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カテゴリー: ______音楽と自分

クラシック徒然草-初恋のレコード-

2013 JUN 8 0:00:00 am by 東 賢太郎

高校時代、安物のステレオセットでしたのでFM放送はスピーカーの音をテープレコーダーにひろっていた頃があります。ある日、そうやってN響の春の祭典を録音していると、ある部分で、外で遊んでいる子供の「あっ!」という声が入ってしまいました。それ以来不幸にも、春の祭典を聴くたびにその部分にくるとその「あっ!」が聴こえるようになってしまったのです。もちろんそんな声が本当にするわけではなく、そのテープを繰り返し聞いて焼きついた僕の記憶がフラッシュバックとして再生されてしまうのです。

僕の春の祭典メモリーはブーレーズ盤によって初期化されていますが、実はこうやってどんどん追加情報がインプットされ、蓄積メモリーのすべてが耳で聴いている音楽と同時進行でリプレーされていることがこの経験でわかります。耳で聴いている演奏と記憶リプレーとをリアルタイムで比べて吟味している自分がいるわけで、ずいぶんと複雑な情報処理を脳内でやっているわけです。同曲異演を味わうというのはクラシックにきわだった特徴ですから、「この情報処理回路を持つ=クラシック好きになる」という仮説を立ててもいいと思います。

耳が聴いた音楽>記憶リプレー、という場合にだけ、「今日の演奏会は良かったね」という言葉が初めて出てくるわけで、この「記憶」が膨大で過去の大演奏家の演奏メモリーがぎっしり詰まってくると、少々の演奏で感動することは難しくなってきます。難儀なことです。ちょっとテンポが速かった遅かった、オケがうまかった、迫力があった、舞台が豪華だった、ピアニストが美人だった、要はそんなマージナルなことで評価が揺らぐことはありません。

相撲の世界で、横綱は蹴たぐりや引き技で勝てばいいというものではないといわれます。いわゆる「横綱相撲」が要求されます。うるさいお客さんたちは過去の名横綱の残像と比べて一番一番をじっくり見ているわけです。クラシックの世界も似ているのではないでしょうか。僕と春の祭典の関係でいうと、まずいきなりブーレーズ盤という超弩級の大横綱の相撲が記憶に焼きついたため、あとから聴いた演奏は全部「横綱にあらず」「不合格」という烙印が脳裏で押されてしまうという悲しい歴史をたどっています。

41SPKGNK6SL__SL500_AA300_ブーレーズ盤は10秒単位ごとに「すごい部分」を書き出せるほどすごい演奏で、一方でそのぐらい微細で正確なメモリー(残像)が自分の頭に入っています。だからもう新しい演奏は意味ないのです。100年たってもこれに勝つ人が出るとは思えないし、ブーレーズ本人のライブでさえ完敗だったので、いまさら誰かの春の祭典を聴きに行きたいなどという自分はどこにもいません。聴きたくなったらもちろんこれを取り出すだけですし、何度聴いても鳥肌が立つほど感動させてくれるのです。

こう思うと、最初に「惚れた(ほれた)」演奏というのはけっこう影響が大きいと実感します。初恋の人ですね。これからクラシックを聴くぞという方に申しあげたいのは、その曲を誰の演奏でまず聴くかをこだわった方がいいということです。前述のようにメモリーは日々更新されるからそんなことはないという意見もあるかもしれませんが、僕が今でも親しめていない音楽は出会いが良くなかったかなというケースが多々あります。そういうことを踏まえながら、ブログを書いていこうと思っています。

クラシック徒然草-3枚のLP音盤-

2013 JUN 3 20:20:33 pm by 東 賢太郎

中古レコードを買いました。1枚目はチェコのスプラフォン盤でモーツァルト(ピアノ協奏曲第9番とハ短調ソナタ)、オケはカレル・アンチェル指揮チェコフィルハーモニー、1960年ごろの最初期のLPレコードです。

チェコ人にとってモーツァルトは特別のようです。交響曲第38番は「プラハ」だし、オペラもドン・ジョバンニや皇帝ティトの慈悲もプラハ初演。フィガロの結婚が最も愛されたのもプラハです。このジャケット、モルダウ川の冬ですが、実にいいですね。これを買ったのはピアニスト、ヒューゴ・シュトイレルとパヴェル・シュテパンが聴きたかったからです。最高でした。この頃のチェコの演奏、チェコフィルもスメタナ弦楽四重奏団もそうですが、音に暖かみがあり、きりりとひき締まったもぎたてのレモンのような切れ味があるのですが、この二人のピアノもまさにその路線です。こんなモーツァルトを今どき誰が弾いてくれるだろう。スプラフォンという当時国営のレーベルの録音もそれを活かす独特の色合いがあります。LPの時代はソ連のメロディア、ハンガリーのフンガロトンなど共産圏レーベルごとにお国ものの味があり面白かったのです。

2枚目です。これはにぎやかですね。ドイツ・グラモフォンのフランス盤で、これも1960年前後のものでしょう。「ロシアのこだま」とでもいったアルバム名でしょうか。A面はドレスデン・シュターツカペッレをクルト・ザンデルリンクが指揮したボロディン交響曲第2番。B面はルイ・フレモー指揮モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団によるグリンカの「カマリンスカヤ」、イーゴル・マルケヴィッチ指揮コンセール・ラムルー管弦楽団のボロディン「中央アジアの草原にて」、グリンカ「ルスランとルドミュラ序曲」、リヤードフ「交響詩ヨハネの黙示録より」です。フランス人のジャポニズム(日本好き)は昔から有名で、浮世絵にはじまって今はパリの日本アニメ博覧会に200万人も押しかけるというから半端ではありません。また彼らは大のロシア好きでもあって、だからこそバレエ・ルッス(ロシアバレエ団)がパリで人気があり、あのストラヴィンスキーの3大バレエが生まれたのです(この原色的なジャケットを見ているとペトルーシュカを書く彼の心象風景のようなものが浮かんできます)。フランス人はエキゾチックなもの好きなんですね。しかしエキゾチック過ぎたのでしょうか、よく見るとスペルが間違っていて「カマリンスカヤ」が「カラミンスカヤ」になっています。細かいことは気にしないラテン気質、微笑ましいです。

