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カテゴリー: ______ラヴェル

ラヴェル「ダフニスとクロエ」の聴き比べ

2013 DEC 12 23:23:20 pm by 東 賢太郎

 

32種のダフニスを持っていますが、ブログを書いた記念に代表的なものをスコアを見ながら聴きなおしてみました。

ひとつだけ加えておきますと、この曲はラヴェルが編んだ組曲版が2つ存在します。第1組曲の方が第1部の途中から第2部の終わりまで。第2組曲は第3部そのまま(導入部を省略)ですが合唱を省いて楽器に置き換えられてしまいました。ロシアバレエ団の経費節減につきあったわけで、ボロディンの「ダッタン人の踊り」がやはり同バレエ団の舞台にかかると「合唱なし版」という憂き目にあっています。ところで、ラヴェルがダフニスの5拍子の終曲「全員の踊り」を書いている最中、いつも「ダッタン人」のスコアがピアノの譜面台に置かれていたそうです。確かにどことなく似ています。ムソルグスキーの「展覧会の絵」の管弦楽編曲もするなどロシア趣味がラヴェルにあったのは興味深いことです。

 

ピエール・モントゥー / ロンドン交響楽団

678(1)モントゥーは当曲の初演者です。まず音価の取り方が正確、妥当なのが耳をひきます。誰も聴いたことのない段階でスコアを研究し音にした痕跡が感じられ、僕のようなタイプのリスナーにはとても気になる演奏をしています。例えば「夜明け」のピッコロのパッセージ(下の楽譜)の音価は雰囲気先行でいい加減な演奏が横行していますが、これが本物。そういう細部は忘れたとしても、どことなくオーセンティックな、1912年のパリのシャトレ座ではダフニスはこう鳴り、ラヴェルもこれを聴いたのだろうというという風情が感じられるのです。オケから立ちのぼる気品とダフニス風格がそう思わせるのかもしれません。ひとつだけ気になることは練習番号196でテンポが落ちることですが、彼がアムステルダム・コンセルトヘボウを振ったライブ盤ではそれがほとんどなく理由がわかりません。後者はいま手に入るかどうか知りませんが、変幻自在なニュアンスと熱気があり、この曲がお好きな方は探してでもお買いになって損はないでしょう。これがアムステルダム盤(Live recording, Amsterdam, 23.June.1955)です。

 

アンドレ・クリュイタンス / パリ音楽院管弦楽団

4988006898295ファンが多く当曲の決定盤とされるようですが僕の印象では緻密でなく芝居がかっていてオケのコントロールがやや甘いように思います。例えば、練習番号172のヴィオラ、チェロとユニゾンで重なるフルートのppのヘ音は低音域でよく響きます。それをあえて使うあたりがラヴェルの管弦楽法の妙で、シンセでここのフルートを演奏してみて感嘆しました。しかし当盤ではフルート奏者が無神経なヴィヴラートをかけオーボエの精妙な和声を台無しにしています。クリュイタンスはそういうことはお構いなしですがテンポやダイナミクスのメリハリは上手で説得力に富んでおり、「夜明け」で日の出とともに鳥があちこちでさえずりあたりがざわざわしてくる場面の生命感はこれが一番です。最後は納得させられてしまうという演劇型の演奏です。

 

エルネスト・アンセルメ / スイス・ロマンド管弦楽団

1300337340反対に冷徹、冷静、微視的です。「夜明け」はとても遅く太陽が昇りそうにありません。「全員の踊り」も熱くならず、スイスロマンドOの腕前も今なら学生オケレベルということでランキング上位入賞はまったく無理でしょう。ただオケの音色はクリュイタンス盤のパリ音楽院Oよりフランス的なほど素敵でラヴェルにぴったり。葦笛のようなオーボエなど感涙ものです。趣味の問題ではありますが、アンセルメの「クープランの墓」は最も好きなもののひとつでもあるように、演奏芸術はうまいへたでは計れないものということを知らしめる不思議な演奏です。

 

シャルル・ミュンシュ / ボストン交響楽団

img_232134_15527496_0反対に熱い。「夜明け」もアンセルメとうって変わって速く、クールな部分より動的な部分が光ります。フレーズの身のこなしが変幻自在でこの曲が指揮者の十八番であったことがうかがえる演奏。生き物のように流転するテンポと強弱の変化にボストンSOが敏感に反応しており、初めての方でもわかりやすい演奏でしょう。クリュイタンス以上に演劇型で僕はあまり好みませんがそういうタイプが好きな方にはおすすめできます。パリ管の方は、BSOに比べオケがずいぶん落ちミュンシュの良さが出ていない普通の演奏です。

 

ジャン・マルティノン / パリ管弦楽団

zc1289667僕が好きでよく聴くもののひとつです。全曲盤でひとつといえばこの演奏を選ぶこともあるかもしれません。冒頭の神秘感はこれが一番で始まった瞬間にもう只者ではない感じが部屋に漂います。パリ管はミュンシュの時とは別なオケのようで、冷んやりとした弦の質感、色気のある木管、米国のオケのようにフォルテで下品にならない金管など見事。そのフランス風高級感のあふれる音素材を駆使した緻密なしかも気品にあふれたダフニスとなっています。静的でクールな場面、デリケートで敏感な弱音に知性とセンスの限りを尽くしている点、非常にプロフェッショナルな作曲家的アプローチと感じます。

 

ポール・パレー / デトロイト交響楽団

41MY4K2DY4L._SX300_第2組曲というのは第3部しか聴けない上に、合唱が入っていません。どうして全曲版で入れてくれなかったのか!とうらめしくなるほどエレガントな名演です。合唱なしというのは、ディアギレフと対立までしてそれを入れた、そのラヴェルと対立することになりますからまったく支持できません。レコード会社の都合だったと思いたい。なにしろここでは決してうまいわけではないデトロイトSOが堂々たる真打の芸という風格を漂わせており、有名なフルートソロやパントマイムの歌い回しなどはもう至芸の域であります。ラヴェルが振ったらこうやったかもしれないというイメージが最も浮かぶ演奏であり、しぶしぶ第2組曲だけで選ぶなら文句なくベスト盤として推します。

 

ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

カラヤンダフニスやはり第2組曲のみです。しかしパレーと違ってカラヤンが全曲演奏に興味を持ったとはそもそも想像できません。完全に華麗なオーケストラ・ショウピースとしてのアプローチであり、立ちのぼる気品やアロマといったインタンジブルな(触れられない)ものは無視して即物的な音響美の構築に徹しています。香水の薫りのないダフニスです。弦がブラームスを弾くような厚めの音でヴィヴラートとポルタメントをかけるのはまことに趣味が悪く、しかもベルリンPOにしては意外なほどピッチが甘く荒い。ffはうるさいだけでppのデリカシーは希薄。「全員の踊り」はアルルの女のファランドールとほぼ同じ曲として振っているのかなと首をひねります。

 

シャルル・デュトワ / モントリオール交響楽団

R-3318549-1325542908カナダでありながらフランス語圏の文化的伝統を身にまとっているオーケストラの色香が適度なホールトーンに包まれて実に美しい演奏です。録音のセンスの良さにおいて最上級のディスクのひとつでしょう。神秘性よりは上品なチャームを感じさせるアプローチであって、演奏タイプとしては演劇型なのですが、設計のうまさ、ディテールの磨き方、オケのバランスの良さ、演奏技術を考慮すると同タイプの中ではファースト・チョイスに値すると思います。どこといって群を抜くという演奏ではないのですがすべてにわたって偏差値が高く、今回全曲を聴きなおして改めて感動したことを記しておきます。

 

スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー / ミネソタ管弦楽団

CDX-5032 第1,2組曲なので第1部の途中からなのが残念ですが合唱は入っているのがさすが!デリカシーに富み、音符ひとつひとつまで意味深い細部のこだわりにおいて一級品です。全曲にわたって指揮者の眼光がオーケストラの隅々まで届いている緊張感が素晴らしい。それでいて冷たい演奏ではなく、「夜明け」はたっぷりしたテンポでよく歌っており、弦のポルタメントもロマンティックな方向に傾斜を見せるなど、一筋縄ではありません。難をいえばミネソタOが一部で棒についていけていないことぐらいでしょう。ブーレーズを先取りした作曲家アプローチであり、その系統では最も傾聴すべき秀演です。

 

キリル・コンドラシン / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 

51QYYSJbZlL._SL500_AA300_ライブです。演奏は精密さには欠けますが録音がこの名ホールの音響をよくとらえています。第1部は幕開けの神秘感よりも若い恋人たちの踊りに重点があり、ロマンティックです。交響曲でも音画でもなく物語として語りかけるアプローチでしょう。全曲のピークはですから徐々に熱して爆発する「全員の踊り」にあり、ライブでないとこうはいかないという一期一会の壮絶な演奏が聴けます。ソ連の名指揮者コンドラシンが亡くなる直前にこのオケと残したライブ録音は選曲も良く、どれも高水準の名演と思います。

 

ユージン・オーマンディ / フィラデルフィア管弦楽団

71VkC0OIxoL._SL1200_第2組曲です。彼もカラヤンと同じく、全曲には興味のない人だったでしょう。オーマンディは何度かフィラデルフィアでライブを聴き、楽屋でお話しまでした親しみ深い指揮者なのですが、どうもフランス物はいけません。ひたすら名技と絢爛たる音を誇示する方向に聴こえます。それも誇示すべきフィラデルフィアの木管がフランス的でありません。もちろんオケのプレイの水準は高いですがこのオケならこの程度は普段着のままでできてしまうという演奏であり、あくまで趣味の問題ではありますがこれをお薦めする気にはなれません。

 

ジェラード・シュワルツ / アトランタ交響楽団

MI0003402597あまり知られていませんが、はっきり言って名演です。i-tuneで購入可能です。シアトルSOの響きはゴージャスに磨かれていて、相当気合を入れた練習を積んだのでしょうトップクラスに遜色なく、快速の「全員の踊り」の一糸乱れぬ快演はライブだったら鳥肌ものでしょう。米国オケの安っぽさは微塵もなくシュワルツのデリカシーと音楽の表情づくりもすばらしい。ドイツで買ったオリジナルのDelos盤はデービッド・ダイヤモンド作曲の「ラヴェルの思い出のエレジー」と組み合わさっていてラヴェルづくしであり、録音の良さもとても印象的でした。万人におすすめします。

 

ピエール・ブーレーズ / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

ラヴェル旧盤です。77年、大学時代の米国旅行の折に買ったLPがこの曲の教科書になりました。春の祭典の稿に書いたことがほぼ当てはまります。スコアが眼前に浮かぶ精密さ、分光器にかけたような音彩、倍音まで伝わる完璧な音程とエッジのある録音。金の粉をふりまくようなフルート・ソロの素晴らしいこと。ただし、祭典ほどに微視的アプローチがものを言う音楽ではなくこれが絶対というほどの水準にはありません。例えば弦はクリーヴランドOより落ちます。ブーレーズらしからぬポルタメントはオケの流儀を放置した感。自分としては青春の記念碑のような愛着がありますが。

 

