Sonar Members Club No.1

カテゴリー: ______音楽と自分

クラシック徒然草-音楽の好き嫌い-

2015 MAR 20 9:09:35 am by 東 賢太郎

人間何ごとも好みというものがございます。食べ物、酒、色、車、服装、異性、ペットなどなど。愛猫家の僕ですが、どんなひどい猫でも犬より上という事はあっても猫なら何でもいいということでもなくて、やっぱり順番はあります。

はっきり「嫌い」というのがあるので音楽は僕の中では好悪がはっきりしているジャンルに入りますが、不思議なものでクラシックファンで「私はモーツァルトが大好きです」という人はいても「**が大嫌いです」という人は会ったことがありません。

嫌いと無関心は違います。全然別物です。好きがプラスなら嫌いはマイナス、無関心はゼロです。ゼロは何倍してもゼロですから、クラシックは何を聞いても何も感じないという人はどの曲も好きにならないかわりに嫌いになる心配もご無用ということであり、逆にどの曲も嫌いにならない人はある曲だけ好きになることもないのが道理だろうと思うのですが。

食べ物の場合は「何でもOKです」ということだってあるし、親がそうなるように教育もします。食べないと死んでしまうのだから全部が無関心ということはまずあり得ません。しかし聞かないと死ぬわけでもないクラシックは、幼時から聞いて育つわけでもない場合が多い日本人にとっては無関心か食わず嫌いがスタートというのは当然です。

それがある日突然に全部好きですなんてことは異様であって、一度フランス料理を食べたらフォワグラから羊の脳みそまで一気に好きになっちゃったなんて、そんな頑張る必要はぜんぜんないのです。「ほとんど全部眠いですが第9の第4楽章だけは感動します」、そういうのがきわめて真っ当、普通です。

僕の場合は縷々書いてきた曲は「もの凄く好き」ということなのでプラスが大きい、だから正反対のことでマイナスが大きい曲だってちゃんとありますし、それが自然体鑑賞法の自然な帰結なんじゃないでしょうか。クラシックと名がつけば全部名曲であって何でも好きですというのはホンマかいなと思ってしまうのです。

さらにいえば、あの退屈極まりない(僕にとってはほぼ拷問であった)音楽の授業で無理やり楽聖の名曲だと押しつけられる。だから日本人にとってクラシックを聴くということは教科書にあった曲は全部うやうやしく好きにならないといけない、そういう強迫観念で縛られているのかなと思ってしまいます。だとすると三島 由紀夫の指摘したとおり、日本のクラシック好きはマゾっぽいですね。

僕のように音楽の通信簿が2だった子がある日めざめて好きになる、すると当たり前ながらちゃんと嫌いな曲もたくさんあることが自分でわかってくる。それで君はクラシックが分かってないねなんて通の評価が下ってもSo what?(だからどうしたの?)ってことじゃないでしょうか。

僕は京料理が好きですがハモが苦手です。夏場はそれが売りだからどうしたって出てくるんですが僕はカウンターで抜いてくれという。変な顔をする店がありますがいい店の主人はかえって歓迎してくれますね。それでも京料理屋に来てるんだから見栄や酔狂でなく本当に好きなんだとわかってくれる、それで鮒ずしなんか頼むと完璧にわかってくれる。そういうもんだと思うのです。

音楽のハモにあたるものはこういうものです。

マーラーの6番というのは全クラシックの中でも最も嫌いな曲の一つで、あのティンパニのあほらしい滑稽大仰なリズム、おしまいの方で板とか酒樽みたいなのを鏡割りみたいにぶったたくハンマーは作曲家は大まじめに書いたり消したりしたらしいがまあどうでもいいわなとしか思えず、全曲にわたって音楽的エキスはなし、あんなのを1時間半も真面目な顔して聴く忍耐力はとてもございません。

チャールズ・アイヴズという米国の作曲家の和声に吐き気を催した(本当に)ことがあって、それ以来トラウマになって一度も聞いておりません。あれは一種のパニック障害の誘因になるのじゃないかと思い譜面を見るのも恐ろしく、それがどういう理由だったかは謎のままです。

メシアンのトゥーランガ・リラ交響曲に出てくるオンド・マルトノという電子楽器、あのお化けが出そうなグリッサンドは身の毛がよだつほど苦手です。結局あの曲を覚えるには勇気を奮ってライブを聴き、視覚的にそれが出てくる箇所をまず覚えて(見えると怖さが減る)、来るぞ来るぞ(いや、お化けが出るぞ出るぞだ)と心の準備をしながら10年以上の歳月を要しました。

ヴェルディはコヴェントガーデンやスカラ座でたくさん観たのですが、椿姫の前奏曲のあのズンチャッチャ、あれが始まるとああ勘弁してくれここは俺の居場所じゃないと家に帰りたくなってしまう。運命の力序曲のお涙頂戴メロディーなど退屈を通り越して苦痛であり早く終わってくれと願うしかありません。閉所恐怖症なので床屋も苦手で、ああいうつまらない曲でホールの座席にしばられると床屋状態になるのです。

パガニーニのコンチェルト、カプリース、およびリストの超絶技巧。ヴェルディのズンチャッチャよりは多少ましですが、この手の曲が不幸にして定期公演で舞台にかかってしまったりすると行くかどうか迷います。ましというのは、一応ソリストの技巧を見るという楽しみはあるからで、演奏家の方には非礼をお詫びしますが僕にとってその関心はボリショイ・サーカスや中国の雑技団を見るのとあまり変わらないです。

一歩進めてこれが演奏のほうに行くと、大嫌いなものは無数にあります。好ましいと思っている演奏家であっても曲によってはダメというのがあって、例えばカルロス・クライバーのブラームスは4番の方は実演であれほど感動したのに2番は到底受け入れ難い。リズムが前のめりで全然タメがない快楽追求型で、妙なブレーキがかかったり弦を急にあおったり、あんなのはブラームスと思わない。カイルベルト、ザンデルリンク、コンドラシンなどと比べると大人と子供です。

ティーレマンはサントリーホールで聴いたベートーベンは割と良かったのですが、ブラームス2番はだめですねえ。youtubeにあるドレスデン・シュターツカペレとのですが、オケはせっかくいい音を出していて第3楽章までは悪くない(クライバーよりいい)ですが、終楽章のコーダに至って100円ショップ並みに安っぽいアッチェレランドがかかってしまう。そこまでの感動がどっちらけですね。お子様向けです。

モーツァルトというとグレン・グールドのソナタとの相性の悪さについては既述ですが、同じほどひどいのにカラヤンの魔笛というのもあります。ベルリンPOのDG盤は多少はましですが古い方のウィーンPO盤。どうもカラヤン先生カン勘違いしてるなと思いつつ我慢して聴いていると、タミーノとパパゲーノが笛と鈴をもらう所で3人の童子が出てきますが、これがなんとヴィヴラートの乗った色気年増みたいな女声で実に薄気味悪く、もう耐えられず降参です。

演奏について書きだすときりがないのでこの辺にします。以上、嫌いなものオンパレードで皆さんがお好きなものが含まれていたら申しわけありませんが、もっとたくさんある好きなものの裏返しということで、これでハモの価値が下がるわけでもないということでご容赦いただきたく存じます。

(補遺、2月1日)

今日、ピエール・ブーレーズ追悼番組の録画を見ました。ノタシオン、レポンの映像は貴重です。03年東京公演のベルク、ウェーベルン(マーラーユーゲントO)の精緻な演奏は感涙ものです。しかし後半が蛇蝎のように嫌いなマーラー6番というのが残念。これが好きな方にご不快は承知の上で、よりによってこれはないだろう。神であるブーレーズが振れば大丈夫かと恐る恐る聴きましたが第1楽章でもう降参。消しました。

