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ユリア・フィッシャー(Julia Fischer)の二刀流

2013 APR 28 23:23:28 pm by 東 賢太郎

目下、僕が気になっているヴァイオリニストが3人います。ユリア・フィッシャー(Julia Fischer、ドイツ)、イザべル・ファウスト( Isabelle Faust,、ドイツ)、ヒラリー・ハーン(Hilary Hahn、アメリカ)です。何故かぜんぶ女性です。ハーンはエルガーのコンチェルト(CD)で、ファウストは去年N響で聴いたプロコフィエフの1番でノックアウトされました。

今日は3人のひとり、ユリア・フィッシャーを聴いていただきたいと思います。この人はどうしてもライブを聴いてみたい。まず、メンデルスゾーンです。

彼女が「大好きな曲を弾いて幸せ!」と言わんばかりにオケにアイコンタクトしているのにお気づきでしょうか。オケ(特に木管奏者)が それを受けて、音楽する(Musizieren)喜びを音にして投げ返す。奏者の間を音と一緒に飛び交う「幸せ!」こそ、作曲家への最大の敬意でなくしてなんでしょう。楽譜から感じ取ったスピリットを皆が共有、交感しあっています。室内楽ならまだしも、大勢でやるコンチェルトでこういうのはあまりない。彼女の精神的影響力は尋常でなく、この人はあまり類のないすぐれたミュージシャンであると思います。

しかし、それだけかというとそうではない。そこに僕は感心しています。彼女はたぶんすばらしく理知的な女性で、自分の出している音をシビアに吟味している。まず自分に厳しい人だろうと思います。それはプロなんだから当然と思われるかもしれませんが、僕の聴く限り、普通の演奏家はさっと流してしまうとか、厳密に意識がそこに集中していないとか、少なくともそう感じる部分がどこかあるのです。経過的なパッセージでそういうことがおきても、聴く方もあまり気には留めません。

普通の演奏家どころかオイストラフやスターンだってライブだとそれが結構あります。人間のやることですから、常にパーフェクトということははないのですが、しかし商品化して繰り返して聴かれる録音の場合は問題です。そこでいざ録音となると今度は安全運転に意識が行ってしまい、演奏にパッションがなくなる人が、これも多いのです。ハイフェッツなみの技術があれば弾きとばしてもほつれは見えないかもしれませんが、そういう場合、弦楽器というのは特に音程が僕にはとても気になることが多いのです。先日某CDショップへ行くと自分のCDのプロモーションで男性ヴァイオリニストがパガニーニを弾いていました。曲芸のような曲であるのはまあいいとして、音程の悪いのには閉口して鳥肌が立ち、なかなか終わってくれないので諦めてその日は家に帰りました。

それは極端な経験でしたが、大まかに言いますと、世の中の弦楽器の録音は、パッションか音程のどっちかに不満があるケースが非常に多いのです。上記の名手ヒラリー・ハーンもメンデルスゾーンのライブがyou tubeで聴けます。比べてください。良い演奏ですが、僕の基準ではパッションが勝って音程が少しだけ甘い。技術的に下手なのではありません。彼女のメンタリティーというか、どこに重きを置くかということです。こういうことを一般に演奏の「解釈」と言いますが、それはハーンの解釈なのであって、優劣ではありません。それを聴き手のひとりとして、僕が自分に合う、自分のメンタリティーからして好ましいと思うかどうかということです。

結論として、僕のメンタリティーは、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトという題材においては、ハーンよりもユリア・フィッシャーに近いものがあるということなのです。僕はなにも演奏は完璧でなくてはならないと言っているわけではありません。そうではなく、そういう微細な部分に演奏家の性格、心のあり方、音楽観などが見えるわけです。「身なりは靴で見られる」とよく言いますが、ちょっとした経過的パッセージは弾きとばしておいて朗々とした歌で勝負するというようなメンタリティーの演奏家は、すべてのジャンルで僕はあまり好きでありません。

ユリア・フィッシャーを「まず自分に厳しい人だろう」と僕が想像している根拠はまず音程です。彼女は音程の甘さをヴィヴラートでごまかそうというアバウトな弾き方を拒絶しています。音程というのは、要はドレミファ・・・です。ピアノにこの問題は存在しませんが、それ以外の楽器には、ミの取り方という大問題があります。ハ長調のミはホ長調ならドです。ピアノでは同じ鍵盤でも、純正調で和音が変化していくと微妙に違う音に弾かなくてはなりません。ヴァイオリンが主役となる音楽。協奏曲なら、チャイコフスキー冒頭、メンデルスゾーン第2楽章、ブラームス第3楽章はぜんぶ出だしの音がミです。タイスの瞑想曲もそうです。ミをきれいに取ることがヴァイオリン音楽の華であり、命だということがおわかりでしょうか。

ユリアの音程への厳しさは自然に他の奏者たちに伝播して、オーケストラまで素晴らしい音程で鳴っています。耳のいい人たち、音楽が大好きな人たちの集団ですから、いいものが聴こえてくればいい音で返す。そういう音楽家の本能が掻き立てられているように感じます。こういうことは僕は室内楽の演奏、たとえばスメタナ四重奏団のモーツァルトやジュリアード四重奏団のバルトークなどで経験したことはあっても、ずっと大きな合奏体であるコンチェルトという場では、実に珍しいことだと感じるのです。

