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カテゴリー: ______歴史に思う

女性が指揮者をする時代

2015 AUG 1 17:17:29 pm by 東 賢太郎

女性の指揮について前回書いていて、考えさせられました。オーケストラの指揮者とは大勢の人を棒一本で動かすわけだから軍隊の将校か会社のCEOみたいなものだろうということです。それを女性がやっていけないこともできないこともない道理なのですが、それでも過去の歴史をみる限り世の中はそう回っていなかったのも事実です。何かが変わってきている。それを考えてみましょう。

軍隊の指揮というのはやったことないがリーダーシップがいるんじゃないか。階級社会だからタイトルさえあれば絶対服従のルールがあると思われますが、それでも上官の資質に心服した兵とそうではない兵では戦闘能力に差がありそうです。だから殿様の子とはいえあまりに暗愚だとお家のために排除されるし、スポーツの監督には軍隊の長のイメージが重なります。

会社経営も同じに見えますがちょっとちがう。無能でリーダーシップが皆無の人だって、社長のいすに座れば誰であれ命令を下せるし、その権限が由来する地位、ポストだって株をそれなりに持てば安泰です。トップがその程度でも潰れない会社があるなら組織は面従腹背ではあってもそれなりに動いているということです。

しかし軍隊、軍団はトップの命令が間違えば全軍の死を意味しますからそれはない。初めから死ぬとわかっても絶対服従で真剣に突撃です。特攻隊がその象徴であり、鹿児島の知覧でそれをまのあたりに知って、造られた真剣さで亡くなっていった彼らに涙しました。そういう意味でいえば、オーケストラの指揮者は奏者が面従腹背でも音楽は鳴るわけだし、失敗しても死ぬわけでもありませんから会社経営者に近いように思います。

ところが歴史を振り返えるとオーケストラに女性奏者が入ることが一般化したのはこの半世紀あまりのことです。ベルリンフィルもウィーンフィルもチェコフィルもいなかった。20世紀半ばに生まれた僕ですが、フィラデルフィア管に女性の姿はほとんど見ませんでしたし、30年前のロンドンで室内オケで女性ヴァイオリン奏者が多かったのを見て違和感を覚え、彼女たちがブルーのドレスを着ていて場違いに思ったこと、何か損したような気分になったことをはっきりと覚えてます。

教会で伴奏していた管弦楽団が女人禁制である宗教上の伝統もあったかもしれませんが、楽団が祝典の場だけでなく軍楽隊として兵を鼓舞する場にも出て行ったことが大きいかもしれません。そうなると楽員も軍人であるという意味あいが強くなります。その指揮台に立つのは将校になるということであり、だから女性がそれになることは天地がひっくり返ってもあり得ないことだったのです。

話は変わりますが、僕は会社時代に最大で500人ほどの長の経験をさせていただきました。そこから見る地位や権力の景色はよくわかったけれど、結局あまり大したことはしなかったから500人の意味は感じられませんでした。むしろ70-120人ほどのドイツ人やスイス人の軍団(外国拠点)を率いたことのほうが、自分の手で指揮したという実感がリアルに残っています。

Roman_legion_at_attack_10

そうこうしてローマ史を読みかえしていた時、スキピオやカエサルやポンペイウスやアウグストゥスがどのぐらいの軍団を率いたのかという興味がわいてきました。ローマ軍はケントゥリア(百人隊)を単位にした6000人ほどの軍団だったようですが、彼らはそれを束ねた何万という軍を指揮したわけです。しかし一人の将がそんな規模の全軍を一気に見渡せることはなく、複数の百人隊長のような副官を指揮したのでしょう。

だからローマ軍には「組織」という概念があったわけで、現在の役所や会社の組織構成、職位、職階はみな軍隊由来であり、日本のそれはドイツ軍由来であり部長や課長という名称もその訳語だと聞いたことがあります。僕は百人隊の隊長の体感はあるわけですが、それを60個たばねた6000人隊の景色は想像もつきません。いや、仮に会社でそういう経験があったとしたって、それを可視化して体感領域に落としこむのは誰であれ難しいのではないかと思います。

1280px-Xian_museumこの6000人という数についてはあれっと思った経験があります。94年に中国・陝西省の始皇帝陵に行ったおり、兵馬俑(右)の兵隊のテラコッタの数が約6000体ときいてローマ軍を思いだしたのです。これを造った始皇帝が生きた頃、ローマでは第1次ポエニ戦争をしていました。始皇帝は青目(西洋人)だったという説もありますし、6000人隊がローマから中国に伝わったのか?これは面白い、というのが当時の他愛ない興味だったのですが。

しかし今の関心事はそのことではありません。6000人の軍団が何かの合理性があって適当な数だったのかということなのです。ローマと中国には何の交流も関わりもなく、始皇帝も東洋人であったが、たまたま6000という数に秘密があったんじゃないか。兵は多い方が一般に勝率は高いでしょうが、指揮官の意志で動く効率や機動性においては大軍は劣ります。6000人前後の軍団というのは、ひとりの将が当時の軍略と指揮命令系統の物理的な制約のもとで戦いに勝つのに最強(最適解を与える数)であったのではないかということです。

兵の数だけ揃えても、個々人が弱い烏合の衆なら軍も弱いでしょう。だからひとりひとりが一騎当千であればいい。でも一騎対二千なら相手が烏合の衆でも負ける。ところが、一騎当千が十人集合すれば組織の相乗効果で一万以上に勝てる。そうやって二つの関数の交点を求めて最適解が求まるはずだと思うのです。つまり「個々人の力」「組織力」の二つの関数であり、第一次世界大戦までの歩兵戦、騎馬戦は無数の実戦例をベースに将軍や軍略家が智恵の限りを尽くして二関数の最適解を求めた。それが6000だったかもしれないと考えるのです。

だから歩兵戦、騎馬戦の時代は個々の兵力を鍛えあげることが最重要でした。ローマの重装歩兵は有名ですが、充分な武装をしていれば殺される確率は減ります。同時に、さらに大きいかもしれないファクターとして、安全である、勝てると信じれば兵の士気も上がります。そのうえに軍略というものが乗ってくる。カエサルはそれがうまかったし重視もしたと見えますが、それなのに半分の3000人ほどの精鋭隊を率いたそうです。人数のレバレッジ効果よりも精鋭部隊、兵ひとりひとりの士気や熟練度の方が単なる頭数より大事だったということでしょう。奇襲の天才だった源義経にもそれが感じられます。

しかしこの戦略は、第2次大戦で飛行機による爆撃という新たな大量破壊、殺戮の手段が加わって、一騎打ちの要素が後退するにつれて重要度が薄れたように思います。ゼロ戦の時代からB29の時代へと兵器のフロンティアが一気に進化したからです。高射砲のとどかない上空から爆弾を落として帰ってくるだけなら、パイロットの空中戦の技量が一騎当千レベルである必要はなくなりました。爆弾の投下ボタンを押すだけなら腕力も不要なら軍団である必要もなく女性でもできることです

そうなると、軍団の戦力は兵力よりも組織力だという考えに社会が傾いていく。会社の職位名が軍由来と書きましたが、産業革命以来の現象として船舶、航空機、陸上輸送の技術はもちろんのことエネルギー開発や通信の技術、医療や薬の開発など我々が依存して生きている文明の進化は軍事技術に由来するものがほとんどで、それが日常の生活に深く浸透して我々の精神領域にまで影響を及ぼしていることは、インターネットが軍の通信由来のものであることを指摘するまでもなく容易に理解されることと思います。

だから企業を軍に見立てて、兵力よりも組織力だという方向に流れが向かい、コーポレートガバナンスという言葉が一般大衆にまで届くようになったのではないでしょうか。企業がクラブや同好会とは違って法的に適格性の問われるものである以上はそれは当然のことです。ただ、それは企業支配という一面的な観点からの議論にすぎず、そもそも利益を生み出せていない企業にとってガバナンスは大事であっても二の次だという観点からの議論は陰に隠れて見えにくくなってきた気がします。赤字企業に優秀なコンプライアンスオフィサーがいても、やがて彼も失業するだけなのです。

利益を生む、つまり稼ぐということは現場の兵の仕事であって、将校クラブの住人は別世界でガバナンスを取り仕切っていればいい。僕はホールディングカンパニー(持ち株会社)という概念が米国から入ってきたときからこれは危ないなと懸念をもっていました。なぜかというと稼がなくていいそういう箱が浮世の現実から遊離した将校クラブになりかねない。そういう気風とは遠かったであろう帝国海軍の現場ですら、トラック島沖に停泊し豪華設備を誇った戦艦大和が兵からは「大和ホテル」と揶揄されていたのです。

あくまで報道された情報しかないことをお断りしておきますが、失礼ながらシャープや東芝の昨今の例をみるとあれは大本営が将校クラブとなってしまい、6000人隊の司令官が現場はおろか百人隊の景色すら見ていなかったという観なきにしもあらずという感じがしてしまうのです。遊んでいたということではなく、百人隊クラスの長は出世がかかっていて兵の実態は伝えないかもしれない。「それが危ないんで俺は必ず自分で現場を回り、若い奴とだけメシを食うんだ」とダボス会議で言っていたGEのジャック・ウエルチの言葉が今さらながら重く思えるのです。

