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カテゴリー: ______演奏家について

クラシック徒然草-ハヤシライス現象の日本-

2015 SEP 30 21:21:37 pm by 東 賢太郎

日本人は外国の文物を輸入して、それをベースに日本独特のものを作るのに長けています。洋食はそのひとつでパスタも日本化して、ナポリの人は知らないスパゲッティ・ナポリタンができる。カレーもラーメンも、インドにカレーという食べ物はないしラーメンは老麺か辛麺か、とにかくどちらもオリジナルとは別物です。

ハヤシライスの起源も語源も諸説あるようで、ハッシュト・ライスが変化したとかハヤシさんが考えたとか。色がわからないので僕はあれは味違いのカレーと思ってましたっけ。カレーライスもインドにはないが(ちなみにカレーは英語)、ハヤシライスにいたっては原形すら西洋にはないわけで、いかにも洋食っぽい和食であります。

音楽についても洋楽は洋食と同じ明治時代に入ってきた輸入品であり、初めて国家という看板を掲げて必要になった国歌の君が代は日本人が作曲してドイツ人が和声をつけました。メロディーは和風ですが和声はピアノで弾くと心地良い洋風なのが時代を象徴しています。余談ながら和声、オーケストレーションがいい加減なものが多いですが、神宮球場で試合前に鳴るバージョンは僕の記憶のかぎりオリジナルに近いと思います。これも洋食に見える和食でしょう。

音楽の輸入というと、演奏法のそれもあります。僕は日本人の弾いたピアノで、この曲はこういうものだったのかと感化されるような強いメッセージをいただいた経験がありません。これが演奏法のせいなのかは議論があるでしょうが、僕はそうだと思ってます。唯一、内田光子のモーツァルトのソナタだけが例外ですが、内田は日本の音大を出てないし、もう英国人です。

ショパンをきれいに弾く人、それっぽく上手にまとめる人はたくさんいますが、ひとことで言うとメッセージがない。指が弾いてる音楽であって、申し分なくうまいのですが、響きがこっちに共鳴してこないというか、誰が何と言っても私はこう弾きたいではなくて、書かれたとおりに先生に習った通りに、そこに楽譜があるから正確にやってますよ、ねっ、ミスタッチないでしょ、きれいな音でしょ、という感じです。のっぺりしているのです。

それも、誰のを聞いてもあんまり主義主張のバリエーションがなくて、テンポや強弱は差があっても結局それが何のためなのか心に響いてこない。もしかして「ショパンっぽいショパンの弾き方・裏ワザ集」でもあって、そこからの部分部分の外し方がバリエーションになってるんじゃないかとさえ思うのが多い。それでもショパンは自分なりの「華」を作れる音楽だからまだよくて、それがない、音楽に対する主義主張の本質だけでプレゼンしなければいけないモーツァルトをこの人たちはどう弾くんだろうと思うのです。

だから内田光子がモーツァルトで脚光を浴び、世界で評価されたという事実は違うんです、こういう演奏は日本で教育された人からはまず出てこないような気がいたします。

K.309の第1楽章をお聴き下さい。素人が技術を云々するのも過分ですが、このハ長調は簡単に聞こえて弾くのが意外に難しいと思います。どうしてかというと、いい演奏があんまりないからです。内田はレガートに始めて、絶妙の強弱をつけて、スタッカートで飛び跳ねて、リズムの粒立ちで心をときめかせて・・・まさにモーツァルトがこれを書いた動機はこうだ、自分だってフィガロの上演の合間にでも遊びながらこんな風に弾いたんじゃないかと思ってしまう。

この弾き方はピアノフォルテでもいいかなと思いますね。モダンピアノのレガートとなめらかな音色を使いこなしてますが、左手のリズムの拍節のうきうきする刻みかたなど古楽器の感覚もあって(ご本人に聞いたわけではないですが)、タッチに関わる底知れぬ教養を感じます。「教養」とあえて呼びますが、そういうことはモーツァルトの譜面には書いてないわけで、彼のオペラや管弦楽曲や宗教曲を知り尽くして初めてなるほどと思う性質のことです。

こういう演奏は他の日本人ピアニストからは少々望みがたい、というのは、この差はN響とウィーン・フィル(VPO)の差でもあって、内田のアレグロは気合が入った時のVPOのヴァイオリン群のノリを強く感じるのです。モーツァルトはこういう人よ、ここはこうやらなきゃだめよ、という主義主張が音から聞こえてくるのです。

ヴァイオリニストにいい人が出るのにピアニストはほとんどいない、それはピアノを弾くというのは伴奏者ではなく自分が指揮者ということであって、音楽の骨格から「自分」を出さなくてはいけない。つまり、主義主張が鮮明に出ないと何のために聞いているのかわからなからなくなるという性質の音楽がピアノ曲だからです。

ロンドンにいたころ、東京都響が来て若杉さんの指揮でブラームスの4番をやったのですが、内田さんが近くの席におられて、聴きながら音楽に没入して両手で指揮されてましたね。ああ4番がお好きなんだなあと、僕も負けずに好きなんでオーラをびしびし感じました。彼女はモーツァルトのコンチェルトを弾き振りしてますが、それぐらいの「我」がない人が弾いたって面白くもなんともない、それがモーツァルトです。

K.309にもそのオーラが出てます。理屈じゃなく、そうでもないとこの呼吸、リズム、タッチは出てこない。それが、やっぱり下手でも弾いてみたいと思っている僕の心にびしびし共鳴してくる、そんな感じです。この曲について彼女と何時間でも話してみたい、そんな気になる唯一の演奏です(西洋人のを入れたって)。センセイの言うとおりの「のっぺり演奏」できくとk.309は単純で退屈な曲です。そんな気が起きることはありません。

のっぺり演奏の正体は、おそらく「ピアノソナタ・モーツァルト風」なんでしょう。モーツァルトを輸入して醤油で味つけした、西洋風和食です。ベートーベン風、シューベルト風、ショパン風、シューマン風、メニューにはいろいろあるが、ぜんぶ醤油味だから。そうなっちゃうのは教育システムの問題でもあるでしょうが、客の問題もあります。モーツァルト風がモーツァルトと区別がつかない。ハヤシライス食べて、西洋の気分になって帰れてしまう。客がそれなら料理人もハヤシでいいかになっちゃう。

ピアノ科の生徒さんはきっとピアノ漬けだろうし、そういう音楽教養レベルでハヤシライスの世界を抜け出すのは、大変といいますか、ほとんど絶望的でしょう。ワールドクラスの演奏家になりたいか国内だけでいいのか。五輪に出たいか国体で満足か。前者の方にとっては、音大の先生は嫌がるかもしれませんが、内田さんのモーツァルトは必修科目ですね、全部きいてみることをおすすめします。

この問題は東大の経済学部がマル経っぽくなって、僕の中国の友人が「マル経?ああ北京大学にもあるよ、哲学科だけどね」と笑ってたのと相似形の現象ですね。こんな東大からノーベル経済学賞は、賭けてもいいが絶対に出ないでしょう。日本の大学は権威があるところほどハヤシライスの先生ばかりになって、洋風和食のコックばかりつくる。賢明な学生はワールドクラスとは何か、自分で、自分の頭と感性で、勉強されているとは思いますが。

 

 

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ダリウス・ミヨー 「男とその欲望」(L’homme et son désir)作品48

ショパン 14のワルツ集

日本の教育がBecause I’m stupid.である話

 

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クラシック徒然草-ショパンコンクールと日本人-

2015 SEP 28 23:23:24 pm by 東 賢太郎

ショパンコンクールの一次予選を日本人が12人通過したそうです。ポーランド15人、中国15人に次いで多いようですが全員女性だそうです。だからどうということもないのですが、男はどうしたんだろう。

コンクールってなんだっけという素朴な疑問があります。ピアノの上手い人ばかり集めてスポーツのように点がつけられるとは思わないからつけるなら好き嫌いだろうし、本来聴衆は好き嫌いで聞くのだからそれならコンクールはいらないと思います。音楽産業が売れそうな人を探すコンテスト、だいぶ昔に「スター誕生」というテレビ番組がありましたが、そんなものだというなら合点がいきますが。

歌舞伎と同じく古典芸能だから「型」というものはあるでしょう。好き嫌いをこえた伝統的な価値ですね。ショパンをムード音楽にしちゃ困るみたいな。しかし審査員もショパンの演奏を聞いたわけではないのです。弟子たちはもちろんショパンを聞いたわけですが、では弟子ならそのまま伝わるかというとそうでもない。たとえばラヴェルに教わったり初演を依頼されたりした人は複数いて、ロン、ルヴィエ、ペルルミュテール、コルトーなどですね、しかし録音での彼らのラヴェルの弾き方はみなちがいます。

だからラヴェルより百年も前のショパンのケースで作曲家直伝の解釈が唯一無二として残っていて、それを審査員の先生方だけが知っているなど想像もできないことです。いや、百歩譲って仮に残っていたとしても、ストラヴィンスキーの自作自演とブーレーズのCDを並べられどっちか一つといわれたら後者を選ぶ人は僕だけではないでしょう。

70年代にポリーニがショパンのエチュードの録音をしてそれが度肝を抜く完成度でしたが、ショパン自身はあんなに完璧に弾けたんでしょうか?それがどうあれ、あれを聞いてしまった僕らはポリーニより下手な人がエチュードを弾いてコンクールで優勝しましたといわれても耳がもう納得しないでしょう。伝統は否が応でも、そうやって日々ぬりかえられるのです。

イタリア人のマウリツィオ・ポリーニはショパンコンクール優勝者です。ああいう人を発掘するというならコンクールの存在意義はあるでしょう。しかし、我が国最高のピアニストである内田光子は日本人最高位である2位入賞者ですが、彼女はその後もショパン演奏家であり続けたわけではなく、それで現在の世界的な名声を築いたわけでもありません。

いまやポリーニや内田のような誰が聞いても天才という水準にある人はyoutubeで個人デビューすることができます。コンクール審査員のプロの耳と何億の一般大衆の耳とで評価に違いが出ても、どっちが絶対ということはなく伝統はそうやって日々ぬりかえられるのです。僕は「重複」は「ちょうふく」で「じゅうふく」は間違いと習いました。ところが大勢の人が「じゅうふく」と読みだして、僕はいまだにそれが気持ち悪いのですが、もうそれが辞典にも載ってしまって新しい日本語になってます。大衆が伝統を覆してしまう、そういうことがクラシック音楽の解釈でも起きているでしょう。

youtubeでデビューしてブレークし、EMIにベートーベン全集を録音させてしまったH.J.リムという韓国女性がいます。現在はラフマニノフの3番とブラームスの2番をアップしていて、女性にとって技術のハードルの高い二大協奏曲をあえて選んでおり、それなりに征服して弾けてしまっています。クラシック音楽というのは演奏技術がトップレベルであることはフィギュアスケートの規定競技といっしょで大前提ですが、そこはクリアしてるわよという世界のうるさ型聴衆向けのプレゼンになっているわけです。

