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カテゴリー: ______世相に思う

佐村河内氏の記者会見について

2014 MAR 10 22:22:33 pm by 東 賢太郎

佐村河内氏(長いので以下S氏)のお詫び記者会見はなかなか見ものだった。お詫びというのは通常は負の行為をした者が頭を下げて許してもらい「原点復帰」を図る場である。ところがS氏は新垣氏への反撃宣言をして原点以上に押し戻そうという策に出た。

ごまんといた記者はS氏の悪行を暴いて原点復帰のお裁き役、正義の味方役に立つつもりで出てきた輩が多いと思われ、どうでもいいくだらない質問と「本当は聞こえてるでしょ」場面をとらえようという稚拙なトリックに終始。どうして今日はサングラスがないんですか等々もう笑ってしまうばかりのもの。そして反撃宣言には想定外だったのだろう、会場絶句であった。

S氏は初めて見たが、少なくとも質問したどの人物よりも格上。仮に彼のやったことが報道されている通りであれば大物詐欺師の資格充分である。本当に大物であれば、 選挙公約やマニフェストで大嘘をついても詐欺師にならない例は枚挙にいとまがない。10年部屋にこもっても交響曲が書ける人とは思えないが唯一彼が嘘をついていないと確信できた言葉が「調性音楽への想い」の部分。少なくとも質問した人間に関する限りその意味を理解したと思われる者は一人としておらず、茶番劇は進行してS氏の判定勝ちで終わった印象である。

彼はおそらく対人関係において回転が速く、人たらしであり、風呂敷を広げるのが上手であろう。それを悪党というのは自由だが、そのどれもがプロデューサー、実業家、政治家として成功する資格要件ともいえる。不幸なことにその才能が誤った方向に使われてしまった。かたや新垣氏はそのどれもが絶無であり、彼はどう逆立ちしても専門職か事務職しか無理な人である。つまり2人は完全に補完的な「いいコンビ」だった。

いいコンビは売れる。あまりに売れすぎて片方がビビった。名プロデューサーのもう片方は悪党だから平気の平左だった。マスコミは持ち上げて、落とす。一粒で二度おいしい手口が常套手段である。落そう。これが今回の会見の合言葉だったのではないか。聞こえないふり、障害者手帳、障害者少女の利用、みんなその悪党作りの小道具だ。世を欺いた2人も悪党だが、持ち上げたりこきおろしたりで瓦版のネタ作りに励む方も程度は同じようなものだろう。「お騒がせしてすみません」S氏は謝ったが、一番騒いでいるのは神輿をかついでいたはずのマスコミなのだ。

聴力について嘘があるかどうかは検査結果以上はわからないからその資料を堂々と提出したのだろう。だから手話より答えが早かったことをあげつらっても、もう実質的には意味がないのではないか。やればやるほどマスコミが悪党イメージ作りに必死になっている構図が浮き彫りになってくる。そういえばこれは現代のベートーベン騒動だったっけ。このマスコミ記者連中でベートーベンを聴いたことあるのは何人いるんだろう。

S氏は「絶対音感は」ときかれ、あっさりと「ありません」と答えた。彼はそのうち「すみません。聞こえてました。全部ウソでした。マスコミに乗せられたやらせです。私は悪党の詐欺師でした。お金は全額返却か被災者に寄付します。マスコミではなく法と世間のお裁きを受けます。」と暴露するのではないか。すると悪党の詐欺師をかついだ日本を代表する交響楽団を有する某国営TV局らはどうするんだろうという大問題が発生するはずだ。これは彼がこのゲームの切り札を握ったということかもしれない。

 

 

オリンピックの変質

2014 MAR 1 14:14:15 pm by 東 賢太郎

いよいよ球春到来である。昨日メジャーのオープン戦のニュースを見ていたらNYヤンキースのベンチ前が映っていた。松井コーチ、イチロー、黒田、マー君。オリンピックなら金メダリスト級のひとたちの顔が4つ並ぶ壮観だ。ヤンキースもヤンキースだが、日本の野球のレベルもそれなりのものだ。松井を除く3人の年棒総額だけでざっくり50億円だろう。マー君の7年総額は1億5500万ドル(約160億円)だ。従業員が何百人もいる東証一部上場企業でそれより下の営業利益予想というのがごろごろある。それを一人でやってしまうのだから人智を超えたスーパーマンであることは疑いもない。

では同じくスーパーマンであるオリンピック代表選手はどうか。日本国に関する限りは出場してもメダリストになっても選手に大金が入るわけではない。ソチには113人の選手が出場したが、その世界で「生ける伝説」とまで称えられるジャンプの葛西紀明(41)はジャンプ競技の収入で生計を立てているわけではない。ソチで我々を楽しませてくれたほかの競技の選手たちもほとんどが恐らくそうだろう。

アマチュアだから当然だという声もあるかもしれない。しかしプロかアマかは選手の努力や技術の水準で決まるわけではなく、その競技が事業化して採算がとれるかどうかというぜんぜん別なところで決まっていることだ。オリンピックがプロの参加を許容したのは、事業化できている競技、つまり集客力がある競技の選手であるプロを出場させることが五輪の集客力にもなるという計算があろう。そして野球やアメフトが落とされてしまうのは、欧州のプライドとは別に、入れると五輪のアマチュア精神という錦の御旗が倒れかねないほど選手が桁外れな高額所得者でありその割に客の国籍は限られているということと無縁ではないのではないだろうか。

