Sonar Members Club No.1

カテゴリー: ______演奏家について

勝手流ウィーン・フィル考(1)

2013 MAY 4 19:19:34 pm by 東 賢太郎

 

 

51F737CVVDL__SL500_AA300_彼らが望むのは、死んだ指揮者や死にかけた指揮者ばかりで、他の指揮者には関心を払わなかった   (「レコードはまっすぐに」ジョン・カルーショー著)

デッカの大物プロデューサーだったカルーショーのこの本は実に面白いです。レコード会社のサイドから見たウィーン・フィルの生態が生き生きと描かれているからです。ビジネス書としても示唆に富み、このオーケストラに関心のあるかたにおすすめします。

 

48642030こんな感激を味わって、その上になお報酬をもらえるとは・・・・ウィーン・フィルのクラリネット奏者レオポルト・ウラッハがフルトヴェングラー指揮の或るコンサートの後で(「栄光のウィーン・フィル」オットー・シュトラッサー著)

シュトラッサーはウィーン・フィルのヴァイオリン奏者を45年つとめ、58-67年は楽団長の地位にあった人。この本はオーケストラの中から見た指揮者像、経営の内部事情、政治などが生々しく書かれています。以上の2冊でこの名門オーケストラがどういうものか、彼らが残した録音がどういう背景でできたかおおよその輪郭は知ることができるでしょう。

 

51GDlJZlw1L__SL500_AA300_

 

このシュトラッサーが第2ヴァイオリンとして活躍したバリリ弦楽四重奏団はこのような名録音を残しています。ウィーン・フィル団員がこのように室内楽団をつくる伝統はベートーベンの弦楽四重奏曲のほとんどを初演したイグナーツ・シュパンツィヒまでさかのぼり、ウィーン・フィルが作曲家のオリジナル演奏の遺伝子を脈々と継いでいることがよくわかります。

 

51PWkyjfqhL__SL500_AA300_フルトヴェングラーに感激したウラッハのクラリネットが聴けます。モーツァルトとブラームスの2大クラリネット五重奏曲です。ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団とのアンサンブルはミニ・ウィーンフィル と言っていいでしょう。全楽器がタテに合わせるよりヨコの歌を重視。誰が主役ともつかない自己主張、微妙に流動的なテンポと間、華と艶(あで)やかさのある音程の取り方、クリーミーで暖かい音色の肌触り。これらの独特のねっとりした甘さは五感を刺激してやみません。これがそのままウィーン・フィルの魅力になっているのです。

 

WienerMusikvereinQこちらはより新しい録音でウィーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団によるハイドン、モーツァルト、シューベルト、ブラームス。これとは違った流儀の名演はたくさんありますが、これは最高の美音で弾かれたもののひとつであり、何の違和感も抱かせません。のびやかに自然体で奏でられたウィーン流の演奏はやはり作曲家の出自にかなったものと思わされてしまいます。無言の説得力があるのです。

 

ウィーン・フィルはネコ型だ書きましたが、何が彼らを誇り高いネコ属にしているか、大きな理由はここにあると言っていいでしょう。

この人たちは土地っ子です。こうしてウィーン生まれの音楽を自分たちの流儀で毎日のように演奏しています。ウィーン・フィルというのは、こういう人たちの集団なのです。だからこの人たちの前に立ちはだかって、ベートーベンのカルテットの楽譜を出してよそ者があーせいこーせいと言ったところで「キミ、ところで誰?」と一蹴されるのが落ちでしょう。ウィーン古典派の大作曲家を千利休とすれば、ウィーン・フィルは表千家の家元と許状をもった弟子たちの集団と言ってそうはずれていないと思います。

この人たちは夜はウィーン国立歌劇場のオーケストラピットでオペラの伴奏を弾いています。国立ということは国家公務員ですから、給料はアメリカの一流オケより低い。そこで、アルバイトをしようじゃないかと組織したのがウィーン・フィルです。自主運営団体だから常任指揮者は置かず、団員の意見で誰を呼ぶか決めます。もちろん芸術的な相性を考慮するのですが、「死んだ指揮者」は呼べないし、相性は良くても客が入らず印税が稼げない指揮者では困るのです(なんといってもバイトですから)。

「和音は少しずれたほうがまろやかな音になる」と伝統的に考えているこのオーケストラに対し「私はそうは思わない」と真っ向から立ち向かったゲオルグ・ショルティは、最も好かれなかった指揮者のひとりでしょう。しかしウィーン・フィルは彼とワーグナーの「ニーベルングの指輪」全曲をデッカに録音してレコード史上に残る売り上げを記録しました。その制作上の裏話は前掲書に詳しく書いてあります。

c0039487_2291991

 

愛憎とビジネスは相反することもあるのです。

ショルティはハンガリー系ユダヤ人でありレナード・バーンスタインはロシア系ユダヤ人です。何より、指揮者としてこのオケに君臨した作曲家グスタフ・マーラーはチェコ系ユダヤ人です。ブルーノ・ワルターはドイツ系ユダヤ人ですが、相思相愛だった彼の遺産はこのオーケストラに相続されています。前掲書には「ユダヤ系指揮者は好きでなかった」とあるのですが、それが愛憎の直因であるほど事は簡単ではないということでしょう。こうした書物も著者の主観があり、一部の奏者に聞いただけの話かもしれず、流布している噂話も尾ひれがついていると思います。

どうせ主観なのですから、自分の耳で聴いたものだけを信じて、これから独断と偏見にもとづいて大好きなウィーン・フィルのことを書いてみようと思います。

 

勝手流ウィーン・フィル考(2)

 

ユリア・フィッシャー(Julia Fischer)の二刀流

2013 APR 28 23:23:28 pm by 東 賢太郎

目下、僕が気になっているヴァイオリニストが3人います。ユリア・フィッシャー(Julia Fischer、ドイツ)、イザべル・ファウスト( Isabelle Faust,、ドイツ)、ヒラリー・ハーン(Hilary Hahn、アメリカ)です。何故かぜんぶ女性です。ハーンはエルガーのコンチェルト(CD)で、ファウストは去年N響で聴いたプロコフィエフの1番でノックアウトされました。

今日は3人のひとり、ユリア・フィッシャーを聴いていただきたいと思います。この人はどうしてもライブを聴いてみたい。まず、メンデルスゾーンです。

彼女が「大好きな曲を弾いて幸せ!」と言わんばかりにオケにアイコンタクトしているのにお気づきでしょうか。オケ(特に木管奏者)が それを受けて、音楽する(Musizieren)喜びを音にして投げ返す。奏者の間を音と一緒に飛び交う「幸せ!」こそ、作曲家への最大の敬意でなくしてなんでしょう。楽譜から感じ取ったスピリットを皆が共有、交感しあっています。室内楽ならまだしも、大勢でやるコンチェルトでこういうのはあまりない。彼女の精神的影響力は尋常でなく、この人はあまり類のないすぐれたミュージシャンであると思います。

しかし、それだけかというとそうではない。そこに僕は感心しています。彼女はたぶんすばらしく理知的な女性で、自分の出している音をシビアに吟味している。まず自分に厳しい人だろうと思います。それはプロなんだから当然と思われるかもしれませんが、僕の聴く限り、普通の演奏家はさっと流してしまうとか、厳密に意識がそこに集中していないとか、少なくともそう感じる部分がどこかあるのです。経過的なパッセージでそういうことがおきても、聴く方もあまり気には留めません。

