音楽的には彼がパリで聴いたアブネック指揮のベートーベンの交響曲演奏に触発されたものである。ベートーベンの音楽が絶対音楽としてドイツロマン派の始祖となったことは言うまでもないが、もう一方で、ベルリオーズ、リスト、ワーグナーを経て標題音楽にも子孫を脈々と残し、20世紀に至って春の祭典やトゥーランガリラ交響曲を産んだことは特筆したい。そのビッグバンの起点が交響曲第3番エロイカであり、そこから生まれたアダムとイヴ、5番と6番である。このことは僕の西洋音楽史観の基本であり、ご関心があれば3,5,6番それぞれのブログをお読み下さい(カテゴリー⇒クラシック音楽⇒ベートーベンと入れば出てきます)。

最後に一言。男にこういう奇跡をおこさせてしまう女性の力というものはすごい。我がことを考えても男は女に支配されているとつくづく思う。そういえばモーツァルトもアロイジア・ウェーバーにふられた。彼が本当にブレークするのはそれを乗り越えてからだ。彼はアロイジアの妹コンスタンツェを選んだ。姉の名はマニアしか知らないだろうが天才の妻になった妹は歴史の表舞台に名を残した。しかしベルリオーズの方は後日談がある。幻想の作曲から2年して再度パリを訪れたハリエットはローマ留学から帰ったベルリオーズ主催の演奏会に行く。そこで幻想交響曲を聞き、そのヒロインが自分であることに気づく。感動した彼女は結局ベルリオーズと結ばれた。彼女の方は大作曲家の妻という名声ばかりか、天下の名曲の主題として永遠に残った。

 

シャルル・ミュンシュ / パリ管弦楽団

406僕はEMIのスタジオ録音でこの曲を知ったしそれは嫌いではない。ただし彼の演奏はかなりデフォルメがあり細部はアバウト、良くいえば一筆書きの勢いを魅力とする。それが好きない人にはたまらないだろうということで、どうせならその最たるものでこれを挙げる。鐘の音がスタジオ盤と同じでどこか安心する。幻想のスコアを眺めていると、書かれた記号にどこまで真実があるのかどうもわからない。そのまま音化して非常につまらなくなったブーレーズ盤がそれを物語る。これがベストとは思わないが、面白く鳴らすしかないならこれもありということ。フルトヴェングラーの運命の幻想版という感じだ。EMI盤と両方そろえて悔いはないだろう。

 

ジェームズ・コンロン/  フランス国立管弦楽団

gensouこの曲はフランスのオケで聴きたいという気持ちがいつもある。マルティノンもいいが、これがなかなか美しい。LP(右、フランスErato盤)の音のみずみずしさは絶品で愛聴している。演奏もややソフトフォーカスでどぎつさがないのは好みである(音楽が充分にどぎついのだから)。パリのコンサートで普通にやっている演奏という日常感がたまらなくいい。料亭メシに飽きたらこのお茶漬けさらさらが恋しい。終楽章のハリエットですら妖怪ではなく人間の女性という感じだからこんなの幻想ではないという声もありそうだが。

 

オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団

4118SYQZ5PL__SL500_AA300_ロンドン時代にLPで聴き、まず第一に音が良いと思った。音質ではない。音の鳴らし具合である。この曲のハーモニーが尖ることなく「ちゃんと」鳴っている。だからモーツァルトやベートーベンみたいに音楽的に聞こえる。簡単なようだがこんな演奏はざらにはない。第2楽章にコルネットが入る改訂版をなぜ選んだかは不明だが、彼なりに彼の眼力でスコアを見据えていておざなりにスコアをなぞった演奏ではない。ご自身かなりぶっ飛んだ方であられたクレンペラーの波長が音楽と共振している。第4楽章の細部から入念に組み立ててリズムが浮わつかない凄味。終楽章もスコアのからくりを全部見通したうえで音自体に最大の効果をあげさせるアプローチである。こういうプロフェッショナルな指揮は心から敬意を覚える。

 

(補遺、2月29日)

ダニエル・バレンボイム / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

51iMEuehZVLベルリン・イエス・キリスト教会の広大な空間を感じる音場で、オーケストラが残響と音のブレンドを自ら楽しむように気持ちよく弾き、良く鳴っていることに関して屈指の録音である。音を聞くだけでも最高の快感が得られる。第1楽章は提示部をくり返し、コーダは加速する。第2楽章はワルツらしくない。第3楽章の雷鳴は超弩級で、どうせ聴こえない音程より音量を採ったのか。第4楽章のティンパニの高いf がきれいに聞こえるのが心地よい。終楽章コーダは最も凄まじい演奏のひとつである。たしかBPOのCBSデビュー録音で、僕は89年にロンドンで中古で安いので買っただけだが、バレンボイムの振幅の大きい表現にBPOが自発性をもって乗っていて感銘を受けたのを昨日のように覚えている。ライブだったら打ちのめされたろう。彼はつまらない演奏も多いが、時にこういうことをやるから面白い。

 

(補遺、2018年8月25日)

ポール・パレー / デトロイト交響楽団

第2楽章の快速で乾燥したアンサンブルはパレーの面目躍如。これだけ内声部が浮き彫りに聞こえるのも珍しい。第3楽章も室内楽で、田園交響曲の末裔の音を感知させる面白さだ。ティンパニの音程が最もよくわかる録音かもしれない。指揮台にマイクを置いたかのようなMercuryのアメリカンなHiFi概念は鑑賞の一形態を作った。終楽章の細密な音響は刺激的でさえある。パレーは木管による妖怪のグリッサンドをせず常時楷書的だが、それをせずともスコアは十分に妖怪的なのであり、僕は彼のザッハリッヒ(sachlich)な解釈の支持者だ。

 

 

クラシック徒然草―ミュンシュのシューマン1番―

 

 

 

(こちらへどうぞ)

音楽にご関心のある方

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「春の祭典」

クラシック徒然草-田園交響曲とサブドミナント-

フランク 交響曲ニ短調 作品48

女性にご関心のある方

「女性はソクラテスより強いかもしれない」という一考察

日本が圧勝する21世紀<女性原理の時代>

 

 

 

 

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クラシック徒然草-「つぐない」はモーツァルトでもあった-

2014 JAN 17 15:15:50 pm by 東 賢太郎

ピアノ協奏曲20番のことを書こうと、第1楽章をおさらいした。

さていよいよピアノ様のご登場。

これだ。

20番

 

 

 

 

あれ! 手が止まった

まど~ににし~びが~

ではないか・・・しかもニ短調(Dm)だし・・・

こう書いちゃったが・・・

テレサ・テン「つぐない」はブラームス交響曲4番である

おそれいりました

もういちど「つぐない」をプレイバックしてみる

すると、な、なんということだ・・・・またあったぞ

カデンツァべーとーべん

 

昨日のブログに書いた箇所だ。

最後の方に2度繰り返される、バスが「悪魔の音程」増4度の降下をするE♭、A、Dmの和声連結などは・・・・

これはベートーベンさんのカデンツァだと思ってたら

あすはた~にんどうしに~

の和音じゃないの

コナン

 

(推理)・・・・

オーグメントを導くcis(C#)が犯人でした

「つぐない」 おそるべしです。

 

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ベートーベン ピアノ協奏曲第5番作品73「皇帝」

2013 NOV 23 17:17:29 pm by 東 賢太郎

万博

 

大阪万国博覧会は1970年のことだった。日本国にとって一大イベントだったが我が家にとってもそうで、東名を飛ばして大阪まで行った。日にちは正確に覚えてないが、高校に上がる前の春休みだったはずだ。

 

三菱未来館は東宝の特撮による火山や海底や宇宙の360度視界の映像で話題沸騰だった。背景に流れる伊福部昭 のBGMと音響空間の効果も大きかったように思う。アポロが持ち帰った「月の石」で長蛇の列ができたアメリカ館に対し、ドイツ館は「音楽の国」がテーマだった。パビリオンは国のプレゼンの場でもある。アメリカがアポロならドイツは音楽。ベートーベン生誕200年ということもあり、ベートーベンが聴けるものと勝手に思った。

当時はモーツァルトもベートーベンもよく知らない。だから聴きたくて仕方なく、家族はたぶん興味はなかったろうがわがままを言って列に並んだのだろう。ところがいざ入ってみるとがっかりだ。ドイツ館のメインパビリオンはシュトックハウゼンという現代作曲家の実験的な音楽ドームの様相だった。高い天井部を奇妙な音が走り抜ける。今と未来がテーマの万博という舞台なのだから後になって考えればたしかにそれは正解だったのだが、何も知らなかった僕は失望した。

写真 (45)写真 (46)しようがなく出口で記念品にレコードを買った(右と下がその裏と表だ)。するとウィルヘルム・ケンプの弾くベートーベンの皇帝が入っていて、少し渇望が満たされた感じがした。しかしあるのは第2,3楽章だけで第1楽章があるべきところにカラヤン指揮のコリオラン序曲が入っている。B面は「蚤の歌」と「接吻」、そして八重奏曲だ。これがドイツ国家勅撰の国威の象徴であり、そのプレゼン資料ということだ。皇帝をこれで初めて聴いた僕はぴんと来なかった。そりゃあそうだ。あの雄渾で気宇壮大な第1楽章がないんだから。これはうぶな少年に罪なおみやげとなった。なんとなく僕は第5協奏曲がつまらないと思いこんでしまったのだ。こんなごった煮で大ベートーベンを、いやドイツ国家を語ろうなど誰が思いついたのだろう?

