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ベートーベン ピアノ協奏曲第5番作品73「皇帝」

2013 NOV 23 17:17:29 pm by 東 賢太郎

万博

 

大阪万国博覧会は1970年のことだった。日本国にとって一大イベントだったが我が家にとってもそうで、東名を飛ばして大阪まで行った。日にちは正確に覚えてないが、高校に上がる前の春休みだったはずだ。

 

三菱未来館は東宝の特撮による火山や海底や宇宙の360度視界の映像で話題沸騰だった。背景に流れる伊福部昭 のBGMと音響空間の効果も大きかったように思う。アポロが持ち帰った「月の石」で長蛇の列ができたアメリカ館に対し、ドイツ館は「音楽の国」がテーマだった。パビリオンは国のプレゼンの場でもある。アメリカがアポロならドイツは音楽。ベートーベン生誕200年ということもあり、ベートーベンが聴けるものと勝手に思った。

当時はモーツァルトもベートーベンもよく知らない。だから聴きたくて仕方なく、家族はたぶん興味はなかったろうがわがままを言って列に並んだのだろう。ところがいざ入ってみるとがっかりだ。ドイツ館のメインパビリオンはシュトックハウゼンという現代作曲家の実験的な音楽ドームの様相だった。高い天井部を奇妙な音が走り抜ける。今と未来がテーマの万博という舞台なのだから後になって考えればたしかにそれは正解だったのだが、何も知らなかった僕は失望した。

写真 (45)写真 (46)しようがなく出口で記念品にレコードを買った(右と下がその裏と表だ)。するとウィルヘルム・ケンプの弾くベートーベンの皇帝が入っていて、少し渇望が満たされた感じがした。しかしあるのは第2,3楽章だけで第1楽章があるべきところにカラヤン指揮のコリオラン序曲が入っている。B面は「蚤の歌」と「接吻」、そして八重奏曲だ。これがドイツ国家勅撰の国威の象徴であり、そのプレゼン資料ということだ。皇帝をこれで初めて聴いた僕はぴんと来なかった。そりゃあそうだ。あの雄渾で気宇壮大な第1楽章がないんだから。これはうぶな少年に罪なおみやげとなった。なんとなく僕は第5協奏曲がつまらないと思いこんでしまったのだ。こんなごった煮で大ベートーベンを、いやドイツ国家を語ろうなど誰が思いついたのだろう?

そのせいで、結局しばらく僕はこの曲のレコードを買いそびれてしまった。中途半端ながら持ってしまっていて、それもどうも面白そうでもない。当時LPは2000円もしたし、聴きたい曲はわんさとあったからだ。ケンプの演奏のせいではない。彼の名誉のために書かなくてはいけない。もうひとつ大きな理由があった。これだ。

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この主題が少年の未開拓な耳にはわからなかった。この楽譜を見て歌えるならあなたは立派なミュージシャンだ。僕はこれが読めなかったし、読むどころか聞いてもリズムすらとれなかった。

3拍子、6拍子というのはそもそも日本人になじみが薄い。歌謡曲にも民謡にも校歌にもほとんどない。ちなみに我が九段高校の校歌は3拍子だが、音楽教師がそれを自慢にするほど例外的だ。童謡は西洋音楽を勉強した日本人が洋風を意識して作曲したからだろうか「象さん」や「赤とんぼ」など3拍子がある。しかしテンポは遅い。東洋人は快速の3拍子に慣れていないのだ。速いのはみんなイッチニ―イッチニ―のマーチや軍歌になってしまう。

だからベートーベンの3拍子のアレグロというものはいわば「鹿鳴館現象」であり、日本人には浮いたものだ。今だって、クラシックを初めて聴く人の耳にそれは起きている。どうもよくわからない、しっくりこない・・・当たり前なのだ。いくら洋モノを聴いたところでロック、ポップス、ジャズにもほとんどないのだから。しかし3拍子系なしにクラシック的な音楽というものは成立不能といえるほど当たり前のものだ。アメリカ合衆国の国歌を思い浮かべてほしい。

もしクラシックを、ベートーベンを極めてみようという方がおられれば、皇帝の第3楽章は最高の「耳の練習曲」だ。楽譜はいらない。このものすごく速い6拍子がちゃんと6拍子に聴こえるまで、合点がいくまで、何回でもリセットして聴いてみてほしい。左手伴奏の1,2,3,1,2,3がワンセットで6つだからちっとも難しくない。そうすると上にのせた楽譜がな~んだと簡単に読めるようになる。確実に耳が良くなる。だまされたと思ってやってみてほしい。

僕は音大卒でもミュージシャンでもない。しかしこうやって「耳を作る」のがクラシック攻略の強大な武器になることは自分で実験済みだ。四則計算ができなければ微積はできない。「耳の練習曲」は自信を持っておすすめできる。そうするとシューマンやブラームスやシェーンベルグの、もっと複雑で錯綜した音楽が面白く聴けるようになる。やがてはスコアもある程度は読めるようになる。J.S.バッハとベートーベンの音楽を聴きこむことは最高のドリルなのだ。

