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カテゴリー: ______ドヴォルザーク

クラシック徒然草-オーケストラMIDI録音は人生の悦楽です-

2013 JAN 26 15:15:08 pm by 東 賢太郎

僕は1991年にマックのパソコン(右)を買いました。米国Proteus製のシンセサイザーとYamahaのDOM30という2種類のオーケストラ音源を電子ピアノで演奏し、MIDIソフトで多重録音して好きな音楽を自分で鳴らしてみるためです。PCに触れたこともなかったからセットアップは大変でした。好きこそものの・・・とはこのことですね。

現代オーケストラから発する可能性のあるほぼすべての音(約130種類)を約50トラックは多重録音できますから、歌以外の管弦楽作品はまず何でも録音可能です。まず音色設定をフルート、オーボエ、クラリネット・・・と切り替えて個別にスコアのパート譜を電子ピアノで弾いて個別にMIDI録音します(高速のパッセージなどは録音時の速度は遅くできます)。相当大変なのですが、全楽器入れ終わったらセーノで鳴らすと立派なオーケストラになっているということです。

弦楽器の音色が今一歩ではありますが、イコライザーなどの音色合成の仕方でかなり「いい線」まではいきます。買ってから21年間に僕が「弾き終わった」曲は以下のものです(順不同)。

モーツァルト交響曲第41番「ジュピター」(全曲)、同クラリネット協奏曲(第1楽章)、同弦楽四重奏曲K.465「不協和音」(第1楽章)、同「魔笛」序曲、同「フィガロの結婚」序曲」、ハイドン交響曲第104番「ロンドン」(全曲)、チャイコフスキー交響曲第4番(全曲)、同第6番「悲愴」(全曲)、同「くるみ割り人形」(組曲)、同「白鳥の湖」(情景)、ドヴォルザーク交響曲8番(全曲)、同第9番「新世界」(第1,4楽章)、同チェロ協奏曲ロ短調(第1,3楽章)、ブラームス交響曲第1番(第1楽章)、同第4番(第1楽章)、ベートーベン交響曲第3番「英雄」(第1楽章)、同第5番「運命」(第1楽章)、シューマン交響曲第3番「ライン」(第1楽章)、ラヴェル「ボレロ」、同「ダフニスとクロエ第2組曲」、同「クープランの墓」(オケ版、プレリュード、メヌエット)、同「マ・メール・ロワ」(オケ版、終曲)、ドビッシー交響詩「海」(第1楽章)、同「牧神の午後への前奏曲」、シベリウス「カレリア組曲」(全曲)、リムスキー・コルサコフ交響組曲「シェラザード」(全曲)、バルトーク「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」(第1、2楽章)、同「管弦楽のための協奏曲」(第5楽章)、ストラヴィンスキー「火の鳥」(ホロヴォード、子守唄以降)、同「春の祭典」(第1部)、ワーグナー「ニュルンベルグのマイスタージンガー」第1幕前奏曲、同「ジークフリートのラインへの旅立ち」、J.S.バッハ「フーガの技法」、同「イタリア協奏曲」(第3楽章)、ヘンデル「水上の音楽」(組曲)、ヤナーチェク「シンフォニエッタ」(第1楽章)、コダーイ「ハーリ・ヤーノシュ」(歌、間奏曲)、ハチャトリアン「剣の舞」、プロコフィエフ「ピアノ協奏曲第3番」(第1楽章)、ベルリオーズ幻想交響曲(第4楽章)、ビゼー「カルメン」(前奏曲)

こういうところです。これ以外に、やりかけて途中で放り出したままのも多く あります。成功作はチャイコフスキー4番、バルトーク「オケコン」、シベリウス「カレリア」、ブラームス4番、ドヴォルザークチェロ協、ドビッシー「海」、マイスタージンガーでしょうか。録音はオケ全員の仕事を一人でやるので長時間集中力のいる作業です。生半可な覚悟では取り組めません。ですから以上は僕の本当に好きな曲が正直に出てしまっているリストなのだと思います。弦の音色の限界で、好きなのですがやる気の起きない曲(特にドイツ系の)も多いのですが、総じてやっていない作曲家、マーラー、ショパン、リスト、Rシュトラウスなどは興味がない、僕にはなくても困らない作曲家だと言えます。

もう少し時間ができたらシベリウス交響曲第5番、バルトーク弦楽四重奏曲第4番、ラヴェル「夜のガスパール」にチャレンジしたいです。この悦楽には抗い難く、この気持ち、子供のころプラモデルで「次は戦艦武蔵を作るぞ!」というときと全く同じ感じで、これをやっていればボケないかなあという気も致します。骨董品のアップルに感謝です。

 

(追記)

これらは全部フロッピーディスクに記録していますがハードディスクに移しかえたいと思います。やりかたがわからないので、どなたかご教示いただけるとすごく助かります。

 

