ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場の魔笛を聴く
2015 OCT 15 8:08:46 am by 東 賢太郎
人類の創った最高の音楽はモーツァルトの「魔笛」である。
20代の身空で生意気にも多くの人に、もちろん家族にも、そう言い切って生きて参りました。以来30余年、たくさんの素晴らしい音楽に出会ってきましたが、この若気の前言を覆えすものは未だありません。
それを文字でご説明するのは宇宙の真理を10文字で解き明かすぐらい無理であって、体験するしかございません。この神品は僕を何度もウィーンに呼び寄せています。全曲は21セット持っていて、聴くたびにパパパ・・・で感涙にむせび、モーツァルトの御魂にいつも合掌しています。
このオペラの楽譜は僕には聖書、仏典であり、総譜、ピアノ伴奏譜、自筆譜のファクシミリと3つ持っていて、まさに1頁1頁、写経をするように眺め、ピアノで鳴らしてきました。奇跡のような音符がいくつもあって、それを書いておきたいのですがたくさんありすぎ、今はその元気がありません。いつか、モーツァルトが許してくれたら、書きます。
二つだけ挙げると、まず管弦楽です。バゼットホルン2本が入って幽玄な和音を響かせ、モーツァルトが嫌いだったフルート(2本)とトランペット(2本)まで入ってる。これらがどこで使われているかということです。序曲の3つの和音の上声の重ねはフルートです。Wie? Wie? Wie?の9小節目!これはフルート以外にありえない。神がかり的に凄い音符で、彼がこういう風な色彩でフルートを使った例は他に知りません。1791年、死の年のモーツァルトには何かが間違いなく取り憑いてましたね。
もうひとつ、調性の設計です。変ホ長調で始まり、終わる。第1幕のフィナーレはザラストロの太陽王国の讃美、そしてタミーノの試験合格シーンですがともにハ長調で前者はまぎれもないジュピター終止で幕を閉じる。そしてこのオペラの白眉であり最も重要な悲しみの箇所であるパミーナのアリア「Ach, ich fühl’s」と、パパゲーノの自殺の歌がト短調である。つまり「E♭、Gm、Cの三大交響曲の調性」が骨格を成しており、パパゲーノのト長調、夜の女王のニ短調が人格描写になっている。
今回はそのぐらいにしておきます。
ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場は2006年にたしかドンジョバンニ、魔笛、フィガロ、後宮を観ました。これが実によくて、貴重なメモリーとして心に残っており、今回も真っ先にチケットを入手しました。残念なのはドンジョバンニが今回はないことで(どうしてだ?)、前回のアンジェイ・クリムチャックのタイトルロールが僕がかつて見た誰より良かったのに・・・。
さて今日ですが、またまたこちらの頭が回転が鈍く音楽に乗りきれません。席は9列目で最高でしたが東京文化会館は音が来ないせいもありましたか。また、どういうわけか歌手たちのテンポ、特に第1の侍女とパパゲーノが前のめりで指揮が統制できてない。あれあれ、今日はハズレかなと集中力が落ちました。夜の女王もやや苦しくテンポは控えめで、まあライブはこういうハラハラが楽しいといえば楽しいのですが。
しかし、女性3人のハーモニーとは天上の美しさでオペラにこのアンサンブルを持ち込んだのは作曲家の卓見です。3人の童子は女性で、僕は子供の方が好きであんまり歓迎しませんが、今日の3人は良かった。侍女より良かったぐらい(特に1番のアレクサンドラ・ビスコット)。こんなことは珍しい。パミーナのマルタ・ボベルスカは前回も印象的でしたが今回も(歌も美貌)も良かったですね。この人はNAXOSから出ているアントニー・ヴィット指揮ワルシャワ国立フィルのマーラー8番で聴けます(これは名演)。
あとのキャストはSo soでしたがとにかく音楽のパワーが十万馬力だから普通に歌ってくれればいいのです。まったく文句ありません。この歌劇場はモーツァルトのオペラを全作品随時上演できる世界で唯一の団体ということです。もちろん僕は全部はきいたことがありません。たてつづけにやってくれるならポーランドに半年ぐらい住みついてもいいなあとさえ思います。
魔笛のストーリーについてはコメントを避けます。支離滅裂と僕も思うし、フリーメイソンの入会儀式かなとも思うし、陰と陽、光と闇、善と悪、聖と俗、生と死、規律と堕落、知性と野生、火と水、男と女、という二軸対立の物語でもある。しかしメインテーマは2つのカップルの誕生であり、特にモーツァルトが自己を投影したと思われるパパゲーノとパパゲーナのカップルである。
だから魔笛の真のフィナーレはpa-pa-paなんです。魔法の鈴のハ長調に童子のD7のブリッジが入って(これが感動的だ!)、ト長調でいそいそとはじまる。人間の、愛の、優しさの、生きることの、喜び。万国、何国人だろうと何人種だろうと、これはわかる。人間ならば。この音楽を涙なく聴きとおすのは僕には無理です。物語は架空のおとぎ話で荒唐無稽でも、音楽の方は深い深い人間の真実をえぐりだしていて、心の中でパパゲーノとパパゲーナのカップル誕生に絶賛の嵐がおきる。きっと誰でもそうだと信じます。
これを聴いてホールから出てくると、皆さん優しくいい顔になってるんですね。不思議です、世界のどこでもそうでした。心の中に住む一番いい人が表情に出ていますね。タミーノが魔笛を吹いて野獣を踊らせてしまう場面がありますでしょう、笛の魔法は聴衆にも効くのです。もっともっと聴いてもらえば戦争もなくなるだろう、犯罪も自殺も減るだろう。僕はまじめにそう思っています。音楽というものにいかにすさまじい霊力があるか、魔笛を何度も聴いて覚えてしまえば、必ずわかります。すべての音楽ファンに、ぜひその境地を味わっていただきたいと願っています。
(追記)
魔笛のCDをひとつというかた。上記歌劇場の東独路線のままでさらに上質のクオリティを体現した宝のような録音がひとつだけ現存します。
オトマール・スイトナー / ドレスデン・シュターツカペレ
テオ・アダム、ペーター・シュライヤー、シルヴィア・ゲスティ、ヘレン・ドナートという珠玉のキャスティング!欠点があるとすると二人の武士が弱く、第2幕の大事な「私のタミーノ!」の四重唱がまことに貧弱である。コストセーブだったなら同情するが武士は合唱団員なので二重唱にしか聞こえない。これは来日公演のビデオを聴いても同じであり肝心中の肝心であるのテナーのFroh~などぜんぜん聞こえないのだから論外というしかない。スイトナーの考え方がまったく不味い。モーツァルトの書いた天才的な、おそらくワーグナーがそれでマイスタージンガーの五重唱を書いたあの音符が聞こえないのだから。しかしそれだけ我慢すれば、他はおおむねクリアしております。もちろんもっと上手のザラストロや夜の女王たちの貫録の名唱を聴ける録音はあるのですが、例えばこの録音のレナーテ・ホフ(Renate Hoff)のパパゲーナは実にカワイイ。パパゲーナに大物なんか起用されると僕はげっそりで逃げ出したくなるのです。ホフはスイトナーが好きだったとみえ東京公演にもパパゲーナで連れてきたし「ヘンゼルとグレーテル」のグレーテルにも起用していますがその後は聞きません。僕も大好きなので残念でならず探しだしたいぐらいです。そういうことまで含めてトータルなコンセプト、個々のキャストの凹みのなさ、音程の良さ、三人の童子の上手さ、DSKという最高級のオーケストラ、スイトナーのテンポ、録音の良さ、と総合点は高く、全教科合計点の偏差値が最高であるこれをファースト・チョイスに太鼓判を押すにまったく問題などございません。値段も不当なほど安く、迷わずこれを手にして全曲を記憶されることを強くお勧めします。これとクレンペラー盤。この二つを聴かずして魔笛を語る勿れです。
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クラシック徒然草-モーツァルトのピアノソナタ K330はオペラである-
2015 OCT 1 12:12:57 pm by 東 賢太郎
モーツァルトのソナタほどピアニストにとって怖いものはないでしょう。本人がそう思うかどうかに関わらず、聴衆はリトマス試験紙を見るようにその人の本質を知ってしまいます。シンプルでごまかしがきかないからです。シューマンやブラームスを聴いていいなと思った人のモーツァルトを耳にしてがっかりということは何度もあります。
じゃあ良いモーツァルトはどういうものか?
