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カテゴリー: 世の中の謎シリーズ

あなたは完全に愛されている

2017 SEP 3 22:22:52 pm by 東 賢太郎

僕が大学ぐらいのとき母がこんな話をした。

「千葉の畑のなかのでこぼこ道を車で帰ってくる途中だった。夜おそくで真っ暗で人っ子ひとりなし。おまけに土砂降りの雨だった。母は助手席にいて伯父が運転、後ろに伯母もいた。のろのろ運転だった。すると道の左側をこっちに歩いてくる若い女の人がライトに照らされて見えた。近くにきて驚いた。傘もささず、なんと白いドレスを着てずぶ濡れだ。どうしてこんな田舎道に??目の前で顔も見えたが、女性は車に目をやることもなくすれちがった。母はびっくりして「あの人どうしたのかしら、乗せてあげたら?」というと、伯父も伯母も「えっ、どうしたの?」と何も見ていない。しばらく行くと、道の左側でスポーツカーが大破していて、車体は真横になって吹っ飛んでいて、運転席を内側にぐにゃっと曲がって電信柱に巻き付いていた」。

父は父でやはりある。子供のころ家にどこかから買ってきた古い箪笥が来て、寝室のある2階から階段を降りたすぐのところに置かれた。次の日、夜中に外でいたずらしようと兄さんと抜き足差し足でこっそり階段の踊り場を曲がって下を見ると、箪笥のまえで知らないおばあさんがこっちを見あげていた。大声をあげて逃げ帰って叱られたが、親は信じなかった。ふたりで見ているのだから夢ではない。夜中に天井裏でどかんという音を聞いて原因がわからなかったこともあって、何だったんだろうと言っていたら、翌日、ちょうどその時刻に叔父さんが亡くなっていたこともあったそうだ。

父母のその性質は受けついでいないようで僕はそういうことはないが、一度だけ金縛りになったことがある。大阪の独身寮でのことだ。

転勤が決まって荷物は東京に送ってしまい、がらんとなった畳部屋で寝ていると目がさめた。まだ薄暗い明け方のようだった。右向きに寝ていて、頭は布団から畳にすこしはみだしていた。すると右耳の20~30センチぐらい後ろのところで素足が畳を擦るような気配があった。誰かすぐそこいる・・・。背筋が凍って声を出そうとしたが出ないし手足も動かない。すると、上側になっている左耳に、なんということか、人の生あったかい息がかかった。今でもリアルに再現できるが、息は「あ~う~え~あ~」と言ってぶわーっと耳に吹き込まれた。動けずにがたがた震えていると、やがて雀のチッチという声がして窓が開いていたようだった。救われたと思うと、それは終わっていた。

宇宙は科学で説明でき、お化けやら超常現象のようなものはほら吹きの嘘だと思っていたが、これ以来信じるしかなくなってしまった。科学はこの世を全部解き明かすわけではないと。たとえばここにハーバード・メディカル・スクールの脳神経外科医エベン・アレグザンダー医師の著書について書いた。

僕が聴いた名演奏家たち(ピエール・ブーレーズ追悼)

医師自身の臨死体験として『言葉や地上的概念を超越して、「あなたは完全に愛されている」という“事実”が伝わってくる』とあるが、科学者である彼も信じるしかなくなってしまったものを背負って生きていることがわかる。

僕は臨死体験はないが、実は「あなたは完全に愛されている」という“事実”が伝わってくるのを感じたことがある。

起業する何か月か前のころだ。何をしても上手くいかず、毎日が辛くて不安で眠れなくなってしまった。夜が危ない。誰に相談することもできず、しても仕方なかったから始末が悪い。ああいう時、ひょっとして人は自殺するんだろう。独りで横浜にふらっと行って野球をみた。みたかったわけではない、いつまでも試合が終わらないでくれと願っていたのだけ思い出す。そこから記憶はなく、夜中まで港をあてもなくぶらぶらしていたようだ。

あのころ横浜の地理なんてよく知らない。すると知らず知らず桜木町の駅のあたりにさしかかっていて、ああよかった電車に乗ろうと思った。その時だ、川のようなものがあって橋のかかっているほうへ何か得もいえぬというか、こっちへおいでおいでというような引力があった。そっちへ歩いていくと、肌にあったかいような不思議な感覚があって、どこからともなく、おぎゃーと赤ん坊のような声が聞こえた気がした。そこで味わったのは、不安から解放され、なにやらあったかいものにくるまれたような究極の安堵感だった。あれは何だったんだろう?すごく心が落ち着いて、キツネにつままれたようになって帰宅したのだ。

そこがここに書いた富貴楼という料亭があったあたりだったと知ったのは、後で調べて知った。

遺伝子の記憶

「僕にとって大事な場所で、そこに行くと何となくあったかい霊気みたいのものを感じ、声が聞こえるような気がします」と書いているのがそれだ。それから何度かいってみたが、もう声が聞こえることはなかったが。

こういうものを信じるかどうかは人次第だ。しかし、僕は人生で天の配剤というか、生まれる前から決まっていたかのようなご縁でものが進んだような経験を何度も味わった。カープファンでなければ広島で出会わなかった家内。なぜか野犬に咬み殺されなかったサンフランシスコ。先祖のことを知らず証券業に導かれた野村。大阪とロンドンで人生を決めたお客さん。みずほ移籍に至る大失敗。起業させてくれた先輩・・・。

そしてつい先日も、僕が米国、日本でのお手伝いを決めたノーベル物理学者のN教授が大阪の料亭で会食中に、えっ、東さんってあの東さんですか?とおっしゃた。父方の親戚がいま話題の東芝のCTOから理科大教授、中国の精華大教授や半導体で応用物理学会フェローなどになってよく知っておられるそうだ。驚いた。こんな奇縁となると世の中狭いですねですまない、やっぱり天が導いたものだろうと思うしかないではないか。

まあ62年も生きていればいろんなことがある。ご縁でそうなったと思えないでないことはきっとみなさん誰にもにあって、そういうことにしてしまおうという部分もあるかもしれない。僕はそれでいいと思うし、物事をポジティブにとらえる姿勢のひとつぐらいに考えようとも思う。結局、人生行路というのは姿勢がポジティブかネガティブかで最も大きく分かれていると感じるので、「ご縁」という考えを大切にする生き方は人を前向きにしてくれる効能が非常にあると思う。

母が亡くなって3か月たったが、いまもそれが実感とならずどこかに魂でいるんじゃないかと思ってしまう。毎日位牌に手を合わせると、『言葉や地上的概念を超越して、「あなたは完全に愛されている」という“事実”が伝わってくる』のだ。これは不思議なことだが思い過ごしでない。科学はこの世を全部解き明かすわけではないのだろう。

 

『気』の不思議(位牌とジャズの関係)

オリンピックへの道 (1964年にできたもの)

 

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トスカニーニはパワハラか?