普通の演奏家どころかオイストラフやスターンだってライブだとそれが結構あります。人間のやることですから、常にパーフェクトということははないのですが、しかし商品化して繰り返して聴かれる録音の場合は問題です。そこでいざ録音となると今度は安全運転に意識が行ってしまい、演奏にパッションがなくなる人が、これも多いのです。ハイフェッツなみの技術があれば弾きとばしてもほつれは見えないかもしれませんが、そういう場合、弦楽器というのは特に音程が僕にはとても気になることが多いのです。先日某CDショップへ行くと自分のCDのプロモーションで男性ヴァイオリニストがパガニーニを弾いていました。曲芸のような曲であるのはまあいいとして、音程の悪いのには閉口して鳥肌が立ち、なかなか終わってくれないので諦めてその日は家に帰りました。

それは極端な経験でしたが、大まかに言いますと、世の中の弦楽器の録音は、パッションか音程のどっちかに不満があるケースが非常に多いのです。上記の名手ヒラリー・ハーンもメンデルスゾーンのライブがyou tubeで聴けます。比べてください。良い演奏ですが、僕の基準ではパッションが勝って音程が少しだけ甘い。技術的に下手なのではありません。彼女のメンタリティーというか、どこに重きを置くかということです。こういうことを一般に演奏の「解釈」と言いますが、それはハーンの解釈なのであって、優劣ではありません。それを聴き手のひとりとして、僕が自分に合う、自分のメンタリティーからして好ましいと思うかどうかということです。

結論として、僕のメンタリティーは、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトという題材においては、ハーンよりもユリア・フィッシャーに近いものがあるということなのです。僕はなにも演奏は完璧でなくてはならないと言っているわけではありません。そうではなく、そういう微細な部分に演奏家の性格、心のあり方、音楽観などが見えるわけです。「身なりは靴で見られる」とよく言いますが、ちょっとした経過的パッセージは弾きとばしておいて朗々とした歌で勝負するというようなメンタリティーの演奏家は、すべてのジャンルで僕はあまり好きでありません。

ユリア・フィッシャーを「まず自分に厳しい人だろう」と僕が想像している根拠はまず音程です。彼女は音程の甘さをヴィヴラートでごまかそうというアバウトな弾き方を拒絶しています。音程というのは、要はドレミファ・・・です。ピアノにこの問題は存在しませんが、それ以外の楽器には、ミの取り方という大問題があります。ハ長調のミはホ長調ならドです。ピアノでは同じ鍵盤でも、純正調で和音が変化していくと微妙に違う音に弾かなくてはなりません。ヴァイオリンが主役となる音楽。協奏曲なら、チャイコフスキー冒頭、メンデルスゾーン第2楽章、ブラームス第3楽章はぜんぶ出だしの音がミです。タイスの瞑想曲もそうです。ミをきれいに取ることがヴァイオリン音楽の華であり、命だということがおわかりでしょうか。

ユリアの音程への厳しさは自然に他の奏者たちに伝播して、オーケストラまで素晴らしい音程で鳴っています。耳のいい人たち、音楽が大好きな人たちの集団ですから、いいものが聴こえてくればいい音で返す。そういう音楽家の本能が掻き立てられているように感じます。こういうことは僕は室内楽の演奏、たとえばスメタナ四重奏団のモーツァルトやジュリアード四重奏団のバルトークなどで経験したことはあっても、ずっと大きな合奏体であるコンチェルトという場では、実に珍しいことだと感じるのです。

次はチャイコフスキーです。今日初めて聴き、驚きました。すばらしい技巧とデリカシー!ここでも彼女は作曲家の言いたいことに敏感に反応し、それがオケに伝播している様を感じ取ることができます。指揮のクライツベルグがそれに充分に共感し、コクのある音響でオケをユリアと同じ方向に導いています。録音も良く、これは同曲トップを争う名演CDといえるのではないでしょうか。

ユリアは現在30歳。21世紀前半、世界を代表するヴァイオリニストになることはまず間違いないでしょう。彼女の室内楽というのはすごく関心があります。カルテットをつくれば最右翼級になる資質という意味でも同世代のヴァイオリニストで群を抜いているし、その気になれば指揮者だってあり得るでしょう。

さて、ここまで書いてyou tubeを見ていると、さらにびっくりするものを見つけました。これです。

なんとユリアさん、ヴァイオリンを置いてグリーグのピアノ協奏曲を弾いちゃってます!これも立派なものです。ちょっとのミスはご愛嬌。彼女がこの曲を愛していることがハートでわかります。僕も愛してますから。そう、これはヴァイオリンじゃあ弾けないよね。ただ、クリティカルに見れば、指揮者がだめなせいが大きいですが、彼女は欲求不満がたまったかもしれません。

日本ハムの大谷くんの「二刀流」はどうなるかわかりませんが、彼女のは堂々と世界に通用してしまいそうです。おそるべき才能に脱帽!

(追記)

彼女のインタビューをきいて、最も尊敬するヴァイオリニストはダビッド・オイストラフであるということを知りました。僕にとって彼は音程が圧倒的に素晴らししい人であり、やはり最も好きなヴァイオリニストの一人であることはこれでお分かりいただけるでしょう。

クラシック徒然草-ヴァイオリン・コンチェルトの魅惑-

また、このブログでたまたま二人のCDをトップに並べておりますが偶然ではなかったかもしれません。

ハチャトリアン ヴァイオリン協奏曲ニ短調

やはりインタビューでユリアのお父さんが数学者と知りました。読みかえすと僕はこの3年前のブログに「理知的な女性で、自分の出している音をシビアに吟味している。まず自分に厳しい人だろう」と書いてますが、やはり後で知ったことですがアンセルメ、ブーレーズと僕がひとめぼれして影響を受けた演奏家が数学に関係ある人というのは何かあるのかと感じます。

 

(追記、3月14日)

バッハの音楽というのは楽曲解釈という次元において好き嫌いが生じにくいと思う。少なくとも、僕には生じない。ソロの曲はもちろんだが、管弦楽組曲のような音楽において、オーケストラ曲なのだから楽器のバランスとか強弱のコントラストとか、ベートーベンやブラームスだったら気になる物事が演奏の是非のファクターとして認識されていないことに自分で気づく。

それは楽曲の方が宇宙の調和の如くに、あまりに完璧に書かれていて、もちろんベートーベンがそうではないということではないが、誰にも真似られないバッハ的な完成度という意味において、演奏家がエモーションや個性というもので色付けを行う余地が随分と限られているからのように思う。

バッハの時代、調律は現代と違った。違ったから平均律(ほんとうはwell tempered、程よい具合に調律されたという意味)という名前の音楽ができた。バッハがヴァイオリンやチェロの単旋律で宇宙の広がりのような音楽を発想し書き留めたのは、調律(音律)そのものに宇宙の調和の原理を見届けていたからだ、とそれを聴いていつも僕は感じる。

「ユリアの音程への厳しさ」について散々書いたが、バッハの小宇宙を描ききるのにこれほど必要とされるものはない。楽曲解釈ではない、彼の楽譜にはその手がかりとなるものは何も書かれておらず、何が正解かを知る者もいない。厳密に正確な音階と、調性に応じたピッチの取り方と、我々の時代が伝統的と感じる明確なフレージングと、それ以外に音楽の生死を決する要素の何があげられるだろうか。

これは耳を研ぎ澄ませて味わうことできる演奏だ。

 

クラシック徒然草-ユリア・フィッシャーのCD試聴記-

 

 

 

(こちらもどうぞ)

クラシック徒然草-ハヤシライス現象の日本-

ユリア・フィッシャー演奏会を聴く

女の上司についていけるか?(ナタリーとユリアの場合)

クラシック徒然草-ユリア・フィッシャーと楽天マー君-

ヴィヴァルディ 「四季」

グリーグ ピアノ協奏曲イ短調 作品16

 

 

 