 

 

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クラシック徒然草-ドヴォルザーク新世界のおすすめCD-

2012 DEC 8 1:01:00 am by 東 賢太郎

僕が今好きなドヴォルザークというとチェロ協奏曲ロ短調、交響曲第7番、弦楽6重奏曲、ピアノ5重奏曲第2番、弦楽四重奏曲第10番あたりかもしれません。新世界は、実はこの稿を書くために何年ぶりかにCDを聴きました。ただ、ライブはたしか去年の秋にN響がブロムシュテットの指揮でやったのを聴きましたっけ(僕はAプロ会員)。いい演奏でしたが感動はもうなく、耳年増になってしまう悲しさを抱いて帰りました。新潟で大学生たちと会話して「知らないってうらやましいなあ」と心から思いました。これから未知のものを体験できる喜びは人生の宝です。

 

カレル・アンチェル / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

僕が中学時代に曲を覚えた演奏です。だから全音符がこの演奏で耳にインプットされています。ある方に新世界のブログはほとんど外で書いたと言ったら「ピアノなしでですか?」と聞かれました。ピアノはどうせ弾けませんからいりません。その代りポケットスコアは時々持ち歩いていて、欧米出張では飛行機の中でスコアを「聴いて」いると気が紛れます。ヘタなCDを聴くよりいいです。自分で演奏できますから。でも三つ子の魂で、僕の耳で鳴るのはやっぱりこれなんです。チェコ音楽だからチェコ・フィルでというつもりはぜんぜんありませんが、チェコ語の新世界、いいですよ。アンチェルの指揮は筋肉質できりりと引き締まっていますが、このオケの木管の暖か味や弦のやや暗めでまろやかな質感も良く生かされ、何よりオケが「その気」になってます。

 

イシュトヴァン・ケルテス / ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団

31歳の若造が天下のウイーン・フィルを自在に振り回した画期的記録でもあります。ショルティでさえもベートーベンで挑戦しましたが、楽員にあのガキ殺してやりたいと言われて討ち死に。ほかに成功例というとシャイ―のチャイコフスキー5番しか僕は知りません(これも凄い名演です)。難攻不落のオケですが、若造でも火をつけさえすればこんな大変な演奏をしてしまう。この名門オケ、僕はヨーロッパで何度も実演を聴きましたが、ニューイヤー・コンサートのお上品な顔はヨソ行きのもので、実はもっと「肉食系オケ」なのです。ウイーンというのはドイツ語(ウイーン方言)をしゃべっていますがハプスブルグの首都ですから当然ハンガリー人、チェコ人も多い国際都市で、このオケはスラヴ、マジャール、ゲルマンの混血児です。血が騒いだときの熱さは半端でなく、弦の奏者の体を揺すった没入ぶりなど手に汗を握るばかり(あれを知ると真面目な日本のオケは「お役所交響楽団」に見えてしまいます)。その熱くなった好例がこの新世界と言えましょう。強弱緩急のメリハリが素晴らしく、Deccaの名録音もカラフルで第1楽章序奏のティンパニからしてもう耳がくぎづけ。新世界のカッコよさという側面を求める人にとって、これの右に出る演奏はありません。ケルテスは43歳でテル・アビブで海水浴中に溺死してしまいましたが、オケをやる気にさせる天才と思います。

 

ヴィトルド・ロヴィツキ / ロンドン交響楽団

僕が今じっくりと聴きたいのはこれ。交響曲全集(1-9番)ですがポーランドの巨匠ロヴィツキが全曲を素晴らしい録音で残してくれた幸運を感謝するのみです。最高の名演ばかりであり、耳の肥えた人は新世界だけでなくこの全集で買うことを強くお薦めします。今どき世界のどこへ行ってもこんなにコクと醍醐味のあるドヴォルザーク演奏ができる指揮者もオケもありません。ケルテスがロマネ・コンティならこれは極上の大吟醸酒。新世界は洗練やスマートさなどかけらもありませんが、逆に本来そんな曲じゃない、土臭い音楽なんだよと古老に説き伏せられてしまう。「家路」のイングリッシュホルンも日本のオケより下手です。しかしこの演奏はそういう「うわべの綺麗さ」を求めてはいません。単に第2楽章として淡々とやっているだけ。新世界の看板メロディーだからとことさらに磨きを入れた人工甘味料みたいな味や、売上げを気にするレコード会社の顔色を見るような安物のメリハリや、日本のデパートが包装紙にこだわる「中身はともかく一見高そう」みたいなチープな姿勢がないのが実にすがすがしい。聴くべきは、ロヴィツキが作曲家の書き込んだ音楽の魂に全身で共感し、なりふり構わずそれをオケからえぐり出し、一期一会の燃焼でそれを記録しようという気概です。彼がどれだけドヴォルザークを、そして彼のスコアを敬愛していたか、言葉で聞かなくても僕はこの演奏でわかります。音楽を自分のショーマンシップのネタとしか考えない芸人のような演奏家とは人間の格が違うのです。そして、それが呼吸や間の良さやちょっとした減速、加速のもうこれしかないという味、楽譜の背後から読み取るしかない文化的、音楽的語彙、教養の豊かさで支えられ、演奏行為という形で「表現」されている。これぞ音楽の本質なのです。例えば第1楽章でブログに書いた「速度記号問題」をこれほど自然に説得力をもって解決している演奏もなく、もうこうべを垂れるしかありません。中欧の良き音楽を中欧の常識で何の衒いもなく堂々と誇り高く演奏しており、ロンドン響もどうしたことか非常に中欧的に鳴っています(フィリップス録音というのも幸運)。グローバル?なにそれ?ローカルでなんか悪いの?だってこれドヴォルザークでしょう?指揮者のそんな声が聞こえそうです。ちなみに5番、7番、8番も実にすばらしい。ほとんど聴かない1,2番まで耳を澄まして聴いてしまう。ロヴィツキさん、ありがとうございます。

