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コダーイ 組曲「ハーリ・ヤーノシュ」作品15

2014 JUN 22 18:18:27 pm by 東 賢太郎

map01ハンガリーに友人Kが駐在していて、スイス時代に仲間と4,5回は行っただろう。それが毎度ゴルフであり、彼の運転でペーチュという南部の街のあたりまで4時間ほどブダペストからぶっ飛ばして行く。もうクロアチアに近いところだがそこにけっこう難しい36ホールのある立派なゴルフホテルがある。ジャパニーズなんて珍しいからだろうか奴の性格の良さだろうか、Kはそこのオヤジにえらく気に入られていて番犬までなついていた。ホールインワンをやったホールのティーグラウンドわきに石碑を立ててもらっているほどだからこんな奴はそうはいない。気安くゴルフができるわけだ。それに味をしめて何回も行ったのだが金曜にチェックインして土、日で4,5ラウンドやるからまるでプロのトーナメントだ。もう20年も前のことだが、まだホール全部の景色とレイアウトや使用クラブ(番手)をはっきり覚えているところをみるといかに真剣勝負していたことか。

一度夜に4人で街へ出ようと車で向かったとき、ベンツがエンストしてしまった。えらい田舎道で人っ気どころか街灯もなく途方に暮れた。当時まだ携帯電話なんてなかったのだ。1時間ぐらいしてやっと通った車に2人が乗せてもらいガソリンスタンドまで行って何とかしてもらおうとなった。釣り帰りの気のいい若者たちであり、車内は釣果のナマズで臭かったそうだ。ホールドアップのない国で良かった。僕は残留組だった。またひたすら車内で待った。暗闇と静寂の中で凍えるほど寒かった。「こんなとこで死ぬのはかなわんね」と笑っても冗談にきこえない。1-2時間だったろうか永遠みたいに長いこと待った。後方からごうごうと地響きがしてきた。煌々とライトを放った大型トレーラーだった。遠征組の大手柄だ。スタンドで絵を描いてやっと緊急事態が通じたみたいだが、夜中によく出してくれたもんだ。ハンガリーの人はいい人なのだ。車ごと高々とした荷台に乗せられて我々は大いに快適だった。ホテルに凱旋帰還したのは朝の4時だ。Kになついている番犬が突如出現した巨大トレーラーに仰天して気弱に吠えた。

一度は上司とウイーンからブダペストまで車で行ったこともある。90年のことだ。バラトン湖で食事してなんだったか忘れたが屋台で果物を袋いっぱい買って食べながら行ったが食べきれなかった。仕事後にバルトークとコダーイのお墓詣りをさせてもらった。ハンガリーというとグーラッシュだ。パプリカのきいたビーフシチューみたいな料理でご飯があればもっといいのにといつも思う。フォアグラは地元の名産で、それとトカイワインがあれば言うことない。ハンガリーにはモンゴル由来のアジアの血が入っているそうだがどの程度だろうか。ハンガリーのHunはフン族のフンというがそうではないという説もある。ただ姓名の順番は東洋式だからアジアが残っているのかもしれない。ヤマダ・タロウと同じくリスト・フランツでありバルトーク・べラである。

コダーイ・ゾルタンの名作「ハーリ・ヤーノシュ」は同名のほら吹きオヤジが、”七つの頭の竜を退治した”、”ナポレオンに勝って捕虜とした”、”オーストリア皇帝の娘から求婚されたなどの冒険譚をたれる物語だ。ほらでも捏造でもここまで豪快だと憎めない。原曲はプロローグとエピローグを持つ4幕の劇音楽「五つの冒険」であり、そこからコダーイが6曲を選んで以下の演奏会用組曲とした。

1. 前奏曲 おとぎ話は始まる                                 2. ウィーンの音楽時計                                     3. 歌                                                4. 戦いとナポレオンの敗北                                  5. インテルメッツォ                                       6. 皇帝と廷臣たちの入場

第3曲、第5曲で活躍する「ツィンバロン」という打弦楽器にご注目いただきたい。グランドピアノの弦をバチでたたく原理で、そういう音がする。スイスはジュネーヴのレストランでこの楽器の名手のソロを聴いたことがあるが音も大きく感銘を受けた。

第1曲はいきなり「くしゃみ」の音まねで始まる。「聞いている者がくしゃみをすればその話は本当」というハンガリーの言い伝えだそうだ。ほら話がくしゃみで始まるのは逆説のジョークだ。第6曲の最後はバスドラムの一発で閉じる。そんな曲はこれしか知らない。ティンパニ・ソロの一発で閉じるのにドビッシー「海」があるがそれはリズムの拍節どおりに鳴る。ここでは微妙に記譜された拍節からずれて、遅らせて鳴らしている指揮者がいる。例えばセル・ジョルジ(米国名ジョージ・セル)だ。この絶妙の間、文字通りの「間ぬけ」がぜ~んぶホラでしたと聞こえるから不思議だ。これでこそ「くしゃみ」の入りと対称形になって全曲の意味がくっきりと浮き出る。

僕はこの曲がエスニック料理みたいに大好きだ。ハンガリー風味が満載。ときどき無性に食いたくなる。クラシックファンには当たり前の曲だが入門者は知らない人も多いだろう。とにかく病みつきになるほどのおいしい曲なのでぜひ6曲とも聴き込んで覚えていただきたい。ハンガリー民謡のメロディーが不思議と我々日本人の「口に合う」音楽なのだ。