一言で表せば、ずっと聞いていたいかどうかでしょうか。凡庸な演奏は1分で飽きてしまいますが、良い物は1時間でも2時間でも楽しくてしかたありません。曲に大仕掛けな装飾を施す余地がないので、着物でいえば生地の質だけの勝負になってしまうのですね。安物の生地に綺麗な紋様をいれたところで無駄です。
では自己主張の余地はないかというと、そうではないのが不思議なところで、主義主張を明確にしている演奏はいくらもあります。僕はこのエリー・ナイ女史のk.330が気に入ってます。
まるでオペラです!右手の饒舌なこと、これはプリマというよりちょっとお転婆でコケティッシュなスーヴレットです。早口で左手(男)に語りかけ、歌い、テンポルバートすると左手がこたえる。舞台が見えてきます。極めてユニーク。テンポの微妙な振幅もダイナミクスの変化も、いわばやりたい放題ですがちっとも嫌味にならずちゃんとモーツァルトになってしまう。名人の至芸なのですが、ひとえにピアノが物凄くうまいからできることであって、最晩年、80才のおばあちゃんになっての録音だから多少指がもつれてますが、「うまい」とはそういうことじゃないんです。彼女が人生で積み上げてきた音楽が透かし彫りのように如実に出てしまう。モーツァルトは怖いのです。
同じk.330をリリー・クラウスで聴いてみましょう。
これもうまい。世評が非常に高い美演であります。エリー・ナイよりはおしとやかでスタンダードな表現ですが、やはりオペラに通じるモーツァルトの遊び心を球を転がすような右手のパッセージがくみとっており、第2楽章の悲しみはこれが一番深いですね。こっちはスーヴレットでなくプリマに聞こえるのが面白い。タッチの使い分けは神品で、ナイはデスピーナひとりがしゃべり続けるのですがクラウスはフィオルディリージもドラベッラも出てくる感じです。
次は内田光子です。
やはりリズムとタッチの美しさが際立っており、感情の起伏までテンポの伸縮と同期して聴き始めると引き込まれてしまいますが、ナイ、クラウスを聴くと右手(ソプラノ声部)がルバートせずあまりに完璧に流れの枠にはまってしまうのでオペラよりオーケストラ的に聞こえます。k.309は音楽自体が遊んでくれるので内田のストイックなアプローチが活きますが、k.330はピアニストが自分の性格でオペラのキャラクターになって遊ばないといけない音楽なんです。
内田はタッチの魔法という技術があるのでそれでも一つの完成された世界を作っていますが、それもない平均的なピアニストが弾くと「ピアノソナタ、モーツァルト風」の一丁あがりとなるのです。k.330を日本で育った日本人が弾くのは大変ですね、譜面をただ弾いても音楽になりません、ではどこまで外していいいか、どう遊べばモーツァルトらしくなるのか?フィガロや後宮やコジなど彼のオペラを自分の血肉になるまで聴くしかないんじゃないでしょうか。ナイにしてもクラウスにしても、ピアノばかり弾いてああなるとは思えないのです。
最後に、香港の天才少女、ティファニー・プーンのk.330です。10才までに数々の受賞歴があり現在はジュリアードで研鑚している期待の星で、今年のショパンコンクールに出ている注目のひとりのようです。
ショパンは聴いてませんが、これ最近の教育の傾向なんでしょうかこのモーツァルトはさっぱりだ。まあ12才の演奏ですから立派なもんなんですが、うまいへたでなく演奏のコンセプトが日本人に近いのです。このままじゃ危なかった。ニューヨークに出ていったのはいいことです。メットでオペラを聴きまくってほしいですね。そしてエリー・ナイやリリー・クラウスをじっくり聴いて。調律もしっかりしないとね、そういうのも気になるかどうかですね、僕の言う音楽の常識とは。素材は良さそうです、飛躍を期待します。
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クラシック徒然草-ハヤシライス現象の日本-
2015 SEP 30 21:21:37 pm by 東 賢太郎
日本人は外国の文物を輸入して、それをベースに日本独特のものを作るのに長けています。洋食はそのひとつでパスタも日本化して、ナポリの人は知らないスパゲッティ・ナポリタンができる。カレーもラーメンも、インドにカレーという食べ物はないしラーメンは老麺か辛麺か、とにかくどちらもオリジナルとは別物です。
ハヤシライスの起源も語源も諸説あるようで、ハッシュト・ライスが変化したとかハヤシさんが考えたとか。色がわからないので僕はあれは味違いのカレーと思ってましたっけ。カレーライスもインドにはないが(ちなみにカレーは英語)、ハヤシライスにいたっては原形すら西洋にはないわけで、いかにも洋食っぽい和食であります。
音楽についても洋楽は洋食と同じ明治時代に入ってきた輸入品であり、初めて国家という看板を掲げて必要になった国歌の君が代は日本人が作曲してドイツ人が和声をつけました。メロディーは和風ですが和声はピアノで弾くと心地良い洋風なのが時代を象徴しています。余談ながら和声、オーケストレーションがいい加減なものが多いですが、神宮球場で試合前に鳴るバージョンは僕の記憶のかぎりオリジナルに近いと思います。これも洋食に見える和食でしょう。
音楽の輸入というと、演奏法のそれもあります。僕は日本人の弾いたピアノで、この曲はこういうものだったのかと感化されるような強いメッセージをいただいた経験がありません。これが演奏法のせいなのかは議論があるでしょうが、僕はそうだと思ってます。唯一、内田光子のモーツァルトのソナタだけが例外ですが、内田は日本の音大を出てないし、もう英国人です。
ショパンをきれいに弾く人、それっぽく上手にまとめる人はたくさんいますが、ひとことで言うとメッセージがない。指が弾いてる音楽であって、申し分なくうまいのですが、響きがこっちに共鳴してこないというか、誰が何と言っても私はこう弾きたいではなくて、書かれたとおりに先生に習った通りに、そこに楽譜があるから正確にやってますよ、ねっ、ミスタッチないでしょ、きれいな音でしょ、という感じです。のっぺりしているのです。
それも、誰のを聞いてもあんまり主義主張のバリエーションがなくて、テンポや強弱は差があっても結局それが何のためなのか心に響いてこない。もしかして「ショパンっぽいショパンの弾き方・裏ワザ集」でもあって、そこからの部分部分の外し方がバリエーションになってるんじゃないかとさえ思うのが多い。それでもショパンは自分なりの「華」を作れる音楽だからまだよくて、それがない、音楽に対する主義主張の本質だけでプレゼンしなければいけないモーツァルトをこの人たちはどう弾くんだろうと思うのです。
だから内田光子がモーツァルトで脚光を浴び、世界で評価されたという事実は違うんです、こういう演奏は日本で教育された人からはまず出てこないような気がいたします。
K.309の第1楽章をお聴き下さい。素人が技術を云々するのも過分ですが、このハ長調は簡単に聞こえて弾くのが意外に難しいと思います。どうしてかというと、いい演奏があんまりないからです。内田はレガートに始めて、絶妙の強弱をつけて、スタッカートで飛び跳ねて、リズムの粒立ちで心をときめかせて・・・まさにモーツァルトがこれを書いた動機はこうだ、自分だってフィガロの上演の合間にでも遊びながらこんな風に弾いたんじゃないかと思ってしまう。
この弾き方はピアノフォルテでもいいかなと思いますね。モダンピアノのレガートとなめらかな音色を使いこなしてますが、左手のリズムの拍節のうきうきする刻みかたなど古楽器の感覚もあって(ご本人に聞いたわけではないですが)、タッチに関わる底知れぬ教養を感じます。「教養」とあえて呼びますが、そういうことはモーツァルトの譜面には書いてないわけで、彼のオペラや管弦楽曲や宗教曲を知り尽くして初めてなるほどと思う性質のことです。