お知らせ

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

グリーグ ピアノ協奏曲イ短調 作品16

2013 MAR 24 17:17:53 pm by 東 賢太郎

日本では明治維新が起きていた1868年のことです。24歳のノルウェーの若者がピアノ協奏曲を書きました。そしてそれは音楽史に永遠に刻まれる傑作となりました。

220px-Edvard_Grieg_(1888)_by_Elliot_and_Fry_-_02

このことはあまり注目されていないのですが、24歳で書いた作品がその人の生涯の代表作となり、しかも世のそのジャンルの代表作として永く生き続けているケースというのはありそうであまりありません。

天才たちの24歳。

ベートーベンは作品1のピアノ三重奏、モーツァルトはイドメネオk.366、ベルリオーズはローマ賞に挑戦、シューマンは作品2の「蝶々」、ワーグナーはまだリエンツィも書いていません、ヴェルディもまだ作品なし、ビゼーは真珠とり、ドビッシーはローマ留学中、ラヴェルは「亡き王女のためのパヴァ―ヌ」、チャイコフスキーは交響曲1番作曲の2年前、ドヴォルザークは作品3の交響曲第1番、マーラーは巨人作曲の4年前、ショスタコーヴィチは「黄金時代」、プロコフィエフは「スキタイ組曲」、プッチーニは「妖精ヴィリー」、バルトークはピアノコンクールで2位入賞、という具合です。24歳というのは侍ジャパンのエース、広島カープのマエケンの歳なんです。

img06e9bfbbzik4zj

未完成(25歳)のシューベルト、バラード1番(25歳)のショパン、イタリア交響曲のメンデルスゾーン、ピアノ協奏曲1番のブラームスは早熟ですね。しかし後にさらに大作を書いています。もし一人だけ似た人を探すなら、28~30歳で3大バレエ(火の鳥、ペトルーシュカ、春の祭典)を書いたストラヴィンスキーだけかもしれません

imageグリーグもストラヴィンスキー(右の写真)も、音楽的には田舎であるノルウェー、ロシアの生まれ。イタリア、ドイツの伝統的な作曲法を学びつつも、自分の故郷の土の匂いのする語法をそこに盛りこんだという意味では意外に共通項があります。その語法が画期的だった上に、後世誰も模倣できない個性的なものだったから彼らの作品はそのジャンルの代表作となって生き延びているのです。

グリーグはピアノ協奏曲第2番を構想しましたがついに果たせませんでした。この曲があまりに存在感があり人気もあったからでしょう。ちなみにエジソンが録音機を発明して初めて録音されたピアノ協奏曲はこの曲でした(1909年にバックハウスのピアノで、たった6分に短縮されたそうです)。グリーグは愛するこの若書きのコンチェルトを生涯にわたって改訂し続け、300か所に及ぶ変更の最後の一つが書き込まれたのは彼が64歳で亡くなるわずか数週間前のことだったそうです。動機はともかくやはり作曲家の晩年まで何度も改訂されたストラヴィンスキーの3大バレエと似ています。

400px-Piano_Concerto_in_A_minor,_Op__16;_Introduction冒頭のティンパニ(!)に導かれたピアノによる4オクターヴ・ユニゾンの滝のような下降音型(楽譜・右)はあまりに有名で、クラシックに縁がなくてもこれを聴いたことのない人は少ないでしょう。グリーグは15歳の時にクララ・シューマンの弾く夫シューマンのピアノ協奏曲イ短調をライプツィヒで1858年(59年説もあり)に聴いて影響を受け、このコンチェルトを書いたという説があります。僕もそれを支持します。共に生涯1曲のものであり調性も同じで、この下降音型もシューマンをモデルにしたものではないでしょうか。

作曲して2年後の1870年にローマでグリーグはこの曲の自筆楽譜を携えてヨーロッパimageCAGXO46Y音楽界に君臨していた59歳のフランツ・リスト(右の写真)のもとを訪ねます。リストはそれを初見でオケのパート部分も含めて全曲弾き、聴いていた音楽家たちを仰天させましたが、グリーグは第1楽章が速すぎると控えめに指摘したそうです。そして第3楽章コーダでリストは手を止め「gだ、gだ、gだ、gisじゃないんだ!素晴らしい!」と叫び、そして弾き終えると作曲の才能を褒め称えてくれたとグリーグは両親に手紙を書いています。それは下の譜面(最終ページ)の4小節目、ナチュラルがついている「g(ソ)」のことなのです。

まさしく、この「ソ」にナチュラルがついていなかったら、この曲は凡庸なもので音楽史に名をとどめることもなかったでしょう。これを書いたグリーグの感性も素晴らしいですし、初見でそれを見抜いてしまうリストの眼力にはただただ驚嘆するしかありません。

このコンチェルトに封じ込められた旋律、リズム、和声の創意の才は尋常ではなく、僕は何度聴いても飽きるということを知りません。シンプルなのにおいしい、例えばカレーやラーメンみたいなもので、いくら食べてもまた食べたい日が来るという食べ物に似て13th_pic_02いるところがありますいや、飽きるどころか自分で弾きたいという欲求に駆り立てられており、最近はピアノに向かうととにかく第1楽章を少しづつ練習するのがルーティーンになっております。また、予想外の変ニ長調で始まる第2楽章アダージョのオケパートを弾くのも至福の時であり 、第17,19小節に出てくる「ため息」としか思えない(低い方から)e♭、b♭、c、g♭の和音や、ピアノが出る直前のホルンにそっと寄り添うデリケートな和音など、グリーグ以外に書いた人は誰もいなかったし後世にも出て来なかった奇跡のような瞬間を自分の指先で味わうと、ああ生きててよかったと思うのです。フルートがうち震えるように吹く第3楽章第2主題は高原の風のように涼やかで、それを受け取ったピアノが奏でて展開していく部分の最高にポエティックでロマンティックでエロティックな和声は誰のものともまったく違い、グリーグ自身もこんな神品は二度と書けていません。書けばきりがないほどマジカルな音に満ちているのがこの曲なのです。憑りつかれたら一生聴き続けるしかありませんからご注意あれ。

 

ディヌ・リパッティ (pf)/ アルチェオ・ガリエラ(cond.) / フィルハーモニア管弦楽団

51F1rAuFkML__AA300_古い録音ですが今でもこれをベストにあげる人が多いのではないでしょうか。異論なしです。リパッティのタッチの美しさは尋常でなく、技術的にも難所を軽々とクリアしていく様は空駆ける天馬のごとし。詩情、リズムの切れ味、力感どれをとっても満点でしょう。第3楽章第2主題の神々しく清楚でクールなこと!これを知ってしまうと他がちっとも清楚に見えなくなるというのも困ったものなのですが・・・(僕はいまだにそうです)。泣く子も黙る名盤中の名盤です。

 

フランス・クリダ(pf) / ズデニェック・マカル(cond.) /  フィルハーモニア管弦楽団

612-161昨年他界したリスト演奏の大家、マダム・クリダのタッチは硬質なクリスタルを思わせます。大概のピアニストが曖昧に弾きとばす部分も明晰に響かせるラテン的な感覚によるグリーグは魅力に富みます。第1楽章第1主題の付点リズムとスタッカートをこれだけ生かした演奏もなかなかないのですが、ここは自分で弾いてみてこのような跳ねるようなリズムが最もグリーグのピアノ作品、例えば抒情小曲集などと比べてしっくりくるのです。マカル指揮のオケも好演でクリダの透明感あるタッチによくフィットした音でサポートしています。

 

ラドゥ・ルプー(pf) / アンドレ・プレヴィン(cond.)/  ロンドン交響楽団

1300393827一言で、美演です。うっとりするほどただただ美しい。シューベルトの即興曲でも紹介しましたがこのルプーというピアニスト、天性の詩人です。フィラデルフィアでモーツァルトの17番の協奏曲を聴きましたが生でもその音の印象は変わりません。その資質はむしろシューマンの見事な第1楽章カデンツァに発揮されていますが、グリーグでも第3楽章第2主題はリパッティを除けばこれがベストです。プレヴィンのサポートも素晴らしく、第2楽章導入部のオケは今もってこれ以上の演奏を聴いたことはありません。触れれば壊れるほどの最高のデリカシーで吹かれるホルン!映画音楽みたいになるぎりぎりの所まで行っていますが下品に陥らないのはさすがプレヴィンです。