次はチャイコフスキーです。今日初めて聴き、驚きました。すばらしい技巧とデリカシー!ここでも彼女は作曲家の言いたいことに敏感に反応し、それがオケに伝播している様を感じ取ることができます。指揮のクライツベルグがそれに充分に共感し、コクのある音響でオケをユリアと同じ方向に導いています。録音も良く、これは同曲トップを争う名演CDといえるのではないでしょうか。

ユリアは現在30歳。21世紀前半、世界を代表するヴァイオリニストになることはまず間違いないでしょう。彼女の室内楽というのはすごく関心があります。カルテットをつくれば最右翼級になる資質という意味でも同世代のヴァイオリニストで群を抜いているし、その気になれば指揮者だってあり得るでしょう。

さて、ここまで書いてyou tubeを見ていると、さらにびっくりするものを見つけました。これです。

なんとユリアさん、ヴァイオリンを置いてグリーグのピアノ協奏曲を弾いちゃってます!これも立派なものです。ちょっとのミスはご愛嬌。彼女がこの曲を愛していることがハートでわかります。僕も愛してますから。そう、これはヴァイオリンじゃあ弾けないよね。ただ、クリティカルに見れば、指揮者がだめなせいが大きいですが、彼女は欲求不満がたまったかもしれません。

日本ハムの大谷くんの「二刀流」はどうなるかわかりませんが、彼女のは堂々と世界に通用してしまいそうです。おそるべき才能に脱帽!

(追記)

彼女のインタビューをきいて、最も尊敬するヴァイオリニストはダビッド・オイストラフであるということを知りました。僕にとって彼は音程が圧倒的に素晴らししい人であり、やはり最も好きなヴァイオリニストの一人であることはこれでお分かりいただけるでしょう。

クラシック徒然草-ヴァイオリン・コンチェルトの魅惑-

また、このブログでたまたま二人のCDをトップに並べておりますが偶然ではなかったかもしれません。

ハチャトリアン ヴァイオリン協奏曲ニ短調

やはりインタビューでユリアのお父さんが数学者と知りました。読みかえすと僕はこの3年前のブログに「理知的な女性で、自分の出している音をシビアに吟味している。まず自分に厳しい人だろう」と書いてますが、やはり後で知ったことですがアンセルメ、ブーレーズと僕がひとめぼれして影響を受けた演奏家が数学に関係ある人というのは何かあるのかと感じます。

 

(追記、3月14日)

バッハの音楽というのは楽曲解釈という次元において好き嫌いが生じにくいと思う。少なくとも、僕には生じない。ソロの曲はもちろんだが、管弦楽組曲のような音楽において、オーケストラ曲なのだから楽器のバランスとか強弱のコントラストとか、ベートーベンやブラームスだったら気になる物事が演奏の是非のファクターとして認識されていないことに自分で気づく。

それは楽曲の方が宇宙の調和の如くに、あまりに完璧に書かれていて、もちろんベートーベンがそうではないということではないが、誰にも真似られないバッハ的な完成度という意味において、演奏家がエモーションや個性というもので色付けを行う余地が随分と限られているからのように思う。

バッハの時代、調律は現代と違った。違ったから平均律(ほんとうはwell tempered、程よい具合に調律されたという意味)という名前の音楽ができた。バッハがヴァイオリンやチェロの単旋律で宇宙の広がりのような音楽を発想し書き留めたのは、調律(音律)そのものに宇宙の調和の原理を見届けていたからだ、とそれを聴いていつも僕は感じる。

「ユリアの音程への厳しさ」について散々書いたが、バッハの小宇宙を描ききるのにこれほど必要とされるものはない。楽曲解釈ではない、彼の楽譜にはその手がかりとなるものは何も書かれておらず、何が正解かを知る者もいない。厳密に正確な音階と、調性に応じたピッチの取り方と、我々の時代が伝統的と感じる明確なフレージングと、それ以外に音楽の生死を決する要素の何があげられるだろうか。

これは耳を研ぎ澄ませて味わうことできる演奏だ。

 

クラシック徒然草-ユリア・フィッシャーのCD試聴記-

 

 

 

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グリーグ ピアノ協奏曲イ短調 作品16

 

 

 

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クラシック徒然草-ヴァイオリン・コンチェルトの魅惑-

2013 APR 27 0:00:53 am by 東 賢太郎

僕は幼稚園のころヴァイオリンを習ったらしい。らしい、というのは、さっぱり覚えていないのだ。母によると「泣いて嫌がった」ようで、これは思い当たる節がある。音の好き嫌いというのがあって、電車の車輪のガタンガタンは好き、ガラスを引っ掻いたキーは嫌い。まあ後者を好きな人はいないだろうが嫌い方は尋常ではなかった。耳元でキーキーいうヴァイオリンが嫌だったのはそれだと思う。

ヴァイオリン協奏曲、なんて魅力的なんだろう。我慢してやっておけばよかった。ピアノ協奏曲には、嫌いなもの、興味のないものがけっこうある。しかし、ヴァイオリンのほうは、ほぼない。バッハ、モーツァルト、ベートーベン、メンデルスゾーン、パガニーニ、シューマン、ブルッフ、ブラームス、ヴュータン、チャイコフスキー、シベリウス、サンサーンス、ラロ、R・シュトラウス、グラズノフ、ヴィエニャフスキー、ハチャトリアン、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキー、バルトーク、シマノフスキー、マルティヌー、エルガー、ウォルトン、ベルク、コルンゴルド、バーバーなど、綺羅星のような名曲たち、全部好きだ。

