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カテゴリー: ______ラヴェル

ラヴェル「ソナチネ」(聴き比べ)

2015 JUN 30 1:01:16 am by 東 賢太郎

断食をすると甘味がほしくなります。たまにご褒美でスイカを食べると、これが半端でなく甘い。空腹は最高のソースである、英国の諺を地で行く体験です。

こころに甘味があるかないか。こういうことをいつも感じていたのかどうかは定かでありませんが、さっき本当に久しぶりにきいたこれですが、甘く感じるのです。心や頭の味覚?ラヴェルは僕には糖分か必須アミノ酸であって舌ならぬ耳が求めるのかもしれません。

出会ったのはこれです。故アリシア・デ・ラローチャ女史は香港でリサイタルに行きましたが、多忙な時でしかもプログラムをなくしてしまい、何をきいたか忘れてしまった。もったいない話です。

彼女のラヴェルは初ですが、これは実にすばらしい。なにも目立つことはしていませんが銀の上品な微光を放つ真珠のようです。

これは名曲中の名曲です。ラヴェルのというよりクラシック音楽のマストアイテムであります。ご存じない方はこれを何度も聴いて覚えましょう。

 

以下はピアニスト、通向けです。

ひとつだけ気になること。最後のこれですね、フェルマータでないですが伸ばすかどうか、そして、より重要なのは、伸ばすのに左手の重嬰ト(gisis)を残すかどうか?細かい話ですが、この音で曲を閉じるわけだからどうでもいいとはいかないでしょう。

ravel

ラヴェルはあえてfffを再度書き込んでおり、この音ブロックが一個の塊として一気に、決然と弾かれることを求めているように見えます。しかもアルペジオ(これは固有の音価のない前打音である)のスラーが最後の四分音符にまで及んでいる。したがって、gisisを残してペダルを踏む人が多い。ラヴェルの権威で出版譜の校訂者である中井正子さんの演奏もそのようです。

しかし

①ペダル記号はない

②高いaisだけタイがある(前打音保持を明示)

③他5音は新たに弾いて、その新たな6音だけを伸ばすように書いてある

④ais以外の前打音を指示なく主音と混ぜることは常識として考え難い

以上より、gisisは消すべきです。

しかも最後の小節にあえて四分休符を2つ書いてますから、

⑤最後の四分音符の音価は「長くは」伸ばさない

ことを明示しています。

では、ラヴェルに習ったか、習った人に習った6人の演奏をきいてみましょう。

四分音符を伸ばさないのはサンソン・フランソワ、ロベール・カサドシュですがgisisが聴こえる。ジャン・ドワイアンは長く伸ばしてgisisは入れたまま、ジャック・ルヴィエはやや伸ばしてgisisは消している。マルセル・メイエとヴラド・ペルルミュテールは長めに伸ばして、アルペジオのペダルで最初はgisisが聴こえるが最後はペダルを離して消える。

ラヴェル自身の第3楽章の録音は残っておらずどれが正しいかはわかりませんが、これはピアニストのご意見をうかがいたいものです。ちなみに、①-⑤を守っている、すなわち楽譜に最も近いのはジャック・ルヴィエであります。

細かいことですが、こういう曲尾の一音、すなわち曲全体の後味を決定づける一音に神経を使わないピアニストの譜読みというのはどうなのかなと僕は考えてしまいます。

どうしてそんなことにこだわるの、変な奴だなと思われるでしょうが、何と思われようと僕には伝統芸能とはそういうものだという哲学があるからです。それはここにも書いてあります。

  クラシック徒然草-ブラームス4番の最後の音-

 

こういう「形」を無視して聴衆に取り入ろうとする演奏家は作品を食い物にする芸人であり、僕がそういう人を支持することは一切ありません。

ちなみに上掲の ラローチャはアルペジオで踏んだペダルを離してgisisを消しているようです(ペルルミュテールと同じ。満点ではないがかなり点は高い。だから載せました)。

以下に僕がよく聴くCDをレファレンスとしてあげておきます。

 

モニク・アース

場面場面で感情にそってテンポが揺れロマンティックといえるでしょう。ややねばった表情と音色の質量がこの曲のフランス的な軽みと異質ですが安手の感傷に流れることなく、タッチそのもの(特に高音)はクリア、透明であり不思議なバランスをとっています。最後はaisがかなり長く残り、gisisは消します。これは見識だ。

アンヌ・ケフェレック

解釈はやや常套的ではあるが上品。この上品さだけは価値がある。第2楽章は遅めにとり2度の和音のスパイス、分散和音のきらめきに意を用います。終楽章はタッチのきれで語るなど色彩のパレットが豊富。良い意味で聞かせるプロフェッショナルでありますが読みの深さはなし。gisisは明確に残ります。だめですね。

セシル・リカド

冒頭から幻想味あるゆらぎ。テンポも表情も個性的で彼女の感性にシンクロできるかどうかで評価は分かれるでしょうが僕は大シンパです。この曲が欲しいときにピタッとはまるのはこれ。リカドは和音のつかみかたひとつとっても理想的、最高ですね。第2楽章など各音がこうでなくてはという絶妙のバランスで調和しています。最後は長くてgisisを残してしまっている、うーんこれが惜しいが。ただ、好きだから弾いている、モチベーションが明確です。芸術家ってそれが当たり前と思いますが、そういう人は実は少ないかもしれません。

ジャック・フェヴリエ

ピアノの音からすばらしい。金色がかった中高音。第1楽章の強弱のメリハリ、ソプラノの弾き分け、アルト、テノールのさざめきや第2楽章の盤石のテンポはやっぱりこれでしょうというもので、音楽に内在している必然が自然に出ている感じ。終楽章は技術の限界を見るが、そういうトリビアルな御託をねじふせる真打最右翼の一枚。

サンソン・フランソワ

第2楽章の左手はどうしてこうなのか。彼は世評ほどフランス代表というイメージではなく、むしろ譜読みがユニークなピアニストです。フレージングや声部の浮き上がらせかたや和音のバランスもそう。終楽章はペダルを押さえて乾いたタッチで弾ききりますがこの技術は凄いと思う。最後の音もさっと切り上げるこの感性!常套的にきれいな演奏のレベルを突き抜けた鬼才の音楽。

マルセル・メイエ

リカルド・ヴィニエス、マルグリット・ロンの弟子です。高音の明るい音色が冴えます。第1楽章の飾り気ないインテンポはいいですが繊細さはやや欠けます。第2楽章はいいテンポで表情も色彩も最高。終楽章はうまい。このタッチと声部の弾き分けは音楽に立体感を与え魅力的です。

マルタ・アルゲリッチ(DG)

これは和声に良く感じて大変に美しい録音です。第2楽章のppのタッチのデリカシーも特筆もの。周到な準備を経て録音されたのでしょう、彼女の美質が全て出ている。終楽章の指の回りは全盛期を思わせ実にすばらしい。最後の音の処理も、伸ばしすぎずgisisは控えめで最後は消しています。これはルヴィエに近く、最も違和感がありません。

アビー・サイモン

ホロヴィッツが出てこない以上、技巧ということでこれに勝るものはなし。その余裕から生まれるソノリティと和声の見事なバランスは決定的なアドバンテージです。この位ピアノが弾けないと絶対に出ない味というものはあるのです。その分仄かな詩情は薄くイヴァン・モラヴェッツとは対極の演奏でしょう。最後の音はやや長めでgisisは残ります。

ヴラド・ペルルミュテール

彼はライブもこの音でした。19世紀フランスのサロンを思わせる。暖色系で煌めきは一切ないが打鍵が重くなく(モーツァルトを弾くようだ)高貴なポエジーが浮かび出る。晩年の録音で技術があぶないが、すべての音が求めるところにしっくり収まる、この安定感はなんだろう?ラヴェル直伝。彼が弾いている幻想を追うならこれでしょう。真打です。

ジョルジュ・プルーデルマッハー

著名ではないが全集はレベルが高い。知情意の見事なバランス。ソノリティへの微視的なこだわり、タッチの色分けによる対位法(ほぼ感じない曲だが)の目線、濁りのまったくない和音、ただならぬうまさながら技巧が前面に立った恣意性や人工臭がなく、あらゆる意味でこの曲が最も見事に弾かれた一例でしょう。ただしgisisは完全には消えません。

ロベール・カサドシュ

冒頭よりメロディーと伴奏が平板に混然と鳴り、技術も際立つものはなし。しかしこの演奏、ベルエポック、我が国なら大正浪漫とでもいおうか、えも言えぬ高雅な香りを放つ。第2楽章も飾り気なしの清楚な貴婦人のたたずまい。終楽章はこれぞAnimeであり、このテンポで旋律と細部を重層的に弾き分ける名人芸はすごいのひとことです。

ジャン・ドワイアン

ペダル控えめな乾いたタッチ。始めはそっけなく味わいに欠けるようにきこえ、この良さはなかなかわかりにくいでしょう。フランスのガヴォーという楽器で、僕が弾いている旧東独のアウグスティン・フォスターと色は違うがローカルな味わいの濃さは似てます。この旋律線のふくらませかた、緩急、強弱の間と呼吸は時代の空気でしょうか。

 

以下はyoutubeで聴けるものです。

 

ワルター・ギーゼキング

この人の全集も名盤とされますが、ソナチネはさらさらと流れる良さはあるものの彫琢がいまひとつです。ギーゼキングの初見力は伝説的で、これも譜面を見てさっと録音できたのかなと感じないでもありません。最後は単音でgisis含んだまま終わります。

アルフレート・コルトー

大きなテンポの揺れはほとんど必然を感じず、技術はかなり弱い。コルトーは左手の協奏曲を両手で弾きたいと申し出てラヴェルに却下されました。これではあれは弾けないだろうなという体のモノ。単音であっさり終わる。

マルタ・アルゲリッチ(ライブ)

第1楽章の速さ、元気の良さ、これはラヴェルを感じません。夜陰にほのかにうかぶ淡く青白い光のようなものが皆無。あっけらかんの真っ昼間ですね。リストみたいになだれこむ終結はgisis鳴りっぱなしの長押し。だめです、これは。どうしちゃったんだろう?

