ラザレフのショスタコーヴィチ交響曲第11番を聴く
2015 MAR 21 13:13:51 pm by 東 賢太郎
ショスタコーヴィチ
ピアノ協奏曲第2番ヘ長調作品102 交響曲第11番ト短調作品103
ピアノ イワン・ルージン 指揮 アレクサンドル・ラザレフ指揮 日本フィルハーモニー交響楽団
2015年3月20日 サントリーホール
交響曲第11番が僕の最も好きなショスタコーヴィチのひとつであることはブログに書いた。
そこに「第1楽章がハープと弦でそっと始まった刹那、冬のペテルブルク王宮前が忽然と眼前に現れる」と書いた。ライブだとそこの冷たい大気まで感じるリアルさで、やがて始まる皇帝軍の一斉射撃の凄まじさはこれが虐殺シーン以外の何ものでもないことを思い知らされる。
ラザレフはだいぶ前にチャイコフスキー5番などを読響で聴いただけだったが、もう長いこといろんなものを聴いたが演奏の良し悪しは初めの1音でほぼわかる。この日は日フィルの弦楽器群から素晴らしい音を引出しておりヴィオラ、コントラバスが好演、ヴァイオリンもこのホールでの最高の質感を保ったことは称賛に値する。
ソロ・トランペットも好演。管楽器は総じてレベルが高かったがイングリッシュホルンの高い方がほんのちょっと上がりきらなかったかな。打楽器も好演だったが特にバスドラの効かせ方が良かった。この音とコンバスが重層的な基調低音を作ることでオケ全体に見事な立体感が出ていた。こういうことは指揮者のセンスの賜物だ。
協奏曲は息子の19歳の誕生日に書いたこの曲は第2楽章などショスタコーヴィチと思えぬ優しい曲想だが聴きごたえがあった。軽め薄めに彩られた管弦楽法が楽しく、イワン・ルージンのピアノも軽め強めのタッチの弾き分けとグラデーションがみごとで、アンコールのプロコフィエフの第7ソナタ第3楽章も聴きごたえがあった。
大変に素晴らしいショスタコーヴィチを聴かせていただき大満足である。どちらもベルリンやロンドンにそのまま持っていって何の遜色もない名演だ。日フィルはほとんど聴いていなかったが、実力を認識した。
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ソヒエフ指揮トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団をきく
2015 FEB 21 22:22:24 pm by 東 賢太郎
N響できいて注目したトゥガン・ソヒエフを聴きたかった。プロは、
ドビュッシー : 牧神の午後への前奏曲
サン=サーンス : ヴァイオリン協奏曲 第3番 ロ短調 Op.61( Vn: ルノー・カプソン)
ムソルグスキー ( ラヴェル編曲 ) : 組曲 『 展覧会の絵 』
またまたサントリーホールであった。初めて聴いたオケだが、管楽器の音は昔のフランスの楽団とはずいぶん変わってユニバーサルなものに接近している。同じことは旧東独のオケやロシアにもいえるからフランスばかりではないが、僕らが若い頃にLPレコードで聴いたパリ音楽院のオケやドレスデン・シュターツ・カペッレの個性的な音色はもはや見事に消滅している。それを寂しいと思うのは古い人間だろうか。
失礼ながらパリはそうでもちょっと田舎のトゥールーズぐらいなら、という淡い期待は叶わなかった。だが、それはそれとして、牧神のフルート・ソロの柔らかい音はいきなり耳を惹きつけたから文句はない。まったりした質感が心地よいではないか。木管群はオーボエとピッコロ以外は全部女性だ。コンマスも美人の女性。こういう景色も悪くないが、やっぱり僕がヨーロッパに住んでいた頃はあんまり想定できないものだった。
特にうまいということもなく金管にミスもあったが、聞きすすむにつれオケ全体の特徴も冒頭のフルートと似て、弱音でふわっと立ち上がる時のまろやかな空気感が特徴だということがわかってくる。ソヒエフがそういう音造りをしていたのかもしれないが、カラヤンとベルリンフィルの音の立ち上がりを思い出した。
サン・サーンスは第2楽章がいいがトータルとしては僕は結局あまり夢中になれずに終わった曲だ。カプソンは音に芯がありながら柔らかく、音量も豊かで、ずっと聞いていたい魅力ある音色を持つ。アンコールはグルックの歌劇『オルフェオとエウリディーチェ』の精霊の踊りからクライスラーが抜粋した「メロディ」と呼ばれるもの。僕はこのオペラにモーツァルトの「魔笛」に通じるものをたくさん感じるが、この曲は第2幕でパミーナが歌うハ短調のアリア「「ああ、私にはわかる、消え失せてしまったことが」 (Ach, ich fühl’s)にそっくりだ(和声まで)。無伴奏で弾いたカプソンの音は和声を髣髴とさせる倍音豊かな美音で、これは聞きものだった。
展覧会の絵は一転して管楽器がカラフルな色彩を発散し、ああやっぱりフランスのオケだと思った。古城のサクソフォーンはとろけるように美しかったし、ソヒエフのメリハリある指揮はソロを中心としたアンサンブルを室内楽的にうまく目立たせながら弦は常にバランスよく鳴らし、リズムのばねは強靭な推進力を持つという独特な運動神経を感じるものでN響とのプロコフィエフと共通するもの。ただ音楽が対位法的でなく、彼の面白さが充分聴けたわけではない。