葛西のジャンプ技術と黒田(39)のスライダーと、能力や練習の苦労にそんなに差があるものなのだろうか。冷徹に資本主義的にいえば入試の倍率みたいなもので各スポーツの競技人口の多寡はパラメーターだろう。競技人口の多い野球で黒田以上のスライダーを投げる人はほとんどいないからきっと卓越したものだろうが、日本の男子の多くがジャンプをやれば葛西選手よりうまい人が出る可能性はある。しかし逆の視点でいえば、スキーが国技のような国の選手と戦って勝ったそうではない国の彼は個人としてさらに尊敬できるとも言えるかもしれない。葛西が与えてくれた感動と、生であまり見られない黒田の活躍と、日本人にとっていったいどっちに価値があるかということは年収で計れるものではない。

一方で、年収というプライスタグを選手につける人にはその人なりの理屈がある。客の入りが違う。黒田に毎年16億円払ってもペイするのだから誰も文句を言う筋合いではない。ではオリンピックはどうなのか。五輪という競技大会は参加することに意義があるといわれるが、巨大な集客マシーンであるという別な意義もある。誰のために誰の帳簿で行われて誰が金銭という配当を得ているのかは知らないが、少なくとも日本国は文科省を通して毎年25億円、つまり1大会につき100億円の金を日本国民の税金からJOCに支払っている。そこから葛西選手は名誉という、国民は感動という配当をもらったという理屈になる。

わが家は5人家族だから僕は500円ほどJOCに取られている勘定だ。それであの感動をいただけるならまあいいだろう、そうなるわけだ。たぶん世界中の多くの国の国民たちもそうやって納得している。参加国から上納金を巻き上げて「名誉」というお金のかからない配当をあげれば世界からタダで選手が集まるのだからIOCは俳優にギャラを払わなくていい映画プロダクション会社みたいなものだ。ブランドビジネスのお手本的存在だ。誰も損しないからオリンピックという仕組みは少なくとも経済的には支障は出ないということである。経済成長かくあるべし。うまいビジネスだが、どうもこれは何かに似ている気がする。

TV放映のない頃の五輪は国民にとって勝った負けたの結果を新聞で知るだけのものに近かっただろう。僕は戦後派だから想像だが、それは戦時中の南方戦線で敵機を何機撃墜というのと変わらなかったのではないか。五輪の戦果とはメダルの数と色以外の何ものでもない。敵地へ行ったが戦果なく引き返しましたというのはない。だからメダルの獲得にこそ国威発揚がかかっており国民の注目もそこ集中していたはずだ。選手の中にはメダルを取れなければ死んでお詫びをというほどの国家的使命感を背負う人がいたこともそう考えれば納得がいくだろう。

ところが昨今はどうだ。もう数大会も前で何の競技だったか忘れたが、僕は「よく頑張った、ニッポン堂々たる6位です!」と絶叫するアナウンサーに馬鹿かこいつはと本気で怒ってTVを消した。名誉の玉砕!というニュアンスではない。こんなに苦労したんです、その結果の6位なんです、皆さん暖かい拍手をという風に聞こえたのだ。結果がすべてだよ勝負はキミ、という冷徹な男性原理で育った僕にとって、「そうじゃないザマスのよ、うちの子はこんなに夜遅くまで勉強して泣きながら塾も行って可愛そうに熱まで出して。だから結果は6位でも立派なんザアマス」という女性原理は、少なくとも勝負という場面だけでいいからお願いだからひっこんでいてほしいという性質のものである。

ところがだ。そんな古いかもしれない僕が、今回はメダルを逃した女の子に賛辞を贈るブログまで書いてしまうようになっている。トシのせいじゃない。目に見えない何かが変わっているのだ。頑固者である僕のザアマス・アレルギーは微塵も緩和されていない。ということは、オリンピックというTVとマスコミとネットでしか見ることも感じることもできない「場面」「劇場」において、なにかが決定的に変質しているのだ。僕も視聴者のひとりにすぎないからその術中にはまっているのだ。

競技というのは五輪経営の「コンテンツ化」している。経営者にとってコンテンツの優劣とは集客力と完全に同義だ。誰が勝とうが涙を流そうが中味はどうでもいい。客が喜ぶなら不公平でもルールは平気で変える。客が感動がないと怒ったらそれはその国の選手が悪いのだ。IOCの知ったことでない。JOCクン、もっと頑張ってねでおしまい。そうして、それがネット社会化の潮流の中で、コストの安いコンテンツの在庫を増やしてメディアに「大人買い」させようという方向に拍車がかかる。えっ?そんなのオリンピックでやるの?という競技はもっと増えるだろう。そのうち犬ぞりレースなんかが出てきて、メダルは犬の国籍か乗り手の国籍かでもめることにならないか心配している。