パスカル・ロジェ

キレイですが霊感に欠ける。最近こういう高級マスクメロンみたいなラヴェルが多いですね。ロジェはプーランクはいい味を出していますがラヴェルは和音からしてらしくないです。セシル・リカドのように感じ切ってないのでまったく魅力なし。最後のgisisは大変耳障りである。

ミンドル・カッツ

これは大変にレベルが高い!70年代に廉価版のLPできいたことのある名前でしたがこれは驚くべき名演で大発見でした。タッチ、技巧、音楽性ともまったく文句なし。ラヴェルの地中海的な感性に光をあてたものとして最右翼でしょう。最後は長く保持してgisisを消しています。さっそくi-tunesで購入。

フリードリヒ・グルダ

これは面白い。第1楽章は副主題が速くなったりききなれないフォルテがあったりしますが意外に普通です。第2楽章のデリケートで凝った造りはなかなかいい。終楽章の音色の使い分け、高音のタッチのクリアネスも見事です。最後は短めでgisisはほとんど聞こえもしないのもユニーク。

イヴァン・モラヴェッツ

この人は何を弾いてもタッチに気品があります。原色ではなくかすかにグレーがかりますがこの味わいは実に捨てがたい。詩情、デリカシーも申し分なし。地味で高級な工芸品の趣ですね。このソナチネもトップランクの名品、大発見です。最後は長く、gisisはほとんどきこえない、グルダと同じです。これも購入決定。

クララ・ハスキル

録音のせいでしょうか楽器の音がラヴェルでないですね。彼女の和音のバランスも中音が勝ってドイツ物風です。終楽章はアルゲリッチやメイエを聴いてしまうと魅力がありません。短めに切り上げますがgisisは鳴っています。

シューラ・チェルカスキー

遅めで副主題もほぼインテンポの第1楽章ですが崩しも入る。第2楽章の和音のつかみ方はロマン派風です。終楽章のテクスチャーの解きほぐし方は一家言あり。個性で弾ききっておりあれこれ言うのも野暮という風格です。最後は消さずですね。

 

後に追加します

(こちらをどうぞ)

ラヴェル 「夜のガスパール」

 

 

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プーランク オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲 ト短調

2015 MAR 15 22:22:00 pm by 東 賢太郎

プーランクの歌曲、歌劇、ピアノ曲をたどってきたが、ドイツのお家芸である交響曲と協奏曲もこれまた素晴らしいのだ。前者は大仰なロマン派風でなく、やはり軽妙洒脱な「シンフォニエッタ」がある。後者は二台のピアノ、チェンバロ(田園のコンセール)、ピアノと18楽器(オーバード、朝の歌)、そしてピアノ協奏曲嬰ハ短調である。

僕の場合、オルガン協奏曲というとヘンデルでもハイドンでもない。サンサーンスの3番の交響曲もオルガン入りで有名だが、どうも軽い。サンサーンスという人の曲はこれに限らず、耳の悦楽にはなるが深みも意味も感じず苦手である。

なかでも「オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲」はプーランクの傑作のひとつであり、僕が最も好きな曲のひとつである。この曲はポリニャック公夫人ウィナレッタ・シンガー(1865-1943)の委嘱によって生まれた作品だが、彼女は日本でも有名な「シンガー・ミシン」の創業者アイザック・メリット・シンガーの娘で芸術家のパトロンであった。

彼女に献呈された曲はラヴェルの「なき王女のためのパヴァ―ヌ」、フォーレの「ペレアスとメリザンド」、委嘱によって生まれた作品はストラヴィンスキーの「狐」、サティの「ソクラテス」、ファリャの「ペドロ親方の人形芝居」があり、彼女のサロンでストラヴィンスキーの「結婚」「兵士の物語」「エディプス王」が初演されている。

フランス最大の化学会社「ローヌ・プーラン」の創業者の孫であるプーランクはこの曲と「2台のピアノのための協奏曲」を委嘱されて書いている。富豪のパトロンと作曲家。金持ちがバブル紳士ではないパリの芸術風土のなせる技だろう。芸術がセレブな環境から生まれるとは限らないが、彼女の金の使い方は何かを創る。理想的と思う。

「オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲」の作曲中に、親しかった作曲家ピエール=オクターヴ・フェルーが1936年にハンガリーで事故死した。深い悲しみに沈んだプーランクはフランスのキリスト教の聖地であるロカマドゥールに巡礼の旅に出たが、そこで新たに信仰心を深めた影響がこの協奏曲にあるとされている。

ちなみにフェルーの交響曲イ長調をぜひお聴きいただきたい。彼と会ったプロコフィエフが友人への手紙でこの作品は一見に値するとほめている。素晴らしい音楽であり、フローラン・シュミットの高弟であったフェルーの死は実に惜しい。

さて「オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲」である。この曲にはプーランクの明るいゲイな音造りと宗教的な暗く重いタッチが交差している。彼自身が両者のミックスであり複雑な人だったようだがこの曲はそれを象徴している。管楽器は一切用いず弦5部のみだがオルガンの多彩な音色がそれを感じさせない。サンサーンスの3番でのオルガンは管弦楽に付加したものだがここでは内部に組み込まれている。

ティンパニは冒頭の弱音でのh,dの短3度が印象的である。この楽器は完全4度、5度、8度のチューニングで和声のバスを補強することが多いが、3度の場合もある。幻想交響曲の長3度、春の祭典の短3度でもそうだが、後者が特に物々しいというか、おどろおどろしい感じを受ける。ここでもそれがオルガンで強化されて多用され非常に効果的だ。

楽曲構成は単一楽章であるが3部から成っており、第1楽章が序奏付アレグロ、第2楽章がアンダンテ・モデラート、第3楽章がアレグロ-レント-アレグロ-ラルゴ、の3楽章形式と考えることもできる。ドイツ流の四角四面な形式論理に淫しておらず、楽想と展開も自由度が高い。完全な和声音楽であり38年と第2次大戦前夜の曲にしてはレトロな感じはあるが、その和声の使い方は非常に個性的と思う。

僕がこの曲に惹かれているのは正にその和声のプログレッションだ。全く唐突な例を出すが、昔よく聴いていたポップ・ジャズ・トランぺッター、ハーブ・アルパートのライズというアルバムにBehind The Rainという曲がある。これ、ハ短調の主部はどうということないが、サビの部分のコード進行は僕に衝撃をもたらした。

Cm、C#、Cm、B、B♭m、B、C#、D ・・・・これはもう和声理論もへったくれもない妙なものだが、僕の中で強烈な化学変化を起こす。誰にでもそうとは思わないが・・・、こういうものはハーブ・アルパートの中でも起きていたのだろう、だから彼はそれをストレートに書いたのであり、そうじゃない人がいるかどうかは芸術家は問わない。

同じようにストレートに書こう。「オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲」のテンポ・アレグロ、モルト・アジタートの終わりの方、cis-c a|h- b g |a -gis f|g -fis dis|f-のメロディーにA, D7, G, C7, F, B♭7, E♭7, A♭, D♭というコードがついているパッセージは「和声の雪崩(なだれ)」である。Behind The Rainとは違うが、僕の頭には非常に似たエフェクトをもたらすものだ。この曲はスコアを持ってないので耳コピだが、ご関心のある方は弾いて、聴いて、確かめていただきたい。

こういう和声は僕の知る限りプーランク以外の誰も書いていない。イノベーターであり、あまりに個性的であるため模倣者が出ないのはモーツァルトと一緒だ。しかしアルパートを聴くと、プーランクの感性はポップ、ジャズの世界にDNAを残したんじゃないかと、なにか安心する。ジョージ・ガーシュインがラヴェルに習いたかったこと、それはかなわなかったが彼の管弦楽曲にはフランスの和声が見える。ドビッシー、ラヴェルなのかもしれないが、メシアン、ブーレーズの路線に行かなかったもう一方のフランスだ。

演奏について書いておく。シャルル・ミュンシュ / ボストン交響楽団(RCA盤)が有名で代表盤に挙げられるが、これはメリハリがあるのはいいが静寂な部分の神秘感がうすく、エゴが強すぎて宗教的なタッチが後退しているため僕はあまり好きでない。

小澤征爾 /  サイモン・プレストン(org) / ボストン交響楽団

uccg-4779_qrA_extralarge小澤さんの感性はフランス近代音楽にぴったりと思う。音楽の見通しが良くてリズムは立っている。最初のアレグロの弦のアンサンブルのうまさ、さすがBSOである。この颯爽としたスマートさはプーランク演奏に不可欠と考える。妙なエゴや野暮ったさは無用なのだ。肝心の和声への指揮者の感応も鋭敏でオーケストラによくそれが伝播している感じがする。ボストン・シンフォニー・ホールのあの音が見事にとらえられた録音も魅力。ここの特等席は本当にこういう音がする。

 

ジョルジュ・プレートル/ モーリス・デュリュフレ(org) /  フランス国立放送管弦楽団

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「レクイエム」で有名な作曲家兼オルガニスト、モーリス・デュリュフレはこの曲の作曲に当たりプーランクにオルガンのレジストレーションについて助言を与え、初演のオルガニストをつとめた。さすがに音色の弾き分けは上記のプレストンより絵の具が多い。オーケストラは管楽器がないためフランスの香りは特に感じないが、この曲を自家薬篭中としたもの。これはレファレンス盤とされるべき名演である。

(こちらへどうぞ)

Abbey Road (アビイ・ロードB面の解題)

アンタッチャブルのテーマ(1959)The Untouchables Theme 1959

ベルリオーズ 「幻想交響曲」 作品14

デュトワとN響のプーランクを聴く

 

 

 

 

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クラシック徒然草-カティア・ブニアティシヴィリ恐るべし-

2015 JAN 31 18:18:44 pm by 東 賢太郎

先日、ラヴェルのマ・メール・ロワを書きながらyoutubeを見ていたら、こんな演奏にあたった。ラヴェル 「マ・メール・ロワ」 の最初の楽譜(第3曲 「パゴダの女王レドロネット」)を見ていただきたい。

とても速いテンポで始まる。それが中間部に入るや第二ピアノの女性がすごいブレーキを踏んで、完全に集中して自分のペースに持ち込んでしまう。相手はいまやピアノ界の大御所、天下のマルタ・アルゲリッチ様である。この女性は何者だ?