2017 AUG 12 7:07:42 am by 東 賢太郎

昭和の昔にパワハラなどというものがあったら僕は真っ先に会社をクビになっていたろう。しかし仕事で罵倒したり罵声ぐらいはいくらも飛ばしたということであって、職場の地位・優位性を利用して人心にもとるよからぬことをしたことはないし、仕事では自分に対しての方がもっと厳しかったという苦しい言い訳ぐらいはある。

元々そういう性格だったわけではなく、中学あたりまでは他人には強くいえない弱っちい情けない子だった。そうでなくなったのは高校で体育会に入ったせいかと思っていたが、先輩の問答無用の命令と服従、あんなもんがそんなにいけないか?と疑問に思わないでもない。いかなる戦うための組織においても軍規は必要で、それがあそこでは長幼の序であっただけとも思える。

高校あたりから弱い子でなくなったのは、多分、早生まれで体が小さいコンプレックスがずっとあったのが身長が追いついて吹っ切れたからだと思う。要は喧嘩をしても負けない気がしてきて、しかもすぐエースになったから心持ちが大逆転もした。逆に投手はつきあう野手は捕手だけで周囲はあまり関係なく、上級生になっても後輩に命令した記憶もなければもちろん体罰などしたことはなくて、体育会だからパワハラ的性格になったということは多分ない。俺は弱くないと思えたことこそが大きかった。

ただ軍規は染みついた。「グラウンドで歯を見せるな」という相撲界みたいのがあったが、昨今の甲子園を見ているとよく選手が笑ってる。戦場感覚はかけらもなくなって、プロ選手が「いい仕事しましたね」などとほざく感覚に呼応している。昨日など打席でにやにやっとしたのがいて、「次のタマ、あいつの顔面狙うな、俺なら」と口にする。そんなの僕には条件反射である。すると「そんな時代じゃないわよ」と家内におこられる。そういうのまで今やパワハラまがいになっちまうんだろうが、軍規違反に対する制裁はこっちだってやられるから弱い者いじめとは全然違うのだ。

吾輩は化石のように古い男なんだろうし女性軍を敵に回すのは本意でもないが、パワハラにはどうもフェミニズムの男社会への浸食を感じるのだ。軍規の第1条でレディ・ファーストにせいみたいな感じで、母親目線でウチのかわいい子に規律は少なくしてちょうだい!なんて勢いでゆとり教育が出てきてどんどん子供をバカにしてしまう。そのうち軍規に人殺しはいけませんなんて書かれるだろうと隣のミサイルマニアが待っていそうな気がしてくる。

「職場の地位・優位性を利用」するのがパワハラの要件らしいが、それはそもそも、それ自体が男原理の本筋を踏みはずしているというものである。近頃は女も猛猛しくこのハゲなどと罵倒もするようだが、女の気持ちは代弁する自信がないのでここは男に限定させていただくなら、パワハラは地位や優位性を手にして初めて強くなった気がしているような、要は力のない恥ずかしい男がするものであって、モテない男がセクハラといわれやすいのとお似合いのものだろう。男の嫉妬は女より凄まじいとよく言うが、それの裏返しともとれる。男原理で動く男は地位があっても弱い者いじめなどしないし、嫉妬はするかもしれないが負けて悔しければ自分もやろうとするだろう。

横浜DeNAベイスターズは契約でそういうことにでもなってるんだろうか、負けても必ず監督のTVインタビューがある。あれは軍人に無礼極まりない。「敗軍の将、兵を語らず」は立派な大将の不文律であって、戦況をべらべらしゃべるような軽い奴に兵隊は誰もついてこないのは万国共通の男原理というものなのである。これは理屈ではない。アメリカは勝ったってしない、まして怒り狂っている敗軍の将にマイクなんか向けようものなら殴られるだろう。あのテレビ局のお気楽な「お茶の間至上主義」、「局ごと女子アナ感覚」は平和ボケニッポン独自のものであって、フェミニズムの浸食に力を貸している。

僕は指揮者アルトゥーロ・トスカニーニの作る音楽を好んでおり、ミラノへ行った折、敬意を表して息子と墓参りをした。演奏家より作曲家がえらいと信じてる僕として、プッチーニ、ヴェルディの墓は参ってないのだから異例なことだ。彼のプローべは戦場さながらであり今ならパワハラのオンパレードである。これをお聞きいただきたい。日本のかたはどこか既視(聴)感があるが、「このハゲ~!!」ならまだかわいい、「お前ら音楽家じゃねえ~!!」だ、これを言われたらきついだろう。

この戦果があの音楽なのだ。プロとプロのせめぎあい。何が悪い?彼が指揮台を下りても楽団員を人間と思ってなかったかどうかは知らないが、棒を持ったらきっと思ってなかっただろう。こんな男の人間性ってどうなの?と女性やフェミニストに突き上げられそうだが、しかし、それと同じぐらいの度合いで、他の指揮者は僕にとってメトロノームとおんなじだと言いたいのである。ベートーベンの交響曲第1番は彼以外にない。ほかの指揮者のなど聞く気にもならず、全部捨ててしまってもいい。そんな演奏ができる指揮者がいま世界のどこにいるだろう?

僕はレナード・バーンスタインのカーチス音楽院のプローべを彼のすぐ後ろで見ていて、和気あいあいにびっくりした。客席にぽつんと一人だった僕がコーク片手に彼のジョークを一緒に笑っても問題なかった。同じ位置で見たチェリビダッケのピリピリはトスカニーニさながらで、目が合っただけで睨みつけられた彼にそんなことをしようものなら大変だったろう。そして、そこで緊張しまくった学生たちが奏でた音!あれは一生忘れない。カーネギーホールの本番で評論家が今年きいた最高の管弦楽演奏とほめたたえたドビッシーが生まれていく一部始終を見たわけだが、細かいことは覚えていないが、そういうテクニカルなことよりもあの場の電気が流れるような空気こそがそれを作ったのだろうと感じる。

トスカニーニは男原理の最たる体現者である。そういえば彼の時代のオーケストラに女性はいなかった。彼は理想の音楽を作るためにすべて犠牲にして奉仕し、だから、今日のボエームがお前の一つのミスで台無しになったと本番の指揮台を下りても怒りが収まらずにホルン奏者を罵倒した。立派なパワハラ事件になり得るが、ホルン奏者はそれで頑張って次はいい音を出して納得させた。ボスの完全主義と美に対する執念には団員の理解があり、そういう言動は彼の個性であり強権による侮辱やいじめと思ってなかったからだろう。それはきっと、トスカニーニの世紀の名演のクレジットはオケの団員だって享受して、名誉と生活の安定を手に入れられたからである。男原理の男はこうやって職場の地位・優位性ではないところで人を動かせるからパワハラ事件にはならない。人事権がないと何もできない男、女々しい奸計でポストを登った男はボスにはなれないのである。

クラシック徒然草-チェリビダッケと古澤巌-

ベートーベン交響曲第1番の名演

 

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羽田国際線ターミナルのタクシーの謎

2016 JUN 1 0:00:59 am by 東 賢太郎

よる10時過ぎに羽田に着いてタクシー乗り場へ行くと、50メートルぐらい列ができてます。ところが、よく見ると空車はたくさんいて、そっちの方も長い列ができてます。僕の前もうしろも外人さんで、What’s going on?ときかれたがそういわれてもこっちも何だかわかりません。

荷物が多い人がいるとトランクを開けたりして積むのに時間がかかるんですが、後ろの車はそれを抜いてこっちに回ってくればいいのに来ない。客も奥へ進まない。要は、海外からで疲れてるのに意味もなく待たされるのです。外人さんはかなり文句を言ってました。

やっと乗った車で聞いたところによると、5時間並んだそうです(タクシーの方が!)。しかし僕も20分は並んだよ、なんで?というと「そうなんですよ、お客さん。去年の3月までここにはポーターが3、4人いたのに切っちゃったんです。それでこんなめちゃくちゃなんです。年に2回だけ大臣が視察に来るんですが、そのときは役所から10人ぐらいきてビシッとポーターやるんですよ、毎日やってますみたいに・・・ひどいもんでしょ」。本当にひどいもんだ。