競技の本質からは極めておかしな話だが、女子フィギュア個人の金メダリストの名前(僕は忘れた)より真央ちゃんの涙の方がロシアを除く世界の記憶には残ったのではないだろうか。メダルを逃しても懸命の笑顔をみせてくれた上村愛子に責任を問う声がどこにあっただろう。僕の場合でいえば判定基準がよくわからないので「競技の本質」にはすっかり白けてしまっていたのが実情だ。とんでもないくそボールを「ストライ~ク、三振!」といわれても健気にしているバッターを応援している気持ちだから「バンクーバー朝日軍」を応援してくれたカナダ人とおんなじ。真央ちゃんのあれはもうメダルに関係ない消化試合で起こった感動物語だ。だからメダルが軽くなったとまでは言わないものの「メダルよりストーリー」という顕著なケースが出てきたのが今回のソチの特徴だったように思う。

そういえば東京マラソンをTVで見ていたら、「ゴールしたら結婚届を役所に出す」と宣言して無事に完走した男性がずいぶん長いこと放送されていた。アスリートのスポーツそのものよりもシロウトのストーリーの方が今や売り物になるようだ。マスコミの集客原理はスポーツを単なるコンテンツにおとしめる。その原理が各界を見さかいなく蹂躙しているおぞましい様は転移した癌細胞を連想する。ポピュリズムに淫した政治家が政策をコンテンツ化しているのもしかりである。NHKの大河ドラマは誰が出るかが大事で題材は二の次という有様で、おちぶれた紅白歌合戦ともはや同工異曲の番組だ。交響曲の価値に至っては作曲者の耳の聞こえ具合に応じて耳鼻咽喉科で決まるという世界でオンリーワンを誇るユニークな国家になっている。この国に住むということはいずれオリンピックはお笑い芸人がマラソンに出場して4時間放映されるかもしれないぞという覚悟を求められるということなのである。

イチロー、黒田、マー君が成績が出ずに笑顔を見せてすむだろうか。それはないしそこには誰の感動もない。

 

 

 

 

 

 

自分に勝った浅田真央

2014 FEB 21 13:13:14 pm by 東 賢太郎

浅田真央に感動しました。

そう思いたくないのですが団体、ショートはどことなく自信なさげな雰囲気があったように見えました。皆さんどうでしょうか。彼女ほどの人であっても、勝負事ですから、いろいろのことがあったのでしょう。

村上 佳菜子を見ていて、ジャンプの前にほんの一瞬のことですが構えるというか、あっちょっと流れが悪いなと思ったら失敗でした。スケートのことはなにもわかりませんが、やっぱりそういうものなんだなと思いました。

浅田真央は負けてからがすごかった。得意技で勝負をかけ、そしてそれを完璧にやりきりました。いろいろのことを全部はねのけました。なんとすがすがしい。あの舞台でそんなことができる人が地球上に何人いるでしょう。試合後のインタビューも、意地とかそういうものではなく、スケーターとしてどうということでもなく、僕は彼女という人に人間の尊厳を教わりました。

このフリーは日本人の記憶に永遠に残るでしょう。浅田さん、お疲れ様でした。金メダルですね。

電車で化粧する女

2014 FEB 19 1:01:05 am by 東 賢太郎

化粧の歴史は古いようで呪術や魔よけという意味では数万年前にさかのぼり、ツタンカーメンの黄金マスクもアイラインを引いている。ヨーロッパでは「白い肌は肉体労働をしていない証拠」として王族や特権階級が鉛白を塗る習慣は、それが毒と知られても18世紀まで残った。そして、フランス革命をもって特権階級が衰退するとともに男性の化粧は衰退していった。いよいよ、女性だけが化粧する時代の到来となったのである。

いま僕はある業務上の理由で女性の化粧道具に多大の関心をいだいている。今まで無縁なので何の知識もない。ということで日々の子細な観察こそ大事なのである。しかし女性にとって化粧は舞台裏だろうからそう簡単にのぞくことは許されないだろう。そう思っていたら見当違いも甚だしいことが分かった。先日地下鉄半蔵門線で渋谷へ向かうと、そこそこすいた車内なのに2人も「車中化粧」に余念のない若い女性を発見した。きっとこれからデートなんだろう。

僕の対面の座席に座った黄色いスカートの彼女は「眉毛書き」だ。雰囲気から20歳ぐらいだろうがちょっと老け顔で田舎のミセスっぽい。小さい手鏡を凝視しながら10分以上かけて細めの筆でエンドの方を何度も何度も入念に塗っている。フクロウみたいに首をひねってほぼ真横からのチェックも怠らない。車中のプロなのだろう、急ブレーキで揺れても手を止める気配すらない手腕は見事だ。真正面に座ってじっと見ている僕と目が合ったかという瞬間が何度かあって、悪いと思ってこっちが目をそらしたが、やがて観察されていることをまったく気づいていないのか気にしていないのか、とにかく見ていても全然問題ないということが分かった。