ウエルチはこうも言った。「会社に利益をもたらしてくれるのはお客さんだ。だから儲ける方法はお客さんと接してる奴だけが分かる。本社で新商品会議してる奴なんか誰一人分からない。そんなつまらん会議は儀式(「ritual」という単語を彼は使った)だから俺はつぶす。お客は毎日変わるし敵も毎日変わる。昨日の正解は今日は不正解かもしれないから組織は日々現場から学ばなくちゃいけない。だから俺は儲ける方法を知っていて組織に教えてくれる奴は大事にする。そういう奴が会社を成長させるから会社と利益共同体になる、すなわちストック・オプションをもらう権利がある。」と。僕が入社したころの野村證券は、日本大企業には異例なほどそういうカルチャーの会社でした。

当時米国最大企業だったGEのコーポレート・ガバナンスの頂点にある男がこう言ったのはすごいことですが、軍隊だと思えば当然のことですね。野村は軍隊みたいな会社だったし、大日本帝国陸海軍にこういう司令長官がいたらあの戦争も変わっていたかもしれない。ホテル化した大本営で会議ばかりしている司令長官は儲け方は学ばず、ただノルマの数字を現場におろす。そして百人隊長が用意周到につじつまを合わせる。現場は大丈夫かと疑いながらも何もできない。つじつま合わせが出世の合言葉になる。現場で顧客相手に汗をかく兵、本来の勝つ方法を知る人材はみな白けて軍の士気が下がる。こういう会社を僕はいくつ見てきたのだろう。

組織論やガバナンスがまず第一、それが一流企業だ。たしかにそうです。ところが「ホテル」にいると利益は自然に出てくる紙の上の数字みたいに意識がボケてきて、利益を生むのは兵ではなく組織だという感覚になりがちです。そもそもそう思わないと自分たちのレゾンデトールがない。組織というのは組織図という紙の上にはあっても現実には見に見えない架空の存在です。それが継続的に利益を生むなどイルージョンにすぎませんし、仮にそれが真実なら誰かがもっと大きくてよくできた組織図を後から書けば簡単に逆転されてしまうということでそれもない話です。ウエルチのように常に兵を見て兵と語っていないといけないのです。

文民支配を謳うあまり武官経験のない人がトップになった場合、管理やコンプライアンスは完璧でも本業である戦闘能力が十全に発揮できるかどうか。トップは自分があまり経験のない現場というものに共感はありませんから、よほどウエルチのように自分のポリシーとして接点をつくらないと兵の士気は落ちて行きかねません。オーナー社長はみなその業務で稼いだ張本人、つまり武官だから士気に関する限りの心配はありません。問題はその次が文官タイプの二世三世になったり、不祥事でコンプラやアドミの専門家みたいなタイプの人がトップに座ったような場合です。それで兵の士気が保たれるのか?

この問いにイエス、ノーの答えはないでしょう。優れたリーダーは本人の資質だけでなく、その時代背景、周囲の敵の性質など様々な要因によっても決まるし、配下の軍勢の能力や参謀、ブレインの資質によっても左右されます。攻めも守りも文武両道で両方できるなら望ましいでしょうがそんな人はあまりいない。陸海軍士官学校はだからできたのでしょうし、西洋的な意味での本当のエリートを生む理想的な機関だったと思うのですが、不幸なことに教官だってそんなエリートはあまりいないわけです。武官として必要な人間力やケンカの強さより普通人である評定者にわかりやすい試験の点数というものがものを言うようになっていってしまったのではないでしょうか。

女性指揮者が現れる。それも優秀であり力を発揮しだしている。カエサルや山本五十六みたいな男が出てこない時代になりつつあるという男の劣化の問題なのか、女の進化なのか、女性が将軍をできる時代になったという社会の変質のせいなのか。僕はその全部が同時におきていると理解しますが、いずれにせよ大きなパラダイム変換がおきているということでしょう。目には見えないのですが。人間社会のあり方は世界中で確実に変化していますね。自分のことで言えば、やっぱり男ですからローマ軍を指揮してみたい願望はあります。しかしアセットを持たない方がいい時代にそれは軍の大きさではないとも思うのです。少人数でそれができないか。今の世はそこをどうとらえるかがビジネスの成否を決めると考えています。

 

 

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女の上司についていけるか?(ナタリーとユリアの場合)

チェコ・フィルハーモニー演奏会を聴く

 

 

 

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最高の夏だった地中海クルーズ(今月のテーマ 夏休み)

2015 JUL 12 0:00:03 am by 東 賢太郎

夏休みは何回あったんだろう。物心ついた幼稚園からとすればかれこれ55回ぐらいか、そんなにあったのか!

全部がそれなりに楽しかったのでしょうが全部を覚えてるわけでもない。よほど印象に残ることをしていないと60になれば悲しいかな忘れるもんです。

なかでも、スイス駐在時代の最後の夏に家族で行った地中海クルーズは最高の思い出かもしれません。よく覚えている。クルーズはいまどきは行かれた方がけっこう多いかと思いますが、86年ロンドン時代にもギリシャの島めぐりクルーズをしましたが東洋人はひとりもおらず、この2回目でも子供連れが珍しがられたような時代でした。こういうのにスッと入れたのも海外勤務あってのことでした。いまだったらちょっと面倒くさいかもしれない。

1997年7月27日にチューリヒからスイス航空でイタリアのジェノヴァに飛びました。まだ長女は9才、次女は7才、長男は3才とかわいい盛りでした。ヴァウチャーを見てみると空港に昼前についたようです。きっちりしたスイス人の世界からええ加減でスリの多いイタリア人世界に入ったぞと頭のスイッチを切り換えます。

ジェノヴァ(ここはここでいい街だった)

子供3人というのは夫婦の4本の手に余るのでこれまた危険です。出迎えのバスを何とか探し、両手いっぱいの荷物といっしょに子供も運び込んだという感じで無事に乗船すると、うれしいよりもほっとしてが気が抜けました。

一連の乗船手続きを済ませるといよいよ出航です。やっと家族だけのプライベートで静かな空間になる。汽笛が鳴っていよいよ出航。緊張の瞬間です。向かう先はどこまでも真っ青な地中海。そこから8日間の船旅でした。だんだん遠ざかるジェノヴァの街並みと丘陵が霞みのかなたに消え、夕闇が波ひとつない大海原をすっぽりとおおうと夕食です。黄金のような時間でした。

レストランはテーブルが8日間同じです。イタリアンがメインでこれが一番美味ですがメニューは毎日趣向がかわり飽きることはなし。ホールでは音楽、ショー、マジック、ダンスなど夜遅くまでアトラクションがありカジノがあり、デッキでカクテルを飲みながら寝そべっても快適で、ホテルごと移動して朝めざめると翌日の停泊地に着いているのだから贅沢です。

そして上陸すると英、仏、独語のガイドがいるバスにそれぞれ乗って当地をあちこち観光する。 寄港したのは2日目カプリ島、3日目シチリア島(パレルモ)、4日目チュニジア(チュニス)、5日目マジョルカ島(パルマ)、6日目イビサ島、7日目バルセロナです。船の名前はメロディ(Melody)でした。

カプリ島の昼飯のパスタは最高で、今でも覚えてる。快晴でした。丘の上のかなり高台の館風レストランで垂直に近い下に深いブルーの海。人生かつて見た最も美しい景色の一つです。ローマ皇帝のティベリウスがここに別荘を建てて治世の後半を過ごしたのも納得です。そしてクルーザーで沖に出て、小舟に乗り換えて「青の洞窟」です。天候によってダメな日もありラッキーでした。この島は行く価値があります、ぜひお勧めしたいと思います。

3日目のシチリア島はどうしてもマフィアのイメージがありパレルモの街をバスで行っても街は殺伐として見えました。丘の上の寺院のようなところから海を見たことぐらいの記憶ですが、ここの絶景もすごいものでした。飲んだワインのセッコがカラッとした空気にしっくりしていた、これ以来シチリアの白というとここを思い出します。街の雰囲気ですがローマとアラブが混じった独特のもので、ジャック・イベールの交響組曲『寄港地』(第1曲がローマ~パレルモ)が見事に描いてます

シチリア島のパレルモ

そして4日目はアフリカに渡ってチュニスです。シチリアは観光に子供たちを連れて行ったのですが、なんとなく防御本能が働き、この街では船に3人置いていきました(そういう親のため子供用プレイルームが完備している)。どうしてそうしたのかもう忘れてましたが、3月にあった博物館の襲撃事件に続き先月26日にはビーチリゾートでISによる発砲で観光客38人が死亡する近代チュニジア史で最悪の襲撃事件が起きており、やはり危ない場所だった。英国政府が自国民に退避勧告したようで、もう観光どころではない場所になってしまいました。

カルタゴ遺跡にて(当時41才)

