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カテゴリー: ______わが球歴

判官贔屓と広島カープ

2015 NOV 10 20:20:19 pm by 東 賢太郎

自分の判官贔屓(ほうがんびいき)がどこから来たか。両親は巨人・大鵬・卵やき路線であってそういう気配はなし。こりゃあ隔世遺伝なのかなと思っていたら、ひとつ思い当るものが見つかりました。

「赤胴鈴之助」です。といっても僕より年長のかたしかご存じないでしょう。昭和30年ごろの少年剣士のラジオドラマらしく(実は何も覚えていない)、そのテーマソングを歌いながら刀を振り回して踊るのが親戚中で有名になっており、なんと前回のブログに書いた母方の祖父のお通夜で故人の枕もとでやってしまった(らしい)のです。「ケン坊、おじいちゃん喜んでるぞ!」と座がなごんだと伝わっております。2才でした。

その主題歌がこれです。

メロディーはどこか聞き覚えある程度で歌詞は全く記憶がありません。はるか忘却の彼方です。

剣をとっては 日本一に
夢は大きな 少年剣士
親はいないが 元気な笑顔
弱い人には 味方する
おう! がんばれ 頼むぞ
ぼくらの仲間 赤胴鈴之助

が歌詞(一番)なんですが、弱い人には 味方する」という部分にピンときたのです。判官贔屓のルーツはこれじゃないか?

まさかと思いますが、前口上の「ちょこざいな小僧め!」の猪口才(ちょこざい)なんて、普通の子は知らないような言葉をなぜか早くから使っており、「剣」、「日本一」、「夢」、「大きな」、「笑顔」、「がんばれ」、「頼むぞ」、「仲間」、など今でも僕の琴線にふれる単語が並んでます。三番には「つらいときにも 勇気を出して 正しい事を やりとおす」なんて、今から人生訓にでもしてみようかなんて歌詞も出てくるではないですか。

三つ子の魂・・・とはこれなんでしょうか?僕が仲間に頼むぞといわれたらスナイパーみたいにやり遂げたくなってしまうタイプであり、がんばれと言われると素直にがんばってしまう単細胞であり、つらいのに笑顔でいる人や日本一の大きな夢をもってがんばる人は無条件に応援してしまう性格なのはこれのせいだったんでしょうか?

どうしてそんなことにこだわっていたかというと、東京の子なのに広島カープ好きになったのは、小学校2年生にしてすでに立派な判官贔屓だったからだと思うのです。7才ですから、もちろんその言葉のもとである源九郎義経なんて知りません。ただ単に、弱い人には 味方する」のがいいことだと信じ込んでいたフシがある。なぜなら、50年前のカープはそのぐらい弱かったからです。

ところがわからないことがあって、そのカープが1975年に初優勝してしまうのですが、それでもカープファンをやめなかった。えっそれは逆でしょ?と思われそうですが、強ければいいなら巨人ファンになってました。東京の子だから。大同に付くを良しとせぬ一匹狼だから、優勝などして猫も杓子もとなると気持ちが離れそうなもんだったのです。

それがそうならなかったのは大羽、外木場など好きな選手がいたせいもありますが、赤胴鈴之助ソングで刷り込まれていたもうひとつのポイントである「日本一の大きな夢をもってがんばる」姿を新しいカープに強烈に見たからです。

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ありえなかった75年の優勝は、前オーナーの英断でメジャー経験者ジョー・ルーツ(左)を監督にすえたことがすべての発端であります。日本球界初の革命的な試みでした。ルーツは「集団は確固たる指導方針を持った強烈なリーダーによって変わる」という信念で、まさに彼自身の強烈なリーダーシップで「勝って広島を活性化させる」という信念を選手に植えつけたのです。球団ともめてわずか15試合で監督を辞任したにもかかわらず、チームの負け犬体質を根底から一新しました。紺色だったカープの帽子を赤ヘルにかえたのはルーツです。

当時20才だった僕は、嬉しいを通りこして衝撃をうけました。監督一人で結果がこんなに変わってしまうなんて!

大変に僭越ですが、2004年に野村證券からまだ株式引受主幹事実績がゼロだったみずほ証券に移籍を決意したとき、自分を鼓舞しようといつも「勝手イメージ」していたのはこの時のジョー・ルーツです。そのぐらい僕にとってインパクトがあった憧れの男であり、いまに見ておれよと退路を断った僕の覚悟も凄まじいものでした。

最近のカープファンは優勝できて当然と思っておられるかもしれませんが、昭和30~40年代の暗黒時代、球界のお荷物といわれた頃を知るオールドファンにとって日本一は言葉の真の意味における「奇跡」でありました。そして24年もリーグ優勝すらしていない現在、「日本一の大きな夢をもってがんばる」が言葉だけのセールストークではないことをファンのためお祈りするばかりです。

 ところで、「赤胴鈴之助」を耳元で聞いてくれた祖父は明治時代の野球人であり、早くから野球の魅力にとりつかれた人でした。もうちょっと生きていてくれたらキャッチボールできたのに。親父によると彼はけんかして三井物産を辞めて王子製紙の役員になったようで、なんともはや孫に隔世遺伝してるのがこわいほどです。

(こちらへどうぞ)

どうして証券会社に入ったの?(その1)

僕の運命を変えた広島カープ

 