 

ハリーナ・ツェルニー・シュテファンスカ(pf) / ヤン・クレンツ (cond.) / ポーランド放送交響楽団 

51iOtyGWYkL__SL500_AA300_シュテファンスカは練習曲で有名なツェルニーの血筋で、ショパンコンクール審査員も務めるショパンの大家です。どこといって派手な所はなく正攻法のグリーグですが音楽の持つ魅力を何度も味わうにはこういう演奏の方がいいのです。リヒテルやルービンシュタインの演奏もあり、言うまでもなくそれぞれ技術的に見事なピアノなのですが、この曲のヴィルトゥオーゾ的な面が勝った印象があります。「うまい」というだけで、それがリパッティのように詩的な側面の印象に資するという感じがしません。この曲の場合そうなると詩情が消えてしまうのです。このシュテファンスカ盤はそれがいいバランスで達成されていて、名匠クレンツのオケも過不足ないサポートをしています。

追加しましょう(16年1月11日~)

 

アール・ワイルド / ルネ・レイボヴィッツ / ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

CD-50アール・ワイルド(1915-2010)ほど日本では等閑視された大ピアニストも少ないでしょう。このグリーグも評判になった記憶はまったくなく、米国のヴィルトゥオーゾ・ピアニストは彼にせよアビー・サイモンにせよ我が国の評論家に完全に無視され、その分、ホロヴィッツひとりが神格化されました。実に馬鹿げきった話であり何か商売の裏事情でもあったかと疑念を持つほどである。これは最高の名演であり深々したタッチのキレはもちろんのこと、緩徐部の詩情もリパッティ級に素晴らしい。もしラフマニノフがこれを弾いたらかくやという渇望を満たす水準のピアノです。12音音楽の泰斗レイボヴィッツの名前も正当な評価にバイアスとなったかと推察されますが最上質の抒情に何の不足もなく、そうだとしたら節穴の耳としか考えようもない。録音も良好であり、ワイルド、レイボヴィッツの名誉のためにもぜひ広く聴かれて欲しいと思います。amazonでearl wild griegと打ち込めばたった900円で入手できます。

 

(こちらもどうぞ)

シューマン ピアノ協奏曲イ短調 作品54

 

お知らせ

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

 

 

 

シューマン交響曲第3番「ライン」 おすすめCD

2013 MAR 23 0:00:26 am by 東 賢太郎

ライン交響曲のおすすめ盤です。

ベルナルド・ハイティンク/ アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

41pw3fRlPIL何の飾り気もなくスコアの改編も控えめです。しかし世界に冠たる名ホールであるコンセルトヘボウでそこを本拠とする名門オケが底力を発揮した筋金入りの名演。これを聴けばシューマンのスコアは優秀なオケの各パートがしっかりと「いい音」さえ出せばこれだけ鳴るのだということがわかる人にはわかるはずです。第1楽章はライン下りを経験した方にはまさにあの光景そのものと感じていただけるでしょう。指揮は盤石の安定感で音楽の流れに掉さすことは一切せず大河に身を任せ、コーダの悠然とした表現はこれ以外に考えられないほど素晴らしい千両役者の風体です。第5楽章の入りの裏で合いの手で鳴る何気ないホルンの素晴らしさ!まさに理想的でこうでなくてはシューマンの意図は生きないという絶妙なものです。マーラーのようにどうでもいい下らない部分に手を入れるような無粋なまねは一切せず、スコアの本当に大事な本質的かつ繊細な部分にきっちりと反応しているハイティンクの才能と音楽性には心から敬意を表します。これを録音したころのハイティンクは我が国では地味で堅実な中堅指揮者という低い扱いでした。しかし僕は83年にロンドンのロイヤル・アルバートホールでコンセルトヘボウO.でブルックナーの9番を聴きましたが会場を圧する一級品の出来で、欧州での評価も非常に高いものでした。日本の音楽評論家はレコードはたくさん聞いているのでしょうが、現実の欧州という文化圏の中でどれほど耳を肥やしているのかとても疑問に感じたものです。全4曲とも実に保守本流を行くオーソドックスな解釈で、ファーストチョイスに強くおすすめします。

 

カルロ・マリア・ジュリーニ / ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団

4000622マーラー版のスコアをベースにしたと思われ、金管にかなり手が入っています。しかしジュリーニのこの曲に対する強い愛情と思い入れがあふれる素晴らしい演奏で、何度聴いても深い感動を覚えます。オケの音もとてもロス・フィルとは思えない深々とした重厚なものでドイツ音楽として何の違和感もありません。滔々たるラインの流れそのものの第1楽章。厳粛なたたずまいがひときわ印象的な第4楽章。柔らかく開始して喜びを謳歌しつつ、決然とした結びに至って心から満足させてくれる終楽章。中間楽章でテンポを落としても緊張感が途切れる瞬間は皆無であり、指揮者がオケ全員の時間と呼吸までを完全支配することによってのみ創り上げることのできるがっしりした造形、そんなものが感知できる演奏というのは極めてまれにしか存在しませんが、この演奏は確実にその一つなのであります。全曲にわたって弦楽器のフレージングがとことん吟味しつくされていることからわかるように、曖昧でオケ任せの部分は皆無です。それがよくわかるということがこの演奏の最大の特徴と言ってもよいぐらい指揮者の個性が強く刻印された演奏なのです。シューマンの交響曲は3番しか録音しなかったという意味でもきわめて稀なカルロ・マリア・ジュリーニの入魂かつこだわりの逸品であり、必聴の名盤として強くおすすめします。

 

イェジー・セムコフ / セントルイス交響楽団

0000964893_350セムコフ(1928-)はポーランドのマエストロです。アメリカのオケから完全に東欧調の音を作り出しており、解釈も欧州のシューマン演奏の伝統にのっとった純正当な格調の高いものです。マーラー版に準拠していると思われますが不自然な強調がなく、むしろその鳴りの良さをプラスにして実に生き生きとしたラインとなっています。僕はアメリカ留学時代にオーディオセットがない生活の中で仕方なくカセットテープを買って聴いていましたが、その中で最も気に入って頻繁に聞いていたのがこのシューマン全集です。セムコフの演奏が隅々まで頭に焼きついていますが、特にこのラインは大好きで、83年のライン下りの時に脳裏で鳴っていたのはおそらくこれで、いま聴いても第5楽章の出だしのテンポと弦のフレージングはあらゆる録音でこれがベストと思います。演奏解釈として全4曲すべて満足できる出来であり、オケの技術、ホールトーン、録音とも不足は全くありません。演奏家の知名度のなさから廉価で売られていますがクオリティは高く、これでシューマンを覚えたとして何ら問題はございません。

 

