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カテゴリー: ______ドビッシー

ドビッシー 「3つの夜想曲」(Trois Nocturnes)

2015 JUL 8 8:08:18 am by 東 賢太郎

僕は70年代のブーレーズのLPでいろんな曲を初めて知り、耳を鍛えられた者なので良くも悪くも影響を受けていますが、その後者の方がこれです。この曲が好きな方は多いでしょう。クラウディオ・アバドはこれが振りたくて指揮者になったとききます。

しかし、僕はだめなのです。どうも真剣になれない。「海」(第1楽章)と「牧神」はシンセでMIDI録音するほどはまりましたが、これはまったくその気なしです。随所に好きな、というか好きになっていておかしくない和声や音響はあるんですが。

IMG_8832cそれはおそらくブーレーズの演奏(右がLP)がつまらなかったせいと思います。彼も万能ではなくて、牧神もポエジーに乏しくていまひとつですが「夜想曲」はさらにそのマイナスが出ていて、音に色気、霊感がないのです。

ちなみに「遊戯」の冒頭部分などお聴きなってください、春の祭典の最初の数ページに匹敵する素晴らしさです。倍音まで完璧に調和するピッチ、精巧な楽器のバランス、神経の研ぎ澄まされたフレージング、聴く側まで息をひそめるしかない緊張感!

こんなに「そそる」音楽が出てくる録音はそうあるものではなく、これを今どき多くなっているライブ録音CDと比べるならプロ写真家の式典写真と素人のスマホ写真ぐらいの差があります。それと比較してこの「夜想曲」は同じ指揮者とオケ(ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)とは信じがたい。

録音プロデューサーが海、牧神、祭典とは別人でテクニカルな理由もあるかもしれません。とにかくブーレーズを神と崇め、LPはどれも微細なノイズまで耳を凝らして聴かされてしまっていた当時の僕が何回聴いてもそういうことだったので、そこには何か峻厳たる理由が横たわっていたに違いなく、本稿はその関心から書いています。

「夜想曲」の着想はペレアスを書いている1893-4年ごろと考えられています。第3曲シレーヌ (Sirènes)にヴォカリース(母音唱法)の女声合唱があるなどその一端を伺えます。これはラヴェル(ダフニス)、ホルスト(惑星の海王星)などに影響したでしょう。

最も驚くべきは第2曲祭 (Fêtes)の中間部でppのトランペット3本を導入する低弦のピッチカート、ハープとティンパニがpppでおごそかな行進のリズムを刻む部分です。

nocturn

これは春の祭典の「祖先の儀式」(楽譜下)になったに違いないと僕は思います。

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こういう想像を喚起するだけでも「夜想曲」に秘められた作曲者の天才の刻印とその影響ははかりしれませんが、同時期の作曲でそれが最も認められるペレアスのスコアと比べるとこれは若書きの観が否めません。ぺレアスと同次元に達している管弦楽曲は「海」であると僕は確信します。

ということですが、全部ブーレーズに責任があるわけではなく僕自身が夜想曲のスコアからマジカルなものを見いだせていないということでもあります。いいと思うのはシレーヌの最期の数小節ぐらいです。主だった録音は持っていますし実演も聴いていますが、どうしても自分の中からは冷淡な反応しか得られない。

こちらはラヴェルによる二台ピアノ編曲で、僕はこっちの方が好奇心をそそられ満足感が高いです。

(補遺、15 June17)

そのブーレーズCBS盤です。これも発売当時の世評は高かった。僕の趣味の問題かもしれず、皆様のお耳でご検証を。

音響的にゴージャスで耳にやさしいのはシャルル・デュトワ/モントリオール響の録音でしょう。これが世に出た80年代初期、ちょうどLPからCDに切り替わる時期でクラシックのリスナーにとっては革命期でした。CD+デジタル録音というメディアにまだ一部は懐疑的だった世評も、このデュトワの見事な音彩とDeccaの技術によるアナログ的感触は批判しきれなかったと記憶します。

ドビッシーというのはラヴェルに比べてフランスの管と親和性が希薄で、ロシアはさすがに抵抗があるがドイツ、中欧のオケでもいいものがあります。クリュイタンス/パリ音楽院管やミュンシュ/パリ管の艶っぽい管に彩られたラヴェルを信奉する人たちからもドビッシーでそういう主張はあまりききません。ベルナルト・ハイティンク/アムステルダム・コンセルトヘボウ管(ACO)のこれはその好例で、名ホールの絶妙のアコースティックが見事にとらえられ、ほの暗い音彩で最高にデリケートで詩的な管弦楽演奏が楽しめます。ノクターンの夜の質感はフレンチの管でなくACOの方に分があると僕は感じます。技術的にも音楽性も最高水準にあり、ハイティンクという指揮者の資質には瞠目するばかりです。ちなみにこれの発売当初(1979年ごろ)、日本の音楽評論家は彼を手堅いだけの凡庸な中堅指揮者と半ば無視していたのでした。

(補遺、17 June17)

ヨーゼフ&ロジーナ・レヴィーン(pf)

モスクワ音楽院ピアノ科の金メダリストはアントン・ルービンシュタインからの伝統の系譜、ロシア・ピアニズムの真の後継者です。このご夫妻は両者がそれであり、僕にとってレジーナのショパンP協1番はあらゆる録音でベストです。これはラヴェル編曲の「祭り」で黄金のデュオの音彩は見事の一言に尽きます。

(参考)

ドビッシー 交響詩 「海」

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「春の祭典」

 

 

 

 

 

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僕が聴いた名演奏家たち(ルドルフ・フィルクシュニー)

2015 JUN 24 22:22:25 pm by 東 賢太郎

Firkusny

ルドルフ・フィルクシュニー (1912-94)はチェコを代表する名ピアニストです。日本ではフィルクスニー(ドイツ語)で知られますが、チェコ語はフィルクシュニーです。あまりご存じない方が多いでしょう。ぜひこれを機に知ってください。彼は、全ピアニストのうち僕が最も好きなひとりであります。

1978年、大学4年の夏休みに1か月ほどバッファロー大学のサマーコースに参加しました。いわゆる語学留学というやつで、本来こんなのは留学とはいいません、ただの遊びです。それでも2度目のアメリカ、初めての東海岸は刺激に満ちていました。

ボストンからサラトガスプリングズを経て、ボストン交響楽団がボストン・ポップスとしてサマーコンサートをやるタングル・ウッドへ。そこで幸いにも小澤征爾さんが振ってルドルフ・フィルクシュニーがソリストのコンサートを聴けました。

芝生にねころんで聴いたモーツァルトのピアノ協奏曲第24番。調律が悪いにもかかわらず、アメリカンなあけっぴろげムードにもかかわらず、きっちり覚えてます。オケだけのプログラム後半は何やったかも忘れてしまったのに。当時から24番は好きだったようでもあり、この演奏でそうなったかもしれません。これがこのブログに書いたコンサートでした。 クラシック徒然草-小澤征爾さんの思い出-

フィルクシュニーは有名なシンフォニエッタを書いたヤナーチェックの弟子というより子供のようにかわいがられた人です。ルドルフ・フィルクスニー – Wikipedia こうして彼のライブを聴けたというのは間接的にではあっても音楽史というものとすこし濃い時間を共有できたような、ありがたい気持ちがいたします。

ライブの24番がそうでしたが、彼のモーツァルトは短調と共振します。幻想曲ハ短調K.475をお聴き下さい。この曲にこれ以上のものを僕は探す気もありません。ここには魔笛とシューベルトの未完成が出てくるのにお気づきですか?