ピエール・ブーレーズ / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

61Qr9zSX3uL同じく新盤です。これをベルリンで聴いたわけですが、あのライブは感動した割にどういうわけかほとんど細部を覚えておらず、このCDを聴いてああこういうものだったのかと改めて感じいる次第。春の祭典ほど新旧盤の彼我の差は感じませんが比べて聴いてみると、やはりとんがっていた頃のブーレーズの方が好きという自分の嗜好がはっきりします。この演奏のレベルの高さは、とはいえ尋常ではないのですが、ベルリンPOのウルトラ高性能に起因している部分が多く思います。ただその高性能があまりラヴェル的でないと感じる瞬間もあり、こうして「製品」になってしまうとこれにどうしてあんなに空前絶後の感動を覚えたのだろうとわからなくなります。芸術品の鑑賞というのはどうにも奥が深いものです。

(補遺、2月15~)

 

アルミン・ジョルダン /  スイス・ロマンド管弦楽団

51y9i5ZG3yL第1、第2組曲で。全曲ではない。96年にジュネーヴのヴィクトリア・ホールででこのコンビのラヴェルを聴いた。高雅で感傷的なワルツとボレロだった。ライブで聴いた最もラヴェルらしい音だったかもしれない。ジョルダンは音に語らせる指揮で外連味がなく、余計なドラマや安っぽいショーマンシップは持ちこまない。大人の味を楽しむ聴衆に混じって聴くラヴェルは格別だった。この演奏も、録音場所はヴェヴェイのカジノだが、あれを思い出す。まったく地味なダフニスだがフランス語圏の気取らないディナーで辛口のシャルドネが良く似合う。

 

ジョージ・セル / クリーヴランド管弦楽団

91AZ1eMfNcL__SL1417_63年録音。第2組曲。全ての細部が白日の下にさらけ出され、夜明けの細かな音型がフルートからクラリネットに移ったのがわかる。セルの意図が明確なキューで音化されている様子で、各パートが精緻に磨きぬかれ、リズムのエッジが意識されスコアが見えるような風情なのは同じオケを振ったブーレーズの春の祭典に通じる。ただ、夜明けの旋律を受け取ったヴァイオリンをセルは深い呼吸で歌わせる。彼はブーレーズと違いロマンティックな指揮者なのだ。その歌が厳格なコントロールで表出できるか?できる曲とできない曲があろう。ドヴォルザーク8番の稿に書いたが、ラヴェルも色香が欲しくなる。

 

バーナード・ジョブ /  ジョン・パトリック・ミロウ(pf)

51B5DU42OpL__SS280ダフニスのピアノ版はソロ、2台ピアノとあり録音も多くあるが、僕は後者をこの録音でたまに聴いている。演奏は特にどうということもなく、夜明けは自分で弾いた方が満足感が高いが、そこから先はそうもいかない。ピアノでもあの音がするわけだが、スコアが実はピアノ的に書かれていることがよくわかる。管弦楽の色彩のぼかしでできた曲ではない、リズムも和声もピアノのソノリティでまず書かれたのであり、クープランの墓と同じくそこから管弦楽版の色彩を発想していったのではないかと思う。

 

フィリップ・ゴーベール / コンセール・ストララム管弦楽団

 

第2組曲の最も古い録音か(1930年、シャンゼリゼ劇場。作曲されてから17年後の演奏)。ゴーベールは両大戦間のフランスでパリ音楽院のフルート科教授、同学院オケとオペラ座の音楽監督という要職にあった。ラヴェルの「序奏とアレグロ」の初演メンバーでもある。音楽の流れは今の耳にも違和感がなく奏者の水準も高い。フルートソロの部分のルバートがないのが象徴するように全体にインテンポだが音楽の香気は随所に味わえ、パリの演奏家たちの能力に感服する。

 

ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー/ モスクワ放送交響楽団

ソ連Melodiya原盤を多くコピーしていた韓国のYedang Classicsレーベル。録音は1962年で、CDにはUSSR State Radio&TV SOとクレジットしてあるが彼は61年から上記オーケストラ音楽監督に就任しているのでそちらだろう。2年目、32才の録音ながらオケ、合唱の技術と演奏の完成度は非常に高く、晩年のオケの掌握ぶりと高度な解像力はこの頃からだったことが証明される。厳密にいえば内声部のピッチなど完璧ではないが演奏の緊張度が高く録音が鮮やかに細部を拾っていて管の名技を存分に楽しめる。夜明けの終結部、オーボエのソロの部分で女性奏者の咳払いまできこえる「オン」な録り方は、それがHiFiとして売り物だった同時期のCBS録音に近く、こういう処でもソ連は米国を意識していたかと感じる。あんまり品の良い感性でなかったわけだが、それにしては一部のtuttiを除けば金管にソ連の下品などぎつさが抑え目で、遠近感やホルトーンとの溶け合いという全体のバランスも悪くないという指揮者の知性と耳の良さは特筆ものだ。この曲に俗に言われるフランスの香気はオケにあるわけでなく、スコアにあることを物語る。「夜明け」以降、鳥の声と幾分か癖のあるフレージングに好悪を分かつポイントがあるが、そこまでの前半は微細に耳を傾けざるを得ない繊細さにあふれ何度聴いても飽きることなく、フランス系の一流どころと比べても何ら遜色ない素敵なダフニスだ。

 

(補遺、2018年9月16日)

クラウディオ・アバド / ロンドン交響楽団

アバドのダフニスには物語を感じる。バレエというより劇だ。クロエが拉致されてからの夜想曲~3人のニンフの神秘的な踊りのテンポを落とした緊迫感。間奏曲のアカペラのデリケートなエロスが戦いの踊りのが野卑にかき消される危機感。やさしい踊りのクロエは色っぽい。ちょっとしたパウゼの空白まで生き、音楽の表情が実に豊かでなにやら映画のシーンが浮かんでくるという塩梅だ。LSOは感じ切ったppでそれにこたえる。ところが問題は第3部だ。夜明けは夢幻の光より楽器を感じてしまい平凡。そして全員の踊りの5拍子が全く興奮を喚起しない。第1部後半~第2部のドラマ性からは予想外、まじめなだけのエンディングでどうしたんだという程。よくわからない。

 

ウイルヘルム・フルトヴェングラー / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

第2組曲。夜明けは非常にスローで夜が明ける感じがしない。細部のデリカシーの集積ではなくクライマックスに極限までブルックナーのffのように盛り上がることに「夜明け」の頂点をおくユニークな解釈だ。フルートソロはテンポがぎこちない。全員の踊りに入る少し前に聞きなれぬ休止がある。5拍子はティンパニを強打し、やはりffの爆発を伴いながら徐々に熱くなりテンポも加速していく。コーダはさらに唐突に速くなり、なるほどフルトヴェングラーがやるとやっぱりこうなるかで予定調和的に終る。

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ラヴェル バレエ音楽「ダフニスとクロエ」

2013 DEC 11 21:21:43 pm by 東 賢太郎

音楽による地中海めぐり、次はいよいよエーゲ海(ギリシャ)へ参ります。

daphnis score僕は「ダフニスとクロエ」の「信者」です。この曲について拙文を書かせていただけるだけで無上の喜びを覚えます。音楽の中で最も高貴な部類に属すると信じており、ロンドン勤務時代に27.9ポンドで買ったフランスDurand社の管弦楽スコア(右)は長年座右にある聖書であり、やはりロンドンで88年に20.3ポンドで買ったそのリダクションである2手用ピアノスコアは、難解な聖書に一歩だけでも近寄らせてくださる有難き道しるべとしていつもピアノの傍らに鎮座しております。自分ごときが手を出せる代物ではありませんが、プロによるピアノ(2手、4手)の録音もあり、それでも十分に見事な音楽ということを知ります。どうしても我慢できないのでいわゆる「第2組曲」(夜明け、パントマイム、全員の踊り)はシンセサイザーを弾いてMIDI録音いたしました。音符が多くてものすごく時間がかかりましたが、神がこの水色の書物の中にお隠れなのだということを知り、今もアラジンの魔法のランプのように見えています。

dafnis経験したオーケストラコンサートで最も鮮烈な記憶として残っているもののひとつがピエール・ブーレーズがベルリン・フィルを指揮したダフニス全曲です。時はドイツ赴任時代の1994年5月24日、ベルリンのフィルハーモニーでの演奏でした。全身を耳にして聴き入ったこの世のものとも思われぬ美音と迫力に完全にノックアウトを食らってしまい、帰途につく間に友人とあまり言葉をかわすことができませんでした。そんなことはロンドンで聴いたマウリツィオ・ポリーニのJ.S.バッハ平均律第1巻とこの時と、人生で2度しかない故、体験というよりも事件という言葉の方がしっくりきます。

下は曲の冒頭のピアノスコアです。コントラバスとティンパニの低いイ音の上に弱音器付のチェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンが、天使の先導のように意味ありげなハープに導かれてホ、ロ、嬰へ、嬰ハ、嬰トと完全5度音程を積み重ねていきます。その次に来る嬰二、これは最初のイから増4度という最も「遠隔地」の音になりますが、それを弦ではなく初めてフルートが受け継ぐと、 薄明りのなかでぽっと妖しい光が浮かんだような幻想的な感じに捕らわれます。なにか超自然的な力が蠢(うごめ)くのを感じるのは僕だけでしょうか。夜明け前の霧がたちこめる暗闇のなか、大地が鳴動して幽かに生命の息吹が聞こえだすようなこの笛の音に、4度音程を積み重ねた四部合唱がひっそりとこだまします。あまりの神秘的な情景に金縛りになるようなこの冒頭はままさに大変な何かが産声を上げようとしているのだという神々しい予兆であるかのように厳粛に響きわたり、何度聴いても息をのみます。

ダフニス冒頭

daphnis3この曲の特徴を書いてみましょう。まずは全曲に漂う、古代エーゲ海レスボス島の牧歌的な雰囲気です。それがフランス風の高雅で知的なエレガンスを身にまといます。海賊の凶暴な略奪や嵐や哄笑の描写でも下品になることがありません。若者のロマンスもべったりとした甘さで描かれることは一切なく、上等なスイーツのように風味本意で甘さは控えめです。それらがガラス細工のように繊細、精密な音の綾と虹色の色彩をまとった大管弦楽によって描かれているのです。ラヴェルは大団円の歓喜の爆発(全員の踊り)を仕上げるのに1年もかけていますが、出来上がった作品に細工の跡は一切聞こえません。全曲が人工美の極致であり、管弦楽という音のパレットから人間が創造することの許されるあらゆる「音響の奇跡」がちりばめられていると評して過言でないと思われます。ストーリーである「ダフニスとクロエ」はAD2-3世紀にロンゴスという人が書いた恋愛物語全4巻であり、少年と少女に芽生えた純真な恋とその成就が、恋敵との諍い・海賊の襲撃・都市国家間の戦争などの逸話を絡めて、抒情豊かに描かれている(Wiki)というもの。なお三島由紀夫の「潮騒」はこれの影響で書かれたと作者自身が明かしたそうです。音楽は3部に分かれますが、第3部(夜明け、パントマイム、全員の踊り)が「第2組曲」として頻繁にコンサート・レパートリーとして取り上げられています。

この曲の舞台がギリシャであることは、「夜明け」で響きわたるこのきわめて印象的なフレーズ、何かを告げる牧童の笛のように響きわたるピッコロひとつを聞いただけでわかります。

ダフニス

photo_croatia_dubrovnikギリシャ音楽を聞いたこともないので不思議なのですが、この笛がギリシャ、エーゲ海、アドリア海のイメージをビシッと耳に刻印するのです。イメージというならシャガールが「ダフニスとクロエ」を連作として描いていてパリのオルセー美術館にありますが、それはどうもピンときません。ヨーロッパ時代に2度、2週間ぐらいかけてラ・パルマという船とメロディという船で地中海、エーゲ海クルーズをしましたが、困ったことにその時に見た情景=ダフニスのイメージになってしまっているからです。右はドヴロフニクですが、それはこんなイメージです。

