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クラシック徒然草-津軽海峡冬景色の秘密-

2015 NOV 5 1:01:48 am by 東 賢太郎

石川さゆりさんのファンではありますが、天城越えも名曲ではありますが、それはそれとして、津軽海峡冬景色という曲にはどうにも僕を惹きつけるものがあります。それは何なんだろう?

やっとわかりました。やっぱりあああ、あ~~~なんですね。

たぶんあああは地声、あ~~~は裏声でしょう。この段差。すごく男心をくすぐるのです。音名で言えばミファミ、ド~~~です。ミからドへの6度のジャンプ。しかも声の色まで変わる。ここにこの曲の勝負どころ、頂点があると思うのです。

この6度ジャンプ。どっかできいたことがあるぞ。え~~と・・・

ありました。これです。

tristan

おわかりでしょうか?ワーグナーのトリスタンとイゾルデの冒頭です。ラファ~~ミはチェロが弾きますがラファは6度ジャンプです。この音程、ちょっと悲痛な感じがするのは僕だけでしょうか。チェロのラは解放弦でファでクレッシェンドして緊張感ある音に色が変わります。ppで聴こえるか聴こえないかでそっと入って、音程と音色で聴衆の耳をそばだたせる。非常に印象的な幕開けです。

この6度跳躍って、すごいインパクトがあって耳に残るというか、こびりつくのです。きのうショスタコーヴィチの15番を聴いたと書きましたが、あの第4楽章にワーグナーの引用が出てきて、ジークフリートの葬送行進曲のあとですが、まさにこのトリスタンの最初の4音が鳴ります。どきっとします。

津軽海峡が三木たかしさんの作曲なのはまったく知りませんでしたが、彼は「つぐない」の作曲家でもあったのでびっくりです。

クラシック徒然草-テレサ・テン「つぐない」はブラームス交響曲4番である-

クラシック徒然草-「つぐない」はモーツァルトでもあった-

津軽海峡のフシはこれまた似たものがクラシックにあります。

tugaru

シューベルトの「白鳥の歌」からの4曲目二短調「セレナーデ」です。たいていの人が知っている音楽の授業でおなじみのメロディーでしょう。

楽譜はチェロ用にト短調になってるので津軽海峡と同じイ短調で書きますと、出だしの「上野発の夜行列車」ミミミミファミララララシラが「秘めやかに( 闇をぬう) 」ミファミラ~ミ、「静けさは~果てもなし」ミファミド~~ミに「あああ、あ~~」のミファミド~~と全く同じ音素材とリズムで6度跳躍が現れます。

もうひとつ、和声です。

「わ~たし~も~ひとり~~、れんらく~せんにのり~」 にはDm6、Am、F、B7、E7susu4、E7というコードがついてますが、バスがfからhに増4度上がって「せんに」のB7、これはドッペル・ドミナントといいます。ドミナントのドミナントです。

実に劇的、激情的でロマンティックな効果がありますが、これの元祖はベートーベンだと思っています。上記ブログに書いたモーツァルトの20番のカデンツァがそう。そして、あまり指摘されませんがエロイカにも出てきます。

eroica1

第2楽章の冒頭、5小節目のf#です。この音符、なくてもいいんです。というより、凡庸な人は入れないでしょう、バスのgと長7度の不協和音になるんで。実際の音は鳴りませんが、ベートーベンの耳にはD7のドッペルドミナントが聞こえていたわけで、そのソプラノだけをひっそりと鳴らした。凡夫と天才の差はこういうところにあります。

「つぐない」もそうですが三木さんの和声はこういう隠し味に満ちていて、何度聴いても飽きないのだと思います。クラシックがクラシックたるゆえんをおさえている。津軽海峡冬景色をピアノで弾くのは快感です、なんたってよくできたクラシックですから。

 

 
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クラシック徒然草-リストの「エステ荘の噴水」をどう鑑賞するか-

2015 AUG 5 13:13:56 pm by 東 賢太郎

今年の3月24日に南極で過去最高の可能性がある気温17・5度が観測されたそうですが、こう毎日暑いと東京もいずれデスバレーみたいになるのではないかと心配になります。ところが気象庁の統計を調べると今年7月の最高気温の月平均(東京)は30.1度で、1877年に31.0度、1894年に31.6度、1842年に31.9度なんてのがあり2004年の33.1度が過去40年の最高ですから、特に今年が暑いわけでもないようですね。

5~6才のころでしょうか、多摩川は小田急線のガード下あたりにボート乗り場があって、暑い夏の日はみんな川へ入って泳いでたんです。岸で足だけばしゃばしゃではなくて、海で泳ぐみたいに足が底に届かないところまでドボンとつかって、泳ぐすぐ前をボートが横切ったりして。おおらかでした。思えば僕が生まれたのは終戦からたった10年後のことだったんだと、こういう風物詩をとおして実感したりします。

夏は家から海パンはいて浮き輪を持って。そうして夕方になって、夕涼みで浴衣を着て縁日で金魚すくいしてかき氷を食べて・・・と当時の思い出がいろいろよみがえってきます。耳をつんざくみんみん蝉(せみ)の声、線香花火のぱちぱちはじける音、蚊取り線香のにおいなんかにかぶさってくるのが涼やかな風鈴の音色です。

あのチロリンチロリンが涼しい。当時はバナナですら贅沢でしたが、ときどき親が奮発してくれた冷えたスイカがおいしかったこと。そうこうして多摩川花火大会があってこれを団地の屋上で席取りしてわくわくして眺めて、夏の甲子園が終わって、やがてツクツクボウシのオーシーツクツクとともに夏は去っていくのです。

僕は寒いより暑い方が好きです。だから夏至が過ぎていよいよ夏は盛りになるのに日は徐々に短くなっているのを感じると寂しくなります。しかし日本はまだいい方で、ヨーロッパのそれは寂しいを通りこして喪失感ですね。英国では夏がいつ来たのかわからないうちに終わった年もありましたし、秋は短くて10月には寒くなり、あの長くて暗い冬が一気にやってくるのだから夏はいくら暑かろうと陽光を楽しもうという気になります。

風鈴は酷暑に一幅の涼をそえて風物詩となす日本人の細やかな感性の象徴のようで、海外で見たことはありません。ではヨーロッパで涼しげなものは何かというと、噴水なんです。日本人からすると高波はあり滝があり台風がありと水しぶきが上がる光景は日常ですが、欧州にはありません。欧州で初めて北フランスのドービルで海水浴をしましたが波がないのがひどくもの足りなかった。地中海は湖面のようです。川もスイスなど一部を除くと滔々と流れる大河のイメージです。

古代より貿易はエーゲ海、地中海を舞台とし、パリ、ロンドン、ローマなど大都市は川辺にできて水運が軍事や経済の命脈を握り、ローマ帝国は上下水道を整備することで都市を近代化、文明化したように、水を支配した者が富と権力を持ちました。だから貴族の別荘や庭園には豪華な噴水が競って造られ、アートであると同時に水の支配力を誇示する権力の象徴ともなったのだろうと僕は想像しています。レスピーギが描いた数々のローマの噴水、ベルサイユ宮殿、シェーンブルン宮殿しかりです。

ヨーロッパに12年住んで各地をめぐるうちに僕は噴水の魔力にとりつかれましたが、それは自然を支配したいという男の願望には違いないと思います。しかし、それが野蛮な腕力による征服ではなく、数学と測量と工学で自然を制覇する知恵と技術によるものであった。ここが決定的に違うのです。秀吉が土嚢を積み上げて川を堰き止めて城を水攻めにした。これは大軍団を率いてマスの武力で敵を圧倒するよりもはるかに近代的な智による武力で革新的ですが、そういう発想の原型は2000年も前のローマにもっと見事にあった。

ローマの水道橋を見たときに感じるふしぎに整然とした美は、建造物としてみるなら石を切り出し、運び、磨き、積み上げという技術が生んだ美でしょう。しかし僕はあれを見ると神のように緻密で整然とした知力の美を感じます。受験で数学に苦労して、うんうんうなってある日突然ぱっと目の前に現れた美、あれに近い。僕がローマ史にぞくぞくした魅力を感じるのはまさにそこであり、次の人生はローマ人に生まれ変わってあそこのあの頃の空気を吸ってみたいものだとまで思わせる魔力がそこにあります。

