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カテゴリー: ______チャイコフスキー

ケンペのチャイコフスキー5番

2014 SEP 26 0:00:59 am by 東 賢太郎

日米戦争の島へ行ったり、これも戦争である金融ビジネスなぞに気が行っていると、どうも頭が音楽モードに戻ってこない。長いこと証券会社という戦場の最前線に身を置いて、それでも片時も音楽を忘れたことはなかったのに、今はなぜかバランスが悪い。

先日はチャイコフスキーの5番ライブをそれなりに楽しんだので、今日は6番を取り出して聞いてみる。ところがこれがだめですぐにやめ。あと何曲か別な作曲家に鞍替えしてかけてみるが、どれも途中でCDをカット。いらん。どうしても心に入ってこない。

kempe仕方ない、それなら5番だ。CD棚を眺めているうち、思い出した。ルドルフ・ケンペ / バイエルン放送交響楽団の75年ライブである。「チャイコフスキー5番」の稿にはこれをご紹介していなかった。第3楽章弦のスケルツォ風部分が危なっかしかったり、終楽章では第2オーボエがお前何やっとんの?というポカをしているなど傷があるから。

しかし、このごりごりのドイツ風チャイコフスキーは捨てがたい。第1楽章の第2主題、たいていの指揮者がテンポを落として入るがそうせず、以後もインテンポに近い。第2楽章のホルンもスラーでつないでなよなよしない。見事なドイツの頑固親父である。かと思えば第3楽章冒頭はブラームスかという思い入れがあり、終楽章後半はだんだん熱気をはらんできて、ドミナントの終止を経てトランペットが旋律を朗々と吹く部分のティンパニなどナチスの行進もかくやだ。75,6年にNHK FMでこれがオンエアされ、僕はこの部分で完全にノックアウトされた。それを昨日のように覚えているのだから、これはインパクトのある演奏だ。波長の合ったときに大音量で聴けば大変なカタルシスを与えてくれる、貴重な録音であろう。僕の(写真)は石丸で2002年に買った海賊盤だ。

聴き終って感動はしたが、まだどことなく波長が違う。どうしようもないのでピアノに向う。やっぱり自分の指でクープランの墓をかき鳴らす方がいいなあ。

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チャイコフスキー交響曲第5番ホ短調 作品64 

 

 

 

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ベルリオーズ 「幻想交響曲」 作品14

2014 JUL 28 14:14:41 pm by 東 賢太郎

220px-Henrietta_Smithsonほれた女にふられるならまだいいが、無視されるのは堪え難いというのは男性諸氏は共感できるのではないか。まだ無名だった24歳のベルリオーズは、パリのオデオン座でイギリスから来たシェイクスピア劇団の舞台に接し、ハムレットのオフィーリアを演じたアイルランド人の女優、ハリエット・スミッソン(左)に夢中になってしまった。熱烈なラブレターを出すがしかし彼女は意に介さず、面会すらもできない。激しい嫉妬にさいなまれた彼はやがて彼女に憎しみを抱いてゆくことになる。

間もなく劇団はパリを去ってしまい、ハリエットをあきらめた彼はマリー・モークというピアニストと婚約した。ところが、踏んだりけったりとはこのことで、ローマ賞の栄冠に輝いてイタリア留学に行くとすぐに、モークの母から娘を別な男に嫁がせることにしたという手紙が届く。怒ったベルリオーズはパリに引き返し女中に変装してモーク母子を殺害して自殺しようと企んだ。婦人服一式、ピストル、自殺用の毒薬を買い馬車にまで乗ったのだから本気だった。幸いにして途中(ニース)で思いとどまったが彼は危ないところだった。

しかし、この事件の前に、彼はすでに殺人を犯し、自殺していた。

それは1830年にできたこの曲の中でのことである(幻想交響曲)。恋に深く絶望し阿片を吸った芸術家の物語だが、その芸術家は彼自身である。彼はおそらくハリエットを殺しており死刑になる。ギロチンで切られた彼の首がころがる。化け物になったハリエットが彼の葬儀に現れ奇っ怪な踊りをくりひろげる。これと同じことがモークの件で現実になる所だったわけだ。ベルリオーズが本当に阿片を吸ったかどうかはわからない。阿片は17世紀は医薬品とされ、19世紀にはイギリス、フランスなどで医薬用外で大流行し、詩人キーツのように常用した文化人がいた。ピストルと毒薬を買って殺人を企図したベルリオーズが服用したとしてもおかしくない。

そう思ってしまうほど幻想交響曲はぶっ飛んだ曲であり、「幻想」(fantastique、空想、夢幻)とはよく名づけたものだ。これが交響曲という古典的な入れ物に収まっていることが、かろうじてベートーベンの死後2年目にできた曲なのだと信じさせてくれる唯一の手掛かりだ。逆にその2年間にベルリオーズは入れ物以外をすべて粉々にぶち壊し、それでいてただ新奇なだけでなくスタンダードとして長く聴かれる曲に仕立て上げた。そういう音楽を探せと言われて、僕は幻想と春の祭典以外に思い浮かぶものはない。高校時代、この2つの音楽は寝ても覚めても頭の中で鳴りまくっていて受験会場で困った。

この曲のスコアを眺めることは喜びの宝庫である。これと春の祭典の相似は多い。第5楽章の冒頭の怪しげなムードは第2部の冒頭であり、お化けになったハリエットのEsクラリネットは第1部序奏で叫び声をあげる。練習番号68の後打ちの大太鼓のドスンドスンなどそのものだ。第4楽章のティンパニ・アンサンブル(最高音のファは祭典ではシに上がる)なくして祭典が書かれようか。第4楽章のファゴットソロ(同50)の最高音はラであり、これが祭典の冒頭ソロではレに上がる。第3楽章のコールアングレがそれに続くソロを思わせる。「賢者の行進」は「怒りの日と魔女のロンド」(同81)だ。第5楽章のスコアは一見して春の祭典と見まがうほどで僕にはわくわくの連続だ。

この交響曲の第1楽章と第3楽章は、まことにサイケデリックな音楽である。第1楽章「夢、情熱」の序奏部ハ短調の第1ヴァイオリンのパートをご覧いただきたい。弱音器をつけpからffへの大きな振幅のある、しかし4回もフェルマータで分断される主題は悩める若者の不安な声である。交響曲の開始としては異例であり、さらにベートーベンの第九のような自問自答が行われる。gensou1

感情が赤の部分へ向けてふくらんでfに登りつめると、チェロが5度で心臓の高鳴りのような音を入れる。そこで若者は同じ問いかけを2回する。青の部分、コントラバスがピッチカートでそれに答える。1度目はppでやさしく、2度目はfで決然と。まるでオペラであり、ワーグナーにこだまするものの萌芽を見る思いだ。

若者は納得し(弱音器を外す)、音楽は変イの音ただひとつになる。それがト音に自信こめたようにfで半音下がると、ハ長調でPiu mosso.となり若者は束の間の元気を取り戻す。この、まるで夢から覚めていきなり雑踏ではしゃいでいるような唐突で非現実的な場面転換、そこに至る2小節の混沌とした感じは、まったく筆者の主観であるが、レノン・マッカートニーがドラッグをやって書いた後期アルバムみたいだ。両者にそういう共通の遠因があったかどうかはともかく、常人の思いつく範疇をはるかに超え去ったぶっ飛んだ楽想である。

この後、弦による冒頭の不安な楽想と木管によるPiu mossoの楽想が混ざり、心臓高鳴りの動機で中断すると、再び第1ヴァイオリンと低弦の問答になる。ここでの木管の後打ちリズムはこの曲全体にわたって出現し、ざわざわした不安定な感情をあおる。やがて弦5部がそのリズムに引っぱられてシンコペートする。これが第2のサイケデリックな混沌だ。ここから長い長い低弦の変イ音にのっかって変ニ長調(4度上、明るい未来)になり、しばし夢の中に遊ぶ。フルート、クラリネットの和音にpppの第1ヴァイオリンとpのホルン・ソロがからむデリケートなこの部分の管弦楽法の斬新さはものすごい!これはリムスキー・コルサコフを経てストラヴィンスキーに遺伝し、火の鳥の、そして春の祭典のいくつかのページを強く連想させるものである。

この変イ音のバスが半音上がり、a、f、g、cというモーツァルトが偏愛した古典的進行を経てハ長調が用意される。ここからハリエットのイデー・フィックス(固定楽想)である第1主題がやっと出てきて提示部となる。つまりそこまでの色々は序奏部なのだ。この第1主題、フルートと第1ヴァイオリンが奏でるソードソーミミファーミミレードドーシである。山型をしている。ファが頂上だが、ミミファーと半音ずり上がる情熱と狂気の盛り上げは随所に出てくる。第2主題はフルートとクラリネットで出るがどこか影が薄い。しかしこの気分が第3楽章で支配的になる大事な主題だ。これはすぐに激した弦の上昇で断ち切られffのトゥッティを経て今度は深い谷型のパッセージが現れる。すべてが目まぐるしく、落ち着くという瞬間もない。ここからの数ページは、やはり感情が激して落ち着く間もないチャイコフスキーの悲愴の第1楽章展開部を想起させる。

