ホルスト 組曲「惑星」 作品32
2014 JAN 27 17:17:47 pm by 東 賢太郎
僕が天文学者になりたかった話を書きました。といっても興味の対象は恒星であり、一般に好かれる天文現象の観測、たとえば日食やら流星群を見たりということには関心はないのですが。考える時間軸は億年単位、距離は光年単位で、とても浮世離れしたものが好きです。
英国の作曲家グスタフ・ホルストによるこの曲は、表題がこのようになっていて 科学的なコンテクストはありません。
「完成された1916年にはご覧のとおり冥王星は発見されておらず入っていません」というのがこの曲の解説の定番でしたが、どっこい本物の冥王星の方が惑星からはずされてこの組曲が正解になってしまったのは皮肉なものですね。
「惑星」はイギリス音楽では最も有名なもののひとつですが、イギリス音楽というのはなかなかクラシック界ではメジャーになれません。いい曲はたくさんあるのですが・・・。この惑星にしてもフルトヴェングラーやトスカニーニが振るということは想像もできず、どうしてもニッチな印象がついてしまいます。当のイギリスでも初演して以降はあまり評価されずに埋もれていたようです。ではなぜそれが世界的に有名になったかというと、メジャーレーベルであるDeccaにヘルベルト・フォン・カラヤンが移籍して、おそらく英国の会社であるDeccaへのリップサービスとしてこれを録音したかと思いますが、それが世界的に評判になったからのようです。
そのカラヤン指揮ウィーン・フィルのLPが1973年に発売されると日本のクラシック界は大騒ぎになりました。というのは1枚1000円で出たからで、当時LPは2000円の時代でカ
ラヤンのステレオ盤が廉価版というのは衝撃のプライシングだったのです。すぐ売り切れそうで僕も先を争ってチャイコフスキーのバレエ、ブラームス交響曲第1番とこの惑星(右)を買ったものです。当時の興奮がなつかしい。LPは消耗品で盤面の具合、プレスした国籍なんかで音に違いが出て、極端にいえば同じジャケットでも一枚一枚が違う商品でした。だから皆さん愛情をこめて扱っており、どこか所有する喜びというのがあったのですね。今のCDには商品としての個性がない、いわば缶詰でも買ってるみたいなもんでどうも有難味がありません。それで安くなるのはいいのですが、芸術品というのは安くなると中味の価値まで低い感じがしてくるのが困ります。ともあれ2000円というと今ならさしずめ5~6000円ぐらいのイメージでしょうか。その半値でこれが所有できるというのがどんなに嬉しかったかご想像できるでしょうか。
この曲では何といっても4番目の木星が「ジュピター」として平原綾香の歌で有名になりました。民謡調のいい節ですね。ただ全体に音楽的な価値はそれほどでもなく管弦楽も巨大な割には革新的なこともなく、春の祭典より後にできた作品としては陳腐なものと思います。唯一評価しているのは最後の海王星で、EmとG#mの複調が極寒の氷の世界を連想させていいムードです。これはライブで聴くと舞台裏で歌う女性合唱とオケの掛け合いがなかなか面白く、アカペラの声がフェードアウトして消えるというアイデアはうまくいけば演奏効果が非常に高いですね。ジェイムズ・ジャッド指揮の2005年2月12日N響Aプロでの演奏は大変な名演でした。
木星をお聴きください。
次に海王星です。
CDは特に迷う必要もなく、市場に出ているのは皆それなりの腕前の指揮者とオーケストラの物ですからどれでも買って覚えればいいでしょう。あとは好き好きです。僕が好きなのはこれです。
ユージン・オーマンディ / フィラデルフィア管弦楽団
この高性能オケの技とパワーが全開、実に凄い演奏がきけます。例えば火星のリズムで、ティンパニをバックに淡々と刻む5拍子が他のどの演奏よりも軽くて弾んでいるのです。ちょっとしたニュアンスなんですがセンスと技術ですね。それでどれだけ音楽の表情が生き生きと変わるか、ワインに例えれば並みのボルドーとペトリュスぐらいの差がありますよ。初心者の方はまず高いほうから飲むのが常道です。それを覚えておいてそういう味でなければ全部安物と思えばいい。安物を何百本飲んで覚えてもペトリュスがうまいというのはわかりません。そういう投資はカネの無駄です。
最後にこちらを。郡山2中のオーケストラによる木星。いやうまいですね、これ。中学生でこれは脱帽です。
(こちらもどうぞ)
チャイコフスキー交響曲第5番ホ短調 作品64
2014 JAN 26 12:12:02 pm by 東 賢太郎
この曲の愛好家は数知れない。僕も大好きで疲れた時にこそ効き目があるありがたい曲だ。仕事でぐったり疲れても風呂へ入ってスコッチ片手にこれを聴けば一気に癒しと元気がもらえる。だから今日なんか最高だ。「24時間戦えますか」というCMがあったがリゲイン並みの効果は保証つきだ。
冒頭のクラリネットはしかし暗い。これは2本をユニゾンで吹かせているからで、この音域でのpからfまで及ぶクラリネットのユニゾン!は非常にユニークな発想だ。弱音の立ち上げが得意の楽器とはいえ、いきなりそのピアノで交響曲を開始するなんて、作曲家にとっても実際に音を鳴らすまでは実験だったろう。
誰もがクラリネットに聞こえるが、何ともいえない独特のエッジと微妙な「うなり」を含んだ野太さが混在した音がしていて異質にも聞こえる。この主題は「運命主題」とされ第4楽章のテーマになる大事なものなのでまずここで強い印象を与えておこうという工夫である。思えばソナタの提示部を繰り返すのも同じ目的があるからだが、それを音色効果で、しかもソロでもなくファゴットを重ねるのでもなく、クラリネットの音色を踏み出すことなく「サブリミナル」(潜在意識下)に聴き手の記憶に刷りこもうという部分に、僕はチャイコフスキーの冴えわたった理性と異様に鋭敏な皮膚感覚のようなものを感じる。
これが鳴り出すと我々はもう5番ワールドに引き込まれてしまうのだ。
5番ワールド。まさにこの曲は一個の世界をもっている。4番とも悲愴とも違う独特の完結した世界で、こういう曲をチャイコフスキーは後にも先にも書かなかった。彼自身5番には冷淡で批判的な態度を示した。5番はドイツ流の交響曲の流儀に添っていて、そこが民族的、ロシア的であることを4番まで通してきた彼の流儀と違うことへの言いわけ、ポーズではなかったか。結局どこでもこの曲は喝采を浴びてしまい、彼もネガティブな評価を撤回している。そりゃあそうだろう。この曲ほど彼の6曲の交響曲のうちで「シンフォニー」という既成概念にぴったりで違和感がなく、上手に演奏された時の感動、快感たらないんだから。
チャイコフスキーはベルリオーズの音楽に批判的だった。バス(低音声部)がへたくそだという意味のことを言った。「へた」というより「ない」と言ったほうがいいように思うが幻想交響曲を称賛しているシューマンやリストはそれを指摘していない。ベルリオーズはピアノが弾けなかったのだ。だから幻想交響曲は天才的な音楽ではあるがハイドン、モーツァルト、べートーベンのドイツ音楽的脈絡から楽譜を眺めると音響体としてはギターで作ったような空疎な構造に見える。明確な対位法的バスは存在しない。チャイコフスキーがそれを批判したのが彼の作曲法上のバスへのこだわりを逆に浮き彫りにしている。
5番はソリッドなバス声部上に名旋律を配置した構築物としてまたとない見事な出来栄えの音楽だ。半音階で上下してゆくコントラバスやトロンボーン、チューバのパート、あたかもまずそれが発想にあって、それに上声部がついてきたかのようなコードプログレッションの流れ。悲愴も一部がそうだが、そういう「バス声部進行の支配力」を全曲にわたって強く感じるのが5番の特徴だ。それを一緒に歌ってみたらわかる。いかにそれが滑らかで小さな動きなのに世界を睥睨できるか!その魅力はかけがえがなく、僕の「リゲイン効果」の源だろう。これはどうしても弦楽器が必要な性質のものだ。4番、6番はピアノ版でも面白いが5番のそれは楽しめない。
5番のライブはいくつか印象に残るものを聴いた。まずは以前に ユージン・オーマンディーの右手に書いた演奏会。これはその時に楽屋でオーマンディーといろいろ話した別れ際にいただいたサインだ。
もう好々爺だったが演奏はしっかりしていて体の芯から感動した。94年にフランクフルトできいたリッカルド・ムーティーとウィーンフィルの演奏は最高だった。それと双璧が97年チューリヒのヴァレリー・ゲルギエフとキロフ響のもの。84年ロンドンでのリッカルド・シャイとロイヤルフィルは期待ほどでなかった。02年サントリーホールのマリス・ヤンソンスとピッツバーグ響、日本人は06年広上淳一と読響がとても良かった。彼は才能があると思う。
以下は僕の愛聴盤である。リッカルド・シャイー/ウィーン・フィルは以前に書いたのでこちらをご覧下さい 勝手流ウィーン・フィル考(4)
ベルナルト・ハイティンク / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
これは黒光りする名演である。ドイツ流に書かれた5番をドイツ流の正攻法で直球勝負し、名オーケストラががっちりと受け止めている。名ホールのアコースティックも逸品でここのいい席で聴くと本当にこういう音がするのだ。終楽章のコーダにさしかかる運命主題の行進はやはりドイツ風名演であるルドルフ・ケンぺも素晴らしいが、ここのハイティンクは王道だ。シューマンの3番で絶賛したことがこの5番も当てはまる。僕はハイティンクを欧州で何度も聴いたが、何も加えず何も引かずだ。5番を楽しむのにこれ以上の何が必要なのだろう。僕には理解できないことだが、日本のクラシックファンは演奏に「とんがったところ」を探す人が非常に多いように思う。音楽マニアではなくレコードマニアとでもいうか。5番を58種類も持っているお前は何だと言われそうだが、レコード会社のいい客であったことは認めても僕は無用にとんがった演奏など一切認めないのはこれまで書いてきたことでご理解賜れると信じる。自分で演奏したら、自分でシンセサイザーで5番を録音したらこうしたいというスコア解釈、それに近い演奏を探す長旅の末に58枚も買ってしまっている。こういうハイティンクのような解釈に当たれば、他のはもう不要であるが、それを集めてしまった僕の人生の歩みの記録としてCD棚に飾ってあるようなものだ。この5番、レコードマニアにはもの足りないだろうが、当たり前の上質の音楽をわかる人は何も言わなくてもわかる。
エフゲニ・ムラヴィンスキー / レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