噴水はその究極のパワーを象徴したトレードマークです。あれは単に「きれい」なものではない。智により自然を支配した者は神に一歩近い人間であり、その神性が権力を正当化するという、ヨーロッパの、キリスト教社会の、すべての人間の精神の根底を貫くパラダイムのシンボルでもある。卑俗なことを書いて女性には申しわけないですが、小便のとき男しかわからない戦いがあります。飛距離です。精神の根底というのはすべての本能的なものまで集約されます。

Bruxelles_Manneken_Pisジュネーヴのレマン湖にあるジェ ド ーは毎秒50 リットルの水を140mも噴 き上げることができる。ああいう発想は絶対に男のものですね。ブリュッセルの小便小僧(右)は世界3大がっかりといわれるが、それは女性的な眼でしょう。僕からするとこの身長にしてこの飛距離は立派で敬意を覚えるし、それを敵軍に向かって放って兵を鼓舞した幼王だったり爆弾の導火線を消した少年だったりと、いずれにしても英雄視しているのだから、そんなしょぼいものであっていいはずがないのであって、現に男性の眼にはしょぼくないのです。これも噴水の一種であって、パワーの象徴であり、神に一歩近い人間がその神性を発揮して自分たちを救ってくれた、少年の形をした神として市民に愛されているのです。

音楽に話をうつしましょう。歴史に残っている作曲家で王や支配者だった者はひとりもいません。ブルジョアであった者すらほとんどおらず、我々がクラシック音楽と呼んでいるものはひとえにプロレタリアートが生んだものであるといってほぼ間違いないでしょう。ことは絵画や彫刻や文学でもほぼすべてのアートにおいて同じであり、貴族や権力者はその消費者であった(余談になりますが、末端とはいえ貴族の娘が書いた源氏物語や枕草子はそういう意味でも世界史上に異彩を放つアートであり、日本文化の個性の原型を観ます)。

以上、縷々書きましたことを心にお留めいただいたうえで、プロレタリアートの子が噴水という権力の権化に接してどう思ったか?そこに何を感じ取り、どう音に描こうと思ったか。水しぶきのきらきらした輝きという表面的なものなのか、その裏にある支配、神性という含意なのか?それともまったく別なものなのか?

かような問いかけを皆さんにしたうえで、今回は私見を書かずに皆さんの耳と感性でその答えを考え、探してみていただきたいと思います。噴水を音にしてえがいた、僕の知る限り最初の音楽(少なくとも最初の名曲)である、フランツ・リストエステ荘の噴水( Les jeux d’eaux à la Villa d’Este)」です。ホルヘ・ボレの素晴らしい演奏です。

いかがでしょう?音楽というのは文化ですから、その生まれた土壌や背景の歴史を知っていた方がよろしいですね。そういう知識はこういうものをお読みいただけばいいでしょう。巡礼の年 – Wikipedia ただ、こうした知識はインフォメーションにすぎず、この曲が1883年に出版され、巡礼の年という4部作の一部であり、印象派の技法の祖となったという風なことは知っていた方がベターですが、知ったからといってこの曲を好きになれたり深く理解できたりするものではないのです。

僕は上述のような長々とした脈絡のなかでこの曲を聴いております。インテリジェンスというと気どって聞こえるので本意ではないのですが、それにあたる日本語がなく、英語でもそれ以外に適切な単語がないのでやっぱりインテリジェンスなんですが、そういう自分なりの理解や解釈という脈絡のようなものを持って音楽を聴くということは、クラシックという古典芸能の場合はとても大事だと思います。

僕はこの曲を聴くといつも、幼い日にもぐった多摩川の冷たい水、涼しげな風鈴、花火、過ぎゆく夏、ローマへの憧れ、神性、権力・・・などといったもの、まさに駄文を連ねてきた雑多なものごとが頭をかけめぐります。それはもちろん僕だけのものであって皆さんの誰のものでもありません。

だから皆さんお一人お一人にそういうものがあるはずなのです。そういう意識を持たれて聴き進めていくうちに、「ぱっと目の前に現れた美」というのに気づかれる日が必ずやってきます。それは時間をかけて追い求めるに値するものであると信じております。本稿がそういう一助になれば幸いです。

(続きはこちらをどうぞ)

ラヴェル「水の戯れ(Jeux d’eau)」

 

 

 

 

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クラシック徒然草-クレンペラーとモーツァルトのオペラ-

2015 JUN 12 2:02:01 am by 東 賢太郎

712C0XWlK2L._SL290_オットー・クレンペラー(Otto Klemperer, 1885年5月14日 – 1973年7月6日)という人は作曲家でもあり6つの交響曲、9つの弦楽四重奏曲、ミサ曲、オペラ、歌曲を書いていますが「それらの作品はほとんど省みられることはなく、評価の対象にすらなっていない」(wikipedia)ようです。トスカニーニやカラヤンがそうだったという話は聞きませんが、フルトヴェングラー、ワルターはやはり作品を残しています。作曲家の落ちこぼれが指揮者といっては失礼だが両方で成功したR・シュトラウスやマーラーもいるわけで、現実的にはそう見えます。

後述しますが僕は作曲家と演奏家は人種が違うと思っています。マニア(mania)であってもなくても演奏はできるが、マニアでないと作曲はできないと思うのです。マニアというのは辞書によると「躁状態」とか「信念や行動に対する不合理だが抑えがたい動機」なんてある。マニアックとは、そういうものを持った人のことです。

何とかキチとか何々オタクってのがそうです。前回ブログに大阪人のほうがマニア的資質の人が多いと書きましたが、虎キチはいても巨人キチはいませんよね。あるとするとG党ですが、キチの域には達してなくてちょっと冷めた趣味的、同好の士的な集団のように思います。

僕は生まれつきのマニア資質です。子供のころ、外で遊んでいて「夕方だから帰ろう」という子がいる。なんで?**ごっこが佳境に入ってるのに!と思うのは僕だけなんですね。みんな「帰ろ帰ろ」になってすぐ誰もいなくなっちゃう。

このこだわりのなさ、このあっさり感は、5時間でも10時間でもごっこをやっていたい者にとってつらいものでした。そういう子たちとは友達になれませんでした。そんな少年時代でしたから、高校でクラブに入って、死にそうだ、もう終わりたいと思うまで毎日一緒に野球をやってくれる仲間ができた時は本当に幸せでした。

だから同じように、朝から晩まで音楽やってる演奏家はマニアなんだろうと思ってました。ところがオーケストラのリハーサル時間が長いと組合が指揮者に文句を言ったなんて話もごろごろある。「仕事」なんですね、寂しいですね。デスクワークみたいに大過なく片付けて早く帰りたいということのようです。

そういう人はマニアでもオタクでもキチでもない、れっきとした普通の人です。オッフェンバックの歌劇「ホフマン物語」にオランピアというゼンマイ仕掛けの歌う人形が出てきますが、そういう話を聞くとオーケストラの面々がみんなオランピアに見えてくる。そこに生命を吹き込む指揮者という人が、だから必要なんでしょう。

ところが作曲家というのはマニアです。書きたいものは時間を忘れ、夜を徹してでも何千時間かけてでも書くのであって、モーツァルトがオペラを時給いくらで書いたり、自分用に別のアリアを足せといわれて残業代を要求したなんてことはないのです。あと1万円くれればもう5小節書いてもいいですよなんて人間ではありません。

だから組合活動に精を出すような演奏家と作曲家とは人種が違う。僕はマニアですから、音楽をやはりマニアである作曲家寄りに見ています。自分の心の声ですから正直に書きますが、声や楽器を大衆好みに派手に扱うだけの演奏家はどんな大家であろうと芸人と思ってしまう。芸人がいい悪いではなく、時給いくらの芸は心を打つことはないということです。

220px-Otto_Klempererもちろん演奏家にもマニアがたくさんいます。演奏することのマニアですね。オットー・クレンペラー(右)は代表格でしょう。知人が家を訪問すると彼は全裸で楽譜に向かっており、知人には構わずそのままの姿で楽譜を研究し続けていた逸話がWikipediaにあります。僕はクレンペラーのそういうところが好きで、彼がマニアックにこだわった部分がだいたい想像がつくと勝手に得心しております。それに直感的な共感があるからです。