 

追加しましょう(16年1月11日~)

 

アルトゥーロ・トスカニーニ / NBC交響楽団 (1953年2月2日)

381イタリア人にスラブ音楽とはローマで中華料理を食うぐらい場違い感ありですが、人種のるつぼの米国なら何でもありなのです。記号化された音楽である(sheet music)楽譜からエッセンスのみを抽出する。ラーメンもスパゲッティも要は麺でしょということで。トスカニーニが7、8番でなくこれを振ったのは9番がmade in USAであり人気ナンバーでもあったからでしょうが、この曲の骨格が彼のアプローチに適性があったからでもあると思います。エッジの効いたリズム、決然と打ち込むティンパニによってボヘミア田舎料理風の第3楽章がベートーベン風ドイツ料理になり、軍隊の行進のように整然とパンチのきいた終楽章をきくと格好いいなあと男の血が騒ぐ。もうこの曲を真面目に聴きたいとは金輪際感じなくなってしまった還暦の僕を奮い立たせてくれる強靭な演奏であります。

 

ヨゼフ・カイルベルト / バンベルグ交響楽団

zaP2_H7030382Wどうせなら思いっきりドイツ田舎料理にしてしちゃおう。見事なもんです。トスカニーニにはバドワイザーライト、これにはミュンヘンの地ビールです。このオケの母体はチェコでそれを南ドイツ人が振っている。第2楽章のなつかしさは我々日本人のハートをつかむ土くささがあります。スケルツォのダンスの田園風景。これはもう発酵食品ですね、実にいい味だしてます。アンサンブルも縦線に神経が行かないので疲れません。トスカニーニが北端なら最南端に位置するアンチテーゼといってもいいですね。昔は北端派だった僕も最近はこっちのほうがほっこりします。

 

(こちらもどうぞ)

ドヴォルザーク 交響曲第9番ホ短調 「新世界より」 作品95 (その1)

ドヴォルザーク 交響曲第8番ト長調 作品88

クラシック徒然草《シェイナのドヴォルザーク5番》

 

 

ドヴォルザーク交響曲第9番ホ短調「新世界」作品95(その4)

2012 DEC 7 17:17:11 pm by 東 賢太郎

第4楽章です。

序奏はドヴォルザークが大好きな蒸気機関車が発進するようです。リズムも徐々に小刻みになって加速感を出しますが、弦が3オクターヴにわたってシ(b)を起点としてよいしょと持ち上がる2番目の音がだんだん高くなっていくことでもこちらでも加速感、緊張感が徐々に高まります。

2番目の音はc, c#, d#, e, f#, g, a , a# と上昇してオクターヴ上のbに至ります。b→cではわからなかったところが、c#, d#, eで(なんとなく)ロ長調(B)、そこから e, f#, g, aと来て初めてホ短調(Em)とわかり、さっきのBがそのドミナント(属和音)だったことがわかる、という手順で和声感が確立されます。ドミナント→トニック(主和音)という「教科書通りの和声の解決」が聴き手に印象づけられます。

その最後、aが半音ずり上がってa#になります。すると「教科書通りに」聴き手はこれをドミナント(F#)に聴き、次の決然と鳴るトニック(B)に気持ち良く導かれます。このBはEmのドミナントだと既にわかっているので、さあ早く早くとご主人様であるホ短調Emの登場を待つ心理状態に導かれます。凡庸な、ふつうの作曲家であれば間違いなくこのままEmになると確信できてしまうほど、ここまでの準備は完璧なのです。

ところが、ドヴォルザークはそこで、全員の予想を覆して嬰ニ長調(D#)という思いもよらぬ和音をぶつけます。僕はこれを何回聴いたか記憶もありませんが、わかっていてもいつも背負い投げを食らった感覚になります(第7小節)。