 

マーラー交響曲第6番イ短調(ついに聴く・読響定期)

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クラシック徒然草-音の記憶という不思議-

2015 MAR 15 0:00:21 am by 東 賢太郎

僕は絶対音感はない。ピアノのキーを見ずにポンと押してもらって、はいシ♭ですとはいかない。しかし自分から正確に言える(歌える)音はある。ドとレとミ♭だ。

なぜかというと耳に焼きついている曲があって、たとえば春の祭典のアタマをじっと思い出すとあのファゴットが心で鳴る。それを声にして歌うと「ド」が取り出だせる。しかし最近はあれを聴いていないので成功率が落ちたかもしれない。

「ミ♭」は魔笛序曲かシューマン「ライン」だ。これは割とすぐ出る。「レ」はブラームスのヴァイオリン協奏曲で、これが一番自信がある。

ではなぜシ♭はだめなのか?わからない。変ロ長調の曲はいくらも知っているが、頭で鳴らしてもそれが原調という保証はないのだから仕方ない。

とすると、「その曲を知っている」というのと「頭でリプレー出来る」というのはちがうのだ、きっと。

アルトゥール・ルービンシュタインは「朝食の時、私は頭の中でブラームスの交響曲を演奏していた。その時電話が鳴ったので、受話器を取った。30分後、私は電話で話している間も演奏が続いており、今は第3楽章が演奏されていることに気づいた」と語ったそうだ。

僕はこの話を信用する。

13才のモーツァルトが父に連れられてヴァチカンへ行き、システィナ大聖堂で演奏されたアレグリの「ミゼレーレ」を一度聴いただけで戻り、楽譜にしてしまったのは有名だ。それはこれである。

これを「思い出して」書くのはどう考えても無理であり、彼は頭の中にボイスレコーダー があって、宿でそれをリプレーしながら音符に書きとったにちがいない。ルービンシュタインのいう「頭の中の演奏」だ。レコーダーだから電話していても鳴っていて、そこに意識がなくてもちゃんと先に進んでいる。モーツァルトはそうやって勝手に聞こえてくる音を譜面に書き取った、それならこの奇跡は理解できる。いや、奇跡ではなくて、頭の中にボイスレコーダー があるかないか、それだけだ。

僕の場合だが、春の祭典、魔笛序曲、ライン、ブラームスVn協は(ルービンシュタインほどではないが)リプレーできる。ハンマークラヴィール・ソナタ(変ロ長調)はできない。つまりそういう理由で冒頭のことになっているかもしれない。それはまあいいだろう、単にそういうことであってそれが本稿の主題ではない。

不思議なのは、たしかに春の祭典はよく聴いたが、もっと聴いた曲もあるのにそっちは「できない組」だという事実だ。そこがわからない。

記憶力とは不思議なもので個性があるようだ。僕はカタカナが覚えにくいので受験で世界史と地理は敬遠し、必然的に日本史と政経になってしまった。カタカナがダメなのではなく、シーザーがカエサルになったりする、そういうはっきりしないもの、あやふやなものをはじいてしまうように僕はプリセットされている。

つまり人のアタマにはみなそういうフィルターのようなものがあって、そこをすっと通り抜ける物は受け入れる。音楽でも人でも。だからすんなり名前も記憶するし、出会いが深いおつき合いに発展したりもする。そういうことを後からふりかえると「相性が合った」とか「ご縁があった」という表現になってくるのではないだろうか。

 

記憶法と性格の関係

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

 

 

 

クラシック徒然草-僕のオーディオ実験ノート-

2015 MAR 10 22:22:04 pm by 東 賢太郎

プーランクのピアノ曲や室内楽を棚からあれこれ取り出して聴いていて、ピアノの音はCDというメディアの方がずっと良いと思っていたのがLPも悪くないと思い始めました。

オーディオはCD路線に切り替えてしまい、LPのほうはだいぶ古いテクニクスのプレーヤーにデンマークのオルトフォンのカートリッジというべつにどうということのない装置なのですが、ジャック・フェブリエのピアノのタッチの綾ときらめきが本当に見事です。

プーランク自身のピアノ録音を聴くと、ドイツやロシアとは少し違った音の弾き分けで、様々なニュアンスのタッチが重層的に組み合わさって見通しが良く「音が立っている」のです。それは彼の音楽の性質そのものでもある。

ぐしゃっと色が混ざり合った油絵のような和音ではなく、水彩画で立体感と陰影のある構図の絵のようです。それを自然に表現できている人というとこのフェブリエと、唯一の弟子ガブリエル・タッキーノ、もうひとりあげればパスカル・ロジェでしょう。

今の装置、B&W(英)、ブルメスター(独)、ホヴランド(米)、リンデマン(独)、ステューダー(スイス)に行きつくまでタンノイ(英)マーク・レヴィンソン(米)等の遍歴をさんざん重ねましたが、試聴機を入れるとたくさんのブランドを聴きました。

オーディオは僕にとっては方便であって目的はあくまで音楽にあります。されどお値段は半端でない、我が家においては車より高いのだからそうそう衝動買いというわけにもいかない。そこで数十枚あるレファレンス・ディスクを徹底的に比較試聴となります。

note2聞いた印象はとても細部までは記憶できませんからこうやってノートにひとつひとつ書き置くのです。スピーカー、パワーアンプ、プリアンプ、CDトランスポートに接続ケーブル(3か所)の7要素のベストの組み合わせを試聴をくり返して発見せよという問題を解くわけです。科学の実験みたいなもんで、この「実験ノート」が数十頁あります。

ベストというのは人それぞれですが、僕の場合は「コンセルトヘボウでウィーンフィルを聴いたような」というものです。大事なのはその言葉を何度も頭に浮かべながら、実際にそれを聴いたことはないのですが、そのイメージに近いかどうかを反芻しながらYes、Noを判定することです。部屋のアコースティックをあわせてですね。そうやって聴かないと、結局どれもいいねになっちゃう。全部いいものを聴いてるわけですから。

note1
手順として、まず7要素のどれかを固定する必要があります。今回はブルメスターのPAがそれで、そこにB&W800Dを加えるという部分をfixすることからスタートしました。これは10年前のノートですが、一行づつ別の音源をチェックしています。今でもこのページあたりはいちいち覚えてますからそのぐらいのこだわりでした。

オーディオマニアではない僕がいうのはおこがましいのですが、しかしこのプロセスは楽しいですよ。機器によって音は明らかに変わるし、ものすごく高い機械がいいかというとそうでもないのです。ワインに似てますでしょうか。10年この組み合わせできましたが、やっぱりここまで選んだ甲斐あってまだ飽きは来ません。ただ、LPがあまりに良かったものでちょっと心に迷いが出ています。ほんの微妙なものですが、ちょっと気になると尾を引く、これはそういう世界です。

 

LPレコード回帰宣言(その1)-光と音-

 

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

プレゼンの極意はベートーベンにある

2015 JAN 12 2:02:41 am by 東 賢太郎

先週は海外へのプレゼンテーションで会社の説明資料を作っていて、僕は英語を読むのは好きでもないが書くのはいいなと思った。別にうまいわけではなくネイティヴには変なものを書いているに違いないが、それでもこうして日本語を書くよりも心地がいい。

