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カテゴリー: ______演奏会の感想

読響定期-ジョン・アダムズのハルモニーレーレ(和声学)を聴く

2015 OCT 14 1:01:02 am by 東 賢太郎

昔から計画性というものがなく、スケジュールは秘書様におまかせの悪癖がついていて訓練ができてません。それでこういうことになるのですが、先週はシベリウスのリハーサル、ウィーンフィル、京都でおどりを2回、中島さんライブ、シベリウス1,6番、と連チャンで入れてしまって、楽しかったのですがちょっと疲れました。

ところが今朝、今週のを見てみると、読響、魔笛、N響、フィガロとこれまた連チャンで入っているではないですか。音楽はしばし絶食状態にあったのに、こりゃあリバウンドです。来週も歌舞伎があるし・・・。いままでは仕事の気晴らしになってましたが、このペースだとなんだが仕事の方が気分転換になりそうだ!

今日はサントリーホールで読響定期でした。そういうことであまり気乗りでなく眠くもあり。こういうプロでございました。

指揮=下野 竜也
ヴィオラ=鈴木 康浩(読響ソロ・ヴィオラ)

ベートーヴェン:序曲「コリオラン」 作品62
ヒンデミット:「白鳥を焼く男」(ヴィオラと管弦楽)
ジョン・アダムズ:ハルモニーレーレ(和声学)

下野は好きな指揮者です。お子様ランチメニューもこなすがこういう通好みもやってくれる。勉強してないとできません。毎度毎度、お子様ランチで食ってる指揮者が多い中、応援したい人です。

音楽は不思議でして、ヒンデミットではヴィオラ一丁で満場を唸らせると思えばアダムスでは巨大なパイプオルガンみたいな音塊で魂を揺さぶる。どっちも同じぐらい良いのです。

ハルモニーレーレは初めて聴きました。ミニマルの音楽もライブで聴いたのはひょっとしてこれが初めてかな?はっきりしたメロディーがなく、リズムも単純な音型が速くなったり遅くなったりで、耳が何を聴くか迷ってしまいだんだん意識の焦点がぼけます。それが心地よい陶酔状態になるのですが、この曲の場合は和声の移ろいがなかなか快感であって約40分のあいだかなり真面目に集中して聴くことになりました。

いまこれを聴きかえしてみて、とても面白い。大音量の部分の音圧はライブならではですが細かい部分も凝った作品でスピーカーを通しても楽しめます。

ミニマルの同音型反復というのは、僕のイメージですが、ストラヴィンスキーのペトルーシュカの冒頭や乳母の踊りの伴奏で、木管やホルンがずっと2つの音を行き来するのを全管弦楽でやったようなものでしょうか。あれは大好きなので、これも好きですね。

それに和声の感情が乗っている。和声というのは人間のある一定の感情を喚起する化学物質です。ドビッシーが映像を書いて「和声における化学反応」という言葉を使ったのもそういうイメージがあったのだと思います。

下野がどこかで「作曲家はそれぞれトレードマークの和声連結(コードプログレッション)を持っている、それはモーツァルトにもある」語っていましたが、まさにそう。ちなみにモーツァルトのはハ長調ならC-Am-F-Gです、これぞ彼の紋章みたいなもので作品の至る所に現れます。

ハルモニーレーレは和声の固有の感情喚起をミニマルの陶酔効果に有機的に結合させた音楽であり、1985年にこれが出現したことは三和音での作曲にまだ道があるという光明への一里塚ではないのでしょうか。

日本初演が86年で、これが2回目だそうですが、もっと聴かれていい曲ですね。とりあげてくれた下野に拍手です。

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ハンヌ・リントゥのシベリウス交響曲第1・6番を聴く

2015 OCT 13 0:00:12 am by 東 賢太郎

中島さんのステージが終了したのが4時すぎで、そこから錦糸町のすみだトリフォニーホールに駆けつけました。昨日は京都で一泊して夜遅く帰宅しかなり疲れておりました。最近は疲れると平気で寝てしまうので油断なりません。薬屋でカフェインを買ってのぞみました。

ハンヌ・リントゥ指揮新日本フィルの演奏会で、交響詩「大洋の女神」、交響曲第6番、同第1番という魅力的なプログラムでした。これはシベリウス交響曲全曲シリーズの2回目で、全部買っていたのですが1回目の2番、3番、4番は先日にウィーン・フィルと重なって無念にも行けなかったのです。

このホールは2、3度きいたのですがあんまり印象はなく、今回は席が良かったせいか東京のホールにしては異例なほど音響そのものも楽しめました。何度も書いてますがこれは重要なことで、いくらウィーン・フィルでもサントリーホールのあそこじゃどうもということがあります。

交響詩「大洋の女神」が鳴り始めて、デリケートな音の良さに耳がそばだちます。この曲、実演は初めて聴きますが冒頭の管弦の軽い羽毛のような質感の響きがいいですね。フルートも美しい。これを聴いただけで、ああ来てよかったなと思うのです。健康を取り戻した第5交響曲のころの作品であり第2交響曲の響きもあり、ラヴェルのダフニスを思わせる光彩もある。好きな曲です。

オーマンディーは1番を振っているがカラヤンは振っていない。それはわかるが第6交響曲はカラヤンが振ってオーマンディーは振っていない。3,6番は彼はよく理解できなかったとのことで不思議であります。さてリントゥの6番ですが、やはり弦が入念に磨かれて美しく清澄で(この曲はそれが命だ)、広がりも凝集感もある上質の演奏でした。こういう精妙な演奏の細部まで良いバランスで聴こえ、このホールはなかなかのもの。先日2,4番の練習を見ていて、リントゥの引き締まった指揮は6番にはどうかなと思いましたが、詩的なものへの感性も高くむしろ向いてました。アレグロの律動は筋肉質で、こういうリズムへの綿密な配慮がないとシベリウスはふやけて聞こえます。総じて発音が良い。楽しめました。