そして3枚目。ノルウエーの作曲家、ヨハン・スヴェンセンの交響曲第1番ニ長調です。オランダのフィリップス盤で、1960年代のLPと思われます。2枚目のジャケットと比べると何と地味なことか。フランスと北欧の違い、ラテンとゲルマンの気質の違いがわかりますね。オド・グリューナー・ヘッゲ指揮オスロ・フィルハーモニー管弦楽団のお国もの演奏です。グリーグが初演を聴いて激賞したというこのシンフォニーは25歳の若書きとは思えない立派な作品で、オスロ・フィルがまるでブラームスをやるウィーン・フィルのような思い入れで全身全霊をこめて演奏しているのがわかります。音響の面でも、この頃のフリップス録音のオケの音が僕は大好きで、ことにLPで聴く弦の温かみとぬくもりは滋味あふれるものがあります。これぞヨーロッパの手作りの名品の味わいであり、たぶんあまり売れなかったろうと思いますが極めて素晴らしいレコードです。中古レコード屋はこういう掘り出し物との出会いがあるのでたまりません。以上、心から堪能しましたが、お値段は3枚で1,500円でした。

 

クラシック徒然草-指揮者なしのチャイコフスキー-

2013 APR 30 21:21:27 pm by 東 賢太郎

 

それは2004年10月23日の17時56分のことでした。

img_937460_24949380_2新潟県中越地震は東京でも大きな揺れとなりましたが、その後続いた大きな余震の一つが発生した時、東京のNHKホールはウラディミール・アシュケナージ指揮によるN響コンサートの真っ最中でした。ホールは舞台上のマイクロフォンが落下するかと思うほど大きく揺れ、聴衆も驚いて客席には一瞬ざわめきが走ったのです。

1階席右後方で聴いていた僕からは舞台が遠く、そこで何が起きているかは見えませんでしたが、演奏(チャイコフスキー交響曲第3番)は中断することなく一応終了しました。異変に気付いたのは、休憩後に場内アナウンスがあった時です。グラッときた時に大熱演中だったアシュケナージが(おそらく経験なかった地震に驚いて)指揮棒を左手のひらを貫通するほどに突き刺してしまい、病院で手当て中のため指揮できないというのです。

後半は同じ作曲家の4番でした。その時点で震源が新潟とは知りませんでしたが、ずいぶん大きかったので周囲の情報も気になりました。今日はこれでお開きかなと思ったところ「指揮者なしで演奏します。ご了承ください。」とアナウンスがあり、お客はみな普段どおり着席しました。しかしみなさん半信半疑です。指揮者なしのモーツァルトはありますが、大編成のチャイコフスキー、しかもリズムがとても難しい4番だったからです。

ところがこの演奏、結果的に何の破たんもなく、要所要所で堀正文コンサートマスターが弓を使って大きな身振り手振りでキューを出しながら難なくまとめあげてしまったのでした。録音を音だけ聴いたら、まさか指揮台に誰もいないという光景は想像できなかったでしょう。N響のプロフェッショナリズムに敬服しましたし、奏者の方たちにも動揺はあったでしょうから組織として立派な危機管理だったと感心しました。急場での日本人の結束力、団結力はすばらしいなと感動した一日でした。

 

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クラシック徒然草-ねこの「ごっこ」遊び-

2013 APR 29 23:23:21 pm by 東 賢太郎

むかし飼っていたチビ(ねこ)とやった遊びです。僕が隣りの草ぼうぼうの空地に向けて石を思い切り投げる。石はススキの草むらにバサバサっと音を立てて突入する。僕の足元にいたチビは勢いよく草むらの音のした箇所めがけて全力疾走で突っ込んでいく、というのがありました。この鳥がたてるようなバサバサの音に本能的に体が反応するのでしょう。これをたいてい20回ぐらいは飽きずに繰り返します。チビがバテてもう降参となるまでやります。

イメージ (28)すすきの草むらをひとわたり ”調査” すると、”おっかしいな~、鳥かと思ったのに、いなかったな~” という神妙な顔つきでチビはまた僕の足元へトコトコ戻ってきます。実はもう一回やりたいのですが、ねこは犬と違ってプライドが物凄く高い。また投げてとせがんだりは決してしません。まあ、どっちでもいいんだけどサ、という顔をします。すごい勢いで飛んで行っちゃってちょっと恥ずかしかったわね、でもアタシ見たのよ、あれは確かに鳥だったのよね、あんたとは関係ないけどサ、という顔をするのです。

そう、これは「狩猟ごっこ」なんです。鳥なんていないことはチビも承知の上なのですが、そういうことにしておかないと彼女のプライドからしてこういうアホなことを何回も繰り返すメンツが立たないのです。ねこの持つ本能と知性の葛藤がこの遊びを「ごっこ」に昇格させています。ごっこはいわば劇です。お互いが何かになりきったりして、現実を無視した仮想状態を暗黙の前提とする遊びですから犬のフリスビー投げとはちょっと次元が違うんです。犬もカラスもイルカも賢いのですが、劇を演じるのはねこだけでは?