ネットで演奏を無料公開してまず名前を売ってから、コンサートやグッズで収入を得るのがいまやポップスでは潮流です。i-tunesは世界に12、3社いるアップル社が契約したアグレゲーターという目利きが選んだアーチストが商品としてアップされます。彼らが選んだものは売れるというということで、クラシック界でのコンクール審査員に近い役割でしょう。しかしポップスに伝統もヘチマもありません。売れるかどうか、その名の通りポップかどうかが基準なのです。

クラシックは楽曲の新規供給が実質的にはなくなってしまい、ポップスではなく伝統芸能になりました。そうではあってもお高くとまっては衰退します。芸能である以上聴衆がいなくてはいけませんが、そこには伝統と大衆人気のバランスという問題が横たわっています。それこそ日本の歌舞伎界が懸命の努力をしているところで、両立すれば理想ですが、伝統は日々ぬりかわるものなら大衆人気はその原動力ですから無視できず、さらにはどういうプロセスで大衆人気が形成されるかも時代の流れで変わることに注目すべきです。

ショパンコンクール優勝は何より名誉だし、売れちゃえば勝ちという人気商売でもあるから成功へのパスポートになることは確実です。しかし、ここが重要ですが、「スター誕生」であるなら欧米のマネジメントがあえて日本人を選ぶだろうか?今年はぜひ選ばれてほしいが、ショパン弾きとして伝統にかない、欧米のコンサートホールで満場をわかせる何かが飛びぬけていなければ、うまいだけでは商業的には弱いですね。歌舞伎役者に外人が挑戦するようなものでとても狭き門だと思います。

またショパンコンクール優勝者は発足以来ロシアと東欧(もちろんポーランド)が常連でアメリカ、イタリアはあってドイツ、フランスは未だなし。東洋人は80年のダン・タイ・ソン(ベトナム)が初めてですが彼はモスクワ音楽院のロシアスクール、ちなみに70年2位の内田光子はウィーン音楽院で学び日本の音大は出ていません。2000年優勝者、中国人のユンディ・リが欧米の音楽院以外(中国)で学んだ初めてのケースと思われますが、五輪の開催地決定と似てどこか政治的なにおいを感じないでもありません。

僕はH.J.リムというお嬢さんはパイオニアであって、彼女の方法論は画期的と思うのです。簡単でありコストはゼロです。コンクールで箔をつけてプレミア感でチケットを高く売ろうという戦略は、もう古いとはいわないし王道ではあるのですが、紙媒体メディアと電子媒体メディアの戦いは時間の問題で後者が必ず勝つことを知るべきです。そうやって大衆に接する媒体の方が変化すれば大衆人気を勝ち取る方法も変化するのです。渋谷、池袋、青山で大手書店が消えているのを見れば誰でもわかる。別にショパンコンクールに出なくても、優勝者を負かす方法がでてきたのです。ユジャ・ワンやカティア・ブニアティシヴィリはメジャーなコンクールは出てないでしょう?

 

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クーベリックのベートーベン3番、8番を聴く

2015 SEP 12 2:02:15 am by 東 賢太郎

今日は午前の会議とランチをやって、名古屋でひとつプレゼンを済ませてとんぼ返りして別件を片付けるという一日でした。頭が常時こういうモードにあるものですから、せっかく先日すばらしいワーグナーを聴いたのに気持ちが音楽に戻れません。

noi35帰宅して思いっきりワインを飲んで、かなり回ってしまい、そこからは記憶がないのですがノイ(ねこ)を連れて地下に降りてピアノを弾きまくりました。このねこは弾いているとおとなしく寝るくせに、曲が終わるとニャーニャーとなきます。僕の猫語の解釈では「次たのむわよ」なんですが、「うるさいから終わってよ」だという意見もあります。

すぐネタ切れになって、今度はレコードをかけます。なんの脈絡もないですが、ベートーベンがいいよなとなって、なんとなくクーベリック指揮ベルリン・フィルの交響曲第3番「エロイカ」が鳴りはじめます。

さてしばらくして展開部あたりに来ると、こりゃ並み尋常じゃないなという気がしてきて、だんだん酔いがさめます。ノイはスピーカーの後ろで前足をたたんでペタッと座りこみます(これを僕は「おかみさん座り」と呼びます)。これはここに書いた、僕の最も好きなエロイカの一つなのですが、いやはや酔った耳にこんなに素晴らしいとは!

ベートーベン交響曲第3番の名演

第2楽章のおしまいのあたりの意味深いティンパニの音色。終楽章のテーマを弦楽合奏が引き取って、強くなって、最後にふっと力を抜いてpになる、そこの絶妙な間合いとホールの残響!全曲にわたってリズムに細心の彫琢が施され、対向配置の弦が精妙に聴き取れ、木管は見事なピッチとデリカシーに満ち、重心が低く古き良きドイツの音を残すベルリン・フィルの音が活き、浅薄な自己主張が一切ない。

この演奏を形容するとなると、言葉が語弊を呼びそうですがそれしか浮かばないのでご容赦いただきたが、「貴族的」ということになりましょう。アリストクラティックです。風格と気品は音楽に秘められているわけで、クーベリックは全身全霊をもって、ベートーベンへの限りない敬意をもって、それを音にすることに奉仕しているのです。

フルトヴェングラーとは対極にあります。こちらは彼の意識と情動のフィルターを通して描いたエロイカであって、とても人間くさい。ヒューマニスティックなのです。エロイカにそういうロマン派に接近した実験的要素がないとは言い切れないので、これはこれで、そういう路線の代表格です。

貴族が選良と言うわけではないが、クーベリックを支持する人のほうが数はずっと少ないでしょう。フルトヴェングラーのほうが人を泣かせ、感情をあからさまに掻き立て、英雄の絶頂と悲嘆をドラマティックに描ききっています。今やそこまでやる指揮者は絶滅したほど、彼の顔がくっきり見えます。

ドイツにいた頃に話をしたお客さんや聴衆でフルトヴェングラーを神と崇める人はひとりもいませんでした(名前は知ってるが)。彼がほとんど日本だけでいまだ熱狂的なファンにCDが大量に売れているというのは、演奏がなにか国民的に訴えるものがあるんでしょう。これも語弊ある言葉かもしれませんが、浪花節的と思います。

我が国では熱く盛りあがって頂点に達し、カタルシスを解消するような曲や演奏が一般の聴衆には人気を得ていると思います。第九がそうだし大方のマーラーもそういう側面を持った音楽ですし、個性を見せないと手堅い中堅指揮者だなどと貶められる。

クーベリックがそういう評価ということはないですが、浪花節をしない、頂点で沸騰させることを目的としない指揮ですからあまり本質を理解されていない。チェコ音楽のスペシャリスト的に思っている人も多いように思います。

最後に、同じく高く評価している8番もききました。こっちはクリーブランドO.ですが、同じく圧倒的に貴族的ですばらしい。ここに書きました。

ベートーベン交響曲第8番の名演

音楽のリズムの美しさ!こういう演奏はすべてのジャンルでなかなか聴けるものではありません。ぜひプロの演奏家の方にこそ耳を傾けていただきたい。指揮者がうなり声を上げたりジャンプしたりの「熱演」がいかに安っぽく聞こえてくることか!こんな素晴らしい音楽に芝居などまったく必要ないのです。

ところが、指揮者は芝居して個性を見せないと売れない。有名になれない。もしそういう動機が微塵でもあるならそれはもう猿芝居であって、一部のファンを熱狂させたとしても短期に滅びます。ホンモノの音楽家はそんなことはしない。スコアに秘められた美を抽出して、そのまま彫琢して提示するだけ。だから演奏は曲が忘れられない限り永遠に聴き続けられます。それこそモノの価値というもの。それ以上何が必要なんでしょう?

実はそれが一番難しいと思います。何も足さない、何も引かない、それで人を感動させるのは至難であって、だからお手軽に軽薄なパフォーマーになったほうが現世的には成功してしまう。世の中は受容する側もそういう性質の人がマジョリティーだからです。僕はホンモノと信じるものだけを支持し、ご紹介したいと思っています。

kubelik1クーベリックの全集はCDも持っていますが、主にLP(写真)を聴いています。LPの方が格段に音が良くて、このドイッチェ・グラモフォンの独プレス盤はうまく再生すれば音に深みがあり演奏の奥義まで聞こえます。評論家の評はさほどでもなく9つのオケを振ったという話題性だけで語られますが、この全集は音の再生が難しいですね。みなさんどんな装置で批評をされてるのか。youtubeなんかの平板な音じゃあ魅力はわからないのであえて貼りません、ご興味ある方は少なくともCDで聴いてみて下さい。ノイだけじゃもったいない、SMCのメンバーにいつか我が家の音でホンモノを味わっていただきたいと考えております。

(ご参考:8番です)

 

 

 
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僕が聴いた名演奏家たち(ルドルフ・フィルクシュニー)

2015 JUN 24 22:22:25 pm by 東 賢太郎

Firkusny

ルドルフ・フィルクシュニー (1912-94)はチェコを代表する名ピアニストです。日本ではフィルクスニー(ドイツ語)で知られますが、チェコ語はフィルクシュニーです。あまりご存じない方が多いでしょう。ぜひこれを機に知ってください。彼は、全ピアニストのうち僕が最も好きなひとりであります。

1978年、大学4年の夏休みに1か月ほどバッファロー大学のサマーコースに参加しました。いわゆる語学留学というやつで、本来こんなのは留学とはいいません、ただの遊びです。それでも2度目のアメリカ、初めての東海岸は刺激に満ちていました。

ボストンからサラトガスプリングズを経て、ボストン交響楽団がボストン・ポップスとしてサマーコンサートをやるタングル・ウッドへ。そこで幸いにも小澤征爾さんが振ってルドルフ・フィルクシュニーがソリストのコンサートを聴けました。

芝生にねころんで聴いたモーツァルトのピアノ協奏曲第24番。調律が悪いにもかかわらず、アメリカンなあけっぴろげムードにもかかわらず、きっちり覚えてます。オケだけのプログラム後半は何やったかも忘れてしまったのに。当時から24番は好きだったようでもあり、この演奏でそうなったかもしれません。これがこのブログに書いたコンサートでした。 クラシック徒然草-小澤征爾さんの思い出-

フィルクシュニーは有名なシンフォニエッタを書いたヤナーチェックの弟子というより子供のようにかわいがられた人です。ルドルフ・フィルクスニー – Wikipedia こうして彼のライブを聴けたというのは間接的にではあっても音楽史というものとすこし濃い時間を共有できたような、ありがたい気持ちがいたします。

ライブの24番がそうでしたが、彼のモーツァルトは短調と共振します。幻想曲ハ短調K.475をお聴き下さい。この曲にこれ以上のものを僕は探す気もありません。ここには魔笛とシューベルトの未完成が出てくるのにお気づきですか?