何かを「正確に」伝えようとすると日本語は長くなる。くどい。法律を読んでみればわかるが、挿入文があると実にわかりにくい。そういうのを複文というが英語だと文中の単語を別途説明する文を入れるルールがあって、例えば関係代名詞がそれだが、慣れればすいすいと頭に入ってくる(青字部分がまさにそれだ)。

現代国語という科目があって下線の「それ」は何をさすかなんていう設問ができるのは、元来日本語が複文のような入れ子構造に向いていなくてわかりにくいせいだと思う。誰でもわかるなら入試問題の用をなさない。法律のような説明的文章を正確に読み書きするには必要な能力だから役人、法律家を作る官立大学用のものだったろう。

僕は外国語は英語しかわからないが、西洋語は文の構造が説明に向いていて複雑な物事を文中で明確に定義しながら隅々まで誤解なく浮き彫りにできると思う。だからややこしいコンテンツを先週書きながら、ちょっと切れる包丁を手にいれた板前の気分を想像した。

こういう所で爽快感を味わうというのはなかなか説明がしづらい。言語、特に文法は思考回路そのものだから使う人間の思考に影響する。そういう言葉を長く使っていれば、そういう人になってしまうという感じがする。長い間英語でビジネスしてきた僕の脳みそがそういう切れ味を「おいしい」と感じるようになってしまっている可能性は大いにある。

英語といっても僕には仕事に使う道具にすぎない。だから映画に出てくる軽い会話とか奥さんの井戸端会議みたいなのはよくわからない。英語はペラペラでしょうと時におだてられても、僕はそのペラペラの語感に近いやつが一番苦手だから困惑するばかりだ。英語が代表選手の西洋語とは僕にとって何かと問われれば、「ロジック言語」だ。

英語で株をオックス・ブリッジ卒の人たちに電話ですすめる。これは即興プレゼンだ。これをロンドンで6年間毎日やった影響は大きい。英語で何か説明文を作るのは楽しい域にある。「知っている語彙を、適確な語感で、正しいロジック(文法)で並べてプラモデルを作っている感じ」が最も近い。composeという語感そのものだ。できた文章が良い英語かどうかは知らない。でもほぼ正確に意図が通じることだけは自信がある。ロジック言語はそれでお役御免だ。

意図が通じる正確さ、これは段階がある。ドイツ時代の部下で「わかりました」というときに必ず「ゲナウ(Genau)」のKさん(女性)と必ず「シュティムト!(stimmt!)」のB君がいた。僕は彼を「ヘル・シュティムト」と呼んでいた。stimmen(これが原形だ)はいろんな意味に分化しているが根っこの意味は聞こえてきた何かと何かが「ぴったり合う」である。「あんたの言ったこと、俺の頭にぴたっとハマったぜ」ということだ。

ゲナウもドンピシャという意味で、「あんたの投げた球、ド真ん中!」と言ってもらっている。気持ちはいいがだいぶストライクゾーンが広めであるのが僕としては気に食わない。stimmt!にはかなわない。こっちはど真ん中じゃなくキャッチャーが構えた外角低めぎりぎりに速球がパーンと決まってハイタッチする感じだ。僕はシュティムト君が気に入った。

ある時、週末に行きたいところがあって彼に地図を描いてもらったことがある。そのとおり行ってみると実に正確である。思わずこっちもstimmt!が口から出た。それ以来僕は新人の面接試験で駅までの行き方を地図に描かせることにした。株式みたいな形の見えないものを高学歴のインテリ投資家に売るのはそういうことにアバウトな頭の構造の人は無理だ。だから適性がよくわかった。

地図作成は空間認識力がいるが、抽象的な言語を適宜配置してロジック回路で構文化して説明文を書くのも似ている。頭に浮かんでいる空間(景色や道順)を口(言語)で言えなければ地図という記号化された図面は書けない。そしてそれは、頭に浮かんでいる音を口(音階)で歌えなければ譜面という記号化された図面を書けない作曲とも似ているだろう。思えば作文も作曲もどちらも英語はcompositionだ。

ドイツ人の入社面接に限った話だが、女性の描いた地図はわかりにくいのがあった。さすがに丸文字や♡マークは出てこないがよくわからない。トヨタの5年後の利益成長性の要因分析をコンサイスに言語化するのは困難だろうという判断をせざるを得なかった。ちなみに彼女は同学年の7%しかいない大卒だったから超高学歴だ。このことはバッハやベートーベンの国でも大作曲家に女性がいないことと関係があるのだろうか。

説明文というのは散文や詩ではない。意味不明のぼわっとした言葉や必要ないことは書かない。だから必要十分なコンテンツを極限まで切り詰めるべきである。つまり短い方が絶対にいい。B to Bのプレゼンはそれだ。聞く方はプロで忙しい。早く終えたい。冗長なプレゼンはコンサイスな文章を書く能力のない事をプレゼンするようなものである。少なくとも金融では、そういう人から物は買わない傾向が強い。

銀行の人というのは真面目なのか何なのか知らないが100頁もあるプレゼンを作ったりする。資料が厚くないと負けると思ってるらしい。プレゼンは相手にstimmt!を言わせないとテーブルにも乗らない。買うかどうかの吟味はそこからだ。ある時、ワン・オン・ワン(訪問対面式)のプレゼンなのに途中で目の前のお客さんが舟をこぎ始めた。坊主のお経に居眠りする檀家の図だ。しゃべる方は100頁を国会答弁みたいに読むのに一生懸命で顔もあげないことを知った練達の技だった。

stimmt!はやっぱりいい。これの名詞形がStimmeで「声」という意味になる。魔笛でタミーノが Was höre ich, Paminens Stimme? (いま聞こえたのはパミーナの声か?)というあれ、バッハの『目覚めよと、われらに呼ばわる物見らの声』は Wachet auf, ruft uns die Stimme だ。つまり、stimmenの本来の意味は「音が聞こえて来て自分の内部で意味を形成して共鳴する」ということで、楽器の調律が「合う」という意味もあるし、市民の声という転意からvote(投票)になったりもする。

ところで、いまパソコンで書きながらベートーベンのピアノソナタを流しているが、この音楽はその模範答案、理想形だとつくづく思う。コンサイスで、無駄が皆無で、言いたいことが高密度でギュッと詰まっている。小さいけど固く質量があって運動エネルギーは巨大になるゴルフボールみたいだ。これに比べるとマーラーは運動会の「たまころがし」のボヨボヨの球に見える。100頁のプレゼン資料みたいに物量だけで中身はスカスカなものは僕の理性は万事拒否してしまう。

ベートーベンの曲はプレゼンの王様だ。第5交響曲をきいてホールからぞろぞろ出てくる人たちはみんな元気な顔になってる。「みなさん、辛い日は誰だってある。でも信じることです。明るい未来だって誰にも来るのです!」というベートーベンのプレゼンに全員がstimmt!している。驚くべきことだ。こんな凄いものを書いたから、だからベートーベンは人類史に格別の地位で聳え立っている。

stimmen 、Stimme、composition、こういう言葉の本来の根っこの語感がピタッとくるようになるとベートーベンはすっとわかる。彼の音楽のemotion(情緒)に訴求する側面にかたよった解釈は完全な間違いだ。それは巧みな政治演説がメッセージは希薄にもかかわらず大衆を扇動できるのに似る。感情に直結する仕掛けや盛り上げで聴き手を鼓舞するのはプレゼンではない、単なる娯楽である。ベートーベンをそういう演奏で知っている人は最晩年の作品の意味を聴きとれないだろう。