 

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野球のヤジは奥が深い

2015 OCT 27 2:02:45 am by 東 賢太郎

野球で味方がエラーすると「ドンマイ!(気にすんな)」と声をかけたりする。どこかのおコメかゼンマイの一種かと思ってたらDon’t mind!だった。メリケン粉(American)やYシャツ(white shirt)とおんなじだ。たぶん明治時代あたりの日本人がアメリカ人と試合してそう聞こえたんだろう。

硬式野球部に入ると声を出せから始まる。1年生は声出しと球ひろいが仕事だ。どこにいようと練習中はとにかく息を吐くたび大声を出さないと怒鳴られる。「いこうぜいこうぜー」「はぁはぁー」「おーらおーら」「そりゃそりゃー」「よっしゃよっしゃー」「ゴーゴー」などなんでもよい。ワンパターンでは飽きるのでいろいろ組み合わせるが、個人個人でやっぱり好みがあって、今でもあいつは「ほーほー」だったと思いだす。

これが試合だとバリエーションが増える。守備は捕手が前に出て「しまってこうぜー!」と両手を上げて幕を開ける。「ナイシーナイシー」はnice seeで「きわどいボール球に手を出さずによく見逃したぞ」という意味だ。「ナイピー」は味方投手がいい球を放ったとき、「ナイスカー」は打者が巧みに投球をカットしたときでナイス系は多い。「ヘイ、バッチバッチー」は敵の打者にヤジを飛ばす枕詞で、あとに「また三振かー」などあらゆる悪口が続く。

「ヘイ、ピッチピッチー」はその投手編だ。「ハエがとまってるぞー」はお前の球は遅い(蠅がとまりそうだ)の意味。「タマ来てねえぞー」「おじぎしてるぞー」もおなじ。「ほりゃほりゃ、どうした、はいんねえなー」はスリーボールになったときに、「浮いてるぞー、見てけ見てけー」は高めに来てるのでナイシーすりゃ四球だぞというプレッシャーをかけている。こういう局面で投手がビビると打たれるので、捕手がマウンドに来て「置きにいくなよ!」(ストライクを取りにいって棒球になるな)なんて尻をたたいたりする。

たいしたことないヤジだが、初回などはけっこう効いたりする。投げてみるまで自分でもわからないし、それを教えてくれるのは味方ではなくて敵の打者だ。初回にいきなり打たれたり四球が続いたりすると「乙女の心」になったりする。ホームランを打たれてわけがわかんなくなったことがある(以後の記憶なし)。球が走らない、カーブが曲がらない、マウンドが嫌だ、風向きが気になる、審判と合わないなどいろいろある。プロでも「立ち上がりが悪い」という人はけっこう多い。

それを見越して、マウンドに登ると捕手は「今日いいぞ、走ってるからな」という。必ず。そうでなかったのは人生一度だけ、広商のエースだった人。「お前カーブあかん」でいきなりチョン。「これでいけ。」で投げたことないフォークの握りを教えられ「サインはチョキ」でおしまい。しかし草野球とはいえ構えたとこに投げたら人生唯一の1安打完封だった。ニューヨークでは巨人のドラフトを蹴った人とあたって「いよー、巨人のホシー!!」と全員でヤジりまくったら「なんだ、知ってんのかよ」とコントロールが乱れてKOした。

かように相手ベンチの声はよくきこえる。勝ってると投手は何人がかりかでヤジられる。いちど円陣の監督の声がきこえて「いいか、あいつコントロールいいからな・・・」あとは聞こえなかったが。11対2の大差で最終回になって「おーい、意地を見せようぜー」というのが来たことがある、1度だけだが耳に焼きついている。ありがたいことで人生のいい思い出になった。こっちが左腕の快速球投手にきりきり舞いで3安打完封されたのは、4番が高めで三振を食らってもう一回り目でこりゃあかん、誰も口に出さないがという練習試合。もう悲惨でヤジも出なくなってしまった。意地を見せようぜーはそういう時に出る、ヤジというよりかけ声である(それすら出なかったが)。

思い出したくないが、昨日のバンデンハーク、サファテに対するヤクルトはそういう感じだった。球が速い投手に力で抑えつけられると、なんかフォール負けした屈辱がある。プロ野球ニュースで高木さんが「神宮なんだからマウンド削って平らにしちぇばいい、ホームはなんでもありなんだから。そのぐらいしないとズルズルいきそう」と言っていた。そして笘篠とふたりで口をそろえて「意地を見せて欲しい!」が出ていた。これで僕は思い出してしまい、これを書く羽目になった。ヤクルト、ドンマイだ、意地はいいから普段の力を見せてくれ!!