100000009000008221_10204しかしいつでも聴きたいものはベートーベン、メンデルスゾーン、ブラームス、チャイコフスキー、シベリウスの5大名曲だろうか。この各々についてはいずれ書こうと思う。LP時代はメンデルスゾーンとチャイコフスキー表裏で俗に「メンチャイ」と呼ばれていた。僕もアイザック・スターン/オーマンディー/フィラデルフィア0.のメンチャイ(右はそのSACD)で初めてヴァイオリン・コンチェルトの世界へ入った。スターンのヴァイオリンの素晴らしさ、オーマンディーの伴奏のうまさは天下一品であり、これを永遠の名盤と評してもどこからも文句は出ないだろう。この2曲の最右翼の名演でもあり、ヴァイオリン協奏曲というジャンルがいかに魅力的かわかる。

アイザック・スターン(1920-2001)は84年4月にデイビッド・ジンマン/ニューヨーク・フィルとフィラデルフィアに来てブラームスをやった。忘れもしないが、第2楽章に入ろうとしたときだ。ちょっと客席がざわついていると首をこちらに向けぎょろ目で睨みつけ、客席は凍って静まった。マフィアの親分並みの迫力だった。しかしその音色はこのメンチャイそのものの美音で、すごい集中力で通した迫真のブラームスだった。

41ZJ740DQEL__SL500_AA300_               ベートーベンは94年にミュンヘンで聴いたチョン・キョン・ファの壮絶な演奏が忘れられない。右のテンシュテットとのCDはあの実演の青白い炎こそないが89年のライブであり、これもこれで充分にすごい。

また、ベートーベンはこれも84年2月17日にスターンで聴いたがこっちはムーティーの指揮が軽くて感興はいまひとつだった。名人がいつも感動させてくれるとは限らないのだ。

 

4197TCSJ9DL__SL500_AA300_さてこのチョン・キョン・ファだが、84年2月3日に フィラへ来てムーティとチャイコフスキーをやった。ベートーベンはだめなオケもチャイコはオハコだ。この演奏の素晴らしさは筆舌に尽くしがたく、彼女の発する強烈なオーラを真近に受けて圧倒され、しばらく席を立てなかった。右のCDも彼女のベストフォームに近い。この曲、一般に甘ったるいだけと思われているが、とんでもない。この作曲家特有の熱病にかかって精神が飛んだような妖気をはらんでいるのだ。そういう部分を抉り出すこの演奏は実におそろしい。出産を境に弟ばかり活躍が目立つようになってしまったが、ぜひ輝きを取り戻してほしい。

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さてチャイコフスキーだが、どうしても書かざるをえない物凄い演奏がある。ヤッシャ・ハイフェッツ/ライナー/シカゴso.盤(右)である。トスカニーニが最高のヴァイオリニストと評したオイストラフその人が、「世の中にはハイフェッツとその他のヴァイオリニストがいるだけだ」と言ったのは有名だ。ブラームスはいまひとつだがチャイコフスキーはここまで弾かれるとぐうの音も出ない。超人的技巧だが鬼神が乗り移ったという風でもなく、サラサラと進んで演奏が難しそうにすら聞こえない。これでは「その他のヴァイオリニスト」たちに同情を覚えるしかない。

 

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ブラームスは名演がたくさんあって困る。ピアノ協奏曲2番とともに僕が心の底から愛している音楽だから仕方ない。まずはダビッド・オイストラフの名技を。クレンペラー盤(右)とセル盤があって、どっちも聴くべきである。前者はオケがフランスで腰が軽いのが実に惜しい。それでもクレンペラーのタメのある指揮に乗って絶妙なヴァイオリンを堪能することができる。

 

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シベリウスは一聴するとちょっととっつきにくい。僕も最初はそうだった。しかし耳になじむと他の4曲に劣らない名曲ということがだんだんわかるだろう。ダビッド・オイストラフはオーマンディー盤(右)、ロジェストヴェンスキー盤とあるが、どちらも素晴らしい。シベリウスを得意としたオーマンディーはスターンとも録音していて、これも甲乙つけがたい名演である。

 

 

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最後にメンデルスゾーンをもうひとつ。レオニード・コーガンがマゼール/ベルリン放送so.とやったものだ。この頃のマゼールは良かった。この曲の伴奏として最高のひとつだ。コーガンはやや細身の音で丹念に歌い、この曲のロマン的な側面をじっくりと味わわせてくれる。終わると胸にジーンと感動が残り、演奏の巧拙ではなく曲の良さだけが残る。本当に良い演奏というのは本来こういうものではないか。

以上、この5曲は、ヴァイオリン協奏曲のいわば必修科目であり、クラシック好きを自認する人が知らないということは想定できないという英数国なみの枢軸的存在だ。ぜひじっくりと向き合ってこれらのCDを何度も聴き、心で味わっていただきたい。一生に余りあるほどの喜びと充実した時間を返してくれること、確実である。

 

(補遺、2月15日)

チャイコフスキーでひとつご紹介しておきたいのがある。

藤川真弓 / エド・デ・ワールト / ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団

いまもって最高に抒情的に弾かれたチャイコフスキーと思う。じっくりと慈しむような遅いテンポは極めて異例で、一音一音丹精をこめ、人のぬくもりのある音で歌う。第1楽章の高音の3連符は興奮、耽溺して崩れる人が大家にも散見されるがそういうこととは無縁の姿勢だ。感じられるのは作曲家への敬意と自己の美意識への忠誠。チャイコフスキー・コンクール2位入賞の経歴をひっさげてこういう演奏をしようという人が今いるだろうか。