高名な「夜明け」の冒頭の管弦楽スコアをご覧になってみてください。この楽譜は視覚的にも、青い海原で水面のさざなみがご来光にきらめいて、たくさんの鳥たちが舞う空が荘厳なあかね色にゆっくりと染まっていく情景をイメージさせないでしょうか。

夜明け

この2小節で和音が変わって主役がフルートからクラリネットに交代するのにご注目ください。この音域だと交代に気がつかないほど繊細な色彩変化であり 、ほのかに感じる程度です。しかしその効果が何とも文字にし難いほど絶妙であります。フルートの「息継ぎ」が必要ではあるのですが、音色を変えてみたいという意図もあったのだろうと推察いたします。しかし変わりすぎてはまったく興ざめです。あっさりと書かれているように見えますが、いや、この音域なら大丈夫だという確信があるほどに楽器の性能を知り尽くした達人でないとこういうスコアリングはできないのではないでしょうか。

背景では2小節目に弱音器付ホルンとヴィオラとチェロのハーモニクス(弦を押さえず軽く触れるだけで弾く)がそっとデリケートな風味を添える。音だけでも、ピアノだけで聴いても息をのむ箇所なのですが、それに極上のフレーバーがトッピングされている感じ。オーケストラの魔術師ラヴェルの職人芸が余人のおよぶ域でないことはこの1頁だけでも納得してしまいます。こんな精密さと極上感が全ページにわたって維持されているというのは、本当に奇跡のようなスコアです。

スペインの名指揮者ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスがRAIローマ交響楽団を暗譜で振った全曲が聴けます。曲を知りぬいた指揮はさすがです。ブーレーズのような緻密さとは一風違い、曲想を大づかみにしたカラフルな表現は初めての方にもわかりやすいでしょう。バレエ音楽なのでストーリーに音楽が対応しているわけですが、ビジュアルがないと持たない音楽ではなく、私見ですがバレエだと舞台上の足音や雑音がむしろ邪魔で音楽に集中できません。作曲時に、あえてコストのかかる合唱を入れたラヴェルに発注者のロシアバレエ団社長ディアギレフが文句をつけたそうです。そんなものいらないだろうと言ったわけですね。僕は合唱ではなくバレエの方がいらないだろうという立場です。音楽だけまずじっくりお聴きになってください。

(こちらへどうぞ)

ラヴェル「ダフニスとクロエ」の聴き比べ

 

僕が聴いた名演奏家たち(ピエール・ブーレーズ追悼)

ラヴェル「ダフニスとクロエ」の聴き比べ

 

ヌーブルジェのラヴェルを聴く

2013 NOV 11 13:13:11 pm by 東 賢太郎

J.S.バッハ パルティ―タ第2番 ハ短調 BWV826                   ショパン ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 op.58                        リスト 巡礼の年第1年「スイス」から 郷愁                           ラヴェル 高雅で感傷的なワルツ                                ラヴェル クープランの墓

先日これを聴いてきました。なんとも魅力的なプログラムです。オペラシティは1階の前の方だとピアノはなかなかいいです(オケは音が上に飛んでしまう)。スタインウェイですがやや木質の暖か味があり、残響と程よくブレンドしてくれます。ジャン・フレデリック・ヌーブルジェ(Jean-Frederic Neuburger)はフランス人ですが独語読みではノイブルガーだからドイツ系なのでしょうか。

僕はラテン・スクールのピアニストが好きでミケランジェリ、ペルルミュテール、ポリーニ、アルゲリッチ、チッコリーニ、ルプーなどコンサートを聴きましたが、録音でもコルトー、カサドシュ、ロン、ユボー、ルフェビュール、バルビゼ、フェブリエ、フランソワ、ケフェレック、ティーポ、メイエ、ルヴィエ、アース、ウセ、クリダ、あたりをよく聴いています。ということでヌーブルジェはそれなりに気になったわけですが、何か情報があったわけではなく、ひとえに「クープランの墓」が聴いてみたかったのです。

彼の特色を結論から申し上げると、大変なテクニックながらそれを前面に出さない趣味の良さ、知性と品格でしょうか。ショパンの第2楽章。スケルツォ主題を弾く右手の弱音のレガートが印象に焼きつきました。極上の滑らかさであって、例えるなら上質のペルシャ絨毯を撫でた感触。凡庸な人とは同じ楽器を弾いているとは思えないような音です。それがあまりに楽々と出るのは、ぜひピアニストの方にきいてみたいですが、大変な技術なのではないでしょうか。

i-tuneで売っていたので「クープランの墓」を比べてみましたが、前奏曲はライブの方が心もち速くやや淡泊でした。オケ版のオーボエやトランペットの音色を意識する風でもなく。フーガはほぼ同じ。対位法を紐解くイメージで面白く、最後を遅目にするのがユニークです。フォルレーヌは同じテンポでしたがCDの方が和音への反応が繊細。ライブは中間部のフレージングもちょっと中途半端に感じました。リゴードンはライブが活気があってよかったですね。丹念に彫琢したメヌエットは中間部のバスの入れ方が好きです。これは両方とも非常にいい。そしてトッカータ。力演でした。

「高雅で感傷的なワルツ」は各曲を微妙なニュアンスを弾き分けていて楽しめました。この曲はサントリーホールで聴いたツィマーマンの名演が耳に残っていますが、第3曲(Modere)など静かな場面での見事なタッチなどはヌーブルジェの個性が際立っていました。これは名演でした。

アンコールにプーランクのトッカータとショパンを2曲(エチュード、ノクターン)がありましたが、これを聴いてみると彼のタッチはショパンに最も向いているんじゃないかな、どうもそう感じます。平行3度の速めのパッセージを軽いレガートで歌うなど、ショパンだからできたのではという奏法が彼は苦もなく出来て、聴いたことのない味を出せるのです。ショパンには興味がないですが、あれなら聴いてもいいな。

ただ、繰り返しになりますが、それがウリではなく、知性と品格でそれを支配するセンスの良さ。恐るべき27歳です。作曲家でもあり、23歳で最年少でパリ音楽院の教授就任という人だから何年に一人という天才なのですが、彼の演奏に感じたのは技術、テクニックではなくそれを用いて描き出そうとしている彼の音楽のモチーフの大きさです。

最初のバッハはハ短調の重い曲であり、次のショパンもロ短調。重いです。コンサートのトリに来てもいいぐらい。それを彼はあえて重いまま弾くのです。バッハの冒頭の和音の暗い音色は印象的でした。後半のリストもそう。暗いのです。だからそれに続くラヴェルのコントラストが眩いほどにきわだつ。プログラム自体で彼は大きなモチーフに基づいた作曲をしたのかなと思います。

Youtubeにあったショパンのエチュードです。ポリーニのデビューの同曲は衝撃でしたが、それを思い出します。わが国ではまだ知名度がいまひとつなのでしょうか空席が目立ちましたが、いずれチケットがプラチナになる人と思います。

http://youtu.be/KkOPqgpBxME

 

ラヴェル 左手のためのピアノ協奏曲ニ長調

2013 OCT 7 23:23:27 pm by 東 賢太郎

ラヴェルは協奏曲を2つだけ作った。ひとつは前回書いたト長調、もうひとつがこれであり、両方とも楽器はピアノだ。何故これが左手だけで弾くように書かれているかというと、第1次大戦で右手を失ったピアニスト、パウル・ヴィットゲンシュタインの依頼で作曲したからだ。ちなみにパウルは哲学者ルートヴィヒ・ヴィットゲンシュタインの兄だ。

左手だけであたかも両手で弾いているような効果を出すのだから演奏はすさまじく難しい。パウルは弾ききれずに楽譜を変更して演奏し、ラヴェルとついに不仲になった。アルフレッド・コルトーは両手で弾こうとして金輪際だめだと演奏を禁じられた。両手満足の奏者が誘惑にかられるのはわかる。ちなみに同じくパウルに依頼を受けたプロコフィエフは第4番の協奏曲を書いたが彼は弾かなかった。今でも人気作品とは言えない。無理難題をつきつけるラヴェルだって弾かれなくなるのだ、普通なら。困ったことに、しかし、この曲はそうなるにはあまりに魅力があり過ぎたのである。

ト長調協奏曲とこれは同時進行で書かれた双子である。一見して曲想は似てないが、渡米して強いインパクトを受けたジャズ、ブルースのエコーの存在、ト長調の左手の書法では近親性が感じられ、特にリリックな部分の味わいには共通する遺伝子を見る。次の譜例はその代表的な部分だ。僕はここが大好きだ。ト長調の第2楽章に通じる味があり、クープランの墓のフーガ、それからフォルレーヌの中間部にも似た味わいがある。この譜面はピアノ連弾用なので上段の独奏者の方を見てほしい。この部分、嬰へ長調がふっと影がさしたように嬰へ短調になるマジカルな瞬間だ。

ravel conc in D

この「ふっ」というニュアンスは、とてもフェミニンなものだ。楽譜の7小節目だ。この小節の頭からRall. (Rallentandoの略、徐々に遅くせよ)として、短調のa(ラ)が鳴る3連譜からはuna corda(弱音ペダルを踏め)と命じ、どんな感受性のない奏者でもそのニュアンスが出てしまうように巧妙に書かれている。その3連譜の真ん中のa から音程で10度(つまり白鍵で10個離れた)上に cis(ド#)がソプラノ・パートとして入る。こちらは2連譜。絶妙な効果である。a と4分音符の6分の1だけズレ(時間差)があるからこそ左手一本で弾けるわけで、制約条件のマイナスをプラスに転じる技の切れには嘆息するしかない。両手で弾きたい?馬鹿野郎!となるのも道理である。

落としたテンポはPiu lento になる。espressivo とわざわざあるが、ここからを感情をこめずに弾ける人はそう多くはないだろう。この部分の切なくも高貴な美しさは筆舌に尽くし難く、こんな音楽を書けた人はあとにも先にもラヴェルしかいない。凡俗の用語を適用するしかないが、とてもロマンティックである。しかし、それがラフマニノフのような身も世もない姿態にまで逸脱することのないよう、研ぎ澄まされた怜悧な理性がいつも背後から見張っているように感じる。この凛とした、おすましの姿勢と気品が僕にはたまらないのである。

これは全くの主観だが、ラヴェルの本質は女性的と感じられる。彼が生涯結婚せずに母と住んでいたからそう言うのではない。女性というものをよく理解していない僕が「的」というのも不正確だろうが、男性ではないフェミニンなものという意味で、やはりそうなのだ。彼の後ろで見張っている眼こそが男性だ。速度やらペダルやら音価やらをあれこれこまごまと書き記し、女性の本能が枠を逸脱しないように厳しく縛りつけているのが。ストラヴィンスキーが「スイスの時計職人」と評したラヴェルはその男性の方だ。そう言った張本人のスコアも時計職人なみの精密さだが、彼の中に女性は住んでいなかった。

ラヴェルがホモセクシャルであったという説は有力なようだ。ストラヴィンスキーと出来ていたという説すらある。「なき王女のためのパヴァーヌ」という、その名も女性的で甘美な初期ピアノ作品がある。彼はこれを気に入っていたと見え管弦楽に編曲までしているが、口では作品に対し辛口のコメントをしていた。彼の中にいる男性がしゃべった言葉だろう。これはやはりホモであったチャイコフスキーが大成功した自作の第5交響曲を失敗作と評したことを連想させる。よくラヴェル、ドビッシーと一括りに並べられるが、これは的外れである。なぜなら、ドビッシーは徹底して男だからだ。

