田中のヒジは大変心配
2014 JUL 12 15:15:06 pm by 東 賢太郎
ただいま8回目のヒアルロン酸注射をしてきたところです。左肩の痛みは最悪期を100とすると40-50ぐらいです。だいぶ楽にはなりましたが、或る特定の角度になるとまだズキっときます。腕を振るとそこにくるのでジョギングをしなくなります。走れないという事はほぼあらゆる運動は縁遠くなってしまうので、メタボ対策と思って注射を続けています。
ヤンキースの田中がヒジを壊したそうです。これはまずい、ついにやってしまったかという思いです。経験されないとピンとこないと思いますが、ヒジ、肩のけがで即、選手生命が終わりという事もあるのが投手です。自慢にもなりませんが僕は高校時代に両方やってしまい、それで野球がほぼできなくなりました。今の五十肩はあの時の痛みとそっくりで、何かノスタルジーがわくほどです。それがヒジにくるとヒジを壊したという状態になります。ボールを投げるどころの騒ぎでない事態です。
手術で一応外科的には治るそうですが、治っても球威が戻ったケースは知りません。日本人最速161kmを記録したヤクルトの佐藤 由規も肩をやってしまいもうそのスピードは出ないでしょう。元ソフトバンクの和田、日ハムのハンカチ王子・斉藤、オリックスの馬原など、「やってしまう」と気の毒なことになるケースがほとんどです。機能は戻ったとしても体がまたやるかもというトラウマを持ってしまいうまく動かなくなる、少なくとも自分はそういう感じでした。
プロは薄皮一枚の差で一流かどうかが決まる世界ですが、その一枚をむくために投手が冒すのは廃業のリスクです。そこまで「超」一流にならなくとも一流で長くやれという方法論が、先発投手は百球で交替というものでしょう。しかしメジャーはその分中4日だし、ストレートに強い打者をかわすのがスプリットというヒジに負担が大きいのでメジャーではあまり投げないリスクの大きい変化球であったというあたりに田中の悲劇の原因があるかもしれません。
全快を祈っております。
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某社定時株主総会にて
2014 JUL 12 0:00:58 am by 東 賢太郎
先般お世話になっております某社の定時株主総会が開催され、任期1年にて最高顧問に就任させていただくことになりました。具体名、詳細は控えますが、微力ながら同社のお力になれるよう努力してまいりたいと存じます。
総会の場でスピーチさせていただいたことですが、ホールセール(B to B)出身の僕にとって同社の B to C という業務領域は新鮮です。金融業の視点で見ますと同社の3000人を超える優秀な人材や800以上ある店舗網などの有形無形のアセットは B to B のエンジンを持つことで大変な強みを発揮する可能性と潜在力があります。本構想はあくまで各論(木)でなく総論(森)の景色から着想したため木の景色から見るとわかりにくいかもしれませんが、いま僕のイメージを実現する諸条件を考えると同社は最も有利な日本の大企業の一つであり、うまくいけば最もプラス変化率の大きい企業でもあると信じます。潜在力を皆で力を合わせて表に出せば、大きな変化が起き、それは皆を幸福にします。
僕はあくまでアドバイザー、黒子にすぎませんが、同社経営陣、社員の皆様とはご一緒にプロセスを確認しつつ、それを楽しみながらやっていければと思います。
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クラシック徒然草-ワルターのモーツァルトはLPで-
2014 JUL 10 0:00:13 am by 東 賢太郎
ブルーノ・ワルター(1876-1962)という明治8年生まれの指揮者の最晩年がステレオ録音初期に重なったのは幸運だった。ピアニストだったワルターは、リスト、ワーグナー、ブラームスと深く交わったハンス・フォン・ビューローの指揮を聴いて指揮者になる決意をした。マーラーの弟子でもあった彼が米国に渡ってコロンビア交響楽団と残した録音は、それら作曲家の曲が現代音楽だった時代のタイムカプセルのようなものだ。
僕は世評の高いワルターを特に愛好する聞き手というわけではないが、交響曲でいえば既述のベートーベン3番「エロイカ」とモーツァルトならば40番と、もう一つ35番「ハフナー」を時々取り出して聴く。この録音、オーケストラの定位が当時としては良く、悪くいえば楽器がばらばらに聞こえる感じがあるが、これがオーケストラピットの中みたいなイメージでありワルターの造りたかったバランスが良くわかる。こういう録音は嫌いでない。
ワルターのリハーサル録音はモーツァルトのリンツ交響曲、ブラームスの交響曲第2番をきいたことがある。最晩年だが青年のように頭の回転が速く、早口で情報量が多い(英語の発音はあまりうまくない)。フレージング、音価、強弱の注文が多く気に入らないと何度も裏声も交えてリアルに歌って指示するが、総じて進みのテンポの速さはビジネススクールの先生を思い出すほどだ。ワルター晩年の指揮を温かみがあり滋味あふれると評する傾向があるが、晩年も彼は枯れた好々爺とは程遠く、冴えた頭脳で音楽の流れを厳しくコントロールしている。だから19世紀を知る正確なタイムカプセルとして格別の価値を感じるのだ。
ところが、困ったことに昔のCBSやソニーのLPでもCDへのトランスファーでも高音がきつくていいものを聴いたことがなく、そのせいで僕はワルターの芸術が理解できないのだと思っていた時期があるほどだ。その後も日本独自企画CDのソニー・レコード盤などを買ってみたがハイあがりがさらにひどくてまったく聞くに堪えない。最近出たタワーレコード盤も買ってみたが、どれも満足できるものはない。とにかくCDはどれもヴァイオリンの高音部がキツくて痩せており、全体に高音部と低音部が分離して中音部が薄い感じに聞こえるのだ。そんな音でモーツァルトを聴いていいはずもなく、どうして彼のコロンビア盤の評価がいまひとつなのかわかる気がする。