すごい音だ。重量感があり、倍音が豊かでカラフル、オーボエのエッジの個性にはっとする。全楽器をあたかも一人が弾いている風だ。指揮者が変幻自在にオケ全員の「呼吸」をコントロールして初めて発生するかのような強弱法。フレージングのニュアンスや微細な音量の漸増漸減まで全楽員が「シンクロナイズ」してこの滑らかさで達成するなど、他で聴くことはあたわぬ秘儀の領域である。ジョージ・セルやフリッツ・ライナーの演奏もオーケストラの縦線の合い方は尋常でない水準に至っているが、ムラヴィンスキーという指揮者のそれはそのどちらとも違う。例えは悪いがヒトラーや共産圏の軍の行進すら思い起こす究極のシンクロ度合いであり、音楽的要求の域を超えてそのシンクロそのものが鑑賞の対象とさえ意識されている感じがする。オーケストラの合奏はともあれシンクロナイズされる必要はあるが、それがこの水準まで至るとそれ自体が一個の美学であり、フルトヴェングラーの指揮とは対極的な次元で高度な演奏というものがあるのだということを教えてくれる。それだけではない。無理しないですっと出ているフォルテの驚異、第1楽章コーダ伴奏金管のスタッカートなど、この演奏を半端でないものにしている「かくし味」がそこかしこにある。第2楽章ホルンソロは独特のヴィヴラートのあるロシア的音響だ。木管の対旋律やトランペットも浮き出てにぎやかであり、普通のオケがこんなことをしたら軽薄になる。それが独奏としてあまりに音楽性満点なので魅力となってしまう。第3楽章は速めですいすい進むがオケの腰が重いので速さを感じず、ホルンの対旋律が目立つなどドイツ的なバランスとは明らかに違う。第4楽章、ブラスセクションだけでの純正調のハモリが聞こえるのに驚く。弦の疾走と歌の見事さに唖然。弦・木管・金管がグループごとに音量を漸増漸弱で協奏する!これは指揮のヴィルトゥオーゾだ。各奏者のアインザッツのタイミングと入りのピッチの完璧さ。最後の4つの音がテンポ落とさず決然と終わった後のすごい充実感!この演奏は感嘆符の連続である。
ジークフリート・クルツ / ドレスデン国立歌劇場管弦楽団
弦が最高に素晴らしい。ドレスデンで聴いた音だ。指揮者は作曲家でもありハイティンクをさらにドイツ流にした演奏で5番だからこのスタイルが活きるというかっちりしたもの。この曲に何を求めるかによって評価は分かれるが僕は好きだ。冒頭のクラリネットはちゃんと2本に聴こえ、化粧なし。質実剛健、硬派そのものであって、地味と評してしまえばそれまでだが、こういうものを中庸などと意味不明の言葉で切り捨てていた昭和の風潮は見直すべきである。このオケの管の上手さも特筆もので第3楽章の中間部、やや速めで木管がスケルツォ風に協奏する部分など見事である。見栄を切ったりテンポで小細工をしたりが一切なく実にそっけなく進む終楽章も音楽の充実感にあふれる。玄人向けだが一聴に値する。
林克昌(Kek-Tjiang Lim) / 群馬交響楽団
廃盤を挙げて申しわけないが、非常に素晴らしい演奏なのでどうしても落とせない。81年群馬で録音。林克昌(ケク-チャン・リム)はこれ以外後にも先にも名を聞いたことがない。これが世に出たころは鹿鳴館以来の西洋礼賛で凝り固まり、欧米人だってよれよれのおじいちゃんでない限り認められなかった。無名の指揮者は爆演をしないとうけない日本クラシック界でこのインドネシア生まれの中国人指揮者によるLPが広く評価される素地はなかったろう。しかし良いものは良いのである。僕はこれを5番の名演リストの最右翼の一枚に推挙するのに何のためらいも感じない。虚飾無く正攻法で音楽の本質だけに奉仕した演奏で、ゆったりしたテンポでポルタメントをかけてロマンティックに歌うが品格を損なわず、テンポの動きにオケが共感しているのがわかる。当時の群響の技術はもう一つだが非常に健闘しておりライブのような熱さのある終楽章の素晴らしさはシャイー・ウィーンフィル盤に唯一匹敵するだろう。
追加しましょう(16年1月11日~)
ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
悲愴と同じく71年のEMI盤がカラヤンの最右翼と思います。5番こそドイツ流アプローチが正攻法となり得る交響曲であり、この頃に破竹の勢いであったこのコンビを凌駕できる者はもはやなしと言ってしまいたい出来。冒頭クラリネットが2本に聴こえる(!)などカラヤンがまだ音響研磨より騎虎の勢いで突っ走れる年齢だったこその快演中の快演として永遠に記憶されるだろう。悲愴の稿と同じこと。甘ったるいポルタメントだなんだとあるが、人生若かりし頃はそんなもの。あちらでは慟哭だった最期の終結がこちらでは究極の歓喜とカタルシスの解放になる。これをライブで聴いたらしばらく立ち上がれないでしょうね。5番演奏史に輝く金字塔と記すにまったくためらいはございません。
遅い。暗闇から立ち上がるような第1楽章。夢うつつのような第2楽章も弦が起伏をもって歌いこみ、トランペットの冒頭主題再現はそれに輪をかけてゆっくり。楽章ごと一篇の交響詩のようでユニークです。終楽章も木管になるともちこたえるかどうかぎりぎりの遅いテンポで始まり、要するに第1楽章冒頭主題に思い入れたっぷりで、後続楽章で何度も出てくるが全部がきわだって遅いという私小説型解釈なのです。それが終楽章中盤から徐々に加速しつつ熱していくという設計はある意味素人的でわかりやすく、人情芝居の風情があります。それに酔える人にとっては大名演となりましょう。僕はオーマンディー盤で5番覚えたのころは最後の4発が遅くなるだけで拒否反応があり、ところが何年かするとそれが許せるようになり、一時はこのロストロ盤が好きになり、そして今はケンペのようなドイツ型に回帰した。我が5番史を振り返るうえで欠かせない演奏です。
ヤッシャ・ホーレンシュタイン / ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
1968年録音だからクレンペラーの在任中の浮気ですね。ウクライナ出身のユダヤ系指揮者ホーレンシュタイン(1898-1973)はフルトヴェングラーの弟子で、師匠がバルトークのピアノ協奏曲第1番を作曲家と初演する際にオケの稽古をつけており、日本国憲法第24条の草案を書いたベアテ・シロタ・ゴードンは彼の姪です。アンサンブルはどこか粗く、個性あふれるテンポ変化に手さぐりでついていく感じ。練習不足のオケをカリスマ指揮者が振っている風情が大変面白い。
エンリケ・バティス / メキシコ国立交響楽団
なるほどラテン系のチャイコフスキーはこうなのか。第1楽章からいきなり速く粘り気はゼロ。新幹線なみの超高速ぶっとばしに絶句するしかない。ティオテワカン遺跡のカラッと乾いてちょっと埃っぽい空気。ワルツも速い、とても踊れないぜこれ。終楽章は普通のテンポで始まるが、重目なのはそこだけだ。ティンパニのトレモロから一体何が起きたんだという快速となり、興奮を煽られる間もなく置いて行かれてしまう感じだ。ここまでやられると実に潔い。日本人指揮者の教科書的にそれなりにそれっぽいのなんか、それならロシア人かドイツ人のを聴くよということになってしまう。過ぎたるは及ばざるがごとしと孔子はいうが、ここまで過ぎれば及んでしまうのです。
ルドルフ・アルバート / チェント・ソリ管弦楽団
このオケは録音契約上の仮想団体でパリ音楽院O、ラムルーOなどの団員から成るらしい(事実不祥)。スピード感にあふれエッジが効いて句読点のはっきりした指揮でチャイコフスキーのどろどろを洗い流してすっきり味にしたという風情の演奏。第2楽章のホルン、第3楽章のバスーンなどフレンチ風ロシア料理だが、両者は食の世界でも意外に違和感がないものだ。伴奏に見え隠れするフルート、オーボエの美しさは珍しくも妙なる味。終楽章はあらぬところでシンバルが鳴ったりびっくりもするが、珍味だ。
(こちらもどうぞ)
クラシック徒然草-ファイラデルフィアO.のチャイコフスキー4番-
チャイコフスキー バレエ音楽「くるみ割り人形」より「花のワルツ」
クラシック徒然草 -日曜日の朝の音楽-
2014 JAN 19 11:11:47 am by 東 賢太郎
カーテンの隙間から柔らかい朝日がさしこむ冬の日曜日の朝。何をするでもなくくつろいでコーヒーを飲みながら・・・・
そんな朝に居間で小さめの音で流そうというクラシックはなんですか?
まずはお決まりのこれでしょう。グリーグのペールギュント組曲から「朝の気分」。まさにぴったりですね。
僕の定番はこれです。モーツァルトのフルート四重奏曲第1番ニ長調K.285より第1楽章アレグロです。
このYoutubeはフランスの名フルーティスト、ミシェル・デボストとフランス弦楽三重奏団の名演です。華があり高雅でさわやか!当曲最高の名演のひとつです。モーツァルトでのお目覚め、いかがですか。第2楽章の悲しげな旋律が止まって不意に第3楽章に 入った瞬間、ぱっと世界が眩い光に輝いて見える魔法のような音楽をじっくり味わって下さい。こんな芸当、ほかの誰ができるでしょう。CDは右のものです。
これも朝にいいですよ。ドビッシーの映像第1集から「水に映る影」です。実はこれ、なんということか鳥取の一泊6千円のなんてことないビジネスホテルで朝飯の時に流れていて、何というハイセンス!!と驚嘆したわけです。朝用のCDにたまたま入っていたんでしょうが・・・。Youtubeで見つけたこのユージン・イストミンの演奏、いやあ、いいですねえ。CDなさそうですが、これ欲しいです。
最後にこれです。フランスはプロヴァンス生まれのダリウス・ミヨーの交響曲第1番の第1楽章パストラルです。フランス6人組のひとりミヨーに作曲を習ったのが「雨にぬれても」や「アルフィー」の作曲で有名なバート・バカラックですね。
僕の場合 この曲で起こしていただけると嬉しいです。
ドビッシー 「ベルガマスク組曲」
2014 JAN 13 1:01:26 am by 東 賢太郎
地中海めぐり編、イタリアはミラノの北東ロンバルディア州のベルガモを舞台としたドビッシーのピアノ曲だ。
ベルガモというと、2003年だったか東京から出張してゴルフをしたのを思い出す。風光明媚で肥沃な土地だ。コース名は忘れたが支店長が心して連れて行ってくれたのだから名門だったのだろう。途中で雲行きが怪しくなり豪雨となった。雨は気にしないが雷が来たので仕方なくリタイアした。これもいい思い出だ。早めのディナーとワインが美味だった。
最近これはあまり聴くことがなくなってしまった。他人の演奏をじっくり聴くほどの曲ではなく、あくまでドビッシー初期の甘目の音楽である。しかし僕の程度のピアノ初級者にとっては、弾く音楽としての価値が非常にあるのだ。同じフランス近代物でもラヴェルと違って弾きやすい。必要な技術の割に演奏効果があって、ブラームスのコンチェルトの対極にあるといえよう。僕と同じ程度の方がおられればぜひチャレンジをお薦めしたい。第1曲「プレリュード」、これは比較的やさしいがやはり気持ちがいい。第4曲「パスピエ」を弾きたいがなかなか左手が難攻不落だ。第3曲「月の光」は誰もが知っているし簡単である。ポップス化しているが僕はこの曲はあまり評価していないので弾かない。さて第2曲「メヌエット」である。これは好きであり、いま練習中である。
メヌエットで何度弾いても夢中になるのはここだ。下の譜面で5小節目。この左手のファとソの9度の響き!う~ん、気持ちがいい・・・。麻薬のように僕を法悦の境地に誘い込む音響だ。これはワーグナーのトリスタンの子孫だなあ。
後ろから4つの小節、ここは僕のようなへぼが弾いてもグランドピアノがオーケストラみたいにフルレンジで鳴りきってくれて最高の部分である。うまく書けているなあ。ドビッシーに座布団10枚!