関東の女性の方からボレロについてメールをいただいたと書いたが、そこに「グルジア人でKhatia Buniatishviliという現在27才の大変美しいピアニストがいます」とあった。まったくの偶然だが、タイトルを見てみるとこの第二ピアノの女性こそがまさにそのカティア・ブニアティシヴィリだった。

さっそく他の演奏を聴いてみる。このブラームスの第2協奏曲には仰天した。見事に曲想をつかんで弾けている。しかし第2楽章で同じミスタッチを何度もする。圧巻は終楽章のコーダに移る部分。完全な記憶違いで音楽が止まってしまい会場が凍りつく。本人も驚いてすぐ弾きはじめるが、大事な経過句をぶっとばしたかなり先だ。オケがついていけずしばし独奏状態となるが、やがて事なきを得て終わる。

なんともおてんば娘だが、それでも満場の喝采をうけ、オケも祝福している。これは彼女21歳のルビンシュタイン国際コンクールの映像で、第3位に入賞している。いや、その年でこの曲を弾けているだけでも普通じゃない。そして大チョンボをしでかしても周囲を応援団にしてしまう。この子はものすごいオーラを持って生まれている。

このシューマン、かなり恣意的だが説き伏せられる。終楽章のテンポなど僕は容認できないが、頭はそう思っても最後は拍手している。そしてアンコールのリストを聴いてほしい。指揮者もオーケストラ団員も一人残らず彼女の世界に引きずりこまれ、息をひそめて彼女の「聴衆」になってしまっている。こんな光景はなかなかない。

このグリーグは参った、降参。これは男には描けない究極のフェミニンな世界だ。それにこんな風に視線を送られたら指揮者も彼女に指揮されてしまうしかない。ちなみにこの指揮者はここで絶賛したトゥガン・ソヒエフだ( N響 トゥガン・ソヒエフを聴く)。彼も彼女もグルジア人。スターリンを出した地ではあるが、才能の宝庫でもあり、一度行ってみたくなるばかりだ。

終楽章のコーダは傑作である。ピアノが猛スピードで突っ走って指揮者がえっという表情を浮かべ、オケのトゥッティでいったんテンポを引き戻す。しかし火がついてしまっている彼女は駆け登るアルペジオでオケより先に頂上に行きついてしまい、最後を2度くりかえして帳尻を合わせる。最後の和音連打はもう早くしてよと催促し、最後のイ音を思いっきり連打して溜飲を下げて終わる。こんなのは普通ありえないが、彼女のヴィジュアルを含めた総体が発する強烈なオーラがそれを正当化してしまい、ご愛嬌になってしまう。これはこれでひとつの芸だ。

スタジオで録音されるためのミスのない、きれいに整えることを目的としたような演奏はほんとうにつまらない。スーパーに並ぶF1のパック野菜のようだ。カティアの産地直送とりたて丸かじりはそれに対する新鮮で野性味あふれるアンチテーゼだ。少々トマトの形が不ぞろいでもいいじゃないかということで、彼女のたくさんあるミスタッチは勢いに飲みこまれている。このままだと、彼女が有名になればなるほど賛否両論が出てくるだろう。

ベートーベンにピアノを教わったチェルニーは「たとえミスタッチが無くても、義務的な気のない弾き方をすると怒られた」と書いている。逆に自発的で気の入った生徒のミスには寛容だったそうだ。そういうことだろう。上記ブラームスも、彼女は曲を良くつかみ、共感し、曲に「入ってしまっている」ことは争えない。2番を女性が苦労して弾いている危うさが全然ないのであって、じゃああのミスは何かといえば、第2楽章も第4楽章も技術不足ではなく記憶違いだ。つまりスコア・リーディングの問題である。

この破竹の勢いでモーツァルトやベートーベンを弾いて今すぐ世界を納得させられるかというと疑問だが、スコア・リーディングは学習と共に人間の内面の成熟にも関わることで、時間が解決するのではないか。それよりも、彼女の持っている天真爛漫さ、集中力、聴くものを金縛りにする吸引力といった、訓練によっても時間をかけても獲得できるとは限らない天性のほうを買いたい。1987年生まれの27歳、恐るべし。

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ブニアティシヴィリを初めて聴く(2月18日、N響B定期、サントリーホール)

 

東京一と思ってる世田谷の鮨屋でのこと。ユーモアのセンス抜群の脳外科医の先生が、ちょっとほろ酔い加減で、「知ってます?大きな声じゃいえませんがね、ここのスシはね、親父がこっそり麻薬いれてるんですよ。だからときどき食いたくなって困るんです。」とわりあい大きな声でおっしゃって、親父も客も爆笑。たしかに、また来たくなる味なのだ。

今日初めて実物を見た彼女、それを思いだした。曲はシューマンのコンチェルト。ビデオで見た通りの美貌だ。たまたま同曲の画像を本稿に貼ったがひょっとしてドレスは同じものか?(すいません、女性の服はあまり見分けがつかないので)。しかし「麻薬」はそれじゃない。

満場を金縛りにするピアニッシモの威力のほうだ。

オケの一撃に続き、脱兎のごとく下るピアノの和音。クララ主題は触れればこわれるほどひっそりとデリケートに奏でる。このピアニッシモが電気みたいに痺れる。くせになる。この人、静かになるとおそくなり、大きくなるとはやくなる。その静かなところの吸引力たるや、ブラックホールみたいだ。

と思うと、最後に急にアッチェレランド(加速)してそのまんまポーンとオケにぶん投げる。オケはあらぬ速さで受け取ってしまい、早送りの画面みたいにあくせく弾く。それを楽しんでる風情だ。カデンツァもゆっくり弾きこむと思いきや、中途でいきなりトップギアが入る。テンポは常に生き物みたいに流動。こういうのは男性ピアニストがやろうものなら、お前、今日ちょっと大丈夫?っていう性質のものだ。これは僕がかつて聴いた、ボラティリティ(振幅)最大のシューマンである。

男はこういうイロジカルな情動はあんまりないし、ついてもいけない。指揮者(同じパーヴォ・ヤルヴィだ)はじっくり彼女とアイコンタクトして合わせてしまうからフレキシブルなこと称賛に値する。圧巻は第3楽章だ。ビデオも快速だがこんなのかわいいもんだ、今日のは驚天動地としか言いようもない。僕の人生で、いやもしかして人類最速のシューマンだ。仮にだが僕が指揮者だったら?ごめんなさいと棒を置いて家に帰るだろう。ピアニストが男だったら?なんじゃ、おい、それはラヴェルか、ええ加減にせいと棒を投げつけるだろう。

腕前はフォルテのタッチが荒っぽく、緩徐楽章に一音だけ変なのがあったが、まあうまい。しかしこの人をクラウディオ・アラウやユージン・イストーミンと比較はできない、女性の子宮感覚みたいなものかもしれないし、女性であってもマイラ・ヘスやアニー・フィッシャーと比べてもナンセンスだろう。伝統とか様式とか思考という言葉や概念を超越した、感性のピアノだ。

その演奏スタイルが彼女なりにビデオより格段に自由自在に操れるようになっており、手の内に入っている。なりふりかまわぬ我が路線で、現在進行形で進化しているようだからやはり恐るべしだ。しかし、魅力的なところもたくさんあったのだが、暴れ馬に結局ふり落されたまんま終わってしまった感じが残る。残念ながら不完全燃焼だった。 会場もブラボーは飛んだが僕と同じ思いの方も多かったのではないか。

そしてそおっとひそやかに始まったアンコールのドビッシー「月の光」。

したたかな女性はちゃんと自分のチャームポイントを心得ているのだ。緩急自在、伸縮自在のピアニッシモの嵐!もうシューマンは忘れ、忘我の境地に入っている自分を発見する。やっぱり麻薬にやられてしまった。

 

(その前後の演目、R・シュトラウスの変容とツァラトゥストラについて。後者は並みのオケだと音がだんごになって濁りがちな部分があるが、まったくなし。23パートのソロ・アンサンブルである前者は言うに及ばず、この日は良いピッチで透明感のある弦がまことに効いており、その純度が管にも伝播しているようだった。何度もしつこく書いてきたことだが、この日はコンセルトヘボウ管弦楽団のコンマスであるヴェスコ・エシュケナージがそこに座ったのだ。ヴァイオリンのみならず、弦の質感が違う。ネロ・サンティもそうだったがヤルヴィも、おそらく、そう感じているのであり、ワールドクラスの音を作ろうという強固な気構え、コミットメントが見える。本当に良い指揮者を迎えたと思う。このツァラトゥストラはかつて聴いた最高の名演であり、世界に問うてN響の名誉になるクオリティの演奏だった)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ラヴェル 「マ・メール・ロワ」

2015 JAN 28 21:21:42 pm by 東 賢太郎

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この曲を知ったのはやっぱりピエール・ブーレーズのLP(ジャケットは右)で、大学時代のことだ。春の祭典、ペトルーシュカときて、前後関係は忘れたが火の鳥、ダフニスあたりと同じ頃に虜になっていた。光彩陸離たる響きに一気に引きずり込まれ、以来今に至るまで僕の中で絶対の魅惑と気品をもって君臨し、シンセで自分演奏版をMIDI録音するまではまり込むことと相成った。

この曲、楽想の高貴なたたずまいもあるし、マ・メール・ロワ(Ma Mère l’Oye)というの題名の響きもなんとなくおフランスっぽい。貴婦人か何かのことだろうとしばらく思いこんでいた。ところが調べてみるとこれは英語で「マザー・グース」、日本語では「ガチョウ婆さん」でずっこけた。麻婆豆腐(あばた婆さんの豆腐)を連想してしまい困った。

マザー・グースは英米を中心に広く知られる童謡・寓話集であるがルイ14世時代のフランスの詩人シャルル・ペローの『寓意のある昔話、またはコント集~ガチョウ婆さんの話』(Histoires ou contes du temps passé, avec des moralités : Contes de ma mère l’Oye)(1697年)が題名の元になったらしい。文学は疎いが、赤ずきん、長靴をはいた猫、青ひげ、眠りの森の美女、シンデレラ、親指小僧などがペローの童話集にある。

このラヴェルの音楽から僕が想起するのはむしろ英国のルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」だ(そう思って調べたら彼もアリスでマザー・グースから引用した言葉の「もじり」をふんだんに使っている)。両作品ともおとぎ話を素材とした創作であって、子供にインスパイアされた作品という点も同じだ。キャロルは数学者であり、ラヴェルのスコアの筆致も理系的だ。どちらも生涯独身で女っ気はなかったようだ。

ラヴェルはこの曲を友人であるゴデブスキ夫妻の2人の子、ミミとジャンのために作曲し、この7才と6才の姉弟に献呈したが、幼なすぎたため2年後の1910年4月20日にパリ・ガヴォーホールで初演したのはマルグリット・ロンの弟子たち(やはり11才と6才の子供)だった。ちなみに、このお姉ちゃんの方のジャンヌ・ルルーは長じて有名な作曲家になっている。