ウォルフガング・サヴァリッシュ / ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

51Mzi31faQL__SL500_AA300_こちらは指揮者もオケも一流どころで非常に世評も高い演奏です。いぶし銀のオーケストラによるがっちりとした造形のラインです。このオケの美点である木のぬくもりを感じさせるシルクのような弦、音楽性のかたまりのようなフルート、オーボエ、味わいとパンチ力のあるティンパニ、そして何よりラインそのものを感じさせる名手ペーター・ダムを擁する朗々たるホルン!  しかし悲しむべきことに、今やこのオケはこの世界文化財とも思えた極上の音響を失って久しいのです。録音で聴く限りベルリンフィルやシカゴ響とさして違わない音になっていると言いますか、少なくとも一時期そういう方向性を指向したのではないかと疑わざるを得ない現象を感じて絶句したものです。イタリア人のシノーポリが音楽監督になってDGと契約したあたりがそれだったかと推察しますが、馬鹿げた勘違いも甚だしい世界的損失であり、ただただ怒りを禁じ得ません。ベルリンの壁崩壊の直後のことで、資本主義に毒されてお金に色気が出てしまった旧東独の文化遺産廃棄は日本の廃仏毀釈を想起させる愚行でした。このEMIのシューマン全集は、ルドルフ・ケンペによるリヒャルト・シュトラウス全集とともに、その悲劇が起こる前、19世紀までのドイツ音楽文化のタイムカプセルであった東独という国の練達の職人たちが入念に練り上げた、最高級の木質の音響による貴重なアンソロジーであります。サヴァリッシュの指揮は、楽譜にほとんど手を入れていないにもかかわらず不足感を感じさせず、シューマンのオリジナルが決してオーケストレーションの稚拙さで価値を損なわれてはいないことを実証した演奏としても意義があります。生気にあふれ、彼の四角四面のイメージとは違う表現意欲の強い演奏です。全4曲とも同様の完成度で、ぜひ全曲聴かれることをおすすめします。

 

アントニ・ヴィト / ポーランド国立放送カトヴツェ交響楽団

1300359503なんと500円の格安CDです。安物の装丁で駅の売店や書店でも売っています。しかし中身はぎゅっと詰まった立派なライン交響曲ですから、安心してお昼のお弁当代と思って買ってみてください。1944年ポーランドはクラクフ生まれの指揮者ヴィトはライン交響曲の良さを知り尽くしている風であり、スコアをあまりいじらず作曲家の意図に添って実に曲のツボを押さえた演奏をしています。だからこそ垢抜けないくすんだ音響になりますがそれがまたシューマンの魅力であり、コクのある第1楽章などすべてのCDの中でもトップを争う出来です。アメリカ化(オケのマック化)したピカピカの安手の音に毒されていない、東欧の古き良き鄙びた味わいを残しているのです。ヨーロッパの手作りのものというのは何であれいいものなんです。第5楽章が少し速いかなという程度で、全曲にわたって理想的なテンポとダイナミクスで演奏されているのでファーストチョイスとして考えてもまったく問題はありません。

 

アントニオ・ペドロッティ/ チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

794881351626ペドロッティ(1901-75)はイタリアの名指揮者で、ローマで学びレスピーギに作曲を師事しています。チェコでの活躍が長く、録音はあまり知られていませんが、やはりチェコフィルを振ったブラームスの4番は知る人ぞ知る名盤であり、師匠のローマの松と噴水も聴くことができます。このラインは1971年1月14日にプラハはルドルフィヌム内のドヴォルザーク・ホール(右下)でのライブです。このホールは1896年にドヴォルザークの指揮で幕を開けた名ホールで、僕はここでドヴォルザークの弦楽セレナーデを聴いたことがありますが、ムジークフェラインやコンセルトヘボウとはまた違った忘れられない見事な音響でした。このラインの録音はこの名ホールの残響も含めて非常に音楽的にセンスの良いものです。ペドロッティもジュリーニと同じくシューマンの交響曲録音は3番しかないのではないでしょうか。ティンパニを生かした骨太の活気ある筆致220px-Rudolfinum_concert_hallが両端楽章に最適であるうえ暗い部分では陰影に実に深みがあるという稀有な演奏です。第4楽章のあの最後の和音からアタッカ(切れ目なく)で突入する第5楽章!まさにこれだと快哉を叫びたくなります。リズムのタメの造り方も絶妙でチェコフィルがその持てる限りの美質を惜しげもなくつぎ込んで指揮者の解釈に奉仕するというレコードではめったに聴くことのない理想形がここにあります。このCDはたしかスイスで買ったもので初めて聴いたときから衝撃を受けました。ハルモニア・ムンディのフランス盤で、スメタチェック/プラハ放送響の1番がカップリングされています(こっちは凡演)。残念ながら廃盤になっているようでamazonで見ると18,000円という法外な値段になっていました。

ーリッヒ・ベールケ /  ライン州立フィルハーモニー

schumann1このLPは1983年8月1日にウォートンスクールの夏休みを利用して初めて欧州旅行をしたとき、まさにブログに書いたあのライン下りを経てザルツブルグへ行った折にそこのレコード屋をあさっていて偶然発見したものです。その時の狂喜を今でも懐かしく思い出します。Rheinische Philharmonieはラインラント・プファルツ州のコブレンツ市立劇場のオーケストラです。指揮者のErich Bōhlkeschumann2(1985-1979)はフンパーディンク、シェーンベルグ、トスカニーニに師事した作曲家、ピアニスト兼指揮者です。コブレンツ! この交響曲を演奏するのにこれほど地の利のあるオケもないでしょう。またR・シュトラウスやプフィッナーと親しかったというベールケの指揮はこの曲の解釈史を今に伝える貴重な文献的価値もあるでしょう。といっても特別なことは何もない演奏で、今でもドイツの田舎都市では地元のローカルオケが千円ぐらいで聴けるこんな演奏会を毎日やり、地元の(残念ながら主にじいちゃん、ばあちゃんが)散歩の帰りに普段着でぶらっと寄って楽しんでいる、そんな感じの演奏です(右下写真の一緒に買ったロベルト・シューマン・カルテットのシューマン3番とコダーイの2番も掘り出し物でした)。これを聴くにつけ、こschumann3の交響曲はウィーンフィルやベルリンフィルやシカゴ響がバリバリ弾けばいいというものではないという思いがますます強まります。クラシック音楽には伝統芸能という側面と純粋な芸術的価値という側面があります。ドイツ音楽はドイツ人しか演奏できないのであればとても間口の狭いものになってしまい今のようなグローバルな人気は得られなかったでしょう。僕は断然後者の立場に立ちますし、日本人や米国人の演奏するバッハやシューマンも同様に楽しんでいます。仮に英国人が歌舞伎を演じたとしても偏見を持つことはない人間です。しかし、そうはいってもそこには勘三郎の言った「型を破ることと形無しはちがう」という厳然としたルールが底流として横たわっている、そういう定義のもとに伝統芸能のグローバル化というものは初めて正しい文脈に則って価値を持ち得るのです。このベールケ盤がCD化されて広く世に出ることはまずないでしょう。演奏としては明らかにオケの音が一流でなく、一般受けする商品にはなり得ないからです。しかしこれとカラヤンやバーンスタインの立派な演奏と比べると僕はお寿司の海外での珍妙にして独自の進化?を思い出さずにいられません。昔は驚いたカリフォルニア・ロールなど今やかわいいもので最近はマヨネーズかけやマンゴー、イチゴまで具として登場しているそうです。売れればいいという商業化です。そうしてどんどん寿司の味のわからない人が増え、文化が消えます。文化は消費する側が作るのです。

最後に、個々にはあげませんでしたが、交響曲第3番「ライン」において比較的良い演奏をしている指揮者としてギュンター・ヴァント(NDR交響楽団)、ネヴィル・マリナー(シュトゥットガルト放送交響楽団)、ラファエル・クーベリック(ベルリンフィル)、朝比奈隆(新日本フィル)の名前を挙げておきましょう。この曲の好きな方は一聴をおすすめいたします。

 

(補遺、3月9日)

ラファエル・クーベリック / バイエルン放送交響楽団

91SkMWJFOHL__SL1430_まことにラインにふさわしいテンポで始まる。オーケストラの深い森のような弦もぴったりだ。この堂々たる第1楽章はハイティンク/ACO盤と双璧である。第2楽章はやや速めだがこれでよい。第3,4楽章はオケの精度とアンサンブルがACOより落ちる。第5楽章は僕としてはほんの心もち速すぎるが、心のひだが暗くなる部分でわずかにテンポを落すのは見事だ。金管がうるさくならない扱いも適切であり3番を振る大人の常識をふまえた演奏と思う。