アンコールのオペラ『カルメン』から第3幕への間奏曲 、またまた絶美のフルートとハープの合奏はうれしい。この音楽、対旋律に回ってからのフルートの音選びなど、どうということなく聞き流してしまう部分なのだがいつ聴いても頭が下がる。そうそれしかありえないという音を辿っている。ビゼーの作曲の技は本当に凄い!この演奏は聞きものだった。最後はやはりカルメンの第1幕への前奏曲。これまた颯爽と速めのテンポで走る「弦の発音の良さ」に舌を巻く。うーん、これぞビゼー、これぞカルメンでなないか。聞き飽きた展覧会よりこっちを全部やって欲しかったかな。今度はソヒエフでカルメンを全曲聴いてみたくなってしまった。
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札幌交響楽団のシベリウスを聴く
2015 FEB 18 2:02:00 am by 東 賢太郎
サントリーホールにて尾高忠明指揮で交響曲5,6,7番。この3曲を一度にやってくれるとなると聴くしかない。札響というよりも日本の地方オケは大フィル以外は初めてでありそれも楽しみだった。尾高さんは2007年6月2日にN響でブルックナーの8番を聴き、それがとても良かったものだからずっと気になっている指揮者のひとりである。
席はあんまりよくなくて正面向かって右上のブロックだが、どこで聴いてもそう変わらないのがこのホールだ。このプログラムだと聴衆はどんなだろうと思って見たが、ほぼ満員に近く男性が6-7割だろうか。若い人もそこそこいてシベリウスのファン層はけっこう厚いのかもしれない。
まず5番だがホルンが響き木管が鳴るともう一気に気分は北欧である。ただどこかオケが固く、音が伸びていない。これはサントリーホール・トーンなのだが、高弦はトゥッティで耳につくし16-14-12-10-8なのにボディがない(本当にこのホールはだめだ)。第1楽章の弦がごわごわやりながらファゴットがつぶやく部分、あそこはなかなか間が持たなくて急に光がさすブラスの不思議な和音が生きない。終楽章全奏のフォルテもやや濁り気味である。正直のところこれを聴いてやや気持ちが萎えてしまった。
オーケストラというのは生き物だと思ったのは休憩後の6番だ。入りの第2ヴァイオリンから美しい。楽器が暖まった?のか(外は小雪で寒い)管もだんだん良い音になっている。まとめるのが難しい第1楽章だが納得の力演。速いパッセージの第3楽章poco vivaceあたりからエンジンがさらにかかり、アンサンブルも闊達にきまってくる。第4楽章はとにかく音楽が雄弁であるが、オケが自分の言葉で主張できているからラストの静寂が見事に印象的であった。
そして7番。これはさらに音が熟してヨーロッパのオケのような響きになる。いやな音が消えている。同じオケが誠に不思議なものだ。音楽の集中度がぐんぐん増し、最高に感動的なトロンボーンが頂点を築く。なんて素晴らしい曲だろうとただ聞き惚れるばかりで、何も派手なことは起こらないのに心が徐々に暖まって滋養に満ちてくる。大変な名演であり、ここまで弾きこんだ札響に敬意を表したい。尾高さんは現在わが国を代表する名指揮者であると確信した。アンコールのアンダンテ・フェスティーボの弦も大変美しく、今日は大好きなシベリウスを堪能させていただいた。
ひとつだけ、極めて残念なのはフライング拍手が起きてしまうことだ。何でこの曲でそんなことが起きるの?これだけの名演を成し遂げている演奏家がお気の毒でならないし、他の聴衆の感動もぶちこわしにしてしまう。こんなことは11年いたヨーロッパで一度も経験がない。ファンの熱意はわからないでもないが、クラシック音楽というのはロックやポップスとは違う、余韻まで楽譜の一部だ。
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N響 パーヴォ・ヤルヴィを聴く
2015 FEB 15 1:01:27 am by 東 賢太郎
9月からN響主席になるパーヴォ・ヤルヴィの指揮でシベリウスVn協(庄司紗矢香)とシショスタコーヴィチ交響曲第5番であった。
庄司紗矢香は僕自身こんなにほめていて( 庄司紗矢香のヴァイオリン)、ライブで聞くのは初めてで期待があった。一方シベリウスは僕にとってこういう曲であって( シベリウス ヴァイオリン協奏曲ニ短調作品47)、さてどうなるかというところだった。そこに書いた通り「女性がG線のヴィヴラート豊かにぐいぐい迫ってくるみたいなタイプの演奏はまったく苦手」であるのだが、意外にもそうでないのはほっとした。
結論を言うとちょっと残念。そこに書いた欠点の方は健在であったが美質の方が消えている。あのブラームスを弾いていた彼女にしてはぜんぜん音楽に入れておらずどこかかみ合わない。ヤルヴィの指揮はオケのパースペクティブが明確で風通しが良いのが長所だが、この曲では木管が裸で聴こえたり急な起伏が分裂症気味に聞こえ、第1楽章はただでさえ分裂気味なスコアがそのまま鳴っている感じで庄司の音楽性とマッチしてない。それが原因だったのだろうか。
第2楽章はまだ若いのだろう、あのワーグナー和音の前のモノローグは何なのか彼女は知らないかもしれない。これは良い演奏を聴きすぎている。美点を書いておくとG線までエッジのはっきりした大きな音で鳴っており、ツボにさえハマれば聴衆を圧倒する力のあるヴァイオリニストということはわかった。
ショスタコーヴィチは良かった。僕は5番とはこういうスタンスで付きあってきた( ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調 作品47)。解説を読むとベンディツキーという人による作曲家が熱愛したエレーナにまつわる「愛と死」のテーマ、カルメンからの引用について触れられている。注意して耳を傾けたがどこがハバネラなのか全く不明であった。15番の例もあるからそうなのかもしれないが僕はこの曲に女の影など聞かない。あるのは重く湿って不気味にリズミックな軍靴の響きへの絶望的な恐怖だ。