もう一人はなんとドアのわきに立ったまま始まった。ジーンズにごわごわの白熊みたいなコートをひっかけた子だ。17-8ぐらいにして化粧は濃いめだろう。鏡はケータイを使用している。最初は目にたらした前髪を右に左にいじっていたが、満足できないと見えバッグから何やら取り出した。クリームみたいである。濃紺のそれをまぶたにぼかしをいれるように指でのばしながらくねくねと塗る。ひと段落してクリームをしまうとまた前髪をいじってあちこちの角度から顔を眺める。すると満足できない角度が訪れたと見え、また同じクリームが登場する。この一連の作業は実に4回繰り返されたのである。

眉毛が終わったミセスの方は横長の黒いケースを取り出してていねいに筆をしまう。筆は各種用途に適した形状の4,5本が装備されているように見えた。すると驚いたことに別な入れ物から今度は床屋が髭剃りクリームを塗るみたいな太いモコモコのブラシが出てきたではないか。いったい何が始まるのかと思いきや、それでほっぺたを勢いよくシュッシュッと掃く作業工程が開始したのである。パクパク開いたり閉じたりの口は鮒か金魚を連想した。このブラシは僕がかつて電車という空間において目撃したことのある物体の内でも圧巻の存在感を誇る。どうも余分なフェースパウダーをはね飛ばそうとしているように見えたが、あまり勢いがいいので隣で居眠りしているおじさんが飛粉を吸い込んでくしゃみでもするのではないかと心配になってきた。

白熊の方はいよいよ細めの筆が登場していた。目が小さいのを大きく見せたいと明確に意図していると解釈される部分にラインを入れ始めている。ただ悲しいことに彼女はミセスほど車中化粧のプロではない様子だ。そもそも立ったままで、しかもわざわざ人目につく側を向いてやってしまおうというお行儀は、さすがの車中化粧族からもマナーに問題と指摘でもあって不思議ではないというものではないか。微細なお絵かき作業に夢中のあまり目は極限まで細めて鏡を凝視しながら口があんぐりと開いてしまっている。ものすごい形相に圧倒され、こちらも入魂の作品のご成功を一緒に祈願するしかない心境に至っていたのだ。

2人とも渋谷で降りて行った。始める前と後で何らかの顕著な変化があったかというとそうでもないようだ。塗った後の顔もいたって彼女たち自身であった。ただ健気な女心というものをわからんほど僕も無粋な男ではない。彼氏に会う前の気持ちはよくわかるのだ。女性も厳しい競争を生き抜いているのだから。

だからこそ本稿を読まれる賢明なうら若き女性に警告したい。化粧に没入している女の顔ほどみっともないものはない。トイレでふんばっている顔に比肩されると言われても過言ではないように思う。そして、それを誰が見ているいないが問題なのではない。そういう醜態を人前にさらすのが平気ということはきっと・・・・と男は必ずいろいろとあらぬことを想像するのである。その・・・・をいちいち書いたらあなたは卒倒するだろうし、彼氏に会うのがこわくなるだろう。

化粧というものは上手にやれば年齢にかかわらず女の魅力と品格をまちがいなく上げてくれるだろう。真近で見れば明らかに不自然である舞妓の白い顔だって、男はだまされてると知っていても綺麗と思うのである。それは化粧というものに一定の節度とルールが感じられるからだ。節度とルール、これは「化粧の礼儀作法」といってもいいだろう。大事なのは所詮「ウソ」である化粧の出来栄えではない。そんなウソで釣れる男は3級品だ。礼儀ある化粧は美しいし、良いメークというのはアートでもある。

自分に相応の品の良いアートを書けるならその能力もまたその女性の美となるだろう。その反対もある。スペインの教会でキリストの壁画の修復があまりにヘタで猿みたいになってしまった事件があった。塗ったおばさんは自称は「個展を開いたプロ」で大真面目にやったようだが、キリストの顔があまりに面白いのでジョークのポップアートとしてネットで有名になっている。

化粧も顔に絵の具で画を書くようなものだ。大事な聖人の顔を素人のおばさんに塗らせる教会もなかなかだが、大事な自分の顔に大道で絵が描けるというのも五十歩百歩だ。電車の中で食事や化粧をするというのは法律にもルールにも触れないから誰も咎めないだろう。しかしそれがオナラや排泄と同じぐらい礼儀を欠いた行為であると思う人かどうかであなたの化粧の礼儀作法は決まる。男はそういうことに敏感な動物なのである。

 

 

 

 

 

交響曲ゴーストライター事件について

2014 FEB 7 17:17:44 pm by 東 賢太郎

佐村河内守氏の交響曲が何万枚も売れているという話は聴いていましたが、クラシックなのにそれは素晴らしいなと思う反面、どこか聴くのは敬遠していました。CDショップでそれがかかっていて物々しい不協和音が鳴っており、そもそもそういう曲は好きでないと思ったせいもあります。全聾の・・・というキャッチコピーを見るとストーリーで売ろうとしているように聞こえてしまい、本当はいい曲かもしれないと思う心を抑え込む感情が即座に湧いてしまったこともあります。

単なる連想ですが、ロンドン赴任時代にグレツキというたしかポーランドの現代作曲家の交響曲が突然ヒットチャート上位の売上げを記録したことを思いだしました。CDを買って全曲聴いてみましたが、その1度が最後になって今に至っています。英国の権威ある雑誌グラモフォンが絶賛していて、あれは何だったんだろうという気持ちが強く、今も謎です。それを思い出したのも敬遠していた理由です。