しかし、僕が再度投げる構えをすると、急遽さっきのはなかったことにして、獲物に飛びかかるハンティング姿勢になって待ち受けます。バサバサッという音は遊びにリアリティーを加える小道具にすぎません。何度も繰り返してだんだん興奮してくるとプライドもメンツも吹っ飛んでしまい、ついには石は持たずに、投げたふりだけでススキに突進していくようになります。こうなると犬のフリスビーと同じです。こうして、「劇」だったことがバレてしまうのです。

僕は投げる構えをして、ねこは突進する構えをする。この一瞬の緊張感はデジャブがありました。そう、ピッチャーと、盗塁をねらう一塁ランナーのあの緊迫した一瞬です。そして、これは想像ですが、ベートーベンの運命の開始、タクトを構えた指揮者とオケもこんな感じじゃないでしょうか。

音楽(楽器)を演奏することをドイツ語でシュピーレン(spielen)と言いますが、これは「遊ぶ、戯れる」という意味でもあります。音楽家の合奏というのは、指揮棒の一閃やコンサートマスターの合図、第1ヴァイオリン奏者のアイコンタクトひとつなどで全員が一斉に出ます。これはどこでも同じ。しかし、いいオケやカルテットですと、その初動にむけてのエネルギーの蓄積がすごい。これは物質的なエネルギーではなく、精神的なもの。全員の集中力でスピリットが高まり、巨大なマグマの噴出みたいにドッと出る。

ウィーン・フィルというオーケストラがのっている時がまさにそうです。強烈なfffを待ちかまえる奏者たちの姿、速いパッセージを合奏で一糸乱れず疾走する姿、それに僕はネコ科の動物をイメージします。以前書きましたが、ベートーベンはウィーンのオケを想定して5番の交響曲を書いたはずですが、その始めの音の前に「休符」を書いたのはこのネコ科のハンティング姿勢のような「タメ」が欲しかったのだと思っています。

511X5teDYeL__SY300__PJautoripBadge,BottomRight,4,-40_OU11__そのオケのDNAをひくウィーン・フィルは犬のように「お手」をしてくれるオケではありません。ダメな指揮者だと「演奏ごっこ」で終わってしまうプライドの高さも、まさにネコ科であります。日本のオケは、本場の指揮者が来るとすぐお手をしてくれる感じがします。イヌ科だと思われます。言われたことはまじめに従順にやりますが、ネコ科特有のハンティングの瞬発力がありません。ウィーン・フィルが、これもネコ科の音楽家であるバーンスタインの指揮で録音したベートーベンの交響曲は双方の波長が合ったと思われ、このオケのネコ的側面が良く出た秀演となっています。きのう投稿したユリア・フィッシャーもネコ科、メンデルスゾーンのオケの人たちもネコになって反応していますね。日本でこういう演奏が聴けるのはいつのことなんだろう。

どうして猫が好きなの?

(こちらへそうぞ)

  ネコと鏡とミステリー

クラシック徒然草-ハヤシライス現象の日本-

 

 

 

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クラシック徒然草-ヴァイオリン・コンチェルトの魅惑-

2013 APR 27 0:00:53 am by 東 賢太郎

僕は幼稚園のころヴァイオリンを習ったらしい。らしい、というのは、さっぱり覚えていないのだ。母によると「泣いて嫌がった」ようで、これは思い当たる節がある。音の好き嫌いというのがあって、電車の車輪のガタンガタンは好き、ガラスを引っ掻いたキーは嫌い。まあ後者を好きな人はいないだろうが嫌い方は尋常ではなかった。耳元でキーキーいうヴァイオリンが嫌だったのはそれだと思う。

ヴァイオリン協奏曲、なんて魅力的なんだろう。我慢してやっておけばよかった。ピアノ協奏曲には、嫌いなもの、興味のないものがけっこうある。しかし、ヴァイオリンのほうは、ほぼない。バッハ、モーツァルト、ベートーベン、メンデルスゾーン、パガニーニ、シューマン、ブルッフ、ブラームス、ヴュータン、チャイコフスキー、シベリウス、サンサーンス、ラロ、R・シュトラウス、グラズノフ、ヴィエニャフスキー、ハチャトリアン、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキー、バルトーク、シマノフスキー、マルティヌー、エルガー、ウォルトン、ベルク、コルンゴルド、バーバーなど、綺羅星のような名曲たち、全部好きだ。

100000009000008221_10204しかしいつでも聴きたいものはベートーベン、メンデルスゾーン、ブラームス、チャイコフスキー、シベリウスの5大名曲だろうか。この各々についてはいずれ書こうと思う。LP時代はメンデルスゾーンとチャイコフスキー表裏で俗に「メンチャイ」と呼ばれていた。僕もアイザック・スターン/オーマンディー/フィラデルフィア0.のメンチャイ(右はそのSACD)で初めてヴァイオリン・コンチェルトの世界へ入った。スターンのヴァイオリンの素晴らしさ、オーマンディーの伴奏のうまさは天下一品であり、これを永遠の名盤と評してもどこからも文句は出ないだろう。この2曲の最右翼の名演でもあり、ヴァイオリン協奏曲というジャンルがいかに魅力的かわかる。

アイザック・スターン(1920-2001)は84年4月にデイビッド・ジンマン/ニューヨーク・フィルとフィラデルフィアに来てブラームスをやった。忘れもしないが、第2楽章に入ろうとしたときだ。ちょっと客席がざわついていると首をこちらに向けぎょろ目で睨みつけ、客席は凍って静まった。マフィアの親分並みの迫力だった。しかしその音色はこのメンチャイそのものの美音で、すごい集中力で通した迫真のブラームスだった。