 
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奇跡の逆転サヨナラホームラン

2015 AUG 12 1:01:27 am by 東 賢太郎

1 2 3 4 5 6 7 8 9     計 安 失
オ 0 1 2 2 0 0 0 1 0     6 11 1
ソ 0 1 0 0 1 0 0 0 5X  7 13 1

中島さん、中村と観たオリックス対ソフトバンクの興奮がまださめておりません。オリックスの金子に見事な投球で7回を2点に抑えこまれたソフトバンクは5対2と敗色が漂い、トイレに立って帰ってきたら8回表にホームランでもう1点入って6対2になっていました。

もう決まりましたね、帰りましょうか?という声も出ましたが、まああと少しだからと残りました。8回裏のソフトバンクの攻撃もあっけなく終わり、こんなことが起きるとは誰も思ってなかったのですが。

9回裏、クローザーの佐藤がマウンドに立ち150kmの速球を投げこみ、2点返しましたがツーアウトに。柳田まで万一回ったら面白いですねと話していたらその万一が起きてしまい、ここで万一一発出たらサヨナラですよねと笑っていたらまた万一が起きてしまったのです。

打った瞬間わかる会心のホームラン。7対6の劇的すぎる逆転サヨナラ。ヤフオクは地鳴りのようなどよめきと歓声でひっくり返り何分たっても収まりません。あんなのは初めてです。

出先で写真が貼れませんが、後日見て下さい。野球を観たりやったりした回数は普通のかたより多いと思いますが、これは掛け値なしにかつて観たすべての試合の中でベスト、最高に酔いしれた奇跡的ゲームでした。

オリックス贔屓の中村兄にはまことに無念な結果であったというのはあまりのことに失念しており、中島大人がちゃんとフォローして下さっていたようでありがとうございます。勝敗は関係外の僕は気楽なもんだったわけですが、あれがカープだったら大変でした。ビールも入ってましたが東がそこまで言うんなら凄い試合だったんだろうと帰りに言ってた気がするので最後は大人の納得だ。まず野球の神様に、そしてこんな凄いものに立ち合うきっかけを下さった中島さん、中村兄に深謝いたします。

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夏休みがなかった高校時代

2015 JUL 15 1:01:33 am by 東 賢太郎

高校時代に夏休みはなかった。夏の甲子園予選東京都大会があるからであり、いまそれがたけなわである。毎日の勝敗を見るにつけ血が騒ぐ。最近は知らない高校名もたくさんあるが、だいたいのところは名前で力が想像できてしまう。ああ、ここなら勝てるななんて今でもグラウンド目線で見てるのは、高校野球に完全燃焼できなかったからだ。

中学で背が伸びて171cmになり、草野球ではオトナでも打たれる気がしなくなった。早生まれのせいか体が小さく、でかい女の子に腕相撲で負けたしでかい男子にはケンカも運動も勝てないと思い込んでいた。ところがもっとでかいオトナを三振総なめにして、得意なことを磨けば世の中わたっていけるかもと思えるようになった。

野球は硬式と軟式がある。硬式の人間は軟式は野球と思ってないがあのオトナたちはきっと軟式の人だったのだろう。思えば中学でリトル(硬式)に入って同世代のうまい子にコテンパンにやられていたら小学校の弱っちい自分のままだった。古来、男子が大人になるのが元服だが草野球のおかげでそれがすんだ。

投手のタマと野手のタマは質がちがうのは経験者はわかる。練習しても野手にはああいう球は放れない。野球部員はみなそれなりに自負心があるが投手は別格の天狗だ。世の中に自分のタマを打てる男はほとんど存在しないと思っている。そんなことはどうでもいいのだが、世の中がどう思おうと、そのことがどうでもいいのである。

社会に出て仕事で気おくれする場面はある。それでも、相手が打席に立った姿をイメージすれば気持ちで完全優位になってしまう。人前に出るなどなんでもない、投手は衆人環視になるのが仕事だ。良し悪しはあるだろうがもともとが小さかった僕にはちょうど良かった。野球好きなのは男子としての自信をつくってもらったからだと思う。

九段高校ですぐ硬式にはいった。都立とはいえその夏の東京都大会の第六シード校で4回戦まで行ったから弱くなかった。草野球出身で誰に習ったこともなく投げ方はもちろんプレートの踏み方すら知らなかったが、先輩方とキャッチボールしてみると自分の球のほうが速いと思った。野球だけは自分は特別と天狗になりきっていた。

その夏からすぐベンチ入りさせていただいて、大会終了後に背番号1をいただき一級上の2年生を飛び級した。だから客観的に能力がすこしあったのは球を投げることで、学業など比にもならないと書いて自慢にも謙遜にもならないと思う。この1年でエースというのに比べれば2浪して東大に入ったり徹夜続きでMBAを取ったなどというのは汗の匂いがする格好悪いことだ。

硬式で初めて同世代のうまい子と対戦することになる。天狗はそこまでだった。秋の新人戦は国学院久我山だった。甲子園も出てロッテの井口、日ハムの矢野などプロ選手も多く出している。9-0の7回コールドで負けた。一回り目は零点でたいしたことないと思ったら次から打たれ、それも人生初というほど自慢の直球を打たれてショックをうけた。

打撃では甲子園に出た日大一高戦で一塁線ゴロが抜けたと思ったら併殺打。盗塁は何度かしたがだいたい1メートル手前でアウトだった。そもそも上の子相手ではいい思い出自体があまりなかったのか。二けた三振で2安打完封された聖学院の左腕からセンターオーバーの三塁打を打ったのがいい方の唯一の記憶のように思う。珍しいから覚えてるのだろう。

硬球の怖さも知った。初登板だったOB戦で先輩にぶつけてしまった。それも速球が首を直撃して昏倒され騒ぎになった。走者一三塁の場面で一塁走者が盗塁したとき、捕手が擬投で僕に思い切り投げ返してきた。サインがわかってなく危険だった。打球では何回も怖い思いをした。18.44メートルの距離を強烈に襲ってくる。捕れなければ頭、心臓、股間などを直撃のもあった。