彼がコンチェルトの20番、24番はもちろん、ブログに既述のような深いものを孕んだ25番を愛奏したのはいわば当然の嗜好と思われます。20,24,25!もうこれだけで何が要りましょう。いま書いた6つの傑作。フィルクシュニーは全音楽の座標軸でこの6曲がある「そこ」に位置している音楽家なのです。そうして「そこ」こそが僕が最も共振する場所でもある。このピアニストを尊敬し、彼の録音を愛好するのは鳴っている音ではなく、人間としての相性だと感じます。

そして冬の澄んだ空のような透明なタッチが叙情と完璧にマッチしたブラームスの協奏曲第1番!名手並み居るこの曲の最高の名演の一つであります。

フィルクシュニーのタッチがフランス物に好適でもあるのはピアノ好きには自明でしょう。僕なりに長らくピアノと格闘していまだ自嘲気味の結果しか得ていないドビッシーの「ベルガマスク組曲」。フランス的ではなく東ヨーロッパの感性です。この「メヌエット」の音の綾のほぐし方、オーケストラのような聴感!技巧でどうだとうならせる現代の演奏とは一線を画した格調!「パスピエ」の節度あるペダル、そして感じ切った和声の出し方!チッコリーニとは対極ですが、どちらも多くのことを教えてくれます。

そして最後にこれをご紹介しないわけには参りません。師であるヤナーチェックの「草かげの小径」です。この録音は、音楽を長年かけて内面化しきった人でなければ聴かせようのない至福の時間を約束する演奏の典型です。夭折した娘を送る曲なのですが悲哀はあまり表に立たず、かえってやさしさがあふれることで純化した哀悼の精神をたたえています。美しい和声とヤナーチェック一流の語法で彩られた傑作中の傑作です。フィルクシュニーの表現はスタンダード、珠玉の名品などという月並みな美辞麗句を超越した美としてどこを聴いても耳をそばだてるしかないもの。価値が色褪せることは永遠にないでしょう。

 

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ドビッシー 交響詩「海」再考

2015 MAY 23 0:00:49 am by 東 賢太郎

自然の風景というと我々日本人には山、川、海は定番でしょう。なかでも海は、「海は広いな大きいな」「我は海の子」なんて懐かしい唱歌もあれば(僕は嫌いでしたが)、我が世代には加山雄三やサザンもありました。男のロマンをかきたてるものを感じるという文化ですね。

ところがクラシック音楽は川(ライン、ドナウ、モルダウ、ヴォルガetc)の音楽はあっても意外に海は少ないですね。ユーラシア大陸の北辺は氷結した海であり、南辺の地中海はカルタゴやイスラムと闘う辺境だった。ロマンをかきたてる存在ではなかったのではないでしょうか。海岸線の長さランキングで日本は世界第6位なのに対し、イタリア15位、フランス33位、ドイツ51位というのも関係あるかもしれません。

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ドビッシーが「海」を書いたのは、ですから西洋音楽の視点からはやや特異と思います。彼は8才の頃にカンヌに住んで海を見たはずですが、この交響詩は単にその印象を描写したものではありません。彼は「音楽の本質は形式にあるのではなく色とリズムを持った時間なのだ」という哲学をもっていました。この曲における海は変化する時空に色とリズムを与える画材であり、それはあたかもクロード・モネが時々刻々と光彩の変化する様をルーアン大聖堂を画材に33点の絵画として描いたのを想起させます。この連作が発表されたのは1895年、海の作曲が1905年。ドビッシーはこれを見たのではないでしょうか。左が朝、左下が昼、右下が夕です。

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これをご覧になった上でこのブログをぜひご覧ください。2年半前のものですが特に加えることはありません。

 ドビッシー 「3つの夜想曲」(Trois Nocturnes)

色とリズムを持った時間」!モネの絵画というメディアが33の静止画像だったのに比べ、ドビッシーの音楽は25分の動画です。それも情景の変化を印象派風に描くのではなく、音楽の主題を時々刻々変転させて時間を造形していく。それによりほんの25分に朝から夕までの時間が凝縮されます。第1楽章コーダの旋律が第3楽章コーダで再起し、音楽の時間は円環系に閉じていますが、それはモネの絵のように同じ情景を見ているという感情をも生起させるのです。

交響詩「海」はどの1音をとっても信じ難い感性と完成度で選び置かれた奇跡の名品です。全クラシック音楽の中でも好きなものトップ10にはいる曲であり、これが完成された英国のイースト・ボーンの海岸にいつか行ってみたいと望んでいる者であります。

ブログに書きました、僕のアイドルであり当曲の原点であるピエール・ブーレーズの旧盤(ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)です。

ウォルター・ピストン著「管弦楽法」にはこの曲からの引用が14カ所もあり、その幾つかはドビッシーのオーケストレーションの革新性を理解させてくれます。たとえば、第1楽章、イングリッシュホルンとチェロ・ソロのユニゾンブーレーズの6分52秒から)が「1つのもののように混り合い、どの瞬間においてもいずれか一方の方が目立つということがない」(同著)ことをMIDI録音した際に確認(シンセの音でも!)しましたが、その効果は驚くべきものでした。

これまた予想外に溶け合うイングリッシュホルンと弱音器付トランペットのユニゾンもあり、不思議な色彩を生み出している。まさに「時間に色をつけている」のです。第2楽章のリズムの緻密な分化と変化、それに加わる微細な色彩の変化と調和!音楽史上の事件といっていいこの革命的な筆致の楽章に「色とリズム」が時間関数の「変数」としていかに有効に機能しているか、僕はこのブーレーズ盤で学んだのです。

ブーレーズはyoutubeにあるニューヨーク・フィルのライブ映像で細かい指揮はしてないように見えるのですが鳴っている音は実に精密に彫琢され、それでいて生命力も感じる。そして魔法のような管弦楽法による色とリズムの調合がいかに音楽の欠くべからざる要素として存立しているか。オケのプレーヤー全員が指揮から学習した結果なのでしょう。極上の音楽性と集中力を引き出している指揮者の存在感。凄いの一言です。

他のものは譜読みが甘くほとんど心に響くものを感じませんが、これはいいですね。ポール・パレー/ デトロイト交響楽団の演奏です。指揮者の常識とセンスと耳の良さを如実に表しております

(こちらへどうぞ)

 

ドビッシー映像第1集(Images,Book 1)

 

 

 

 

 

 

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ソヒエフ指揮トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団をきく

2015 FEB 21 22:22:24 pm by 東 賢太郎

N響できいて注目したトゥガン・ソヒエフを聴きたかった。プロは、

ドビュッシー : 牧神の午後への前奏曲

サン=サーンス : ヴァイオリン協奏曲 第3番 ロ短調 Op.61( Vn: ルノー・カプソン)

ムソルグスキー ( ラヴェル編曲 ) : 組曲 『 展覧会の絵 』

またまたサントリーホールであった。初めて聴いたオケだが、管楽器の音は昔のフランスの楽団とはずいぶん変わってユニバーサルなものに接近している。同じことは旧東独のオケやロシアにもいえるからフランスばかりではないが、僕らが若い頃にLPレコードで聴いたパリ音楽院のオケやドレスデン・シュターツ・カペッレの個性的な音色はもはや見事に消滅している。それを寂しいと思うのは古い人間だろうか。

失礼ながらパリはそうでもちょっと田舎のトゥールーズぐらいなら、という淡い期待は叶わなかった。だが、それはそれとして、牧神のフルート・ソロの柔らかい音はいきなり耳を惹きつけたから文句はない。まったりした質感が心地よいではないか。木管群はオーボエとピッコロ以外は全部女性だ。コンマスも美人の女性。こういう景色も悪くないが、やっぱり僕がヨーロッパに住んでいた頃はあんまり想定できないものだった。