彼がコンチェルトの20番、24番はもちろん、ブログに既述のような深いものを孕んだ25番を愛奏したのはいわば当然の嗜好と思われます。20,24,25!もうこれだけで何が要りましょう。いま書いた6つの傑作。フィルクシュニーは全音楽の座標軸でこの6曲がある「そこ」に位置している音楽家なのです。そうして「そこ」こそが僕が最も共振する場所でもある。このピアニストを尊敬し、彼の録音を愛好するのは鳴っている音ではなく、人間としての相性だと感じます。

そして冬の澄んだ空のような透明なタッチが叙情と完璧にマッチしたブラームスの協奏曲第1番!名手並み居るこの曲の最高の名演の一つであります。

フィルクシュニーのタッチがフランス物に好適でもあるのはピアノ好きには自明でしょう。僕なりに長らくピアノと格闘していまだ自嘲気味の結果しか得ていないドビッシーの「ベルガマスク組曲」。フランス的ではなく東ヨーロッパの感性です。この「メヌエット」の音の綾のほぐし方、オーケストラのような聴感!技巧でどうだとうならせる現代の演奏とは一線を画した格調!「パスピエ」の節度あるペダル、そして感じ切った和声の出し方!チッコリーニとは対極ですが、どちらも多くのことを教えてくれます。

そして最後にこれをご紹介しないわけには参りません。師であるヤナーチェックの「草かげの小径」です。この録音は、音楽を長年かけて内面化しきった人でなければ聴かせようのない至福の時間を約束する演奏の典型です。夭折した娘を送る曲なのですが悲哀はあまり表に立たず、かえってやさしさがあふれることで純化した哀悼の精神をたたえています。美しい和声とヤナーチェック一流の語法で彩られた傑作中の傑作です。フィルクシュニーの表現はスタンダード、珠玉の名品などという月並みな美辞麗句を超越した美としてどこを聴いても耳をそばだてるしかないもの。価値が色褪せることは永遠にないでしょう。

 

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クラシック徒然草-ホロヴィッツのピアノ-

2015 JUN 17 0:00:55 am by 東 賢太郎

クラシックのジャンルで僕が長く付きあっているのはピアノ曲です。習ったわけでもないし理由は自分でも明らかでないですが、好きな楽器の最右翼であるのです。

ピアノの名曲はかなりしぼりこんで少なめに見ても50-60曲、ベートーベンのソナタを全部数える程度の広さでいえば150-200曲ほどでしょう。50-60のほうあたりはぜひ聞いていただきたいものですが、その中でも主要なレパートリーを占めるショパン、リストは僕の守備範囲でありません。ほとんど聞き知ってはいるがなじまないという点でマーラーと等しいものかもしれません。

220px-HorowitzBainそのショパン、リストを主要レパートリーとする系統のピアニストは、従って僕には感性の合う人ではない場合が多いわけですが、ひとりだけウラディミール・ホロヴィッツ(1903-89)は別格的に思える人です。好きではないですが気にはなる。それはひとえに彼の超人的な技巧が現代ピアノという楽器の表現力の極限をフロンティアのように拡大したからにほかなりません。

ホロヴィッツは、自分よりひと世代(30才)上のラフマニノフが「君の方がうまい」と椅子を譲った伝説のピアニストです。しかもそれが自作の協奏曲第3番でのことというのですから、ロマン派を弾きこなす当代最高峰の技術をもったピアニストであったといってよろしいでしょう。

しかし彼の演奏ビデオを見ると、指を曲げずに平べったい手のままで弾いている。今の日本ならこういう子どもはたちどころに先生に矯正されるでしょう。それが彼の出す音にどう現れているのかはピアニストの方におききしたいものですが、それにもかかわらず彼の紡ぎだした音は誰にも真似できぬ特別の個性を誇っており、その個性によって歴史に名が残っているのです。

彼のショパンやシューマンやスクリャービンについては多くの人が語っており、屋上屋を重ねる意味もありますまい。そこでは彼の個性が正面から作品の扉をたたき、それが正統派の演奏ではないにしても有無を言わさぬ成果を示していること議論の余地はありそうもありません。そこで、俎上に上げてみたいのはモーツァルト協奏曲第23番のジュリーニとの演奏です。

なんとも共感なさげな雑然とした開始の第1楽章がジュリーニのテンポなのか?たぶんそうではないでしょう。速いです。物理的にではなく、なにか拙速な感じであり、遅めにするとこの音楽を語りきれないかのような速さです。ジュリーニはこういうことをしない人だから、これはピアニストの感性なんだろうという感じがします。

ピアノはバスが常に強すぎ、ショパン風にトニック、ドミナントでの強調グセがあるのは滑稽なほどで、ときおり現れる左手の意味不明の強調は僕には神経に触るばかりです。フレーズ切り上げの見栄はまことにモーツァルトらしくなく、オケがそうしたホロヴィッツ風アクセントをなぞってみせるのも健気なものですが、お笑い芸人のモノマネを想起しないでもない。

第2楽章、感じてないインテンポに皮相なルバートがのる。音価に対する節操はなし。デリカシーゼロのピアノに合わせてオケも各パートが野放図に鳴りっぱなし。終楽章、モーツァルトのアレグロだけにある、軽さの中に飛翔する精神の高貴さはきっぱり消し飛んでいます。こんなモーツァルトを堂々とやったのはあとにも先にも彼だけです。

技術の難点を探すのは無駄です。そういうことはほとんどない。しかし、ファンにはお許し願いたいが僕にとってはまことに聞くに堪えないモーツァルトになっているのです。センス、テーストが別物だということでしょう。終楽章で興が乗って指揮までしている彼がモーツァルトが好きなのはわかるのですが、それでもなぜこれを弾いているのかまったく釈然としません。

ところが、ベートーベンとなると話は変わってきます。フリッツ・ライナーとの協奏曲第5番「皇帝」です。

実に豪放磊落。早いパッセージがグリッサンドに聞こえるほどの名技が似つかわしいかどうかはともかく完璧に弾ききっており、間然とするところなし。モーツァルトで気に障る強靭な左手が生き、終楽章のバスは補強され、オケが気迫にあおられてこれまた強靭に受けて立つ。

先のジュリーニと反対にライナーはこういう気風の人であり、ピアノとがぶり四つの横綱相撲になっています。5番は元来こう弾かれるべき曲ではないかもしれませんが、ベートーベンが現代ピアノのバスを聴けばこういう解釈を許容してしまうのではと思わせる説得力を持っているように思います。

ホロヴィッツの師はセルゲイ・タルノフスキー(1882-1976)とフェリックス・ブルーメンフェルト(1863-1931)というロシア系ピアニストです。ウィーン直伝のモーツァルト、ベートーベンを師から仕込まれたということは考えづらく、ロシア系ないしは自分流の解釈でしょう。

現代のコンクールで頭角を現したピアニストがホロヴィッツのような23番や皇帝を披露するということはないでしょう。これは19世紀の伝統の脈絡に深く根ざした、おそらく最後期の演奏であります。20世紀半ばまでこういう演奏はコンサートホールに響いたでしょうが、ホロヴィッツの名をもってして初めてレコードに刻まれたでしょう。

クラシックというのは音楽そのものを形容する言葉ですが、こういう歴史的遺産を聴くにつけ、「録音のクラシック」というものもあるのだと思えてきます。今のクラシックの風潮はなにやらポップス化してきて、美形の演奏家がもてはやされ気味のようです。なにもイケメン、美女でいけないことはないのですが、世を去ればどんな大家も忘れられてしまうというのでは寂しい。

僕の世代のファンが聴いて育った名演奏家の訃報、それも若手と思っていた人のそれに接することが多くなってきましたが、彼らが受け継いで残していった19世紀の伝統のうえに現代の演奏家は立っているのです。聴く側の我々もその立脚点をそれなりに知った上で耳を傾ける、そういう伝統へのリスペクトが新しい文化創造への架け橋になるということではないでしょうか。

ホロヴィッツの演奏はまさにそういう、世紀をまたいだパースペクティヴで今も聴き継がれるべきですし、僕が彼のモーツァルトをまったく支持しないのは既述の通りなのですが、それでも彼が学び、吸収した19世紀の音楽界の息吹というものを極上の技術で再現してくれることの価値はpricelessとしか表現できません。

その最たるものの一つ、作曲家がお前の方が上手いから自分は弾かないと言ったラフマニノフの協奏曲第3番。最も弾くのが難しいと言われる3番のこのオーマンディーとの演奏は歴史の証言であり、人類文化遺産と言って過言でないと考えます。

 

(こちらもどうぞ)

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番 ニ短調作品30(N響Cプロ感想を兼ねて)

 

 

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クラシック徒然草-クレンペラーとモーツァルトのオペラ-

2015 JUN 12 2:02:01 am by 東 賢太郎

712C0XWlK2L._SL290_オットー・クレンペラー(Otto Klemperer, 1885年5月14日 – 1973年7月6日)という人は作曲家でもあり6つの交響曲、9つの弦楽四重奏曲、ミサ曲、オペラ、歌曲を書いていますが「それらの作品はほとんど省みられることはなく、評価の対象にすらなっていない」(wikipedia)ようです。トスカニーニやカラヤンがそうだったという話は聞きませんが、フルトヴェングラー、ワルターはやはり作品を残しています。作曲家の落ちこぼれが指揮者といっては失礼だが両方で成功したR・シュトラウスやマーラーもいるわけで、現実的にはそう見えます。

後述しますが僕は作曲家と演奏家は人種が違うと思っています。マニア(mania)であってもなくても演奏はできるが、マニアでないと作曲はできないと思うのです。マニアというのは辞書によると「躁状態」とか「信念や行動に対する不合理だが抑えがたい動機」なんてある。マニアックとは、そういうものを持った人のことです。