ユダヤ人の彼はナチの排斥によってドイツ物を振れるドイツ人指揮者が枯渇した英国でEMIに登用され、だからドイツ物が評価され、その奇矯で偏屈で激しやすい性格と女グセの悪さにもかかわらずロンドンで敬愛されました。僕がロンドンにいたころも、年上の英国人のお客さんで音楽好きな人たちはみな彼をきいていて、大体がほめてましたね。

我が国ではフルトヴェングラーを賛美するような性質のファンがそのアンチとして崇めていることが多い音楽家という印象です。実演に接してではなくレコードだけでの偶像崇拝だから仕方ないのですが、彼は楽譜をドライにクリティカルに見る人でフルトヴェングラーと同じ座標軸で比べることのできない指揮者です。メンデルスゾーンの3番はエンディングを直してしまうし、恩師マーラーの1番や5番は批判もしていて、望めばEMIにいくらでも機会をもらえたでしょうが、2、4、7、大地、9番しか録音していません。ブルックナーは4番以降は全部残しているのに。

彼のベートーベンは不動、堅固、悠然、堂々、孤高などという日本語でその威容を形容されることが多いのですが、それは彼の特色というよりもベートーベンがそういう音楽なのであって、彼の楽譜の読み方が音楽のそういう側面に目が行く傾向のものだからです。そしてそれは僕としては共感できるベートーベンです。あの楽譜をそう読みたいという欲求が僕にも強くあるからです。

フルトヴェングラーのように全体の雰囲気が先にあって、その時の感興によって流動的に音楽が生成されていくアプローチは、はまった場合のインパクトは強いのですが、僕は楽譜の読みより芸を感じてしまう。芸人ですね、一流ですが。ワルターの読みは柔和です。浪漫的ですらある。ちょっと違いますね、曲によって。トスカニーニは直線的で筋肉質ですがドライではない。クレンペラーの方がずっとドライです。

ここでドライというのは無味乾燥ということではありません。ウェットな感情による味つけが僅少だという意味です。もちろん感情が動かない曲は演奏しないでしょう。しかしそれは曲が持っている力であって、それを増幅したり恣意的に加減しない。クレンペラーの楽譜の読みにはどの曲にも共通してそういうマニアックなディシプリンが感じられます。ペトルーシュカからエロイカまで。そしてその方法論がワークしないなら、それは振らないか、楽譜を改訂してしまう。解釈論としてそれを解決はしないのです。

それをお示しする格好の題材がモーツァルトのオペラであります。彼は「フィガロの結婚」、「ドン・ジョバンニ」、「コシ・ファン・トゥッテ」、「魔笛」を最晩年に録音しました。中でも圧倒的に不人気なのが「フィガロ」でありましょう。彼が神であった英国ですらそうでした。僕のお客さんのひとり、最も尊敬していたD・パターソン氏、彼はケンブリッジ大学首席の知の巨人でしたが、「あれはいかん、遅すぎる、彼は年取ってから腕の運動機能が落ちてたんだ」と残念そうにいってました。彼以外もみなさん一様に「フィガロらしくない」という。

たしかに、唖然とするほどテンポが遅く、管弦のアーティキュレーションに異常なこだわりを感じ、三重唱「Cosa sento!(なんということだ!)」のあの天才的和声がおどろおどろしく響く。こんな「怖いフィガロ」は英国ではあり得ないわけです。ひと山当てたかったモーツァルトは絶対にこんなテンポで指揮しなかったでしょう。しかしクレンペラーは交響曲なども録音していて、リンツの終楽章などはそこそこ速い。運動機能説には納得しかねるものを感じてました。

41XGHP7DPKLドン・ジョバンニの地獄落ちの場面をクレンペラー以上に迫真の恐怖でもって描いた人は後にも先にもありません。これぞ真打の呼び声高い名演であり、こちらの方は一転してクレンペラーを讃える人が少なくありません。しかし、ここでも彼はフィガロと「同じ読み」をしているだけでドン・ジョバンニに歩み寄ったのではない、ドン・ジョバンニがそういうオペラなだけです。

極めてシリアスにしかし立体的に響くオーケストラの強奏はブラスが不吉にとどろき、教会でまろやかにブレンドされたような「モーツァルト的」音響ではなく、現代音楽に適したクラリティを持っています。フィガロの録音と同じ音がしています。騎士長のフランツ・クラス、タイトル・ロールのニコライ・ギャウロフの重い声が決定的に効いているのですが、彼らを選んだクレンペラーの歌手を選び抜く眼のクオリティは高く、彼の読みに適した「素材」の選別に妥協がないと感じます。

おどろおどろしい演出なんかちっともしていない!効果はモーツァルトがちゃんと譜面に書いているだろ、という「読み」の底力です。モーツァルトの譜面とだけ向き合ってこういう風に読もうとする、世間一般の通念など歯牙にもかけぬマニアックぶりはただただ嬉しくなります。フルトヴェングラーやワルターとは比べ物にならない、「ドライでクリティカル」な眼です。お聞きください。

コシ・ファン・トゥッテは4作の最後に録音され(71年)やはり音楽はやや遅いテンポでごつごつしてます。ベートーベンのように響く部分もあります。アンサンブル・オペラですから重唱が命ですが、楽器の明瞭なアーティキュレーションと歌手の明瞭な発音が素晴らしくシンクロナイズして独特の「濃い」味になっています。フィガロもそうですが、音楽をすいすい水のように流すということがなくオケは常に彫りが深く立体的で、立派そのもの。

そして女性陣がマーガレット・プライス(フィオルディリージ)、イボンヌ・ミントン(ドラべラ)、ルチア・ポップ(デスピーナ)と僕の好みの人ばかり並べられ、もう抗しがたい。素晴らしい歌が聴けますからフィガロが耐えられない方もこれは大丈夫でしょう。この曲にしては軽さがない、まじめ過ぎ、フィデリオみたいなど批判は予想されますが、僕は筋や舞台にはさっぱり興味がないので、この音楽の栄養分だけで充分です

5184ryk-y2Lそして、「魔笛」です。4作のうちでは一番早い64年とはいえ最晩年であったこの録音が自身の最後の魔笛であることは明白だったでしょう。オーケストラパートの彫琢はここでさらに光輝を増し、「おれは鳥刺し」の第2ヴァイオリンなど一聴して耳がくぎづけになったことを鮮明に記憶しています。

いうまでもなく魔笛はドイツ語による音楽劇(ジングシュピール)です。レチタティーヴォではなくセリフで語られるその筋書きのばかばかしさは、この音楽がなかったら1年もたずに歴史の闇の中に消え去っただろうという代物です。クレンペラーはそのセリフをばっさり省いています。そんなものはこの奇跡のような音楽のまえではどうでもいい。まったく同感であります。

クレンペラーは自身の魔笛をこの世に残すにあたって、モーツァルトの書き残した楽譜に潜む彼の天才をえぐりだすことだけしか眼中になかった。そのまま劇場で上演することも眼中になかった。モーツァルトのため、後世のために、音楽の真実を刻印しておきたかったのだと思います。この魔笛を聴いてあのフィガロのテンポがわかり、今ではあの録音を心から楽しんで聴いています。フィガロはケッヘル番号で492ですが、491はあのピアノ協奏曲第24番です。

この歴史的録音は女声の勝利ともいえます。夜の女王にルチア・ポップ、パミーナにグンドラ・ヤノヴィッツ、そして驚くべきは野球なら8番、9番バッターである第一の侍女にエリザベート・シュワルツコップ(!)、第二の侍女にクリスタ・ルートヴィッヒ(!)という録音史上空前絶後の豪華さ。めまいがします。

かたや男声はニコライ・ゲッタのタミーノは善戦してますがワルター・ベリーのパパゲーノがやや弱く、非常に重要な重唱を歌う二人の武者は勘弁してくれというレベル。それを彼はあまり重視しなかったのは僕には不満ですが、にもかかわらず女性軍の壮絶なパワーによってこの録音は永遠の輝きを放っているのです。このポップの夜の女王のアリアを凌ぐものを僕は聴いたことがないし今後もないでしょう。三人の侍女のアンサンブルの美しさは天国もかくやの神品ものです。

とにかくピッチがいいわけです。音楽の基礎の基礎、基本の基本です。でもできない人が多い。一人でもだめだとアンサンブルは台無しです。その他のああだこうだなんてこれができないなら言っても何の意味もないんです。そこに彼がこだわったからそうなったのは明白でしょう。ポップとヤノヴィッツとシュワルツコップとルートヴィッヒを選んでもってきた。できる人だけを揃えた。彼は言葉の真の意味におけるマニアなんです。その魔笛です。

モーツァルトのこの4つのオペラはまぎれもなく人類最高峰の文化遺産であり、何度観たりきいたりしたかわかりませんが、きけばきくほど心に泉の如くこんこんとわきおこるのはモーツァルトへの感謝の気持ちのみです。

おそらくそう思っておられるモーツァルトファンは数多いでしょう。大事なものであるからこそ、人口に膾炙しないクレンペラーの録音、特にフィガロは異端にされてしまったのではないでしょうか。しかし、僕はこの4つの録音をきいて、クレンペラーもモーツァルトに感謝の念を強く抱いていた人であろうと信じております。

とくにクレンペラーのファンというわけではないのですが、彼が自分にとってとても大事な音楽家だと思っている理由がひとつだけあります。きっと5時間でも10時間でも**ごっこで一緒に遊んでくれる子だったろうという気がするからです。

 

モーツァルト「魔笛」断章 (私が最初のパミーナよ!)