この時点でこの曲は、第1曲「 眠れる森の美女のパヴァーヌ」、第2曲 「親指小僧」、第3曲 「パゴダの女王レドロネット」、第4曲 「美女と野獣の対話」、第5曲 「妖精の園」から成る四手版(①ピアノ連弾版)でこれがオリジナルである。翌年にこの全てが管弦楽化され(②管弦楽組曲版)、さらにその翌年に「前奏曲」、「紡車の踊りと情景」および4つの間奏曲を加えて③バレエ版が作られた。今日我々が耳にするのは普通はこの3つの版のどれかである。

ところが、作曲の年にラヴェルの友人のジャック・シャーロットが二手版(④ピアノ・ソロ版)というものを作っており(彼は第1次大戦で戦死しクープランの墓の前奏曲を献呈された人だ)、これをコンサートで聴くことはあまりないが厳密には4種のスコアが存在する。僕はこの④を弾いて楽しんでいるがさすがに二手だと難しい部分もあり、手が小さいので第5曲 「妖精の園」は左手の10度の和音をちゃんと抑えるのが一苦労である。どなたか①を一緒に弾いてくれると大変うれしい。

ところで①-④を眺めると、ストラヴィンスキーの「火の鳥」のテキストがバレエ版、管弦楽組曲版(複数)、ピアノ・ソロ版が存在して見た目には似た様相となっていることに気がつくだろう。しかしこっちはバレエ版がオリジナルであって作られた順番が逆だ。あくまで管弦楽で発想された音楽でありピアノ版は興味深いがもの足りない。ところがマ・メール・ロワの清楚でシンプルな佇まいはピアノにこそふさわしく、オケ版はその至らなさをフル・オーケストラならではの豪華な響きが飛び交う間奏でフィルアップしたという感じもある(それはそれで別な意味で壮絶に美しいのだが・・・)。

さてマ・メール・ロワの1910年の初演だが、こんなものだったのかなと想像している(第1,3,5曲)。

中国の姉妹だろうか、とてもよろしいと思います。子供でも弾けるのに非常に「高級な」和声が用いられ万人を黙らせるこの曲を選んだという趣味も素晴らしい。

この曲は全曲にわたってスコアにマジカルな瞬間が満載である。精巧なガラス細工の趣だ。全部書くときりがないから2つだけ。まず第3曲 「パゴダの女王レドロネット」のここだ(以下の楽譜は④のシャーロット版である)。

ma mere

5小節目のpp。ここで和音がF#からFm/a#にがらりと変わる!魔法としか言いようがない、これぞ不思議の国のアリスの世界だ。ここを「感じて」弾かなくてはいけないのは言うまでもないが、オケ版でテンポを落す指揮者がいる。モントゥー、マルティノンなど。これには反対である。ラヴェルの気位と格調が崩れて下俗なロマン派みたいになってしまう。何といっても最高にいいのはアンセルメだ。テンポは全く変わらず、見事な弦のハーモニーの綾にバス(ハープのa#)が効いている!このバスとツンと澄ました冷ややかなフルートの鳴らし方ひとつでも彼のセンスの良さを感じ、厳粛な気品に何度聴いてもぞくぞくする。

もう一ヵ所、第5曲 「妖精の園」。第5,7小節のドに長7度でぶつかる「シ」をどう弾くか?これはピアノでも弦でも大変にデリケートな問題で難しく、私見ではセクシーでスリリングで末梢神経が痺れるような音が欲しい。そしてさらに終わりのところのこのフレーズだ。

ma mere1

このppが命でありテンポは僕ならかなり落とす。ビデオの女の子たち、そこをもう少し気を付ければもっと大人の演奏になる。プロでも全然ダメな人が多く名手といわれるサンソン・フランソワでもこのフレーズを不感症で弾いていて、それじゃあマ・メール・ロワをやる意味なんかないでしょうと尋ねたくなる。ここはアンセルメもいいがちょっとクールすぎる。アバドがもっといい。80年代の彼の感度は素晴らしかった。

さらにいえば、オケ版を判断するにソロ・ヴァイオリンの巧拙が大きい。僕は冒頭に書いたようにブーレーズ盤でこの曲に入門したものの、下宿でカセットで聴いていたのはデジェ・ラーンキとゾルターン・コティッシュ、エリック&ターニャ・エイドシェック、そしてアルフォン・アロイス・コンタルスキー兄弟といずれも①だった。自分もピアノで爪弾いておりそういう耳になると、この音楽に散りばめられた精妙で絶美の和音をオケのいい加減な音程で壊すなと祈りたくなる。

だから第4間奏および第5曲のソロVnの音程やヴィヴラートが気になる。モントゥーのLSOのソロは間奏も実にいい加減だし、第5曲も微妙にずれてこれまた能天気に鳴っている直後のオーボエとピッチが合わない。モントゥーの解釈には敬意を払っているだけに非常に残念だ。そして尊敬するブーレーズ盤のニューヨーク・フィルのコンマスもいただけない。第5曲はヴィヴラート過剰なうえになんとポルタメントまでかける下品さで、せっかくの指揮の品位をぶち壊している。こんなものを彼が望んだとは思えず、放置してしまったのも不可解だ。音楽監督就任したての頃だったし遠慮があったのだろうか?セルが鍛えまくったクリーブランド管でやってたら違ったろう。

この曲は77年にチェリビダッケ初来日の読響演奏会(東京文化会館)で、またロンドンとアムステルダムで2回ジュリーニで聴いているが、さっぱり演奏内容の記憶がない。たいして良くなかったんだろう。子供でも弾ける曲だが良い演奏をするのは大家でも難しく、逆に良い演奏をした時の聴衆へのインパクトは非常に大きい。技術ではなく、演奏家の感性、人間性、やさしさといったものが満場を包み込んで暖かな喝采と敬意が集まる。ソロで弾けるので、ピアノニストの方はなんとかの一つ覚えのショパンではなく、こういうセンスのいい曲を弾かれてはいかがだろう。

②③の管弦楽版では

エルネスト・アンセルメ /  スイス・ロマンド管弦楽団            クラウディオ・アバド / ロンドン交響楽団

をお薦めしたい。アンセルメは最初だけは③であるが間奏曲はないため基本は②という折衷なのが玉に傷だ。オケの機能的にも一流とはいいがたいが、なにしろ上記のようにセンス満点であり、葦笛のようなオーボエを始め管楽器の音色はフランスの伝統美にあふれている。

アバドは③であり、楽譜の読みが深く繊細なことは大変に満足感が高い。表面だけきれいにまとめる印象があったが全く違う。オケが納得してそれを音化しており、非常にうまくて美しい。その「レドロネット」を。

世評の高いのはアンドレ・クリュイタンス / パリ音楽院管弦楽団だ。華やかでフランスっぽい音と表現だが、しかしじっくり耳を凝らすとオケが精緻でなくうまくない。肝心な部分の感じ方もいまひとつだ。指揮の流れでなんとなくうまくまとめている演奏なので、指揮の気骨で通しているアンセルメと違いそういうことが気になってしまう。餅は餅屋で決して悪くはないが僕は昔懐かしいフランスの管を聴くならアンセルメのクールで厳粛な感じの方を好む。

①で好んでいるのはこの2つ。

モニーク・アース/ イナ・マリカ                                   デジェ・ラーンキ / ゾルターン・コティッシュ

アースの「妖精の園」を。

ラーンキのはフレッシュなみずみずしさが取柄でありよく聴いたのでおなじみというだけで特に優れているわけでもない。

この版はその気になれば素人でもできてしまうので面白い演奏はいくらでもあるだろう。できれば自分で弾きたい。

 

(こちらへどうぞ)

僕が聴いた名演奏家たち(ピエール・ブーレーズ追悼)

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「火の鳥」

 

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クラシック徒然草-はい、ラヴェルはセクシーです-

2015 JAN 20 18:18:13 pm by 東 賢太郎

先日、関東にお住いの方からSMC(西室)当てに長文のメールをいただいて、拝見すると去年11月に書いたこのブログのことでした。

僕がクラシックが好きなわけ

ずいぶん前ですが、「ボレロはセクシーですね」という女性がおられて絶句し、

『こっちはボレロとくればホルンとチェレスタにピッコロがト長調とホ長調でのっかる複調の部分が気になっている。しかし何千人に1人ぐらいしかそんなことに関心もなければ気がついてもいない』

と書いたのですが、頂戴したのはそれに対しての大変に興味深い論点を含むメールでした。それを読んで考える所がありましたので一部、要旨だけを引用させていただいて、ラヴェルについて少々書いてみたいと思います。メールには、

私もあの・・・中略・・・部分を耳を澄まして聴いてしまいます。東さんの説によると、ボレロに関して私は”何千人の一人”に入ってしまうようです。

とありました。僕の記事を見てデュランのスコアをご覧になったとも書かれていて、とてもうれしく存じます。

先般も「ブーレーズの春の祭典のトランペットに1箇所ミスがある」と、ブーレーズとトランぺッター以外誰も気がつかなかったかもしれないウルトラニッチなことを書いたら、それを探しだしてコメントを下さった方もおられ感動しました。お好きな方はそこまでこだわって聴いているということで、普通の方には別に飯のタネでもないのにずいぶんモノ好きなことと見えるでしょうが、飯より好きとは掛け値なしにそういうものだと思うのです。

ボレロの9番目の部分は倍音成分の多いフレンチホルンにパイプオルガンを模した音色を人為的に合成しようという意図だったと僕は考えております。各音に一定比を乗じたピッチでチェレスタとピッコロを配しているのでそれぞれがホルンの基音の平行移動ということになり、結果的にCとGとEとの複調になっていると思われます。ミヨーと違って複調に根拠、法則性を求めるところがとてもラヴェルだと思います。

こういう「面白い音」はマニアックに探しまくったのでたくさん知ってます。高校時代には米国の作曲家ウォルター・ピストンの書いた教科書である「管弦楽法」が座右の書であり、数学や英語の教科書などよりずっとぼろぼろになってました。これは天文で異色の恒星、バーナード星や白鳥座X-1やぎょしゃ座エプシロンの伴星について物凄く知りたいのと同質のことで、どうしてといわれても原初的に関心があるということで、僕のクラシックレパートリーは実はそういう興味から高校時代に一気にできてきたためにそういうこととは無縁のベートーベンやモーツァルトはずっと後付けなのです。

僕がSMCの発起人としてクラブを作った目的はトップページに書いてある通りですが、そのなかのいちブロガーとして音楽記事を書くきっかけはそれとは別に単純明快で、自分の読みたいものが世の中になかったからです。でもそういうのに関心がある方は何千人に一人ぐらいはいるにちがいないと信じていたので、じゃあ自分で自分の読みたかったものを書いてインターネットの力を借りてお友達を探してみようという動機でした。

