横浜にて
2014 MAR 4 1:01:01 am by 東 賢太郎
まったく自分の馬鹿さ加減をうらむしかないのですが、横浜まで行きました。去年12月6日の高校クラス会の日になくしたi-phone5を加賀町警察署まで引き取りに行ったわけで今日が保管期限ぎりぎりだったのです。東横線横浜中華街駅に届いていたそうで、もう新しいのを買っていたし要らないのですがデータが心配だから仕方ないですね。使われた形跡もなし。完全に小生の過失であります。
せっかくなので先祖が両替、生糸、茶の商売をした「糸屋」があったとされる横浜南仲通二丁目を探してみることに。日銀から開港記念会館の所でなんとなく左折。困ったことに横浜というのは通りの名前のプレートがないようですね。そのあたりをしばらくふらついたのですが結局どこかわからず、寒いので中華街へ自然と足が向きました。謝甜記のお粥をかきこみ聘珍樓 本店にて肉まんとあんまんの大を購入という長年恒例のコースをたどって帰宅。
後で地図を見ると左折したところが南仲通だったことが判明。先祖に会えていました。彼は開港でやってくるイギリス人やアメリカ人相手に貿易商を営み、初期の横浜の水道やガス灯は私財で作ったそうです。八芳園には彼の茶室があります。渋沢栄一と東京証券取引所を設立し、初代の東証株主になりました。母はそれを就職するまで僕に言いませんでした。先入観を嫌ったようですが、偶然とはいえ証券会社に入ってしまうわけですから血は争えません。今日はそんな不思議な一日でした。
記憶法と性格の関係
2014 FEB 11 0:00:20 am by 東 賢太郎
記憶の仕方というのはいろいろあるということを先日知った。お借りした本に下線(アンダーライン)がたくさん引いてあったからだ。こういうタイプの記憶法を「下線型」と呼びたい。マーカーが売れるのは下線型が多いからなのだろう。
僕は本に線を引くことはない。汚すのが好きでないしマーカーは色がわからない。だいいち、もう一度読むことはあまりないから引く意味がない。本は内容を理解すればいいと思っているので文言は忘れても気にしない。
暗記モノはページごと「情景」で覚えるので線はむしろ邪魔だ。「信長の写真があるページ」と絵で覚えていて、年号はそのメモリー画像から読み取るというイメージだ。こういうのをピクチャー型と呼ぶ。
今も同じで、僕の部屋は家内が見ればメチャクチャだろうが、教科書と同じであの小説は右側の「本の山」の3合目ぐらいなどと情景で覚えているから、整頓して見た目をきれいにしても得るところはあまりない。逆に、外出中に片づけられるとわからなくなってしまう。
子供のころ、父は僕のだらしない部屋を見るたびに「これがお前の頭の中だ!これで勉強なんかできるか!」だった。たしかにそうだが、頭の中に「野球の器」と「音楽の器」が別々にあって、共存してなんともないといういい点もあった。
「野村證券みたいな会社でよく音楽を覚えましたね」とある人にご意見を承ったが高校時代の延長だ。今でも本はカントから「のせ猫」までジャンルを問わず、5~10冊は同時に読んでいる。頭の中で「哲学」と「猫」の仕分けがない。同じページにカントと猫の写真があるにすぎない。
本は本棚に服はタンスに!と下線を引いて覚えると、洋服が本棚にある場合は見つけられないのではないか。ピクチャー型にとっては「見たものが真実」だ。タンスに本があれば脳のスマホがそれを撮影してしまう。あとで本が見つかればいいので、何をどこにというルールは不要となる。
どっちがいいということもない。ただ、お互いにそういう生き方が長年積み重なってくると、整理整頓型の人は「ボルドーの赤は肉料理」というような「下線つきのすり込み」「ウンチク」がワンサとたまるだろう。
一方、あるがまま見たままのピクチャー型はあまりすり込みをしない人生を歩んでいるからボルドーにギョーザでもおいしければいいとなる。記憶法ひとつで人間は性格がずいぶん変わるという可能性があるのではないだろうか。
人の相性についての僕の考え
2014 JAN 22 22:22:10 pm by 東 賢太郎
英語のケミストリー(chemistry)の意味は「化学」ですが、「相性」の意味でも使われます。その昔、西洋では人間は四大元素でできていて気質はその四つの元素の配合比率で決まると考えられていたそうで、その比率の同じ人どうしは気が合う、だから「ケミストリーが合う」と表現するようになったようです。友達を見ればその人が分かるといわれる理由もそれですね。フモール(humor)も同じで、ギリシャ語の液体という意味ですが、人間を組成するフモールの比率によって性格が決まるという考え方が根底にあります。やがてhumorはユーモアという意味になります。「何を面白いと思うか」はその人の性格を物語るという含みは残っていて、どんなジョークを言うか笑うか、要するにsense of humorで人間性を推しはかる傾向が西洋人にはあります。
性格、趣味、嗜好、考え方、人生観が近い人とは一緒にいて楽しいものです。ただ、そういう人と一緒に仕事をするのがいいかというと必ずしもそうではありません。組織力を発揮するには能力、タレントの分散が必要だからです。しかし仕事ではなく、人生を有意義に楽しく送るということだけでいえば、「合う人」は誰にも重要です。一般にいう友達というのは基本的に合う人のことなのですが、全部の友達が「すごく合う」わけではありません。「嫌ではない人」でも友達になれてしまいます。しかしすごく合う人は世界にものすごく少ない、というのが僕がこれまで生きてきた結論です。Facebookで返事が来たらお友達という軽い世界ではないと思うのです。英語で
A friend in need is a friend indeed.