特にうまいということもなく金管にミスもあったが、聞きすすむにつれオケ全体の特徴も冒頭のフルートと似て、弱音でふわっと立ち上がる時のまろやかな空気感が特徴だということがわかってくる。ソヒエフがそういう音造りをしていたのかもしれないが、カラヤンとベルリンフィルの音の立ち上がりを思い出した。

サン・サーンスは第2楽章がいいがトータルとしては僕は結局あまり夢中になれずに終わった曲だ。カプソンは音に芯がありながら柔らかく、音量も豊かで、ずっと聞いていたい魅力ある音色を持つ。アンコールはグルックの歌劇『オルフェオとエウリディーチェ』の精霊の踊りからクライスラーが抜粋した「メロディ」と呼ばれるもの。僕はこのオペラにモーツァルトの「魔笛」に通じるものをたくさん感じるが、この曲は第2幕でパミーナが歌うハ短調のアリア「「ああ、私にはわかる、消え失せてしまったことが」 (Ach, ich fühl’s)にそっくりだ(和声まで)。無伴奏で弾いたカプソンの音は和声を髣髴とさせる倍音豊かな美音で、これは聞きものだった。

展覧会の絵は一転して管楽器がカラフルな色彩を発散し、ああやっぱりフランスのオケだと思った。古城のサクソフォーンはとろけるように美しかったし、ソヒエフのメリハリある指揮はソロを中心としたアンサンブルを室内楽的にうまく目立たせながら弦は常にバランスよく鳴らし、リズムのばねは強靭な推進力を持つという独特な運動神経を感じるものでN響とのプロコフィエフと共通するもの。ただ音楽が対位法的でなく、彼の面白さが充分聴けたわけではない。

アンコールのオペラ『カルメン』から第3幕への間奏曲 、またまた絶美のフルートとハープの合奏はうれしい。この音楽、対旋律に回ってからのフルートの音選びなど、どうということなく聞き流してしまう部分なのだがいつ聴いても頭が下がる。そうそれしかありえないという音を辿っている。ビゼーの作曲の技は本当に凄い!この演奏は聞きものだった。最後はやはりカルメンの第1幕への前奏曲。これまた颯爽と速めのテンポで走る「弦の発音の良さ」に舌を巻く。うーん、これぞビゼー、これぞカルメンでなないか。聞き飽きた展覧会よりこっちを全部やって欲しかったかな。今度はソヒエフでカルメンを全曲聴いてみたくなってしまった。

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クラシック徒然草-はい、ラヴェルはセクシーです-

2015 JAN 20 18:18:13 pm by 東 賢太郎

先日、関東にお住いの方からSMC(西室)当てに長文のメールをいただいて、拝見すると去年11月に書いたこのブログのことでした。

僕がクラシックが好きなわけ

ずいぶん前ですが、「ボレロはセクシーですね」という女性がおられて絶句し、

『こっちはボレロとくればホルンとチェレスタにピッコロがト長調とホ長調でのっかる複調の部分が気になっている。しかし何千人に1人ぐらいしかそんなことに関心もなければ気がついてもいない』

と書いたのですが、頂戴したのはそれに対しての大変に興味深い論点を含むメールでした。それを読んで考える所がありましたので一部、要旨だけを引用させていただいて、ラヴェルについて少々書いてみたいと思います。メールには、

私もあの・・・中略・・・部分を耳を澄まして聴いてしまいます。東さんの説によると、ボレロに関して私は”何千人の一人”に入ってしまうようです。

とありました。僕の記事を見てデュランのスコアをご覧になったとも書かれていて、とてもうれしく存じます。

先般も「ブーレーズの春の祭典のトランペットに1箇所ミスがある」と、ブーレーズとトランぺッター以外誰も気がつかなかったかもしれないウルトラニッチなことを書いたら、それを探しだしてコメントを下さった方もおられ感動しました。お好きな方はそこまでこだわって聴いているということで、普通の方には別に飯のタネでもないのにずいぶんモノ好きなことと見えるでしょうが、飯より好きとは掛け値なしにそういうものだと思うのです。

ボレロの9番目の部分は倍音成分の多いフレンチホルンにパイプオルガンを模した音色を人為的に合成しようという意図だったと僕は考えております。各音に一定比を乗じたピッチでチェレスタとピッコロを配しているのでそれぞれがホルンの基音の平行移動ということになり、結果的にCとGとEとの複調になっていると思われます。ミヨーと違って複調に根拠、法則性を求めるところがとてもラヴェルだと思います。

こういう「面白い音」はマニアックに探しまくったのでたくさん知ってます。高校時代には米国の作曲家ウォルター・ピストンの書いた教科書である「管弦楽法」が座右の書であり、数学や英語の教科書などよりずっとぼろぼろになってました。これは天文で異色の恒星、バーナード星や白鳥座X-1やぎょしゃ座エプシロンの伴星について物凄く知りたいのと同質のことで、どうしてといわれても原初的に関心があるということで、僕のクラシックレパートリーは実はそういう興味から高校時代に一気にできてきたためにそういうこととは無縁のベートーベンやモーツァルトはずっと後付けなのです。

僕がSMCの発起人としてクラブを作った目的はトップページに書いてある通りですが、そのなかのいちブロガーとして音楽記事を書くきっかけはそれとは別に単純明快で、自分の読みたいものが世の中になかったからです。でもそういうのに関心がある方は何千人に一人ぐらいはいるにちがいないと信じていたので、じゃあ自分で自分の読みたかったものを書いてインターネットの力を借りてお友達を探してみようという動機でした。

こういうのはfacebookや普通のSNSには向いてません。単に昔の知り合いを集めてもこと音楽に関してはしようがないし、こんなニッチな関心事はそれが何かをきちっと説明するだけでも一苦労だからです。でも少なくともその何千人からお二人の方が素晴らしいリアクションを取ってくださった。それだけでも自信になりますし書いてきてよかったと思いました。

ただ日々の統計を見ると多くのビギナーの方も読んでくださっているようで、クラシック音楽は曲も音源も数が膨大ですからワインのビギナーといっしょで入り方をうまくしないとお金と時間の無駄も膨大になるという事実もあります。僕のテーストがいいかどうかは知りませんが、たくさんの英国人、ドイツ人の真のクラシック好きと長年話してきた常識にそってビギナーの方がすんなりと入れる方法論はあるという確信があります。学校で教えない、本にも書いてない、そういうことをお伝えするのはいちブロガーでなくSMCメンバーとしての意識です。

さて、ラヴェルがセクシーかどうか?こんなことはどこにも書いてませんからもう少しお付き合いください。メールに戻りますが、こういうご指摘がありました。

ボレロには、「大人のあか抜けた粋な色香」を強く感じます。ラヴェルは官能性を効果として最初から曲を組み立てる時に計算しているように私には思えてならないです。

これは卓見と思い、大いに考え直すところがございました。本稿はそれを書かせていただいております。

たしかにボレロはバレエとして作曲され、セビリアの酒場で踊り子がだんだん客を夢中にさせるという舞台設定だからむしろ当然にセクシーで徐々にアドレナリンが増してくる音楽でないといけません。それが目的を突き抜けて、踊り子ぬきで音だけでも興奮させるという仕掛けにまで至っているのがいかにも完全主義者ラヴェルなのですが、おっしゃるとおり、それはリズムや曲調に秘められた官能性の効果あってこそと思います。

ドビッシーの牧神や夜想曲もエロスを秘めていますがあれは醸し出された官能美であってセクシーという言葉が当てはまるほど直接的なものではないようです。ところがラヴェルは、ダフニスとクロエの「クロエの嘆願の踊り」(練習番号133)などエロティックですらあって、こんなのを海賊の前で踊ったらかえって危険だろうと心配になるほどです。「醸し出された」なんてものでなく、非常に直截的なものを音が描いている点は印象派という風情とは遠く、リストの交響詩、R・シュトラウスの描写性に近いように思います。