ニ長調協奏曲は3部構成で第2部はバスーン独奏によるブルース風になる。ト長調が第2楽章に叙情を描いたのとは対照的だ。こちらは第1部の冒頭のチェロ、コントラバス、コントラファゴットの合奏による静かな混沌からのスタート、そして最強奏によるどこか人を食った曲の終結と、ラ・ヴァルス、ボレロを想起させるものがある。ラヴェルはピアノ協奏曲をモーツァルトの精神にのっとって書いたと言ったそうだが、それはト長調のことではないか。僕はモーツァルトよりはサン・サーンスを感じるが、イメージはブルー、青地である。一方のニ長調のほうはもっとダークだ。黒を感じる。黒地に金、銀をちりばめたようなイメージがある。だからリリックな部分を共通因子とはするものの、この2曲はやはり似て非なる音楽だろう。

そして和声だ。第3部カデンツァのおそるべき和声進行はダフニスとクロエ、夜のガスパールを経てラヴェルがたどり着いた頂点だ。知らずに聞いてこれを片手で弾いていると看破できる人はまずいないだろう。ここがこの協奏曲のエネルギーの頂点でもあり、ピアニストが膨大な数の音符をかき鳴らして聴衆に訴えるものは熱い。しかしそこで鳴っている和音は極北の冷たさを秘めているように聴こえる。ここにも僕は雪女の影を見てしまう。ではこの曲は嫌いか?とんでもない。ト長調と一緒に聴きたくはないが、気分、体調、天気によってどうしてもこっちという日がままある。甲乙がつくことはないだろう。

これを弾くピアニストを見るのはひとつのスペクタクルだ。それがたおやかな女性というこの演奏はなかなかいい。テンポはちょっと落とし気味だが曲への共感に満ちており、集中力をもってきちっと弾ききっているのに好感を覚える。熱演のあまり中指を切ってしまって血を流しているが、ものともしないピアニスト魂を讃えたい。

 

最後に、この曲においても挙げるべきリコメンデ―ションはこれだ。

                                               

サンソン・フランソワ / アンドレ・クリュイタンス / パリ音楽院管弦楽団

これはト長調にも増してフランソワの魔力が全開の演奏であり、これは彼のために書かれた曲かと思ってしまうしかない。第1部のピアノの登場は千両役者の威風であり、ちょ41DMZ7XMKFL (1)っとしたテンポルバートがこんなに決まってしまうと後続の者はみな物まねになってしまう。オケのフォルテはまったくもってフランスの音だ。ドイツみたいにオルガン的にまとまらずどこかザラザラしているが、これがここの乾いた曲想にぴったりだ。そして上記の譜例の部分のピアノモノローグの高貴なまでの格調の高さ。それを包み込むクリュイタンスのオケがこれまたラヴェルらしい音を出しており惹きこまれる。第2部のタッチの切れ味、オケとの掛け合いの遠近感やジャズを想起するラプソディックな経過句なども手の内に入りきっていて、フランソワがこの曲を愛奏したことがわかる。最後のカデンツァは白眉である。氷が熱を持ってくるような矛盾、錯綜した感覚をおぼえ、幻想の雲の中を泳ぐ観がある。

 

(補遺)さらにいくつか挙げておく。

 

フィリップ・アントルモン(pf) /  ピエール・ブーレーズ /  クリーブランド管弦楽団

zaP2_G7320501W硬質の肌触りで底光りするラヴェル。アントルモンはあまり感心したことがないがこの左手はブーレーズのペースでクリアで宝石のようなタッチでオケと見事に対峙している。カデンツァの技巧はまことに素晴らしい。オケはCBS時代のブーレーズそのものの音で、独特の色彩感と細かなニュアンスまで神経が届いている。その眼光がオケとピアニストに与えるテンションが伝わってくるというのはもう体験できない世界になってしまった。(補遺、16年1月30日)

 

アリシア・デ・ラローチャ / ローレンス・フォスター/ ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

51IOsSTKq4L__SS280ただ弾いたというのではない、音楽を自分のものとして完全に咀嚼し、最も音楽的な形で一筆書きのようにリアライズしたラローチャの高度な技術と解釈は並み居る名演奏のうちでも非常に印象に残る。終楽章の信じ難いほど素晴らしいカデンツァをぜひ聴いてみて欲しい。香港で聴いた彼女は小柄で手も小さそうであり、ここに刻まれている音は驚くしかない。フォスターの指揮は特にどうということはないが過不足ないサポートをしている。

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 ラヴェル ピアノ協奏曲ト長調

 

ラヴェル ピアノ協奏曲ト長調

2013 OCT 6 20:20:21 pm by 東 賢太郎

この協奏曲とつきあってかれこれ40年になる。初めて出会って、ひと目惚れだった。今もって恋愛関係にある。なぜかといって理由はない。自分の内のことだ。わからないことはみんな遺伝子の記憶のせいにしてしまおう。

いきなり鞭(ムチ)がピシッだ。アブナイ。のっけからハイなのに、だんだんジャズのノリになって暴れまわる。ちょっと色気をみせるがすぐに調子はとっぱずれだ。第3楽章などもう野趣あふれてゴジラのテーマなんかに化けてしまう。大変なじゃじゃ馬女である。

第2楽章。だからこれがぐっときてしまうのだ。これがあの彼女か?どうしてこんな・・・。僕にとって、きれいな女性を音にしたらこうなる。

冒頭のピアノのモノローグだ。3拍子に聞こえるが、そして、たしかに3拍子で書いてあるが、譜面はこうだ。ravelPC1

 

 

 

耳が知覚する3拍子はだましで、1・3・5を強拍に弾くとおかしくなる。均等に弾けばバスの1・4でズンチャッチャに聞こえる。ところが右手の3/4の2つ目の4分音符は左の弱拍に当たって全体として拍節感は希薄だ。つまり右手と左手がよそよそしく他人行儀なのだ。しかも、いきなり第2小節で左手のg#に右手がaをぶつけて仲違いまでする。

全くそりの合わないカップルという風情だ。

そのまま二人は歩く。手をつないで。そしてだんだん想いが高まってくる。そうして、いよいよだ。そーっと木管が入ってくる。フルート、オーボエ、クラリネットの順に。

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このページの美しさはこの世のものとも思えず筆舌に尽くしがたい。モノトーンだった世界に打ち震えるフルートが青白い光をぽっと浮かべ、オーボエが最高音域のeで愛を切々と訴え、クラリネットが感極まってd#まで登りつめてそれにこたえる・・・。

イングリッシュホルンのソロで主題が再現しトリルを経て嬰ハ長調(C#)になるところ(練習番号9)、G#mが深い陰りを添えると、一転してf# のバスにAmaj7が乗った素晴らしい和音はギリシャの神殿のようで、パンの神のフルートが高いg#を朗々と響かせる!!あまりの荘厳さに凍りつくしかない。

第3楽章。話題の品が落ちるが、よく知られている「ゴジラのテーマ」というのがある。巨人時代の松井秀喜の登場にも使われていた。

伊福部昭がここから発想したかどうかは知らないが、僕にはどうしてもこれに聞こえる。

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ジャズっぽいイディオムとともにピアノは打楽器的に使われていて、速いファゴットのパッセージなど人を食ったラヴェルが顔を出す。最後の一撃は低音がト長調のバスだからgであるべきだが、ピアノの最低音aを書きこんでいるのがいかにもラヴェルだ。どうせ聴く者にはわかんないんだから音がでっかい方がいいだろうということだ。

ちなみにyoutubeにこんなのがあった(全曲)。学生の演奏会だろうか(違ったら失礼)。

第2楽章がとても良い。loveに満ちている。こう弾きたい。これは大家が弾けばいいという音楽ではない。これが自分の指から紡ぎだされると、恍惚の地にさまようことになる。恋愛から覚めることは永遠にないだろう。

この曲には、もうこれ以外は不要という決定的な録音が存在する。僕はけっこうストライクゾーンは広く、よほどのものでなければNOはない。だからCDはいつも複数をご紹介している。しかし、極めて例外的だが、この演奏ばかりは他を軒並みKOして聴こうという気にもさせてくれない。今後もこれ以上魅力がある録音が出る可能性は限りなくゼロに近いであろう。

サンソン・フランソワ(pf) / アンドレ・クリュイタンス / パリ音楽院管弦楽団

フランソワ(1924-70)はフランスの生んだ天才だった。練習嫌いで酒びたり。アル中とクスリで早死にしてしまった。この録音こそはそんな彼のベストフォームと断言しよう。タッチは七変化だ。ラヴェルが書き込んだ千変万化の表情をこんなに雄弁に描き出せた人はな41DMZ7XMKFL (1)い。例えば、第1楽章の右手の長いトリルを聴いていただきたい。ピアノが泣いている!ギターでなくピアノを泣かせたのはフランソワだけだ。しかしよく聴くと、トリルが一人で泣いているのではない。この部分の左手は併録の「左手のための協奏曲ニ長調」に似た主情的な書法であり、和音をつけるその左手の生み出すテンポ、フレージングの微妙な陰影と情緒が上声部のトリルを歌わせているという、驚くべき高度な演奏がなされているのである。そしてさらに驚くべきことは、指揮者クリュイタンスが個性の強いフランソワのオーラにぴたりと波長を合わせて寄り添っていることだ。ホルンにしては超高音域の弱音のソロを聴いていただきたい。ちょっと触れても壊れてしまう極限のデリカシー。泣きにはこれでなくては。フランスのホルンの極薄の絹を思わせる音色だからこれができる。これも繊細の極致であるハープのハーモニクスが旋律を爪弾く。第2楽章の木管の入り、超高音で金の粉をふりまくフルート、オーボエ、クラリネットの気品と色香はどうだ!鄙びたイングリッシュホルンの旋律には陶然とするばかりで薄明の光がさして我に返る。終楽章のラプソディックな推進力も魅力だ。いくら音楽が熱してもラテン的な透明な感性のままであり、重くなったり粗野になったりしない。ドイツやロシアだとこうはいかないのだ。今やこういう音のするフランスのオーケストラは消滅した。こういう感性のピアニストは均質的なコンクール競争で排除されるだろう。このラヴェルは世界遺産ものの希少品だ。曲への愛も含めて僕の無人島CD候補の有力な1枚である。

 

(補遺、16年1月30日)

ニコール・アンリオ=シュバイツァー(pf) / シャルル・ミュンシュ/ パリ管弦楽団

847はっきりいってピアノはうまくない。両端楽章は危ないパッセージもある。それでも書くのは第2楽章が抜群にいいからだ。テンポは遅いが味が濃く、これだけデリケートにたおやかなニュアンスで弾かれたものは他に知らない。ppに感じきっておりmf、f も控えめで乳白色の霧の中を歩くようだ。オケもピアノ同様に高貴な味わいで、巷のムード音楽のような演奏とは一線を画する。ミュンシュ最晩年の録音だが老境で回顧した恋のようでもある。

 