そのせいで、結局しばらく僕はこの曲のレコードを買いそびれてしまった。中途半端ながら持ってしまっていて、それもどうも面白そうでもない。当時LPは2000円もしたし、聴きたい曲はわんさとあったからだ。ケンプの演奏のせいではない。彼の名誉のために書かなくてはいけない。もうひとつ大きな理由があった。これだ。

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この主題が少年の未開拓な耳にはわからなかった。この楽譜を見て歌えるならあなたは立派なミュージシャンだ。僕はこれが読めなかったし、読むどころか聞いてもリズムすらとれなかった。

3拍子、6拍子というのはそもそも日本人になじみが薄い。歌謡曲にも民謡にも校歌にもほとんどない。ちなみに我が九段高校の校歌は3拍子だが、音楽教師がそれを自慢にするほど例外的だ。童謡は西洋音楽を勉強した日本人が洋風を意識して作曲したからだろうか「象さん」や「赤とんぼ」など3拍子がある。しかしテンポは遅い。東洋人は快速の3拍子に慣れていないのだ。速いのはみんなイッチニ―イッチニ―のマーチや軍歌になってしまう。

だからベートーベンの3拍子のアレグロというものはいわば「鹿鳴館現象」であり、日本人には浮いたものだ。今だって、クラシックを初めて聴く人の耳にそれは起きている。どうもよくわからない、しっくりこない・・・当たり前なのだ。いくら洋モノを聴いたところでロック、ポップス、ジャズにもほとんどないのだから。しかし3拍子系なしにクラシック的な音楽というものは成立不能といえるほど当たり前のものだ。アメリカ合衆国の国歌を思い浮かべてほしい。

もしクラシックを、ベートーベンを極めてみようという方がおられれば、皇帝の第3楽章は最高の「耳の練習曲」だ。楽譜はいらない。このものすごく速い6拍子がちゃんと6拍子に聴こえるまで、合点がいくまで、何回でもリセットして聴いてみてほしい。左手伴奏の1,2,3,1,2,3がワンセットで6つだからちっとも難しくない。そうすると上にのせた楽譜がな~んだと簡単に読めるようになる。確実に耳が良くなる。だまされたと思ってやってみてほしい。

僕は音大卒でもミュージシャンでもない。しかしこうやって「耳を作る」のがクラシック攻略の強大な武器になることは自分で実験済みだ。四則計算ができなければ微積はできない。「耳の練習曲」は自信を持っておすすめできる。そうするとシューマンやブラームスやシェーンベルグの、もっと複雑で錯綜した音楽が面白く聴けるようになる。やがてはスコアもある程度は読めるようになる。J.S.バッハとベートーベンの音楽を聴きこむことは最高のドリルなのだ。

CDだが4番でご紹介したパネンカがここでも素晴らしい。挙げたいのだが、最後の最後でどういうことかティンパニが間違った音をたたいている。なぜ録り直していないのか不思議で仕方ない。あれで名演ぶちこわしだ。

 

ウィルヘルム・バックハウス/ ハンス・シュミット・イッセルシュテット/ ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

uccd9164-m-01-dl今年のパ・リーグのベストナイン投手に田中将大を選ぶようなものだ。あまりに順当なチョイスで面白くも何ともないが、これを聴いておかないと話にならないだろう。そういう演奏である。これとブラームスの2番だけは鍵盤の獅子王バックハウスを動かし難い。皇帝の称号は曲ではなく彼にさしあげたくなる。録音は数種類あってこれが最晩年のものだから普通には気がつかない程度の微細な不出来がある。しかしこれがライブであったならどんなに圧倒されたことか。ザ・皇帝とでもいうべきツボを心得た指揮者とオケ。そのテンポと起伏に乗って盤石の安定感で堂々たるドラマを繰り広げるピアノ。本物のベートーベンの音楽がこんこんとあふれ出る泉であり、ぜひ心してお聴きいただきたい。

 

エレーヌ・グリモー / ヴラディーミル・ユロフスキー/ ドレスデン国立管弦楽団

41kBt0faJyL._SL500_AA300_グリモーは大学で動物生理学を学び、ニューヨーク・ウルフ・センターを設立してオオカミと一緒に住んでいる。著書に『野生のしらべ』(講談社)がある。ユダヤ系フランス人で両親とも大学教授。13歳でパリ国立音楽院に入学した神童で、共感覚の持ち主としても知られる。面白い女性だ。一度会ってみたい。ピアノは野性的どころか正反対で実に知的刺激に富む。発想が清水の如く新鮮でみずみずしく、デリケートでありパッショネートでもあり誰からも聞いたことのない音がする。ソナタ28番も同じで、一気に僕の愛聴盤になってしまった。チューリヒでラフマニノフ2番を聴いたが指揮者(ジンマン)とあわずにぜんぜんダメだった。この女性を御すのは無理だ、普通の男には。オオカミかライオンが必要だろう。

 

(補遺)

ユーリ・エゴロフ / ウォルフガング・サヴァリッシュ / フィルハーモニア管弦楽団

5099920653125特筆に値する立派な皇帝である。エゴロフは僕と同じ学年だが34歳でエイズで夭折してしまった。正真正銘の天才であり、彼の高音の硬質な煌めきはミケランジェリに匹敵すると思う。ものすごく上手いがそれがそう聞こえず、音楽だけが響いてくる。ことばのプレゼンで、やさしいことを難しく言うのは馬鹿であり、難しいことを難しく言うのは凡人であり、難しいことをやさしく言うのは達人とされる。エゴロフは達人の域にあった。第1楽章カデンツァで短調でpになると音色がふっと変わる。魔法のように。豪気な中に青白いデリカシーが光るというのは並みのピアニストには求めようもないことで、緩徐楽章に無機質な音がないのは大変なことだ。オケはやや荒っぽいのが玉にきずだが、ピアノに触発されたかサヴァリッシュがいつになく張り切った伴奏をしており花を添えている。i-tunesにある。

 

(補遺、24 June17)

ディーター・ツェヒリン / クルト・ザンデルリンク / ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

これは今の僕にとって最高の皇帝であると断言してしまうべき名演である。ディーター・ツェヒリン(1926-2012)は有名でないのはDDR出身者の宿命だが、共産圏に隔離されたおかげで19世紀の古式床しい演奏様式のタイムカプセルとして希少な価値を有しており、知名度の低さはまったく不当なものであると言うしかない。ピアノはライプツィヒのBlüthnerで、木質感のある見事な美音で古典派に誠にふさわしい美音だ。現代人がこの曲に期待する華麗さには目もくれずテクニックをひけらかす風情もなく、では何がいいのかと問われれば、これこそオーソドックスなベートーベンなんだと答えるしかない。ピアノ演奏のテクニックというのは大道芸人の曲芸みたいなくだらないショーマンシップのためにあるのではない。そんなもので心ある聴衆の関心など得ようがないのだ。テクニックは音楽の求めるものを「あるべき風」に弾くためにあるのであって、それを獲得するには何が「あるべきもの」かを知っていなくてはならないのは自明の理だ。ツェヒリンのピアノの何が僕の心をとらえているのか説明できるなら是非してみたいものだ。一方で伴奏のLGOの渋く重たい音色がまたいい。ザンデルリンクの指揮も重厚そのものでエネルギーに満ちあふれ、これぞ皇帝だという絶対の風格を見せてくれる。このピアノは指揮者の求める「あるべきもの」と完璧に合体しているのである。燻んだ音を包むホール残響がうまくとらえられまさに東独の音がする録音であり、万事僕の趣味に合致する演奏にぞっこんである。

 

 

 

 

 

 

 

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クラシック徒然草-ベートーベンかベートホーフンか?-

 

ベートーベン ピアノ協奏曲第4番ト長調作品58

2013 NOV 18 17:17:37 pm by 東 賢太郎

4番は1806年夏ごろに完成されました。5番の「皇帝」ではなくこちらをピアノ協奏曲の最高傑作とする人も多い名曲です。

同年9月の手紙でラズモフスキー四重奏曲、交響曲第4番、歌劇フィデリオ、オラトリオ「かんらん山上のキリスト」とまとめて出版交渉された記録があります。1807年の私的な初演を経て、1808年に例の交響曲5,6番を初演したアン・デア・ウィーン劇場で公開の場で演奏されました。その際弟子のツェルニーはピアニストをつとめたベートーベンが「とてもmutwilligに弾いた」と証言しています。

いたずらっぽく、悪乗りしてとでもいう意味のようです。楽譜にない音をたくさん散りばめて弾いたという意味に解釈されているようですが、「最高傑作派」の観点からはあの深遠な第2楽章をいたずらっぽく弾くなど想像がつかない気がします。深遠と書きましたが、この楽章は非常に謎めいていてわからない。短いですが大変なインパクトのある楽章です。存在自体天才のいたずらかもしれない?彼は3番では非常に美しい第2楽章ラルゴを書きました。次がこれです。

まず何かを諭すような f の弦のユニゾンに始まります。第9交響曲の終楽章の低弦のようにメッセージがあるかのように思われます。ピアノが答えます。弦とピアノの応答が続くとやがて弦は pp まで音量を落とし、ピアノがPC4mov2ひとしきり解き放たれて歌います。そして右手のトリルに左手の半音階下降という、説諭に対して何かを説きかえすような不思議な音楽となります(楽譜・右)。和声感は消え去り、何か世俗の楽しみを奪われ神の審判でも受けるかのような瞑想的、神秘的な雰囲気が漂います。そして最後のカデンツァはAm→B→Emの深い宗教的な感情の中に消えていきます。こんな音楽がそれまで地球上に響いたことはなかったでしょう。