僕は時々彼のピアノソナタ32曲を通して全部きく。たかがCD10枚だ。そうすると知の巨人のメッセージが心にずっしり堆積して何かマグマのように内面を突き動かしてくれる。こんな精神的衝動を生んでくれるものは他に一切ない。他人に行動を促すのがプレゼンとするなら、それは百万分の一でいいからこういうものを秘めていなくてはならない。音楽演奏もプレゼンである。こういう状態で内面から溢れ出たものに忠実にやってこそ、ベートーベンの音楽になると思う。

分量膨大、内容スカスカ、メッセージ希薄の娯楽は聴衆のstimmt!を誘発しない。快楽追求型の「ベートーベン・ヒット・パレード」みたいな7番、9番演奏を何万回聞いてもベートーベンは何もわからない。彼の音楽の本質的部分を占める「西洋言語的特性」は快楽とは何の関係もない。僕が言っている「プレゼンの極意」も快楽とは何の関係もない。もしそれを体感したければドイツ語のstimmenという動詞を研究して深く知ることを一つの方法としておすすめする。

愛すべき部下だったシュティムト君に感謝したい。

(こちらへどうぞ)

ポミエのベートーベン ピアノ・ソナタ全集

 

 

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

 

 

 

僕のクラシックのブログについて(訪問者25万に思う)

2014 DEC 21 7:07:37 am by 東 賢太郎

Sさんによると僕の音楽のブログは「コメントが来ないでしょ、だってあれは素人には無理ですよ」ということらしい。要は楽譜が出てきて転調がどうだなどマニアックすぎる。でもこっちだって素人なんだからそんな難しいことを言っているつもりはないし、それでは寂しいし困る。ちなみにSさんはブラームス全作品をスマホに入れている人だ。言われると無言の説得力がある。

まえに書いたがクラシックマニア(あえてご指摘どおりマニアといおう)は鉄ちゃんや天文マニアの世界と似ている。彼らは電鉄会社の社員でないし、天文学者でも天文台職員でもないマニアックなアマチュアということだが、僕らも作曲や演奏で報酬を得るわけではないから同じだ。

ただ、ひとつ重要なちがいがある。鉄ちゃんや天文マニアがいなくても電鉄会社や天文学界は困らないが、クラシック音楽界は僕ら聴衆なしには成り立たないことだ。いや音楽史を見れば聴衆は作曲家、演奏家と同等にトライアングルを形成する構成要素であることがわかる。音楽産業からすれば我々は顧客でもある。

クラシックというのは値段が高いのとお高くとまっていて近寄りがたいから損しているフランス料理に似ている。イタリアンは適度にポップ化してイタめしとはいうが、フラめしはあまりきかない。イタめしはもはや日本食である「スパゲティ・ナポリタン」まであって単価は高くない。しかしフレンチはあまりポップに近寄りすぎないからこそ権威というバリューをまとって得している部分が大いにある。

日本のイタリア料理店は約4,000店に対してフランス料理店は約8,000店と2倍もある。人口10万当たりの件数で見ると1位の東京はともかく2位以下は静岡、栃木、石川、長野、山梨と意外な県が並ぶ(出典:都道府県別統計とランキングで見る県民性)。格好つけない大阪が40位というのも象徴的だ。特定の根強いファンがいれば少々お値段が張っても客はいて生きていかれる。

クラシック演奏家の自助努力というと、どうやって身近な「フラめし」化しようかということになりがちだ。ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭 みたいに。それは若者を将来の聴衆(顧客)にするには有力な戦略だが、しかしコストがかかるフレンチがあまりポップ化して単価を落しては食っていけないという経済的側面もある。

クラシックも高い授業料を払って時間もかけて音大を出て欧州留学もして高い楽器を買ってと、ギター一丁でできるポップスに値段で対抗するには限界があるから「フラめし」戦略は自分で首を絞めることになりかねない。だからバリューを維持するには権威の維持への努力もいるのである。

それはワインを見ればわかる。製造はフランス人、イタリア人、スペイン人でも、彼らの作ったワインに値段をつけて国際的に売買するワイン・マーチャントは自分ではワインなんか作っていない英国人なのだ。彼らは世界言語である英語を駆使してバリュエーション(箔付け)を行い、特定の銘柄のバリューを維持しながら自分たちが儲けている。

そして音楽界も今やそういうことをネットの集合知が担う時代になってきている。聴衆が彼はいい、彼女はひどいと書けばたちまちそれは世界に伝播してしまう。僕が書いた世界的若手ヴァイオリニスト、ユリア・フィッシャー(Julia Fischer)のブログは、英語でも日本語でも彼女の名前を検索するとグーグル掲載位置の最上位をずっとwikipediaと争っている。

高額ワインを飲む人の多くはストーリーに金を払っているという話がある。大事な席で知った顔してカノジョに飲ませるのに安ワインじゃまずい。彼女が味がわかるかどうかは問題でない。1万円ぐらいで「これは実はあのダイアナ妃のお気に入りでね」なんてウンチクでもあれば完璧なのだ。ダイアナがどのぐらいワイン通だったのかという検証を彼女に追求されることは99%ないだろう。ここであなたが払った1万円の原価は5千円とする。諸経費2千円として3千円をあなたは彼女を落とすストーリー代として払っている。

だからストーリーは付加価値を生む。これはクラシック音楽には参考になる要素である。なんで日本のオケが7千円で聴けるのに同じものをウィーン・フィルがやると3万円なの?「そりゃあアナタ、甲府ワインと違うんです、こちとらペトリュスでございますから」ということだ。それはクラシック世界では「音楽の都ウィーン物語」となり、モーツァルトがベートーベンがシューベルトがというストーリーがくっつく。それをウンチクとしてカノジョに話す。こうしてワインと同じ理屈で3万円のチケットがやすやすと売れるのだ。

カノジョだけでなくほとんどの聴衆にとってたった今自分が聞いた音が本当に3万円の価値があるものかどうかということはわからないだろう。価値というのは同じお金で買える他のものと比べるしかないからだ。3万円もするものを日々ほいほいと買えて日常的消費実感を持っている人はほとんどいないのではないか。仮に持っていても、昨日食べた同額のフレンチとどっちがお値打ち?といわれても性質も時間も違うものだし判断は難しいだろう。千円のラーメン30回とどっちとる?きくだけナンセンスだ。

ここで音楽評論家という稼業がでてくる。ワイン・マーチャントでありミシュランみたいなものだ。偉いセンセイが「あなたの行く今日のフレンチは3つ星ですよ」と権威づけしてくれる。それをカノジョに見せておけばあなたの3万円も報われるというものだ。彼らの書くストーリーは新聞、音楽雑誌、本、CD解説などになるが彼らは稼業として書いている。CDを買って解説を読んだら「これは史上最低の凡演である」なんてあってはいけない。ひどいものでも巧みにほめて買った人の自己正当化をお手伝いもする。

だから音楽評論家は音楽産業のセールスマンである。それでも好悪をはっきり書く人は書く。それならフェアだと思う。大木正興氏がそうだった。10年ほど年長で東大仏文卒の吉田秀和氏が比較的柔軟性を感じさせたのにたいし同美学科の彼はより趣味がドグマティックである印象が強い。プレヴィン、ムーティ、レヴァインといった新進のこき下ろしかたは凄まじかったが、だんだん彼の好みがわかると正負の座標軸として自分のテーストを確立するのに非常に役に立った。

彼のように「負の評価」をストレートにしてくれると、それが正しいと思うかどうかはともかく聴き手は耳が肥える。ワインも「これはベスト」とまず頂点を習ってから「これはこういう理由でまずい」とダメな味を教えてくれると判断力が確実につく。あれもこれもいい所がありますね、なんていう先生に習うのはなんのテーストも育てない時間とカネの無駄だ。その意味で僕は吉田秀和よりも大木正興にずっと多くを負い、教わっている。