ゴーストライター問題で大騒ぎのようなのでYoutubeでさがしてHIROSHIMAという交響曲を聴いてみました。第一印象ですが、これはしっかりと作られたプロフェッショナルな曲と思います。最後の静かな部分でハープが入る雰囲気、感動的な盛り上げを導く和声進行や対位法などお見事であり、もし今回のことを知らずに聞いていたら、こんなマーラー見え見えの書き方はプロなら恥ずかしくてできないだろうからプロはだしの素人の作曲に違いないと逆読みしたかもしれません。

後出しジャンケンではありますが、新垣隆氏にロックは書けないのでしょうが元ロッカーにもこれは書けないというのは音楽をたしなむ人なら誰でもわかるのではないでしょうか。ということは、音楽をたしなんでしまった人はこれを自分が書いたなどとは言えない、つまり楽譜を書けないぐらいの人でなければ怖くてつけないウソでしょう。脳に蓄積のない音が「天から降ってくる」のを信じてTV放映しようというなら、NHKは自局の視聴者が巫女の顔を見ながら死者の霊とまじめに会話できる人ばかりかどうかということをまず確認しておくべきでした。それなのに音楽のプロまでが騙されて絶賛していたというのが僕には一番不可解なポイントです。

ただ、一般の方々が騙されたと騒ぎ立てる必要があるのでしょうか。新垣氏の交響曲に多くの人が、特に被災地の方々が感動したのは事実であり、そうであっておかしくないものをこれは秘めていると思います。佐村河内氏なくして新垣氏はこれを書かなかったろうということは、モーツァルトのレクイエムは田舎の貴族が自分の曲だと世間に偽って発表するために注文して生まれたのであり、発注動機は不純でもそれなくして我々はあの名曲を耳にすることはなかったのだという事実と似ていないでしょうか。つまり佐村河内氏がどんな人かということと生まれ出た作品の価値は関係がないということです。

前回バレエ・リュスについて書きましたが、芸術作品というのは何らかの動機づけ、ミッション、トリガーがないと生まれにくいでしょう。その理由から僕はモーツァルトが3大交響曲を「自分の芸術の発露のため」に書いたという説に組みしません。交響曲という最高度の頭脳を要する音楽を作れる人間が、誰にも頼まれないのに他の仕事を投げうって70分の大曲を仕上げるというのは現代の世においては甚だ非現実的なことです。佐村河内氏のしたことを是とする気はありませんが、彼がディアギレフで新垣氏がストラヴィンスキーだという位置づけで最初から公表して進めていれば2人とも讃えられた可能性もあるのではないでしょうか。

この事件の良い面があるとすれば、聴くに堪える交響曲を生み出せる作曲家が今も存在していて(これは素晴らしい発見だ!)、売り出し方さえ工夫すれば現代音楽という特殊な世界を浮世に引き寄せるひとつの方法があるのだと取ることも可能です。ゲンダイオンガク専門家の閉じたサークルでの作曲コンクールではなく、素人の聴衆の人気投票で1位を決めて賞金に大枚をはたく企業でも出てくればシケたメセナなどよりよほど文化貢献の高い活動となり、世の中に幸福を与えることができると思うのですが。

 

今日の素晴らしい出会い

2014 JAN 21 23:23:23 pm by 東 賢太郎

たまたま昨日の今日になりましたが、僕の大変尊敬する某上場企業オーナー社長を神山先生にご紹介しました。その夕食の席で知ったのですが今日が20年来の天中殺を抜ける大事な日だったそうです。社長ご自身もそれほど星(運命)についてご造詣が深く、先生の診療所は天井を高くしたほうがいい等のアドヴァイスもあり、また先生の頸椎への鍼で効能を感じていただけたようです。社長もご本業で上海は昔から何度も行き来されていて中国についてははっきりしたご意見をお持ちです。僕の知識ではとても理解できない会話で4時間があっという間に過ぎました。

人と人のご縁とは本当に不思議なもので、社長とは昨年の出会いなのですがこうして輪が広がることでさらに大きなものができそうに思いました。先生の影響があって僕は現在は「医療」という分野に強い関心があります。その勉強をしています。これこそ人を助けることのできる、60歳からの大きな仕事になるかもしれないと感じるからです。僕は医者ではないのであくまで側面サポートですが、世界に通用する医療技術を持つ医師にスポットライトを当て、診療費は医療保険等でもっと広くカバーするやり方があるかもしれないと考えています。シンガポールは国を挙げてその方向に舵を切っていますし、個人がお金持ちのドバイは日本の名医をプライベートジェットでお迎えに来る時代になっているのです。そういう考え方をお金持ちだけでなく一般の患者さんが受益者になれる方法で実現したいと思います。高齢化社会は供給側ではなく需要(患者)側のニーズにもっと立脚した医療サービスを求める時代ですし、供給側にもっと適度な競争原理を導入すべきとも思います。

僕がこう考えるようになった契機は社長にいただいたこの本です。興味ある方は是非お読みください。アメリカについての本ですが、医療、ヘルスケア、保険などの制度についての問題はわが国も共通するものがあり、大手薬品メーカーであるファイザーの社長が中立的な視点でしている構造改革の提案はとても説得力に富んでいます。