「手前に神奈川だけってポストがあるでしょ、あれ東京のタクの所場に入るのに毎月2万4千円の許可証を空港のセンターに買わされてるんです。1250円の空港使用料取られてる上にですよ。ひどいでしょ。」「なるほど、それでポストが分かれてんのね、東京はずいぶん奥で」「そうなんですよ」「その許可証、年間28万8千円ですよ、それで40台ぐらい常連です。それポーターの給料かと思ってたら、いなくなってもまだとってるんですよ。天下りの給料になってるんでしょうね」、これもひどいもんだ。

めちゃくちゃ疲れてたので腹が立ったが、5時間待った運転手さんが気の毒でそれも忘れました。ちなみに、「後続車が前に回ってこないのは外人は近場のホテルで1000円なんてのがあるんで英語わかんないふりしてパスするのがいるんです。」「う~ん、5時間で1000円じゃねえ・・・」でも前後の外人は怒ってたので、それがあったらかなりまずい。空の玄関でこの「お・も・て・な・し」は笑えない。

 
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嬉野温泉スパイ事件の謎

2015 SEP 13 22:22:57 pm by 東 賢太郎

先週末は雨とコンサートでジョギングできませんでした。2週空いてはまずいので今日はまた二子まで10km。けっこう調子が良くてついに初めて1時間を切りました(57分)。

阿曾さんたちにそれならハーフマラソンはいけるいけるとけしかけられたのと、もう一つ佐賀の嬉野温泉へ行った時に按摩(あんま)さんに「筋肉は50才ぐらい」とおだてられたのが効いてますね、たぶん。

この嬉野(うれしの)という所は福岡空港からだと高速バス(九州号長崎行き)で諫早方面に1時間半ほどです。地図で見るほど遠い感じはしません。福岡空港発11:02に乗って筑紫平野を下り、筑紫野、基山を通って12:36に嬉野バスセンターで降ります。

「まめ多」の降旗女将にいい旅館があるよと教わっていて、昭和天皇が泊まった和多屋というのですがそれは満員でした。そこで和楽園さんという旅館に1泊しましたが良かったです。

湯質は無色透明ながらぬめりがあります。傷を負った鶴がこの温泉で治るのを見た神功皇后が「あなうれしや」といったのが名称の語源だそうだから、日本書紀の時代から知られていたということです。和銅七年(714年)に記された肥前国風土記に名前が出てくるそうです。

「シーボルトの湯」というのがあります。

 

シーボルト_川原慶賀筆フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796年 – 1866年)がここに長崎から何度か来ていた。彼はオランダ人と偽って出島に入ったがドイツ人であり、出身地はヴュルツブルグです。思えば僕はフランクフルト駐在当時、友人とよく車でヴュルツブルグの劇場にオペラを聴きに行ってました。

フランクフルトを流れるマイン川は、ワーグナーの聖地バイロイトあたりに源流を発して、長躯バンベルグ、ヴュルツブルグを流れてフランクフルト・アム・マインに来ます。そしてマインツでライン川に合流するのです。そういえばシーボルトの従兄弟の娘に当たるアガーテ・フォン・ジーボルト(1835年 – 1909年)は、あのブラームスの婚約者であったっけ!

 

どんどんパズルのピースがつながっていきます。

 

あそこから長崎に、そしてこの嬉野温泉に来ていた。彼はプロイセンのスパイだったという説もあり、幕府禁制の日本地図を持ち出そうとしたことで国外追放処分となるのです(1828年、シーボルト事件)。このとき、丸山町遊女であった瀧との間に生まれた娘(日本人女性で初の産科医となった楠本イネ)を残して去ったのはどこか「蝶々夫人」を思わせます。

イネは大村益次郎に恋した人であり、京都で襲撃された彼を看護しその最期を看取っている(司馬遼太郎「花神」)、また、吉村昭の「ふぉん・しいほるとの娘」の主人公にもなっています。彼女の美しい娘が宇宙戦艦ヤマトのスターシャのモデルらしいというのも知りませんでした。

そこで、もうひとつ、思い出した。「シーボルトの湯」の目の前の橋のたもとにあった「大村屋」という旅館の跡に、こういう来歴が書いてあって、なんとなく写真を撮っていたのです。

 

伊能忠敬!!

そうか、幕府禁制の日本地図を役人の目が光る長崎・出島で受け取るのはあまりに危険である。温泉で湯治すると偽装して、ここで入手したんじゃないか??

 

まあ大昔の犯罪だしもうどーでもいいですけどね。

このことは実はさっき気がついたんで、当日は中村兄と来ていたんですが仕事で疲れてぼーっとしていて、名物の豆腐を食べてなんにも考えてませんでした・・・。母方の出身地が諫早なもんで、どのへんかなと旅館で尋ねたら、車で30分ですよ近いですよなんてことも知った。

ぎすぎすした東京からくると、人当たりがやわらかくてどこかほっこりしてて、安らぎました。いいところでした。また行くことになると思います。

 

(追記)

嬉野で撮った一枚に故・中村兄の後姿があった。昨日のことのようだ。

 

(こちらへどうぞ)

あれからもう一年か・・・

わが温泉考 (Splendid hot springs in Japan !)

戦争の謝罪をすべし、ただし日本史を広めるべし(追記あり)

 

 

 

 

 

 

 

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織田信長の謎(4)-女房衆皆殺しの件-

2015 SEP 2 2:02:23 am by 東 賢太郎

歴史ファンには有名な話ですが、1581年に「竹生島事件」というのがあります。概略はこういう話です。

安土城の信長が琵琶湖の竹生島(ちくぶじま)に参詣したときのこと。遠路ということで、信長は羽柴秀吉の居城・長浜城に泊まるに違いないと考えた女房衆は桑実寺へお詣りに出かけたりして羽をのばしました。ところが信長はなんと当日に戻ってきてしまう。信長は女房衆の怠慢に激怒、縛り上げて即刻差し出すよう寺に命令します。女房衆は恐れおののいて寺の長老に助けを求め、長老は同情して慈悲を願いますが信長はそれを見てますます怒り、長老もろとも女房衆を成敗しました。(『信長公記』天正9年4月10日の項より)

「成敗」が処刑だったかは不明ですが、けん責ぐらいでは信長公記に載らなかっただろうからまず全員死刑でしょう。安土城に強い気があるのもむべなるかなです。社内ルールを社員が守らなかったので幹部が激怒したといえば「ナッツ姫事件」というのがありましたが、僕はあれを聞いてこの「竹生島事件」を思い出したのです。

nobunagaまず関心を持ったのは、「安土城から竹生島までの距離」でした。衛星写真の星形(安土城)⇒ひし形(長浜城)⇒丸印(竹生島)と進んだのですが、全行程往復で約120kmです。そのうち琵琶湖の船が40kmほどなので早馬が競争馬の半分の時速30km、船が10kmとすると約6時間40分の移動時間。竹生島参拝が2時間、長浜城に2時間滞在として朝6時に安土城を出れば午後5時には戻れます。船がもう少し遅くても午後6時ですね。充分に可能です。

でも女房衆は帰ってこないと確信した。信長の性格からして油を売っているのがばれたら命がないぐらい熟知しているのに不思議です。どうしてだろう?まず120kmという遠さです。その距離を日帰りという常識はなかったのでしょう。次に、可愛がられていた部下の秀吉が饗応して帰すはずがない、引きとめるに違いない、殿もそれに応じるに違いないという思いこみがあったのではないでしょうか。120kmは遠く、秀吉との関係は近かったということでしょう。

8月13日、僕は安土城近くのホテルからJR琵琶湖線で米原へ、そこから北陸本線に乗りついで長浜に行き北ビワコホテルグラツィエに宿をとりました。そして翌朝9:00、長浜港発の船で竹生島へ渡ったのです。もちろん、「竹生島事件」のあった天正9年4月10日の信長の行程をそのまま実体験したかったからであります。

nagahama昼間は安土城近くの近江八幡の町を歩きまわったので、長浜にはへとへとになって午後5時前に着き、夕食は近くの寿司屋にぶらっと出かけました。知らない土地のカウンターで地酒がいいねと親父相手に適当につまむのが僕のスタイルです。すると何気なくこんなのが目に入りました。

ルービン ・ リキ ?