ところが先日、LPレコード棚に眠っていたイタリア盤(右)を聴いた。レーベル名もない怪しげな盤で、いつどこで買ったか記憶もない。たぶん85年前後にロンドンでバーゲンでもあったのかミラノ出張時に買ったかしたものだ。ところがこれがいいのだ。音が太めで弦に温かみとつやがあり、楽器の定位と分離もいい。この35番は遅めのテンポで入念にワルターのメッセージを刻み込むややベートーベン寄りの男性的解釈で好き嫌いがあろう。アンサンブルはあまり良くない部分もある。したがって僕は以前はあまり評価していなかったが、最近こういうのが良いと思うようになった。これがLPだと中音部も良く鳴り、バランスが均一になってオケに膨らみとボディができる。ああこういう音だったのかと、これが名演であることにますます納得がいくのである。録音は重要だと思う。
クラシックというのは同じ演奏(音源)が何度も手を変え品を変え出てくる。どれも同じと思っている方も多いが、実はぜんぜん別物というほど音が違っているケースもある。音によってその演奏のイメージはかなり変わる。このイタリア盤はもう市場にないだろうが、ワルター/コロンビアSOは欧州プレス盤を試してみる価値があるのではないか。
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ラヴェル 「夜のガスパール」
2014 JUL 9 0:00:28 am by 東 賢太郎
動物はだいたいメスが大きくて強い。蜂に女王はいても王はいません。配偶者を選ぶのはメス。子を産むメスこそが本来の姿で、単に有性生殖が子孫繁栄には有利という理由だけで分化したオスは、カマキリやクモなど交尾のお仕事が済めば今度は養分としてメスに食われてお役立ちもします。それが進化した人間だってきっとそうだろう。男が太陽で女が月?ちがうちがう、その逆だ。自分がそうなものだから、全員そうと思いたいだけですが。
人間界では女性は男を食いはしませんが運命を変えることはままあるようです。ロメオ君は服毒死したし、ドン・ホセ君は殺人犯になったし、ハムレット君は母に人生メチャクチャにされたし、ローレライ嬢の歌は男をたくさんライン川に沈めています。その点、人間に恋をしてしまった水の精オンディーヌはちょっとかわいそうです。イントロダクション|オンディーヌ作品紹介|劇団四季
フランスの詩人ルイ・ベルトランの遺作詩集からの3篇に想を得たモーリス・ラヴェル作曲の「夜のガスパール」はその「オンディーヌ」を第1曲においています。ただしその筋書きから創作した詩は「人間の男に恋をした水の精オンディーヌが、結婚をして湖の王になってくれと愛を告白する。男がそれを断るとオンディーヌはくやしがってしばらく泣くが、やがて大声で笑い、激しい雨の中を消え去る」とあり、音楽はこれを描いています。
第2曲は「絞首台」、鐘の音に交じって聞こえてくるのは、風か、死者のすすり泣きか、頭蓋骨から血のしたたる髪をむしっている黄金虫か(Wikipedia)という不気味さ。第3曲「スカルボ」は本来いたずら好きな小悪魔(妖精)のようですが音楽からの印象は妖気漂う悪霊という感じで、部屋の中を目まぐるしくかけめぐり、あっという間に消えます。
僕は「オンディーヌ」に氷のように冷たい水の精を見ます。月光を映える水面のさざ波、虹をえがいて降りかかる水滴。きらきらと光る細かな音のしぶきはダフニスとクロエの「夜明け」の精妙な音響世界とシンクロナイズしながらだんだん高潮し、頂点へ登りつめる和音連結も、最後にひっそりと現れる単音旋律もダフニスそのもの。冷たい女が情を高めて炎のように熱くなり、最後は嘲笑を浴びせながら冷たい水の中に消えてしまう。スカルボと同じく不意に消えてしまう女の幻影ですが、残る笑いは不気味です。
フランス語のベルトランの詩は読めませんが、まったくのイメージですがスカルボも女性のイメージではないでしょうか。暖炉の中や椅子の影からじっとこっちを見ていて、目を向けると消える。曲想は違いますが「展覧会の絵」の「鶏の足の上に建つ小屋」の面妖奇怪な幻影、「幻想交響曲」の終楽章の悪魔の饗宴を想起させ、クラシック音楽のオカルト3羽ガラスといっていいかもしれません。おどろおどろしい低音に乗って妖気を孕んだ主題が疾風のごとく走り抜ける様はいかにも忌まわしく、この曲はピアノの難曲中の難曲といわれる技巧を要しますが、いくら腕が立ってもその上に注文通りの妖気まで放つ演奏を聴くのは稀なことです。
この2つの幻影に挟まれた「絞首台」はさらに忌まわしい。死んだ犬の目から黄色の・・というI am the walrusの詩を思い出しますが、何かの光景をえがいたというよりも夜陰に刑場にたたずむ心象の描写でしょう。この残忍、無残な場所を覆い隠す不気味な静けさには女性的なものの存在を一切感じません。その黒い死の静謐を両側から包みこんで男の人生を変えようと挑む女の悪霊。僕はこの曲をそういう3楽章のピアノソナタとして聴いています。ラヴェルの音楽で最も好きなもののひとつであり、絶対に弾けないのでシンセサイザーでの挑戦意欲をかきたてられる逸品であります。
僕の最も敬愛するジャン・ドワイヤン盤は廃盤のようですがJean Doyen ravelで検索して右のマークでi-tuneで入手できます。ラヴェルと親しかったマルグリット・ロン女子の高弟で女史後任のパリ音楽院教授です。鋼のような芯のあるタッチでペダルに逃げた曖昧さの一切ない硬派保守本流のラヴェルを聴かせてくれます。オンディーヌの音の粒、詩情、スカルボのタッチの冴えなど最高に素晴らしく、技術的にはもっとうまい人がいますがそれが音楽の求めるそのものなのだと得心させるような性質のものである所こそオーセンティックである所以でしょう。なよなよしたオシャレ系がラヴェルと思っている人は是非聴いて下さい。
ジャック・フェヴリエ盤もラヴェル直伝のゆるぎない表現を感じます。これもi-tuneです。フェブリエは幼時からラヴェルに接しており、左手のピアノ協奏曲(大変難しい)の奏者として作曲者から全幅の信頼を得ていました。固めのタッチはキレと煌めきがありフレージングは明晰。実にフランス的であります。技術的には音の粒立ちと均質な揃い方などドワイヤンのほうが一枚上に思いますが、こちらはラヴェルらしい雰囲気では勝っていると思います。