 

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クラシック徒然草-モーツァルトを聴くということ-

2015 MAY 19 1:01:24 am by 東 賢太郎

良いモーツァルトいうのは難しい。世にこれだけ演奏があるのに心して耳を傾けようとなるものはそうあるわけではない。僕の場合「モーツァルト耳」があって、ぱっと聞いてそれにひっかかるかどうかだけが判断基準で、そうでなければ無用になる。

モーツァルト耳にちっとも理屈はないから文章にならない。40余年聴き続けているうちに勝手にできたもので、ハイドンやベートーベンがうまい人のモーツァルトがさっぱりというのは日常茶飯事。どうもモーツァルトは他とレシピが違うらしい。

CD20~30枚買って1つ当たればラッキーという程度で不経済だ。モーツァルトはだめという大家、大御所がいると思えば無名の学生さんが当たりだったりもするから予断を許さない。いわばハマりの役者でないとつとまらないハムレットみたいなところがある。

役者さんの評価はシェークスピアがハムレットをどうしたかったか、まず演出家のその解釈があって、そういう演技をしたかどうかで決まるだろう。同様にモーツァルトの音楽は彼がどうやりたかったかを演奏者が感じ取れるかがすべてと思う。そのことは、彼が「シンガーソングライター」であったピアノ曲では特に意味を持つだろう。

例えば、ピアノソナタ第12番K.332の第2楽章のピアノパートはベーシックなもの(A)と装飾的なもの(B)の二通りがある。これは示唆に富む事例だ。Aのように書いておくがBのように弾くのもいいよと言っている。誰がって?ほかならぬモーツァルトがだ。

この事実は何人をもってしても次の仮説を否定することを困難にするだろう。つまり、彼のピアノ譜というのは大胆にいってしまえばコード進行や大枠の対位法を記した備忘録か見取り図のようなもので、その上でインプロヴァイズ(即興演奏)することを暗黙の了解としたものだということを。

これをハムレットに当てはめよう。彼は「筋書きは変えないように、でもセリフの言い回しはお好きなように」といっているのだ。これを彼は実践している。オペラ魔笛の舞台でパパゲーノ役だったシカネーダーの歌をチェンバロで伴奏しながらいたずらを仕掛けているのだ。一言一句台本のまま正確にやれなんて程遠い、お遊び精神ありありなのだ。

つまり楽譜情報を正確に美しく音にリアライズしましたっていうのはモーツァルトではない。遊び盛りのいたずら猫と木彫りの猫の置物ぐらい違う。

僕が「モーツァルト耳」と書いたのは、本物の猫の方に反応する耳ということだ。これを言葉で表すとなると、致し方なく「モーツァルトらしいかどうか」ということになってしまう。なんだそれは?それを知りたいのにそれらしいかどうかと言われてもわからん、ということになるだろう。

それはこういうことだ。「モーツアルトらしい旋律やパッセージ」というものがある。これはたくさん聴けば誰でもわかるが偽作を聴くと特によくわかる。そこにはこれは彼じゃない、彼はこうは書かないぞとピンとくる部分があるからだ。

「オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲」という有名な偽作がある(k.297b)。この第3楽章は僕にとって明らかに他人のものという旋律で開始する。これが偽作に聞こえたらかなりの「モーツァルト耳」をお持ちだ。

それを裏返しに見ればいい。「モーツアルトらしい旋律やパッセージ」を感知できる感性こそがモーツアルトらしい演奏をする能力だ。問題はこれが勉強やコーチングで身につくかどうかだ。音大の先生には申し訳ないが、僕はそれに疑問を持っている。

簡単だ。「モーツァルトらしい旋律」をコンピューターで作れるか?そのぐらいは626曲のパターン類型化でできるかもしれない。しかしではピアノ協奏曲第28番が作れるか?それができる時代は来るかもしれないが、それはきっと人工知能が人間を支配するようなSF小説の描く時代で、僕らはもう生きてないだろう。

コンピューター言語に書けない。ということは人間の説明言語にもならない。どうやってモーツァルトらしい弾き方を教えるんだろう?長嶋のバッティング指導みたいにバーンと行く感じみたな擬態語になるのが関の山だろう。

モーツァルト弾きなるピアニストは「習った」のではなく、「自分でできた」のだと僕は思う。それはある種のユーモアを笑う人と笑わない人がいるようなものだ。「ねっ、このジョーク、こうこう、こういう理由で面白いんだよ」と他人が分からせれば腹から笑うようになるというものではないように。

ということで理屈は歯が立たないので説明はお手上げ。いきなりオカルトっぽくなるが「人間は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4つでできている」(ヒポクラテス)から、その4元素の比率が似た人は相性が合うとでも逃げるしかない。モーツァルトと友達になれそうか?そんな感じだ。

もちろん男、女は問わないが、主観で言わせていただくと女性の方が「入ってしまっている」ケースが多いように思うのはなぜか。特にソナタがそうだ。内田光子、リリー・クラウス、クララ・ハスキル、イングリット・ヘブラー、マリア・ジョアオ・ピリスなど、僕が好きなのは女性が多い。だめな人が少ない。しかし向いていそうなアルゲリッチが手を出さない。う~ん、やっぱり四大元素のせいなのか。

男性軍はエッシェンバッハ、バレンボイム、シフなど、グルダでさえも、どうも入りきれてない何かを感じる。頭で考えた感じとでもいおうか、なにか楽しめない。ホロヴィッツやリヒテルは、申し訳ないが違うと思う。

この内田光子のソナタk.309を聴いていただきたい。このリズムのはずみの愉悦感。タッチが嬉しがっていて、本能的にモーツァルトの領域に踏み入っている。解釈、テクニック云々の話ではない、モーツァルトをつき動かしてこの曲を書かせた喜びが内田さんの喜びに響いて同化している。彼が乗りうつってしまったみたいだ。

これはリリー・クラウスのピアノ協奏曲第12番。これもそう。入ってしまっている。モーツァルトのピアノはこうだったんだろうと感じる。バックのピエール・モントゥーもクラウスに引っ張られて同じりズムのはじけ方で追っかけている。それほど磁力のあるピアノだ。12番についてはこちらをどうぞ。モーツァルト ピアノ協奏曲第12番イ長調 K.414

ディヌ・リパッティの最後のリサイタル。ピアノソナタ第8番イ短調k.310は遊んでないモーツァルトだ。それがリパッティのテンペラメントに素晴らしく合っているかけがえのない演奏だが、それはモーツァルトという人にはそういう側面があったということを示すようにも思う。

 

 

 

 

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クラシック徒然草-ブラームスの「ペルチャッハの二音」-

2015 APR 6 0:00:53 am by 東 賢太郎

 

2番聴き比べシリーズ、これまでに38種類のCDについて勝手意見を述べてまいりました。もう飽きただろう?いえ、ぜんぜん。この曲、溺愛してますから。

どうしても耳にこびりついてきたのは冒頭のチェロとコントラバスによる二音(d、レ)です。これが今、頭の中でいつでも鳴っています。これ、ヴァイオリン協奏曲の開始の音でもあって、どちらもオーストリアのペルチャッハで書かれている。

