脳は寝ない
2015 FEB 26 0:00:14 am by 東 賢太郎
NY在住のメンバー是枝理絵さんが来日されていてお会いしました。NYでお元気にご活躍のこと、とてもうれしく思いました。久しぶりにいろんなお話ができて楽しかったです。そこでたまたま受験勉強の話が出ました。
僕はそのころ毎日数学の問題をひとつ解いて寝るのが習慣でした。それも難問集や通信添削の手ごわいやつで、自分に課した制限時間は1時間。たいていは解けずに時間切れで寝ることになります。
ここまではいい。ここからが信じてもらえませんでした。
朝起きて、もう一度考えると、それがすっと解けることがあるんです。えーっ、うそでしょ?いえ、本当なんですよ。ただし、「解けていた」わけではなく、もう一回考えると、解けるんです。それも何回もあります。
それ以来僕は「脳は寝ない」と信じることになります。寝ているというのは意識の部分がオフになって飛んでるだけで、回路は作動しているんだと固く信じてます。いまでも、ビジネスのアイデアは目覚めてから30分以内に考えるようにしてます。そこが勝負タイムです。
5W1Hといいますが、僕は1Wだけの子でした。Why です。それ以外興味なし。その答えが見つからないと寝られない。だから星のことを考えていつも睡眠不足になってました。その癖があったので、寝る前1問は「寝られないかも」という恐怖がはじめはあって、1時間で解かなくちゃという絶好の訓練になったわけです。
ところが、時間切れで寝ても頭が勝手に考えてくれて、結局は解けて同じトレーニング効果がある、こりゃ楽でいいやということに気がついてしまった。寝ながら脳の筋トレです。そこから安心してよく眠れるようになってしまいましたが。
むかし睡眠学習というのが確かありました。寝ている間にテープで流して単語や年号などを記憶する。しかし「記憶」については僕は懐疑的で効果があるのは「回路」を使う作業です。だから英単語を覚えたりではなく、リスニングに耳を慣らして意味を理解するほうには使えるかもしれません。お試しになる価値はあるように思います。眠れないなら寝る前1時間きくというのはどうでしょう。
たとえば、これも昔、下宿でカセットをループで流しっぱなしで寝てしまって、そうしたら何回も無意識にきいた知らなかった交響曲をすぐ覚えたというのもあります。音楽も時間と共に進むので個々の音の記憶でなく回路なんだろうと思います。覚えたい難しい曲を1時間聞いてから寝る。いいと思いますよ。
最近は「寝る前ブログ書き」になっていて、これもなんかしらの解けない問題を残して寝ることになってます。ずっと日記を書いてきたので、それがブログになっただけですが。これがまた、その日に考えたり発見したことを文章にするので頭が整理できます。そこで睡眠となると回路の中でそれが朝には消化吸収されている感じです。
僕は見聞きしたこととか、今日はどうしたとかの事実を書くことはあまりないのは、そういうことにすると毎日書くほどのコンテンツはないからです。だから、考えたこと、つまり「回路」の言っていることをそのまま書き写しています。回路は毎日間断なくしゃべるので、毎日苦もなくブログが書けます。これは長年の習慣からそうなったと思います。
60歳になりましたが、ひょっとして脳はまだまだ進化するかもと思ってます。これは誰でもありえること。そう考えた方が夢があって楽しくありませんか?ただし、好きなことは早く覚えられるように脳は勝手にプライオリティーをつけますから、「脳は眠らない」とか「死ぬまで進化する」とか、本気で信じないと効果は薄いでしょう。信じる者は救われる、そういうことだと思っています。
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日本の情報戦略は脆弱である
2015 FEB 10 2:02:32 am by 東 賢太郎
先日TV で本田圭佑がサッカースクールの少年たちにノートを渡して「将来何なりたいか書きなさい」といい、「次にそれになるために今の自分は何が足りないか書きなさい」と指導していた。彼自身は「サッカー選手になる、イタリアでプレーする」と書いてその通りになっている。
誰でもそうできるわけではないし、僕も「野球選手・天文学者」だったが今や見る影もない。しかし、それでも思う。目標はあったほうがいい。達成できればそれにこしたことはないが、失敗してもいい。なぜなら「悔しい」という気持ちが残る。いまだにメジャー大会日本人男子最高位である全米オープン2位に輝いたゴルファー青木功がこう言っている。「人は悔しくて成長する」。
いま、閣僚や議員にそのノートを渡して、将来の日本国について同じ質問をしたら何を書くのかなと思って聞いていた。長期目標がないのは致命的だ、なぜなら用意周到な準備ができないからだ。米中とも国家ビジョンを持ってそれをやっている。中国はニカラグアに運河を掘っている。パナマ運河の北だ。米国と戦争になったら大西洋に艦隊を廻せるからだろう。
中国はミクロネシア連邦に対して国会議事堂の建設費を寄付した上で、その真正面に立派な大使館を建てている。かたや日本国大使館は民間の建物の間借りで、大使も常駐せず巡回大使だ。国家予算は約90億円でうち半分ほど米国が補助しているが米国は海軍の前線基地はグアムでありミクロネシアに大枚をつぎ込むインセンティブはもうない。一方、中国はアジア太平洋海域支配を拡大する「用意周到」な準備が着々と進んでいるのである。
日本もご縁が深いミクロネシアには数億円のODAを行って前田道路や三井物産が道路や発電所を作ったりしているが、ベトナムでもきいた話だがで現地の許認可等でODAで感謝されて日本企業への認可が速かったり有利になったという話は聞かない。それを韓国企業から「おかしいですよね」と同情される始末である。昨年、ミクロネシアが日本のカツオ漁船を領海侵犯で拿捕した。驚いたのは罰金が法外な3億8千万円だったことだ。僕は一昨年同国に行って外務大臣まで会っているが、あの雰囲気からは腑に落ちないニュースだ。
かたやこっちはお寒い限りで、民主党政権時代の3人の首相にも議員にも、お世辞にも国家という意識が感じられなかった。反日の国家公安委員長を出すなど、昭和20年に日本は一度滅んでもこんないい生活ができているんだからまた滅んでも大したことじゃないだろうとでもいいたげな印象だった。いずれ米国はミクロネシアはおろか日本からも第七艦隊を引き上げるだろう。イスラム国のようなのが出てくる一方で直近の60年間だけでも180以上の国が地球上から消えているそうだ(「消滅した国々」吉田一郎著)。
僕が危惧するのは軍事よりも情報だ。日本の官庁、銀行のIT、英語リテラシーは低い。起業して投資助言代理業の供託金500万円を振りこもうとしたら「現金を持ってこい」だった。札束勘定機でぱたぱた数える窓口はそれが役所の威厳だとでもいうのか古色蒼然、50年前の郵便局を思い出した。前職(東京)で米国人を20人採用してメガバンクに口座を作ってこいと言ったら、大手町の本店にいるが窓口で英語が通じず説明書も契約書も日本語しかない、中国でもそんなことはなかったぞと苦情の電話が来た。
日本政府はサイバーセキュリティーセンターを作ったそうだが人員は百人ぐらい、自衛隊のサイバー防衛隊も百人ぐらい。中国の情報戦要員は上海だけで数万人、米国は情報機関と軍に全部で百万人だ。これが何を意味してるか?米中は情報を取りに行っているが日本は守りだけなのだ。徳川幕府と変わらず鎖国だけしようという人数である。取りに行く気がないのは攻める気も情報戦略もないからで、それでどうやってサイバー戦争に勝てるというのだろう。
金融の仕事にいると痛感するが、商品がお金である金融ビジネスの競争力は情報力しかない。そこがモノを扱う商社やメーカーと違う。情報力は英語力でもあり、日本の金融機関が世界で勝てないのはその両方が弱いせいなのだ。えっ、MBAも多いしそんなことないでしょと思われるかもしれないが、メガバンクや大手証券の社員で英語で商売できる人は1割もいない。僕のいたところでせいぜい5%であり、それでも日本企業としてはハイレベルでならしている。
だから英語の生情報を取る能力は低く、日本で働いている大手証券の社員で、いまFEDとECBで何が起きているか、つまり世界の金融総本山が何をしそうか推測してみろといわれて、英語世界の情報の8割以上を即座に答えられるのは1000人に数人しかいないだろう。テレビに出ている専門家や政府のアドバイザーもそれには入らないはずだ。なぜならどんなに能力があっても情報収集は一人では無理だ。だから大手証券はシンクタンクでそれを集団でやっている。
しかしシンクタンク、何々総研といっても他人(顧客、投資家)のための情報収集しかしない。はずれても御免ですむ。そんなものに政府が乗るわけにはいかない。だから米国にはinformation(情報)とintelligence(諜報)という別な言葉がある。「CIAのIはinformationのIだよ」といわれれて「嘘でしょ」と見ぬける日本人は、これも1000人に数人しかいないだろう。 情報と諜報の区別を知らない日本人
サイバー防衛隊に「ITの専門家」を百人もおけば事足りると軍である自衛隊が考えているなら太平洋戦争時分と大して変わっていない。まして我が日本国は国家中枢へ行けば行くほど英語がダメでITに弱いときている。つまり、軍事戦略のようなintelligence(諜報)を作りだすベースとなる「ITによる英語情報取得」に多くの専門家を擁しないといけない。それを入れて日本は百人、英語を母国語とする米国の情報戦要員が百万人という数の意味がそれでお分かりいただけるだろうか。だから「中国の数万人」というのは、サイバーのみならず国防上も震撼すべきことなのである。