さて休憩後の第1交響曲ですが、何度も聴いてますが、チャイコフスキー、メンデルスゾーン、ブルックナー、ワーグナーをごちゃ混ぜにしたようなロマン派風音楽であり、僕がシベリウスに求めるものは殆ど希薄です。それゆえ7曲の中では最も聴かないもの。ところがこれが今日は大変に素晴らしく、人生で初めて、とうとう思いもしなかった第1番に感動したのでした。この年にしてこれは記念碑的なことです。リントゥの曲へのグリップが強く、オケがその振幅の大きくてメリハリの明確なコンセプトに心服して全力で弾いたという印象でした。何でも初めてというのはいいもんです。有難うございます。

シリアスな音楽にシリアスに真摯に立ち向かったのに大変好感を覚えました。新日本フィルはもっと聴いてみたいですね。非常に上質でグレードの高い演奏会でありました。

 

 

最後にリハーサルの時のハンヌ・リントゥ氏の写真です。11月2日に第3回として、今度は手兵のフィンランド放送響で5番、7番、タピオラがあります。サントリーホールではありますが、非常に楽しみになりました。
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ボローニャ歌劇場オペラ・ガラを聴く

2015 SEP 23 16:16:32 pm by 東 賢太郎

昨日はオペラ・ガラ・コンサート(ボローニャ歌劇場)にお招きにあずかり、イタリアの旬の歌手たちの美声を堪能してまいりました。

指揮の吉田裕史さんは東京音大卒、ウィーンで学ばれイタリア各地の歌劇場で修行を積んだ本格派で今年同歌劇場の首席客演指揮者に就任されたとのこと。イタリア人にとってオペラは我が国でいえば歌舞伎のようなもので、その地で長と名のつくポストを務めるのは半端なことではないでしょう。日本公演を積極的に率い、それも二条城、姫路城など歴史のある舞台を選ばれているのは、ご自身がローマのカラカラ野外劇場でデビューされた経験が生きているのでしょうか素晴らしいアイデアと思います。

曲目は前半がレオンカヴァッロの歌劇「道化師」ハイライト、後半がイタリア・オペラ名曲集でした。

ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」から「私は街の何でも屋」がよかったですね、弾きこんでいるんでしょうオケが精彩にあふれており、ぜひ全曲聴いてみたい。「ボエーム」の「馬車だって・・ああミミ、君はもう帰ってこない」、男は別れた女が忘れられない、女はそうでもない、ところがその大法則に反してミミは病んで帰ってくる。ボエームが悲しいのはそこだよなあ、なんて妙に納得しながら楽しみました。「トゥーランドット」の「誰も寝てはならぬ」。これを歌われたら実は誰も寝れない(笑)。ニコラ・シモーネ・ムニャイーニのテノール、やっぱりこれはイタリア男が歌わないと。

僕はガラ・コンサートはあまり行った経験がなく、女優の渡辺早織さんが演目を紹介していくスタイルでしたが、プログラムが終わって歌手4人の晴れやかなカーテンコールになって舞台と客席が「イタリア歌劇場モード」にひたったところで彼女が拍手をさえぎり歌手4人にインタビューを始めたのはびっくりしました。

彼女は実際にボローニャまで行ってこの歌劇場で「世界ふしぎ発見」の収録までしたそうで、吉田さんも「そうですね、あれは蝶々夫人のリハーサルの時でしたね、この会場にもテレビを見てくださった方がいらっしゃるのかな・・・(拍手)」と軽く応じるなど、「題名のない音楽会」モードに。これはシェフが日本人だからできることで、歌手もオーケストラ団員もここは日本なんだと一気に我に返って相好を崩して喜んでインタビューに答えていたいたのがとてもさわやかでした。

これだけ舞台と客席が近くなるのは、お高くとまりがちな本場モノのクラシック演奏会では稀と思います。「日本に本物のオペラ文化を」という趣旨にかなったやりかたであり、両国の文化交流という意味合いも感じられますね。これからも楽しみにしたいと思います。

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N響・ブロムシュテットのエロイカ

2015 SEP 18 2:02:43 am by 東 賢太郎

N響をサントリーホールで聴くのは初めてでした。NHKホールが嫌だから換えたのです。申し込みが遅くてあまりいい席が空いてなくS席ながら1階後方、このホールは席の当たり外れがあるのでどうかと思っていましたがやっぱり外れでした。

しかしこの前ワーグナーを堪能し、まったく音響的にも文句なかった(読響)のと比べ、舞台からほぼ同じ方向のたった4列後ろなのに、どうしてこんなに違うのか首をひねるばかり。常識的にはオケの違いによるということになるでしょう。

とにかく低音が来ていない。マスの音がハイ上がりでヴァイオリンの高音がひりひりしてもうだめ。CBSのアメリカ盤LPでのフィラデルフィア管を安物のステレオで音量を上げるとこんな感じでした。部屋で聴く風呂で鳴ってるラジオという感じでもあります。

世界のコンサートホールについてはだいぶ前にランキングをつけましたが、僕はホールには不運でフィラデルフィアのアカデミー、ロンドンのRFH、フランクフルトのアルテ・オーパーで長年聴かされ辟易してました。実にひどいのです。アムスやウィーンやニューヨークの人がどんなにうらましかったか。

そしてまた東京がこれです。トゥッティでも隣の人とひそひそ話ができそう。最近必ずいるアメむきのチャラチャラ音がオケよりよく聞こえる。倍音が来ないからそういうことになります。