ここのハイライトはカルタゴ遺跡です。これが見たかったからこのクルーズを選んだようなものでした。船はチュニスに停泊します。カルタゴはチュニス市ではありません。街を離れてバスでけっこう走った小高い丘の上「ビュルサの丘」にありました。カルタゴはここから地中海貿易を支配し、シチリア島をめぐってローマと対立して第1次ポエニ戦争でその領有を失いました。そこでイベリア半島の開発に注力し、名将ハンニバルが象を伴って進軍してローマをあわや陥落まで追い詰めたが戦線は膠着。大スキピオに攻められたカルタゴがハンニバルを呼び戻してローマ軍と戦ったがザマの戦いで敗れました(イベリア半島経営がわが国の満州にかぶります)。

カルタゴ勢力範囲(紀元前264年頃、青色部分)

この第2次ポエニ戦争の講和条件が厳しく、ローマへの船の引き渡しと多額の賠償金支払いと共に「アフリカの近隣国と勝手に戦争したらいかん」というのがあった。ローマの許可がいるのであってこれは憲法第9条と日米安保体制と見事にかぶるわけです。ところがカルタゴの西隣にはヌミディアという凶暴な国があった。第2次ポエニでローマと同盟を組んでいるいわば連合国です。こいつがそれをいいことにカルタゴ領を頻繁に侵略してきた(これも中国のあいつぐ領海侵犯とかぶります)。

ついに堪えきれなくなったカルタゴはヌミディアを攻撃。ローマに使者を送って開戦の許可を求めるが、元老院のカルタゴ撲滅論者らがそれを認めず勝手な攻撃は条約違反であるとしてカルタゴの武装解除、市民の立ち退きを決めた(ここも真珠湾の発端とかぶる)。そしてそれに激怒したカルタゴは籠城を決め3年も抵抗を試みたが、もうハンニバルはいなかった。将軍職を退いて首相に当たる職にありましたが国政の改革を断行したため一部貴族に追い出されてシリアに亡命、ローマの追っ手の前に毒をあおいで自殺してました。

BC146年、この第3次ポエニ戦争でカルタゴはローマの小スキピオという男に徹底的に殲滅されたのです。カルタゴが建設されたのは紀元前816年で、それから668年間続いた国家が消えた。籠城した市民がここで15万人殺され5万人が捕虜となり、市街は更地になるまで17日間燃やされぺんぺん草も生えないように塩までまかれた。これは軍人同士の殺し合いという戦争の概念にはとうてい当てはまらないおぞましい限りの大虐殺、民族抹殺であり、戦争はそこまで正当化できるものでもないし、そこにいかなる正義があったと主張しようにも白々しいだけの衝撃的な数字です。

カルタゴ遺跡

実際にその土地に立ってみてそう感じましたが、思えば我が東京の地だってそういうことがあった。1945年になって民間人10万人が一夜にして殺された米空軍司令官ルメイによる東京大空襲です。カルタゴは2160年前のことだが東京が焼夷弾で焼き尽くされたのは僕が生まれるほんの10年前のことでした。近代世界史で最悪の民間人襲撃事件でしょう。ルメイは民間人襲撃について、日本人は家で武器を作っている、武器工場を攻撃したのだと述べています。

そしてさらに推定14万人が殺されたという広島、そして長崎の原爆投下、これは一体なんだったのかと思う。ましてそのルメイが勲一等旭日章の叙勲者という力学は一体なんなのか、日本国の叙勲というもの、ひいては日本国というものはなんなのか。第2次ポエニ戦争でのカルタゴと同じく、敗戦国なのです。だから現代のわれわれはこの疑問を引きずったまま未解決の国に住んでいるのです。1945年を終戦というのはおかしい。カルタゴの運命を日本国民は記憶しておくべきでしょう。そしてカルタゴが殲滅された経緯が既述のようにいちいち敗戦後の日本(すなわち今)と嫌らしくかぶってくるのだということも。

だいぶ話がそれました。カルタゴ遺跡を後にチュニスの街へ戻ると、雑踏はもうアラブ系アフリカのムードです。どんな映画のシーンより迫力ありました。きょろきょろしながら雑踏をかきわけ、道行く人々の顔をしげしげと眺めながら、カエサルが進軍しクレオパトラと出会った古代エジプトもこんなものだったんだろうか、パルミラ王国のゼノビアもあんな女だったんだろうかなど歴史ロマンにひたりました。

ここまでが強烈過ぎたのか、マジョルカ、イビサはあんまり覚えてない。海岸で子供と遊んだぐらいでまあ普通のヨーロッパの島でした。昔からいかにショパンに興味ないかお分かりいただけると思います。そしてバルセロナなんてのは1度すでに行ってたし普通のヨーロッパの街であり、特に僕はガウディの妙ちくりんなあれが大嫌いなもんでさっぱりでした。

ジェノヴァに戻ってきてフライトまで少しあったのでタクシーを借り切って観光しました。子供に水族館を見せたりコロンブスの家を見たり。ランチをしたレストランZeffirinoはイタメシに食傷気味だったにもかかわらずかつて食したイタメシのベスト3に入る最高のものでした。ぜひ一度行かれるといいです。youtubeで見つけたのでご覧ください。

運ちゃんがいい奴であちこちで家族写真を撮ってくれ、アルバムの最後にジェノヴァがかなりの分量があるのもスマホのないこの時代ですね。ええ加減だけどにくめないイタリア。僕の地中海好きはこのとき決定的となりました。

すばらしい思い出を運んでくれた船、ミス・メロディ(Melody)はこれです。

 

さっきWikipediaを見てみると1982年に建造され大西洋クルーズに使われていましたが、我が家がお世話になった1997年にこのMSCという船会社が買って地中海クルーズに就航させたからデビューのころだったことがわかりました。こういうことがすぐわかるのも便利な時代になった、あのころネットがあったらもっと情報があって楽しめた。今の若い人は幸せです。

その後、メロディは南アフリカ航路になって2009年にはソマリアの海賊の攻撃を受けて大きなニュースになったようですが知りませんでした。そして12年に日本の船会社に売られたので会う機会はあった、残念です。翌年は韓国に売られさらにヨーロッパへ戻り、13年の11月に引退が発表されました。現在はインドのコングロマリットが購入し、Qingとういう船名に変わってインドの西海岸のゴア市で海上ホテルとして余生を送っているそうです.

もう一度会ってみたい。強くそう思います。

 

(こちらもどうぞ)

  イベール 交響組曲「寄港地」

 

 

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「知られざるロシア・アバンギャルドの遺産」100年前を振り返る

2015 JAN 31 2:02:02 am by 東 賢太郎

「スターリン弾圧を生き延びた名画」という副題の番組。革命後のロシアで行われた暴挙は人間の残虐さと無知蒙昧をさらけだしたが、テロリズムのニュースのさなか、100年たった今も人は変わっていないことに暗澹たる思いがある。

イオセブ・ジュガシヴィリ(通称ヨシフ・スターリン)の所業は今のロシア人はどう評価しているのか。ウラジーミル・ウリヤノフ(通称ウラジーミル・レーニン)なる物理学者の子がひいたレールの上をグルジアの靴職人の子スターリンが爆走した。シベリアに抑留され銀行強盗と殺戮を重ね、ロシア革命という天下取りのプロセスはどこか三国志の曹操を思わせる。

しかし100年前はまがりなりにも政権の正統性に神でも民衆でもなくイデオロギーが関与する余地があったことは注目に値する。神と暴力とメディアによる大衆扇動よりはずっと知性の裏付けがある。しかし知性も殺戮の道具になれば同じことだ。チャーチルは「ロシア人にとって最大の不幸はレーニンが生まれたことだった。そして二番目の不幸は彼が死んだことだった」といった。

Uz_Tansykbayev_CrimsonAutumn
面白かった。中央アジア・ウズベキスタンのオアシスの町ヌクスの美術館にあるイーゴリー・サヴィツキー(1915~1984)が集めた数千点のロシア・アバンギャルドの絵画の話である。スターリンによる芸術へのテロリズム。僕は音楽の側面しか見ておらず絵は無知だが、暴挙で消されかけサヴィツキーの情熱によってヌクスで命脈を保った1910-30年頃の絵のパワーは素人目にも圧倒的だ。

Uz_Kurzin_Capital

 

このクルジンの「資本家」のインパクトは今も強烈だ。資本主義に生きる自分を描かれたような気がする。クルジンはクレムリンを爆破しろと酔って叫んだかどで逮捕され、シベリアの強制収容所送りとなった。

 

 

 

 

ルイセンコの「雄牛」。凄い絵だ。痛烈な体制批判のメタファーと考えられている。一目見たら一生忘れない、ムンクの「叫び」(1893年)のパンチ力である。この画家の生涯についてはつまびらかになっていないというのが時代の暴虐だ。

 

 

 

ストラヴィンスキー、シャガール、カンディンスキーら革命でロシアを出た人たちの芸術を僕らはよく知っているが、彼らの革新性にはこうした「巣」があったことは知られていない。ストラヴィンスキーの何にも拘束されず何にも似ていない三大バレエは、このアヴァンギャルド精神とパリのベルエポックが交わった子供だったのではないか。プロコフィエフの乾いたモダニズムは「西側の資本主義支配層の堕落した前衛主義」に聞こえないぎりぎりの選択だったのではないか。