 

(こちらもどうぞ)

シューマン交響曲第3番の聴き比べ(1)

シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97 「ライン」 (序論)

シューマン交響曲第2番ハ長調 作品61

クルト・マズアの訃報

ヴァン・クライバーンの訃報

2013 MAR 1 0:00:06 am by 東 賢太郎

審査員は審査終了後、ニキータ・フルシチョフにアメリカ人に優勝させてもよいか聞いた。フルシチョフは「彼が一番なのか?」と聞き、「それならば賞を与えよ」と答えた。(Wiki)

こうして冷戦下の1958年、ソ連が国威発揚のため設けたチャイコフスキー・コンクールで、しかもソ連の看板曲であるチャイコフスキー・ピアノ協奏曲第1番を弾いた23歳のアメリカ人が優勝した。

クライバーンの『チャイコフスキーピアノ協奏曲第1番』(コンドラシン指揮RCA交響楽団)(1958年)は、ビルボードのポップアルバムチャートで1位(7週連続)を獲得した唯一のクラシック作品である(2007年現在)。(Wiki)

このいきさつは中村紘子さんの「チャイコフスキー・コンクール」(中公文庫)に詳しいのでお読みください。当時の米ソ冷戦の緊張をはらんだ様相がリアルに伝わってきます。結局、世界を騒然とさせたクライバーンは大家の仲間入りを果たすことなく、一閃して消え去る花火のごとく燃え尽きてしまいました。

昔、阪急ブレーブスに山口高志という投手がいました。「史上最も速い球を投げた男」と言われながら4年で消え去った彼をどこか思い出してしまいます。クライバーンの上記チャイコフスキー、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2、3番などは、「最速男」だった頃を髣髴(ほうふつ)とさせる颯爽とした演奏です。

こう訃報が続くと寂しくなります。ご冥福をお祈りします。

ウォルフガング・サヴァリッシュの訃報

2013 FEB 25 23:23:14 pm by 東 賢太郎

強いていえば、何かアブストラクトな高貴なものに触れた心の衝動だ。それはブラームスが産んだものであり、ナヌートが目の前で再現したものだ。久しぶりにそこで音楽が産みだされ、生成されているのを感じることができた。こういう音楽を、僕たちの時代人はいつまで聴くことができるのだろう。

つい一昨日、こう書いた。そうしたら今日、そういう音楽を聴かせてくれたドイツの巨匠の訃報を知った。

1984年にフィラデルフィア管弦楽団とハイドンの104番、ヒンデミット「画家マティス」、ドヴォルザークの8番、エルガーVc協(ポール・トルトゥリエ)、ブルックナー交響曲第2番、85年にロンドンでフィルハーモニア管弦楽団とカルミナ・ブラーナ、2004年にN響とベートーベンの7番。これが僕がサヴァリッシュを生で聴いたすべてだったと思う。

カール・ベーム亡き後、ドイツの保守本流をいった人だが、ベームよりさらにレパートリーはドイツ中心だったように思う。奇をてらわず常に正攻法であり、風貌もまじめな銀行員というお堅そうな印象のためだろうか、壮年期の日本での評判はいまひとつだった。しかし大学時代の当時LPで買ったシューベルトの交響曲やメンデルスゾーンのイタリアやモーツァルトの魔笛を僕は愛聴したし、何といっても、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団を振ったシューマンの交響曲全集こそは、今になっても凌駕するもののない逸品として僕のLPレコード棚に君臨し続けているのである。

このシューマンでサヴァリッシュが産みだしている造形は信じがたいほど堅固であり、ドレスデンのいぶし銀の光彩を放つ弦、蠱惑的な木管が生み出す歌、朗々たるホルン、ヴァイオリンにユニゾンで重なるフルートの極上の愉悦感、ティンパニのはじけるようなリズム感と古雅な音色、どれをとっても「最高級のオーケストラ演奏」であると言ってまったく過言ではない。僕はこの演奏によって、ドレスデン・シュターツカペッレという天下の名器とでも表現するしかない老舗オーケストラに、永遠に魅惑される運命に陥った。演奏の細部がどうのという次元の楽しみではなく、シューマンの音楽そのものにひたっている幸福感がひたひたと心に満ち溢れ、それこそそれが永遠に続いてほしいと願うしかないような喜びを与えてくれる。

これはシューマンのシンフォニーのような音楽の演奏としてはあまりない体験であり、優れたバッハの演奏でしかおそらく経験のない、要は演奏者の個性はあまり印象にない、しかし聴いた後にずっしりとした音楽的充足感が残るという稀有の性質ものだ。何かドイツ音楽というものだけが醸成している固有の完結した世界、一つの有機体とでもいうべきロジカルな存在、それに明快で簡潔な数学的な解を与えられたような印象がある。こういうことはベームでもカラヤンでもないことであり、僕はそういう印象を、こともあろうにロンドンで聴いた彼のカルミナ・ブラーナでも抱いたのである。

CDになっている彼のブラームスとベートーベンの交響曲全集もそれに近い成果を上げている。特に、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団という、これもドレスデンSKと性格は違うが同じほど素晴らしい個性を持つ名門オーケストラを振ったベートーベンは、演奏としては何一つとして変哲ないが、僕が世界で最も愛するコンセルへボウという音楽堂のそれ自体が芸術品である音響を見事に活かした演奏であるという点において、特筆すべき価値を有している。

こういう本道の演奏が、妙な変哲を売り物にした奇演に駆逐されていくとすればクラシック音楽はいずれグレシャムの法則にのっとって質的に衰退していくだろう。僕が世界第1号機を買った米国ホヴランド社製のパワーアンプ「ストラトス」は、某オーディオ評論家が誉めながらも「音楽的で本格派だから売れないだろう」と書いていた。まったくその通りだろうが、そこで「だから」となってしまうのが日本の悲しい所だ。このアンプで鳴らしたサヴァリッシュのベートーベンは、まったく皮肉なことに、最上級の意味において音楽的で本格派なのである。

2004年11月、最後の来日となったN響とのベートーベン7番は忘れられない名演で、もう耳にタコができてしまっているこの曲にもかかわらず、まさにそこで音楽が生成されているという現場に立ち会う幸福感にひたらせていただいた。余分なことは何もしないということのぎりぎりの美しさを教えていただいた。ほんとうに、これからは世界のどこの誰が、あんな風な立派なベートーベンを聴かせてくれるのだろう?

昨日のように思い起こすかなりご高齢だったお姿と、生気に満ちあふれたその日の7番の感動の記憶が、どうもひとつの点においてうまく交差いたしません。

 

心よりご冥福をお祈り申し上げます

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

アントン・ナヌートのブラームス4番

2013 FEB 23 22:22:36 pm by 東 賢太郎

最近、コンサートでいいと思うものが少ない。やはり自分の楽曲の記憶を作った大指揮者の演奏、海外各地で16年聴いてきた重みのある演奏の記憶というものと無意識に比べてしまうからだろうか。

今の指揮者たちの演奏というのは傷がない。きれいに整っている。楽器間のバランスもいい。オケの難所はよくトレーニングされている。曲のツボと盛り上げどころを知っているから、その曲なりには感動する。だから、今日はひどいのを聴いた、外れだったというのがない。お義理のブラヴォーぐらいは常に一定量が飛んでもいいぐらいの、ほぼ予定調和的な満足感は保証付きなのだから、もう一度足を運んでもいいかな、まあそのぐらいの感じにはなる。