41ZJ740DQEL__SL500_AA300_               ベートーベンは94年にミュンヘンで聴いたチョン・キョン・ファの壮絶な演奏が忘れられない。右のテンシュテットとのCDはあの実演の青白い炎こそないが89年のライブであり、これもこれで充分にすごい。

また、ベートーベンはこれも84年2月17日にスターンで聴いたがこっちはムーティーの指揮が軽くて感興はいまひとつだった。名人がいつも感動させてくれるとは限らないのだ。

 

4197TCSJ9DL__SL500_AA300_さてこのチョン・キョン・ファだが、84年2月3日に フィラへ来てムーティとチャイコフスキーをやった。ベートーベンはだめなオケもチャイコはオハコだ。この演奏の素晴らしさは筆舌に尽くしがたく、彼女の発する強烈なオーラを真近に受けて圧倒され、しばらく席を立てなかった。右のCDも彼女のベストフォームに近い。この曲、一般に甘ったるいだけと思われているが、とんでもない。この作曲家特有の熱病にかかって精神が飛んだような妖気をはらんでいるのだ。そういう部分を抉り出すこの演奏は実におそろしい。出産を境に弟ばかり活躍が目立つようになってしまったが、ぜひ輝きを取り戻してほしい。

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さてチャイコフスキーだが、どうしても書かざるをえない物凄い演奏がある。ヤッシャ・ハイフェッツ/ライナー/シカゴso.盤(右)である。トスカニーニが最高のヴァイオリニストと評したオイストラフその人が、「世の中にはハイフェッツとその他のヴァイオリニストがいるだけだ」と言ったのは有名だ。ブラームスはいまひとつだがチャイコフスキーはここまで弾かれるとぐうの音も出ない。超人的技巧だが鬼神が乗り移ったという風でもなく、サラサラと進んで演奏が難しそうにすら聞こえない。これでは「その他のヴァイオリニスト」たちに同情を覚えるしかない。

 

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ブラームスは名演がたくさんあって困る。ピアノ協奏曲2番とともに僕が心の底から愛している音楽だから仕方ない。まずはダビッド・オイストラフの名技を。クレンペラー盤(右)とセル盤があって、どっちも聴くべきである。前者はオケがフランスで腰が軽いのが実に惜しい。それでもクレンペラーのタメのある指揮に乗って絶妙なヴァイオリンを堪能することができる。

 

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シベリウスは一聴するとちょっととっつきにくい。僕も最初はそうだった。しかし耳になじむと他の4曲に劣らない名曲ということがだんだんわかるだろう。ダビッド・オイストラフはオーマンディー盤(右)、ロジェストヴェンスキー盤とあるが、どちらも素晴らしい。シベリウスを得意としたオーマンディーはスターンとも録音していて、これも甲乙つけがたい名演である。

 

 

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最後にメンデルスゾーンをもうひとつ。レオニード・コーガンがマゼール/ベルリン放送so.とやったものだ。この頃のマゼールは良かった。この曲の伴奏として最高のひとつだ。コーガンはやや細身の音で丹念に歌い、この曲のロマン的な側面をじっくりと味わわせてくれる。終わると胸にジーンと感動が残り、演奏の巧拙ではなく曲の良さだけが残る。本当に良い演奏というのは本来こういうものではないか。

以上、この5曲は、ヴァイオリン協奏曲のいわば必修科目であり、クラシック好きを自認する人が知らないということは想定できないという英数国なみの枢軸的存在だ。ぜひじっくりと向き合ってこれらのCDを何度も聴き、心で味わっていただきたい。一生に余りあるほどの喜びと充実した時間を返してくれること、確実である。

 

(補遺、2月15日)

チャイコフスキーでひとつご紹介しておきたいのがある。

藤川真弓 / エド・デ・ワールト / ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団

いまもって最高に抒情的に弾かれたチャイコフスキーと思う。じっくりと慈しむような遅いテンポは極めて異例で、一音一音丹精をこめ、人のぬくもりのある音で歌う。第1楽章の高音の3連符は興奮、耽溺して崩れる人が大家にも散見されるがそういうこととは無縁の姿勢だ。感じられるのは作曲家への敬意と自己の美意識への忠誠。チャイコフスキー・コンクール2位入賞の経歴をひっさげてこういう演奏をしようという人が今いるだろうか。

(曲目補遺)

ボフスラフ・マルティヌー ヴァイオリン協奏曲第2番

1943年の作だがミッシャ・エルマンのために書いたロマン派の香りを残す素晴らしい曲。近代的な音はするが何度も聴けば充分にハマれ、食わず嫌いはもったいない。第2楽章などメルヘンのように美しい。

 

(こちらもどうぞ)

マスネ タイスの瞑想曲

 

 

 

 

クラシック徒然草-カープの丸選手とクラシック-

2013 APR 26 18:18:00 pm by 東 賢太郎

 

クラシックを聴くもっとも奥の深い楽しみというのは、いろいろな名曲の「同曲異演」を楽しむということと言っていい

もちろん誰かの弾いたショパンの子犬のワルツのCDを1枚だけ持っていて、気の向いたときに、あるいは気晴らしに聴くだけでも大きな楽しみだ。それを自分で弾いてみるというのも、もちろん無上の喜びだ。ふつう、少しだけクラシックに馴染んだ人というのは、だいたいそこで止まっている。それではもったいない。