僕はメリザンドの歌が好きですがこれは絵にかいたような不思議ちゃんであって、わけのわからない色気がオブラートに包まれてドガやルノアールの絵のように輪郭がほんわりしてます。かたやクロエはものすごく気品があるいっぽうでものすごくあからさまにセクシーでもあってぼかしがない。音によって描く色香が100万画素ぐらいにピンポイントにクリアであって、その描き方のセンスは神経の先まで怖いぐらいに研ぎ澄まされていると感じます。

ドビッシーとラヴェルはいつも比較され並べて論じられるようですが、作曲家としての資質はまったく違うと思います。彼らが生きて共有した時代、場所、空気、文化というパレットは一緒だからそこに起因する似た部分はありますが、根本的に別々な、いってみれば会話や食事ぐらいはできても友達にはなれないふたりだったように思います。ライバルとして仲が良くなかった、ラヴェルが曲を盗まれたと被害意識を持ったなどエピソードはあるものの、それ以前にケミストリーが合ってなかったでしょう。

これは大きなテーマなのですが核心の部分をズバリといいますと、ドビッシーは徹頭徹尾、発想も感性も男性的であるのに対し、ラヴェルには女性的なものが強くあるということです(あまり下品な単語を使いたくないのでご賢察いただきたい、ラヴェルが結婚しなかった理由はベートーベンとは違うということであり、そういう説は当時から根強くあります)。

東さんはラヴェルのボレロに精緻さを強く感じていらっしゃるのかなと拝察します。
私自身、ラヴェルにドビュッシーとは異なる知的な理性を感じますし、ここがホントに大好きです。ただセクシーであるとも強く感ずるところです。

これがお二人目であり、もう絶句は卒業しました。というより、前述のようにバレエ台本からして、このセクシーであるというご意見のほうが道理なのであります。僕の方が大きく間違っていたのでした。

だから今の関心事はむしろ、どうして僕はそう感じていなかったかです。ピストン先生の教科書の影響もあるでしょうが、僕はラヴェルが自分を隠している「仮面」(知的な理性)の方に見事に引っかかってしまったのではないか。しかし、感受性の強い女性のかたはラヴェルの本性を鋭く見抜いておられたということなのかと拝察する次第です。彼の中の女性の部分は、女性のほうが騙されずに直感するのかもしれないと。

ボレロという曲は仮面が精巧で、僕だけでなく多くの人がきっと騙されてクールな仮面劇だと思って聞いていて、最後に至って興奮に満たされている自分を発見します。心の中に不可思議な矛盾が残る曲ではないでしょうか?これはアガサ・クリスティのミステリーみたいなもので、見事にトリックにひっかかってそりゃないだろと理性の方は文句を言いますが、そこまで騙されれば痛快だということになっている感じがします。

ボレロは「犯人」がわかっているので自ら聴く気はおきないのに、始まってしまうといつも同じ手管で満足させられているという憎たらしい曲です。しかしこの仮面と本性というものはラヴェルのすべての作品に、バランスこそ違え存在している個性かもしれないと思います。ドビッシーにそういう側面は感じません。真っ正直に自分の感性をぶつけて晒しています。ミステリーではなく純文学です。

「海」や「前奏曲集」を聴きたいと思う時、僕は「ドビッシー界」に分け入って彷徨ってみたいと思っていますが、それはブルックナーの森を歩いてみたいという気分と性質的にはそう変わりません。しかしラヴェルを聴く衝動というものは別物であって、万華鏡をのぞくようなもの、原理もわかっているし、実は生命という実体のない嘘の造形の美しさなんですが、それでも騙されてでも楽しんでみたい、そういう時なのです。

ラヴェルが隠しているもの。それは僕の推察ですがエロスだと思います。それを万華鏡の色彩の精巧な仮面が覆っている。万華鏡であるというのは、同じ曲がピアノでも管弦楽でもいいという所に現れます。エロスの多くを語るのは対位法ではなく非常に感覚的に発想され、極限まで磨き抜かれた和声です。ダフニスの冒頭数分、あの古代ギリシャのニンフの祭壇の神秘的ですでに官能を漂わせるアトモスフィアは精緻な管弦楽とアカペラの混成四部合唱によるものですが、ピアノで弾いてみると和声の化学作用の強さというものがよくわかります。

そして始まるダフニス、クロエの踊り。醜魁なドルコンに対比させるまでもなくエロティックであり、ちっともロマンティックでもセンチメンタルでもないのです。これはもはや到底ロマン派とは呼べない、でも印象派とも呼べない、ラヴェル的としか表現の術すらない独自の世界であって、誰もまねができない故に音楽史的に後継者が出なかったという点ではモーツァルトと同様です。

おそらくラヴェルが両親、先祖から受け継いだもののうち対極的である二面が彼の中にあって、それは彼を悩ませたかもしれないし人生を決定づけたものかもしれませんが、いずれにせよ両者の強い対立が衝動を生んで弁証法的解決としてあの音楽になった。あれは女性が書いたポルノであり、だから男には異界のエロティシズムであり、しかもそれを彼の男のほうである科学者のように怜悧な理性が脳神経外科医のような精密な手さばきで小説に仕立てた、そういう存在のように思うのです。

「両手の方のピアノ協奏曲」の第二楽章と「マ・メール・ロアの妖精の園」が大好きで、この世に かくも美しい音楽があるのかしらとも思ってしまいます。

まったく同感でございます。木管が入ってくる部分が特にお好きと書かれていますが、音を初めて出すオーボエにいきなりこんな高い音を出させるなんてアブナイですね。この部分は凍りつくほど美しい、ラヴェル好きは落涙の瞬間と思います。「マ・メール・ロアの妖精の園」は愛奏曲で、終わりの方のレードーシラーソードー ソーファーミドーシーソーは涙なくして弾けません。ここの頭にppと書いたラヴェルの言いたいことが痛いほどわかります。しかしこれはみんな女性の方のラヴェルのように思うんですが・・・。

ということで同じ感性の方がおられるんだ、人生孤独ではないと元気づけられました。こんなにニッチなことで人と人とを結び付けられるインターネットの力を感じました。最高にうれしいメールをありがとうございます。

 

音楽にはツボがある

 

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ドビッシー映像第1集(Images,Book 1)

2014 DEC 23 1:01:31 am by 東 賢太郎

Claude_Debussy_ca_1908,_foto_av_Félix_Nadarドビッシーのピアノ曲には墨絵のイメージを持っている。一般に印象派といわれる音楽にどうしてそうかといわれても答えはない。一方でラヴェルには水彩画の色彩を見ているのだから、この二人はぜんぜん別物である。

僕の中で二人を代表しているのがペレアスとメリザンドダフニスとクロエだ。ダフニスを着想するのにペレアスの舞台が影響しただろうというのは、音楽はもちろんだが合唱の使い方を見てもわかる。しかしそうではあっても、深い森と暗い城のペレアスがダフニスになると陽光きらめく地中海を思わせるところがそのイメージを作ったかもしれない。

そのドビッシーの作品で最も色彩を感じるのが映像第1集(Images I)の第1曲「水の反映」(Reflets dans l’eau)だ。水に色はないじゃないか?たしかに。だが波のゆらぎ、水しぶきにはいろんなものが映る。虹もできる。これは僕の色覚のせいなのかもしれないが、colorful このうえない。

ドビッシーはこの曲において the newest discoveries in harmonic chemistry (和声の化学反応における新発見)を宣言している。曲頭いきなり変ニ長調(D♭)のトニック(des、as)にサブドミナントが乗るところから頭が痺れる。右手の和音はコードで示せばG♭、Fm、しかし全てdes、asを含んでいるから不協和にはきこえず、深い池の水面がゆらゆらと波打っているような感じがする。