しかし、どうも、僕にはそこで音楽が産まれ、生成されている感じがしない。海外で何度か目撃した「事件」、たとえば、目の前で尋常ではない精神活動が営まれて、名手たちが電気でも走ったように反応し、一期一会の集中力で誰のせいでもなく150%もの結果を出してしまった、とでも表現するしかない奇跡的な現象は、残念ながら今の日本の演奏会場で起こることはとても期待薄なのではないかと思う。

これはどういう理由でそうなってきているのだろう?ひょっとして  「ブラームス4番、お客が喜ぶ指揮マニュアル」 みたいなものがあって、ここはこう振れ、ここはこう盛り上げろなどと長年の演奏tips(秘訣、ツボ)でも書いてあるんじゃないかと疑うぐらいだ。Tip1・フルトヴェングラー型、Tip2・ワルター型・・・などとstereotype(陳腐な定型)と化しているんじゃないかと。

学生時代にアメリカはグランドキャニオンへ行った。自然の驚異に心底感動した。高所恐怖症なので1000メートル垂直に切り立つ崖はこわかったが、近づいてみるとちゃんとバリアが張ってあって安全だ。落ちようがない。こういう「絶対安全」を保障された状態で感じる「自然の驚異」というのは、僕はその時そう感じたのだが、実はまがい物だ。あれを発見した探検家に、そんな保証はなかった。彼の感じた驚異は本物だ。

どうも最近の指揮者の演奏は、「絶対安全」「落ちようがない」場所から眺めるキャニオンに似て、昔日に僕が感じたまがい物の感じを覚えるのだ。聴衆はブラームス峡谷という景色を見に来た観光客であり、怪我されては困るし、崖までの距離から角度から全部が主催者に計算されたものを見せるだけも充分に「自然の驚異」を感じて帰ってくれるだろう。そうだろうか?いや、そうならば家でCDでも聴いていればいいんじゃないか?

ストラヴィンスキーから春の祭典のスコアを受け取った初演指揮者ピエール・モントゥーがそこに見たものは、バリアのはってないグランド・キャニオンそのものだ。落ちたら即死だ。でもそれから1世紀がたって、今はtipsが確立している。バリアが張られ、学生オケでも安全に弾けてしまう。聴く方のハラハラもない。そこで演奏されている春の祭典は、はたしてモントゥーやアンセルメの時代と同じ春の祭典と言ってしまっていいのだろうか?

前置きが長くなったが、アントン・ナヌートが紀尾井シンフォニエッタを振ったブラームス4番は久々にそんなことを考えさせる演奏だった。僕はこの曲をよく知っている。何百回も聴いている。ピアノでも弾いている。だから少々のものをいまさら聴いても、自分の中で何かの生体反応が起きることはほとんど期待もできない。しかも悪いことに当日は仕事疲れでだるく、気分的にもすぐれず、前半プロはジークフリート牧歌の一部を除き、大変失礼ながら夢うつつでほぼ失念した。

しかし結果として、そんな最悪の状態でこの4番を聴いて、第1楽章が終わると胸が熱く、不覚にも涙があふれ出た。以後は音楽に集中でき、毎度ある自分の席で聴くバイオリンのトゥッティへの不満はここでもあったが、それを払拭してくれるほどの大きな満足感を与えていただいた。81歳のナヌートはこの音楽をお客さん向け安全志向とは程遠い位置から眺めている。ベートーベンの角度に位置する視点から古典派交響曲の精華として。

後期ロマン派寄りに解釈されがちな第2楽章も無用にそちらによることはない厳しいものだ。そう聴こえない第1楽章だって、僕はピアノで弾いて気がついたのだが、ドからシにいたる12音すべての長、短調和音が出てくるという意味で非常に後期ロマン派音楽の相貌を内に秘めている音楽なのである。しかしナヌートはそっちへ接近することを自ら断っている感じがした。一つの見識であり、それはおそらく、彼がバリアの張ってないキャニオンに立って感じ取った「自然の驚異」だと思う。

オケはホルン、ティンパニ、クラリネット、フルートが良く、第1楽章でナヌートの速めのテンポに弦がやや先走ったのを除けばいい演奏であった。第3楽章はトゥッティが良く鳴り、合奏のリズムも明晰であった。第4楽章は寒風吹きすさぶ風情の厳しい表現だった。ヴィースバーデンで若い女に恋した第3番ヘ長調のブラームスはもういない。バッハのパッサカリアという厳格な古典作曲様式に回帰して自らの全交響曲を閉じると決断したブラームス52歳のメッセージはそういうものだ。コーダはピウ・アレグロになって疾走してあっけなく終わる。まさしくこれが4番である。

しばらく涙は止まらず、悲しいわけでもないのに、これは一体なんなのだろうとしばし考えた。わからない。具体的な理由は何も思いつかない。強いていえば、何かアブストラクトな高貴なものに触れた心の衝動だ。それはブラームスが産んだものであり、ナヌートが目の前で再現したものだ。久しぶりにそこで音楽が産みだされ、生成されているのを感じることができた。こういう音楽を、僕たちの時代人はいつまで聴くことができるのだろう。

 

(こちらへどうぞ)

ブラームス ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15(原題・ブラームスはマザコンか)

 

 

ソウル出張から帰りました

2013 FEB 1 23:23:09 pm by 東 賢太郎

昨日朝6:30に羽田空港で会議、8:25のJALで飛んでから今朝の朝9時の便で金浦空港を発つまで、そう予定したわけではないのですが、1分たりともロスのない完璧な出張でした。こんなことは人生で初めてです。SMCを始めたのが去年9月ですが、ちょうど同じ頃から手掛け始めた重要案件が昨日ついに決着しました。57歳最後のビジネスデーですがいい形で終われました。

これは仕事とは違うのですが、韓国トップのオーケストラであるソウル・フィルハーモニーの元CEOとも会い、1時間ほど興味深い会話をしました。音楽監督のチョンミュンフンのことです。彼はチャイコフスキーコンクールで2位という名ピアニストなのに何故指揮者に転向したのかときくと、徹底した完全主義者だからという答えが返ってきました。弾けば弾くほど自分のピアノに満足できず、そのうえ年齢と共に衰える技術をキープすることを断念したのだそうです。たしかに指揮は肉体が衰えてもできますが、音を出さない分音楽を読むことが求められるので毎朝3時に起床してスコアを読んでいるそうです。ご実家は料理店でご両親は音楽家ではありません。母親の英才教育で世界的なバイオリニストであるお姉さんのチョンキョンファと彼を輩出したのはゴルフやアイススケートなどを連想しますね。彼も料理は玄人はだしだそうです。

完全主義者の気持ちはよくわかります。長所にもなるのですが、度を超すと自分でも困ったものでもあるのです。彼の指揮する音楽にどこか共感を持った理由がわかりました。彼は2012-13のシーズンからドイツの老舗である「ドレスデン国立歌劇場管弦楽団」の首席客演指揮者に就任し、同楽団とザルツブルグ音楽祭にも呼ばれています。4月にはイタリア・ヴェネツィアの名門でヴェルディのリゴレットや椿姫を初演した「フェニーチェ歌劇場」を率いて来日します。現在ではアジア人で世界で最も輝いている指揮者であり、着実に大家への道を歩んでいると言っていいでしょう。この来日の折に東京で彼に会わせてもらうことになりました。とても楽しみです。

 

 

 

 

 

レナード・バーンスタインのお告げとしか考えられない出来事

2013 JAN 27 2:02:39 am by 東 賢太郎

昨日はN響定期でNHKホールへ。僕は定期の曲目は事前に見ません。鮨屋の「おまかせ握り」と同じで、出されたものをおいしくいただく主義です。ホールで今日のプログラム(下)を開けてみて、仰天しました。1月18日にアップしたブログ、「カッコよかったレナード・バーンスタイン」をお読みいただいた方はお分かりになると思います。昨日の前半のバーンスタイン作曲の交響曲第2番「不安の時代」(Age of anxiety)は、あの1984年4月22日にカーチス音楽院演奏会のプログラムの後半を飾った曲なのです!長い人生でこの「不安の時代」がコンサート演目にかかったのを目撃したのは、後にも先にも、この2回しかありません。それほどレアな演目なのです。これが日本で演奏されるのも、何年に1回あるかないかだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

N響のプログラムを知っていてあのブログを書いたということは一切ありません。偶然なのでしょうが、そうだとしてもその確率の低さは半端ではないと思います。カーチス演奏会での前半の「チチェスター詩編」の因縁に驚いたのは、そのブログに書きましたので是非お読みください。その9日後に今度は後半で驚かされるとは、もう何か霊的なものすら感じざるを得ません。僕は、誰も信じないと思いますが、ウィーンでモーツァルトに「呼ばれた」としか考えられない不思議な体験をしています。今回はバーンスタインがそれだったのでしょうか?

