クラシック徒然草-ベートーベン7番 聴きこみ千本ノック-
2013 AUG 12 0:00:09 am by 東 賢太郎
ベートーベンの交響曲第7番イ長調作品92。この曲のファンはたくさんいらっしゃると思います。のだめカンタービレで若い方にも広まり、ひょっとして第九と同じぐらいポピュラーになっているかもしれませんね。この曲の強靭なリズムの波状攻撃は人を興奮させる点でロックに近い何かを秘めています。こういう僕もクラシック聴き始めのころフリッツ・ライナーのLPを聴いて感激していました。そういう皆さんには大変申しわけなく思うのですが僕はこの曲が苦手です。いまや自分から聴こうということはまったくありません。11月にウィーンフィルが来るらしくてチケットをいただいたのですが、曲が7番ということでどうするか考えています。そのぐらい興味がないのです。
どういうことかというと、第1楽章は大変立派な音楽です。しかし第2楽章にはエロイカのそれのような血の出るような切実感というか、本当の悲愴感を僕は感じません。第3楽章はどうにも下品に思えて(すみません)むしろ聞きたくありません。ほかの曲では多少そういう部分はあっても何かの仕掛けでそれが最後は救済、昇華されて終わるのですが、この第4楽章はそんなことにおかまいなしで一人でイッテしまいます。良い指揮者ならともかくカン違い組の指揮者によるへたくそな演奏だと、いくらワーグナーが舞踏の聖化と持ち上げようがなんだろうが、それなら盆踊りのほうがいいなと思うばかりです。
モーツァルトと違ってベートーベンには出来不出来があります。この7番の前に「ウエリントンの勝利」という曲が書かれていますがこれは駄作の部類であって、7番はどうもこれと似た精神状態で書いたのではないかと思ってしまいます。ということで曲には関心がないのですが、第4楽章を演奏するにあたってこの曲を指揮者がどうとらえているか、明確にわかるという意味で非常に興味深い部分があります。ここは弦楽器がしっかり弾かないといけない難しい個所です。下の楽譜の赤枠の部分、それから青枠の部分です。ここのリズムの取り方で指揮者の個性がよくわかるのです。
赤い部分ですが、ベートーベンの指示はごらんのとおり「タアアタタアアタタアアタタ・・・・」です。青い部分は「タタアンタタアンタタアン・・・・」です。1小節に16分音符8個ですね。ところがこれを「タアタタアタタアタタアタ・・・・」、「タタンタタンタタンタタン・・・・」と音符6個にしていい加減にやっている指揮者がかなりいます。i-tuneでこの部分が聴き比べられるので片っぱしから聴いていみると以下のような分類になります。数名だけどっちともとれる人がいますが、近いほうに入れました。
いい加減派
カラヤン、フルトヴェングラー、ザンンデルリンク、ケンぺ、シャイー、ライナー、スイトナー、ムーティー、フリッチャイ、コンヴィチュニー、クレツキ、ノリントン、アーノンクール、バレンボイム、ショルティ(VPOと第2回目録音のCSO)、ドホナーニ、クリップス、ミュンシュ、ワインガルトナー、ボールト、クライバー(父)、ブリュッヘン、ナヌート、アシュケナージ、フェドセーエフ、ティーレマン、デ・ヴィリー、ドゥダメル、モリス
正確派
R・シュトラウス、ワルター、トスカニーニ、クレンペラー、ケンペン、リンデンバーグ、レイボヴィッツ、シューリヒト、ムラヴィンスキー、クナッパーツブッシュ、ストコフスキー、チェリビダッケ、スクロヴァチェフスキー、ベーム、サヴァリッシュ、クライバー(息子)、ショルティ(第1回録音、CSO)、クリュイタンス、フレモー、H・シュタイン、バーンスタイン、アバド、ハイティンク、サンティ、マズア、マリナー、マーク、MTトーマス、ヘレヴェッへ、エッシェンバッハ、ヴァンスカ
いい加減派もいろいろあって赤の入りは正確な8個だったのがだんだんアバウトになって6個になってしまう人も最初から我関せずで6個の人もいます。正確派のほうも、弦がきっちりとしたボウイングで刻もうとするため、赤の部分からテンポを少し落とす人がいます(もともと速い人は減速しないと弾けない)。赤は正確、青はややアバウトという人も。スタッカート気味にしていきなりここから気合が入る人もいます。逆にレガート気味にすいすいと弾き飛ばす人もいます。本当に面白いものです。ご興味ある方はご自分の耳で確かめてみてください。i-tuneで Beethoven7 と打ち込んで第4楽章をクリックすれば以上の演奏の問題個所は全部お聴きになれますよ。これは「聴きこみ千本ノック」です。確実に耳が鍛えられます。
僕の好みとして、いい加減派はだめです。この譜面からどうしてそういう弾き方になるのか?身勝手なのか性格的にアバウトなのか?ともあれ僕にはついていけません。若手のホープと目される人たちがそっちなのはやや気になります。ショルティは1回目の全集は正確、2回目のはいい加減。わからない人です。分類結果を見るとこの曲に限らず僕が好きな指揮者は見事にほぼ正確派に入っています。皆さんのお好きな指揮者はいかがですか?
ベートーベン交響曲第6番の名演
2013 AUG 10 15:15:23 pm by 東 賢太郎
田園交響曲をどう聴いたらいいのか?
若いころはこの曲が苦手でした。第1楽章は延々と同じ和音に土くさい音型のくりかえし。とにかく目立った変化がありません。「ザルツカンマーグートを見たことのない者にベートーヴェンの田園交響曲は解釈できない」 というユーディ・メニューインの言葉ですが、なるほどと思うようになったのは40代の後半、スイスでの2年半の生活を経てのことです。この交響曲の第2楽章に、家族とよく行ったグリンデルワルドの思い出が重なるようになりました。ユングフラウへ登る鉄道の始発駅クライネ・シャイデックからそこまで子どもたちをつれたトレッキング。丘を歩くこと約3時間。ひんやりとおいしい空気、右手にアイガー北壁、左手に遠く雪をかぶるアルプスの山並み、青い空、なだらかな丘と草原、あったかい陽だまり、白い雲、足元にはかわいい草花、小川が流れる、ごろごろした岩、黒い雲、急にぱらぱら降る雨、森が現れる、鳥のさえずり、りすが出てくる・・・・これを経験した当座でなく、思い出になってしまってからそうなるのが不思議なところです。
以前にボロディンと冨田勲のブログにこう書きました。「新日本紀行のテーマ。君が代を思わせるメロディーと素朴なコードが日本人のこころをぐっととらえる不思議な力を持っているように思います。このメロディーを好きになってくれるなら、どこの国の人でも仲良くなれそう・・・」。おそらくこのテーマは日本のどこの風景を描写したものでもないでしょう。日本人なら誰もがどこかでもっている「日本的なものの思い出」、そういう心象風景が音になっているように思います。オーストリア、スイス、南ドイツの人にとって田園はそういう風にとらえられる音楽ではないかと思います。しかしながら、「自然が人の心に呼び起こす感情が表現されている」とベートーベン自身が書いているのですから、この音楽に感動するならばそれが呼び覚ました思い出がどこのものであってもよいでしょう。別にザルツカンマーグートを見たことがなくてもご自身のお好きな田園体験を想いおこして幸福感にひたれるならば。ちなみに僕は岩手の八幡平で行った藤七温泉へ向かうときの楽しい気分なんかでもけっこうサマになるなと思ってます。
シューベルトに出来なかったこと
この曲の作曲当時、交響詩というジャンルはありません。ロマン派という概念もありません。もしその両方があったら、ベートーベンはこの曲のコンテンツを交響詩にしただろうか?僕の想像はノーです。彼はやはり交響曲を書きたかったのであり、彼の関心はそれとpastoral 風コンテンツの融合にあったと思います。未完成交響曲の稿で僕はシューベルトの直面したと思われる同じ問題を論じました(シューベルト交響曲第8番ロ短調D.759「未完成」)。交響曲というロジックとそれになじまないコンテンツ(ストーリー)。両者を融合することはシューベルトには難題でした。しかし変奏の達人であったベートーベンはその見事な解答をこの曲で提示しています。交響曲では変奏という技法はソナタ形式の展開部に主に披瀝されるものですが、それを展開部以外でも駆使する。そうしてソナタ楽章のいたるところに判じ物のようにストーリーを暗示するキャラクターを刻印することでそれを切り抜けているのです。
ちょっと細かい話になって恐縮ですが、キャラクターは「田舎についたときの楽しい気分」のようなストーリーを含む主題やその部分的抜粋によってできています。それをひとつの部位として変奏していくのです。ここでいう変奏は、大昔の中国人が象形文字としての漢字を歴史の中で組成していく段階で木や人や水などの基本的な象形を部位として、それらを他の部位と組み合わせることで多様な文字を生み出していったのと似ています。素材として元々は絵なのですが部位としてはそれが高度に抽象化、象徴化され、もはや木や人の写生画(アート)としての意味はありません。しかしそれが元来は木だった人だったという認識は伝わりますから、たとえば林や橋という字が木に関係したものだということがわかります。まったく同様に、「田舎についたときの楽しい気分」も、変奏という技法を通じてストーリーが伝わるのです。
田園交響曲の子孫たち
この方法論は非常に画期的です。例えばこれは、田園交響曲に魅入られて楽章ごとの細かい情景描写まで自分で書いているフランス人のエクトール・ベルリオーズが幻想交響曲で「恋人のテーマ」としてすぐに具現化しています。そしてベートーベンの信奉者であったリヒャルト・ワーグナーの「ライトモチーフ」という手法に遺伝していきます。登場人物や場面に特定のテーマ(旋律、和音)を割り振って聴衆に記憶させ、後にそのテーマだけで人物や場面を連想させる効果を駆使して彼は長大なドラマの錯綜した心理状況を立体的に描写できるようになりました。イタリア人のジャコモ・プッチーニにまでこの手法は遺伝しています(プッチーニ 「ラ・ボエーム」をご参照ください)。交響曲ではやはりフランス人のセザール・フランクの循環形式が生まれます。幻想交響曲は特殊な例であって、一般に交響曲は抽象音楽です。ストーリーや特定の人物、場面はありません。しかしそういう設定でも、あるテーマ(主題)を全曲で登場させて有機的な統一感を持たせる手法が循環形式です。
田園交響曲の第5楽章の最後(第237小節)で一切が鳴りをひそめ、弦だけの四重奏で冒頭の牧歌の変奏が Sotto voce で静かに感動的に歌われます。これは同じヘ長調の弦の四重奏で開始したこの交響曲の冒頭「田舎についたときの楽しい気分」のエコーであり回想のように聴こえます。この素晴らしい効果は循環形式のもっともインパクトのある方法論のひとつとして定着します。例は枚挙にいとまがありません。僕が最も効果的と思うものを3つ挙げましょう。まずフランクの交響曲ニ短調では第2楽章のテーマが回想されます。ブラームスのクラリネット五重奏曲では、終曲の最後の最後になって曲の最初も最初のテーマが突然そのまま回帰します。この鮮やかな衝撃はいつ聴いても胸を打たれます。そしてヤナーチェックのシンフォニエッタにも同様の冒頭ファンファーレ回帰があり、やはり同様に衝撃と深い感動を覚えます。ベートーベンの6番がいかに音楽史の中で画期的、革命的な音楽か。とてもブログの字数で語り尽くせるものではありません。
ベートーベンの天才とは?