全員唖然とした瞬間を楽しむかのように四分休符がエアポケットを作り、同じ和音をベートーベン(また!)の「運命リズム」でダダダダンと念押しするように叩きつけるのです。

スコアをよく見てください。この第8小節はなぜか嬰ニ長調が変ホ長調に記譜しなおされています。不思議です。元々ホ短調という#系の楽章にいきなり♭がいっぱい現れます。第2バイオリンはそれまで臨時記号など一度もついていないソ(g)にわざわざナチュラル(♮)までつけて奏者に注意喚起する徹底ぶり。初演で間違えた人がいたかもしれないし、やっぱりこの和音の唐突感に奏者が幻惑されないか心配だったのでしょう。これだけ緻密で用心深いドヴォルザークが意味もなく変ホ長調に書いたはずがありません。

するともっと奇異なことが目に入ります。e♭を弾く第一バイオリンと3小節にわたってまったく同じことをやらされるフルートはd#(同じ音ですが)と書かれているのです。意図は不明です。僕には、「この音が実はこれから深い意味を持ちますよ」ということをわかる人にはわかるように示したかのように思えます(まるでミステリー作家が犯人当ての手掛かりを残したように)。第9小節で、いよいよ今度こそEmへという確信に満ちたB7に移行し、その期待を裏書きするd#-eのトリルが第1バイオリンとフルートだけによって鳴らされます。

そして、待ちに待った第10小節からの第3,4ホルンとトランペットによる勇壮な第1主題が堂々と鳴り響きます。ミーファソファーミミー/ミーレーシレミー・・・です(ファは#付き)。この「レ」(d)に#が付いていないことにご注目ください。d#じゃない、d♮なのです!(これが犯人だったということ、わかりますか?)伴奏しているコード進行はEm-Am-Em-Bm-Emです。聴き手はレーシレの部分に(ここに至った和声ドラマが耳に残っているので)BmではなくB7(レ#ーシレ#)を予想しています。またここで聴き手は背負い投げを食らうわけです。この主題、この直後にもう一度繰り返されますが、そこの伴奏はセオリー通りにB7に戻っているのを聴き取れますか?

この主題にちょっとローカルな、洗練されない、しかし野趣に満ちた強いインパクトを感じるのはこういう周到な仕掛けがあるからです。これを知ると、第8-9小節のd#-eが聴衆の耳をB7にリードするミスディレクションであり、もっと言えばその前に2回あったドミナント→トニックという教科書解決だって、このメインステートメントである第1主題で「教科書無視」して「ちょっと不良っぽくしてみんなを驚かそう」という唯一の目的に向けた確信犯的下工作だったことがわかるのです。ドヴォルザークがミステリーを書いたらエラリークイーン並だったかもしれません。

細かいことですが「神は細部に宿る」のです。人類史に残る芸術作品は「ゲージュツはバクハツだ!」などとポンと出来るわけではありません。こんなに緻密に精巧に造ったものだということが少しでもお分かりいただければと思います。この、スコアたった2ページ、時間でいえばほんの20秒ほどに秘められた奥義。僕がクラシック音楽に魅せられるのは、こうして人類最高度の知性を持った作曲家たちの天才的思考の跡にふれることが楽しいからと言って過言ではありません。

さて、第4楽章ですが、残念ながらこの箇所を除くと、僕には考えを書き残しておきたいという情熱にかられる部分がスコアに見当たりません。新世界は次回に僕の推薦盤を書いて、それで終わりにします。

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ドヴォルザーク 交響曲第9番ホ短調 「新世界より」 作品95 (その1)

(続きはこちら)

クラシック徒然草-ドヴォルザーク新世界のおすすめCD-

ドヴォルザーク 交響曲第8番ト長調 作品88

 

 

 

ドヴォルザーク 交響曲第9番ホ短調 「新世界より」 作品95 (その3)

2012 DEC 5 9:09:02 am by 東 賢太郎

第3楽章(スケルッツオ)です。

まず曲の冒頭にテーマの力強い宣言があります。単純な下降音型の2回繰り返しである点も含め、ベートーベンの交響曲第9番の第2楽章と酷似していることがすぐわかります。モルト・ヴィヴァーチェの4分の3拍子、ティンパニがソロ楽器として扱われる点もまったく同じです。

ベートーベンは第九が最後の交響曲になったことから、「9番目の交響曲」を書くと縁起が悪いというジンクスがあります。シューベルトもブルックナーも9曲です。それを気にしたマーラーは8番の次を「大地の歌」と名付けましたが、9番を書くと亡くなりました。ドヴォルザークはあえて堂々と自分の第9に「第九」と刻印したのでしょうか。しかし、やはりこれが最後の交響曲になりました。