従軍慰安婦問題で明確な反対情報を世界に発信し遅れるなど中韓に後手後手なのは、戦時ですら精神論にたより情報収集にあまり重きをおいてこなかったツケだ。自分で集めない物は価値もよくわからない。相手は徹底した合理主義による用意周到な情報発信をしている。例えば昨年11月の安倍・習近平会談で中国は尖閣などについて自国に都合のいい内容を英語で約束より早めに発表し、間違った情報が世界に発信されてしまった。
間違ったinformationでも堂々と発信する。間違っているからかえってinformationとして反論しにくいのを計算したintelligenceであって、それをまったく無視するのが日本流のintelligenceなのだが、それがワークした時代は終わった。相手はそれがネット社会では不利に働くことまで見越している。これにヘイトスピーチで立ち向かうのは相手の思うつぼだ。それが今度は「碁盤をひっくり返す蛮行」として世界にネット放映されてしまい、イメージを落す。囲碁には囲碁で、碁盤の上でやりかえすしかない。
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「知られざるロシア・アバンギャルドの遺産」100年前を振り返る
2015 JAN 31 2:02:02 am by 東 賢太郎
「スターリン弾圧を生き延びた名画」という副題の番組。革命後のロシアで行われた暴挙は人間の残虐さと無知蒙昧をさらけだしたが、テロリズムのニュースのさなか、100年たった今も人は変わっていないことに暗澹たる思いがある。
イオセブ・ジュガシヴィリ(通称ヨシフ・スターリン)の所業は今のロシア人はどう評価しているのか。ウラジーミル・ウリヤノフ(通称ウラジーミル・レーニン)なる物理学者の子がひいたレールの上をグルジアの靴職人の子スターリンが爆走した。シベリアに抑留され銀行強盗と殺戮を重ね、ロシア革命という天下取りのプロセスはどこか三国志の曹操を思わせる。
しかし100年前はまがりなりにも政権の正統性に神でも民衆でもなくイデオロギーが関与する余地があったことは注目に値する。神と暴力とメディアによる大衆扇動よりはずっと知性の裏付けがある。しかし知性も殺戮の道具になれば同じことだ。チャーチルは「ロシア人にとって最大の不幸はレーニンが生まれたことだった。そして二番目の不幸は彼が死んだことだった」といった。

面白かった。中央アジア・ウズベキスタンのオアシスの町ヌクスの美術館にあるイーゴリー・サヴィツキー(1915~1984)が集めた数千点のロシア・アバンギャルドの絵画の話である。スターリンによる芸術へのテロリズム。僕は音楽の側面しか見ておらず絵は無知だが、暴挙で消されかけサヴィツキーの情熱によってヌクスで命脈を保った1910-30年頃の絵のパワーは素人目にも圧倒的だ。
このクルジンの「資本家」のインパクトは今も強烈だ。資本主義に生きる自分を描かれたような気がする。クルジンはクレムリンを爆破しろと酔って叫んだかどで逮捕され、シベリアの強制収容所送りとなった。
ルイセンコの「雄牛」。凄い絵だ。痛烈な体制批判のメタファーと考えられている。一目見たら一生忘れない、ムンクの「叫び」(1893年)のパンチ力である。この画家の生涯についてはつまびらかになっていないというのが時代の暴虐だ。
ストラヴィンスキー、シャガール、カンディンスキーら革命でロシアを出た人たちの芸術を僕らはよく知っているが、彼らの革新性にはこうした「巣」があったことは知られていない。ストラヴィンスキーの何にも拘束されず何にも似ていない三大バレエは、このアヴァンギャルド精神とパリのベルエポックが交わった子供だったのではないか。プロコフィエフの乾いたモダニズムは「西側の資本主義支配層の堕落した前衛主義」に聞こえないぎりぎりの選択だったのではないか。

この「巣」を総じて「ロシア・アバンギャルド」と呼ぶ。アバンギャルドはフランス軍の前衛部隊のこと(英語だとヴァンガード)だが、転じて先進的な芸術運動をさすようになった言葉だ。「何物にも屈せず、何物も模倣せず」をテーゼとする。これらの画家たちはカンバスの表の面に体制を欺く当たり障りない風景画や労働讃美の絵などを描き、裏面に自分のステートメントを吐露した真実の絵を描いて「何物にも屈せず」の精神を守っ
たそうで、それを「二枚舌」と呼んでいる。これはショスタコーヴィチを思い出して面白い。「ヴォルコフの証言」なる真偽不詳の本が出版され第5交響曲の終楽章コーダをどう演奏するかの論争があった。ハイティンクやロストロポーヴィチがその意を汲んだテンポでやったが、あれは偽書だからムラヴィンスキーのテンポが正しいのだという風な議論だったように記憶する。僕の立場は違う。「証言」が偽書であろうとなかろうと、皮相的な終楽章はあの4番を書いた作曲家の「二枚舌」にしか聞こえない。スコアの裏面に真実のステートメントをこめた楽譜が書いてない以上、コーダのテンポなど解決策でもなんでもなく、あの楽章は演奏しないという手段しかないと思う。同じ意味で僕は7番はあまり聴く気がしない。
「何物にも屈せず、何物も模倣せず」。このテーゼはなんて心に響くのだろう。別にアバンギャルドという言葉を知って生きてきたわけではないが、このテーゼはささやかながら僕個人が子供時代から常にそうありたいと願ってきた生き方そのものを鉄骨のような堅牢さで解き明かしたもののような気がしてならない。若い頃のピエール・ブーレーズがそうだったし、彼の録音が自分の精神の奥深いところで共鳴したのはそういうことだったのかもしれないと思う。
僕は芸術家ではないが、ビジネスをゼロから構築していくのはアートに通じるものがある。その過程がなにより好きであって、うまくいくかいかないかは結果だ。これから何年そんな楽しいことが許されるのかなと思うと心もとないが、心身健康である限り思い切りアバンギャルドでいこうと、ロシアの無名画家たちの絵に勇気をもらった。
有名であったり無名であったりすることの真相はこんなに不条理なものだし、そういうことをひきおこす人生という劇だって、いくら頑張った所でどうにもつかみどころのないものだ。だったらアバンギャルドするのが痛快で面白い。屈して、模倣して、大過がない、そんな人生ならやらないほうがましだ、改めてそう思う。
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プレゼンの極意はベートーベンにある
2015 JAN 12 2:02:41 am by 東 賢太郎
先週は海外へのプレゼンテーションで会社の説明資料を作っていて、僕は英語を読むのは好きでもないが書くのはいいなと思った。別にうまいわけではなくネイティヴには変なものを書いているに違いないが、それでもこうして日本語を書くよりも心地がいい。
何かを「正確に」伝えようとすると日本語は長くなる。くどい。法律を読んでみればわかるが、挿入文があると実にわかりにくい。そういうのを複文というが英語だと文中の単語を別途説明する文を入れるルールがあって、例えば関係代名詞がそれだが、慣れればすいすいと頭に入ってくる(青字部分がまさにそれだ)。
現代国語という科目があって下線の「それ」は何をさすかなんていう設問ができるのは、元来日本語が複文のような入れ子構造に向いていなくてわかりにくいせいだと思う。誰でもわかるなら入試問題の用をなさない。法律のような説明的文章を正確に読み書きするには必要な能力だから役人、法律家を作る官立大学用のものだったろう。
僕は外国語は英語しかわからないが、西洋語は文の構造が説明に向いていて複雑な物事を文中で明確に定義しながら隅々まで誤解なく浮き彫りにできると思う。だからややこしいコンテンツを先週書きながら、ちょっと切れる包丁を手にいれた板前の気分を想像した。
こういう所で爽快感を味わうというのはなかなか説明がしづらい。言語、特に文法は思考回路そのものだから使う人間の思考に影響する。そういう言葉を長く使っていれば、そういう人になってしまうという感じがする。長い間英語でビジネスしてきた僕の脳みそがそういう切れ味を「おいしい」と感じるようになってしまっている可能性は大いにある。
英語といっても僕には仕事に使う道具にすぎない。だから映画に出てくる軽い会話とか奥さんの井戸端会議みたいなのはよくわからない。英語はペラペラでしょうと時におだてられても、僕はそのペラペラの語感に近いやつが一番苦手だから困惑するばかりだ。英語が代表選手の西洋語とは僕にとって何かと問われれば、「ロジック言語」だ。
英語で株をオックス・ブリッジ卒の人たちに電話ですすめる。これは即興プレゼンだ。これをロンドンで6年間毎日やった影響は大きい。英語で何か説明文を作るのは楽しい域にある。「知っている語彙を、適確な語感で、正しいロジック(文法)で並べてプラモデルを作っている感じ」が最も近い。composeという語感そのものだ。できた文章が良い英語かどうかは知らない。でもほぼ正確に意図が通じることだけは自信がある。ロジック言語はそれでお役御免だ。
意図が通じる正確さ、これは段階がある。ドイツ時代の部下で「わかりました」というときに必ず「ゲナウ(Genau)」のKさん(女性)と必ず「シュティムト!(stimmt!)」のB君がいた。僕は彼を「ヘル・シュティムト」と呼んでいた。stimmen(これが原形だ)はいろんな意味に分化しているが根っこの意味は聞こえてきた何かと何かが「ぴったり合う」である。「あんたの言ったこと、俺の頭にぴたっとハマったぜ」ということだ。
ゲナウもドンピシャという意味で、「あんたの投げた球、ド真ん中!」と言ってもらっている。気持ちはいいがだいぶストライクゾーンが広めであるのが僕としては気に食わない。stimmt!にはかなわない。こっちはど真ん中じゃなくキャッチャーが構えた外角低めぎりぎりに速球がパーンと決まってハイタッチする感じだ。僕はシュティムト君が気に入った。
ある時、週末に行きたいところがあって彼に地図を描いてもらったことがある。そのとおり行ってみると実に正確である。思わずこっちもstimmt!が口から出た。それ以来僕は新人の面接試験で駅までの行き方を地図に描かせることにした。株式みたいな形の見えないものを高学歴のインテリ投資家に売るのはそういうことにアバウトな頭の構造の人は無理だ。だから適性がよくわかった。