終楽章はロンド(vivace)です。前楽章の霧の中から生命の喜びを感じる楽章への鮮やかな場面転換というコンセプトは第5交響曲に同様に直截的に出現し、田園ではストーリーを伴って婉曲に表れます。濃霧が晴れる感じはワルトシュタイン・ソナタも同じです。霧は深く嵐は苛烈なほど転換は印象的なのです。おそらくハイドンに起源を見出したこの手法はこの4番の緩徐楽章の深さで一つの到達点に達したかもしれません。

前後しますが第1楽章のピアノのモノローグによる開始、これも抜群にユニークです。この主題は交響曲第5番と同じ頃のスケッチ帳に書かれています。

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第1~2小節に運命動機が3つ繰り返されていることにお気づきでしょうか。第4協奏曲の第1楽章はこの運命動機で組み立てられたアナザー・バージョンと言ってもよさそうですが、ヴァイオリン協奏曲、熱情ソナタもそうですからこの主題が当時の彼の頭の中に通奏低音のように流れていたことがうかがえます。この楽章は優美な第1,2主題ともうひとつ短調の副主題をもった大規模なソナタであり、後者の展開の緊張感あるドラマと前者の対比が通常のソナタ形式を一歩前進させ、より多層的な構造となっている。ベートーベンの天才が開花したことを知る中期の傑作であります。

メンデルスゾーンが演奏会で弾いた記録のあるピアノ協奏曲にモーツァルトの20,24番があり、ベートーベンではこの4番を何度か弾いています。その3曲を特に好んでいたのがブラームスであることは非常に興味深いです。ブラームスは4番のカデンツァを残しており、自身のピアノ協奏曲第1番にこの4番の明確なエコーを聴くことができます。また、ハンス・フォン・ビューロー、クララ・シューマン、サン・サーンスもカデンツァを残しています。ブラームスとクララの名がここで重なる。そういう思いをもってこの名曲に耳を傾けるのも一興でしょう。

 

ヤン・パネンカ / ヴァ-ツラフ・スメタ-チェフ / プラハ交響楽団

770(1)パネンカは伴奏ピアニストと思われているがとんでもない。これだけ詩的で品格がありしかも自発性に富んだ4番はありません。例えは妙ですが、神社の清冽なご神水でお清めを受け身が引き締まったかのような気持ちにさせてくれる稀有の演奏であります。第1楽章、オケのあとにピアノが入るや漂う、あたりを支配する凛とした雰囲気を聴いていただきたい。第2主題のあと現れる副主題の展開部はなかなか満足な演奏がないですがパネンカの演奏は深く彫琢された大理石のように見事。スメターチェクの指揮も同様で、古典的な格調、やや速めのテンポによる陰影の意味深さ、生命力とも満点です。

 

クラウディオ・アラウ / オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団

294(1)1957年のロンドンはロイヤル・フェスティバル・ホールでのライブです。アラウのベートーベンのタッチは余人にかえがたい滋味があり、僕は彼のソナタ集を敬聴しています。深い瞑想のような第2楽章を経てこれぞベートーベンという力のこもった協奏にいたる終楽章は立派の一言。クレンペラーのライブの凄さを実感できます。このチクルスでエロイカの終演後にカラヤンが楽屋に来て賛辞を述べたこと、9番を聴いたジョージ・セルが「残念ながら良すぎた」と言ったことは語り草ですが、オケの質量感にその片鱗を感じます。

 

ワルター・ギーゼキング/ アルチェオ・ガリエラ / フィルハーモニア管弦楽団

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ギーゼキングの音は決して濁りません。アラウとは全く違うがタッチは同じぐらい余人にかえがたい個性があります。宝石のように磨かれた粒立ちで弾かれた透明感のある4番はユニークな魅力があります。第2楽章の深い沈静からからりと乾いた空気感のある終楽章へのコントラストも見事で、ミラノ生まれのイタリア人ガリエラの指揮も音の鳴らし方がどこかラテン的で重くなりません。一聴に値する名演と思います。

 

(補遺)

マレイ・ペライア / セルジュ・チェリビダッケ / ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

299272_1_f驚くべき名演である。ライブだが録音が素晴らしく、舞台に近い席でピアノを眼前にオケが広がる音場だ。ペライアの美音がボディをもって余すところなく堪能でき、重みとコクのあるオケが包みこみ、適度なホールトーンが心地良い。チェリビダッケのテンポでやや遅めだが、音楽は一切停滞したりもたれることなく4番の奥義を紡ぎ出し、ベートーベンを聴く最高の充実感を約束してくれる。ペライアがそれに完璧に感応して第2楽章など霊感に満ちた世界を生むのはスピリチャルなものさえある。こういう演奏ができたからチェリビダッケは一流たりえたという格好の証明でもある。

 

クララ・ハスキル / アンドレ・クリュイタンス / フランス国立管弦楽団
5f5cd262-ad3e-4cb1-99bd-f475af2232a91955年12月8日、ハスキル60才のライブ。モーツァルトの名手がモーツァルトにふさわしいタッチで弾いたと言って概ね間違いでない。録音は一般的な意味では良くないが、ピアノが非常にオンに録られておりハスキルの表現の綾の細部まで聞きとれるのが貴重。第2楽章の深い灰色の沈静は印象的。終楽章で指がもつれるがクリュイタンスが堂々たる伴奏でカバーするのもライブ感にあふれる。初心者にはおすすめしないが、4番を聴き込んだ人には一聴の価値あり。

 

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ベートーベン ピアノ協奏曲第5番作品73「皇帝」

 

ベートーベン ピアノ協奏曲第3番ハ短調作品37

2013 NOV 3 17:17:49 pm by 東 賢太郎

ベートーベンにとってハ短調は特別な調とされます。第5交響曲は言うにおよばず、悲愴ソナタ、32の変奏曲、ヴァイオリンソナタ第7番、コリオラン序曲そして最後のピアノソナタ作品111もハ短調ですね。

しかしハ短調はベートーベンより以前の18世紀後半以降の作曲家においてもすでに独特の意味があり、「ドラマとパトス(情念)」の両立という意味があった(チャールズ・ローゼン)という説もあります。ユニゾンのオクターヴでc-e♭と主題が開始され、直後のフレーズが弱音で対比するというパターンはハイドン、モーツァルトを経てベートーベンに遺伝しています。

ハイドンの交響曲第78番ハ短調の冒頭はこうです(作曲は1782年ごろ)。

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モーツァルトのピアノ協奏曲第24番ハ短調冒頭と比べて下さい(作曲1786年)。

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ベートーベンはモーツァルトの24番に感嘆し、自分の曲の中で「二、三の貢物を捧げている」(アルフレート・アインシュタイン)。ベートーベン3番の冒頭はこうなります。

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この3番のピアノ協奏曲の着想は1796年のスケッチ帳に現れ、「カデンツァにティンパニを」という書き込みがあるため当初は軍楽的性格も念頭においていたことが分かる(西田紘子氏、Philharmony10月号)そうです。1803年に作曲者のピアノ独奏でアン・デア・ウィーン劇場で初演されましたが、その翌年から書かれる第5交響曲の終楽章の勇壮な第1テーマはc-e-g-f-e-d-c-d-c (ド-ミ-ソ-ファ-ミ-レ-ド-レ-ド)す。このe(ミ)を半音下げると上の譜面になります。軍楽的という側面から見ると両者は似た性格と出自を持った主題かもしれません。

作曲当時はまだ短調作品は最終楽章に至って長調になって終わる、つまり聴衆への耳触りの良いサービスをもって書かれるというのがスタンダードでした。上記のハイドン78番もそうですし、モーツァルトのP協20番もそこだけは妥協しています。ベートーベン3番は終楽章を短調で始めますが最後は妥協です。だから短調のまま一切のリップサービスなく終わるモーツァルトの24番は異彩を放つのですが、この神がかり的な名曲については別稿でじっくり述べたいと思います。

上記の楽譜の相似を見ても、アインシュタインの主張のように3番はその24番に触発された作品と考えられます。ベートーベンは「神がかり」になることはできない人でしたが、この作品でモーツァルトとは違う独自の語法でピアノ協奏曲の世界を築いたと言えるでしょう。例えば第2楽章はハ短調音階とは一つも音の重複のないホ長調という遠い調で書き、まったく別の幻想的な音響世界を目ざすなどベートーベン・ワールドの萌芽があるのです。

僕は1,2番といえどもモーツァルトの延長のような演奏は好みません。前回までに楽譜にて指摘したように先人の影響、残滓は各所に見られるのですが、それは作曲者がまさに「否定」「克服」しにかかっていたものであり、「引用」「回顧」ではないということがとても重要と思います。それを頭からのんきに肯定してかかる演奏が非常に多いのですが、それを聴く暇があるなら僕はモーツァルトの協奏曲を聴きます。

この3番は第1楽章のオケパートが1番と同じ編成にもかかわらず、その重みでベートーベン・ワールドに踏み込んだという点で1、2番と一線を画しており、交響曲のエロイカに相当するものです。だからそれを感じさせる魂をえぐるような重い表現を僕は求めます。モーツァルトではないものが指揮者に求められています。

ピアノのタッチも同様です。作曲当時の楽器はまだモーツァルトのものと同じで音域がせまく、膝でペダルを押し上げる仕組みの「フォルテピアノ」でした。ところが楽譜を出版する1804年になってさらに広い音域を誇るエラール社のピアノを入手すると、さらに高音域を書き加えた新バージョンを並行して印刷したのです。彼の向上心、挑戦意欲が分かります。おざなりにきれいで上手いピアノの出番などないのです。彼のパッションを満たし、彼が聴けばきっと満足するだろうというピアノを僕は求めます。