6番にはそのような決定的に強力なミクロ構造が底流にあります。我々はベートーベンの描いた鳥の声やらくつろいだ気分やらに癒されて感動しているのではありません。彼の天才はそんな素朴なものではないのです。それは新日本紀行のテーマ的な「心象風景の素材」が与える、ある意味で素朴、原始的なキャラクター、部位に起因するイメージにすぎません。それを素材とした「極めて高度に抽象化が可能な仕掛け」を発明したことこそ彼の天才の本質です。僕にとって彼はアスペルガー症候群的な特徴を持った創造的天才たち、アインシュタイン、レナオルド・ダ・ヴィンチ、アンデルセン、ダーウィン、ルイス・キャロル、キルケゴール、ヒッチコック、エジソン、ゴッホ、ディズニー、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズといった人たちの中でも最右翼クラスに位置づけられる人です。
そういう人たちの特性として、彼は同じオペラに4つも序曲を書いてしまう妥協なきこだわり男です。アン・デア・ウィーン劇場での5番と6番の初演にあたってのプローベではオーケストラと衝突し、怒り心頭の団員たちから練習中はあいつを部屋に入れるなと締め出されてしまったほどです。耳が聞こえなくてキューがわかりにくかったからという説もありますが、完全に聞こえなければ指揮台にも立てないはずですからやはり細かいこだわりで激突があったのではないでしょうか。にもかかわらず、現代の多くの指揮者は、作曲家が楽章ごとのストーリーを書いたものですから、そういうマクロ構造にばかり心を砕いているように僕は思います。そういう演奏なら団員と衝突こそ起きませんが、我々ロマン派を知っている耳に心地のよい甘目のアプローチに音楽が流れてしまうのです。そういうものはベートーベンの天才の本質とはかけ離れた演奏であり、ムード音楽や映画音楽のたぐいであって僕の関心事とも程遠いものとなってしまうのです。
エーリヒ・クライバー / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
第2楽章の素晴らしさでこれを上回るものはありません。まさにザルツカンマーグートの味わいを知った
愛情に満ちた指揮であり、息子のカルロスをつれてトレッキング(ドイツだとヴァンデルンですね)していたのかなあと感嘆してしまいます。第1ヴァイオリンの主題からしてもう鳥の声です。旋律は心を込めて歌いぬき、チャーミングな木管がそれにからんでえも言えぬ立体感を生み出す美しさには言葉を失います。第1楽章はやや速めに入って15小節目でfをふっとpに落とす間のうまさ。スケルツォで農民が退散する場面のプレストをこんなに活かした指揮者は誰もいません。嵐のティンパニを効かした堀りの深いインパクトがあってこそ湧き起る神への感謝の深々とした味わい。いいですね。このシンフォニーにしか感じることのないジーンと心の底から温まったようなぬくもりのある感動を覚えます。アムステルダムのオーケストラはクライバーに共感していたのでしょう、フレージングの指示を克明に生かしていますが硬さがありません。すべてが自然に流れます。この演奏にはたくさんのことを教わりました。多少アンサンブルの雑に聞こえる箇所はあるものの、このオケを得たことは大きなプラスだったでしょう。息子はこの演奏を聴いて、6番を正規録音しなかったそうです。
ポール・パレ― / デトロイト交響楽団
ノムラ・スイス時代のアジア株セールスヘッドがジュリアード音楽院のオーボエにいた男でした。ジョージ・
パラダイスといってレコードまで録音した腕前です。「指揮者は誰が良かった?」ときいたら「ダントツでポール・パレーです。彼の指揮でワーグナーをやれたのは最高の幸せ!」と投げキスまでしました。パレーはあのラヴェルが取れなかったローマ賞を受賞した作曲家でもあります。この田園、初めて聴くと仰天の快速テンポですがこれがほぼスコア指定のテンポです。よく聴くと実に含蓄に富んだ表現でカラヤンのような「スポーツカーで走り抜けた」感じではありません。朝比奈隆氏によると第1、5楽章はffのピークへうまく音を強めていくのが非常に難しいそうですが、それは要は遅すぎることの証拠であって、このテンポなら自然に頂点に登るのではないでしょうか。音はモノラルですがデトロイトのオケは健闘しており、第2楽章の木管は欧州のトップクラスに遜色ありません(パレーはドビッシー、ラヴェルもこのオケから完全にフランスの音を引きだしており素晴らしいものです)。嵐が去って神への感謝。再現部は牧歌主題が十六分音符に変奏されて和音進行だけの「カラオケ状態」になりますが、絶妙で主題が聞こえてくるようです。そして上記の Sotto voce の部分ではぐっとテンポが落ち、感謝は宗教的な感情に昇華して最高に感動的なエンディングを迎えるのです。駈け抜けてきたのはここの部分のコントラストのためだったかと感じるほど見事です。ちなみにカセット録音されたカルロス・クライバー/バイエルン放送響の演奏は、親父さんのよりもパレーに近い聴後感のように思います。
カール・ベーム / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
この第1楽章はいわばウィーンの大型の室内楽です。奏者たちが最美の音を惜しげもなくふりまいていま
す。こういう最高級のトルテみたいな「おいしい」音程、そうしか表現のしようがないのですが、この管弦の艶やかな音程の良さというのはウィーンpo以外に絶対にありません。第2楽章はベートーベンの管弦楽法が冴えわたった楽章で、例えばチェロが2人だけソロパートを弾きます。そのピッチカートまで最高に心のこもった音が出ている美しさはもうため息もの。木管はこの曲で重要なクラリネットのうまさが快感です。まさに室内楽です。そうはいってもテンポやフレージングは厳格に指揮者のコントロールのもとにありベーム最晩年の練達の棒を感じます。第3楽章はやや遅め。重厚でベートーベンらしい第4楽章の嵐を経て終楽章。牧歌はコクのあるウインナホルンが効いてザルツカンマーグートを思い出させます。僕の装置では最後のffでやや弦がにごって聴こえるのが残念ですがSACDだとどうなのか試したくなります。初めで田園を聴かれる方はモノラルのクライバー、パレーではなく、ムジーク・フェラインの見事なホールトーンをともなって鳴り響くウィーンフィルが良い録音で聴けるという意味でもこのベーム盤をお薦めします。
カルロ・マリア・ジュリーニ / ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団
ベーム盤と並んで世評が非常に高い演奏にブルーノ・ワルター/コロンビア響というのがあります。僕もそれ
でこの曲を覚えましたが、第1楽章は例の繰り返し音型でアッチェレランドがかかるなど天衣無縫の名人芸の連続で最高の演奏のひとつです。ただ第3楽章が遅くてインパクトがなく嵐も上品なので終楽章が生きません。同じスタイルでそこを満足させてくれるのがこのジュリーニ盤です。彼がロスフィルを振った演奏はみなそうですが、金管がアメリカのオケ特有の派手で下品な音を発しないのは特筆すべきでしょう。第1楽章は遅めのテンポでロス・フィルの弦をしっとりと歌わせますがフレージングは磨きこまれていて、気分で流すような演奏とは一線を画しています。第2楽章の木管も美しく明るめの音調と見事な音程で癒されてしまいます。ベートーベンのスコアがこんなに上品でカラフルだったかとため息が出るほど。第3楽章のリズムはエッジがありダンスになっています。第4楽章はティンパニとピッコロ、トロンボーンを生かした強い表現で全曲の極点を築きます。強烈なパンチ力ですがオケが荒っぽく鳴ることは一切なく、知的で整然とした指揮者の統率力を感じます。これが効いているので雨が上がって陽光がさす場面は大変感動的で、弦のレガートが心にしみわたります。好みの問題ですが、ベーム盤より歌があって華もあるこちらをファーストチョイスにされてもよろしいと思います。
アンタル・ドラティ / ロンドン交響楽団
なんという素晴らしい出だしだろう!馬車からぽんと降り立って田舎のおいしい空気を胸いっぱいにすいこんだ嬉々とした気分にぴったりのアレグロ。深呼吸するようなフェルマータ。おどりだすように楽しいオーボエ。フルートがさえずる愛らしい小鳥(僕はこの鳥が一番好きなのです)。心がこもったヴァイオリンが喜びの歌をかなでるとホルンが遠くの山並みをうつしだす。オーケストラが指揮者に心服しています。そうでなければ出ない音が聞こえます。これは僕の知る限り最高級の第1楽章です。第2楽章はちょっとはやい。おしい。もっと楽しみたいのに。でも小鳥たちの歌のなんと美しいこと!農民ダンスは活気のあるテンポ。これでなくては。スケルツォなのにほとんどの指揮者は遅すぎます。踊る音楽になってしまっている。田園風景のロマンにひたった解釈だとそうなるのです(ご存知の方はスメタナのモルダウのダンスの部分と比べて下さい)。これは断じてロマン派の交響詩ではなく、農民は嵐場面を導くキャラクターです。ブリューゲルの描いた農民のように感情はなくていいのです。嵐は特にめだった出来ではありません。終楽章は残念ながら失敗です。弦が即物的で美しくなく神への感謝も深く静謐な感情が足りません。この曲は前半が生きるアプローチだと後半が生きないという難しさがあることがわかります。
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クラシック徒然草-田園交響曲とサブドミナント-
2013 AUG 4 1:01:12 am by 東 賢太郎
交響曲第6番パストラル(Pastoral)はベートーベン自身が名づけた2つしかない器楽曲の一つです(もう一つは告別ソナタ)。この表題を「田園」と訳すと、田舎の風景に感動した彼がそれを描写した音画のようにきこえますが、Pastoralは古来よりヨーロッパにある文学、詩歌、絵画、音楽の総合様式の名称でありますから、本来は交響曲第6番「パストラル風」とでも訳すべきものではないでしょうか。1785年に発表されたクネヒトという作曲家の「自然の音楽的描写、または大交響曲」が6番とそっくりの表題をもった5楽章の曲であり、ベートーベンがこれを知っていたことはほぼ確実視されています。だからこそ彼は自らあえて「・・・風」と命名し、5楽章を踏襲してそっくりのプログラムまで加えておいて、「これは音楽による風景描写ではない」とわざわざ断ったのではないでしょうか。それはヴィヴァルディ「四季」、JSバッハ「クリスマス・オラトリオ」、ハイドン「四季」などを経て数多存在し、クネヒトのような作品につながった器に「新しい酒」を盛ってみせるという挑戦状だったように思います。
「・・・風」と言った場合、それは「・・・」ではないのです。それを借景としているだけであって。ノッテボームによればスケッチ帳に曲名を何としようか試行錯誤した形跡があるそうです。そのなかに「Sinfonia caracteristica-oder Erinnnerrung an das Landleben」(性格的交響曲-あるいは田園生活の思い出」というのがあります。 caracteristicaが性格的は苦しいですね。「特別な性格の刻印のある交響曲」といったほうが正確でしょう。「田園交響曲、音画にあらず、田園の享受が人々の心に呼び起こすところの感情が表現されている-そこで二三の感情が描写される」ともあります。第2楽章、第4楽章で鳥の声や雷鳴が描写されているのですがそれは劇のト書きにすぎません。彼はそれを聴かせたいのではなく、それらが喚起する心象風景を音で描くというロマン派音楽の萌芽ともいえる革命的なチャレンジをしているのです。
第6交響曲は、緊張度の高い5番の路線に疲れて気晴らしに書きましたというような安楽な作品ではありません。これも5番の向こうを張る大交響曲であり、見れば見るほど、聴けば聴くほど、その堅固な構造と周到な作曲プランの独創性に驚かされます。冒頭にこのようなメイン・ステートメントとなる主題がいきなり提示されフェルマータで引き伸ばされるのは5番と同じです。
この山型の弧を2度えがく主題がこの楽章でいかように音列の素材として、また分解されてリズムの部品として何度も何度も繰り返し使われていくのか。第九を暗示する左手の空虚5度(ドローン)が第3,5楽章でいかに和声に意味深い滋味を加えるのか。こういう側面からの分析は先人がやり尽くしてる観があります。
5番も6番も、冒頭素材が生まれながらに内包している音の指向性に添って全体が組み立てられているのは同じです。ところが5番は内側に凝縮、6番は外側に拡散という正反対の性質の素材であり、その結果前者はエネルギーと推進力、後者はゆらゆらと浮遊するような歌謡性という形質を得ることになったように思えます。さらに見れば、5番は建築的な論理構造をもってソナタ形式と不可分に結合していますが、6番はそれがソナタ形式で書かれていることを構造的にも和声的にも忘れてしまうほどゆるやかな形をしています。ベートーベンはエロイカの終楽章に変奏曲を持ち込みましたが、僕はこの田園交響曲にも変奏曲の要素と精神を強く感じるのです。
「変奏こそ、技法的に提示されたベートーベンの創造の核心なのであり、変奏の精神は彼の全生涯を貫いて作品に現れている」(吉田秀和著・ベートーベンを求めて)。ウィーンに出てきたベートーベンはまず即興演奏の名人として有名になります。自作または他人のテーマを自由に即興的に変奏して感銘を与えることで貴族社会に知られていったのです。「彼の即興演奏は非常に輝かしく感動的なものだった。彼はどんな集まりでも、聴き手のすべての目に涙を浮かばせ、なかには声を立ててすすり泣く人もいるほどだった。」(同書によるランドンの引用)。ところがです。「この即興演奏が終わると、彼は大声で笑い出し、自分が引き起こした感情にひたっている聴衆を冷やかすのが常だった。『君たちはバカだ。こんな甘やかされた子供たちといっしょにいられるものじゃない』と彼は叫ぶのだった」(同)。田園交響曲の引き起こした感情にひたっている我々を彼はこうして冷やかすのでしょうか?