さっき何年かぶりにこの曲のCDをいくつか聴いてみた。そうしたら自分のテンポはクラウディオ・アラウのに近いことを知った。彼最晩年のフィリップス録音である。もうひとつ近いのはアルド・チッコリーニのEMI盤である。どっちもロンドン~スイス時代に車のCDに入れてよく聴いていた演奏だ。三つ子の魂とは音楽にもあることを知った。
アラウの演奏です。
(補遺)
ロンドンではこれを毎日のように聴いた時期があります。ゾルターン・コティシュのピアノ。速めでクリスタルのような透明感ある演奏ですが、音楽はしっかりと呼吸している。名演ですね。
この子は小学生でしょうか、うまいですねえ。テクニックだけではなく感性がすばらしい。大変なものです。ヨーロッパの空気を吸われるのもいいかもしれませんね。
(こちらへどうぞ)
ラヴェル「ダフニスとクロエ」の聴き比べ
2013 DEC 12 23:23:20 pm by 東 賢太郎
32種のダフニスを持っていますが、ブログを書いた記念に代表的なものをスコアを見ながら聴きなおしてみました。
ひとつだけ加えておきますと、この曲はラヴェルが編んだ組曲版が2つ存在します。第1組曲の方が第1部の途中から第2部の終わりまで。第2組曲は第3部そのまま(導入部を省略)ですが合唱を省いて楽器に置き換えられてしまいました。ロシアバレエ団の経費節減につきあったわけで、ボロディンの「ダッタン人の踊り」がやはり同バレエ団の舞台にかかると「合唱なし版」という憂き目にあっています。ところで、ラヴェルがダフニスの5拍子の終曲「全員の踊り」を書いている最中、いつも「ダッタン人」のスコアがピアノの譜面台に置かれていたそうです。確かにどことなく似ています。ムソルグスキーの「展覧会の絵」の管弦楽編曲もするなどロシア趣味がラヴェルにあったのは興味深いことです。
ピエール・モントゥー / ロンドン交響楽団
モントゥーは当曲の初演者です。まず音価の取り方が正確、妥当なのが耳をひきます。誰も聴いたことのない段階でスコアを研究し音にした痕跡が感じられ、僕のようなタイプのリスナーにはとても気になる演奏をしています。例えば「夜明け」のピッコロのパッセージ(下の楽譜)の音価は雰囲気先行でいい加減な演奏が横行していますが、これが本物。そういう細部は忘れたとしても、どことなくオーセンティックな、1912年のパリのシャトレ座ではダフニスはこう鳴り、ラヴェルもこれを聴いたのだろうというという風情が感じられるのです。オケから立ちのぼる気品と
風格がそう思わせるのかもしれません。ひとつだけ気になることは練習番号196でテンポが落ちることですが、彼がアムステルダム・コンセルトヘボウを振ったライブ盤ではそれがほとんどなく理由がわかりません。後者はいま手に入るかどうか知りませんが、変幻自在なニュアンスと熱気があり、この曲がお好きな方は探してでもお買いになって損はないでしょう。これがアムステルダム盤(Live recording, Amsterdam, 23.June.1955)です。
アンドレ・クリュイタンス / パリ音楽院管弦楽団
ファンが多く当曲の決定盤とされるようですが僕の印象では緻密でなく芝居がかっていてオケのコントロールがやや甘いように思います。例えば、練習番号172のヴィオラ、チェロとユニゾンで重なるフルートのppのヘ音は低音域でよく響きます。それをあえて使うあたりがラヴェルの管弦楽法の妙で、シンセでここのフルートを演奏してみて感嘆しました。しかし当盤ではフルート奏者が無神経なヴィヴラートをかけオーボエの精妙な和声を台無しにしています。クリュイタンスはそういうことはお構いなしですがテンポやダイナミクスのメリハリは上手で説得力に富んでおり、「夜明け」で日の出とともに鳥があちこちでさえずりあたりがざわざわしてくる場面の生命感はこれが一番です。最後は納得させられてしまうという演劇型の演奏です。
エルネスト・アンセルメ / スイス・ロマンド管弦楽団
反対に冷徹、冷静、微視的です。「夜明け」はとても遅く太陽が昇りそうにありません。「全員の踊り」も熱くならず、スイスロマンドOの腕前も今なら学生オケレベルということでランキング上位入賞はまったく無理でしょう。ただオケの音色はクリュイタンス盤のパリ音楽院Oよりフランス的なほど素敵でラヴェルにぴったり。葦笛のようなオーボエなど感涙ものです。趣味の問題ではありますが、アンセルメの「クープランの墓」は最も好きなもののひとつでもあるように、演奏芸術はうまいへたでは計れないものということを知らしめる不思議な演奏です。
シャルル・ミュンシュ / ボストン交響楽団
反対に熱い。「夜明け」もアンセルメとうって変わって速く、クールな部分より動的な部分が光ります。フレーズの身のこなしが変幻自在でこの曲が指揮者の十八番であったことがうかがえる演奏。生き物のように流転するテンポと強弱の変化にボストンSOが敏感に反応しており、初めての方でもわかりやすい演奏でしょう。クリュイタンス以上に演劇型で僕はあまり好みませんがそういうタイプが好きな方にはおすすめできます。パリ管の方は、BSOに比べオケがずいぶん落ちミュンシュの良さが出ていない普通の演奏です。
ジャン・マルティノン / パリ管弦楽団
僕が好きでよく聴くもののひとつです。全曲盤でひとつといえばこの演奏を選ぶこともあるかもしれません。冒頭の神秘感はこれが一番で始まった瞬間にもう只者ではない感じが部屋に漂います。パリ管はミュンシュの時とは別なオケのようで、冷んやりとした弦の質感、色気のある木管、米国のオケのようにフォルテで下品にならない金管など見事。そのフランス風高級感のあふれる音素材を駆使した緻密なしかも気品にあふれたダフニスとなっています。静的でクールな場面、デリケートで敏感な弱音に知性とセンスの限りを尽くしている点、非常にプロフェッショナルな作曲家的アプローチと感じます。
ポール・パレー / デトロイト交響楽団
第2組曲というのは第3部しか聴けない上に、合唱が入っていません。どうして全曲版で入れてくれなかったのか!とうらめしくなるほどエレガントな名演です。合唱なしというのは、ディアギレフと対立までしてそれを入れた、そのラヴェルと対立することになりますからまったく支持できません。レコード会社の都合だったと思いたい。なにしろここでは決してうまいわけではないデトロイトSOが堂々たる真打の芸という風格を漂わせており、有名なフルートソロやパントマイムの歌い回しなどはもう至芸の域であります。ラヴェルが振ったらこうやったかもしれないというイメージが最も浮かぶ演奏であり、しぶしぶ第2組曲だけで選ぶなら文句なくベスト盤として推します。
ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
やはり第2組曲のみです。しかしパレーと違ってカラヤンが全曲演奏に興味を持ったとはそもそも想像できません。完全に華麗なオーケストラ・ショウピースとしてのアプローチであり、立ちのぼる気品やアロマといったインタンジブルな(触れられない)ものは無視して即物的な音響美の構築に徹しています。香水の薫りのないダフニスです。弦がブラームスを弾くような厚めの音でヴィヴラートとポルタメントをかけるのはまことに趣味が悪く、しかもベルリンPOにしては意外なほどピッチが甘く荒い。ffはうるさいだけでppのデリカシーは希薄。「全員の踊り」はアルルの女のファランドールとほぼ同じ曲として振っているのかなと首をひねります。
シャルル・デュトワ / モントリオール交響楽団
カナダでありながらフランス語圏の文化的伝統を身にまとっているオーケストラの色香が適度なホールトーンに包まれて実に美しい演奏です。録音のセンスの良さにおいて最上級のディスクのひとつでしょう。神秘性よりは上品なチャームを感じさせるアプローチであって、演奏タイプとしては演劇型なのですが、設計のうまさ、ディテールの磨き方、オケのバランスの良さ、演奏技術を考慮すると同タイプの中ではファースト・チョイスに値すると思います。どこといって群を抜くという演奏ではないのですがすべてにわたって偏差値が高く、今回全曲を聴きなおして改めて感動したことを記しておきます。
スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー / ミネソタ管弦楽団
第1,2組曲なので第1部の途中からなのが残念ですが合唱は入っているのがさすが!デリカシーに富み、音符ひとつひとつまで意味深い細部のこだわりにおいて一級品です。全曲にわたって指揮者の眼光がオーケストラの隅々まで届いている緊張感が素晴らしい。それでいて冷たい演奏ではなく、「夜明け」はたっぷりしたテンポでよく歌っており、弦のポルタメントもロマンティックな方向に傾斜を見せるなど、一筋縄ではありません。難をいえばミネソタOが一部で棒についていけていないことぐらいでしょう。ブーレーズを先取りした作曲家アプローチであり、その系統では最も傾聴すべき秀演です。
キリル・コンドラシン / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
ライブです。演奏は精密さには欠けますが録音がこの名ホールの音響をよくとらえています。第1部は幕開けの神秘感よりも若い恋人たちの踊りに重点があり、ロマンティックです。交響曲でも音画でもなく物語として語りかけるアプローチでしょう。全曲のピークはですから徐々に熱して爆発する「全員の踊り」にあり、ライブでないとこうはいかないという一期一会の壮絶な演奏が聴けます。ソ連の名指揮者コンドラシンが亡くなる直前にこのオケと残したライブ録音は選曲も良く、どれも高水準の名演と思います。
ユージン・オーマンディ / フィラデルフィア管弦楽団
第2組曲です。彼もカラヤンと同じく、全曲には興味のない人だったでしょう。オーマンディは何度かフィラデルフィアでライブを聴き、楽屋でお話しまでした親しみ深い指揮者なのですが、どうもフランス物はいけません。ひたすら名技と絢爛たる音を誇示する方向に聴こえます。それも誇示すべきフィラデルフィアの木管がフランス的でありません。もちろんオケのプレイの水準は高いですがこのオケならこの程度は普段着のままでできてしまうという演奏であり、あくまで趣味の問題ではありますがこれをお薦めする気にはなれません。
ジェラード・シュワルツ / アトランタ交響楽団
あまり知られていませんが、はっきり言って名演です。i-tuneで購入可能です。シアトルSOの響きはゴージャスに磨かれていて、相当気合を入れた練習を積んだのでしょうトップクラスに遜色なく、快速の「全員の踊り」の一糸乱れぬ快演はライブだったら鳥肌ものでしょう。米国オケの安っぽさは微塵もなくシュワルツのデリカシーと音楽の表情づくりもすばらしい。ドイツで買ったオリジナルのDelos盤はデービッド・ダイヤモンド作曲の「ラヴェルの思い出のエレジー」と組み合わさっていてラヴェルづくしであり、録音の良さもとても印象的でした。万人におすすめします。
ピエール・ブーレーズ / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団