アブデル・ラーマン・エル=バシャ(pf) / マルク・スーストロ / ロワール・フィルハーモニー管弦楽団

R-2596126-1292334514_jpegフランスのローカル・オーケストラのおいしい味が趣味の良い録音で楽しめるCDで大事にしている。といって技術に難があるわけでなく、立派な演奏だ。ピアニストには常人ばなれした記憶力の持ち主がいて、このレバノン系フランス人のエル=バシャ は協奏曲60曲のレパートリーを持ちショパン全曲を暗譜で弾くらしい。このラヴェル両曲、特に個性はないがまったくもって模範的でハイセンスな演奏といえ、残響の心地良いホールトーンと適度な解像度のある録音が最高。おすすめだ。スペイン旅行で買った思い出のCDだが今はi-tunesにabdel rahman el bacha ravelと入れると1500円で買える。

 

youtubeにあったこれ、ブランカ・ムスリン(1917-75)というクロアチアの女流のピアノ、ウイルヘルム・シュヒター指揮ベルリン交響楽団の演奏。

シュヒターはN響の常任指揮者で厳しい練習で有名だった。このラヴェルは頭がくらくらするぐらい素晴らしい。upされた方に感謝。

 

アレクシス・ワイセンベルク / 小沢征爾 / パリ管弦楽団

なつかしい。浪人中にまずフランソワ盤、そして2枚目にこれを買ったのだった。右のLPがそれで、これも非常に気に入っていた。若かった小澤さんが凄い。才能がほとばしる。ワイセンベルグも一緒に突っ走る。第2楽章、僕が自分で弾くテンポもこれだったんだんなあ・・・刷り込みは恐ろしい、三つ子の魂か。木管はクリュイタンスが上を行くがこれだってそう負けてはいない。僕も若かった。

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

ジョン・アイアランド ピアノ協奏曲変ホ長調

エリック・パーキン / ブライデン・トムソン / ロンドンフィルハーモニー管弦楽団

irelandアイアランド(1879-1962)はスコットランド系イギリス人。チャネル諸島が好きでその風景を愛した。フランクフルトにいた頃、僕らはアイルランドにゴルフに行って、時間があったのでキンセイル(Kinsale)という南岸の港町で昼飯を食べた。諸島はそのすぐ南だ。それがアイリッシュ風フレンチとでもいうもので、抜群に美味であった。こういうのは体が覚えている。その経験からだろうか、このピアノコンチェルトにはフランスの、特にラヴェルの風味を感じてしまう。似たフレーズが出るというような具体的な相似はなんらないのだが、どことなく味が共通なのだ。ラヴェル好きの方は聴いてみて損はない。

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 ラヴェル 左手のためのピアノ協奏曲ニ長調

 

 

 

クラシック徒然草-愛器アウグスト・フェァシュター社ピアノを調律してもらう-

2013 SEP 8 0:00:14 am by 東 賢太郎

写真 (19)今日は1時からピアノの調律をお願いしました。ご近所にお住いの本邦調律界の大御所U先生にうかがったところ、ウチのアップライト(右)は旧東独のAugust Förster社製のものなのですが、日本にはあまりないとのこと。ぜひ見てみたいと初回は大御所本人が来てくださいました。その時に「将来を嘱望する若手のポープなので勉強させてやって下さい」と同伴されたのが白田先生でした。

写真 (17)今日は先生の2回目でした。これともう一台ヤマハのグランドをお願いし、いろいろうるさい僕のわがままを聞いていただいて終わったのは6時すぎでした。このアップライトは確か85年にロンドンのマークソン・ピアノで購入したものです。何台か弾いてみて、ひと目惚れで即決したのがこれでした。長女がロンドンで生まれたのが87年だからはるか先輩格に当たりますね。別に高級品ではないのですが、それ以来、我が家と一緒にロンドン→東京→フランクフルト→チューリッヒ→香港→東京と長旅を共にした家族としての絆を強く感じています。

調律は時間とともに少しづつ狂ってきます。それが耐えられなくて僕は調律用のハンマーをスイスで買って、自分で微調整などしてきました。しかし調律はピッチだけの問題でないのです。それが最近わかってきました。そこで今日は先生が「どんな風にしますか?」と聞くので「ラヴェルの音でお願いします!」とわけのわからんことを依頼しました。まるで床屋の会話です。「うーん、ラヴェルですか、クープランの墓?そうですね・・・・」だいぶお悩みの様子。「やってみましょう、でもこのアウグストのせっかくの音をいじるのはやりたくないですね。ヤマハの方でやりましょう」ということになりました。

写真 (18)そこから休みなしで3時間半。隣の部屋のヤマハは見事にベーゼンドルファー寄りの音に生まれ変わりました。それに感動し、先生に感謝の意をこめてこのブログを書くことになったのです。クープランの墓の一部、ショパンのワルツ、グリーグのコンチェルトのさわりなどを弾いて聴いてもらい、ほぼ音は問題なしとなって残り時間でアウグストを仕上げてもらいました。そっちではシェラザードの第1楽章を全曲、ダフニスとクロエの夜明けのところ、ドヴォルザークの8番などを。ミスタッチだらけでとても人様に聴いていただく水準には遠いのだけど本人だけは指揮者気分で満足。これがあるから僕は生きていけるのです。

先生から「ピアニストのどこで演奏を評価してますか?」というご質問。「指の回りではなく①フレージング②和音のバランスです」と答えました。「意外に好きな人が少ない。アラウだけ別格です。ミケランジェリはいいですがポリーニもアルゲリッチもリヒテルも今は聞く気がしない」とも。「ラヴェルはフランソワはどうですか?」ときたのですが、「録音がひどい。EMIの音にボディがない」ということで意見が一致しました。先生のイメージではラヴェルはベーゼン。楽器の音色のイメージをきくと「カワイは円筒、ヤマハはその円筒の中に円錐が入っていて2重、スタインウェイはさらにその円錐が2重になっているイメージを持っているんです。だからベーゼン。」と素人にはまったく理解不能の答えが返ってきました。「チッコリーニがファッツィオーリでベートーベンを弾いたのがなかなか良かった」という感想で、かなりお好みのイメージがわかってきましたとのことでした。

写真 (16)最後に先生に、「だんだんこういう音にして欲しい」と言って、ラヴェルを2つ、①アンヌ・ケフェレックの「水の戯れ」と②イヴォンヌ・ルフェビュールのト長調協奏曲の第2,3楽章をリスニングルーム(右)で僕の装置でじっくりと聴いていただきました。両者の音色の比較をああだこうだとプロの視点から詳しく教えていただき、大変勉強になりました。それなのに、「これはたぶんベーゼンだろうなあ・・・・ただ調律が特別ですね・・・・こういう音が出せるんですね。勉強になりました」と謙虚に語ってお帰りになりました。いやピアノひとつとっても音楽は奥が深いものです。この装置は1人で聴いていてももったいないし、先生のような方にお役にたてるのであればうれしい限りと思いました。楽器の方もヘタの横好きにばかり弾かれていてもかわいそうです。プロをお招きしてミニコンサートをやっていただくこともSMCで考えようと思っています。

 

ファツィオリ体験記

ラヴェル 「クープランの墓」

2013 AUG 27 17:17:23 pm by 東 賢太郎

この曲をピアノで弾きたいというのは僕の人生の夢である。

僕は他人から何かを習うということに生まれつき適性がない。独学というと聞こえはいいが、要は手足は不器用であり、知識は自分なりに腑に落ちないと覚えられないので仕方がない。だから学校の教室で何か習得した記憶があまりない。予習してわかればもう授業は不要だ。授業でわからないから復習という自習が必要だ。なら最初から自習だけでいい。すべては自習して初めて「ああそうか」となるから、人生万事自己流である。野球もゴルフも大事な部分は他人に教わったことはない。先輩にこうやれと命令されても、はい!とやるふりだけだ。そして、問題のピアノも、誰かに習ったことはない。

ピアノに触りだしたきっかけはこうだ。僕のラヴェル好きの起源はこの「クープランの墓」という曲にある。これを弾きたい。高校時代にそういう強い願望がむくむくと湧きおこり、ヤマハで楽譜を購入(けっこう高かった)。妹のピアノでいきなりチャレンジを開始した。バイエルとかチェルニーとか、そんなものはぜんぜん興味がないからやらない。この曲だけ弾ければいいんだからという妙な理屈があった。自習の末、ハノンだけは必要と悟ってさらったが、それだけ。四則計算だけ覚えて微分積分にとりかかるようなものだ。まさしくドン・キホーテである。

「クープランの墓」は1.プレリュード、2.フーガ、3.フォルレーヌ、4.リゴードン、5.メヌエット、6.トッカータの6曲からなる曲集だ。以来40年、恥ずかしながらいまだ6曲のうちひとつも弾けない。当たり前だ。最後の「トッカータ」はラヴェルの書いた最も難しい曲であり、作曲者が自分で弾けなかった。古今東西あまたあるピアノ曲のうち、スタジオでの録音にもかかわらず、この曲ほどミスタッチやら指のもつれやら記憶違い?がきざまれたままのCDが堂々と天下に流通している曲も珍しい。大先生方も、これ滅茶苦茶難しいし録音し直してもたぶんおんなじだからこれでいっちゃってくれる?ということだったかもしれない。

つまり天下の難曲なんだトッカータは。まあ譜面を見ただけで論外だが・・・。メカニックな運指と運動神経を問われる4曲目の「リゴードン」はあきらめる(くやしいなあ・・・・)。2曲目の「フーガ」は指がもつれて無理だし暗譜がむずかしい。そうすると残るのは1曲目の「プレリュード」、3曲目の「フォルレーヌ」、5曲目の「メヌエット」だ。そういうことが発覚した。そしてついにフォルレーヌだけはかなり危ないが一応なんとなくインチキ指使いで暗譜した。7-8年前のことだ。ところがだ。会社をかわったりしてピアノどころでなくなってしばしご無沙汰しているうちに、指がすっかり忘れてしまった。何ということか!これが独学の、つまり僕の人生の悲しさだなあと思った。

だがあきらめる気はない。プレリュードの和声変化は弾いていてめくるめく快感がある。メヌエットは本当にきれいだ。きれい。一応やさしいが装飾音符がくせもので後半が意外に覚えにくい。そしてやっぱりフォルレーヌだ。ワサビのきいた不協和音で始まるが次々と玄妙な和声が現れて自分ではっと息をのむ。ちなみにウチの家族はこの不協和音が嫌いだ。弾くといやがる。僕が下手なんじゃない。そう書いてあるんだ。これはもう感性の問題でラヴェルがだめな人もいるということを知る。一方僕にはラテン文明の香りがむんむんしてくる。フランスかスペインかイタリアかギリシャかは知らない。とにかくラテンであり地中海世界だ。それが僕は大好きであり、だから3回もローマへ行ったりしているし地中海やエーゲ海のクルーズも2回やっている。あのきらきら輝く紺碧の鏡のような海は僕にとってイタリアオペラでもローマ3部作でもなく、ラヴェルそのものである。

ラヴェルを聴くというのは、自分の中に秘められている得体のしれないラテン好き本能を呼び覚ます、いっぱしの儀式である。彼が感性で選んで書き取った音は、どこか奥深いところにジーンと共鳴してくる。理屈はない。日本人がお米を食べるとなぜかおなかが安心する。そんな感じだ。いや、そういう音楽はほかにもあるが、ラヴェルは「お米が立っている」感じがする。無性においしい。僕はフランスでいうとパリ近郊のバルビゾンが大好きだ。事情が許せば余生はあそこで送ったっていいぐらい。あの洗練。片田舎なのにしゃれていて、一幅の名画を切り取ったみたいな垢抜けた街の風情を「いいね」と思う感性と、ラヴェルを「いいね」と思う感性は、僕の中でほぼ合致している。こういうことはベートーベンやブラームスの音楽では考えにくい。