田園交響曲が引き起こすある特定の感情。これがどうやってどこからやってくるのか?少なくとも僕は誰かがそれを指摘したのを読んだことがないのですが、その解答のひとつと僕が信じているこのシンフォニーのある重要な特徴について書きたいと思います。それはこの交響曲全編にわたって「トニック(ド)→サブドミナント(ファ)」という進行が支配的であり、「ドミナント(ソ)→トニック(ド)」が決定的に支配している5番と好対照であることです。6番においてはもうすべての音がサブドミナントの方へ特別な引力で引っ張られているといって過言でないほど。こんな音楽は珍しいのです。なぜならソ→ドの解決こそ西洋音楽の文法のイロハのイだからです。音の万有引力の法則と呼んでもいい。あー曲が終わった、という感じがしますからクラシックはこの進行で終わるケースが多いのです。ところが6番の最後はミ→ドで締め。そうではありません。これは第2楽章で鳴いていたカッコーのエコーです。なんておしゃれな終わり方でしょう。反対に5番はソ→ドの嵐です。これでもかといわんばかりに。おれたちは万有引力から逃れることはできないんだ、これが宇宙の原理なんだ運命なんだと説きふせられて終わるのです。
ちょっとわかりにくいですね。おなじみの例で示しましょう。学校の始業式なんかで校長先生が出てきて「起立」と号令がかかって、ピアノが弾くあのC-G-Cの3つの和音があります。Gで「礼」をしますね。では校長のご講話をという落ち着いたムードになります。ではここでC-F-Cと弾いたらどうでしょう。ぜひお家のピアノで試してください。まず、Fで頭を下げるのはちょっと変ではないでしょうか。僕はむしろ上を見上げたくなります。それから、これが重要ですが、Fで落ち着かない感じがしませんか。次にCに戻ってもいいのですが、必ずCに戻るという感じが希薄になります。これがGだと、「次はなに?Cしかないでしょ!」というとても頼りになるお導きを感じますね。これが「音の万有引力の法則」と僕が勝手に名づけたものです。ドミナント(ソ)はトニック(ド)の引力に強力に引きつけれらるのです。C→Fだとご講話どころか「さあ遠足だ」の気分です、もう今日は学校には戻らねえです僕などは。そういう悪がきをご講話にしっかり戻すにはFの後にGをもってきて、その引力でCに戻さないといけないほどFは外交的でふらふらして、しかしその反面 「明るくて希望を感じさせる」 効果があります。
もっとはっきりした例をお見せしましょう。坂本九さんの「上を向いて歩こう」を歌ってみて下さい。サビのところです。「幸せはー雲のー上にー」。この「幸せはー」がF(サブドミナント)なんです。パッと明るく希望の光がさします。これぞC→Fの希望効果です。ところがその次。「幸せはー空のー上にー」今度は「はー」が半音下がってFmになって、すぐに幸せに陰りが出ます。「希望」と「不安定」、お感じになれますか?もうひとつ。ビートルズのA Hard Day’s Nightです。
It’s been a hard day’s night, and I’d been working like a dog
It’s been a hard day’s night, I should be sleeping like a log
But when I get home to you I find the things that you do
Will make me feel alright
青字のところはFです。 声はソを歌っているのに!(Fはファ・ラ・ドです。ソは入ってません)。「いやー今日は疲れたぜ。犬みたいに働いてもう丸太みたいに寝るだけだ。」そう歌っています。そうでしょうか?そうではない。だから But とくるのです。家に帰ると君がいて元気にしてくれるから・・・。 day’sにF(=希望)が鳴るからです。嘘だと思ったらFの代わりにGで弾いてみてください。ホントに疲れて、あーもう今日は寝るだけだー、Good night。君の顔を見る前に丸太になっています、僕は。このワンコーラスでGはたったの一回しか出てきません(イタリック部分)。万有引力をぶっちぎって校長先生ではなく遠足気分なんです、この男は。
だいぶ脱線しました。万有引力で田園交響曲にもどりましょう。もういちど、上の譜面を見てください。このメロディーを歌ってみましょう(移動ドで)。
ミーファーラーソーファミレーソードーレーミーファミレー
この節ですが何かに似ていませんか?これです。
ミーファソソファミレドドレミミーレレー
なんだ。第九じゃないか。どこが似ているんだ?嘘だと思われてしまいそうですね。そういう方は、最初に出てくるソをラに替えて歌ってみてください。ミーファラソファミレ・・・・。どうです、似ているでしょう?2番目と3番目の音、ファとラは左手のドと一緒になってFを構成します。ところが第九のこの有名なメロディーはほとんどCとGの和音だけです。Fというとはるか先にサビに一回出るまではまったく出てこないのです。だからこのソをラに替えると急にFの色が現れます。魔法のように。そしてそれが田園交響曲を連想するメロディーに聴こえてしまう。いかに6番がFの色が濃い音楽か、そしてそれが無意識に皆さんの記憶にしっかりと刻まれているか、ご理解いただけるでしょうか。
Fの希望効果。都会から出てきてハイリゲンシュタットの田園風景にふれたベートーベンの心の喜び。同じ場所で数年前に遺書まで書いた男が新たに生きる希望をもって、自分はこんなに元気になったと世に問う自らのポートレイト。それが6番ではないでしょうか。第3楽章スケルツォの農民の踊り。第165小節から
始まるトリオはびっくりです。4分の2拍子の素朴かつ力強いスフォルツァンドで16小節にわたってC→F→C7→Fというコード進行です。Gは出てきません。Cがセブンスになるので一瞬あたかもサブドミナント(F)に転調したかのような宙ぶらりんの感覚になります。希望のFにいつまでもい続けたい!この曲のサブドミナント指向の象徴的な場面です。この部分の伴奏のクラリネットをよくお聴きください。非常にビートルズ的です。レノン-マッカートニーのハモリに聴こえるぐらい。この楽章ですが最後になって急にプレストになります。嵐が近づいて雨がぱらついてきたな!すぐわかります。ここはこの交響曲で最も描写的だと僕が思っている部分で、踊っていた農民はクモの子を散らすように退散するのです。
第4楽章は増4度の和音が鳴り響きます。嵐です。ソ・ド・ファの4度、5度の調和が破れ、ティンパニとピッコロが雷鳴を暗示します。ここのスコアはベルリオーズの幻想交響曲の終楽章そっくりです。音の効果でいえばロッシーニのウイリアムテル序曲、メンデルスゾーンのスコットランド交響曲、リムスキー・コルサコフのシェラザードなど遺伝子の伝播は数えたらきりがないほど。そして農民が退散→雷鳴→牧歌という起承転結は鮮やかで、このコントラストが第5楽章の神への感謝の気持ちを高めています。まずクラリネットが第1楽章冒頭と同じくドとソの空虚5度のヴィオラのドローンにのってハ長調の牧歌を奏でます。次にそれがホルンに受け継がれるとチェロがppでそっと低いファを入れます。増4度の支配する不均衡はファ+ド+ソの5度+5度という神の調和に完璧に収斂していくのです。雨上がりの森や丘に金色の陽光がさしこんだような神聖で荘厳な効果は息をのむばかりです!なんてすばらしいんだろう。蛇足ですが、農民が退散→雷鳴→牧歌からこの部分への効果と心象風景が見事に遺伝しているのがストラヴィンスキーの火の鳥のフィナーレなのです。
第5楽章が希望のFに満ちあふれていることはいうまでもありません。喜びに満ちて歌われるこの牧歌主題はモーツァルトのピアノ協奏曲第27番のロンド主題、あの歌曲K.596「春への憧れ」に転用された主題のリズムを想わせます。そしてこの主題についている和音はC-F-G-C-Am-F-Gですが、C-Am-F-Gはモーツァルトが偏愛した和声連結でもあります。結構長くなりました。まだまだこの曲について書き残したいことは山ほどあります。この交響曲は僕が最も愛するものの一つです。これを聴いて頭に体に感じる満足感というのはまた5番のそれとはちがったもので、ベートーベン以外を見渡してもほとんど類のないものです。ベートーベンには冷ややかに「君はバカだ」といわれそうですが、同じバカなら聴かなきゃ損、損です。
そしてこれが残した最も優れた直系の子孫こそ、やはり僕が愛するシューマンの交響曲第3番なのです。それについてはこのブログに書きましたので是非お読みください。
シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第3楽章)
(追補) 冒頭主題(下)において、第4小節で一度和音はドミナントに移行してフェルマータで長く伸ばされる。小さいがとても深い沈静感と充足感が交響曲の頭でいきなり訪れるという開始はめずらしい。次に第5小節で和声はF→B♭(つまりC→F)となり、第6小節でヴィオラがe(ミ)、つまりドミナントへ行くが、バスであるチェロはそれを無視してf(ファ)、つまりトニックのまま居座ってしまうため「長7度」という不協和音が鳴る(楽譜の赤丸部分)。
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ここをピアノで弾いてみればわかる。これが不協和音に聴こえないのだ。僕の耳には、「安寧のドミナントへ行くのはまだはやい。これから楽しいことがあるんだ。」と聴こえる。バスのファ(トニック)がそうやってムードを押し戻して主張している。
これと同じことが第5楽章の始めで起こる。まず第1-4小節でクラリネットがハ長調の分散和音のテーマを出す。バスはヴィオラのドとソである。このテーマを第5小節からホルンが受け継ぐと、バスにチェロのファがそっと加わる(赤い部分)。
テーマはミの音を避けるので長7度は鳴らないが、ハ長調(つまりドミナント)の根っこに和声外音のファ(トニック)が神様の陰のように現れる効果は筆舌に尽くしがたい。「安寧のドミナントへ行くのはまだはやい。これから楽しいことがあるんだ。」という天の声が僕には聞こえてくる。僕は仏教徒で聖書もまともに読んでいないが、ここはキリスト教的な雰囲気を感じる。信者にとってこの部分はどう聞こえるのだろう?