Uz_Korovay_Dyers
この「巣」を総じて「ロシア・アバンギャルド」と呼ぶ。アバンギャルドはフランス軍の前衛部隊のこと(英語だとヴァンガード)だが、転じて先進的な芸術運動をさすようになった言葉だ。「何物にも屈せず、何物も模倣せず」をテーゼとする。これらの画家たちはカンバスの表の面に体制を欺く当たり障りない風景画や労働讃美の絵などを描き、裏面に自分のステートメントを吐露した真実の絵を描いて「何物にも屈せず」の精神を守っR_Smirnov_Buddhaたそうで、それを「二枚舌」と呼んでいる。これはショスタコーヴィチを思い出して面白い。「ヴォルコフの証言」なる真偽不詳の本が出版され第5交響曲の終楽章コーダをどう演奏するかの論争があった。ハイティンクやロストロポーヴィチがその意を汲んだテンポでやったが、あれは偽書だからムラヴィンスキーのテンポが正しいのだという風な議論だったように記憶する。僕の立場は違う。「証言」が偽書であろうとなかろうと、皮相的な終楽章はあの4番を書いた作曲家の「二枚舌」にしか聞こえない。スコアの裏面に真実のステートメントをこめた楽譜が書いてない以上、コーダのテンポなど解決策でもなんでもなく、あの楽章は演奏しないという手段しかないと思う。同じ意味で僕は7番はあまり聴く気がしない。

ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調 作品47

「何物にも屈せず、何物も模倣せず」。このテーゼはなんて心に響くのだろう。別にアバンギャルドという言葉を知って生きてきたわけではないが、このテーゼはささやかながら僕個人が子供時代から常にそうありたいと願ってきた生き方そのものを鉄骨のような堅牢さで解き明かしたもののような気がしてならない。若い頃のピエール・ブーレーズがそうだったし、彼の録音が自分の精神の奥深いところで共鳴したのはそういうことだったのかもしれないと思う。

僕は芸術家ではないが、ビジネスをゼロから構築していくのはアートに通じるものがある。その過程がなにより好きであって、うまくいくかいかないかは結果だ。これから何年そんな楽しいことが許されるのかなと思うと心もとないが、心身健康である限り思い切りアバンギャルドでいこうと、ロシアの無名画家たちの絵に勇気をもらった。

有名であったり無名であったりすることの真相はこんなに不条理なものだし、そういうことをひきおこす人生という劇だって、いくら頑張った所でどうにもつかみどころのないものだ。だったらアバンギャルドするのが痛快で面白い。屈して、模倣して、大過がない、そんな人生ならやらないほうがましだ、改めてそう思う。

 

ベラスケス『鏡のヴィーナス』

ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 ハ短調 作品43(読響・カスプシクの名演を聴く)

 

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出雲について考えること

2014 OCT 28 13:13:52 pm by 東 賢太郎

西室が出雲へ行って、先日の佐白に関する興味深いお手紙のことなどを書いてくれました。神話や伝承について僕は詳しいとはいえないのですが、その根っこにある事実については関心がありいま何冊かの本を読んでいます。

それを調べるということは日本国の成り立ちや民族としてのルーツを探ることでもあります。そのひとりである自分のルーツもおぼろげに。これは大変興味深い作業であり、これから時間をかけてじっくり取り組むに足るものと思います。

おおよそ人類のルーツはアフリカ大陸にあるというのが現在の科学の通説です。それが日本列島にあるという人はいません。ということは何万年もさかのぼればの話ですが、日本人は全員がどこからかやってきた人々だということになります。

物事を考える時にはなるべく感情、思い込みをいれず、客観的な態度で取り組まないと真実を見誤ります。当代一の数学者であったケプラーにして、当時のキリスト教的思い込みで「等速円運動」を前提としたために惑星の運行法則を発見するのに30年もかかってしまったのが良い例です。

「日本人は全員がどこからかやってきた」という客観的前提に立てば、その「どこか」が朝鮮半島であろうが中国大陸であろうが一切のエモーションは排除できるはずです。むしろ地理的な観点からその第一候補がユーラシア大陸であることを否定する方が困難でしょう。

本州唯一の在来種である「木曽馬」の先祖はモンゴル馬であることがわかっているそうです。ということはそれを連れて海を渡ってきた人々がいるわけで、彼らが入ってきたルートが朝鮮半島か日本海の対岸かということはさほど重要とは思われません。日本には、少なくとも本州には、もともと馬はいなかったということが大事です。

それと同じことで、日本に製鉄技術を持ち込んできた人々が手紙にあるようにオロチョン族なるユーラシア大陸の人々であったことはなんら不思議なことではありません。それがオロチの語源になったかどうかはまた別なことですが、彼らが神話になるほど影響力を持ったことは考えられることと思います。

日本の製鉄技術は中国(ユーラシア大陸)に1000年、朝鮮半島に500年遅れていたそうです。しかしその事実をもって日本は後進国だ、朝鮮が教えてやった等の感情論に堕落しても不毛です。弟子が先生に常に劣るなら人類は確実に劣化してきたはずです。

新羅の古墳から出たガラスはローマ製だそうですが、近年奈良の新沢千塚古墳群から中国を経由せず西域から新羅経由で入ったローマングラスが見つかったそうです。人も技術もユーラシアではなくローマに根っこがあるということだって一概に否定はできないということです。

日本列島への文物伝播において、その新羅という国が朝鮮半島の中継点として重要であることは多くの本に指摘されています。新羅の慶州から船を出すと海流に乗って列島の中国・北陸地方に漂着します。高句麗からだと北陸、東北地方です。これは古代より物理的、原理的現象です。

福井県の敦賀は、海から来た烏帽子をかぶった人(オホカラの王子とされる)ツヌガアラシト(角がある人)が地名の語源とされます。石川県の小松は高麗津だったという説もあります。そういう伝承を荒唐無稽な民話としてではなく、物理的、原理的現象の帰結としてまず理解してみようとするのが客観的態度と思います。

たたら製鉄技術を持ち鉄製の武器を大量に保有できた部族が海を渡ってきて王権を握り、その地こそ好適な砂鉄を産する出雲であったということは納得できる説ではないでしょうか。技術自体はユーラシア起源(タタール)ですから、先のローマングラスと同じことでそれが中国経由か朝鮮経由かはともかく、出雲に西域と繋がった人が来た可能性は指摘できましょう。

一方、日本を征服した王朝、つまり天孫族の末裔である天皇ですが、少なくとも桓武天皇以降は百済系です。百済はもともと扶余族であり満州あたりの北方騎馬民族とされます。だから出雲を支配した人々(一説では物部氏)とは別民族であって、天孫族と戦って敗れたのだ、それがオロチ伝説であり大国主命の国譲りなのだと説明する人も多くいます。

その経緯を書いた史書というと古事記、日本書紀ですが、これらは藤原不比等の意図で天孫族王権の正当化を図る意図の反映も指摘されております。古代の貿易ルートとして「瀬戸内海から畿内」というものと「広く日本海経由」というものが利権対立し、前者の総元締めがヤマトで後者が出雲であったとする説もあります。前者が百済利権、後者が新羅利権であるため闘争になり、前者が勝ったとするもののようです。

前者の墳墓は前方後円墳です。それに対し後者は出雲に現れて東方に広がっていった四隅突出型古墳であり、こっちのほうが弥生時代と古い。弥生中期にヤマトに古墳はないそうです。つまり出雲が先住の王権であり、何かが起こって後発の大和朝廷が王権を奪ったと考える物証であるようです。

ここで私事になり恐縮ですが、ブログに書きましたが初めて出雲へ行った時に、なんとなくですが、気質的に自分と似たものを感じました。僕の先祖は石川の能登です。先ほどの日本海海流の物理的、原理的現象によれば半島のでっぱりは漂着地だったとは思っていましたが、いろいろ調べると出雲の文物がそうして東進したという物証は数多くあるようです。

例えば高句麗系とみられる前方後方墳の数は、島根33、鳥取3、兵庫7、京都8、福井3、石川26、富山2だそうです。距離的に近い鳥取、兵庫、京都、福井を飛ばして石川が多いのは、出雲からその埋葬文化を持つ民族が海路で東進したことを裏付けそうです。ともかく自分の中で出雲になにか特別なものを感じたというのは普通ではない気がいたします。

さてこの度の日本国を挙げての慶事である千家 国麿様と高円宮典子女王のご成婚は、天穂日命(あまのほひのみこと)の子孫である出雲国造家と皇室のご結婚であるわけですが、記記によればどちらも天照大神の子孫であるとはいえ、祭る神社でいえば伊勢神宮と出雲大社であり、天孫族と出雲族のご結婚でもあります。両者の式年遷宮が初めて一致した事実も思い合わせると歴史的視点からも大変意義深いことのように思われます。

まだ学習が及ばず雑駁な記述になりましたが、これから少しずつ出雲をとりまく歴史や文化を勉強して参ろうと思います。

 

信長、曹操好き狩猟民のすすめ

 