地図作成は空間認識力がいるが、抽象的な言語を適宜配置してロジック回路で構文化して説明文を書くのも似ている。頭に浮かんでいる空間(景色や道順)を口(言語)で言えなければ地図という記号化された図面は書けない。そしてそれは、頭に浮かんでいる音を口(音階)で歌えなければ譜面という記号化された図面を書けない作曲とも似ているだろう。思えば作文も作曲もどちらも英語はcompositionだ。
ドイツ人の入社面接に限った話だが、女性の描いた地図はわかりにくいのがあった。さすがに丸文字や♡マークは出てこないがよくわからない。トヨタの5年後の利益成長性の要因分析をコンサイスに言語化するのは困難だろうという判断をせざるを得なかった。ちなみに彼女は同学年の7%しかいない大卒だったから超高学歴だ。このことはバッハやベートーベンの国でも大作曲家に女性がいないことと関係があるのだろうか。
説明文というのは散文や詩ではない。意味不明のぼわっとした言葉や必要ないことは書かない。だから必要十分なコンテンツを極限まで切り詰めるべきである。つまり短い方が絶対にいい。B to Bのプレゼンはそれだ。聞く方はプロで忙しい。早く終えたい。冗長なプレゼンはコンサイスな文章を書く能力のない事をプレゼンするようなものである。少なくとも金融では、そういう人から物は買わない傾向が強い。
銀行の人というのは真面目なのか何なのか知らないが100頁もあるプレゼンを作ったりする。資料が厚くないと負けると思ってるらしい。プレゼンは相手にstimmt!を言わせないとテーブルにも乗らない。買うかどうかの吟味はそこからだ。ある時、ワン・オン・ワン(訪問対面式)のプレゼンなのに途中で目の前のお客さんが舟をこぎ始めた。坊主のお経に居眠りする檀家の図だ。しゃべる方は100頁を国会答弁みたいに読むのに一生懸命で顔もあげないことを知った練達の技だった。
stimmt!はやっぱりいい。これの名詞形がStimmeで「声」という意味になる。魔笛でタミーノが Was höre ich, Paminens Stimme? (いま聞こえたのはパミーナの声か?)というあれ、バッハの『目覚めよと、われらに呼ばわる物見らの声』は Wachet auf, ruft uns die Stimme だ。つまり、stimmenの本来の意味は「音が聞こえて来て自分の内部で意味を形成して共鳴する」ということで、楽器の調律が「合う」という意味もあるし、市民の声という転意からvote(投票)になったりもする。
ところで、いまパソコンで書きながらベートーベンのピアノソナタを流しているが、この音楽はその模範答案、理想形だとつくづく思う。コンサイスで、無駄が皆無で、言いたいことが高密度でギュッと詰まっている。小さいけど固く質量があって運動エネルギーは巨大になるゴルフボールみたいだ。これに比べるとマーラーは運動会の「たまころがし」のボヨボヨの球に見える。100頁のプレゼン資料みたいに物量だけで中身はスカスカなものは僕の理性は万事拒否してしまう。
ベートーベンの曲はプレゼンの王様だ。第5交響曲をきいてホールからぞろぞろ出てくる人たちはみんな元気な顔になってる。「みなさん、辛い日は誰だってある。でも信じることです。明るい未来だって誰にも来るのです!」というベートーベンのプレゼンに全員がstimmt!している。驚くべきことだ。こんな凄いものを書いたから、だからベートーベンは人類史に格別の地位で聳え立っている。
stimmen 、Stimme、composition、こういう言葉の本来の根っこの語感がピタッとくるようになるとベートーベンはすっとわかる。彼の音楽のemotion(情緒)に訴求する側面にかたよった解釈は完全な間違いだ。それは巧みな政治演説がメッセージは希薄にもかかわらず大衆を扇動できるのに似る。感情に直結する仕掛けや盛り上げで聴き手を鼓舞するのはプレゼンではない、単なる娯楽である。ベートーベンをそういう演奏で知っている人は最晩年の作品の意味を聴きとれないだろう。
僕は時々彼のピアノソナタ32曲を通して全部きく。たかがCD10枚だ。そうすると知の巨人のメッセージが心にずっしり堆積して何かマグマのように内面を突き動かしてくれる。こんな精神的衝動を生んでくれるものは他に一切ない。他人に行動を促すのがプレゼンとするなら、それは百万分の一でいいからこういうものを秘めていなくてはならない。音楽演奏もプレゼンである。こういう状態で内面から溢れ出たものに忠実にやってこそ、ベートーベンの音楽になると思う。
分量膨大、内容スカスカ、メッセージ希薄の娯楽は聴衆のstimmt!を誘発しない。快楽追求型の「ベートーベン・ヒット・パレード」みたいな7番、9番演奏を何万回聞いてもベートーベンは何もわからない。彼の音楽の本質的部分を占める「西洋言語的特性」は快楽とは何の関係もない。僕が言っている「プレゼンの極意」も快楽とは何の関係もない。もしそれを体感したければドイツ語のstimmenという動詞を研究して深く知ることを一つの方法としておすすめする。
愛すべき部下だったシュティムト君に感謝したい。
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男の子のカン違いの効用 (4)
2014 NOV 13 2:02:30 am by 東 賢太郎
女性の時代がやって来る。男はどうすればいいのでしょう?
そんな時代が来ようが来まいが、もしも生物の存在が子孫を残して種を繁栄させることだけを目的としているなら、卵や子を産むことでストレートにその役目を負っているメスが主役なのはそもそもが自然です。
「女王」がいるハチやアリを見れば、主役はメスでオスはおまけ的存在であることは明白です。クモやカマキリは交尾後にメスに食われてタンパク源になります。鳥は孔雀など羽が美しいのはオスで、「美男コンテスト」で相手を選ぶのはメスです。猛獣だって、ライオンのオスは成長すると母親の群れを追い出され他の群れでメスに気に入ってもらわないと群れを作れないのです。
ゴリラ、チンパンジーという高等な哺乳類あたりになるとオスのほうが体も大きく、群れのボスに君臨して優位なように見えてきます。その延長に人間が来るように思えるのです。ところが、ひょっとするとそれは社会的に優位なだけであって、女の方が長寿なのは万国共通ですから生物学的に見ればやっぱり「男はおまけ」という基本原理から抜け出していないんじゃないかとも思ってしまいます。社会は変化しますが生物の原則のほうがずっと根強くて変わらないかもしれないのです。
どうしてサルやゴリラに女王がいないのか?これは面白いテーマです。種の保存に適していないからというのが答えとすると、どうしてそうなのか?高等な知能をもつ動物ほどオスの方が体が大きくなりハーレムができ、優秀なオスをメスが選ぶのではなくオスがパワーでたくさんのメスを得るようになる。そのパワーが物理的な力であるところから知力になるところで、「群れ」は「社会」と呼ばれるものに格上げになります。
だからオスが社会的に優位であることはおそらく高等な知能の裏返しなのですが、それは生物としての種の保存に適するというオス・メス両者の共同戦略なのであって、別にオスの方が優秀だからというわけではないと考えられます。それなのに女性に姓がなかったり参政権がなかったりというのはオスのカン違いの産物であり、社会というものがまだまだ進化途上にあった名残りなのではないでしょうか。
僕はまだ日本が男尊女卑の風潮であった時代に生まれ育ちその影響を受けてきましたが、最近はそれは充分に高等になりきっていないオスのカン違いにすぎないだろうと思うようになっています。そういうオスが減ってくるにつれ、そのカン違いを見越した「どうせ私は・・」なんてメスの引き技も減ってきた。演歌がはやらなくなった時代背景はそういう事ではないかと考えています。
最近、こういうことがおきています。
高崎山自然動物園の猿山ではベンツがボス猿として君臨していたが死亡認定され、新たにゾロメがボス猿に認定された。そんな中、ミルサーというメス猿が頭角を現している。猿の群れの序列はオスのみの修正とみられてきたが、メスのミルサーはボス猿のゾロメに毛づくろいをすることで地位を上げているという。群れのナンバー2であるオオムギにも毛づくろいをし、ナンバー3のカンサーにもハグをするなどしている。地位の高いオスに愛嬌をふりまき味方にすることで、自らの地位を確保している(テレビ朝日)
ミルサーは下位のオスに攻撃されると自分が籠絡している上位のオスを大声で呼んで撃退させるそうです。いやあ、どっかの国の政界や科学界のみならず各界においてこれは日常茶飯事と化しつつあるでしょう。
サラリーマン界においては、これは古来より「ヒトタラシ」「ヨイショ」「ヒラメ」「ジジゴロシ」等と多様な名称で呼ばれる出世の技法としてすでに確立しています。問題はそれを女性が身につけてきているということ、そして本気でやれば女性の方がずっと上手だろうということなのです。
これを「女が強くなった」と見るのは間違いです。終戦直後だって女性と靴下は強くなったと男は嘆いていましたから。こういうメスが出るのも「種の保存に適するというオス・メス両者の共同戦略」の結末でしょう。メスが変わったのではなく変わったのは社会の方であり、社会そのものが変質しているのだとするのが本稿での僕の立場です。
つまり、世界のメス猿が一斉にそう進化しているのではなく、天才サラリーマンのメスが突然変異や食べ物のせいでポンと現れたのでもなく、高崎山自然動物園の猿山という「閉じた社会」において長年のサル同士のつきあいの蓄積から何かそういうメスが出やすいような要因が働いているのではないかと感じます。社会の変質ということです。
社会の変質となればそれは世の中の波です。それに飲まれればたたでさえ弱い男は負けてしまう。それに警鐘を鳴らしておこうということです。