そして第5楽章のコーダに至る。
すべては静まって、いよいよ終わりの時を迎える。和声はF→C→F→B♭→C→Fとなり、一度だけサブドミナント(B♭)で上を見るが、すぐにドミナント(C)に打ち消されて鎮められてしまう。安寧のドミナントの時がやってきたのである。思い出していただきたい。F→C→F。これは「校長先生へのお辞儀」の和音だ。遠足は終わったのである。
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ベートーベン交響曲第5番の名演
2013 JUL 27 23:23:28 pm by 東 賢太郎
いよいよ5番です。この曲、「運命」とあだ名されていますが作曲者がそう命名したわけではありません。この曲の演奏会プログラムに「運命」とあるのは日本ぐらいで、ドイツでもアメリカでも「交響曲第5番ハ短調」であります。
この曲は音でできた堅固な建造物であり、そういう曲作りを生涯指向していたベートーベンがたどり着いた最頂点であります。第3番エロイカで試行した多様な作曲技法が、ベートーベンの頭脳の非常にロジカルな部分で濾過されてきて、ある一瞬に「暗闇から光明へ突き進む衝動」という熱源を得て奇跡的な造形の鋳型の中で固まったかのような作品です。3番や4番においてご説明した作曲の経緯というものは、もちろんここにもあるのですが、運命というあだ名がしっくりしない気がするように、そういうことを知って聴いていただきたいという思いもしてまいりません。音だけで充分です。音をじっくりと聴いてください。
一つだけ記しておくとすると、同時に初演された第6番パストラーレ(田園)が、5番とは似ても似つかない作曲法によって生まれた曲になっているということでしょう。5楽章によるそちらの路線もベートーベンが試行した対極の最頂点であり、この2曲において彼の天才は最も遠隔地点にまで分化いたしました。その一方はブラームスの4曲を末裔とし、もう一方はベルリオーズの幻想やシューマンのラインという別種の交響曲を末裔として後世に伝わっていくのです。
ウィルヘルム・フルトヴェングラー / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 (1947年5月25日、ベルリン・ティタニア・パラスト)
僕はフルトヴェングラーの信奉者ではなく、どちらかというと疎遠な部類の人間ですが、彼の肌に合ったいくつかの曲で受けた衝撃はクラシック人生を左右するほど強烈なものでした。これもその一つです。ナチ協力の疑いから連合国の法廷尋問を受け指揮台を遠ざかっていたフルトヴェングラーが5月25日に「復帰記念コンサート」を開くと聴衆が殺到しました。チケットは奪い合いとなり、演奏
後、熱狂した2千人の聴衆に指揮者は16回も指揮台に呼び戻されたそうです。ストーリーこそ違いますが94年のカルロス・クライバーのベルリン・コンサートでの熱狂を思い出します。あそこで聴いた実音は海賊版CDには入りきれていません。このCDも録音は貧弱であり、実音を想像するしかありません。そうであっても、そうする価値があるほど凄い演奏です。5番がこう演奏すべき曲かどうか以前に、フルトヴェングラーとはこういう指揮者だったという好例としてぜひお聴きいただきたい。第4楽章コーダの終止に至る大減速だけは昔は違和感があったのですが、最近こういうものだったかもしれないとも思えるようになりました。この2日後の27日の演奏もCD化されており、一般には多少録音も良いそれが代表盤となっていますが僕はこの生々しい熱気をはらむ初日の演奏を採ります。なぜ長年にわたってこの指揮者を神と崇める人が後をたたないのか、これを耳にすれば即座にご納得いただけると思います。
オットー・クレンペラー / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (1968年5月25日、ムジークフェライン)
偶然ですがこれも5月25日のライブです。フルトヴェングラーとは対極的な演奏です。
リズムは意味を込めて重く、フレージングは音の増減・加速減速・句読点により変幻自在であり、遅めのテンポの中で千両役者の威厳と秘儀が次々と繰り出される様は壮観としか申し上げられません。第1楽章のファゴットはホルンにせずそのままであるなど、いつもスコアを読み解いた結果こうなったと感じさせるのがクレンペラーの演奏です。そして第4楽章コーダの終止では最後の和音を断ち切るティンパニの一撃、この威厳をこめた幕切れにこの演奏の秘める巨大なエネルギーが象徴されていたと感じるのです。ヨーロッパでは珍しく間髪入れず爆発する聴衆の拍手。ムジークフェラインに感動の渦がマグマのように堆積し、それが堰を切って流れ出す様が手に取るようにわかります。クレンペラーはウィーン・フィルを高く買っていましたが、楽員は面従腹背で扱いにくく、言いにくいことは娘を通して伝えてくるとこぼしたそうです。それでもこんな8000メートルの霊峰を仰ぎ見るような表現ができてしまうのですから大変なカリスマでした。
カルロス・クライバー / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
そのウィーン・フィルをここまでのせてしまったカルロスのカリスマも巨大でした。この超高速のアレグロにオケ全員が納得したとは思えないのですが、結果として前代未聞
のエキサイティングなこの演奏がライブでない場でなされたのは驚異です。これは彼の残した決して多くない録音のうちでも1,2を争う名演と思います。5番がこういう近代的な要素といいますか、現代の高性能オケにして初めて発揮できるシャープで筋肉質な質感でもって圧倒的な説得力を獲得するということは、これが1975年に現れるまで誰も知らなかったのではないでしょうか。僕はロンドンでこれ1曲だけのCD(当時はまだ新メディアでした)を買い、完全にノックアウトされ、しびれてしまいました。ベンチャーズにしびれたのとほぼ似た感じであったのです。ちょっと若い方への啓蒙的な意味も込めてあえて申し上げさせていただくと、クラシックをまったく聴いたことのないロック、ジャズ系の方、ぜひこれを聴いてみてください。クラシックが重ったるくてカビが生えたものというイメージは一気にぶっ飛ぶでしょう。「のだめ」でブレークした交響曲第7番も入ってます。こっちも皆さんの思い込みを根底から粉みじんにしてくれる強烈なビートのきいたカッコいい演奏なのです。それを天下のウィーン・フィルの会心の演奏で、しかも見事な録音で聴くことができます。人生を変えてくれる1枚になると確信いたします。
(補遺)16年1月17日
ピエール・ブーレーズ / ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
CBS全集67枚組の12枚目。第1楽章は推進力を犠牲にして運命動機を聴き手の耳に刻印する。第2主題も無機的。こんなに遅いのも珍しくさらに提示部終結では間があき、展開部の運命動機全奏の減速、再現部後半のテゥッティではさらに減速する。オケはどこか粗く、このレアな解釈に乗っている感じはしない。第2楽章も室内楽のように透明だが合奏のパートごとの出来はいまひとつ。第3楽章のトリオのくり返しが議論を呼んだが録音が過度にフォーカスしている弦の合奏精度の低さとこの遅いテンポでは冗長感しかない。終楽章も全奏でのパートごとの分奏が聞こえ運命リズムの輪郭の隈取りに神経が使われる。第1楽章同様に第3楽章主題回帰への減速が大きいなど音楽が常套的に突っ走るということが回避されつつ対位法的な動きが浮き彫りになるが音楽的に何か意味深いかというと僕には空疎でしかない。伝統的なベートーベン解釈へのアンチテーゼをクレンペラー(存命中)のオーケストラにやらせて楽員たちがつきあったという感じに聞こえる。
ヨゼフ・クリップス / ロンドン交響楽団
昔エヴェレストというレーベルで出ていて日本プレス盤の音が悪く、あんまり聴いていなかったクリップスの全集。4番を聴いてこれをかけたらあまりの落差のなさにうなったのです。4番のままという感じでこんなに力瘤の入らない5番も珍しい。いうなれば1-9番が典雅な音楽性に満ちた19世紀来のウィーン流で、ベーレンライター版を知った僕の世代がきくと気取った料亭で出てきた「おふくろの味」みたいな感じでしょうか。楽しめました。
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ベートーベン交響曲第4番の名演
2013 JUL 21 19:19:27 pm by 東 賢太郎
オランダ系のベートーベンは名前にvanとあるが貴族ではありません。Beethoven(ベートホーフェン)ですが、Beetは砂糖大根、Hovenは農園主の意味のようです。平民の子でした。しかし彼は自分の楽才に対してゲーテが驚くほどのプライドを持ち、貴族階級はもちろんあのヨゼフ・ハイドンですら歯牙にかけなかったことをうかがわせるエピソードを残しています。
ベートーベンは1804年から1806年にかけて、ジョセフィーヌ・フォン・ブルンスヴィック(右)という女性と恋仲にありました。貴族でありダイム伯爵夫人となった彼女は月光ソナタを初めて弾いた人であり、1812年に生まれた最後の娘ミンナの父親はベートーヴェンだと言われている人でもあります。
ベートーベンは生涯独身でした。しかし親密な女性はたくさんいました。ピアノが弾けて売れっ子作曲家で収入もある男ざかりですから女性にもてなかったという方がむしろ不思議です。そうではなく階級コンプレックスがあったため周りにいる女性ではなく貴族の令嬢や夫人に惹かれ、結局身分や育ちの違いで破局になるというパターンが多かったのではないでしょうか。一般にある気難しくて孤独でダサいイメージは、後世が聴覚疾患と同じく彼を運命の逆境と闘う悲劇のヒーローに仕立てるのに都合が良かったものと思います。「楽聖」に私生児がいるなど言語道断ということです。
そのジョセフィーヌといい仲だったころ、そして、交響曲第3番エロイカを書き終えて、その精神の延長線上でそれをさらに純化した第5番を構想していたそのころ、それを一時中断して一気に書いたのが第4番です。
モーツァルトの場合、私生活上の出来事、恋愛や肉親の死のようなものが音楽に反映していることを聴きとるのは実はとても困難です。しかしベートーベンになると、ジョセフィーヌのお姉さんテレーゼ(左)にピアノソナタ24番をあげているし、月光ソナタはそのいとこのジュリエッタ・グイチャルディ(右)にあげている。贈られた女性たちが何らかのインスピレーションを彼に与えていて、本当にそれがそうかはともかく、僕たちがそれを聴きとったという気分になることぐらいはできる。ベートーベンの音楽の方がずっとロマン派に接近しているわけです。それが彼の死の2年後に書かれたショパンのコンチェルトあたりになると誰の耳にも女性への恋情と聞きとれる第2楽章を持つようになってきます。ベルリオーズでは妖怪になりますし、さらにワーグナーに至って恋情どころかエロスそのものまで反映されるわけです。かように見ると、女性の存在が音楽史を進化させていますね。大作曲家はみんな男だからそうなのか、だから大作曲家はみんな男なのか?
この4番の交響曲も「巨人に挟まれたギリシャの乙女」とシューマンが例えていますが、ジョセフィーヌ由来のものかどうかはともかく何か女性的なものを聴きとろうという姿勢が伝統的にあるように思います。どうも腑に落ちません。特に第2楽章です。いくらカルロス・クライバーが「テレーゼ、テレーゼ・・・と弾いてくれ」とオーケストラに力説しても、そもそもそういう性質の音楽には聞こえません。それなら2番の第2楽章のほうがずっといい。ピアノ版で聴くとよくわかるのですがこの楽章のバスの弾むような付点音符による単細胞なリズムはどう弾いたところで愛を語れるようなものではなく、僕はむしろ冗談音楽かメトロノームを連想します。交響曲第8番には緩徐楽章がないのですが、もし入れるならそこしかないんじゃないかとすら思う。和声的にも何も起こらず、僕の偏見と思っていただいて結構ですがこの楽章と7番の第3楽章は全9曲の中で霊感を欠くものと思っています。
この曲が女性的でもなければ恋人に思いを吐露するものでもないと僕が考えている理由はたくさんあります。第1楽章はアダージョの暗くてものものしい序奏がついていて古典派の世界に退行しています。シ♭のユニゾンに対して内声部が奏でるソ♭・ミ♭・ファ・レ♭は音名こそ違いますが5番の冒頭タタタターンの3度下降音型であって、直後に現れる輝かしい変ロ長調の主題があたかもその5番の世界とのひとときの別離を宣言するようです。これは運命動機が支配している熱情ソナタがエロイカ・5番の精神系列に属しているのに対して、清明なハ長調で神殿のようにそびえる風情のワルトシュタインソナタの領域に4番を置いてみようとベートーベンが意識したかもしれないと思えます。音階が上下するメカニックな書法は似ていますし、ソナタ第1楽章の再現部の前など「4番そのもの」です。