3/4拍子、モルト・ヴィヴァ―チェで超快速に123123123・・・・と行きます。出だしに弦が次々と重なっていく和音は曲頭の調性の確保としては不安定なEm7です。しかしリズムの方は強拍がはっきりと1にある(123123123・・・)3拍子が安定的に感知されます(ここの野趣あふれる雰囲気はボロディンを連想します)。テーマ(まずフルート、オーボエ)は123の2から始まります。それでもこの2の下にはp(弱く)と指定があり(それが第1バイオリンに受け継がれるとpp)、「強拍が1だ」という聴き手のリズム感を壊さないように用意周到に仕組まれています。第2バイオリンは前半はピッチカートで1を弾き、後半は背景で山形の音型を弾きますが、これがまたスラーでなめらかに平和に「強拍が1」の印象を補強。心憎いばかりです。

そして、その繊細な準備が何のためだったかというと、一気にその平和とリズム感をぶち壊す野蛮な闖入者を迎えるためです。このスコア88ページの3小節目です。第1バイオリンとビオラの2にいきなり mf  が付いて「2が強拍」となり、スタッカートでゴシゴシと、ここから新しくテーマが始まったかのような錯覚を与えます。

第3小節からは1123と聴こえます。そして次の第6小節は123の2を二つに割って「8分音符3つ」を一括りにした2拍子に聴こえ、聴き手のリズム感は完全にカオス状態に陥ります。

そこにパパパンと元の「1を強拍」リズムをティンパニが決然と打ち込む!鶴の一声とはこのことです。闖入者に驚きガヤガヤする兵隊に「だまっらっしゃい!」と大将の一喝。すると兵隊が整然と「強拍1」の行進を始めるこの胸のすくような快感!ここ、指揮者とティンパニ奏者はオトコに生まれてよかったーと思うんじゃないか(女性でも?)。

3拍子の音楽というのは日本には元来ほとんどなかったそうで、走る馬のヒズメの音を模したもの、つまり乗馬文化から出たリズム感と言われています。ベートーベンが第3番(英雄交響曲)の第1楽章を3拍子のアレグロ・コン・ブリオで書いたのはナポレオン軍の行進をイメージしていたからでしょう。僕だけかもしれませんが、速い3拍子というのは何か男の野性を刺激するものを感じます。

ドヴォルザークがここで何をイメージしていたかは分かりませんが、第2楽章の牧歌的、ノスタルジックな雰囲気から一転して野性的、バーバリックな、しかも超最速のモルト・ヴィヴァーチェで疾走しながら聴き手の拍節感を崩すことで「興奮させる」音楽を書きたかったのではないでしょうか。ちなみに英雄の第1楽章は「へミオラ」という拍節感のズレが多用され、カッコよさと興奮が倍加するように出来ています。何拍子の曲なのか全然わからなくなり、乗っている馬が疾走しながら何かを飛び越したりするスリル満点な感じです。

ではもう一度スコアに戻ってください。

88ページの終わりから2小節目。テーマがffで鳴りますが2からなので「字余り」の感じです。いきなり拍節感がズレます。第1,2バイオリンが弾くとフルート、オーボエ、クラリネットが呼応します。いわゆるカノン(輪唱)ですが極めて素朴なものです。これでは面白くないので別なメロディーを重ねます。ホルンが4本、ffで吹くものです(Cor.と書いてあるのがホルンです)。ホルンは「移調楽器」といい、ここではE管、すなわち楽譜にドとあるとミの音が出ます。ですからこの部分の音列はe,d,c#,c,b,eとなります(全体をコード進行として眺めるとビートルズのミッシェルです。d♯がないですが)。これで多少面白くなります。

しかしドヴォルザークの鋭敏な耳はそれでも満足しません。

このホルンの音列ですが1/23/12/31/23/12/3・・・・と強拍が2・1・3・2・1・3とズレているのにご注目ください。1小節で4分音符3つの3拍子が2小節で2分音符3つの3拍子に化けています。これが「へミオラ」です。馬が何か飛び越しています。面白さが倍加し、興奮度合がアップする感じがしませんか?この楽章、耳だけでは聴き取りにくいのですがスコアをよく見ると第九だけでなくエロイカの遺伝子も継いでいるのです。

まだあります。

さらに進むと、行進が急に止まり、ホ長調で第2楽章の「家路」をルーツに持つひなびたテーマをフルート、オーボエが吹きます。村娘のダンスに兵隊が一息入れているような感じになります。さてまた行進に戻ります。村娘テーマは3部形式の「トリオ」だったかと思わせますが実はそうではなく、今度はハ長調でボヘミア農民が輪になって踊るダンスみたいな音楽が始まります。お酒も入った感じで実に平和です(木管で鳥の鳴き声も聞こえます)。これが「トリオ」だったことが分かります。