警鐘?例えばこういうことが起きています。精子数の減少という切実な問題です。ネットで調べると「2013年のフランスの最新報告では、15万人について1989年から17年間のデータを解析したところ、精子数が毎年1.9%減少していた」とありました。環境ホルモン、遺伝子組み換え食物など原因はともかく、ただでさえ弱い男は生物としてさらに弱くなっているかもしれません。
ところが男の退化に対して社会の進化は怒涛のように押し寄せ、とどまるところを知りません。世界の政治、経済、軍事のトップに君臨するのは当面のところ米国ですが、その米国の次の大統領は女性になる可能性が高そうに思います。それは名実ともに女性が世界を動かし、支配するということに他なりません。
安倍首相が女性閣僚を登用するのは私見ではその流れを敏感に察知したものだし、長期政権を前提に小渕さんあたりを後継に据えようという深謀があったのだという人もいます。ロシアのプーチンも31歳の元新体操の五輪金メダリストを要職につけ後継候補にするのではないかという話が聞こえます。
いよいよ、人類も 『女王蜂』 に支配される時代が来ているようです。
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男の子のカン違いの効用 (1)
2014 NOV 10 11:11:55 am by 東 賢太郎
カープファンというのは最近でこそ各地に増えていますが、僕が小学校2年生だった昭和38年、東京都生まれの小学生界においてそれを宣言するのがどれだけ「はぐれもの」であったかは皆様の想像を絶するものがあるでしょう。
クラスはもちろん巨人ファンばかりだから当然仲間外れになるわけです。広島に血縁地縁があるわけでもなく、たんなるモノ好きとしては「コストの高い」ことでした。以来51年、僕のカープ愛は周囲に知れわたって今に至っております。
そのころの僕といったら体は女の子より小さく気もケンカも弱く、九九の覚えは悪く勉強ができたという記憶もなく、そんなにつっぱれるほどのものは何もありませんでした。もう少し空気を読んで生きればよかったもんですが、いじめられようが何しようが「自分の好きなものに忠実」というのは三つ子の魂だったようです。
どうしてそういうことになったかというと、バットの持ち方から教えてくれた近所のお兄ちゃんがいて野球に目覚めていたからです。それが広島の選手の応援になりました。そうこうするうち家の前の多摩川で毎日石投げをした成果か、5、6年生時分になると近所の子は僕の投げる球が打てなくなりました。当時は誰もがリトルでやる時代ではなく草野球でしたが後ろで観ていた大人から、こういうとこからよく甲子園に行くんだという話し声がちらっと聞こえたりして、今も覚えているんですからよほど舞い上がったにちがいありません。
何をやっても普通の子だった僕にそうやって唯一の「取り得」ができました。高校野球をやって井の中の蛙だったと気づくまで俺は凄いと「大いなるカン違いの数年間」があったのです。今となると微笑ましいものですが、勉強もケンカも運動も大したことない男の子にとってそういうカン違いはあったほうがいい、ドンキホーテでもいいと思います。
その効用は社会人なってから出ました。出だしは営業職ですからよく人前であがらない方法として手のひらに人の字を書いて呑み込めとか、偉い人と会うときは相手が赤いパンツをはいてると思ってみろ、笑っちゃうだろなんて新人に気を落ち着かせる「おまじない」を先輩からいろいろ教わりました。
どうしても人前でしゃべるのが不得意であったのですが、ある日、強い味方があることに気がつきました。赤パンは不要だったのです。「この人は絶対に俺の球を打てないな、三球三振だな」と思う、これでおしまい。相手が大統領だろうが首相だろうがおんなじ。カン違い時代の気持ちに戻る。するとあがるどころか魔法にかかったように精神的優位にたててしまう。いや、これにどれだけ救われたことか。
男というのは社会で何かしらでつっぱって生きる必要があります。特に交渉ごとや会議やプレゼンは相手に気持ちで押されたり自信をなくして気後れすると即負けです。そういう時に何が役に立つだろう?家柄、人脈、学歴、容貌、度胸、話術?せちがらい話ですが、社会にはそういうものを総動員した男の戦いというものが厳然と在ります。それがある人はいいが、ないならどうしたらいいだろう?
自分の場合なにもなし。学歴に関しては、僕の場合試験は落ちた回数の方が多くて最後の最後に頑張って運があった、それだけ。自分でそう思っているので自信なんかないのと一緒なのです。一番大事なことなのでしっかり書きますが、傍がどう見るかと自分が自信を持てるかはまったく別です。
勉強は嫌いでしたしほめられたこともありませんが野球は何回も大人にほめられ感心された。だから少年の心の中の重みとして比べものにもなりません。その自信も実は大いなるカン違いなのですが、大学受験や人生諸々で壁にぶつかったり失敗して落ち込んだ時は野球のボールを右手で握って寝てました。その感触が無意識に絶対の自信を、俺は大丈夫、負けないぞという確信をくれるのは不思議なほどでした。
それがどんな些細なものでも何であってもいい、とにかく男の子はこれなら負けんというものがあったほうがいいと思います。親御さんはそうなるように見守ってやったほうがいいでしょう。それはその子によってちがいますから押しつけても仕方ないし助けてやることもできませんが、どうせカン違い半分ですから大きくカン違いした方がいいですね。
クラーク博士の Boys, be ambitious. はそういう事だと僕は解釈しています。だからこそ彼は「金や利己心や名声のためならず」と「カン違い」のタガが外れないように、それに続く文言で注釈してます。これを日本的に慎ましく「大志をいだけ」と訳すと意味が分からない。狙いが何であれ ambitiousはまぎれもなく「野心、野望のある」という意味です。
野心はカン違いの自信の代名詞です。「どう考えても無理でしょ」、というのを狙うから野心であって、実力なりに手に入りそうな物を狙うのは「目標」かせいぜいがんばって「夢」です。でも博士は Have a dream. とは言ってない。そんな程度のことは誰でもやるわけで、いちいち偉い先生が訓辞をたれることでもありますまい。
昨年の5月にこういうブログを書きました。若者の欲望が日本を救う 1年半後の今も何ら変わらずそう思います。若者は欲望をたぎられせて、野心、野望を持ってほしい。ここは博士にさからいますが金や利己心や名声の何がいかんのでしょう。それと無縁なものは野心とは言わんでしょう。
今回「女の子」と本稿のタイトルに入れなかったのは博士に習ったわけではなく、実は女の子はちょっと有利だと思っているからです。自分とは別種の生物である親父をぬく必要が必ずしもないからです。男の子は他の男に勝つ前に、自信を持つためにまず自力で親父をぬかなくちゃいけません。フロイトのいうエディプスコンプレックスの克服です。ところが今の世はこれが大変なんです。
これは日本国民全体の課題であります。なぜなら今の2、30代の男性の親父は大なり小なり高度成長期の余熱の恩恵で成功体験をもっている世代だからです。自分の力かどうかは棚に上げて、ともかく、俺は昔こんなすごいことをやったんだと思い込んでいる。かくいう僕もその一人です。この世代間のハンディキャップは親父クライシスといってもいい。それをデフレの経済氷河期に育った彼らが実績で凌駕するのは並大抵のことではないでしょう。男の子が自信を持ちにくい時代なのです。
だからどんな些細なことでもよく、自己満足で構わない。僕はキャッチボールしていて本気で投げたら親父が危ないと思ったことがあって、手加減するようになった。その瞬間に無事それをクリアしました。だから野球が自信の源になったのかもしれませんが、そんな程度のことでいいのです。
でもそれが小学生の時だから手ごたえが重かった。それに比べて受験勉強やクラシック音楽はずっとあとになって来たものであって、僕の感覚ではそんなのは付け焼刃のインチキなんです。自分の本当の素質と思わないのでその自信で生きていくにはいかにも脆弱に思えました。
普通の人は最高学府といわれるところを出ればそれに頼って生きようと思うだろうし、それに自信も持つでしょう。しかし僕はそういう人間にはなれません。一井の野球少年のままなのは、いかにそれ以外に何もなくそれが取り得なことに頼って生きてきたかという裏返しです。
子供なりに速い球が投げられた自信と喜びというのは野球ではたいして助けになりませんでしたが、結局は僕の人格を決めましたし、その後の人生を支える最強の武器になりました。それを使って普通じゃない経験を自らの力で掘り起こすことができました。
それが学歴や学校で教わる知識や学問ではなかったということは、いくら強調しても足りないと感じます。それで人生が決まるわけではないのです。あなたはどういう人ですかと問われれば、そういう人ですと答えるのが一番ぴったりです。東京生まれ東京育ちの僕が51年もカープファン一筋であることはそれの象徴であるように思えます。
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Why not ? のすすめ
2014 OCT 25 10:10:27 am by 東 賢太郎
アメリカ人にビールやワインをついであげるとき、
Say when.
というと「そこでストップって言ってね」という意味になります。Say when you want me to stop. ということです。
そこでオッケーのところまでくると、That’s fine. もありますが、
When.
の人もいる。なんか妙ですが、whenと言えと命令されたので従っているわけです。英語人の思考回路というのは大変に面白いと思います。
先日、アメリカ人の元同僚と話した時に、ちょっとしたことを頼みました。すると、
Why not?