4番のその部分、それは「輝かしい変ロ長調の主題」を序奏の暗闇から導き出す部分で、これをひときわ輝かしくしているのが前の小節の4拍目にぎゅっと押しこめられた5つ、4つ、3つ、または2つの前打音のような音階です。ミファソラシ→ド、ファソラシ→ド、ソラシ→ド、ラシ→ド、のどれでもいいのですが、頂点のドに一気に登りつめるはじけるような高揚感、こういう部分に喜びが突き上げるようなハレの衝動を感じないでしょうか。この花火のように鮮烈な効果のある書法はベルリオーズを経てストラヴィンスキーの春の祭典にまでそのまま伝わっています。音の数を5,4,3,2とだんだん減らして速度と緊張感を高めていくベートーベンの書法はまさしく画期的なのですが、この直情的な喜びの爆発は非常に男性的なものではないかと考えます。ジョセフィーヌが何かを彼に与えていたとしたら、僕はこれだと信じています。
さらに加えますと、彼は爆発しかけた感情をそのまま世にさらすほど単細胞の人間ではなく、彼の芸術の秩序、脈絡の中で4番目の交響曲がどうあるべきか考えたでしょう。大まかに言いますと彼にとってピアノソナタは自分自身と親しい知人などのインナーサークル用、カルテットは音楽通の貴族を中心としたアウターサークル用、交響曲は名も知らぬ大衆への名刺代わりという位置づけにありました。フランス革命が生んだこの大衆という相手こそ彼の楽譜の売上げを伸ばすキークライアントであり、交響曲は音楽をよく知らない新規顧客にもすぐわかるように易しく書いていると思います。エロイカのパンチ2発ではなくモーツァルト風の序奏を付け、ワルトシュタインのあの神秘的な、まるで霧の中からうっすらとバッハの平均律が聞こえてくるような壮麗な終楽章ではなく、覚えやすく単純に興奮をもたらす無窮動風の主題にするなどです。そしてそれはハ長調ジュピターへの挑戦から始まり、短調交響曲へ挑もうという脈絡の中では、第39番に相当する位置づけを用意するという意味でも意にかなった選択だったのではないでしょうか。
ミヒャエル・ギーレン / 南西ドイツ放送交響楽団
僕は93年5月にフランクフルトのアルテ・オーパーでこのコンビによるブラームスの交響曲第3番を聴き、心より感動しました。この3番はブラームスがヘルミネ・シュピースという若い歌手との老いらくの恋によって生み出したという、これも女性がきっかけになった曲です。しかも彼女が住んでいたのはフランクフルトからほどないヴィースバーデンという訳で、この演奏会はその意味でも心に残るものとなりました。ドイツでの3年間の滞在中、片っぱしからコンサートを聴きましたがこの3番のギーレンほど「ドイツ音楽」というものの神髄を味わわせてくれた指揮者はありません。何回もきいたこの曲が、初めてドイツ語にきこえたといったら近いでしょうか。オケの音も、あらゆる意味で、もうブラームスを聴くならほかのオケはいらないと思ったほど。第3楽章の弦の高貴でふくよかな美しさといったらなく、鳴りやまぬ拍手にこたえて非常に珍しいことにアンコールがあってそれがこの楽章でした。オケにそう伝えてすっとタクトをあげたギーレンに何のてらいもなく、それが安手のサービス精神ではなくて、演奏していた彼ら自身があまりの素晴らしさにもう一度味わいたいからやっているのだと納得するのにそう時間はかかりませんでした。イタリア人やフランス人が自国の音楽をやるのにこういうことがあるのかどうか、そこに住んだことのない僕にはわかりませんが、ドイツ人をこの時ほどうらやましいと思ったことはありません。
このCDはその直後に買ったもので、素晴らしい演奏、録音はアルテ・オーパーのあの日の音そのものであります(バーデン・バーデンのハンス・ロスバウド・スタジオ)。
僕にとってベートーベンの4番は彼が何をしたかったのか良くわからない曲であり、48種ある音源は誰のを聴いても特に面白くはありません。スコアを読んで眼から見た情報で僕がイメージしているこの曲に最も近いのがギーレン盤ということです。冒頭の第2ホルンをちゃんと鳴らしているのは知る限りこれだけであり、第2楽章の付点音符の伴奏音型を陳腐に陥らぬだけ意味深く彫琢しているのもこれだけです。ベートーベンの音符がこれほど「知性的」に鳴っている例は聴いたことがなく、20世紀以降の音楽家のうちで最も高度な部類のグループに属する耳と理性が選び取った音に接しているという喜びは、僕が何のために音楽を聴いているかの明快な解答とさえいって過言ではありません。余談ですがギーレンは昔に来日してN響を振って以来もう2度と日本に行く気はないそうです。日本には音楽がわかる者などほとんどいない、オケや音楽関係者とはぜんぜん話がかみあわないと言ったそうで、持ちかけられたのはオンナの話ばかりだったそうです。真偽は不明ですがそうだとすれば悲しいばかりです。しかし冷静に見れば、日本は大好きだと持ち上げる実はお金が大好きな外人演奏家が多い中でこの本音の剛直さは彼のスコアの読み方そのものであり、こういう人だからこのベートーベンができているのだと確信します。これが災いしたせいか本当にわかる者がいなかったせいかどうか、わが国の音楽評論家がこのインターコード録音のベートーベン全集をほめたためしがなく、わが国でセールスが不調だったせいかどうか、この会社は潰れてしまいこの最高に素晴らしい全集は廃盤で手に入らない!という理不尽な憂き目にあっています。再録盤がヘンスラーからCDとDVDで出ましたが、もはやあの脂の乗りきったブラームス3番の音ではありません。どこかのレーベルがこの、僕が何回聴いてもいいと思っているこの全集を出してくれること、ついでに言えばインターコード盤に併録されていたギーレンの自作曲(不協和音まで美しい!)も一緒に出してくれることを心から願ってやみません。
手に入らないCDだけでは無責任ですので、初めて4番を聴かれる方のために現在入手可能なものも番外として挙げておきます。
ピエール・モントゥー / ロンドン交響楽団
ジョージ・セル / クリーヴランド管弦楽団
レナード・バーンスタイン / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
3つともタイプは違いますが録音も満足でき、どれから入られても後悔することはない秀演と思います。
(補遺、3月7日、2016)
ウィルヘルム・フルトヴェングラー / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
1943年6月27,30日のライブ。大学1年の8月にこれのLPを買い、不幸なことにこれで4番を初体験することになった。フルトヴェングラーなる何やら神懸った指揮者への怖いもの見たさもあったが、実はそれよりも廉価盤であったことが大きな購入動機だった。カネがなかったのだ。当時4番はたしか正規盤がなくメロディアのこれが希少とされたがいかんせん貧弱極まる音であり、ざーざーいう雑音の中から聞こえてくる冒頭の四谷怪談でもはじまりそうなおどろおどろしい響きにはびっくりした。その後カラッとしたラテン的なトスカニーニの信者になろうという僕だ。緩徐楽章や第3楽章トリオUn poco meno Allegro のハエがとまりそうな遅さには絶句するばかりで、何の根拠をもってこういうことになるのか奇怪というしかなく、4番が嫌いになりかけた。今もってこれがいいと思ったことは一度もなく、4番は幸いトスカニーニによって好きになったがフルトヴェングラーは嫌いになった。
(補遺、10 June17)
ルネ・レイボヴィッツ / ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
ブーレーズの春の祭典(CBS、69年)が師匠レイボヴィッツの録音と酷似していることは指摘した。師に習ったわけではなくアナリーゼの流儀の帰結としてそうなったことは、両者ともストラヴィンスキーの自演盤に解釈のルーツがあることでわかる。レイボヴィッツ盤のライナーノートによると『「世界で一番演奏回数の多いベートーヴェンの第五の出だしのところで、ここのところの小節が一度も正確に演奏されたことがないということに気がついたことがあるかい? それからここのところと…ここのところ」そして48時間後には彼はベートーヴェンの交響曲の中で一般に行なわれている約六百ほどの誤りをみつけ出していた』。楽譜を記号として解釈するのは誤りだろうが、明確な論拠もなく指揮者が解釈を加える恣意を僕は好まない。4番の実像は本稿を書いて4年弱を経た今も明確でないが、このようなものだったかもしれないと考えるに至ってはいる。第4楽章をこのテンポで吹けるファゴット奏者がたくさんいるとは思えないが。
(続きはこちらへ)
ベートーベン交響曲第3番の名演
2013 JUL 15 2:02:33 am by 東 賢太郎
第1楽章を最も理想的なテンポで演奏しているのはレイボヴィッツだ。後半楽章はちょっと荒っぽいが、第1楽章に関する限り最高の演奏はこれだ。この曲を愛する方はぜひ聴いていただきたい。
アルトゥーロ・トスカニーニ / NBC交響楽団(1949年11月28日、12月5日)
僕はオーディオファイルではないが、トスカニーニのベートーベンとブラームスの低音を鳴
らすために1本が125kg あるB&Wのスピーカー、ブルメスター1台(770W)+ホヴランド(630W)2台とパワーアンプを計3台、そして低音のバランス調整のためにイコライザー機能のあるブルメスターのプリアンプをさんざん聴き比べたうえ買った。トスカニーニの録音は当時の米国で最大のメディアであったラジオ放送で細部までうまく聞きとれるようにミキシングされたと思う。だから普通の装置で再生するとラジオみたいに高音の勝ったドライな音になってしまうのだ。第1楽章に2日にわたる録音を繋いだと思われる個所があるのが唯一の欠点だが、有名な53年盤もあるものの音質も演奏もこの49年盤のほうが総合点で圧倒的に上であり余計なコメントは野暮だろう。youtubeに僕が1986年にロンドンで入手したCDをアップロードした。この演奏は後に何度もリミックスされて再発売されたがこの復刻が音が一番良いと思う。
エドリアン・ボールト / ロンドン・フィルハーモニック・プロムナード管弦楽団
大人のエロイカだ。二キッシュの弟子ボールトのドイツ音楽は何も力をこめず何も特別なことはしていないが、音楽の威厳をまっすぐに伝える達人のわざである。僕が一番好きなジュピターはボールト盤だ。自らを未熟として35歳までは振らなかったブラームスの4曲も上位に入れる。ちなみに英米人を下に置く日本の音楽評論家からはボールトはホルストの惑星の指揮者程度の扱いで低く見られる傾向があり、彼のドイツものはほぼ無視されてきた。虚心坦懐に耳を傾けてみて欲しい。エロイカにこういう可能性がある。青臭い身勝手な解釈ではなく、世の酸いも甘いも知り尽くした男が語る箴言集のようであり、終楽章の終わり近くに6番(田園)の世界があったことをこの演奏に教わった。録音も素晴らしい。実は1位はこれとトスカニーニを迷った。僕も少し齢をとってカドがとれ、この穏健、平和主義のエロイカに魅かれるようになったかもしれない。
ブルーノ・ワルター / コロンビア交響楽団
このテンポに共感するものではないが、僕はワルターの気迫がこもったこの演奏が好き
だ。世評の高いフルトヴェングラー盤は好きでない。あのテンポの伸縮は指揮者のものであって音楽が求めているとはとても思えないからだ。どこの評論家が言ったのか知らないが日本ではフルトヴェングラーは奇数番号、ワルターは偶数番号という意味不明の通説がある。そんなものを信じる前にご自分の耳でこれを聴いてほしい。CBSソニーのリミックス盤はダメでCD初期のマックルーアによる録音がいい。音は装置に依存するから録音のことを書いて申しわけないが、エロイカだけはどうしても低音とその上に虹のように広がる倍音の重要さを避けることができない。このワルター盤はすばらしい。眼前で巨大な精神の営みが展開されている様に接するのは壮観だ。この残響を活かしてこの表現をするなら遅いテンポは仕方ないと思わされてしまう。第1楽章の気づくかどうかも微妙なテンポルバート!絶妙な楽器バランス、こだわりぬいたフレージング、吟味されつくしたピッチ。恣意でいい加減に流れる所が微塵もない。これをライブで聴いたら打ちのめされたに相違ない。万人に聴いていただきたい名演中の名演である。
ロブロ・フォン・マタチッチ / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
最初の和音2発からただならぬオーラを発し、いきなりくぎ付けになる。プラハの芸術家