プラウダ批判の恐怖がなければ彼は4番を発表してこのような平明な調性音楽を書くことはなかっただろう。その恐怖の対象がいかに凶暴で理性を逸脱した野獣のものだったか、それは平民はおろかロマノフ王家全員惨殺のむごたらしさを見ればわかる。この5番に隠された自我の屈折はそれに目をつぶってはわからないと思う。
今日の第3楽章は最高のもののひとつ。(第1楽章も好演だったがコーダの最も大事なppのところで大きな咳やセロファンのシャラシャラが入ってしまった)。第2楽章のチェロの激しいアタックはマーラー演奏の影響を感じる。終楽章はスネアドラムが軍靴の響きを告げて冒頭主題が回帰してからあんまりテンポが変わらない。これは非常に納得である。
コーダはムラヴィンスキーに似るがやや速く、彼が微妙に減速するところもそのまま行く。大太鼓が入ってからはほとんどの人が減速するがそれもしないのはスヴェトラーノフに近い。このやり方は葬列を思わせるが戦車の行軍でもあり、作曲家の意図だったかどうかはともかく重量級のインパクトがある。バーンスタインやショルティのように快速で入って2回も大減速をする安芝居は勘弁してほしい。
N響をこういう風に鳴らす指揮者は少ない。だいたいが功成り名を遂げたおじいちゃんを呼んでくるわけで、あと何年生きてますかという老人の棒に憧れの欧州への畏敬をこめてついていけば首にならないという公務員みたいなオケだ。一人の音楽監督が強大な人事権でばっさりということがない。あらゆる業界、そんなので世界一流になれるほど世界は甘くない。悪く言えば名曲アルバムのオケみたいになりかねない。ヤルヴィは全権を渡してリードさせればいい仕事をしそうな面構えだ。
ところでN響はコンマスも替わるらしい。誰であってもいいが客としてはただひとつ、ヴァイオリンセクションがいい音を出せる人にしていただきたい。なお今春から読響定期も聴いてみることにした。
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デュトワ/N響のペレアスとメリザンドを聴く
2014 DEC 7 22:22:25 pm by 東 賢太郎
興奮冷めやらぬまま帰宅。日曜日の午後3時からの、あっという間の3時間半でした。僕のこのオペラへの熱い思いはすでにブログにしていますが上演はなかなかありません。録音だって多くはなく、それも一長一短があるのです。
屋久島の深い森をさまよっていたからでしょうか、森の奥深くに猪を追ったゴローが迷い込むシーンからすーっと音楽に入ってしまいます。
僕にとってこのオペラは不思議娘のメリザンドで決まります。好きなタイプのメリザンドがあるのですがフレデリカ・フォン・シュターデがあまりにはまりで、なかなか浮気ができずにおります。
今日の当役はカレン・ヴルチ。きいたことがありません。経歴を見ると「パリ高等師範学校で理論物理学の専門研究課程を修了」です。アルモンド王国でロケット開発でもするんかいとイメージが狂います。
しかし大外れでした。女性はそのものが不思議なんです。泉の水のように澄んだ声と完璧なピッチ。古典も現代曲もいけてしまうだろう究極の音楽美です。たしかにちょっと知的ではあるが、メリザンドは決して馬鹿ではなく「嘘をつくのはゴローにだけよ」という面がある。大変なクオリティの歌唱を生で聴けた僥倖に感謝するしかありません。彼女の歌は全部聴くことに決めました。
ヴァンサン・ル・テクシエも当たりでした。ゴローの猜疑が怒りそして殺人になっていく過程を描いたオペラでもあります。それが弱いと意味不明になります。演技がない演奏会形式でこのインパクトは素晴らしい。
アルケルのフランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ、存在感がありました。この人のザラストロは良さそうだ。ペレアスのステファーヌ・デグー、髪の毛のシーンは好演でした。ジュヌヴィエーヴのナタリー・シュトゥッツマン、どう考えても端役ですがこんな大物が。もちろん良かった。デュトワの気合いを感じます。イニョルドのカトゥーナ・ガデリア、見事でした。いい声、というか気になる声です。フォローしたい。医師のデーヴィッド・ウィルソン・ジョンソン、貫録でした。
シャルル・デュトワがN響から紡ぎだした音響は一級品でした。モントリオール響とのドビッシーは時々聴きますが、やや作りこんだ美という感じもあります。今日のは特にフランス風ということでもなく、音楽のエッセンスを理想的に引き出した観。模糊とした響きが屋久・白谷雲水峡は「苔むす森」の幻想的な風景とシンクロするほど自然なものがありました。デュトワがいま聴ける指揮者の中でも屈指の巨匠であることを確信しました。そして、なによりそれに見事にこたえたN響に大拍手です。
僕が今年きいたうち、文句なく最高の演奏会でした。大変な名演を有難うございます。
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ネルロ・サンティ指揮N響をきく(11月22日Cプロ)
2014 NOV 22 22:22:15 pm by 東 賢太郎