何とかキチとか何々オタクってのがそうです。前回ブログに大阪人のほうがマニア的資質の人が多いと書きましたが、虎キチはいても巨人キチはいませんよね。あるとするとG党ですが、キチの域には達してなくてちょっと冷めた趣味的、同好の士的な集団のように思います。

僕は生まれつきのマニア資質です。子供のころ、外で遊んでいて「夕方だから帰ろう」という子がいる。なんで?**ごっこが佳境に入ってるのに!と思うのは僕だけなんですね。みんな「帰ろ帰ろ」になってすぐ誰もいなくなっちゃう。

このこだわりのなさ、このあっさり感は、5時間でも10時間でもごっこをやっていたい者にとってつらいものでした。そういう子たちとは友達になれませんでした。そんな少年時代でしたから、高校でクラブに入って、死にそうだ、もう終わりたいと思うまで毎日一緒に野球をやってくれる仲間ができた時は本当に幸せでした。

だから同じように、朝から晩まで音楽やってる演奏家はマニアなんだろうと思ってました。ところがオーケストラのリハーサル時間が長いと組合が指揮者に文句を言ったなんて話もごろごろある。「仕事」なんですね、寂しいですね。デスクワークみたいに大過なく片付けて早く帰りたいということのようです。

そういう人はマニアでもオタクでもキチでもない、れっきとした普通の人です。オッフェンバックの歌劇「ホフマン物語」にオランピアというゼンマイ仕掛けの歌う人形が出てきますが、そういう話を聞くとオーケストラの面々がみんなオランピアに見えてくる。そこに生命を吹き込む指揮者という人が、だから必要なんでしょう。

ところが作曲家というのはマニアです。書きたいものは時間を忘れ、夜を徹してでも何千時間かけてでも書くのであって、モーツァルトがオペラを時給いくらで書いたり、自分用に別のアリアを足せといわれて残業代を要求したなんてことはないのです。あと1万円くれればもう5小節書いてもいいですよなんて人間ではありません。

だから組合活動に精を出すような演奏家と作曲家とは人種が違う。僕はマニアですから、音楽をやはりマニアである作曲家寄りに見ています。自分の心の声ですから正直に書きますが、声や楽器を大衆好みに派手に扱うだけの演奏家はどんな大家であろうと芸人と思ってしまう。芸人がいい悪いではなく、時給いくらの芸は心を打つことはないということです。

220px-Otto_Klempererもちろん演奏家にもマニアがたくさんいます。演奏することのマニアですね。オットー・クレンペラー(右)は代表格でしょう。知人が家を訪問すると彼は全裸で楽譜に向かっており、知人には構わずそのままの姿で楽譜を研究し続けていた逸話がWikipediaにあります。僕はクレンペラーのそういうところが好きで、彼がマニアックにこだわった部分がだいたい想像がつくと勝手に得心しております。それに直感的な共感があるからです。

ユダヤ人の彼はナチの排斥によってドイツ物を振れるドイツ人指揮者が枯渇した英国でEMIに登用され、だからドイツ物が評価され、その奇矯で偏屈で激しやすい性格と女グセの悪さにもかかわらずロンドンで敬愛されました。僕がロンドンにいたころも、年上の英国人のお客さんで音楽好きな人たちはみな彼をきいていて、大体がほめてましたね。

我が国ではフルトヴェングラーを賛美するような性質のファンがそのアンチとして崇めていることが多い音楽家という印象です。実演に接してではなくレコードだけでの偶像崇拝だから仕方ないのですが、彼は楽譜をドライにクリティカルに見る人でフルトヴェングラーと同じ座標軸で比べることのできない指揮者です。メンデルスゾーンの3番はエンディングを直してしまうし、恩師マーラーの1番や5番は批判もしていて、望めばEMIにいくらでも機会をもらえたでしょうが、2、4、7、大地、9番しか録音していません。ブルックナーは4番以降は全部残しているのに。

彼のベートーベンは不動、堅固、悠然、堂々、孤高などという日本語でその威容を形容されることが多いのですが、それは彼の特色というよりもベートーベンがそういう音楽なのであって、彼の楽譜の読み方が音楽のそういう側面に目が行く傾向のものだからです。そしてそれは僕としては共感できるベートーベンです。あの楽譜をそう読みたいという欲求が僕にも強くあるからです。

フルトヴェングラーのように全体の雰囲気が先にあって、その時の感興によって流動的に音楽が生成されていくアプローチは、はまった場合のインパクトは強いのですが、僕は楽譜の読みより芸を感じてしまう。芸人ですね、一流ですが。ワルターの読みは柔和です。浪漫的ですらある。ちょっと違いますね、曲によって。トスカニーニは直線的で筋肉質ですがドライではない。クレンペラーの方がずっとドライです。

ここでドライというのは無味乾燥ということではありません。ウェットな感情による味つけが僅少だという意味です。もちろん感情が動かない曲は演奏しないでしょう。しかしそれは曲が持っている力であって、それを増幅したり恣意的に加減しない。クレンペラーの楽譜の読みにはどの曲にも共通してそういうマニアックなディシプリンが感じられます。ペトルーシュカからエロイカまで。そしてその方法論がワークしないなら、それは振らないか、楽譜を改訂してしまう。解釈論としてそれを解決はしないのです。

それをお示しする格好の題材がモーツァルトのオペラであります。彼は「フィガロの結婚」、「ドン・ジョバンニ」、「コシ・ファン・トゥッテ」、「魔笛」を最晩年に録音しました。中でも圧倒的に不人気なのが「フィガロ」でありましょう。彼が神であった英国ですらそうでした。僕のお客さんのひとり、最も尊敬していたD・パターソン氏、彼はケンブリッジ大学首席の知の巨人でしたが、「あれはいかん、遅すぎる、彼は年取ってから腕の運動機能が落ちてたんだ」と残念そうにいってました。彼以外もみなさん一様に「フィガロらしくない」という。

たしかに、唖然とするほどテンポが遅く、管弦のアーティキュレーションに異常なこだわりを感じ、三重唱「Cosa sento!(なんということだ!)」のあの天才的和声がおどろおどろしく響く。こんな「怖いフィガロ」は英国ではあり得ないわけです。ひと山当てたかったモーツァルトは絶対にこんなテンポで指揮しなかったでしょう。しかしクレンペラーは交響曲なども録音していて、リンツの終楽章などはそこそこ速い。運動機能説には納得しかねるものを感じてました。

41XGHP7DPKLドン・ジョバンニの地獄落ちの場面をクレンペラー以上に迫真の恐怖でもって描いた人は後にも先にもありません。これぞ真打の呼び声高い名演であり、こちらの方は一転してクレンペラーを讃える人が少なくありません。しかし、ここでも彼はフィガロと「同じ読み」をしているだけでドン・ジョバンニに歩み寄ったのではない、ドン・ジョバンニがそういうオペラなだけです。

極めてシリアスにしかし立体的に響くオーケストラの強奏はブラスが不吉にとどろき、教会でまろやかにブレンドされたような「モーツァルト的」音響ではなく、現代音楽に適したクラリティを持っています。フィガロの録音と同じ音がしています。騎士長のフランツ・クラス、タイトル・ロールのニコライ・ギャウロフの重い声が決定的に効いているのですが、彼らを選んだクレンペラーの歌手を選び抜く眼のクオリティは高く、彼の読みに適した「素材」の選別に妥協がないと感じます。

おどろおどろしい演出なんかちっともしていない!効果はモーツァルトがちゃんと譜面に書いているだろ、という「読み」の底力です。モーツァルトの譜面とだけ向き合ってこういう風に読もうとする、世間一般の通念など歯牙にもかけぬマニアックぶりはただただ嬉しくなります。フルトヴェングラーやワルターとは比べ物にならない、「ドライでクリティカル」な眼です。お聞きください。

コシ・ファン・トゥッテは4作の最後に録音され(71年)やはり音楽はやや遅いテンポでごつごつしてます。ベートーベンのように響く部分もあります。アンサンブル・オペラですから重唱が命ですが、楽器の明瞭なアーティキュレーションと歌手の明瞭な発音が素晴らしくシンクロナイズして独特の「濃い」味になっています。フィガロもそうですが、音楽をすいすい水のように流すということがなくオケは常に彫りが深く立体的で、立派そのもの。

そして女性陣がマーガレット・プライス(フィオルディリージ)、イボンヌ・ミントン(ドラべラ)、ルチア・ポップ(デスピーナ)と僕の好みの人ばかり並べられ、もう抗しがたい。素晴らしい歌が聴けますからフィガロが耐えられない方もこれは大丈夫でしょう。この曲にしては軽さがない、まじめ過ぎ、フィデリオみたいなど批判は予想されますが、僕は筋や舞台にはさっぱり興味がないので、この音楽の栄養分だけで充分です

5184ryk-y2Lそして、「魔笛」です。4作のうちでは一番早い64年とはいえ最晩年であったこの録音が自身の最後の魔笛であることは明白だったでしょう。オーケストラパートの彫琢はここでさらに光輝を増し、「おれは鳥刺し」の第2ヴァイオリンなど一聴して耳がくぎづけになったことを鮮明に記憶しています。

いうまでもなく魔笛はドイツ語による音楽劇(ジングシュピール)です。レチタティーヴォではなくセリフで語られるその筋書きのばかばかしさは、この音楽がなかったら1年もたずに歴史の闇の中に消え去っただろうという代物です。クレンペラーはそのセリフをばっさり省いています。そんなものはこの奇跡のような音楽のまえではどうでもいい。まったく同感であります。

クレンペラーは自身の魔笛をこの世に残すにあたって、モーツァルトの書き残した楽譜に潜む彼の天才をえぐりだすことだけしか眼中になかった。そのまま劇場で上演することも眼中になかった。モーツァルトのため、後世のために、音楽の真実を刻印しておきたかったのだと思います。この魔笛を聴いてあのフィガロのテンポがわかり、今ではあの録音を心から楽しんで聴いています。フィガロはケッヘル番号で492ですが、491はあのピアノ協奏曲第24番です。

この歴史的録音は女声の勝利ともいえます。夜の女王にルチア・ポップ、パミーナにグンドラ・ヤノヴィッツ、そして驚くべきは野球なら8番、9番バッターである第一の侍女にエリザベート・シュワルツコップ(!)、第二の侍女にクリスタ・ルートヴィッヒ(!)という録音史上空前絶後の豪華さ。めまいがします。