何だ、地元のプロレスラーの応援ポスターか?絵の女性の色っぽい眼つきと後ろの「ヨソ見はダメ」が酔った頭に交差します。おかげでキリンビールが読めるまで5秒はかかりました。

 

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翌朝、快晴。今日も暑そうだ。琵琶湖をのぞむ絶景のホールでバイキングの朝食をすませ、9:00出航の船に並びます。

 

 

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竹生島まで約30分。いっぱしのクルーズ気分です。対岸は琵琶湖西南側で比良山地、叡山の北方にあたります。この湖面は太古から変わりなし。信長も秀吉もこういう風に見ていた。彼らも同じ航路で島へ何度も向かったのです。感無量ですね。

 

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さていよいよ念願の竹生島に接岸です。歴史への思いは地面に根ざす。島は動かしようがないし、この狭い港から竹生島神社、宝厳寺へ登る参道も他に選択の余地のない場所にあり、まぎれもなく信長はここを歩いたと確信できるのです。

 

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これが竹生島神社(都久夫須麻神社)への参道です。雄略天皇3年に浅井姫命(浅井氏の氏神)を祀る小祠が建てられたのが創建とされるので5世紀の話であり、歴代天皇が参詣しています。信長、秀吉にとっても我々とたいして変わらず、すでに歴史スポットであったわけです。

 

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ここで湖へ向かって「かわらけ」を投げます。かようなお堂の背景がオーシャンブルーのレイクビューというのも見慣れません。歴代の天皇も空海も信長、秀吉もここで「絶景よのう」とつぶやいたにちがいない。

 

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これが神社の本殿(竹生島神社)。秀吉が伏見桃山城の日暮御殿(ひぐらしのごてん)を本殿にとして寄進した。この本殿の左手から、秀吉が朝鮮出兵に用いた日本丸の船櫓を用いたとされる「舟廊下」が宝厳寺へ続きます。元は弁財天社であり右手には弘法大師がいたほこらもあるが、秀吉が初めての城主となった長浜に来て彼の色が強くなったと思われます。初めて支店長になった地に強い思い入れがあったというのは気持ちわかります(僕はフランクフルトがそう)。ここを氏神とした浅井氏の三姉妹の三女・江が家光の母であり、徳川にとっても特別の場所であったろうと思います。

 

nagahama8三重塔を経て、宝厳寺の本堂へ出ます。すごく暑い。平安時代から神仏習合の信仰だったため寺が分離されたのは明治になってから。弁財天とはインド起源の神であり湖水を支配する神とされたが、琵琶湖は古代から日本海、太平洋の縦断ルートでシルクロードの末端とでもいう大陸、半島のにおいがある。じっくり勉強してみたくなります。

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本殿から港へ向かって長い長い階段を降りていくと、なにか人だかりがあり、雅楽の笙、篳篥(ひちりき)の音が遠く聞こえてきます。やがて異(い)なるものを目撃しました。この写真の行列であります。

 

 

 

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金色の烏帽子をかぶった稚児もいる平安時代のいでたち。これが自然に風景に同化してしまい、雅な楽の音もあってあたりの空気が一変します。時代感覚が麻痺するという貴重な経験を致しました。

 

 

どちらかご名家の法事でもあるのかと思っていましたが、8月14日のことであり、あとで調べるとこれだったようです。

「蓮華会」

浅井郡の中から選ばれた先頭・後頭の二人の頭人夫婦が、竹生島から弁才天様を預かり、再び竹生島に送り返します。(元来は天皇が頭人をつとめていたものを、一般の方に任せられるようになったもので、この選ばれた頭役を勤めることは最高の名誉とされてきました。この役目を終えた家は「蓮華の長者」「蓮華の家」と呼ばれます(竹生島・宝厳寺 〜西国第三十番札所~より

nagahama13港に帰りつきます。信長の装束でこの土産屋の人混みから誰かがひょっこり出てきたらそれらしく見えてしまう気分になっておりました。次の船が11時過ぎで、正味1時間ほどしか居られませんでしたが大変に濃い時間であり、ここも安土城に劣らず強い「気」を感じるところであります(特に空海のほこらのあたり)。もう一度ゆっくり来たいものです。

これが帰路にのぞむ湖東方面です。中央の雲がかかっている高い山が伊吹山で、その真下にホテルが見える。つまりそこが長浜であり、信長の船頭はこの山を目ざして漕いだに違いない。そして、伊吹山の向こう側に広がるのが、あの関ケ原なのです。

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かなり疲れました。

ここからまた早馬を駆って日帰りで安土まで戻ろうというのはフルマラソンでも走ろうかというほどの体力と精神力だと感じました。粉骨砕身の新任支店長・秀吉も島には同行していたろうし、「社長、ぜひ今宵は長浜にお泊りを!」と言わなかったはずはないんです。女房衆もどうせそうよと高をくくっていた。

想像ですが、信長はそれを読んでいたのではないでしょうか。少なくとも何らかの強い意志を持って、秀吉を振り切って帰ったのだと思うのです。安土城を築いてから約2年。度肝を抜く城を建てたのは権勢を示すためですが、まだ事は成ったわけではない。野心ある経営者が借金して巨大な本社ビルを建て、業界トップの大企業にだって買収を仕掛けるかもしれんぞと社内外に大風呂敷を広げたようなものです。

社内である安土城は大変なテンションの日々だったでしょうが、「いや~さすが殿ですな」というお追従の嵐でもあったろう。これが危険なんです。もはや天下布武は近いぞという大風呂敷が効いていて外敵の脅威に脅える日々ということもなかったのではないでしょうか。大手門から直線で天主に向う道はどう見ても防御には弱い。あれはもはや向かう所敵なしという示しであり、そういう強気なトークは敵をひるませるのですが時として社内に慢心の火種をもまくのです。

それは社長がいなくなる時間に反動でゆるみが出ることでわかるのです。僕も支店長になって出張から帰ると、そういう気配を感じた経験があります。そういう立場になってみて初めてわかる肌感覚で、なんとなくいや~な感じがするのです。怖いのは敵ではなく内輪のトップだけということであり戦う組織としてはまことにまずい。信長ほどの男にしてその感覚が研ぎ澄まされてないはずはなく、銃後の守りがそんなことでは天下布武は成らないと信長が危機感を抱いたのは想像に難くありません。

出張に出る社長が秘書室にいつ帰るか言ってないなんて考えられません。泊まるかどうか、女房衆なら身支度でもわかるはずだ。お迎えする支店長のほうの準備だって半端じゃないから、それは事前に決まっていたはずです。推測ですが、わざと「泊まりだよ」と言って出たんじゃないか。秀吉とはあらかじめ諮ってあって、ひょっとすると島にも行ってないかもしれない。不意打ちで帰って皆ちゃんと働いておればそれでよし。そうでなければ成敗してその悪い芽を根絶やしにする。そういう計略だったのではないでしょうか。