聴感というのは人によって様々のようだから僕の耳においてだけのことかもしれませんしそのように読み流していただきたいですが、正直を書きたいのです。とにかくこの音だと苦痛でしかなく、この会員券は誰かにあげてしまおうかというところ。

というわけでせっかくのベートーベンも1番から戦意喪失。以前NHKホールでさっぱりだった同じ指揮者のブラームス4番の音ですね、まさに。休憩でもう帰ろうと思ったが、後半がエロイカであったというのが唯一の理由で残りました。随分元気のいい活力ある筋肉質の3番でしたが管がいけません。

ブロムシュテットは齢をとっても一向にいわゆる巨匠風にならないのが彼らしい。ひとつだけ好きなドレスデンSKとのドヴォルザーク8番の路線をいまだ変えていないのは立派といえば立派、しかし結局はもう結論とするしかないが、僕は性が合いません。

こういうエロイカならトスカニーニやレイポヴィッツのオケを聴きまくってしまっているのでN響であれを上回るのは到底無理です。申しわけないが、終わるとすぐ出ました。

 
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見事なトリスタンとイゾルデ!(読響定期)

2015 SEP 7 3:03:29 am by 東 賢太郎

1か月もクラシックを聴いていないと禁断症状が出るかと思いきやそうでもありません。5月に5日間断食した時に意外に平気でしたが、クラシックも物心ついてからそんなに「抜いた」ことがないので精神状態に何が起こるかわからないのです。

今日は6時からU-18の野球があって、3時開演のサントリーホールは微妙だなと思ってでかけました。出し物は例によって知らず。それがワーグナーのトリスタン全曲であったのです。まずい、こりゃ5時間かかるぞ、これが初動。野球の方が気にかかっていたのでした。それに、絶食中の胃袋にいきなりステーキみたいで重いなあ・・・。

僕はワグネリアンというほどではないですがドイツ時代の3年間はどっぷり浸かっていて、トリスタンはC・クライバーのCDを聴きこみ(マーガレット・プライスが好きなんで)、舞台はマインツ、ヴィースバーデン、それからバレンボイム(ベルリン国立歌劇場)も東京とミラノ・スカラ座で2回きいたりしています。

「トリスタンとイゾルデ」は男女が死のうと毒薬を飲んだつもりが媚薬にすり替わっていたという、そこだけクローズアップすると非常にばかばかしい話です。喜劇みたいですが大真面目な悲劇になっているばかりか、愛とは何か、死とは何かと哲学問答みたいにもなってくる。

二人は不倫で昼は会えない。だから夜がいい闇が好きだ夜が明けないでくれとなり、昼の光は欺瞞だ幻影だ消してしまいたいとなる。でも光はちゃんとやってくるんで、それならいっそあの世の闇の中で、誰にも邪魔されずに永遠に愛しあっていようよとなってホントに死んでしまうのです(ただ、イゾルデの死因が何か、未だもって僕にはわからない)。

我が国のほこる曽根崎心中も、悪い奴にカネを貸して騙されちゃった、汚名を死でそそぎたいんで一緒に死のうなんて(訴訟せんかい)究極の情けない男が出てきて今や現実離れしてますが、トリスタンのこの現実感のなさはさらに上手といえ、これで傑作を書いてしまうなどワーグナーの独壇場であります。

しかも、そうなった原因が二人が元から愛し合っていたわけでも格別に淫乱だというわけでもなく、薬の効き目なのであって、彼らは運命の被害者だ、だから大真面目に悲劇なのだというスケルトンなんですが、媚薬という存在がおとぎ話っぽいのでどうも心中の動機に迫真性がない。「イゾルデの媚薬」をダシにしたドニゼッティの「愛の妙薬」の喜劇のほうがまだ多少はホントらしい。

希薄な迫真性の上にきわめてマジで迫真性に富んだ音楽がのっかるもんですから、そのミスマッチを一歩引いて見ているとどこか喜劇に思えてくる。この複雑骨折の相貌はモーツァルトの魔笛と双璧でしょう。オペラ狂のイタリア人のお客さんにそう言ったら、彼の見解は媚薬はバイアグラだった(笑)というもので、やはりこれは悲劇である。しかしこんな曲を書くワーグナーの淫乱ぶりはもっと悲劇だったけどね、でした。

たしかに、この曲の「愛のパワー」は全開です。前奏曲のffは男性の、愛の死のは女性の「頂点」を生々しく描写したもの(後者は筆者想像)。第2幕で有名な「愛の二重唱」の後者の「絶頂の和音」がクルヴェナールの闖入でかき消されてしまう所など、聴いている方までおいおいちょっと待ってよとなるのがニクいばかり。お客さん説に賛成!

曲頭に意味深に鳴る「トリスタン和音」。あれに二人の愛の謎が、悲劇の予兆が、隠避にひっそりと横たわっている。全曲が前奏曲と愛の死にエッセンスとなって凝集してストーリーと絡み合っている。まったくもってもの凄い音楽であって、これに憑りつかれると生活に支障が出るほど頭の中で鳴り続ける。媚薬みたいに危険な音楽です。

余談ですが、トリスタン和音は解決しない。専門家によるとそういうことになってる。素人ですからナポリ6度が半音下がる解決を連想します(それを解決と言っちゃだめよなんですが)。愛の死も短3度ずつ上がってお尻はその連続だ。ナポリがキーですね。でもクラシックの勝利の方程式みたいなD⇒Tが出てこないですね。期待は次々にはぐらかされて、絶頂に至れない愛ですね。