展開部ではさらに凄いことが起こる。練習番号16からオーボエが主導する数ページの面妖な和声はまったく驚嘆すべきものだ。第381小節から記してみると、A、B♭m、B♭、Bm、B、Cm、C、C#m、C#、Csus4、C、Bsus4、B、B♭sus4、B♭、Bm、B、Cm、C、C#m、C#、Dm、D、D#m・・・・なんだこれは?何かが狂っている。和声の三半規管がふらふらになり、熱病みたいにうなされる。古典派ではまったくもってありえないコードプログレッションである。ベルリオーズは正式にピアノを習っておらず、彼の楽器はギターとフルートだった。この和声連結はピアノよりギター的だ。それが不自然でなく熱病になってしまう。チャイコフスキーは同じようなものを4番の第1楽章で「ピアノ的」に書いた。それをバーンスタインがyoung peoples’でピアノを弾いてやっている。

ところで、ハリエットは第4楽章でギロチンに首を乗せると幻影が脳裏に現れてあの世である終楽章でお化けになることになっているが、僕は異説を唱えたい。最初から殺されていて、全部がお化けだ。第1楽章の熱病部分に続くffのハリエット主題はG7が呼び覚ますが、そこでイヒヒヒヒと魔女の笑いが聞こえ終楽章の空飛ぶ妖怪の姿になっている。そこからもう一度ややしおらしくなって出てくるが、それに興奮して騒いだ彼の首がギロチンで落ちるピッチカートの予告だってもうここに聞こえているではないか。しかしそれはコーダの、この曲で初めてかつ唯一の讃美歌のような宗教的安らぎでいったん浄化される。だからとても印象に残るのだ。本当に天才的な曲だ!このC→Fm(Fではなく)→Cはワーグナーが長大な楽劇を閉じて聴衆の心に平安をもたらす常套手段となるが、ここにお手本があった。この第1楽章に勝るとも劣らないぶっ飛んだ第3楽章について書き出すとさすがに長くなる。別稿にしよう。

第2楽章「舞踏会」。ここの和声Am、F、D7、F#7、F#、Bm、G・・・も聞き手に胸騒ぎを引き起こす。スコアはハープ4台を要求しているが、この楽器が交響曲に登場してくるのがベートーベンをぶっ壊している。第3楽章のコールアングレ、終楽章の鐘、コルネット、オフィクレイドもそうだ。ティンパニ奏者は2人で4つを叩きコーダで2人のソロで合奏!になる。ラ♭、シ♭、ド、ファという不思議な和音を叩くがこのピッチがちゃんと聴こえた経験はない。同様に第4楽章の冒頭でコントラバスのピッチカートが4パートの分奏(!)でト短調の主和音を弾くが、これもピッチはわからない。これは春の祭典の最後のコントラバス(選ばれた乙女の死を示す暗号?)のレ・ミ・ラ・レ(dead!)の和音を思い出す。

この交響曲の初演指揮を委ねられたのはベルリオーズの友人であったフランソワ・アブネックであった。彼についてはこのブログに書いた。

ベートーベン第9初演の謎を解く

幻想交響曲はハリエットという女性への狂おしい思いが誘因となり、シュークスピアに触発されたものだが、音楽的には彼がパリで聴いたアブネック指揮のベートーベンの交響曲演奏に触発されたものである。ベートーベンの音楽が絶対音楽としてドイツロマン派の始祖となったことは言うまでもないが、もう一方で、ベルリオーズ、リスト、ワーグナーを経て標題音楽にも子孫を脈々と残し、20世紀に至って春の祭典やトゥーランガリラ交響曲を産んだことは特筆したい。そのビッグバンの起点が交響曲第3番エロイカであり、そこから生まれたアダムとイヴ、5番と6番である。このことは僕の西洋音楽史観の基本であり、ご関心があれば3,5,6番それぞれのブログをお読み下さい(カテゴリー⇒クラシック音楽⇒ベートーベンと入れば出てきます)。

最後に一言。男にこういう奇跡をおこさせてしまう女性の力というものはすごい。我がことを考えても男は女に支配されているとつくづく思う。そういえばモーツァルトもアロイジア・ウェーバーにふられた。彼が本当にブレークするのはそれを乗り越えてからだ。彼はアロイジアの妹コンスタンツェを選んだ。姉の名はマニアしか知らないだろうが天才の妻になった妹は歴史の表舞台に名を残した。しかしベルリオーズの方は後日談がある。幻想の作曲から2年して再度パリを訪れたハリエットはローマ留学から帰ったベルリオーズ主催の演奏会に行く。そこで幻想交響曲を聞き、そのヒロインが自分であることに気づく。感動した彼女は結局ベルリオーズと結ばれた。彼女の方は大作曲家の妻という名声ばかりか、天下の名曲の主題として永遠に残った。

 

シャルル・ミュンシュ / パリ管弦楽団

406僕はEMIのスタジオ録音でこの曲を知ったしそれは嫌いではない。ただし彼の演奏はかなりデフォルメがあり細部はアバウト、良くいえば一筆書きの勢いを魅力とする。それが好きない人にはたまらないだろうということで、どうせならその最たるものでこれを挙げる。鐘の音がスタジオ盤と同じでどこか安心する。幻想のスコアを眺めていると、書かれた記号にどこまで真実があるのかどうもわからない。そのまま音化して非常につまらなくなったブーレーズ盤がそれを物語る。これがベストとは思わないが、面白く鳴らすしかないならこれもありということ。フルトヴェングラーの運命の幻想版という感じだ。EMI盤と両方そろえて悔いはないだろう。

 

ジェームズ・コンロン/  フランス国立管弦楽団

gensouこの曲はフランスのオケで聴きたいという気持ちがいつもある。マルティノンもいいが、これがなかなか美しい。LP(右、フランスErato盤)の音のみずみずしさは絶品で愛聴している。演奏もややソフトフォーカスでどぎつさがないのは好みである(音楽が充分にどぎついのだから)。パリのコンサートで普通にやっている演奏という日常感がたまらなくいい。料亭メシに飽きたらこのお茶漬けさらさらが恋しい。終楽章のハリエットですら妖怪ではなく人間の女性という感じだからこんなの幻想ではないという声もありそうだが。

 

オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団

4118SYQZ5PL__SL500_AA300_ロンドン時代にLPで聴き、まず第一に音が良いと思った。音質ではない。音の鳴らし具合である。この曲のハーモニーが尖ることなく「ちゃんと」鳴っている。だからモーツァルトやベートーベンみたいに音楽的に聞こえる。簡単なようだがこんな演奏はざらにはない。第2楽章にコルネットが入る改訂版をなぜ選んだかは不明だが、彼なりに彼の眼力でスコアを見据えていておざなりにスコアをなぞった演奏ではない。ご自身かなりぶっ飛んだ方であられたクレンペラーの波長が音楽と共振している。第4楽章の細部から入念に組み立ててリズムが浮わつかない凄味。終楽章もスコアのからくりを全部見通したうえで音自体に最大の効果をあげさせるアプローチである。こういうプロフェッショナルな指揮は心から敬意を覚える。

 

(補遺、2月29日)

ダニエル・バレンボイム / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

51iMEuehZVLベルリン・イエス・キリスト教会の広大な空間を感じる音場で、オーケストラが残響と音のブレンドを自ら楽しむように気持ちよく弾き、良く鳴っていることに関して屈指の録音である。音を聞くだけでも最高の快感が得られる。第1楽章は提示部をくり返し、コーダは加速する。第2楽章はワルツらしくない。第3楽章の雷鳴は超弩級で、どうせ聴こえない音程より音量を採ったのか。第4楽章のティンパニの高いf がきれいに聞こえるのが心地よい。終楽章コーダは最も凄まじい演奏のひとつである。たしかBPOのCBSデビュー録音で、僕は89年にロンドンで中古で安いので買っただけだが、バレンボイムの振幅の大きい表現にBPOが自発性をもって乗っていて感銘を受けたのを昨日のように覚えている。ライブだったら打ちのめされたろう。彼はつまらない演奏も多いが、時にこういうことをやるから面白い。

 

(補遺、2018年8月25日)

ポール・パレー / デトロイト交響楽団

第2楽章の快速で乾燥したアンサンブルはパレーの面目躍如。これだけ内声部が浮き彫りに聞こえるのも珍しい。第3楽章も室内楽で、田園交響曲の末裔の音を感知させる面白さだ。ティンパニの音程が最もよくわかる録音かもしれない。指揮台にマイクを置いたかのようなMercuryのアメリカンなHiFi概念は鑑賞の一形態を作った。終楽章の細密な音響は刺激的でさえある。パレーは木管による妖怪のグリッサンドをせず常時楷書的だが、それをせずともスコアは十分に妖怪的なのであり、僕は彼のザッハリッヒ(sachlich)な解釈の支持者だ。

 

 

クラシック徒然草―ミュンシュのシューマン1番―

 

 

 

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音楽にご関心のある方

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「春の祭典」

クラシック徒然草-田園交響曲とサブドミナント-

フランク 交響曲ニ短調 作品48

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チャイコフスキー弦楽四重奏曲第1番ニ長調作品11

2014 FEB 20 23:23:27 pm by 東 賢太郎

前回のブログで庄司紗矢香さんのヴァイオリンの音程について持論を述べました。僕は弦楽器のピッチが非常に気になる人間で、昨日のキムヨナの最後の音は低い。減点だ(カンケイないか・・・)。鈴木明子のヴァイオリンは旧友古澤巌氏だったみたいで、こっちはまずまずでしたが。