こういう演奏は他の日本人ピアニストからは少々望みがたい、というのは、この差はN響とウィーン・フィル(VPO)の差でもあって、内田のアレグロは気合が入った時のVPOのヴァイオリン群のノリを強く感じるのです。モーツァルトはこういう人よ、ここはこうやらなきゃだめよ、という主義主張が音から聞こえてくるのです。
ヴァイオリニストにいい人が出るのにピアニストはほとんどいない、それはピアノを弾くというのは伴奏者ではなく自分が指揮者ということであって、音楽の骨格から「自分」を出さなくてはいけない。つまり、主義主張が鮮明に出ないと何のために聞いているのかわからなからなくなるという性質の音楽がピアノ曲だからです。
ロンドンにいたころ、東京都響が来て若杉さんの指揮でブラームスの4番をやったのですが、内田さんが近くの席におられて、聴きながら音楽に没入して両手で指揮されてましたね。ああ4番がお好きなんだなあと、僕も負けずに好きなんでオーラをびしびし感じました。彼女はモーツァルトのコンチェルトを弾き振りしてますが、それぐらいの「我」がない人が弾いたって面白くもなんともない、それがモーツァルトです。
K.309にもそのオーラが出てます。理屈じゃなく、そうでもないとこの呼吸、リズム、タッチは出てこない。それが、やっぱり下手でも弾いてみたいと思っている僕の心にびしびし共鳴してくる、そんな感じです。この曲について彼女と何時間でも話してみたい、そんな気になる唯一の演奏です(西洋人のを入れたって)。センセイの言うとおりの「のっぺり演奏」できくとk.309は単純で退屈な曲です。そんな気が起きることはありません。
のっぺり演奏の正体は、おそらく「ピアノソナタ・モーツァルト風」なんでしょう。モーツァルトを輸入して醤油で味つけした、西洋風和食です。ベートーベン風、シューベルト風、ショパン風、シューマン風、メニューにはいろいろあるが、ぜんぶ醤油味だから。そうなっちゃうのは教育システムの問題でもあるでしょうが、客の問題もあります。モーツァルト風がモーツァルトと区別がつかない。ハヤシライス食べて、西洋の気分になって帰れてしまう。客がそれなら料理人もハヤシでいいかになっちゃう。
ピアノ科の生徒さんはきっとピアノ漬けだろうし、そういう音楽教養レベルでハヤシライスの世界を抜け出すのは、大変といいますか、ほとんど絶望的でしょう。ワールドクラスの演奏家になりたいか国内だけでいいのか。五輪に出たいか国体で満足か。前者の方にとっては、音大の先生は嫌がるかもしれませんが、内田さんのモーツァルトは必修科目ですね、全部きいてみることをおすすめします。
この問題は東大の経済学部がマル経っぽくなって、僕の中国の友人が「マル経?ああ北京大学にもあるよ、哲学科だけどね」と笑ってたのと相似形の現象ですね。こんな東大からノーベル経済学賞は、賭けてもいいが絶対に出ないでしょう。日本の大学は権威があるところほどハヤシライスの先生ばかりになって、洋風和食のコックばかりつくる。賢明な学生はワールドクラスとは何か、自分で、自分の頭と感性で、勉強されているとは思いますが。
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人間のプライドについて(パクリ事件に学ぶ)
2015 SEP 6 13:13:28 pm by 東 賢太郎
芸術、アートの世界の模倣というのは昔からあります。J.S.バッハはヴィヴァルディを編曲して自作に用いたし、モーツァルトはC.バッハのピアノ協奏曲のスタイルをパクっています。録音されてあまねく知れわたる世でなかったし、著作権もない時代です。モーツァルトのレクイエムは田舎の貴族が「俺の曲だ」と自慢するために注文されました。ばれた所でお咎めがあるわけでもないのにこの貴族のようなエセ作曲家が横行しなかったのは、少なくとも本物の芸術家として後世に名を残した人はプライドを賭けた仕事をしたからでしょう。
人間、プライドは大事です。法律というものは社会規範であって、自分がどう思おうが順守しなくてはなりません。しかし、法律には書いてないが自己判断でどうすべきかという事柄が世の中にはたくさんあります。たとえば電車で老人に席を譲るかどうか。拾った百円玉を届けるかどうか。クラスのいじめられっ子と仲良くするかどうか。道に迷っている外人に声をかけてあげるかどうか。皆さん、いかがですか。
誰しもまず自分が可愛く、安全でいたい。それは生存本能だから自然なことです。動物園で自分の目の前に投げ込まれたエサを仲間に譲ってあげるサルはいません。母親だって自分が餓死してまで子を守ろうとはしません。利己的なのです。いや、我々はサルじゃないと思われるでしょうがそうではない。そうじゃないから宗教や道徳や修身というものがあるのです。利己主義はいけないと教えるのは、本来、人間は利己的なものであり、それを幾ばくかは修正しないと社会が円滑に回らないという智慧からです。
宗教家でも格別の道徳家でもない人に、困った人は助けなさい、他人や社会の為に良いことをしようと教えても社会的には限界があると思うのです。日本国は落とした財布がそのまま戻ってくる唯一の国と言われます。誇張はあるにせよたしかにそういうことがあったのかもしれないが、70億人のうち69億人がしていないことが永遠に行われるほど日本は世界で孤立していませんし、そうできるほど日本が経済的に余裕のある安全な国であり続ける保証もどこにもありません。
だから、人を助けたい、社会に良いことをしたいと思う気持の原動力は、結局は自分を大事にしたい心である、他己主義に転換するわけではなく利己主義なんだとあっさりと認めればそうする人がもっと増えるのではないかと思います。僕はそういう場面にであったとき、「そうしない自分でいいのか?それで自分のプライドは満足なのか?」と自問します。プライドを持って生きてる自分が好きであり、それだけは譲れないぞ、という意味では利己主義なのです。
それは自分で思いついたわけではなく、英国に6年住んでいてゴルフという遊びを覚えて、教わったことです。ゴルフはプライドで成り立っていると思ったのです。ボールが林に入ってしまって、悪いライで打とうとしたらボールが1センチ動いたとしましょう。周囲を見渡すと誰も見ていない。その1打を申告しなくても誰もわからない。こういうシチュエーションでどうするかです。ゴルファーなら誰しも一度は経験させられる場面でしょう。
英国で実際あったケースですが、ある名門クラブで同伴競技者に「球が動いたのに申告しなかった」と通告され、球は動いていない、名誉棄損だとして通告者を訴訟する事件がありました。ゴルフというゲームは正直申告しないと社会的にも名誉や信用を失うスポーツだということです。スコアをごまかしても法律違反ではない。しかしそんなことはプライドが許さない、沽券にかけてもできません、という人だけが集まってやる遊びということになっているのです。
ウソやごまかしはいけません、閻魔大王が見てますよ、と僕も母親に口酸っぱくいわれましたが、根っから無信心なものだから閻魔大王?いねえだろそんなのとつまらないことに反発してました。でもそういう母親が大王みたいもんで、そうやって自分を律して生きていかなくちゃいけない、そんなこともできない人間が成長はできないんだという気持になってきました。「スコアごまかすの?」「無理ですね」という。1センチならいいかと思った時分がありましたが、今なら1ミリでもだめです。それは自分で決める自分の考え方のルールであって、これを僕はプライドと思っています。
さて話は我が国のことです。昨今のコピペ、パクリ、模倣、捏造、偽造、なりすまし。これはいったい何なんでしょう?
「誰も見てなけりゃ何でもあり」。そういうことでしょう。林の中で空振りしようがチョロしようが、申告しない。バレなければいい。そういう精神構造の人が横行し始めているのが日本だということなのではないでしょうか?落した財布がそのまま戻ってくる?本当にそういう国なんでしょうか?