その同じワルツをコルトー、ルービンシュタイン、アシュケナージで聴き比べてごらんなさい。この曲がお嬢さんの花嫁修業用に書かれたのではなく、実にピアノ的な豊饒な世界が秘められていることは、じっと注意深く耳を澄ましさえすれば誰にでもわかる。弾いている音符はみな一緒だ。でもなんで、こんなに違うのか?こういう気持ちを味わうことが第一歩だ。

いい時代になったものでYou-tubeで子犬のワルツを検索すれば4万8千5百種類もの(主にシロウトの)演奏を聴ける。もちろん、ぜんぶ、違う。ショパンの演奏は残ってないからどれが「正しい」ということもない。いや、以前書いたように、ストラヴィンスキーの自演よりブーレーズのほうがずっといいのだ。ショパンの自演が残っていようがいまいが、誰かが「6歳の子の演奏が良い」と言っても誰も一概に否定などできないのだろう。

そういうなかで、何十年もの歳月を経て、「良い」と言われ続けているコルトー、ルービンシュタイン、アシュケナージの演奏の秘密は何なのか?

同曲異演を聴くというのは、その秘密を探るという形而上学的な試みのことだ。もちろん、自分の耳で。ビートルズの「ヘルプ!」は作曲家の自演があるからそれが「正しい」ということになっている。正しいという言葉に語弊があれば、ヘルプはそういうもんだということになっていると言おう。それを誰も疑問に感じない。もし自演よりいいという演奏を誰かがすれば、その瞬間に、ヘルプはクラシックになるのだ

しかしどんな曲にもそういうことが起きるわけではない。陳腐な曲は誰がどうやろうと、永遠に陳腐だ。演奏家という料理人が曲という食材を活かした調理をしてこそ「さらに良い」という料理ができるのであって、そもそも旨味(うまみ)がない食材は、誰がどう煮ようが焼こうが、うまくないのは自明のことである。クラシックになることのできた曲には、必ずその旨味があるのである。

18世紀末までの音楽家、あのモーツァルトだって基本的にはシンガーソングライターであって、ビートルズと同じだった。19世紀になって、彼の20番のコンチェルトをたとえばフンメルやベートーベンが人前で弾くようになって、モーツァルトは初めて「クラシック」になったのである。そして今の「クラシック音楽」は、残念なことにシンガーソングライターの新作をわくわくして聴く喜びをポップス界に譲ってしまったように見える。

その代わりというのもなんだが、現代人は録音というメディアによって同曲異演という豊穣の海を泳ぐことができるようになった。しかもインターネットのおかげで非常に安価に。この喜びは19世紀まではほとんどなかったか、極めて限られた貴族や金持ちの占有物だった。音楽の市民革命。21世紀人の贅沢だ。もうおしまいの方かもしれないが、少しだけは21世紀人でもある我がシニア世代がこの贅沢を享受しないなんて、ほんとうにもったいないことだ。

話は大きくそれるが、それが結局は本稿の結論ということになるだろう。広島カープで目下クリーンアップを打ってセリーグ打率2位の若手ホープ、丸佳浩(まる よしひろ)選手のことだ。24歳の彼は「のだめカンタービレ」で目覚め、今や「球界一のクラシック通」なのだそうだ。王貞治さんや桑田真澄氏がピアノがうまいのは有名だが、多才な人というのはいるものだ。自分の登場BGMにラフマニノフのピアノ協奏曲2番を使うなどなかなかのものだが「球場ではピアノが聞こえにくい。多くの人にクラシックの良さを知ってもらいたいので今年はチャイコフスキーにする」そうだ。

熾烈なプロ球界の生存競争の中で、しかも打席に向かう緊張の中で、そこまで思っている丸君には驚くしかない。20世紀の若者だった僕らには、きっとそんな余裕はなかったろう。文化というのはある意味で贅沢品である。それを楽しみ味わうには、あらゆる意味で「先進国民の余裕」がなくては到底できることではない。僕らのようにどこか「背伸び」ではなく、当たり前のようにそれを味わえる人が出てきている。21世紀の若者たちのなかには、必ずや日本を強力に牽引してくれる芽が生まれていることを感じ、心強く思う。

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番の名演

クラシック徒然草-秋のブラームスと春のラヴェル-

2013 APR 22 23:23:08 pm by 東 賢太郎

クラシック音楽が心の薬かどうかは知らない。ヒーリング(癒し)として聴く人も多いらしく、そう銘打ったCDも売られているから何かの効果があるのかもしれない。僕も疲れた時に海や川の「水の音」に癒されるということはある。しかし音楽(器楽)は人為的、即物的な楽器の音である。

季節によってある作曲家が聴きたくなることは、僕の場合は、ある。秋のブラームスと春のラヴェルである。これは歳時記といってもいいほど規則的、周期的にやってきていたが、今年は何故かラヴェルがやってこない。ぜんぜん聴く気がしない。心がまだ春になっていないのだろうか。

モーツァルトとブラームスが同時に聴きたいということは、ない。これは不思議で、両方聴きたくないという経験もない。2択である。今はブラームス期にあるようでモーツァルトは全然聴く気がしない。飽きたということではなく、いずれ戻ってくるということは経験的に知っている。

飽きた曲はたくさんある。そういう曲は、例外なく、細かいところまでよく知っている。知りすぎると飽きるかというと、そうでない曲もある。いわゆる「名曲」は飽きないかというと、そうでもない。むしろ名曲が多い。ひっそりと日陰に咲いている花のような曲がいつまでも大事だったりする。

元気が出る曲というのは、ある。まず群を抜いて、ベートーベンである。だから車で通っていた海外では、朝に聴きながら出社した。かなり仕事のパフォーマンスに影響したのではないか。ヒーリングには向かないかというと、悲愴ソナタの第2楽章などとても癒される。これの影響と思われるショパンの別れの曲よりずっと胸に迫る天上の調べと思う。