サンソン・フランソワ盤は幸運にも天才肌でアル中でむらっ気のある彼の良い状態の録音となってくれていて名演です。コルトー、ロン、ルフェビュールの弟子という血統の良さ。オンディーヌで頂点を築く部分の味わいは最高でありこういう徐々に熱気が高まる音楽がはまると彼の独壇場です。特にそれが顕著なスカルボでの鬼気迫るライブのようなのりは一期一会のすさまじさで、これを凌ぐ演奏はそうは現れないでしょう。唯一の欠点はEMIの録音でタッチに芯が感じられません。SACDは聞いてませんが少しは改善されたのでしょうか。
フランソワをお聴き下さい。
(追記、16年1月23日)
オルガ・ルシナ(Olga Rusina)というピアニストを知ったのはyoutubeにあったオンディーヌでした。これがまったくもって素晴らしい。すぐにこのアルバム(右)をi-tunesでダウンロードしたのです。テンポとダイナミクスは動く。それが音楽の摂理に合って、何の無理もなく自然で、なんと滑(すべ)らかなことか!この曲がこんなに音楽的に弾かれるのは稀有で、これによってドビッシーのペレアスの延長にあることを知ったほどであります。シューマン「ウィーンの謝肉祭の道化」(op.26)がまた最高であり、こんな録音が埋もれてしまっては大損失だ。オルガ・ルシナについて知りたかったのですがwikipediaすらなく、HPはロシア語(ポーランド語?)だけでお手上げです。これをダウンロードしたのが12年だったと思うのですが、ところが、さきほどHPを見たら13年に亡くなっているではないですか・・・。55年生まれで僕と同じなのに・・・。
シューマンです。
オルガ・ルシナ、ぜひとも多くの方に聴いていただきたいと願います。こちらもどうぞ。
こちらはたまたま見つけたケイト・リューの演奏。彼女は後にショパンコンクールで3位受賞することになるが16歳のこのスカルボは凄い。
(こちらへどうぞ)
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ショパン 14のワルツ集
2014 JUL 6 15:15:40 pm by 東 賢太郎
僕はショパンは好きではないが、よく知っている。簡単なものは弾ける。いくつかの曲は高く評価してもいる。それなのになぜ好きでないかというと、女の子の嫁入り道具みたいに扱う風潮があって、そういう空気に触れるのが嫌いなのだ。
僕はアンチ巨人だが、選手の能力は評価している。それと似ている。嫌いなのはオロナミンCのCMみたいなノリの空気だ。野球界は俺のものみたいな傍若無人ぶり、それが時としてジャイアンツ愛とか、とにかく気色が悪い。できれば負けて欲しい。
ショパンを味わえたと思ったのはアルフレッド・コルトーが弾いたワルツ集(1934年盤)のLPを買ってきて聴いたときだ(写真はそのCDであるが)。音は悪いし、こんなにミスタッチだらけのレコードも古今東西そうあるものではない。初めはなんだこれはと思った。
それまで、ソナタ3番、24の前奏曲、2つの協奏曲、マズルカをよく聴いていてワルツは軽く見ていた。子犬の・・なんていうお子様向け風のタイトルが出てくると当時の僕はもうだめだった。向かいの家人がよくノクターンを弾いていて、これがまたへたなものだからショパンはかんべんしてくれ状態が進行した。
そこで聴いたコルトーのワルツは誰のとも違った。崩しまくりだ。楽譜の原型をほぼ留めないフレーズもある。私の曲だ、文句あるか、そうきこえる。何だこれは?ところが、これをきいてうーんと思った。9番(作品69の1、変イ長調)だ。
いきなり伸縮自在のわがままフレージングでくるが、色で囲った部分、中音がきいたアルペジオで和音が崩れ変二音が伸びるとエアポケットで宙に浮いて静止。これが何とも、艶っぽい。といっても、女のものではない。いや女だったら気持ちがわるい。これは男の色気だ、それもいかにもしゃれ者のフランス男の。ショパンは男の音楽なのだと思わせてくれる。彼が貴族の女性にもてたのは多分こういうものが随所に潜んでいるからで、しかし楽譜はそんな風には書いていない。書けもしない。コルトーは直感で、しかし、それを引きずり出してデフォルメしている感じがするのだ。だから恣意にきこえず、納得してしまう。いろんな人のを16種類持っているが、この異形のショパンにノックアウトを食っているのでなかなか抜けきれず困っている。
ヴィトルド・マルクジンスキーはポーランド語のショパンだ。今流のスマートできらびやかな演奏に比べると装飾音の弾き方やルバートの仕方が田舎くさい。しかしパリ仕込みのタッチはキレがありペダルを控えてべたべたしない。当世お嬢さん風とは対極の保守本流と思う。好き好きだが僕はこういうのに耳を澄ます。
やはりポーランド人のシュテファン・アスケナーゼはモーツァルトの息子の孫弟子で、フランツ・リストの孫弟子でもある。一聴するとまったく地味でミスタッチもあり、このCDをほめる人は変わり者だろう。しかしちょっとしたリズムの変化や和音の造り方など19世紀風老舗の味で彼ほどワルツらしく弾く人もあまりいない(9番の左手!)。録音がモノなのはいいがタッチがうまく入っていないのがつくづく惜しい。
一般に人気が高いのはアルトゥール・ルービンシュタインだろう。確かにうまい。この華やかさは彼天性のもので、現代のショパン演奏のイメージは彼が作ったかもしれない。芸術より「芸」を感じる。僕は彼のベートーベン協奏曲集やブラームスの第1協奏曲を高く買う人間だがショパンは大向こう受けを感じてしまう。芸というならコルトーもそうだが2人はショパンの中に見ているものが違う。彼が見たものを好きかといわれれば、それこそが僕をショパンから遠ざけるものだ。
芸というならジョルジュ・シフラもいる。煌めくような音でとにかく、うまい!リストが弾いたらと空想するならこれだ。細かいテンポのギアチェンジの振幅はあらゆる演奏で最大級だろう。1小節だけ急にアップテンポで半音階を登るが、このぐらい指が回らないとショパンじゃないというほど見事だ。それでいてピアノ全体がバランス良く鳴っているというのはどのピアニストからでも聴けるという代物ではない。エンターテイナーではあるがコルトーと違った側面からショパンの実像をえぐった至芸として僕は大好きであり、ぜひ一聴をお薦めしたい。