旧盤です。77年、大学時代の米国旅行の折に買ったLPがこの曲の教科書になりました。春の祭典の稿に書いたことがほぼ当てはまります。スコアが眼前に浮かぶ精密さ、分光器にかけたような音彩、倍音まで伝わる完璧な音程とエッジのある録音。金の粉をふりまくようなフルート・ソロの素晴らしいこと。ただし、祭典ほどに微視的アプローチがものを言う音楽ではなくこれが絶対というほどの水準にはありません。例えば弦はクリーヴランドOより落ちます。ブーレーズらしからぬポルタメントはオケの流儀を放置した感。自分としては青春の記念碑のような愛着がありますが。
ピエール・ブーレーズ / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
同じく新盤です。これをベルリンで聴いたわけですが、あのライブは感動した割にどういうわけかほとんど細部を覚えておらず、このCDを聴いてああこういうものだったのかと改めて感じいる次第。春の祭典ほど新旧盤の彼我の差は感じませんが比べて聴いてみると、やはりとんがっていた頃のブーレーズの方が好きという自分の嗜好がはっきりします。この演奏のレベルの高さは、とはいえ尋常ではないのですが、ベルリンPOのウルトラ高性能に起因している部分が多く思います。ただその高性能があまりラヴェル的でないと感じる瞬間もあり、こうして「製品」になってしまうとこれにどうしてあんなに空前絶後の感動を覚えたのだろうとわからなくなります。芸術品の鑑賞というのはどうにも奥が深いものです。
(補遺、2月15~)
アルミン・ジョルダン / スイス・ロマンド管弦楽団
第1、第2組曲で。全曲ではない。96年にジュネーヴのヴィクトリア・ホールででこのコンビのラヴェルを聴いた。高雅で感傷的なワルツとボレロだった。ライブで聴いた最もラヴェルらしい音だったかもしれない。ジョルダンは音に語らせる指揮で外連味がなく、余計なドラマや安っぽいショーマンシップは持ちこまない。大人の味を楽しむ聴衆に混じって聴くラヴェルは格別だった。この演奏も、録音場所はヴェヴェイのカジノだが、あれを思い出す。まったく地味なダフニスだがフランス語圏の気取らないディナーで辛口のシャルドネが良く似合う。
ジョージ・セル / クリーヴランド管弦楽団
63年録音。第2組曲。全ての細部が白日の下にさらけ出され、夜明けの細かな音型がフルートからクラリネットに移ったのがわかる。セルの意図が明確なキューで音化されている様子で、各パートが精緻に磨きぬかれ、リズムのエッジが意識されスコアが見えるような風情なのは同じオケを振ったブーレーズの春の祭典に通じる。ただ、夜明けの旋律を受け取ったヴァイオリンをセルは深い呼吸で歌わせる。彼はブーレーズと違いロマンティックな指揮者なのだ。その歌が厳格なコントロールで表出できるか?できる曲とできない曲があろう。ドヴォルザーク8番の稿に書いたが、ラヴェルも色香が欲しくなる。
バーナード・ジョブ / ジョン・パトリック・ミロウ(pf)
ダフニスのピアノ版はソロ、2台ピアノとあり録音も多くあるが、僕は後者をこの録音でたまに聴いている。演奏は特にどうということもなく、夜明けは自分で弾いた方が満足感が高いが、そこから先はそうもいかない。ピアノでもあの音がするわけだが、スコアが実はピアノ的に書かれていることがよくわかる。管弦楽の色彩のぼかしでできた曲ではない、リズムも和声もピアノのソノリティでまず書かれたのであり、クープランの墓と同じくそこから管弦楽版の色彩を発想していったのではないかと思う。
フィリップ・ゴーベール / コンセール・ストララム管弦楽団
第2組曲の最も古い録音か(1930年、シャンゼリゼ劇場。作曲されてから17年後の演奏)。ゴーベールは両大戦間のフランスでパリ音楽院のフルート科教授、同学院オケとオペラ座の音楽監督という要職にあった。ラヴェルの「序奏とアレグロ」の初演メンバーでもある。音楽の流れは今の耳にも違和感がなく奏者の水準も高い。フルートソロの部分のルバートがないのが象徴するように全体にインテンポだが音楽の香気は随所に味わえ、パリの演奏家たちの能力に感服する。
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー/ モスクワ放送交響楽団
ソ連Melodiya原盤を多くコピーしていた韓国のYedang Classicsレーベル。録音は1962年で、CDにはUSSR State Radio&TV SOとクレジットしてあるが彼は61年から上記オーケストラ音楽監督に就任しているのでそちらだろう。2年目、32才の録音ながらオケ、合唱の技術と演奏の完成度は非常に高く、晩年のオケの掌握ぶりと高度な解像力はこの頃からだったことが証明される。厳密にいえば内声部のピッチなど完璧ではないが演奏の緊張度が高く録音が鮮やかに細部を拾っていて管の名技を存分に楽しめる。夜明けの終結部、オーボエのソロの部分で女性奏者の咳払いまできこえる「オン」な録り方は、それがHiFiとして売り物だった同時期のCBS録音に近く、こういう処でもソ連は米国を意識していたかと感じる。あんまり品の良い感性でなかったわけだが、それにしては一部のtuttiを除けば金管にソ連の下品などぎつさが抑え目で、遠近感やホルトーンとの溶け合いという全体のバランスも悪くないという指揮者の知性と耳の良さは特筆ものだ。この曲に俗に言われるフランスの香気はオケにあるわけでなく、スコアにあることを物語る。「夜明け」以降、鳥の声と幾分か癖のあるフレージングに好悪を分かつポイントがあるが、そこまでの前半は微細に耳を傾けざるを得ない繊細さにあふれ何度聴いても飽きることなく、フランス系の一流どころと比べても何ら遜色ない素敵なダフニスだ。
(補遺、2018年9月16日)
クラウディオ・アバド / ロンドン交響楽団
アバドのダフニスには物語を感じる。バレエというより劇だ。クロエが拉致されてからの夜想曲~3人のニンフの神秘的な踊りのテンポを落とした緊迫感。間奏曲のアカペラのデリケートなエロスが戦いの踊りのが野卑にかき消される危機感。やさしい踊りのクロエは色っぽい。ちょっとしたパウゼの空白まで生き、音楽の表情が実に豊かでなにやら映画のシーンが浮かんでくるという塩梅だ。LSOは感じ切ったppでそれにこたえる。ところが問題は第3部だ。夜明けは夢幻の光より楽器を感じてしまい平凡。そして全員の踊りの5拍子が全く興奮を喚起しない。第1部後半~第2部のドラマ性からは予想外、まじめなだけのエンディングでどうしたんだという程。よくわからない。
ウイルヘルム・フルトヴェングラー / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
第2組曲。夜明けは非常にスローで夜が明ける感じがしない。細部のデリカシーの集積ではなくクライマックスに極限までブルックナーのffのように盛り上がることに「夜明け」の頂点をおくユニークな解釈だ。フルートソロはテンポがぎこちない。全員の踊りに入る少し前に聞きなれぬ休止がある。5拍子はティンパニを強打し、やはりffの爆発を伴いながら徐々に熱くなりテンポも加速していく。コーダはさらに唐突に速くなり、なるほどフルトヴェングラーがやるとやっぱりこうなるかで予定調和的に終る。
(こちらもどうぞ)
ラヴェル バレエ音楽「ダフニスとクロエ」
2013 DEC 11 21:21:43 pm by 東 賢太郎
音楽による地中海めぐり、次はいよいよエーゲ海(ギリシャ)へ参ります。
僕は「ダフニスとクロエ」の「信者」です。この曲について拙文を書かせていただけるだけで無上の喜びを覚えます。音楽の中で最も高貴な部類に属すると信じており、ロンドン勤務時代に27.9ポンドで買ったフランスDurand社の管弦楽スコア(右)は長年座右にある聖書であり、やはりロンドンで88年に20.3ポンドで買ったそのリダクションである2手用ピアノスコアは、難解な聖書に一歩だけでも近寄らせてくださる有難き道しるべとしていつもピアノの傍らに鎮座しております。自分ごときが手を出せる代物ではありませんが、プロによるピアノ(2手、4手)の録音もあり、それでも十分に見事な音楽ということを知ります。どうしても我慢できないのでいわゆる「第2組曲」(夜明け、パントマイム、全員の踊り)はシンセサイザーを弾いてMIDI録音いたしました。音符が多くてものすごく時間がかかりましたが、神がこの水色の書物の中にお隠れなのだということを知り、今もアラジンの魔法のランプのように見えています。
経験したオーケストラコンサートで最も鮮烈な記憶として残っているもののひとつがピエール・ブーレーズがベルリン・フィルを指揮したダフニス全曲です。時はドイツ赴任時代の1994年5月24日、ベルリンのフィルハーモニーでの演奏でした。全身を耳にして聴き入ったこの世のものとも思われぬ美音と迫力に完全にノックアウトを食らってしまい、帰途につく間に友人とあまり言葉をかわすことができませんでした。そんなことはロンドンで聴いたマウリツィオ・ポリーニのJ.S.バッハ平均律第1巻とこの時と、人生で2度しかない故、体験というよりも事件という言葉の方がしっくりきます。
下は曲の冒頭のピアノスコアです。コントラバスとティンパニの低いイ音の上に弱音器付のチェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンが、天使の先導のように意味ありげなハープに導かれてホ、ロ、嬰へ、嬰ハ、嬰トと完全5度音程を積み重ねていきます。その次に来る嬰二、これは最初のイから増4度という最も「遠隔地」の音になりますが、それを弦ではなく初めてフルートが受け継ぐと、 薄明りのなかでぽっと妖しい光が浮かんだような幻想的な感じに捕らわれます。なにか超自然的な力が蠢(うごめ)くのを感じるのは僕だけでしょうか。夜明け前の霧がたちこめる暗闇のなか、大地が鳴動して幽かに生命の息吹が聞こえだすようなこの笛の音に、4度音程を積み重ねた四部合唱がひっそりとこだまします。あまりの神秘的な情景に金縛りになるようなこの冒頭は、いままさに大変な何かが産声を上げようとしているのだという神々しい予兆であるかのように厳粛に響きわたり、何度聴いても息をのみます。
この曲の特徴を書いてみましょう。まずは全曲に漂う、古代エーゲ海レスボス島の牧歌的な雰囲気です。それがフランス風の高雅で知的なエレガンスを身にまといます。海賊の凶暴な略奪や嵐や哄笑の描写でも下品になることがありません。若者のロマンスもべったりとした甘さで描かれることは一切なく、上等なスイーツのように風味本意で甘さは控えめです。それらがガラス細工のように繊細、精密な音の綾と虹色の色彩をまとった大管弦楽によって描かれているのです。ラヴェルは大団円の歓喜の爆発(全員の踊り)を仕上げるのに1年もかけていますが、出来上がった作品に細工の跡は一切聞こえません。全曲が人工美の極致であり、管弦楽という音のパレットから人間が創造することの許されるあらゆる「音響の奇跡」がちりばめられていると評して過言でないと思われます。ストーリーである「ダフニスとクロエ」はAD2-3世紀にロンゴスという人が書いた恋愛物語全4巻であり、少年と少女に芽生えた純真な恋とその成就が、恋敵との諍い・海賊の襲撃・都市国家間の戦争などの逸話を絡めて、抒情豊かに描かれている(Wiki)というもの。なお三島由紀夫の「潮騒」はこれの影響で書かれたと作者自身が明かしたそうです。音楽は3部に分かれますが、第3部(夜明け、パントマイム、全員の踊り)が「第2組曲」として頻繁にコンサート・レパートリーとして取り上げられています。
この曲の舞台がギリシャであることは、「夜明け」で響きわたるこのきわめて印象的なフレーズ、何かを告げる牧童の笛のように響きわたるピッコロひとつを聞いただけでわかります。