ここではそれを一歩進めて弦の合奏について書きます。

弦楽合奏は二重奏から八重奏までが普通ですが、最も無駄がなく完成度が高い曲が多く作られたのは四重奏です。ヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ1という合奏体はひとつの小宇宙といえます。音楽にとって、調性の変転に即応して最もピュアで美しい「純正律」の和音を鳴らすことが理想です。純正律の和音とはわかりにくいでしょうが、簡単にいえば混声四部合唱がアカペラできれいにハモッたときのお腹に響くぐらい曇りのない和音です。カーペンターズやビートルズのハモリもそれです。

オーケストラというのは含まれる楽器(鍵盤楽器以外)が半音以下の音程操作ができるので理論的にはそれを鳴らすことが可能ですが、実際には第1ヴァイオリン12人のユニゾンだけでも微妙なピッチのずれが発生して「うなり」が生じます。ホールによってそれが目だってしまうと汚い音に感じてもう耐えられません。若いころはそのぐらい指揮者が直せドアホと切れてしまって演奏会の途中で退散したこともあります。良いホールで良いオーケストラを聴いた場合、音楽は最高の効果を発揮しますが現実はそうはいかない場合がほとんどなのです。

僕は良いカルテットによる「弦楽四重奏」こそ最も完璧で美しい音楽の王者であると思っています。管や打楽器が添える音色のバラエティはそれなりに楽しいものですが、それを売り物にした楽曲の価値が特に高いわけでもありません。そういう曲は指揮者が勝手にスコアをいじって「プチ整形」したりもありです。管、打楽器が活躍する曲でもピアノ版にリダクションして感動できる曲はありますから、やはり音色美というものは「化粧」にすぎず、素顔の美しさがすべてを決めているのです。そして弦楽四重奏曲は一切の整形も化粧もなし、素顔美人の宝庫であります。

「ユリアフィッシャーの二刀流」なるブログに僕はこう書きました。

世の中の弦楽器の録音は、パッションか音程のどっちかに不満があるケースが非常に多い

これはソロについて書いたのですが、カルテットとなると奏者が4人ですから不満あるケースは4倍になります。特に「音程」の方はほとんど満足な団体がないという困った事態になっています。僕が学生の頃、ブダペスト弦楽四重奏団のベートーベンというものが日本の音楽評論家たちの絶賛を浴びて神格化していました。しかし曲によりますが僕には聞くのが苦痛なほど音程がひどいのです。そういうものを趣味の問題だというなら僕は趣味が悪いのかもしれませんが、汚いと思うものは仕方ありません。あれを崇められる評論家がうらやましい。

僕の聴く限りソプラノ(第1ヴァイオリン)とバス(チェロ)に難があるプロはまずありません。まれに前者が弱い団体がありますが、入場料をとっていること自体不思議です。キーとなるのは第2ヴァイオリンとヴィオラです。たいていはこの2人が和音の真ん中を弾きますから、ドミソのミです。これが半音高いか低いかで長調か短調かが決まりますからこれが下手だと悲惨なことになります。下手というのは技術ではなく、和音の感じ方に応じた音の微妙な高低の取り方です。つまり音楽性、耳の良さです。音楽家だから耳がいいだろうと誰もが思うのですが、疑問に思うケースはけっこうあります。

以上音程についてですが、音楽というのは音程の良さは「必要条件」でしかありません。4人の呼吸、テンポ感、アインザッツ(音の入り)、フレージング(フレーズの意味づけの仕方)、アーティキュレーション(音の発音)などがピタリと一致して、あたかも一人が楽器を弾いているようになることが理想なのです。そんなことが可能なのか。非常にまれですが、可能です。youtubeでひとつだけ発見しました。ボロディン・カルテットのチャイコフスキー1番です。

この曲、第2楽章の速度記号であるAndante cantabileが「アンダンテ・カンタービレ」というニックネームになって有名曲となりましたから聴いたことがない人は少ないでしょう。しかし全曲がとてもいい曲ですからぜひ通してお聴きください。

終楽章だけはやや緊張が切れて雑になっているのが残念ですが、第1、2楽章は僕が本稿に書いてきた重要な要件をほぼ満たしている「稀有な名演」であります。第1楽章展開部の第2ヴァイオリン、ヴィオラの見事さ!完璧なる純正調で鳴っている和音の心地よさ!4人が同じ言語(ロシア語?)語るフレージングの圧倒的な説得力!これぞカルテットの醍醐味であり、ピアノでもオーケストラでも及ばない音楽の奥義であることがおわかりでしょうか。これぞカルテットのロマネ・コンティでありペトリュスです。この味を覚えていただいて、ここから何かが欠けたものはだいたいが安ワインであると思っていただいて結構でしょう。

クラシック徒然草-庄司紗矢香のヴァイオリン-

2014 FEB 18 19:19:32 pm by 東 賢太郎

 

ユリア・フィッシャー(Julia Fischer)の二刀流 | Sonar Members Club No 

このブログにコメントをいくつか頂戴したのでどうしてかなと思って調べてみると、SMC経由ではなく直接インターネットからこのブログを検索された方だけで1750人おられました。「ユリア・フィッシャー」でググるとwikipediaの次、なんと2番目にそれが出てきて、原語の「Julia Fischer」で検索しても2番目です。こうなるとフィッシャーさん自身の目にもとまるかもしれないし、応援団長みたいな気分です。

彼女のヴァイオリンは大好きなのですが、ただし、あのブログはもともとそういう意図で書いたわけではなくyoutubeを聴いた感想を自分が忘れないようにという程度のものでした。まだ実演を聴いたわけでもないし・・・。そうしたら偶然にグリーグを見つけてしまい、がぜん彼女がもっと好きになってもう一度ヴァイオリンを聴いてしまい・・・という風に出来上がったことを覚えています。面白いことが起こる時代になったものです。

ところで、そこに「ミ」の音の話を書きました。僕のミとシのこだわりはアメリカで1年間チェロを習った時にできました。初めはどうにもうまく取れません。先生のは抜群にきれいなのにどうしてだろうと・・・。それはたぶん自分の楽器がピアノとギターという平均律で転調がお手軽にできる分だけ自然音階の本当の美しさを犠牲にしている楽器だったからだったと解釈しています。平均律は自由な転調を可能にするための人工的音階であり、ドラえもんなら「ラクラク転調マシーン!」なんて名前をつけそうです。本当はチカチカ点滅している蛍光灯が残像現象で目をごまかして「ずっと光っている」ように錯覚させているのと似ています。自然光の方が、当たり前ですが自然であり目に優しいのです。

音楽を「歌う」という表現がよくされますが、僕はピアノで「よく歌っている」という評論家のコメントがどうもピンと来ませんでした。ところがチェロを弾いてみて分かったのです。歌というのはヴィヴラートがかけられるかどうかというよりも、ミとシのようにそのメロディーの背景となっている和声の流れに沿って自在に自然に音のピッチ(高低)を変えられることで生まれるのではないかということを。

もう少し説明が必要でしょう。整数比から求めた自然な音程を純正音程と呼びますが、平均律のミとシは純正音程より高いのです。ところが、例えばですが和音がドミナント⇒トニックと行く場合のシ⇒ドというメロディのシはチェロならある場面では平均律より高めにとってその和音の流れをより強調したり感情をこめたり聴き手に予感させたりという高度な技が発揮できるのです。そうやって「旋律に感情を乗せる」、つまり歌うことができるのです。ここで書いている「歌う」とは、僕の感覚でいえば「和声に深く共感する」もっと露骨にいえば「それにエクスタシーを感じる」ぐらいに書いてしまっていいでしょう。

つまり、この2音を高くとったり低くとったりで、平均律楽器には真似のできない微妙な感情表現、こころの移ろい、切々と訴える人間らしさや恋心のようなものを表現できる。これが「歌」と言われているものの大きな要素となっている感じがするのです。それができるから弦楽器は熱く歌えます。そしてピアノはこの表現手段を決定的に欠いています。だから弦楽器ができる歌というものを単音楽器のピアノができるということはないのです。「良く歌っているピアノ」というのはあたかも奏者がそうしたいという気持ちが明白でそれが聴衆に伝播している状態を第3者が描写したということにすぎず、物理的にはそれがレガートであれ音の連鎖の漸強漸弱であれ、音高(ピッチ)のズレというものには到底かなわないものだと言うしかありません。そのためにピアノ音楽は「ピアニスティック」と後世に呼ばれることになる表現方法を獲得して進化しました。人工音階は人工なりに独自の美があるのであり、それに初めて気がついてそのエッセンス、結晶を抽出した人がショパンだったといっても大きくは間違っていないと思います。

もうひとつ加えますと、モーツァルトは自身がヴァイオリン、ヴィオラの名手でもあり、常に歌手の声を念頭に作曲していたと思われます。ピアニストでもあった彼はもちろん僕が気づいたようなピアノで書く平均律メロディの限界、調性や和声変化に則してメロディの構成音をズラすことができない限界を知っていたはずです。早くにピアノ協奏曲の筆を折ってオペラに集中した理由はここにある気がいたします。これは終生ピアノで思考していたベートーベンとは対照的であり、彼には管弦楽スコアですらピアノ的に発想して書いたような部分があります。ベートーベンがモーツァルトと違って旋律の美しさではなく音楽の構築性を主眼に作曲し、声楽には目立った成果がない理由はそこにあるかもしれません。彼の交響曲のピアノ版はそのままピアノソナタとして聴けますが、モーツァルトのそれは異質なものとして響くのです。