かたや男声はニコライ・ゲッタのタミーノは善戦してますがワルター・ベリーのパパゲーノがやや弱く、非常に重要な重唱を歌う二人の武者は勘弁してくれというレベル。それを彼はあまり重視しなかったのは僕には不満ですが、にもかかわらず女性軍の壮絶なパワーによってこの録音は永遠の輝きを放っているのです。このポップの夜の女王のアリアを凌ぐものを僕は聴いたことがないし今後もないでしょう。三人の侍女のアンサンブルの美しさは天国もかくやの神品ものです。

とにかくピッチがいいわけです。音楽の基礎の基礎、基本の基本です。でもできない人が多い。一人でもだめだとアンサンブルは台無しです。その他のああだこうだなんてこれができないなら言っても何の意味もないんです。そこに彼がこだわったからそうなったのは明白でしょう。ポップとヤノヴィッツとシュワルツコップとルートヴィッヒを選んでもってきた。できる人だけを揃えた。彼は言葉の真の意味におけるマニアなんです。その魔笛です。

モーツァルトのこの4つのオペラはまぎれもなく人類最高峰の文化遺産であり、何度観たりきいたりしたかわかりませんが、きけばきくほど心に泉の如くこんこんとわきおこるのはモーツァルトへの感謝の気持ちのみです。

おそらくそう思っておられるモーツァルトファンは数多いでしょう。大事なものであるからこそ、人口に膾炙しないクレンペラーの録音、特にフィガロは異端にされてしまったのではないでしょうか。しかし、僕はこの4つの録音をきいて、クレンペラーもモーツァルトに感謝の念を強く抱いていた人であろうと信じております。

とくにクレンペラーのファンというわけではないのですが、彼が自分にとってとても大事な音楽家だと思っている理由がひとつだけあります。きっと5時間でも10時間でも**ごっこで一緒に遊んでくれる子だったろうという気がするからです。

 

モーツァルト「魔笛」断章 (私が最初のパミーナよ!)

 

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ベンチャーズ 「キャラヴァン」は凄い

2015 MAY 9 17:17:23 pm by 東 賢太郎

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和泉多摩川にいた昭和30年代は小田急のロマンスカーはこの型で、オルゴールをならして(!)走っていた時代です。ただこれはあんまり好きでなくもっぱら通勤電車マニアで、ブレーキの摩擦で多摩川のガード下に落ちる鉄片を収集してました。

 

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こんな型の電車がまだ走っていました(Wikipediaより)。幼稚園のころ真ん中についている終点駅表示ボックスを自作し、割箸でくるくる巻き取ると行き先が変わるようにして自転車の前につけ、レール音の口真似をしながら友達と「電車ごっこ」してました。

 

出発前に大声でアナウンスをするわけですが、「向ヶ丘遊園を出ますと、相模大野、本厚木、伊勢原、鶴巻温泉、大秦野、渋沢、新松田、終点・小田原の順に停車いたします」が小田原行のアナウンスで、箱根湯本行だと風祭、入生田が入ります。まだスラスラいえます。

そこから数年で、小学校へ入って、次に関心が移ったもの、あそこに行った以上どうしてもベンチャーズを書いておきたくなります。何から聴いたのか、たぶんウォーク・ドント・ランだったでしょうが、衝撃的だったのはこれでした。一度書きましたが今回は音を聞いて思い出していただいて、もう少し詳しく。

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これはLPからのピックアップですが名盤で、4曲ともハマったのですがキャラヴァンのインパクトは強烈でした。ドラムのスティックだけ買ってもらい、音色が変わるように厚さのちがう本を並べてメル・テイラーのリズムよろしく叩きまくりました。アパッチは今思うとクラシックのテーストを植えつけてくれた曲かもしれません。

 

 

キャラヴァンです。これは上のEP盤をさらにドーナツ盤にカットしたものですね。

こういうものにややこしい事を書いて申しわけないのですが本ブログの悪癖ということでご辛抱ください。

まずノーキー・エドワーズのリード。早弾きもすごいのですがトレモロアームも控えめで実に音楽的。クラシック的にいうと「歌っている弦」であります。冒頭、シンバルの一撃から襲いかかるメルのドラムスのタムタムの2種の音色のカッコよさ!もう脳天直撃モノであります。バチさばきのワザに当時の日本人は驚嘆したのですが実はそれだけじゃない。ソロの途中で乱れ打ちみたいになってリズムがわからなくなるのですが、ちゃーんと4拍子を守っている均整も美しい!達人の芸です。

このタムタム、ひとつひとつの打撃音自体がばりばりにテンションが高いじゃないですか。こういうドラムヘッドの張りかたを選んだことだけでもメル・テイラーは凄い。これはブーレーズが春の祭典でバスドラムの皮を「ゆるめ」に張っているのに匹敵する快挙で、理屈じゃなく、どうしてそんなことができちゃうの?と驚くしかないセンスの良さです。これの刷り込みがあったから春の祭典にはまったことを確信します

さらにこの曲のアンサンブルとしての凄い所は2つあります。ノーキーのリードとボブのベースのからみがその1、そしてさらに重要なのが右チャンネルのメルのドラムスと左チャンネルのドンのサイドギターの後打ちリズムのキザミが絶妙にコラボしていることがその2です。この2ユニットのアンサンブルが複合してゴージャスなリズムの饗宴となっています。これもクラシックならポリリズムを予見させるハイクオリティです。

特に後者(その2)は何度聴いても音楽的に最高級!素晴らしいの一言!これがあるから精緻かつ灼熱のカルテットとなっているのです。youtubeで多くのアマチュアバンドさんがコピーされていていくつかききましたが皆さんいいノリですね、でもサイドが伴奏になってしまっているのが多いです。むしろ主役です。これを意識すればもっと「らしく」なること請け合いですよ。

このスタジオ録音があまりに完成度が高く、ベンチャーズはライブのアンコールでいつもこの曲をやるのですが2度とこのハイレベルな演奏はできていません。時と共にスティックでベースの弦をたたくなどなどショー化していく傾向があり、それに比例して音楽性が低下していく様は彼らの米国での人気凋落を物語って悲しいものがありました。それはメルの死で決定的となりましたが。

この録音、テンポは後年のライブに比べると一番遅いのですが非常にテンションと密度が高く、遅いという感じが全くしません。そういう音楽はジャンルを問わず、例外なく、レベルが高いです。各楽器の発するオーラとリズムのキレは一点非の打ちどころもなく、僕の耳はブーレーズのストラヴィンスキーを聴く状態になります。

2度目のサビの後ノーキーがほんの微小に指が回らず音がぶれるのまで覚えてしまっているので、これと違うバージョンは受け入れ難くなってしまっています。ポップスはクラシックの世界でいうスコアがありませんが、こういう決定的な録音に記録した音がそれの役目になってしまいます。

ビートルズがライブしなく(できなく?)なっていった一因はそこにあるかもしれません。そういう録音というものは、アビイ・ロードの稿でも書きましたが、それこそが字義どおりの意味におけるクラシック音楽であると思います。

ところでキャラヴァンの原曲は「A列車で行こう」のデューク・エリントンの作曲でジャズのスタンダードナンバーであるなんてことはちっとも知らず、これがそうだそうです。

この真っ黒い音響世界、けだるく怪しいメロディーラインと不可解な和声、それにからむトロンボーンとクラリネットとピアノという突飛な組み合わせ。米国に来た黒人がまず西洋音楽を聴き、それを彼らの感性フィルターを通したところにジャズが生まれたわけですが、う~ん奥深いですね。

そして今度は西洋人がそれをアレンジする。この世界、僕はまったく語る資格ありませんが、チェロキー族(インディアン)の血をひくノーキー・エドワーズのギターヒーローであった(Wikipedia)チェット・アトキンスとレス・ポールの演奏があります。

サビのコード進行、リズムのアクセントなど、ベンチャーズ版の原点はこれのように聞こえますが、ドラムスの野蛮と洗練、クリスピーなサイドギターのピッキングとリズムのエッジ、ノーキーの軽々とした歌い回し、というトッピングはやはり強烈な個性!やっぱり僕にとってはベンチャーズが永遠のヒーローです。

(こちらもどうぞ)

ベンチャーズ 「アパッチ」

ベンチャーズ 「10番街の殺人」

ベンチャーズとクラシック

再録「クラシックとベンチャーズ」

 

 

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ポミエのベートーベン ピアノ・ソナタ全集(追記あり)

2015 JAN 13 0:00:36 am by 東 賢太郎

昨日のブログを書きながら聴いていたベートーベンのピアノソナタ全集はこれだ。僕の愛好曲である第18番変ホ長調のブログを書いたときにいろいろ聞き比べ、このジャン・ベルナール・ポミエ盤が印象に残った。ベートーベン ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 作品31-3

61qrsb2XK6L__SX425_この全集はときどき気の向いた曲を聴いていたが通しては初めてだ。これがなかなかいいのだ。初期の方はもぎたてのレモンみたいにさわやかであり、中期はそれにシンフォニックな華やかさと重さが加わるが独特の生命力と流動感がみなぎり、後期はそれにさらに意味深さと奥行きが加わって立体感のある音楽となる。

これは僕の知っている過去の名盤と比較してもレゾンデトールがあると思う。何より音楽に溌剌とした自発性がある。テクニックの切れ味できかせるというよりも、速い楽章は良い指揮者が小型のオケをうまくのせて成し遂げた即興性に満ちた名演という感じだ。そういう演奏は得てして緩徐楽章で失敗していることが多いが、ポミエはだれていないどころか後期などは強みになっている。音楽とは時間を支配するものだ。緩徐楽章にこそそれが出るが、彼の深い呼吸がとても心地よい。

悲愴ソナタとショパン に書いたルバートがその例である。この曲がロマン派の音楽でないのは明白だ。これを名手たちがどう感じどう処理しているかは大変に興味深い。ポミエは(先生のイヴ・ナットも)ひとつ前のasでほんの微かに(気をつけないとわからない)ルバートをかけるという解決をとっている。これを僕が論じるのは解釈論としての是非をいいたいためではない。演奏家の「時間支配」への意識が重要と考えているからだ。彼の解決は節度と知性を感じる好ましいものと思う。

ひとつコメントすると29番のハンマークラヴィールだ。作曲当時ベートーベン以外誰も弾けなかったこの巨大なソナタをどうするか?僕はクラウディオ・アラウの演奏に畏敬をもっている。技術的なことではもの言いをつける人もいるだろう。しかし本当にすぐれた演奏は完全主義者の手から生まれるとは限らない。彼によって第1楽章の意味が分かったし、嬰ヘ短調の第3楽章Adagio sostenuto、僕はブラームスは交響曲第4番の冒頭主題をここからひっぱったと信じているが、本当にそうかどうかはともかく、そういう思索を許してくれるような音を縫いこんであれを弾く人というのはアラウしかいない。