なにもその程度で殺さなくても・・・。僕もそう思いますが、当時は法律はないんです。殺人罪という法を作ろうという倫理観がなかった。諸大名を率いる者が統治するすべはアメとムチ以外に一切ありません。そのムチの恐怖による反逆、謀叛への抑止力をもつことは権力を握ることと同義であった。自身が法律という身ですから、子の名前に付けた忠、孝の文字に背く行為には極刑でのぞむのは彼のポリシーであり、それが奏功してあそこまでいったわけです。

綱紀粛正ということで思い出しますが、徳川時代にも江島生島事件があり、公務である墓参りの帰りに芝居を見て歌舞伎役者・生島新五郎と宴会におよび門限に遅れた大奥御年寄・江島の行状が発端となり、旗本であった江島の兄・白井平右衛門は切腹も許されず斬首、役者まで島流し、関係者1400名が処罰されるという大事件となっています。この事件は権力争いの謀略という側面が強いのですが、綱紀のゆるみはそれを口実に政敵をおとしめる大義に使われるほど武家社会では許されないことだったのです。

猫は鼠を殺すから残虐な動物である、だから猫はけしからんと裁いてみるのは別に間違いではないでしょうが、そういう倫理観を導入することで人間社会への貢献があるとは特に誰も考えないでしょう。歴史もそういうことと考えております。歴史は「その時代の人々が当然としている思考の枠組み」に自分の思考を意図して適合させないと誤解を招きます。僕の信長観は彼の人間性うんぬんではなく、発想と事績が日本人離れし、図抜けていたことに依っています。

(次はこちらへ)

織田信長の謎(5)-京都とミクロネシアをつなぐ線-

こちらがスタートです。

織田信長の謎(1)

 

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織田信長の謎(3)-「信長脳」という発想に共感-

2015 AUG 28 23:23:08 pm by 東 賢太郎

昨日のブログにこう書きながら、どうしてそうなったんだろうと考えてました。

「自分の御しがたい性格であるのですが、終わったことに執着がないというのが良くも悪くもございます。昨日はもう今日に関係ないのであって、簡単に忘れてしまいます。もちろん事実としての記憶はありますが、そこでの感情を引きずらないという意味ではプラスであり、その感情の発展を期待して下さった人には期待に添えないかもしれないという意味ではマイナスであります。」

おいおい信用できん奴だなと思われても仕方ないし、子供のころは決してそんなことはなかったように思うのです。むしろ昨日をひきずって悩んだりする子でした。

おそらく、①野球をして育った ②野村證券で育った、という決定的な2大要因があって「戦場脳」が後天的にできてしまったのだと思います。①も②も毎日の数字で勝ち負けが出る世界でした。勝負だから勝たないと意味がないという意味で戦場であり、戦場は常にサドンデス(負け=死)です。昨日大勝しても今しくじって負けたら終わりであり、昨日を引きずって悲観したり油断したりする者はだから弱いのです。

武士、武将がみな戦場脳が強かったかというと、たぶん太平の世になった江戸時代は違うのではないか。真剣で切り合いをしていた薩摩侍は、忠臣蔵が美談になってしまうほど殺し合いのない江戸を、そしてそんな江戸が武士道の鏡と讃える忠臣蔵を嘲笑していたそうです。たしかに、負け=一族の死という強烈なストレスとプレッシャーの中に生きていないと、日々の積み重ねで生きる農耕民族に戦場脳は発達する余地は少ないでしょう。

日本の経営者には「軸がぶれませんね」が誉め言葉です。僕はそれを言われたら不本意です。それは農耕民の価値観であって戦場ではナンセンスであり、それを喜ぶのは戦さをしていない証拠なのです。負けたら死ぬという時に軸もへったくれもないのであって、越前 朝倉攻めで信長は作戦失敗、ケツをまくって逃げ帰ってます。野球で「監督、軸がぶれませんね」は「ベンチに策がない」と同義だろうし、欧米の経営者にYour decision is always stable.なんて言うとinflexible(変えられん無能)の皮肉ととる人もいそうです。その心配が皆無である日本の経営者はすぐれて農耕民です。

僕は企業経営は朝令暮改あたりまえと思ってるし、まして朝でなく昨日のことなら改めようが何しようが是非を問うべくもなしです。昨日上がった株が今日も上がる保証なんてどこにもない世界で軸をぶらさずに今日も買いましょうなんて、すっ高値をつかんで即死するかもしれません。負けと思ったらすぐ売って逃げる。戦国武将の思考こそが自然であり現実的と思われます。

「おいおい信用できん奴だな」という不信任は困るのですが「会社をつぶす不信任」とは別格のものであって、僕は会社をつぶさないためだったらそれ以外のどんな不名誉でも不信任でも甘んじます。小さくても会社を持つとはそういう覚悟をするということであって、大名や武将が家を守るのと同じと思います。お取り潰しさえ免れればという江戸時代の大名ではなく、僕ら新興の中小企業は圧倒的に戦国大名に近い。①②のおかげでそれが楽しめてしまう、そういう性格になっていたことは有難いことです。

51Ld6Q-BbML__SX331_BO1,204,203,200_明智憲三郎氏のこの本を読んではたと気づきました。彼は「信長脳」「信秀脳」なる言葉を使っておられますが、戦国武将が「戦場脳」の持ち主だったのはあまりに当たり前であって、本能寺で信長に油断があったとか、光秀がいじめられて逆ギレしたなんてことはあり得ないと指摘しておられます。まったくそのとおりと思います。

戦場脳のない学者や小説家が書くからそういうことになるとの趣旨の指摘もされています。野球をしたことのない観衆や記者が今日の原監督の采配はどうだこうだと言ったり書いたりする、あれとまったく同じであって、僕らはそれを「歴史」として読まされ習ってきたと思います。的外れなことでしょう。

5_a明智氏が「桶狭間の勝利は幸運の結果ではなく奇襲でもなく、考え抜かれた合理的な勝つための戦法による」と看破され、実証的に戦さの実況中継風に解説されていますが、非常に腑に落ちる説明です。それが孫子をはじめとする兵法書の知識の実践であったのであり、信長に限らず戦国武将は中国古典に精通していたということもまた納得です。信長が描かせた安土城の天主の絵(右上は内藤昌氏の説に基づく復元、「安土城天主 信長の館」HPより)が中国故事のオンパレードだったのもうなずけます。

「軍人」「武士」の思考回路や瞬時の判断は、同じ思考回路を持つ脳をつくりあげないと直感すらできないと僕も思うのです。例えば野球でも、あほらしい質問を選手にするアナウンサーが大勢います。「今日のホームラン、感触はいかがでしたか?」と聞かれ、困った選手が「最高でーす!」と叫ぶ。感触が残らないのが「いい当たり」なのは硬式野球経験者には常識ですが、やったことのない人にはわからないのです。歴史でもそういうプロセスが積み重なって、戦場脳のない人の手によってやがて「信長はそこで快哉を叫んだのである」という小説ができあがる、そんな感じでしょう。娯楽ならいいが教科書はそれではまずいと思うのです。