悲しい曲というのは、僕においては、ない。悲しげな曲があるだけである。モーツァルトのレクイエム、バッハのマタイ受難曲も、曲の偉大さに圧倒されることはあっても悲しいわけではない。ブルックナー7番の第2楽章も。悲しいというのは、僕の場合、喪失感である。何かを失った心象風景を喚起するから悲しい。その時流れていれば、どんなに明るい曲も悲しいと記憶されるだろうが、それは曲の性質に由来するものではない。

脳細胞が活性化する曲というのは、ある。「頭が良くなるモーツァルト」ではない。バルトークである。彼の音楽が美しいと思えることは宇宙の真理が美しいと思うことと同じ、と思う。宇宙を見て美しいと思う人は少数派かもしれない。それでも、彼の曲のレコードが増えるのと、高校時代には赤点で大嫌いだった数学が好きになったのとは、数値として緊密な相関関係があったことを証明できる。

癒される曲、これはやはり、よくわからない。僕が最も好きなヴァイオリニストはヨゼフ・シゲティとダヴィッド・オイストラフである。とても心地がいい。しかしそういう判断を、例えばメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を聴かずにしても、それは意味がない。音楽に癒されるということが仮にあるとすれば、それは演奏家と楽曲が完全に合体した時しかないと思う。知らない曲を「アダージョ・カラヤン」で聴いて癒しを感じたとすれば、それは音楽ではなく、リクライニング・シートのおかげだ。

秋のブラームスと春のラヴェル

これは僕が癒しを求めているからやって来てくれるのかもしれない。

 

 

 

 

 

再録「クラシックとベンチャーズ」

2013 MAR 30 15:15:04 pm by 東 賢太郎

 

中島さんの3月29日付のブログ「今週のクラシック音楽ベスト3」を拝見し、いたく感心いたしました。ガキだった自分の感想をオトナの演奏家である中島さんのと比べるのも失礼なのですが、とても思い当たるところがあるのでご感想にコメントさせていただくのをお許しください。

 

「ブラームスの第1、4番は、刺激が少なくて退屈でした」

僕は初めて聴いたブラームス(ワルターの1番のLP)が刺激がなくて退屈で、何の記憶もありません。ということで数年は放り出して聴いていません。

「モーツァルト第36番リンツはよくわからない」

僕はモーツァルトは全部わかりませんでした。刺激の無さはブラームス以上で、女の子が嫁入り用に練習するピアノの曲を作った人程度に思っていました。

「マーラーは、第6、7,9番全部、曲が長く80分以上で根気がついてゆきませんでした」

マーラーは名前も知らず、冒険心で買った3番のLPは1枚目の1~2面で挫折し、最後まで聴いたことはありませんでした。

「ムソルグスキー展覧会の絵も、ミュージカル的印象でした」

僕もこの手のカラフルな曲にはわりと違和感なく親しみました。

「シューベルトの未完成は、第2楽章で終わっている理由を、東さんのブログでみるとあまり劇的でないので残念ですが、弦のいい音が耳に残っています」

僕は未完成が苦手で2楽章ももたずに寝てました。なぜ聴くことになったかというと、不幸にも当時のLPは「運命・未完成」の組み合わせが定番だったからで、僕にはどうもポップスのEP盤のイメージから「B面の曲」という先入観もあったかも知れません。この曲が完成してるかどうかストーリーを知る以前に、こっちの耳が未完成でした。

「バッハの平均律クラヴィーア曲集をジャズ・ピアニストのキース・ジャレットが弾いたのを聴きましたが、まじめな演奏で退屈でした」

僕はバッハはお葬式の音楽家ぐらいに思っていました。「平均律」はピアノの旧約聖書だときき勇んでチャレンジしましたが3~4曲目であえなく座礁。LPを最後までガマンして聴いたのは数年後でしたが、ほぼ苦行に近く、レコードはそこからまた数年はほこりをかぶることになりました。

「3分間音楽愛好家の私にとっては、最初の10秒はその曲の評価を決めるポイントです」

いや、よくわかります。僕は「コード進行」と「曲の終わりかた」でした。しかしこういうのは誰も公言しませんが普通の入り方だと思います。いきなりベートーベンに感動したなどというのはどうも、少なくとも僕はあまり信じられません。中には初めてなにかクラシックを聴いて「感動で涙が止まらなかった」という人もいっらしゃるでしょう。最後まで聴かれただけでも尊敬しますが、例えばキリスト教徒のかたがバッハのマタイ受難曲に接すればそういうことは充分にあると思います。しかし宗教でもストーリーでもなく音響から入る非文学的な僕のような輩がいきなり「未完成」で涙を流すのは今日からキリスト教に改宗するぐらい至難の業です。ストーリーに音楽がついているオペラでさえ「こんな太ったミミがどうして死ぬんだろう?」などと現実に帰ってしまい、結局は音しか聴いていないことが多いぐらいですから僕は基本的にオペラも苦手ということなのでしょう。

中島さん、僕も3分間音楽愛好家だったのです。

その証拠に昨年の9月16日、SMC開始早々に書いた僕の「クラシックとベンチャーズ」というブログを再録いたします(すこし手を加えています)。

 

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クラシックというと堅い、退屈、長い、近寄りがたいという人が多く、ポジティブなイメージは癒し、知的、高尚だそうです。日本では音楽市場の10%ぐらいあるそうですが交響曲、オペラのような長い曲を家で真剣に聴くような愛好家は総人口の1パーセントという説もあります。いずれにしても、相当マイナーな存在であることは間違いありません。もったいないことです。