その5時間にもわたる満ち足りない悶々もやもやが、愛の死の最後の最後に至ってC⇒Fm6⇒Cとカンペキに、荘厳な夕陽が地平線に落ちるみたいな絶対的な静寂と安定感をもって、ついについに「解決」する。全曲に仕掛けられた和声のトリック!ラストの空前絶後のどんでん返し!!(安物のミステリーのキャッチコピーになっちゃいました)。

ワーグナーは長い、退屈だ。たしかにそうかもしれませんが、この曲は5時間も我慢(休憩1時間ありますけど)した甲斐が絶大な感動で報われるという10倍返しの稀有な作品であります。そのことはクラシック音楽を楽しむ共通原理みたいなものでもあり、他の作曲家でも、そうか、つまんないところも寝ないで我慢してみようってきっとなります。

さらに凄いと思うのは、この1回しかない和声解決という大どんでん返しの終結で「とうとう愛まで成就したんだ」というメッセージがそっと客席に天から届くのです、二人の死をもって。そう、散々ケチをつけた「現実感のないお話」なんですが、そうか、そうだったのかとカンペキに納得に至って茫然としている自分がいる(しかしあそこで間髪いれないブラボーはやめて欲しいなあ)。

こうやって僕は毎回ワーグナーめにしてやられるのです。悔しいけど。

今日の歌手はお見事でした。水で喉を潤しながらの「完投勝利」。最初はセーブして、第2幕で全開になって。なんとなくわかります、先発投手が9回投げるぞっていう感じ。イゾルデは緊急登板だったレイチェル・ニコルズですが健闘しました。みんな良しですがアッティラ・ユン、容貌で日本人と思ったが韓国人でした。すばらしい。久々に本物のワーグナーのバスを聴きました。マルケ王は弱い人だと女房取られてそれかよって、二人のダシ扱いですからワーグナーは、まったく様にならなくて話の迫真性がますます失せるんですね。このキャスティングは大正解です。

そして最後に、しかし特筆大書で、カンブルラン、読響。ブラボー、最高でした。演奏会形式は初めてでしたが、オーケストラパートがこんなに絶妙な響きに書いてあったのかと目からうろこの気づきがたくさんありました。ありがとうございます。この曲をききながらずっとドビッシーの「ペレアスとメリザンド」が耳にこだまするなんて初めて起きたことです。ドビッシーはまずワーグナーにはまり、トリスタンを否定して独自の和声の道に進みましたが、降参したんでしょうね。だからメリザンドは不思議娘のまま子供を残して死にますしもうオペラ書かなかったし。なにせこの和声トリックは空前絶後、やればパクリになるんで。これぞ弁証法的発展。

帰ってきて、U-18の負けをさっと見届け、そこからずっとトリスタン前奏曲でピアノと格闘するはめになってしまいました。カンブルランの指揮は明晰、知的ですね、ブーレーズ並みの理性を感じますがそれでいてツボの盛り上げもうまい。彼の曲への敬意、愛情、情熱が全員を高みに引っぱり上げましたね、これぞ指揮者であります。そういうときのワーグナーはインパクトがあります。読響はここまで磨くのに集中したセッション組んだんでしょうね、実に良い音でありました。おかげ様で、これでまたクラシックにつつがなく戻れそうです。

 

 

 
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ブーレーズ作品私論(読響定期 グザヴィエ・ロト を聴いて)

2015 JUL 5 1:01:59 am by 東 賢太郎

7月1日・サントリーホールにて

指揮=フランソワ=グザヴィエ・ロト 
ヴァイオリン=郷古 廉 

ブーレーズ:「ノタシオン」から第1、7、4、3、2番 
ベルク:ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」 
ハイドン:十字架上のキリストの最後の7つの言葉(管弦楽版)

野球のブログが先になってしまいましたがとても面白いプロでした。

ブーレーズ同曲のライブは初めてです。「ノタシオン」は「12のノタシオン」として1945年に書かれたピアノ曲を自らオーケストラ作品に編曲したもので、原曲のテクスチュアは簡素ですがオケ版は18型4管、ハープ3台、打楽器奏者9人の大編成になっています。

通常は(たとえばラヴェルのケースなど)見られないことですが、ブーレーズはWork in Progress(進行中の作品)という概念の持ち主で一連の限定された可能性に焦点を当てた大きな『集合』に対する際立った偏愛がある」としていますから管弦楽版は進行の末の作品と考えてよいのかもしれません。

僕はブーレーズは「プリ・スロン・プリ(Pli selon Pli)」が好きですがこれがWork in Progressの作品であります。いっときの着想を永遠にコメモレートするのが作曲ではなくいわば作曲家と共に変化する音楽という概念です。僕はこれに共感があります。アインシュタインが過去・現在・未来の区別は不可能というように人間と時間の関係とはそういうものだからです。

ノタシオンの管弦楽編曲は現在5曲。1番は特にメシアンの響きを感じますね。パウル・ベッカーが「オーケストラの音楽史」に書いてますが、フランスの管弦楽がオルガンであり「言葉から発した大気のようなハーモニーを包み込む」という質感を感じます。7番(レント)の弦と木管の含む倍音はドビッシーの「遊戯」冒頭の響きを想起します。

ベルクのヴァイオリン協奏曲、この音楽は無調ですが5度が支配しほのかに協和音が現れます。あちらの世界とのはざまの幽界を浮遊する暗示のようで、ヴァイオリンがあまりヴァイオリンらしく鳴ってしまうのは好みません。郷古 廉は無機的な響きに傾きすぎずオケとうまくバランスしていました。良かったです。