以前ブログに、曲が良ければ演奏者は誰でもよいと書いた。今日はそのメッセージを撤回しなくてはいけないかなと思っている。最近仕事でつかれ気味で今日も居眠りしなければいいなと心配したが、1時間の昼寝が効いてコンディションはOK、冴えた頭でじっくりときかせていただいた。
ロッシーニ歌劇「どろぼうかささぎ」序曲 ベルリオーズ序曲「ローマの謝肉祭」作品9 チャイコフスキー「イタリア奇想曲」作品45 レスピーギ交響詩「ローマの松」
というプログラム。サンティは国内外で何回も感銘を受け、2009年にN響とやったラ・ボエームはあまりにすばらしく2日とも聴いてしまった。そして1996年チューリヒ歌劇場でのラ・ボエームでのことは忘れられない。 プッチーニ 「ラ・ボエーム」 第1幕の絶不調のテノールを指揮台のすぐ後ろの席で(けっこう大声で)罵倒したら振り返ったサンティさんにおっかない顔で睨みつけられてしまった。
しかしそのあとのオーケストラ・パートの素晴らしさといったら!もうヘボのロドルフォのことなどすっかり忘れてピットの中を夢見心地で覗き込んでいた。
そして、今日のN響の第1ヴァイオリンの音の良さはいったい何なんだろう?コンマスはサンティが連れてきたのだろう、チューリヒ歌劇場コンマスの岡崎慶輔であり、いつもとは全然違う、圧倒的にグレードの高い格別の音が鳴った。ヨーロッパの一流オケに遜色ない見事な音だ。普段とのあまりの差に呆然とするばかり。
岡崎は1曲ずつ、計4回のチューニングを、まず管、そして弦と入念に行った。ピッチの完璧な良い音を届けようというプロの良心があれば当たり前のことだと思うのだが、どれだけのオケがそれを励行しているか。ヴァイオリンのピッチのずれというのは、非常に微細なものであっても音色に大きく影響していると僕は思う。
そしてヴァイオリンがきたない、特に高音のトゥッティが微細に歪むオケなど僕は聴くに値もしないと断言したい。それは指揮者の耳の良し悪しでもあるがコンマスの良心でもあろう。そしてそれにヴィヴィッドに反応して評価する聴衆の問題でもある。味がわからない客ばかりであれば本気で腕を磨こう、振るおうという料理人も出てこない。
とにかく今日は1曲目のロッシーニから岡崎の率いる弦が全セクションのクオリティを規定してしまい、耳をそばだてて聴くしかない空気が客席を覆い尽くした。こんなことは過去何回もない。いつも聴いているヴァイオリン群、あのひどい音は何なんだ。彼をコンマスにして大幅入れ替えをやったらワールドクラスになるのに。
そして指揮だ。あわてず騒がず盛り上げの疾走もしないロッシーニがずっしりと腹に応えるごちそうになる。「ローマの謝肉祭」の管の色彩感がラテンを感じさせる。「イタリア奇想曲」のいささか安っぽい旋律も浮かない(この曲をこんなに真面目に聴いたのは人生初めてだ)。
ローマの松も極彩色のタペストリーではない。じっくりと曲想を掘り下げ、スコアから音楽のエッセンスを紡ぎだす趣の演奏であった。この曲に僕が何を求めるかはこちらをご覧いただきたいが、( レスピーギ 交響詩「ローマの松」)納得感の高いアプローチであり満足した。
ジャニコロの松のクラリネットの弱音はたいへん美しかった。印象派風のパッセージと和声変化をあまりあざとく印象派風に響かせない趣味の良さも大賛成。明晰なイタリアンと評するより霞の向こうのR・シュトラウスという風情。不満は鳥のピヨピヨがやや大きかったかなというぐらい。
だが辛口の言になるが、オケの方はオーボエソロの入りのテンポや、ブラスがワールドクラスにはきき劣りするなどいろいろ微細なところでの技術や集中力が気になってしまう。この曲はあらゆる管弦楽曲の中で最も大きな音のする曲のひとつだが、全力の全奏にそういう事が出てしまう。フィラデルフィア管弦楽団でこれを聴いてしまうともうどうしようもない。日本対ブラジルのサッカーぐらいの差である。
サンティさんのような耳の良い方がこのオケを「世界の一流オーケストラの一つ」(プログラム)と言ったというのは本心かなと思う。それならコンマスを連れてこないのではないか。お世辞に浮かれるのでなく、真の世界水準の楽団が必要だと切に思う。そして今日のレベルの演奏を青少年に聴かせれば、クラシックの未来は充分明るいものになるであろう。演奏家の良し悪しは、やっぱり大きな要素なのだと得心した次第。
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ウィーン弦楽四重奏団をきく
2014 NOV 21 0:00:47 am by 東 賢太郎
紀尾井ホールで午後7時より、
モーツァルト 弦楽四重奏曲第17番変ロ長調K.458 「狩」 同 ピアノ四重奏曲第1番ト短調K.478 (ピアノ・遠山慶子) シューベルト 楽四重奏曲第14番ニ短調D.810 「死と乙女」
をウィーン弦楽四重奏団で。
僕のドイツ時代のウィーン・フィルの首席クラスの人たちでしょうか。あの音がしました。若手の活躍めざましいカルテット界でこういう大らかなアンサンブルは久しぶりであり、立ち居振る舞いもウィーンの人だなあという感じ、なつかしかったです。
細かいことは気にせずなんとなく合奏になってしまう。少々の乱れも本家本元の風格で一顧だにせず乗り切ってしまう。モーツァルトやシューベルトの時代の演奏はむしろこんなものだったか。精密機械のような演奏よりはふさわしい気がするのも不思議でした。