「未来との約束」-ファイザーCEOが語る-(ハンク・マッキンネル著)ダイヤモンド社

未来との約束

 

 

 

まあいいんじゃない?について

2013 DEC 3 18:18:08 pm by 東 賢太郎

ブログと呼ばれるものを書いてみると、自分のものがYahooやGoogleの検索でけっこう上のほうに出てくることがある。ありがたいことだが、間違ったことを書けないなとちょっと気が重くなるのも事実だ。これが商売でもなし、内容が間違っていて訴訟されるわけでもないが、たくさんの人が読むということは他人様に何らかの誤解やご迷惑をおかけしない保証はない。としたら、それを防ぐのは倫理感、自制心しかない。

昔は活字には重みがあって、「名前が活字になる」というと出世か犯罪を意味していたように思う。旧世代人類である僕は自分の人事発令が新聞に載るとやっぱりうれしくて親に見せたりした。ところが今はネットに関する限りそんなのは当たり前だ。逆に、誰でもネットやメールの活字で他人を大出世させたり悪人にすることまでできてしまう。世の中にそんなに偉人や極悪人がたくさんいるわけではないのはみんな知っている。だから、そういう活字が氾濫することで、活字の方が軽くなってしまう。ことばのインフレーションだ。

ネット上だけの話ならいいかもしれない。しかしそれが現実世界に及ぶことは功罪の二面性があるだろう。現実に誰もできると思わなかった「政治革命」がアラブの春のように起きてしまう事実は、ことばが軽くなるという新現象には社会を次世代に向けて教化する原動力となるということを示唆していると思う。これからネットという仮想空間で育った世代が大人になる。彼らがリアルの世界を動かす時代になると、負の側面が目立ってくる可能性がある。

ネット販売のおせち料理が詐欺まがいだったという事件があった。ネットなんかで買うからさですんでいたが、似たことが一流ホテルのレストランでも起きだした。伊勢えびもロブスターも似たようなものだ、まあいいんじゃない?となった瞬間、ホテルもネット業者も似たものになってしまう。ことばが軽くなるということは、ことばによって抽象的なことを理解している人間の思考回路や倫理観が変質するということだ。そこまで人間の脳みそに影響を及ぼすとを象徴する事件だったと僕は思っている。

ネット上で「匿名」で書かれることば、吹けば飛ぶように軽い「ネットことば」というものによる違うワールドが人類の脳を侵食してきていると僕は思っている。某社のコールセンターの女性が何を尋ねてもあまりにマニュアル通りのことばしか発しないので九官鳥話しているようだった。ああやって九官鳥ちになりきってしまえば、他人になりすますなどお手の物だろうし、歯の浮くようなお世辞やおれおれことばで老人をだましたりも平気なのかもしれないと怖くなった。

これは「公(おおやけ)のプライベート化」とでもいえる現象だ。「おおやけ」というのは家庭内には存在しない。概念としてだけの架空の存在であって、ある意味ネット世界と似たものである。家庭内のことばだけで育っていて、公ことばは「マニュアルどおり」、という人がおおやけの視点に立てといわれても客観的に見てむずかしいことであり仕方がないだろう。だからそういう人がおおやけの場に出てくる機会は以前は少なかった。その人たちは元来、役所が守る対象であり、企業の視点からは顧客であった。

ところがネット化、マニュアル化の社会ではその人たちは人数としては大規模に雇用(あるいは契約)されていて、何らかの接客などの形でおおやけに関わってくるようになっている。別なアングルからは、そういう乱雑な人の使い方をする企業をブラック企業と呼んで社会問題となってもいる。経済学の観点から見れば、一部の企業はそうしてデフレ耐性を獲得して成長しているから、これは日本的な現象かもしれない。「おおやけのプライベート化」はそうやって静かに、しかし急速に進行している。これはなにもブラック企業だけの責任ではない。「おおやけ」を形成することば自体が軽くなっているのが根本的要因なのだと僕は思っている。社会現象というよりも脳内現象だ。

それを教育が防ぎとめているかというと、これも疑問である。ゆとり教育など論外だが、米国流のロジックと効率を重視したMBA型の教育もだめなことは僕自身の経験からわかる。学歴など関係ない。公的サービスや企業倫理の劣化は、高等教育と呼ばれるものを受けたはずの人ですら例外ではないことの証左である。最近の例でいえばJR北海道というまごうかたなき公的企業がレールの検査データを改ざんするという信じがたい事件が起きてくる。製薬会社の新薬検査データの改ざんもしかりだ。まあいいんじゃない?事故で死人が出ても謝ればいいだろう、ただしテレビの前では頭を正確に45度の角度で下げること、なんていうマニュアルでもあるんだろうかと疑いたくなる。

この問題はまた論じてみたい。偉そうなことを言う僕自身はといえば、自ら倫理観や自制心があるとことばに出して書ける立派な人間とは程遠いが、自分の多少は持っているかもしれない倫理観と自制心ではとてもコントロールできる域にない(これが重要だ)、事実と信念に対してマニアックに執着をするという気質を持って生まれてしまっている。もしそれが薄れてきて「まあいいんじゃない?」ということばが心の中で聞こえてくるようになったら、ブログを書くことはきっぱりとやめようと決めている。