(曲目補遺)

ボフスラフ・マルティヌー ヴァイオリン協奏曲第2番

1943年の作だがミッシャ・エルマンのために書いたロマン派の香りを残す素晴らしい曲。近代的な音はするが何度も聴けば充分にハマれ、食わず嫌いはもったいない。第2楽章などメルヘンのように美しい。

 

(こちらもどうぞ)

マスネ タイスの瞑想曲

 

 

 

 

チャイコフスキー交響曲第6番ロ短調 「悲愴」

2012 OCT 13 11:11:05 am by 東 賢太郎

だいぶ前ですが、英国の自動車関連の調査・プロモーション機関であるRAC Foundationから、自動車の運転に危険な曲リストと安全な曲リストが発表されました。

危険な曲はワーグナーのワルキューレの騎行、安全な曲はビートルズのヒア・カムズ・ザ・サンだそうです。ちょっと「猫に聴かせる音楽」に近い感じもしますが、音楽が人間に何らかの生理的影響を与えるのは確かでしょう。

僕にとって運転中に最も危険な曲はこれ、チャイコフスキーの悲愴交響曲です。この音楽は何度聴いても僕には強烈なインパクトがあり、最後のコーダ(結尾部)が鳴り出すと、もう手も足も出ず、涙があふれて動けなくなります。正面衝突は必至と思われます。

「今度の交響曲にはプログラムはあるが、それは謎であるべきもので、想像する人に任せよう。このプログラムは全く主観的なものだ。私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。」

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ピョートル・イリイッチ・チャイコフスキー (1840-1893)

 

 

チャイコフスキーはこう謎めいた言葉を残し、この曲の初演を指揮したわずか9日後にぽっくり死んでしましました。だからその死因について憶測が飛び交っているのはモーツァルトのケースと似ています。川の生水を飲んでコレラに意図的になったという説、毒殺説が初めは主流でしたが、わりあい最近になってヒ素服毒による自殺説が発表されました。

彼はサンクトペテルブルグ法律学校(超エリート校)卒の法務省キャリア官僚という秀才ですが、ホモでした。貴族の甥と関係を結んだため、秘密法廷(法律学校同窓生の裁判官、弁護士、法律学者等が列席)なるものが開かれ、そこで学校と彼の名誉を慮ってヒ素服毒による自殺が決定・強要されたという説です。

真相は闇の中です。モーツアルトと違うのは、遺体が消されてしまったわけではない点です。そもそも、なぜ司法解剖しなかったのでしょうか。死因が当時の周囲の人にはわかっていたか、少なくとも不審なものではなかったからでしょう。それなら毒殺など他殺説は消えます。

彼が14歳の時に母親がコレラで亡くなっており、彼自身が川につかって自殺を図った前科がありますからコレラ説かなとも思いますが物証に欠けています。仮にそうであっても、なぜ自殺したのかという謎は残ります。

確実なのは、

「 私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた」

と彼が言っている点です。悲しい、泣きたいという感情は、ふつうなにか具体的な、現実世界の出来事がもたらします。誰かと永遠にお別れするとか、大事な何かがなくなるとか・・・・。その「なくなる何か」がこの曲と不可分に結びついているということです。

彼は名誉もお金もあり、鬱病気味ではありましたが死に至る難病に侵されていたという事実は記録がありません。シューマンの晩年のように精神錯乱状態にあったとか、ベートーベン、スメタナ、エルガーのように聴覚に問題があったという記録もありません。現に、この曲を作曲するほど理性は冴えわたっていました。

まったくの私見、憶測ですが、「何か」は彼の性的嗜好と関係がある気がします。女性と結婚して逃げ出して自殺まで図った人です。関係したと推察されている男性は甥まで入れて多数であり、彼との関係ができた直後にピストル自殺した人までいます。若いころ亡くした最愛の「恋人」がこの世にいないのは信じられないと、晩年になっても書いています。ホモでない僕にはわかりませんが、その世界の人しかわからない何かがあったのかもしれないと考えています。

僕は、

「悲愴交響曲はダイイングメッセージだった」

と考えています。何が原因だったのかは史実を探らないとわかりません。ただ、それが何であれ、我々には楽譜という証拠物件が残されています。

僕はこの曲をシンセサイザーとキーボードで全曲MIDI録音しました。その作業中に、この曲の楽譜には、種々のメロディーを構成する音型が実に巧妙に全楽章に配置されていることに気づきました。あたかも何かの暗示かメッセージのように。第4楽章は、丸ごとそのものがメッセージです。

第4楽章の最後で死の暗示であるドラがなります。すると教会で葬式の暗示であるトロンボーン(チューバ)の4重奏が徐々にテンポをおそくしながら、徐々に音を弱くして響きます。最後はpppppというこの曲で2番目に弱い音まで達します。

一瞬の沈黙の後、コントラバスが心臓の脈動のような音型を鳴らします。ここの速度記号ですが、非常に意味深です。Tempo giusto  とは1分間に四分音符=80で「心拍数」をあらわすとされています。チャイコフスキーはここに Andante giusto と書き込み四分音符=76としています。このコントラバスが心臓の音でなくて何でしょうか。