ギリシャ音楽を聞いたこともないので不思議なのですが、この笛がギリシャ、エーゲ海、アドリア海のイメージをビシッと耳に刻印するのです。イメージというならシャガールが「ダフニスとクロエ」を連作として描いていてパリのオルセー美術館にありますが、それはどうもピンときません。ヨーロッパ時代に2度、2週間ぐらいかけてラ・パルマという船とメロディという船で地中海、エーゲ海クルーズをしましたが、困ったことにその時に見た情景=ダフニスのイメージになってしまっているからです。右はドヴロフニクですが、それはこんなイメージです。
高名な「夜明け」の冒頭の管弦楽スコアをご覧になってみてください。この楽譜は視覚的にも、青い海原で水面のさざなみがご来光にきらめいて、たくさんの鳥たちが舞う空が荘厳なあかね色にゆっくりと染まっていく情景をイメージさせないでしょうか。
この2小節で和音が変わって主役がフルートからクラリネットに交代するのにご注目ください。この音域だと交代に気がつかないほど繊細な色彩変化であり 、ほのかに感じる程度です。しかしその効果が何とも文字にし難いほど絶妙であります。フルートの「息継ぎ」が必要ではあるのですが、音色を変えてみたいという意図もあったのだろうと推察いたします。しかし変わりすぎてはまったく興ざめです。あっさりと書かれているように見えますが、いや、この音域なら大丈夫だという確信があるほどに楽器の性能を知り尽くした達人でないとこういうスコアリングはできないのではないでしょうか。
背景では2小節目に弱音器付ホルンとヴィオラとチェロのハーモニクス(弦を押さえず軽く触れるだけで弾く)がそっとデリケートな風味を添える。音だけでも、ピアノだけで聴いても息をのむ箇所なのですが、それに極上のフレーバーがトッピングされている感じ。オーケストラの魔術師ラヴェルの職人芸が余人のおよぶ域でないことはこの1頁だけでも納得してしまいます。こんな精密さと極上感が全ページにわたって維持されているというのは、本当に奇跡のようなスコアです。
スペインの名指揮者ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスがRAIローマ交響楽団を暗譜で振った全曲が聴けます。曲を知りぬいた指揮はさすがです。ブーレーズのような緻密さとは一風違い、曲想を大づかみにしたカラフルな表現は初めての方にもわかりやすいでしょう。バレエ音楽なのでストーリーに音楽が対応しているわけですが、ビジュアルがないと持たない音楽ではなく、私見ですがバレエだと舞台上の足音や雑音がむしろ邪魔で音楽に集中できません。作曲時に、あえてコストのかかる合唱を入れたラヴェルに発注者のロシアバレエ団社長ディアギレフが文句をつけたそうです。そんなものいらないだろうと言ったわけですね。僕は合唱ではなくバレエの方がいらないだろうという立場です。音楽だけまずじっくりお聴きになってください。
(こちらへどうぞ)
ラヴェル ピアノ協奏曲ト長調
2013 OCT 6 20:20:21 pm by 東 賢太郎
この協奏曲とつきあってかれこれ40年になる。初めて出会って、ひと目惚れだった。今もって恋愛関係にある。なぜかといって理由はない。自分の内のことだ。わからないことはみんな遺伝子の記憶のせいにしてしまおう。
いきなり鞭(ムチ)がピシッだ。アブナイ。のっけからハイなのに、だんだんジャズのノリになって暴れまわる。ちょっと色気をみせるがすぐに調子はとっぱずれだ。第3楽章などもう野趣あふれてゴジラのテーマなんかに化けてしまう。大変なじゃじゃ馬女である。
第2楽章。だからこれがぐっときてしまうのだ。これがあの彼女か?どうしてこんな・・・。僕にとって、きれいな女性を音にしたらこうなる。
冒頭のピアノのモノローグだ。3拍子に聞こえるが、そして、たしかに3拍子で書いてあるが、譜面はこうだ。
耳が知覚する3拍子はだましで、1・3・5を強拍に弾くとおかしくなる。均等に弾けばバスの1・4でズンチャッチャに聞こえる。ところが右手の3/4の2つ目の4分音符は左の弱拍に当たって全体として拍節感は希薄だ。つまり右手と左手がよそよそしく他人行儀なのだ。しかも、いきなり第2小節で左手のg#に右手がaをぶつけて仲違いまでする。
全くそりの合わないカップルという風情だ。
そのまま二人は歩く。手をつないで。そしてだんだん想いが高まってくる。そうして、いよいよだ。そーっと木管が入ってくる。フルート、オーボエ、クラリネットの順に。
このページの美しさはこの世のものとも思えず筆舌に尽くしがたい。モノトーンだった世界に打ち震えるフルートが青白い光をぽっと浮かべ、オーボエが最高音域のeで愛を切々と訴え、クラリネットが感極まってd#まで登りつめてそれにこたえる・・・。
イングリッシュホルンのソロで主題が再現しトリルを経て嬰ハ長調(C#)になるところ(練習番号9)、G#mが深い陰りを添えると、一転してf# のバスにAmaj7が乗った素晴らしい和音はギリシャの神殿のようで、パンの神のフルートが高いg#を朗々と響かせる!!あまりの荘厳さに凍りつくしかない。
第3楽章。話題の品が落ちるが、よく知られている「ゴジラのテーマ」というのがある。巨人時代の松井秀喜の登場にも使われていた。
伊福部昭がここから発想したかどうかは知らないが、僕にはどうしてもこれに聞こえる。
ジャズっぽいイディオムとともにピアノは打楽器的に使われていて、速いファゴットのパッセージなど人を食ったラヴェルが顔を出す。最後の一撃は低音がト長調のバスだからgであるべきだが、ピアノの最低音aを書きこんでいるのがいかにもラヴェルだ。どうせ聴く者にはわかんないんだから音がでっかい方がいいだろうということだ。
ちなみにyoutubeにこんなのがあった(全曲)。学生の演奏会だろうか(違ったら失礼)。
第2楽章がとても良い。loveに満ちている。こう弾きたい。これは大家が弾けばいいという音楽ではない。これが自分の指から紡ぎだされると、恍惚の地にさまようことになる。恋愛から覚めることは永遠にないだろう。
この曲には、もうこれ以外は不要という決定的な録音が存在する。僕はけっこうストライクゾーンは広く、よほどのものでなければNOはない。だからCDはいつも複数をご紹介している。しかし、極めて例外的だが、この演奏ばかりは他を軒並みKOして聴こうという気にもさせてくれない。今後もこれ以上魅力がある録音が出る可能性は限りなくゼロに近いであろう。
サンソン・フランソワ(pf) / アンドレ・クリュイタンス / パリ音楽院管弦楽団
フランソワ(1924-70)はフランスの生んだ天才だった。練習嫌いで酒びたり。アル中とクスリで早死にしてしまった。この録音こそはそんな彼のベストフォームと断言しよう。タッチは七変化だ。ラヴェルが書き込んだ千変万化の表情をこんなに雄弁に描き出せた人はな
い。例えば、第1楽章の右手の長いトリルを聴いていただきたい。ピアノが泣いている!ギターでなくピアノを泣かせたのはフランソワだけだ。しかしよく聴くと、トリルが一人で泣いているのではない。この部分の左手は併録の「左手のための協奏曲ニ長調」に似た主情的な書法であり、和音をつけるその左手の生み出すテンポ、フレージングの微妙な陰影と情緒が上声部のトリルを歌わせているという、驚くべき高度な演奏がなされているのである。そしてさらに驚くべきことは、指揮者クリュイタンスが個性の強いフランソワのオーラにぴたりと波長を合わせて寄り添っていることだ。ホルンにしては超高音域の弱音のソロを聴いていただきたい。ちょっと触れても壊れてしまう極限のデリカシー。泣きにはこれでなくては。フランスのホルンの極薄の絹を思わせる音色だからこれができる。これも繊細の極致であるハープのハーモニクスが旋律を爪弾く。第2楽章の木管の入り、超高音で金の粉をふりまくフルート、オーボエ、クラリネットの気品と色香はどうだ!鄙びたイングリッシュホルンの旋律には陶然とするばかりで薄明の光がさして我に返る。終楽章のラプソディックな推進力も魅力だ。いくら音楽が熱してもラテン的な透明な感性のままであり、重くなったり粗野になったりしない。ドイツやロシアだとこうはいかないのだ。今やこういう音のするフランスのオーケストラは消滅した。こういう感性のピアニストは均質的なコンクール競争で排除されるだろう。このラヴェルは世界遺産ものの希少品だ。曲への愛も含めて僕の無人島CD候補の有力な1枚である。
(補遺、16年1月30日)
ニコール・アンリオ=シュバイツァー(pf) / シャルル・ミュンシュ/ パリ管弦楽団
はっきりいってピアノはうまくない。両端楽章は危ないパッセージもある。それでも書くのは第2楽章が抜群にいいからだ。テンポは遅いが味が濃く、これだけデリケートにたおやかなニュアンスで弾かれたものは他に知らない。ppに感じきっておりmf、f も控えめで乳白色の霧の中を歩くようだ。オケもピアノ同様に高貴な味わいで、巷のムード音楽のような演奏とは一線を画する。ミュンシュ最晩年の録音だが老境で回顧した恋のようでもある。
アブデル・ラーマン・エル=バシャ(pf) / マルク・スーストロ / ロワール・フィルハーモニー管弦楽団
フランスのローカル・オーケストラのおいしい味が趣味の良い録音で楽しめるCDで大事にしている。といって技術に難があるわけでなく、立派な演奏だ。ピアニストには常人ばなれした記憶力の持ち主がいて、このレバノン系フランス人のエル=バシャ は協奏曲60曲のレパートリーを持ちショパン全曲を暗譜で弾くらしい。このラヴェル両曲、特に個性はないがまったくもって模範的でハイセンスな演奏といえ、残響の心地良いホールトーンと適度な解像度のある録音が最高。おすすめだ。スペイン旅行で買った思い出のCDだが今はi-tunesにabdel rahman el bacha ravelと入れると1500円で買える。
youtubeにあったこれ、ブランカ・ムスリン(1917-75)というクロアチアの女流のピアノ、ウイルヘルム・シュヒター指揮ベルリン交響楽団の演奏。
シュヒターはN響の常任指揮者で厳しい練習で有名だった。このラヴェルは頭がくらくらするぐらい素晴らしい。upされた方に感謝。
アレクシス・ワイセンベルク / 小沢征爾 / パリ管弦楽団
なつかしい。浪人中にまずフランソワ盤、そして2枚目にこれを買ったのだった。右のLPがそれで、これも非常に気に入っていた。若かった小澤さんが凄い。才能がほとばしる。ワイセンベルグも一緒に突っ走る。第2楽章、僕が自分で弾くテンポもこれだったんだんなあ・・・刷り込みは恐ろしい、三つ子の魂か。木管はクリュイタンスが上を行くがこれだってそう負けてはいない。僕も若かった。
ジョン・アイアランド ピアノ協奏曲変ホ長調
エリック・パーキン / ブライデン・トムソン / ロンドンフィルハーモニー管弦楽団
アイアランド(1879-1962)はスコットランド系イギリス人。チャネル諸島が好きでその風景を愛した。フランクフルトにいた頃、僕らはアイルランドにゴルフに行って、時間があったのでキンセイル(Kinsale)という南岸の港町で昼飯を食べた。諸島はそのすぐ南だ。それがアイリッシュ風フレンチとでもいうもので、抜群に美味であった。こういうのは体が覚えている。その経験からだろうか、このピアノコンチェルトにはフランスの、特にラヴェルの風味を感じてしまう。似たフレーズが出るというような具体的な相似はなんらないのだが、どことなく味が共通なのだ。ラヴェル好きの方は聴いてみて損はない。