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米国との殺し合いに思う

2014 SEP 14 23:23:55 pm by 東 賢太郎

「米国放浪記」の楽しい思い出にひたった次の週、アメリカと殺し合いをした島に出張。この1週間での気持ちの落差は巨大です。帰りのグアムではアメリカ企業のホストで夕食会をしてもらったので、こちらからはある相談をしました。アメリカさんが好きになったり嫌悪したり、はたまた頼りにしたり。俺ってなんなんだろう。

不思議とクラシックを聞く気がしません。帰国してまだ一度も聞いてません。あれほど入れ込んでいたゴルフはもう1年以上クラブに触ってもいないというのを昔の知人は誰も信じないでしょうが、一番信じられないのは僕自身です。当時にブログを書いていたら、ほとんどの記事はゴルフだったでしょう。いま音楽がそうなってちっともおかしくない、自分はそういう人間になったかもしれないと逆に思うほど。

自分にとって大事なもの、生きていく糧になるものは「関心事」です。趣味とはちがいます。趣味は一生続きますが、関心は消えることがあります。僕は生来、関心事の領域が極度に狭い人間です。天文と野球と猫はいつでもそれで、ゴルフがそれだったこともあるし、クラシック音楽は今までそうかもしれませんが、仕事がそれだったことはほとんどありません。だからサラリーマンの宮仕えは、もちろん懸命にはやったのですが、僕の人生における重みという意味では僅少だったわけで、起業していま初めて仕事が重くなったと思います。

では今の最大の関心事は何かというと、「国」なのです。国ってなんなの?日本国のために300万もの日本人が亡くなった。でも、国にそんなに価値があるものなんだろうか?という疑問があるのです。国とは国民の幸せな人生を守るためにあるはずです。戦争で人生を終えられた方は、ご自分に幸せはなかったわけで、ではそのおかげで誰が幸せになり、亡くなられた方々に誰がどこでどう感謝しているのか?チューク島を見たことで、そのことがまったく分からなくなってしまったのです。

現代人が国と呼んでいるのは、少数の例外をのぞいて国民国家(nation state)のことです。しかし、ヘゲモニー(覇権)というものは昔からあっても、国民国家なんて19世紀半ばまで世界のどこにも存在しなかったのです。日本も徳川時代が終わるまで、誰一人として自分が日本国の国民であるなどとは思っていなかった。なくても良かったものに何故300万人も死ぬ必要があったのか?これが今、どうしてもわからないのです。

これは何故あんな勝てない戦争を始めたのかという意味ではありません。日本国という国体に内在した不条理のことをいっています。では反対側から考えて見ましょう。アメリカは300万人を殺して何を得たのでしょう?なぜ日本を防共防波堤として属州にしなかったのでしょう?日本という国体や天皇家を尊重してくれたのでしょうか?そうとは思えない。そんなお人よしがあんな所業を働くはずがないのです。何か国民が知らない理由があるはずなのです。

では国民の側から見て、もしも昭和20年に日本が全国土を米軍に占領されてハワイの先の州になっていたら?天皇制はなくなり政治家は失業しただろうが我々民衆はどうだっただろう?不幸な人生になっただろうか?そうでなくても西洋かぶれが跋扈してアメリカの亜流に憧れる国民であふれています。ならばアメリカ人になってしまえば?2年間米国に住んだ僕は知っているのです、それはそんなに悪いもんでもないことを。

僕が日本を愛する理由はただ一つ、父祖が、両親が、日本人だからということだけです。生まれた国を愛する義務感からでも、安倍晋三が唱えた「美しい国」だからでもない。先祖の尊厳を異国民に汚されたくない、それだけです。異国民が嫌いなのでもない。子孫が外国人と結婚しても、その人が妥当な人であるなら、それはそれで何でもないことです。君が代は歌うし日の丸に起立もしますが、それは父祖の国だからです。僕の愛国とは、ひとえに家族ゆえのfamily issueなのです。

そう思う方は実は多いのではないかという気がします。忠君愛国というのは日本国というnation stateが保持できないと困る明治以来の既得権者の都合ではないか。だから天皇は神でなくてはならず、神道を起こして仏教を排した。神なのに、それまでの日本史では征夷大将軍にあったはずの陸海軍統帥権を持たせた。これは長州閥が牛耳る陸軍が玉(天皇)をいただいてnation stateを支配する仕組みです。

もしそうなら愛国のフィクションで偽装ボランティアとして従軍し、死んでいった人たちにたいする国家の殺人だったとさえ思います。その国家というのが何たるやといえば、実は天皇すり替えで薩長がテークオーバー(乗っ取り)したものであり、明治維新という事後的に与えられた美称によって国民を欺いているもの、その真相を知っていた西郷隆盛が、薩長を陽動したグラバーらの英国の奸計に気づき西南戦争を仕掛けたものだったのではないでしょうか。

いま僕は職業上、経済上の自由を得た身として、自分だけの時間、つまりショーペンハウエルが人生で最も貴重とする真の「孤独」を得ることができつつあるかもしれません。充実した内面世界を有する者にとって孤独というのはなにかというと、物理的心理的な孤立ではなく、意味のない人や物と接しなくても良い究極の権利、いわば「孤独権」のようなものです。釣り人の夢でいうなら、これこそを夢見て僕は長年働いてきたのでした。

僕が国家に求めることがあるとすると、この「孤独権」を保護してもらうことでしょう。他国、他民族、暴力に蹂躙されたり、財産を没収されたり、法律や宗教で自由を侵害されたりしないことです。それが相応なプライス(税金)で買えるなら、僕は喜んでその国に住むことになります。権力を持つことは孤独を損なうので矛盾です。だから他人に、僕の孤独権を保護できるだけの権力、ヘゲモニーを持っていただくしかありません。選挙では、その仕事をまじめにしてくれそうな政党と候補者に投票するのみです。それがいなければ、仕方ない、海外移住することになると思います。

 

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チューク島にて(その3) 

2014 SEP 14 11:11:38 am by 東 賢太郎

 

春島の防空壕を見に行きました。車でしばらく小高い丘を登ると、米国統治下になって米軍の上官が住んでいたという洋風の家が斜面に並んでいます。てっぺんにはチューク州知事公邸が立派な大木の前に建っていますが、空き家です。島民は市長に選ばれるとそこには住まず、自宅を公費で改修して住んでしまうのだそうです。

chuuk15

そこで車を降り、さらにジャングルへ入っていきます。暑さは全く感じません。東京のデング熱騒ぎで蚊を心配していましたが、去年と同じく滞在中に一匹も蚊とハエを見ませんでした。「日本ならもう10か所は食われてるね」と笑いながら登っていきます。

 

chuuk11

やがて防空壕の入り口に着きました(右)。入って20mほど進むと右に折れて丘の向こう側に出ます。百人は入れそうな巨大な人口洞窟であり、入り口と出口の位置を測量して固い岩盤を穿つという、精巧かつ気の遠くなるような土木作業が行われたことを伺えます。

 

反対側の出口には大砲が一門据えられていました。英国の軍艦に搭載されていたものだそうです。

chuuk12

重さは1-2トンほどあるでしょうか、この巨大な鋼鉄のかたまりを縄で丘の頂きまで引っぱり上げてきたそうです。これまた気が遠くなるほどの作業だったでしょう。

chuuk13

これが砲門の狙っている方向です。パンの木で見えなくなってしまっていますが、その先が港です(右端のほうに海が見えます)。敵軍の上陸作戦を想定していたことが分かります。

・・・・

ところが結局、兵士たちの苦労と工夫にもかかわらず、この大砲は一発も砲弾を発射することがありませんでした。終戦1年半前の昭和19年2月17日、18日、米軍機の大群が襲来し、トラック諸島の日本軍は空から一気に殲滅されてしまったからです。これがその惨状を実写した米軍のフィルムです(お気の弱い方はご覧にならないことをおすすめします)。

ここに集結した米軍機動部隊は戦艦6隻、空母9隻、駆逐艦、潜水艦を含め総数70隻からなる大艦隊で、空母から発進する爆撃機は延べ1200を超えました。環礁内に沈められた日本軍船舶は100隻近く、航空機に至ってはその実数は不明のままです。

「夏島の海岸と道路には死体が延々と並べられ、腐敗臭が鼻をついた。死体から流れ出る血のりで道路も歩けなかった」と土地の老人は語り、「遺体の焼却が間にあわず大きな穴を掘ってどんどん埋葬した」そうです。2日間の戦死傷者は1万5千にのぼりました。

言葉がないほどの残酷かつ屈辱的な光景です。この先に東京大空襲、広島、長崎が来ることを思うとやり場のない怒りを禁じ得ません。しかし敵に怒っても仕方ないのです。これが戦争ですから。フィルムの声の主が勝ちどきを上げているように、これは怨念のこもったパールハーバー(真珠湾)への復讐でもあったのです。

後世の我々はこの戦争という事実から目をそらしてはなりません。事実を直視し、冷静に分析し、いかにこの惨事を繰りかえさないか、この1万5千の方々の犠牲から何かを学び取らなくてはならないと思うのです。

相手には圧倒的な性能の武器と物量があったという事実。上陸を想定した大砲が無用な大規模空爆であった事実。奇襲を予測も通信傍受もできておらず丸腰状態だった事実・・・・。