ペルチャッハはこんなところのようです。行ったことはないです。

2060

そういえばチューリッヒ時代、家の庭のすぐむこうがちょうどこんな感じの所でした。ブラームス氏のお心持ち、なんとなく察するものがあります。

Vn協と交響曲第2番は、出社の時に車の中でよくかけていて、今もさあ聴くぞってなるとこういう当時の景色が条件反射で浮かんでくるんですが、僕には二音にオレンジ色がついています

ブルーじゃなくオレンジです。チューリッヒ湖に日が昇ってくる、その朝の色です。レという単音なんですが、ほのかにあったかくて、希望の光に満ちた。

Vn協のレーファ#レシラー、あのオレンジ色がパーッと眼前に広がって、スイスの朝の幸福な気分がよみがえります。2番のレード#ーレー、そして続くホルンの和音、これはブラームスが早朝にペルチャッハのヴァルター湖畔で見た朝日かなと思っています。

 

ブラームスは交響曲第2番(作品73)を1877年に書いてからヴァイオリン協奏曲(作品77)を同じニ長調で、ヴァイオリン・ソナタ第1番(作品78)をト長調で書き、ピアノ協奏曲第2番(作品83)を変ロ長調で書きました。

二音はト長調のソ、変ロ長調のミにあたります。つまり主和音(トニック)に二音を含む調性で書いています。しかも、ピアノ協奏曲2番の第2楽章はニ短調、そのすぐ前に書いた作品81の「悲劇的序曲」もニ短調です。

想像ですが、ペルチャッハの二音はそのころの彼を支配していたかもしれません。寝ても覚めても頭で鳴ったかもしれない。

ブラームスは交響曲を書く前後に器楽曲をまとめ書きする傾向がありました。交響曲が太陽で、周りを回る惑星のイメージですね。以上の曲はみな第2交響曲の惑星たちで、みな二音に関連しているのですね。

それが1883年の交響曲第3番(作品90)になると調性はヘ長調になります。その惑星であるピアノ三重奏曲第2番(作品87)はハ長調、弦楽五重奏曲第1番(作品88)はヘ長調です。いずれも主和音(トニック)に二音を含まない調です。

そして1885年の交響曲第4番(作品98)がホ短調で書かれます。惑星たちは、チェロ・ソナタ第2番がヘ長調、ヴァイオリン・ソナタ第2番がイ長調、ピアノ三重奏曲第3番がハ短調、ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲がイ短調。やはり、どれも主和音に二音は含まないのです。

 

「ペルチャッハの二音」は、ブラームスにとって人生の飛翔を象徴する音だったんでしょうか?それも、なにか忘れがたい美しいもの、そして、もう戻っては来ないものだったのかもしれません。

 

4つの交響曲の主音、ハ-二-へ-ホ はモーツァルトのジュピター音型です。これ、人生になぞらえると、ハで幕を開け、二で飛躍して、へで頂点をきわめ、ホで終息をむかえる、そんな風に聞こえます。

ブラームスの人生は、それにあてはめると、

第1番(ハ短調)・ 先人との闘い、20余年の苦行、そして勝利

第2番(ニ長調)・ 安息、平穏、ロマン、そして頂点への飛翔

第3番(ヘ長調)・ 名声、かなわない老いらくの恋、夢、そして平静

第4番(ホ短調)・ 枯淡、悲しみ、回想、そして先人への回帰

というイメージを僕はもっています。まるで全体が4楽章の人生交響曲です。

 

そして、もはや交響曲の筆を折った最晩年になって、彼はヴァイオリン・ソナタ第3番ニ短調(作品108)、弦楽五重奏曲第2番ト長調(作品111)、そうして最後の器楽曲となったクラリネット五重奏曲ロ短調(作品115)を書きました。すべて、二音が入った調なのですね。最後の最後に、人生絶頂期に回帰したかったのかもしれません。

だからでしょう、あの暗くて悲しい作品115が暖かいオレンジ色に感じられる、そのことはこのブログに書きました( ブラームス クラリネット五重奏曲ロ短調作品115)。この音楽が強い過去への郷愁をかきたてるのは、人生の頂点に登るオレンジ色の二音に塗られているからだと感じています。

 

僕にとっても、二音は幸福への登り坂、スイス時代の音であり、とっても特別なものです。でも、あれはもう帰って来なくて、もうヘ長調の時代も越えて、いまやホ短調になってしまいました。

交響曲第2番をききながら、自分の中にペルチャッハの二音を希求するとても強い衝動を感じます。まだ枯れちゃいられん、そういう声が聞こえます。

 

(こちらもどうぞ)

ブラームス ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品77

ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(1)

ブラームス ヴァイオリンソナタ第1番ト長調作品78「雨の歌」

ブラームス ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15(原題・ブラームスはマザコンか)

ブラームス ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 作品83

 

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クラシック徒然草-ブラームスを聴こう-

2015 MAR 22 11:11:33 am by 東 賢太郎

音楽をきいて昔のことを思いだすというのはよくいわれる。それは小説でも絵でもあるから特別なことではないが、音楽は特にその力が強いように思う。といっても、若い頃によくきいていた曲というのが年をとってみて自分の中でどんな風になるかというのは当の若い人にはわからないのだからそれを分かりやすく説明する必要があろう。

結論から先に明かせば、音楽はタイムマシンであり回春剤でもある。「あの頃」を思い出すどころではない、「あの頃の自分」に戻ってしまう。だから元気になりたければ簡単だ、一番元気だった時によくきいた音楽をきけばいいのだ。

我々は視覚に頼って世界や時間を認識しているように思っているが、実は聴覚や嗅覚にも大きく依存している。鼻をつまんで食べるとカレーの味がわからない(本当だ!)。味は舌だけで感じるのではなく鼻腔でも感じていて、むしろ嗅覚こそ微妙な「味わい」を作っている。

触覚も大事だ。雪というのは物質としては水でありH2Oだ。それを我々は白い色の冷たいふわふわの触感で水とは別物と認識している。「白」「冷」「ふわふわ」というタグが付くと我々の頭の中で水は雪というものになる。同じことだ。過去という時間に「音楽」のタグが付くと、それは思い出や経験や郷愁とか呼ぶものになったりもするのだ。

音楽の威力だなと感心するのは、当時を思い出すだけではない、その頃の心境やマインドセット(心の持ちよう)まで手に取るように浮かんでくることだ。ハートまでタイムスリップするといってもいい。

アルバムで中学時代の学校や修学旅行の写真を見てみよう。それだけでは思い出さないことが校歌を口ずさんでみると蘇った経験はないだろうか。景色ではなく当時の気持ちや感情や恋心や先生の声や教室のにおいまで。

それは当時目にした情景からだけでは必ずしも蘇らない。視覚情報というのは食べ物でいえば舌の情報で甘味、辛味、塩味、酸味のようなものだ。嗅覚まで含めて味の記憶は成り立っているとすれば香りを蘇生させてくれるのは音楽ではないかと思う。

今僕は60才になって昔の自分を意識するようになっている。たとえば身体能力だ。記憶力、根気、体の柔軟性、酒の強さ、諸欲、未知の事へのチャレンジ精神など。結論として、何一つ30代の自分にはかなわない。それを言うと多くの同世代は、それ言っちゃ終わりだろ、判断力や経験値は今の方が上だよという。

そうだろうか?判断力や経験値なんてあったって実行しなければ意味がない。でも実行力は結局は身体能力がものをいうのだ。今の僕が30代の自分と変わらないのは家族と猫と音楽と広島カープへの愛情ぐらいのもので、それ以外は全滅の敗北だ。カラ元気は役に立たない。現実を直視しないで何かやってもうまくいかないのだ。

だから少なくとも気持ちぐらいでいいから30代に戻りたい。そういう時に力をくれるのは、30代、まさに自分が心身ともに最もパワフルだった頃に聴いていた音楽、モーツァルト、ベートーベンとブラームスなのだ。それがドラえもんのタイムマシンのように、僕をあの頃の夢、心境、ヤル気、自信、諸欲、すべてのものを持った自分に連れ戻してくれる。

あの最盛期にモーツァルト、ベートーベンとブラームス!この僥倖は僕の人生を左右したといってまったく過言でない。だって音楽自体もべらぼうに強いのだ。

これから人生の最盛期を迎える20代、30代の人たちにクラシック音楽を聴きなさいとお薦めするなら、これほどに雄弁な理由はない。そうすれば皆さんは60才になって、世の中でも最もパワフルな音楽をBGMとして「あの頃」を思い出す贅沢を手に入れられるのだ。これがいかに自分を鼓舞し、力と希望をくれるか!