田舎の風景や農民ダンスをシンフォニーに取り入れるという試みは、これもベートーベンが田園交響曲でやったことです。

この楽章、なんとベートーベンの第3、6、9番の交響曲の末裔なのです。3,6,9はいわゆるスジですがドヴォルザークさんが麻雀好きだったという史実は残念ながら伝わっておりません。

(続きはこちら)

ドヴォルザーク交響曲第9番ホ短調「新世界」作品95(その4)

 

 

 

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ドヴォルザーク 交響曲第9番ホ短調 「新世界より」 作品95 (その2)

2012 NOV 26 20:20:44 pm by 東 賢太郎

この曲、ドヴォルザークの書いたもっとも有名な曲であることは間違いない。しかし最も優れた曲かというとちょっと疑問がある。

これが天下の名曲とされるのもやや不可解である。いい曲だし、一時「はしか」のように取りつかれた経験のあるクラシック好きは僕を含めて少なくないだろう。

 

これは僕が中学時代に初めてスコアを買った曲だ。分解好きの少年にはいろいろ調べてみたくなる刺激的な音が満載だった。だからこれが教科書になった。しかし今になってみて、いい教科書であったかというと、そうでもない。かなり異形の曲だ。

 

ワルター、クレンペラー、ベーム、カイルベルト、カラヤンなどドイツの保守本流指揮者が振っている。トスカニーニも名演がある。しかしフルトヴェングラー、クナッパーツブッシュはない。「売れる曲」だから音楽産業の影響があったかもしれない。

これがドイツ人に好んで演奏され、日本で名曲と崇め奉られるまでに至ったのは文化史的な背景があると思っている。今回はそれを俯瞰するため、「交響曲」なるものの存在につき理解を深めるべくこの曲を題材にしてみたい。

シンフォニアというのはイタリアオペラの序曲に端を発する。しかし、それを「交響曲」(シンフォニー)という異なるものに発展させたのは「交響曲の父」といわれるハイドン(右)などドイツ語圏の人たちである。ヘーゲルの弁証法(正反合)を思わせる「ソナタ」という形式論理を基本にできている非常に理屈っぽい音楽である。以下、19-20世紀に西欧各国で交響曲がどう作曲されてきたかを見る。

まず、音楽の老舗かつ先進国であったイタリアでは、田舎者のドイツ人が考えたソナタや交響曲などは一貫してほぼ無視だ。「そなたは美しい」のほうばかりに気がいったのかどうかは知らないが、音楽史を通じて常に主流は歌、オペラであった。ドイツ語圏の歌というと讃美歌、民謡、軍歌、ヨロレイヒー、ホイサッサみたいなイメージでおよそ女性が口説けそうな風情のものは浮かんでこない。

美しい歌(メロディー)は音楽の基本だ。それで負けるなら「形から入る」で対抗するしかない。だからドイツは徹底的にそれをやった。ヘーゲルの弁証法の確立とほぼ期を一にして。カソリック(坊主なんでもありで腐敗)、プロテスタント(原典に返れで禁欲的)という世界史で習った図式を思い起こしてほしい。この精神もバックボーンになったに違いない。そしてドイツは、音楽における宗教改革にも成功したのである。

交響曲、ソナタというものはその精華にほかならない。

あのフランスでさえも、オペラ作りは実に後進国であり、一方の交響曲でもめぼしいものは少ない。フランス=文化の中心という世界観は、作曲においてはまったく当てはまらないのである。そしてイギリスはオペラか交響曲かなど論外で、そもそも作曲家が数えるほどしかいない(ビートルズは例外としよう)。アメリカは作曲という仕事のハビタブルゾーンぎりぎりにある未開の辺境地であった。

おもしろいことに、クラシック音楽の消費地としては今の順番がほぼ逆になる。まず音楽後進国が産業革命をおこした。音楽にうつつをぬかしていてはカネ儲けはできないのである。そして成金は文化にあこがれる。極東の日本でも「文明開化」などといって、文明人の証(あかし)としての音楽が輸入された。今でも「エビ・オペラ現象」といって、国民所得が増えた国では海老の輸入と海外オペラ引越し公演数が増えるという統計もあるようだ。

余談だが日本人は洋食のときにご飯をフォークの背にのせて食べる。僕もそれが西洋のエチケットと親に習った。しかし西洋に住んでみるとそんな習慣はない。そもそもああいうご飯など出てこないから習慣が発生する理由もないのだ。あれは明治時代に誰かが何となく思い込んだか刷り込まれたのが定着したのだろう。「カステラ」や「メリケン粉」という発音みたいに。