ネット社会になって稼業としない者が何の発信媒体も持たずに好きなことを無指向的に無限に発信できる時代になった。わがブログは今現在でのべ25万人が読んで下さったが(その7割ほどが音楽ブログ)、僕らは音楽産業のセールスマンではない。「負の評価」が誰にも気兼ねせずできる。僕ぐらいマーラーやグレン・グールドをこきおろす勇気のある評論家は絶対にいないだろう。そんなことをしたら原稿依頼が来なくなるからだ。

それに加えて、大木氏、吉田氏と決定的に違うのは僕は演奏評価に本質的な意味を感じていないことだ。吉田氏のようにホロヴィッツのショパンがどうのとかポリーニがベートーベンを弾くとどうのなんていうことは田園交響曲のどこがどう凄いのかということに比べたらまったく俗世間的な些末なことであり、美空ひばりの歌を石川さゆりが歌ったらどうだったというのとおんなじだ。大御所には大変申し訳ないが、僕にはレコード会社の売り上げサポートか文学趣味としか思えない。

彼らの時代、クラシックは舶来品でいわば高島屋で売っていた高級品のようなものだ。いまやユニクロで買える。演奏記録(レコード、CD)の一回性の価値がネットによって劇的に薄まった。それを名演だどうだと騒いでるうちに次の名演が出てくる。演奏技術だって春の祭典やマーラーの9番を学生オケがやってしまう。フルトヴェングラーの録音は作品そのものと同様に「たくさんのストーリーをもった古典」だ。もう後世の僕らが書き加えて意味のあることなど何もない。

だからこれも何度も主張してきたが、大事なのは音楽作品そのものの価値認識である。聴衆を正しく育てる道はこれ以外にない。悲愴交響曲のすばらしさを知れば、いちいち皮相的な演奏の宣伝なんかしなくとも人は次々と色々な演奏を勝手に聴きたくなる。それがクラシック音楽のクラシックたるゆえんだ。演奏家にしてもCDはタダで配ってコンサートに呼び込むのがネット時代だ。デパートの舶来品販売業者としてのブランドは格安海外旅行の時代になって凋落した。同じことだ。音楽評論家の演奏権威づけブランド価値もyoutube時代になってタダになったのである。

だから僕の音楽ブログは原理原則として大好きな曲を全部書けばそれで自動的に終了だ。それ以上書くことがないしちっとも良いと思わないヴェルディやアイヴズを頑張って書いてみようなんてことはない。一方で、田園交響曲の凄さを十分に書けたかというと心もとない。直近のボロディンの2番など全然舌足らずだ。

これを伝えるには何がいるんだ?音だろう、その部分の。それを仕方がないので楽譜をお示しして代用している。冒頭のSさんのようにそれがマニアックに見えてしまうなら残念だ。音で聴いてもらえば、あるいはバーンスタインみたいにピアノで弾けば、実にあっけらかんと誰でもわかることを書いているのに。

だから最後はやっぱり自分で音にする、そこに帰るしかない。どうしても、クラシックは「する」ものなのだ。シンセサイザーでMIDI録音だ。それをyoutubeにするとか、方法は何になるのかわからない。「火の鳥」のフィナーレ、あの入りのホルンと、あの五感が凍りつくぐらい魅力的なハープとフルートと!!ちくしょう、こんなの言葉じゃむりだ。だから百歩譲って楽譜に語ってもらうことになる。でもシンセで僕が弾いたのを聴いてもらえばそれは伝わるんじゃないか。火の鳥に目覚める人が増えるんじゃないか。もう少し仕事がうまく回って時間ができたら・・・、今の夢ですね。

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

クラシック徒然草-冬に聴きたいクラシック-

2014 NOV 16 23:23:26 pm by 東 賢太郎

冬の音楽を考えながら、子供のころの真冬の景色を思い出していた。あの頃はずいぶん寒かった。泥道の水たまりはかちかちに凍ってつるつる滑った。それを石で割って遊ぶと手がしもやけでかゆくなった。団地の敷地に多摩川の土手から下りてきて、もうすっかり忘れていたが、そこがあたり一面の銀世界になっていて足がずぶずぶと雪に埋もれて歩けない。目をつぶっていたら、なんの前ぶれもなく突然に、そんな情景がありありとよみがえった。

ヨーロッパの冬は暗くて寒い。それをじっと耐えて春の喜びを待つ、その歓喜が名曲を生む。夏は日本みたいにむし暑くはなく、台風も来ない。楽しいヴァケイションの季節だ。そして収穫の秋がすぎてどんどん日が短くなる頃の寂しさは、それも芸術を生む。 ドイツでオクトーバー・フェストがありフランスでボジョレ・ヌーボーが出てくる。10-11月をこえるともう一気にクリスマス・モードだ。アメリカのクリスマスはそこらじゅうからL・アンダーソンの「そりすべり」がきこえてくるが、欧州は少しムードが違う。

思い出すのは家族を連れて出かけたにニュルンベルグだ。大変なにぎわいの巨大なクリスマス市場が有名で、ツリーの飾りをたくさん買ってソーセージ片手に熱々のグリューワインを一杯やり、地球儀なんかを子供たちに隠れて買った。当時はまだサンタさんが来ていたのだ。そこで観たわけではないのだがその思い出が強くてワーグナーの「ニュルンベルグの名歌手」は冬、バイロイト音楽祭で聴いたタンホイザーは夏、ヴィースバーデンのチクルスで聴いたリングは初夏という感覚になってしまった。

クリスマスの音楽で有名なのはヘンデルのオラトリオ「メサイア」だ。この曲はしかし、受難週に演奏しようと作曲され実際にダブリンで初演されたのは4月だ。クリスマスの曲ではなかった。内容がキリストの生誕、受難、復活だから時代を経てクリスマスものになったわけだが、そういうえばキリストの誕生日はわかっておらず、後から12月25日となったらしい。どうせなら一年で一番寒くて暗い頃にしておいてパーッと明るく祝おうという意図だったともきく。メサイアの明るさはそれにもってこいだ。となると、ドカンと騒いで一年をリセットする忘年会のノリで第九をきく我が国の風習も捨てたものではない。メサイアの成功を意識して書かれた、ハイドンのオラトリオ「天地創造」も冬の定番だ。

チャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形」、フンパーディンクの歌劇「ヘンゼルとグレーテル」はどちらも年末のオペラハウスで子供連れの定番で、フランクフルトでは毎年2人の娘を連れてヴィースバーデンまで聴きに行った懐かしの曲でもある。2005年末のウィーンでも両方きいたが、家族連れに混じっておじさん一人というのはもの悲しさがあった。ウイーンというと大晦日の国立歌劇場のJ・シュトラウスのオペレッタ「こうもり」から翌日元旦のューイヤー・コンサートになだれこむのが最高の贅沢だ。1996-7年、零下20度の厳寒の冬に経験させていただいたが、音楽と美食が一脈通ずるものがあると気づいたのはその時だ。

さて、音楽そのものが冬であるものというとそんなにはない。まず何よりシベリウスの交響詩「タピオラ」作品112だ。氷原に粉吹雪が舞う凍てつくような音楽である。同じくシベリウスの交響曲第3、4、5、6、7番はどれもいい。これぞ冬の音楽だ。僕はあんまり詩心がないので共感は薄いがシューベルトの歌曲「冬の旅」は男の心の冬である。チャイコフスキーの交響曲第1番ト短調作品13「冬の日の幻想」、26歳の若書きだが僕は好きで時々きいている。