(こちらへどうぞ)
ラヴェル 左手のためのピアノ協奏曲ニ長調
クラシック徒然草-愛器アウグスト・フェァシュター社ピアノを調律してもらう-
2013 SEP 8 0:00:14 am by 東 賢太郎
今日は1時からピアノの調律をお願いしました。ご近所にお住いの本邦調律界の大御所U先生にうかがったところ、ウチのアップライト(右)は旧東独のAugust Förster社製のものなのですが、日本にはあまりないとのこと。ぜひ見てみたいと初回は大御所本人が来てくださいました。その時に「将来を嘱望する若手のポープなので勉強させてやって下さい」と同伴されたのが白田先生でした。
今日は先生の2回目でした。これともう一台ヤマハのグランドをお願いし、いろいろうるさい僕のわがままを聞いていただいて終わったのは6時すぎでした。このアップライトは確か85年にロンドンのマークソン・ピアノで購入したものです。何台か弾いてみて、ひと目惚れで即決したのがこれでした。長女がロンドンで生まれたのが87年だからはるか先輩格に当たりますね。別に高級品ではないのですが、それ以来、我が家と一緒にロンドン→東京→フランクフルト→チューリッヒ→香港→東京と長旅を共にした家族としての絆を強く感じています。
調律は時間とともに少しづつ狂ってきます。それが耐えられなくて僕は調律用のハンマーをスイスで買って、自分で微調整などしてきました。しかし調律はピッチだけの問題でないのです。それが最近わかってきました。そこで今日は先生が「どんな風にしますか?」と聞くので「ラヴェルの音でお願いします!」とわけのわからんことを依頼しました。まるで床屋の会話です。「うーん、ラヴェルですか、クープランの墓?そうですね・・・・」だいぶお悩みの様子。「やってみましょう、でもこのアウグストのせっかくの音をいじるのはやりたくないですね。ヤマハの方でやりましょう」ということになりました。
そこから休みなしで3時間半。隣の部屋のヤマハは見事にベーゼンドルファー寄りの音に生まれ変わりました。それに感動し、先生に感謝の意をこめてこのブログを書くことになったのです。クープランの墓の一部、ショパンのワルツ、グリーグのコンチェルトのさわりなどを弾いて聴いてもらい、ほぼ音は問題なしとなって残り時間でアウグストを仕上げてもらいました。そっちではシェラザードの第1楽章を全曲、ダフニスとクロエの夜明けのところ、ドヴォルザークの8番などを。ミスタッチだらけでとても人様に聴いていただく水準には遠いのだけど本人だけは指揮者気分で満足。これがあるから僕は生きていけるのです。
先生から「ピアニストのどこで演奏を評価してますか?」というご質問。「指の回りではなく①フレージング②和音のバランスです」と答えました。「意外に好きな人が少ない。アラウだけ別格です。ミケランジェリはいいですがポリーニもアルゲリッチもリヒテルも今は聞く気がしない」とも。「ラヴェルはフランソワはどうですか?」ときたのですが、「録音がひどい。EMIの音にボディがない」ということで意見が一致しました。先生のイメージではラヴェルはベーゼン。楽器の音色のイメージをきくと「カワイは円筒、ヤマハはその円筒の中に円錐が入っていて2重、スタインウェイはさらにその円錐が2重になっているイメージを持っているんです。だからベーゼン。」と素人にはまったく理解不能の答えが返ってきました。「チッコリーニがファッツィオーリでベートーベンを弾いたのがなかなか良かった」という感想で、かなりお好みのイメージがわかってきましたとのことでした。
最後に先生に、「だんだんこういう音にして欲しい」と言って、ラヴェルを2つ、①アンヌ・ケフェレックの「水の戯れ」と②イヴォンヌ・ルフェビュールのト長調協奏曲の第2,3楽章をリスニングルーム(右)で僕の装置でじっくりと聴いていただきました。両者の音色の比較をああだこうだとプロの視点から詳しく教えていただき、大変勉強になりました。それなのに、「これはたぶんベーゼンだろうなあ・・・・ただ調律が特別ですね・・・・こういう音が出せるんですね。勉強になりました」と謙虚に語ってお帰りになりました。いやピアノひとつとっても音楽は奥が深いものです。この装置は1人で聴いていてももったいないし、先生のような方にお役にたてるのであればうれしい限りと思いました。楽器の方もヘタの横好きにばかり弾かれていてもかわいそうです。プロをお招きしてミニコンサートをやっていただくこともSMCで考えようと思っています。
ラヴェル 「クープランの墓」
2013 AUG 27 17:17:23 pm by 東 賢太郎
この曲をピアノで弾きたいというのは僕の人生の夢である。
僕は他人から何かを習うということに生まれつき適性がない。独学というと聞こえはいいが、要は手足は不器用であり、知識は自分なりに腑に落ちないと覚えられないので仕方がない。だから学校の教室で何か習得した記憶があまりない。予習してわかればもう授業は不要だ。授業でわからないから復習という自習が必要だ。なら最初から自習だけでいい。すべては自習して初めて「ああそうか」となるから、人生万事自己流である。野球もゴルフも大事な部分は他人に教わったことはない。先輩にこうやれと命令されても、はい!とやるふりだけだ。そして、問題のピアノも、誰かに習ったことはない。
ピアノに触りだしたきっかけはこうだ。僕のラヴェル好きの起源はこの「クープランの墓」という曲にある。これを弾きたい。高校時代にそういう強い願望がむくむくと湧きおこり、ヤマハで楽譜を購入(けっこう高かった)。妹のピアノでいきなりチャレンジを開始した。バイエルとかチェルニーとか、そんなものはぜんぜん興味がないからやらない。この曲だけ弾ければいいんだからという妙な理屈があった。自習の末、ハノンだけは必要と悟ってさらったが、それだけ。四則計算だけ覚えて微分積分にとりかかるようなものだ。まさしくドン・キホーテである。
「クープランの墓」は1.プレリュード、2.フーガ、3.フォルレーヌ、4.リゴードン、5.メヌエット、6.トッカータの6曲からなる曲集だ。以来40年、恥ずかしながらいまだ6曲のうちひとつも弾けない。当たり前だ。最後の「トッカータ」はラヴェルの書いた最も難しい曲であり、作曲者が自分で弾けなかった。古今東西あまたあるピアノ曲のうち、スタジオでの録音にもかかわらず、この曲ほどミスタッチやら指のもつれやら記憶違い?がきざまれたままのCDが堂々と天下に流通している曲も珍しい。大先生方も、これ滅茶苦茶難しいし録音し直してもたぶんおんなじだからこれでいっちゃってくれる?ということだったかもしれない。
つまり天下の難曲なんだトッカータは。まあ譜面を見ただけで論外だが・・・。メカニックな運指と運動神経を問われる4曲目の「リゴードン」はあきらめる(くやしいなあ・・・・)。2曲目の「フーガ」は指がもつれて無理だし暗譜がむずかしい。そうすると残るのは1曲目の「プレリュード」、3曲目の「フォルレーヌ」、5曲目の「メヌエット」だ。そういうことが発覚した。そしてついにフォルレーヌだけはかなり危ないが一応なんとなくインチキ指使いで暗譜した。7-8年前のことだ。ところがだ。会社をかわったりしてピアノどころでなくなってしばしご無沙汰しているうちに、指がすっかり忘れてしまった。何ということか!これが独学の、つまり僕の人生の悲しさだなあと思った。
だがあきらめる気はない。プレリュードの和声変化は弾いていてめくるめく快感がある。メヌエットは本当にきれいだ。きれい。一応やさしいが装飾音符がくせもので後半が意外に覚えにくい。そしてやっぱりフォルレーヌだ。ワサビのきいた不協和音で始まるが次々と玄妙な和声が現れて自分ではっと息をのむ。ちなみにウチの家族はこの不協和音が嫌いだ。弾くといやがる。僕が下手なんじゃない。そう書いてあるんだ。これはもう感性の問題でラヴェルがだめな人もいるということを知る。一方僕にはラテン文明の香りがむんむんしてくる。フランスかスペインかイタリアかギリシャかは知らない。とにかくラテンであり地中海世界だ。それが僕は大好きであり、だから3回もローマへ行ったりしているし地中海やエーゲ海のクルーズも2回やっている。あのきらきら輝く紺碧の鏡のような海は僕にとってイタリアオペラでもローマ3部作でもなく、ラヴェルそのものである。
ラヴェルを聴くというのは、自分の中に秘められている得体のしれないラテン好き本能を呼び覚ます、いっぱしの儀式である。彼が感性で選んで書き取った音は、どこか奥深いところにジーンと共鳴してくる。理屈はない。日本人がお米を食べるとなぜかおなかが安心する。そんな感じだ。いや、そういう音楽はほかにもあるが、ラヴェルは「お米が立っている」感じがする。無性においしい。僕はフランスでいうとパリ近郊のバルビゾンが大好きだ。事情が許せば余生はあそこで送ったっていいぐらい。あの洗練。片田舎なのにしゃれていて、一幅の名画を切り取ったみたいな垢抜けた街の風情を「いいね」と思う感性と、ラヴェルを「いいね」と思う感性は、僕の中でほぼ合致している。こういうことはベートーベンやブラームスの音楽では考えにくい。
ラヴェルの譜面の楽典分析みたいなことは、やってみたい気はするが生産性はあまりないだろう。彼はドイツ流儀の形式ばった曲よりも自由な構成や和声によって、何らかの詩的なイメージを喚起する曲を作るのに長けていた人だ。それは先人の誰とも似ておらず、後世の誰も模倣ができない独自の個性だった。2度、7度、9度、11度、13度の入り混じった和声はラヴェル的な世界、不協和ではあるが不思議と苦みやテンションが多くはなくて地中海の空気みたいにアルカイックで乾いている世界を象徴する。モネが時々刻々と光彩が無限に変化していく様を描き出した方法を印象派と呼ぶなら、ドビッシーの交響詩「海」も印象派の音楽といえるだろう。しかしラヴェルは「ダフニスとクロエ」でそれが完璧にできる作曲技術のあることを証明はしているが、彼の音楽の本質は印象派的ではないように思う。
ストラヴィンスキーが「スイスの時計職人」と評した彼の絶妙な管弦楽法はなにか具体的なもの、それが景色であれ光彩の変化であれ、そういう具象を描くというよりももっと抽象的な音素材として機能しているだろう。質感とでも呼ぶか、たとえば海の表面が波立っているのか鏡面のようになだらかなのかを感じさせる素材としてだ。ドビッシーの「牧神の午後への前奏曲」はものうげなフルートソロで開始するが、あの旋律はフルートという楽器の音で発想されたものであることは、楽器の機能上鳴りにくいド#でわざと始めていることからもわかる。「海」の第2楽章でもそれを感じる。ドビッシーは自身のピアノ曲を管弦楽に編曲することはなかった。音楽の発想と楽器がおそらく密接に結びついていたからだろう。たとえば2つの前奏曲はまぎれもなくピアノという楽器音で発想された音楽であり、「亜麻色の髪の乙女」を管弦楽でやってみても砂糖菓子みたいなものにしかならない。ピアノでしか表現できないアウラであり、ピアノがスタインウエイかエラールかまでも問うほどにピアノ的に研ぎ澄まされた音楽なのだ。