川崎市で神奈川県警のポスターを見て仰天しました。「見破れ!!オレオレ、電話でお金を要求する息子はサギ!?」とある。「暴力は犯罪」というポスターもあって、そう思ってない人がそんなに多いのかと驚いたのもつかの間です。「息子はサギ」までいくと、落とした財布をそのまま交番に持って行くのはオレオレにひっかかるお年寄りなのであってあと20年もすればみんないなくなって、日本は落とす前から財布を心配する国になると確信したものです。
その証拠に「誰も見てなけりゃ何でもありシリーズ」は去年から豊作でした。
第1話
僕は耳が聞こえません。そういう人、いたでしょ、ベートーベン。僕って、彼と一緒でね、部屋にこもるんです。そこで天から降りてくる音を楽譜に書きとってるんですよ。
第2話
論文はコピペでした。画像は捏造でした。だって、どうせ誰も見てないし気がつかないんですもん。みんなやってますし、いけないことって知りませんでした。
第3話
この海老、釣ったところなんか誰が見てるんだ?味がビミョウに違うけど素人なんかにわかるはずないだろ。いいんだよ、タイ産だけど「伊勢海老」って書いとけ。
第4話
誰に投票してもおんなじじゃないですか。高齢者問題は我が県のみならず日本人の問題じゃないですか。だから私は城崎温泉を106回も視察してるんです。106回もですよ、領収書はないけど。誰も見てなくったって、そんなに政治を一生懸命やってるんです。
ここにこれが加わろうとしています。
第5話
「おい、キミ、これ似すぎでないか?」「はあ、なるほど、これはまずいですね、やっちゃったな」「コンセプトで逃げられる?」「いえ、センセー、これはさすがにちょっと・・・」「まいったねえ」「どうでしょう、ひとつシューセーってことで整形して似てなくするっての」「原案はなかったことにって?」「まあそれしかないか、いまさら巻き戻せんもんな。僕は知らなかったってことにしとくよ」
密室のはかりごとも、ギョーカイの常識ごとも、誰も見てない、聞いてない。だから何でもありなんです。唯一ないのはプライドだけです。
バッハもモーツァルトも音楽界では田舎であったドイツに生まれました。そこでイタリア人や先輩の模倣、引用から入ってはいますが、それを見事に消化吸収して新たな自分の個性にしてます。他人と自分、異なるものが混じりあわずに対立して、どっちでもない新しいものに結実してゆく、そういうプロセスを弁証法的発展と呼びます。
モーツァルトが死ぬ1791年に「レクイエムを作ってくれ」と頼んだのはフランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵というアマチュア音楽家で、当時の有名作曲家に匿名で作品を作らせ、それを自分で写譜した上で自らの名義で発表するという行為を行っていた人物です。彼が弁証法的発展とは無縁の人物であったことだけは明白ですが、彼はちゃんと「匿名で」と依頼してるので、「パクリ」と言ってはいけません。「なりすまし」が正しい称号であり、第1話が近似した事例であるのです。
第5話がどう歴史に刻まれていくのか、それは今後の展開が決めていくことです。バッハやモーツァルトがヴァルゼック伯爵にならなかったのはもちろん才能の問題でありますが、何よりプライドがあったからでしょう。自分が世界一であり、唯一無二であると。芸術、アートというのは自己表現です。自分の顔だからオンリーワンなのであり、唯一無二だから人は価値を認めるのです。そこに他人の顔を出すというのは根源的にナンセンスであり、整形美人をほめそやすようなものである。
やった瞬間にそれは芸術、アートではない、その人は芸術家、アーティストではないという消しえぬ烙印を押されるのです。ヴァルゼック伯爵は、はからずも恥ずかしい形で歴史上の人物のはしくれにはなったが、それでもいいから有名になりたいという御仁がいるなら僕はもう言葉がない。その人が親に教わったプライド次第ということでしょう。
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女の上司についていけるか?(ナタリーとユリアの場合)
2015 JUL 30 22:22:48 pm by 東 賢太郎
「察しない男 説明しない女」(五百田達成 著)は面白い本です。
僕は若者に「遊べ!」といってるのですが、べつに遊び人になれということではなく、なんでもいいから真剣勝負しなさい、負けたら立ち直れないぐらいすべてをかけてやりなさい、そして、許されるうちになるべくたくさん負けておきなさいといっています。
ところがこれは女の子にもあてはまるのかどうか、はたと考えているところです。男も女も同じ人間だからと思っていたのですが、この本によると実はぜんぜんちがう気もしてきます。
同書には、「男は野球で育つ・女はままごとで育つ」とある。まさしく野球で育った僕はままごとをやったことがありませんし、ということは僕のいうことは女の子には共感されないのかもしれません。
野球にパワハラなどという言葉はありません。パワーに蹂躙されるならそれはされる方が弱いのであって、だったら練習して強くなれよ、でおしまい。負けた方も頑張ったんだからほめてあげようなんてこともなし。負けは問答無用で負け、10点差負けでも1点差負けでもおんなじです。
ところが運動会で子供がビリで泣いて帰ってきた、けしからん、かけっこで順位をつけるのはやめろという親が出てくる。ほとんど母親だそうです。野球で育った男親はそういうことは言わないように思いますが、ままごとで順位はつかないわけですね。
体を張って遊べですって?なるべくたくさん負けろですって?それでウチの子が人生はかなんだり自信喪失になったりしたらどうしてくれるの?言われてそうだ。そういう風潮のせいでしょうかサンデーモーニング『週刊御意見番』に登場する張本勲 氏が「喝!」を出しにくくなってしまったそうです。
僕は幸い女性の上司に仕えたことがありません。そういう時代だったし男社会の業界だったし。だから男原理で問題なく生きてきました。しかしこれからの世の中、ままごと原理で世の中が動くかもしれないし、女性の大臣は出るし、ひょっとして近い将来には女性大統領や首相も出るのではと思います。
そこで生きなくちゃいけない男は大変ですが、ではたくさんいた女性の部下たちを「部下」と思っていたかというとこれも微妙なんですね、実は。男原理が通用しないので同じように叱るわけにいかないし、一発ホームラン打ってみろなんて指示しても正確に思いが通じないでしょう。
「男は理屈で動く 女は感情で動く」、反論の余地なし。「男はナンバーワンになりたい 女はオンリーワンになりたい」これもしかりです。オンリーワンでも負けたら意味ないのです僕は。「男はロマンが好き 女はロマンチックなものが好き」、まったくそのとおり。ドイツのロマンチック街道(ローマの道なんでしょうが)はこの日本語名では行く気を削がれます。
「男は使えないものを集める 女は使えそうなものを捨てられない」、これはどうかな、捨てられる女もいるだろうが他人にはわけのわからん物を集めるのは男ですね。「男は謝れない 女は忘れない」、なるほど。
要はこれだから議論にならないんです。もし女性が上司だったら、僕は何を言われてるか、何をめざしたらいいのか、たぶんわからないと思うのです。
ただ、部下だと思わなかったというのは悪い意味ではなくて、そもそも僕らは子供時代は母親に支配されてたわけです。問答無用で理屈じゃなく。だからビシッと言われると弱いかもしれないという意味で男の部下とは違ったという意味です。とくに仕事の核心の部分はともかく、専門外のこと、ドメスティックなことでは。
ところが、自分にとって核心的なことにもかかわらず、この女性なら部下でもいいかなと思う人がいるものです。アルト歌手のナタリー・シュトゥッツマン(Nathalie Stutzmann)です。去年聴いたN響とデュトワの「ペレアスとメリザンド」でジュヌヴィエーヴを歌いましたが出番が短い役で残念でした。
歌手で指揮をする人はいますがいいと思ったためしはほとんどありません。ところが彼女は指揮の能力が高いと思います。モーツァルトのハフナー交響曲をお聴きください。