800px-Minamoto_no_Yoshitsune実は前掲書は読んでいる途中で阿曽さんのところで歴女ですという子にさしあげてしまいました。歴女は大変いいことですね、カープ女子みたいなもんかもしれないが、女子だって北条政子がいましたからね。政子でいえばちなみに、僕は頼朝の政治力、リスク管理力は買うが大将の器としては低評価です。政子の尻に敷かれた感じであるのも嫌だが、僕はなんといっても義経が好きなのです。史実とされ語られている一ノ谷、屋島、壇ノ浦などの戦績が本当であるならば彼の軍功はすばらしく、信長同等の天才かもしれないと思います。

でも結局、その義経も殺されてしまう。戦場脳が図抜けて優秀であるがゆえに、それに劣り、部下として使いこなす才覚も能力もない兄貴が恐れて殺した。こういう小心無能な上司はいたるところにいます。いっぽうで信長の「唐入り構想」は彼みたいなグローバルな戦場脳のない部下には皆目理解できず、本能寺というクーデターの引き金となった。こういう危険な部下もいたるところにいるのです。戦場脳の最大の弱点は、「身内が敵かもしれない」というパラメーターが欠落すると、緻密であるがゆえにかえって無防備になってやられてしまうことである。これは学ばなくてはいけないことです。

歴史はいま戦場を生きている者にとって最高の羅針盤であると僕は確信いたします。会社を成長させるためのビジネススクールの教材と考えてます。孫子の兵法も机上の空論でなく歴史と実戦に学んで作られたに違いなく、だから価値が失せないのです。小説や評論は暇つぶしにはいいですが落語や漫談と同じく実用性はありません。僕は歴史をアミューズメントとして知る関心はなく暇もないので、したがって小説はあまり読みません。最高の教材は現場にあるはずです。だから安土城、長浜城のあった場所に行き、そこいらじゅうを歩き回りました。信長、秀吉の史上最高度の戦場脳を自分の脳でトレースしてみたいという欲求が断ち切れなくなったのです。

 

(こちらへどうぞ)

織田信長の謎(4)-女房衆皆殺しの件-

歴女の「うつけもの」人気の謎

 

 

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織田信長の謎(1)

2015 AUG 18 12:12:31 pm by 東 賢太郎

aduti

安土城は琵琶湖東岸(湖東)の安土山にあった(地図のマークのところだ)。浅井攻めで軍功のあった秀吉を配した長浜城は北陸本線を北上した「湖北」長浜市にある。安土城は建築法が特殊であり、映画「火天の城」(これは面白い)によると熱田神宮造営に加わった大工、岡部 又右衛門による築造に壮絶なドラマがあった。天守(信長は天主と称した)は内装、外装とも大量の金箔で豪華絢爛だったと伝わる。安土山ごと要塞とした堅固な山城であったが、通例に反し天守は彼の居住空間でもあった。天皇の行幸計画まで練ったという彼の一世一代、乾坤一擲の大事業であったのだが、そのような事実を見聞すればするほど僕の興味はただ唯一、「信長はどうしてここに城を造ったか?」に集約してゆくことになった。なぜなら、この地図にてご覧のとおり、そこである地政学的な意味はまったく見いだせなかったからである。

 

aduti1JR西日本(琵琶湖線)の安土駅が至近であるが周辺にいいホテルがなく、隣の近江八幡駅のホテルニューオウミに泊まる。ニューオータニ系だがサービスは普通で、部屋はタバコ臭くて参った(ただし一番安い8800円の部屋だ)。到着したのが午後2時ごろでもあり道も不案内であるためホテルよりタクシーで安土山へ向かう(2600円で意外に高かった)。いよいよ前方に「それ」がこんな風に見えてくる。興奮は高まるばかりだ。

どうしてそんなものに興奮するか?それはする人しかわからない謎だ。そして残念ながらそういう人にまだお会いしたことがない。こういう場所に誰かと行くなら老若男女を問わず一緒に興奮してくれる人と行くしか手はないが、天守跡で蚊に食われながら1時間も一緒にいてくれる人はまずいない。ベストなのは一人で行くことだ。興奮の理由は二つある。まず第一に無条件に古跡が好きだ。その理由はない。所在地、国籍問わずであり、ローマで3回も行ったフォロ・ロマーノに明日10時間いても絶対に飽きることはない。30分ぐらい見て歩いて、疲れたねそろそろ昼メシにしようよという人とご一緒することは非常に困難である。芭蕉の「つはものどもが・・・」の心境が近いかもしれないが、芭蕉の心境の方もよくわからない。

Oda_Nobunaga-Portrait_by_Giovanni_NIcolao第二に、これが主原因だが、僕は信長が好きである。右はイエズス会画派 セミナリオ教師ジョバンニ・ニコラオ筆と伝わる信長の肖像画だ。セミナリオ(城下にあったイエズス会のミッションスクール)へ行って西洋音楽を聞きながらこんなものを描かせていた。この時代のバテレン好きは今の西洋かぶれなんかの比ではない。そして合目的的行動原理主義者である。自分もきわめてそうであり、これが痛快に腑に落ちる。そして進取の気性である。今なら米国のビットコインの最大手企業に何千億円でTOBをかけるようなタイプであると感知する。そして型破りである。村上水軍の手りゅう弾で負けると対抗策を考えぬき、鉄の鎧を着せた奇想天外な巨船を造って撃退してしまう。そしてアーティストである。能「敦盛」を舞い、茶をたて、和歌を詠んだ。彼だけではないが、武家のたしなみや見せ掛けではなく本心楽しんだのではないかと思う節がある。

信長は日本人には珍しく「皆殺し派」であった。西洋的、中国的だ。戦国時代にその善悪を説いても仕方がない。それは三国志の曹操と同様、天下布武に合目的的な行動だったと思われる。「敦盛」を舞っていたほどだから、平清盛が捕えて生かしてしまった源氏の子(頼朝)に誅殺され一族が滅亡したことを知らなかったはずがない。ただ明智憲三郎氏の著書「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫)によると、信長の冷酷非情なイメージは信長の死後に秀吉が意図的に倍加捏造したものとある。「鳴かぬなら殺してしまえ時鳥」という句が江戸時代後期の甲子夜話にあるが、後世は秀吉による信長像が広まっていたそうだ。殺してしまえよりは捨ててしまえが似合うかなと個人的には思う次第。

aduti2山のふもとに「大手口」がある。ここからまっすぐに延々と石段が続き(写真)、物理的には壮大な山城であったことを一見して知ることになるが、心理的には天守の仰ぎ見る高さをいきなり実感させることにもなる。西洋の教会が誰も目にした経験のない巨大さと高さで信者をひれ伏させるのと似た効果を感じる。登ってすぐの所に羽柴秀吉(写真左)、前田利家(同右)の屋敷跡と伝わる遺構がある。面白い。天主へ至る道が直線では無防備なのだが、寺院の入口の門の左右に立つ仁王さんみたいなものか。秀吉の敷地の方がずっと大きいが、こういうところで差をつける。利家は御取立ての嬉しさ半ばで頑張っただろう。この段々を上がりきるだけでもう汗だくになった。

aduti3この石段の石は寄せ集めで何でもアリ。石仏まで使われている。不信心の信長はこれを踏んづけて登ったかもしれないが、逆にこういうものから不信心説が醸成されていった可能性もあろう。彼は徹底した合理主義者である。勝つためには何でもしたが念仏で戦さに勝てないなら無視。それだけだ。なぜなら安土城は城郭内に堂塔伽藍を備えた寺院(摠見寺)を持つ、後にも先にも唯一の城である。助けてくれる仏さんは大事にした。部下に黒人(弥助)がおり本能寺の変の際にも同行していたほど取り立て、末は城主にしようとしていた。秀吉と同じ路線の驚くべき出世コースがあったのだ。家康も三浦 按針を取りたてたが所詮通訳だった。発想の質に大差がある。単なる好き嫌い人事なら現代もおなじみだが、取りたてた無名の部下が武功を上げたのは信長自身が戦場の指揮官として優秀だったからであり、ローマのカエサル軍が強かったのと同じだ。信長は戦さはたくさん負けているが、負けると勝つ方法を編み出して常に進化している。発想のフレキシビリティと好奇心と学習能力!彼が天下取り一歩前まで登りつめた要因はそこにあったと感じる。