新しい所でロール・ファヴル=カーン(右)はもぎたてのレモンみたいにみずみずしくデリケートだ。ロマンティックだがなよなよべたべたしないのがいい。ショパンをショパンらしくかき鳴らす技術はとても高水準でありこれは時々聴いてもいいなと思う。録音は明るくクリアな軽めの音でワルツ集向きだ。i-tuneで1,300円はお買い得だ。難しいこといわず素晴らしいピアノの音で名曲アルバム風にショパンを聴きたい人には大いに価値があろう。
もう一度コルトーの9番にもどろう。これは技術的にはやさしい。僕が弾ける少数のひとつでいつもあそこをコルトーっぽくやってみるが、悔しいが我ながらぜんぜんサマにならない。そうだよな、どうせ色気なんか無縁だもんな。この嫉妬でショパンが嫌いになっている?割とそうかもしれない。
(補遺、3月21日)
長らく聴きたいと思っていて手に入らなかったこれ、youtubeで見つけた。
べラ・ダヴィドヴィッチ(pf)
素晴らしい。彼女は基本テンポを守る。右手はルバートしても左はするなというショパンの言葉通り。変イ長調作品 34 No. 1などそっけないほどだが、そのテンポで一切崩れなく言うべきことを言いきるのが凄い。ぴんと一筋通っているのは侵しがたい気品だ。ショパンというのは弾く者の「人品」が問われるのだ。「私より彼女のほうがショパンは上手い」と語ったのはリストの再来と騒がれたラザール・ベルマンであって、それが技術の話でないことは明白である。今どきのショパンコンクールを受ける人はこれを聴いてどう思っているのだろうか。聴いてもいないのだろうか。アレグロの羽気のような軽さとフォルテの鋼鉄のような比重の対比も、どういう弾き方をしたらこういう音が出るのだろうと素人ながらに不思議に思う。べラは1949年第4回ショパンコンクール優勝者だ。
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情報と諜報の区別を知らない日本人
2014 JUL 6 1:01:54 am by 東 賢太郎
米国の中央情報局を CIA と呼ぶのは007やスパイ映画などで有名だ。最初の C は Central、最後の A は Agency である。さて真ん中の「I」が「情報」なのだが、これが何の略かと学生にきいたことがある。野村證券金融経済研究所の部長時代に14の大学で講義した時のことである。そうするとほとんど全員がインフォメーション(Information)と答えた。インテリジェンス(Intelligence)と正答したのはたしか九州大学の子だけだった。
Information も Intelligence も「情報」と訳してしまうのは、日本人が両者の違いを知らないからだ。講義はそこから始めた。
ここからは Information を情報と、Intelligence を諜報と呼ぶことにしよう。情報はネット上にあふれている。Wikipedia が代表例でありサーチ・エンジンで検索できるものはほとんどがそうだ。Siri で「近くのラーメン屋!」は僕も時々使うし、即座に10件ぐらいは候補が出てくるのはありがたい。必要な時のそういう情報はあなたに価値がある。
しかし出てきた10件のラーメン屋のどれがあなたの求める味を提供するかは Siri では出てこない。そこであなたは次に「食べログ」のランキングや「口コミ」に頼ることになるが、それでもその情報がニーズを満たすかはわからない。あなたの好みはあなたしか知らないので、結局はあなたがリスクを取って自分で決めるしかない。あなたがすぐに行動を起こすかどうかはあなたの空腹と勇気次第だ。
この例で Siri の示した10件のラーメン屋が Information であり、もしも Siri が「好みの店」まで教えてくれたら、それは Intelligence になる。そのためにはあなたのスマホはあなたの味の好みを分析し、10件の店の味のデータを分析し、その最適のマッチングを選択する必要がある。そこまでしてくれれば、あなたは迷わずその選択に従って行動を起こすだろう。
つまり情報は必ずしも行動を起こさせるものではなく、諜報は行動を誘発するものだ。大雑把にそう定義してもいい。
僕はこの話を野村の100人ぐらいのアナリストに何度もした。彼らは証券分析のプロで何千万円の年棒の者もざらにいた。超高学歴でプライドが高く、良い情報を集めるのが仕事だ、そう思っている。しかしパナソニックの財務データや業績予想や新製品情報なんか情報端末で誰でも発表と同時に知ることができる時代である。誰でもわかっている情報で株を買う人も売る人もいない、つまり行動を誘発しないのだ。
公表情報を自分の頭で考えて咀嚼して、いま株を買った方がいい売った方がいいという諜報にすればお客さんの行動を誘発できるかもしれない。君たちの仕事においては情報なんか山のように集めてもクズといっしょだ。それしか提供できない者はマスコミかTVレポーターだろ。だから僕はアナリストとしての高給なんか払わないよ、と言った。
それでもわからない者がいる。彼らは基本的に学校秀才というだけで、学校秀才というのは基本的にこういうことの理解力においてはただの馬鹿であるケースが非常に多い。そこで仕方なく全員にとどめのメールを発信した。後日みずほ証券で元野村のアナリストを採用したら、彼がそのメールのコピーを「バイブルにしています」とクリアファイルから大事そうに出して見せてくれた。社交辞令かと思ったが見ると下線だらけでぼろぼろだった。読んだが内容はすっかり忘れていた。外資系証券に行ってみて初めてその意味が理解できたそうだ。
何千万円も給料がもらえるという事は諜報には情報より価値がもっとあるのだ。
CIA はアメリカ合衆国大統領の直轄で国家安全保障法に基づく組織だ。外交、軍事に関わる諜報活動、スパイ工作などをしているらしく、予算は多分青天井だろう。僕も映画、小説以上のことは知らないが「国家が行動するに足る情報(=諜報)」を生み出さなくてはその任務はつとまらないだろう。大統領、このへんにラーメン屋は10件あります、馬鹿もん、そのどれが俺の気に入るかきいとるんじゃボケ!