今は仕事がそういう自分を求めている。そこで、最近聞いてもあまりピンと来ていなかったブラームスだがこちらから近寄っている。必要だからだ。有難いことに、そういう風向きで聴いたブラームスが今度は発汗作用をもたらして、あたかもそれが自然に求めたものであるかのように感じている。こうやってタイムマシンの回春効果がやってくる。

ブラームスの4つの交響曲やすべての協奏曲や管弦楽曲や室内楽というのは、僕にとってBGMで流して本を読んだりビジネスプランを練ったりして頭や耳は全然聞いていないのにノドだけは音楽に合わせて勝手にバスを歌っているという領域に至っている、いわば血肉になってしまっているものだ。

米国の金融誌Institutional Investor社のオーナー、ギルバート・キャプラン氏(Gilbert Kaplan )はマーラー・フリーク、というより第2番「復活」フリークで、ついにウィーン・フィルを指揮して同曲の録音までしてしまったが、もし自分がそんなことができるならやっぱりブラームスの4番なんだろうなと思う。

40代を過ぎた人も希望がある。これを書いたブラームスは50代だったのだ。音楽を聴くのに遅いということなんて全然ない。むしろこういうものを知らないで死んでしまう人がいるとすればそれは人生の一大損失であると声を大にして言おう

それを人生の糧に生きてきた僕がいささかなりとも伝道師の役目を負うことが許されるならブラームスに対するプライベートな恩義を果たせると思っているし、やるならば記憶がしっかりしているうちに書かなくてはいけない。

僕の自宅の地下室にあるリスニングルームとオーディオ機器はブラームスをベストに再生するために10年前にあつらえたものだ。そのために相当な時間と労力とコストを費やした。それが僕のブラームスに対する敬意であり、何よりも、その音楽がそれに値するからだ。

4番の終楽章主題がバッハのカンタータ150番から来たと楽譜をお示ししても役には立たないだろう。ブラームス作品は細部に立ち入ると別種の関心から全体がわからなくなる。モーツァルトにはそういうことはないし、ベートーベンはそれが理解の助けにはなるが、ブラームスはそのどっちでもない。

ということで、ここは至極単純に、様々なCD、LPに残された演奏を例に引きながら、それをたたき台にして各曲の良さや個性を僕なりの視点でご説明してみたい

どれがベストであるかというような試みに意味はない。そうやって多面的な姿を味わうことがクラシック音楽の楽みであり、ブラームスも例外ではないということだ。ただ、ビギナーにとって『最初に覚える演奏』の記憶は意外にその後の影響が大きいというのが僕の経験だ。

そこで、各録音へのコメントの末尾に「総合点」として5段階の点数をつけた。僕がその曲を初めて聴くならこれがよかったなと思うCDが5点、そうでないのが1点だ。世間がお楽しみでやっている「名演」とか「ベスト盤」という意味合いではない。

くりかえし聴いて頭に刷り込むに値する演奏であって、それをベンチマークにすればその他の演奏の特色がよくわかるという演奏だ。つまり作曲家の意図(ほぼスコアと同義)をよく体現し、のみならず音楽的インパクトも強いという演奏だ。あえて言うなら、僕にとってそういうもの以外に名演はありえないと思っているのは事実だが。

30代の頃、いつの日かもっと大人になったらブラームスの4番を渋く味わえる苦み走った男になりたいと夢想していた。そうしてその2倍の60才になって今それを聴きながら思うことは、何のことはない、そう思っていた30代に戻りたいということなのだ。

まずは春にふさわしい第2交響曲からスタートしたい。卒業、入学、進学、入社、桜の咲く時期にこんなにぴったりの音楽もないだろう。一気には書けないが、すこしづつ思い出のLP、CDを思い起こして、それをプリズムとして僕の曲への想いを書いていきたい。

 

ブラームス交響曲第2番に挑戦

 

 

 

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クラシック徒然草-音楽の好き嫌い-

2015 MAR 20 9:09:35 am by 東 賢太郎

人間何ごとも好みというものがございます。食べ物、酒、色、車、服装、異性、ペットなどなど。愛猫家の僕ですが、どんなひどい猫でも犬より上という事はあっても猫なら何でもいいということでもなくて、やっぱり順番はあります。

はっきり「嫌い」というのがあるので音楽は僕の中では好悪がはっきりしているジャンルに入りますが、不思議なものでクラシックファンで「私はモーツァルトが大好きです」という人はいても「**が大嫌いです」という人は会ったことがありません。

嫌いと無関心は違います。全然別物です。好きがプラスなら嫌いはマイナス、無関心はゼロです。ゼロは何倍してもゼロですから、クラシックは何を聞いても何も感じないという人はどの曲も好きにならないかわりに嫌いになる心配もご無用ということであり、逆にどの曲も嫌いにならない人はある曲だけ好きになることもないのが道理だろうと思うのですが。

食べ物の場合は「何でもOKです」ということだってあるし、親がそうなるように教育もします。食べないと死んでしまうのだから全部が無関心ということはまずあり得ません。しかし聞かないと死ぬわけでもないクラシックは、幼時から聞いて育つわけでもない場合が多い日本人にとっては無関心か食わず嫌いがスタートというのは当然です。

それがある日突然に全部好きですなんてことは異様であって、一度フランス料理を食べたらフォワグラから羊の脳みそまで一気に好きになっちゃったなんて、そんな頑張る必要はぜんぜんないのです。「ほとんど全部眠いですが第9の第4楽章だけは感動します」、そういうのがきわめて真っ当、普通です。

僕の場合は縷々書いてきた曲は「もの凄く好き」ということなのでプラスが大きい、だから正反対のことでマイナスが大きい曲だってちゃんとありますし、それが自然体鑑賞法の自然な帰結なんじゃないでしょうか。クラシックと名がつけば全部名曲であって何でも好きですというのはホンマかいなと思ってしまうのです。

さらにいえば、あの退屈極まりない(僕にとってはほぼ拷問であった)音楽の授業で無理やり楽聖の名曲だと押しつけられる。だから日本人にとってクラシックを聴くということは教科書にあった曲は全部うやうやしく好きにならないといけない、そういう強迫観念で縛られているのかなと思ってしまいます。だとすると三島 由紀夫の指摘したとおり、日本のクラシック好きはマゾっぽいですね。

僕のように音楽の通信簿が2だった子がある日めざめて好きになる、すると当たり前ながらちゃんと嫌いな曲もたくさんあることが自分でわかってくる。それで君はクラシックが分かってないねなんて通の評価が下ってもSo what?(だからどうしたの?)ってことじゃないでしょうか。

僕は京料理が好きですがハモが苦手です。夏場はそれが売りだからどうしたって出てくるんですが僕はカウンターで抜いてくれという。変な顔をする店がありますがいい店の主人はかえって歓迎してくれますね。それでも京料理屋に来てるんだから見栄や酔狂でなく本当に好きなんだとわかってくれる、それで鮒ずしなんか頼むと完璧にわかってくれる。そういうもんだと思うのです。

音楽のハモにあたるものはこういうものです。

マーラーの6番というのは全クラシックの中でも最も嫌いな曲の一つで、あのティンパニのあほらしい滑稽大仰なリズム、おしまいの方で板とか酒樽みたいなのを鏡割りみたいにぶったたくハンマーは作曲家は大まじめに書いたり消したりしたらしいがまあどうでもいいわなとしか思えず、全曲にわたって音楽的エキスはなし、あんなのを1時間半も真面目な顔して聴く忍耐力はとてもございません。

チャールズ・アイヴズという米国の作曲家の和声に吐き気を催した(本当に)ことがあって、それ以来トラウマになって一度も聞いておりません。あれは一種のパニック障害の誘因になるのじゃないかと思い譜面を見るのも恐ろしく、それがどういう理由だったかは謎のままです。

メシアンのトゥーランガ・リラ交響曲に出てくるオンド・マルトノという電子楽器、あのお化けが出そうなグリッサンドは身の毛がよだつほど苦手です。結局あの曲を覚えるには勇気を奮ってライブを聴き、視覚的にそれが出てくる箇所をまず覚えて(見えると怖さが減る)、来るぞ来るぞ(いや、お化けが出るぞ出るぞだ)と心の準備をしながら10年以上の歳月を要しました。