プロ野球でいうとマスターズ・リーグという風情でしたが、こういうオケージョンで技術的なことをああだこうだ言うのは野暮というものでしょう。遠山さんのベーゼンドルファーの響きがとてもモーツァルトにマッチしてました。アンコールはモーツァルト19番のアンダンテ。
先日コメントをいただいて久しぶりにお会いした山口さん、今度食事でもしてじっくり株の話をしましょう。
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レーゼルとゲヴァントハウス弦楽四重奏団を聴く
2014 NOV 9 1:01:58 am by 東 賢太郎
あまりに魅力的なので抗い難い。こういうのを英語でirresistibleというが、このコンサートのプログラムはまさにそれ。
メンデルスゾーン弦楽四重奏曲第6番ヘ短調op.80
シューベルト弦楽四重奏曲第12番ハ短調「四重奏断章」D703
ブラームスピアノ五重奏曲ヘ短調op.34
(ピアノ:ペーター・レーゼル、紀尾井ホール)
調性の並びもいい。しかもカルテットはベートーベンでいい録音をしているゲヴァントハウス弦楽四重奏団。
このカルテットは世界最古の弦楽四重奏団であり、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の主要メンバーで構成される。クララ・シューマンやブラームスらと共演し、メンバーであったF.ダヴィッドはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の初演し、J. ヨアヒムは、ブラームスのヴァイオリン協奏曲を初演している。
当然人は入れ替わっているがカルテットの多くはそういう場合解散してしまい、最近も好きだった東京カルテットのようにメンバーは入れ替わっても名前だけは継承されてきた団体がついになくなった。これのように205年も存続するのは稀であり、独墺系のレパートリーは彼らにとって歌舞伎のような伝統芸になっているかもしれない。一度ライブを聴いてみたかった。
メンデルスゾーンの作品80は姉のファニーが1847年5月に急逝というショックの中で書かれ、9月に完成、10月に自邸で私演、そして自身も11月4日に急逝という重たいものを背負った曲。もうここには真夏の夜の夢を書いた彼はかけらもおらず、全曲にわたって沈鬱な激情とテンションがみなぎった弦楽四重奏曲の傑作で、僕の愛好曲である。
冒頭、チェロのトレモロから入るが、ユルンヤーコブ・ティムの音の素晴らしさにいきなり圧倒される。一応チェロを触った者として羨望を抱くしかない音!この楽器は何だろう?厚みある倍音、滑らかな発音、ppでも浸透力のある音、ふくよかによく通るピッチカート、もちろん音程の良さも相まって奏者ティムの腕あってのものだが・・・。
ヴィオラも同質の音であり中音域が和声に独特のふくらみを持たせ、第2楽章の中音域はききものだった。アダージョでヴィオラと第2ヴァイオリンで造るアルト、テノールのロマン的な内声の動きも美しく、第1ヴァイオリンが協奏曲のような激しい動きを見せる終楽章も見事。それにしてもがっちりと和声を支えるチェロが効いていた。
シューベルトのハ短調は弦楽四重奏の「未完成」に他ならない。僕はこれが大好きで、こんな素晴らしい第1楽章をどうして放り出したのか??気になってならない。これを探り出すと未完成交響曲と同じことになってしまう。これも不安げな弦のキザミで始まる。
2番目の主題の高音での繰り返しでハーモニーを作るチェロの高音の美しさ!この曲には未完成交響曲も最後のハ長調交響曲の第2楽章も聴こえる。無い物ねだりしても仕方ないが、完成していたら大変な傑作になったろうに。ここもティムのチェロの音、音程の良さに耳がくぎづけになった。
最後はレーゼルが登場してブラームスだ。この曲の第1楽章は交響曲第1番を用意している。終楽章の長い序奏もそうだ。ピアノの書法はピアノ協奏曲第2番も。もともと弦楽五重奏で発想され、批判を受けて2台ピアノ版にしたが再度改作されて現行のものになった曲だが、そういう感じはしない。
演奏はレーゼルのピアノと弦のバランスが良く、安定感の中からじわじわと熱くなる音楽は見事。なんていい曲だろう。これぞブラームスという言葉しかない素晴らしいブラームスを楽しめた(アンコールは第3楽章であった)。たまたま前回テツラフ・カルテットを聴いたのと同じ1階4列目左端の席だったが室内楽にはふさわしい音である。これぞ音楽の喜びという夕べであった。
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クラシック徒然草-ブーが飛ばない国-
2014 NOV 1 2:02:18 am by 東 賢太郎
阪神ファンには悔しい結果でしたが、野球としては昨日の日本シリーズ最終戦は本当に素晴らしいゲームでした。幕切れがああはなりましたが、西岡も命がけでセーフになりたいという結果です。特別な試合ということを割り引いても、TVでも手に汗握るあんな鬼気迫る一戦はそうはありません。人間何事も懸命な姿は人の心を打ちます。
だいぶ前ですが日経新聞のコラムで元西鉄ライオンズの豊田氏が、バント成功で「いい仕事できてよかったです」と選手がいうのはおかしいだろ、と書いてました。オリンピックや甲子園でそんなこと言うか?懸命にやってんなら「お仕事」はねえだろというニュアンスで。まったく同感ですね。昨日はバントひとつ四球ひとつに魂がこもってました。スポーツの命がけとはああいうもんです。