それにのって弱音器つきバイオリンがG線(一番低い音の弦)のハイポジションで世にも悲痛な旋律を歌います。これはG線で弾かないと絶対に出ない音色で、僕には女性の悲嘆に満ちた泣き声に聞こえます。並尋常でない悲しみが一気に全身にまとわりついてくるようで、鳥肌が立ちます。

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これは第2楽章の中間部で5度上に現れた旋律の変形です。

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また、トロンボーンの和音も2+3のリズムで、4分の5拍子だった第2楽章を暗示しています。第2楽章は人生の夢、あこがれを表したものと思われ、人生の最期に至って、それが脳裏に走馬灯のように回想されるのです。

だんだんと楽器が減っていき、泣き声の旋律はチェロに移ります。それも止み、チェロが2回、息を吸って大きなため息をつきます。心拍はだんだん弱くなり、最期はコントラバスのピッチカートが5回そーっと鳴って心臓が止まり、曲を閉じます。ご臨終です。

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映画のようです。人間の死にざまをこんなにリアルに活写した音楽はありません。最後まで短調のまま。そして聴き手はそこからは無音という深い闇に包まれるのです。

どうしてこんなものを書いたのでしょう?

交響曲というものは、仮に短調で始まっても最後は長調でハッピーエンドとなるのが通例です。最後は盛り上がってジャンと終る。短調のまま終わるメンデルスゾーンのイタリア(4番)だってリズムは飛び跳ねて熱狂していますし、静かにおだやかに終わるベートーベンの田園(6番)やブラームスの3番だって短調ではありません。マーラーは悲愴交響曲を指揮者として何度か演奏しています。やはり消えるように終わる彼の第9交響曲のエンディングは悲愴の影響で書かれたと思います。

ジャンと終らない交響曲といえば、ハイドンに告別というニックネームの交響曲(第45番)があります。オケの楽員がひとりずつ立ち去って減っていき、最後は2人だけ。これは早く家に帰りたい楽員の気持ちをハイドンが代弁して王様にわかってもらおうと暗示したもので、王様はそのメッセージをちゃんと理解しました。

チャイコフスキーがスコアの最後の3ページに込めた聴衆へのメッセージは、「来たるべき自分の死」であったと思います。そして、死んだあとにはこれをレクイエムにしてくれという遺言だったと思います。

ちなみに悲愴の第1楽章はコントラバスのミとシ(空虚5度)でうつろに開始します。序奏は深い闇の中から始まるのです。低音のミのほうが半音ずつ下がっていきます。第4楽章コーダと同じです。ファゴットのうめくような旋律が弱拍で息を吸い強拍で吐くパターンも同じ。sf(スフォルツァンド)の大きなため息もちゃんと2回出てきます。悲愴を何回も聴くとこの序奏が臨終シーンのフラッシュバックになります。なんという巧妙な造りでしょうか。

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この第1楽章に、すでに第2,3,4楽章の素材となる断片が萌芽のように各所に見つけられます。途中まで、たとえば第3楽章まで書いてから「何か」が起きて、尋常でない第4楽章をレクイエムとして付け足したのではないことがわかります。まさに第4楽章が付け足しであったベートーベンの第9交響曲では、それを隠ぺいするために前楽章までのテーマの引用と否定というわざとらしい(涙ぐましい)努力があり、かえってそれで真相がばれていますが、悲愴では逆に、171小節と最も短い第4楽章のためにそこまでの道のりがあったことがわかります。全曲があらかじめ入念に、理性的に、緻密にプログラムされたもので、チャイコフスキーの頭脳が冴えわたっている様には驚嘆するばかりです。

第1楽章でファゴットにppppppという異常な弱音を低音部で要求しています。ファゴット奏者にはイジメに等しいそうです。「こりゃ無理だ」と断念してバスクラリネットで代用する指揮者がほとんどです。

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ストラビンスキーの春の祭典の冒頭ハ音のようにある特別な音色効果を狙ったものかどうかはわかりません。前に吹いていたクラリネットにpppをつけたので、だんだん弱くなって必然的にp6つになってしまったようにも見えますが、それなら長めのデクレッシェンド記号を書いておけば済んだのではないでしょうか。

また、第4楽章冒頭の旋律は1音づつを第1,2バイオリンに交互に振り分けて弾かせています。これもとても異常です。

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当時は第1、第2バイオリンが左右に分かれた両翼配置でした。だからこの旋律は1音づつ右左右左・・・と聞こえました。そういうステレオ効果を狙った可能性は否定できませんが音楽的に本質的なこととは思えず、むしろ絶対にレガートに弾かせたくないという断固とした意思を示すためだと思います。

以上の2つの例は異常なオーケストレーションとして昔から有名な個所です。彼は管弦楽法を熟知した大家です。その彼がなぜそんな妙な指示をしたかです。自分が指揮するならオケにそう命令してやらせればいいことです。「もっと小さく!」とか「もっと音を切れ!」とか。これはどんなアバウトな性格の指揮者やファゴット奏者でも無視できないように、がんじがらめに縛りつけたとしか思えません。

別な例ですが、マーラーはトランペット奏者を楽章の途中で舞台裏に回らせるときに「ただし足音を立てるな」と楽譜に書いて奏者から「バカにするな、そんなこと当たり前だろう」と不興を買っています。部下をとことん信用しない上司だったのです。しかし、わかっていても、後世に世界で一人ぐらいデリカシーのないトランペット吹きがいて、どたどたと靴音をさせて楽章を台無しにされてはかなわない。その可能性を封じておきたい。完全主義者なのです。