きれいに整えようという気はなし。「モーツァルトはこういう人よ!」とつかんじゃってます。女だからわかる直感か?彼が振ったらこんな感じだったのではと思わせるものがあります。楽員を興にのせ、多少アンサンブルがごちゃごちゃしてもいい、アンバランスもまた良し、ティンパニはひっぱたき、ホルンもいたずらっぽく強く吹かせる。とにかくテンポの変化や強弱やフレージングの主張が強いのですが身勝手に聞こえず、なるほどこれってそういう曲だったかと思わせるものがあるのです。
もし僕がオーケストラ奏者なら?彼女の指揮には真剣について行くと思います。やっている音楽に説得力があっておもしろい。男は理屈で動くのですが、感性であれ何であれ女性がいったん男をなるほどと思わせたらむしろ強いかもしれませんね。どんな強い男だって子供のころはそういうもんだったし、強い女性のいうことをきいていたほうが楽という気すらします。
もうひとり、僕のご贔屓のヴァイオリニストもそうです。このチャイコフスキー、自信に満ちあふれ、細部までピッチと技巧のコントロールがすばらしく、抜群の運動神経とものすごく良い耳を実感させ、汗ひとつかかずに強い主張で弾ききっていて、心拍数はまったく上がってないんじゃないかと思わせる堂に入り方。とくにアンコールをお聴きいただきたのですが、この求心力、場の支配力は半端じゃありません。ヴァイオリンの人たち、唖然ですね。舞台上のオケまで完全に彼女の聴衆になってしまっていて、弦の人はああ2曲目も聴けるんだよかったという表情です。プロが認める超人ですね。ぜひ指揮もやってほしい。オケを心服させるカリスマ能力、間違いなしですね。
このユリア・フィッシャーが上司だったら?一も二も四の五のもなく、絶対服従でしょう。何をやってもかなわない能力を感じます。
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モーツァルト「ピアノと管楽のための五重奏曲」変ホ長調K.452
2015 JUL 15 23:23:51 pm by 東 賢太郎
(1)K.452は異例の名曲である
これは僕が最も好きなモーツァルトの曲のひとつです。いえ、客観的に見て最高傑作の一ついって通からご批判はないでしょう。ところがあんまりディスクがないのです。録音は各種あってもCDショップに置いてない。これは由々しきことです。
なによりモーツァルト自身も作曲時点で「これまでの作品の中で、この曲を最高のものだと思います」と手紙に書いているのです。youtubeを探したら昨年9月に亡くなった英国の指揮者、音楽学者のクリストファー・ホグウッド教授がロンドンのグレシャム大学でK.452についての講義を行っており、やっと溜飲が下がりました。
亡くなる半年前(2月)とは見えないお姿です。ここで教授は次のような指摘を行っています。
モーツァルトは626曲を残しましたが100曲以上の未完成曲も残っています。旅から旅の人生を送った彼はピアノに向かわず頭の中で作曲ができました。誰かの注文があるとそうして作った曲を楽譜に書きおこしましたが、何かの理由で注文主の事情が変わってしまうと、すぐその時点で書くのをやめ、楽譜はそこで途切れてそのままになりました。そしてそれを他の作品に転用することもしませんでした。
K.452は注文があったのではなく個人的動機で書いた異例な曲で、管楽器合奏団をもっていた貴族を自分の契約演奏会に招いて聴かせる目的があったようです(おそらくアロイス・リヒテンシュタイン侯爵)。これも異例なことに、彼はスコアを推敲して書きなおしています。ところがこの曲が侯爵お好みの管楽8重奏でなかったためか彼は他の貴族がアレンジした別の演奏会に行ってしまってモーツァルトのには来なかったのです。
K.452の楽器編成(オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、ピアノフォルテ)は当時としては例がなく、これがたぶん史上初めての組合せで以後も2度と用いませんでした。ピアノは自身をアピールするため彼が弾きました。しかし、この曲の楽器編成が仇となって貴族の気を引かず臨席がなかったのでしょう、結局この曲はその時以外には演奏されることはなく、彼の存命中にはいかなる形でも出版されず彼の死後は弦楽合奏(ピアノ五重奏曲)のアレンジが出版され、オリジナル編成の楽譜が世に出たのは19世紀になってからです。
K.452を含むモーツァルトの意欲作が並べられた契約演奏会は1784年4月に3回行われ、残念ながら曲目は記録がありませんが、わかる範囲でのプログラムは「トランペットとドラム付の交響曲」(ハフナーか)で開始、ピアノ協奏曲第16番、交響曲第36番「リンツ」、3~4曲の作曲者によるピアノ即興、交響曲(パリか)、歌が数曲、交響曲(ハフナーか)でしめくくり、というものだったようです。
(2)k.452は就活用に書かれた
前回「ナハトムジークk.388」のブログでハルモ二ームジークについて書きましたが 、教授のご指摘のように貴族が管楽合奏団を常設してこのコンセプトが流行だったこととk.452の作曲は無縁でないでしょう。ジョブ・ハンティング(就職活動)のためのプロモーション・ピースだったわけです。興味深いのはこの「管楽合奏団」というコンセプトは彼のピアノ協奏曲の伴奏に入り込んでだんだんと規模を拡大し、第24番k.491でトランペットとドラムも加わって最大になる、その曲においてハ短調というk.388の調性が回帰するのは偶然なのでしょうか?
就活ピースであったk.452に彼としては異例の推敲の跡(譜面が残っている)があり、その結果として彼自身がこれまでで最高の作品と自認する水準にまで仕上がったという事実は、やはり注文があったわけではないのに異例の傑作として立ち現われたハイドンセットと三大交響曲もプロモーション・ピースだったのではないかという仮説がここでも裏付けられていると考えられないでしょうか。
(3)異例の楽器編成を推理する
皆さん「オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲」(K.297b)をご存知でしょうか?ホグウッド教授は講義でふれていませんが、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンというk.452の楽器編成はK.297bとまったく同一であることが注目されます。ところが、K297bは偽作かもしれず、モーツァルト伝記の有名なミステリー題材の一つなのです。
モーツァルトは母親を伴ったジョブハンティング旅行でパリに行きましたが、その1778年に当地に居合わせたウェンドリング(フルート)、ラム(オーボエ)、リッター(ファゴット)、プント(ホルン)という4人の知己を独奏者として管弦楽と協奏するパリで流行のスタイルの曲を仕上げ、総監督のジャン・ル・グロに自筆譜を売り渡したのが「フルート、オーボエ、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲K.297B」です。
ところが彼曰く「誰かの陰謀のため」演奏は急遽取りやめとなり、スコアは消失してしまったのです。これはまだ見つかっておりません。ケッヘルによる1862年出版の「モーツァルト作品主題目録」初版では消失作品とされK.297Bとなっています。ところが、驚いたことに20世紀初頭になってドイツの音楽学者オットー・ヤーンの遺品の中から「オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲」の筆写譜が発見されたのです。
フルートがクラリネットに変わっています。もちろんこれが本物という確証はありません。
「ル・グロ氏は、それを独占しているつもりですが、そうは参りません。ぼくは頭の中にまだ生き生きと入れてありますから、家へ帰ったら、さっそくもう一度書き上げます」