という諺があります。いい言葉です。「本当に困ったとき、必要なときに力になってくれる人が本当の友達だよ」という意味です。そうでないのは友達ではありませんし、友達でない人脈など苦労して作っても何の役にも立ちません。一万人のオトモダチより一人の友達なのです。そういう人は多くないのだから、自分から積極的に手を打たなくてはお会いできない。ご縁だけ待っていてもだめです。ものぐさな僕がブログを書いてみたいと思った動機は「すごく合う人=友達」を探す長い旅路の準備だからです。
そのためには、自分をまず正直にディスクローズ(開示)する必要がどうしてもあります。フモール(ユーモア)と同じことで、他人を知るにはその人の「エピソードの集大成」として知るしか手はないでしょう。だから、こういう時に喜・怒・哀・楽を感じた、こう行動した、こういう成功や失敗をしたというエピソードを書くわけです。それも自分という人間の個性である部分はあからさまに、どんなにそれがとんがっていようと恥であろうと、事実を開示しなければそもそも書く意味がありません。そしてそのとんがった所に反応してくださった方こそ、僕の探し求める方ではないかと考えているわけです。事業を共同してやる人も、後継者ですらそこにいるのではないかと信じます。
その方がどういう人かはまったく関係ありません。小学生の坊やであっても僕は真剣にお会いしたい。四大元素の比率が同じというのは、それぐらいレアで貴重なことであり自分の子どもだから必ずそうとも限りません。そういう子には聞かれればなんでも何時間でもお教えしてしまうでしょう。例えばですが音楽の和声というものに僕は尋常でない興味があり、長年固執してますからポップスならピアノやギターですぐ和声付けができてしまいます。やって見せるとどうしてと聞かれますが誰でも3時間でできます。そういうとんがったことが僕と同じぐらい好きな人であればお教えしたくてたまらない。しかしただのノウハウとして、ただの好奇心でならノーです。同類でない人とそういう飯のタネでもないことを共有する時間はもうないです。
そういう目的で僕はブログで独断と偏見をぶちまけています。だから赤の他人のそんなものは何か同類項でもないと読む気もしないでしょう。お読みいただける方はですから僕と何かの同類項をお持ちの方ではないかと想像申し上げる次第なのです。データを見ると、読者がどなたかは知りようがありませんが何で検索したかはわかります。たいそう驚くのですが、嬉しいことにとてもニッチな単語でお入りいただいている方が多くおられ、1年以上も前に書いた拙文がこまめに読まれていることがわかります。そういう方に僕は大変関心があります。
一日10人も読んでくれれば上出来だよといわれて始めましたが今はだいたい200-300人、多い日は700人も来てくださいました。10人というのは「ブログを作ってみたがぜんぜん読まれなくて・・・・」という方が多いということなのですが、誰だかわからない人の朝食の写真を毎日楽しみに見てくれる人が何百人もいると考えるのは少々無理があります。すると今度は「いい内容にしなくっちゃ」となります。毎日「耳よりな話」や「他人のためになるトピック」がある人などまずいませんから、結局疲れてしまいます。そうやって挫折してしまう人は大変多いように思います。
解決はコロンブスの卵、実にシンプルです。誰でもまず自分という人間を「開示」してみること、世界に向けて「自己紹介」してみることです。簡単でしょう? そういう姿勢でブログを書けば必ず合う人が現れて読んで下さるというのがこの1年ちょっとでの僕の発見です。もちろんお一人でインターネットの大海に船出されるのもいいでしょう。SMCのメンバーになって書けば1人でやるよりは勇気もわきますし効果も高いでしょう。大事なのは何も財界人でも有名人でなくても誰だって「私の履歴書」は書けるということです。今日明日に何万人も読まなくてもいずれ絶対に読まれます、なぜなら「子孫」や「親族」というあなたに興味がある読者が出てくるからです。若い人だって履歴書を現在進行形で実況中継で書けばいいのです。そうするときっと知らない世界が見えてきます。個性に共鳴してくれる人は世界中に必ずいるのであり、その人こそが「友達=a friend indeed」なのだ。僕はここまでの実体験としてそう信じます。
クラシック徒然草-小澤征爾さんの思い出-
2014 JAN 20 17:17:36 pm by 東 賢太郎
大学4年だった僕は半分遊び、半分英語の勉強でアメリカは東部のカナダに近くにあるバッファロー大学の夏季講習に参加した。別に何のためということもなく、最後の夏休みだしまったくの好奇心だった。ちょうどそのころ50をこえて外国銀行へ出た親父に英語だけはやっておけと口酸っぱく言われたのも影響したと思う。1か月ぐらいいたアメリカは楽しかった。渡米は2回目だったが最初は西海岸を車で1700km突っ走る無鉄砲旅行だけであり、東海岸、特にニューヨークへ行ってアメリカの大学を見てみたかった。その後にペンシルバニア大学で修士号を取ることになるなど夢にも思っていなかったが、この時にすでにそういう思いがあったから野村證券が企業派遣留学生に選んでくれたと思う。この時何も聞かずにポンと金を出してくれた親父のおかげだ。思えば他愛のない英語の授業をうけていたわけだが、まがりなりにも学生証をもらって米国の大学にいるというだけで気分がうきうきした。時間が無限のようにあったのだ、あの頃は。
今は知らないが当時の東大法学部生でそんなのに一人で参加する奴はまずいなかった。だからアメリカに興味を持ったあたりから僕はあそこの卒業生としては異色の道に進む定めになったと思う。学外の人と接することもあまりなかったので20人ぐらいいた他校生からは珍重はされるが敬遠もされるものだということを初めて知り、こちらから進んで飲みニュケーションに徹して仲良くしてもらった。こんなことでも証券業界に入るとやっておいてよかったと思えるようになる。みんなでナイヤガラの滝からトロントへ行ったり、ボストン、ニューヨークへも旅行した。もうすっかり溶け込んでいた。エンパイアステートビルやロックフェラーセンタービルに上ったのはそれが初めてだ。すべてがカルチャーショックだ。こんなのと戦争しちゃあいかん、凄いなあと思った。
ボストン郊外のタングルウッドでは小澤征爾さんとボストン交響楽団を聴いた。いま日経新聞で私の履歴書を連載されている。好きなことにものおじせず挑戦して勝ち抜かれた姿は実にすがすがしい。スクーターでやってきた何の実績もない日本人の若僧がブザンソン・コンクールで優勝してしまうのもすごいが、それをちゃんと認める欧米人もいいなと思う。それが誰か?ではなく能力だけを別個に評価する。実力はどうか?よりもそれが誰かを先に見てしまう日本とは大違いだ。日本が一番ダメなのはそれである。まじめに努力してどうしてもやりたいやらせろと言う若者に対して、日本はともかく、世界の門戸は開かれているのだということを教えてくれる。彼は英語もできずpieをパイとも読めずに外国へ飛び出していったのだ。もういいトシの僕ですらいま勇気をいただいているところだ。若い人は是が非でも小澤さんの私の履歴書を読むべきである。
さて、タングルウッドだ。ここは野外音楽堂でボストンSOがサマーコンサートをやっている。ボストン・ポップスという名でやっている。ちなみに「そりすべり」のルロイ・アンダーソンもそれを振っていた。その後継者が僕がクラシック入門したレコードの指揮者アーサー・フィードラーだ。だから一度は行ってみたい憧れの場所だったのだが何せ野外だから音響は良いはずもなく、こういうところでクラシック音楽をやってしまうのがいかにもアメリカだと思った。でもみんな寝っころがったりそれぞれの格好で楽しんでいる。何はともあれ音楽が好きな人たちが集まっているのはよくわかり、やがて気持ちよくその一員になった。曲目は後半が何だったか忘れたが、前半にチェコの名ピアニスト、ルドルフ・フィルクシュニーが出てきてモーツァルトの協奏曲24番をやった。フィルクシュニーは亡くなったが今でもCDを見つければ全部買うぐらい大好きなピアニストである。24番も当時から好きな曲であり嬉しかったが、どういうわけかピアノのキーがひとつおかしな音を出して、残念ながらそれが気になってしまうともう楽しめなかった。
小澤征爾さんを見かけたのは、その1か月が終わってボストンから日本へ帰る飛行機の中だった。トイレに立ったら通路側の座席によく似た人がいて、本を開いたまま眠っていた。エコノミークラスだしラフな格好だったのでまさかと思ったが、Tシャツに大きくBoston Symphony Orchestraと書いてあった。それで目を覚まされたときにおそるおそる話しかけてみたら、小澤さんだった。何を話したかよく覚えていないが、自己紹介したところこっちに来てみてどんなだったと逆にいろいろ聞かれた。音楽のことはあまり話さず先日のコンサートのこと、東京ではドヴォルジャック(そう発音された)のスターバト・マーテルをやる予定であれは有名でないがいい曲ですよなどだ。英語の辞書にサインをいただいた。それだけのことだが、23歳だった僕にとっては人生で初めてお話をさせていただいたビッグネームであり、偉いかたは謙虚なんだと心に焼きついた。結局その1か月何を特別にしたわけでもないが、若いときの外国の経験というのは学校の勉強より後々に残ると今になって思う。勉強はほったらかしだった劣等生のいいわけだが。
モーツァルト ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595
2014 JAN 19 22:22:13 pm by 東 賢太郎
まず「春への憧れ」へ長調K.596をお聴きいただきたい。
来て、大好きな五月よ、木々をまた緑にしてね
そしてぼくに見せて 小川のほとりに小さなスミレが咲くのを
Komm,lieber Mai,und mache die Bäume wieder grün
und lass mir an dem Bache die kleinen Veilchen blühn!