ブラームスの第2協奏曲の稿で僕はアラウのことを書いた。あれ以上にあの曲のエッセンスを汲みつくした滋味あふれるピアノは聴いたこともなければ今後聴けるとも思っていない。すべての声部の音色の使い分けとバランス、和音のブレンド、フレージングと間とルバートがあまりに絶妙で、ブラームス自身以来あれを弾くためのコモンセンスというものがあるなら、そういうものがぎっしり体中に詰まっている人でなければ生まれない性質の感動を覚える。

アラウのハンマークラヴィール・ソナタが同じだ。こういう巨大な先人たちがひしめく中で、フランス人ポミエのこの曲へのアプローチは初期の曲から連綿とつながるずっとさっぱりしたものだ。明るめの高音部ですっきりと隈取りされた、風通しの良い音楽になっている。しかし音楽の輝きが彼の中で化学反応して放射したものをすくい取ったという感じがするという点、アラウと全然異質の弾き方なのに同質の満足を与えてくれる。音楽とは面白いものだ。

微細なミスタッチがそのままだが仕方ない。ライブのような感興を優先したのは正解と思う。新鮮な聴体験であり、一気に10枚を聴きとおしてしまった。全集の穴埋めにお仕事で弾いた感じの曲がないのもいい。全部の曲に対して彼がやろうというモードに入って機が熟したものなのだろう。演奏家のメッセージを感じるのは、これが非常に優れたプレゼンでもあるということだ。

(追記)

「嬰ヘ短調の第3楽章Adagio sostenuto、僕はブラームスは交響曲第4番の冒頭主題をここからひっぱったと信じている」と書いたのはこの部分です 。beethPS29

ブラームスは第1番のピアノソナタハ長調の冒頭にハンマークラヴィール・ソナタを引用しています。この通り。

僕の仮説ですが、ブラームスは交響曲第4番ホ短調で、まず第1楽章第1主題にベートーベンを、そして終楽章のシャコンヌ主題にJ.S.バッハを引用し、自作を自らが敬愛する先人の延長として位置付けたのではないでしょうか。

(カンタータ第150番、BWV 150, “Nach Dir, Herr, Verlanget Mich” – Meine Tage In Dem Leid )

 

(こちらへどうぞ)

プレゼンの極意はベートーベンにある

 

 

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クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

2015 JAN 5 21:21:36 pm by 東 賢太郎

自分史としてクラシック演奏家について書こうと思い調べていたら、実演をきいた演奏家がもうこんなに鬼籍に入っているではないですか。

カラヤン、バーンスタイン、チェリビダッケ、オーマンディー、テンシュテット、ヨッフム、ジュリーニ、ショルティ、ドラティ、フルネ、C・クライバー、シノーポリ、H・シュタイン、ヴァント、ベルグルンド、ラインスドルフ、スタインバーグ、デュファーロ、ザンデルリンク、ベルティーニ、アロノヴィッチ、ジョルダン、グローヴズ、ヒコックス、ハンドリー、ワルベルク、ライトナー、コシュラー、R・ショウ、クライツベルグ、バルシャイ、ギレリス、リヒテル、ルドルフ・ゼルキン、ペルルミュテール、フォルデス、ラローチャ、フィルクシュニー、ミケランジェリ、ホカンソン、シュムスキー、ワイセンベルク、ラドゥ・ルプー、ヘルマン・プライ、スターン、グッリ、ブレイニン、イダ・ヘンデル、ロストロポーヴィチ、ポール・トゥルトリエ、パバロッティ、ディミトローヴァ、フィッシャー・ディスカウ、アーリン・オジェ、クルト・モル、ウィルマ・リップ、ジェシー・ノーマン、マッケラス、サヴァリッシュ、デ・ブルゴス、コリン・デイヴィス、アバド、ゲルト・アルブレヒト、マゼール、ブリュッヘン、ホグウッド、チッコリーニ、マズア、ブーレーズ、アーノンクール、マリナー、アントン・ナヌート、スクロヴァチェフスキー、ロバート・マン、ビエロフラーヴェク、ジェフリー・テイト、ヘスス・ロペス・コボス、ロジェストヴェンスキー、プレヴィン、マリス・ヤンソンス、ミヒャエル・ギーレン、ペンデレツキ、ネルロ・サンティ、レイモンド・レッパード、ジェームズ・レヴァイン、ハイティンク、クリスタ・ルートヴィヒ、テオ・アダム、ラルス・フォークト、アンドレ・ワッツ、テミルカーノフ、ポリーニ、リン・ハレル、レイフ・セーゲルスタム、ブレンデル、ノリントン、日本人で朝比奈、山田、渡辺、若杉、芥川、羽田、中村紘子、遠山慶子、外山雄三、飯守泰次郎、小澤征爾、秋山和慶。

まあそれだけこっちも年輪を重ねたということで、どの時代に生まれてもこういうリストができて名前が増えていくんでしょう。ちがうのは顔ぶれだけです。

僕はマルケヴィッチ、アンチェル、アンセルメ、ミュンシュ、クリュイタンス、マルティノン、フランソワ、オイストラフ、コンドラシン、カザルス、セル、バックハウス、ケンプ、ルービンシュタインの来日公演を聴くにはちょっと若すぎた世代で、聴けたのにと後悔しているのがベーム、シェリング、ムラヴィンスキー、フルニエ、アラウ、クーベリック、スイトナー、マタチッチ、スヴェトラーノフ、グルダ、ヘブラーあたりです。晩年に来日したカラスは聴かず、ホロヴィッツは海外にいて聴けませんでした。

ご覧いただいて僕と同世代のクラシックファンはみなさん懐かしいのではないでしょうか。実演を聞かれた方も多いでしょう。これに現在活躍中の長老、ベテランを加えればほぼ20世紀後半のクラシック界を代表する演奏家リストができてしまいますし、この人たちの録音が後世もスタンダードとして永く聴きつがれていくのだと思います。

演奏家の旬の時期が30年ぐらい自分が演奏会に出向けるのも30年ぐらいとして、両者がクロスオーバーしたのは縁だったんだと思います。日本に来なかった人もいるし、地理的な事情を考えるとタイムリーに出会える運というものもあります。聞かせていただいた人がこれだけいたというのは16年を海外で過ごしたからですから、どこか自分の人生の縮図を眺める気もいたします。

すでに何人かのコンサートについてはブログにしましたし、残念ながら印象が薄くて細かいことは忘れてしまったのもあります。

今年のテーマとして、まだ書いてない印象に残った名演奏家のコンサートやエピソードをピックアップして、その演奏家の録音への意見もふくめて何回かにわたって書いていこうと思います。「僕が聴いた名演奏家たち」というタイトルで「カテゴリー」に入れていきますのでお読みいただければ幸いです。

 

(追記、16年2月3日)

とうとう本稿のリストにピエール・ブーレーズと記す日が来てしまった。

彼との出会いがCBSの春の祭典であったことは何度も書いた。この空前絶後のレコードは、高校生だった僕の大脳にalignmentという作用を及ぼした。どういうことかというと、頭の中で細胞が一直線に整列するイメージだった。すべての音符にブーレーズの強靭な知性の引力を感じ、それに得も言われぬ魅力を感じたことで、その支配が僕の耳を通して脳細胞にまで及んでしまったことを意味していたように思う。

そこから、僕はそういう人間になった。

数学が好きになり、とくに整数題に凝った。整数というのはフィクションというか、あらゆる数の中に在るには在るが、在ると言うのは点に面積があると主張するぐらいに作り物めいた呪文のような存在だ。しかし「在る」ことにすると色々面白いことがあって、ひょんなことで実用性があったりする。いや、我々の現実社会はその面白いことだらけで成り立っている。猫が1.7匹いたりすることはないように。

ブーレーズは名前の発音を「前のーは後ろのーの半分の長さ」(ブ-レ--ズ)と説明した。1:2の整数比であり、ブが八分音符ならレは四分音符ということだ。この説明方法に彼の音符を支配する知性の秘密が垣間見える。彼は言語の要素に「音価」を見出している。「リズム」ではない。音楽を組成する諸要素、これ以上は分解できないエレメントのひとつとしてだ。それを僕は上記の春の祭典に見た。音価が整数である必然性はないが、「祭典」では、厳格な整数比のコントロールを導入することで、それまでの誰の演奏にもないもの、作曲家が恐らく本能的に選び取った神性に支配された秩序ある美を紡ぎ出したのである。

それを僕は数学の、非常に難しい整数問題がとうとう解けた瞬間に、いわばなんとなく「発見」した気分を味わった。それらは等しく美しいからだった。

ブーレーズがドデカフォニー(12音技法)から作曲をはじめ、音高ばかりでなく音価にも限定的選択による秩序を与え、その秩序に言及、開示することを好まなかったことは、音楽美(aesthetic)を感知させる根源的なエレメントの配列が宇宙に存在し、それを感知したままに書き下そうとしたかのように思える。それは神性によるものであり、人間である自分が今できるとは限らない。彼のwork-in-progressという発想はそういう思考形態の表れなのではないだろうか。

「非常に難しい整数問題」は、整数がフィクションだというメタファを使ってはみたものの、人間が恣意的に作ったものでないことだけは確実だ。神性に基づいた問題であり解なのであり、しかもそれを僕は音楽のように美しいと感じた厳然たる事実があるのである。ブーレーズが生涯通して求めた美はそういう存在であり、彼が作曲を通じて、まだ未完と考えておられたであろうことを割り引いても、宇宙の原理が作用することに依って我々の脳が感知するJ.S.バッハやモーツァルトの美と同質のものを残したことは疑いがないように思う。

僕の脳にalignmentという作用を及ぼしたものの実体は、彼の脳にあったaestheticの根源的なエレメントの配列の同期だったと信じる。それは人格という高次なレベルの影響であり、彼に会ったことはないが、そういうことがありえるのだと今は確信に至っている。彼の肉体は滅んでしまったが精神はこうして生きている。それは論語を通じて孔子の精神が人類に根づいているのと同じことだ。

永遠に感謝の意をこめて

 

(こちらをどうぞ)

カルロス・クライバー指揮ベルリンフィルの思い出

クラシック徒然草-チェリビダッケと古澤巌-

クラシック徒然草-ユージン・オーマンディーの右手-

カラヤン最後のブラームス1番を聴く

クラシック徒然草-カラヤンとプレヴィン-

ブルックナーとオランダとの不思議な縁

クラシック徒然草-カッコよかったレナード・バーンスタイン-

レナード・バーンスタインのお告げとしか考えられない出来事

クラシック徒然草-エミール・ギレリスの天上の音楽-

僕が聴いた名演奏家たち(クラウス・テンシュテット)