ヴェルディはコヴェントガーデンやスカラ座でたくさん観たのですが、椿姫の前奏曲のあのズンチャッチャ、あれが始まるとああ勘弁してくれここは俺の居場所じゃないと家に帰りたくなってしまう。運命の力序曲のお涙頂戴メロディーなど退屈を通り越して苦痛であり早く終わってくれと願うしかありません。閉所恐怖症なので床屋も苦手で、ああいうつまらない曲でホールの座席にしばられると床屋状態になるのです。

パガニーニのコンチェルト、カプリース、およびリストの超絶技巧。ヴェルディのズンチャッチャよりは多少ましですが、この手の曲が不幸にして定期公演で舞台にかかってしまったりすると行くかどうか迷います。ましというのは、一応ソリストの技巧を見るという楽しみはあるからで、演奏家の方には非礼をお詫びしますが僕にとってその関心はボリショイ・サーカスや中国の雑技団を見るのとあまり変わらないです。

一歩進めてこれが演奏のほうに行くと、大嫌いなものは無数にあります。好ましいと思っている演奏家であっても曲によってはダメというのがあって、例えばカルロス・クライバーのブラームスは4番の方は実演であれほど感動したのに2番は到底受け入れ難い。リズムが前のめりで全然タメがない快楽追求型で、妙なブレーキがかかったり弦を急にあおったり、あんなのはブラームスと思わない。カイルベルト、ザンデルリンク、コンドラシンなどと比べると大人と子供です。

ティーレマンはサントリーホールで聴いたベートーベンは割と良かったのですが、ブラームス2番はだめですねえ。youtubeにあるドレスデン・シュターツカペレとのですが、オケはせっかくいい音を出していて第3楽章までは悪くない(クライバーよりいい)ですが、終楽章のコーダに至って100円ショップ並みに安っぽいアッチェレランドがかかってしまう。そこまでの感動がどっちらけですね。お子様向けです。

モーツァルトというとグレン・グールドのソナタとの相性の悪さについては既述ですが、同じほどひどいのにカラヤンの魔笛というのもあります。ベルリンPOのDG盤は多少はましですが古い方のウィーンPO盤。どうもカラヤン先生カン勘違いしてるなと思いつつ我慢して聴いていると、タミーノとパパゲーノが笛と鈴をもらう所で3人の童子が出てきますが、これがなんとヴィヴラートの乗った色気年増みたいな女声で実に薄気味悪く、もう耐えられず降参です。

演奏について書きだすときりがないのでこの辺にします。以上、嫌いなものオンパレードで皆さんがお好きなものが含まれていたら申しわけありませんが、もっとたくさんある好きなものの裏返しということで、これでハモの価値が下がるわけでもないということでご容赦いただきたく存じます。

(補遺、2月1日)

今日、ピエール・ブーレーズ追悼番組の録画を見ました。ノタシオン、レポンの映像は貴重です。03年東京公演のベルク、ウェーベルン(マーラーユーゲントO)の精緻な演奏は感涙ものです。しかし後半が蛇蝎のように嫌いなマーラー6番というのが残念。これが好きな方にご不快は承知の上で、よりによってこれはないだろう。神であるブーレーズが振れば大丈夫かと恐る恐る聴きましたが第1楽章でもう降参。消しました。

 

マーラー交響曲第6番イ短調(ついに聴く・読響定期)

 

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クラシック徒然草-音の記憶という不思議-

2015 MAR 15 0:00:21 am by 東 賢太郎

僕は絶対音感はない。ピアノのキーを見ずにポンと押してもらって、はいシ♭ですとはいかない。しかし自分から正確に言える(歌える)音はある。ドとレとミ♭だ。

なぜかというと耳に焼きついている曲があって、たとえば春の祭典のアタマをじっと思い出すとあのファゴットが心で鳴る。それを声にして歌うと「ド」が取り出だせる。しかし最近はあれを聴いていないので成功率が落ちたかもしれない。

「ミ♭」は魔笛序曲かシューマン「ライン」だ。これは割とすぐ出る。「レ」はブラームスのヴァイオリン協奏曲で、これが一番自信がある。

ではなぜシ♭はだめなのか?わからない。変ロ長調の曲はいくらも知っているが、頭で鳴らしてもそれが原調という保証はないのだから仕方ない。

とすると、「その曲を知っている」というのと「頭でリプレー出来る」というのはちがうのだ、きっと。

アルトゥール・ルービンシュタインは「朝食の時、私は頭の中でブラームスの交響曲を演奏していた。その時電話が鳴ったので、受話器を取った。30分後、私は電話で話している間も演奏が続いており、今は第3楽章が演奏されていることに気づいた」と語ったそうだ。

僕はこの話を信用する。

13才のモーツァルトが父に連れられてヴァチカンへ行き、システィナ大聖堂で演奏されたアレグリの「ミゼレーレ」を一度聴いただけで戻り、楽譜にしてしまったのは有名だ。それはこれである。

これを「思い出して」書くのはどう考えても無理であり、彼は頭の中にボイスレコーダー があって、宿でそれをリプレーしながら音符に書きとったにちがいない。ルービンシュタインのいう「頭の中の演奏」だ。レコーダーだから電話していても鳴っていて、そこに意識がなくてもちゃんと先に進んでいる。モーツァルトはそうやって勝手に聞こえてくる音を譜面に書き取った、それならこの奇跡は理解できる。いや、奇跡ではなくて、頭の中にボイスレコーダー があるかないか、それだけだ。

僕の場合だが、春の祭典、魔笛序曲、ライン、ブラームスVn協は(ルービンシュタインほどではないが)リプレーできる。ハンマークラヴィール・ソナタ(変ロ長調)はできない。つまりそういう理由で冒頭のことになっているかもしれない。それはまあいいだろう、単にそういうことであってそれが本稿の主題ではない。

不思議なのは、たしかに春の祭典はよく聴いたが、もっと聴いた曲もあるのにそっちは「できない組」だという事実だ。そこがわからない。

記憶力とは不思議なもので個性があるようだ。僕はカタカナが覚えにくいので受験で世界史と地理は敬遠し、必然的に日本史と政経になってしまった。カタカナがダメなのではなく、シーザーがカエサルになったりする、そういうはっきりしないもの、あやふやなものをはじいてしまうように僕はプリセットされている。

つまり人のアタマにはみなそういうフィルターのようなものがあって、そこをすっと通り抜ける物は受け入れる。音楽でも人でも。だからすんなり名前も記憶するし、出会いが深いおつき合いに発展したりもする。そういうことを後からふりかえると「相性が合った」とか「ご縁があった」という表現になってくるのではないだろうか。

 

記憶法と性格の関係

 

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クラシック徒然草-僕のオーディオ実験ノート-

2015 MAR 10 22:22:04 pm by 東 賢太郎

プーランクのピアノ曲や室内楽を棚からあれこれ取り出して聴いていて、ピアノの音はCDというメディアの方がずっと良いと思っていたのがLPも悪くないと思い始めました。

オーディオはCD路線に切り替えてしまい、LPのほうはだいぶ古いテクニクスのプレーヤーにデンマークのオルトフォンのカートリッジというべつにどうということのない装置なのですが、ジャック・フェブリエのピアノのタッチの綾ときらめきが本当に見事です。

プーランク自身のピアノ録音を聴くと、ドイツやロシアとは少し違った音の弾き分けで、様々なニュアンスのタッチが重層的に組み合わさって見通しが良く「音が立っている」のです。それは彼の音楽の性質そのものでもある。

ぐしゃっと色が混ざり合った油絵のような和音ではなく、水彩画で立体感と陰影のある構図の絵のようです。それを自然に表現できている人というとこのフェブリエと、唯一の弟子ガブリエル・タッキーノ、もうひとりあげればパスカル・ロジェでしょう。

今の装置、B&W(英)、ブルメスター(独)、ホヴランド(米)、リンデマン(独)、ステューダー(スイス)に行きつくまでタンノイ(英)マーク・レヴィンソン(米)等の遍歴をさんざん重ねましたが、試聴機を入れるとたくさんのブランドを聴きました。