話が飛びましたが、その平均律でミとシを覚えていた僕がサンサーンスの「白鳥」を弾くと、このメロディーがト長調でドーシーミーラーソードー・・・でいきなりシとミがあって、それをちょっと高めにとってしまう感じ。ピアノとはそれで合うんですが、どうもチェロとしては違うんじゃないのという気がだんだんしてきて、これが何度弾いても気にいらないのです。美しくない。ユリア・フィッシャーの「音程の良さ」を上記のブログに書きましたが、彼女の耳の良さはあれだけピアノで平均律の音楽をしていながら、ヴァイオリンを持つと弦楽器世界の音階、音程で鳴らすことができる、そういうことへの賛辞のつもりでした。

そのブログを読み返していて思い出した演奏家がもう一人います。庄司紗矢香さんです。この人のヴァイオリンは非常に不思議で、音があるべき高さでピタッと収まるという意味では音程はあまり良くありません。ところが音楽には説得力があるのです。こういうミとシの取り方が僕はしたかったのかもしれないと思います。ヴァイオリンという楽器の世界の内部で音程、音階が自己完結していて、オーケストラの独奏部として溶け込むというよりも「別個の小宇宙」を作っている感じとでもいいますか、次の和音へ向けて音を取っているので鳴っている時点で合っていないというか・・・感覚の問題でうまい言葉が見つかりませんが。

論より証拠、youtubeで聴いてください。まずチャイコフスキーから。いかがでしょう?素晴らしい演奏です。

ユリアとは全く別の美点が彼女のこの演奏にはあるのです。それはソロ楽器としてのヴァイオリンという楽器がもっている他のどの楽器にもない特質、つまり聴き手の感情をばらばらにかき乱して熱く訴えかける力を強く感じさせる点です。それは例えばG線の激してねばりのある鳴らし方や高音部の陶酔感のある歌、そして汚い音になることに頓着もないボウイングは時に激してごしごしした感じなのですが、それらがぐいぐい心に入ってくる。テミルカーノフも彼女の「濃い演奏」にのせられています。

ユリアは器楽的であり彼女の弾き方で立派なカルテットや合奏団ができますが、庄司はプリマドンナの集まりが合唱団にはならないように、そういうイメージがもてません。この楽器のソロだけが発揮できて合奏にすると消えてしまうもの。そういう魔性があるのです。彼女が優勝したのがパガニーニ・コンクールというのもうなずけます。第2楽章のヴィヴラートのきいた中音部の歌など、けっして僕の好きなタイプではないのですが、ここまで思い切り歌われると魅力に押し切られますね。お茶漬け風味の多い日本人には非常に珍しい、こってり系の強い個性を持った人です。

今度はブラームスです。これもyoutubeにあります。こんなに歌いまくって熱くて骨太のブラームスも珍しい。ここでも音程をはじめとする細部のアーティスティック・インプレッションはユリアより落ちます。しかし彼女は軽率に弾き飛ばして音をはずしている凡庸の奏者と違い、強い共感とパッションが先に立って一音一音に魂がこもっているのが表情から見てとれます。第1楽章カデンツァから終結までの魂が天に上るような恍惚のドラマ!涙が出ました。重音でも歌って歌って粘り気のある音で押しまくります。こぎれいでピッチの合った音を出そうなどという策は一切なく体当たりの真剣勝負。実に見事です。アラン・ギルバートという指揮者もいいですね。北ドイツの頑固者の集まりみたいなオケが心服していい音楽をつけていることも注目です。日本の女の子が彼らを向こうに回して堂々の立ち回り。あっぱれです。何人が弾こうとこれは天下に誇れる最高のブラームスですね。

(こちらもどうぞ)

ブラームス ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品77

 

 

 

 

 

チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番を聴く

2014 FEB 8 22:22:39 pm by 東 賢太郎

2月2日に上海から帰ってくると、翌日は春めいて暖かかった。窓の外は霞がかかっていて多摩川方面はまるで上海のホテルから見た遠望の景色みたいだった。持って帰ってきちゃったねと言っていたら、翌4日、僕の誕生日には一転してみぞれがちらついた。そして日増しに寒さが増して、いよいよ今日は大雪だ。

明日は息子の成人祝賀会の予定だったが、我が家は国分寺崖線の斜面の中腹なので目の前の車道はけっこうな坂だ。もうスキー場の緩斜面になっているだろう。あした親父を迎えに行く車は出せそうにない。ホテルはキャンセルした。我が家の3人の子は生まれた年のシャトー・ムートン・ロートシルトを買ってあって、成人祝賀会で開けて「初飲み」させるしきたりになっている。それも今回で最後になる。

仕方ないので風呂に入った。僕は自宅では3階の天守閣みたいな狭い部屋に住んでいて、唯一のぜいたくが寝室の隣にある風呂だ。高台なので遮るものがなく、2面が窓で冨士山と森が見える。窓を開け放してCDをかけながら湯船で本を読む。これで露天風呂気分になれ、一日の疲れが一気に吹き飛ぶ。それが僕の健康法であり、激務とストレスから回復する漢方薬みたいなものだ。

しかし当初に想定していたのは、雪だ。これがなかなかチャンスがなかった。やっとそれがやって来た。犬みたいに喜び、正月でもないのに朝風呂となった。がんがんに熱くして窓から雪煙が舞い込んできて目が開けられず頭が凍りそうだ。ああロシアみたいだと思った。ロシアは行ったことがない。親父がロシア民謡が好きで赤子の頃から耳元で鳴っていたのが僕のロシアだ。ソチの開会式は思い出のボロディンで始まった。アルファベットの説明でチャイコフスキーは出てきたがストラヴィンスキーもラフマニノフもなし、それなのにディアギレフとバレエ・リュスが出た。へえ、これも縁だと思った。

雪が積もったら聴きたい音楽?それはチャイコフスキー以外にない。交響曲第1番「冬の日の幻想」。最高だ。そういえば「積んどく」だったCDを思い出した。ホロヴィッツがいろいろな指揮者とやったチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のライブ集だ。セル、ワルター、バルビローリがニューヨーク・フィル、スタインバーグがハリウッド・ボウルOと。それを風呂で全部聴いた。ラジカセみたいな安物のシステムだが風呂なので意外にいい音がする。録音が古いし雑音も大きいのでそれでちょうどいい。

ホロヴィッツこういうコンセプトのアルバムは大量消費フォーマットであるCDでなければ想像もできなかった。指揮者が変わってもホロヴィッツという個性が些かも霞むわけでなく、どれを聴いても同じマジックショーを見て同じように感心するという体のものだ。僕は彼に向いているラフマニノフの3番を聴こうとこのCDセットを買ったわけだった。ところが雪になってしまうと、どうしてもチャイコフスキーだ。どうしても。

ホルンが導入するこの曲の冒頭はクラシックを知らない人でもCMなんかでたいてい知っている。全クラシック音楽中でも最も有名なテーマのひとつだ。しかしこれが「序奏部」であることは詳しい人しか知らないだろう。だから2度と出てこないのだ。第1主題はこれである。

チャイコ1番

第2主題はこれ。僕はこれを弾くのが大好きだ。

2チャイコ1番

3部形式の第2の中間部にこれが弦に出る。

22チャイコ1番これが子供の頃きいていたロシア民謡の懐かしさいっぱいだ。このテーマは展開部以降で活躍する。

第1楽章は一応ソナタ形式になってはいるが序奏のインパクトが強すぎてどうも異形という感じが抜けきれない。最初に楽譜を見たニコライ・ルビンシテインが「不細工」と評したのは同感だ。この形、僕は妙な例えで恐縮だが子供のころ採った目ん玉だけでかいトンボ「オニヤンマ」を思い出す。この不格好な第1楽章の大きさは作品36である交響曲第4番と似ているのだ。そのことは同曲の稿で書きたい。

上掲CDのコメント:

ブルーノ・ワルター指揮

音は悪い。一部欠落有。指揮者がそれなりにじゃじゃ馬のピアニストを引っ張っていて実力を垣間見せる。それが叙情的な部分に活きているが、馬の方も黙っていない。聴衆はホロヴィッツ目当てでそれを知ってかワルターが最後は迎合してしまい疾走する。

ジョン・バルビローリ指揮

NYOのは全部同じカーネギーホールだがこれが音がいい。ピアノも弦も質感が出ている。しかし針の雑音が最悪で惜しい。弦にポルタメントがかかりロマンチックにやりたい指揮者と剛腕を鳴らしたいピアニストとがまったくの同床異夢なのが面白い。終楽章コーダはピアニストがテンパってしまい待ちきれない。

ウイリアム・スタインバーグ指揮

スタインバーグはマーラー1番をサンフランシスコで聴いたが、小さな動きで重くねばりのある音を引きだすのに長けていた。ここもそういう音でピアノのパワーに対抗している。野外のハリウッド・ボウルでホロヴィッツはショーマンシップ全開、コーダはもうスポーツマンシップの領域に達していてオケとともに燃えて頂点に上り詰める。

ジョージ・セル指揮

これは名演だ。冒頭から速めのインテンポである。トスカニーニ盤もそうだが、相手は義父でホロヴィッツが猫をかぶっている感じがする。ここでは、そう来るかい?そんならそのテンポでやったろーじゃねえかという感じだ。各所で明らかに性格が合わないお二人だが、だからこその火花散る凄まじい演奏。武蔵と小次郎、野球なら往年の名勝負、野茂vs清原である。終楽章コーダの凄まじさは実演なら失神者が出そうだ。音もしっかりしており、これは一聴の価値がある。