とくる。notにアクセントが来て語尾は下がる。ワイナァットとナァを強めにいえばいいですね。「どうしてだめなの?」という意味です。君の頼みを私が断るだろうと君が思っている根拠が仮にあるならば言ってみなさい、ということです。字義通りそう書くとケンカを売ってるみたいですがそうじゃなくて、「なんかだめな理由でもあるの?OKに決まってるじゃん」という感じ、一言に集約すれば 「いいとも!」ですね。
単にイエスやOKじゃない、もっと積極的にそれをやろうじゃないか、むしろやりたいですよぐらいのニュアンスがビシッと端的に伝わってくる。それも生返事じゃなくて、一度相手の依頼に応えられるかどうか自分で瞬時に考えてみて、できない理由はないと判断したが何か気がついてないことがありましたっけ?と形だけききかえしてる。頭の回転の速さ、即断力を相手に印象づけることになるのです。
もうひとつ、「僕がNoをいう人間に見えるかい?」というニュアンスがあります。僕はキミの頼みなら90%はイエスだ、10%はよっぽど都合が悪いときだけだろ、で、今回は何の悪い都合があるの?という感じがする。だから君のことを大事に思ってるよという意味合いが出るのです。
この Why not? は前向きな人間関係の構築やメンテナンスに大きな効果があるのです。言われればいい奴だなと感じますし、何ごともpositiveにとる前向きな人間だというイメージになります。アメリカ社会ではそれは重要なことでしょう。
日本語でそれを伝えるのは難しいですが、すぐできそうなことなら「もちろんです、喜んで」、やや難し目なら「やってみます」が近いでしょう。やってみます、は決意表明だから即断力を感じます。しかし、英語だと I’ll try it. ですが try ですからできない可能性も含んでいる。それでも挑んでみたいということだから何ごともpositiveにとる前向きな人間だというイメージは確実に伝わります。頼んだ方も、難しいんだな、できなくても仕方ないな、苦労してたら助けてやろうかなという気持ちになりますからプラスです。
ところがきく話だと、頼んだ上司がそういう気持ちにならない会社、つまり部下は使い倒すだけでそこに人間的な感情や痛みをもたないことという文化の会社があるようです。例えば非正規雇用だとそうなるとか。そういう人間を僕は「爬虫類」と呼んでいます。爬虫類はどこにもいますし、上司は選べませんが、会社全体が爬虫類的である場合、一般にブラック企業と呼ばれる傾向がある会社の可能性があります。
もしあなたが本稿を読まれて、僕が書いたWhy not?や「やってみます」になるほどと共感できる感性がある方なら、あなたは人間関係を前向きに進展させる良いものをお持ちです。まちがいありません。そういう会社への就職は避けられた方がいい。入ってしまったなら辞めるというのも選択肢です。あなたの良さを認めてくれる組織にいたほうが人生幸せになると思います。
その裏返しになりますが、経営者が部下に何かチャレンジさせてほしいと訴えられた時はどうでしょう。有名なのが松下幸之助の「やってみなはれ」です。これはけっこうWhy not? に近いニュアンスを感じます。しかも経営者の言葉ですから大きな迫力があります。字義的 には Try it! であり、 try なのですからできない可能性も含んでいる。そのリスクは経営者にあるのです。この言葉は部下を燃えたたせpositiveにしたことでしょう。頼んだ方も、経営者が難しい決断をしたんだな、失敗は許されないぞ、という気持ちになりますからプラスです。そうなれば会社はしめたものです。
ところがそうは問屋がおろしません。世の中うまくしたもので、部下にも爬虫類がいるのです。上司にリスクを押し付けながらうまくやる奴が。殿の仰せの通り!と言っておいてうまくいったら自分がやりました、失敗したら人のせいにして巧みに逃げる。どこの会社もこれだけで飯を食ってるサラリーマンの達人みたいなのがいます。
何ごともpositiveにとる前向きな経営者だというイメージは部下を常に勇気づけますが両刃の剣でもあります。自分で考え、結果責任を進んでとる有能な部下が育つ反面、爬虫類も増えます。だから冷徹な目で爬虫類は切らなくてはいけない。そういう企業は伸びます。松下幸之助はそういう方だったようです。
以上、何か頼まれた時に返すたった一言のお話です。そこに文化が投影されますし、人間性がにじみ出ますし、人をやる気にさせたりやる気を喪失させたり、会社ですとけっこう怖い人事評価にまでつながってくる可能性すらあります。人の印象や会社や仲間内、世間様での評価に大きく影響しているのは、自分で意識して作っているイメージよりもそういうちょっとしたことだと僕は思っています。
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サラリーマンと大器晩成
2014 SEP 23 11:11:53 am by 東 賢太郎
父方の祖父は僕が小学校3年ぐらいで亡くなったが、手相見が当たるので有名な人だった。そのことでひとつだけ覚えているのが、僕の右手の平をじっと眺めて、「この子はタイキバンセイだよ」と諭すように父に言ったことだ。大きな声だった。だからだろうか、その声までくっきりと耳に残っている。もちろん意味など分かる由もなかったが、何か悪い意味ではないなとだけ思った記憶がある。
もう来年60だから、その時の祖父の歳に近いだろう。バンセイするならそろそろしないとおかしいな、なんて勝手なことを思う。これからはこの祖父の予言を胸に抱いて生きていくことになるだろうか。
しかし、だ。若い時に何でもない人が齢をとっただけで晩成するもんだろうか、とも思ってしまう。そういう人は若いときから大器なんじゃないか。英語では人間が練れてオトナになった状態をmatured というが、大器が花咲くという感じではない。これは日本的、あるいは東洋的な大人(たいじん)という概念だろう。
人間には旬がある。スポーツ選手だと10代後半から20代までだろう。たしかに40代のプロ野球選手はいるが、その彼らだってその頃から立派に大器だったのだ。大器晩成なので40歳でドラフト1位指名を受けましたなんてことは絶対にない。
一般の社会人でも、仕事の種類はちがってもやはり旬はあるだろう。体力、知力、経験値がベストのブレンドになるのはおおよそ30代ではないだろうか。証券業で見る限りはそうだ。99%の人はそのあたりで最も脂がのった良い仕事をしている。
旬などとうにすぎているのに、つまり自分でできることの峠は越しているのに、何か大きな力を持っている人だろう、大人(たいじん)というのは。He has great power as he is matured. なんて西洋人に言ってみたところで何のことか通じないだろう。だからこれは儒教的、東洋的な世界でしか起きないことと思われる。
僕は祖父の占ってくれたバンセイを固く信じている。しかし、それでいながら、30代の旬の頃、絶頂期だった自分には何をやってもかなう気がしない。それは、いま仕事で固く結ばれているのはみなあの頃の僕を知っている人たちだということでもわかる。彼らも30代、全盛期だった。お互いガキで地のまま、必死だった姿を知っている。
だから彼らとは今でもごまかしは利かないし背伸びの必要もない。裏切りは絶対にない。お互いに、この仕事を頼めばどういう結果になるかほぼ正確に予測がつく。しかし、40を過ぎてから知り合った人は、野村で一緒に苦楽を共にした人ですら、言葉の端々でああ誤解されてるなとがっかりする。それが良い方の誤解であっても。
それは自分の責任だ。管理職になるころには社内では一定の評価、評判ができあがっている。400人も部下のいる組織に辞令が出ると、異動先では「あの人は・・・」と前もって噂され尽くしている。仕方ないのと面倒なのとでだんだんその通りに振舞うようになってくる。そうするとみんな安心する。それを見てこっちも安心する。
マネジメントとしては楽であるがこれは一種の役者だ。サラリーマンが嫌になった理由はいろいろあるが、本当の自分でない虚像につきあっていくのが疲れたのもそれだ。組織のトップが地のままで勤まるような人は生まれつきのリーダーだと思う。僕はそんな人とは程遠い普通の子で、学校時代は人前でしゃべるのも苦痛だった。
ビリー・ジョエルにHonesty(オネスティ)という名曲がある。彼はこう歌う。
But I don’t want some pretty face
to tell me pretty lies.
All I want is someone to believe.