次に、特に理由はないがなぜかこの時期になるとよくきく曲ということでご紹介したい。バルトーク「ヴァイオリン協奏曲第2番」プロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」がある。どちらも音の肌触りが冬だ。ラヴェルの「マ・メール・ロワ」も初めてブーレーズ盤LPを買ったのが12月で寒い中よくきいたせいかもしれないが音の冷んやり感がこの時期だ。そしてモーツァルトのレクイエムを筆頭とする宗教曲の数々はこの時期の僕の定番だ。いまはある理由があってそれをやめているが。

そうして最後に、昔に両親が好きで家の中でよくかかっていたダークダックスの歌う山田耕筰「ペチカ」と中田喜直「雪の降る町を」が僕の冬の音楽の掉尾を飾るにふさわしい。寒い寒い日でも家の中はいつもあったかかった。実はさっき、これをきいていて子供のころの雪の日の情景がよみがえっだのだ。

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

 

クラシック徒然草-僕がクラシックが好きなわけ-

2014 NOV 2 16:16:27 pm by 東 賢太郎

 

私は物理学者になっていなかったら、音楽家になっていたことでしょう。私はよく音楽のように物事を考え、音楽のように白昼夢を見、音楽用語で人生を理解します。私は人生のほとんどの喜びを音楽から得ています。

アルベルト・アインシュタイン

 

先日の皆既月食の時、アマチュア天文好きはほとんどが「観測派」なので友達がおらず子供のころ寂しい思いをしたことを思い出しました。

僕は恒星にしか興味がありません。日食や月食はかくれんぼみたいなもので物理現象でないし、何がおきるか完全にわかっているのだからただのショーです。皆既日食の時はカラスが何をするかの方が気になっていましたし、どうしても赤色超巨星の変光や130億光年先の未知の星雲での出来事のデータの方が気になります。

こういう趣味は幼児のころからはっきりしていて、僕は2歳から無類の電車好きでしたが車輪と線路以外は一切興味がありませんでした。非常に変な子だったと思われます。もしも鉄道会社に入るなら社長でも運転手でもなく線路の補修工をやりたい。今でも彼らを見るとうらやましい気持ちがわきおこります。

恒星の物理現象の何が楽しいの?と聞かれても猫好きとおんなじで、好きだという事実が先に厳存するのであって考えても意味のないことです。実際にそれを見た者はないわけですから頭の中だけの世界ですがそれでもそこに浮かぶイメージは時としてどんな名画より美しいと思います。

音楽も同じことです。どうしてクラシックが好きかというのは、どうして恒星がどうして線路が好きかということと同質です。なぜこの曲はこんなにいいんだろう?これを解明することとシリウスの伴星の質量への関心とは同じであり、シリウスを夜空に見上げるのはその曲を聴くことと同じことです。

音楽は人為的な物理現象です。それを耳にして頭の中に何が浮かぼうと、快感、感情、風景、ポエム・・・なんであろうと勝手です。ただその段階ではもうそれは音ではなく、脳内の現象になっています。それを心象と呼べば、それは聴く人の脳の数だけあります。ある曲を聴いて万人が同じ心象を抱くとは限らないのです。

ラヴェルのボレロを聴くと僕は極めてメカニックなゼンマイ仕掛けの時計を思い浮かべます。ところがさる女性の方があれはセクシーよねとおっしゃって頭が凍りつきました。セクシー? 同じものを見聞きしてかように天と地の差が出る、これは音楽が多面体であって、見事にカットされたダイヤモンドのように見る角度でいろんな魅力があるということなのです。

10年ぐらい前に僕はボレロをシンセでMIDI録音しました。なんとなく時計のゼンマイをばらばらに分解してみたくなったのです。すると、そこには和声や対位法の秘技はちっともなくて、ひたすら単調な2つの旋律とリズムの繰り返し、それに楽器法の多様なスパイスがふりかかっていくだけという造りなことが現実として見えてきました。

つまり、部品にバラしてみるとどのひとつも珍しくもなく、楽器の面白い組合せの効果だってシンセで忠実に再現できてしまう。まるで精巧なプラモデルみたい。作りかけで内部が中空の戦艦大和を上から下から眺めてぞくぞくする、ああいう感じを味わいながら全曲を完成してみて、ああやっぱりこれはゼンマイ時計だったんだよかったと得心したのです。

ちなみにご存知の方も多いでしょう、ロンドンにドーヴァー・ソウル(シタビラメ)で有名なWheelersというレストランがあります。素材は同じヒラメのムニエルですがソースの違いでたしか10何種類ものメニューがあり、どれもうまい(お薦めです)。ボレロはあの舌平目を片っ端から10種類食べるのとおんなじだったんだということです。1種類のソースで10枚はとてもとても。ボレロはピアノリダクションしてもちっとも面白くない曲です。

しかし、そういうことをぶっ飛ばしてセクシーだとかいう人が現れる。「おおジュリエット!そなたの瞳は・・・・」みたいな宝塚風世界が見えてきて、そういうのは僕とは縁遠い世界なもんでもうアウトです。こっちはボレロとくればホルンとチェレスタにピッコロがト長調とホ長調でのっかる複調の部分が気になっている。しかし何千人に1人ぐらいしかそんなことに関心もなければ気がついてもいない。ここで、日食や月食が好きな子と遊べなくて寂しい思いをした子供時代に戻るのです。

たしかにラヴェルはゼンマイ時計を造ったのですが、もし彼がセクシーという評価を知ったらひょっとして喜んだんじゃないか、それこそ彼の思うつぼだったかもしれない。伝記を読んでいてそう思ったのも事実です。素晴らしい時計ですね、そんな評価は欲しくなかったかもしれない。そう感じてなにかまた寂しい気持ちになったりします。こういう人間は孤独なのです。

そこで後日、ブラームスの4番の交響曲の第1楽章、これも僕にとってはバラバラに分解したくなる対象なのですが、それをMIDI録音してみました。するとこっちはソースではなく食材そのものに多種多様なアミノ酸、タンパク質が含まれたものであることがわかってきました。彼の3度、6度音程がそれの重要要素で、12音の全部を基音とする長短調主和音が含有されていることも。

でもそれはらっきょうをむいたようなもので、何も出てこない。どうして僕が惹きつけられるのか、その効果をもたらす核心、根源は悔しいことに分解した部品は教えてくれないのです。原子論が脳を解明できないのはこういうものでしょうか。音楽としては全然似てませんが、結局これもボレロのセクシーと同様によくわかりませんでした。

そういう、いわば「形而上の何ものか」を名曲といわれるものは含んでいるようです。すると僕はそれを形而下におろして分解したくなる。いろんな人の演奏をいわば「聴感実験」としてきいてみたくなる。そうやってその曲を覚えこんでしまう。その積み重ねで僕は50年もクラシックにのめりこんできたようなのです。分解癖がうずかない曲はぜんぜん関心がない、どうもそういう事のようです。

ブログで譜面をお示ししたくなる部分、そここそ分解したい箇所であって、それこそが僕のブログの主題だからそうしないといけません。今はそういうものの合成効果を僕は好きで、それが感動をくれていると考えています。それは自分だけの心象かもしれないので普遍性があるかどうかは知りません。たぶんないでしょう。日食・月食派の方にはどうでもいいことでしょうが、物理現象派の方にはわかっていただける 一縷の望みをかけております。