の家の素晴らしい音響!意味深い金管とティンパニのテュッテイが音楽に添って大きな起伏を形成する様は実に雄大であり、第2楽章の壮絶なドラマはマタチッチの骨太の構想が有無をいわさぬ説得力を持っている。録音は59年。チェコ・フィルの木質の弦と管が最上のバランスで交差する柔らかいタッチは独特であり、共産時代のチェコに温存された最も上質のオケの音を知ることができる。第3楽章のホルンのうまいこと!巨大だが挑戦的でないエロイカは聴き終えると何か高貴で包容力あるものに触れた気分を残してくれる。こういう良質の演奏は聴きこむほどに心を豊かにし、本物の音楽の味をしっかりと教えてくれる。「本当にワインを覚えるなら、お金をかけてでも高い物から試飲しなさい」とフランス人に教えられた。まぎれもない上質ワインだが、1000円で売られている。
ラファエル・クーベリック / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
妙な誉めかただが「ちゃんとしたエロイカ」である。実に折り目正しく、「どういう曲ですか?」と聞かれて「こういう曲です」とお示しするなら僕は迷わずこれを選ぶ。テンポはややゆったりしているが盤石の安定感があり、ベルリン・フィルがシェフのカラヤンとのいつもの仕事を離れ、音楽性あふれるクーベリックの3番に共感している様が感じられる。とにかく立派なベートーベンであり、何も足すものも引くものもない。テンポを揺らしたり奇矯な爆発が頻出したりなどという手練手管、ケレン味が全くない。クーベリックは字が読めるより前にベートーベン9曲のスコアが読めるようになったとい
う。 高名なヴァイオリニスト、ヤン・クーベリックの息子だけある早熟ぶりだ。他人の演奏を聴く前に自分の眼で読んで感じ取った表現が終生その演奏を規定したという。たしかに9つの異なるオケを振った彼のベートーベンは9曲のアプローチに梃子でも動かぬ一貫性がある。それは太い鉄骨で構築された建造物のようであり、その場の恣意に傾いてあいまいに造られ地震で揺らぐような脆弱な部分は皆無という堅固さである。オケの音響も、同じ頃に同じオケで録音されたカラヤン盤とはずいぶんちがう。マイクでソロ楽器を目立たせるなど浅薄な録音の仕掛けなど微塵も眼中にない。身勝手に依怙地で頑迷な演奏を想像されるかもしれないが、正反対である。一言で形容するなら本質が「貴族的」だ。ディファクトの破壊者としてのベートーベンではなく、新しい交響曲の様式をつくりそこに君臨した保守のベートーベン像を見事に描いている。彼はシカゴ交響楽団の音楽監督のポストを、ナチ疑惑を受けていたフルトヴェングラーに推薦されたという理由で失ったが、2人の音楽性は対極的である。
セルジュ・チェリビダッケ / ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
ここまで遅いと何も言えない。全楽章が遅いのだからもう勝手にしやがれという領域であ
る。第2楽章の中間部の劇的な高揚はすさまじく、これは完全に後期ロマン派的アプローチである。しかしティンパニの「運命リズム」の強打を聴くにつけ、ああ彼はわかっているなと感じる。葬送の最後は音楽が止まりそうになる。もう指揮者の独壇場である。しかし、このテンポで道を歩いてみるとふとした景色や道端の草花が別な楽しみを与えてくれる。音楽が弛緩して緊張が切れることなく、こんなに豊穣な世界がスコアに秘められていたのかと教わる。すごい表現だ。こんなものはベートーベンではないという反発の声があろう。僕の理性もそう叫ぶ。しかし・・・音楽というのは不思議なものだ。本当に面白い演奏!聴いていただくしかない。ただし初心者はぜひ避けていただきたい。これで曲を覚えてしまったら取り返しはつかないだろう。エロイカを聞き飽きたというセミプロ級の方に強くお薦めする。
(補遺)
ロジャー・ノリントン / ロンドン・クラシカル・プレーヤーズ
クラシック音楽において指揮者の最大の仕事はテンポ設定だろう。この演奏の第1楽章のテンポは、その意味で大いに議論に値する。嫌いと断じるのは容易だがそれでは食の品評と一緒で芸人が「うまい!」と叫んでいるのと変わらない。これが付点二分音符=60-63、真正のAllegro con brio にほかならない( クラシック徒然草-ベートーベン交響曲第3番への一考察-)。最近これをくりかえし聴いてしまい、聴くのが厳しくなった演奏が出てきて困っている。
レナード・バーンスタイン / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
言葉の最も普遍的な意味で「かっこいいエロイカ」だろう。弦のフレーズの小気味良い切り込み、ティンパニを伴ったリズムのエッジの立て方、音を割るホルンなどいちいちが耳に快い。深刻ぶった苦味よりウィーンPOの運動神経を生かしたあっけらかんと明るいシンフォニックな演奏である。それが軽いお気楽な娯楽に陥ってないのは彼がスコアの「凄い部分」に敬意を表して、ちゃんと感じてやってるから、僕にはそう聞こえる。作曲家のクリティカルな眼で楽譜を見ているのだろう。
ブルーノ・ワルター / シンフォニー・オブ・ジ・エア
トスカニーニのオーケストラを彼の追悼で指揮した演奏会の記録である。ワルターがエロイカを選んだのは葬送行進曲で哀悼の意を表したのだろうがこの曲がトスカニーニの十八番でもあったからでもあろう。上掲の正規盤より気迫がこもり、ワルターの意志でテンポは起伏を見せ、一方で第1楽章の弦の強靭なボウイングやティンパニの強奏などオケの自発性にも圧倒される。第2楽章の深い祈りからの高潮もすばらしい。録音だけが玉に瑕だがこれは名演であり、音楽史上の記録としても長く聴き続けられるドキュメントだろう。
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クラシック徒然草-ベートーベン交響曲第3番への一考察-
2013 JUL 14 19:19:10 pm by 東 賢太郎
昨日は久々にエロイカを各種聴いてみた。面白かった。この曲は特別の精神作用を及ぼすと思うのだが、それは個人的な感性のことがらかもしれないし、そういうデリケートなことをあまり独断的に書いてしまうのは良くない。しかし僕個人が少し変わった音楽趣味を持っているかもしれないとしても、他の音楽、それが同じベートーベンのものであっても、どこからも得られない作用なのだから、まずその事実を忠実にお伝えし、それからどうしてそういう作用が及ぶのかという僕なりに考えた解答をお示しするのは多少の意味があるかもしれない。
エロイカは音楽史の中でただならぬ革命を起こしたという意味で並ぶもののない音楽である。これが書かれていなかったらという仮定は西洋近代史においてフランス革命なかりせばという命題に匹敵するだろう。実際、書かれたのはその革命のわずか15年後であり、ヨーロッパのヘゲモニーが根底から瓦解、再編される血の匂い、壮烈な軋みや熱狂や希望と無縁であったはずはない。モーツァルトはそれを見ずに死んでしまったが、死まで考えただろうベートーベンはそれによって日々悪化する耳疾という心的病苦を逃れ、そうでなくてはあり得ぬほどの正のエネルギーに転嫁した。それが産んだ異形の子供、エロイカの楽譜を見ながら今、この音楽、特に第1楽章の奇跡的な様相に鳥肌が立つ思いを抱いている。
この曲が1才年上のナポレオンに捧げるために書かれ、交響曲第3番「ボナパルト」になるはずだったらしいことは有名だ。結局、 「Sinfonia eroica, composta per festeggiare il sovvenire d’un grand’uomo 英雄交響曲、ある偉大なる人の思い出に捧ぐ」 となった。ナポレオンが皇帝になったことに失望し表紙を破り捨てた(フルディナント・リース)ということになっているが、その表紙は無傷のままウィーン楽友協会アルヒーフにある。
ベートーベンはパート譜をパリに送ったらしい。ナポレオンを崇拝していたのは事実のようで「ある偉大なる人」がそうかもしれないが、それだけで34才の男が心血を注いでこんな楽譜を書いたというのはあまりに書生論ではないか。「コックの隣で食事させられのです」(モーツァルト)というドイツ語圏音楽家の処遇が、フランス革命の灯が及ばず君主制が打破されないウィーンでそう劇的に改善していたとも思えない。ベートーベンはフランスで有名になる野心があったのではないか。パリへの売り込みが空振りであり、それを弟子のリースが美化したという方が現実味があると思うが・・・。
歴史は書かなければ残らない。だから歴史を創るのは事実ではなく、書いた者だ。音楽史は思うに美化のオンパレードであり、美化史と呼んだ方がいいかもしれない。天才は穢れてはいけない。従妹に残した淫乱な手紙は戯言だし、名曲は金や売名のためではなくいつも高貴な精神の産物である。相手を過度に美化するのが恋愛の特性なら、音楽史は天才たちへの満たされない愛を吐露する壮大な片思いの物語だ。どんなにモーツァルトがセックスにだらしがなくベートーベンが金に汚くても彼らが残した楽譜の一音符たりとも変更を迫られるわけではない。
交響曲第5番(運命)は少なくとも1804年、つまりこのエロイカを作曲したころにはスケッチが始められていた。ハ短調、変ホ長調とも♭3つ。エロイカにもタタタターンの運命動機がちりばめられている。たとえば第1楽章の第1主題、ドーミドーソドミソドーシ・・・の下線部にDNAの遺伝情報(塩基配列)のごとく埋め込まれている。スコアをご覧いただきたい。

提示部の繰り返し記号が主題を分断しており2度目はドミソドー(タタタタ―)から開始するのがわかる。曲の出だしをご覧いただきたい。主和音をバン、バンとパンチのように2発。5番の曲頭はタタタタ―、タタタタ―とやはりパンチ2発だ。エロイカ提示部のしめくくり、展開部、そしてコーダに至る最後の数ページはタタタタ―の嵐と言っていい。第2楽章、葬送行進曲の伴奏も、これでもかとそのくりかえしだ。ぜひご自分の眼でスコアを見て確認していただきたい。僕はエロイカ第1楽章と5番は兄弟という以上に、双生児に近い濃い血縁を感じている。
この第1主題だが、ドミソドーのあとトニックの根音(E♭)が半音ずつ下がってA#上の減7となってしまい、高音部には落ち着かないシンコペーションのリズムが走る(スコアの第7小節)。英雄の堂々たる行軍かと思いきや早くも晴れ間から雲がかかって不安の陰りが出たかのようだ。そもそもかつて交響曲の第1楽章冒頭でこんな妙な事件が起きたことはない。しかし、これはこの楽章が和声連鎖の絶妙かつ劇的なドラマにおいて第2番を(そしてあらゆる古典派を)すでに凌駕している一つの予兆であって、メルクマールでもあることがやがてわかる。彼がここで試行している和声語法はロマン派にエコーしていく。それだけでも凄いことなのだが、さらに特筆しなくてはいけないことは、この楽章のリズム構造の革命的新奇さに至ってはロマン派を一気に飛び超え、はるかストラヴィンスキーやジャズにまでエコーしていることだ。このことを僕はいくら強調しても足りない気分でいる。
このことが注目されないのは現代の指揮者のほとんどがスコアのAllegro con brio (付点2分音符=60)で演奏しないからだ。99%が遅すぎる。速いといわれるトスカニーニでも遅い。古楽器のヘレベッヘやガーディーナーですら(楽器だけ古くて何の意味があるんだ?)。第5はAllegro con brio(2分音符=108)だ。タタタターンをこれと等価に鳴らすにはエロイカは付点2分音符=72だ。これに近づくほど5番との相似に気づく。60というのはベートーベンの意図を浮き彫りにする熟考された重要なテンポだ。世の指揮者が誰のどういう了解のもとにこのテンポをいとも簡単に無視しているのか、全く理解に苦しむばかりだ。
内部構造の次に、全体から見たコンセプトという観点からしても、5番は暗→明と直線的、3番は明→暗→明とU字型だが暗闇から光明へというパターンは同じだ。第2楽章が誰の葬送かなどというどうでもいい文学的な解釈論よりも光明へ突き進む正のエネルギーの根源が何かと考える方が、これも現実的だと思う。第2番で述べたように僕はそれが負のエネルギーを逆転したハイリゲンシュタットの遺書を起点とする一貫した流れで、結局それは第九まで到達すると思っている。奇数番号曲といわれるものがそれであり、5と9が直線型、3と7がU字型だ。
第1楽章だけでも書きたいことはいくらもある。今回はこのぐらいにして最後に一言。エロイカの自筆譜は失われた。現行スコアはパート譜から作られた。だからというわけではないが1か所だけ昔から気になっている箇所が第1楽章にある。第65小節の第1ヴァイオリンの下降パッセージに第2ヴァイオリンが6度でからむが、再現部ではその「からみ」が消えていることだ。どうもすきま風が吹いている感じがしてならない。ベートーベンが書き忘れるはずはない。生前に彼が指揮もしている。そうであれば意図的にオミットしたということになる。でもなぜ?わからない。現行スコアが歴史的にどこのパート譜からどう成り立ったかについて知識はない。僕はどこかで写譜のミスがあったかもしれないと思っている。
(補遺、16年2月8日)
エロイカ第1楽章のテンポについて