ピアノ協奏曲第27番K.595の第3楽章のテーマはこの歌からとられたというのが通説である。作品目録によるとK.595が1791年1月5日、K.596は1月14日となっている。この歌は魔笛の台本を書いたアルベルティが刊行した「子供と子供好きな人のためのクラヴィーア伴奏歌曲集」という家庭用の易しい曲集のために書かれた。それは今でいえば「母と子の楽しいお歌の絵本」みたいなものだ。K.596~8は他人の作品も含む「春の部」全30曲のうちの3曲となったが、後続は冬の部だけで終わってしまった。目録では3曲の作曲日は全部1月14日となっており「3曲まとめてお届け」の軽いお仕事であったことは明白である。そのために書いた旋律を、最も大事なピアノ協奏曲に転用?普通の人の感覚からすれば、話は逆なのではないだろうか?
では、今度はこっちをお聴きいただきたい。
恋はかわいい泥棒。(イヴを誘惑した)蛇みたいなものよ。心を満たしたと思ったらすぐ奪ってしまう。目から心へもし恋が忍び込んできたら、あとは任せるしかないの・・・・
これはオペラ「コシ・ファン・トゥッテ」第2幕でドラベッラが歌うアリア「恋はかわいい泥棒」(E amor un ladroncello)変ロ長調である。もうすっかり新しい男の誘惑に心が陥落してしまっている 妹が「ねえ、お姉ちゃん、堅いこといわないでいいじゃない、ねえねえ」と姉をそそのかす歌だ。この次のアリアでついにお姉ちゃんも落ちてしまう、非常にポイントとなっているアリアである。
清純派の「春への憧れ」とは何というコントラストだろう!
しかし、同じ変ロ長調で書かれたこのアリアとピアノ協奏曲27番は同じパッセージを共有しており明白な近似性があると僕は思う。音楽学者アラン・タイソンのエックス線分析によると27番は1788年に使用していた五線紙に書かれており、「コシ」(完成は1790年1月)の作曲中に作られていた可能性がある。僕は27番のテーマはドラベッラから来たものであり、たまたま演奏しようと27番を仕上げて清書した91年1月に、ちょうど舞い込んだ一日仕事である子供の歌に調をかえてちょいと転用したのだと思っている。
アルフレート・アインシュタインが「最後の春を自覚したモーツァルトの締念の明朗さ」「幼くして亡くなった子どもたちが、天国で遊んでいるかのよう」と評した27番の第3楽章。これを「浮気のおススメ」のお歌でしたなんて言おうものなら「なんと不謹慎な!」とお咎めが飛んできそうだ。でも1791年も元気いっぱいだったモーツァルトは1月時点で「最後の春」だなんてかけらも思っていないし、なにも諦めてもいないのだ。ぜんぜん事実を見ていない。どうしてこういう人が出てきてしまうのだろう?
僕の説を言おう。世界のモーツァルティアンはサユリストである。あの吉永小百合サマがトイレなんて行くわけないだろうと本気で思っていそうな人たちだ。恋は盲目という。1791年が死の年と知ってしまった彼らは彼にウワキストの音楽なんて書いて欲しくない。ましてそんな不浄なものを子供のお歌に使う不届きものでいて欲しくないのである。だからあのメロディは5月のスミレの歌なのだ。天国の子どもへの捧げものなのだ。
彼らは恋人が人気凋落で困窮の生活にあえいでいたと主張しながら、だからこそ普通の人ならそうするであろう、「必死の金もうけ」の努力は絶対に認めない。恋人は普通の人ではない。お金なんて不浄なもののために彼はいたんじゃない。神の使いなのだから。ということはモーツァルトは社会主義国に生まれていたらきっと幸せになったろう。そして、このスタンスは元来が社会主義的である日本国において強く共感されている。生活苦に耐えぬくから「おしん」は美しいのであって、彼女がある日株を買って儲けたりしたらそれこそ人気凋落だろう。
僕は1791年は彼がオペラプロダクションで失地奪回して一旗揚げようとした元気いっぱいの年だったと確信している。世をはかなみ、あきらめの境地で白鳥の歌を書いたなどという文学青年が描いた星目の少女漫画みたいなのはどう考えても違う。これについては「モーツァルトの死の真相」なる稿にする。モーツァルトは非常に「資本主義的」な男であり、金儲けと贅沢と女が大好きなエピキュリアン、ビッグスペンダーだ。いま生きていたらミュージカルやポップスのプロダクションオーナーでマンハッタンにビルの一本も持っていたかもしれない。なぜそこまで言うか、少しご説明を加えさせていただきたい。
僕はけっして読者の美しいモーツァルト像をこなごなにして不愉快な思いをさせようと目論んでいるわけではない。これは彼の手紙と自筆譜と音楽というファースト・ハンド・インフォメーションを40年間じっと見聴きし観察してきた僕の直感が出した結論であり、映画や俗説に影響されたものではない。それと全く同じ意味で、世界の音楽学者、文学者、知識人らお歴々が200年にわたって作り上げてきた通説というものも、僕にとっては単なるセカンド・ハンド・インフォメーションという括りでしかないことをお断り申し上げたい。なにより、サユリストにはご不快に聞こえることを承知で書くが、僕は彼という人間にえも言えぬ共感がある。ケミストリーが合うひとだと直感する。だから人間としての彼がものすごく好きなのだ。恋人ではなく友達のような感じで。
ついでに書くと、手紙で見る彼の父レオポルドはびっくりするぐらい僕の親父と似た性格だ。いやらしく干渉して箸の上げ下げまで細かくて万事うるさくてケチで金にシビアで勉強しろ偉くなれしか言わない。でもその強烈な縛りがあってぎりぎり一人前になった。そうでないとエピキュリアンは道を外れてグレてしまうからだ。しかし長ずると耐えきれなくなってその支配の手から逃げ、嘘をつき、ついにわがまま放題して独立してしまう。息子の心の経緯や手管は手紙で現在進行形のようにリアルにわかる。
それがあまりに似ていて僕の琴線にびんびん伝わってくる。もう僕はそれが自分の秘事の暴露で赤面するような気持ちで読んでしまっている。そんな風に一体化して共感できる人は過去にも現在にも、僕には世の中に一人もいない、つまり、音楽家か天才か魔笛が名曲かどうかなどを問う前に、彼は僕にとって気になる人間であり、どこか特別の人なのである。それは僕のクラシック音楽好きとも何の関係もない。そういう特別の人がたまたま有名な作曲家でもあり、だからあんな手紙が残っていたというだけだ。
こういうフシダラでなおかつ米国人なみに資本主義的な人間である僕が、清純派にだけ操を尽くすような真面目で勤勉実直な、ご本人たちは思っていないだろうが僕の眼には社会主義者である官庁や銀行に就職するようなタイプの方々に未だかつてちゃんと理解されたというためしはない(ちなみに親父はその銀行員だ)。だからモーツァルトが僕の思うような奴だったとすればだが、宮仕えがうまくてつまんない会議で真面目に発言していい子にならないともらえない頭取賞みたいなものをたくさん貰っているに近い音楽界での景色を見るにつけ、違うでしょ、それだけはという気がしてしまうのだ。
そういう人が書いてしまった27番。しかし、サユリストをそうしてしまう尋常でない何かがある。モーツァルトにとって特別な変ホ長調で書かれた第2楽章。これはどこから降って来たのだろう?天国?そうかもしれないと僕もそう思う。これを見てほしい。