僕はリストやマーラーやヴェルディやほとんどのショパンに興味がないことを明かしているので、いくらボロカスに書いても無視してください。所詮好き好きです。なぜといって分解したいところがないのです、一ヵ所も。だから楽譜を見たいとも思わない。おおジュリエット!も僕の音楽観にはいっさい出てきません。

音楽の教科書に載っていた曲はみな名曲だ、聴いてわかなければいけない、わからければあなたがおかしいのだなんていう呪縛はクソくらえなのです。僕は中学まで音楽の成績2の劣等生ですが、ピアノが弾けて笛がうまくて5だった人たちが今の僕よりストラヴィンスキーの音楽について理解していることはたぶんないでしょう。そういうことは育ちや教育や技術ではなく、すぐれて遺伝子のなせるわざと思います。

レコードの批評はくだらないので読みません。つまらない曲の演奏などどうあろうとつまらないわけで、そんな曲を批評できるほど真面目に聴いていること自体趣味が悪い。そういう人のおすすめに従ってみたいとは思わないです。良い曲はプロがちゃんと演奏すればよほどひどい解釈でないかぎり良いはずです。だからCD屋へ行って棚に並んでいる有名演奏家のものを買っておけば間違いはありません。

その曲の本質をより突いた演奏というのはたしかにあります。それは語られるべきですが、それもこれも、曲が良いという大前提があってこそです。必要なことは「良い曲」を探して、それを良く知ることなのです。そしてそれぞれの人によって持つ心象が違うのですから何が良い曲かもかわってきます。他人の評価やおすすめはそれはそれとして、とにかく自分の耳で聴いてみること。それしかございません。

僕はいい曲かどうかを分解したいかどうかで選んでおり、ある人はおおジュリエット!で選んでいる。どっちでもよい。そういう事だということを知ったうえで自分の「良い曲」のレパートリーを増やしていくこと、それを探し求めることこそクラシック音楽の森に足をふみ入れることです。その道を歩いてさえいれば、どんなにレパートリーがまだ少なくとも、「自分の趣味はクラシック音楽です」と堂々と語ることができる、僕はそう思います。

 

クラシック徒然草-はい、ラヴェルはセクシーです-

クラシック徒然草-ラヴェルと雪女 (ボレロ)-

 

 

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

 

クラシックは「する」ものである(6)ージュピター第4楽章ー

2014 AUG 9 13:13:48 pm by 東 賢太郎

「クラシックを歌う」、第5回です。それではいよいよオーケストラに参加してみましょう。

モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」の第4楽章です。チェロパートはほとんどコントラバスパートと同じ譜面(一番下)を弾きますが、一部分だけ別れます。わかりにくいので一番下のコントラバスを歌いましょう(音程はチェロのまま)。

女声だとオクターヴどうしても高くなります。低弦パートを歌って合奏として何ら問題ありませんが、より現実感があるという意味で女性は第1ヴァイオリン、フルート、オーボエから入り、より興味深い第2ヴァイオリン、ヴィオラに進まれるはどうでしょう?

まず、この曲はいままでよりもテンポが速いからそれに慣れてください。歌わないで目で追う練習が必要かもしれません。大事なことですが、他のパートは一切見ないでください(慣れない人はおそらくわからなくなります)。

拍子ですが「4分の4拍子」です。ですが四分音符を1・2・3・4と数えるより1・2/3・4と1小節を2つに割って1・2、1・2・・・と数えた方がいいでしょう(2分の2拍子に)。コントラバスパートだけを見て、イチ・ニ、イチ・ニと数を勘定しながら歌ってください。

イチでなく二から入る所があるので要注意です。速いところの音程はそこそこで結構、8分音符は速いのでタカタカ・・・と歌います。タンタターンタカタカタカタカタカタン、という風に。それでできます。

いかがでしょう?できるまで(できたと感じるまで)何度も挑戦されるとよろしいと思います。少々音程ははずしても「できた」と実感されることが大事です。

歌うのがどのパートであれ、音楽のあまりの見事さに打ちのめされるばかりです。

「モーツァルトが天才である」とは、誰かがそう言うからそうなのではなく、書かれた音符がそう実証していることです。こうして自分でその検証に立ち会うことで、初めて自分の言葉でそう語ることが許される。そう思います。

あくまで僕の場合ですが、この経験をすると「誰の指揮が良いか」等の議論は二次的なことになります。どんな名演奏に酔いしれるよりも、普通の演奏に自分で歌って参加する方がずっと楽しいからです。

つまり、その楽しみは演奏ではなく、スコアそのものが与えてくれることに気がつきます。以前のブログで「僕の拍手は作曲家に90%、演奏家に10%」と書いたのはそういうことです。

あえて申しますが、このモーツァルトのスコアを前にして、ベームとカラヤンのどちらの演奏が偉大かなど語っても仕方ありません。夜空を見上げて輝く星々を目にしながら、地球と月のどちらが大きいか考えるようなものです。

「スコアを読む」(score reading)とよく言います。これは何を意味しているのでしょうか。指揮者の方々は初見で全体の音が頭の中で聴こえる必要があるでしょう。そのためには移調楽器を含む全パートを歌えるのが当然の前提です。

僕らは単なる趣味ですからそこまで極める必要はないでしょう。ただ、鳴っている楽器の音符を図形としてあちこち目で追いかけるだけでは面白くない、やはり「する人」程度まではひとつひとつのパートを歌えるようになりたいというのが僕の願望です。

それが「読む」と言えるのかどうかは知りませんが、そうなれば音楽の深みがより味わえるというのはバッハのアリアでご経験済みと思います。素人にとってはそこまでいけばよろしいのではないでしょうか。

ドイツにいた頃ジュピターを全曲MIDI録音しました。G線上のアリアだとピアノで遊べますがこの曲になるともう僕の技術では弾けません。そういう場合にMIDIは強い味方になります。僕はPROTEUSとヤマハDOMという2台ののシンセサイザーをクラヴィノーバでパートごとに録音しPCに記録します。

音はダウンロードするのではなく全パートを自分の手で鍵盤で弾きます。音は生き物だからタッチがニュアンスに出ます。メトロノームは使いません。自分で自分の音と合奏します。そうしないとどこか機械的になります。それを積み上げれば50段のスコアでも演奏可能です。この過程で知ることが出てきます。

例えばこの第4楽章のフーガ風部分の入りで鳴るホルン、あるいは第3楽章のトリオでオーボエとからむファゴットなど、弾いていて実に気持ちがいいのです。これはオケのこのパートの人、たまらないだろう、うらやましいなと嫉妬を覚えるほど。

ですから自分もどうしてもそこをやってみたくなる。そう欲するかどうかが「する人」かどうかの分岐点だと思います。それにはもちろんホルン、ファゴットを習うのがベストになるでしょうが、それでもオケで両方を吹くのは無理です。全楽器を我がものにできるMIDIはそこでも強い味方です。

しかしもっと経済的で簡単な方法があります。両方とも歌ってしまえばいいわけです。ヴァイオリンを口笛で代用すれば、全曲にわたっていいとこ取りをする形で常にオケに参加していることができます。これが僕のお薦めすることです。

この方法が向かないのはピアノ、管弦の独奏曲です。agility(敏捷性)を売り物にする楽器は向きませんし、遅い曲でも打楽器的なピアノの音色に声はなじみません。しかしオケであればスコアが30段もある春の祭典でも不思議なマンダリンでも何でもできてしまいます。

それを50年やってきた結末として、主だった交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽、一部のオペラ、宗教曲はそうやって歌うレパートリーになってしまいました。それはビートルズのレコードに合わせて歌うのと何ら変わりません。クラシックのレコードやCDは、僕にとっては「カラオケ」です