武器、物量というハードの敗戦であったことは明らかですが、諜報、敵情分析、暗号解読、戦略、智謀というソフトの敗戦という側面を僕は強く感じます。腕力よりも、むしろ知力で負けたのだと。

戦後のインテリ層はそう認めたくない、しかし、このフィルムはそれを明明白白に示しています。こちらが防空壕を掘る間に、敵はカメラマンを乗せて実況中継できるほど楽勝の確信をもって軍備を整えていた。悔しいが、それが歴然とした事実です。諜報、敵情分析、暗号解読、戦略、智謀なくしてどうしてそれができたでしょう。物量は、そのあとについてくるものなのです。

そういう「ソフト」を重視しないのは日本人の民族特性かとすら思います。平和の世になった今になっても、一部の日本企業にはそれを感じます。モノ作りやおもてなしの力を過信し、諜報と智謀に基づいた大きな戦略がない。この大空襲を知ってしまった僕らが、あの防空壕の砲門を見る思いがしてしまうのです。

・・・・

空壕の入り口です。「さあ戻りましょう」。車のほうへ丘を下りようとしたら、夕方のスコールに見舞われて立ち往生となってしまいました。バケツをひっくり返したような豪雨。誰かがぽつりと言いました、「なんか、東京を思い出しますね」。

chuuk14

とても重たいものをいただいた日でした。

 

(本稿に書きました史実は、当日に案内をして下さった末永卓幸さんの「トラック島に残された六十五年目の大和魂」から引用させていただきました。当地にお住まいになって36年の知見と博識、すばらしいガイドに心より感謝しております。)

 

大和、武蔵、五十六、慰安婦、そして戦争という愚

 

 

 

 

 

 

 

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チューク島にて(その1) 

2014 SEP 11 21:21:56 pm by 東 賢太郎

4泊でミクロネシアへ行って来ました。去年はポンペイ島でしたが今回はチューク島です。下の地図でCHUUKとあるのがそれで、二重丸のWENOとあるのが今回上陸した島です。ご覧のようにミクロネシアにチューク島という島はありません。大雪山という山がないのと同じで、珊瑚礁に囲まれた大小百の島々をまとめてそう呼ぶのです。左上にグアム(GUAM)、サイパン(SAIPAN)がありますからだいたいの位置はお分かりいただけるでしょう。日本からはグアム経由となり、成田-グアムが約3時間、グアム-チュークが約2時間です。

micronesia

チューク島はトラック島ともいい、戦時中、呉の日本海軍の基地をそのまま前線に移転したのがここです。ですからあの連合艦隊が停泊し、山本五十六連合艦隊司令長官の邸宅があり、帝国海軍総司令本部が置かれた南洋の最重要拠点でした。環礁内ですから湖のように波がなく、大型艦が侵入できる充分な水深があり、面積は神奈川県ほどと広大です。海軍スタンダードの1200m滑走路ができる平地と兵隊の駐屯スペースが確保でき、山には猛獣、害虫がおらず疫病のリスクが低く、ヤシ、マンゴー、パンの実が自生し、雨水で毎日潤い、マグロ、カツオが捕れるので最低限の食糧は調達できそうです。司令本部を置く地勢として格好の場所であることは、行けば体感できます。

最大五万人の日本兵、承認等が居留し、中心である夏島(TOUNAS島)は小都市のように賑わったそうです。なぜ夏島というかというと、環礁内に長期居住可能な四つの大島があり、軍はそれらを貼る島、夏島、昭島、冬島と名づけたからです。その他、日月火水木・・・、子丑寅卯辰巳・・・などと命名されます。本部は中央の夏島に置かれ、山本五十六長官の邸宅は同島の丘の中腹にありました。

Map_Chuuk_Islands1(Japanese)

チューク州政府や飛行場は春島にあるので夏島へはボートで渡るしかありません。今は現地の人が数千人のんびりと暮らす何でもない緑の離島で、大日本帝国の国運を握る大連合艦隊と総司令長官、幕僚と幾万の軍人がそこにいたなど想像もつかぬ景色です。ボートが確保できなかったので仕方なく僕らは春島のでこぼこ道を登ったザビエル高等学校の高台から夏島を眺めることになりました。これがその写真です。

tonowas

この海に戦艦大和と武蔵が停泊していたのです。大和と武蔵が並んだ写真は一枚しか現存しないそうで、それが撮られたのがここです。日本軍が撤退する時、軍艦を錨に係留する浮きを爆破しましたが、その浮きだけは今も夏島との中間にある小島の脇に漂っていました。山本五十六の邸宅は朽ち果てているようで、次回来たら行ってみたいがと聞いてみたところ、「ジャングルの山道を登らないと行けません、お年寄だとちょっと厳しいですね」とのことでした。

戦争に勝っていれば邸宅は戦勝記念館となり司令長官の銅像は遠くアメリカの方向を悠揚と見やっていただろう。きっと高校生の修学旅行コースにでもなっていて、日本人の地球儀の眺め方を根底から別なものにしていたに違いない。僕のお客様で、東映の映画山本五十六の制作に関わった方が、今の高校生はひどいもんですよ、やまもとごじゅうろくって誰?なんて聞くんだよと嘆いておられました。そんな子でもマッカーサーぐらいは聞いたことがある。何なんだこの国はと。

 

(続きはこちら)

チューク島にて(その2)  

織田信長の謎(5)-京都とミクロネシアをつなぐ線-

 

 

 

 

 

 

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僕の愛国心というもの 日本のルーツ 序章 (今月のテーマ 出雲)

2014 JUN 8 21:21:30 pm by 東 賢太郎

 

僕が先日に出雲へ行って感じた愛国心というものをご説明するには、ずいぶんと長い長い前置きが必要になります。それは海外で16年暮らした僕の今に至る半生をかけた思いであり、お読みいただければ幸いです。

 

クニとは何か?

あなたが「おクニはどちらですか?」と初対面の日本人に尋ねてみたシーンを想像してください。相手に「日本です」と真顔で答えられたらどうでしょう?あなたはおそらく絶句するに違いなく、しばらくして、ふざけるなと怒りを覚えるか、なにかまずいことをきいてしまったかと心配するかもしれません。このクニは「郷里」を意味するのが正しい日本語であって、それを理解しない人が「日本です」と答える、つまり日本人であると宣言するというのは何か大きくて空恐ろしい定義矛盾であって、そういう場面に遭遇することを我々はあまり想定していません。

ペンシルヴァニア大学に留学したてのころ、僕はその日本的な「おクニはどちらですか?」感覚で、軽い気持ちで初対面のアメリカ人にWhere are you from?とよくききました。すると、Where?  What do you mean? と怪訝な顔でききかえされることが多く、New Jersey. など即座に答える人もいましたが、どうも妙なことをきいているのかという一抹の不安が常にありました。天下の誇り高きアイビーリーグの学生に「おクニは?」ときくと「ずいぶん訛ってますね」ととる人もいるというということを知ったのは後日のことです。ましてご先祖の出身国などはきかない方が安全でしょう。彼らはみんなそれを捨てて「アメリカ人」であることが誇りなのです。それを喜んで答えてくれたのはピルグリム・ファーザーズの末裔であられた女の子だけであり、だいたいが米国人は母国で貧しくて危険を冒して海を渡ってきた人ですから触れたくない場合も多いのです。

次はところ変わって、野村時代に中国は福建省の福州から山奥に6時間走った農村でのことです。大雨で日帰りの予定が想定外の宿泊となってしまいました。仕方なく日本人が誰も行ったことはなさそうなホテル?の食堂でくつろいで酒もまわり、日本語でわいわいやっていました。すると隣のテーブルの地元のオッサンが大きな声で何か話しかけてきました。いかん、まずかったかなと思うや、通訳が笑いながら「東さん、どこのクニの方言?ときいてますけど・・・」。ド田舎ですから彼は我々を日本人はおろか外国人とも思っておらず、どこかの少数民族と思ったんでしょう、日本語を中国の方言だと思ったのです。中国では国をきくのは非礼でもなく、お互い言葉も通じないのがいかに普通かうかがえるでしょう。

クニと国の違いは各国でこれまた違うという難儀

米中の「クニ」は日本のクニではなく、米国人のクニと中国人のクニもまったく違います。そしてその3つのクニは、これまた「国」とはどれもがそれぞれの違い方で違います。そしてさらに厄介なことに、それは英国で、ドイツで、スイスで、香港で違い方がみんな違います。例えば英国ですがイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つの代表チームがWカップ参加資格があることはご存じと思います。こういう国でWhere are you from?ときくのは、スコットランド人が英国人(一応イングランド人の訳語)と思われることに誇りを持っていることなど絶対にありませんから米国より危険度は少ないでしょう。ただそういう「違い」ぐらいは2,3年も住めばわかるでしょうが、「違いの違い」を知るにはもっと多様な経験と観察を要します。

今ふりかえってみると、僕の中で「その違いのわかり度合い」というのにはグレードが存在していて、管理職になってしまっていたスイス、香港ではその理解度がずいぶんと表面的で甘いことに気づきます。逆に、学校で米国人と競って落第しないかひやひやし、仕事の現場で英国人のお客に怒られ、ドイツ人の行政官にガキ扱いされてこの野郎と憤慨するような「底辺人生」だった米英独のそれは肌身に染みてわかります。スイス、香港に2年半ずつ住みましたが、管理職はいわば「お客さん扱い」されていてそういううちはわからないことです。