これは第2ヴァイオリンが奏する何の変哲もない音階練習のようなフレーズである。ところが、どういうわけか、これを聴くと僕は心の底から悲しさが湧き出てきて体が凍りつき、金縛りのようになる。もっといえばこの楽章全体がどこか浮世離れしていて、薄暮の森の中を魂だけがふらふらと浮遊しているような不思議なものである。僕でもピアニストがつとまってしまうぐらい簡略な音符だけで書かれているのに!これはおそらくクラリネット協奏曲のそれと並んでモーツァルトが書いた緩徐楽章で最美のものだ。
第1、3楽章での転調はこれみよがしなものはいささかもないが、達人が草書体の自在さで深みのある彩りをそえるという風であり、それまでのすべてのピアノ協奏曲とちがう。楽想もおだやかで平和に満ち、才気や挑発というものを感じない。それでいてこの曲が醸し出す幽玄な魅力というものがどのように舞い降りてくるのか、僕にはまだわかっていない。まだ勉強も経験も足りず、どうしても歯が立っていないという感じがするのである。
当面の理解で、僕がいいと思っている演奏をご紹介する。この曲はトランペット、ティンパニを欠きフルートも1本だけで、弦楽器の扱いがデリケートである。この意味あいはこの異例のコンチェルトの演奏において非常に大きい。だから神経の通わない音を許容するような演奏は言語道断なのだ。ところが第1楽章の入り、変ロ長調の第1ヴァイオリンのpのフレーズ(楽譜)から、どうもいいものが少ない。
こんな簡単なフレーズがどうしてうまくいかないんだろう?世評が高いバックハウス盤のウィーン・フィルもだめだ。後は推して知るべしになる。奏者たちがどうもベームの棒に感じ切っていない。ベートーベン、ブラームス弾きであるバックハウスが老境で録音したこの演奏はそれなりのものではあるが彼のモーツァルト観はやや違うと思う。
クリフォード・カーゾン / ベンジャミン・ブリテン / イギリス室内管弦楽団
作曲家ブリテンの指揮がすばらしい。カーゾンのデリカシーに満ち満ちた珠玉のようなタッチのピアノをあたたかく包み込み、冒頭から神経の通わないお座なりのフレージングは皆無である。両者とも音楽性の塊でありこの音楽に敬意と愛情を注いで音を紡いでいるという風情は感動的だ。第2楽章は遅く、ピアノはモノローグをぽつりぽつりと弾くことになるが、心の揺れを伴って微妙に動くテンポは音楽の息吹そのものであり、ブリテンがそこに添えられなくてならないものをそっと当てがう様は至福の瞬間だ。
マリア・ティーポ / アルミン・ジョルダン / パリ室内管弦楽団
宝石のように硬質に輝くタッチで奏でられるピアノの高貴さは格別である。自在なテンポで生き物のように紡ぎだされるデリケートな粒立ちが本当に美しい。ナポリ生まれで女ホロヴィッツとよばれた腕前であったが彼女が技巧だけの人ではないことはこの演奏で証明されただろう。第2楽章は幽玄さよりもラテン的な透明感があり、フランスの木管と絡み合うさまは夢のよう。第3楽章のピアノの粒立ちとしゃれたリズムの立たせ方もため息ものだ。ジョルダンのオケは木管が際立つが弦の微妙なピッチにも細かい神経が通っている風で上等である。
エミール・ギレリス / カール・ベーム / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ここのウィーン・フィルは悪くない。ギレリスのモーツァルトというと録音当初はやや違和感を覚えたが杞憂であったのを思い出す。たっぷりしたテンポで愛情をこめて弾くピアノはあたたかい音色に芯があって美しく、現代ピアノで聴くモーツァルト演奏の喜びだ。遊びはなく禁欲的で第2楽章には感じ切った深い情感がこもる。大人の演奏だ。ベームもここでは比較的良い。第3楽章ではギレリスの技術のすごみ、指の回りが各所で看破できるが、それが音楽の本質にだけ寄与しているというのは演奏家として最高の境地ではないか。
フリードリヒ・グルダ / クラウディオ・アバド / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
意味深い遅めのテンポで始まる第1楽章でグルダのピアノは自在のアクセントとメリハリをつけるが、それでいて古典的な均整感も感じさせるという非常に次元の高い演奏を達成している。アバドの棒は何をしたいのかよくわからず、並録されている25番など第1楽章のあまりの遅さに閉口して聴くのをすぐ辞めてしまったが、ここでは謙虚にグルダのサポートにまわっている。ただ第2楽章の楽譜を挙げた第2ヴァイオリン、ヴィオラの波打つようなせせらぎの意味を指揮者が分かっているとはとうてい聞こえず、単なる伴奏カラオケの域を出ない。グルダの名演を味わうCDということである。
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なりたかったのはシャーロック・ホームズ
2014 JAN 18 7:07:55 am by 東 賢太郎
子供のころ、将来何になりたいですか?と聞かれてなんて答えていたかは忘れました。適当に親や先生や大人が喜びそうなのをみつくろっていたと思います。本音ではプロ野球選手か天文学者でしたが、思えばもう一つあって、シャーロック・ホームズでした。
僕のミステリー歴は小学校で借りたシャーロック・ホームズ・シリーズと怪盗ルパン・シリーズに始まります。あまりに面白いので殺人が起きない小説は物足りなくなってしましたぐらいです。特にホームズの観察力や物腰は格好いいと思っていて、ああいう大人になりたいと思っていました。
今読んでみると、背景描写には英国のにおいがぷんぷんしていますね。なつかしいです。英国でまずブレークしたのは、19世紀末~20世紀初頭のインテリの英国人男性たちもホームズのような姿を理想とするというか、少なくとも格好いいと思っていたからだと思います。長年の英国人との付き合いから感じるのですが、今でも彼らがもっとも避けたいと思っているのはembarrassed(人前で恥ずかしい)な事態であって、たとえば簡単にいえば、社会の窓があいていたなんてのがそれに当たります。
一方で、事件の真相を見抜くホームズはワトソンをはじめ他のすべての捜査官をだしぬくのですが、推理力のような知の力でそうすることを英語でアウトスマート(outsmart)するといいます。これはembarrassとは対極であって、もっとも望ましい。もちろんどこの国でもそうでしょうが、英国紳士界においてはその高低差がどこの国の男よりも格段に大きいと僕は感じています。きれいにさえoutsmartすれば相手が外国人でも尊敬されます。アガサ・クリスティーの探偵エルキュール・ポアロは風采の上がらない小男のベルギー人ですが、それでも格好いいわけです。
僕はロンドンのシティで6年間、その英国人のプロたちに日本株を売ってきましたが、ファンド・マネージャーという職業の彼らはオックスフォードやケンブリッジを出たエリートです。僕のお客にはアイザック・ニュートン以来のケンブリッジ大学のダブル・トップ(2学部で同時首席)という歴史的な秀才もいました。そういう人たちが一生の仕事とするわけですから、株式投資というのは日本人の99%が(証券会社の90%の人間ですら)誤解しているようなバクチ的なものとは程遠いのです。相場を理性で予想するという行為、つまり合理的な仮説を立てることにほかなりません。