2学期がはじまって同級生が山へ行った海へ行ったという話をする。こっちはあの学校に勝ったの負けたのだけ。体育会というのはクラスでは軍人みたいで戦いの話しか興味がないし女の子とは話題すらない。軟派な都立高だから完全に浮いていた。どうしてそこまでして野球に没入していたのか、あるとすると闘争本能とお試し本能だ。

人間なにごともうまくなると試したくなる。足が速ければかけっこしたい。力自慢なら相撲したい。相手をやっつけたいというより自己確認、それがお試し本能だ。ゴルフはそれだけでできる。相手が人間になると闘争という要素が入る。へたすると戦争にもなる。闘争性を除去してお試し性だけにしたのがオリンピックだ。

僕は2年で肩とひじを両方やって球が投げられなくなった。硬式のレベルでは終わり。お試し本能は出番がなくなったが火がついてしまっている闘争本能は消えなかったので、3年になってやおらそれが受験に向かったような気がする。学業はドべの方だったが、勝ちたいという動機は野球の終焉からやってきた。

野球はお山の大将の蜜の味を教えてくれたし、そこから奈落の底に転落して地獄も見せてくれた。16,17才のみそらでそんな経験ができたのは幸いだったのかもしれないが、どうしても高校の夏休みというとなにか「損したな」という気持ちを抑えきれない。もっと楽しいことがいっぱいあったにちがいないと。

もし、アラジンの魔法のランプがあって、何でも願いを叶えるといわれたら?もういちど高校時代に戻してくれというだろうな。そこで何をやるか?とても迷うにちがいないが、やっぱり野球をやってしまうような気もする。

 
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ピッチャーの指先感覚とは

2014 OCT 17 17:17:01 pm by 東 賢太郎

昨日のソフトバンクの今宮がそうだったかは不明ですが、ボールの握りについてひとこと。

僕は高校で硬球を初めて握ったのですが、いちばん嫌だったのはバント守備でした。取ることがではなく一塁に投げるのがです。とっさに中指、人さし指が縫い目にかかっていない(つまり球のすべすべのおなかの部分にある)とすっぽぬけて暴投しそうだからです(したこともある)。雨でぬれてたり泥がついてたりだとなおさらでした。

ところが内野の連中はぜんぜん平気なんですね。あれがわからない。特にキャッチャーは盗塁の時にそれで2塁に矢のようなストライクを投げなくてはなりません。僕の頭めがけて投げて来る感じで、走られたと思ったら条件反射でいつもかがんでました。握りが悪いと自分だったらコントロールがつかないと思っていたので怖かったわけです(ヘルメットかぶってないし)。

投手も性格があると思いますが、僕は神経質で縫い目一個(1ミリぐらいです)二本の指が左右にずれてもわかったしそれで球が曲がる気がします。二本指の間に指一本入るぐらいというのも感じが正確に決まっていて、それを1ミリ狭くしたり広くしたりでも球質が変わります。高めで空振りを狙うときは狭くするなど。トップスピンのかかったきれいな直球を投げるのが生命線でそれとドローンと遅くて曲がり落ちるカーブしかないのだから絶対に譲れないごくごく微細な指先の感覚でした。

そのカーブというのは、投げる瞬間の指のかかり具合や球離れのタイミングで微妙に曲がり方が変わってきて、僕の場合はど真ん中やや高めをめがけて投げるとだいたい右打者の外角低めに大きく落ちでOKというアバウトな球でしたがあまり打たれた記憶はありません。アメリカでは外人には全く打たれなかったので見ない球だったんでしょう。これと速球の2種類だけでやってましたが、肩を壊すまでは直球もど真ん中にえいっと投げ込むだけでアバウトでした。草野球はそれでもぜんぜんOKでした。高校で故障してセットポジションにしてコントロールは良くなりました。

直球は今流には「フォーシーム」という握りで放ってましたが、たとえば、ツーシームと言っている握りだとベース上で10-20cmシュートするイメージがあります(投げたことはないが間違いなく)。それはとても気持ち悪いので絶対にそうは握りたくないなと思ってしまうのです。だからバント処理で取った瞬間にそんな握り状態だったら僕はとっさに一塁手の左めに投げると思います。もう条件反射の世界ですが。

その「気持ち悪い」という指先感覚はたぶん投手だけのものです。球の回転と球筋の関係を確認しながらホームベースのはしっこをかすらせる練習を毎日やってるとそうなると思います。内野手は球の回転実験をする必要ないし、妙な回転は百害あって一利なしだからとにかくどんな握りであれ小さいモーションで速い球をピュッと投げる方がいいわけです。

いっぽう外野手の送球は大きいモーションで投げるのでグローブの中で握りかえる余裕があります。だから僕もセンターを守ったときはあまり不安がありませんでしたが内野は無理で、投手がどうしても内野手をしなくてはいけない場面が冒頭に書いたバント処理です。