今の学生は僕らの時代よりも頭を使わなくなっている可能性がある。あくまで可能性だが、そう思った方がいい。なにせ知らないことは検索すればいい。論文はコピペで書ける。漢字は書けなくてもいい。翻訳もいらない。つまり情報クラウドにスマホを通してつながっていれば、自分の脳みそはすっからかんの「端末状態」で生きていけるのだ。僕は何も教えずに「自分で考えろ。お前の頭は何のためついてるんだ?」が口癖のうるさい親父に育てられたが、若い皆さんには親父のつもりでまったく同じ言葉をさしあげたい。
以上、ちなみに大学での講義は当時ずいぶんと時間をかけて考え所要時間90分だった。このブログは約35分で書き、皆さんは5分でお読みになれただろう。この中身は検索しても出ないしWikiにも載っていないからネット時代の恩恵というわけではない。自分で考える50年の癖のおかげで、時々わずらわしいが、やっぱり親父に感謝するしかない。
(追記、3月29日)
本稿は意外に根強い人気があって今でもけっこう読まれている。読者は情報より諜報が一次元上の存在であることは理解できただろう。では情報・諜報の区別と人工知能(artificial intelligence、略してAIとも)の関係はどうか。応用問題だ、正確に答えられる人はいるだろうか?
諜報(intelligence)に形容詞artificialがついただけだ。ここで日本語はまた諜報と知能をごっちゃにする。そして、またまたみなさんは訳がわからなくなる。欧米語の訳語は日本国では訳者の趣味とTPOで変わるのだ。その証拠にガム、ゴム、グミは全部gumの訳語だ。こんないい加減な悲しい言語でみなさんは思考しなくてはならないわけだ。
西洋語をきくと思考停止してsimulationをシュミレーションなんて平気で言ってしまって、ガム、ゴム、グミとおんなじことやって堂々と会議なんかやってる。言ってる方もきいてる方も実はよくわかってない。こういうゴミみたいなことをやっていてもみなさんは永遠に論理思考はできない。
つまり論理思考には言葉の限界がある。そしてそれがない言語が数学だ。だからみなさんはそれを高校まで学んだのだ。では数学で情報と諜報の違いを書けるか。それができると言われるのがベイズ定理だ。そして人工”知能”(AI)はベイズ定理を活用する。これでinformation、intelligence、 artificial intelligenceがみなさんの頭の中でひとつの脈絡でつながった。ものを理解するというのはこういうことだ。
そして、それをintelligenceと呼ぶのである。
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脱法ハーブと証券犯罪
2014 JUL 5 20:20:13 pm by 東 賢太郎
脱法ハーブが問題になっている。英語ではsynthetic cannabis(合成大麻)であり、大麻の薬理成分であるテトラヒドロカンナビノール (THC) の効果を模倣する合成カンナビノイドを含むハーブ製品である(Wikipediaなど複数のソースによる)。
渋谷でこれを禁止するデモが起きているのを知って不思議に思ったのは、「脱法」であるなら「違法」とすべく法改正すればいいではないかと疑問を持ったからだ。しかし、調べてみると、それができないから問題なのだということがわかった。
自然科学が関わる領域での法律制定というものには限界がありそうだ。素人考えではあるが、例えばグルタミン酸は「コンブ、チーズ、緑茶などに大量に含まれるほか、シイタケ、トマト、魚介類などにも比較的多く含まれていることが知られている。」が「致死量はLD50=20g/kgである。」(以上、出典Wikipedia)。これはうまみ成分なのか毒なのかはともかく、それを知ったとてコンブやお茶を販売禁止にできるわけでもないだろう。
また法律というのは禁止する対象をしっかり定義しないといけない。さもないと冤罪や医療目的利用の阻害など問題を呼ぶ。大麻取締法、覚せい剤取締法にある定義がそれだから、大麻の薬理成分に模擬した新薬は取り締まれない。だから脱法となる。厚生労働省は「合成カンナビノイド類」を指定薬物として包括指定(772物質)する省令を公布し、3月22日から施行されたが化学式に改変を加えた合法な新物質を作る(出典Wikipedia)という「いたちごっこ」になっているようだ。
「いたちごっこ」は証券犯罪の領域でも長年にわたって存在する。特にその代表的なものであるインサイダー取引規制がそうだ。インサイダー取引とは金融商品取引法(法166②)に列挙される「重要事実」なるものを公表前に知ってその株式を売買することである。だから「重要事実」にないものでその株式が上がる(下がる)という情報を知って売買してもそれには当たらない。では「重要事実」とは?ここで上記の脱法ハーブと同じ問題が発生するのである。
もうひとつに「風説の流布」というものがある。相場の変動を図る目的をもつて風説(虚偽の情報)を流すことである。明白に虚偽とは言えなくとも、合理的な根拠のない情報であれば罰せられるおそれが ある。包括規定であるため抵触する行為の範囲は広い。そのため必ずしも個々の案件で検察が捜査を行うとは限らないが、東京地検は企業買収に絡む株取り引きで風説の流布の疑いでインターネット関連企業ライブドアの堀江貴文前社長らを逮捕(ライブドア事件)した(出典Wikipedia)。
これからも「重要事実」「風説認定」の外し方で続々と新手が開発されるだろう。元ネタが海外で作られると日本の当局には手が出しにくいという盲点をついたものが増えるのではないかというのが私見だ。アメリカから入ってくるのは脱法ハーブと同じだ。
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文武両道の人たち
2014 JUL 4 11:11:45 am by 東 賢太郎
2010年に日本代表の監督としてワールドカップベスト16となった岡田 武史氏は学年は僕の2つ下である。天王寺高校-早大であり、早稲田は政経学部と当時の入試事情を考えると大変な文武両道であられると思う。wikipediaによると彼は野球少年で岡田彰布が1学年下にいたホークス子供会のファーストだったというのも面白い。