相撲にはガチンコという言葉があり人情相撲というのもある。八百長ではないが命がけとそうじゃない取り組みがあるということを暗に意味しているのです。同様に野球も時々「野球ショー」みたいな試合があってがっくりきます。個人タイトルがかかると欠場させたり、そんな芸能みたいな試合をカネを払って誰が見るだろう?あれじゃあ人気が落ちても文句は言えんでしょう。
そういうことは音楽演奏にも感じます。
ピアノ・リサイタルや室内楽は個人技だからまだいいのですが、オーケストラというのが曲者で「お仕事」の無気力演奏が頻出します。誰もハナっからそうするつもりはないんでしょうが、指揮者がボケだったりどこかがうまくいかなかったり集団としてなんとなくノリが悪かったりして、俺だけじゃどうにもならんがなという空気がでてきて、まっ、お仕事だけはせんとなって感じで終わってしまう。大過なく曲なりに盛り上がってシャンシャン。
もう何回ブーを飛ばして野次り倒してやろうか思ったか知れません。日本だけじゃない、世界のトップオケでも時々あるんです、そういうのが。ところがプロですからね、別に技術に破綻はないです。だから曲の盛り上がりにだまされてそんなものにご丁寧にブラボーまで飛んでしまったりする。専門のブラボー屋でも雇われてるかと思ってしまいます。
コンクールはともかく音楽会で「勝てば優勝」みたいな命がけプレッシャーはありません。スポーツとはちがうので難しい。だからブーイングというペナルティぐらいはあるべきなんじゃないでしょうか。何でも間違えずにそこそこ弾けばブラボー?こっちもあほらしいが本物の演奏家もそれじゃ育ちませんね。
だいぶ前に某著名フランス料理店の東京店がオープンして、僕はスイス時代にパリ本店のファンだったのでさっそく行ってみました。それが値がものすごく張るくせに料理は実にフツーでして、バカヤローってなもんです。それが後日に評判をきいてみると皆さん行って感動してるんですね。名前負けというか、高いけど仕方ないねって・・・。こういうのにこそブーが必要なんですね。
西洋音楽なんだから西洋で勉強しないとというのは、した方がベターでしょうが本質ではないと思います。ここでの意味で西洋でない米国で勉強して西洋で活躍してる人はいくらもいるし、スズキメソッドみたいに西洋に取り入れられた日本の教育だってあります。問題は勉強じゃなく、西洋の厳しい聴衆の面前でやってブーの脅威とプレッシャーに晒されないとダメということではないでしょうか。勉強は所詮ネタの仕入れです。ネタが良くたって客が満足しなきゃ何の意味もなしでしょう。
ブーは周囲の感動に水をぶっかける可能性があります。だから飛ばす方も体を張ってます。それは聴衆と演奏家が丁々発止に火花を飛ばしているという証です。忘れもしませんが昔行ったローマ歌劇場で強烈なブーの嵐になって、歌が特に下手だったわけでもないので何がいけなかったかわからなかったのですが、野次られた歌手の方も堂々と受けて立っているのを見て、こいつらすげえなあ肉食獣だなあと思ったものです。ああやって鍛えられるんですね。
しかし、こういうことが起きない優しい草食文化の日本では、その指揮者やオケの演奏会はもう行かないというサイレントな意思表示しかありません。それが一番怖いんですが。特に外国演奏家は、ちょっとどうかなと思っても敬意とお義理をこめて割れんばかりの拍手を送るのが我が国聴衆のしきたりであります。まあ一種のおもてなし精神ですね。高いカネ払ってるほうなのに、これぞあのフランス飯屋と同じ現象なのであります。
だから某日本人ピアニストの名曲演奏会みたいなのを聴いているうちにソムリエを思い出したんです。今日はとっておきのボルドーを5本ご用意しました、なんて。ソムリエだからワインの味を変えることがない。フランスの先生に習ったとおり。それなら名人であらせられる先生のを聴きたいしCDも持っている。いったいあなたは何ができるの?という気持ちになってしまう。厳しい事を言うようですが、ブーが飛ばない国でぬるま湯につかっていてもせっかくの才能がもったいないと思うのです。
外人指揮者で日本の聴衆を悪く言った人はほとんどいません。当然です。最高にいい客ですよね。クラシック音楽なんか誰一人わかってないとボロカスに言って日本はもう行かないと明言したのはミヒャエル・ギーレンぐらいです。あっぱれです。こういう人好きですね。試合でケガした選手を「ライオンに追われたウサギが肉離れになるか?」と静かに罵倒したサッカーのイビチャ・オシム全日本監督を思い出します。
相撲や歌舞伎ほどクラシック音楽は客が育ってません。輸入もんだから仕方ないですが、相撲と一緒で横綱がだらしなければ座布団投げる、そういう感じで聴けばいいと僕は思ってます。聴き方にマストはないですから好きなものを好きに聴いて好きなことを語ればいい。それでだんだん「横綱相撲」がどういうものかわかってきますが、横綱じゃなくても十両だっていい相撲はあります。それこそが、命がけでやった手に汗握る鬼気迫る一戦です。
一流の演奏家でなくても有名な録音でなくても、そういう演奏はあります。単純に素直に心を開いて音楽を聴いていれば、それは誰にも子供にもわかるものです。人間のパフォーマンスだから正直で、ワインテースティングみたいな知識がなくてもわかります。なるべく録音でそういうものをご紹介するつもりですが、やはり眼で見た方がわかりやすいのでどんどんコンサート会場で実演に接することをお薦めいたします。