Youtubeから全曲を一つ。1987年生まれの中国人、ユジャ・ワンのフィンランドでのライブ。この子は若手で最も注目している一人だ。まずピアノを弾く姿勢が美しい。見ただけでこういう音が出るだろうという速さ、しなやかさ、切れ味。しかしそれだけが武器かと思うとそうではない。初めはエンジンがかかっていない第1楽章の第2主題から集中力が増してテンポがおちて瞑想ともいえる叙情性が発揮され、そこから彼女が舞台を支配し始める。第2楽章は幻想曲のよう。しかし中間部のとても難しいパッセージはお手の物という軽やかさで聴衆の息を飲ませる。指揮者は健闘しているが彼女の速いパッセージの切り方、語法にオケがついて行けない。終楽章コーダは彼女のギリギリの遅いテンポにオケが持ちきれず、あり得ない個所でアンサンブルが乱れてしまうほどピアノが歌う。クラシックの本場で東洋人がやりたい放題なのだ。あっぱれである。日本人もうまい人はいくらもいるが、こういう空気を読まない、いやむしろ空気を支配してしまう人はいない。だからドイツ・グラモフォンが契約しようという人がいないのだ。音楽だけの話ではない。なぜ日本人がグローバルになれないか、こんなところにも理由がくっきりと見て取れる。おもてなしも結構だが、これは民族性なのか。実演を聴いていないのでわからないが大きな音も出ていると思われ、もう少し構えの大きな音楽ができるようになればメジャー級だ。しかも「4番の打てるショート」の資質。間違いなく大器と思う。

 

以下、my favorite CDsである。

マルタ・アルゲリッチ / キリル・コンドラシン / バイエルン放送交響楽団

2641980年ミュンヘンでのライブ録音。アルゲリッチはその10年前にデュトワと、後年にアバドとのスタジオ録音もあるがややおとなしい。彼女はライブで燃える人だ。ここでは彼女全盛期の技が冴えわたっているが、ホロヴィッツのように業師には聞こえず、若鮎のような生命力の魅力は抗しがたく、叙情的な部分への感情移入も表面的ではない。終楽章の入りのミスタッチを除けばほぼ完ぺきなピアノ演奏である。同じく特筆したいのがコンドラシンの指揮で、この曲の伴奏で一つ挙げろといわれれば僕はこれを採る。

 

デニス・マツエフ / リコ・サッカーニ / ブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団

サッカーニ2003年に出たBPOのライブ録音シリーズで、チャイコフスキーPC全曲、ラフマニノフPC3番が入った2枚組CDである。これはi-tuneで購入できる。非常に素晴らしい演奏で音もよく、万人にお薦めできる。とにかくマツエフのピアノが鳴りきっていて豪快そのものだ。ホロヴィッツを聴いた後でも負けていない。この曲の第1楽章は譜面を見ただけで気が遠くなるほど難しいがどこ吹く風だ。サッカーニの伴奏も快演でツボを心得たプロの指揮だ。彼の指揮でこのCDを含むBPOライブシリーズが出ているが、僕はバラ売りで全部買った。それに値する。

 

スヴャトスラフ・リヒテル / ヘルベルト・フォン・カラヤン / ウィーン交響楽団

41Q3BDS118L._SL500_AA300_重戦車のように重いオケと轟音を立てる重量級のピアノの対決だ。第1楽章第2主題以降のテンポを落としたオケの粘りのある表情はやや違和感があるが、リヒテルのピアノの弱音の美しさにそれを忘れる。技術は同等レベルだが彼とホロヴィッツがいかに違うテンペラメントの音楽家かよくわかる。ライブでは彼はロウソクの明かりで演奏した。プロコフィエフのソナタの青白い閃光が忘れられない。第2楽章中間部の軽くて速い音など名人芸の極致である。カラヤンの指揮はわざとらしくてまったく共感しないが、リヒテルの弱音と叙情を聴いていただきたいCDである。

 

ヴラディミール・アシュケナージ / ロリン・マゼール/ ロンドン交響楽団

41CFZQH20AL._SL500_AA300_若きアシュケナージが63年に録音。僕にとって高2の時に買って曲を覚えた懐かしの演奏(LP)である。学園祭でこの曲の冒頭を聴いて衝撃を受け、すぐそれを買ったのだった。本人は気に入っていないとどこかで読んだ気がするが、何の不足があるんだろう。特に第1楽章のリリカルな表情など若くないと出せない魅力で、これを書いたチャイコフスキーも若かったと感じさせてくれる。LPのB面にあったラフマニノフ(コンドラシン指揮)の方にだんだん気が行ってしまったのを覚えているが、この名曲の原体験の記憶は演奏の隅々まで残っていて、今もときどき引っぱり出して旧友と会う気持ちで聴いている。

 

チャイコフスキー交響曲第5番ホ短調 作品64 

2014 JAN 26 12:12:02 pm by 東 賢太郎

この曲の愛好家は数知れない。僕も大好きで疲れた時にこそ効き目があるありがたい曲だ。仕事でぐったり疲れても風呂へ入ってスコッチ片手にこれを聴けば一気に癒しと元気がもらえる。だから今日なんか最高だ。「24時間戦えますか」というCMがあったがリゲイン並みの効果は保証つきだ。

冒頭のクラリネットはしかし暗い。これは2本をユニゾンで吹かせているからで、この音域でのpからfまで及ぶクラリネットのユニゾン!は非常にユニークな発想だ。弱音の立ち上げが得意の楽器とはいえ、いきなりそのピアノで交響曲を開始するなんて、作曲家にとっても実際に音を鳴らすまでは実験だったろう。

5番チャイコ

誰もがクラリネットに聞こえるが、何ともいえない独特のエッジと微妙な「うなり」を含んだ野太さが混在した音がしていて異質にも聞こえる。この主題は「運命主題」とされ第4楽章のテーマになる大事なものなのでまずここで強い印象を与えておこうという工夫である。思えばソナタの提示部を繰り返すのも同じ目的があるからだが、それを音色効果で、しかもソロでもなくファゴットを重ねるのでもなく、クラリネットの音色を踏み出すことなく「サブリミナル」(潜在意識下)に聴き手の記憶に刷りこもうという部分に、僕はチャイコフスキーの冴えわたった理性と異様に鋭敏な皮膚感覚のようなものを感じる。

これが鳴り出すと我々はもう5番ワールドに引き込まれてしまうのだ。

5番ワールド。まさにこの曲は一個の世界をもっている。4番とも悲愴とも違う独特の完結した世界で、こういう曲をチャイコフスキーは後にも先にも書かなかった。彼自身5番には冷淡で批判的な態度を示した。5番はドイツ流の交響曲の流儀に添っていて、そこが民族的、ロシア的であることを4番まで通してきた彼の流儀と違うことへの言いわけ、ポーズではなかったか。結局どこでもこの曲は喝采を浴びてしまい、彼もネガティブな評価を撤回している。そりゃあそうだろう。この曲ほど彼の6曲の交響曲のうちで「シンフォニー」という既成概念にぴったりで違和感がなく、上手に演奏された時の感動、快感たらないんだから。

チャイコフスキーはベルリオーズの音楽に批判的だった。バス(低音声部)がへたくそだという意味のことを言った。「へた」というより「ない」と言ったほうがいいように思うが幻想交響曲を称賛しているシューマンやリストはそれを指摘していない。ベルリオーズはピアノが弾けなかったのだ。だから幻想交響曲は天才的な音楽ではあるがハイドン、モーツァルト、べートーベンのドイツ音楽的脈絡から楽譜を眺めると音響体としてはギターで作ったような空疎な構造に見える。明確な対位法的バスは存在しない。チャイコフスキーがそれを批判したのが彼の作曲法上のバスへのこだわりを逆に浮き彫りにしている。

5番はソリッドなバス声部上に名旋律を配置した構築物としてまたとない見事な出来栄えの音楽だ。半音階で上下してゆくコントラバスやトロンボーン、チューバのパート、あたかもまずそれが発想にあって、それに上声部がついてきたかのようなコードプログレッションの流れ。悲愴も一部がそうだが、そういう「バス声部進行の支配力」を全曲にわたって強く感じるのが5番の特徴だ。それを一緒に歌ってみたらわかる。いかにそれが滑らかで小さな動きなのに世界を睥睨できるか!その魅力はかけがえがなく、僕の「リゲイン効果」の源だろう。これはどうしても弦楽器が必要な性質のものだ。4番、6番はピアノ版でも面白いが5番のそれは楽しめない。

5番のライブはいくつか印象に残るものを聴いた。まずは以前に  ユージン・オーマンディーの右手に書いた演奏会。これはその時に楽屋でオーマンディーといろいろ話した別れ際にいただいたサインだ。

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もう好々爺だったが演奏はしっかりしていて体の芯から感動した。94年にフランクフルトできいたリッカルド・ムーティーとウィーンフィルの演奏は最高だった。それと双璧が97年チューリヒのヴァレリー・ゲルギエフとキロフ響のもの。84年ロンドンでのリッカルド・シャイとロイヤルフィルは期待ほどでなかった。02年サントリーホールのマリス・ヤンソンスとピッツバーグ響、日本人は06年広上淳一と読響がとても良かった。彼は才能があると思う。

以下は僕の愛聴盤である。リッカルド・シャイー/ウィーン・フィルは以前に書いたのでこちらをご覧下さい 勝手流ウィーン・フィル考(4)

 

 