プロでも投手がやるのは外野が多い(イチロー、糸井、中田、高橋 由伸、亀井、丸、雄平、島、金城など)と思ったら内野手になった例もけっこうあります(古くは王貞治がそう、石井 琢朗、高橋慶彦、川相、松井稼頭央、巨人で村田、坂本、広島で東出、堂林など)。このレベルの人たちには関係ないようですね。いまCSを戦っているソフトバンクのショート今宮もそうです。昨日の考えられない悪送球はなにか彼が投手だったことと関係あるような気もしてしまい同情します。

 

ピッチャーは自信過剰か

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負けの記憶ばかりの高校野球

2014 AUG 7 19:19:50 pm by 東 賢太郎

暑い。一昨日の東京の最高気温は36.1度、昨日は35.7度と猛暑日が続く。今日も35度は行っているだろう。紀尾井町の赤プリ旧館から会社へ向かい千代田放送会館をすぎたところに緑地があって木々がこんもり繁っている。そこを歩いていたらどういう風の吹きまわしか、毎日皇居の周りを走りまわっていた高校時代のくそ暑い野球のユニフォームを着た感覚がよみがえってきた。この緑地は都心に似合わないぐらいミンミンと蝉の声がしていて、なるほど、九段高校の隣は靖国神社の森でいつも蝉しぐれの中で練習していたことを思い出した。

野球のユニフォームというのは思えば軍服みたいに重装備だ。上半身は綿のアンダーシャツと二枚重ね、下半身は厚手のスライディング・パンツ、ひざ下はアンダーソックス、ソックスと三枚重ねと、夏にはきわだって不向きである。そこに革靴みたいな黒くて重いスパイクを履いて、濃紺色ですぐ熱くなる帽子を頭にのせ、分厚い皮の手袋みたいなグローブをはめて炎天下にくりだす。こういう毎日だったから今も熱中症なんかなるはずがないという妙な自信だけある。

そういう服が汗を吸うから硬式野球部の部室の汗臭さというのは半端じゃない。犬なら気絶ものだ。何が置いてあろうがなかろうがもう部屋ごと廊下までくさい。お隣りの新聞部が気の毒だった。練習を終えると全員が汗まみれ泥まみれで、そのまま柔道場で相撲を取ったりなどしたがお互いの汗が汚いなどという感覚はみじんもなくなっている。そういうのが戦友というものなのか、戦場の兵士というのはきっとこんなものだったのだろうかと思う。

やはりうだるように暑かった中、そんな部室でユニフォームに着替えをして、最後に厚ぼったいソックスをはくあのわくわくする感じが、それが前後ろがわかりにくくていつももどかしくて、早くスパイクをはいて紐を結んで、早く早く、というあのはやる気持ちの感じが、40年前とは思えぬくらいにリアルに足に残っている。野球、野球、とにかく一秒でも早くグラウンドに出て、要は、野球がやりたかった。

夏の合宿は矢野口にある九段の尽性園で1週間。硬式野球部の専用球場はここにある。朝6時に起床して多摩川を3,4km走ったら朝食、砂漠の灼熱地獄みたいな日中は水飲み禁止。バケツの泥水に帽子を浸して頭を冷やすふりをして飲んだ。一年生はポジション決めのセレクションでもあって必死だ。外野をひたすらダッシュの連続で唾液というのは枯れるんだということを初めて知った。一人倒れて救急車が来たがそれもサイレンの音しか記憶がない。

そして日没で暗くなってボールが見えなくなる。やっと終わりかと思ったら、石灰をベースに塗って白くしてベーラン(ベースランニング)が始まる。この時点でもうあまり意識がない。大声でバットを振って駆け抜けが何本か、ツーベースとスライディングが何本か、最後が一周してホームにヘッドスライディングだ。土煙を吸いこむがもうそのままそこにずっと倒れていたいと思った。それでやっと一日が終わる。入部時の3年生のチームは夏の甲子園予選、1リーグ時代で東京都大会の第6シード校だからそこそこ強かった。

九段高校の校庭は狭くレフトに80mも打つと柵ごえで靖国神社の境内に入る。ライト側は校舎で2階あたりまでネットがあるが3階の生物室あたりはない。放課後はサッカー部と交代で使うため、毎週水曜日はアサレン(朝練)であった。始発電車で来てたしか7時から始業時間まで全体練習をする。全教室から間近に見えるので女の子の目線が気になっており、打撃は意外によくて6番バッターであった僕はフリーバッティングで生物室の窓ガラスを2度割った。

捕手は2年生のHさんで、気のない球を投げると心臓めがけて剛速球を投げ返してくる熱血漢だった。相手は忘れたが9回裏2-2の同点で走者2塁の場面で左打者の4番に6球(!)つづけてカーブのサインが出た。全部ファールとなり7球目。 サインはまたチョキ(カーブ)。もうやばいだろと思ったが先輩にはさからえずそれがレフトオーバーでサヨナラ負け。Hさん試合後に4番さんに「読んでた?」ときいてたのが聞こえた。別に、と答えててチクショーと思った。こういうつまらないことをなぜかよく覚えている。

初練習試合の海城高校戦、試合前の投球練習で人差し指のマメがつぶれた。皮がべろっとむけて球に血がつく。Hさんに見せたら、にべもなく投げろだ。痛いのでそこが触らないように投げたら先頭打者は直球がオジギして空振り三振だったことだけ覚えている。いま思えばあれはチェンジアップとかいう球だったかもしれない。学べばよかった。へなちょこと散々野次られてホームランを打たれて大敗した。野手の方々はマメのことは知らず株が一気に下がった。