歌って踊って楽しむというのはそういうことです。日本ではクラシックは高尚なものだ、かしこまって聞くものだという考え方が伝統的です。たしかに、クラシックは非常に知的な側面を秘めた音楽です。しかし、そのこととpassive(受け身)に聴くかactive(能動的、自発的)に聴くかということはぜんぜん別の話です。

ここまでお示ししたことをじっくりおやりになってみて下さい。音楽好きの方で熱意さえあれば誰でもできると思います。

 

クラシックは「する」ものシリーズ、歌うだけでなくピアノを使ってオケに参加することもあります。あるいはギターでも結構です。もちろん楽器をお持ちでなければ歌っても結構です。次回はワーグナーの「ニュルンベルグの名歌手」より第1幕への前奏曲です。

 

クラシックは「する」ものである(7)-ピアノについてー

 

 

お知らせ

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

クラシックは「する」ものである(5)-J.S.バッハ「G線上のアリア」ー

2014 AUG 6 13:13:46 pm by 東 賢太郎

第5回目です。ちょっとだけ中級コースに入ります。

バッハの管弦楽組曲第3番のアリア(いわゆる「G線上のアリア」)です。ゆっくりな曲なので格好の練習曲です。

有名な曲ですから音楽の教科書で多くの方がご存知でしょう。初心者用の入門曲と思っておられる方も多いかもしれません。

とんでもない。この曲をピアノ独奏でちゃんと弾くのは素人にはなかなか難しいです。そして歌ってみればその難しさがわかります。

まずは女性はソプラノ、男性はバスを歌ってください。バスはオクターヴをちゃんと取ってください。うまくいかなくても結構。あきらめないで何度も挑戦して下さい。譜面が音名で読めない場合は楽器で弾いて耳で覚えてください。

できた方、ではさらにアルトとテノールをいきましょう。

これはちょっとむずかしいかもしれません。じっくりゆっくり、しかし手を抜かずに正確にどうぞ。

テノール(ヴィオラ)のパートは「ハ音記号」なので音をひとつ上げて(シをドとして)読んでください。ドレミをレミファにするということです。音名で読める方はいいですが僕は始めはギブアップでピアノの助けを借りました。

アルト(第2ヴァイオリン)男性はオクターヴ低くてもOKです。特に臨時記号の#がつく所は音程に気をつけて下さい。テノールは原音どおり(裏声)で歌いましょう。

バッハの時代(バロック)の音楽は「通奏低音」(バッソ・コンティヌオ)といってバス(楽器は指定なし)の音に数字を振って、あたかもギターコードのように和音をつけました。

鍵盤楽器であれば左手でバス・ラインを弾いて右手で数字が示す和音を即興で入れたそうです(通奏低音の弾き方に関しては僕はまだ勉強不足なのでコメントを控えます)。

このアリアもソプラノ(第1ヴァイオリン)の旋律にバスがついていて、真ん中の2声があたかも即興であるかのごとく協奏しながら装飾的に和声を縫っていきます。

しかし譜面を見れば見るほど実はそうではなく、計算され尽くした音が大理石のように見事に配置され完璧な宇宙の調和を体現しているという様なのです。

後半で第2ヴァイオリンが半音ずつ上がっていき、最後にバスのe(ミ)に対してd#(レ#)の長7度で軋む部分など息をのむほどの美しさ。絶句するしかありません。

歌い終わってつぶやくのはバッハは凄いの一言です。この4声の糸が織りなす綾のすばらしさ、これにまさる天上の調べは考えがたく僕は娘の名に「綾」の字をつけました。

ぜひ真ん中の2声をじっくり練習なさってください。それでこの曲が完全に違って聴こえてきます。僕の経験です。漫然とお聴きになっていた時とは格段に違うものがそこに現れてきます。

 

ここまで修了された方はもうオーケストラ曲のチェロパート、ヴィオラパートをそこそこ歌える準備ができています。ただ音だけを聴いていたご自分とは別な自分を発見されることでしょう。「歌ったり踊ったり」の効用を一人でも多くの方に体験していただきたいと願っております。

 

クラシックは「する」ものである(6)ージュピター第4楽章ー

 

 

お知らせ

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

 

クラシックは「する」ものである(3)ーボロディン弦楽四重奏曲第2番ー

2014 AUG 3 12:12:14 pm by 東 賢太郎

 

サン・サーンスの白鳥と言えば思い出があります。

94年ごろでしょうか、フランクフルトにいた頃、SMCメンバーである二木君が野村ドイツの同僚で、拙宅にお招きして食事をしました。さんざんワインが回ったところで彼がピアノが弾けるとわかり、それはいいすぐやろうと地下に引っぱっていっていきなり伴奏頼むとその「白鳥」の譜面を渡しました。二木は覚えてないかもしれないが、あんまり知らないんですが・・・といいながらも初見でそれなりに弾いて(すごいね)、僕はというともちろんチェロを気持ちよく弾かせてもらいました。

でも歌うんでもいいんですよ。声よりチェロの方がちょっといい音が出るんで楽器を持つだけでなんですから。もちろん速いパッセージは歌は限界があります。だけど歌うことのできるチェロの名旋律はたくさんあるんです。たとえば、これも歌えますよ。裏声になるがこれが美しく歌えたら最高の気分になれます。ボロディンの弦楽四重奏曲第2番第3楽章「ノクターン」です(これも有名曲ですね)。

伴奏に回るところの低音部もしっかり楽譜を見て歌ってください。要はこのカルテットのチェリストになりきることです。

譜面が読めない?大丈夫です。音が取れなくても一番下のチェロパートを目で追えますよね。この曲はゆっくりだしそれがものすごくわかりやすいんです。チェロを聴き分けてそのメロディーを耳で覚えちゃってください。チェロだけ聴くんです。

目が不自由な音楽家の方は普通は点字の譜面で覚えるそうですがピアニストの辻井 伸行さんは右手と左手を別々に耳で聴いて覚えてしまう。楽譜は使わないそうです。そんな記憶力は普通の人にはないですが、この曲ぐらいなら誰でもできますね。

ちなみに、そうやってパートを聴き分ける練習をすれば必ず耳が良くなります。同時に鳴っている音の仕分け能力がつくんです。それに強くなれば交響曲のような複雑な曲を聴いても楽器の聴き分けができるようになります。

そうすると曲からの情報量がぐっと増えるから、いいことがあります。その曲がもっと楽しめる?そうですね、それもありますがそれだけではありません。増えた情報がマーカーとなって曲を早く覚えられるようになります。これが実はクラシックのレパートリーをどんどん増やしてくれる、つまり通になる近道なのです。

ワインだって日本酒の利き酒だって、飲んだものを覚えてないと次のと比べられませんね。覚えるには特徴をなるべくたくさん見つけておくのがいいですね。それと同じことです。カルテットのような、音の少ない曲から練習して、だんだんと編成を増やしていかれるとコツをつかむのに効果があるでしょう。

楽譜にアレルギーのある方もきっとおられると思います。でも所詮は記号だからパソコンの文字とキーボードの関係と同じです。恐れることはありません。楽譜を見ながら聴くと、情報量はますます増えますから、ますます早くますますたくさんの曲を覚えられるのです。そんなにご利益があるんです。チャレンジし甲斐があるではないですか。

次回は天下の大名曲、モーツァルトのクラリネット五重奏曲を使って、和声についてもう少しご説明をしましょう。

 

クラシックは「する」ものである(4) -モーツァルト「クラリネット五重奏曲」-

 

お知らせ

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