僕の仮説のほうが彼のより合理性があると判断されれば、オーダーを、しかも大きめのをくれます。半年ぐらいたって株価が上がって僕の仮説のほうが正しかったと証明されれば僕は彼をoutsmartしたことになります。彼らは自分で仮説を立てるプロでありますが、自分をoutsmartしてくれる人を探すプロでもあります。結果が全ての世界ですから。だからそうなればシャーロック・ホームズと同じで尊敬の対象になり、お客様の信頼は増すということです。そうすると徐々にですが能力があるという評価になってきて、もっとオーダーをいただける。それは証券会社では成績に直結します。だからいい仮説を立てられるように必死で勉強しました。
しかしそれは要するにホームズをイメージしてめざせばいいのですから僕の子どもの頃の理想でもありました。しかもそれをホームズのいた(はずの)ロンドンでやったわけですから、幸せな職業についたと思います。だからでしょうか結果はついてきて、ある政府系の機関からは1銘柄でワンショット180億円の買い付けという手が震えるぐらいの、たぶん野村でも空前絶後の巨大なオーダーもいただきました。当然手数料も半端な金額ではなく、自分の仮説にそんなに多額のお金を世界で1,2の著名な機関投資家が払って下さったというのは自信になりました。
数年前、息子を連れてロンドンへ行った折にやはりホームズ好きである彼がベーカー街のホームズ博物館に行きたいというので行きました。住所は221B Baker Streetであり、実在の有名人の住居跡にあるブルーのプレート(右)もかかっています。地下鉄の駅も下の写真のようであり、この愛され方は大阪の食い倒れ人形に近いといえましょう。国を挙げて遊んでしまう大人の余裕です。神田明神にも銭形平次の石碑がありますからわが国も文化的成熟度は誇っていいですね。
ただ平次と我々では服装も髪型も違います。もしも日本人がまだ江戸時代と同じ格好をしていたならもっとリアル感のある銭形平次博物館でもできていたでしょうか。では明治以降で誰かいるかというとどうでしょう。僕は浮かばないのですが。そういう和風国民的キャラクターを後世が作れるほど平安な時代ではなく、その空気のまま戦争に突入してしまったのかもしれません。
日英は元は同盟国であり軍艦も機関車も英国からきました。英国の不倶戴天の敵国、ドイツと組んだことで戦争してしまった歴史はありますが、思えば自分は英国人ホームズに憧れる少年だったので基本的に英国が好きなわけです。そこで6年も暮らして、娘を2人も授かり、最も大きなビジネスを経験し、またソナーを作るにあたって助けてくれたのも英国人Sさんであり、ロンドン時代の仲間が3人も出資してくれています。英国とはホームズに始まって以来、なにか運命のつながりがあったと考えるしかありません。
チューリッヒ日本人学校の思い出
2014 JAN 13 22:22:48 pm by 東 賢太郎
学校のあゆみ(沿革)によると僕は平成8年度にチューリッヒ日本人学校の第9代運営委員長であった。運営委員とは現地にある日本企業から各1名の代表者によって構成され、学校運営の予算策定、収支の監督、政策や行事の起案と執行等を行うための機関である。
文部省(当時)に日本人学校の設立と教員の派遣を依頼している在留邦人が国であれば主権者であり、各企業の代表者(社長)が国会議員であり、議員の中から運営委員が互選で選出され行政府(内閣)を組閣するという構成であったと記憶している。
当時僕はスイス着任2年目の新米であり、議員の内では41歳と最年少の若僧であった。しかし野村證券は当時年間で9兆円あったスイスフラン債の本邦発行体による起債市場ではダントツ世界一のシェアがあり、社員数と子女の数もダントツであったゆえに僕に運営委員長のお鉢が回ってくるという諸般の状況にあった。
内閣総理大臣であるから、就任するとすぐに「組閣」をする。しかし議員さんたちは全員が銀行、証券、保険などの社長さん方や大蔵省、防衛庁(当時)の方であり、しかも一回りも年上の大先輩たちが多くてとても困った。とにかく副委員長2名、予算、会計、行事、バス(送迎)などの委員、つまり各省庁の大臣を任命させていただき、何とか「双葉マーク」でスタートした。
運営委員長は公的ポストであって、始業式や運動会では駐スイス日本国特命全権大使閣下の後を受けて「ご講話」をしなくてはいけない。だから仕事では原稿など一度も書いたことのない僕が前の日に懸命に考えた。よし、これだ!という内容ができ、自信を持ってしゃべる。ところがだ。子供たちの顔を見るとぜんぜんウケていない。×××子ちゃん今日のおべんとうな~に?(たぶん)なんて感じで隣の子とペチャクチャはじまっているではないか。僕は頭が混乱しだし、ついに冷や汗をかいたまま想定外の尻切れトンボで終わってしまった。
M校長先生に、すいませんとあやまると、えっという顔をされ、委員長よかったですよと真顔で言って下さる。あながちお世辞でもない風だ。僕らが仕事でやるスピーチやプレゼンの方が世の中ずれしているのだと悟るのにはけっこう時間がかかった。学童の一人としてそれをきいていたはずの長女は親父の苦労はどこ吹く風で、ぜんぜん覚えていないらしい。やれやれ。
もっと冷や汗をかく事件が起きた。ある日、校長先生から会社に直訴の電話がきた。「校庭に杭が打たれています。どういうことなんでしょうか。」けっこうな剣幕で怒られた。かけつけてみると、確かに校庭のサッカーゴールわきの角の一区画、上の写真の左端あたりが大きく円形に杭でブロックされていた。
子供たちはそう広くはないこのグラウンドでサッカーをすることを毎日の楽しみにしていた。これは絶対に何とかしないといけない。ところが地主であるウスター市と交わされた10年ほど前の契約書を見てみると「期限と条件付きの借地」であって、市はこの工事は正当な権利でありバス停として使用する計画を撤回はできないと主張してきた。これはどうしようもない。委員会で議論を重ねたものの、結論は市への「事情説明」と「陳情」以外にはないことは明白であった。
僕は副委員長さんたちと市長をたずね、子供たちはウスターが大好きであり、せまいチューリヒでなくウスターでのびのびサッカーができることに感謝していること、市の計画は尊重するが何の事前通告もなかったことに子供たちは驚き、深く傷ついていることを強く訴えた。しかし、何の返答もなく工事は始まった。2度3度と足を運び市長に同じことを伝えたが一向にらちがあかない。このままでは負けだと思い、僕の独断で、残念だがチューリヒ市への移転も検討しているとあらぬことを伝えた。もちろんそんなつもりはなく、それは無理だったし候補地が見つかったわけでもなかった。勝負だった。
そうしたら1週間ぐらいして、市長からちょっと来いという連絡があった。土地を明け渡して出ていってくれと通告されることを覚悟した。大変なことになってしまった。市長室へ通されても誰も言葉が出なかった。しばらくして現れた市長は、しかし、今までの暗くて険しい表情ではなく満面の笑顔だった。「ウスターを選んでくれてありがとう。今日はサプライズだ。バス停の土地の代わりに、隣の農家が牧場を同じ面積だけ貸してくれることになったよ」と告げられた。上の写真はグラウンドをその牧場側から撮ったものだ。ネットをこちら方向に1mほど後退させる交渉を市長は黙ってしていてくれたのだ。農家の方にも深くお礼を申し上げた。そこで牛を放牧している親父さんが、快く、良かったねと言って下さった。有難かった。冒頭の「沿革」にそれは「校庭南側拡張及び校庭平坦化工事終了」と小さく記録されている。