一方のラヴェルは、自身のピアノ曲の管弦楽編曲は枚挙にいとまがない。彼の脳の中では音楽と音彩(色)は別個のものだったのだろうかとさえ見える。だから、オリジナルは6つのピアノ曲であるクープランの墓から4つを選んで管弦楽に編曲するにあたって彼がオーボエを重用したからといって、それが牧神の午後のように音楽そのものの発想段階で何かを表そうとした結果の楽器選択だったということはたぶんないだろう。たとえば、ラヴェルは同じくオリジナルがピアノ曲である「展覧会の絵」をトランペットで開始した。それは音楽そのものの発想との関係は絶対にない。なぜならムソルグスキーという他人の書いた音楽だからだ。ところがあのプロムナードの曲調にはトランペットがあまりにぴったりであって、ムソルグスキーがそれを望んだに違いないと誰もが疑わないほどだ。ラヴェルの管弦楽パレット使いの天才とは、そういう性質のものだ。
彼のピアノ曲を聴いたり解釈したりする場合に、ピアノにおいて彼がオーボエのような音彩をピアニストに求めていたこと、そういうイメージをもってプレリュードを弾いたら感知できるようなアウラを描きたかったのだということは言えるだろうが、それが絶対のものであるなら彼はクープランの墓を管弦楽曲として作曲していただろう。ここがドビッシーのピアノ曲と本質的に違うし、ピアノの音を絶対として作ったと思われる「夜のガスパール」とも違うのだ。クープランの墓というのは光の当て具合で色調の変化するダイヤモンドのような音楽であり、どこから見ても、何度見ても、その高貴な光に魅了されて幸福感を味わうことのできる逸品なのである。
この曲をピアノで弾きたい・・・・。
僕の人生の夢だ。甲子園で全国制覇して天下無敵だったころ、松坂大輔はこう言った。「夢ですか?ありません。夢というのはかなわないものですから」
それが夢だとわかる程度には、僕のピアノの自習は残念なことに進んでしまった。高嶺の花に惚れてしまった宿命だ。ずっときれいなままでいてもらいましょう。
以下、僕が好きなこの曲の演奏をいくつかご紹介する。
イヴォンヌ・ルフェビュール(ピアノ)
ルフェビュール(1898-1986)はフランスの女流。9歳のときパリ音楽院の神童賞を受賞し、12歳でデビュー。コルトーの弟子でありディヌ・リパッティ、サンソン・フランソワの先生でもある。残っている録音は少ないがフルトヴェングラーの指揮で弾いたモーツァルトの20番の協奏曲が名高い。このクープランの墓、プレリュードの音の粒だった流れるような演奏からしていきなり彼女の世界に引き込まれる。微妙なテンポの揺らぎが各所にありフォルレーヌはトリルを長めにとるなど個性が際立った演奏だが、これぞラヴェルの音だ。高齢での録音故にトッカータで指が回っていないが安全運転に陥らず凛とした姿勢で弾きとおす。ぴんと背筋を伸ばして馬にまたがった貴婦人というイメージだ。なんら威圧的なものはないが、俗人が触れてはいけない高い知性と気品のようなものを感じる。
ジャンルイジ・ジェルメッティ / シュットゥガルト放送交響楽団
これぞ地中海のラヴェルである。えっ、ドイツのオーケストラじゃない?いかにも。でも出てくる音はまぎれもないあの青い海だ。ジェルメッティは94年にシュベツィンゲン音楽祭で ロッシーニのスターバト・マーテルを聴いていたく感心した。宗教臭さのないからっとした演奏だった。このクープランの墓の木管を聴いていただきたい。どうやってこんなにラテン感覚の音になるんだろう?音楽は前へ前へ流れる。しなやかな黒豹みたいに。かと思うとリゴードンの中間部は超スローになったりする。そうやってフレーズは歌いまくる。内声部まで歌っている!なんともセクシーなのである。ついでに「道化師の朝の歌」を聴いてみよう。これぞ最高のメリハリだ。なんて小気味よいリズムだろう。けだるいファゴットのソロ。酔っぱらいの千鳥足。もう漫画の一歩手前だがこういうあざとさがツボにはまって悪趣味にならない。ボレロは歌とリズムの饗宴だ。あのトロンボーンまで歌ってしまう。一方で合いの手のキザミまでスタッカート気味にして小太鼓の興奮に加わっていく。実にすばらしい。ジェルメッティさん、どこかイタメシ屋のおやじという風貌だがどうしてどうして、彼はあのチェリビダッケ、スワロフスキーの弟子というサラブレッドなのだ。地中海好きの僕にとって、一生座右に置くこと必須の希少な一枚である。
セシル・リカド(ピアノ)
また女流になるが、この演奏も好きだ。ピアノはパステル調の落ち着いた音色でいわば非ラヴェル的だ。湿気を帯びている。それがメヌエットをシューマンのトロイメライみたいに響かせている。リゴードンの中間部がやはりスローになるが、ジェルメッティが空気に湿り気がないのにたいして彼女のはウエットでロマンティックなのだ。ペダルも多い。そんなのはラヴェルでない?そうかもしれない。それでもプレリュードの絶妙なタッチとテンポのゆらぎはやはり陽光にきらめく地中海だ。海はあまり青くなくて僕には灰色がかっている。速めのフォルレーヌには舞曲を感じる。トッカータは破たんもあり得るテンポでリスクをとるが彼女はそういうことにたぶんあまり重きを置いていない。感じたままの勢いで音にしたい。そう聞こえる。だってこの曲好きなんだもん、という風に。好きは通じ合う。フィリピン系のリカドはホルショフスキーに学び、あのルドルフ・ゼルキンが唯一とった弟子だ。
スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ― / ミネソタ交響楽団
VOXからこのコンビの10枚組が出ていたが中古で見つけたら迷わず購入をお薦めする。このクープランの墓はi-tuneで買える。非常に微視的視点から人工的に磨き抜かれた非ラテン的、非地中海的ラヴェルであるが、この魅力には抗しがたい。これだけ見事なオーケストラの音はそう聴けるものではない。時差ボケで眠い中、この完璧なピッチを耳にして脳細胞が立ってしまい、一気に覚醒した。ブーレーズがCBSに残した旧盤(下記)もいいが、これの方がよりその路線で徹底している。これがライブであれば、普段は演奏中にプログラムをめくってごそごそやる人たちも身を固めて聞き入るしかないだろう。トランペットの音色がアメリカ風に安っぽいので浮いてしまうなどご愛嬌もあるが、ラヴェルのスコアがいかにすごいものかじっくり味わうにはこれしかない。一部だけ最近SACDフォーマットで出たが、全曲やるべし!
アビイ・サイモン(ピアノ)
これはホロヴィッツじゃないのか?いやもっと詩情があるぞ、ちがうだろう。ブラインドテストすればそういう声すら出そうだ。アビイ・サイモンがリサイタルをやると客席にはプロのピアニストが大勢押しかけたそうだ。そういえばロンドンのバービカンでミケランジェリを聴いた時、僕の目の前の席の禿げ頭はアルフレート・ブレンデルだったなあ。ロイヤル・フェスティバル・ホールのリヒテルの時は内田光子さんが聴いていたっけ。サイモンはそのクラスのピアニストだ。VOXという廉価版レーベルで出て日本では大きく勘違いされているが、他人の言うことは一切無視してよく聴いていただきたい。リゴードンの節回しなど癖は各所にあるが、それは余裕のなせる業だ。これはショパンなんじゃないかと思ってしまうほどピアノが簡単に、しかも深々とボディのある音で鳴りきっている。そしてトッカータ!弾くことに汲々とした凡百の演奏などとは別次元の世界を見せてくれる。バカテクだけの剛腕でもない。フォルレーヌの玄妙な和音のつくり方なんか、もうため息もののバランスの良さだ。彼のリサイタルのチケットを買ってしまったことを後悔したピアニストは一体何人いたのだろう。
エルネスト・ブール / 南西ドイツ放送SO
上記ジェルメッティ盤は入手困難と思われるので挙げておく。こちらもドイツのオーケストラ(バーデンバーデンのオケだ)ながらフランスの香気がただよう。ブール(1913-2001)はストラスブール音楽 院で学び、シャルル・ミュンシュに師事しストラスブール・フィル、歌劇場を経て上記オケ首席指揮者に就任したフランスの指揮者だ。ラヴェルを知り尽くした職人が紡ぎだすアロマは古き良き味があり、その上質の演奏をヨーロッパ調の良い録音で楽しめるのは値打ちがあり、僕は時々取り出して聴いている。
ピエール・ブーレーズ / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団
妖しい光沢と光彩を放つ木管がかぐわしく、金管もブラッシーでなくラヴェルにそぐわしい。それらがほのかな倍音をまじえて精妙に交差するブーレーズCBS時代の音は上品なステンドグラスを見るようで、時に聴きたくなる。ただ、美しいがフランスのアロマは希薄で、弦がメヌエットでポルタメントをかけるなどブーレーズっぽくない表情を呈しており、春の祭典や海とはスタンスの変化を感じる。前奏曲主部の後半、チェロやファゴットの横の線がくっきり出るのに最初は驚いた記憶がある。それでもこういう音のする録音は他に求め難いのだから、オンリーワンの価値は永遠なのだ。
アレクシス・ワイセンベルグ(pf)
大学3年のときに展覧会の絵と組んだLPを買い、ずいぶん聴きこんだ演奏。いま聴きかえしたが独特な感性で包み込んだクープランだ。速めの前奏曲はしかしほのかな色香をたたえ音色のパレットが豊か。フーガをこんなにきれいにすいすい流れるように弾いた人はいない。フォルレーヌはテンポが即興的に動くが渋みある和声をこんなに感じてならした人もいない。リゴードンには青い色が見える。メヌエットはなんと自分で弾くテンポではないか。これが刷り込まれていたことを知って驚いた。美しい。トッカータはしずしずと始まるが低音の強い打鍵をまじえ徐々に音楽は熱していく。微細なミスはそのままにライブっぽい感じもある見事な演奏。これは一聴の価値ある名演だ。
サンソン・フランソワ(pf)
評判の高い演奏だが、繰返しがなく奏者の愛情がそうあったとも感じない。前奏曲は平板なうえに速すぎる。これでは香気をぜんぜん感じない。フーガはモノトーンで黒っぽい。フォルレーヌは遊んでおり即興的だが、フレージングが奇矯だ。リゴードン主題でいきなりテンポを揺らすのはアビー・サイモンもそうだが好きでない。中間部にひとつ音の変更があるのが意味不明だ。メヌエットにもある。なんじゃこりゃ、不快極まりない。トッカータはいきなり快速だが弾き飛ばした観を禁じ得ない。コンチェルトであれほど感涙もののラヴェルをやっているフランソワをこき下ろすことになるとは不幸なことだが、そうなんだから仕方ない。
ベルナルト・ハイティンク / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
誰もほめていないが、これは美しい。名演だ。75年のアナログ録音はいかにも典雅でオケのピッチとセンスの良さは最高級。中間色の微光を発する宝石のよう。フォルレーヌの付点音符の弾みなど品を損なわずに音楽に躍動を与えており、ハイティンクの趣味の良さを知る。メヌエットの中間部の盛り上げなどこなれていない部分もあるが、リゴードンの素晴らしいホールトーンとACOの名技を聴くと忘れてしまう。おすすめ。
アンドレ・クリュイタンス / パリ音楽院管弦楽団
我が国オールドファンにとって、神格化され奥の院に祭り上げられた聖なる録音である。これを貶した人は寡聞にして知らない。しかし僕は聴いたまま正直に書く。冒頭のオーボエの切れぎれのフレージングは技術的なものかどうかともかくいただけない。ACOを聴いてしまうと管も弦も弱く今なら音大のオケのほうがよほどうまい。フォルレーヌのイングリッシュ・ホルンなど音程まで悪い。メヌエットは中間部の低い管のピッチがひどく、僕には耐えられないレベルである。リゴードンは縦線はほぼ無視。こういうファンダメンタル(基本)を欠いていて、フランスのエスプリだなんだといっても音楽というものは始まらない。高島屋、三越がヨーロッパだった時代の産物だ。