ラヴェルの譜面の楽典分析みたいなことは、やってみたい気はするが生産性はあまりないだろう。彼はドイツ流儀の形式ばった曲よりも自由な構成や和声によって、何らかの詩的なイメージを喚起する曲を作るのに長けていた人だ。それは先人の誰とも似ておらず、後世の誰も模倣ができない独自の個性だった。2度、7度、9度、11度、13度の入り混じった和声はラヴェル的な世界、不協和ではあるが不思議と苦みやテンションが多くはなくて地中海の空気みたいにアルカイックで乾いている世界を象徴する。モネが時々刻々と光彩が無限に変化していく様を描き出した方法を印象派と呼ぶなら、ドビッシーの交響詩「海」も印象派の音楽といえるだろう。しかしラヴェルは「ダフニスとクロエ」でそれが完璧にできる作曲技術のあることを証明はしているが、彼の音楽の本質は印象派的ではないように思う。

ストラヴィンスキーが「スイスの時計職人」と評した彼の絶妙な管弦楽法はなにか具体的なもの、それが景色であれ光彩の変化であれ、そういう具象を描くというよりももっと抽象的な音素材として機能しているだろう。質感とでも呼ぶか、たとえば海の表面が波立っているのか鏡面のようになだらかなのかを感じさせる素材としてだ。ドビッシーの「牧神の午後への前奏曲」はものうげなフルートソロで開始するが、あの旋律はフルートという楽器の音で発想されたものであることは、楽器の機能上鳴りにくいド#でわざと始めていることからもわかる。「海」の第2楽章でもそれを感じる。ドビッシーは自身のピアノ曲を管弦楽に編曲することはなかった。音楽の発想と楽器がおそらく密接に結びついていたからだろう。たとえば2つの前奏曲はまぎれもなくピアノという楽器音で発想された音楽であり、「亜麻色の髪の乙女」を管弦楽でやってみても砂糖菓子みたいなものにしかならない。ピアノでしか表現できないアウラであり、ピアノがスタインウエイかエラールかまでも問うほどにピアノ的に研ぎ澄まされた音楽なのだ。

一方のラヴェルは、自身のピアノ曲の管弦楽編曲は枚挙にいとまがない。彼の脳の中では音楽と音彩(色)は別個のものだったのだろうかとさえ見える。だから、オリジナルは6つのピアノ曲であるクープランの墓から4つを選んで管弦楽に編曲するにあたって彼がオーボエを重用したからといって、それが牧神の午後のように音楽そのものの発想段階で何かを表そうとした結果の楽器選択だったということはたぶんないだろう。たとえば、ラヴェルは同じくオリジナルがピアノ曲である「展覧会の絵」をトランペットで開始した。それは音楽そのものの発想との関係は絶対にない。なぜならムソルグスキーという他人の書いた音楽だからだ。ところがあのプロムナードの曲調にはトランペットがあまりにぴったりであって、ムソルグスキーがそれを望んだに違いないと誰もが疑わないほどだ。ラヴェルの管弦楽パレット使いの天才とは、そういう性質のものだ。

彼のピアノ曲を聴いたり解釈したりする場合に、ピアノにおいて彼がオーボエのような音彩をピアニストに求めていたこと、そういうイメージをもってプレリュードを弾いたら感知できるようなアウラを描きたかったのだということは言えるだろうが、それが絶対のものであるなら彼はクープランの墓を管弦楽曲として作曲していただろう。ここがドビッシーのピアノ曲と本質的に違うし、ピアノの音を絶対として作ったと思われる「夜のガスパール」とも違うのだ。クープランの墓というのは光の当て具合で色調の変化するダイヤモンドのような音楽であり、どこから見ても、何度見ても、その高貴な光に魅了されて幸福感を味わうことのできる逸品なのである。

この曲をピアノで弾きたい・・・・。

僕の人生の夢だ。甲子園で全国制覇して天下無敵だったころ、松坂大輔はこう言った。「夢ですか?ありません。夢というのはかなわないものですから」

それが夢だとわかる程度には、僕のピアノの自習は残念なことに進んでしまった。高嶺の花に惚れてしまった宿命だ。ずっときれいなままでいてもらいましょう。

以下、僕が好きなこの曲の演奏をいくつかご紹介する。

 

イヴォンヌ・ルフェビュール(ピアノ)

solsticefycd018ルフェビュール(1898-1986)はフランスの女流。9歳のときパリ音楽院の神童賞を受賞し、12歳でデビュー。コルトーの弟子でありディヌ・リパッティ、サンソン・フランソワの先生でもある。残っている録音は少ないがフルトヴェングラーの指揮で弾いたモーツァルトの20番の協奏曲が名高い。このクープランの墓、プレリュードの音の粒だった流れるような演奏からしていきなり彼女の世界に引き込まれる。微妙なテンポの揺らぎが各所にありフォルレーヌはトリルを長めにとるなど個性が際立った演奏だが、これぞラヴェルの音だ。高齢での録音故にトッカータで指が回っていないが安全運転に陥らず凛とした姿勢で弾きとおす。ぴんと背筋を伸ばして馬にまたがった貴婦人というイメージだ。なんら威圧的なものはないが、俗人が触れてはいけない高い知性と気品のようなものを感じる。

 

ジャンルイジ・ジェルメッティ / シュットゥガルト放送交響楽団

MI0001041233これぞ地中海のラヴェルである。えっ、ドイツのオーケストラじゃない?いかにも。でも出てくる音はまぎれもないあの青い海だ。ジェルメッティは94年にシュベツィンゲン音楽祭で ロッシーニのスターバト・マーテルを聴いていたく感心した。宗教臭さのないからっとした演奏だった。このクープランの墓の木管を聴いていただきたい。どうやってこんなにラテン感覚の音になるんだろう?音楽は前へ前へ流れる。しなやかな黒豹みたいに。かと思うとリゴードンの中間部は超スローになったりする。そうやってフレーズは歌いまくる。内声部まで歌っている!なんともセクシーなのである。ついでに「道化師の朝の歌」を聴いてみよう。これぞ最高のメリハリだ。なんて小気味よいリズムだろう。けだるいファゴットのソロ。酔っぱらいの千鳥足。もう漫画の一歩手前だがこういうあざとさがツボにはまって悪趣味にならない。ボレロは歌とリズムの饗宴だ。あのトロンボーンまで歌ってしまう。一方で合いの手のキザミまでスタッカート気味にして小太鼓の興奮に加わっていく。実にすばらしい。ジェルメッティさん、どこかイタメシ屋のおやじという風貌だがどうしてどうして、彼はあのチェリビダッケ、スワロフスキーの弟子というサラブレッドなのだ。地中海好きの僕にとって、一生座右に置くこと必須の希少な一枚である。

 

セシル・リカド(ピアノ)

517UUE8XwnL._SL500_AA280_また女流になるが、この演奏も好きだ。ピアノはパステル調の落ち着いた音色でいわば非ラヴェル的だ。湿気を帯びている。それがメヌエットをシューマンのトロイメライみたいに響かせている。リゴードンの中間部がやはりスローになるが、ジェルメッティが空気に湿り気がないのにたいして彼女のはウエットでロマンティックなのだ。ペダルも多い。そんなのはラヴェルでない?そうかもしれない。それでもプレリュードの絶妙なタッチとテンポのゆらぎはやはり陽光にきらめく地中海だ。海はあまり青くなくて僕には灰色がかっている。速めのフォルレーヌには舞曲を感じる。トッカータは破たんもあり得るテンポでリスクをとるが彼女はそういうことにたぶんあまり重きを置いていない。感じたままの勢いで音にしたい。そう聞こえる。だってこの曲好きなんだもん、という風に。好きは通じ合う。フィリピン系のリカドはホルショフスキーに学び、あのルドルフ・ゼルキンが唯一とった弟子だ。

 

タニスラフ・スクロヴァチェフスキ― / ミネソタ交響楽団

MI0000978066VOXからこのコンビの10枚組が出ていたが中古で見つけたら迷わず購入をお薦めする。このクープランの墓はi-tuneで買える。非常に微視的視点から人工的に磨き抜かれた非ラテン的、非地中海的ラヴェルであるが、この魅力には抗しがたい。これだけ見事なオーケストラの音はそう聴けるものではない。時差ボケで眠い中、この完璧なピッチを耳にして脳細胞が立ってしまい、一気に覚醒した。ブーレーズがCBSに残した旧盤(下記)もいいが、これの方がよりその路線で徹底している。これがライブであれば、普段は演奏中にプログラムをめくってごそごそやる人たちも身を固めて聞き入るしかないだろう。トランペットの音色がアメリカ風に安っぽいので浮いてしまうなどご愛嬌もあるが、ラヴェルのスコアがいかにすごいものかじっくり味わうにはこれしかない。一部だけ最近SACDフォーマットで出たが、全曲やるべし!

 

アビイ・サイモン(ピアノ)

61XrlrfeMjL._SL500_AA280_ これはホロヴィッツじゃないのか?いやもっと詩情があるぞ、ちがうだろう。ブラインドテストすればそういう声すら出そうだ。アビイ・サイモンがリサイタルをやると客席にはプロのピアニストが大勢押しかけたそうだ。そういえばロンドンのバービカンでミケランジェリを聴いた時、僕の目の前の席の禿げ頭はアルフレート・ブレンデルだったなあ。ロイヤル・フェスティバル・ホールのリヒテルの時は内田光子さんが聴いていたっけ。サイモンはそのクラスのピアニストだ。VOXという廉価版レーベルで出て日本では大きく勘違いされているが、他人の言うことは一切無視してよく聴いていただきたい。リゴードンの節回しなど癖は各所にあるが、それは余裕のなせる業だ。これはショパンなんじゃないかと思ってしまうほどピアノが簡単に、しかも深々とボディのある音で鳴りきっている。そしてトッカータ!弾くことに汲々とした凡百の演奏などとは別次元の世界を見せてくれる。バカテクだけの剛腕でもない。フォルレーヌの玄妙な和音のつくり方なんか、もうため息もののバランスの良さだ。彼のリサイタルのチケットを買ってしまったことを後悔したピアニストは一体何人いたのだろう。

 

エルネスト・ブール / 南西ドイツ放送SO

51yaNMesYOL__SS280上記ジェルメッティ盤は入手困難と思われるので挙げておく。こちらもドイツのオーケストラ(バーデンバーデンのオケだ)ながらフランスの香気がただよう。ブール(1913-2001)はストラスブール音楽 院で学び、シャルル・ミュンシュに師事しストラスブール・フィル、歌劇場を経て上記オケ首席指揮者に就任したフランスの指揮者だ。ラヴェルを知り尽くした職人が紡ぎだすアロマは古き良き味があり、その上質の演奏をヨーロッパ調の良い録音で楽しめるのは値打ちがあり、僕は時々取り出して聴いている。

 