この協奏曲、調性的12音音楽といえシェーンベルクの浄夜などとともに前世紀の香りを残したもので、作曲の動機(アルマという少女の死)とともにロマンティックに鑑賞される傾向があるようですが、僕はブーレーズとズッカーマンの録音を音楽として純粋に聴いているだけで特別な関心をひくものはありません。浄夜はカラヤンのライブも聞きましたが、もっとありません。シェーンベルクもベルクも、もっと凄い音楽があるからです。

休憩後はハイドンです。これもライブは初でした。ティンパニは古楽器でしたが弦はヴィヴラートがあったようでアンサンブル(ピッチ)はほんの少しですが甘いかなという部分あり。これが委嘱されたスペインのカディス大聖堂は行きましたがハイドンの音楽とイメージが親和するような風土の場所ではなく、彼がグローバルな売れっ子だったと感服した記憶があります。できれば教会で一度聴いてみたくなりました。

指揮者のロトのプログラミングは高く評価します。前半の無調に対比してハイドンの最もストイックな部類に属する音楽をぶつけるアイデアは斬新ですね。ハイドンはシリアスに聴かれるべきと僕は思っていますから非常に共感します。

彼は20世紀の曲をオリジナル楽器で演奏し最近人気のようで、ストラヴィンスキー(火の鳥)を買ってみましたが、まあ手馴れてうまいねという程度でありました。初演の時にどう聞こえたかは興味深いですが、そういう関心と芸術としてのインパクトは全然別物です。ブーレーズ(NYPO)と比較して論じようというインセンティブがわくものではありませんでした。

 

(追記、16年1月16日、ご参考ディスク)

ピエール・ブーレーズ「プリ・スロン・プリ」

ハリーナ・ルコムシュカ(Sp)  BBC交響楽団 (1969年)

boulez_pier_boulezcon_101bピエール・ブーレーズ  ザ・コンプリート・ソニー・クラシカル・アルバム・コレクション67枚組は宝石のようですが、その16枚目がこれです。第4曲のハリーナ・ルコムシュカの歌唱、急速なパッセージのソルフェージュ能力が凄い。彼女の声質と独奏楽器群の音彩の混合は完璧でまったく独自の宇宙を構築しています。終曲の砕け散ったステンドグラスのような音群のきらめきと変化値を微分したかのような音価と音量の増減によるリズム細胞。不協和な音の組合せの美を創造して時間支配の元に集積するとこうなるという強烈な主張であり、これを美という概念で感知するかどうかは人それぞれでしょうが、それがどうあれこの時間・色彩感覚でスコアを読み解いたのがあの火の鳥であり春の祭典だったのです。ブーレーズ芸術の底流に存在する血脈の原点を浮き彫りにした名盤であり、3種ある同曲の1番目の録音であるこれがその音楽的な発想の原形を最もクリアに浮き彫りにしていると思います。

 

ピエール・ブーレーズ 「ル・マルトー・サン・メートル」

エリザベス・ローレンス(mezzo-sop)、アンサンブル・アンテルコンタンポラン

無題9曲のセットである同曲は曲順を1-9とすると{1,3,7}{2,4,6,8}{5,9}に三分類され、個々のグループに12音技法から派生した固有の作曲原理が適用されていることがレフ・コブリャコフの精密な分析で明らかになっています。総体として厳格な12音原理のもとに細部では自由、無秩序から固有の美を練り上げるというこの時点のブーレーズの美学はドビッシー、ウエーベルン、メシアンの美学と共鳴するのであり、それを断ちきったシュトックハウゼン、ベリオ、ノーノとは一線を画するとコブリャコフは著書「A World of Harmony 」で述べている。興味深いことに、例えばグループⅠの作曲原理は(3 5 2 1 10 11 9 0 8 4 7 6)の12音(セリー)を細分した(2 1 10 11) 、(9 0)の要素を定義し、それらの加数、乗数で2次的音列を複合し、

(2 1 10 11) + (9 0) = ((2+9) (1+9) (10+9) (11+9) (2+0) (1+0) (10+0) (11+0)) = (11 10 7 8 2 1 10 11)

のように新たな音列を組成する。その原理がピッチだけに適用されるのではなく音価、音量、音色という次元にまで適用が拡張されて異なるディメンションに至るというのがこの曲の個性でありますがメカニックな方法であることに変わりはなく、その結果として立ち現れる音楽において、それまでの12音音楽にないaesthetic(美学)を確立したことこそがこの曲の真価だったわけです。聴き手が感知する無秩序はあたかもフィボナッチ数がシンプルな秩序で一見無秩序の数列を生むがごとしであります。これの審美性は数学を美しいと感知することに似ます。ブーレーズは自ら自作の作曲原理を明かすことはせず、むしろ聴き手がそれを知ることを拒絶したかったかのようです。しかし原理の解明はともかく聴き手の感性がそこに至らないこと、この美の構築原理がより高次の原理を生む(到達する)ことがなかったことから12音技法(ドデカフォニー)は壁に当たり、創始者シェーンベルグの弟子だったジョン・ケージがぶち壊してしまう。僕自身、12音は絶対音感(に近いもの)がないと美の感知は困難と思うし全人類がそうなることはあり得ないので和声音楽を凌駕することは宇宙人の侵略でもない限りないと思うのです。しかし、そうではあっても、ル・マルトー・サン・メートルは美しい音楽と思うし、その方法論でブーレーズが読み解き音像化した春の祭典があれだけの美を発散するのです。ある数学的原理(数学は神の言語であるという意味において)がaestheticを醸成して人を感動させる、それは必ずモーツァルトの魔笛にもベートーベンのエロイカにもある宇宙の真理であり、それは人間の知能には解明されていないだけで「在る(sein)」。僕はそれを真理と固く信じる者です。これが1955年僕の生年の作であり、僕が大好きでドイツ駐在時代に二度家族と滞在しブーレーズが亡くなったバーデン・バーデン初演であったことは親近感を覚えます。