難聴の苦難を乗り越えるにあたって彼が友人たちに宛てた手紙に何度も現れる言葉が「neuer Weg(新しい道)」です。彼はそこに新しい道があればそこに進まないことはないという人でした。僕がベートーベンを好み、尊敬し、心の糧にしているのはそれに強く共感するからです。因習的なものに満足せず常に前へ進む衝動!彼はそれによって絶望を克服しました。まさに、この3番を書いていた頃のことです。この名曲を聴くにあたって、そのようなことを心にとめておかれてはいかがでしょうか。

 

スビャトスラフ・リヒテル / クルト・ザンデルリンク / ウィーン交響楽団

41WQPHJ0H7L._SL500_AA300_                                                        このザンデルリンクのずっしりした重みと意味深い表現は僕の知る中ではこの曲で最右翼のオーケストラ演奏でしょう。第1楽章はこういう表現でなくてはベートーベンにならないという強固な主張があります。そのオケにがっしりと支えられた全盛期のリヒテルのピアノの輝きは見事であり、エラールの先に作曲者が求めていたものを見る気がします。僕は今は亡きザンデルリンクを1度、リヒテルを3度ライブで聴きましたが、個性が異なる両者の組み合わせは夢のようです。

 

同系統の演奏ではなく、毛色の違うものをご紹介しましょう。

 

アルトゥーロ・ルービンシュタイン / ヨゼフ・クリップス/ シンフォニー・オブ・ジ・エア

71Z7XA9NoaL._SL500_AA300_この録音のLPをロンドンで買った時には狂喜しました。オケの何という自発性のあるレスポンス! リヒテル盤とは対極的な軽妙さながら音楽性満点であり、ツボを知り尽くしたクリップスの指揮はトスカニーニが振っているのではと思うほどのメリハリを見せます。ルービンシュタインのピアノは深みには欠けますが変幻自在のラプソディックな味わいはベートーベンでは聴いたことのない新鮮さであり、それが全盛期の冴えまくった技巧で堪能できます。終楽章は速めのテンポでライブのような愉悦感をふりまき、とにかく明るい3番なのです。これにブーを飛ばす人はいるだろうけど、音楽を楽しめるということでは抜群の演奏であり、僕の愛聴盤となっています。

 

エミール・ギレリス / クルト・マズア / ソビエト国立交響楽団

これは全集で僕の大学時代に(おそらく76年12月)にライブ録音されたもの。なにか異常な熱気に満たされたオケの前奏が残響の多いホールに響きわたり、ギレリスのピアノがこれまた鋼鉄のタッチといわれた硬質の響きを聴かせます。僕は最晩年の彼をロンドンで聴きましたし、ベートーベンのピアノソナタ録音を愛聴しますが、この協奏曲の全集も特別の位置を占めるものです。最も男性的なアプローチとして広く聴かれる価値があると信じます。

 

ダニエル・バレンボイム / ラースロー・ショモジ/ ウィーン国立歌劇場管弦楽団

978名前を伏せて聞かされたら、まず誰も21才の若手の演奏とは思わないだろう。バレンボイムはすでに一級のアーティストであった。素晴らしい指回りと軽めで粒立ちの良いタッチが抜群に心地よいばかりか緩徐楽章の深みもある。バック(ウィーンPOと実体は同じオケ)がまた良く、指揮に特色はないが全く過不足ない魅力的なサポートだ。後のクレンペラー盤の重みはなく、あっさり系の3番だがこのうまいピアノに何の文句があろう。しかも古い割に録音が良く、僕が愛好しているCDだ。

 

アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリ  /  カルロ・マリア・ジュリーニ  /  ウィーン交響楽団

71ArBE8JV3L__SX425_1番と同じくジュリーニのウィーン響が腰の重みあるドイツ流の音で支えながら、ミケランジェリの硬質で透明なソロがラテン的な味を添えており、一風バランスの違った高貴な3番になっている。第1楽章のテンポはじっくり構えて遅めに設定され、緩徐楽章も遅くてソロはラプソディックなモノローグという風情すらある。終楽章は普通の速さになるが、力むことなく歌うように流れ、ピアノの澄んだタッチが生き、深刻さや悲痛さより詩的な印象が残る。このなにか気高いものに触れたという感じはとても好きだ。

 

(補遺3Oct 17)

ルドルフ・ゼルキン / レナード・バーンスタイン / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

僕は保有LP、CD等のリストを詳細に手書きで作っていて、この演奏のカセットを米国で持っていた記憶があるのだが記載がない。当時は記憶力には自信があったがどうしてないか不明だ。米国からロンドンの転勤のどさくさで紛失したのか?ともあれこれは筋肉質で聴きごたえある演奏だ。明快な録音でゼルキンの絶頂期が聞けるし第2楽章の薄暮の世界は一聴の価値がある。バーンスタインの伴奏もテンポが良くてだれない。もはや歴史的名盤の仲間入りだが、このご両人をライブで聴いている僕も62歳なんだ。

 

 

 

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

 

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ベートーベン ピアノ協奏曲第4番ト長調作品58

 

ノリントンとN響のベートーベンを聴く

2013 OCT 27 2:02:32 am by 東 賢太郎

レオノーレ3番、ピアノ協奏曲第3番、交響曲第5番というオール・ベートーベン・プログラム、ピアノはラルス・フォークトであった。3曲とも主音がハで、ハ長調で始めてハ長調で終わる。

ノリントン東日本大震災の1か月後、原発事故に恐れをなして外人はおろか一部日本人も関東から逃げ出していた4月16日のことだ。ノリントンさんは予定通りに来日して、NHKホールでN響のAプロ、ベートーベンの交響曲第1番とエルガーの同1番を指揮した。思えばそれがこのベートーベンシリーズの幕開けだった。外国のオペラハウスやタレントが次々と苦しい言い訳をして東京公演をキャンセルしていた中でのことだった。あの日の指揮台からの震災犠牲者への追悼の言葉と、そうして演奏された誇りに満ちたすばらしいエルガーを僕は一生忘れないだろう。

若いころ6年イギリスで生活した僕はいろんな英国人とつきあい、たくさんのことを彼らに習った。知識はアメリカで教わったかもしれないが、紳士たること、そして大人の男のダンディズムとユーモアみたいなものを教わったのは断然イギリスなのだ。ノリントンさんにはそれを強く感じる。大人なのにある稚気、子どもみたいな好奇心やいたずら心にも魅かれるものを感じる。ああいうお客さんがいたなあ、一緒にゴルフしたなあ、東京や京都なんかを企業調査トリップしたなあ・・・もう無性に懐かしい。

例えば、レオノーレは舞台裏でトランペットが鳴るが、普通は奏者は演奏後も舞台に登場しない。しかし彼はカーテンコールでその奏者をソデからひっぱって連れ出してきて万雷の拍手をうけさせた。これがイギリス人だ。上手く吹いた彼の名誉のためでもあるが、舞台裏の仕掛けまで明かして楽しませる、これは彼一流のユーモアでもある。マジシャンが前座ネタで見せた手品のタネをわざと明かして笑いを取ったような。会場の気持ち一つにしようという試みのようであり彼は一見、和気あいあい型の指揮者であるかのように見える。

レオノーレから弦はいい音で鳴っていた。前回とほぼ同じ席だったが音がまるでちがう。まずは古楽器流ノンヴィヴラートである。その効果は音の純度を高めるだけでない。和音が美しい。音取りは一発勝負でごまかしがきかないから奏者の集中力も高めただろう。これに耳が慣れるとヴィヴラートが汚らしく感じてくるな、と今後の身の危険すら覚える音だ。ノリントンはコンセルトヘボウ管弦楽団のコンサートマスターであるヴェスコ・エシュケナージを連れてきて弦をリードさせた。リーダーを入れ替えないとできない。そこまで徹底してやるぞという意志を見る。和気あいあい型?とんでもない。彼は一流の支配者である。これがイギリス人だ。

P協3番には驚いた。蓋をはずしたピアノが完全に向こうむきでピアニストは客席に背中を向けて座る。オケはピアノを中心に半円形に並んでいてオーム(Ω)のような形に座っている。Ωの開口部からピアノが見えていて、開口部両わきの第1、2ヴァイオリンも円形に添って半分は客席に背を向けている。指揮者はピアノの奥、やや左から客席を向いてピアニストと向き合って棒を振るというあんばいだ。大きな室内楽空間という感じになり、貴族の大きな館でやっている演奏会をバルコニーからでも見ている感じだが、面白かった。その空間あってのインティメートな音楽は3番として異例であり、月明かりのように幻想的なppの支配したホ長調の第2楽章は、聴衆に向けているというよりもスコアにある内省的な感情を掘り下げるようで大変ユニークであった。

ラルス・フォークトはたしかP協1番をドイツかどこかで聴いた。今回はその時のイメージとはちがっていた。徹底したレガート主体、弱音重視であり、弦の柔らかいノンヴィヴラートに融和する音色を出していたのが印象的だ。シューベルトよりのベートーベンといったところだ。第3楽章展開部で各声部がフガート風に入っていくところの弦のテクスチャーなど聴いたことがない精妙なものだった。思わず耳をそばだてたが、ピアノもそのデリケートな透明感と一体になっていて、指揮者とのアイコンタクトによって、触れれば電気が走るような絶妙の間合いとインスピレーションにあふれる音楽を生んだ。コーダのユニゾン下降ですらffで弾かないのは驚いたが、それがノリントンのコンセプトなのだ。アンコールのショパン夜想曲20番嬰ハ短調もデリカシ―の極致であり、美しかった。

第5交響曲。冒頭は物々しさとは無縁だ。あくまで主題の提示であり、あくまで「管弦楽のためのソナタ」として快速で進み、あちこちで鳴る運命主題はスタッカート気味に自己主張する。実に刺激的で面白い。テンポはほとんどルバートせず、大家然とした手垢のついた解釈をあざ笑うかのように快速テンポで疾走。楽譜にないユニークな強弱設定があると思えば、第2主題を導くホルンは2度目はファゴットと楽譜通り。これがどういうわけか余りに自然であり、むしろファゴットでなくてはならないと納得した次第。こんなことは人生初体験だ。「楽譜にない」とつい書いたが、作曲家の本音はそうだったとして不思議でないとまで思った。大家然の手垢のほうがおかしいのではないか?僕らは妙な5番を刷りこまれてきたのでは?