そういうことだ。30代のころの仲間にあるのは、鉄壁の信頼だ。虚像でつくった信頼はそれも虚像でしかない。自分が脱ぎ捨ててしまわないといけない。そう思ったのでガラにもなかったブログなんかを書いてカミングアウトしている。しかし、書けばかくほど、虚像がなければ30代の自分には逆立ちしてもかなわないということがわかってくる。
権力や権威目当てに生きて勲章をもらうような人はそういう葛藤はないのだろうか。周囲にいないので知らないが、人生の最後になって今が旬だと思えるなら幸せな人生だ。でも僕には、失礼を承知で、あれは生きながらのオマージュに見える。勲章をくれる側の権力、権威に一生を捧げた返礼としての。
祖父がいったバンセイは、今の僕の悩みを乗り越えることだと思っている。幸い50にもなって恵まれた仲間が増えている。それはサラリーマンの同僚とは天と地ほどちがうものだ。これはとっても大事なことだ。someone to believe は「裸になって必死にやっていること」でしか現れないのだと気づいてきた。
30代の自分はまだ虚像なんか欲しくたってなかった。毎日が必死だった。だからこそ信頼できる仲間ができたんじゃないか?旬の時期の自分なら必死になれなかったことがある。50%の力で出来たことが今は必死にならないとできなくなってしまってもいる。それは実は良いことであって、次へのステップになるのかもしれない。それは真の意味で、何ものからも自立することだと考えている。
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道元先生の「鬼谷子の帝王学」を読んで
2014 APR 28 13:13:26 pm by 東 賢太郎
このところ、探していた要件にぴったりの新しい人を紹介されたり、しばらく滞っていた仕事が急に動いたり、新しい役職をいただいたり、古い知り合いとお会いできたりして、啓蟄などとっくに過ぎているのに冬眠から何かが目覚めるような春のうごめきを感じます。これから本厄に入るのになぁと思っていたら先日、やはり55年2月生まれの某経営者に「韓国では数えなので我々はもう本厄は過ぎてるよ」と言われました。なるほどそれは去年だったわけか、じゃあそういうことにしとこうかと自力でどうにもできないことは悩まない主義なので忘れることに。
ただ星のめぐり合わせということは一概に看過できないものも感じていて、幼稚園のお絵かきでは金色のクレヨンだけ減り、風水のラッキーカラーはゴールド(金)で、ゴルフでは本間の金色ヘッドのウッド3本で荒稼ぎして仲間からそのクラブは見たくないと白い目で見られ、ソナーとは図らずもヒンディー語でゴールドの意味でした。そして今、そのゴールドに関わる仕事をいただいて日々作戦を練っている。麻雀でピンズばかりツモったりとかございますが、単なるこじつけと言えばそうかもしれませんがそうとばかり思えないほど僕にはこういうことがよく起こるのです。
だから「そういう星の元に・・・」という考え方はある程度信じていて、両親も自分もポルックス星ということは確率が12分の1の3乗だから1728人に1人しかいない人間なのだと思っています。良いところばかりではなく悪い所も煮詰まって出るのだからダメな部分も群を抜いて悪いのだと諦めもつきます。「星の元」が運命を支配するなら人種、国籍、性別、宗教はもちろん血のつながりよりもそっちの方が本質ということでもあり、その人がどういう人かという根っこの部分の個性は教育や徳育や指導ではもう直しようがないということにもなります。これは元々の僕の考え方に近いのですが、だからそれを本質とまで考えるか否かは非常に重いことです。
**は死ななきゃ治らないなどといいますが、それも人の根っこは変えられないという意味に取れますし、そうであるならば人と人との相性というものは、もし合わなければどっちかが死なないと合わせようがないということでしょう。たしかに、そういうことは何度も思い当たります。いや、経験的には合う方が珍しいのです。男と女もそうです。だから、合う人は貴重であり、大事にしないといけない。そういうことを色々と考えていたところで拝読した道元先生のご投稿「鬼谷子の帝王学」は理解しやすく、何かの指針になると感じました。特に、施しを受ける人と領袖という人間の区分けは、万世一系の統治者を置かず血縁のない者が天子になって統治する中国らしい思想と思います。
僕自身は施しができるならしたいと願望する側の人間ではありますが、それは単なる希望、性格から出たワガママであって、領袖であるには力不足であることは自分でよく知っております。そもそもリーダーやエリートでありたいと思ったこともありません。先日もSMCは東さんが頂点で、とある方がいいかけたので、とんでもない、それは全く違うし最初から僕が望んだところでもないと申し上げたところです。なぜなら自分がそういうことができる性格ではないからです。学生時代も生徒会長のようなものになりたいと思ったことは一瞬たりともなく、どうもそういうものには僕は適任ではないのです。
新しい物事や知らない人にはまず疑うこと、つまりネガティブ目なところから入ってしまうのも性格なので仕方なく、自分の理性が納得するまで何も信用しません。だから学校の授業も腹からは納得せず、家で自分で問題を解いて初めて納得するというパターンでした。こういう理解、納得というものは一度できてしまえば強度が高くてそうそう崩れないのは利点ですが、相手の人からすれば信用されていないというのは不快でしょうし、上司としては包容力に欠けると見られているだろうといつも感じていました。
会社人としては人事発令で長と名のつくポストを幾つもやりましたが、監督より選手でいたいのが本音でした。それが仕方がなく監督という役を演じる役者になってしまって、それなりに演じてしまうと、またそういう人事発令になってしまう。それはもう負の連鎖です。一兵卒というといい過ぎですが、まあ軍曹ぐらい、あのコンバットのサンダースの役ぐらいがちょうどいいですね。なぜなら射撃も作戦も普通よりうまい、敵兵に負けない、これには自信があるし、反対にそういう現場感覚を失って、大本営の将校執務室で作らされた自分の作戦には自信が持てないからです。
現場を知らない人間が作った作戦など、これは歴史的にもだいたいが失敗なのです。野球なら親会社のサラリーマンでしかない球団社長がベンチで監督ができるでしょうか?ナポレオンは自分が現場を知る軍人でした。日本でいえば義経がサンダースですね、現場感覚にあふれた戦さの天才です。彼は僕の理想のリーダーです。かたや、明智光秀は本能寺の軍略は頭で練った奇策が大成功でしたがその後が全然ダメ。彼はやっぱりエリートの将校ですね。太平洋戦争の大本営参謀クラスは頭だけのエリートのオンパレードです。
作戦失敗して兵が死んでも失敗を認めない、自分の名誉だけは守りたい。そういう人は軍のランクは上位でも人間のランクは下の下であり、そういうものには死んでもなりたくありません。軍曹は自分の作戦が失敗すれば兵とともに死ぬ位置なのです。階級などどうでもいい僕にとって、確実に失敗する軍の将校よりも、たぶん成功する軍曹の方がいいというのは合理的でもあると思っています。そういう性格に生んでもらった親に感謝です。
小保方発表で暴騰したセルシード株(7月25日、追記あり)
2014 MAR 18 3:03:52 am by 東 賢太郎
「いやしくも彼女もその科学者である。コピペ、使いまわしがレッドカードなことも探知するソフトが出回っていることも知ってるはずだ。研究に対する一定の良識もあるだろうし僕はそう信じたい」
にそう書いたら、「コピペがいけないとは知りませんでした」とあっぱれなご発言があり、もう彼女を擁護できなくなってしまった。科学者はおろか理系であること自体ナンセンスな人である。その発言内容自体も凄いが、そう言えばそう結論されることを感知せずにあっけらかんと言ってしまう判断力も恐るべしだ。なにをもって早稲田と理研が彼女を評価したのか摩訶不思議である。
彼女は実験の執行者としては重宝であり、見つければ勝ちという領域では価値があったかもしれない。そして、女性が何かやると「美人**」に格上げになる世界唯一の国である我が国のマスコミがその得意技を駆使して存分にもちあげてしまった。ピンクの壁紙も割烹着も見せるための「やらせ」であったという噂だ。こうなると佐村河内と寸分たがわぬ詐欺事件であったと世間に見なされても仕方ない。週刊誌ネタに乗る気はないが、報道されているように目をつけた実力者をお得意の「女子力」で籠絡していたのだとしたら、その上司が理性を超えたことをしでかしていても不思議ではない。
証券市場ではあらぬ噂が回っている。もし本当だったら大事になる可能性がある。「セルシード」という会社が昨年8月に新株予約権を発行してUBSが何故かロンドンで第三者割当を受けているそうで、調べてみたらその会社は連結純資産がなんと1億円しかなかった。そんな会社に銀行は100%融資せず、証券会社が株や債券の公募発行を引受けることも99.99%ないのである。あるとすれば投機的利ザヤ狙いの外資かファンドしかないが、常識的にはそれすら説得しなくては無理という状況だったと思われる。経営者は追い詰められていたはずだ。その結果だろう、8月13日に、
第三者割当による第10回新株予約権及び第11回新株予約権(行使価額修正条項付)の発行並びに第三者割当て契約締結に関するお知らせ
が公表されている。これを昨日読んだがどうも僕の経験上不自然で腑に落ちない。これは発行会社名になっているが実態は割当を受ける証券会社が書くもので、UBSがこう書かせたはずだ。専門的になるので詳細は書かないが、しかし、僕が担当者ならこの案件は99%蹴っている。その時点の情報では、同社株の株価が近未来的に上がり、予約権を行使して買った新株を利益を出して売却できる(そうでなければ損をする)と信ずるに足る根拠は特に見当たらないからだ。
つまり「何かうまい話」がセルシードの経営者から伝えられなければ「継続性に疑義の生じた会社」(会計監査でつぶれる可能性を指摘された会社)のファイナンスに応じることは通常はない。それも半端でない総発行株数の30%近い大量の株式が新たに発行されるわけだから、「何か」がなければ株価は大幅に下がるのである。
ところが同社株は1月30日に小保方発表で40%も暴騰し、UBSは新株予約権を1月30日と31日の2日間で全部行使して市場で即座に売却し、数億円のサヤぬきに見事に成功している。以上記述したことは全部公表事実で誰でもネットで確認できる。もちろん偶然という可能性は否定できないが、自分の本業務の経験から憶測するとUBSの引受担当者かトレーダーに千里眼の持ち主が存在していたか、さもなくば、クビを覚悟の肝だめしでもやっていたかしか言葉が見当たらない。
危ない噂のほうは社名から検索すれば無数の書き込みをご覧になれる。小保方氏と同社経営者がそういう関係があったかどうかは僕は知らないし知る方法もない。僕がわかるのは、事の核心であるこのファイナンスの意思決定プロセスが、書面を読む限り、例えば野村やみずほがやったなら、ほぼ確実に証券取引等監視委員会など当局の関心をそそるレベルのものだろうということだけだ。これから何が起きるか注視したい。