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左手のas、 f 、es の音列はコーダで高音のオクターヴで鐘のように印象的に響く。中間部では高音の速いパッセージが波しぶきのように巻き上がる。譜面の「ゆらゆら」はそこで再現するが音型はより自由になる。曲想は激しくなり、最後は夕暮れのように静まって終わるが、この時が止まるような時間感覚は非常に印象的だ。

この曲はロンドンの105km南に位置するイーストボーンEastbourne)で、交響詩「海」の完成から半年後に書かれたが5音音階、全音階が現れる中間部はまさに「海」の第2楽章を髣髴とさせる。真に驚くべき音楽である。

第2曲「ラモー讃」(Hommage à Rameau)は1901年作曲の「ピアノのために」の第2曲サラバンドを思わせる佳曲であるが特に新しいものは感じない。第3曲「運動」(Mouvement) はなつかしい。大学時代に下宿でこれをカセットでよくきいていた。ライブだったがあれは誰の演奏だったのだろう。

 

ロベール・カザドシュ(pf)

zaP2_G6231773WこれをCD化してくれたのは快挙だ。カザドシュ(1899-1972)はラヴェルもいいし、セルとのモーツァルト協奏曲も愛聴している。これほど僕の「墨絵」のイメージに合う演奏はない。もっとうまい人はいくらもいるしもっと色彩感のある演奏も録音のいいディスクもある。しかしこれは「時代の匂い」する。こういうものはどうしようもない。ペダルを抑えた味わい深いタッチはこれぞドビッシーだ。アラベスク2番やゴリウォーグのケークウォークを聴けばそれがわかる。

サンソン・フランソワ(pf)

813フランソワは(1924-70)即興的な味があって好悪が分かれるが、この曲では僕は好きである。あらゆるフレーズがしなやかで均等な音で弾きこまれ、曲想の起伏は波のうねりのように自然で大きく、ここぞでの打ち込みにまったく不足がない。第3曲などほんとうにうまい。カザドシュよりペダルを使ってバスを強調した「ラモー讃」はタッチの切れ味も良くインパクトがある。フランソワの絶好調の記録の一つと思う。CDは録音がいまひつだったのでSACDを買いたい。

 

フランソワをお聴きいただきたい。

 

ユーリ・エゴロフ(pf)

5099920653125第1曲「水の反映」(Reflets dans l’eau)だけだが、えも言えず美しい。ホモだったからというわけでもないだろうが、この人のドビッシーは危ないほど繊細、鋭敏でデリケートなタッチであり特異である。こういうのに出会ってしまうとあれこれ言うだけ野暮だ。いくらメカニックを鍛えても普通の人にはできないというものはある。センスの領域だから仕方ない。エゴロフはタタールの人だが、中央アジアからは大変な天才が多く出ている。東西の遺伝子が混ざった地域の特性なのだろうか。

(こちらへどうぞ)

ドビッシー 前奏曲集第1巻 (Préludes Livre 1 )

 

 

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デュトワ/N響のペレアスとメリザンドを聴く

2014 DEC 7 22:22:25 pm by 東 賢太郎

興奮冷めやらぬまま帰宅。日曜日の午後3時からの、あっという間の3時間半でした。僕のこのオペラへの熱い思いはすでにブログにしていますが上演はなかなかありません。録音だって多くはなく、それも一長一短があるのです。

屋久島の深い森をさまよっていたからでしょうか、森の奥深くに猪を追ったゴローが迷い込むシーンからすーっと音楽に入ってしまいます。

僕にとってこのオペラは不思議娘のメリザンドで決まります。好きなタイプのメリザンドがあるのですがフレデリカ・フォン・シュターデがあまりにはまりで、なかなか浮気ができずにおります。

今日の当役はカレン・ヴルチ。きいたことがありません。経歴を見ると「パリ高等師範学校で理論物理学の専門研究課程を修了」です。アルモンド王国でロケット開発でもするんかいとイメージが狂います。

しかし大外れでした。女性はそのものが不思議なんです。泉の水のように澄んだ声と完璧なピッチ。古典も現代曲もいけてしまうだろう究極の音楽美です。たしかにちょっと知的ではあるが、メリザンドは決して馬鹿ではなく「嘘をつくのはゴローにだけよ」という面がある。大変なクオリティの歌唱を生で聴けた僥倖に感謝するしかありません。彼女の歌は全部聴くことに決めました。

ヴァンサン・ル・テクシエも当たりでした。ゴローの猜疑が怒りそして殺人になっていく過程を描いたオペラでもあります。それが弱いと意味不明になります。演技がない演奏会形式でこのインパクトは素晴らしい。

アルケルのフランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ、存在感がありました。この人のザラストロは良さそうだ。ペレアスのステファーヌ・デグー、髪の毛のシーンは好演でした。ジュヌヴィエーヴのナタリー・シュトゥッツマン、どう考えても端役ですがこんな大物が。もちろん良かった。デュトワの気合いを感じます。イニョルドのカトゥーナ・ガデリア、見事でした。いい声、というか気になる声です。フォローしたい。医師のデーヴィッド・ウィルソン・ジョンソン、貫録でした。

シャルル・デュトワがN響から紡ぎだした音響は一級品でした。モントリオール響とのドビッシーは時々聴きますが、やや作りこんだ美という感じもあります。今日のは特にフランス風ということでもなく、音楽のエッセンスを理想的に引き出した観。模糊とした響きが屋久・白谷雲水峡は「苔むす森」の幻想的な風景とシンクロするほど自然なものがありました。デュトワがいま聴ける指揮者の中でも屈指の巨匠であることを確信しました。そして、なによりそれに見事にこたえたN響に大拍手です。

僕が今年きいたうち、文句なく最高の演奏会でした。大変な名演を有難うございます。

 

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ドビッシー 「牧神の午後への前奏曲」

2014 NOV 25 2:02:05 am by 東 賢太郎

ピエール・ブーレーズは「牧神の午後への前奏曲」をもって現代音楽が始まったと評価している。

パーヴォ・ヤルヴィが98年にロンドンのロイヤル・フェスティバルでこれをやった時のことは忘れない。比較的前の方で聴いていたら、オーケストラのいる舞台空間を「音が明滅しながら移動する」のがあたかも点描画を観るように目に見えた気がしてびっくりした。70年の大阪万博のドイツ館でシュトックハウゼンの電子音楽をやっていて、ドーム状の高い天井に設置した多くのスピーカー間を音がすばやく移動していく。それを思い出してしまった。

もしかして牧神のスコアには楽器の物理的な位置(位相)というものが設計されていて、ヤルヴィがそれをシアター・ピース化して表現することを意図したのではないかとさえ思う。印象派的な音のポエムと見なされている音楽が、この日以来がぜん僕の中では現代音楽になった。

ドビッシーは半音階、そして全音ばかりを重ねた音階を使用して、どこの民族風でもない旋法を生んだ。国籍、アイデンティティのない音のブロックに機能和声のルールは適合しないという形で、ワーグナーのトリスタンとは違う形で彼は自由を手に入れたように思う。30歳より着手し、出世作となった。

「詩人 マラルメ の『牧神の午後』(『半獣神の午後』)に感銘を受けて書かれた作品である。” 夏の昼下がり、好色な牧神が昼寝のまどろみの中で官能的な夢想に耽る”という内容で、牧神の象徴である「パンの笛」をイメージする楽器としてフルートが重要な役割を担っている」(このパラグラフはWikipediaより引用させていただいた)。

故意に楽器が機能的に鳴りにくいcis音のpで始める。その不安定でおぼろげな感じが牧神のまどろみをイメージさせる。このcisによる印象的な開始が、ストラヴィンスキーによって楽器をファゴットに替え、やはり鳴りにくい楽器の限界に近い高いc音で意図的に開始する革命的な音楽(春の祭典)を生んだとすれば、まさにブーレーズの指摘通り、この曲をもって現代音楽は始まっている。