音楽はドイツ系の人が明治人に教えこんだに違いない。だから「交響曲の父」とか「楽聖」とか、クラシックはドイツ人が作ったかのように音楽の教科書に書かれている。「フォークの背」現象だ。オペラ、特にイタオペはなんとなく宝塚っぽい「色物」、セクシーで低次元の音楽という誤ったイメージがある。僕も頭では理解していても完全に脱し切れていない根深い偏見である。実はワーグナーのほうがよほどスケベで色物なところがあるのだが、そんなことをまじめに言おうものなら数多いる「ワグネリアン」にたたきのめされてしまうだろう。

「フランス料理、そんなものはない。あれはイタリアの田舎料理じゃ。ドイツ料理、そんなものはない。あれは家畜のえさじゃ。」 とあるイタリア人は得意げに笑った。しかし音楽の状況を見るとあながちジョークでもない気がする。イタリア人のロッシーニ(右)は40曲近いオペラの作曲でひと財産つくると37歳でさっさとリタイアして余生は趣味の料理に専念してしまった。音楽と料理はなにか人間の深いところでつながっているかもしれない。

 

その田舎者が作った交響曲を懸命に真似して作ったのがもっと田舎だったロシア、東欧、北欧だ。チャイコフスキー(右)は感性が欧風趣味で晩年には素敵なバレエも作ったが、ロシア民謡を主題にした若いころの交響曲第2番や3番などはローカル色丸出しのフレーズや恥ずかしいドラの一打ちなんかが出てきて、聴いてるこっちが赤面する場面もある。交響曲は6つ書いた。

 

繊細で内向的なシベリウス(右)はさすがにドラは打たない。しかし愛国心が嵩じると、交響曲第2番のおしまいの部分のように延々と森進一ばりの苦悩の表情をたたえた「演歌」のノリになってしまう。あれはロシアのいじめに耐えぬいたフィンランドの魂の声なのだが、そういうものが弁証法である交響曲から聴こえてくるというのはとても異質なことだ。交響曲は7つ書いた。

 

そしてドヴォルザーク(右)のメロディーはそのものがボヘミアの演歌だ。「新世界」はそれに黒人霊歌風の泥臭さが加味され、一部のメロディーは田舎を超えてしばしば「土俗的」と表現される。第3楽章の中間部、ミソソーラソレド―レミソソー・・・などベートーベンやブラームスには絶対に出てこない性質の土臭いフシである。

彼は交響曲を9つ書いた。その最後、ニューヨークの国民音楽学校の校長時代に異郷アメリカで書いたのが「新世界より」だ。ロンドンに呼ばれたハイドンには英国が新世界だったろうが、ちょうど100年たってアメリカがそれになったのだ。ハイドンも英国の聴衆の好みを反映して曲を書いたが、ドヴォルザークはどうだったのだろう。「ボヘミアに宛てた絵葉書」みたいな側面もあるが、米国人むけの側面があるとすれば彼としては結構ド派手な管弦楽法ではないかと思う。

交響曲は楽章が4つ、第1・4楽章がソナタ形式であり、ソナタ形式とは序奏(あってもなくてもいいが)、提示部(主題が二つ現われる、第一主題は男性的、第二は女性的)、展開部(二つの主題がくんずほぐれつする、意味深だ)、再現部(もう一度提示部)、結尾(コーダ、大団円)というのが定番である。古典派ではほぼこのルール通りだがベートーベンの3番(エロイカ)あたりから異形が始まり、6番(田園)は5楽章になり、9番(いわゆる第九)で第4楽章が完全なルール違反になる。

だからロマン派も後期に作曲された「新世界」で何が起きてもまったく不思議ではないのだが、彼はベートーベンのような型破りの性格ではない。むしろ、やはり後期ロマン派なのに古典派を模範としてソナタ形式にこだわったブラームスを敬愛したほどの保守派だった。つまりフレームワークを守って9曲も交響曲を書いてしまうという生真面目な姿勢があっただけに、妙なことが気になるのだ。

まず第1楽章は提示部に主題が3つ出てくる。ホルンが吹く1つ目はいいとして次の2つは何なのだろう?展開部で1つ目と絡み合うのは3つ目なのでたぶんそれが第2主題だ。じゃあ2つ目はなんだ?ト短調で悲しげ。女性が2人だがこっちはくんずほぐれつには一切参加しない。謎である。

この楽章、アダージョの序奏が提示部アレグロ・モルトに入ると最後まで一度も速度記号が現れない(ギアチェンジなし)。3つ目は(たぶん第2主題なのでだろう)ほとんどの指揮者が減速する。でもそうは書いてない。でも減速したほうが、明らかにいい。だから作曲家は「当然自然体でそうなるよね」ということだったんだろう。ここの阿吽の呼吸など、テンポの取り方はこの楽章の演奏で大変に重要なポイントである。