チャイコフスキーは悲愴交響曲の終楽章コーダに Andante giusto と書き込み四分音符=76としているが、これはTempo giusto(1分間に四分音符=80=「心拍数」のテンポでやれという意味)のことである。コントラバスが心音を表し、最後にピッチカートで心臓は止まる(私は死ぬ)のだという明確な含意があったという私見はこの giusto という標語が証明していると僕は考えている。
エロイカ第1楽章Allegro con brio は付点2分音符=60で、1小節が心拍よりやや遅いぐらいになるので心臓に手を当ててイメージしてみていただきたい。これに近いテンポというと比較的速いシューリヒトが56、もっと速いムラヴィンスキーが56-58ぐらいであり、それでもまだ遅い。僕の知る限りAllegro con brio はノリントンの60-63だけだ。ほとんどの人が速すぎに感じると想像するがそれをお聴きいただきたい。
私見ではこれがエロイカだ。西洋音楽特有の3拍子は乗馬のひずめ音であり、パカパ・パカパ・パカパ・・・である。英雄は馬に乗っているのだ。僕はノリントンがそれにぴったりと感じる。パカパが心音にシンクロするので快感だ。これが速いと思うのは、ロマン派を振る20世紀前半の指揮者たちが慣習化した50以下の間違ったテンポに耳が慣らされてしまったからにすぎない。
(比較)
ハンス・クナッパーツブッシュ / ブレーメン・フィルハーモニー管弦楽団
ノリントンと対極の遅さというとこれだろう。冒頭Es和音の物々しさからして何がおきたかとびっくりするが、主題の速度は馬とは程遠く重装歩兵の行軍だ。短調部分の翳りが重く、僕の印象だがあんまり戦さに勝つぞという気はしない。だから葬送されてしまうのか、そういうストーリーなのかなあ?こういうエロイカがお好きな方もおられようし何ら否定する気もないが、万事自分の眼で見た譜面のイメージから曲を聴くのでどうも違うという思いが強い。その調子で全曲とてつもなく遅いのだから、何を聴いてるんだかわからなくなりとてもついていけない。こういうのはワーグナーが愛でたベートーベン像が19世紀のスタンダード化して産み落とした末裔なのではないかと想像する。
(追記、3月8日)
エロイカのスコアで震撼する箇所は複数あるがまずはこれだ(第2楽章、上掲ノリントンの22分25秒から)。
ノリントンだとあっけないが、チューリッヒで聴いたショルティが凄かった。あれは一生忘れない。ピアノ譜の3小節目から、左手の上声を第2ヴァイオリンが、下声をヴィオラとチェロが受け持つが、トーンハレ管弦楽団の弦が渾身の ff で鳴りきって、チェロのa 弦のa~eの強靭な輝きには度肝を抜かれるばかり。フルートとファゴットに現れる d と e♭の短2度の鋭い軋み!なんという凄まじい音楽だろうと唖然とした。そして一陣の嵐が去った後やってくる第1ヴァイオリンのa♭(青枠)だ。そのとき、僕はシューベルトの未完成、あの第2楽章の虚空に飛翔するようなコーダの、これも第1ヴァイオリンによる長く伸ばした単音を思い出したのだ。シューベルトはこれを聴いてあの浮世離れした天国への音を書いたのだと勝手に思っている。未完成の第1楽章だって、エロイカの第2楽章の色に覆われているではないか。そしてこの楽譜のあとに突如狂ったように雄渾にやってくる変イ長調・・・この部分はへたすると夢に出てうなされかねない狂気を孕んだ天才の音楽である。
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ベートーベン交響曲第2番の名演
2013 JUL 9 18:18:16 pm by 東 賢太郎
実は9曲のうち今一番聴きたいのはこの2番。特に第2楽章ラルゲット(アンダンテでもアダージョでもなく!)の美しさは第九のアダージョに比べられる完成度で、1番のアンダンテとのあまりの差には驚きます。この間約3年。ベートーベンに何が起きたのでしょう?ピアノソナタは11番から18番まで(葬送、月光、田園、テンペストなど)、バイオリンソナタが4番から8番まで(春など)が書かれていますが、だからといってこの落差を説明するとも思えません。やはりこれが完成した1802年にしたためられた「ハイリゲンシュタットの遺書」があるという事実に何らかのヒントがあるのではないでしょうか。
私見ですがあの遺書を書いたベートーベンには死ぬ気はもはやなく、むしろ作曲家として強く生きるというステートメントをあえて誰にも送らずに残したのではないかと思っています。そのステートメントこそこの2番に込められているエッセンスであり、それがナポレオンの行軍に駆り立てられてさらに高揚、昇華したのがエロイカだと考えています。第1楽章コーダの、当時としては極めてモダンに響いたであろう不協和音がきしむ和声進行や、早や第九を思わせるバスの進行など、2番がエロイカの兄貴分であっていけない理由は毛頭ありません。むしろ第1楽章がアレグロ・コン・ブリオ、第3楽章がスケルツォ、第4楽章がアレグロ・モルトであるのは9曲中、2番と3番だけであるという事実は注目されていいと思います。
したがって、僕の解釈としては、この2番を「偶数番号曲」として温和に優美に演奏するのはまったくの誤りです。モーツァルトの短調曲を珍重して「走る悲しみ」などと称してみるロマン派にかぶれた精神の産物でしかありません。また1番の弟分として古典派交響曲の脈絡に位置付ける試みも、古楽器演奏という博物館から取り出してきた楽器に捉われて作曲家の精神まで埃(ほこり)まみれにしてしまう大きな誤りなのです。まだエロイカを知らなかった聴衆に初めてメヌエットでなくスケルツォを突きつけるという実験、革命の精神を前面に出したアグレッシブな演奏こそベートーベンが意図したものであり、そうでなければこの曲を世に問うてみようという彼の衝動は意味のない物になってしまうでしょう。
(補遺、3月6日)
アルトゥーロ・トスカニーニ / NBC交響楽団 (51年10月5日、カーネギーホール)
ロンドン勤務の87年は僕のベートーベン・イヤーだった。なにせモーツァルト、フランス物、近現代物は聴いておらずロマン派もブラームス以外なし。火をつけたのはトスカニーニの交響曲第1,2番で、3,4,5,9番, PC3番も彼の指揮で熱中した。特に2番の真価を僕に植えつけたのは同年4月ごろvirgin recordで買ったこのCDだ。これを何度聴いたことだろう。トスカニーニの1,2番こそ僕の耳を作り、ベートーベン像の基軸を据えた決定的、衝撃的な演奏だ。第1楽章、ものものしい序奏が終わり、アレグロの疾走がはじまるともう魂が天に昇る。なんというエネルギーに満ちた雄渾な音楽!コーダのバスがdから半音ずつオクターヴ上のeまで14音あがる革命的、驚異的な和声プログレッション!!エロイカに至る衝動がベートーベンの頭脳の中で火山のように炸裂している様を僕は2番の楽譜のそこかしこに見出すが、それを教えてくれたのはこのトスカニーニ盤をおいて他にない。
ルネ・レイボヴィッツ / ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
レイボヴィッツはシェーンベルグに師事した作曲家で、ピエール・ブーレーズの先生でもあります。そういえば74年にそのブーレーズがニューヨークフィルを率いて来日した時にやったのもこの2番でした。意外に普通の演奏で拍子抜けしたのですが、お師匠さんの振ったこの演奏、これが1961年の録音と信じられるでしょうか。プレストに近い第1楽章。小気味良く疾走する弦とインパクトの強いトゥッティを交替させて鮮やかなメリハリをつける様は、これぞ2番とうならされます。ベートーベンは当初ウィーンでJSバッハ演奏の名手として鳴らした人であり、このバロック的な強弱対比の解釈を僕は支持します。前述の第1楽章コーダの和声進行も実はバッハであり、しかしそれが唐突に、しかもトランペットが2度音程を強調して鳴り響くため今でもモダンに聞こえるのです。こういう物凄い高度な仕掛けをレイボヴィッツはすべて見抜いて音にしている。最近の指揮者の快適に速くてスポーティなメリハリなどとは知的次元において月とすっぽんであり、並べて論じるのも馬鹿くさいとしか申し上げようがありません。ホルンは裸の音色のまま咆哮し、ティンパニの強打がア
クセントを添え、コーダは少々アンサンブルの乱れも構わずライブのような高揚を見せながら突入。そのトランペットの強奏もバロック的に原色的です。うわべの綺麗さなどどこ吹く風のレイポヴィッツの眼力には敬服するばかりです。第2楽章もロマン的な方向に傾かず古典的、アポロ的均整感が支配しており、作曲当時の演奏もこういう風であったかと納得できるもの。第3楽章はこの演奏の特徴が最も出ており、ここも速いテンポで曲想・強弱の対比を徹底的に描きだし、当時の聴衆を驚かせた音を髣髴とさせます。史上初めてメヌエットでなくスケルツォを聴衆の耳にたたきつけた意図が鮮明にわかる演奏なのです。アン・デア・ウィーン劇場の初演の指揮台でベートーベンが狙った効果はこうでなくては。第4楽章、ちょっと速すぎますが指揮者がやりたいことは明確であり、有無を言わさぬ説得力に圧倒されてしまいます。リズムのメリハリ、ダイナミクスのメリハリ、とにかく鮮明、鮮烈を極め、まだエロイカの洗礼を受けていなかった聴衆の聴いたものがなんだったかを教えてくれるのです。一切の先入観なく、眼光紙背に徹する作曲家の眼力でスコアを読み解いたこの演奏が古くなるということは考えられません。カラヤンやワルターの解釈はいずれ本人たちとともにセピア色の回顧の対象となるでしょうが、このレイボヴィッツ盤は永遠に聴きつがれると確信します。
カール・ベーム / バイエルン放送交響楽団(1978年12月7日、ヘルクレス・ザール)
スコアに手垢のついていないレイボヴィッツ盤に対し、19世紀の手垢がついてしまったスタイルを踏襲した20世紀の名演としてご紹介します。録音当時のベームのライブはほとんどが素晴らしく、ここでも第1楽章のテンポ設定とエネルギーの噴出はほぼ満足
のいくものです。この主部が3番(エロイカ)、5番(運命)と同じアレグロ・コン・ブリオであることを忘れた演奏がいかに多いことか。腰の重いオケを疾走させて向かうスリリングなコーダが素晴らしく、ずっしりとした満足感をもたらしてくれます。第2楽章は古典的な均斉を保ちつつ弦がじっくりと歌っており、この美しい旋律に、これまたふるいつきたくなるほど典雅な対旋律が寄りそっていく様はベートーベンが書いた最高のページの一つと思わせます。まるで6番(田園)がエコーするような幸福感に満ちた情景、中間部の短調部分で緊張感をはらんで音楽が膨らんでいく呼吸はこの演奏の白眉でしょう。スケルツォはやや平凡で特段の部分はありません。終楽章がアレグロ・モルトなのは2番とエロイカだけです。アレグロ・ヴィヴァ―チェではないのにこれを速く振りすぎる指揮者が多く、ここだけはレイボヴィッツよりベームのテンポに納得感があります。腰をすえた安定感のある理想的な表現なのです。そしてあのコーダ。第1楽章をバッハで締めくくったベートーベンは、終楽章をモーツァルトのジュピター第1楽章と同じドミソミドで締めくくるのです。何という不敵な挑戦!あたかも先人を超えたぞというベートーベンの高らかな宣言のように響くコーダ、よくお聴き下さい。
オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団(1960年、ムジークフェライン)
富士山の登山口はいくつかある。その例をお示ししましょう。オットー・クレンペラーが手兵フィルハーモニア管弦楽団を率いてウィーンに乗り込んだ1960年5月29日、ムージクフェラインでのライブ録音です。この日は昼間に同じホールでワルターがウィーンフィルを振ってマーラーの4番と未完成を演奏。当時のウィーンはすごかったですね。さて第1楽章は
1番と同様にハイドン、モーツァルトの流れをくむ序奏部がついています。このアダージョがこんなに意味深く演奏された例は知りません。フルトヴェングラーの4番の序奏部と同じで、これからいよいよベートーベンのシンフォニーが始まる、まぎれもないその予感がオーラのように漂っているのです。主部。これがアレグロ・コン・ブリオだろうかという悠然たるテンポで一歩一歩音楽を克明に刻みます。ごつごつした手触り、ごしごし刻む内声部の弦、楔のように撃ち込まれるティンパニ、指揮者の内に秘めたる気迫に圧倒されるのみです。しかし、じっくり聴くとわかるのですがオケは決して力んだり大きく派手な音を出していない。印象はこんなに巨大なのに。指揮芸術の最高峰を極めたクレンペラーの名人芸なのです。第2楽章、すべての伴奏音型まで入念に描ききる情に流れない指揮。綺麗な音を出そうという意識はほとんど感じません。ベーム盤とのあまりの違いを是非ご自分の耳で聴いてみていただきたい。指揮者の哲学で音楽はここまで変わる、しかしどちらも名人芸で深い感動を呼び起こすという一例です。スケルツォは弦が荒削りで揃っていない。それがどうしたという頑固おやじのツッパリで終始。第4楽章、これも遅い。フレージングへの執拗なこだわりと内声部の強調は第1楽章と同じです。パルテノン神殿を仰ぎ見るような偉容であり、クレンペラーが作り上げたかった造形美の全容がここで明らかにされます。最後は少しテンポが速くなってピアニッシモへ向かい、終止の和音は物凄いリタルダンドがかかります。今聴いたのが2番であったことをこんなに忘れさせられてしまう演奏はありません。明らかにベートーベンよりもクレンペラーを聴く演奏なのですが、聴き終わって「これぞベートーベン」と呟いてしまうのは我ながら実に不思議なものです。