チャイコフスキーの他の楽譜で彼がそこまで指揮者不信だった形跡はありません。ということはこれは何を意味するか?彼は「もうこの作品を自分が指揮することはない」「楽譜に語らせるしかない」と知っていたのではないでしょうか。病気でもないのに。だから、他人に間違った解釈をされ、辞世の大作が意図と違う形で後世に残ることを確実に回避するために、異常な指示を書き込まざるをえなかったのではないでしょうか。僕はそう考えています。

 

セルジュ・チェリビダッケ /  ミラノ・イタリア放送交響楽団 (22nd Jan 1960 ライブ)

Celibidache僕は悲愴の最高の名演にこれを推挙する。チェリビダッケの鬼才を示す録音としてこれ以上のものもない。これほどのオーケストラの技術的限界とマーチ主題の減速のある演奏を僕が許容することは99.99%ないが、それを相殺して余りある決定的な指揮の意志力と楽曲解釈の凄味は音楽鑑賞をする僕の根源的な領域に触れる問答無用のチョイスだ。一音符たりとも無為に鳴ることを許容しない、真実の指揮とはかくなるものだ。眼光紙背に徹すスコアの読みはMPO盤より鋭く、放送局のオケでさらに直截に音化され、第1楽章展開部では激した叫び声が上がる。リハーサルで目撃した驚異の専制からしか生まれえぬ音楽が聴こえる。運命の鼓動をきざむ終楽章コーダに衝撃を受けない人があろうか。これぞレクイエムとしての悲愴であり、ここを冒頭序奏部、第2楽章中間部と見えない糸で結んだチャイコフスキーの人生交響曲の設計意図が解明される。チェリビダッケ恐るべしだ。

 

これが当初書いた2種(原文のまま)。

エヴゲニ・ムラヴィンスキー /  レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団   (ドイツ・グラモフォン、ウイーン録音)

泣く子も黙る天下の名盤です。必ずしも楽譜にこだわってない主観的な演奏ですが、カラヤン盤はけなしても、これをけなした人を見たことがありません。そんな勇気はおそらく誰にもありません。これを耳に刻み込むことで、ほかの名演奏と比較するベンチマークとされることはリーゾナブルであります。

 

 

セルジュ・チェリビダッケ/ ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

テンポが常軌を逸しています。だからファーストチョイスにはおすすめできません。ムラヴィンスキー盤を聴かれてから比較してください。しかし強烈なインパクトです。チャイコフスキーは優雅で甘美などというイメージは粉々に砕け散るでしょう。第4楽章コーダに楽譜にはないティンパニを加え、ここが(ティンパニが入っている)第2楽章中間部のリフレーンだという主張をしています。僕には葬送にきこえます。

 

 

さらに追加していきましょう(2016年1月11日~)

 

イーゴリ・マルケヴィッチ /  ロンドン交響楽団

41C6WNM1BJL暗い思索の沼にひきこまれる冒頭から只者でない気配が支配。第2主題は細心の計算と彫琢で合意した弦5部の息をひそめたフレージングでムラヴィンスキーと双璧。上記の2枚同様、指揮者の圧倒的なオーラと支配力のもとでないとこういう音はしない。第2楽章中間部は弦主体で音色に変化なく繰り返しもせず、チェリビダッケに劣る。第3楽章、付点音符のはね方が沈着な歩みに秘めたエネルギーを示唆するが特に何もなく終わる。終楽章もドラ(あまり品がない)までは特筆することはなく筋肉質のタッチで進む。そしてコーダ。ここで冒頭の暗い思索の沼が再び現れ、死の淵に立つ。

 

ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

8047種類あるカラヤンの悲愴、僕はこの曲を64年盤で覚えたが第3楽章にシンバルの意味不明の改変があり初心者にお勧めしない。世評高い84年盤はVPOを手なずけきれない感じが残り代償として作りすぎに陥ったように思う。1971年のEMI盤は第1楽章第2主題、第2楽章のポルタメントが象徴する角の取れた流線型のアプローチが良くも悪くも明確(僕はいやらしいと思うが)。後者中間部のテンポ減速、ティンパニなど重要箇所の処理がおおむねagreeableで、第1楽章展開部はアンサンブルが乱れるほどぐいぐい推進力にまかせて押す。手兵BPOを意のままに動員してやりたい放題やったこれの価値は高い。ここまで飛ばすかというほど快速の第3楽章は、そういう曲なのか?などと考える間を与えぬ高性能オケ演奏の快感放射になぎ倒される。そんなことは悲愴交響曲にはなしなのである、常識では。そして、そこまで暴れても71年盤が意味を持つのは終楽章が素晴らしいからだ。ここまでああだこうだと書いた俗事が終結に至って一点に凝結して浄化され、それもオケの名技も実はこのコーダのためにあったのだという全面的な納得が体を包む。僕はここの意味をこれで知った。人生ってきっとこうじゃないかと。SACD(写真)を買ってみたがこれでその感動が特に増幅するわけでもない。CD、LPで充分と思う。

 