東さんみたいな証券会社のかたが委員長でほんとうに学校も生徒たちもついていました、よかったです、と校長先生はとても喜んでくださった。あまりそれで世間様に誉められたことがなかったので、ちょっとうれしかった。1年間なんとか無事につたない運営委員長を務めさせていただき、任期満了のご挨拶とお礼を委員さんと教員の先生がた全員の前ですると、最後に防衛庁から御出向の官僚のかたが高く挙手をされてこうおっしゃった。「東さん、ご苦労様でした、ところでなんで防衛庁に入られなかったんですか?いい武官になられたのに・・・」。ありがとうございます。自分にとってこんなに光栄なお言葉はかつてありませんでした。一生忘れません。
今日、昔の写真を整理していてチューリヒ日本人学校のことを思い出し、ホームページを開くと出てきたのが上の2つの写真だ。思い出した。あれから18年、見るとグラウンドは何も変わっていない。ほっとした。勝手の違う海外で学ぶ日本の子供たち、今日もサッカーで泥まみれになっていたらいいなあと思った。
大学受験失敗記
2014 JAN 10 22:22:01 pm by 東 賢太郎
本稿は最終学歴をひけらかそうというものではない。自分史の半生記において、あまり思い出したくはないが受験失敗のことを触れないわけにはいかない。大学受験は結果的には願いどおりになったが2度も失敗しており、さらに中高受験もたくさん失敗しており、僕は受験にいい思い出がない。小さいときから物事を時間をかけて深く考えるタイプであり、制限時間内に70点ぐらいを効率よくゲットする競争はきわめて不得手だった。要は受験競争に適したほうでは決してなく、クイズ番組の物知り博士みたいなものになるには最も遠いタイプの人間である。
幼時の関心事は電車と星と人体であり、鉄道線路観察と全天恒星図と人体解剖図が半端でなく好きだった。蟻の観察も好きで同じ巣を一日中見ていて母が心配した。好きなことを始めると食事をよく忘れた。文学的関心は皆無であり推理小説が友だった。文章や人のことばは字義通りにしか解しないから詩歌は意味が分からず、吟じたり味わったりなど到底むりである。「国破れて山河在り~」などと、それがどうしたんだという詩を朗々と先生が読み上げると、僕にとっては馬鹿馬鹿しさとのギャップがおかしくて笑いをこらえるのに必死だった。現代国語や古文漢文のテストは当然見るのもいやであった。
そういうものを人並みに味わうフィルターがないとすれば、それは色弱であるという状態と照らすと似たものがある。僕の色弱は親は知っていて僕もある程度はわかっていた。それが思ったより進路に影響あるとわかったのは高3の始めだ。親父の家系はみな理系だったが、きれいなもの好きで芸術家肌の母の血を多く引いた僕はその時点ではどっちでもなかった。というより野球三昧であって、忘れもしないが高3で初めて受けた駿台公開模試での数学の偏差値は堂々の42であった。要はどっちでもよかったのだ。
自分的には天文、医学に興味があった。今になってみると医者なんかけっこう向いていたと思うが、「東君、その進路は色弱のことがありますからね。文系でどうですか」と担任の物理の故O先生は淡々と宣告された。僕が教師ならこう言っただろう、眼以前にアタマが無理でしょと。ストレートにそうおっしゃらない優しい先生だった。しかし、これがカチンと来てしまった。よ~しセンセイ、今に見ておれよと持ち前の反骨心にメラメラと火がついてしまった。人生とは何が左右するかわからないものだ。
銀行員の親父はお前は理屈っぽい、裁判官か弁護士になれときた。理屈っぽいことは納得だからそういうものかと信じこんでしまった。こうしてまず法学部志望が確定した。親父には申し訳ないがこれは大いに失敗だった。せめて経済学部か、意外と文学部で哲学なんかやったら学者になれたかと思う。次に志望校だ。僕は一番嫌いな政治家はレンホーだという人種だ。別に彼女個人にどうのこうのはない。どうして一番じゃなくっちゃいけないんですか?というあれが実に不快だ。一番がいいに決まってるだろ、何を言ってるんだ君は?ときっと泣くまでねじ伏せてしまったのが当時の僕だ。そこにセンセイへのメラメラがある。もう志望校は一校しか眼中になかった。
こういうことで僕はそこからやおら勉強を始め、最高峰私学2校の法学部に受かった。しかし初心は変わらずそれを辞退して、O先生の「おめでとう!」はハナから無視して(すみませんでした)、予定通り2次で落ちた東京大学文科Ⅰ類に再戦を挑むべく駿台予備校の門をくぐった。知らない方も多いが、東大というのは全員が最初の2年間は駒場の教養学部生になる。そこでは文Ⅰ、文Ⅱ、文Ⅲと所属が区別されており、3年目になるとそれぞれ本郷の法学部、経済学部、文学部に進む。文Ⅰ以外から法学部へ行けるのは毎年1名ぐらいであり、だから僕は最も偏差値が高い文Ⅰに入る必要があった。世間では東大受験といっているが、東大という大学を受けるのではない。「類」を受けるのだ。その類が不合格の場合、合格ラインの低い類に回して合格させてくれるということは一切ない。だから単に東大に入りたいだけの人は文Ⅱか文Ⅲを受けるべきである。文Ⅰを受けるのはリスクが高いのだ。
あまりに発射台が低かったわけだから成績は大変伸び、再戦だし落ちるわけないなという過信もあった。だから今度は文Ⅰひとつしか受けなかった。これは、メダルを辞退した以上は次は金しかない、銀狙いなし、1年たって銅で妥協はさらになしという理屈だった。そうしたらまた落ちた。これは参った。掲示板に番号がなかった時は大変なショックで、目の前が本当に暗くなった。すべり止めがないのだから即2浪が決まったわけで、眼前に横たわった1年が永遠に向こうにたどり着けないサハラ砂漠みたいに感じられた。私学を受けなかったのは作戦ミスだったかどうかというと難しい。そこでもしまた受かっていれば、それでももう1年東大にチャレンジしたかといわれれば、しなかった可能性がある。それでどういう人生になったかは知らないが、キャリアや人生行路という意味ではなく、今のような性格、人格の自分にはなっていなかったことだけは間違いない。
不合格だった日からの記憶は不快なので脳が勝手に消去したと思われ、まったくない。次の記憶は駿台を受けたら25番ぐらいだったことからフィルムが再開する。それはその年の日本国の浪人生で上から25番目だったことをほぼ意味する。座席はその入試順位の順番だ。まわりは全員が判で押したように東大文Ⅰ志望であり、630人の定員だから655番目だったんだろうという風な計算を全員がしていた。くそっ、ここから400人も東大に入るのにと思ったが僕よりもっと悔しい人が24人もいたことを知って気が和らいだ。両隣りだった人たちも当然に翌年は合格して奇遇にも駒場で同じクラスになった。初対面のときの挨拶は「キミはどうして落ちたの?」だ。僕は「数学が・・・」だ。「えっ2問?オーケーじゃんか?」「そうだね普通ならそれで」だったのを覚えている。英語はまあ良かったが僕の国語と社会の能力はきっと普通じゃないレベルだったのだ。
文系だから英国社は配点が120点ずつで数学は80点だった。国語と社会で55%を占める。東大の2次試験ぐらいになると受験生のレベルは一部の別格的な秀才を除いてほぼ均質である。特に僕のようなボーダーラインの人間の合否は僅差で決まる。社会科は2科目必要で、ひとつは日本史にした。これは割と好きでもあり私学合格の武器になった。しかし高3からの付け焼き刃だから2科目目は省エネしようと政経を選んでしまった。政経は教科書は薄いが全問が論述で実はタフであり、配点は60点もあるのだから作戦ミスだったと思う。しかし今さら政経を世界史に替えて時間を食うよりは、その時間を得意の数学に回した方が総合点は上がると判断した。4問完答だ、満点をとろう、それで落ちたらあきらめようとハラをくくった。こういう人は文系にはほとんどいないはずだ。