V_ep02_thumb_1V_ep06_thumb_1                僕は小学校時代にザ・ベンチャーズの強烈な洗礼を受けました。いわゆるテケテケテケです。寝ても覚めてもベンチャーズ。歩きながらもベンチャーズ。ノーキー・エドワーズのマネをしてギターを弾き、本を並べてバチでたたいてメル・テーラーの気持ちになっていました。キャラヴァンという曲があります。メルのドラムスとドン・ウイルソンのサイドギターの刻みが絶妙にシンクロ。それに乗ってドライブするめちゃくちゃカッコいいノーキーのリードギター。難しいリズムのドラムソロ。レコードがだめになるまで聴きました。

51NJBE0YVJL__SL500_AA300_                      そこに立ち現われたのがこの人たちです。ジョンとポールのハモリとノリ。何を言ってるかわからないがなにやらカッコいい英語。女の子の失神。ベンチャーズにない刺激的なコード進行。ポールのものすごいベース。いやーこれはすごい。完全にハマりかけました。そのまま行けば僕はたぶんロックバンド路線に進んでいたと思います。音楽の時間にあの曲を聞かなければ・・・・。

 

千代田区立一ツ橋中学校。われわれ悪ガキがポール・モーリヤとあだ名していた音楽教師、森谷(もりや)先生が「今日は鑑賞です」と言ってレコードをかけてくれました。それはモソモソとはじまる退屈きわまりない曲でした。そもそもクラシックは聴いてる奴らのナンパで気取った感じが大嫌いな野球少年の僕でした。まあ昼寝にいいか。実は小学校時代に同じシチュエーションで教室の窓から脱走し、母が担任に呼び出しを食らった前科のある僕は、それを思いだしました。

61tD8K3CxeL__SL500_AA280_すると、ちょっとキレイでグッとくるメロディーが出てくるではありませんか。へー、割といいな。仕方ねえ、ちょっとだけ聴いてやるか。まさにその時です。そのメロディーが突然違うコードにぶっ飛んだのは。脳天に衝撃が走りました。ベンチャーズにもビートルズにもない新体験。これは何なんだ?

その曲はボロディンの「中央アジアの草原にて」です。その個所は105小節目、ハ長調のメロディー(注)が3度あがって変ホ長調に転調するところです。演奏は「ジャン・フルネ指揮コンセール・ラムルー管弦楽団」とノートにしっかり書き込みました。よほどの衝撃だったのだと思います(想像ですが、この写真のレコードだったのかなあ・・・)。

この経験が僕をクラシックに引きずりこみました。この曲が欲しいと言うと、父はこれが入った名曲集のLPを買ってくれ、そこに一緒に入っていたワーグナー、チャイコフスキー、ヨハン・シュトラウス、グノーも気に入ってしまったからです。

ただ、今でも僕はビートルズ信者です。カーペンターズ、ユーミン、山下達郎などもコード進行が好きで、今もときどき聴いています。コード進行がいいものというのがおおまかな僕の基準ですが、中でも荒井由美だったころのユーミンはとても好きでした。

さて、ベンチャーズです。京都の雨なんていうしょうもないものをやりだした頃から一気に堕落しました。それでも初期のあのダイヤモンドヘッド、パイプライン、十番街の殺人(テケテケテケの音色が全部違う!)、ウォーク・ドント・ラン、ブルドッグ、アパッチ、テルスター、夢のマリナー号、クルエル・シー、パーフィディアなどなど永遠に色あせることはありません。カッコいい。美しい。

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しかし、それにもまして、あのキャラヴァン(左)なんです、僕には。冒頭のシンバルの一撃で金縛りです。腹にズンと響く中音と低音のタム。土俗的なリズム。究極のアレグロ・コン・ブリオ。完璧に4つの楽器がバランスされた録音。もう芸術としか呼びようがありません。このクオリティの高さはいったい何だったんでしょうか?

 

・・・・

borodinn1(後記)

右の写真はボロディンの「中央アジアの草原にて」のピアノ編曲版の表紙です。絵をよく見ると、この曲も「キャラヴァン」だったんですね。キャラヴァンつながりで僕はベンチャーズからクラシックへ旅したわけで、不思議な気分がいたします。

 

 

 

 

 

 

ストラヴィンスキー好き

2013 JAN 30 21:21:33 pm by 東 賢太郎

中学の頃からラジオで聴いたある甘いメロディーが気に入っており、あるとき母に歌ってこれ何?と聞きました。「火の鳥かしら・・・」ということで、すぐ新宿のコタニへ行き、「火の鳥を下さい」と言いました。ストラヴィンスキーの名前も知らなかったのです。そこで店員さんが出してきたのがこれ(写真)です。後に知ったのですが、僕の気に入っていたそのメロディーはケテルビーの「ペルシャの市場にて」でした。でもドレミーレドシ・・・は火の鳥の「ホロヴォード(王女たちのロンド)」に確かに似ている。それにしても、母はストラヴィンスキーなんか知らなかったはずなのに、なんで火の鳥の名前がでてきたんだろう・・・。

その時は大変でした。このレコードを大事に抱きかかえるようにして新宿から家に帰り、わくわくして針を落としました。すると、甘いメロディーどころか、低音で弦楽器がゴワゴワと妙な音をたて、バイオリンがヒューヒューと人魂の飛ぶみたいな不気味な騒音を出すではないですか。「なんじゃこりゃ」といきなり仰天。その後も奇天烈な音がさく裂しまくり、今か今かと待っていた「あのメロディー」はついに登場しないまま僕のレコードは決然と終わっていったのでした。この失望感といったらありません。大枚2000円の小遣いが藻屑と消えた瞬間でした。これが何をかくそう僕のストラヴィンスキー初体験なのです。