ビジネスの世界で戦う人間として、僕は彼の能力に限りない羨望を覚える。信長こそ現代ならば世界で成長する企業を牽引できる頭脳を持った男だ。秀吉は一般的イメージよりも計略も戦さも政治もうまく高い知力を感じるがさらに異能であったのはサラリーマン道の天才としてであって、その必然の理として上司がいなくなると異能の部分の発揮は不能となった。家康はあらゆる管理運営の智謀をもって安定的支配をおこなう天才であって、現代の官僚、大企業メンタリティの祖となったが、長期安定と引き換えに想定外の事態への即応と危機管理能力に欠け、相対的には信長的であった薩長明治新政府に屈した。信長の冷酷非情残虐は性格による部分もありと思われるが、現場の最前線で自身の経験として研ぎ澄ました「勝つための策」を持ち、それに寄与しないなら万事無駄であると切り捨てることは勝ってきた人間にあまりに当たり前のことだ。それを理解できず異常と観るのが99%の人間であることを知っていた賢い秀吉が、自身に都合の良い改竄した歴史を庶民に植え付けるべく誇張して書かせたのが「惟任退治記」であるという明智光秀ご末裔の明智憲三郎氏のご明察には賛同したい。

 

(次はこちらへ)

織田信長の謎(2)ー「本能寺の変431年目の真実」の衝撃ー

 

 

 

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朝きこえてる音楽の謎

2015 JUL 3 11:11:42 am by 東 賢太郎

きょう目覚めると、頭の中で鳴っている音楽があります。

歯を磨いていて、意識が何となく「そこ」へ行ってあれっと思う。音楽の夢とでもいいましょうか、たまにあります。好きな方はそんなご経験があるのではないでしょうか。

さて、きょうのは

ファ#ソミーレ、ミファレード、ドミラーソファ・・・

です。曲名がすぐ出てこない。これなんだっけ?

人の名前が出てこないのといっしょで気持ちが悪い。5分ぐらいあれでもないこれでもないとうんうん唸りました。わかった。

カール・マリア・フォン・ウェーバー作曲 「オベロン」序曲

である。ああ、よかった。

ところがまた唸ることになる。どうしてこれが?

だってこれ、特に好きでもないしもう10年も聞いてないぞ、たぶん。なんで今朝これが頭で鳴ってなくちゃいけないの?

そんなことわかりませんよね。偶然だろ偶然、そう自分をなだめて電車に乗ります。しかし、気持ち悪い。聞こえるからには何かの縁というかきっかけというか、因果のようなものがあるはず。

しかたなく推理します。オベロンはきいてない。それは確実。だとすると、どこかで最近に「何か似たの」を聞いたんじゃないか?それが記憶を引っ張り出したんじゃないか?

オベロンの特徴は「ソ⇒(上の)ミ」の、元気のいい6度のはねあがりでしょう。これを手がかりに、6度跳躍のある曲を最近聞かなかったか記憶をさかのぼってみます。

これを電車で40分唸ったのです。そしてついに真相にたどりつきました。

ゆーけゆーけーそれーゆけーきょじーんぐーん

これだ。これしかありません。火曜日に東京ドームで7回裏の巨人の攻撃前に大音量で流れた応援歌、これです。 この「けーそれーゆけー」のソーミミーレドーラー、このソ⇒ミの6度跳躍!これはたしかに耳に残ってました。だからこれがオベロン序曲のファ#ソミーレ・・・をひきずりだした。納得です。お聞きください。

そしてこっちが「オベロン」序曲。これの8分38秒からの所のヴァイオリンのメロディーがそれです。6度上に飛びあがって、やっぱりミ、レ、ラと降りてきます。このミとラが両曲で共鳴します。

嘘みたいに思われるでしょう。僕も思います。でも、今朝、オベロンが頭の中で自動プレイバックされていた、小説より奇なる事実に自分で驚いています。

二つの曲が「似ている」と思ったことはありません。そもそも巨人軍の歌は知らなかったし、和音がちがうし、「6度跳躍」は後から発見したのです。すべては認識下ではなく、無意識下で起きた「事件」です。

でもそれならなぜ巨人軍のほうがプレイバックされなかったのか?なぜ朝の音楽が毎日は鳴っていないのか?

また唸ることになりそうだ。

結論

人間の脳は不思議です。

 

脳は寝ない

 

 

 

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梅田支店の謎

2015 JUN 10 1:01:18 am by 東 賢太郎

きのうは大阪へ行った話を書きました。

阪急に乗って乗客の顔を見ていて、どういうものか東京とちがう。顔かたちでなく、雰囲気といいますか、どこか人のぬくもりがあってやわらかいんですね。だってビルの上の方にでっかく「そねざきけいさつ」なんてひらがなで書いてある。お堅い警察署がですよ。東京人にはありえないでしょ。

だからこの街を歩いてるといやされるんです。気が和む。一般の大阪のイメージとはんたいです。2年半でしたがここに住んで、悪い思い出はなにもない。そんな街ありませんし、ほんまにえらいことでっせ。

それに、これもなんとなくですが、大阪の人のほうが熱いし、すぐ心が入るし、なにごとにもマニアックな感じがします。これはすごくいい意味です、だってマニアックになれない人はつまんないですね僕は。確信してますが、大阪の人のほうが東京人よりも肌があいます。

梅田支店のあった(今もあるが2階になった)富国生命ビルの裏口あたりを歩いて、明け方まで飲んで看板倒してこのあたりで寝たなあとか、あんなことこんなことたくさんの出来事があったのが昨日みたいです。景色は変わってしまったがもう古戦場跡ですね、つわものどもが夢のあとです。

向かいのパチンコ屋ではジュディ・オングの「魅せられて」がいつも大音量で流れていて、よくW課長がサボって真っ昼間からここでタバコ加えて打ってたっけとか、昼は営業1課であそこの2階の飯屋で速メシしてたなとか、なにせ証券会社の現場はメシ10分ですからね。これきくと、よみがえります。

あのころ、前途は洋洋と勝手に思い込んでいた自分。まさかこんな60のしょぼくれたジジイになってここに立つなんて思ってもみなかった。当時の支店の皆さんはあれ以来お会いしてないからトシをとってないんです。ここの社員口からそのままの姿で出てきそうです。ずっとそのままでいてほしいですね。

ここから転勤したころだったでしょうか、これがはやってましたね。カラオケで歌ってました。

留学が決まって本社人事部に移ってから、これが耳はいってくると感傷的になってました。なんでかわかりませんが、支店イベントでみんなでわいわいビール飲みながら歩いた造幣局の通り抜け、僕でもわかるピンク色の満開の八重桜の桜吹雪を思い出すのです。

あれからなんていろんなことがあったんだろう。でもそのいろんなことはまだ終わりじゃなくて、今の今まで連綿と続いてきていて、今だってまだまだいろんなことがおきている。