 

 

 

日本が圧勝する21世紀<女性原理の時代>

2013 NOV 29 0:00:27 am by 東 賢太郎

自分はフェミニストではない。男優位とも思わない。生殖以外で男女の区分は頭にない。ただ、自分は男だが自分を作ったのは母だ。母は女性だ。

人の脳は胎内でまず女性としてできる。男性ホルモンのシャワーを浴びると初めて男の脳になる。雌雄異体になると種の保存の主役はメスだ。オスはバライエティをつける役にすぎない。不確定に分散した遺伝子を競わせるためにいる。一度の射精で精子は3億もいる。3億の中から選ばれたトップですべての人はできている。全員が金メダリストである。でないと競争に負けて遺伝子は滅ぶ。だから虫もクジャクもキレイなのはオスだ。オスがメスに選ばれる。ハチの王はメスだ。

オスが決定的に優位に立ったのは哺乳類からだ。分業が成立しオスが部族を守り戦争をになった。ライオンがそうだ。ライオンのオスは狩りはしない。種の保存が自然だのみである卵生を棄て、早産で生んでしまっておいて自力で守りながら乳で育てることで子育てがメスの重要な仕事となった。オスはオス同士が共同で社会を造ることで戦争が有利になった。戦史を生き残った社会のディファクトはオスが作った。例えば古い起源としてのローマの政治、行政、法律がそうだ。

だからいまの世界のインフラは男が男社会を前提に造ったものだ。男性脳は積上げ型、直線型で突進力はあるが複数案件同時進行には弱くバランス型でない。女性脳はその逆で突進力はないが複眼的、バランス型である。ローマ帝国が世界制覇したのは突進力ある男を政治、行政、法律で制御しバランスしながら版図を拡大したからだ。国家が複眼的だった。帝政になって男原理が勝ちその制御が効かなくなると滅んだ。ローマ皇帝に女性はひとりもいない。

米国がローマになりかわったのが20世紀だ。戦争と中立主義のバランスでパックス・アメリカーナを築いた。しかしベトナムで男原理が暴走した。同じく経済でも金融主権によるデリバティブのバブルで行き過ぎた。米国の男原理支配は限界にきた。中国はこの数年にわかに男原理に傾斜している。戦争があれば男対男で勝者が21世紀の男原理社会を支配するだろう。しかしそれは今や核戦争を意味する。核の抑止力の限界はどこかで試されるかもしれないが両国とも踏み込めない公算が強い。チキンゲームに見えない工夫をしたチキンゲームになる。そして戦争がなければ王は女性だ。

ということは21世紀は複眼型、バランス型が陰の勝者となる可能性がある。男原理の国のメンツを立てながら女房が亭主を支配するということだ。そう望むか否かはともかく、日本が女房役、女原理によるバランス支配ができるチャンスは大である。日本はそれに長けている。国ではなく個人レベルでもそういう時代になるだろう。つまり男原理のディファクトを女が壊す、凌駕する新しいバランス型ディファクトを作る時代だ。嫌煙権でホタル族になった男を見ればわかる。日本男児の進化系は草食化ではなく中性化、バランス化だ。日本女子は男子よりもっと時代に適合したバランスを持っているかもしれない。

だからこれからの行政や事業はバランス型、いわば女性原理を主にしたインフラがいずれ世界のディファクトになることをゴールとすべきだ。産業革命以来の資本主義社会は「成長ありき」できた。共産主義はその軍門に下った。成長は略奪の雅語、美称にすぎない。略奪は男の仕事だ。だから必ず戦争に至る。そしてそれは行き詰まる。成長より保全がキーワードになる。略奪を非とし和を是とする国、現金を落としても交番に届く世界で唯一の国が日本だ。だから日本が数々のディファクトを造るのが今世紀になろう。ジャパン・クールはその予兆だ。

以上、筆者の思いこみである

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なんか変だなと思ったら(情報と諜報)

 

 

オリンピックへの道 (1964年の記憶)

2013 OCT 29 2:02:29 am by 東 賢太郎

あの時、みなさんは何をされていただろうか?1964年10月10日、東京オリンピックが晴天の国立競技場で幕を開けた、その時だ。

生まれていなかった?それは失礼。

小学校たしか4年だった僕はその日を忘れもしない。秋なのに日本中が熱かった。我が家も熱かった。両親、妹と僕の4人の目はテレビ画面の開会式シーンにくぎづけになっていた。そのテレビとは、親父がその日のために一念奮起して購入した「カラーテレビ」なるものであった。

生まれていなかった皆さんには信じられないだろう。それまで、テレビに色はなかったのだ。鉄腕アトムや鉄人28号も白と黒だった。だからメンコのアトムに色が塗ってあるのがまがい物くさいと思っていた。

あの画面の聖火の色。そこに日本の輝ける未来を見た、なんて格好のいいことはまるでない。うわ~すげえ、と叫んだかどうかともかく、ブラウン管なるガラスの箱から出るまばゆいオレンジ(僕にはそう見える)に目が眩んだのだけはっきりと覚えている。