上記盤がyoutubeに見つからないのでこれで。

 

ピエール・ブーレーズ ストリュクチュール(構造)第2巻 (1961)

これも特に好きな曲の一つです。ピアノ・ソナタ第2番(1948)、ストリュクチュール(構造)第1巻(52)のをさらに純化させたような書法であり、プリ・スロン・プリ(62)の裸の音響組成を2台ピアノで具現化した観があります。コンタルスキー兄弟盤が大変すばらしい。

(こちらへどうぞ)

シェーンベルク 「月に憑かれたピエロ」

 

 

 

 

 

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N響Cプロ、バボラークのモーツァルト

2015 JUN 14 2:02:44 am by 東 賢太郎

 

アンドリス・ポーガという指揮者は初めて知りましたが、好感を持ちました。まずモーツァルトの交響曲第1番。作曲者8才の曲です。プログラムには「モーツァルトも最初はこんな曲しか書けなかったのね」とあるが、僕にとっては「小学校2年生がこんな曲書けたのね」です。

調性は変ホ長調ですがこれはホルンがEs管だからで、ちなみに彼のホルンのための曲はホルン協奏曲第1番K.412がD管であるのを唯一の例外としてすべてEs管です。これは友人ロイトゲープのために書いたためで彼がEs管を使っていたと思います。当時はナチュラル・ホルンしかないのでEs管を使えばその曲は変ホ長調になってしまいます。

交響曲はD、G、C管を使って様々な調で書いていますが、ホルンのない曲はひとつもないので、41曲の交響曲の調性はホルンが何管かと一致します。ロンドンで書いたK16も何かの理由でEs管になったのでしょう。そのホルンが第2楽章の第7小節からE♭-F-A♭-Gと-A♭-Gという「ジュピター音型」を吹くのですが、2番目の音でE♭とFが長2度でぶつかるのはぎょっとします。これをライブで聴けたのは貴重な体験でした。

2曲目は名手ラデク・バボラークが上記のK.412とR・シュトラウスを演奏しました。以前にやはりN響でグリエールのホルン協奏曲をやって、これが名演でしたが今日のも良かった。聞き惚れました。それにN響も弦がチューンアップしてますね。コンマスの伊藤亮太郎さん、曲ごとにチューニングされてよろしいですね。Vnセクション、いい音してました。オケとしても、R・シュトラウスの出だしのトゥッティのEs-dur、ワールドクラスの見事な音でした。

後半も指揮者、オケとも熱演でした。大変申し訳ないのですが、僕はラフマニノフのこの最後の作品が苦手で、何度か実演も聴いたのですがだめでした。楽器の数も音符の数も膨大なのですが、何のためかよくわからないのはマーラー以上です。

アンドリス・ポーガは35才ですが音楽の流れをまとめるのが上手いですね。オケは弾きやすいのではないでしょうか。こういうのは才能だなあと感服。リーダーに年齢は関係なしですね、人をひっぱることができる人は何才でもできるのだと思いました。

なにより前半の選曲がいいですよ。これは知性とセンスを感じるし、モーツァルトの1番からオケの方々は楽しそうでしたからR・シュトラウスの名演につながったかもしれませんね。やっぱりモーツァルト効果はほんとうにあるかもしれない。バボラークがのびのびと吹いてくれたのも、そういう空気があったんでしょうか。楽しませていただきました。

 
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N響定期 エド・デ・ワールトを聴く

2015 MAY 16 2:02:07 am by 東 賢太郎

指揮:エド・デ・ワールト、メゾ・ソプラノ:マレーナ・エルンマン

女性は化ける。わけがわからない。こうはいかない男は呆気にとられ、そして舞台は支配されるのだ。

マ・メール・ロワは普通の出来。これはジュリーニやチェリビダッケの実演も聴いたが、そっちも大したことがなかった。細かいところまで自分の好みが確立しているのでなかなか難しい。せめてバレエ版でやってほしかった。

メインのドビッシーは微視的なアプローチではない割に音楽に内から湧き上がる生気がない。白眉の第2楽章は細分化されたリズム分子が時間の関数として変化するような音楽であり、ややこしい言い方になるが他に術がないのでお許しいただくと、時間で微分すると傾きが「立つ」ような表現が必須と僕は感じている。それはうまくいってなかった。

その視点を理解しているのはブーレーズの旧盤だけだが、フランクフルトで聴いたウルフ・シルマーという指揮者(バンベルグSO)は完璧だった。彼はどうしてもっと表舞台に出てこないのか不思議でならない。

そうでないアプローチならもっと熱量が必要だ。微分しないでも、誰もが聞いてわかる音楽の摂理に添って増減するものが(シャルル・ミュンシュみたいに)。それも今一つだからどっちつかずの印象だった。

デ・ワールトは比較的好きな部類の指揮者でありだいぶ前に読響でやった「さまよえるオランダ人」など楽しんだのだが。彼のデリケートな美質はシェラザードに最も出ていたように思う。

伊藤亮太郎氏のコンマスは良いのではないだろうか。

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読響定期を聴く(モーツァルトとショスタコーヴィチ)

2015 MAY 14 7:07:48 am by 東 賢太郎

指揮=エイヴィン・グルベルグ・イェンセン 
ピアノ=アンドレアス・シュタイアー 

モーツァルト:ピアノ協奏曲 第17番 ト長調 K.453 
ショスタコーヴィチ:交響曲 第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」

読響は芸劇のマチネに何年か通ったが7,8年ご無沙汰だった。だいぶメンバーが変わっているようだ。

モーツァルトの17番は第3楽章の主題が飼っていた「ムクドリ」の歌ったメロディだったことで有名だが、きくたびにムクドリはどこまで歌ったのだろうと気になって困る。ミファソッソッソードーぐらいか?そのあとのシシドドレレの装飾音がピヨピヨ聞こえるからこっちもかな?