第1楽章の最後の和音が重々しく鳴り終わるやいなや、彼は客席を振り返り、おどけた顔で額の汗をぬぐって「ふう~」とため息をついて見せる。「あ~力いっぱいやってみんなちょっと疲れちゃいました、一休み」とでもいう感じだ。客席から笑いと拍手がこぼれる。運命は扉をこうたたくなどと学校でくそ真面目に教わっている我々はここでまた「妙な刷りこみ」の呪縛を解かれる。そしてそっと鳴りだした第2楽章。好対照である柔らかい音色。あれはそこへの巧みなブリッジ、お口直しだった。

この楽章から第3楽章のピッチカート部分のアクセントにいたるまで、細部では凝りまくったことが行われた。弱音部では弦5部とも最後尾のプルトを弾かせないのも驚いた。全員がpp で弾けばいいだろう?いやそれとは違う効果を狙ったものだ。これぞ楽譜にはない。ヴァイオリンが12人もいる大オーケストラなら作曲者はこうしただろうという主張を見る。和気あいあいとは程遠い強靭な意志の徹底だ。管のほうではこの日のN響はクラリネットとファゴットがいい音のブレンドとなり、中間楽章でオケ全体に暖かい質感を与えていたのが印象に残る。

第4楽章ではト長調第2主題に、第2ヴァイオリンがfpで嬰二音を入れるが、彼はこれを闖入者みたいに強調して弾かせ、それどころか客席に「これを聴いて!」とばかり目くばせまでするのだ。彼は「サプライズとユーモアがなければベートーベンではない」と持論を語るが、僕も同感だ。あの音の強調を高邁な「解釈」として押し付けるのではなく、「サプライズを一緒に味わって!」と客席まで巻き込むのだ。どう、ベートーベンって楽しいでしょ?というスタンスだ。大賛成である。

彼は他人をインスパイアできる人だ。5番が「できたてほやほやの音楽」だった息吹を聴衆に体感させ、クラシック音楽が博物館の干からびた聖遺物みたいになるのを救っている。僕は音楽をショーマンシップのだしに使う演奏家は徹底して嫌いだが、「嬰二音」を強調して見せても何のショーにもならない。彼はあれにいつも「サプライズ」を感じるのではないかと推察する。それを皆さんにも味わわせたい。それがベートーベンを聴くということだからだ。料理人が良い食材を手にしたときと同じで、それはプロとしてまったく自然な動機ではないか。

そういうことをうるさくて嫌う人がいるだろう。第4楽章のコーダでテンポがにわかに速くなって終結へ向かうなど、不自然だ、恣意的解釈だという人もいたに違いない。正統派ベートーベン好きからすれば許し難い冒涜かもしれない。おそらくそういうことでブーも飛んでいた。これはノリントンにとって名誉なことだ。個性は賛否両論を呼ぶのが常である。いつも全員賛成で不感症にちかい日本のコンサートホールに個性を叩きつけて、認められたということだ。僕はといえば、非常に楽しんで、涙が出るほど感動した。過去の大指揮者たちの気ままな恣意とショーによる手垢がきれいに剥げ落ち、まるで積年の埃を洗い流したモナリザを見たような、ベートーベンの原画が秘めていたパワーに触れたような思いだった。

さっき5番のスコアを見返していて、残っている楽譜って何なのだろうと改めて考えた。 P協3番の初演のピアノをベートーベンは即興で弾いたのだ。弟子が弾く時に、ある意味レファレンスとして譜面にしたのが元になって今の出版譜になっている。これは現代ならジャズにきわめて近いだろう。例えばモーツァルトの26番のピアノパート譜はレファレンスどころか自分のための備忘録程度の部分もあり、音からして「まったく不完全」なものだ。それをくそ真面目に音にしているクラシックオンガクとは何なのか? だいぶ前だが、女の子が運転する車が古いカーナビの指示するままスーパーマーケットに突入してしまうCMがあったが、それを思い出して滑稽ですらある。

そう書いてあるから絶対ということではないのだろう。スコアを初演前後のパート譜からおこした場合、その時の演奏会の奏者や楽器やホールなどの様々な特殊事情でたまたまそうなった部分が印刷されてしまったかもしれない。ノリントンが譜面からベートーベンの「サプライズとユーモア」を読み取ろうとするのは、だからとても刺激的な試みだ。それは音符にはならない。音符から感得するしかない。音楽家の知性、感性、常識、教養、好奇心はだからこそ重要なのだ。日本人の演奏はどうも「カーナビの言うとおり」という感じがしてならず、N響もそういう性向がある。それを啓蒙専制君主のごとくぶち壊しにかかったノリントンさん、賛否両論の域までもっていって見事であったし、それを高い集中力で具現したN響も好演であった。

 

 

ベートーベンピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15

2013 OCT 23 23:23:06 pm by 東 賢太郎

大学時代にこれを聴き始めた頃、僕は第1楽章のこの部分に非常に驚いていた。クラシックに慣れていない当時の僕の耳には現代音楽のように響いていたのである。作曲当時の聴衆も似た衝撃を感じていたのではないかと推察する。

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作曲は1794-5年。あの第2番変ロ長調協奏曲にとりかかってから8年後だ。長足の進歩である。主題の処理の手際、展開など前作の比ではない。その前作もこの時期に改訂したので、この時点の進歩の衣装をまとったものなのだが。後に初演される野心的な第1交響曲とは調性も楽器編成(クラリネット2、トランペット2、ティンパニが加わった)もまったく同じだ。第2楽章の調性が前作では常套的な4度上だったのが1番では3度下の変イ長調という新機軸も入ってくる。

しかし一方で、第1楽章のピアノ登場の直前のオケパートの和音連結にモーツァルトがはっきり現れるなど、前作と全く同じ面も残している(違うコード・プログレッションであるが、こっちもやはり魔笛のトレードマークだ)。第3楽章はいきなりピアノが第1主題を弾きはじめるが、これもモーツァルトの第9番変ホ長調「ジュノーム」の第3楽章の入りとそっくりだ。この楽章はティンパニが活躍するなど先輩にはない新機軸もあるが、まだ折衷的なものであり個性の開花とは至っていない曲である。

 

エミール・ギレリス  /  クルト・マズア /  ソビエト国立交響楽団

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大学時代にFM放送で聴き衝撃を受けた演奏をあげさせていただく。ギレリスの快刀乱麻の腕が冴えわたったライブで、オーケストラがやや落ちるがそれはすぐ忘れてしまう。それほどすごいピアノである。第1楽章、ミスタッチもいとわぬ打鍵の強靭さに圧倒される。この気迫は何なんだろう。オケも押されていてマズアが懸命にあおっている感じだ。第2楽章は一転して遅いテンポで深い情緒を表出し、緩急自在のフレージングよる変イ長調のロマン的世界になるのが印象的だ。そしていきなりピアノが疾走する第3楽章!ベートーベン自身もこのぐらい弾いたのだろうと思わせるほどギレリスの明快なタッチはこの楽章に合っている。他の演奏が物足りなくなること請け合いだ。

 

ペーター・レーゼル / クラウス・ペーター・フロール / ベルリン交響楽団

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ドイツ人によるドイツ語のベートーベンというイメージの演奏である。レーゼルはブラームスの2番のライブでも感じたが音楽の構築観と音のバランスを大切にした揺るぎのないピアノを弾く人だ。浅薄な部分は一切なく、和音は美しく、一音一音を音楽に奉仕する姿勢で弾き、あるべきところにあるべき音がある。だから過度な表情づけがなく汚い音はまったく出ない。この1番も芳醇なあたたかい、しかし芯のある音で見事に弾きこまれる。ベルリン・イエスキリスト教会の空間を感じさせる音響が包み込むオーケストラも最高だ。第3楽章はティンパニのf も実在感をもって鳴っており、音楽は熱してきれいごとに終わらない。これだけ無心に安心してこの曲にひたれる演奏もそうあるものではない。何も変わったことはしていないが最高に音楽性の高い名演である。

 

(補遺、3月9日)

アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリ  /  カルロ・マリア・ジュリーニ  /  ウィーン交響楽団

71ArBE8JV3L__SX425_まことに格調の高いエレガントなオーケストラで開始する。ジュリーニの指揮の品の良さというのは抗いがたいもので、遅めのテンポで腰の重いトゥッティのアクセントはベートーベンにふさわしい。そこにミケランジェリのひんやりと硬質なタッチのピアノがからむ対照の妙はこのコンビの魅力だ。3番、5番もあり、こればかり聴いていた時期がある。終始、テンポやダイナミクスを煽るような安手の仕掛けは登場せず、それで十分な感動と興奮を与えてくれる「大人の1番」だ。