それは結果的に正しい判断だったことが判明する。2年やって僕は英国社で成績優秀者リストに名前が載ることはついに一度もなかったからだ。いっぽう、数学の満点ねらいは僕にピッタリのスリリングなゲーム感覚があった。野球でもまず完全試合からねらうのが争えない僕の性格だ。遊び感覚でやっていると結果もよくて、夏前の公開模試の数学でついに念願の満点をとった。駿台予備校に関わった経験のある方はご納得いただけると思うが、あそこの数学はやたら難しくて平均点は2~30点であった。東大受験者はほとんどが受けていて数学オリンピック級の子もいたろうが、文系で100点は年間通しても極めて少ない。僕が人生で唯一全国区で一番になった経験はこれであり、今でもほかの何よりもこれを誇りに思っている。
数学は僕のゼロ戦になった。低空飛行の英国社が足を引っ張っても総合得点で全国7位になるなど、蜜の味も知ってしまった。これで落ちるわけないと確信し、飽きっぽい僕は夏休みは一切すっぽかして推理小説の執筆に没頭してしまった。当時熱中していたエラリー・クイーンをどうしてもまねしたくなって1か月で書いたそれは「オランダ靴の謎」と「Yの悲劇」とヴァン・ダインの「グリーン家殺人事件」を足して3で割ったようなものだ。これを先日読み返したら1行だけ消しゴムで消してあった。おそらく一気に書いてから論理破綻に気がつき、埋める間がなくそのままになったのだろう。その破綻がなにか今の僕の頭ではいくら考えてもわからない。
そうやって夏に油を売っていたら秋になって急速に順位が落ちた。進学校の現役連中である。我がゼロ戦をしのぐ高性能のグラマン部隊であった。しかし、本番の東大2次試験では態勢をもちなおし、作戦通りに数学でほぼ満点をとった。たぶん3点ぐらい減点されたはずだ。上級者は自分でそこまでわかるのである。その年の数学は難しかったから運もあった。先日駒場のクラスで1、2の秀才であったO弁護士に「2問目にミスがあったの気がついたか?」ときいたらNOだった。彼に頭で勝てたのはそれだけだ。僕は 「これは出題ミスである」 と余計なことまでバーンと答案用紙に書いてしまい、でもまさか?とあとで不安になった。駿台へ行って壁に張り出された模範解答を見たら 「ミスだ」 とあった。これで合格を確信した。
発表日に掲示板の受験番号を見てほっとした。楽勝と思っていたからうれしさはあまりなかった。電話したら両親がやって来た。母が泣いているのを見て、わがままで浪人してしまったことを悔いた。母は自分の父親と同じく僕に慶応ボーイになってほしかったのだ。現役で合格させていただいた大学は普通なら赤飯を炊くところだ。どうして入らなかったのかとよくいわれるし、いわれると説明に窮してついそうだねと思ってしまう。それが自然体だったし、行った連中が楽しそうだったし、女の子もいっぱいいたし、1年のつもりが2年の回り道になったし、それで弁護士や教授になったのならともかく4年間すっかり遊んでしまったのだし、入社したらそっちの大学の方が主流派だったし。何とも間抜けな人生だ。だから何を書いても負け惜しみになるが、それでもあの決断は良かったと思えることもある。
なにより駿台予備校というのが素晴らしい学校だった。英語の伊藤先生の「ここでガチャンという音が聞こえる」は実にすごい。ガチャンが本当に聞こえるようになり一気に英文法が得意になった。極めつけは数学の根岸先生だ。板書が美しい。悪筆だった僕のノートも美しくなった。それと正比例して面白いように成績が上がって偏差値は軽く70台になった。42だった僕がだ。先生は東大理学部物理学科卒の数学者であり「数学の美」を教える天才だった。人に教わることの鈍才である僕が心から敬服して習いたいと思ったのは先生だけだ。数学の思考訓練をここまで徹底的にやったことで僕は完全に別な人になった。2年間やっても英国社は文Ⅰ受験者としては人並みのまま終わったわけだから、僕の資質は理系だったということが判明した。
O君は弁護士という仕事は充分やったので違うことをやりたいという。その仕事に誇りはあるが、人が決めてもめ事を解決するのは次善策であって科学ではないそうだ。そういう彼も理系的な人であり、彼曰く文Ⅰの人はみんな理系だがそれでも司法試験や上級公務員試験に受かる。ところが僕の場合、1年の法学概論の授業からして退屈でまいってしまい、訴訟法や行政法みたいな手続き論は完全にアウトだった。要は神様が決めたもの以外ぜんぜん興味が湧かない。訴訟のルールよりも、子供の時にじっとみていた蟻んこの道のでき方のルールの方がずっと上等に思えた。あそこまで法学部にこだわったのは間違いだったのだろうか、今もよくわからない。
有難いことに、いま自分はサイエンティストとしての生来の姿で自然に生きていける自由を得た。サラリーマンという虚飾の職業をやめられたからで、まったく心の底からくだらないと思うことに真面目にうなづいたり取り組むふりをしたりする必要が皆無になった。ショーペンハウエルの言う孤独を楽しめるというのは何という素晴らしいことだろう。ある原理や法則に則って歴史、古文、哲学、音楽、ラテン語、ミステリー小説、株式市場なんかを紐解く作業は実に楽しい。いま僕はそういう他愛ないことに喜びを見出している。神様が決めた原理、法則性が支配する限りにおいては何事であれ敬意と関心をもっていられる。その神様が誰であれ、造物主という意思の存在を僕は確信することができるし、彼がいない宇宙や科学や数学の存在を逆に信じることが難しい。
もう来年2月に還暦になる。ここに記したような自分の若気の至りをゆるし、いとおしく思える年齢になった。それがなければ今はこうなっていない。この妻も子もいない。世界であんな経験もできていない。証券という面白い仕事について体が震えるような成功体験を感じることもない。だから良かったのだと思う。ここから僕が世の中に生きている意味は、こうして選んでしまった道を人助けという道に連鎖させていくことだ。自分に意志と健康がなければできない。還暦はその節目にしたく、だからそこまでの1年ちょっと、その準備をしようと決めている。今年がそういう年になったら幸運である。
新プロジェクトに挑戦する
2014 JAN 9 21:21:50 pm by 東 賢太郎
「自分史の書き方」を読んで面白いと思ったが、足腰がたたない老人になってから回顧録を書くというスタイルは僕には合わない。現在進行形にしたい。半生記の継ぎ足しでライブ中継し、人生ゲームオーバーになったらそれが全生記になってるというのがいい。SMCは西室の邪魔をしないように、そういう場にもさせていただければと思う。
2010年に独立するまでの人生で、社長ポスト2回と副社長ポスト1回のお誘いを受け、やらなかった。社長は1度、副社長は1度、取締役2度、執行役員2度、拠点長3度、業務部門長2度はやった。しかし経営者としてのトータルの自己評価は30~40点ぐらいだ。
やらなかった3つの理由は簡単で、自信がなかった。負けそうなケンカは僕はしない。その一つは今ならやりたい、恐らく誰でもやりたいすごく魅力的なポストだが、当時は弱冠49歳であり、やってもきっと失敗しただろう。他の2つは受けなくて正解だった。ではやったものはどうかというと、成功より失敗のほうがずっと多い。