そのグレードの差というのは僕にとって野球を見るのとサッカーを見るぐらいの大差です。現場で苦労した、戦ったという体験はそのぐらい大きい。例えば、野村證券ではお客様から注文をいただいて伝票を書くことを「ぺロをきる」といいましたが、それが初めての時、どれだけ手が震えるほど重かったか、それは野球場で球を追っかける経験と同様やった者しかわからないという性質のものです。野村では「株の怖さというのはぺロをきらないとわからない」と教わりましたがまったくその通り。だから野村のベテラン社員でもぺロをきったことのない人を僕は1分で見抜けますし、そういう人と1分以上株の話をしても時間の無駄と即座に判断します。

愛国心と愛郷心もこれまた違う

僕が愛国心というものを明確に意識し、日本という「国」の姿を初めて意識するには5か国に住んでそういう経験を10年はする必要がありました。その前から愛国心らしきものはありましたが、それは今思うと愛郷心、生まれ育ったクニへの愛情です。そこに「国」という姿は、あったつもりではいましたが、それは五輪で掲揚された日の丸を見た時の熱い感情のようなエモーショナルなものにすぎず、今の僕の目から見て愛国心と呼べる次元のものではありません。君が代で起立しない者が総理大臣にまでなる時代ですが、彼らもWカップでは日本を応援するかもしれず、クニを愛することと愛国心があることとは別なのです。

いま、僕の愛国心はクールで静かで冷徹なものです。それは、アメリカで厳しい教育を受けたからだろうと思っています。世界の支配者であるアメリカが自国のエリートを育てるための教育、いわば原爆を広島と長崎に無慈悲に落とした側の本丸で支配者の本音の教育を一緒に受けたからです。あのビジネススクールでのMBAカリキュラムの勉強という理不尽かつ殺人的な物量、そしてそれをこなすべき日程のいじめとしか思えない気違いじみた短さに比べれば日本の大学など至極常識的で、だから僕は学歴欄にはペンシルヴァニア大学経営学修士と書きます。そんなものは日本ではほぼ理解されませんが、あまりまじめに勉強しなかった東大よりそれのほうが実感にずっと近く、その後の人生への影響の甚大さからして当然のことです。

その上で、僕は11年半のあいだ欧州で日本株を欧州人に売るというこれまた英語による理不尽な学習量と時間に追いまくられるハードな仕事をしました。そこで付き合ったお客様はみな歳がやや上の、最上級の教育を受けた欧州のエリート層です。欧州の金融界というのはそういうところであり、日本の銀行は入れてもらえませんが当時世界最強レベルのパワーがあったノムラは名誉メンバー待遇でした。そしてそこである驚きの現実を知りました。彼らがいかに米国を「上から目線」でカウボーイ国家と見ているかということです。その米国に敗戦した国に生まれ、その米国で勉強して誇りを持っていた僕はそこでまた世界観の大転換を迫られました。だから僕の愛国心と日本観は、そういう中で変転しつつ醸成されたものであり、オラがクニといったエモーションとは遠いものになりました。

そういう目で見た私見と愛国心

僕は、敗戦以来日本は米の属国だと思っています。憲法はGHQ占領下で、すなわち主権在民でない状態で書かれ押し付けられました。日本人は一般にそう思っていませんが、意地でもそれを認めたくないからであり、しかしそれは客観的には厳然たる事実で世界中のエリートもそう思っています。いや、属国は国だからまだましです。他国に土地を与えて防衛をお願いしているわけですから正規軍というものがなく、軍事権(そんなのは元来が権利ですらないが)とそれをベースにした外交権がないというのは世界の常識において地方政府の定義そのものです。家畜か観葉植物みたいなものです。こういうことを言ったり認めたりしないのが愛国心だプライドだというのは現実逃避であって何も生みません。かわいい息子が運動会でビリで泣くから運動会はやめましょうという母親と同じで、結局かわいい息子は将来もっと泣くことになります。

そういう国ですから、政財官ともに「アメリカかぶれ」が権力を握ってうまく立ち回るプライドなき恥ずかしい国になって久しいのです。GHQ占領下の秘密諜報機関であったキャノン機関の長、ジャック・Y・キャノン陸軍少佐がこう言ったという記録があります。「さすがに吉田茂は砂糖をやると言っても受け取らなかったが、知事や警視総監は嬉しそうな顔をした」。私事で恐縮ですが僕は野村のころ3回外資系に誘われました。その一つはロンドン時代、30歳ちょっとの若僧に「年収30万ポンド(当時7500万円)でジャパンデスクのヘッド」という望外なお誘いでしたが、当時すでに同じ敗戦国のドイツ人を含む欧州人エリートたちの強固な自国へのプライドに接して「これだ」と思っており、全部即座にお断りしました。

誤解されると困るのですが、僕は米国が嫌いなのでも、そこで立派に生きておられる日本人の方々を否定する者でもまったくありません。米国の文化や教育の素晴らしさはもちろん実体験として良く知っていますし、そこに住んでおられる方にそもそもアメリカかぶれなど存在しようがない。僕が嫌っているのは日本でトラの威を借りる「アメリカなりすまし」連中なのです。そういう恥ずかしい者には死んでもなりたくないし、いくらカネを積まれても英語ができる程度で買われる高級奴隷になりたくないと思っただけです。砂糖を受け取らないというその判断を今でも誇りに思います。

僕は強固な愛国主義者であるということを外国で隠したことは一度もありません。それが尊皇攘夷派やら右翼思想やらに短絡する国は世界でも極めて稀で、どこの国の人でも母国を愛するのは家族を愛することと同じく当りまえであり、そうでない人は外国では信用されません。政権を支持しない人はどこの国にもいますが国家ごと否定する、国旗も国歌も認めないというのは別な国になれということで、クーデターが起きるような国は知りませんが、日本の左翼以外には世界の先進国でお目にかかったことがありません。出雲大社禰宜の千家国麿氏が床に日の丸を書いた羽田空港に怒りを表明されたそうですがむべなるかなでしょう。

自分が外資系を蹴ったのはその話がいずれも本社の幹部にはなれない高級奴隷だったからです。外国が嫌いなのではなく、奴隷があり得ないだけです。対等ならいいのです。その証拠というわけでもないですが、僕は西洋音楽を平均的西洋人よりはるかに愛していますし、僕の会社には外国人の出資者が2人いますし、学歴は日本のではなく米国の大学名を名乗っていますし、内定をくれた日本企業ではなく米国企業に就職したいと言いだした娘は応援しました。心の中で何の矛盾もありません。何国人が作ろうが良い物は良いですし、米国大学院での勉強は実学として本当に役に立ちましたし、娘の採用はいいものかもしれず、娘の人生は娘のものだと思うからです。

出雲に行って思ったこと

たかだか1度ばかりの訪問ですが、僕が出雲で感じたものは先に書きました欧州各国のエリートたちが仕事を通して僕に教えてくれた強いプライドを思い出させるものだったように思います。それは30歳代だった僕の考え方を根底から変容させるインパクトがあり、日本で同じものは京都にあると思ってそれ以来お客さんを誘って何度も企業訪問を兼ねた京都トリップをやったものです。今も京都へ行くたびにその気持ちは新たになります。京都は僕の愛国心のよすがになりました。東京生まれ東京育ちなのに京都。16年も住んだ海外でできた僕の愛国心がクニ(東京)という次元で発したものではないことをお分かりいただけるでしょうか。

ところが出雲大社や稲田姫神社に参拝し奥出雲のたたら鉄の工法を見たりするうちに、どうもここは京都とは違う、なにかもっと奥深くオリジナルなものの宝庫ではないかという直感が訪れてきたのです。京都というのは平安京遷都いらい天皇家、公家がいたから京都なのですが、京都文化を天皇家が直接作ったわけではなく城下町のようにそれを取り巻く武士、寺社、民衆が育んだものです。一方出雲の方はそこまで「城下」が大きくならなかったからでしょうか、もっと大社や神話の主に直接のルーツがある文化がそのまま地元の人たちの中に残っている、もちろん神話ではなく、現実的、日常的なものとしてすぐそこにあるような気がいたします。

例えば出雲大社の高層神殿建造やたたら鉄工法の最先端科学と合理主義です。ああいうものは細部の処理にまで妥協を絶対に許さないという精神、英語に周到、細心、厳密の注意を施す精神を表す形容詞でmeticulousというのがありますが、そういう精神のない人たちには絶対に起こしえないものです。それは半島の新羅あたりから伝来したタタール由来のものかもしれませんが、カウボーイ文化に近い漁師の気質とは対極的であり、沿海部ながら漁師ではない特別な集団が出雲にいたということは確実でしょう。