ベルナルト・ハイティンク / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

ハイティンクこれは黒光りする名演である。ドイツ流に書かれた5番をドイツ流の正攻法で直球勝負し、名オーケストラががっちりと受け止めている。名ホールのアコースティックも逸品でここのいい席で聴くと本当にこういう音がするのだ。終楽章のコーダにさしかかる運命主題の行進はやはりドイツ風名演であるルドルフ・ケンぺも素晴らしいが、ここのハイティンクは王道だ。シューマンの3番で絶賛したことがこの5番も当てはまる。僕はハイティンクを欧州で何度も聴いたが、何も加えず何も引かずだ。5番を楽しむのにこれ以上の何が必要なのだろう。僕には理解できないことだが、日本のクラシックファンは演奏に「とんがったところ」を探す人が非常に多いように思う。音楽マニアではなくレコードマニアとでもいうか。5番を58種類も持っているお前は何だと言われそうだが、レコード会社のいい客であったことは認めても僕は無用にとんがった演奏など一切認めないのはこれまで書いてきたことでご理解賜れると信じる。自分で演奏したら、自分でシンセサイザーで5番を録音したらこうしたいというスコア解釈、それに近い演奏を探す長旅の末に58枚も買ってしまっている。こういうハイティンクのような解釈に当たれば、他のはもう不要であるが、それを集めてしまった僕の人生の歩みの記録としてCD棚に飾ってあるようなものだ。この5番、レコードマニアにはもの足りないだろうが、当たり前の上質の音楽をわかる人は何も言わなくてもわかる。

 

エフゲニ・ムラヴィンスキー / レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団

ムラヴィンスキーすごい音だ。重量感があり、倍音が豊かでカラフル、オーボエのエッジの個性にはっとする。全楽器をあたかも一人が弾いている風だ。指揮者が変幻自在にオケ全員の「呼吸」をコントロールして初めて発生するかのような強弱法。フレージングのニュアンスや微細な音量の漸増漸減まで全楽員が「シンクロナイズ」してこの滑らかさで達成するなど、他で聴くことはあたわぬ秘儀の領域である。ジョージ・セルやフリッツ・ライナーの演奏もオーケストラの縦線の合い方は尋常でない水準に至っているが、ムラヴィンスキーという指揮者のそれはそのどちらとも違う。例えは悪いがヒトラーや共産圏の軍の行進すら思い起こす究極のシンクロ度合いであり、音楽的要求の域を超えてそのシンクロそのものが鑑賞の対象とさえ意識されている感じがする。オーケストラの合奏はともあれシンクロナイズされる必要はあるが、それがこの水準まで至るとそれ自体が一個の美学であり、フルトヴェングラーの指揮とは対極的な次元で高度な演奏というものがあるのだということを教えてくれる。それだけではない。無理しないですっと出ているフォルテの驚異、第1楽章コーダ伴奏金管のスタッカートなど、この演奏を半端でないものにしている「かくし味」がそこかしこにある。第2楽章ホルンソロは独特のヴィヴラートのあるロシア的音響だ。木管の対旋律やトランペットも浮き出てにぎやかであり、普通のオケがこんなことをしたら軽薄になる。それが独奏としてあまりに音楽性満点なので魅力となってしまう。第3楽章は速めですいすい進むがオケの腰が重いので速さを感じず、ホルンの対旋律が目立つなどドイツ的なバランスとは明らかに違う。第4楽章、ブラスセクションだけでの純正調のハモリが聞こえるのに驚く。弦の疾走と歌の見事さに唖然。弦・木管・金管がグループごとに音量を漸増漸弱で協奏する!これは指揮のヴィルトゥオーゾだ。各奏者のアインザッツのタイミングと入りのピッチの完璧さ。最後の4つの音がテンポ落とさず決然と終わった後のすごい充実感!この演奏は感嘆符の連続である。

 

ジークフリート・クルツ / ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

クルツ弦が最高に素晴らしい。ドレスデンで聴いた音だ。指揮者は作曲家でもありハイティンクをさらにドイツ流にした演奏で5番だからこのスタイルが活きるというかっちりしたもの。この曲に何を求めるかによって評価は分かれるが僕は好きだ。冒頭のクラリネットはちゃんと2本に聴こえ、化粧なし。質実剛健、硬派そのものであって、地味と評してしまえばそれまでだが、こういうものを中庸などと意味不明の言葉で切り捨てていた昭和の風潮は見直すべきである。このオケの管の上手さも特筆もので第3楽章の中間部、やや速めで木管がスケルツォ風に協奏する部分など見事である。見栄を切ったりテンポで小細工をしたりが一切なく実にそっけなく進む終楽章も音楽の充実感にあふれる。玄人向けだが一聴に値する。

 

林克昌(Kek-Tjiang Lim) / 群馬交響楽団

写真廃盤を挙げて申しわけないが、非常に素晴らしい演奏なのでどうしても落とせない。81年群馬で録音。林克昌(ケク-チャン・リム)はこれ以外後にも先にも名を聞いたことがない。これが世に出たころは鹿鳴館以来の西洋礼賛で凝り固まり、欧米人だってよれよれのおじいちゃんでない限り認められなかった。無名の指揮者は爆演をしないとうけない日本クラシック界でこのインドネシア生まれの中国人指揮者によるLPが広く評価される素地はなかったろう。しかし良いものは良いのである。僕はこれを5番の名演リストの最右翼の一枚に推挙するのに何のためらいも感じない。虚飾無く正攻法で音楽の本質だけに奉仕した演奏で、ゆったりしたテンポでポルタメントをかけてロマンティックに歌うが品格を損なわず、テンポの動きにオケが共感しているのがわかる。当時の群響の技術はもう一つだが非常に健闘しておりライブのような熱さのある終楽章の素晴らしさはシャイー・ウィーンフィル盤に唯一匹敵するだろう。

 

追加しましょう(16年1月11日~)

 

ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

804悲愴と同じく71年のEMI盤がカラヤンの最右翼と思います。5番こそドイツ流アプローチが正攻法となり得る交響曲であり、この頃に破竹の勢いであったこのコンビを凌駕できる者はもはやなしと言ってしまいたい出来。冒頭クラリネットが2本に聴こえる(!)などカラヤンがまだ音響研磨より騎虎の勢いで突っ走れる年齢だったこその快演中の快演として永遠に記憶されるだろう。悲愴の稿と同じこと。甘ったるいポルタメントだなんだとあるが、人生若かりし頃はそんなもの。あちらでは慟哭だった最期の終結がこちらでは究極の歓喜とカタルシスの解放になる。これをライブで聴いたらしばらく立ち上がれないでしょうね。5番演奏史に輝く金字塔と記すにまったくためらいはございません。

                                    
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

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遅い。暗闇から立ち上がるような第1楽章。夢うつつのような第2楽章も弦が起伏をもって歌いこみ、トランペットの冒頭主題再現はそれに輪をかけてゆっくり。楽章ごと一篇の交響詩のようでユニークです。終楽章も木管になるともちこたえるかどうかぎりぎりの遅いテンポで始まり、要するに第1楽章冒頭主題に思い入れたっぷりで、後続楽章で何度も出てくるが全部がきわだって遅いという私小説型解釈なのです。それが終楽章中盤から徐々に加速しつつ熱していくという設計はある意味素人的でわかりやすく、人情芝居の風情があります。それに酔える人にとっては大名演となりましょう。僕はオーマンディー盤で5番覚えたのころは最後の4発が遅くなるだけで拒否反応があり、ところが何年かするとそれが許せるようになり、一時はこのロストロ盤が好きになり、そして今はケンペのようなドイツ型に回帰した。我が5番史を振り返るうえで欠かせない演奏です。

 

ヤッシャ・ホーレンシュタイン /  ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

CL-0910160301968年録音だからクレンペラーの在任中の浮気ですね。ウクライナ出身のユダヤ系指揮者ホーレンシュタイン(1898-1973)はフルトヴェングラーの弟子で、師匠がバルトークのピアノ協奏曲第1番を作曲家と初演する際にオケの稽古をつけており、日本国憲法第24条の草案を書いたベアテ・シロタ・ゴードンは彼の姪です。アンサンブルはどこか粗く、個性あふれるテンポ変化に手さぐりでついていく感じ。練習不足のオケをカリスマ指揮者が振っている風情が大変面白い。

 

エンリケ・バティス /  メキシコ国立交響楽団

なるほどラテン系のチャイコフスキーはこうなのか。第1楽章からいきなり速く粘り気はゼロ。新幹線なみの超高速ぶっとばしに絶句するしかない。ティオテワカン遺跡のカラッと乾いてちょっと埃っぽい空気。ワルツも速い、とても踊れないぜこれ。終楽章は普通のテンポで始まるが、重目なのはそこだけだ。ティンパニのトレモロから一体何が起きたんだという快速となり、興奮を煽られる間もなく置いて行かれてしまう感じだ。ここまでやられると実に潔い。日本人指揮者の教科書的にそれなりにそれっぽいのなんか、それならロシア人かドイツ人のを聴くよということになってしまう。過ぎたるは及ばざるがごとしと孔子はいうが、ここまで過ぎれば及んでしまうのです。

 

ルドルフ・アルバート / チェント・ソリ管弦楽団

752このオケは録音契約上の仮想団体でパリ音楽院O、ラムルーOなどの団員から成るらしい(事実不祥)。スピード感にあふれエッジが効いて句読点のはっきりした指揮でチャイコフスキーのどろどろを洗い流してすっきり味にしたという風情の演奏。第2楽章のホルン、第3楽章のバスーンなどフレンチ風ロシア料理だが、両者は食の世界でも意外に違和感がないものだ。伴奏に見え隠れするフルート、オーボエの美しさは珍しくも妙なる味。終楽章はあらぬところでシンバルが鳴ったりびっくりもするが、珍味だ。