この開始は5年前に作曲された交響組曲「春」のそれに似たムードを持っているが音楽の密度と成熟度は格段に差がある。cisから半音階をたどってなめらかに下降した音が最も遠い増4度のgで止まる。その間の5つの音は1小節で全部使っている。伴奏のないこの旋律、調性もうつろにまどろんで聞こえる。なんとも挑発的な開始だ。

このcis-gの増4度(augmented fourth)、主調のホ長調と変ロ長調の増4度について、vagueness(あいまいさ)ということでバーンスタインが講義している。確かにこの曲はTritone(悪魔の音程、増4度)が支配している。

おっしゃるようにホ長調で開始した曲が変ロ長調を経由して、ホルンがbの増4度eを通って上昇しfisに至り、11小節目で音楽はニ長調!になる。そこで f から半音だけそおっと上がるホルンのブレンドがうまくいったゾクゾクする効果 ! セクシーと書くしかなく僕はこれがたまらない。しかもこのホルンはすぐ消えて、同じfisはクラリネットに引き継がれているのだが、ほとんどの人は気づかないだろう(いや、気づかないように演奏されるのが一流の証なのだが)。

そこで微妙に色彩が変化している!

もうため息をつくしかない。ヤルヴィの教えてくれたシアター・ピース的な位相変化、そしてそのfisの管弦楽法による絶妙な色彩変化。これはストラヴィンスキーが春の祭典の各所にもちこんだし、特に後者はメシアン、シェーンベルクを通じてブーレーズに引き継がれていくのである。冒頭の彼の言葉が包含するのはそういうことなのだと僕は解釈している。

さらに、大好きなのはここだ。オーボエの旋律が入るAnimato、次々と調を変えて音楽が大きなうねりを迎える部分だ。ここは僕の中ではギリシャだ(本当にマラルメの詩がそうかどうかは知らないが)、ダフニスとクロエの世界!もう最高である。 debussy1

この先、音楽は変ニ長調で交響詩「海」を思わせる雄大で広々とした歌となる。冒頭のフルートにハープで和声がつき、調性はホ長調、ハ長調、変ホ長調、ロ長調と変化し冒頭のcisで始まるホ長調に回帰する。しかし牧神の心はまだ休まらず、三連符の旋律がかき乱す。もう一度冒頭旋律が今度は嬰ハ長調の7度和音で現れ、徐々に心は落ち着いて音楽は遅くなる。

すると突然にテンポを戻してオーボエが何かを告知するかのようなハ長調の旋律を奏でる(下のa tempo)。そこからの2小節でホ長調に戻す和声のもの凄さには絶句するしかない。ここにくるといつも時が止まったようであり、この音楽の魔法の呪文にかかって動けなくなる。最後のすずやかなアンティーク・シンバルで我に返るまでの金縛りを味わうことになるのだ。本当に美しい。

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何という素晴らしい音楽だろう!ドビッシーはこれを書いたころバイロイトでパルシファルやマイスタージンガーを聴いて、のちにはその限界を感じてアンチワグネリアンとなる。しかしこの牧神のスコアを見ると、和声やチェロの走句など様々な部分にトリスタンやマイスタージンガーを見る。

お示ししたピアノスコアはKun版。僕はBorwick版を買ってしまい三段譜になる部分はお手上げだったが、こちらはより簡明で弾きやすい(petrucciから無料でダウンロードできる)。できればご自分で弾いて、この曲の奇跡のような和声を味わっていただきたい。

 

ジャン・マルティノン/ フランス国立放送管弦楽団

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冒頭の模糊とした情緒、フランス的な管の味わい。オケの各パートからこれはこういう曲だという確信をこめた音が鳴っている。フルートのフレージングと絶妙なテンポの揺れはなまめかしく、オーボエ、イングリッシュホルンのアシ笛のような音色は最高だ。この音楽の雰囲気がダフニスとクロエにつながるフランス音楽の系譜を感じる。それを教えてくれる稀有の名演である。

 

ピエール・モントゥー / ロンドン交響楽団

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スコアを一切デフォルメすることなくさらっと自然体で鳴らしているのにこんなに楽器のバランスが素晴らしい演奏はない。最高の気品がある分、エロティックな雰囲気はやや後退するが、耳がくぎづけになるほど各パートのニュアンスが精妙であり、演奏芸術の奥義ここに極まれりという感がある。マルティノン盤とは甲乙つけがたい。両方をぜひお聴きいただきたい。

モントゥー/BSOのライブがあったのでのせておく。デリカシーがすばらしい。

 

ポール・パレー / デトロイト交響楽団

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旋律が動的でバレエのように表情がある。この音楽の各所の意味するものを熟知した者だけがなしえる至芸であり、デトロイトのオーケストラからフランス的な感性の音を引き出すことに成功している。楽譜をお示ししたコーダの和声変化をテンポを落してじっくりと聴かせるのを聴くとパレーさんがわかってらっしゃるのがうれしくなる。パレーはラヴェルも一級品である。

 

ピエール/ブーレーズ/ ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

51Dd67hBgoL「海」と一緒に入っており僕はこの演奏で曲を覚えた。懐かしいものであり精妙なテクスチャーに今も感銘は覚えるが精度はストラヴィンスキー録音にやや劣り、オーボエがフランス風の色香を欠いているのはこの曲の場合マイナスである。DGの新盤は精度やニュアンスがさらに落ちておりブーレーズを聴くならこっちだが、上記の3つを聴いた上で比較してみるのがお薦めである。ただし上述の「11小節目の fis」 を最もうまくやっているのはブーレーズであり、そういうものが演奏の与える感動の本質とは別種の関心であることを認めつつも、やはりブーレーズの微視的なアナリーゼ能力と聴覚の鋭さが群を抜いていることには言及せざるを得ない。

音楽鑑賞とは、知った道を演奏者という案内人と連れ立って歩くようなものだ。ここは元GHQの本営で、ここに鹿鳴館があって・・・と皇居前を散策したって、そんなことは知ってるよでおしまいだ。マッカーサーはなぜここを選んだか?鹿鳴館はこの敷地のどの辺に建っていたか?そんなことを聞かれると、ちょっとじっくりつき合ってみようかと思う。良い演奏者とはそんなものだ。

このハオ・アン・ヘンリー・チェンの指揮はなかなかだ。インディアナ大学の管弦楽団だがこのレベルにもってくるのは見事である。アマチュアなのにうまいじゃないかではなく、プロだってもうあんまりない「最後までじっくりつき合おう」という次第になった。指揮の力が大きい。弦のユニゾンだけもっとピッチを鍛え上げればへたなプロより聴けるかもしれない。

(補遺、15 June17)

ジョージ・コープランド(George Copeland、April 3, 1882 – June 16, 1971)はパリでドビッシーに4か月私淑して ”I never dreamed that I would hear my music played like that in my lifetime” と言わしめたとされ、ドビッシーの曲の一部を世界初演、多くを米国初演した米国のピアニストである。この「牧神」をドビッシーは聴いたに違いなく感慨深い。まるでオーケストラを聴くようで2手版とは思えない色彩に驚く。

 

ユージン・オーマンディー / サンフランシスコ交響楽団 (ライブ)

これは留学中の1984年に、亡くなる前年のオーマンディーがSFSOに客演した際のライブをカセットに録音しておいたものです。いまとなっては貴重な記録になってしまいました。この後に「海」と後半がブラームスの第2交響曲というプログラムで、その2曲も録音してあります。

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ドビッシー 歌劇「ペレアスとメリザンド」

 

 