普段はハープシコードを弾くシュタイアーはモダン・ピアノを弾いた。でも、もしモーツァルトが生きてたら間違いなくそれを選んだろうしオケも現代のサイズにしただろう。もし彼が自演したらどんな風に17番をやるんだろう?そんなことを思ってしまう演奏であった。

1784年に書いた6曲のピアノコンチェルトのうち14番と17番は弟子のバルバラ・フォン・プロイヤーにあげているが彼女の父はザルツブルグ宮廷のウィーンでの代理人だったのが意味深長だ。その父の家とカントリーハウスで両曲はバルバラ嬢のピアノで演奏されたという記録がある。

ある文献によると演奏した部屋の推定サイズは14番が50㎡(15坪)、17番が100㎡(30坪)とある。僕のオフィスが21坪だからイメージできるが、これはかなり小さい。特に14番でオーボエ2、ホルン2、ファゴットはその程度の空間では相当な音量で響いたはずだ。

17番はそれにフルート、ファゴット(もう1本)が加わっているのでやはり木管の音量的プレゼンスは変わらないだろう。しかも第2楽章はそれらが活躍するようスコアリングされている。その傾向は24番でさらに顕著になるが、弦5部の人数がカルテットに近かったとみるとオケ全体の音量バランス、そしてオケとフォルテピアノのバランスは現代のイメージとかなり違うということは重要だ。

そのことは作曲時点で「私自身これまでの作品の中で、この曲を最高のものだと思います」と評したピアノと管楽のための五重奏曲K.452の存在を想起させる。私見では声楽アンサンブルを思わせ、フルートを欠きクラリネットが入っている(この時点で!)ことがモーツァルトの音響趣味をうかがう手がかりとして見のがせない。

そういう関心はサントリーホールでは無縁のことだ。シュタイアーの演奏は多少の即興をまじえながらも遊び過ぎのない硬派なものでまずは楽しめた。アンコールはソナタかな思ったらk.330の第2楽章だった。うまい人が弾くとモーツァルトはいい音を置いてるなあとつくづく感じ入る。

偏見ではないつもりだが僕はショパン弾き、リスト弾き、バッハ弾きのモーツァルトはそれだけで聞く気にもならない。それらは畢竟テンペラメントの問題だ。彼の曲は「モーツァルトみたいな四大元素の組合せの人」しかうまく弾けない何かをどうしようもなく秘めていて、聴く方だって、それに合う合わないはある。モーツァルトは名曲だが、ベートーベンがそうであるような意味での天下の名曲というとやや違和感があるように思う。

ショスタコ7番は家であまり聞かない。第1楽章の小太鼓に乗ったテーマが好きでないからだ。しかしこれは侵攻してくるナチス・ドイツを「おちょくった」カリカチュアで、11番の終楽章の野卑なテーマに通じる精神で書かれたものというのが僕の理解だ。インテリ左翼が右翼の稚気を見下す感じを内包するイノセントな主題だ。

これが好きな方には無礼をお許しいただきたいが、この部分を延々と聞いていると、人生の大事な時間をこんなものにつき合わされているわびしい無益さこそが戦争の無益さ及びそれに蹂躙された祖国の運命の悲哀を辛辣にアピールする巧妙な設計と聞こえる。ショスタコーヴィチの抑圧されたシュプレヒコールが屈折した重層的なユーモアと風刺感覚によってやむなくこの形を取って噴出したものでもあると思料する。

そうだとすれば、この曲は彼の精神史における政治闘争が生み出した芸術ということであり、政治はパブリックなものだがその衝動はすぐれてプライベートなものだ。つまり私小説であるという点で、非常にマーラーに接近したものである。彼がマーラーを好んで引用したり、ある部分はマーラー的ですらあるのは、決して故なきことではない。

11番の稿に書いたが、バルトークが管弦楽のための協奏曲でこれをおちょくったという説には組しない。むしろ7番がナチスをカリカチュア化した精神を、揶揄を強調する方向での若干のデフォルメを加えて輸入したものと解する。敬意はないが同調はあると見る。証拠はない。ただバルトークもナチスに祖国を追われ、そういう性向のある人でもあったと僕は解しているからだ。

読響のヴァイオリンセクションは気に入った。高音のユニゾンのピッチの整合もハイレベル。ヴィオラ、チェロも中音域が良く、総じて弦は満足度が高い。管はまちまちだが好演であった。

43才のノルウェー人指揮者エイヴィン・グルベルグ・イェンセンについては何の知識もないが、曲を大局的に適確につかみ骨太にまとめあげる才能を感じる。細かい部分の造り方の巧拙はこの曲ではわからないが、小さくまとまってないのがいい。

 

(こちらへどうぞ)

モーツァルト ピアノ協奏曲第12番イ長調 K.414

N響定期を聴く(ショスタコーヴィチ 交響曲 第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」)

 

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N響 フェドセーエフ指揮アンナ・ヴィニツカヤの名演!