エルネスト・アンセルメ / スイス・ロマンド管弦楽団
パリ音楽院Oを下手くそと言った評論家はいなかったが、こっちは言われた。同じようなものだが僕の趣味としてはこっちのほうが圧倒的に、いい。まずこの曲の主役といえるオーボエだが、この葦笛のような音色はいまや絶滅した貴種でありまさしく最高である。前奏曲の主題、フォルレーヌの中間部の高音、メヌエットの主題など聴いてほしい。ふるいつきたくなるほどセクシーで魅力的だ。そして冷静に進みながらもそっと香り立つ高貴なフレージング、管弦の音のブレンド、冷んやりした音色、和音の倍音の混合、安っぽいところが微塵もなく、こういうのを貴族的というのだ。クリュイタンス盤はもう聞けなくても何の悔いもないが、アンセルメ盤はブーレーズより上位にある座右の銘盤である。
ポール・パレー / デトロイト交響楽団
目隠しして聞かせたらこれが米国のオケと誰が見抜くだろう?今のフランスのオケなどこれよりずっとアメリカンだ。前奏曲のテンポは速いが、ギャビー・カサドシュ(ロベルトでない、奥さんの方だ)の録音が同じく速いのにオーセンティシティのオーラを放っているのと同じで、うーんこれだと唸るしかない。フォルレーヌも速くヴァイオリンがスタッカート気味だがこのテンポなのかもしれないなあ。中間部の色香はどうだ。メヌエットも速め。これは僕にはちょっと素っ気ないし管もいまひとつだ。リゴードンは超特急。元がピアノだと意識がある解釈だろう。後半が特に良いとは思わないが時代の空気を醸し出すパレーの棒に敬意を表したい。
シャルル・デュトワ / モントリオール交響楽団
録音のマジックではないかと疑われたほどオケがうまい。実物の幻想交響曲を聴いたが、本当にうまい。前奏曲はオーボエはもちろん木管がソリスト級の腕を問われる。金管も含めて管が「運動神経」を問われるのだ。そしてフォルレーヌでは弦が微細なピッチコントロールを問われる。指揮者はリズム感、音色感とそれらをまとめる耳を問われる。難曲だ。これはリゴードンの開始でファゴットが走るなど微細なものを除いて傷がなく総合点が高い。ただ、ジェルメッティ、アンセルメ、ブーレーズのような売りになる個性はなく特に聞かなくてはとも思わない。優等生的なのが欠点ともいえよう。
ゲオルグ・ショルティ / シカゴ交響楽団
デュトワ盤をさらにしのぐ運動神経のオケだが前奏曲の弦などは完璧でもない(やり直すべきである)のが意外だ。フォルレーヌの中間部は和音の混合具合がどうもラヴェル的でない。誤解ないように書くが、僕はクリュイタンスを 讃美する人が「フランス的」とかエスプリというセンスにはまったく共感がない者だ。このショルティ盤は「フランス的」ではないが良い演奏である。ファンダメンタルが素晴らしく、音楽演奏にそれのほうがよほど重要というのは音楽鑑賞のファンダメンタルでもあろう。
ピエール・モントゥー / BBC交響楽団
指揮者唯一のクープランの墓という意味で貴重な音源だから書いておく。フォルレーヌの弦はフレージングが甘くいい加減だ。メヌエットもオーボエを歌わせるし再現部の弦もロマンティックであり、モントゥーはこう読んでいたのかと意外な感じが残る。リゴードンも慎重な運びである。ライバルだったアンセルメよりはずっとおおらかであり、僕にとってはどこといって何も見るものはない。アンセルメの外科医のような眼のラヴェルが僕は好きなのだ。
モニク・アース(pf)
テンポの揺れをおさえた古典的なフォルム。無用の装飾のない禁欲的なラヴェルが実に好ましい。フーガの2声、3声の見事な綾など彼女の大変に知的なセンスを見る。フォルレーヌの和声への感度も鋭敏。モニク・アース(1909-87)はマルグリット・ロンら作曲家同時代人の次世代だが正統派中の正統派だ。全曲、どこがどうのではなく傾聴するしかない。遊びがないといえばないが、それが無用なだけラヴェルが素晴らしい音符をかきこんでいるのだということがわかる。トッカータは彼女の技量が必要十分なこと(この曲においてそれは尋常なことではない)を明示する。最右翼であり歴史的価値のある名演として万人におすすめである。
ジャン=エフラム・バヴゼ(pf)
最近の人ではこれが印象に残る。ロン、アース以来のフランスの伝統に根ざしたピアノという感じがするからだ。前奏曲はほぼ文句なし。音色のパレットが多様だ。フォルレーヌがややタッチが生硬でデリカシーを欠いているのが残念だが和声への感性で許せる。リゴードンの技量の冴えも良し。メヌエットも砂糖菓子にならずルバートが控えめである。トッカータはやや速めだが破綻がほとんどない。スタジオ録音とはいえ見事だ。
ワルター・ギーゼキング(pf)
徹底してギーゼキングの譜読みによるラヴェル。前奏曲はかなり遅め。イメージからは意外だ。フーガは陰影が巧みで最後はテンポがかなり落ちる。フォルレーヌは淡々。リゴードンも遅くミスタッチもありいまひとつだ。メヌエットは孤独で寂しげなのがユニークと言えばユニークだ。ゆっくりと一歩一歩踏みしめて歩くようなフレージングはあまり賛成できないが。トッカータでやっと普通のテンポになるが技術的に彼のクレジットになる出来とは程遠く、あんまり練習せずに録音したとしか思えない。なぜか昔からこれも世評が高いという不可思議な現象が我が国にはみられる。
アンジェラ・ヒューイット(pf)
カナダ人でバッハが得意とくるとグールドの名が浮かぶがタイプがまったく違う。イタリアのファッツィオーリを使用、独特の光彩を放つ魅力的な録音になっている。前奏曲はバッハ演奏のキャリアが活きる。感心したのはフォルレーヌの和声だ。第19小節ppのfgheにバスがg-cと入るところ、それが下がってe♭fadにf-b♭と入るところ!こういう和音に「感じる」かどうかがラヴェル弾きの分かれ道だ。メヌエットの再現部のデリケートな味わいも美しい。ロマンティックだが品格を保つのが一流。難曲トッカータの粒立ちも満足で破たんは全く見られない。これはおすすめ。
まだまだたくさんある。ダイヤモンドの光輝はそんなに単純なものではない。また後日、折にふれて補遺していくことにする。
音を聴いていただきたいが、この曲はどういうわけかyoutubeのソースが限られている。オケ版はこれがなかなか美しかった。
(こちらもどうぞ)
クラシック徒然草-ラヴェルと雪女 (ボレロ)-
2013 AUG 13 0:00:20 am by 東 賢太郎
ラヴェルを聴きたい。やっとそういう気分になった。その気分がやってくるのは僕の場合年中行事だ。いつもは春だが、今年はどういうわけかおとずれが遅かった。
ラヴェルはどこが好きかといって、よくわからない。どうして好きかというと、これもわからない。とにかくいい。高校時代にピアノ協奏曲やらダフニスやらをよく聴いたから、ほぼひと目ぼれだったろう。ウマが合ったということだろうか。ただ、ラヴェルとのおつきあいは、やっぱりウマが合っているブラームスなんかのとはずいぶん違う。というのは、ブラームスは人肌のぬくもりがあるがラヴェルの音楽はひんやりと冷たい。どんなに恋焦がれてもむこうは熱くならず一向に近寄ってもこない女性みたいな感じがする。ひょっとすると雪女かもしれない。いや、雪女がどんな姿かは知らないけれど、絶世の美女なのに人間の魂が、ハートが、なんともなく希薄という不思議な存在なのだ。
ボレロという曲がある。すごく小人数でしずしずと始まってずっとおんなじリズムとメロディーのくりかえしだ。あまりにおんなじなので、だんだん耳と意識がマヒしてくる。それがそのうち音がだんだん大きくなって、楽器の数も増えてきて、ふと気がつくと舞台は全員参加で音をはりあげている。そうして最後のところでキーがハ長調からホ長調に3つあがるとボルテージは一気にはね上がって、ついに金管の雄叫びがあがって雪崩のような大団円となる。客席はブラヴォーの嵐でものすごい興奮につつまれる。
ところがだ。このときいつも思うのだが、指揮者もオケも汗ぐらいはかいているが、どうもちょっと覚めているように見える。ベートーベンやマーラーを格闘して弾き終えたのと明らかに違う感じだ。ご本人たちがそう感じているかはともかく、スポーツを終えた感じ、中距離を走ってゴールインしたランナーを見ている感じに近いといったら言い過ぎだろうか。そういう雰囲気を察するとこっちも、なにか幻術にでもかかっていたような気がしてきて、そうして、ああ、あれは雪女だったんだということになるのだ。これをご覧いただきたい。
客席と舞台の温度差をお察しいただけるだろうか?リッカルド・ムーティー指揮のフィラデルフィア管弦楽団。僕が現地で2年間聴いていたコンビが85年に来日した時のものだ(youtubeからお借りしました)。このオケがのった時のすごさを見てしまっている僕として、これはずいぶん安全運転のテンポであり、名人たちが余裕しゃくしゃくで楽器のデモでもやっている風情である。ボレロとしてはかなりクールな、申し訳ないが平凡な部類の演奏といえる。非常に珍しいことにトロンボーンがとちっているが、こんなことは2年間でもほとんどなかったから貴重な映像だ(あそこは難所で有名なところ)。しかし、客席は興奮してしまう。雪女おそるべしだ。
ボレロというと、伝説がある。トスカニー二とラヴェルのケンカである。ボレロは1928年、ロシアの舞踏家イダ・ルビンシュテインの依頼で作曲された。トスカニーニはその2年後にニューヨーク・フィルハーモニーの欧州公演でこれをパリ・オペラ座で演奏したが、それを客席できいていたラヴェルは「速すぎる」と文句をつけ、トスカニーニは「あなたは自分の音楽がわかっていない。こうやるしかないんです!」とやり返した。すごいもんだ。トスカニーニは演奏に15分ぐらいかかるこのボレロを何回振っても1秒も狂わなかったそうだ。すごい。我が国では面白い試みとして大晦日の「東急ジルベスターコンサート」のカウントダウン曲として、過去18回中に4回これが使われた。曲の終了と同時に「新年おめでとう!」のはずだったが、4回やって2回は着地失敗している。
僕は浪人中によくお茶の水駅前の音楽喫茶で油を売っていたが、そこで衝撃を受けたのがトスカニーニのボレロだ。細かいことは忘れたが、ソ、ドとひっぱたくティンパニが腹に響いて、当時自分の家の装置からは絶対に出ない迫力に圧倒されたことをまじまじと覚えている。それがこれだ。
ラヴェルが怒るだけあってテンポは速い。だから演奏し慣れていないオケはかなり危ない。まずクラリネット。そしてトロンボーンはよれよれだ。しかし、これは吹きなれたフィラデルフィアの名手でもとちる。NBC交響楽団がヘタなはずはない。1939年録音だから作曲後11年ということもあるが、ラヴェルと口論してキレてしまったトスカニーニが37年までラヴェルを指揮しなかったから仕方ない。そして、これはよく聴いて欲しいが、テンポは非常によく動いている。調節しているとも思えないが、これで毎回同じタイミングになるのは神業だ。
最後に、雪女でも燃えることがあるという希少な演奏をみつけた。僕がカーチス音楽院でお会いする12年前のチェリビダッケだ。テンポはムーティとほぼ同じである。しかし、なんと若々しい!ホ長調になる寸前のすさまじい形相。あれでにらまれたらオーケストラも音で返すしかない。これをアップしてくれた人に感謝したい。