野球界では日本ハム監督の栗山 英樹氏が東京学芸大学、NHKニュースウォッチ9のキャスター大越 健介氏が東大の投手歴代5位の8勝で史上初の日米大学野球日本代表メンバーというのもそうだ。結局どっちも大したことなかった僕にはこういう方々は仰ぎ見る憧れのアイドルだ。お三方にはますますご活躍していただきたい。
サッカーの全日本監督の語録というのがどういうわけか野球の監督のよりぐっとくるのが多いのはなぜか。イビチャ・オシム氏が選手の自己管理の甘さに呈した苦言、「ライオンに追われたウサギが肉離れになるかね?」。貧困家庭で靴下を丸めたボールを蹴っていた少年は多いだろうが、この一言で彼はずばぬけた知性のリーダーでもあることを知る。
ザッケローニ氏の敗戦の弁、「このチームの監督でいられてうれしかった。もう一度、選べたとしても同じメンバーでいく」。あそこでこの一言が出る。日本の選手たちに金言を残して下さった。プレーヤーとして実績はないがイタリアの「ビッグ4」の3チームの監督をやった男だと改めて知る。
運動歴のない僕がどうしてスポーツが好きかというと、こういうすぐれた人たちがいるからだ。結果は結果であり、全力でフェアに戦ったらもうあとは人の問題ではない。彼らの言葉に、その全力、フェアのあり方はどういうものかを教わる。アンフェアでケツをまくって逃る達人の多い昨今、スポーツって本当にいいなあと思う。
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権力は金なりである国家の品格
2014 JUL 2 1:01:11 am by 東 賢太郎
すごく若いころ、メキシコのテオティワカンという古代遺跡に行った。入り口の通路は10mぐらいのトンネル状のものが2本並んでいる。どっちが進入路、退出路ということもなく人が行き来していて何の気なく左側へ入って歩いて行った。すると急に真ん中あたりにいた警備員風の男がピピーと笛を吹いて通せんぼをし、何か不明の言葉でここはだめだあっち側へ回れ(たぶん)と指をさした。仕方なく入り口まで戻って、右側のトンネルを抜けて外に出た。ふりかえると、だめといわれた左側を人が平然と歩いてくる。
「おい、なんだ、あの野郎、日本人だと思ってなめてんじゃねえか」 「東、ちがうんだ。あいつな、要はやることないんだ。仕事のふりだよ。」 「うそつけ、やけに偉そうじゃないか」 「あのな、こういう国はな、わけもなく権力をふるいたいんだよ。賄賂もらえるから。」
なるほど。そういえばインドネシアやベトナムでも同じようなことをいわれた。何事も賄賂次第だ。ODAなんかも半分は軍や役人の懐に入ってしまうんだと。公権力、イコール、お金なんだ。権力を持つと賄賂を取って財力がつく、するとその金で権力を買えるようになってますます財力がつく。中国の高官が何兆円(!)も貯めるのは、そういう加速度的な増殖原理でも利用しないと物理的に一代でできる金額ではない。あの警備員もそのうちトンネル通行税でも取って太ろうとしていたのかもしれない。メキシコの名誉のため、これは四半世紀も前の話だということは記しておかねばならないが。
先進法治国家では賄賂は収賄、贈賄として法によって処罰される。だから口利き料、キックバックなどに形を変える。裏金になってしまうが表に出す方法はある。マカオのカジノはそういう連中を客にするためジャンケットと呼ばれる営業マンを置いている。負けた金の4割ほどをスイス口座等に振り込むサービスがあるらしい。裏の10より表の4の方が価値があるという所で料率の相場が決まってくる。宝飾品で渡すという手もあるが指輪等は税関でひっかかるから時計を使う。ダイヤのついた5千万円のロレックスなんかを誰が買うのかと思ったら、賄賂でもらっておいてそれを何気なくはめて海外で6-7掛けで業者に売ると表になるそうだ。パチンコの景品交換みたいなものだ。
権力者がいちいち「場代」を取っては著しい不公平と非効率を生む。この場代と税金がどう違うかは非常に深い問題である。もちろん役人の懐に入るか国庫に入るかは決定的に違う。しかし国庫に入ったところで自分のして欲しいサービスにそれが使われる保証なんてない。そもそも歴史的には払う側にとっては、それがどっちであれ身と生活の安全が保障されるなら同じという時代も長くあった。公共サービスが身の安全保障だけではなくなった現代になって、サービスを行う行政府が配分を予算化して国会で国民の承認を得るというシステムは、それでも一応は民主的であり合理的でもあろう。
しかし最近いろいろな事件を見るにつけて、行政府に対する国民の目というのが予算承認までしか届かないのはどうかと思うようになってきた。予算さえ通ってしまえば役所のやり放題ということにならないかどうかだ。国家安全保障と外交。これは国家にしかできない専管事項だから政権のジャッジに従うしかない。民主党の事業仕分けのように予算の入口から断とうとしても何が不要不急かの判断は難しい。それよりも予算執行にあたっての監視機能を強化する方が現実的だと思う。例えば私見だが東アジア情勢からしてこれから防衛予算が増えるならそれはそれで仕方がないだろう。だからそれを監視する機能も必要だ。集団的自衛権は安保条約あっての概念で、独立国家に当然存在するものをなぜ容認するのか先日イギリス人に説明するのに苦労した。そういう性質のものであり、安倍政権には毀誉褒貶あることは承知の上で僕は現在のところまで特に大きな違和感を抱いていない。逆にあのまま野田政権が続いていたらと思うと、消去法的にではあるが是とする部分も多い。
安倍政権が信任を得たのはアベノミクスの第一の矢が成功を収めたからだ。アベノミクスというのは金融政策で始まった。それは自殺行為だという指摘は、それが財政均衡と経済成長に帰着しなければ通貨価値を犠牲にするだけだという意味においてなら正しいが、金融政策は所詮問題の先送りで無意味だという批判は理論的には一理あるが政策論としてはそう言い切れるものではないと思う。しかしその僕でもやや危険と感じるのは、政権(日銀ではなく)の量的緩和政策(QE)へのこだわりである。これはサブプライム問題を発端とする米国の金融危機への対症療法の劇薬であって(だから米国だって終焉させようとしている)、その傷が相対的に浅かった日本で別な目的で利用して副作用のない療法かどうか歴史的に検証を経たものではない。基軸通貨特権で通貨価値をマニピュレートできる米国だから許されるものであって、そうでない円がそれに耐えられるかどうか、米国のご指導で危険な実験をさせられているようにも見える。株式市場でも似たことをする目の粗い神経の人たちが本当にリスクをわかっているのかどうか不安になってきていることを指摘したい。