5年前の10月に会社を作って、ほんとうにいろいろあって、苦労したとは認めたくないですがもうだめかとあきらめたこともあって、それでも地道に植えてきたものが来年あたりまでにはあの八重桜みたいに咲くかもしれない。だから昨今、もうあまりアクセルを踏み込んでないのです。

世の中というのは不思議すぎてよくわかりません。そんな流しの姿勢なのにいろんな話が向こうからやってくる。欲しい時はちっとも来も取れもしなかったのに。だから大阪にいるんです。来週はまた別なとこへ行きます。

そういう話が3つか4つ、もう欲がないのでどっちでもいいんですが、それをこんどは組み合わせるとどうかなということになってきてます。そうなったほうがすっきりするし、規模も大きくなるかもしれませんし。

ここは頑張らずに自然体でいいや、もう十分頑張って生きてきたし。梅田支店の裏口にたたずんでパチンコ屋の騒音をきいているうち、もうすっかりそういう風に得心いたしました。なにか始まっちゃったら、まあ皆さんでがんばってやってってちょうだい。そんなところですね。

こんなことありません。謎ですね。梅田支店にきてみてよかったです。

 

(追記、16年1月22日)

いま本稿を読みかえすと不思議なほど、この6月頃を基点にして仕事運がめぐってきました。原点に返って、寮まで探し当てて、帰り道に、こういうことになる・・・

「すると豊中稲荷が現れます。ありがたきかな、お参りしないわけにはいきません。梅田支店は僕の仕事のルーツであり、人生を変える素晴らしい人や出来事にたくさんめぐりあった地です。もう一度それがあるように、参拝をいたしました。」

もう一度、ほんとうに、それがあった。そしてまだまだ、その余勢で素晴らしい出会いが待っていそうです。

梅田では一所懸命に仕事しました。そしたら信じ難い運がやってきた。そういうことですね。いまも一所懸命やってます。すると運が来る。わからないけどそう信じることができる、だって本当にここで起きたことだから。僕のルーツです。

 

(こちらへどうぞ)

どうして証券会社に入ったの?(その1)

 

 
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「大丈夫です」の謎

2015 FEB 24 18:18:12 pm by 東 賢太郎

 

(1)裁判所の不思議な会話

何だったか事件は忘れたが、裁判長が被告の女に罪状を読み上げて、

「以上、間違いありませんか?」

と尋ねたところ、彼女は

「大丈夫です」

と答え、

「大丈夫かどうかきいているのではありません、認めるのですか?」

と聞きなおした。

 

2)大丈夫なワタシ

そんな答えじゃあ裁判長の立場の方が大丈夫ではないのである。とても不思議な彼女の「大丈夫」は二通りの可能性がある。

<解釈その1>

「間違いありませんか?」ときかれて、条件反射的にマックの答えが出てしまった。

「ご注文は以上でよろしかったですか?」

「大丈夫です」

これとて十分に不思議な会話だ。大丈夫とは本来は「立派な男」という意味だ。注文が正しいかときかれて「私は立派な男です」と女が答える。非常にシュールである。

<解釈その2>

「はい」か「いいえ」かを問うているのに「私」が出てきてしまう。

「はい」と答えれば有罪だ、彼女はそれをわかっている。でも「私は有罪判決に耐える心の準備ができています」と答える。それが「大丈夫です」だ。ここに「大事なワタシ」が顔をのぞかせている。

「心外です」「ショックを受けてます」「怒りを感じています」など、追い詰められると弁護士が出てきて意味不明の本人の「ワタシ・メッセージ」をマスコミに発信する大事件が去年あった。裁判官はワタシの体調や心の準備はまったくもってどうでもいいのだが、彼女は不幸なことにそういうことを教育されていないと思われる。

(3)有森裕子の名言とその変容

昨日めったに見ないTV番組で面白いことを知った。バルセロナ五輪のマラソンの銀メダリスト有森裕子がアトランタ五輪で銅メダルを取った時にいったことば、「初めて自分で自分をほめたいと思います」が現代では、「自分で自分をほめてあげたい」に変わってきているそうだ。

アトランタでは彼女はゴールの競技場には1,2位に続いて入場したが無念にもトラックで引き離されてしまい、ついに4位にも追い上げられてわずか6秒の差で逃げ切った。あの激闘があってこその感動の言葉だった。彼女だけでない、日本国民みんなが彼女をほめてあげたかったのである。

それも、「初めて」というのが決定的に大事であった。それまでの人生で苦しいトレーニングで自分をいじめぬき、どう見ても自分をほめたことなんか一度もなかったろうと思わせる有森さんだったからこそ泣かせる言葉だった。

(4)自分をほめてあげる自分

それにひきかえ、今は毎日一度はどこかで自分をほめていそうな若者が、「自分で自分をほめてあげたい」だ。この軽さはどうだ。「ほめたい」ではない、「ほめてあげる」のだ。「あげる」方が上から目線であることにご注目いただきたい。

家では親に、学校では先生にほめてもらえない。何でも許してほめてくれる目上がいつもそばにいたらいいなあ、そういうドラえもん、ほしいなあ。その願望にフィットしたのが有森の言葉だったのではないか。

ほめるのは目上役の自分である。それは優越感というオマケまでくれる。のび太とドラえもんの一人二役みたいなバーチャルな世界のできごとなのである。だからリアルな世界で下される自分へのシビアな評価に「心外です」「ショックを受けてます」「怒りを感じています」、そして挙句には「頑張れない」となってしまう。

有森をほめた自分は、普段はいつもダメ出しをしていた、自分と同格の自分だ。それがほめただけで青天の霹靂なのであり、目上からご褒美が出たという甘ったれたニュアンスは皆無である。慎しみの上でのぎりぎりの仮想表現なのだ。

それが「あげたい」に変容してしまう。「辛口の仮想表現」が「甘口の仮想現実」にすり替わって、それを都合よく正当化してくれるものとして使われている。もしも、なぜ自分は頑張れないのだろうかと疑問を感じたら、心の中に「自分をほめてあげる自分」が巣食っていないか自問してみたらいい。

(5)これは母子擬人化現象である

この「あげたい」というニュアンスには仰天したことがある。スマホが壊れて銀座のアップルに持っていった時のことだ。対応した若い女性が、

「そうですねえ、この子はまだ修理してあげれば使えるんですけどぉ・・・・」

子??あげれば??

そうか、「あげる」は母親が子に愛情をもってしてやることなんだ。有森さんは、ほめる相手の「自分」と母子関係にはならなかった。ところが今の若い人は、なんとケータイともいとも簡単に母子関係を結んでしまえるのである。ゆるキャラの流行もそれだろうし、底流にあるニュアンスはどことなく「カワイイ」に共通するものがある。これをご参照いただきたい。

「かわいい」の謎

基本的には女性に特有の現象かと思ったが、今は男もカワイイを言うからそうではないと考えた方がいいだろう。カワイイは外国語にないから日本人特有の感性と思われる。良い方に出ればいいが、逆である場合もあるかもしれない。それは、その母親が子をスポイルしてダメにする母親の場合だ。

(6)それはこんな風に悲劇になる

スマホよりもっともっと大事なのが「私」でしょ。母の眼と愛情でもって毎日でもほめてあげたいのよ、ワ・タ・シのこと、という風な母親。彼女はまたその母親にそうやって育てられている。冷たい現実に出会ってももはや疑問の入る余地はない。

そりゃそうでしょ、こんなに大事な私なんですもん、裁判長だってきっと気を使ってくれてるんだわ。

「以上、間違いありませんか?」

「大丈夫です」

「では、有罪を宣告します」

 

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