(追記)
ハーバード大学のバカンティという指導教官だった教授は、彼が審査したことになっていた彼女の早稲田の博士論文を読んでないし読めと早稲田に依頼されてもいないと主張しているという信じがたい報道があった。この教授は問題のネイチャー論文の共著者で、最後まで撤回の必要なしと頑張っていた人だ。申しわけないがこれが本当ならもう彼女の学歴はメチャクチャである。しかも「ハーバードへ留学」と言っているがもともと4か月ステイだったのが伸びただけだそうで、そういうのは留学とはいわない。学歴詐称に近い。
誰かがこの女性に箔をつけようとハーバードのブランドを利用したとしか思えない。ここまでくると小保方氏一人でできるはずもない大がかりな嘘だ。ということは彼女は単なるパペット(操り人形)であって、彼女が不思議ちゃんであったかどうかなどどうでもいい話だったという、まったく性質の異なる展開になってくる。佐村河内は芝居の主役であり脚本家でもあったが、彼女はそうでは「ありえない」のである。
(追記、4月13日)
このブログの本文は3月18日に上梓した。それから約1か月の時間と小保方会見というイベントを経たが、一言たりとも訂正する文言が見当たらない。
(追記、4月28日)
セルシード株は小保方発表時(1月31日)高値2400円から今日までで約58%下落した。1000円で買い支えが行われているように見えるが、割ると底が抜ける感じすらある。ネイチャー論文の内容が仮に100%事実だったとしても、それが将来この会社の利益にどう落とし込まれるのか、漠たる夢とストーリーはわかるが、さっぱりロジックが理解できない。それでも株を買う人がいる。不思議なことだ。株式市場をカジノと勘違いしている人が大勢いて、そういう人を食い物にするファイナンスが行われる。そういう人たちも市場の一部を形成しているのは事実であり、だから、そういう行為は証券市場を食い物にしているのと同義である。長く証券市場に関わってきた人間として、そのような行為は看過できない。本稿の趣旨はそこにある。
(追記、6月12日)
ネイチャーにこういうeditorial(社説)を見つけた。Agency for change
これが載った契機はSTAP論文であることは文脈から明白だが、ネイチャーは4月30日掲載時点ではまだそれをscientific misconduct(科学における不正行為)と認識しており、一応はthe more bizarre cases of scientific fraud (もっとたちの悪い科学詐欺)の脈絡に位置づけてはいるように見えるが、「もっと」だから詐欺ではないというスタンスである。巧妙に逃げている。そして日本に米国型の研究監視機関がないことが問題だと主張しているがハーバード大学が共著者である本件にその指摘は的外れであろう。また、安倍首相の「日本の科学の研究基盤が浸食される恐れがある」というコメントを引用しつつ、「昨今の研究者はかつてないほど多くのデータを取り扱う必要があって、(そういう世の中になると)不正行為の評価というものもプレゼンデータのごまかしからくるぞんざいさを詮索したりするきらいが出てくる。よって、日本の研究機関は研究者のデータ管理教育のための予算をもらうべきである」というさらに的外れな結論で堂々と結んでいる。「最近の研究者は大変なんです。データの見ばえを良くした程度の些末な事でお行儀が悪いのどうのと騒ぐんじゃないのよ。お作法の教育ぐらいは自分でちゃんとなさい!」という一見もっともらしい議論に論点をすり替えているが、本件はお行儀の問題どころでは済まないのは6月12日時点ではほぼ明確になっている(4月30日掲載だからそこは大目に見よう)。しかしここまでならば、研究詐欺(かもしれない)論文を掲載したのは日本政府の管理が甘いせいだというよくある責任回避だ。ところがここからが凄い。挙句の果てにもっと理研にカネを出せと言っているのである。この主張を導く接続句の”よって(For this reason)”の唐突さと説得力のなさは芸術的と評するしか言葉がない。日本人は監督者も研究者も未熟者なんだからカネで解決するしかないでしょということだ。やはり未熟者であって糾弾されるべき立場にあるネイチャーは家庭教師でもしてあげますよモードである。この社説のロジックのsloppy(ぞんざい)さも問題の論文のsloppiness(ぞんざいさ)といい勝負だろう。こういう詭弁にトップが騙され加担するからえせ研究者を跋扈させ、日本の誇るべきまじめな研究者たちが埋もれてしまい、「日本の科学の研究基盤が浸食される恐れがある」と首相が心配することになるのである。この社説からは米国、日本政府、理研、予算(カネ)なる大きな構図があって、ネイチャーはそれを守ることに利益があるらしいというニュアンスが漏れ出ている。お行儀が悪い子ちゃんも守る(米国の教授と同じく)ほうが都合が良かったらしいというニュアンスも感じる。社説のいうthe high level of attention は日本政府にだけではなく、世界の目となってこれからネイチャーがSTAP論文を自らどう処理するかにも大いに注がれているということだ。
(追記、6月18日)
安倍内閣第3の矢と予算。先端科学と女性登用。下村大臣と文科省。先進医療と医工連携。早稲田と東京女子医大。ハーバードと Brigham and Women’s Hospital。特許50-50。 理研と独立行政法人。GPIFと独立行政法人中小企業基盤整備機構。ゴッドハンドと入試なし。YとS。プロが書いた(佐村河内事件と同じ)。ハーバードの人がこんなにいい加減と思わなかった。切りたいが切れない。解体したいが解体できない。
(追記、6月26日)
「小保方氏実験なら厳格監視」(理化学研究所発生・再生科学総合研究センター竹市雅俊センター長)
「週刊回春」 特別インタビュー
「なぜ監視しないといけないのですか?」「はい、論文を捏造した前科が確定した人なので危険だからです。」「その人はなぜ捏造する必要があったんでしょうか?」 「はい、細胞ができていなかったからでしょう。」「今回はできるのでしょうか?」「はい、200回成功したというのは全盛期のイチローの年間ヒット数です。できない確率はイチローが1年間ノーヒットなのと同じぐらいでほぼゼロです。できなければ嘘だったと判断するに足る確率と思います。嘘として本人を葬れればそれで私どもはいいんです。」「なぜそこまでして確実にばれる捏造論文を世界に発表する必要があったんでしょうか?」「はい、そこに根本的な深い謎があるわけなのですが誰もまだお気づきでないですね。株も高いし。私どもの間では世間の目がワールドカップに向く期待がありました。あっけない敗退で盛り上がらず困っています。そこで実験に持ち込んで1年先延ばしすればその頃には謎は忘れられているだろうという期待がにわかに高まっているのです。」「なるほど。そうすればセンター解体も忘れられます。」「だから私どもも大臣も実験ショーがしたいのです。そしてそれにはSTAP細胞かくにーん♡ という主演女優が必要なのです。」「なるほど、女優というよりマジシャンですね。」「おぬしもワルよのう。まっ、今度はネタバレがないよう厳重に監視する所存であります。」
閑話休題
その実験よりSTAP論文不正犯人捜査と使途不明経費解明捜査が先に必要である。前者は小保方研究室の細胞の徹底的な第三者立入調査が絶対に必要である。若山発表以来これが未だなされていないのは非常に不可解である。「論文不正問題とSTAP細胞有無解明とは全く別の問題だという事の本質を曲げることはありえない。STAP細胞はES細胞(胚性幹細胞)ではないかという指摘が客観的事実に基づいてなされている、つまり公金を使った不正という重大な疑義が公に指摘されているにもかかわらず、なぜ事件発生現場の長が調査を行わないのか。調査権がないのか。ないなら不正抑止力なしで解体は必然である。そうではない、調査委員会の解体勧告は行き過ぎなのだと主張して組織を守りたいなら、犯人を特定しないでどうやって正しい人たちを守るのか。組織の長の言行に論理的一貫性がない。だから調査委員会に解体せよと言われるのである。
(追記、6月30日)
以下、私見である。
ネイチャーがSTAP論文撤回を決めたという報道があった。ネイチャーの査読もいい加減であったという不名誉を認めたということである。撤回理由は未だ明らかでない。
理研調査委員会による「アーティクルの二つの画像に捏造(ねつぞう)や改ざんの不正があった」という発表にネイチャーは「もっと教育しろ」と反論することはできた(追記、6月12日参照)が、第三者機関による分析結果を示した「レター」に関わる若山氏の論証に反論することはもっと不名誉な結果をもたらすと判断したと思われる。
このネイチャー誌の判断は本件関係者がクロである可能性を高めたというわけではない。それを証明する証拠がどこにあるかを示唆したという点に意義がある。
「捏造(ねつぞう)や改ざん」は故意によってのみ成立する行為である。問題は「アーティクル」(STAP細胞の作製方法などを示した主論文)の捏造と同じ故意が、「レター」(STAP細胞から作った幹細胞の性質を分析した論文)にあるか否かであり、それをネイチャーが認めたかも知れないという点こそ重要なのである。
「理研改革委員会はレターの徹底調査を求める提言をまとめているが、理研側は調査する意向は示していない」(毎日新聞)。
そこに真相を解くカギがあるからではないか。chemistoryと綴る程度の学力である小保方氏が捏造イラストレーターだったとはいえ、真の執筆者が「いや、こんなにいい加減とは・・・」で逃げ切れない何か(それは科学知識のない筆者にはわからない)がレターにあると思う。小保方氏の故意を共有せずに書けたはずがないという何かが。若山氏はその部分に関与がなかったか、あるいはあったものの自白による減刑を図ったかもしれない(後者であれば本件は「囚人のジレンマ」の実証研究の素材としても第一級の資料であろう)。
故意の立証がなぜ重要かというと、公金の詐取(使途不明経費の不正との認定)という別の事実がもしあったと仮定すればそれが詐欺罪の構成要件だからである。犯罪捜査であれば理研の調査意向は関係がない。専門家による第三者機関を伴った小保方研究室の捜査が急務である。部屋の鍵は誰が管理しているのだろう?理研を早く正常に機能する状態に戻すことは、世界の科学の発展と我が国の信用の担保という点においてもはや避けることはできない。汚点となっている本件のクロシロの決着は、理研を存続させるために不可欠と思う。
(追記、7月4日)
を読んでいたらこのコメントを見つけた(3月31日付、内容の真偽は不明である)。
Obokata and Vacanti are likely funded by GLG indirectly, and thus the show must go on. Obokata and Vacanti will not allow a retraction to happen (their employers/investors will not allow it).