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ノリントン・N響のシューベルトを聴く
2014 OCT 26 17:17:03 pm by 東 賢太郎
渋谷公園通りを区役所の方へ上がっていくと、先月はデング熱の蚊を注意しなくちゃと思っていたことを思い出します。もう1か月か、早いものですね。
交差点の左は渋谷公会堂で昔はここでもクラシックのコンサートがありました。高校生の頃、ロジェストヴェンスキーがモスクワPOを連れてきてチャイコフスキーの悲愴をここでやりましたが、それが外国オケを聴いた初めて、悲愴の生も初めてでした。
大学生の頃、家内とそこを歩いていて、歩道橋の上で西の空にオレンジ色のUFO?を見たのを覚えてます。真っ昼間ですし錯覚じゃないですね、まわりの人もみんなびっくりしてましたから。かなり大きめで宙に浮いていて、スーッと動くと跡形もなく消えました。そんなことを思い出して、並木道から後ろを振り返ると、もう歩道橋はなくなっていました。
定期公演というのは僕にとっておまかせの寿司屋に行くみたいなもんです。何をやるのか知らず、プログラムでロジャー・ノリントンがシューベルトの未完成とグレートを振ることを知りました。へえ、これは面白そうだ。
前回ベートーベンの5番とピアノ協奏曲3番を聴いてすっかり好感を持っています。彼は弦楽器をノンヴィヴラートで弾かせますが、音色という点からもピッチという点からも奏者の集中力という点からも僕はこれを支持します。ヴィヴラートのかけ方というのは奏者の気持ち次第で指揮者がコントロールできないし、全員がシンクロするはずもないので必ず微妙な不協和が生じているはずです。かけてない音に慣れるとどこか汚い感じがしてきます。
ところで未完成という曲ですが、作曲当時としてはずいぶん異色な曲ですね。ロ短調というのはありふれたニ長調の並行調だからありそうなものですが、当時ではJSバッハの管弦楽組曲第2番とミサなど、ハイドンの弦楽四重奏曲37、64番、モーツァルトのアダージョk.540ぐらいでしょうか。シンフォニーとして異常な調性選択です。
暗い調性、地底からわき起こるような低弦の開始、シューベルトはそれを第4楽章でどんな風に幕を閉じる計画で作曲を始めたのだろう?ロ短調のままかロ長調にしたのか?知る限り、こんな不気味な開始の交響曲はそれまで例がありませんし、まったく想像もつきませんね。
ところが、いま我々は未完成の冒頭の3つの音 h、cis、d でやはりロ短調で開始するチャイコフスキーの悲愴交響曲を知っています。その音列の由来を同じ名前で呼ばれるベートーベンのソナタに求める人もいますが、そちらはハ短調であり、僕は先祖は未完成であると思っています。
悲愴交響曲は、この「はじまり」の帰結として、もうこれしかないだろうというほどぴったりの「おしまい」をもっています。シューベルトがこれを書いた1822年に、それは天才の頭にも浮かびえないほどadvanced なもの、歴史の先を行ったものだったのではないでしょうか。彼は才能の求めるままに、結局おわりのないものを書き始めていたのかもしれません。
そこに続く第1主題はオーボエ、クラリネットのユニゾンです。この曲はその2つにホルン、トロンボーンが目立ち、フルートとトランペットは影が薄いオーケストレーションです。派手なことはなにも起こらない曲想にトロンボーン3本というのも異様です。それがお葬式の楽器であることも意味深で、悲愴交響曲の第4楽章のおしまいの銅鑼のところを思わせます。
これを書いていた時、彼は梅毒に苦しみ絶望の淵に立っていました。
第2楽章で、主題が再現して第1ヴァイオリンがppのユニゾンでe-e とオクターヴ上がるところが注目されます。自筆譜を見ると、シューベルトはその次にすぐクラリネットの旋律を6小節書き込んでいますが、それをぐしゃぐしゃと消して、2小節後から現行のイ短調のオーボエの旋律を書いているからです。それが想定外だった証拠にそのページはクラリネットとオーボエの譜面の上下が逆になってしまっています。
この魂が天空に吸い寄せられるようなユニゾンの経過句! ここで彼は「何か」を聴いてしまい、その命ずるままに急遽オーボエに書き換えたのではないでしょうか。僕にはそう見えます。このユニゾン経過句は計4回現れますが、これはその2回目です。ところが1回目のほうは、そのユニゾンの第1音自体 h だったのを、これもぐしゃぐしゃと消して gis に書きなおしているのです。
現行譜はその gis から e cis と降りてきてそこから嬰ハ短調になるのですが h はその構成音ではないので何調にするつもりだったのだろう? 調が違うとすると曲自体のグランドデザインがまったく変わります。ということはそれはスコアを書きながら固めていったのではないか?上記の楽器の入れ替えも、入りの小節まで違いますから音色変更というよりデザイン変更なのです。
このユニゾン経過句の自由な転調可能性を変換機にして調性を即興的にデザインしながら、最後は ppp で変イ長調という僕の耳にはとても意外なところまで飛んでいった挙句、虚空に導かれながら元のホ長調に戻った安堵感をたたえて終わります。 まるであの世にまで旅したかのようです。
書くべきことは書いて満足したのか、器に入れる楽想もすべもなくなったのか、それはわかりませんが、とにかくそこでやめてしまった。自筆譜69ページで第2楽章は終結。次いで70と左上に書き込み、第3楽章を20小節書いたところで五線紙は空白となっています。