都立大泉戦は監督が三振と四球しかないじゃないかと文句を言って喜ぶ快投を演じた。どこにどう投げても打たれないぐらい振り遅れていた8、9番をなめて手を抜いたらファーボールで一塁のTさんに怒鳴られ、結局最終回にレフトのバンザイで1-0で負けた。帰りの電車で自分だけは本来のボールが投げられて秘かに満足だった。10月の秋季大会の国学院久我山戦も悪くなく3回までゼロだったが2回り目から打たれ、結局7回9-0コールドで負けた。

勝った試合も同じぐらいはあるがこっちはあまり鮮明な記憶がなく、どういうわけか負けたゲームは細かい場面までがよみがえってくる。この翌年夏の前にまずヒジを故障して球が投げられなくなった。それが治って投げていたら今度は肩に来た。尽性園で試合中にマウンド上でおかしくなってとんでもないところに球が行き降板という忘れてしまいたい記憶がある。ベンチで茫然としながらああやっちゃったなと思った。この肩は致命傷だった。大会で投げることはできずに終わってしまった。秋季大会はブロック代表決定戦まで行ったが日大一に12-2で負けた。この試合は故障上がりで代打で出てファーストゴロ併殺打だった。

こうしてふりかえるとこんなにたくさん負けてたかと感心するしエースから補欠に陥落もしているし、まぎれもなく辛酸をなめた思い出ばかりだ。だからこの翌年、スピードは別人のように落ちたが投げられるようにはなって、1回ノーアウト満塁で急遽リリーフで登板してそこから完封した墨田工業との練習試合が最高のメモリーになった。こういうことで高校生活を終わってしまって悔しいし負け惜しみにしかならないが、それでも野球をやってよかったと思う。

卒業まじかのころ、東洋大でも野球をやった4番で主将のNと休み時間に軟球でトスバッティングしてよく遊んだ。始めは受験勉強の気晴らしにじゃれてただけなのにお互い闘争本能に火がついてきてだんだん本気になり、最後はいつも全力投球対マン振りの勝負になってしまった。まともに当たってたらまた生物室の窓を割ったろうが打たれるはずがないと思ってやってしまう。これが野球バカである。

大学では野球部のお誘いがあって1、2か月ぐらい練習に参加はした。当時は法政に江川がいて、東大は慶応、立教に勝って4位だった。結局淡い期待をもった肩がもう使い物にならないとわかってがっくりしたのと違う人生がばら色に見えたのとで、女の子のいるクラブなんかの方に釣られてしまった。だから次の野球はもうだいぶ先の野村證券の野球大会とニューヨークでの企業対抗野球大会までおあずけになった。両方で元球児の名を汚さない程度には投げてトロフィーを1個づつもらい、野球人生が終わった。

野球に教わったのは、強い者は強いということに尽きる。強ければ勝つしそれには努力しかない。裏技や裏口入学は絶対にない。そういうフェアな世界が自分の性に合っていることを知った。ピッチャーをしなければ選手生命は高2で断たれなかったが、それ以外が能力的にも性格的にもできたとは思わない。やっぱり自分に合っていたのは投手であり、やったからこうなったのかこうだからやったのかは知らないが、もう一回生まれたらピッチャーをしたい。

そこからは今度はゴルフになるが、これは僕にとっては野球と比べるべくもないただの遊びだ。それでもベットという野球にない要素があって面白く自分なりに一生懸命やった。15年ぐらい前がピークだったようだ。ゴルフは考えようによっては一生できるフレンドリーなゲームだが、考えようによっては老いや衰えがはっきり見えてしまう酷なゲームでもある。絶対にもうできない野球はそれがないからいい。夏が来れば思い出す、僕は最後までこれでOK。今年の甲子園はどうなるんだろう。

 

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スッポンとフォークボール

2014 MAY 4 21:21:52 pm by 東 賢太郎

自分はホールインワンとノーヒッターにいつも憧れてました。

ホールインワンはまだありません。海外にいたころはゴルフに熱中し、香港ではほぼ毎土日やってましたから年間100ラウンド近くでした。そのころハンディも8までいったので、決して下手ではなかったと思います。しかしながら、一緒に回ったずっと下手な人がやったのに僕は一度もできてません。ピンに当たったとか10cm手前で止まったとか、惜しいのは何度もあるのに。

千葉でやった時のことです。170ヤードぐらいのショートホールで、グリーンわきにある池から黒い物が出てきてグリーンに登ってのそのそ動きだしました。

「キャディーさん、あれなに?」

「ああ、スッポンのポンちゃんね。よく出るんです。だいじょうぶですよ。」

それはピンの1mぐらい左で止まると、じっと動かなくなってしまいました。

「そうですね、グリーンは右傾斜だから、あのスッポンめがけて打ってください。」

とキャディーさんの明快なご指示。

「 OK! 」

と打った僕の球はいつになく快心のショット。グリーンに乗ってコロコロところがり、ポンちゃんに命中してピタッと止まったのです。全員爆笑。

「キャディーさん、次は穴めがけて打てと言って下さいね」

動揺があった僕はその1mをはずし、八つ当たりでまだグリーンわきにいたポンちゃんを追っかけました。池に飛び込んだポチャーンがやけにいい音でした。

ノーヒッターは一度あります、というか、誰も気がついてくれなかったのであったつもりになってます。82年ニューヨーク日本人会の野球大会2回戦で三菱商事に5回までノーヒット7奪三振でした。絶好調でこれはいけるかもと思ったところが、こういう時に限って?味方打線が爆発して5回で10対0となり、いやな予感。するとアメリカ人の主審がでっかい声で「コールドゲーム!」のご宣託。ちょっと待ってよ、もう少しやろうよ・・・ガックリでした。