安倍政権の政策が米国型バイアスのあるものであることはQE以外にも散見される。生命科学、高度先端医療など科学技術イノベーション戦略へ予算投下して知的財産を輸出財としてゆく、またそこに女性登用を図るというのも米国的だ。第三の矢を従来型産業が牽引する時代でない以上そちらは法人減税で対処して、新成長分野に重点的に予算配分すること自体は正論だと思う。しかしそれが米国のようにうまくいくというのは文科省の予算取りのペーパー上の話だ。米国では産学共同研究等に資本投下するエンジェル投資家やベンチャーキャピタリストの資金が潤沢という土壌があるが我が国のそれは比較にもならないほど貧弱である。問題はお金の有無ではない。投資家は自分の出した資金の使途を厳しく監視するということが重要なポイントだ。一方、我が国は中小企業基盤整備機構が税金を赤字のバイオベンチャーに救済投資したりしている。間にファンドを噛ませているが、監視が米国並みに厳しいかどうか、それを監視するのは役人である。
和田秀樹氏の著書「医学部の大罪」によると、大学医学部は3つの機能である臨床、研究、教育のどれにおいても二流であり、それどころか、医学・医療の進歩の最大の抵抗勢力となっていることが書かれている。それは医局のボスである教授に権力と金が集まるシステムが原因だそうである。権力イコール金。何のことはない開発途上国なみの不公平と非効率がまかり通っているように見える。STAP問題は論文捏造問題と理研特定国立研究開発法人指定問題が合成された複合事件だと思っている。国家的やらせである。医局のボスの役割を理研で誰が占めるか、それに文科省の天下りポストをどうかぶせるか。CDB解体はそのプロセスの一環に吸収されれば痛くもかゆくもなく、国民にはいい目くらましだろう。ボス候補に都合のいい笹井氏が失脚すれば専門家でない天下りの居場所もなくなるから小保方再現実験が11月まで必要になる。彼女が望んでいるかどうかなどの問題ではない。秋の臨時国会まで彼を逃がす時間稼ぎとあわよくばの国民の同情票による目くらましのためである。安倍内閣はSTAP問題幕引きを間違うと政権ごとリスクを負うと指摘する外国の友人がいる。
同じ友人はこういうことが平気で行われてしまう国で米国型の外形を取った一見もっともらしい政策を導入するのは危険であるとも指摘する。ハーバードのバカンティのように日本人にリスクだけ取らせてゼロ・コスト・オプションをせしめようとする者も出てくる。米国のヘッジファンドは獲物を狙うワニのように冷静に日本国債の空売りタイミングを待っている。QEの度が過ぎて円が売られ国債が下がったら国民は大変な国難に巻き込まれるリスクがあるとも指摘している。こういうことをウォッチするのが国会だがだめだ。レンホーのSTAP問題追及などまったく見当はずれで彼女は汚名挽回を逸機した。国債のリスクを正確に理解、察知できるほど証券市場に精通した国会議員はほとんどいないだろう。
日本国民が総体としてこういうことを見過ごすほど鈍感だとは思わない。権力イコール金という図式を温存して利権取得を図る者は古代から世界のどこにでもいるのであって、今の日本だけが腐っているわけでもない。大事なのは、予算が通れば役所のやり放題という状態をチェックするのが役所であり、公務員は性善説なのか犯罪は贈収賄以外は想定されていないようにも見える現状である。しかし国民が市民オンブズマンを組織すれば済むかというと、その機能はあったほうが無難であるとは思うもののそれをまた悪用する者が出ることもある。つまるところ制度を制度で繕うパッチワークには限界があるということだろう。
最後によりどころになるのは国民の常識だと思う。世界40か国を訪問し5か国に赴任歴のある僕として、我が国は、少なくともある一定数の国民はそれができる国であると信じる。開発国並みの権力と金の構図や不届きな論文詐欺のようなものは、構図の利害関係者である行政府やマスコミがどうこうする前に国民が世論として断罪すべきなのであって、古代からのどの時代とも違って、ネット社会の住人である我々は行政でも司法でもなく何の権力もないにもかかわらずそれができるという強力な武器が与えられている。僕の投稿したあるタイトルのブログは今現在22,669人が読んでいる。これは権力ではないから金に結びつくこともない。結びつきたいのはただ一つ、品格だ。実名投稿だから間違えば自分も断罪される。そういう緊張感の中で微力でも国の品格に資するようなこと。ネット発信者に求められるのも品格なのだと思う。
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音楽人生に「足るを知る」
2014 JUL 1 11:11:48 am by 東 賢太郎
クラシック音楽とつきあって半世紀。ブログに書いているのは僕のそのつきあいの総集編みたいなものだ。音楽についてだけは僕は人生のまとめに入っている、と最近思うようになってきた。深い思い出があるのは100曲ぐらいのものだろうか。ちょっとつき合ったぐらいまで入れると200ぐらいか。あの時知り合って、あそこでああしてこうしてと、いずれそう遠くない将来にはすっかり忘れてしまっているに違いないことごとを、とにかく書いて記録しておきたい。
どうして「まとめ」と思うかというと、どうも最近新しい曲を覚えられなくなってきたからだ。新しい曲を知ろうという冒険心もちょっと薄れたような気がするが、覚えないのではなく覚えられない。昔は3回もレコードを聴けば1時間の曲がだいたいは頭に入った。音程が良く聞きとれない歌(オペラなど)は苦手だったが器楽曲は真綿にしみこませるがごとく、片っ端からものにした。そのかわり、最近は、もうこれで財産は充分、逆に、最高の音楽人生を歩ませていただいたという満足感にどっぷりと浸ることができるようになった。足るを知るとは、こういうことなのかなあと。