失敗の原因は今となると明白だ。僕の性格の独裁制、完全主義、短気、なめる、飽きっぽい、詰めが甘い、わきが甘いなどだ。これは生まれつきの部分と証券業界でついたクセの部分と両方ある。後者の方はおおきい。拙文を多くの野村の元同僚、先輩後輩がよむことを承知で書くが、僕は証券営業分野でプレーヤーとして他人に負けたと思ったことも負けると思ったこともない。だから、やりゃあいいんだろという基本スタンスになった。それが通用しなくなったのはそれを卒業してマネジメントになってからだ。
野村に入社して配属された梅田支店で、当時あこがれのスターだったT次長という人がおられた。公私にわたりご指導を受けた恩人である。後に某証券会社の社長になられたそのTさんが、新人の僕にこういわれた。「東、他人の2倍ならやるな。やっかまれるだけだ。10倍やれ。誰も何もいわなくなる。」 これは後になって実際に正しいことがよく分かった。以来、証券マンとして僕の不動のモットーとなった。
しかし、これはワンマンショーのプレーヤーとしてならワークしたが組織の長になるとむずかしい。どうしても落伍者が出る。本人は懸命なのだが目標が高いとそもそも無理という人が増える。サラリーマンは部下を選べない。人事部が全社的事情で送り込んできた、それに向いていない人でも使うしかない。彼らも夢や希望があるが、それは僕の10倍ビジョンの一部ではない。だから幸せになれない。
となると、9割が普通のサラリーマンから成る組織では僕も幸せにならない。業界がデフレで赤字続きになると、会社にしがみつく人は9割どころか99%になる。僕には彼らと一緒に生き残るために毎朝会社に来て意味もない会議をくりかえす忍耐力はない。すると結局全員が不幸になる。だから僕はそこにいない方がウィンウィンという当然の結論になる。
つい昨日と今日、年明け早々に、非常に面白いプロジェクトをやらせていただく有難いお話が立ち上がった。これは金融だが証券ではなく、僕の未体験分野である。しかし背景となる分野はもともとが理系である僕にとって大変興味深い。そして世のため人のためになる。そして何より、スケールが莫大に大きい。いままではいただいた話ばかりだったが、今回は人生で初めて自分からやらせて下さいと申し出た。
ここで思い起こすことは、ささやかな体験だ。もっとさかのぼる。ゴルフや野球は欲がなくてひょうひょうとやったら意外に良かった。完全試合やるぞ、70台出すぞと力んでいつもだめだった。結果オーライだったのはそうでないときだ。今回はそういうスタンスで行けそうな気がしている。知らない分野だから勉強は大いに必要である。それについても、大学受験のときなみにやってやろうと決めた。当然ひとりでできる話ではない。社員と知己に助けていただくことになるだろう。本日は決意表明まで。
大晦日に「自分史の書き方」(立花隆)を読んで
2013 DEC 31 14:14:59 pm by 東 賢太郎
「年をとると1年が速くてね」。
年の瀬にこうつぶやいていた両親の言葉は他人事でしたが、今は自分がそう子供につぶやいています。速いだけではありません。「軽く」もなるのに気がつきました。1年の重みはそれまでの人生で割り算したものです。毎年分母だけは着実に増えますね。
それでも、今年は僕にとって重い年でした。なにより1年通してブログを綴ったというのは重大な体験でした。ブログは日記と違って他人様に向けて書きますからけっこう大変です。最初は読まれるかどうか誰もが半信半疑です。でも読まれます。一人だっていいのです。そうするとどうせ書くならもっと読んでいただきたくなります。読者へのサービス精神が無意識に生まれ、それが自分の生活態度まで変えます。僕のイメージですが、ポジティブで好奇心旺盛な注意深い人間に変わります。誰だってそうなった方がいいし、誰だって書けばなれます。
ところが違うご褒美があることもわかってきました。懺悔の場にもなるのです。
今年は6月に仕事の山場があって、人生初めて胃が痛くなりました。何がおきたのか実は大変に不安でした。それで胃カメラを飲んだ。それも人生初体験です。その時点で悪い結果もあり得たのですが、不安感を一人でしょい込むのはやめようとえいやっとブログに書いてしまいました。客商売の身ですからそういうことは隠すのが普通ですが、いざ書いてしまうとかえって気が楽になりました。キミね、胃痛ぐらい当たり前でしょ、という世間様の声がパソコン画面のむこうからきこえてきた気がしたからです。
先月クラス会から帰るとケータイがないことに気づき「盗まれた」と信じ込んでいました。ところが警察の連絡で電車で落としたことが発覚しました。これは胃痛よりもショックで一日落ち込んでしまい、その時点でブログにも書けませんでした。だからここに初めて懺悔することです。どうということはないように思われるでしょうが問題はなくしたことではありません。理詰めで可能性を検討したあげく、盗まれたと確信して交番に届け出ていたことです。そういうことでミスした経験はありません。
あり得ないことが起きてしまいました。自分の注意力、記憶力、判断力、視力すべての自信が一気に崩壊です。大げさのようですが、その自信で僕はここまでこうして生きてこられたのです。大晦日の今日ここにそれを記してしまって、お客様が読まれたらあいつ大丈夫か?となるかもしれませんが、しかしそれを隠して生きていても僕はさらに年を取ってダメになると思うのです。もうできないことはできません。自分へのウソや空元気からは今後の良い仕事も人生も望めないと思っています。
そうしたとき、昨日本屋で立花隆の「自分史の書き方」という本を見つけました。
「セカンドステージ(これからの人生)のデザインになにより必要なのは、自分のファーストステージ(これまでの人生)をしっかりと見つめ直すことである。そのために最良の方法は、自分史を書くことだ。」
とあります。第1章にこうあります。
自分史とはなにか
長く文章を書き続ける最大のコツ
「はしがき」と「あとがき」について
自分の歴史を記す二つの意義
「恥やトラウマ」を書きこんで自分を癒やす
最重要ポイントは「自分史年表」作り
お手本は日経新聞「私の履歴書」
書き出しについて──人はみな万世一系
自分史は「エピソードの連鎖」である
最後はこうです「人生の勝ち負けを真に決めるもの」。
いいですね。特に「恥やトラウマ」を書きこんで自分を癒やす 、というのがまさに僕が経験していることです。起きてしまったことは仕方ない、それを踏み台にして次に頑張ろうという気になれるからです。そのためには、自分の心の中でそれを消化して客体化しなくてはなりません。自信を持って言えますが、そのための恐らく最も効果的で強力な方法はブログで公表してしまうことです。何人がそれを読んでくれるかはポイントではありません。可能性としては64億人が読めるわけです。そこに身をさらす決断をする、恥や不安を文章にして解毒するということだけで信じられないほど絶大な効果があります。
クラス会では、来年は還暦だという話題で持ちきりでした。そこから僕は人生の下り坂にはいると考えています。ネガティブな意味はありません。ゴルフコースと一緒でアウトが登りならインは下りになるだけです。良いショットを打つためには下りは下りなりのしっかりしたスタンスが必要です。だから来年はその基盤づくりの一年だと考えています。
皆さん良い年をお迎えください。