惜しかったのは野村證券の野球大会です。僕は梅田支店の新人、相手は優勝候補の和歌山支店でした。名門広島商業で阪神の山本 和行の1年上のエースだったYさんが押しも押されぬエースでしたが、試合前にキャッチボールをして「東、今日はお前先発」と僕に球をくれてご自身は捕手に回りました。ところが軟球に慣れてなくてカーブがぜんぜん曲がりません。

「先輩だめです」

というと、

「これでいけ」

と握りを教えてくれたのはフォークボールでした。人生、フォークは初投げでしたが、やはり甲子園レベルの人は凄くてリードどおり投げたら1対0の1安打完封勝ちでした。これが人生で一番惜しいゲームでしたが試合中はYさんがおっかなくてそんなこと知る由もなし。

「あのポテンヒット、惜しかったわな」

「えっあれだけだったですか?」

「そうなんよ」

「直球、何キロぐらいでしたか」

「まっ、115kmぐらいやな」

という有難いプロのお言葉からして現役時代は120kmちょっとぐらいだったと推察されます(測ったことなし)。肩とヒジを両方壊して115は満足しないと。この試合、落ちがあって、この翌週末の2回戦、新人は研修で東京でしたが支店長から研修部に「試合があるから東を大阪に帰せ」と電話が入って騒ぎになりました。さすがに帰してもらえませんでしたが以後、新人でいじめられていた支店の風向きが変わり、少しだけでかい顔ができるようになったという効果がありました。やっぱり芸は身を助けます。瞬間芸だったフォークはその後投げることはなく、人生でこの試合だけでした。

 

スポーツを科学の目で見る (野球編)

2014 FEB 3 17:17:53 pm by 東 賢太郎

科学もスポーツも好きである。オリンピックにはないが僕が実感できるスポーツは野球だけだ。そこで、しばらく野球と科学というテーマに焼きなおして考えているが、どうもなかなか結びつかない。

野球でいうと、足の速さ、投球の球速と回転の良さ、コントロール、ミートのうまさ、打球の飛距離、走塁の判断、フライ捕球の憶測、守備範囲あたりは天性のもので練習以前に結果は決まっているという感じがする。身体能力といえばそれまでだがサッカーやバレーとは必要なものがやや違うようだ。

捕手の配球や監督のゲームプランに科学があるかどうかは知らない。捕手の人はきっとあるのだろう。経験がなく考えたことがないが、プロのように同じ相手と何度もやるなら確率という考え方は意味があるだろう。だが行き当たりばったりの高校野球だから恥ずかしながら動物的かつアバウトな感性だけで投げていた。それは「指先」だけの感性だった。直球とカーブだけでそれではうまくなるはずなかった。

打たれると頭に血がのぼって思考停止した。相手が格下で自分の投げる球がまさっていれば配球は気を使わなくてもよかった。そういうのは打者の構えた雰囲気でなんとなくわかる。いい時はもうどこへ投げても打たれない感じで頭はからっぽだった。だからいずれにしても科学のかけらもない。

逆に塁に出るとベーラン(ベースランニングのこと)にも走塁判断にも自信がないものだからあれこれ考えてよく失敗した。なぜか相手の内野手がみんなデカく見えた。要は自信のないことは万事うまくいかないようだ。

「脳には妙なクセがある」 (池谷裕二、扶桑社新書)に面白いことが書いてあって勝負事で赤い服を着ると勝つ確率が統計的に上がるらしい。これは科学かもしれない。オリンピックのレスリングなんか今度は真っ赤なコスチュームに怖いライオンの顔なんかいいんじゃないか。しかし赤ヘルのカープが優勝しないことにはにわかに信じがたいが。

 

石田純一さんとピッチャー性格

2013 NOV 2 15:15:20 pm by 東 賢太郎

俳優の石田純一氏が奥様理子さんの父上である元西武ライオンズエース東尾修氏と日本シリーズの解説をしていて、すごく詳しいがどうしてだとネットで評判になったらしい。それは当たり前だ。石田さんは都立青山高校のエースで4番だったからだ。

そのことを僕はフランクフルト時代にひょんなことから知った。某証券ドイツ現法社長のNさんが元高校球児だったのでいつも仕事そっちのけで野球談議に没頭していた。別に人生何の得にもならない硬式野球部のウルトラ体育会規律と気ちがいじみた過酷な練習に耐えたということは、全国共通大なり小なりその人は野球オタクだ。オタクにはオタクしかわからない世界があるのだ。

Nさんは僕の1学年上の都立青山の正捕手であられ、温厚なご性格でいかにも名キャッチャーだったろうという風格、物腰の方だった。「実は僕の相棒があの石田でしてね」といわれ、芸能音痴の僕にはさっぱり通じなくて失礼してしまったのだが、その時に石田純一という名前は僕にしっかりとインプットされていた。