こういうのはfacebookや普通のSNSには向いてません。単に昔の知り合いを集めてもこと音楽に関してはしようがないし、こんなニッチな関心事はそれが何かをきちっと説明するだけでも一苦労だからです。でも少なくともその何千人からお二人の方が素晴らしいリアクションを取ってくださった。それだけでも自信になりますし書いてきてよかったと思いました。

ただ日々の統計を見ると多くのビギナーの方も読んでくださっているようで、クラシック音楽は曲も音源も数が膨大ですからワインのビギナーといっしょで入り方をうまくしないとお金と時間の無駄も膨大になるという事実もあります。僕のテーストがいいかどうかは知りませんが、たくさんの英国人、ドイツ人の真のクラシック好きと長年話してきた常識にそってビギナーの方がすんなりと入れる方法論はあるという確信があります。学校で教えない、本にも書いてない、そういうことをお伝えするのはいちブロガーでなくSMCメンバーとしての意識です。

さて、ラヴェルがセクシーかどうか?こんなことはどこにも書いてませんからもう少しお付き合いください。メールに戻りますが、こういうご指摘がありました。

ボレロには、「大人のあか抜けた粋な色香」を強く感じます。ラヴェルは官能性を効果として最初から曲を組み立てる時に計算しているように私には思えてならないです。

これは卓見と思い、大いに考え直すところがございました。本稿はそれを書かせていただいております。

たしかにボレロはバレエとして作曲され、セビリアの酒場で踊り子がだんだん客を夢中にさせるという舞台設定だからむしろ当然にセクシーで徐々にアドレナリンが増してくる音楽でないといけません。それが目的を突き抜けて、踊り子ぬきで音だけでも興奮させるという仕掛けにまで至っているのがいかにも完全主義者ラヴェルなのですが、おっしゃるとおり、それはリズムや曲調に秘められた官能性の効果あってこそと思います。

ドビッシーの牧神や夜想曲もエロスを秘めていますがあれは醸し出された官能美であってセクシーという言葉が当てはまるほど直接的なものではないようです。ところがラヴェルは、ダフニスとクロエの「クロエの嘆願の踊り」(練習番号133)などエロティックですらあって、こんなのを海賊の前で踊ったらかえって危険だろうと心配になるほどです。「醸し出された」なんてものでなく、非常に直截的なものを音が描いている点は印象派という風情とは遠く、リストの交響詩、R・シュトラウスの描写性に近いように思います。

僕はメリザンドの歌が好きですがこれは絵にかいたような不思議ちゃんであって、わけのわからない色気がオブラートに包まれてドガやルノアールの絵のように輪郭がほんわりしてます。かたやクロエはものすごく気品があるいっぽうでものすごくあからさまにセクシーでもあってぼかしがない。音によって描く色香が100万画素ぐらいにピンポイントにクリアであって、その描き方のセンスは神経の先まで怖いぐらいに研ぎ澄まされていると感じます。

ドビッシーとラヴェルはいつも比較され並べて論じられるようですが、作曲家としての資質はまったく違うと思います。彼らが生きて共有した時代、場所、空気、文化というパレットは一緒だからそこに起因する似た部分はありますが、根本的に別々な、いってみれば会話や食事ぐらいはできても友達にはなれないふたりだったように思います。ライバルとして仲が良くなかった、ラヴェルが曲を盗まれたと被害意識を持ったなどエピソードはあるものの、それ以前にケミストリーが合ってなかったでしょう。

これは大きなテーマなのですが核心の部分をズバリといいますと、ドビッシーは徹頭徹尾、発想も感性も男性的であるのに対し、ラヴェルには女性的なものが強くあるということです(あまり下品な単語を使いたくないのでご賢察いただきたい、ラヴェルが結婚しなかった理由はベートーベンとは違うということであり、そういう説は当時から根強くあります)。

東さんはラヴェルのボレロに精緻さを強く感じていらっしゃるのかなと拝察します。
私自身、ラヴェルにドビュッシーとは異なる知的な理性を感じますし、ここがホントに大好きです。ただセクシーであるとも強く感ずるところです。

これがお二人目であり、もう絶句は卒業しました。というより、前述のようにバレエ台本からして、このセクシーであるというご意見のほうが道理なのであります。僕の方が大きく間違っていたのでした。

だから今の関心事はむしろ、どうして僕はそう感じていなかったかです。ピストン先生の教科書の影響もあるでしょうが、僕はラヴェルが自分を隠している「仮面」(知的な理性)の方に見事に引っかかってしまったのではないか。しかし、感受性の強い女性のかたはラヴェルの本性を鋭く見抜いておられたということなのかと拝察する次第です。彼の中の女性の部分は、女性のほうが騙されずに直感するのかもしれないと。

ボレロという曲は仮面が精巧で、僕だけでなく多くの人がきっと騙されてクールな仮面劇だと思って聞いていて、最後に至って興奮に満たされている自分を発見します。心の中に不可思議な矛盾が残る曲ではないでしょうか?これはアガサ・クリスティのミステリーみたいなもので、見事にトリックにひっかかってそりゃないだろと理性の方は文句を言いますが、そこまで騙されれば痛快だということになっている感じがします。

ボレロは「犯人」がわかっているので自ら聴く気はおきないのに、始まってしまうといつも同じ手管で満足させられているという憎たらしい曲です。しかしこの仮面と本性というものはラヴェルのすべての作品に、バランスこそ違え存在している個性かもしれないと思います。ドビッシーにそういう側面は感じません。真っ正直に自分の感性をぶつけて晒しています。ミステリーではなく純文学です。

「海」や「前奏曲集」を聴きたいと思う時、僕は「ドビッシー界」に分け入って彷徨ってみたいと思っていますが、それはブルックナーの森を歩いてみたいという気分と性質的にはそう変わりません。しかしラヴェルを聴く衝動というものは別物であって、万華鏡をのぞくようなもの、原理もわかっているし、実は生命という実体のない嘘の造形の美しさなんですが、それでも騙されてでも楽しんでみたい、そういう時なのです。

ラヴェルが隠しているもの。それは僕の推察ですがエロスだと思います。それを万華鏡の色彩の精巧な仮面が覆っている。万華鏡であるというのは、同じ曲がピアノでも管弦楽でもいいという所に現れます。エロスの多くを語るのは対位法ではなく非常に感覚的に発想され、極限まで磨き抜かれた和声です。ダフニスの冒頭数分、あの古代ギリシャのニンフの祭壇の神秘的ですでに官能を漂わせるアトモスフィアは精緻な管弦楽とアカペラの混成四部合唱によるものですが、ピアノで弾いてみると和声の化学作用の強さというものがよくわかります。

そして始まるダフニス、クロエの踊り。醜魁なドルコンに対比させるまでもなくエロティックであり、ちっともロマンティックでもセンチメンタルでもないのです。これはもはや到底ロマン派とは呼べない、でも印象派とも呼べない、ラヴェル的としか表現の術すらない独自の世界であって、誰もまねができない故に音楽史的に後継者が出なかったという点ではモーツァルトと同様です。

おそらくラヴェルが両親、先祖から受け継いだもののうち対極的である二面が彼の中にあって、それは彼を悩ませたかもしれないし人生を決定づけたものかもしれませんが、いずれにせよ両者の強い対立が衝動を生んで弁証法的解決としてあの音楽になった。あれは女性が書いたポルノであり、だから男には異界のエロティシズムであり、しかもそれを彼の男のほうである科学者のように怜悧な理性が脳神経外科医のような精密な手さばきで小説に仕立てた、そういう存在のように思うのです。

「両手の方のピアノ協奏曲」の第二楽章と「マ・メール・ロアの妖精の園」が大好きで、この世に かくも美しい音楽があるのかしらとも思ってしまいます。

まったく同感でございます。木管が入ってくる部分が特にお好きと書かれていますが、音を初めて出すオーボエにいきなりこんな高い音を出させるなんてアブナイですね。この部分は凍りつくほど美しい、ラヴェル好きは落涙の瞬間と思います。「マ・メール・ロアの妖精の園」は愛奏曲で、終わりの方のレードーシラーソードー ソーファーミドーシーソーは涙なくして弾けません。ここの頭にppと書いたラヴェルの言いたいことが痛いほどわかります。しかしこれはみんな女性の方のラヴェルのように思うんですが・・・。

ということで同じ感性の方がおられるんだ、人生孤独ではないと元気づけられました。こんなにニッチなことで人と人とを結び付けられるインターネットの力を感じました。最高にうれしいメールをありがとうございます。

 

音楽にはツボがある

 

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クラシック徒然草-冬に聴きたいクラシック-

2014 NOV 16 23:23:26 pm by 東 賢太郎

冬の音楽を考えながら、子供のころの真冬の景色を思い出していた。あの頃はずいぶん寒かった。泥道の水たまりはかちかちに凍ってつるつる滑った。それを石で割って遊ぶと手がしもやけでかゆくなった。団地の敷地に多摩川の土手から下りてきて、もうすっかり忘れていたが、そこがあたり一面の銀世界になっていて足がずぶずぶと雪に埋もれて歩けない。目をつぶっていたら、なんの前ぶれもなく突然に、そんな情景がありありとよみがえった。

ヨーロッパの冬は暗くて寒い。それをじっと耐えて春の喜びを待つ、その歓喜が名曲を生む。夏は日本みたいにむし暑くはなく、台風も来ない。楽しいヴァケイションの季節だ。そして収穫の秋がすぎてどんどん日が短くなる頃の寂しさは、それも芸術を生む。 ドイツでオクトーバー・フェストがありフランスでボジョレ・ヌーボーが出てくる。10-11月をこえるともう一気にクリスマス・モードだ。アメリカのクリスマスはそこらじゅうからL・アンダーソンの「そりすべり」がきこえてくるが、欧州は少しムードが違う。

思い出すのは家族を連れて出かけたにニュルンベルグだ。大変なにぎわいの巨大なクリスマス市場が有名で、ツリーの飾りをたくさん買ってソーセージ片手に熱々のグリューワインを一杯やり、地球儀なんかを子供たちに隠れて買った。当時はまだサンタさんが来ていたのだ。そこで観たわけではないのだがその思い出が強くてワーグナーの「ニュルンベルグの名歌手」は冬、バイロイト音楽祭で聴いたタンホイザーは夏、ヴィースバーデンのチクルスで聴いたリングは初夏という感覚になってしまった。