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クラシック徒然草-秋に聴きたいクラシック-

2014 OCT 5 12:12:43 pm by 東 賢太郎

以前、春はラヴェル、秋にはブラームスと書きました。音楽のイメージというのは人により様々ですから一概には言えませんが、清少納言の「春はあけぼの」流独断で行くなら僕の場合やっぱり 「秋はブラームス」 となるのです。

ブラームスが本格的に好きになったのは6年住んだロンドン時代です。留学以前、日本にいた頃、本当にわかっていたのは交響曲の1番とピアノ協奏曲の2番ぐらいで、あとはそこまでつかめていませんでした。ところが英国に行って、一日一日どんどん暗くなってくるあの秋を知ると、とにかくぴたっと合うんですね、ブラームスが・・・。それからもう一気でした。

いちばん聴いていたのが交響曲の4番で毎日のようにかけており、2歳の長女が覚えてしまって第1楽章をピアノで弾くときゃっきゃいって喜んでくれました。当時は休日の午後は「4番+ボルドーの赤+ブルースティルトン」というのが定番でありました。加えてパイプ、葉巻もありました。男の至福の時が約束されます、この組み合わせ。今はちなみに新潟県立大学の青木先生に送っていただいた「呼友」大吟醸になっていますが、これも合いますね、最高です。ブラームスは室内楽が名曲ぞろいで、どれも秋の夜長にぴったりです。これからぼちぼちご紹介して参ります。

クラシック徒然草-ブラームスを聴こう-

英国の大作曲家エドワード・エルガーを忘れるわけにはいきません。「威風堂々」や「愛の挨拶」しかご存じない方はチェロ協奏曲ホ短調作品85をぜひ聴いてみて下さい。ブラームスが書いてくれなかった溜飲を下げる名曲中の名曲です。エニグマ変奏曲、2曲の交響曲、ヴァイオリン協奏曲、ちょっと渋いですがこれも大人の男の音楽ですね。秋の昼下がり、こっちはハイランドのスコッチが合うんです。英国音楽はマイナーですが、それはそれで実に奥の深い広がりがあります。気候の近い北欧、それもシベリウスの世界に接近した辛口のものもあり、スコッチならブローラを思わせます。ブラームスに近いエルガーが最も渋くない方です。

シューマンにもチェロ協奏曲イ短調作品129があります。最晩年で精神を病んだ1850年の作曲であり生前に演奏されなかったと思われるため不完全な作品の印象を持たれますが、第3番のライン交響曲だって同じ50年の作なのです。僕はこれが大好きで、やっぱり10-11月になるとどうしても取り出す曲ですね。これはラインヘッセンのトロッケン・ベーレンアウスレーゼがぴったりです。

リヒャルト・ワーグナーにはジークフリート牧歌があります。これは妻コジマへのクリスマスプレゼントとして作曲され、ルツェルンのトリープシェンの自宅の階段で演奏されました。滋味あふれる名曲であります。スイス駐在時代にルツェルンは仕事や休暇で何回も訪れ、ワーグナーの家も行きましたし教会で後輩の結婚式の仲人をしたりもしました。秋の頃は湖に映える紅葉が絶景でこの曲を聴くとそれが目に浮かびます。これはスイスの名ワインであるデザレーでいきたいですね。

フランスではガブリエル・フォーレピアノ五重奏曲第2番ハ短調作品115でしょう。晩秋の午後の陽だまりの空気を思わせる第1楽章、枯葉が舞い散るような第2楽章、夢のなかで人生の秋を想うようなアンダンテ、北風が夢をさまし覚醒がおとずれる終楽章、何とも素晴らしい音楽です。これは辛口のバーガンディの白しかないですね。ドビッシーフルートとビオラとハープのためのソナタ、この幻想的な音楽にも僕は晩秋の夕暮れやおぼろ月夜を想います。これはきりっと冷えたシェリーなんか実によろしいですねえ。

どうしてなかなかヴィヴァルディの四季が出てこないの?忘れているわけではありませんが、あの「秋」は穀物を収穫する喜びの秋なんですね、だから春夏秋冬のなかでも音楽が飛び切り明るくてリズミックで元気が良い。僕の秋のイメージとは違うんです。いやいや、日本でも目黒のサンマや松茸狩りのニュースは元気でますし寿司ネタも充実しますしね、おかしくはないんですが、音楽が食べ物中心になってしまうというのがバラエティ番組みたいで・・・。

そう、こういうのが秋には望ましいというのが僕の感覚なんですね。ロシア人チャイコフスキーの「四季」から「10月」です。

しかし同じロシア人でもこういう人もいます。アレクサンダー・グラズノフの「四季」から「秋」です。これはヴィヴァルディ派ですね。この部分は有名なので聴いたことのある方も多いのでは。

けっきょく、人間にはいろいろあって、「いよいよ秋」と思うか「もう秋」と思うかですね。グラズノフをのぞけばやっぱり北緯の高い方の作曲家は「もう秋」派が多いように思うのです。

シューマンのライン、地中海音楽めぐりなどの稿にて音楽は気候風土を反映していると書きましたがここでもそれを感じます。ですから演奏する方もそれを感じながらやらなくてはいけない、これは絶対ですね。夏のノリでばりばり弾いたブラームスの弦楽五重奏曲なんて、どんなにうまかろうが聴く気にもなりません。

ドビッシーがフランス人しか弾けないかというと、そんなことはありません。国籍や育ちが問題なのではなく、演奏家の人となりがその曲のもっている「気質」(テンペラメント)に合うかどうかということ、それに尽きます。人間同士の相性が4大元素の配合具合によっているというあの感覚がまさにそれです。

フランス音楽が持っている気質に合うドイツ人演奏家が多いことは独仏文化圏を別個にイメージしている日本人にはわかりにくいのですが、気候風土のそう変わらないお隣の国ですから不思議でないというのはそこに住めばわかります。しかし白夜圏まで北上して英国や北欧の音楽となるとちょっと勝手が違う。シベリウスの音楽はまず英国ですんなりと評価されましたがドイツやイタリアでは時間がかかりました。

日本では札幌のオケがシベリウスを好んでやっている、あれは自然なことです。北欧と北海道は気候が共通するものがあるでしょうから理にかなってます。言語を介しない音楽では西洋人、東洋人のちがいよりその方が大きいですから、僕はシベリウスならナポリのサンタ・チェチーリア国立管弦楽団よりは札幌交響楽団で聴きたいですね。

九州のオケに出来ないということではありません。南の人でも北のテンペラメントの人はいます。合うか合わないかという「理」はあっても、どこの誰がそうかという理屈はありません。たとえば中井正子さんのラヴェルを聴いてみましたが、そんじょそこらのフランス人よりいいですね。クラシック音楽を聴く楽しみというのは実に奥が深いものです。

 

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ドビッシー 西風の見たもの

2014 AUG 22 12:12:34 pm by 東 賢太郎

ピアニスティックに書かれたピアノ曲がいかに「歌えない」かをお示ししたい。そのぐらいピアノというパレットは特別なものだ。今回はドビッシーのピアノ曲の最高傑作のひとつである前奏曲第1巻の7番目に位置する特異な音楽で、僕の関心をこよなくかきたてる「西風の見たもの( Ce qu’a vu le vent d’ouestz)」である。これが有名な2曲、雪の上の足跡(Des pas sur la neige)と亜麻色の髪の乙女(La fille aux cheveux de lin)の間に置かれているというコントラストが周到だ

フランスの西風は強いそうで、この音楽は東洋の我々にはどこか台風が水しぶきを巻き上げ草木をなぎ倒す情景を思わせる。しかし前奏曲12曲の標題はどれもそれほど写実的ではない。この曲も、描写というよりも、そこから感じ取った本能的な自然への畏怖をそのままピアノというパレットにぶちまけた感じである。荒れ狂う暴風雨の中では人間の畏怖もねこの畏怖もそうは変わらないだろうと思わせる意味で抽象的な心象風景であり、1908年作のラヴェルの夜のガスパール「スカルボ」を想起させる。