僕が聴いた名演奏家たち(サー・コリン・デービス)

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僕が聴いた名演奏家たち(アンドール・フォルデス)

ウォルフガング・サヴァリッシュの訃報

ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスの訃報

ロリン・マゼールの訃報

クラウディオ・アバドの訃報

クリストファー・ホグウッドの訃報(追記あり)

エロイカこそ僕の宝である

クラシック徒然草-名指揮者カルロ・マリア・ジュリーニについて-

マーラー交響曲第1番ニ長調 「巨人」

ドビッシー 西風の見たもの

クラシック徒然草-ヴァイオリン・コンチェルトの魅惑-

音楽人生に「足るを知る」

クラシック徒然草-フィラデルフィア管弦楽団の思い出-

 

 

 

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チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 作品23

2014 DEC 11 18:18:37 pm by 東 賢太郎

 

この曲の出だしはクラシックに縁がなかった人でもきっとどこかで耳にしたことがあるでしょう。テレビCMで最も使われるクラシックのひとつですね。

この冒頭のメロディー、すごく魅力的なんですが二度と出てこないのですね。最初のころはここが大事で後の方はどうでもよかった僕としては、吉永小百合が最初の5分だけ出てあとは端役ばっかり出てきておしまいの映画みたいで、おい、金返せとまではいわなくてもこりゃなんなんだという食い足りなさは甚大でした。

だんだん物を覚えてきて、あの部分は「序奏」だったんだということを学びます。序奏部というのは落語の「つかみ」みたいなもんです。お笑い芸人が観客を引きつけるために最初に放つ軽いギャグもそうです。本ネタじゃないですからね、だから二度と出てこないのです。

ところがこの協奏曲の「つかみ」はいきなり本ネタかと思うパンチ力です。プレゼンでいうなら、いきなりスクリーンにどっかーんとポルシェの写真が出て「これ新車です!」なんてかまして「おお、いいね」と聴衆をうならせたところで、「ところで、当社のラーメン大魔王ですが・・・」なんてきて、おい、ポルシェはどうなったんだ?そういう感じですね。

そのせいでしょうか、この作品、初演を依頼して献呈しようとした大ピアニストのニコライ・ルビンシュタインに「不細工で演奏不可能だ」とボロかすに言われてしまいます。不細工はそういう意味ですね、形が悪い、たぶん。しかし演奏不可能とは・・・。

ただ、楽譜を見るとそれもわかるような。序奏に続く飛び跳ねるような快速の旋律が第1主題です。それから序奏部のカデンツァ(中間部にそんなものがあるんです)、このへんは素人はもうお手上げです。アクロバットのようでプロでも曲に負けてる人は大勢います。要は弾けるか弾けないかですね、「体育会的」な要素が演奏の印象をほぼ決めてしまいます。

僕はこれを7回演奏会できいています。ギレリスの最後の演奏はブログに書きました。しかしそこそこ良かったのは05年の小菅優ぐらい。やっぱり運動神経とパワーで図抜けてないと楽しめないのです。このことは最後に書きますが、ロシアのピアノ・コンチェルトというのはラフマニノフもプロコフィエフもそうですが、とにかく音が大きくてffで鋼鉄みたいな強いタッチの音が出ないとだめです。小菅さんは大健闘でした。

これは思い当たる話があって、先日ある方が「ロシア人と握手するとね、痛いんだよ。熊みたいにゴツくてでっかい手で思いっきりギュッとくるからね」といっていました。「プーチンはどうでした?」ときくと「熊だった」そうで「メドベージェフだけ例外で、小さくてふにゃっとしてて女みたいだった。あれは珍しい」とのこと。

ラフマニノフもギレリスもリヒテルも、見るからに熊でしょうね。それがパワーだけでなく抜群の運動神経でコントロールされる。だからああいう強くて巨大なエネルギーがあって、それでいて軽いところは羽毛のように軽い音が出せる。この協奏曲はまさにそういう剛柔重軽のタッチを各種取りそろえていないと弾けないように思います。

そうしてだんだん大人になってくると、この曲はあそこより後の方が実はいいんだということに気がついてきます。僕は第1楽章の第2主題が大好きです。ロシアは行ったことがありませんが、冬の平原の雪景色が浮かびます。この協奏曲が作曲されたのは11月から2月の間。なんとなく冬の音楽のように感じます。

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哀感のある絶妙の和声がついていてチャイコフスキーだなあと感じますが、ストラヴィンスキーの「火の鳥」につながる和声でもある。やってみる派なのでもちろんこれを弾いてみてそういうことを発見するわけです。しかし、これシンプルに見えますが、ピアノ的にどうも弾きやすくないんですね。g.b.es.bなんて、アルペジオとはいえ手は熊でないとなあという感じがします。

この第2主題の副主題でこういうメロディーがヴァイオリンに出てきます。

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民謡風ですがなんともあったかい。as-esの空虚5度のドローン風バスがのどかで、でもどこかなつかしい郷愁があって、どういうわけか僕は可愛がってもらった祖母を思い出すのです。

第1楽章で僕が最も素晴らしい瞬間と思うのは展開部の第388小節でsfのティンパニのh音でホ長調に転じる部分です。そのhのオスティナート・バスにのってオケとピアノが三連符のかけあいをしながらぐんぐんと高潮していく様はこれも天才的である交響曲第4番の第1楽章展開部、そして悲愴の第3楽章(マーチ主題の前)の先駆けです。

ちなみにこの協奏曲のモスクワ初演でピアノを弾いたのは作曲家タネーエフですが、彼はこのホ長調の入りで管弦楽がsfからすぐにpに音量を落すのに次の小節でピアノがfffで入る原典譜のバランスを校訂者が勝手にmfにしたりpppで入るピアニストがいることを厳しく批判しています。ここを原典どおりいくのが下記のオグドンです。

第2楽章は民謡そのものの鄙びた主題で始まりますが、中間部(第59小節)で突然にPrestissimoになるやピアノの目もくらむスケルツォ風のアクロバットになる。ここを見ると、チャイコフスキーのピアノ語法が楽器を自在に軽々と弾けることを前提としていることがわかります。やがてヴィオラで民謡風の旋律が出るがこれは弟と一緒によく歌ったフランスの古いシャンソン「俺たちゃ楽しまなきゃ、踊りと笑い」からとったそうです。

第3楽章はロンド形式。どことなく7年前に作曲されていたグリーグの協奏曲の終楽章を思わせる激しいリズムの旋律はウクライナのベスニヤンカという踊りの歌。実に元気がいいです。さて、大変重要な第2主題です。どことなく民謡調です。ファがひとつだけ出ますが5音音階的な旋律であり、おしまいの2小節のミソレーレミドーラドソーは完全に5音音階です。

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そこで第1楽章の冒頭のあの「つかみ」のテーマをもう一度見てみます。同じ3拍子であることにご注目ください。

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第3小節に出てくるファとシが耳に残り、特に繰り返し部分で3小節目のバスfに対して旋律のg♭(これがファに相当)の不協和(そうきこえないか)が強烈にアピールするのでイメージしにくいのですが、終わりの方はソーレーミソーレレミソーミラソレーと完全な5音音階なのです。ベースは東洋的な五音音階なのにそのファの不協和が非常に西洋的に響くことがこのメロディーのえもいえぬ魅力の源泉といっていいかもしれません。

この音階はファ(第4音)とシ(第7音)を抜いたヨナ抜き音階といわれ、童謡、民謡、演歌などに多いものです。たとえば「赤とんぼ」「象さん」「上を向いて歩こう」「北国の春」「昴すばる)」「木綿のハンカチーフ」などです。「君が代」もシが一度だけ出ますがそうです。西洋でもスコットランド民謡の「蛍の光」がそうだし、ドヴォルザークの新世界の「家路」もそうです。人なつっこくて耳に残る、特に日本人のハートにはぐっと迫るものがあります。

この協奏曲のエンディングは第3楽章第2主題を全管弦楽とピアノが一体となってfffで高らかに歌い上げますが、ミソレーレミドーラドソーの土くさい5音音階が冒頭のあの「つかみ旋律」の5音音階にコラボして聞こえるように思うのです。つまり、確かにあれは二度と出てこないのですが、最後の最後にその「影武者」が登場してブックエンドのように全曲をきちっと挟んでいます。

この曲を聴いて、ああよかったと満足できるのはそういうことだと僕は解釈しています。ソナタ形式にとらわれるから「序奏部が異常に大きい」と見えるのであって、これを「ブックエンド形式」と命名したいぐらいです。この元祖はベートーベンの交響曲第3番「エロイカ」です。バン、バンとEs-durが2発。あの曲は終楽章が変奏曲であり、もしエンディングが5番のように長々としていたら均整感を損なったでしょう。そしてチャイコフスキーは自らの遺書となった悲愴交響曲で、ロ短調の静寂の暗闇で全曲をバインドしています。

さて、演奏です。

まずこの曲に興奮し、打ちのめされてみたいという方。そういう入り方が普通でしょう、よろしいと思います。となると、抜群の運動神経の人のライブということになります。定評があるのはこのおふたりでしょう。

マルタ・アルゲリッチ/ キリル・コンドラシン / バイエルン放送交響楽団

587マルタさんの手が熊なみかどうかは知りません。たぶん違うと思うのですが、熊の手の男どもをなぎ倒す壮絶な演奏であり、ライブですから終楽章の入りなどミスタッチはあってもそれを補って余りある満足感を約束してくれます。本稿で難しいと書いた部分はすべからく煌めくような強いタッチで弾かれ、きき惚れるのみ。彼女のプロコフィエフの3番をカーネギーホールで聴きましたが、恐山の巫女もかくやの神憑り状態(失礼)はその場にいないと感じにくいです。本盤はマイクを通してそれがそこそこ体感でき、デリケートな部分も美しく、コンドラシンの伴奏も大変レベルが高い。総合点で優勝を争うものであることはだれも異論がないのではないでしょうか。

 

ヴラディミール・ホロヴィッツ / ジョージ・セル / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

019演奏技術というのはこのぐらいになるとマイクに入る入らないの問題を超越します。トスカニーニとの録音も有名ですが、さすがの暴れ馬も義父は怖かったのかこれに比べると借りてきた猫。どうせならやりたい放題、セルとの殴り合い風情のこれでしょう。細かい音型はオレ流で弾き崩しでもなんでもあり、デリカシーなどどこ吹く風。第1楽章第1主題、軽々飛ばすピアノに木管がついていくのにやっと。第2楽章中間部のあ然とするうまさ!超快速の重音のパッセージなのにピアノが悲鳴をあげるほど鳴りきっている。素人でも誰でもわかる。簡単です。ピアノがうまいんです。こんな人は人類史上あとはフランツ・リストぐらいだったのではと僕は想像しています。