「不安の時代」はピアニストのステュアート・グッドイヤーが高い集中力と、どこかスピリチュアルな感性で好演し、「仮面劇」あたりから聴衆のテンションが上がり始め、感動的なエピローグで信仰心に似た充足に至ったのをホール中に感じました。こういうことはめったにありません。この客席の集中力とテンションは後半のショスタコーヴィチにも伝染し、第1楽章は非常な名演。第3楽章はベートーベン第九の第3楽章の精神を20世紀に繋いだ名品ですが、普段はパッシブなN響の弦からアクティブなオーラが立ちのぼり、第4楽章では普段は草食系のオケが肉食系に変貌して見事な集結に至りました。ジョン・アクセルロッドの指揮に接するのは初めてでしたが、有望株かもしれません。

 

(こちらへどうぞ)

僕が聴いた名演奏家たち(ニコライ・ゲッダ)

 

ブラームス 交響曲第3番ヘ長調 作品90

 

あなたは完全に愛されている

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

クラシック徒然草-名指揮者カルロ・マリア・ジュリーニについて-

2013 JAN 22 1:01:52 am by 東 賢太郎

マリア続きですいません。このエピソードは僕でなく友人の話なのですが。

彼がアムステルダム・コンセルトヘボウでジュリーニを聴き、終演後に近くのホテルの薄暗いバーで一人飲んでいると、そのジュリーニがふらっと入ってきたそうです。客はその二人しかいなかったそうで、おそるおそる自己紹介し、サインをもらおうと自分の名刺を出しました。ジュリーニは彼の名刺の日本語と英語の両面を何度も裏返しながら、しばらく何かじっと考えていたそうです。いったいどうしたのかと思っていると、ポツリとひとこと、

Which side do you want ?

と英語で静かに尋ねられたそうです。僕はいかにもジュリーニらしいこのエピソードが大好きです。

僕自身、ロンドンで彼のバッハ(ロ短調ミサ)やベートーベン、ロッシーニを、アムステルダムでフランク、ラヴェルなどを聴きました。もっとも「貴族的」な雰囲気を持った指揮者は?と言われれば僕はジュリーニを挙げます。むかしノムラロンドンの特別顧問にサー・ダグラス・ワスという方がおられました。元大蔵次官で、英国の貴族を絵にかいたような気品と教養とアクセントのある方で、いろんなことを教えてもらいました。第2次大戦では暗号解読部隊にいらした話まで。

ジュリーニのイメージはサー・ダグラスにダブります。クラシック音楽はもともと貴族の楽しみでした。それをそういう風に演奏するということがいかに難しいかということは、昨今そういう演奏についぞ触れることがなくなってしまったことでわかります。もちろん聴衆が多様化するのはいいことなのですが、ビジネス原理が入り過ぎて真に高貴な要素まで永遠に失ってしまうとすれば大変に残念です。

                                                                                 昨日たまたまですが、久しぶりに彼のブラームス4番を聴いてつくづくそう思いました。テンポは遅めで、興奮したりロマンに耽溺したりすることはありません。第1楽章コーダで何かが乗り移ったかのように激するフルトヴェングラーとは対極的に、音楽の骨格を崩すことは一切ありません。その遅さでこそ見える、ブラームスが書き込んだ熟達の抑制の美こそ彼が描きたいものだからです。ウイーンフィルの弦が内声部まで鳴りきり、歌いきっていて、全曲が終わって残るのは、ただ  「いい音楽を聴いた」  というずっしりした手ごたえだけです。クラシック音楽でしか味わえない最高の喜びがここにあります。1点集中型で熱い興奮を誘うアプローチのフルトヴェングラーはこの曲と1番では大成功しており、それはそれで感動的なのですが、僕はそれはポピュリズムたり得る要素ではあっても真に高貴なものとは感じません。例えば彼は3番では終楽章の主部で全開したエネルギーが空転して行き場がないまま終わってしまいますが、ジュリーニは3番も、4番と全く同じアプローチで感動的な演奏になっています。ブラームスの交響曲には、あざとくは目だたないけれども真に高貴な精神の高揚がほのかなロマン性に包まれてひっそりと提示されるようなものが内在しており、ジュリーニのアプローチが自然にそれを拾い出して次々と味あわせてくれる醍醐味は汲めども尽きぬものです。

このシューマンの第3交響曲、通称「ライン交響曲」も大河のごとき悠然としたテンポで開始します。彼がこの3番しか振らなかったどうかわかりませんが、僕はこれ以外知りません。3番は大変な傑作なのですが、演奏効果の面からか実演であまりお目にかからず、大指揮者も振ってない人が多いのです。振ってもうまくまとめるのは至難と思われ、トスカニーニやバーンスタインでさえ駄演に終わっています。ジュリーニが、なぜ彼がやらないのかむしろ不思議な1,4番ではなく、そういう難曲の3番だけをあえて取り上げたのかとても興味深いところです。本来こういう曲かと問われればやや違うアプローチなのですが、その風格、品格と音楽性で誰もを深く納得させる演奏に仕上がっています。ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団というアメリカンなイメージの強いオケから何とヨーロッパ調の音を引き出していることか。ブラームス同様、やはりこのテンポでしか見えない細部や内声部の味わいがゆるぎない堂々たる骨格の中でつぶさに吟味されている様は、クラシックがどんなに大衆化しても忘れてはならない里程標を後世の我々に残してくれているとさえ思える名演奏です。

ジュリーニの残した名盤はまだまだありますが、彼はブラームスを例外として、「全集」を作る人ではありませんでした。自分の気に入った曲しか振らない贅沢が許された、その意味でも貴族的な指揮者でした。

ロス・フィル時代にアシスタントを務め、ジュリーニを師と仰いで敬愛する韓国の巨匠チョン・ミュンフンはこう言っています、

音楽家としてマエストロは、音楽に奉仕するため、そして音楽を通して人類に奉仕するための「聖職者」のイメージに限りなく近い人物であると私はいつも思っていた。

僕は音楽をエゴの道具とする演奏家は聴きません。こちらも時間を費やし、人生をかけて聴く意味を何ら感じないからです。そういう演奏家はおそらく亡くなると忘れられます。しかしこの「聖職者」たる演奏家は、その世代の演奏家しか知りえない、その作品の演奏のエッセンスにかかわる秘技を後世に残します。だから永遠に聴き続けられます。そういうスクールに属する、今や絶滅危惧種とも思われる貴重な演奏家の一人として、このチョン・ミュンフンを僕は非常に注目しています。彼が2008年に振ったN響Aプロのブルックナー7番は忘れがたい名演で、NHKホールでこのオケの弦があれ以上美しく聞こえたことはありません。いま、曲目を問わず聴いてみたい指揮者5人に入ります。こういう素晴らしい後継者を残すのも、やはり 「聖職者」 なのだと思います。

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