2015 APR 19 3:03:49 am by 東 賢太郎

仕事が立て込んで寝不足気味であり、あんまり気が乗らずに3時にNHKホールへ向かった。先日、券を買ってあった読響は忘れてて行かなかったりと、このところ忙しさも尋常じゃないが記憶もおかしい。

定期演奏会はプログラムを見ないことにしている。というのは行く気のなくなる出し物の場合、昔から僕の得意技で頭からメモリーが消去されてまさに行くのを忘れてしまったりするからだ。はて、今回はその最たるものだったことがプログラムを開いて判明したではないか。

ラフマニノフ・ヴォカリース、ピアノ協奏曲2番、R・コルサコフのシェラザード?なんと、TVでは2時から黒田先発の広島・中日戦があったんだよ!ああ、ちっくしょう、知ってたら絶対来なかったなあ。お子様ランチじゃねえか、もうなん百回聴いたかわからんよ、そんなの。

というわけでヴォカリースは耳が開いておらず石のまま終わった。弦の音も固い。申しわけない、拍手する気なし。さて、ロシアのお嬢さんが出てきて2番だ。誰だこれ、きいたことねーな、悪いがこちとらロシアめしの気分じゃない、ぜんぜん。はよやって終わってくれんかい・・・・。

51BczfxEyAL__SX450_こういう心が荒んだ状態だったオヤジに帰り道CD買わせたアンナ・ヴィニツカヤさん、あんたタダモンでありませんな。ホンマ、この2番、トップクラスの名演でござんした。こう見えて、オヤジこの曲うるさいんですよ、サワリ弾いちゃうほどハンパなく。何がいいって?音ですね、オト。キンキンキラキラもケバケバもなし、グレーの地味目な音ですよ。アンコールのバッハ(ジロティ)前奏曲ロ短調のくすんだビロードのような音。そんなので2番を弾こうという人はあんまりいないんです。フツーはド派手、ドケバのオンパレで。前回のベレゾフスキーくん、天下無双の体育会系剛腕ですごいもんで、ヨイショ、ズドンの巨人軍澤村投手と双璧でしたな。途中で退席を考えたけどね、迷惑なんでやめときましたが。フェドセーエフ氏の伴奏、これまた一流でござんした。第2楽章、3プルトのヴィオラの活かし方ききほれましたわ。終楽章、再現部の第2主題でぐぐっとテンポ落して歌っておいてコーダに入ると毅然と速めのテンポでね。うまいねえ!しかしアンナさん、それにあんたのタッチは千変万化してついていくのね、それってものすごいことですよ。ダルビッシュみたい10種の変化球だね。それとテンポがいい!もうこれしかないってやつですな。これ、意外にノーミスで弾ききるの少ないんだよ、1か所だけ、すごくマイナーなのしかなかった。ウデも凄くたちますね。でも、それがオモテに出ないことですよ、あなたの美質は。いやいや、一気に好きになりました。この録音、あればもう一回聴きたいよ、オヤジは。大拍手!!

最後はシェラザード!もうこんなの何年もきいてないね。実演はこれが人生5回目か、券かってまで来ようっていう曲じゃない、はっきりいって。下手なオケだとおしまいの方はチンドン屋みたいになっちゃう。だから今や僕にはどっちかっていうとピアノ曲だ。弾くのは好きでこれの第1楽章を大音量でグランドピアノでやると気持ちいいんだ。第3楽章もいい、すごくいい和音がついてて。

ということでこっちも期待なしだったがこれまた裏切られて、今日は何だったんだってことに。第1楽章は遅いテンポもフレージングもねっとりしてて濃厚ポタージュスープみたいだ。ティンパニのトントンがわずかに速くてねっとり感が倍加する、意図的だろうか?とにかくオケが巨魁な生命体みたいに粘着性を持っている、こんなのはきいたことがない。休みなく第2楽章のVnソロに入る。絶対音楽的で物語性が希薄なアンセルメしかきいてないのでストーリーに想いが行く。

第3楽章はエレガントだ。それにしても今日の第1クラリネットの方はうまかった。木質で音楽性も抜群であり絶美のピアニッシモ、とろけるようなレガート、指揮者のコンセプトにぴったりで最高でございました。オケ全体も、特にヴァイオリン群がシェラザードに至っては別なオケみたいに粘着性と湿度を含んだ音に変わっており驚いた。終楽章は僕はチェリビダッケが一番と思っているが、それに匹敵するすばらしさで言葉なし。フェドセーエフ節満載の音画は音楽性も満点で、第1楽章主題が回帰する寂しさ、独奏Vnのハーモニクス、すべてうまくいったぜ。ブラヴォー!!

ほんとに今日は来てもうけものだった。黒田はまた極貧打で負けちゃったし・・・。

MI0003234980アンナさんのCD、買ったのはこれだ。プロコフィエフ、有名な3番ではなく僕が5曲のうち一番いいと思ってる2番を弾いてるなんてますますタダモノじゃない。さっそく聴いてみる。そうそうこの音だ。ピアノの部分は水墨画のグレーを思わせるんだがフォルテになると内部から光を放射するんだ。第1楽章はオケともども暗めで神秘的な雰囲気が支配、この曲はこうでなくちゃ。スケルツォはすばらしい指の回りと黒光りするタッチがプロコフィエフにぴったりだが、メカニックが鼻につかず知的な抑制すら感じる。ちょっとぶっ飛んだ感じと野蛮さには欠けるが非常にスタイリッシュに洗練された2番。オケは、はっきいってうまい。ティボール・ヴァルガの息子ギルバート・ヴァルガの指揮は素晴らしい運動神経を感じさせリズムのエッジが立つが、それに一糸乱れずかけ合うアンナのそれも凄い。そしてラヴェルのト長調。これもケバさのない中間色。アダージョは実にお品がよろしい。まさにベルリン・ドイツ交響楽団だね、彼女の合せになるのは、パリ管じゃない。

(こちらにどうぞ)

リムスキー・コルサコフ 交響組曲「シェラザード」 作品35

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番ハ短調作品18

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