北陸人のねばり強さなどといわれますが日本海沿岸部にはmeticulousで原理追求型の性質、気質の人は多いと思われます。僕の父方先祖は能登の半農半漁民のちっぽけな村の出身ですが親戚は理工系技術系ばかりでmeticulousを絵に描いた様な一族です。僕自身もその血を強く感じます。ある本によると古墳の調査から出雲の神話時代の一族が海流に乗って多く移住したのが地形的に漂着しやすい福井と能登だそうです。そういう歴史があったのかどうかはともかく、どこか強い近親性を直感したのが出雲の方たちでした。

神話は完全なフィクションではなく、聖書と同じくある程度の事実を古事記、日本書紀が一般人にもわかるようにして後世に残し、永く信じさせるために神話化したものだと思います。そういう意図があったと仮定して神話を逆探知し、出雲国の真実の姿を探るというような試みは大変に面白いところです。先日、ある奥出雲のご高齢(93歳)の方から立派な直筆のお手紙をいただき、それがまさにその逆探知の手掛かりになるような内容であり、とても興味深く拝読させていただきました。

次回以降、そのお手紙をご紹介させていただきつつ、何冊か読んだ出雲関係本も参考にしながら、「日本国のルーツ・出雲」なる大きなテーマに迫ってみたいと思います。

 

千家国麿様と高円宮典子女王とのご婚約に思ふ -今月のテーマ 出雲ー

 

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千家国麿様と高円宮典子女王とのご婚約に思ふ -今月のテーマ 出雲ー

2014 MAY 28 23:23:52 pm by 東 賢太郎

 

「2000年を超える時を経て、今こうして今日という日を迎えたということに深いご縁を感じております」

 

2014年(平成26年)5月27日、千家 国麿様と高円宮典子女王とのご婚約が発表されました。千家国麿様は第84代出雲国造で出雲大社宮司であられる千家尊祐様のご子息です。不肖ながら千家尊祐宮司にお会いさせていただいたことは、拙文にしたためさせていただきました。

 奥出雲訪問記

千家家は代々出雲国造を務めており、古事記、日本書紀によると、天照大神、天穂日命、建比良鳥命の家系であると伝えられています。この日本国の歴史に刻まれるご婚約のニュースを知ったのは、たまたま、まさにその5月27日に会議を予定されていた某社様の社長室においてでした。このご縁には大変驚きました。その某社様は拙文「奥出雲訪問記」にある畏れ多い体験を積ませていただいた会社であり、「奥出雲発のグローバルな会社」をつくるという発想を頂戴し、5月27日はそれを具体化する提案を実行させていただこうという日だったからです。

そしてその日に拙案をご快諾いただいたことを重く受けとめています。出雲発ということは真の日本発という意味であり、16年日本を離れて生活した日本人として是が非でも成功させ、ご信頼にお応えしたいと思っております。

 

出雲について考えること

 

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はんなり、まったり京都-泉涌寺編-

2014 APR 10 18:18:23 pm by 東 賢太郎

泉涌寺(せんにゅうじ)をご存知の方はあまり多くないのではないでしょうか。僕は天皇家の氏寺が京都にあるときいたことはありましたが、名前は覚えていませんでした。

この寺を知ったのは「逆説の日本史2」(井沢元彦、小学館文庫)です。「扶桑略記」に記載された「天智天皇暗殺」説は興味深く、天皇家の菩提寺に、天武~称徳の位牌がないことをこの本で知りました。井沢氏によると唐が白村江戦勝後に朝鮮半島支配を図り(つまり新羅討伐の戦略を展開し)、それに呼応して新羅に半島を追い出された百済王族である中大兄皇子(天智天皇)が唐と連合軍を作ることを画策。それを阻止するべく親新羅の大海人皇子(天武天皇)が山科で天智を暗殺したとしています。教科書の日本史とはかけ離れた説ですが、僕は通説よりも説明力を覚えます。

17p-2-s4月5日(土)の朝、始発で京都へ向かった江崎が8:11に到着。いっぽう平等院まで同行した三田が結婚式仲人のためソウルへ戻り、我々は東山の泉涌寺に向かいました。そこで今度は中村が合流。笑顔でお迎えいただいた和尚様にご挨拶して境内へ入るとまず楊貴妃観音堂へ案内されました。なぜ楊貴妃が?鎌倉時代にこの寺の僧が中国の宋にわたり仏舎利(仏の骨)を所望したそうです。何度も断られましたがやっともらえることになり、その際に航海の安全守護のために楊貴妃観音像もついてきたそうです。仏舎利は公開されていません。和尚は見たそうですが歯の部分のようでかなり大きかったそうです。

泉涌寺
そこから参道の坂を下ると、盆地の底のような位置に仏殿があります。登るのは多いですが下るのは珍しいですね。ここには運慶作とつたわる阿弥陀、釈迦、弥勒の尊像がありそれぞれ過去、現在、未来にわたって人類の平安を祈るという構図になっています。

 

仏舎利は舎利殿の舎利塔にあります。入れていただきましたがここの名物は「鳴龍(なきりゅう)」でしょう。 天井に狩野山雪筆の龍の絵が描かれているのですが、その下で手御座所unnamedを打つとびりびりという音が聞こえるのです。ここから御座所へ移ります。ここは両陛下はじめ皇族方の御陵御参拝の際のご休憩所であり、現在も使われています。ここも中を全部見ました。右の写真はその庭園で、桜も紅葉も早いそうです。たしかに京中ではほぼ満開なのにここでは桜はもう見えませんでした。塀の向こう側の山に歴代天皇の御陵があります。

さて奥の奥に移ります。写真はありませんが霊明殿です。戦前ここは立入禁止であり現在も関係者しか入れませんが入れてもらいました(梶浦のおかげです)。ここに歴代天皇の御位牌が並んでいますが、確かに天武系の天皇はぽっかりと抜け落ちています。下の系図をご覧ください。霊明殿にお名前があるのは聖徳太子尊像-天智-光仁-桓武であり、太子以前もなければ第40代天武-第48代称徳も欠落しています。天皇家の氏寺なのに何故と思われるでしょうが、ここは天皇の氏寺ではなく「天皇であるファミリー」の氏寺です。だからファミリーが血縁でないとする場合は入っていない。和尚に聞くと、「それは私共は何とも申し上げられません。ご指示に従っているだけです」とのことでした。そうであるならばこれが天皇家の見解なわけです。非常に興味深い。

まず斉明(皇極)天皇は天智の母ではないということです。では天智(中大兄皇子)とは何者なのか?斉明の目の前で蘇我入鹿の首をはねた乙巳の変とはなんだったのか?なぜ天皇でもない聖徳太子が(だけが)天智の上にいるのか?

これを知っただけでも日本書紀は天武、持統によって歴史をねつ造した書であるという説は支持できます。以下自分の考えですが、蘇我氏は本来の天皇(日本国王)であり聖徳太子は蘇我氏の業績を象徴する架空の人物であった。蘇我氏の名前、蝦夷、馬子、入鹿は動物名の蔑称にされており、皆殺しにした人物の書いた書記のねつ造と思います。その皆殺しは扶余から亡命して来た百済人の天智による入鹿殺害(大化の改新=クーデター1)によって実現しました。そしてその天智を天武が殺しました(クーデター2)。

220px-Emperor_family_tree38-50泉涌寺の位牌の有無によれば、現在の天皇家はおそらく百済人であった天智の末裔であると認めています。彼はクーデターで王位を奪った者です。だから彼が始祖になっており神武も応仁も位牌はありません。先祖と思っていないのです。天智のひ孫である桓武の母、高野新笠も百済の武寧王の子孫であることは今上天皇が「続日本紀にその記述がある」と述べられています。そして、平家は「桓武平氏」と呼ばれますから百済系です。一方、源氏の武将に「新羅三郎義光」という人がいます。平氏が百済、源氏が新羅であり、日本で代理戦争となったのが源平の合戦であると僕は思っています。

それから明治天皇の墓所はここにありません。伏見桃山陵にずっと大きな墓があります。強硬な攘夷論者だった孝明天皇を伊藤博文らが暗殺し(クーデター3)替え玉に立てた大室寅之助という南朝系の長州人が明治天皇という説があります。そう思います。言うことをきく傀儡天皇をたてて薩長が好き放題やるのが新政府の青写真であり、その結果日清日露戦争で好き放題が嵩じて第2次大戦に至ったとみることもできましょう。「坂の上の雲」は好きな小説ですが、クーデター3が日本国の末路を大きく変転させたかもしれず司馬遼太郎の史観だけで近代史は語れないと思います。

国家の首長を殺して政権を奪うクーデターは世界ではいくつもありますが、万世一系とされるわが国でも最低3度は起きている可能性があります。天智以前はもっとあったかもしれません。泉涌寺ではそうした様々なことが頭をよぎり、特に御位牌が所狭しと安置された霊明殿には圧倒され、その感じはその後も一日中残ったほどです。日本最大のパワースポットといって過言ではなく、一度は訪問する価値ありと思います。一般には奥まで入れないようですが、ご興味がある方はSMCを通してお願いすることができるでしょう。

 

(こちらへどうぞ)

はんなり、まったり京都2014(その2)

百済旅行記(1)-奈良はナラである-

伊藤博文と太平洋戦争

『気』の不思議(位牌とジャズの関係)

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