パウル・クレツキ / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
なんとも昔風のおおらかなタッチで、チェコPOの木質の音色がなつかしい。トスカニーニのようにとんがったところもなく、レイポヴィッツのエネルギーのたぎりもない。しかし2番にはこういう演奏を許容する側面があって、それもクレツキの指揮は音程の良さ、中欧のオルガン的な和声の絶妙のブレンドとふくらみ、楽曲構成のバランスがあり、端倪すべかざる高水準のベートーベンになっています。9曲全部が同レベルであり、CPOによる全集ということもあって僕は大事にしております。
クルト・ザンデルリンク/ レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
1957年7月、ウィーンのコンツェルトハウス大ホールにて録音。トスカニーニ、レイボヴィッツのテンポに比べ別の作品のように遅いが、2番を軽量級の作品と扱わない別のやり方を示す。クルト・ザンデルリンク(1912-2011)は腰の重いオケでひとつひとつのフレーズを意味深く提示し、46才にして大家の音楽をしている。最晩年の彼のシューベルト9番をチューリヒで聴いたが、同じ印象だった。第2楽章の陰影はベートーベン後期からロマン派への脈絡を感じさせるなど、この演奏はもっと注目されてもいいと思料。
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ベートーベン交響曲第1番の名演
2013 JUL 8 0:00:08 am by 東 賢太郎
(改訂、3月6日)
アルトゥーロ・トスカニーニ / NBC交響楽団(51年12月21日、カーネギーホール)
僕はLPを持って行けなかった米国留学の2年間、トスカニーニのカセットを買って大好きなベートーベンの交響曲への渇きを癒した。だから僕のベートーベンの原像はトスカニーニの直截的な演奏で築き上げたものだ。それと同じ録音がロンドン勤務の86-7年に、当時まだ新フォーマットであったCD(右の写真)がRCAから出て狂喜したのを昨日のように覚えている。もちろん毎日のように聴きこんだから当時の我が家ではこの1番がテーマソングのように鳴っていたはずだ。そうして87年は僕のベートーベン・イヤーとなり他の作曲家はお留守とさえなってしまった。ベートーベンというのはそういう音楽を書いた作曲家なのだ。いま聴きかえしてもこの1番は熱い。そして僕の心にも熱いものを掻き立てる。当時、仕事は想像を絶する大変さであり、この1番が精神的支柱で、くじける寸前で救ってくれたものであったことは間違いない。この演奏の価値や評価がどうのということは問題ではなく、人生の糧として換えがたい恩のあるものであって、このCDは家宝となるべきものだ。
こちらは空襲で破壊されたスカラ座が再建され、その直後に管弦楽団を連れてルツェルンで演奏された1946年7月7日のライブ録音だ。コンセプトはNBC盤と何ら変わらない。
トスカニーニの強烈な洗礼を受けると他の演奏はもうどうでもよいが・・・。
フランツ・ブリュッヘン / 18世紀管弦楽団
ブリュッヘン盤はピッチがちょっと低いです。しかし演奏はアムステルダムの名ホール、コンセルトヘボウの音響がプラスに働いて古楽器演奏のプラス面だけが出ており、第1楽章はゆっくり目のテンポで重厚
感すらあります。ブリュッヘンはこの1番を3,5,7,9番へ連なる系譜に並べているのかもしれません。しかし第2楽章はハイドンの延長線上にあって古楽器流の表現が前面に出ます。これがモーツァルトの40番の緩徐楽章の血を引いていることがよくわかります。第3楽章、トリオの後で主部を繰り返すのはやや驚きますがテンポは素晴らしいですね。これぞメヌエットでなくスケルツォ。ヴィヴァ―チェだからこれでいいのです。運命動機もよく聞こえます。終楽章、いいテンポです。僕はこれを理想的とします。ライブでの気合いで加熱していく様はすばらしく、手に汗握る高揚感は実にエキサイティングです。彼が同じオケでやったモーツァルトの39番の実演を聴いたことがありますが、あの決して盛り上がるわけではないエンディングでも充分な終結感に至ったのはとても印象に残っていて、指揮者の綺麗ごとではない表現意欲の強靭さを感じました。ベートーベンのシンフォニーにはそれが不可欠なのです。それが作曲者の意図どおりのものかどうかはともかく、演奏家が強いステートメントをぶつけて曲と対峙するのがベートーベンを演奏するという行為であって、それがない綺麗ごとの演奏など僕は何の存在価値も感じません。例えばこの楽章ではホルン、ティンパニのffによる嵐のようなダイナミクスがさく裂しますが、この曲はこうでなくてはいけません。というのは、ウィーンのブルグ劇場でベートーベンが自費を投じて開いた演奏会での初演を聴いた聴衆は「ブラスバンドみたいだった」とコメントを残しているからです。作曲者自身が何かを曲にぶつけていたんです。そして最後は古風に念を押すように減速して停止。これは博物館の陳列品のような風情のひからびた古楽器演奏とは一線を画した、人のパッションとぬくもりのある見事なベートーベンです。
オイゲン・ヨッフム / バイエルン放送交響楽団
ヨッフムの1度目の録音です。第1楽章、息の長いアダージョの開始からどこかロマン的な雰囲気を漂わせます。遅めのアレグロで弾かれる主部は、腰の重い弦を土台にあ
でやかな木管が乗ってピラミッド型のマスの音響を構築する19世紀的ベートーベン演奏です。このスタイルというとベームが晩年にウィーンPOを振ったものがありますが、あれは何故かあまりにつまらない凡庸な演奏なのでこのCDを聴いてこの曲の(というよりベートーベンの)懐の深さをぜひ味わっていただきたい。第2楽章はフレーズごとに終止でテンポを緩め、レガート重視で一音一音念を押しながら進みます。第3楽章、リズムの前衛性は目立たずひたすら歌謡性で押し、その末にトリオではppまで音量を下げるというユニークさ。アタッカで入る終楽章の主部はやはり遅めのアレグロで繰り返しあり。ここでも木管(特にフルートがうまい)のあでやかさは絶品です。音楽の均一的な横の流れよりも、和声感、質量感に伴って速さや流れが副次的に決まるという、例えばラフマニノフのショパン演奏などに明確に現れている19世紀ロマン主義的スタイルの名演です。ではリズム感が鈍いかというと、終楽章のちょっとした合いの手での付点音符の扱いなど句読点へのこだわりも充分です。古老のおとぎ話を聞く感があり、管弦が混合して醸し出すトゥッティの濃厚な和声感はたまり醤油のような風味を感じます。59年4月の録音は年代にしては驚くほど良好で素晴らしいコクを味わえるのです。
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ベートーベンの交響曲を語るということ
2013 JUL 7 21:21:57 pm by 東 賢太郎
花崎さんの面白い企画です。ベートーベンの交響曲9曲について一つづつイチオシCDを、指揮者の重複がないように選んでみようというものです。今回はまず、この大きな企画にのぞむ前に現時点で僕がベートーベンのシンフォニーにつきどう考えているのか、この9曲というものがどういう存在と見えているのかからご説明したいと思います。
クラシック好きとしては誰しも同じでしょうが、ベートーベンの交響曲というのははるか聳(そび)え立つ9つの霊峰のようなもの。すべてが8千メートル級の山々です。何度登っても風景は様相を違え、そのたびに別の偉容を感じるのです。僕は、このCDだけあれば他はいらないと言い切れる曲がいくつかありますが、ベートーベンの9曲がその仲間に入ることはありません。だから第九交響曲のイチオシCDは?と訊かれると、とても困る。富士山だって登山口は複数あるからです。
もっと困るのは、そういう状況ですから、例えば第九がどういう曲なのかいまだつかみかねていることです。ただ僕はどんな大指揮者であれ他人の演奏からその曲を知ることはしません。自分で楽譜から読み取る努力が優先です。演奏家とは僕にとってはそういう存在にすぎません。ところが、その肝心の楽譜を見ると良くわからないことが多い。例えばわざわざつけているメトロノーム記号ですが、その通りの速度でやると超高速になるなど、不可解な事が多いのです。彼の楽譜にはイタリア・オペラみたいに「演奏家の歌心におまかせ」のようないい加減な部分はありません。それは彼の明確な意図なのであり、だからこそ困るのです。
近年、楽譜研究が進んでいて、慣行版であるブライトコプフ・ウント・ヘルテル版に対してベーレンライター版なるスコアによる演奏が増えました。細部には立ち入りませんが、ベートーベンが楽器法にこだわったのはある程度事実であり、ベーレンライター版を使うかどうかが指揮者の試金石になっている観すらあります。しかし僕の立場はシンプルです。この9曲はリストによるピアノ版がありますが、ピアノソナタとして充分に成り立つものであり、ベートーベンもまずピアノで発想してから管弦楽化したと思われます。スコアの版の問題のうちこの変換の誤謬の部分は必要悪であり、忘れても音楽の本質には関わらないということです。従って僕は版の選択が演奏の是非を揺るがすことはないと思っています。単なる指揮者の趣味の範疇であり、そんなことで感動が倍加するようなことは起こりえません。
僕は第3番変ホ長調、いわゆるエロイカの第1楽章をMIDIで自己流に演奏、録音して、音楽のあまりの巨大さ、それは長さとか音符の数とか即物的な意味ではなく、その秘めているエネルギーの放射のようなものに圧倒されて第1楽章でやめてしまった記憶があります。音符をただなぞって音にする行為が不謹慎に思えたというか、彼が望んでいた音楽はそういう安易なものではないと諌める力、そういうベートーベンの「氣の力」が音符に封じ込められていて、それに「当たって」しまったという感じです。
それが楽譜のどこにあるのか?よくわかりません。今日投稿した「三十一文字の思い」、あそこに書いた91歳の被災地のおばあさんの短歌が、文字を超えて僕に強く訴えかけてきたようなものです。それはおそらく、難聴という音楽家にとって致命的な不幸と闘って、それでも乗り越えて生きて行こうと彼の内面を突き動かしたはずの何ものか、人間にとって最も強くて高貴な尊厳のようなものが音符や楽器の音を超えて溢れ出てくるのではないかと思っています。ベートーベンは機会音楽と最も遠いシンフォニーというもので、いやそれを最も深遠なものに自らの力で変容させてしまうことで、彼の尊厳を永遠に刻み込もうとしたに違いありません。
一介のリスナーとしてでも、僕がそういう彼の真意を理解しているかと問われれば残念ながら自信はありません。第8番の、無駄がそぎ落とされて宝石のように輝く音譜たち。そこに透かし彫りのように浮き出る予想もしないアイロニーとユーモア。晩年の作品でショスタコーヴィチやバルトークが目指したかもしれない人間、人生というもののはかなさ、おかしさをシリアスな鋳型に埋め込もうという試みの原型をそこに見ます。しかしそれがさらに純化した後期カルテットに至る道のりの中でどうして第九のような作品が現れたのか?よくわかりません。
彼を過度に神格化するのも危険ですし、彼のシンフォニーをそんなに構えて聴く必要もありません。それは単に「良くできた音楽」としても楽しめますし、スポーティな快楽的側面だけ見せて終わってしまう演奏も多々あります。それでも聴けば必ず満足させられ、自分の心に潜む最も清らかでポジティブなものだけを見た気分にさせてくれるのです。どんなに落ち込んでいる時でも、僕はベートーベンのシンフォニーを聴き終えて演奏会場を去る時には必ず「前向きでエネルギッシュな正義感の強い男」に変身しているのです。彼の音楽が生きながらえてきた秘密の一端はおそらくこれであり、それは彼自身を生きながらえさせてきた衝動がもたらしている作用だからこそ、圧倒的なパワーと説得力を持つのです。
ということで、企画に入る前にまずお断りしなくてはならないのは、ベートーベンの交響曲という音楽そのものについて、他の音楽のように書く自信はまだないということ。それからイチオシCDはあくまで今時点で、良いと思って時々聴いているものにすぎないということです。さらにはこの数か月はこれらの交響曲を聴こうという心境にも程遠く、ほとんど耳にしていなかったということもご容赦願えれば幸いです。