 

 

 

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2013 AUG 1 18:18:13 pm by 東 賢太郎

僕の拍手が作曲家90、演奏家10という意味はもうすこし説明が要るでしょう。これは演奏家の価値について云々しているわけでもなければ、感動的な演奏会を聴かせてくれたパフォーマーの才能や努力にあえて少ない敬意しか払わないということを言っているのでもありません。作品が演奏家なしに聴かれることはないように、演奏家も作品の力なしに感動を与えることはできません。それはいかにも当たり前のことですが、作品のクオリティと演奏家の演奏能力がここで問題にするようなレベルに達しているものという前提において、いよいよ最後に、その両者の関わり具合というものが聴衆に与える感動の大小というものを決定づけているのだという僕の経験を述べさせていただく必要があります。

神童といわれる子がリストを弾くリサイタルがあったとして、それを大家の弾くシューマンのそれと同じ興味を持って僕が会場に赴くことは100%ありません。まず、僕にとっては、リストは誰がどれを弾こうと食指の動く相手ではありません。それがリヒテルだろうと。だから感動の総量はおのずと知れていて、「90部分が満点」であっても僕は満足して帰りの電車に乗らないだろうことを自分で知っています。次にそれを小学生の子が完璧に再現したからといってリヒテルに勝るはずもないでしょう。あるとすればこんな子がという意外性だけです。でもそれは、僕の中においてはサーカスで犬が数字を当てましたというのと何もかわらない。では、子供がシューマンを弾くというなら? 聴いてみるかもしれませんが、そしてそれがリヒテル並のものなら、それは評価しないはずがありません。ですがそれは「90が満点だ」ということです。鐘が十全に鳴ったということ。突き手の年齢に反比例して鳴りが良くなる、という風に聞こえるようにはあいにく僕の耳はできていないのです。眼が不自由な辻井 伸行さんのピアノ。実演に接したのは1度だけですが、それは純度の高いクリスタルのようなタッチと明敏なリズム感で非常に印象に残っている見事なラフマニノフの協奏曲2番でした。彼が身体的ハンディキャップを圧(お)して完璧なテクニックを披歴しているという観点から幾分でもその演奏を高く評価するなら、それは真の芸術家に対して大変に失礼なことです。そういう彼の音楽創造プロセスの因果関係などとは一切かかわらず、彼の生み出した音は非常に美しいと僕は思いました。

演奏会でXの感動をいただいたとして、そこに演奏家のプレゼンスがX/10ぐらいしか感じられないケースというのが、実はあまりありません。弾き手の存在が神のようにほぼ消えていて、鳴っているのはベートーベンやモーツァルトそのもの、その純粋無垢な音楽美のエッセンスだけを感じさせてくれるというケースです。僕はこれが音楽演奏というだけではなく、それを必然的に内包している音楽創造というものの理想ではないかと信じています。井上直幸さんのモーツァルトは、おそらくそういう風に聴き手に届けることを目的として弾かれています。僕にはそう聞こえるのです。彼がリストの「超絶技巧」やラフマニノフの3番を弾いたかどうかは知りません。きっと弾けたのだろうけれど、だからといってそういう曲を彼がモーツァルトと同じ姿勢で弾いたということは到底考えもできないことです。彼は、僕の想像する限り、X/10を良しとする演奏家です。だからモーツァルトのような音楽を演奏してXを最大化することができるのです。逆に見れば、彼はモーツァルトの天才の深奥まであまねく見抜いているという知性と感性のおかげで、10の力で100の感動をそこから引き出しているともいえるのです。これが名人の技でなくて何でしょう。一方で、そういう性質の音楽というのは、「彼の存在」がX/8になりX/6と大きくなるにつれて、Xは反対にどんどん値を低くする関係にあると僕は感じています。派手なアクションで汗だくになって飛び跳ねる指揮者の運命交響曲が別にだから素晴らしいわけでも何でもないように。マルタ・アルゲリッチがモーツァルトを弾くのはこわいと言ったのは、何らの技術的な問題をはらんだことであろうはずもなく、彼女の演奏家としての信条や持ち前のスタイルがひょっとするとXを逓減させてしまうのではないかということを、僕とは全く異なった角度や論理や本能から彼女が感知したからではないかと思っています。

僕がリストやパガニーニの類の音楽に関心を抱いた経験がないのは、仮に井上さんのような真の芸術家が弾いたとしても「彼」がX/10でとどまっていることがどうしたってできない、要するに、曲の方がそういう風に書かれていないからです。リスト自身が公衆の前で目立つことを目的として書かれた曲だからX/2ぐらいがいいところ(最適解)であって、がんばってX/10でやってみたらXを減らすだけ、つまり聴衆を退屈させるだけの曲なのです。そして、なんとか最適解を得たところで、僕には何の感興も引き起こしません。自分はそうではないという方がたくさんおられるはずですし、そういう方はここでこのブログを閉じていただきたいのですが、僕にとっては大半のイタリアオペラのアリアも同類であります。X/1.2ぐらいに書かれているのもあるように思う。へたすると初演した歌手でないともうだめなんじゃないかというぐらいの数値をもった曲、例えばユーミンやらカレン・カーペンターの曲がきっとそんなものだろうと推察できるレベルまで特定の演奏家の声が作曲の前提だったんじゃないかと見えるようなのもあります。実はモーツァルトもまったくもってそうやって、服を仕立てるように特定の歌手に合わせたアリアを書いたのですが、彼の声楽書法の非常に器楽的な側面が救ったのと、何よりいかように何をどう仕立てたとして結果が紋切型に終わらなかったという、彼の天才を説明するに欠くことのできない顕著な特性があいまって、時代を超えてユニバーサルな音楽となっています。今日の魔笛は良かったね、ところであのパミーナは何という歌手だったっけ?ということがありうる。X/10が成り立つのです。ヴェルディやドニゼッティのプリマでそういうことはあまり想定できないように思います。

では、その日の演奏会の感動のほぼすべてを演奏家が占めてしまう、つまりX/1に限りなく近いようなことは起こりえないのでしょうか?僕はそういう経験は2度だけしかしていませんが、あり得ます。ただしきわめて稀なことであり、いくら熱心なコンサートゴーアーであってももし人生で一度でもめぐり会えば幸運とするような、ゴルフならホールインワンぐらいの頻度のことかもしれません。ひとつは ヴラド・ペルルミュテールがウィグモア・ホールで開いたリサイタル。これはいずれどこかでご紹介します。ここで書くのはもうひとつの方、ロイヤル・フェスティバルホールでエミール・ギレリスがチャイコフスキーの協奏曲第1番を弾いたときのことです。このとき、僕は自分がいったい誰のためにapplause(拍手)を送っているのかという馬鹿馬鹿しいぐらい酔狂なことを初めて真剣に自覚したという意味でも、忘れられない重要な経験になっているのです。

1984年10月14日。それはチャイコフスキーの第1楽章が開始して間もなくの速いパッセージにさしかかって、かつて鋼鉄と評されたギレリスの指がもうほとんど回らなくなっているという悲しい現実にロンドンの聴衆が息をのんだ日でした。音楽が進むにつれ、誰よりも、巨匠自身が深く傷ついているであろうことを聴衆がとても恐れている、そういう空気がだんだんと会場そこかしこで醸成されてきているように感じられました。終楽章の最後の一音がすべてをかき消さんとばかりに堂々と鳴り終わるや万雷の拍手とブラヴォーがロイヤル・フェスティバル・ホールを包みこんだのです。老ピアニストの健闘をいたわり、目の前の演奏の是非ではなく、彼のこれまでの輝かしい栄光を満場の一致によるapplauseで一心不乱に称えたのです。その時です。立ち上がって会場に一礼したギレリスは両手で拍手を制し、もう一度ゆっくりとピアノに向かって、静かに、何かに祈るように独奏を始めました。信じられないぐらいとても静かに。そして、その時に彼が弾いた曲を、僕はどういうわけか覚えていないのです。そのときのあまりに静謐な情景、指揮者ベルグルンドもオーケストラも聴衆もすべてが凍りついた人形みたいに微動だにせず、耳をそばだてて息をひそめている中で、どこからともなく天上の調べが降りそそいでくるかのような神々しい情景に我々は飲みこまれていたのです。

僕はギレリスのチャイコフスキーの協奏曲1番のレコードを愛聴して生きてきた人間のひとりです。それは彼の十八番でもあり、最も輝かしくドラマティックな演奏として僕のレコード棚に今もひっそりとあります。ベートーベンのハンマークラヴィールソナタ、ブラームスの協奏曲やお嬢さんと弾いたあの優しいモーツァルトだって。アルトゥール・ルービンシュタインに「彼がアメリカに来るなら、私は荷物をまとめて逃げ出す」と言わしめた鋼鉄のタッチ。あの日に涙をこらえながら力の限り送った僕の拍手というものは、長年かけて彼からいただいてきたすべての音楽の喜びに対してのまぎれもない僕の精一杯の感謝、返礼でした。それを届ける機会が得られたなんて、何と幸せなことだったろう。そして、おそらく、あの最後にどこからとなくひそかにおごそかに響いてきた音楽には、もはやそれを奏でている大ピアニストの己の投影は微塵もなくて、彼自身の人生をかけた音楽への愛情と感謝が音となって流れ出ていたものにちがいないと信じているのです。あれはシューベルトやシューマンの音楽だったのだろうか?いや、そうではなく、誰の作品でもなくて、天上の音楽だったのに相違ないと。