オーディオは僕にとっては方便であって目的はあくまで音楽にあります。されどお値段は半端でない、我が家においては車より高いのだからそうそう衝動買いというわけにもいかない。そこで数十枚あるレファレンス・ディスクを徹底的に比較試聴となります。

note2聞いた印象はとても細部までは記憶できませんからこうやってノートにひとつひとつ書き置くのです。スピーカー、パワーアンプ、プリアンプ、CDトランスポートに接続ケーブル(3か所)の7要素のベストの組み合わせを試聴をくり返して発見せよという問題を解くわけです。科学の実験みたいなもんで、この「実験ノート」が数十頁あります。

ベストというのは人それぞれですが、僕の場合は「コンセルトヘボウでウィーンフィルを聴いたような」というものです。大事なのはその言葉を何度も頭に浮かべながら、実際にそれを聴いたことはないのですが、そのイメージに近いかどうかを反芻しながらYes、Noを判定することです。部屋のアコースティックをあわせてですね。そうやって聴かないと、結局どれもいいねになっちゃう。全部いいものを聴いてるわけですから。

note1
手順として、まず7要素のどれかを固定する必要があります。今回はブルメスターのPAがそれで、そこにB&W800Dを加えるという部分をfixすることからスタートしました。これは10年前のノートですが、一行づつ別の音源をチェックしています。今でもこのページあたりはいちいち覚えてますからそのぐらいのこだわりでした。

オーディオマニアではない僕がいうのはおこがましいのですが、しかしこのプロセスは楽しいですよ。機器によって音は明らかに変わるし、ものすごく高い機械がいいかというとそうでもないのです。ワインに似てますでしょうか。10年この組み合わせできましたが、やっぱりここまで選んだ甲斐あってまだ飽きは来ません。ただ、LPがあまりに良かったものでちょっと心に迷いが出ています。ほんの微妙なものですが、ちょっと気になると尾を引く、これはそういう世界です。

 

LPレコード回帰宣言(その1)-光と音-

 

 

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「クラシック徒然草」カテゴリーの創設について

2015 MAR 9 23:23:15 pm by 東 賢太郎

SMCをスタートしてちょうど2年半になりました。僕のブログ投稿数は926で総訪問件数が約28万8千なので、いちブログ当たり310件のアクセスをいただいています。929のうち320(35%)がクラシック音楽  のカテゴリーです。残りの65%は徒然に (28%)、野球 (14%)、若者に教えたいこと (12%)、 自分について (10%)、経済 (7%)などとなっており、徐々に本業の「経済」をご認知いただきバランスは良くなってきました。

クラシック音楽  の約半分は「作品タイトルのブログ」で、Google、Yahooで「作品名だけ」から検索できます。「プロコフィエフ交響曲第3番」のようなレアな作品で1位にあるのはわかりますが、「ベートーベン ピアノソナタ第18番」や「モーツァルトピアノ協奏曲第20番」や「同25番」という天下のど真ん中の名曲で検索して1頁目にあるというのは大変に光栄なことです。タイトルで書くのは勇気がいりますし、疲れますが・・・。

その点、「ベートーベン交響曲第X番の名演」シリーズはタイトルブログではないので気楽です。ですが、第2、4番以外は1-2頁にあり、特に第8番がトップ、第9番がトップ頁にあるのはうれしいことで、ネタ元のベートーベン様とお読みいただいた皆様に心より感謝申し上げます。しかしこのシリーズはたまたまの企画であって、ベートーベンの9曲のタイトルブログはまだ1曲も書いていないということです。書くにはまだ力不足、曲の理解不足なのです。

僕はCDのおすすめを書くのはあまり気が進みません。誰かのおすすめ盤を買ってみて良かった記憶があまりないからです。だから手当たり次第に自分で聴くしかなく、LP、CDの倉庫部屋が必要になってしまいました。あいかわらず大量に買って聴いてますからもう1万枚は超えているでしょう。そうして一枚一枚、聴いた印象をこまめに日記に書いて記憶に焼きつけてきた結果として今があるということは確かです。

とはいえ相手の趣味を知ることなく不特定多数に向けてお気に召すCDをお薦めするのはそもそも無理です。高いワインなんだからおいしくて当たり前でしょと押し売りしたり権威主義を振りかざすのはいやなので、自分の趣味と個性をカミングアウトして、それを参考にご自分の趣味を作っていいただきたいと願っています。それこそ耳の肥えた聴き手になる王道ではないかと信じているからです。

僕はブラームスの4番を気になる指揮者の演奏は全部聴いてます。94年にカルロス・クライバーを聴きにベルリンに飛んだのは彼ではなく彼の4番を聴きに行ったのです。第1楽章は自分の手でピアノで弾いてもみたしシンセで自分バージョンまでMIDI録音しましたがそれでもどういう音楽かまだよくわからない。だから4番の録音は111枚持っていますが僕はコレクターでも何でもなく、期待外れが続いた残骸が貯まっているだけです。全部捨ててもいいのです。

まず、この状態で4番のタイトルブログを書こうという蛮勇はなく、書かないで人生が終わるかもしれないのはベートーベンの9曲も同じです。ブラームスの1番はタイトルで書いてしまいましたが今読むと軽卒で、これは書きなおさなくてはなりません。シューマンの3番を楽章ごとに書きましたが、あのぐらいのdensityで書かなければ「作品タイトル」でブログを書くのは不遜だし、作曲家への不敬罪になるでしょう。

畢竟、作品を深く理解していない人のおすすめは読書感想文だと僕自身が思いますからあんまり書きたくないのです。そういうものをお読みになる時間があるならyoutubeで片っ端からいろんな人の演奏を自分の耳で制覇していった方がコストもかからないし、今後の人生の愉しみが増すでしょう。好きな寿司屋があればそれがミシュランで星があろうがどうだろうが気にはならないでしょう。

そして、そういう聴き方を志される方は音楽そのものの方をよく知っていたほうがいいのです。これはロマン性の高い解釈だのカラヤン風のスマートな演奏だなどのという類の文学的な修辞は、そう思えるようになったところで客観性のないふわふわした評価にすぎません。カラヤン風ではない演奏を聴いたときにどうなのかという判断はつきません。それより4番のどこが聴きどころかを知っていた方がいい。ご自分のお好きなところでいいです。そういう定点観測ができるようになって初めて自分で吟味ができます。

タイトルブログは自分史なので「聴きどころ」をお示ししようという配慮はしていません。ただ僕も単なる趣味人であって専門家しかわからない作曲の奥義に感動するわけではありません。あくまで耳で聴いて面白いものを書いていますからたぶん子供でも聴けばわかります。文学的修辞、衒学的まやかし、文科省ご推薦的色彩を一切排した「実証主義的」なものになっているのは、僕自身が仕事や受験勉強でそれ以外は世の中であんまり役に立たないことを経験しているからです。

ということで、タイトルブログは僕のライフワークです。これが全部Google、Yahooの上位に来たら満足だし、作品は1000年でも確実に残るのだから僕のも永く読んでいただけるだろうとコバンザメを狙っています。ただ良い物を書くには充分な楽譜への理解と、曲への深い愛情の再確認と、そうしたいという心の熟する時間が必要です。みっともないコバンザメはしたくないというささやかなこだわりです。

ベートーベン交響曲シリーズの予想外の人気を見て、世の中には利害関係ぬきの客観的コメントやセカンドオピニオンへのニーズがあるように感じました。1万枚聴いての聴後感を日記からいくらでも転写可能ですが、あまり社会的意義があるとも思わないので書くなら特に良い物と悪い物ぐらいでしょうか。やがて認知症になってみんな忘れてしまったら生きた甲斐もないので面白いと思ったものを書くことにします。

それも含めて、「タイトルブログ以外」は「クラシック徒然草」というカテゴリーで書くことに決めました。その方が皆さんにバックナンバーを検索していただきやすくなるからです。「演奏会の感想」「僕が聴いた名演奏家たち」のように別なカテゴリーとして括っていないものは全部そこに入れます。現在のバックナンバーで、自分ではとても愛着のあるブログがあんまり読まれていないという残念なケースがあり、これで多くの皆さんの目に触れれば幸いです。

残すために書いているのですべてのバックナンバーを適時書き換えたり、書き加えたり、アップデートしたりしています。「改訂済み」とはいちいち書きませんが、ご参考のCDも後で聴いていいと思ったものは追加していくつもりです。

 

 

______クラシック徒然草 (79)

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