クリスマスの音楽で有名なのはヘンデルのオラトリオ「メサイア」だ。この曲はしかし、受難週に演奏しようと作曲され実際にダブリンで初演されたのは4月だ。クリスマスの曲ではなかった。内容がキリストの生誕、受難、復活だから時代を経てクリスマスものになったわけだが、そういうえばキリストの誕生日はわかっておらず、後から12月25日となったらしい。どうせなら一年で一番寒くて暗い頃にしておいてパーッと明るく祝おうという意図だったともきく。メサイアの明るさはそれにもってこいだ。となると、ドカンと騒いで一年をリセットする忘年会のノリで第九をきく我が国の風習も捨てたものではない。メサイアの成功を意識して書かれた、ハイドンのオラトリオ「天地創造」も冬の定番だ。

チャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形」、フンパーディンクの歌劇「ヘンゼルとグレーテル」はどちらも年末のオペラハウスで子供連れの定番で、フランクフルトでは毎年2人の娘を連れてヴィースバーデンまで聴きに行った懐かしの曲でもある。2005年末のウィーンでも両方きいたが、家族連れに混じっておじさん一人というのはもの悲しさがあった。ウイーンというと大晦日の国立歌劇場のJ・シュトラウスのオペレッタ「こうもり」から翌日元旦のューイヤー・コンサートになだれこむのが最高の贅沢だ。1996-7年、零下20度の厳寒の冬に経験させていただいたが、音楽と美食が一脈通ずるものがあると気づいたのはその時だ。

さて、音楽そのものが冬であるものというとそんなにはない。まず何よりシベリウスの交響詩「タピオラ」作品112だ。氷原に粉吹雪が舞う凍てつくような音楽である。同じくシベリウスの交響曲第3、4、5、6、7番はどれもいい。これぞ冬の音楽だ。僕はあんまり詩心がないので共感は薄いがシューベルトの歌曲「冬の旅」は男の心の冬である。チャイコフスキーの交響曲第1番ト短調作品13「冬の日の幻想」、26歳の若書きだが僕は好きで時々きいている。

次に、特に理由はないがなぜかこの時期になるとよくきく曲ということでご紹介したい。バルトーク「ヴァイオリン協奏曲第2番」プロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」がある。どちらも音の肌触りが冬だ。ラヴェルの「マ・メール・ロワ」も初めてブーレーズ盤LPを買ったのが12月で寒い中よくきいたせいかもしれないが音の冷んやり感がこの時期だ。そしてモーツァルトのレクイエムを筆頭とする宗教曲の数々はこの時期の僕の定番だ。いまはある理由があってそれをやめているが。

そうして最後に、昔に両親が好きで家の中でよくかかっていたダークダックスの歌う山田耕筰「ペチカ」と中田喜直「雪の降る町を」が僕の冬の音楽の掉尾を飾るにふさわしい。寒い寒い日でも家の中はいつもあったかかった。実はさっき、これをきいていて子供のころの雪の日の情景がよみがえっだのだ。

 

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クラシック徒然草-僕がクラシックが好きなわけ-

2014 NOV 2 16:16:27 pm by 東 賢太郎

 

私は物理学者になっていなかったら、音楽家になっていたことでしょう。私はよく音楽のように物事を考え、音楽のように白昼夢を見、音楽用語で人生を理解します。私は人生のほとんどの喜びを音楽から得ています。

アルベルト・アインシュタイン

 

先日の皆既月食の時、アマチュア天文好きはほとんどが「観測派」なので友達がおらず子供のころ寂しい思いをしたことを思い出しました。

僕は恒星にしか興味がありません。日食や月食はかくれんぼみたいなもので物理現象でないし、何がおきるか完全にわかっているのだからただのショーです。皆既日食の時はカラスが何をするかの方が気になっていましたし、どうしても赤色超巨星の変光や130億光年先の未知の星雲での出来事のデータの方が気になります。

こういう趣味は幼児のころからはっきりしていて、僕は2歳から無類の電車好きでしたが車輪と線路以外は一切興味がありませんでした。非常に変な子だったと思われます。もしも鉄道会社に入るなら社長でも運転手でもなく線路の補修工をやりたい。今でも彼らを見るとうらやましい気持ちがわきおこります。

恒星の物理現象の何が楽しいの?と聞かれても猫好きとおんなじで、好きだという事実が先に厳存するのであって考えても意味のないことです。実際にそれを見た者はないわけですから頭の中だけの世界ですがそれでもそこに浮かぶイメージは時としてどんな名画より美しいと思います。

音楽も同じことです。どうしてクラシックが好きかというのは、どうして恒星がどうして線路が好きかということと同質です。なぜこの曲はこんなにいいんだろう?これを解明することとシリウスの伴星の質量への関心とは同じであり、シリウスを夜空に見上げるのはその曲を聴くことと同じことです。

音楽は人為的な物理現象です。それを耳にして頭の中に何が浮かぼうと、快感、感情、風景、ポエム・・・なんであろうと勝手です。ただその段階ではもうそれは音ではなく、脳内の現象になっています。それを心象と呼べば、それは聴く人の脳の数だけあります。ある曲を聴いて万人が同じ心象を抱くとは限らないのです。

ラヴェルのボレロを聴くと僕は極めてメカニックなゼンマイ仕掛けの時計を思い浮かべます。ところがさる女性の方があれはセクシーよねとおっしゃって頭が凍りつきました。セクシー? 同じものを見聞きしてかように天と地の差が出る、これは音楽が多面体であって、見事にカットされたダイヤモンドのように見る角度でいろんな魅力があるということなのです。

10年ぐらい前に僕はボレロをシンセでMIDI録音しました。なんとなく時計のゼンマイをばらばらに分解してみたくなったのです。すると、そこには和声や対位法の秘技はちっともなくて、ひたすら単調な2つの旋律とリズムの繰り返し、それに楽器法の多様なスパイスがふりかかっていくだけという造りなことが現実として見えてきました。

つまり、部品にバラしてみるとどのひとつも珍しくもなく、楽器の面白い組合せの効果だってシンセで忠実に再現できてしまう。まるで精巧なプラモデルみたい。作りかけで内部が中空の戦艦大和を上から下から眺めてぞくぞくする、ああいう感じを味わいながら全曲を完成してみて、ああやっぱりこれはゼンマイ時計だったんだよかったと得心したのです。

ちなみにご存知の方も多いでしょう、ロンドンにドーヴァー・ソウル(シタビラメ)で有名なWheelersというレストランがあります。素材は同じヒラメのムニエルですがソースの違いでたしか10何種類ものメニューがあり、どれもうまい(お薦めです)。ボレロはあの舌平目を片っ端から10種類食べるのとおんなじだったんだということです。1種類のソースで10枚はとてもとても。ボレロはピアノリダクションしてもちっとも面白くない曲です。

しかし、そういうことをぶっ飛ばしてセクシーだとかいう人が現れる。「おおジュリエット!そなたの瞳は・・・・」みたいな宝塚風世界が見えてきて、そういうのは僕とは縁遠い世界なもんでもうアウトです。こっちはボレロとくればホルンとチェレスタにピッコロがト長調とホ長調でのっかる複調の部分が気になっている。しかし何千人に1人ぐらいしかそんなことに関心もなければ気がついてもいない。ここで、日食や月食が好きな子と遊べなくて寂しい思いをした子供時代に戻るのです。

たしかにラヴェルはゼンマイ時計を造ったのですが、もし彼がセクシーという評価を知ったらひょっとして喜んだんじゃないか、それこそ彼の思うつぼだったかもしれない。伝記を読んでいてそう思ったのも事実です。素晴らしい時計ですね、そんな評価は欲しくなかったかもしれない。そう感じてなにかまた寂しい気持ちになったりします。こういう人間は孤独なのです。

そこで後日、ブラームスの4番の交響曲の第1楽章、これも僕にとってはバラバラに分解したくなる対象なのですが、それをMIDI録音してみました。するとこっちはソースではなく食材そのものに多種多様なアミノ酸、タンパク質が含まれたものであることがわかってきました。彼の3度、6度音程がそれの重要要素で、12音の全部を基音とする長短調主和音が含有されていることも。

でもそれはらっきょうをむいたようなもので、何も出てこない。どうして僕が惹きつけられるのか、その効果をもたらす核心、根源は悔しいことに分解した部品は教えてくれないのです。原子論が脳を解明できないのはこういうものでしょうか。音楽としては全然似てませんが、結局これもボレロのセクシーと同様によくわかりませんでした。

そういう、いわば「形而上の何ものか」を名曲といわれるものは含んでいるようです。すると僕はそれを形而下におろして分解したくなる。いろんな人の演奏をいわば「聴感実験」としてきいてみたくなる。そうやってその曲を覚えこんでしまう。その積み重ねで僕は50年もクラシックにのめりこんできたようなのです。分解癖がうずかない曲はぜんぜん関心がない、どうもそういう事のようです。

ブログで譜面をお示ししたくなる部分、そここそ分解したい箇所であって、それこそが僕のブログの主題だからそうしないといけません。今はそういうものの合成効果を僕は好きで、それが感動をくれていると考えています。それは自分だけの心象かもしれないので普遍性があるかどうかは知りません。たぶんないでしょう。日食・月食派の方にはどうでもいいことでしょうが、物理現象派の方にはわかっていただける 一縷の望みをかけております。

僕はリストやマーラーやヴェルディやほとんどのショパンに興味がないことを明かしているので、いくらボロカスに書いても無視してください。所詮好き好きです。なぜといって分解したいところがないのです、一ヵ所も。だから楽譜を見たいとも思わない。おおジュリエット!も僕の音楽観にはいっさい出てきません。

音楽の教科書に載っていた曲はみな名曲だ、聴いてわかなければいけない、わからければあなたがおかしいのだなんていう呪縛はクソくらえなのです。僕は中学まで音楽の成績2の劣等生ですが、ピアノが弾けて笛がうまくて5だった人たちが今の僕よりストラヴィンスキーの音楽について理解していることはたぶんないでしょう。そういうことは育ちや教育や技術ではなく、すぐれて遺伝子のなせるわざと思います。

レコードの批評はくだらないので読みません。つまらない曲の演奏などどうあろうとつまらないわけで、そんな曲を批評できるほど真面目に聴いていること自体趣味が悪い。そういう人のおすすめに従ってみたいとは思わないです。良い曲はプロがちゃんと演奏すればよほどひどい解釈でないかぎり良いはずです。だからCD屋へ行って棚に並んでいる有名演奏家のものを買っておけば間違いはありません。