ヴラディミール・ゴルシュマン /  ウィーン国立歌劇場管弦楽団

ゴルシュマン(1893-1972)はパリ生まれでアメリカに帰化したユダヤ系の指揮者である。この録音はヴァンガードなる米系資本レーベルのためのウィーン・フィルを名のることもある母集団のメンバーによるオケによると思われる。録音年は50年代末らしく、カラヤン旧盤、マルティノン盤の直後か。アンサンブルは洗練されず第1楽章の最後のティンパニの音程など不備がある。指揮者の声が聞こえるほど気合いが入っているわりに明晰なアプローチでべたべたしない(ゴルシュマンはフランス人だ)。注目は第2楽章中間部のティンパニの扱いと、終楽章のコーダ(チェリビダッケの項参照)。鋭いリーディングと思う。後者をこんな遅いテンポで綿々とやった例はフリッチャイもそうだがあまりない。ダイイング・メッセージと強く意識させる解釈で異色である。

ゴルシュマンはこのブログに特筆したグレン・グールドとの素晴らしいベートーベン協奏曲第1番を録音している、非常に不当に評価されている指揮者である。

ベートーベンピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15

 

カルロス・パイタ /  ナショナル・フィルハーモニー管弦楽団 

61W8W8kiVzL__SS280_PJStripe-Robin-JP,TopLeft,0,0パイタ(1932-2015)が昨年12月19日に亡くなったのは知らなかった。アルゼンチン生まれでブエノスアイレスのテアトロ・コロンでフルトヴェングラーを聴いてめざめ、指揮はロジンスキーに弟子入りした。曲の大局のつかみ方に才を感じる。ワーグナーのリング抜粋など名演だ。この悲愴も山あり谷ありの曲想をライブのごとく面白く聴かせる力は凡俗の指揮者ではない。Lodiaという消滅したレーベルでしか存在が見えず僕も一芸指揮者と思っていたが評価されるべきだろう。amazon、i-tunesで右のジャケットのものが買える。ご一聴をお薦めしたい。

 

フェレンツ・フリッチャイ /  ベルリン放送交響楽団

61dkLpHXJmLフリッチャイ(1914~1963)は白血病の闘病生活から復帰して59年にこれを録音した。大変に主情的な演奏で基調は全曲にわたってスローテンポだが、第1楽章第2主題の前でトランペットが入ってからの加速が唐突だったり気になる。彼の死という文脈もあってか非常に人気の高い録音だが、発売許可しなかった彼の芸術家魂のほうが理解できる気がする。第3楽章2度目のマーチ主題の意味不明の減速はフルトヴェングラーもやっているが聴くに堪えず、スコアに指示がないものでおよそあり得ない。この演奏の唯一の価値は終楽章にあるだろう。コーダ、G線のヴァイオリンが幽界の音を奏でるのは秀逸。翌年のライブ録音(バイエルン放送SO)のここは遅すぎ、これがぎりぎりの悲しみの音楽であろう。

 

ベルナルト・ハイティンク /  アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

UCCD-2174_hEg_extralarge5番、ブラームス2番に書いたことがほぼ当てはまる。アンサンブルの良さ、フレージングの高潔な趣味の良さは出色であり、この楽譜がどうしてこうなるのという疑念が皆無なほど深いリスペクトを持ってスコアを音化している。マーチの減速のような身勝手はなく、お涙頂戴のためなら何をしても良しのような姿勢は微塵もない。本稿記載のようにチャイコフスキーは遺書としてmeticulousに指示を書きこんでいるのであり、ハイティンクのアプローチが正道と思う。

 

セミョン・ビシュコフ / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

zaP2_G2770644Wビシュコフはフランクフルトでパリ管とラフマニノフをやったが失念して聴きのがし地団太を踏んだ記憶がある。何を振っても面白い人で、深い呼吸のフレージングが特色。この悲愴も、冒頭の深い静寂からたちのぼる緊張が一流の予感をただよわせる。アレグロは明瞭なリズムが楽器をかけめぐり、第2主題への緩急も実に自然。第3楽章の主題を吹く2本のクラリネットの8分音符の音価を短めにとらせるなど34歳の若手にしてやりたいことをやっており、アンサンブルはやや粗い部分もあるが、名門オケを引き回しているという意味ではケルテス、シャイーのウィーンフィル録音の痛快さに通じる。87年、まだ駆け出しの頃ACOでPhilipsへのメジャーデビューの録音と思われるが実に初々しく僕は好きだ。

それにしても、なにを今さらだが、終楽章のコーダはなんという凄まじい音楽なのだろう。昨日はエロイカの第2楽章の「あの部分」を書いたが、あれもそうなのだが、こういうものはもう楽器の音というものを遥かに超えていて、血しぶきを上げて五臓六腑をえぐりだすほど心の深奥に響き渡る音魂(おとだま)のようなものだ。並みいる天才の中でもモーツァルト、ベートーベンと、ほんの限られた人しかそういうものは書いていないのであって、チャイコフスキーがここに名を連ねてくるのは意外に受け取られる方も多いだろうがこの曲がそういう音を奏でることはまぎれもない。悲愴交響曲は人類史最高峰の音楽と言ってはばかることはない(ビシュコフ稿、3月9日)。

第4楽章

 

パウル・ファン・ケンペン / アムステルダム・コンセルトへボウ管弦楽団

800a3195-5581-4228-a1c9-2b500353beff個人的ノスタルジーになるが悲愴は僕が初めて熱中した交響曲であり、耳に甘酸っぱい。ティーンエイジャーの熱病みたいなものでもあったと思う。高校2年の17才。まずカラヤンのLPを買い(3月)、3年生になってムラヴィンスキー(7月)、そしてこのケンペン(8月)と立て続けに3枚買ってむさぼるように聴いた。