この、ドビッシーとしては異例に激しい曲の譜面は、あくまで眺めた図形としての話だが、ストラヴィンスキー「春の祭典」のピアノリダクション版を思わせる。作曲は1910年、春の祭典は1913年だからストラヴィンスキーがこれを知っていた可能性はあるだろう。ドビッシーはこの曲を管弦楽化しなかったし、歌えないのだからそれはできないと考えるのが当時の常識と思われる。現にドビッシーは歌える火の鳥、ペトルーシュカはほめたが春の祭典には冷たかった。春の祭典がそれまでの音楽の決定的な創造的破壊(Creative Deconstruction)になった理由の一つは、常識破りのそれをしたからだ。

81oVpH4IzsL__SL1500_前奏曲第1巻、第2巻の名演としてゆるぎない地位にあるのが故ベネディッティ・ミケランジェリのDG盤である。僕もそれには異議のとなえようがない。1985年の5月にロンドンはバービカン・センターで第2巻の実演を聴いてもそう思った(僕の前の席にはアルフレート・ブレンデルが聴衆としていた)。今も彼の2枚が愛聴盤であることをお断りした上で、あえて言おう。彼の研ぎ澄まされた音は息をのむものだったが、彼は音の美食家なんだろうなという印象もあったのは事51R8ZHW53SL実だ。彼のファンに叱られるかもしれないが、音楽の作り方そのものにあんまり「哲学」を感じなかった。

演奏家は時間を「支配」しなくてはいけない。音がきれいかテクニックにキレがあるかという次元の話ではなく、音楽自体が時間芸術であり、時を刻みながら生成されるものだという本質を聴衆に味わわせないならば、音楽は意味の薄い享楽と変わらないものになる。ミケランジェリにはそれがあったしそれが聴衆に息をひそめさせるという稀有の経験をさせていただいた。だがあのドビッシーには何かが足りない。春の祭典に通じる畏怖、破壊、再生・・・そういう第1次世界大戦勃発直前の風雲急を告げる作曲家の心の嵐のようなものが彼一流の美音の陰に隠れていて、平和な世の我々をそこに巻き込むための一種のしたたかな理性、それを駆使した演奏哲学のようなものが欠けているのかなと感じた。

それはピアニストのプレゼンテーションのコンテンツというよりも、相手である聴衆を時間という魔力でコントロールする力、たぶん「意志を持ったオーラ」と言った方が直感的には近い何物かがこの曲には必要ということだ。音の美食の悦楽では足りない、もっと知的でいて本能的、動物的なもの。僕はそれがどうしても欲しい。

51a1tB4Ym7L__SL500_AA280_そういう演奏はないものとあきらめていたら、ひとつだけ近いものがあった。やはりイタリアのピアニスト、ジャンルカ・カシオーリのものだ。彼はすべての音符を自分の理性で一度Deconstructしているように聞こえる。怜悧な眼がひとつとして無意味に見過ごした音符はなく、楽譜をそう読むのかという新鮮な創造にあふれている。それが人為的、人工的な奇矯さに陥らないのは、彼の天性の音楽性とでも呼ぶしかないものがすべてを覆い尽くしてコントロールしているからだ。音とリズムは磨き抜かれ、不協和なクラスター(音塊)でも混濁することがない。そして何より、それをプレゼンする意図、自信の強さに圧倒される。そうは書いてないのだが、作曲家はきっとそれもよしとするに違いないと思わせる何かをもっている。「西風の見たもの」をお聴きいただきたい。

彼の前奏曲第1巻における創造的破壊(Creative Deconstruction)というものは、ピエール・ブーレーズの春の祭典そしてグレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲という、まったく素養の異なる天才たちが各々の特異な方法論によって我々を驚かせたそれの場合との同質性をほのかに感じさせる。そういう行為をして聴衆を「創造的に驚かせる」には、その音楽を constrac tした天才と同じほどの理性が求められ、聴衆にだってそれに共鳴し、少なくともびっくりぐらいはするほどのヴァイブレーターを求めてくる。

経済学においてシュンペーターが使った Creative Deconstruction という概念に近いのはグールドではなくブーレーズだろう。グールドが creat eしたものは、極めて磨かれてはいるが極めて特異でもある彼の個性というものだ。ブーレーズは作曲という領域で創造を行い演奏という領域で再創造ををするという棲み分けを行ったが、彼の提示した春の祭典は強烈な個性の刻印はあるものの、あくまでも、すぐれて知的に彫琢され尽くした春の祭典である。一方、グールドのバッハは、ちょっと乱暴な表現をお許しいただければ、グールド本人である。

グールドのようなピアノのソノリティに鋭敏な耳を持った人がドビッシーを弾かない、いや弾かなかったかどうか知らないが少なくともたくさん録音するほど積極的ではないというのは象徴的だ。恐らく、彼はそこに Deconstruct するものを見なかったと思う。やったとしても、そこに「グールド」を constract する誘惑には駆られないほどその余地を見出さなかったのではないか。それは、きっとドビッシー自身がそういう人で、それを作品の中で完ぺきにやり尽くしてしまっているからかもしれない。そのピアノ曲としての完成度が、本人をして管弦楽曲と感性の仕分けができていたということを示していて、だから彼はラヴェルのように自作をオーケストレートしていないのではないか。

ブーレーズが前奏曲を弾いたらどうなのかは大変興味深いが、彼の「牧神の午後への前奏曲」は彼の Deconstruction の非常に微視的な方法論をよりわかりやすく見せてくれる。それは別稿としたいが、カシオーリというピアニストがここで見せているのはそれとも違う、言葉ではうまく表せないが、作曲家でもある彼の眼がレントゲンのように音符を透過した観のある、そういう人でしか出てこないような音の在りようが似ていると思う。

ホロヴィッツやルービンシュタインのような根っからのピアニストが見たもの。それはピアノの譜面なのだろう。彼らは恐らく、それをオーケストラのパレットに移したらどうなるかというような性質の関心はない。ただそこからあらん限りのピアノの音の魅力を紡ぎだすことにおいて、彼らは並ぶ者のない天才であった。だからそういう行為を前提として書かれた音楽にこそ十全の力を発揮した。その代表格がショパンであることは論を待たない。

僕はショパンやチャイコフスキーに Deconstruction を求めないが、カシオーリという人はショパンを弾きながらノクターンを作曲者自身の装飾音符を付したバージョンで弾いてみようという実験精神を発揮もしている。過去の作品は、そういうことに向いていようがいまいが、彼の理性が思考する「素材」としてどこかクールに突き放したところに置かれている感じがするという一点において、彼はグールドに似てもいるのだ。まだ35歳。実演を耳にしてはいないが、ここからどう進化していくのか、非常に面白い才能だと思っている。

(補遺) 前奏曲第1巻・第2巻

ユーリ・エゴロフ(pf)

5099920653125これは全集の並みいる名盤の中でも僕が最も気に入っているもののひとつ。エゴロフは僕と同じ学年だが同性愛をカミングアウトしており88年にエイズで亡くなった。本当におしい才能と思う。このドビッシー、ふっくら、ひっそりと何かを語りかけてくる。ミケランジェリやカシオーリはピアノという楽器が語るが、エゴロフは音楽だけが心に響き、沈める寺のような曲でも詩情が支配する。それは強靭な技術あってのことだが、ここまでレベルが高いとメカニックや楽器を聴き手の意識から消してしまうのだ。稀有な名演。i-tunesにあるがお薦め。

 

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ドビッシー フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ (1915)

 

クラシック徒然草ーフランス好きにおすすめー

 

 

 

 

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