GLGとはこういう存在である。
Gerson Lehrman Group – Wikipedia, the free encyclopedia
以下私見である。この短いが意味深いコメントをもって、筆者は論文捏造事件と証券市場との接点を整合的に説明するある仮説にたどりついた。GLGのコンサルタントに証券会社のアナリストが入っていることの意味など、証券業界に精通した者でなくては理解できないかもしれない。本件をある者が創作したオペラとするなら、その中でさらに別の劇が展開する「入れ子構造」になっているためオペラ自体のプロットが見えにくい。日本においては、誰が嘘つきなのか?誰を守ろうとしているのか?小保方氏は真犯人なのか?という悪徳代官ものの時代劇捕り物帳が進行しているが、それらは劇中劇の中の犯人捜しにすぎない。STAP細胞はほんとうにあるの?それは劇中劇のタイトルにすぎない。よって、それらはオペラの犯人捜しとは何の関係もない。
現在の所、筆者がひとつだけ確信があるのは、小保方氏にオペラが書けたはずがないということである。小保方氏はオペラ作家によって巧妙に設定された日本人向け劇中劇におけるリケジョ役ヒロインの初演女優である。台本作家たちの読み違えは、女優に論文論旨をでっちあげる重要な剽窃画像を作成させたが、彼女の剽窃は想定外に杜撰で、誤りが発覚してもケアレスミスと主張するには未熟な水準にあったことだ。そのため故意を見抜かれる結果となり「再現性に乏しい論文としてやがてフェードアウト」というオペラ台本が台無しになってしまった。4月の小保方記者会見での謝罪「「私の不勉強、不注意、未熟さ ゆえに論文に多くの疑念を生み・・・」は国民ではなく台本作家、主剽窃者への謝意ととるとわかりやすい。論文剽窃故意の共有発覚によるオペラ台本関与発覚を恐れた若山氏の内部告発がさらに剽窃蓋然性の推定値を高める結果となり、全員が(ネイチャーを含め)降りた。これがネイチャー論文撤回決定の背景と思われる。
仮に筆者の仮説が正しいとすると、米国SECと共同捜査が必要であるという意味で、また、日本の科学界の弱点、証券取引等監視委員会の弱点を知り尽くしたという意味で、また、どの「パーツ」だけ単独捜査しても全貌は把握し難いという意味で、最高度に洗練された複数の専門的知性による非常にインテリジェントな国際的詐欺、インサイダー取引事件である可能性がある
(注: 一般にわかりやすいという意味でインサイダー事件と書いたが、法律を眺めると本件をインサイダーで立件するのは難しいと思う。犯意自体は内部者取引と寸分違わないが、法の盲点をついている。米SEC、FBIが外国証券市場で起きた不正を取り締まるかどうかも不明であるが、GLGに誰が誰にどうアドヴァイスしたか記録はあるはずである。米国は知財剽窃証券詐欺には目をつけていて、すでに何人も逮捕している事実がある。)
(追記、7月5日)
V氏は素晴らしい。「絶対に存在し」「生物学の常識を覆し」「ノーベル賞に値する」ほどの画期的な仮説を異国の弟子に懇切丁寧に教え導き、「賞も特許もどうぞ」「自分は末席で結構ですよ」というマザー・テレサのようなお方だ。かような慈善行動はまさに生物学界の常識を覆すものであり、ノーベル生理学・医学賞よりも平和賞こそふさわしいと評する声も出始めているようだ。
H子、できると信じなさい。「ある」んです。失敗はいいんだよ。だって誰も「ない」って証明できないだろ?だからなんでもOKだ。早くやるんだ。もし何か言われたら寝ても覚めても「ある」と言い張りなさい。心配ない、私もあると言い張ってVサイン送るからね。片手じゃない、両手で送ってあげよう。もちろんお金もだよ、Have a nice stay in Kobe!
なんて勘ぐる下衆がいると聞いているがとんでもない不届き者だ。下村文科大臣は小中学校教育に「修身」を復活させ、V氏の我が国への献身的な貢献をたたえるべく、太宰の「走れメロス」と並ぶ「サインはV・V」を徳育教材として教科書に採用すべきではないだろうか。ネイチャーの編集者のご関心を買って採用させるよりは簡単ではないかと思われる。
(追記、7月9日)
我々はプレスの公表事実から推論するしかないが以下のものが注目される。
^“「小保方さんに協力した人がいるのでは?」 STAP細胞論文不正問題で理学博士・竹内薫氏が新たな食い違いを指摘”.
論文で「STAP細胞」と呼ばれている細胞は,どれも同じ細胞ではない。少なくとも3種類あり,実験ごとに異なる細胞が使われている。論文に掲載された「STAP幹細胞」10株は,すべて途中ですり替わっている(上掲)。そうとすれば、
①ネイチャー論文偽造が「過失」ではなく「故意」によることが確実であり②小保方氏にES細胞とTS細胞を混ぜ合わせる経験はなく③誰かがそれを渡したか、あるいは両者を混ぜた④その人物も故意を共有していた
が論点と思われる。故意の認定により両人の行為は韓国の黄禹錫教授事件と同じ法的構成要件を満たしてくる。筆者が再度指摘した理研のLetter論文調査と小保方研究室にある細胞の調査への回避姿勢は、それ(詐欺罪立件)から逃げるためとすれば整合的である。②③④については若山解析こそが決定的証拠となりえる。
“撤回理由書、共著者の合意なく書き換え 細胞の由来説明を大幅変更、水掛け論に”.
この昨日の報道は、この書き換えの行為者のせっかくの努力にもかかわらず、かえって「②③④について若山解析が決定的証拠となる」ことを示している。それを否定しないとまずいという意図が見えてしまった。この撤回理由書書き換えの行為者こそが真犯人であるか、または、真犯人をかくまう共犯者であるとするとこの行為は整合的である。ただちにそれを捜査すべきである。
(追記、7月25日)
研究自体が虚構であったのではないかという疑念を禁じ得ない段階に達しています(日本学術会議幹事会声明「STAP 細胞事案に関する理化学研究所への要望と日本学術会議の見解について」、2014 年7 月25 日)。
何度も書いたことだが、非常に高い確率で、赤字部分の通りという推論を覆すのは困難である。僕の推論はあくまでネットで得た情報に基づく推論であるが、帰納法でも演繹法でもなく、数学的帰納法的推論である(ドミノの大きさが違う)。
すなわち、「7月9日までに得た情報が正しい」(=①)とは言っていない(言う必要もない)。「研究自体が虚構である」(=②)とも言っていない(言う必要もない)。①と仮定すれば②であると言っているのである。
②でないと主張するなら方法は2つしかない。数学は数学的に否定していただきたい。
(1)①が誤りと証明する。
それは小保方研究室の冷蔵庫の細胞を第三者機関が調査し、「STAP細胞を得たマウス」=「若山氏が小保方氏に渡したマウス」(「若山研にいたことのある種類のマウス」ではだめである)を証明すれば済む(完全ではないが)。だから理研センター長様は理研のために早く調査すべしと強く主張してきた(追記、6月26日、同6月30日参照)。
(2)僕の「ドミノ倒し」のロジック(連鎖)を否定する
是非おやりいただきたい。
「ねこだまし」が何万回行われようと、以上がなされないなら、株式市場にも関与する一大疑獄事件という疑念が払拭されることはなく、米国当局を交えて何年かけても調査が行われるべき案件と思料する。
(PS 学位取り消し問題はロジックに含まれない。早稲田大学の名誉の問題であって本件の結論に何の関係もない。STAP検証実験の有無も結果も何の関係もない。まして監視の有無など完璧に関係がない。どんな魔術を使おうが他の研究者が再現できないものは「無」である。従って、実験そのものが「ねこだまし」であるが、「監視」は実験実行を正当化する「ねこだまし」の「ねこだまし」である。実行させている者にとって実験結果などどうでもいい、しかし、「どうしてもやる必要がある」という強い動機を示唆する。その動機にこそ本件の背後にある真実があると思料する)
研究活動の不正行為への対応のガイドラインについて 研究活動の不正行為に関する特別委員会報告書
第2部 競争的資金に係る研究活動における不正行為対応ガイドライン
6 不正行為と認定された者に対する資金配分機関の措置
(3)不正行為に係る競争的資金の返還
研究費全額の返還
研究の当初から不正行為を行うことを意図していた場合など極めて悪質な場合は、3の1及び2に掲げる者に対し、これらの者に係る当該研究に対して配分された研究費の全額の返還を求める。なお、不正行為があったと認定された研究が研究計画の一部である場合、当該研究計画に対して配分された研究費の全額の返還を求めるか否かは、事案ごとに委員会が判断するものとする。
調査委の結論(1)
いずれも2本ある論文のうち主論文に記載されている。一つは細胞増殖率に関するグラフで実験を手がけた記録がなく、小保方氏が細胞の数を計測していなかった。もう一つはSTAP細胞の遺伝子データを示した図で、実験データとされる結果と一致せず作図したと判断した。
← どうして作図したのですか?(作図=故意である) ←(未だ不明)
②について
「ES細胞のコンタミ(混入)ということが起こりえない状況を確保しておりました」(小保方氏、2014年4月9日の会見)
← この発言は嘘だったのですか?
嘘でない
「知らない所で混入が起きていた」「渡したのはstap細胞だと信じていた」ということになる
← それならどうして作図したのですか? ←(未だ不明)
それとも
嘘だった
← どうして嘘をついたのですか?←(未だ不明)
調査委の結論(2)
過失か故意なのかは決定的な判断をすることは困難
(←何をもってそう結論するのか未だ不明)
税金の使途につきこれだけの不明点を残している。この調査委員会の判断で返還額が算定されるのだろうか。
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