7、8月の盛夏、それは僕の人生では野球を意味した。今日たまたま七分咲きの桜の間をぬって四谷からニュー・オータニへ向けてぶらぶら歩いた。右側の眼下、真田堀に上智大学の野球場がある。当時、九段高校硬式野球部の監督さんは上智の方だったものだからそこでよく練習があった。16才、2年生の大会直前、たぶん7月初めだ。

僕は練習試合で右ひじに異常をきたしていた。投球はできず、一塁コーチャーズボックスのあたりでひとりバットを振っていたら、「おい東、やめとけ、打つのはいい。お前が投げれんのが一番痛いんだ」と遠くで先輩がどなった。それが、あそこだ。しばしぼうっとして柵にもたれ、大学生の練習を眺めていた。しばらくしてヒジが治ったら、こんどは秋に肩をこわした。そして翌年にはとうとう野球を断念する。

17才、その翌年の盛夏。校庭に響く球音に平静でいられなかった。飯より好きで毎日熱中していたものを、身体の故障で突然に、永遠に、失う。スポーツ多しといっても野球の投手をやった人特有の修羅場と思う。この「ロス」の衝撃は失恋なんか比べ物にもならない。心にぽっかりほら穴が開いたようなもので、プライドはずたずたになり、学校に行く意味もわからなくなった(勉強する場という頭は?なかった)。

その7、8月に買った悲愴交響曲は、野球へのお別れ、レクイエムになっていたかもしれない。一緒に泣いてもらったわけではない。なぜなら僕が熱中したのは第4楽章ではなく、第3楽章だったから。この行進曲がくれるエネルギーは快かった。のちにもっと強力なものを僕はベートーベンの交響曲にもらうことになるが、この熱気と推進力が、やがて僕を勉強しようという決意に振り向けてくれた。

それがカラヤン盤であり、ムラヴィンスキー盤であったが、前者はシンバルが妙なところで鳴らされていることを知って疎遠になっていく。そこで耳に入ったのがこのケンペン盤だ。買ったのは千円で安かったからというのも情けないが。いま、本当に久しぶり、まさに何十年ぶりに聴きかえして、このレコードの演奏のニュアンスに至るまで自分の体の一部となっているのに驚いた。同窓会で旧友と話す心もちがする。

なにせホルンの微妙なミスまで記憶しているのだからベンチャーズのレコード並みだ。オケはまぎれもない、ACOだ。あのホールの音がする。こうやって刷りこまれて、自分の音楽趣味が営々と積み上げられていったのか・・・。指揮はなんとも骨太、武骨で、泣けるドラマを演じようなどさらさらない。高校の漢文の先生の音読みたいに、洗練とは遠く、ドイツのチャイコフスキー演奏の系譜で、低音を土台にまじめに誠実に語る。

しかし、だからこそ、終楽章のコーダが凄いのだ。これは知らなかった、いや、聞き知ってはいたのだろうが、その後の人生で上記の数々の録音を知り感動した心の、その海の底にはこのケンペンがあったんだとびっくりした。心臓の脈動がきこえるではないか。これは第2楽章の中間部のロ短調(ケンペンはぐっとテンポを落とす)のリフレーンだという解釈であり(なんという順当な)、弔いのようなティンパニがトントンと鳴る。

それを底流にした終楽章コーダだ。これはティンパニだろうか?なんとチェリビダッケより前これがあったのか!そしてこのテンポである、これぞ圧倒的に素晴らしい。ここに至る3つの楽章の訥々とした道のりがあって、だからこそどんなドラマよりここが悲しいのだが、それは絶対にこのテンポでなくてはならない!この悲しさ、凌駕する演奏を僕は他に見つけることはできない。

17才の僕にそれを聴き分けるのは出来ない相談だった。それが44年たった今はわかる。ケンペン(1893-1955)がこれを録音したのは58才のことだ。書いたチャイコフスキーは53才だった。悲愴交響曲は遺書だったのだよ、そういうケンペンのメッセージにきこえる。これはあらためて書くが、大変な演奏だ。これから何度も、じっくりと時間をかけて聴くことになるだろう。

 

ラファエル・クーベリック / バイエルン放送交響楽団(1972.12.4ライブ)

第4楽章コーダにティンパニを追加していると思われる希少な演奏をもうひとつ。僕はクーベリックを聴けなかったが、安手の芝居は打たない人で古典的教養に裏打ちされた解釈はいつも王道に聴こえた。その彼がチェリビダッケと同じ改変をしているのはとても興味深い。このヘルクレス・ザールでのライブ、第1楽章11分43秒に欠落があるのと展開部のアンサンブルが雑で、スケルツォはマーチの2度目からテンポが前のめりになるなど初心者には到底お薦めできないが曲を知る人には一聴の価値はあると思う。

(こちらもどうぞ)

チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」の聴き比べ(1)

 

クラシック徒然草ー悲愴交響曲のメッセージ再考ー

チャイコフスキー交響曲第5番ホ短調 作品64 

チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 作品23

チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番を聴く

クラシック徒然草-指揮者なしのチャイコフスキー-

クラシック徒然草-ファイラデルフィアO.のチャイコフスキー4番-

チャイコフスキー弦楽四重奏曲第1番ニ長調作品11

チャイコフスキー バレエ音楽「くるみ割り人形」より「花のワルツ」

 

 

 

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