お会いしたわけではないが都立高校球児というところで親近感を覚えた。同じエースでもこっちは6番だったから無条件で尊敬するしかない。石田さんは昭和29年早生まれだ。僕は30年早生まれだが1年の秋から都立九段高校のマウンドにいたから彼と投げ合っていて全然おかしくない。都立どうし頻繁に練習試合をやっていたのだからそうでない方が不思議なぐらいだが、なぜかやっていなかった。

石田さんは早稲田へ進学され、一見ソフトで投手経験者らしくないように見えるが、本当は「らしい」のだろうと想像する。そもそも投手はまず負けず嫌いで唯我独尊でないとつとまらない。自分の球は誰も打てないと打者を下界に見下ろさないと打たれる。自信は単なる空元気なので必ず打たれるのだが、これは何かの間違いだろうと常に楽天的でないといけない。そういうのを「ピッチャー性格」というなら、ピッチャーとは9人の組織の中で、そうなることを全員から要求されるポストなのだ。僕はがんらい慎重、臆病でそんなに好戦的な性格ではない。だからとにかく苦痛だった。

たとえばピンチになると内野手がマウンドに集まるシーンをよくご覧になると思う。あそこの会話は、都立高校ぐらいだと「打たせていいからな、思いっきりいけよ」とか「今日は(球が)走ってるぞ」とか「東、大丈夫だぞ」、なんていうところだ。打たせていいなんて思ったらホームランだし、走ってないのは自分が一番わかってる。そう言いたいのだがみんな真剣だし、気持ちはありがたいし、うんうんとうなずくしかない。大丈夫だとは言ってくれるが結局は誰も助けてくれないし、投げるのは自分だから要は助けようもない。人生そんなもんだということを僕はそうやってマウンドで学んでいた。

僕のピッチャー性格は自他ともに認めるしかないが、両親にも妹にも親戚にもそういう人はいないし、自分でも中学までは違うから後天的なものだと思っている。というのはティーンエイジャーまでの人生、ほかのスポーツも勉強も女の子も眼中になく野球ばかりやっていたこと。そして、運動神経が劣っていたので草野球でも硬式野球でもピッチャーしかできなかったことからだ。高校で2、3度センター、1度ライトを守ったのが記憶にあるだけだ。マウンドに立っているためにはそういう自己暗示にかかっていないと仕方なかったと思う。

写真 (43)僕の空元気の源は高校時代にはない。中学の軟式野球だ。今でも当時の西川口の草野球リーグで登板する前のわくわくうきうきした夢を見る。直球しか投げられない13歳の子どもが大人からばたばた三振を取って相手ベンチがどよめく。そして目が覚める。高2で肩をこわしてそれはもう永遠に夢のままになってしまったが、このボールを握ると指がそのどよめきをしっかり覚えている。これは僕の守護神みたいになっていて、つらかった時、くじけそうになった時に触れると、「東、大丈夫だぞ」 とつぶやいてくれる。

 

 

 

 

安楽投手 投げすぎないように

2013 AUG 6 1:01:01 am by 東 賢太郎

アメリカで「日本の高校生ピッチャーは投げ過ぎ」のレポートが出ているそうです。

済美高校の安楽智大投手。今年春の選抜大会を5日間で4試合に先発し、1試合当たり平均135球投げました(大会中9日間で計772球)。米国の有力代理人からの「高校生投手の場合、95球以上投げさせてはいけないし、中3日以上の間隔を開けるべきだ」という意見や、「772球は平均のメジャー投手が6週間で投げる球数だ」というデータなどを出して比較しているそうです。

僕は高2の夏の大会前に肘(ひじ)を壊しました。よくは覚えていませんがそれまで毎日200球ぐらい投げ込みしていて、ある練習試合中にカーブを投げて異変を感じました。腕を伸ばすと激痛がはしりバットも振れなくなって大会を棒にふりました。これはしばらくして治りましたが、今度は肩をやってしまいました。肘をかばって投げていたのが肩の負担だったらしく、ボールは2メートルも投げられなくなりました。1年生で1だった背番号は14に降格。家で悔し泣きしたほどつらい思い出です。こっちは結局完治はせず、今でもある角度に曲げると痛いままです。

当時は真夏の炎天下に一滴も水を飲ませなかったりウサギ跳びをしたりと今では考えられない不合理な練習がまかり通っていました。毎日皇居一周(約7km)というのもきつかったです。あれだけ滅茶苦茶に鍛えられましたから今でも熱中症だけは大丈夫ですね。しかし僕みたいに体重60kgぐらいのきゃしゃな体(今は見る影もなし!)であの投げ込みは所詮ムリで、あの肩痛で僕の投手生命は終わってしまいました。それからも投手でしたし野村證券に入社してからの野球ではそれでもエースでしたが、高1のときの球威とはもはや別人でした。

今回のアメリカさんの報道は正しいと思います。投手をやる人は闘争本能が強いし投げるのが無上の快感なので、誰かが止めないといくらでも投げてしまうと思います。ときどきマウンドに立っている夢を今でも見ます。それは高1までの健康だったころの姿です。もし神様が3つ夢をかなえてあげるといったら、そのひとつはそれです。

 

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