(補遺、9June 17)

米国留学時代にフィラデルフィアのFM放送からエアチェックした、ルドルフ・ゼルキン / ラファエル・クーベリック / ニューヨーク・フィルのライブ(1983年9月)です。

 

(補遺、19 June17)

グレン・グールド /  ヴラディーミル・ゴルシュマン / コロンビア交響楽団

1958年4月29、30日にニューヨークのコロムビア30番街スタジオでの録音。トスカニーニの死とともに解散したNBC SOに代わって登場したこのオケはワルターに振らせるCBS SOとでも呼ぶべきものだが、そのステレオ最初期の記録であるこのLPは幸いなことに高度な分解能、分離度が細密にとらえているオケが非常にうまい(ゴルシュマンを僕は高く評価する)。グールドのタッチの輝きも自然に収まっており、これまた一級品のうまさである。第1楽章のグールドによるカデンツァはマックス・レーガーの和声イディオムによると自身が語っているがユニークだ。この録音を受け取ったグールドは「2日間も歓喜に浸りました。最初から最後まで、真の生きる喜びにあふれています」とゴルシュマンに手紙を書いています。まったくそのとおりと思う。

 

 

 

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ベートーベン ピアノ協奏曲第3番ハ短調作品37

ベートーベンピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品19

2013 OCT 19 22:22:51 pm by 東 賢太郎

なぜ2番からか。これが最初のピアノ協奏曲、つまり1番だからである。後に作曲した1番より先に出版された、だから2番となっているだけだ。

ベートーベンはモーツァルトに会う前の年1786年ごろ、まだボン時代の16歳でこの作品に着手した。モーツァルトはピアノ協奏曲27番に1788年に着手したことがアラン・タイソンの五線譜紙分析により判明しているから、それを着手時の彼はまだ知らない。変ロ長調。ベートーベンが万一88年ごろに何かのつてでその曲がB♭の曲だと知ったとしても、自分の変ロ長調の初稿が完成したのは1790年だ。先輩の変ロ長調が最後のピアノ協奏曲になることは知らない。この一致は奇縁なのだ。

ベートーベンはこの初稿を3回も改訂していて、我々が知っているバージョンは1798年の第3版である。モーツァルトの死後7年目に完成したものだ。管弦楽はフルート1、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2、弦5部であり、これはモーツァルトの27番と全く同じ編成なのである。Wikiに「楽器編成が小さい理由は、はじめ貴族の私邸で演奏することを想定して作曲したからではないかといわれている。」とある。

ここはコメントしておいた方がいいだろう。この頃モーツァルトはもうすっかり貴族の人気がなくなっており、予約演奏会は開けなかったので27番の初演は宮廷料理人だったイグナーツ・ヤーンの私邸で行われた。その家は大作曲家がその9か月後に急逝の時をむかえたRauhenstein通りの家の目の前で、現在はこの写真のようなカフェになっている。ヤーンの住居はこの2階だ。このカフェで僕はひとりでコーヒーを飲みながら感無量の思いにひたり、今はデパートになっている彼の最後の家をこの窓からじっと見つめながら、ふと気がつくと27番が頭の中で鳴っていたことがある。初演27番

27番の楽器編成はこの広さの演奏会場用ならしっくりくる。20-26番の内トランペットとティンパニを欠くのは23番とこれだけだ。しかし、これから世に出てコンサートホールでこのデビュー曲をバリバリ弾こうというベートーベンがなぜそんな小さな楽器編成を選んだのだろう?そこでWikiのような答えが出てくるわけだ。

ベートーベンは先輩の27番を知ってしまい、どうしようもないレベルの落差から第3楽章ロンドを書き直して3回も改訂した(93-95年)のではないだろうか。奇しくも同じ調性であり、楽器法まで意図的にそろえたのではないだろうか。彼はこの曲でウィーンデビューを飾り、これをウィーンの宮廷顧問官に献呈までしている。皇帝や宮廷の貴族にではない、役人にである。まだ20歳代の意気軒昂な野心を見て取れないか。そしてピアノ協奏曲をシグナチャーピースとして自作自演することでウィーン楽壇の一世を風靡した大先輩の後を襲い、凌駕して見せることこそ彼は出世の糸口と考えたと思う。

彼の変ロ長調にはそれ以外にも明確なモーツァルトの刻印がある。オペラ「魔笛」の序曲のこの部分の引用だ(この連弾譜の赤枠部分)。

zauberfluteここは変ロ長調でソプラノはB♭、B♮、C、Aを繰り返す。これがベートーベン2番ではこうなる。第1楽章のピアノの登場の少し前だ。調性も音列も魔笛とまったく同じである。beeth pc2

しかし、この音列に彼がつけた和声はB♭-G-Cm-Fであり魔笛と違う。そして2番はその和声連結をそのままに今度はソプラノ音列の方を変えたものを pp でピアノが奏し、それをオケが pp で受け取り、一気にff の全奏になだれこんで全曲を閉じるのだ。

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つまり2番は魔笛を知っている人にそのエコーが聞こえるように書かれている。良く考えてほしい。魔笛が作曲されたのはモーツァルト死の年である1791年だ。第3楽章が改訂によって別のものに入れ替えられたのは1793年からだからいい。問題は91年より前に書かれていた第1楽章にこの魔笛音列が出てくることだ。ベートーベンの創作だったのか?確かめられなかったが第1楽章にも94年から改定が加えられたそうで、もしもこの部分も改訂されたものなら仮説は信憑性が出てくる。グールドの聴衆だった貴婦人はグールドも喜ばせたのだが、ベートーベンもそれを聞いたら狂喜したに違いない。

これから俺の時代だよウィーンの皆さん、という風に僕には聞こえる。同じ変ロ長調である交響曲第4番の第4楽章にもこの魔笛和音列を登場させるのも意味深だ。こういう発見はへたな推理小説より面白い。ちょっと脱線するが、こういうのは現在のところ聴き手の脳の中に蓄積した「音楽ビッグデータ」からしか見つからないものだ。グーグルで検索とはいかない。地上の全楽譜がオンライン化すれば可能になるだろうが、ベートーベンが何故そんなことをしたかまでコンピューターが考える時代が来るまでには時間を要するだろう。人間の脳ミソのやることはまだあるのだ。

さて2番である。第1、2楽章は青年がモーツァルトの衣鉢を継いだ作曲家兼ピアニストであることを証明するレベルにあると思う。しかし残念ながらさんざん推敲した第3楽章は落ちる。交響曲第4番のスケルツォを思わせる元気のよい主題が充分に展開されずオケとのベートーベンらしい緊密な拮抗もない。オーケストレーションも大味である。はっきり言って習作の水準を出ない。並み居る大ピアニスト達もそれを補おうとテンポルバートを試みたりするなど苦労している人が多く、演奏の問題というよりも僕はやはりそれなりの曲なのだと思う。

 

フリードリヒ・グルダ / ホルスト・シュタイン / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

zaP2_G5726044Wウィーン・フィルが魅力全開だ。第1楽章のホルンの合いの手や弦の弾み方などちょっとしたリズムの愉悦がすばらしい。宝石のように煌めくグルダのピアノもウィーン調だ。第1楽章、カデンツァはベートーベン自作。バッハのフーガのように展開するがグルダの手にかかるとなんと音楽が生き生きと脈動することか。ちなみに彼の平均律は僕が好きなものの一つだが、無味乾燥に陥いること皆無である。第2楽章は即興的な味もあって楽しい。問題の第3楽章は強めのタッチ、デリケートなタッチ、レガートなタッチ、リズムを際立たせるクリアなタッチを使いわけ、オケもそれにうまく付けている。曲の弱さを補って飽きさせない。

 

エミール・ギレリス / ジョージ・セル / クリーヴランド管弦楽団

zaP2_G1675186Wギレリスはクルト・マズアとのライブもあり、彼の鋼鉄のタッチが聴けるのはそちらの方だ。ここでは楷書体のセルに合わせたのか大人しめである。しかしそれでもギレリス一流のタッチの冴えは終始ものを言っていて弱音は非常に美しい。ピアノは鳴りきっており、 この若書きが立派に聞こえることに関しては群を抜く。カデンツァの豪壮さはそのままハンマークラヴィールソナタだ。セルの指揮はソリストに合わせるだけでなく速い部分はテンポの主導権を取っているように聞こえる。第3楽章が軽薄に流れず、コーダのピアニッシモがこれほど納得性を持っていて感動的な演奏はない。

 

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ベートーベンピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15

 

 

 

 

ベートーベン交響曲第9番の名演

2013 SEP 30 0:00:58 am by 東 賢太郎

 

皆さんの知る「第九」の正体

9番の自筆スコアはベルリン国立図書館(プロイセン文化財)にあり2001年に世界遺産に登録された。同図書館のHPで全ページを見ることができる。

http://beethoven.staatsbibliothek-berlin.de/404/

しかし、これを演奏すれば皆さんご存知の「第九」が鳴るわけではない。皆さんの第九は、①この自筆譜を写譜屋が筆写したスコア②ロンドン初演スコア③アーヘン初演スコア④プロイセン王への献呈スコア⑤ベートーベンがそれぞれに加えた訂正・パート譜・ピアノ譜など、の5種をタネ本として、⑥ブライトコプフ&ヘルテル社が「独自改訂」を加えたものである。それが1864年に出版されたブライトコプフ版であり、皆さんお手元のスコアがオイレンブルグ版、ペータース版、フィルハルモニア版のどれであるに関わらずこのブライトコプフ版を母体としたものである。それが皆さんの第九の正体である。