 

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

勝手流ウィーン・フィル考(4)

2013 MAY 6 0:00:52 am by 東 賢太郎

 

とりあえず思いつく僕のウィーン・フィルCDのベスト3です。

 

第1位 マーラー「大地の歌」 ブルーノ・ワルター指揮、キャスリーン・フェリアー(アルト) (52年)

097マーラー嫌いの僕ですが、この曲は時々聴いてます。しかしフェリアーの細かいヴィヴラートは実はあまり好みではなく、その分同じワルターの9番に気があったのですが花崎さんが挙げられたのでこれにしましょう。ウィーン・フィルの音というとこれが原点に近いからです。モノラルながら彫の深い良い音でオケの立体感もあります。それにしてもマーラーの愛弟子で当曲の初演者でもあるワルターの指揮は見事で「告別」(第6楽章)の最後は何度聴いても心を打たれます。47年にフェリアーがワルターと初めてこれを演じた時、そこに来て感動のあまり泣いてしまい、最後の”ewig”をついに歌えませんでした。謝罪されたワルターは「大丈夫ですよ。でも、もしあなたぐらいすばらしい芸術家ばっかりだったらみんな大泣きで大変だった」と慰めたそうです。

第2位 チャイコフスキー交響曲第5番 リッカルド・シャイー指揮

yamano_41080703321980年、イタリアの俊英で弱冠27歳(!)の若造(失礼)だったシャイーのこれがデビュー盤でした。これを初めて聴いたときの電気が走ったような感動はまだ覚えています。テンポは伸縮自在、強弱は外連(けれん)を尽くし、主題はくっきり。ちまちました交通整理などどこ吹く風。欲しい音はエンジン全開で引き出す。歌う。若さの勝利です。おじさんには恥ずかしくてできません。それに興味を示したのか、最初は素っ気ないネコのウィーン・フィルがだんだん面白がって本気になって・・・そういう感じなのです。白眉は第4楽章でしょう。音を割るホルン、むき出しのトランペット、綺麗ごとでなく吠えるトロンボーン、ガツンとくるティンパニ、木管が原色の音丸出しでノッているのが分かり、弦セクションは体をゆすっている(はず)。ネコが完全に本気になって疾走するコーダのものすごさ。これをチャイコ5番ベスト3に入れるのに躊躇は全くございません。こんなウィーン・フィルをライブで聴けたらなあ!

第3位 ラヴェル バレエ音楽「ダフニスとクロエ」(全曲) ジェームズ・レヴァイン指揮

51NxLnYtHPL__SL500_AA300_アメリカ人のウィーン・フィルによるフランス音楽。85年録音で、この頃から非ドイツ系レパートリーが増えていましたね。ベームのもっさりした火の鳥なんかのイメージがあり期待せずに買ったCDですが、何故か(?)とても上手い。こんなヴィルトゥオーゾ・オーケストラだったっけと驚きました。ただ、モントゥー、クリュイタンス、マルティノン、デュトワ、ブーレーズなどの色香や洗練とは味わいが異なり、ラヴェルのイディオムを弾き(吹き)慣れていないオボコい感じがあるのが好きでたまに聴いています。遠近感、合唱の扱い、メリハリは舞台を感じさせ、オペラ指揮者と歌劇場管弦楽団の相性を感じます。それでも弦の暖かい音色や木管の色彩はまぎれもなくウィーン・フィル。ぞくぞくするほど美しい。デリケートな部分ではフランスのオケにはない官能性を感じますが、どこか貴族的でもあります。たまに違った遊びをやるとネコは喜ぶのです。

 

以上ベスト3ですが、あれを忘れてた、こっちもいいぞというのがまだまだあります。花崎さん、ぜひ続編もやりましょう。

 

勝手流ウィーン・フィル考(1)

ラヴェル「ダフニスとクロエ」の聴き比べ

 

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勝手流ウィーン・フィル考(3)

2013 MAY 5 11:11:10 am by 東 賢太郎

最初にウィーン・フィルの実演を聴いたのがいつどこで何だったか、どうも記憶にありません。

1676305416_4da46769a0オペラとしては83年夏にウィーン国立歌劇場でホルスト・シュタイン指揮の「パルシファル」でした。当時、曲を知らなくてあまり感動はありません。85年にロンドンでマゼールのブラームス1番と火の鳥、オケとしてはこれが最初だったかもしれません。僕は80年代以降のマゼールはあんまり好きじゃなく、これもつまらなかったですね。94年フランクフルトでのマゼールのメンデルスゾーン4番も印象が残っていません。92年にはシノーポリと来日してマーラー1番とドン・ファン。NHKホールの音もさえず、ドン・ファンのオーボエ部分の異様な遅さなどオケのいじめにでもあってるんじゃないかと思うほど生気がなく、誰がやってもブラボーであるマーラーも珍しい冷めた演奏でした。この1番、2年後にフランクフルトでマゼール指揮でも聴きましたが、これもだめ。このオケ、巨人が嫌いなんじゃないかと本気で思いました。

1124484793257o真価を感じたのは、ニューイヤーコンサート以外では以前書いたロンドンでのプレヴィンのハイドン。それから94年にフランクフルトでのムーティのベートーベン8番とチャイコフスキー5番。83年のザルツブルグ音楽祭でのカラヤンのばらの騎士、やはり96年ザルツブルグ音楽祭でのマゼールのダフニスとクロエとベートーベンのヴァイオリン協奏曲、というところでしょうか。確かハイドンのアンコールで、打楽器の人が嬉しそうに小太鼓を運び込んでやったJ・シュトラウスのワルツ、何だったかは忘れましたが、これが自家薬篭中という風情でノリまくり大変良かったのも印象にあります。

以上のようなものですから、どうもこのオケの実演ということでは僕は割とハズレが多く、ネコが真剣にならないイメージの方が強いのです。ただ、ハズレの時でもこのオケの音色美はいつも堪能していますから因果なものです。それだけで普通の客は満足だろうと高をくくられても仕方ないぐらい魅力的な音なのですから、ネコ型にもなろうというものです。

このオケを味わうならウィーンへ行って、ムジークフェラインで聴かないとというのが僕の今の結論です。ネコが遊びを選ぶように彼らはハコを選ぶのです。NHKホールやサントリーホールの音響で彼らが本気になるとは到底思えません。ベームの時(75年)は聴衆の安保闘争なみの異常な熱気で目覚めましたがあれは例外でしょう。ニューヨークでも、格段にひどい音のリンカーン・センター(エイブリー・フィッシャーホール)じゃあだめです。あそこでこのオケが弾いている姿を想像さえしたくありません。ワシントンDCのJFKセンター、あのホールでもチェコ・フィルは懸命にいい音を出しましたがウィーン・フィルは無理でしょう。フランクフルトのアルテ・オーパー、あそこは一見音がよさそうに見えるホールなのですが、大したことありません。ドレスデン・シュターツカペレの弦ですらしょぼい音でした。だからウィーン・フィルはやはりあまり真価は出してくれませんでした。それでいいんです。超美人ですから顔を出すだけで普通の客は喝采するのです。

ということで、他のオーケストラはともかく、ウィーン・フィルが来日しても、僕は絶対に聴きません。金の無駄です。いいオーディオ装置で、ムジーク・フェラインかゾフィエン・ザールでの録音を聴いた方がよっぽどいい音がするからです。

それでは次回、僕が好きなウィーン・フィルのレコード、CDをご紹介しましょう。

 

勝手流ウィーン・フィル考(4)

 

 

クラシック徒然草-指揮者なしのチャイコフスキー-

2013 APR 30 21:21:27 pm by 東 賢太郎

 

それは2004年10月23日の17時56分のことでした。

img_937460_24949380_2新潟県中越地震は東京でも大きな揺れとなりましたが、その後続いた大きな余震の一つが発生した時、東京のNHKホールはウラディミール・アシュケナージ指揮によるN響コンサートの真っ最中でした。ホールは舞台上のマイクロフォンが落下するかと思うほど大きく揺れ、聴衆も驚いて客席には一瞬ざわめきが走ったのです。

1階席右後方で聴いていた僕からは舞台が遠く、そこで何が起きているかは見えませんでしたが、演奏(チャイコフスキー交響曲第3番)は中断することなく一応終了しました。異変に気付いたのは、休憩後に場内アナウンスがあった時です。グラッときた時に大熱演中だったアシュケナージが(おそらく経験なかった地震に驚いて)指揮棒を左手のひらを貫通するほどに突き刺してしまい、病院で手当て中のため指揮できないというのです。

後半は同じ作曲家の4番でした。その時点で震源が新潟とは知りませんでしたが、ずいぶん大きかったので周囲の情報も気になりました。今日はこれでお開きかなと思ったところ「指揮者なしで演奏します。ご了承ください。」とアナウンスがあり、お客はみな普段どおり着席しました。しかしみなさん半信半疑です。指揮者なしのモーツァルトはありますが、大編成のチャイコフスキー、しかもリズムがとても難しい4番だったからです。

ところがこの演奏、結果的に何の破たんもなく、要所要所で堀正文コンサートマスターが弓を使って大きな身振り手振りでキューを出しながら難なくまとめあげてしまったのでした。録音を音だけ聴いたら、まさか指揮台に誰もいないという光景は想像できなかったでしょう。N響のプロフェッショナリズムに敬服しましたし、奏者の方たちにも動揺はあったでしょうから組織として立派な危機管理だったと感心しました。急場での日本人の結束力、団結力はすばらしいなと感動した一日でした。

 

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