その曲の本質をより突いた演奏というのはたしかにあります。それは語られるべきですが、それもこれも、曲が良いという大前提があってこそです。必要なことは「良い曲」を探して、それを良く知ることなのです。そしてそれぞれの人によって持つ心象が違うのですから何が良い曲かもかわってきます。他人の評価やおすすめはそれはそれとして、とにかく自分の耳で聴いてみること。それしかございません。

僕はいい曲かどうかを分解したいかどうかで選んでおり、ある人はおおジュリエット!で選んでいる。どっちでもよい。そういう事だということを知ったうえで自分の「良い曲」のレパートリーを増やしていくこと、それを探し求めることこそクラシック音楽の森に足をふみ入れることです。その道を歩いてさえいれば、どんなにレパートリーがまだ少なくとも、「自分の趣味はクラシック音楽です」と堂々と語ることができる、僕はそう思います。

 

クラシック徒然草-はい、ラヴェルはセクシーです-

クラシック徒然草-ラヴェルと雪女 (ボレロ)-

 

 

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クラシック徒然草-破格のピアニスト、H. J. リム賛-

2014 AUG 31 1:01:41 am by 東 賢太郎

先日、ベートーベンの18番のソナタのブログを書いていて、最近の演奏家はどうかなとyoutubeをのぞいていて初めてこの人を知った。この18番、尋常ではないものがあり、勢いに乗ってスパークするかと思えばすっと力を抜いて息をついたりする。中でも第1楽章の終わりをpにする版で弾いているのが気になった。

誰も知らない24歳がいきなりベートーベンを全部録音するというのはまったく破天荒である。ところが、調べるともう一枚ではラヴェルを弾いているではないか。こうなると僕としては聴かないわけにはいかない。そこで金曜日にベートーベンの2枚(5,6,7,16,17,18,28番)、それからラヴェルとスクリャービンの入ったCDを買って帰った。

雑誌や評論のようなものは一切読まないので、ピアノ愛好家で知らなかったのは僕だけのようだ。調べるとこうあった。

12歳で韓国から単身フランスに留学、パリ国立高等音楽院ではアンリ・バルダ教授に師事し首席で卒業。韓国の家族に演奏を見せるためにyoutubeに動画をアップしたところ、たちまちネットユーザーからの熱い支持を受け注目を集める。2011EMIクラシックスと専属契約し、昨年ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集(8枚組)で異例のCDデビュー。同CDは、発売後、全米ビルボード・クラシック・チャートの1位を獲得し、ニューヨーク・タイムズや英テレグラフ紙でも高い評価を得た。

いよいよネット時代の申し子みたいな人が出てきた。コンクールで優勝なんかしなくても、ネット検索数が多ければ天下のEMIがCDにしてくれるのだ。そんなことはクラシック業界史上初である。リムは「ベートーヴェンのことは、考えると眠れなくなるほど好きでたまりません」と言っているが、好きかどうかより伝統流儀に長けた人がコンクールを通る。僕は流儀は立派でも心酔していない人より、眠れなくなるほど好きな人に弾いてほしい。彼女自身が自分の考えで数曲ずつグルーピングしていてその意味はよくわからないが、大事なのは「この曲が好き」という人が弾くことだ。御託はどうでもいい。「ラヴェルは子どもの悪夢とか妖精、ファンタジーの世界」とも言っている。そうもいえるが、それだけではない。でもそういうことは彼女はこれから見つけていくだろう。

僕はこのベートーベンは好きだ。御託に塗り固まったクラシックの殿堂をバズーカ砲でぶちこわしてくれて実に気持ちがいい。全部聴いてみたくなった。この「全部弾いてしまう」というのが特にいい。この奔放さは若い頃のアルゲリッチを思い出すが、彼女は選曲については決して奔放ではない。ところがこのリムは自分の信念と流儀で全曲をねじふせてしまっている。それが我流に聴こえないというところが最大のポイントである。テンポは総じて速いが、それに確信を持って弾いているのがわかるからタッチの浅い音があっても軽卒に聞こえない。

つまり、自説に絶対の自信があってオーラがある人がやるプレゼンなのだ。半年後の株式相場など誰もわからないが、話をきくやぐいぐい引き込まれて、なるほど確かに相場は上がるんだろうと全員が思わされてしまうスピーチのようなものだ。そういう人の話は、たとえちょっとぐらいのキズがあっても誰も気にしない。ところが用意した紙を読み上げるだけのスピーチだと、たちまち攻撃されて撃沈されてしまう。僕は仕事上そういうものをたくさん見てきているが、音楽の演奏でそんなことを連想するのは初めてである。

僕はピアニストでないが、聴衆として聴きたい音という観点からすると、彼女のピアノは非常にうまいと思う。これはラヴェルでわかる。こんな技術があるからベートーベンの難所を軽々となぎ倒していて痛快でもあるのだ。そういう部分が難しげに、あたかもピアノとの闘争みたいに弾かれると「ああベートーベンらしい」と思うように僕らは慣らされてきていて、それが御託の壁を高々と築いているとさえ思ってしまう。

彼女のテンペラメントは「ラヴァルスをこういう風に弾く人」ということで僕の中では一応規定されている。今の所。ベートーベンもそういう風に弾いているとみている。それが特に好きではないが、技術がないとそんなことはやりたくてもできないのだからどんどん思うことをやったらいい。彼女が「クープランの墓」を弾いても好きにならない可能性は感じつつも、25歳の彼女こそクラシック音楽の虚構をぶち壊そうに書いたことを「する」側からやってくれそうな人だ。だから好きである。

 

(追記)

この平均律第1集はたまげた。ハ長調前奏曲、なんだこれは?フーガは主題がやたらと浮き上がって対位法に聞こえない。しかし、だんだんと彼女のペースにハマり、耳が慣れ、これはグールド以来の名演じゃないかと思えてくる。とにかくうまいのだ。このテンポでこれだけ闊達に弾けるということ自体半端なことではなくラフマニノフ3番もブラームス2番も、要は何でもできる人だなあと思っていたが、バッハをこれだけ弾ければこそだ。何でも弾けることが価値ではなく、そのどれもがユニークであることが驚くべきことだ。大変な才能であり僕はこの破格の平均律を心から楽しんでいる。

 

 

 

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ラヴェル 「夜のガスパール」

2014 JUL 9 0:00:28 am by 東 賢太郎

動物はだいたいメスが大きくて強い。蜂に女王はいても王はいません。配偶者を選ぶのはメス。子を産むメスこそが本来の姿で、単に有性生殖が子孫繁栄には有利という理由だけで分化したオスは、カマキリやクモなど交尾のお仕事が済めば今度は養分としてメスに食われてお役立ちもします。それが進化した人間だってきっとそうだろう。男が太陽で女が月?ちがうちがう、その逆だ。自分がそうなものだから、全員そうと思いたいだけですが。

人間界では女性は男を食いはしませんが運命を変えることはままあるようです。ロメオ君は服毒死したし、ドン・ホセ君は殺人犯になったし、ハムレット君は母に人生メチャクチャにされたし、ローレライ嬢の歌は男をたくさんライン川に沈めています。その点、人間に恋をしてしまった水の精オンディーヌはちょっとかわいそうです。イントロダクション|オンディーヌ作品紹介|劇団四季

220px-Maurice_Ravel_1925フランスの詩人ルイ・ベルトランの遺作詩集からの3篇に想を得たモーリス・ラヴェル作曲の「夜のガスパール」はその「オンディーヌ」を第1曲においています。ただしその筋書きから創作した詩は「人間の男に恋をした水の精オンディーヌが、結婚をして湖の王になってくれと愛を告白する。男がそれを断るとオンディーヌはくやしがってしばらく泣くが、やがて大声で笑い、激しい雨の中を消え去る」とあり、音楽はこれを描いています。

第2曲は「絞首台」、鐘の音に交じって聞こえてくるのは、風か、死者のすすり泣きか、頭蓋骨から血のしたたる髪をむしっている黄金虫か(Wikipedia)という不気味さ。第3曲「スカルボ」は本来いたずら好きな小悪魔(妖精)のようですが音楽からの印象は妖気漂う悪霊という感じで、部屋の中を目まぐるしくかけめぐり、あっという間に消えます。

僕は「オンディーヌ」に氷のように冷たい水の精を見ます。月光を映える水面のさざ波、虹をえがいて降りかかる水滴。きらきらと光る細かな音のしぶきはダフニスとクロエの「夜明け」の精妙な音響世界とシンクロナイズしながらだんだん高潮し、頂点へ登りつめる和音連結も、最後にひっそりと現れる単音旋律もダフニスそのもの。冷たい女が情を高めて炎のように熱くなり、最後は嘲笑を浴びせながら冷たい水の中に消えてしまう。スカルボと同じく不意に消えてしまう女の幻影ですが、残る笑いは不気味です。

フランス語のベルトランの詩は読めませんが、まったくのイメージですがスカルボも女性のイメージではないでしょうか。暖炉の中や椅子の影からじっとこっちを見ていて、目を向けると消える。曲想は違いますが「展覧会の絵」の「鶏の足の上に建つ小屋」の面妖奇怪な幻影、「幻想交響曲」の終楽章の悪魔の饗宴を想起させ、クラシック音楽のオカルト3羽ガラスといっていいかもしれません。おどろおどろしい低音に乗って妖気を孕んだ主題が疾風のごとく走り抜ける様はいかにも忌まわしく、この曲はピアノの難曲中の難曲といわれる技巧を要しますが、いくら腕が立ってもその上に注文通りの妖気まで放つ演奏を聴くのは稀なことです。

この2つの幻影に挟まれた「絞首台」はさらに忌まわしい。死んだ犬の目から黄色の・・というI am the walrusの詩を思い出しますが、何かの光景をえがいたというよりも夜陰に刑場にたたずむ心象の描写でしょう。この残忍、無残な場所を覆い隠す不気味な静けさには女性的なものの存在を一切感じません。その黒い死の静謐を両側から包みこんで男の人生を変えようと挑む女の悪霊。僕はこの曲をそういう3楽章のピアノソナタとして聴いています。ラヴェルの音楽で最も好きなもののひとつであり、絶対に弾けないのでシンセサイザーでの挑戦意欲をかきたてられる逸品であります。