ピエール・ブーレーズ /  ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

41NcsSvNUnL妖しい光沢と光彩を放つ木管がかぐわしく、金管もブラッシーでなくラヴェルにそぐわしい。それらがほのかな倍音をまじえて精妙に交差するブーレーズCBS時代の音は上品なステンドグラスを見るようで、時に聴きたくなる。ただ、美しいがフランスのアロマは希薄で、弦がメヌエットでポルタメントをかけるなどブーレーズっぽくない表情を呈しており、春の祭典や海とはスタンスの変化を感じる。前奏曲主部の後半、チェロやファゴットの横の線がくっきり出るのに最初は驚いた記憶がある。それでもこういう音のする録音は他に求め難いのだから、オンリーワンの価値は永遠なのだ。

 

アレクシス・ワイセンベルグ(pf)

755大学3年のときに展覧会の絵と組んだLPを買い、ずいぶん聴きこんだ演奏。いま聴きかえしたが独特な感性で包み込んだクープランだ。速めの前奏曲はしかしほのかな色香をたたえ音色のパレットが豊か。フーガをこんなにきれいにすいすい流れるように弾いた人はいない。フォルレーヌはテンポが即興的に動くが渋みある和声をこんなに感じてならした人もいない。リゴードンには青い色が見える。メヌエットはなんと自分で弾くテンポではないか。これが刷り込まれていたことを知って驚いた。美しい。トッカータはしずしずと始まるが低音の強い打鍵をまじえ徐々に音楽は熱していく。微細なミスはそのままにライブっぽい感じもある見事な演奏。これは一聴の価値ある名演だ。

 

サンソン・フランソワ(pf)

230評判の高い演奏だが、繰返しがなく奏者の愛情がそうあったとも感じない。前奏曲は平板なうえに速すぎる。これでは香気をぜんぜん感じない。フーガはモノトーンで黒っぽい。フォルレーヌは遊んでおり即興的だが、フレージングが奇矯だ。リゴードン主題でいきなりテンポを揺らすのはアビー・サイモンもそうだが好きでない。中間部にひとつ音の変更があるのが意味不明だ。メヌエットにもある。なんじゃこりゃ、不快極まりない。トッカータはいきなり快速だが弾き飛ばした観を禁じ得ない。コンチェルトであれほど感涙もののラヴェルをやっているフランソワをこき下ろすことになるとは不幸なことだが、そうなんだから仕方ない。

 

ベルナルト・ハイティンク / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

MI0003008810誰もほめていないが、これは美しい。名演だ。75年のアナログ録音はいかにも典雅でオケのピッチとセンスの良さは最高級。中間色の微光を発する宝石のよう。フォルレーヌの付点音符の弾みなど品を損なわずに音楽に躍動を与えており、ハイティンクの趣味の良さを知る。メヌエットの中間部の盛り上げなどこなれていない部分もあるが、リゴードンの素晴らしいホールトーンとACOの名技を聴くと忘れてしまう。おすすめ。

 

アンドレ・クリュイタンス / パリ音楽院管弦楽団

837我が国オールドファンにとって、神格化され奥の院に祭り上げられた聖なる録音である。これを貶した人は寡聞にして知らない。しかし僕は聴いたまま正直に書く。冒頭のオーボエの切れぎれのフレージングは技術的なものかどうかともかくいただけない。ACOを聴いてしまうと管も弦も弱く今なら音大のオケのほうがよほどうまい。フォルレーヌのイングリッシュ・ホルンなど音程まで悪い。メヌエットは中間部の低い管のピッチがひどく、僕には耐えられないレベルである。リゴードンは縦線はほぼ無視。こういうファンダメンタル(基本)を欠いていて、フランスのエスプリだなんだといっても音楽というものは始まらない。高島屋、三越がヨーロッパだった時代の産物だ。

 

エルネスト・アンセルメ / スイス・ロマンド管弦楽団

595パリ音楽院Oを下手くそと言った評論家はいなかったが、こっちは言われた。同じようなものだが僕の趣味としてはこっちのほうが圧倒的に、いい。まずこの曲の主役といえるオーボエだが、この葦笛のような音色はいまや絶滅した貴種でありまさしく最高である。前奏曲の主題、フォルレーヌの中間部の高音、メヌエットの主題など聴いてほしい。ふるいつきたくなるほどセクシーで魅力的だ。そして冷静に進みながらもそっと香り立つ高貴なフレージング、管弦の音のブレンド、冷んやりした音色、和音の倍音の混合、安っぽいところが微塵もなく、こういうのを貴族的というのだ。クリュイタンス盤はもう聞けなくても何の悔いもないが、アンセルメ盤はブーレーズより上位にある座右の銘盤である。

 

ポール・パレー / デトロイト交響楽団

R-3906412-1362789938-7628_jpeg目隠しして聞かせたらこれが米国のオケと誰が見抜くだろう?今のフランスのオケなどこれよりずっとアメリカンだ。前奏曲のテンポは速いが、ギャビー・カサドシュ(ロベルトでない、奥さんの方だ)の録音が同じく速いのにオーセンティシティのオーラを放っているのと同じで、うーんこれだと唸るしかない。フォルレーヌも速くヴァイオリンがスタッカート気味だがこのテンポなのかもしれないなあ。中間部の色香はどうだ。メヌエットも速め。これは僕にはちょっと素っ気ないし管もいまひとつだ。リゴードンは超特急。元がピアノだと意識がある解釈だろう。後半が特に良いとは思わないが時代の空気を醸し出すパレーの棒に敬意を表したい。

 

シャルル・デュトワ / モントリオール交響楽団

51HCzI2fMML__SY450_録音のマジックではないかと疑われたほどオケがうまい。実物の幻想交響曲を聴いたが、本当にうまい。前奏曲はオーボエはもちろん木管がソリスト級の腕を問われる。金管も含めて管が「運動神経」を問われるのだ。そしてフォルレーヌでは弦が微細なピッチコントロールを問われる。指揮者はリズム感、音色感とそれらをまとめる耳を問われる。難曲だ。これはリゴードンの開始でファゴットが走るなど微細なものを除いて傷がなく総合点が高い。ただ、ジェルメッティ、アンセルメ、ブーレーズのような売りになる個性はなく特に聞かなくてはとも思わない。優等生的なのが欠点ともいえよう。

 

ゲオルグ・ショルティ / シカゴ交響楽団

zaP2_G5376041Wデュトワ盤をさらにしのぐ運動神経のオケだが前奏曲の弦などは完璧でもない(やり直すべきである)のが意外だ。フォルレーヌの中間部は和音の混合具合がどうもラヴェル的でない。誤解ないように書くが、僕はクリュイタンスを 讃美する人が「フランス的」とかエスプリというセンスにはまったく共感がない者だ。このショルティ盤は「フランス的」ではないが良い演奏である。ファンダメンタルが素晴らしく、音楽演奏にそれのほうがよほど重要というのは音楽鑑賞のファンダメンタルでもあろう。

 

ピエール・モントゥー / BBC交響楽団

753指揮者唯一のクープランの墓という意味で貴重な音源だから書いておく。フォルレーヌの弦はフレージングが甘くいい加減だ。メヌエットもオーボエを歌わせるし再現部の弦もロマンティックであり、モントゥーはこう読んでいたのかと意外な感じが残る。リゴードンも慎重な運びである。ライバルだったアンセルメよりはずっとおおらかであり、僕にとってはどこといって何も見るものはない。アンセルメの外科医のような眼のラヴェルが僕は好きなのだ。

 

モニク・アース(pf)

879テンポの揺れをおさえた古典的なフォルム。無用の装飾のない禁欲的なラヴェルが実に好ましい。フーガの2声、3声の見事な綾など彼女の大変に知的なセンスを見る。フォルレーヌの和声への感度も鋭敏。モニク・アース(1909-87)はマルグリット・ロンら作曲家同時代人の次世代だが正統派中の正統派だ。全曲、どこがどうのではなく傾聴するしかない。遊びがないといえばないが、それが無用なだけラヴェルが素晴らしい音符をかきこんでいるのだということがわかる。トッカータは彼女の技量が必要十分なこと(この曲においてそれは尋常なことではない)を明示する。最右翼であり歴史的価値のある名演として万人におすすめである。

 

ジャン=エフラム・バヴゼ(pf)

MI0001083445最近の人ではこれが印象に残る。ロン、アース以来のフランスの伝統に根ざしたピアノという感じがするからだ。前奏曲はほぼ文句なし。音色のパレットが多様だ。フォルレーヌがややタッチが生硬でデリカシーを欠いているのが残念だが和声への感性で許せる。リゴードンの技量の冴えも良し。メヌエットも砂糖菓子にならずルバートが控えめである。トッカータはやや速めだが破綻がほとんどない。スタジオ録音とはいえ見事だ。

 

ワルター・ギーゼキング(pf)

51B1qSroq5L徹底してギーゼキングの譜読みによるラヴェル。前奏曲はかなり遅め。イメージからは意外だ。フーガは陰影が巧みで最後はテンポがかなり落ちる。フォルレーヌは淡々。リゴードンも遅くミスタッチもありいまひとつだ。メヌエットは孤独で寂しげなのがユニークと言えばユニークだ。ゆっくりと一歩一歩踏みしめて歩くようなフレージングはあまり賛成できないが。トッカータでやっと普通のテンポになるが技術的に彼のクレジットになる出来とは程遠く、あんまり練習せずに録音したとしか思えない。なぜか昔からこれも世評が高いという不可思議な現象が我が国にはみられる。

 

アンジェラ・ヒューイット(pf)

974カナダ人でバッハが得意とくるとグールドの名が浮かぶがタイプがまったく違う。イタリアのファッツィオーリを使用、独特の光彩を放つ魅力的な録音になっている。前奏曲はバッハ演奏のキャリアが活きる。感心したのはフォルレーヌの和声だ。第19小節ppのfgheにバスがg-cと入るところ、それが下がってe♭fadにf-b♭と入るところ!こういう和音に「感じる」かどうかがラヴェル弾きの分かれ道だ。メヌエットの再現部のデリケートな味わいも美しい。ロマンティックだが品格を保つのが一流。難曲トッカータの粒立ちも満足で破たんは全く見られない。これはおすすめ。

 

まだまだたくさんある。ダイヤモンドの光輝はそんなに単純なものではない。また後日、折にふれて補遺していくことにする。

音を聴いていただきたいが、この曲はどういうわけかyoutubeのソースが限られている。オケ版はこれがなかなか美しかった。

 

(こちらもどうぞ)

ヘンリー・マンシーニ 「刑事コロンボのテーマ」

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

 

 

クラシック徒然草-ラヴェルと雪女 (ボレロ)-

2013 AUG 13 0:00:20 am by 東 賢太郎

ラヴェルを聴きたい。やっとそういう気分になった。その気分がやってくるのは僕の場合年中行事だ。いつもは春だが、今年はどういうわけかおとずれが遅かった。

ラヴェルはどこが好きかといって、よくわからない。どうして好きかというと、これもわからない。とにかくいい。高校時代にピアノ協奏曲やらダフニスやらをよく聴いたから、ほぼひと目ぼれだったろう。ウマが合ったということだろうか。ただ、ラヴェルとのおつきあいは、やっぱりウマが合っているブラームスなんかのとはずいぶん違う。というのは、ブラームスは人肌のぬくもりがあるがラヴェルの音楽はひんやりと冷たい。どんなに恋焦がれてもむこうは熱くならず一向に近寄ってもこない女性みたいな感じがする。ひょっとすると雪女かもしれない。いや、雪女がどんな姿かは知らないけれど、絶世の美女なのに人間の魂が、ハートが、なんともなく希薄という不思議な存在なのだ。