母に文句はいっさい言いませんでした。きっと名曲に違いない。持ち前の前向き思考でそう信じ、そのレコードを何度もかけてみました。そして、このエルネスト・アンセルメの最後の録音は結局僕の人生の宝物になってしまったのです。「組曲より全曲版がいいよ」と教えてくれたコタニの店員さん。少年はドレミーレドシ・・・だけ買えればいいんだけどなあと意味がぜんぜん分かってなかったんですが、そう、まさに全曲版だったからなのです。高校に入って、小遣いはたいて1万2千円もした大型スコアを買うほど火の鳥に魅せられてしまったのは。ちなみにケテルビーはつまらない曲と後にわかり、いまだに持ってもいません。母の圧勝でした。
ペトルーシュカ                                    「春の祭典」との出会いはブログに書きました。それがあったのも、まずわかりやすい「火の鳥」で耳がトレーニングされていたからです。そして残るはもちろん「ペトルーシュカ」です(右の写真)。このレコード、曲の出だしの5秒?で好きになりました。一目(一聴)惚れ最短記録です。わー、ストラヴィンスキーってマジすっげえ、チョーめっちゃカッコイーじゃん!今どきなら大声でこういう歓声をあげたことでしょう。火の鳥とも春の祭典とも違うこの乾いた色気とゾクゾク感。宝石箱をぶちまけたような、まばゆいばかりにキラキラする光彩に頭がふらつきました。クラシックの魔の道に引きずりこまれた瞬間でした。この一撃があまりに強烈だったために、当時の僕はモーツァルトやベートーベンを聴いても退屈で仕方なく、王道に入るのにずいぶん時間を要することになってしまったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バルトーク好き

2013 JAN 29 20:20:03 pm by 東 賢太郎

小泉元首相のオペラ好きは有名ですが、福田元首相はバルトーク好き、志位共産党委員長はショスタコーヴィチ好きだそうです。「バルトーク・フリーク」を自称される作曲家の吉松隆氏によるとバルトーク好きの特徴は、

①地味
②理知的
③生真面目で笑わない
④オカルト趣味
⑤愛国主義
⑥皮肉屋⇒知的であるがゆえに本性を隠したがり、それでいて感性豊かなためについ本音が皮肉となる

だそうです。なかなかいい線ですね。一方で「人はバルトーク派とストラヴィンスキー派に別れる」という説もあるそうです。ずいぶんとすごい人類の分類法があったものですが、両方好きな僕はどうなるんでしょうか。

初めてバルトークを聞いた印象はたいがい「なにこれ?」「調子はずれ」「不気味」「ぶっ飛んでいる」「お化け屋敷のBGM」という感じでしょう。僕もそうでした。スリラー映画シャイニングに使われたぐらいです。家で聴いていると誰も寄ってきませんし、きっと猫も逃げていたのかな?

僕がバルトークに憑りつかれたのは高校のころ「弦チェレ」とあだ名される「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」に衝撃を受けたのがきっかけです。第2楽章のピアノと木琴の入る所のカッコよさに電気が走り、もうイチコロでした。これはジャズ、ロック系の人向きですね。僕が覚えたライナー / シカゴSOで。

これは心酔したブーレーズのニューヨークフィル盤による全曲です。素晴らしい。

「管弦楽のための協奏曲」の最後。僕はこれこそ人類が作った最高にカッコいいエンディング(曲の終わり方)だと思っていて、そこを自分でやりたいだけのためにシンセで数か月かけて複雑怪奇なスコアと格闘し第5楽章をぜんぶ作りました。僕が覚えたオーマンディー/フィラデルフィアO、これがアブソルート・ベストだ。

「弦楽四重奏曲第5番」。この第5楽章、調性があるようでないような。時空を流れる音の帯が半音ずつ幅を広げていく様は100億光年かなたのクエーサーでも目の当たりにしている錯覚を覚え、脳内に電極が入っていてそこから電気が流れこむ感じに酔ってしまいました。鄙びた味のあるタカーチ四重奏団(1分23秒から)。

「ピアノ協奏曲第2番 」。この第2楽章開始部の弱音器つき弦楽器の奏でるこの世の物とも思われぬ摩訶不思議で神秘的な和音はいったい何なのでしょう?のちに映画「コンタクト」を見て、別にこれが流れていたわけではないのですが、主人公が未知の青い太陽がある惑星で死んだお父さんに出会うシーンがなぜか浮かんでしまいます。

こちらが全曲です。ハンガリー人ピア二ストのコティッシュは鋭敏な感性の持ち主で、ドビッシーからラフマニノフまで個性的な演奏をきかせました。これも新鮮なアプローチでいいですね。

 

僕のバルトーク体験はこんな感じの、マンガ的、原始的、本能的なところから始まりました。やれ弦チェレはフィボナッチ数列と黄金分割でできていてなどと高尚な解説をしてくれる友人もいたのですが、そういうことはどこ吹く風で下世話にシビれていたのです。弦チェレで本当にすごいのは第3楽章と気づくにはもう少しオトナになる必要がありました。ドイツで小学校にあがったばかりの娘がピアノの発表会で弾いた「子供のために」、こんなやさしい曲についている何ともいえず土臭くて懐かしくて日本人にグッとくる、それなのにものすごく理知的な和音の見事さ。バルトークは深いです。

(こちらもどうぞ)

コダーイ 組曲「ハーリ・ヤーノシュ」作品15

 

 

 

 

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