 

cover_170x170-75僕の最も敬愛するジャン・ドワイヤン盤は廃盤のようですがJean Doyen ravelで検索して右のマークでi-tuneで入手できます。ラヴェルと親しかったマルグリット・ロン女子の高弟で女史後任のパリ音楽院教授です。鋼のような芯のあるタッチでペダルに逃げた曖昧さの一切ない硬派保守本流のラヴェルを聴かせてくれます。オンディーヌの音の粒、詩情、スカルボのタッチの冴えなど最高に素晴らしく、技術的にはもっとうまい人がいますがそれが音楽の求めるそのものなのだと得心させるような性質のものである所こそオーセンティックである所以でしょう。なよなよしたオシャレ系がラヴェルと思っている人は是非聴いて下さい。

mzi_rnuuftnv_170x170-75ジャック・フェヴリエ盤もラヴェル直伝のゆるぎない表現を感じます。これもi-tuneです。フェブリエは幼時からラヴェルに接しており、左手のピアノ協奏曲(大変難しい)の奏者として作曲者から全幅の信頼を得ていました。固めのタッチはキレと煌めきがありフレージングは明晰。実にフランス的であります。技術的には音の粒立ちと均質な揃い方などドワイヤンのほうが一枚上に思いますが、こちらはラヴェルらしい雰囲気では勝っていると思います。

zc1105850サンソン・フランソワ盤は幸運にも天才肌でアル中でむらっ気のある彼の良い状態の録音となってくれていて名演です。コルトー、ロン、ルフェビュールの弟子という血統の良さ。オンディーヌで頂点を築く部分の味わいは最高でありこういう徐々に熱気が高まる音楽がはまると彼の独壇場です。特にそれが顕著なスカルボでの鬼気迫るライブのようなのりは一期一会のすさまじさで、これを凌ぐ演奏はそうは現れないでしょう。唯一の欠点はEMIの録音でタッチに芯が感じられません。SACDは聞いてませんが少しは改善されたのでしょうか。

フランソワをお聴き下さい。

(追記、16年1月23日)

51GC47VJY3L__SS280オルガ・ルシナ(Olga Rusina)というピアニストを知ったのはyoutubeにあったオンディーヌでした。これがまったくもって素晴らしい。すぐにこのアルバム(右)をi-tunesでダウンロードしたのです。テンポとダイナミクスは動く。それが音楽の摂理に合って、何の無理もなく自然で、なんと滑(すべ)らかなことか!この曲がこんなに音楽的に弾かれるのは稀有で、これによってドビッシーのペレアスの延長にあることを知ったほどであります。シューマン「ウィーンの謝肉祭の道化」(op.26)がまた最高であり、こんな録音が埋もれてしまっては大損失だ。オルガ・ルシナについて知りたかったのですがwikipediaすらなく、HPはロシア語(ポーランド語?)だけでお手上げです。これをダウンロードしたのが12年だったと思うのですが、ところが、さきほどHPを見たら13年に亡くなっているではないですか・・・。55年生まれで僕と同じなのに・・・。

シューマンです。

オルガ・ルシナ、ぜひとも多くの方に聴いていただきたいと願います。こちらもどうぞ。

ショパン バラード1番ト短調作品23

こちらはたまたま見つけたケイト・リューの演奏。彼女は後にショパンコンクールで3位受賞することになるが16歳のこのスカルボは凄い。

 

 

 

 

(こちらへどうぞ)

ラヴェル「水の戯れ(Jeux d’eau)」

 

 

 

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ラヴェル 弦楽四重奏曲ヘ長調

2014 MAR 27 0:00:08 am by 東 賢太郎

僕が最も好きなカルテットの一つです。1年前に作曲されたドビッシーの同曲がありますが似たものではなく、ラヴェル独特の和声感覚にあふれた傑作です。

弦楽器4丁だけで作り上げる世界はシンプルなだけにごまかしが一切きかず、作曲家の「仕事」の良し悪しが露骨に出てしまうという意味で僕は江戸前鮨の小肌や穴子を連想します。ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルトが古参で複数のいいネタを握ってますがメンデルスゾーン、シューマン、ブラームス、グリーグ、シベリウスになると他の作品を凌駕する味ではなくなります。スメタナ、ボロディン、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、ドビッシー、ヤナーチェク、ベルクあたりが単品でいいのを握りましたがネタ数でいうとショスタコーヴィチとバルトークが古参の後継者でしょう。

180px-M_ravelこれほど大家でも苦労しているジャンルですから名作は中期か晩年の作というケースが多いのですが、ラヴェルはわずか27歳でカルテット史に特筆される名作を残したのですから異例な人です。全曲にわたって次はどう転調するのか予測不能という強烈な個性であり、ロマン主義に源流を発しワーグナーを経由してドビッシーに至った音楽の系譜からは超然とした、まったくラヴェル的な音楽としか表現のすべがありません。

ここでの転調は内声部が半音上がったり下がったりして有機的、連続的に起こるものではなく、小節をまたぐと何の脈絡もなくいきなり景色が変わるという感じのものです。例えば第1楽章の冒頭主題はヘ長調で山を登り、別な斜面を変イ長調で降りてきてト短調で止まる。トンネルを抜けると雪国だった、という感じですね。空気のにおいや光の当たり具合がぱっと変わって、こちらの気分も次々に動きます。これがたまらなく好きなのです。

ラヴェルというと一般に管弦楽法の魔術師でありムソルグスキーの「展覧会の絵」を絢爛たる絵巻に仕立てた手腕の印象が強いと思いますが、墨絵のように単色のカルテットに「ソナチネ」「ダフニス」「マ・メール・ロワ」「優雅で感傷的なワルツ」がこだまするのをきくと、あの色彩感はけっして彼の音楽の本質ではないことがわかります。このカルテットが何より雄弁にそれを物語っています。

ミステリー作家の泡坂 妻夫に 「湖底のまつり」 (角川文庫) という驚くべき作品があります。絢爛たるだまし絵の世界と評される傑作で、僕は日本のミステリーのトップ10に入れたいものです。精巧な作り物に完璧に騙されるのですが、見事にリアルな情景描写は今も色つきで細部まで記憶にあります。でもその「彩色」はだまし絵の小道具なんですね。そのリアル感がだまし絵の効果を倍増するのです。この作品を読んでラヴェルに似てるなあと思わずつぶやきました。

ラヴェルのカルテットがどう解釈されているか。転調が変転する情景と気分を支えているわけですから、4人の奏者たちの和声感覚が非常に大事です。それからメロディーと隠し味のような伴奏音型が並行する場面が多々あって、そこの音の混ぜ具合も重要です。それは弦楽四重奏ラヴェル例えば第1楽章のここです。メロディーとバスに対して第2ヴァイオリンとヴィオラが細かいさざ波のような音で和声感だけでなく絵画でいえば「材質感」のようなものを加えます。これが強すぎても弱すぎても音程があやふやでもだめです。そういう演奏がとても多い。こういうちょっとした部分が生命線になる、ガラス細工のようにデリケートな曲です。

本稿のためにCDを聴きなおしましたが、どうもこれぞと自信を持って推せるものがありません。まずは世評の高い演奏から寸評です。僕はパレナン弦楽四重奏団(EMI)でこれを覚えましたが、フランス風のいい味ですがどうも第1ヴァイオリンの音程が甘いのが気になります。ただ昭和の本邦音楽界では決定盤とされていたわけで一聴の価値はありましょう。

ラサール弦楽四重奏団は少し音程はましですが非常にクールな表情でフランスの情景が浮かんでこない。カペー弦楽四重奏団は歴史的名盤といわれますがポルタメントがうるさく4人の和声も相当にアバウトです。アルバン・ベルク四重奏団は比較的いいですね。練り絹のような音色で音程もしっかりしています。色調が暗くラテン的でないので僕の好みではありませんが演奏は非常にハイレベルです。

ブダペスト弦楽四重奏団。第1ヴァイオリンの音程がひどすぎて5分で耐えられずやめ。特に良くはないがまあ全般にいいでしょうというのが メロス四重奏団です。ヴァイオリンがやや繊細すぎる音ですが内声部の和声感がすぐれており、これは時々取り出して聴いているものの一つです。

イタリア弦楽四重奏団はややエネルギッシュすぎるのが好きでありませんが和声は見事です。この曲の生命線はヴィオラと思っているのでこれはかなりいい線ですね。ボロディン弦楽四重奏団。音楽的です。4人がハモッた音の純正調の和声は見事で上記の譜面のバランスも理想的。アルバン・ベルクと同じくフランスの香りがないのが僕には欠点ですが上質です。バルトーク弦楽四重奏団。うまいです。4人が音楽に「入って」いて微細なニュアンスまで揃っています。ちょっと第2ヴァイオリンのヴィヴラートが、と思いますが総合点は高い。

モディリアーニ弦楽四重奏団、これはけっこういいですね。フランスの団体ですが音はふくよかでニュアンス豊か。音程も良く上記譜面の処理も音楽的です。第4楽章の第1主題のキザミと和声変化への対応もグッド。エポック弦楽四重奏団。まったく知らない団体ですがチェコの団体のようで美しい演奏をしています。上記楽譜の後に来る第2主題、ヴァイオリンとヴイオラのユニゾンですが、ヴィオラがいいですねえ。音程も良くこれは安心して聴ける演奏です。ライプツィッヒ弦楽四重奏団。これも知らない団体。合奏体として和声を造っていて見事。上記譜面もすばらしいニュアンスです(ヴィオラの力です)。これはドイツ風ということでもなく音楽として高水準で好きであります。カルヴェ弦楽四重奏団は1919年にバイオリン奏者ジョゼフ・カルヴェを中心に結成し1930年代、40年代に活躍、1949年に解散しましたがこのラヴェルは絶品。ベストに挙げてもいい素晴らしさです。

最後にファイン・アーツ弦楽四重奏団による第1楽章です。米国はシカゴの近く、ウィスコンシンの団体ですが老舗の一つであり僕は彼らのバルトークを非常に高く評価しています。メンバーはその録音のころとは総入れ替えですが、このyoutubeはヴィオラをよく聴いていただきたい。上記譜面などすばらしい。とにかくヴィオラがうまいとこの曲は生きるのです。第1ヴァイオリンはヴィヴラートが多く甘目に弾き過ぎ、音程もアバウトなのでトータルでは買えませんが。

 

(補遺、2月16日)

ヨープ・セリス /  フレデリック・マインダース(pf)

MI00010514592台ピアノ版である。演奏は充分に楽しめる。カルテットは管弦楽のリダクションの性格があるが、それをさらに4手に落としたものは音楽のスケルトンを知るには格好のものだ。2手では行きすぎであり、ほぼすべての要素が書きとれるからだ。このカルテットの心をゆさぶる光彩と闇。それを生む和声とリズムの秘密がはっきりと聴きとれるさまは興味が尽きない。ピアノの技量としてはさらにデリカシーが欲しい部分もあるが悪くはなく、この曲が好きな方にはお薦めしたい。

 

 

 

 

 

 

 

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