ただこのタイプの演奏というのはここまで弾けてナンボのもの。捨てるものも多く、成功すればセンセーションですが未達だとただの安物に終わります。だから終始安全運転路線の人がたくさん出てきますが、それだとなんでわざわざこれを弾くの?ということになる。指揮者、オケにとっては客が呼べていい曲ですが、ピアニストにとっては有名な割に難しい、リスクが高い曲と思います。

僕がこの曲で大切にしたいのは第1楽章第2主題と第2楽章に若いチャイコフスキーがこめた抒情の表現です。特に前者。ここでなにも感じていないともう家に帰ろうかと思ってしまう。そういうのに限って第3楽章は快速で飛ばし、オケは軍楽隊みたいになります。そこまでのヘボの免罪符になるだろうとばかり。そして最後は演歌みたいに五音音階を安っぽく泥臭く歌い上げ全員が汗をぬぐう。

そんなものにブラヴォーなんかが飛び交うのは僕には到底堪えがたく、だからこのコンチェルトの実演はよほどの期待がない限り行きません。しかし残念なのは、そういうチープな演奏が跋扈するので「曲が安物なんだろう」というイメージが出来ている気がすることです。そうではないということを知っていただくために、もう2種類の録音について書いておきます。

 

ジョン・オグドン / ジョン・バルビローリ/ フィルハーモニア管弦楽団

984オグドンは1962年チャイコフスキー・コンクールでアシュケナージと優勝を分けた名手。昨今はこの曲で技術的問題を一切感じさせないピアニストも多いですが第1楽章第1主題を重戦車みたいにばりばり弾いてしまう人が多い。オグドンを聴いて下さい。そして肝心の抒情的な部分。同第2主題の止まりそうになるデリカシー、高音のきらめき、そしてバルビローリの葦笛のようなオーボエの愛らしさ、木管から紡ぎだすマジカルな響き! 終楽章は決然としたティンパニの一撃で入りますが決してあわてず騒がずスコアのポエジーを引出し、コーダの入りでフルートとチェロの対旋律をきっちり浮き出させてぐんぐん盛り上がる様は至芸。本当に良い音楽を聴いたという満足感で満たしてくれる大人の演奏です。こういう路線に満足しない人はアルゲリッチに、そしてその方向の極点に位置するホロヴィッツにいくしかない。この曲においてはその価値は認めつつも、僕は当盤に代表される方向において曲の真価が認知されるのではないかと考えております。

 

ユージン・イストーミン/ ユージン・オーマンディー/ フィラデルフィア管弦楽団

最後に本命です。まずお断りしますが、この録音は廃盤です。ディスクは手に入らないでしょう。音の冴えないネット配信でしか聴けません。しかしながら、これはスタジオ録音の完成度をもちながら何度聴いてもくめども尽きぬ喜びと最高の満足度のある真に驚くべき名演です。

欠点は2つあって、先に指摘した「第1楽章展開部の第388小節でsfのティンパニのh音でホ長調に転じる部分」の入りがやや速めであるうえオケの p が強すぎで憧れが不足するのと、なくもがなである第2主題の弦のレガートとポルタメントですが、どちらも指揮者の問題です。ピアノは一貫して最高であり、オケもそれ以外は全曲文句のつけようなし。その第2主題前後や第2楽章のピアノの詩情の素晴らしさは、あのリパッティのグリーグに匹敵すると言ってもいい。

速い部分、例えば第1楽章カデンツァ、第2楽章中間部の羽毛のような軽いタッチは一切曲芸にならず、天使が空にまいた金粉のよう。終楽章ロンド主題の2拍目を強調した跳ねるようなリズム、これが舞曲だという本質!ffの鳴りきった強靭なタッチ、第1楽章の難しい第1主題まで歌える技術!ホロヴィッツのようにピアニストのメカニックを感じさせない、まさに天衣無縫とはこのことでこっちのほうがもっと上であります。

それは近年のコンクール優勝者の演奏につきまとう、flawlessness(傷がない完璧さ)に第一義的目的があると感じる技術とは決定的に違う何ものかです。この演奏のピアノはあえてクリティカルに細かく聴けば微細な傷があります。しかし、そういうものを問題にする次元には決して成立することのない何か、チャイコフスキーやブラームスはきっと自分でこういうピアノを弾き、耳にしていたのだろうと思われる性質のものがある。

この曲のピアノ譜の難しさ(ブラームスの2番もそう)はそう書かないと出ない音を作曲家が欲したからそうなっているわけで、どうだ間違うなよ、完璧に弾けよなんてことは彼らはいっさい要求してないと思うのです。だからflawlessnessを大事と考える音楽教育は、ビジネスをやろうというのにいきなりコンプライアンスからはいるのと同じぐらい馬鹿げていて、本質を外した、はっきりいって間違った教育だと思います。

イストーミンはツアーに専属の調律師を連れていたそうですがこのピッチの良さは顕微鏡レベルでの調律の妙があるに違いなく、フィラデルフィアO.の管楽器奏者がそれに微妙に反応して最高級のピッチと美音で同化しているという魔法のような瞬間が続出、おそらく指揮者でもどうにもならないようなもの、音を出している音楽家同志の化学反応がこの演奏のファンダメンタルズをつくっていると感じます。演奏家の本能と音楽家魂を刺激するソリスト。僕がユリア・フィッシャーのメンデルスゾーンにきいたものと近い。こういう記録は稀有なものです。

それは優れた室内楽演奏と同様、リスナーに「くめども尽きぬ」音楽の喜びを与えます。アルゲリッチ盤、ホロヴィッツ盤は一期一会の記録として永遠の価値がありますが、録音として何度も賞味されるに足るかは疑問です。冒頭に「スタジオ録音の完成度をもちながら何度聴いてもくめども尽きぬ喜びと最高の満足度のある真に驚くべき名演」と書かせていただいたのはそういう意味です。どんな曲であれ、そんなレコードは世の中にそう多く存在するものではありません。

2年間フィラデルフィア管の定期会員だった30年前にオーマンディー指揮でこの協奏曲を聴きました。ピアニストがこの水準にはなくオケからこんな音は聴けませんでしたが、当時はこのオーケストラは良い時はたしかにこういう音でした。最近はもう別な楽団になっているようです。本稿のためにこれを聴き、あまりの素晴らしさにたて続けに3回聴きました。そんなことも、もうあまりないのですが・・・。これはピアニストの方にこそぜひ聴いていただきたい。こういうピアノを弾けば(コンクールで評価されるかどうかなど委細関わりなく)、世界は間違いなく感動します。

なぜなら、どういうわけか、こんなピアノはもう世界のどこでも聴けなくなってしまったからです。何が違うのか?教育なのか技術的なことなのかは知りません。でも決定的に異なり、もう聴けなくなった何かが存在するのです。こう文字にすると言いたいことが無機質になります。先週、屋久島で食べた生命力ある島野菜の強い味と、東京のコンビニに並んでいる色と形だけきれいに整った野菜の味の違いといった方が適確でしょう。僕ら音楽を聴きこんでいる聴衆はそんな野菜には食傷気味なのです。

既述のようにこの録音が驚くべきことに廃盤であり、バナナのたたき売りみたいにオンラインで300円で売られている。それをテクノロジーの恩恵だと喜ぶべきなのかどうか。お蔵入りするよりはましですが、どこか寂しいと感じるリスナーは僕だけでしょうか。音楽のネット配信普及が進み、日本は音楽産業の売り上げに占めるCDの比率がダントツ世界一だそうです。

音楽が「コンテンツ」としてお手軽な商品化する。するとそれを書いた人、演奏した人の才能や努力への敬意など軽々と吹き飛んでしまいます。我が国でCDがまだ売れるのは、その風潮に組みしない、本当に良いものはモノとして大事に所有していたいというリスナーが多いからではないか、という一抹の期待はもっています。

演奏というのは瞬時に音として消え去ります。しかしそれを録音したものは人間の高度で知的な営みを刻んだ記録として残りますし、なかでも本当に優れたものは作品自体がそうであるように「文化」として永く伝わるものなのではないでしょうか。しょせん音は音だ、モノじゃない。でもそれをモノとして大事にしたいという気持ちが文化を支えるのじゃないかと思います。

「いまさら名前も忘れられたようなピアニストの演奏なんか売れないよ、それなら少々へたでも若いイケメンか美人でしょ」というなら、それはもう本質はセックス産業にも通じるもののある芸能界の軽薄な消費文化とかわりがない。そうやって音楽作品がゲイノーのだしに使われることに僕は大きな抵抗があることは何度も書いてきたとおりです。しかし作品と真摯に向き合った記録として永遠の輝きを持つもの、それはまぎれもなく文化だと確信しております。

文化は皆が守らないと継承されません。この録音が300円で手に入ることは経済的にはまことに結構なことですが、300円の価値しかないとみなされてそうなっているのだとするなら、演奏の記録が文化だという概念はすでに腐蝕しつつあるのではないかと懸念を抱く次第です。世界中が、売る方も買う方も、クラシック音楽の真贋を見極める力が著しく落ちているということかもしれません。コンビニの野菜ばかりで育てばそういう舌になってしまうのです。

野菜のおいしさを次世代に伝える意味でも、供給者である演奏家の方々に大いに期待したいものです。

 

(補遺、2月11日)

ヴァレンティナ・カメニコヴァ /  ジリ・ピンカス /  ブルノ国立フィルハーモニー管弦楽団

59270年スプラフォンの録音。チェコの田舎で普通にやっている演奏会の風情が好きです。カメニコヴァ(1930-89)はウクライナはオデッサ生まれ。第2次大戦でシベリアに逃げているのでユダヤ系でしょうか。ネイガウスの弟子で結婚後の後半生はチェコに移民しました。僕は彼女のショパン、モーツァルト、ベートーベンが好きで愛聴しています。地味だが素晴らしいピアノ。著名ピアニストの派手派手しい演奏、空しい完全なだけの演奏が茶番に聞こえます。こういう滋養あるピアノこそ伝統に根ざした本物であります。オケも地味、録音も地味でなんらスターダムに登る要素なしですが、耳の肥えた人にはわかるものがあるでしょう。

 

 

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