今なら、ベートーベン、シューマン、ブラームスの全交響曲、協奏曲の演奏間違い探しクイズをしたら僕はスコアを見ずにほぼ満点を取る自信がある。出題範囲にモーツァルトの主要オペラ、協奏曲、交響曲、室内楽を加えたっていい。それを覚える分、多くの時間を費やし、脳みそはきっと他のものをはじき出してきただろうから、単に生きていくということでいえば僕はずいぶんと無駄をしてきたものだ。そう、クラシック音楽を趣味とすることは、実は多大な犠牲を要するのだ。
そうやって僕がブラームスの第4交響曲をどんなに愛するようになり、どんなに身近に知っていても、それは他の人には関係がない。世の中に何の貢献も迷惑もない。では演奏したらどうだろうと考える。そうやって僕はシンセサイザーを買って勉強しピアノを練習し、自分で演奏した。しかし同じことだ。聴き手がいないからではない。仮に千人が褒めてくれたって、それはそれ。4番が僕のものになったという気持ちにはきっとならないだろう。音楽はつまり幻(まぼろし)か蜃気楼のようなものであって、近づけば近づくほど消えるか遠ざかるものなのだ。
音楽を聴いている脳で何が起きているのかは興味深い所だ。途中のある部分で鳴るハ長調の主和音は、それだけ切り取って鳴らせばただのドミソだ。曲の流れの中で鳴るからなにか意味があるのであって、どういうことかというと、その音楽の生々流転の脈絡の中でだけ湧き起る「ある感情」をもたらすから意味があるのだ。4番を聴くという事は、その部分部分で出会うある特定の感情、それを曲の進む順番に丁寧に陳列した展覧会に赴くようなものであって、曲が終わった瞬間に、胸に堆積していたそれの集大成がどっと押し寄せてくる。そういう顕著な効果をもたらすものだけを我々は名曲と認知していて、その効果のことを「感動」と呼んでいる。良かった演奏会で夢中で拍手している時、心を占めているのはそれだ。
それは映画や芝居を観た感動と似て非なるものだ。音楽には物語がない。映画館でみな一様に笑ったりため息をついたり、そういう、誰でもそう反応するだろうというものが明らかでない。ブラームスの第2交響曲で、第1楽章のあの平安とカタルシスに満ちた第2主題が鳴っている至福の時、隣の席の人がどう感じているのか知るすべはどこにもない。映画でデートはまず失敗がないが、クラシックコンサートはおすすめしかねる。いくら自分は感動していても、肝心の相手はさっぱりということがありえるからだ。
だからその感情の集大成とは、とてもプライベートなものだ。言葉や文字で伝えられるものではない。平安とカタルシスに満ちた、と形容を試みているそばから、ああやめとけやめとけという声がする。それでも勇気を出してブログにそれを打ちこんでみて、そして多くの方が読んでくださるのだということを知って、僕はなによりも安心していることを知る。そのために、僕は人生でそれが貴重な時間であろうことをうすうす知りながら、それを書いている。そういう行為が必要なほど、僕にとってブラームスの2番や4番の交響曲は人生で重たいものになっているのである。
4番において記憶にのこる演奏、フルトヴェングラーやクーベリックやジュリーニやヴァントの素晴らしい演奏は、最高の名画をそろえた展覧会のようなものである。それを1番目からお終いまでじっくり眺めれば望みうる、おそらくベストの4番体験が味わえる。僕はそれを知ってしまっているので、時間とコストの割にあまり確率の良くない、演奏会場で一期一会の名画にめぐり会おうという冒険を進んでしようと思わなくなっている。それよりもその4人の名演を、少々カネをかけてでもオーディオで理想的に再生した方がいいと思う。幸いクルマにとんと関心のない性分だから、そういうことで車1台分ぐらいはそっちに投資してしまっている。
フルトヴェングラーにしても、何度か録音した4番はどれもちがう。テンポも表情も。それは同じ人が同じコースを回っても同じゴルフにはならないのと同じだ。聴く方だってそうだ。その日その日で同じCDなのに聴こえ方が違うという事を経験している。こっちの脳みその状態は自分が思う以上に実は日々様々であって、それによって名画1枚1枚の喚起する感情は微妙に異なっているから最後の感動もちがってくる。年齢とともにそういうことがだんだんわかってくる。録音された音楽といえども、実は一期一会なのだ。おまけにこれから記憶力が減退を始めてくれる。いずれ僕の7千枚のCDは全部お初、おニューと等しくなる。老後に退屈する心配はなさそうだ。
音楽で新規開拓に関心がなくなってきたのは、だから、たぶんその他のことにもそうなってきていることへの穏やかな警鐘かもしれない。仕事はもう自分の事業を始めてしまっているから、これは出資していただいている株主のためにやめることはない。ぼける前の日までやるしかないしそれが本望だから始めたのだが、そういうことよりも、僕は信頼して下さった方を裏切ることが嫌なのだ。それは、社会正義に反することをした人間を断罪したいという、僕がたぶん人一倍強く持って生まれた心の動きと同じかもしれない。裏切り者の自分というものは蛇蝎のように嫌いだ。還暦とは節目としてちゃんとうまいタイミングに来るものだなあと感心する。仕事を採るならばその分ほかにしわ寄せがいくという事なのだ。
そうなれば音楽とのつき合いは現状維持がせいぜいだ。ということは自分にとって大事な曲と録音をもっと大事にしていくということだ。そこにはヨーロッパ生活での11年半の思い出以上の素晴らしいメモリーがある。それ以上にはもう望まないし、それを望まない方が今の僕には重要だ。第2の人生、まだ若い、もっと前進するぞというと威勢はいいのだが、虚勢でもあるように思う。そういう人生は歩みたくない。若いことと前進するかどうかは別だ。「足るを知る」ということばは含蓄が深い。お金でもなんでも、物的なものは結局は幸福をもたらさないのだろう。増やそうという欲は捨てて、在るものを大事にする。これだと思う。
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