というモーツァルトが父宛に書いた手紙の文献と結びつけ、それをk.297Bの真正の編曲とみなした音楽学者のアインシュタインが改訂した1937年の第3版において「K.297b」という番号を与えて作品目録の「本編」に組み入れた。それが「k.452の楽器編成は同じ変ホ長調の協奏交響曲 K.297bとまったく同一であることが注目されます」と書いた曲なのです。
(4)僕の仮説
このミステリーについての私見はまた別稿に致しますが、K.297bは偽作(他人がモーツァルト風に作ったニセモノ)という説も有力であり、真作説の最大の弱点が「フルートがクラリネットに置き換わっていること」なのです。ここは現在のところ誰も有効な反論ができていないようです。
しかし、これは置き換わったのではなく、K.452の編成に書きなおしたと解釈できないでしょうか。モーツァルト自身が「もう一度書き上げる」と宣言しているのだからそうしたと考えるのは不自然ではなく、彼は頭の中で作曲する(「頭の中にまだ生き生きと入れてあります」)ので、それをもう一度譜面に書き落とすだけです。売却済でもうモーツァルトに所有権はないのですが彼は陰謀と思って怒っていました。いけないことだという倫理観はあったものの、報復としてむしろもう一度書く動機がありました。
それが行われたのが1784年ごろのウィーンでのことであり、そこに居合わせたのはフルート奏者ではなく、1780年ごろから親しかった友人のクラリネット奏者、アントン・シュタードラー(1753-1812)でした。K.297bのオリジナルとなったスコアはそうして書き起こされ、k.452の続編としてピアノ伴奏から管弦楽伴奏にバージョンアップした新作として投入し、宮仕えへの道を切り開こうという構想があったのではないでしょうか。
しかし、その野望は頓挫しました。k.452のスコアすら放逐され、いかなる形でも彼の生前には出版されなかった。ホグウッド教授はk.452を「異例の楽器編成」と指摘しますが、木管を4本も要する、しかも当時としてはまだ珍しいクラリネットを含んだコストパフォーマンスの悪い作品は貴族以外には需要はまったくなかったでしょう。しかし貴族の楽団は8本編成でありk.452は「帯に短し襷に長し」で売れず、必然的に演奏機会はなくお蔵入りするしかなかったのです。
(5)ピアノ協奏曲に発展的に吸収される
空想ですが、K.297bの原本となったスコアはそこで書かれた。しかし、いらなくなった。ハルモ二ームジーク好きの貴族は彼の「顧客開拓リスト」からはずれたのです。そこで一気に集中して作り上げる次のプロモーション・ピースこそ、ピアノ協奏曲であります。そこも貴族・富裕層がターゲットでしたから彼らに売れ筋の調味料である木管合奏を残しています。
しかしその甲斐なくやがて「ピアノが主役」の戦略は人気がなくなった。そこで宮廷から底辺の貴族までを一網打尽に顧客にできるオペラをプロモーション・ピースにしようという発想が出てくるのは自然です。「後宮への誘拐」で成功体験があるし、歌こそが彼の最大の得意技でもあったからです。
そこで彼は1784年のフィガロへ向かって驀進する。そしてそこが人気の頂点となり、ピアノ協奏曲の終焉となり、1787年のドン・ジョバンニはプラハで初演となり、1790年のコシ・ファン・トゥッテは10回ほどしか上演されず、ウィーンでの出世に打つ手がなくなっていったのです。
その落ち目の道のりの半ば、ハイドンに刺激されて1788年にロンドン向けのプロモーション・ピースが書かれたとして何の不思議がありましょう。それこそが三大交響曲だった。k.452にはあった契約演奏会での演奏予定も注文もない。そんな中で器楽の名作が忽然と現れる。これはフィガロを書きながらあふれ出た器楽的発想をピアノ協奏曲第20-25番として書きとめたと同じく、ドン・ジョバンニとコシ・ファン・トゥッテからあふれ出た珠玉の滴が今度は交響曲というフォルムに結晶した作品群であったと僕は考えております。
(6)難しい音のバランス
k.452は音楽的には各楽器が独立してピアノと拮抗しながらどれが突出することもなくバランスがとれている。主題としては終楽章はピアノ協奏曲第17番k.453のそれを予見しますし、第1楽章のオーボエのパッセージにジュピターの第1楽章の音型が登場もします。
さてこの曲の演奏ですが、以前にこう書いたことがあります。
1784年に書いた6曲のピアノコンチェルトのうち14番と17番は弟子のバルバラ・フォン・プロイヤーにあげているが(中略)ある文献によると演奏した部屋の推定サイズは14番が50㎡(15坪)、17番が100㎡(30坪)とある。僕のオフィスが21坪だからイメージできるが、これはかなり小さい。特に14番でオーボエ2、ホルン2、ファゴットはその程度の空間では相当な音量で響いたはずだ。
手紙から推察して、k.452は多めに見て100-150人の会場で演奏されたと思われます。ウィーンに行ったおり、足蹴事件の起きた「ドイッチェ・ハウス」内のSala Terrenaという小ホールで室内楽を聴きましたが、ここがそのぐらいのサイズでした。想像ですが、そのサイズの部屋でも4本の木管に対してモーツァルトの弾くフォルテピアノは割り負けたのではないでしょうか。
その編成はリヒテンシュタイン候の趣味にあわせて興味をひこうというというだけのもので合理性はなく、それが空振りに終わったためにもう用いられず、k.297bにおいてはピアノではなく音量で割り負けしない管弦楽で伴奏しようということになったのではないでしょうか。ところが現代ピアノという割り負けしない音量の楽器で弾くと、これが見事に拮抗するから不思議です。
モーツァルトが想定もしていなかったバランスで輝きを放つk.452は珠玉の名作として生まれ変わったのです。
これが1795年製のアントン・ヴァルター社のフォルテピアノのコピーで弾いたものです。初演 でのバランスはこうだったでしょう。冒頭のヤマハのピアノで弾いたものと聴き比べてください。
(こちらへどうぞ)
クラシックは「する」ものである(4) -モーツァルト「クラリネット五重奏曲」-
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僕が聴いた名演奏家たち(ルドルフ・フィルクシュニー)
2015 JUN 24 22:22:25 pm by 東 賢太郎
ルドルフ・フィルクシュニー (1912-94)はチェコを代表する名ピアニストです。日本ではフィルクスニー(ドイツ語)で知られますが、チェコ語はフィルクシュニーです。あまりご存じない方が多いでしょう。ぜひこれを機に知ってください。彼は、全ピアニストのうち僕が最も好きなひとりであります。
1978年、大学4年の夏休みに1か月ほどバッファロー大学のサマーコースに参加しました。いわゆる語学留学というやつで、本来こんなのは留学とはいいません、ただの遊びです。それでも2度目のアメリカ、初めての東海岸は刺激に満ちていました。
ボストンからサラトガスプリングズを経て、ボストン交響楽団がボストン・ポップスとしてサマーコンサートをやるタングル・ウッドへ。そこで幸いにも小澤征爾さんが振ってルドルフ・フィルクシュニーがソリストのコンサートを聴けました。
芝生にねころんで聴いたモーツァルトのピアノ協奏曲第24番。調律が悪いにもかかわらず、アメリカンなあけっぴろげムードにもかかわらず、きっちり覚えてます。オケだけのプログラム後半は何やったかも忘れてしまったのに。当時から24番は好きだったようでもあり、この演奏でそうなったかもしれません。これがこのブログに書いたコンサートでした。 クラシック徒然草-小澤征爾さんの思い出-
フィルクシュニーは有名なシンフォニエッタを書いたヤナーチェックの弟子というより子供のようにかわいがられた人です。ルドルフ・フィルクスニー – Wikipedia こうして彼のライブを聴けたというのは間接的にではあっても音楽史というものとすこし濃い時間を共有できたような、ありがたい気持ちがいたします。
ライブの24番がそうでしたが、彼のモーツァルトは短調と共振します。幻想曲ハ短調K.475をお聴き下さい。この曲にこれ以上のものを僕は探す気もありません。ここには魔笛とシューベルトの未完成が出てくるのにお気づきですか?