ところが自筆譜には表紙があります。これは実に奇妙です。もしそれが本物であるなら、そこに書き込まれた1822年10月30日にシューベルトはこのトルソを「Sinfonia in H moll」と堂々と呼び、後世に残そうと意図し、第2楽章で筆を置くことを自ら決めたことになります。つまり「満足説」が正しいように見えるのです。
しかしそうだとすると奇妙なことになります。それならどうして第3楽章の書きかけの1ページを破棄しなかったかということです。わざわざ作りかけですよとわかる状態で残す必要が何故あったのでしょう?それを献呈することは作りかけの料理を出すのと同じことで常識的には非礼ですから、やはり何か不可避の理由でトルソのまま残ってしまい、何かの理由で表紙を作り日付を入れたということではないでしょうか。
つまり、作曲者は第2楽章を書き終えて深い充足を覚えたのだ、だから筆を置いたのだというロマンティックな説はもっともらしいのですが、物証からどうもすっきりしません。書く気がおこらなくなって放置され、トルソでも価値があると認める誰かに献呈か売却しようと表紙をつけ、そのままにしているうちに命が尽きてしまった、なんてことになれば非常にスッキリしますが。
私見では、彼は満足したのではなく、暗い音楽に出口を見つけることはできないと断念したのだと思います。音楽はオーボエに書き換えたところあたりから黄泉の国の響きを湛えはじめ、交響曲という器には入らないものに変質していたと思われます。しかし第3楽章に諧謔性という俗世間臭のあるスケルツォが来るというベートーベンの打ちたてたパラダイムの呪縛を壊すこともできず、彼は耐えられなかったのではないでしょうか。
だからもう書きたくなかった。病気に小康を得たのかもしれませんが、とにかくもっと明るくて生きる力に満ちた音楽、病気に打ち勝つ音楽を、そういう創作の欲求が内面から彼を突き動かしたのではないでしょうか。そこで新たに書き出した曲こそハ長調の大交響曲であり、そうとでも考えないと人生の最後の最後に至って爆発したこの音楽の強靭な生命力は説明できないように思うのです。
さてノリントンの演奏ですが未完成のほうは編成をやや小さめにした古典的なたたずまいが好ましく、細かなフレージングや強弱に聞きなれないものもありましたが、考え抜かれた面白いものでした。第2楽章はやや速めで、ちゃんと第2楽章にきこえました。正しいともいえるしそうではないともいえる。あの表紙をどう解釈するかですね。僕の立場では、このトルソ感は正調と感じられます。
さてハ長調です。フレージングもテンポも意外性に満ち、飽きることなしです。僕がこの自筆譜をウィーン楽友協会の資料室で見せてもらったことを以前に書きましたが、冒頭のホルンソロは現行と違うのです。しかしノリントンは現行通りで、彼のオーセンティシティがどこまで本格的なのかはよくつかめませんでした。オケは未完成の倍ぐらいのイメージで第1Vn16人、Cb8人と舞台一杯であり、古典的性格を前面に打ち出そうとするのか現代オケの機能と音量を求めたのか中途半端な印象はありました。
第1楽章の主題に聞きなれないアクセントや強弱がついたり、木管の合いの手がffぐらい強かったり、スケルツォの3拍子の1拍目が強いので音楽が流れずごつごつしたり、とにかくユニークです。ペダル式でないティンパニの固めの音、Cbのごりごり、ホルンの低音のブラッシーな金属音などシューベルトには聞きなれない音もあり、大オーケストラ空間のあちこちからそれが飛んでくるのは現代音楽を聴くのに似た快感すらありました。
知的好奇心は大いに満足されたのですが、これほど全曲が終わってみて熱い感動があまり残らなかったザ・グレートというのも記憶がなく、そういう意味でも考えさせられるものでありました。これは精神の暗闇の中をさまよって前の交響曲を書いていた、その鬱状態に打ち勝ったことを刻印した曲なのです。だから終楽章はそう演奏されなければならないと思います。
ノリントンの知的なアプローチは後世の演奏家がつけた手垢が落ちた姿に目を見張る効果はあるのですが、それは作品の生まれたままの姿、それが本来与えるはずであった強い感動とは別なことに驚いているに過ぎないかもしれません。後世だからこその驚きだから。これは難しい問題を含んでいます。
京都の平安神宮は平安京の大内裏を再現したため鮮やかな朱色に塗られています。多くの寺社仏閣や仏像も創建当初は鮮やかな金や朱の彩色を施されていたそうです。それが長い年月を経て今の様に古色蒼然となっている。その風情に我々はわびさびや風流などを感じているのです。もしそれを創建時の彩色に戻したら?恐らく抵抗感がある人が多いと思うのです。
ノリントンが創建時の色で描いたシューベルト。好き嫌いでいえば好きなのですが、やっぱり僕の感性はなん百回もきいたこの曲の解釈、ものすごい感動を引き起こした名演奏(それは古色蒼然の仏像のほうなのですが)、それが見えてこないと感動しない。彼のハイドンとベートーベンはとてもいいのですが、モーツァルトとシューベルトになると・・・という感じがします。
古典音楽解釈は演奏のデフォルメまで時間の経過とともに原典の一部になっていくということなのでしょうが、その度合いは作曲家、作品の個性によって変わってくる、そういうことなのかなと思いながら帰途につきました。
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