CDだが4番でご紹介したパネンカがここでも素晴らしい。挙げたいのだが、最後の最後でどういうことかティンパニが間違った音をたたいている。なぜ録り直していないのか不思議で仕方ない。あれで名演ぶちこわしだ。

 

ウィルヘルム・バックハウス/ ハンス・シュミット・イッセルシュテット/ ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

uccd9164-m-01-dl今年のパ・リーグのベストナイン投手に田中将大を選ぶようなものだ。あまりに順当なチョイスで面白くも何ともないが、これを聴いておかないと話にならないだろう。そういう演奏である。これとブラームスの2番だけは鍵盤の獅子王バックハウスを動かし難い。皇帝の称号は曲ではなく彼にさしあげたくなる。録音は数種類あってこれが最晩年のものだから普通には気がつかない程度の微細な不出来がある。しかしこれがライブであったならどんなに圧倒されたことか。ザ・皇帝とでもいうべきツボを心得た指揮者とオケ。そのテンポと起伏に乗って盤石の安定感で堂々たるドラマを繰り広げるピアノ。本物のベートーベンの音楽がこんこんとあふれ出る泉であり、ぜひ心してお聴きいただきたい。

 

エレーヌ・グリモー / ヴラディーミル・ユロフスキー/ ドレスデン国立管弦楽団

41kBt0faJyL._SL500_AA300_グリモーは大学で動物生理学を学び、ニューヨーク・ウルフ・センターを設立してオオカミと一緒に住んでいる。著書に『野生のしらべ』(講談社)がある。ユダヤ系フランス人で両親とも大学教授。13歳でパリ国立音楽院に入学した神童で、共感覚の持ち主としても知られる。面白い女性だ。一度会ってみたい。ピアノは野性的どころか正反対で実に知的刺激に富む。発想が清水の如く新鮮でみずみずしく、デリケートでありパッショネートでもあり誰からも聞いたことのない音がする。ソナタ28番も同じで、一気に僕の愛聴盤になってしまった。チューリヒでラフマニノフ2番を聴いたが指揮者(ジンマン)とあわずにぜんぜんダメだった。この女性を御すのは無理だ、普通の男には。オオカミかライオンが必要だろう。

 

(補遺)

ユーリ・エゴロフ / ウォルフガング・サヴァリッシュ / フィルハーモニア管弦楽団

5099920653125特筆に値する立派な皇帝である。エゴロフは僕と同じ学年だが34歳でエイズで夭折してしまった。正真正銘の天才であり、彼の高音の硬質な煌めきはミケランジェリに匹敵すると思う。ものすごく上手いがそれがそう聞こえず、音楽だけが響いてくる。ことばのプレゼンで、やさしいことを難しく言うのは馬鹿であり、難しいことを難しく言うのは凡人であり、難しいことをやさしく言うのは達人とされる。エゴロフは達人の域にあった。第1楽章カデンツァで短調でpになると音色がふっと変わる。魔法のように。豪気な中に青白いデリカシーが光るというのは並みのピアニストには求めようもないことで、緩徐楽章に無機質な音がないのは大変なことだ。オケはやや荒っぽいのが玉にきずだが、ピアノに触発されたかサヴァリッシュがいつになく張り切った伴奏をしており花を添えている。i-tunesにある。

 

(補遺、24 June17)

ディーター・ツェヒリン / クルト・ザンデルリンク / ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

これは今の僕にとって最高の皇帝であると断言してしまうべき名演である。ディーター・ツェヒリン(1926-2012)は有名でないのはDDR出身者の宿命だが、共産圏に隔離されたおかげで19世紀の古式床しい演奏様式のタイムカプセルとして希少な価値を有しており、知名度の低さはまったく不当なものであると言うしかない。ピアノはライプツィヒのBlüthnerで、木質感のある見事な美音で古典派に誠にふさわしい美音だ。現代人がこの曲に期待する華麗さには目もくれずテクニックをひけらかす風情もなく、では何がいいのかと問われれば、これこそオーソドックスなベートーベンなんだと答えるしかない。ピアノ演奏のテクニックというのは大道芸人の曲芸みたいなくだらないショーマンシップのためにあるのではない。そんなもので心ある聴衆の関心など得ようがないのだ。テクニックは音楽の求めるものを「あるべき風」に弾くためにあるのであって、それを獲得するには何が「あるべきもの」かを知っていなくてはならないのは自明の理だ。ツェヒリンのピアノの何が僕の心をとらえているのか説明できるなら是非してみたいものだ。一方で伴奏のLGOの渋く重たい音色がまたいい。ザンデルリンクの指揮も重厚そのものでエネルギーに満ちあふれ、これぞ皇帝だという絶対の風格を見せてくれる。このピアノは指揮者の求める「あるべきもの」と完璧に合体しているのである。燻んだ音を包むホール残響がうまくとらえられまさに東独の音がする録音であり、万事僕の趣味に合致する演奏にぞっこんである。

 

 

 

 

 

 

 

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Categories:______ベートーベン, クラシック音楽

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