彼がコンチェルトの20番、24番はもちろん、ブログに既述のような深いものを孕んだ25番を愛奏したのはいわば当然の嗜好と思われます。20,24,25!もうこれだけで何が要りましょう。いま書いた6つの傑作。フィルクシュニーは全音楽の座標軸でこの6曲がある「そこ」に位置している音楽家なのです。そうして「そこ」こそが僕が最も共振する場所でもある。このピアニストを尊敬し、彼の録音を愛好するのは鳴っている音ではなく、人間としての相性だと感じます。
そして冬の澄んだ空のような透明なタッチが叙情と完璧にマッチしたブラームスの協奏曲第1番!名手並み居るこの曲の最高の名演の一つであります。
フィルクシュニーのタッチがフランス物に好適でもあるのはピアノ好きには自明でしょう。僕なりに長らくピアノと格闘していまだ自嘲気味の結果しか得ていないドビッシーの「ベルガマスク組曲」。フランス的ではなく東ヨーロッパの感性です。この「メヌエット」の音の綾のほぐし方、オーケストラのような聴感!技巧でどうだとうならせる現代の演奏とは一線を画した格調!「パスピエ」の節度あるペダル、そして感じ切った和声の出し方!チッコリーニとは対極ですが、どちらも多くのことを教えてくれます。
そして最後にこれをご紹介しないわけには参りません。師であるヤナーチェックの「草かげの小径」です。この録音は、音楽を長年かけて内面化しきった人でなければ聴かせようのない至福の時間を約束する演奏の典型です。夭折した娘を送る曲なのですが悲哀はあまり表に立たず、かえってやさしさがあふれることで純化した哀悼の精神をたたえています。美しい和声とヤナーチェック一流の語法で彩られた傑作中の傑作です。フィルクシュニーの表現はスタンダード、珠玉の名品などという月並みな美辞麗句を超越した美としてどこを聴いても耳をそばだてるしかないもの。価値が色褪せることは永遠にないでしょう。
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クラシック徒然草-ホロヴィッツのピアノ-
2015 JUN 17 0:00:55 am by 東 賢太郎
クラシックのジャンルで僕が長く付きあっているのはピアノ曲です。習ったわけでもないし理由は自分でも明らかでないですが、好きな楽器の最右翼であるのです。
ピアノの名曲はかなりしぼりこんで少なめに見ても50-60曲、ベートーベンのソナタを全部数える程度の広さでいえば150-200曲ほどでしょう。50-60のほうあたりはぜひ聞いていただきたいものですが、その中でも主要なレパートリーを占めるショパン、リストは僕の守備範囲でありません。ほとんど聞き知ってはいるがなじまないという点でマーラーと等しいものかもしれません。
そのショパン、リストを主要レパートリーとする系統のピアニストは、従って僕には感性の合う人ではない場合が多いわけですが、ひとりだけウラディミール・ホロヴィッツ(1903-89)は別格的に思える人です。好きではないですが気にはなる。それはひとえに彼の超人的な技巧が現代ピアノという楽器の表現力の極限をフロンティアのように拡大したからにほかなりません。
ホロヴィッツは、自分よりひと世代(30才)上のラフマニノフが「君の方がうまい」と椅子を譲った伝説のピアニストです。しかもそれが自作の協奏曲第3番でのことというのですから、ロマン派を弾きこなす当代最高峰の技術をもったピアニストであったといってよろしいでしょう。
しかし彼の演奏ビデオを見ると、指を曲げずに平べったい手のままで弾いている。今の日本ならこういう子どもはたちどころに先生に矯正されるでしょう。それが彼の出す音にどう現れているのかはピアニストの方におききしたいものですが、それにもかかわらず彼の紡ぎだした音は誰にも真似できぬ特別の個性を誇っており、その個性によって歴史に名が残っているのです。
彼のショパンやシューマンやスクリャービンについては多くの人が語っており、屋上屋を重ねる意味もありますまい。そこでは彼の個性が正面から作品の扉をたたき、それが正統派の演奏ではないにしても有無を言わさぬ成果を示していること議論の余地はありそうもありません。そこで、俎上に上げてみたいのはモーツァルト協奏曲第23番のジュリーニとの演奏です。
なんとも共感なさげな雑然とした開始の第1楽章がジュリーニのテンポなのか?たぶんそうではないでしょう。速いです。物理的にではなく、なにか拙速な感じであり、遅めにするとこの音楽を語りきれないかのような速さです。ジュリーニはこういうことをしない人だから、これはピアニストの感性なんだろうという感じがします。
ピアノはバスが常に強すぎ、ショパン風にトニック、ドミナントでの強調グセがあるのは滑稽なほどで、ときおり現れる左手の意味不明の強調は僕には神経に触るばかりです。フレーズ切り上げの見栄はまことにモーツァルトらしくなく、オケがそうしたホロヴィッツ風アクセントをなぞってみせるのも健気なものですが、お笑い芸人のモノマネを想起しないでもない。
第2楽章、感じてないインテンポに皮相なルバートがのる。音価に対する節操はなし。デリカシーゼロのピアノに合わせてオケも各パートが野放図に鳴りっぱなし。終楽章、モーツァルトのアレグロだけにある、軽さの中に飛翔する精神の高貴さはきっぱり消し飛んでいます。こんなモーツァルトを堂々とやったのはあとにも先にも彼だけです。
技術の難点を探すのは無駄です。そういうことはほとんどない。しかし、ファンにはお許し願いたいが僕にとってはまことに聞くに堪えないモーツァルトになっているのです。センス、テーストが別物だということでしょう。終楽章で興が乗って指揮までしている彼がモーツァルトが好きなのはわかるのですが、それでもなぜこれを弾いているのかまったく釈然としません。
ところが、ベートーベンとなると話は変わってきます。フリッツ・ライナーとの協奏曲第5番「皇帝」です。
実に豪放磊落。早いパッセージがグリッサンドに聞こえるほどの名技が似つかわしいかどうかはともかく完璧に弾ききっており、間然とするところなし。モーツァルトで気に障る強靭な左手が生き、終楽章のバスは補強され、オケが気迫にあおられてこれまた強靭に受けて立つ。
先のジュリーニと反対にライナーはこういう気風の人であり、ピアノとがぶり四つの横綱相撲になっています。5番は元来こう弾かれるべき曲ではないかもしれませんが、ベートーベンが現代ピアノのバスを聴けばこういう解釈を許容してしまうのではと思わせる説得力を持っているように思います。
ホロヴィッツの師はセルゲイ・タルノフスキー(1882-1976)とフェリックス・ブルーメンフェルト(1863-1931)というロシア系ピアニストです。ウィーン直伝のモーツァルト、ベートーベンを師から仕込まれたということは考えづらく、ロシア系ないしは自分流の解釈でしょう。
現代のコンクールで頭角を現したピアニストがホロヴィッツのような23番や皇帝を披露するということはないでしょう。これは19世紀の伝統の脈絡に深く根ざした、おそらく最後期の演奏であります。20世紀半ばまでこういう演奏はコンサートホールに響いたでしょうが、ホロヴィッツの名をもってして初めてレコードに刻まれたでしょう。
クラシックというのは音楽そのものを形容する言葉ですが、こういう歴史的遺産を聴くにつけ、「録音のクラシック」というものもあるのだと思えてきます。今のクラシックの風潮はなにやらポップス化してきて、美形の演奏家がもてはやされ気味のようです。なにもイケメン、美女でいけないことはないのですが、世を去ればどんな大家も忘れられてしまうというのでは寂しい。
僕の世代のファンが聴いて育った名演奏家の訃報、それも若手と思っていた人のそれに接することが多くなってきましたが、彼らが受け継いで残していった19世紀の伝統のうえに現代の演奏家は立っているのです。聴く側の我々もその立脚点をそれなりに知った上で耳を傾ける、そういう伝統へのリスペクトが新しい文化創造への架け橋になるということではないでしょうか。
ホロヴィッツの演奏はまさにそういう、世紀をまたいだパースペクティヴで今も聴き継がれるべきですし、僕が彼のモーツァルトをまったく支持しないのは既述の通りなのですが、それでも彼が学び、吸収した19世紀の音楽界の息吹というものを極上の技術で再現してくれることの価値はpricelessとしか表現できません。
その最たるものの一つ、作曲家がお前の方が上手いから自分は弾かないと言ったラフマニノフの協奏曲第3番。最も弾くのが難しいと言われる3番のこのオーマンディーとの演奏は歴史の証言であり、人類文化遺産と言って過言でないと考えます。
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ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番 ニ短調作品30(N響Cプロ感想を兼ねて)
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モーツァルト 交響曲第1番変ホ長調 k.16
2015 JUN 14 22:22:13 pm by 東 賢太郎
「交響曲第1番変ホ長調k.16」をN響定期で聴き、刺激を受けました。
この曲は父レオポルドが姉弟の売り込みを図った西方への大旅行でロンドンを訪問したおり、1764年末頃作曲され翌年1765年2月21日、ロンドンのヘイマートの小劇場で催された「声楽ならびに器楽の演奏会」で初演されました。モーツァルト8才、つまり小学2年生で書いた曲です。