このフルート吹きにはおいしい主題は何故か第2フルートが吹く(普通は第1だ)。謎である。第1に借金でもふみたおされたのだろうか。まあ音域的に低いので機械的にそうしたと考えてもいいかもしれない。しかしドードラソードーミソッソッソー、実に田舎臭い。アメリカというあだ名の、新世界同様にアメリカで書いた弦楽四重奏曲があるが、あのドラエモンの「おーれーはジャイアーン」に聴こえる主題と甲乙つけがたいダサさである。

しかしこっちはト長調(G)のあとドーミソッソッソーにEm→Bmという実にいい和音(それがコントラバスの絶妙なピッチカートで瞬時に認識される)がついていて悲しげになるためダサく聴こえない。前回書いた第2楽章と同様、和声感覚が非常に洗練されているので土俗性が中和され、むしろちょうどいい親しみやすさに変身するのだ。

第1楽章をお聴きいただきたい。郡山市立郡山第二中学校のオーケストラ。これはお見事というしかない。グスターヴォ・ドゥダメルを生んだベネズエラの児童オーケストラが有名だが、これは日本が誇れる。せっかくの腕前なんだからスコア通りやったらもっと感動できたが。

 

(続きはこちら)

ドヴォルザーク 交響曲第9番ホ短調 「新世界より」 作品95 (その3)

 

 

 

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ドヴォルザーク 交響曲第9番ホ短調 「新世界より」 作品95 (その1)

2012 NOV 23 18:18:08 pm by 東 賢太郎

オーケストラのスコア(総譜)というものをご覧になったことがあるでしょうか。

これはドヴォルザークの交響曲第9番(新世界)の有名な第2楽章ラルゴのスコア、その最初の2ページです。上から順番にフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、第1・2ホルン、第3・4ホルン、トランペット、第1・2トロンボーン、バストロンボーン(チューバ)、ティンパニ、第1バイオリン、第2バイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスとなっています(楽器の順番はこれに限らず常にそうなので覚えておいてもいいですね)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オーボエのパートを見て下さい。7小節目に、この音符はオーボエではなくコール・アングレ(別名イングリッシュ・ホルン)で吹けと書いてあります。なんとも鄙びたいい味の音がします。このメロディーこそ知らぬ人のないあの「家路」です(なお、この詩とドヴォルザークさんとは何の関係もありませんからご注意を)。

遠き山に 日は落ちて
星は空を ちりばめぬ
きょうのわざを なし終えて
心軽く 安らえば
風は涼し この夕べ
いざや 楽しき まどいせん
まどいせん

このメロディーはこの楽章で3回出てきますが、17小節目(歌詞だと1回目の「まどいせん」のところ)、実はその3回とも「違う和声」がついています。よほど注意して聴いている人しか気がつかないかもしれません。こういうさりげない隠し味に熟達の職人芸が注ぎ込まれているからドヴォルザークは凄いのです。問題の第17小節をよく見てください。チェロとコントラバスが四分音符で下がってきますね。その最後の音、ラ♭ですね。第18小節、これがもう一つ階段を下りてソ♭に行くのがここの空気というか世の中の流れなのです。

ところがこの1回目はタイ(同音を結ぶ記号)がついてラ♭のまま階段を下りません!この空気を読まない意外感!それも、つい3小節前までppp(ピアニッシッシモ)だった音量をf(フォルテ)に一気に上げて、深呼吸した息を吐くように・・・。すると、あら不思議、この和声が何ともいえないほのぼのとした田舎への郷愁みたいなものを漂わせるではないですか。人生いばらの道でも頑張るぞみたいな第1楽章から一転してこの楽章、あー温泉行ってのんびりしてー(今の僕にはそう聞こえます)みたいな満ち足りないあこがれ感が出るのです。

ところが、少しあとに出てくる「2度目の家路」ではちゃんと空気読んで同じ「まどいせん」の個所の低音が階段を下り、ソ♭になっています。すると、あら不思議、もう温泉入って牡丹鍋食って腹いっぱいだー!ですね、これは。充足感、満ち足りた感じがあります。そこからちょっと哀愁ムードの中間部があって、さあ「3度目の家路」です。楽器が減ってメロディーが途中で止まったりして、なんか回想モードに入ってる風に聴こえます。今度の「まどいせん」にはほのかな暗さと苦みがあって、ノスタルジックな寂しさがあります。あー温泉良かったー、くそ、もう休みも終わりだ。残念。こうしてほんとの家路につくのです。

この3つの「まどいせん」。じっくり聴いて、耳ではなくハートで聴き分けてみてください。こういう部分にクラシック音楽の醍醐味があることがだんだんわかっていただけると思います。

なお、これも残念ながらドヴォルザークさんが温泉好きだったという記録は一切ございませんのであしからず。ちなみに彼は無類の鉄道好き、いわゆるひとつの「てっちゃん」でございました。

次はこちらです

ドヴォルザーク 交響曲第9番ホ短調 「新世界より」 作品95 (その2)

 

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