そしてそのバックで鳴っていた音楽がこれだ。今井光也作曲「オリンピック東京大会ファンファーレ」、そして古関裕而作曲「オリンピックマーチ」である。

両曲とも微細に覚えている。特に後者のサビのコードが好きだった。このマーチはいま久しぶりに聴いてみたが変イ長調であり、楽譜はないが、聴く限りサビの和音は、E♭7→A♭→C→Fm→F→D♭→B♭→E♭→A♭                     のようだ。実にモダンでカッコいい。授業中に窓から逃げたぐらい音楽の時間が大嫌いだったのにこういうのには反応していた自分が分かって面白い。

競技の思い出はあるようでそんなにない。TVにかじりついて見ていたはずなんだけど。東洋の魔女、三宅、円谷、アベベ、ヘーシンク、ショランダーなど名前はいろいろ出てくるが、やはり野球しか興味がなかったのだろう。この偏食ぶりは49年たっても変わっていないから、人間というのはなかなか持って生まれた自分を超えられないのかとちょっと寂しくなる。

7年後の小学4年生は何を思い、なにを思い出すことになるのだろう?

 

オリンピックへの道 (1964年にできたもの)

 

クラシック徒然草-鑑賞する側の作法-

2013 SEP 19 17:17:45 pm by 東 賢太郎

鑑賞する側にもそれなりの研鑽とまでは言わないが、作法がある。

ブログ九月花形歌舞伎における西室兄の指摘は正鵠を得ている。歌舞伎を知らない僕は、歌舞伎にそういうものがあるかどうかもよくは知らない。それでも、「見得の時に大向うから掛かるかけ声」というのは、単なる本能的な歓喜の雄叫びであるブラヴォーなどとは違ってタイミングを失するとアウトだということぐらいはわかる。

クラシックの演奏会というのは1時間も黙って同じ姿勢でいるのだからちょっとつらい。だから子供は入れないことになっている。しかし、おしゃべりこそする人はいないが、プログラムをペラペラめくる人は多い。あめ玉をむこうとしてセロファンのパリパリ音を延々と立てる人もいる。あまり長いので、むいて差し上げましょうかと声をかけたくなる。イビキをかいて寝る人、時計のタイマーを鳴らす人。いろいろある。

日本人は一般的に拍手の入りが早い。フライング拍手というそうだ。最後の音を待ってましたと間髪入れずに出る。ドイツやイタリアでそういうことはあまりない。余韻も音楽のうちだし、休止符で終わっている曲もある。田園交響曲などしばし誰も出ない時があって、その不意にぽっかり空いた時間がとても良い感じだった。たいしたことない演奏には拍手はそれなりにしか続かない。聴衆はとても厳しいのだ。ところが日本はそういうのでもブラヴォーが飛びまくる。あれは花束の女性とセット割でもあるのかななどと考えててしまう。

チャイコフスキーの悲愴は、第3楽章の終わりで拍手が出てもああ来たなと受け流せるだけのたゆまなき精神の鍛錬を必要とする交響曲である。しかし消えいるように終わる第4楽章の勘違いブラヴォーだけは心の防御のしようがない。一度など、やはりそれを恐れている指揮者がわざとまだ棒をおろしていないのをあざ笑うかのように見事に出た。それも、すわっ、誰かニワトリを持ち込んで首をしめたか!とびっくりするようなのがだ。あまりのフライングだったのでまさかブラヴォーと思わず本当にニワトリを心配してしまった。翌日のオケの人のブログに「光栄ですがもう少しいい声でお願いできれば」とあった。さすが紳士だ。

これもチャイコフスキーだが、5番の第4楽章だ。コーダに入る前に大音量で終止する。和音はドミナントだから「終わった感」はどう考えてもまるでない。ところが何とここで後方座席の一角を占める一群から轟音のような大拍手がおこった。それもけっこう確信をこめて思いっきりだ。100%想定外の不意打ちを食らってそこから先は僕は音楽がわからなくなってしまった。指揮者もびっくりしたろう。何とかという音楽好きの芸能人が弟子かなにかたくさん引き連れてきていたという話を後で知った。

新世界の第2楽章でイングリッシュホルンが切々とあのメロディーを吹いていると、2階席でピロピロピッピッピーと間の抜けたケータイの着メロとおぼしきものが鳴った。怒った1階の前の方の中年の男性が楽章が終わると2階に向かって大声で怒鳴った。それを見た指揮者(外人)が彼にThank you very much, sir. と笑顔で最敬礼したので場が和んだ。

まあこういうのは聴く側の研鑽というより、それ以前のマナーの話だろう。こればかりはどうしようもないので、ホールやオケを選んで出かけることになる。招待券をばらまいているようなのは概してだめだ。室内楽など好きな人しか来ないようなのはまあいい。ただ静かならというものでもなく、周囲の聴衆が感動して聞き入っているとこちらにもそれがわかる。演奏者にもわかるのだろう。そうすると名演奏になったりする。やっぱり研鑽は皆でした方がいいのかなとも思う。

 

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