ベートーベンは各地の初演にあわせてスコアを売らなくてはならなかった。1826年にショット社から初版を出すべく①の筆写を急いでいたら、お抱えコピストが死んでしまった。そこで統括責任者不在のまま同時並行で筆写が各地で行われ、各地で各人の主観によるコピーミスが混入するという不適切な事態となった。それを洗いなおしたのがブライトコプフ版であったがその洗い直しにもこれまた出版社の別の主観が入ってしまった。今回それらをベートーベンの自筆の原典に立ち返って洗いなおしたのがベーレンライター版というわけだ。イメージでいえば、モナリザのダ・ヴィンチ制作時への復元作業だ。背景は青かったというが、第九の原画の色彩も少し違うものであった。

ベーレンライター版の意義

その違いの詳細を書くのは本稿の趣旨ではないが、第1楽章第2主題の2小節目(第81小節)のフルートとオーボエ(変ロ音が二音になる)はびっくりする。終楽章のピッコロの活躍もそうだ。すべての異同を検証したわけではないが、しかし、ベーレンライター版が決定稿であるというのはいささか問題を感ずる。一例をあげると、終楽章のVor Gott! は ff で長く伸ばす。その間にティンパニだけ音量をpまで漸減しろとブライトコプフ版には書いてある。これは初演で合唱が聞こえなくなったことへの現場での暫定措置だったとしてベーレンライター版は無視している。自筆スコアにそれはないからということだろうか。しかし、ロンドン版(②)ではヴァイオリンとヴィオラにベートーベンの手で漸減(デクレッシェンド)が書かれているのをどう説明するのだろう?

ベーレンライター版を作ったジョナサン・デル・マーの業績には、専門家が聴かないとわからないレベルの異同も多くある。しかし、ベーレンライター版以前からスコア通りに演奏されていなかった箇所で、もしスコア通りやれば初心者でもよくわかる非常にインパクトの大きい箇所がある。前回、ベートーベンの9番ほど作曲家の意図と違う楽譜が堂々と印刷され、しかもその印刷ともまた違う音楽が世界で演奏され、記憶されてきたものはないと書いたがその「意図と違う楽譜」とはブライトコプフ版のことであることは上述した。しかし、その「ブライトコプフ版の印刷譜」がそのまま演奏されていない、したがって、「皆さんの第九」でもないという大事な部分を書こう。

まずは第4楽章で、低弦のユニゾンで始まった歓喜の歌をヴィオラとチェロのユニゾンが奏でる所のファゴットのオブリガードだ。ここに第2ファゴットを重ねる演奏がだいぶ前からある(ワインガルトナーもやっている)。しかし第2は初演時の自筆スコアにはなく、ブライトコプフ版にも書いてないのだ。これがベーレンライター版には書き込まれているので、ベートーベンが後から改定したと推察される(こういうところにVor Gott!の処理との一貫性を感じないのだが)。ジョージ・セル盤で初めてこれを聴いた時はびっくりした。ここは断然ソロ(1番だけ)の方がいいと思う。コントラバスとのハーモニーこそが神の調和であり、そのバスがハ音(ド)に降りたあの素晴らしい瞬間は、それがファゴットだと高貴な感じが雲散霧消してしまうと思う。

次に終楽章のおしまいのところ。テンポ表示はPrestissimo→Maestoso→Prestissimoで終わる。まず最初のPrestissimoだがメトロノーム表示は二分音符=132だ。「皆さんの第九」はたいがいこれより少し速い。次に、Mastosoのところが「Gotterfunken!(ゴーッタフンケン!)」だが、ここのメトロノーム表示は四分音符=60だからゴーッタ・フンケン・ゴーッタを各1秒(計3秒)でやれと書いてある。「皆さんの第九」はこれよりずっと遅いのだ。2倍も遅い演奏がたくさんある。ブライトコプフ版時代から楽譜はぜんぜん無視なのだ。そして最後のPrestissimoは表示がないからやり放題で、フルトヴェングラーはオケが弾けないぐらい速い。ベーレンライター版の意義はいろいろあるが、そのものの変更点のみならず、こういう因習と化していた部分も見直す機縁になったことが大きいと考える。

因習的なテンポの起源 

終結テンポの因習の起源は不明だが僕なりに推論がある。前稿に書いたようにアブネックの研究の成果それだったのか、ワーグナー、ハンス・フォン・ビューローのロマン的解釈なのかもしれないが、そのアンチであったワインガルトナーもスコア通りではないから一筋縄ではない。ベーレンライター版は最初のPrestissimoをPrestoに変更した(少し遅くなった)から問題の最後のPrestissimoは相対的に速い。だからここを速い-遅い-もっと速いとするのが因習なら本来は、やや速い-やや遅い-速いでなくてはいけない。この解釈は演奏全体の感動を大きく左右する、というよりほぼ決定するといっても過言ではないから重要だ。ベートーベンのメトロノームは壊れていたのだという人もいるが、壊れていたら逆に理に合わない部分もある。

スコアははっきりしたのだから、問題はその通りやるかどうかだ。ここでの僕の立場は、スコアに反した演奏を棄てるかどうかだ。結論から言おう。それはできない。以前、ストラヴィンスキーの自作自演とブーレーズ盤を論じて後者を採った。作品解釈はそれ自体が進化することがある。僕が演奏側なら前述の「ファゴット重ね」は絶対にやらない。当時のオケの力量やホールの音響事情からベートーベンは楽器の低音増強に余念がなかった。7,8番まで初演でコントラファゴットを加えている。しかし、今の事情でそれは不要であることは自明だ。ファゴット重ねはそれと同じと解釈するからであり、芸術的観点からはまったくいらないと判断するからである。

テンポは残響に影響される、と僕は思う。残響の少ないフィラデルフィアのアカデミーでは誰もが演奏は速くなりがちだった。ベートーベンは9番の初演を500人しか入らないホールでやろうとしたそうだ(それは却下されたが)。それなら残響は極めて短い。だからこそのメトロノームのテンポなのではないか。それを残響たっぷりの2000人ホールでやるうちに固まってきたのが因習テンポなのではないか。それを500人ホールのテンポに戻す必要があるのか。それは博物館の楽器で演奏することだけをレゾン・デトルとする古楽器演奏のようなものではないのかと考えている。

声楽ソリストの重要性について

この曲はいくらオケが良くても声楽が下手だと印象を著しく損なう。特に4人のソロ、ソプラノ、アルト、テナー、バリトンの出来が雌雄を決する。昔ミュンシュの来日時のライブがバリトンの不調で発売できなかったようなことすらある。各パートともアリアと違い完全に「楽器」として書かれており、最後はソロだけの四重奏という難所がある。声の合奏だけでロ長調からロ短調、ニ長調へと転調する神々しい瞬間である。4人で全宇宙を支配するようなここの音程が悪いともう興ざめである。

出だしにいきなり高音をはりあげるバリトンは大変で、ずっと手に汗を握って待ち構えているそうだ。高い嬰へ音が出ない歌手のため後世に多くの妥協版がある。主旋律を歌うソプラノはステージにいる2百人を圧して響きわたる。信じていただけないかもしれないが、楽器として完璧な音程で歌われたのを僕はほとんど聴いたことがない。逆にアリアと勘違いしてる著名な歌手がとんでもなく下手だったことは何度もある。そういう態度を放置している指揮者の能力のなさだ。皆さん頑張っているのに申し訳ないのだが、しかし、一気に興が冷めてしまうのも事実なので仕方ない。難しい曲だ。合唱は素人でも歌えるのにこの落差は何なのだろう。

9番とモーツァルト

9番はニ短調(♭ひとつ)だがベートーベンにこの調の曲は意外に少ない。すぐ浮かぶのはピアノソナタ17番ぐらいだ。交響曲は9曲中6曲がフラット系でシャープ系は2番と7番しかない。6番、8番とヘ長調(♭ひとつ)と来ており、8番と9番にはf-fのオクターヴのティンパニが出てくる。楽器の都合で調が決まることは当時は普通だったし管楽器はフラット系が吹きやすいことを考えると、ニ短調の少なさは不思議である。

ところが先輩のモーツァルトを見るとけっこうある。ドン・ジョバンニ、レクイエム、ピアノ協奏曲20番、弦楽四重奏曲15番、幻想曲など重たい曲がめじろ押しだ。第九の第4楽章はニ短調の嵐のようなパッセージで幕を開けるが、そこの和声連結は、ベートーベンの愛奏曲だったモーツァルトのピアノ協奏曲20番の第1楽章、ピアノの入りを導くオーケストラのそれを僕に強く想起させる。

そしてその後だ。1-3楽章の旋律が鳴ると低弦のレチタチィーヴォが次々と「それではない!」と否定していく。この禅問答のような押し引きは、モーツァルトの魔笛第1幕の最後でタミーノが3つの扉をあけようとして、Zurueck ! と押し戻されるのを思い出す。ベートーベンは魔笛の変奏曲によるチェロ曲を作るほどこのオペラが好きだった。魔笛では3つ目の扉が開くとパミーナに会える。そして9番では歓喜の歌がそっと響いてくるのである。

 