ボレロという曲がある。すごく小人数でしずしずと始まってずっとおんなじリズムとメロディーのくりかえしだ。あまりにおんなじなので、だんだん耳と意識がマヒしてくる。それがそのうち音がだんだん大きくなって、楽器の数も増えてきて、ふと気がつくと舞台は全員参加で音をはりあげている。そうして最後のところでキーがハ長調からホ長調に3つあがるとボルテージは一気にはね上がって、ついに金管の雄叫びがあがって雪崩のような大団円となる。客席はブラヴォーの嵐でものすごい興奮につつまれる。

ところがだ。このときいつも思うのだが、指揮者もオケも汗ぐらいはかいているが、どうもちょっと覚めているように見える。ベートーベンやマーラーを格闘して弾き終えたのと明らかに違う感じだ。ご本人たちがそう感じているかはともかく、スポーツを終えた感じ、中距離を走ってゴールインしたランナーを見ている感じに近いといったら言い過ぎだろうか。そういう雰囲気を察するとこっちも、なにか幻術にでもかかっていたような気がしてきて、そうして、ああ、あれは雪女だったんだということになるのだ。これをご覧いただきたい。

客席と舞台の温度差をお察しいただけるだろうか?リッカルド・ムーティー指揮のフィラデルフィア管弦楽団。僕が現地で2年間聴いていたコンビが85年に来日した時のものだ(youtubeからお借りしました)。このオケがのった時のすごさを見てしまっている僕として、これはずいぶん安全運転のテンポであり、名人たちが余裕しゃくしゃくで楽器のデモでもやっている風情である。ボレロとしてはかなりクールな、申し訳ないが平凡な部類の演奏といえる。非常に珍しいことにトロンボーンがとちっているが、こんなことは2年間でもほとんどなかったから貴重な映像だ(あそこは難所で有名なところ)。しかし、客席は興奮してしまう。雪女おそるべしだ。

 

ボレロというと、伝説がある。トスカニー二とラヴェルのケンカである。ボレロは1928年、ロシアの舞踏家イダ・ルビンシュテインの依頼で作曲された。トスカニーニはその2年後にニューヨーク・フィルハーモニーの欧州公演でこれをパリ・オペラ座で演奏したがそれを客席できいていたラヴェルは「速すぎる」と文句をつけ、トスカニーニは「あなたは自分の音楽がわかっていない。こうやるしかないんです!」とやり返した。すごいもんだ。トスカニーニは演奏に15分ぐらいかかるこのボレロを何回振っても1秒も狂わなかったそうだ。すごい。我が国では面白い試みとして大晦日の「東急ジルベスターコンサート」のカウントダウン曲として、過去18回中に4回これが使われた。曲の終了と同時に「新年おめでとう!」のはずだったが、4回やって2回は着地失敗している。

僕は浪人中によくお茶の水駅前の音楽喫茶で油を売っていたが、そこで衝撃を受けたのがトスカニーニのボレロだ。細かいことは忘れたが、ソ、ドとひっぱたくティンパニが腹に響いて、当時自分の家の装置からは絶対に出ない迫力に圧倒されたことをまじまじと覚えている。それがこれだ。

 

ラヴェルが怒るだけあってテンポは速い。だから演奏し慣れていないオケはかなり危ない。まずクラリネット。そしてトロンボーンはよれよれだ。しかし、これは吹きなれたフィラデルフィアの名手でもとちる。NBC交響楽団がヘタなはずはない。1939年録音だから作曲後11年ということもあるが、ラヴェルと口論してキレてしまったトスカニーニが37年までラヴェルを指揮しなかったから仕方ない。そして、これはよく聴いて欲しいが、テンポは非常によく動いている。調節しているとも思えないが、これで毎回同じタイミングになるのは神業だ。

最後に、雪女でも燃えることがあるという希少な演奏をみつけた。僕がカーチス音楽院でお会いする12年前のチェリビダッケだ。テンポはムーティとほぼ同じである。しかし、なんと若々しい!ホ長調になる寸前のすさまじい形相。あれでにらまれたらオーケストラも音で返すしかない。これをアップしてくれた人に感謝したい。

クラシック徒然草-チェリビダッケと古澤巌-

 

勝手流ウィーン・フィル考(4)

2013 MAY 6 0:00:52 am by 東 賢太郎

 

とりあえず思いつく僕のウィーン・フィルCDのベスト3です。

 

第1位 マーラー「大地の歌」 ブルーノ・ワルター指揮、キャスリーン・フェリアー(アルト) (52年)

097マーラー嫌いの僕ですが、この曲は時々聴いてます。しかしフェリアーの細かいヴィヴラートは実はあまり好みではなく、その分同じワルターの9番に気があったのですが花崎さんが挙げられたのでこれにしましょう。ウィーン・フィルの音というとこれが原点に近いからです。モノラルながら彫の深い良い音でオケの立体感もあります。それにしてもマーラーの愛弟子で当曲の初演者でもあるワルターの指揮は見事で「告別」(第6楽章)の最後は何度聴いても心を打たれます。47年にフェリアーがワルターと初めてこれを演じた時、そこに来て感動のあまり泣いてしまい、最後の”ewig”をついに歌えませんでした。謝罪されたワルターは「大丈夫ですよ。でも、もしあなたぐらいすばらしい芸術家ばっかりだったらみんな大泣きで大変だった」と慰めたそうです。

第2位 チャイコフスキー交響曲第5番 リッカルド・シャイー指揮

yamano_41080703321980年、イタリアの俊英で弱冠27歳(!)の若造(失礼)だったシャイーのこれがデビュー盤でした。これを初めて聴いたときの電気が走ったような感動はまだ覚えています。テンポは伸縮自在、強弱は外連(けれん)を尽くし、主題はくっきり。ちまちました交通整理などどこ吹く風。欲しい音はエンジン全開で引き出す。歌う。若さの勝利です。おじさんには恥ずかしくてできません。それに興味を示したのか、最初は素っ気ないネコのウィーン・フィルがだんだん面白がって本気になって・・・そういう感じなのです。白眉は第4楽章でしょう。音を割るホルン、むき出しのトランペット、綺麗ごとでなく吠えるトロンボーン、ガツンとくるティンパニ、木管が原色の音丸出しでノッているのが分かり、弦セクションは体をゆすっている(はず)。ネコが完全に本気になって疾走するコーダのものすごさ。これをチャイコ5番ベスト3に入れるのに躊躇は全くございません。こんなウィーン・フィルをライブで聴けたらなあ!

第3位 ラヴェル バレエ音楽「ダフニスとクロエ」(全曲) ジェームズ・レヴァイン指揮

51NxLnYtHPL__SL500_AA300_アメリカ人のウィーン・フィルによるフランス音楽。85年録音で、この頃から非ドイツ系レパートリーが増えていましたね。ベームのもっさりした火の鳥なんかのイメージがあり期待せずに買ったCDですが、何故か(?)とても上手い。こんなヴィルトゥオーゾ・オーケストラだったっけと驚きました。ただ、モントゥー、クリュイタンス、マルティノン、デュトワ、ブーレーズなどの色香や洗練とは味わいが異なり、ラヴェルのイディオムを弾き(吹き)慣れていないオボコい感じがあるのが好きでたまに聴いています。遠近感、合唱の扱い、メリハリは舞台を感じさせ、オペラ指揮者と歌劇場管弦楽団の相性を感じます。それでも弦の暖かい音色や木管の色彩はまぎれもなくウィーン・フィル。ぞくぞくするほど美しい。デリケートな部分ではフランスのオケにはない官能性を感じますが、どこか貴族的でもあります。たまに違った遊びをやるとネコは喜ぶのです。

 

以上ベスト3ですが、あれを忘れてた、こっちもいいぞというのがまだまだあります。花崎さん、ぜひ続編もやりましょう。

 

勝手流ウィーン・フィル考(1)

ラヴェル「ダフニスとクロエ」の聴き比べ

 

お知らせ

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勝手流ウィーン・フィル考(3)

2013 MAY 5 11:11:10 am by 東 賢太郎

最初にウィーン・フィルの実演を聴いたのがいつどこで何だったか、どうも記憶にありません。

1676305416_4da46769a0オペラとしては83年夏にウィーン国立歌劇場でホルスト・シュタイン指揮の「パルシファル」でした。当時、曲を知らなくてあまり感動はありません。85年にロンドンでマゼールのブラームス1番と火の鳥、オケとしてはこれが最初だったかもしれません。僕は80年代以降のマゼールはあんまり好きじゃなく、これもつまらなかったですね。94年フランクフルトでのマゼールのメンデルスゾーン4番も印象が残っていません。92年にはシノーポリと来日してマーラー1番とドン・ファン。NHKホールの音もさえず、ドン・ファンのオーボエ部分の異様な遅さなどオケのいじめにでもあってるんじゃないかと思うほど生気がなく、誰がやってもブラボーであるマーラーも珍しい冷めた演奏でした。この1番、2年後にフランクフルトでマゼール指揮でも聴きましたが、これもだめ。このオケ、巨人が嫌いなんじゃないかと本気で思いました。

1124484793257o真価を感じたのは、ニューイヤーコンサート以外では以前書いたロンドンでのプレヴィンのハイドン。それから94年にフランクフルトでのムーティのベートーベン8番とチャイコフスキー5番。83年のザルツブルグ音楽祭でのカラヤンのばらの騎士、やはり96年ザルツブルグ音楽祭でのマゼールのダフニスとクロエとベートーベンのヴァイオリン協奏曲、というところでしょうか。確かハイドンのアンコールで、打楽器の人が嬉しそうに小太鼓を運び込んでやったJ・シュトラウスのワルツ、何だったかは忘れましたが、これが自家薬篭中という風情でノリまくり大変良かったのも印象にあります。

以上のようなものですから、どうもこのオケの実演ということでは僕は割とハズレが多く、ネコが真剣にならないイメージの方が強いのです。ただ、ハズレの時でもこのオケの音色美はいつも堪能していますから因果なものです。それだけで普通の客は満足だろうと高をくくられても仕方ないぐらい魅力的な音なのですから、ネコ型にもなろうというものです。

このオケを味わうならウィーンへ行って、ムジークフェラインで聴かないとというのが僕の今の結論です。ネコが遊びを選ぶように彼らはハコを選ぶのです。NHKホールやサントリーホールの音響で彼らが本気になるとは到底思えません。ベームの時(75年)は聴衆の安保闘争なみの異常な熱気で目覚めましたがあれは例外でしょう。ニューヨークでも、格段にひどい音のリンカーン・センター(エイブリー・フィッシャーホール)じゃあだめです。あそこでこのオケが弾いている姿を想像さえしたくありません。ワシントンDCのJFKセンター、あのホールでもチェコ・フィルは懸命にいい音を出しましたがウィーン・フィルは無理でしょう。フランクフルトのアルテ・オーパー、あそこは一見音がよさそうに見えるホールなのですが、大したことありません。ドレスデン・シュターツカペレの弦ですらしょぼい音でした。だからウィーン・フィルはやはりあまり真価は出してくれませんでした。それでいいんです。超美人ですから顔を出すだけで普通の客は喝采するのです。

ということで、他のオーケストラはともかく、ウィーン・フィルが来日しても、僕は絶対に聴きません。金の無駄です。いいオーディオ装置で、ムジーク・フェラインかゾフィエン・ザールでの録音を聴いた方がよっぽどいい音がするからです。

それでは次回、僕が好きなウィーン・フィルのレコード、CDをご紹介しましょう。

 

勝手流ウィーン・フィル考(4)

 

 

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