父親が病気になり滞在が長引いた上に演奏会ができなくなったため作曲に時間を割き、ヨハン・クリスチャン・バッハらの影響でこれを書いたなどの能書きはネットにいくらでも書いてありますからご覧ください。モーツァルト家の大旅行 – Wikipedia
僕は書いてないことを書きます。
この曲は本当に小学校2年生の作品か?全部を親父が書いたか、息子が書いたにせよ手を入れたのではないか?についてです。
この疑念はレオポルドが神童の売り込みに熱心なあまり年齢を低めに詐称した証拠があるので昔からあります。
まず皆さんの耳で全曲をお聴きください。
第2楽章アンダンテの7小節目からホルンが「ジュピター音型」であるド・レ・ファ・ミを吹くのはお分かりでしょうか。最初と最後の交響曲にこれが現れる!意図的なら意味深な符牒かもしれないし、偶然なら不吉な運命の暗示のようで、いずれにしても気にかかります。第2楽章はハ短調であり、モーツァルトとベートーベンにとって意味深な調性と思われている変ホ長調とハ短調が小学校時代にあっさりと出ています。
k.16が変ホ長調(Es-dur)なのは使っているホルンがEs管だからです。当時は半音階がきれいに吹けるバルブホルンはまだなく、楽器はすべて自然音階しか出ないナチュラル・ホルンでした。だからニ長調ならD管、ト長調ならG管が必要であり、楽曲の調性とホルンの調性が合致するというのがいわば法則でありました。
短調の曲が少ないのは、ド・ミ♭・ソの真ん中のミ♭を出すには別な調の管が必要だという楽器法上の理由があったからです。ハ短調ならドとソを出すC管と、ミ♭を出すB管かEs管が必要になります。モーツァルトの交響曲で先の「法則」が初めて破られたのは第25番ト短調です。B管とG管が2本ずつ指定されて、ソ・シ♭・レが克服されたからです。短調作品にことさらに思いがあったかどうか、否定はできませんが、楽器のメカニックな理由で書きにくい(不経済)というわけがあった。こっちの理由の方ははるかに確たるものです。
第1楽章はパンチのある主題をいきなり提示し、次々に主題なみのエピソードが現れて本来なら第1主題と対比される第2主題が目立たなくなるほど饒舌です。これを聴くと僕は31番ニ長調k.297のいわゆる「パリ交響曲」の第1楽章を想起します。
パリで就職活動のために書いたk.297も異例に饒舌であり、第1主題のあとに次々と副主題のエピソードが現れます。モーツァルトは
「最初のアレグロのまん中に、これはきっと受けると思っていたパッサージュが一つあったのですが、はたして聴衆は一斉に熱狂してしまいました。 そして拍手大喝采です。 でもぼくは、書いている時から、それがどんな効果を生むかを知っていたので、それを最後にもう一度出しておきました。」「それで当地の牛どもは大騒ぎをするでしょう!」
と父に書き送っています。モーツァルトが常に演奏される土地の聴衆の好みを忖度し、当地の牛どもを騒がそうと作曲技巧を弄したことは多くのモーツァルティアンの認めたくないことの一つでしょうが、自分でそう述べているのだから否定しても仕方ないでしょう。K.16は演奏会をストップされたため、作品でロンドンの牛どもを騒がそうとした。これを聴くと「三つ子の魂」を感じます。
演奏会といっても少年少女の目隠し弾きなどの曲芸見たさに人が集まった程度であり、バッキンガム宮殿で王妃のアリアの伴奏したりシャーロット王妃に曲を献呈する機会を与えられましたが仕官のお呼びはかからず、父の療養で1年3か月滞在しましたが最後の方は家に来た人が5シリング払うとヴォルフガングが何か弾いたり、2シリングと6ペンスでパブで演奏したりしていたのです。
やや誇張して言えばサーカスの芸人親子のイメージに近いでしょう。パトロン探しと日々かさむ旅費の金策に涙ぐましい努力をしていたわけでから、彼らが舞台裏でお客を牛に見立てていても非難されるものでもないでしょう。同地で流行している作曲家のスタイルをモノにすることは目隠し弾きと同じぐらいにマーケティングに必須の技術だったのです。
それを彼は1年3か月のロンドン滞在で身につけた。モーツァルトの天才の本質はここにあります。バチカンのシスティナ聖堂で証明された「ピクチャー・メモリー」です。彼は何でも誰でも即座に真似できた。だから誰のスタイルでも即興演奏できた。その時点でもうそれはケッヘル番号が付される彼の曲になるのです。そうやって14年後の22才にパリを訪問して牛どもを騒がす用途の交響曲が必要になったおり、似たコンセプトの作品ができたのではないでしょうか。
K.16はマーケティング用途の作品なのだから、8才の息子を7歳とうそをついて紹介しているほどの父親がゴーストライターをしてしまっていてもおかしくない。長らく僕はそう疑ってました。
しかし、そうだとすると説明のつかない部分を今回発見したのです。
第1楽章展開部でまず変ロ長調で第1主題が出ますが、それが次にハ短調に衣替えします。その9小節目で第2ホルンのesと、オーボエと第2ヴァイオリンのdが短2度でぶつかってしまうのです。天才モーツァルトに僕ごときがこんなことを書くのは畏れ多いことですが、これはミス、誤りです。写譜のミスかと思い自筆譜までチェックしましたが、間違いなくモーツァルトの誤りです。
N響もそうでしたが、第2ホルンを半音下げて演奏すると誤りは補正されます。しかしEs管のナチュラル・ホルンでd(つまりシ)は第8部分音から「ストップ」(朝顔に手をつっこむ)しないと得られない音で、モーツァルトはそれを知らなかったはずだからそう書こうと思ったはずはなく、したがって半音の「誤記」ではない。完全に頭の中で間違っていたと考えられます。
ピアノなしで書いたか、移調楽器のホルンの記譜に慣れていなかったか、とにかく、子供とはいえ弘法も筆の誤りですね。上掲のyoutubeの演奏はそこを修正せずに楽譜通りにやってますので、えっという凄い音がしてますがお気づきになられましたでしょうか?
最後に、このスコア、ほんとにウォルフガングが書いたの?にお答えしなくてはいけません。
あくまで推理ですが、僕がレオポルドなら第2ホルンは絶対に直したろうなあと思います。彼ほどのプロが気がつかなかったというのも変ですし、あえてそのまま残したのではないでしょうか。自分が書いてわざと子供らしい細工をした?であれば知能犯ですが、数年後の曲(まちがいなく息子が書いた)が親父の能力をはるかに凌駕していますからね、「息子の真作でミスはあえて残した」が正解と考えております。
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nbsp;
N響Cプロ、バボラークのモーツァルト
2015 JUN 14 2:02:44 am by 東 賢太郎
指揮:アンドリス・ポーガ
ホルン:ラデク・バボラーク
モーツァルト/交響曲 第1番 変ホ長調 K.16
モーツァルト/ホルン協奏曲 第1番 ニ長調 K.412(レヴィン補筆完成版)
R.シュトラウス/ホルン協奏曲 第1番 変ホ長調 作品11
ラフマニノフ/交響的舞曲 作品45
アンドリス・ポーガという指揮者は初めて知りましたが、好感を持ちました。まずモーツァルトの交響曲第1番。作曲者8才の曲です。プログラムには「モーツァルトも最初はこんな曲しか書けなかったのね」とあるが、僕にとっては「小学校2年生がこんな曲書けたのね」です。
調性は変ホ長調ですがこれはホルンがEs管だからで、ちなみに彼のホルンのための曲はホルン協奏曲第1番K.412がD管であるのを唯一の例外としてすべてEs管です。これは友人ロイトゲープのために書いたためで彼がEs管を使っていたと思います。当時はナチュラル・ホルンしかないのでEs管を使えばその曲は変ホ長調になってしまいます。
交響曲はD、G、C管を使って様々な調で書いていますが、ホルンのない曲はひとつもないので、41曲の交響曲の調性はホルンが何管かと一致します。ロンドンで書いたK16も何かの理由でEs管になったのでしょう。そのホルンが第2楽章の第7小節からE♭-F-A♭-Gと-A♭-Gという「ジュピター音型」を吹くのですが、2番目の音でE♭とFが長2度でぶつかるのはぎょっとします。これをライブで聴けたのは貴重な体験でした。
2曲目は名手ラデク・バボラークが上記のK.412とR・シュトラウスを演奏しました。以前にやはりN響でグリエールのホルン協奏曲をやって、これが名演でしたが今日のも良かった。聞き惚れました。それにN響も弦がチューンアップしてますね。コンマスの伊藤亮太郎さん、曲ごとにチューニングされてよろしいですね。Vnセクション、いい音してました。オケとしても、R・シュトラウスの出だしのトゥッティのEs-dur、ワールドクラスの見事な音でした。
後半も指揮者、オケとも熱演でした。大変申し訳ないのですが、僕はラフマニノフのこの最後の作品が苦手で、何度か実演も聴いたのですがだめでした。楽器の数も音符の数も膨大なのですが、何のためかよくわからないのはマーラー以上です。
アンドリス・ポーガは35才ですが音楽の流れをまとめるのが上手いですね。オケは弾きやすいのではないでしょうか。こういうのは才能だなあと感服。リーダーに年齢は関係なしですね、人をひっぱることができる人は何才でもできるのだと思いました。
なにより前半の選曲がいいですよ。これは知性とセンスを感じるし、モーツァルトの1番からオケの方々は楽しそうでしたからR・シュトラウスの名演につながったかもしれませんね。やっぱりモーツァルト効果はほんとうにあるかもしれない。バボラークがのびのびと吹いてくれたのも、そういう空気があったんでしょうか。楽しませていただきました。
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