アルトトゥーロ・トスカニーニ / NBC交響楽団

413VCSJAN3L管弦楽も歌も合唱も圧倒的に輝かしく素晴らしい。鬼気迫るほどたたみかける第1楽章のリズム。9番はこうでなくては始まらないのだ。第2楽章は速いが、繰り返しをしているため1,3楽章に埋没するスケルツォでなくなっている。オケのうまさに絶句である。第3楽章もすいすい行くが歌うべきところは歌う。終楽章。ソロ4人のアンサンブルを聴いて欲しい。弦楽四重奏のような完成度である。メットのソプラノであったアイリーン・ファレルは重めの声だが高音も見事に決まっている。トスカニーニはオペラでもそうだが声も楽器と同じで暴れることを一切許さない専制君主である。やっている方は大変だったろうがお陰様でこんな名演を聴くことができるのだ。

 

オトマール・スイトナー / ベルリン国立歌劇場管弦楽団

非常に魅力的な9番である。何がいいかどこがいいかと言われても難しい。とにかく聴いてください。この演奏で51DcD7abaUL._SL500_AA300_唯一僕の趣味に合わないのは歓喜の歌のレチタチーヴォの「ファゴット重ね」ぐらいだ。しかしその部分ですら、あまりの高貴な歌の流れにそんな些末なことはすぐ忘れてしまう。ソプラノはモーツァルト歌い(マグダレーナ・ハヨーショヴァー)を起用している。これぞスイトナーだ!そして彼女も概ね成功している(90点はつけよう)。合唱はソリスト級のレベル。ソロも合唱も、ほとんどの演奏に大なり小なり感じる、高音が上がりきらずぶら下がってしまうような不愉快な音は一切出ない。この指揮者の耳の良さと声楽をまとめる力量は天下一品である(だから彼のシュターツ・カペレ・ドレスデンとの魔笛は永遠の名盤なのだ)。その魔笛もそうだったが、ここでもオケ、歌手に「タレント」はいない。しかしルービンシュタインやロストロポーヴィッチが入った3重奏や5重奏がいつも名演になるかというと、そういうわけではないから音楽は面白い。この9番は室内楽に例えればスメタナ四重奏団のベートーベンやアマデウス四重奏団のブラームスに近いだろう。名人芸とは違う練達の芸だ。それが音楽の持っている本質に寄与した時の感銘は実に深い。このオケの練り絹のように美しい弦。あでやかな木管。浮き出ない金管。腰の重いドイツのオケそのものである。僕はこのオケをベルリン・シュターツ・オーパー(国立歌劇場)のオーケストラ・ピットで何度も耳にしたが、このデンオンのPCM録音は見事にそれをとらえている。指揮者もオケも録音も何も尖がったことはしていない。しかし始まるともう耳をそばだてて聴くしかない。最高に上質の9番である。千円ちょっとであなたが世の中で買える最も価値のあるもののひとつであることは固い。

 

サイモン・ラトル / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

これはウィーンフィルがベーレンライター版で演奏した非常に意欲的な名演である。テン4988006813915_1Lポはやや折衷的であるなど完全ではないが新版がどういうものか、ひいてはベートーベンの発想したオリジナルがどういうものか知ることができる。初めて聴くと驚く。しかしそれは新教に改宗するための通過儀礼と思っていただくしかない。僕はウィーンへ行って大作曲家の史跡を自分の眼で見て歩くのと同じぐらいこの演奏には関心を持った。そして改めてベートーベンの音楽の偉大さに打たれた。ラトルはスコアのみならずこのオケの伝統的奏法も変更している。音も美しさを求めていない。手垢を落とそうとしているかのようだ。終楽章の合唱のアクセントは鳥肌が立つほど鮮烈である。そして独唱4人が素晴らしい。特にソプラノのバーバラ・ボニーは最後のロ音がほんの少しだけ(まったく少しなのだが)フラットなのをのぞけば、ほぼ完ぺきだ。最高である。

 

カール・シューリヒト / パリ音楽院管弦楽団

829(1)アブネックが創設したこのオケでシューリヒトが残した名演である。テンポは一貫して速い。しかし曲を知り尽くした名人芸の連続でずっしり手ごたえとコクのある表現だ。オーケストラも気迫で応えている。所々でフランスの管が独特の色香を発するが僕は一興と思う。ただ、第3楽章でホルンにヴィヴラートがかかるのはさすがに違和感がある人もいるかもしれない。終楽章のスピード感はむしろ現代的であり、じわじわと熱していく様には手に汗を握らされる。合唱の手綱さばきもうまい。ソプラノのウイルマ・リップは夜の女王で有名だがここではまずまずというところである。何がすごいということはないが、熟達した大人のしかも若さとエネルギーに満ちた演奏であり、9番を聴くスリルと喜びを心から味わわせてくれる名盤である。

 

ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 

1207964カラヤン60年代、手兵ベルリン・フィルとの最初の全集にある9番である。この頃のカラヤンはトスカニーニばりの快速で引き締まった剛直な演奏をしており、後年のポルタメント、レガート気味のふやけた感じはない。僕はこのSACD全集を買ってみたが音はとても良い。ベルリン・フィルが気合の入ったベスト・フォームで鳴っており、やはり世界最高級のオーケストラだということを再認識した。そういうオケによる9番という曲は、理屈を超えて音楽を聴く醍醐味に満ちているのだ。しかしこれを紹介したのはそれだけの理由ではない。ソプラノのグンドゥラ・ヤノヴィッツである。実にうまい。僕が聞いた中では文句なく最高ランクのひとりである。一聴をお薦めしたい。

 

ウィルヘルム・フルトヴェングラー / バイロイト祝祭管弦楽団(1951年7月29日)

日本で最も有名な9番、すなわち「第九」である。ほぼ神棚に祭られた御物に等しく、人類の宝と崇める人もいる。一言でいうなら、まさしく素晴らしい演奏である。第1楽章と第3楽章は誰かにキミこれが第九だよと言われるなら、はいそうですねと頭を垂れるしかない。第2楽章などオケの底力と気合は空恐ろしいほどだ。全曲にわたって、鮮度の乏しい録音なのに一期一会の緊張感とパワーがビシビシと伝わって圧倒されるばかり。第3楽章はホルンがミスするが、これだけ魂のこもった神々しい演奏というのはそういうものを消し飛ばしてしまうのだ。ソプラノの名手エリザベート・シュヴァルツコップの声の高貴なこと。本当にうまい。全録音でベストのひとりである。この演奏は指揮者ばかりが言及されるが、4人のソロ・アンサンブルでも最右翼級の名演なのだ。それほどの存在であるからして、これが「皆さんの第九」になっている方がおられる可能性はかなり高いだろう。困ったことにこれで曲を覚えてしまうと(僕もそうだ)他が物足りなくなる。しかしこれほど楽譜と(ブライトコプフとすら)ちがう演奏もない。もうフルヴェン節である。歓喜の歌の出だしの低弦がゆっくりと、霧の彼方からかすかにピアニッシモで立ちのぼってくる効果は一度聴いたら忘れない。しかしスコアはAllegro assaiで音量はピアノなのだ。そのテンポが全奏にいたって徐々にアップするが、そんなことは楽譜のどこにも書いてない。前稿で書いた終結のテンポはロックの興奮に近い。楽譜を踏み外しているが抗しがたい魅力がある。もう最後はそういうのが好きかどうかである。好きであれば楽譜なんかどうでもいい、フルトヴェングラーの信者になるしかない。クラシックにはそういう聴き方があってもいいのだ。彼が伝道師となってベートーベンの音楽が世に広まればそれでいいではないか。youtubeから音源をお借りしたのでぜひじっくりとご神体を拝んでみてほしい。今回のベートーベン企画にお付き合いいただいた皆さんには心より感謝の意を表したい。同時に、本稿を閉じるにあたって、世界に一人でもベートーベン好きが増えることを心より願ってやまない。素晴らしい音楽を残してくれた天才にどうしても、一寸ばかりのご恩返しをしたく、しかし、僕にはそうするしか方法がないのだから。

 

(補遺、3月17日)

ヨゼフ・クリップス / ロンドン交響楽団

08_1104_01 (1)クリップスはJ・シュトラウス、ハイドン、チャイコフスキーなどに記憶に残るレコードがある。この第九は、一言でいうなら、僕の世代が昔懐かしい、ああ年の瀬のダイクはこういうものだったなあとほっとさせてくれる雰囲気がある。アンサンブルは甚だ雑駁だが何となくまとまっており、ほっこりとおいしい不思議な演奏だ。それはテンポによるところが大きく、とにかく全楽章やっぱりこれでしょという当たり前に快適なもの。管楽器、ティンパニがオン気味だがどぎつさはなく、歌は合唱の近くにマイクがあってまるで自分も合唱団で歌ってるみたいだ。そのうえソロ4人がこんなに一人一人聞きとれる録音は珍しいがこれが音楽的に満足感が高く、なんとはなしにオケ、合唱と混ざっていい感じになるのも実にいい。ぜんぜん知らないソプラノだが音程はしっかりして僕の基準を満たす。5番の稿にも書いたがベーレンライター全盛の世でこのCDを耳にすると、1週間ぐらい海外出張して戻った居酒屋のおふくろの味みたいだ。練習で締め挙げた風情や、うまい、一流だ、すごい、という部分はどこにもないが、本物のプロたちがあんまり気張らずに自然に和合して図らずもうまくいっちゃったねという感じ。しかし全楽器の音程がよろしく、フレージングの隈取りも納得感が高く、耳を凝らして聴くと音楽のファンダメンタルズの水準は大変高い。指揮のワザだろう。こういうのを名演と讃えたい。

 

 

 

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ベートーベン第9初演の謎を解く

ベートーベンピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品19

 

 

 

 

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