僕の場合、病が嵩じて第3曲「歌」と第5曲「インテルメッツォ」をシンセで弾いてMIDI録音した。前者はヴィオラソロで始まり、練習番号1で Dの和音の上にクラリネットが第3音(f)と第7音(c)が半音下がったジャズでいうドリアンスケールの旋律を奏でる。この長調短調のぶつかりはビートルズの後期の音を連想させる。和音だけがB♭7→Gと東洋情緒あふれる変化をするがこの部分はジプシー(ロマ)音楽風であり、ブラームスのクラリネット五重奏曲を思い出す。 ロマと黒人、ジプシー音楽とジャズ。西洋音楽の周辺、エスニックなところのエッセンスがビートルズにあるというのが彼らの音楽のパワーの源泉だろう。

練習番号2。Poco piu mossoからD、C、F、G、Asus4と続く和音は、特にFが出てくるところが非常にビートルズのStg.Peppers的である。この次にホルンにフルートのトリルが絡まる部分の素晴らしい和音(Dmaj7/b→ E6・7・9→Em7)!なんていいんだろう。作りながら興奮した。この6曲にはこういう興奮箇所が満載だ。いちいち書いていたらブログ10回分になってしまう。そういうマニアがおられればいつかじっくりと喜びを分かち合いたいと思う。ともあれ、ハーリ・ヤーノシュ、旋律は平易に聞こえるが和声進行の個性は絶妙であり他の誰とも似ていない。コダーイオリジナルの天才的作品なのである。

 

フェレンツ・フリッチャイ / ベルリン放送交響楽団

haryi-tuneの自作自演盤は(僕のメモリーにないものだが本物とすると)かなり味付けが濃い。劇音楽そのものだ。コダーイの愛弟子であったフリッチャイの演奏がこれに近い。例えば第4曲のトロンボーンのグリッサンドからの表情づけ、サックスのトリル。曲尾のバスドラムも見事に「間抜け」で鳴る。僕はこれをLPで大学時代に聴き込み、CD(写真)をドイツで買った。僕にとって特別な思いのある演奏であるが、これがスタンダード名曲化する前の原型の香りをたたえた名演として皆さまにも広くお薦めできる。

ユージン・オーマンディ / フィラデルフィア管弦楽団(1961年12月28日録音、CBS)

unnamed (22)こちらは17歳の時にバルトークを買ったらいわゆる「B面」も良かったというもの。指揮者のハンガリ―名はオルマーンディ・イェネーである。現代オケのスマートな快演として評価されているがとんでもない。欧州的な音がしており随所に懐かしい香りがある名盤である。前述「歌」の練習番号2Poco piu mossoのフルートをこんなに見事に「わかって」入念に入れている指揮者は皆無である。この曲の要である管楽器のうまさはいうに及ばずだが「インテルメッツォ」のシンフォニックな弦も格別に颯爽としている(実にかっこいいのだ)。万人のスタンダードとしてお薦めしたい。

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バルトーク「管弦楽のための協奏曲」Sz116

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R・シュトラウス アルプス交響曲

2014 JUN 15 20:20:32 pm by 東 賢太郎

R・シュトラウスのアルプス交響曲は83年留学中にアンドレ・プレヴィン指揮フィラデルフィアO.で、次が97年スイス赴任中にハインツ・ワルベルグ指揮チューリッヒ・トーンハレO.を聴いた。後者は打楽器の横の座席で当時10歳の長女を連れて行ったが、目の前のウインドマシーンの風音とサンダーシート(雷の音を出す)のばりばりに驚いてしまった。スイスでの2年半を思い出す特別な曲である。

R・シュトラウスのオーケストラ曲は耳の美食である。とにかく空気が良く鳴るが、このゴージャスな贅沢さは広大な空間の「鳴り」だからどんな立派なオーディオ装置と部屋でも絶対にわからない。ベルリオーズ、R・コルサコフ、ラヴェルが古典的定義では「世界三大管弦楽法大家」だが、この3人の音楽の美質は装置さえ優秀なら家でも味わえるという性質のものだ。しかし、管、弦、打楽器という分別を忘れるほど音響がアマルガム(合金)と化して七変化を遂げる奇観、壮観という点で、シュトラウスの右に出るものはいない。

この「オケの存在を忘れる」という特徴は描写音楽に好適である。音が風景や画像を邪魔しないからである。映画「2001年宇宙の旅」に使われた「ツァラトゥストラかく語りき」。あのドーソードー(5度+4度)にある宇宙的盤石と長調短調が揺れ動く光と影。あれは宇宙というもの体感させる音楽(本来はそうではないが)としてぴったりであった。いわば大人向けディズニーアニメの劇伴音楽になろうと思えばなるのである。だからだろう、ハリウッドの作曲家に大きな影響を与えたと言われる。どうして彼がサンダーシートまで発明して管弦楽団に必要としたかはその衒いのない写実精神によるだろう。

アルプス交響曲はドイツ語でEine Alpensynfonieだが古典的定義の交響曲ではない。アルプス登山の一日を活写した大絵巻であり登山者の遭遇する景色や天候を、心象風景というよりもリアルに描写した観が強いという意味でベートーベンの田園交響曲よりもムソルグスキーの展覧会の絵に近い。しかし一方で、夜から夜に帰る連続的な時間の連鎖と、日の出-山頂にて-日没というピラミッド型の左右対称形という型式とを持っている点、景色の無秩序な羅列ではなく、ドビッシーが自作「海」を交響詩と位置付けた感じに近いように思う。決して銭湯の富士山のペンキ絵のような軽薄な音楽ではない。

R・シュトラウスは、強者をおとしめ弱者を救おうというキリスト教(畜群思想と呼ぶ)を否定した無神論者のニーチェに傾倒した。その思想は向上心を奪い本来の人間本性に背くからである。しかしその人間も自然の上に立つことはできない。「ツァラトゥストラ」でハ長調を「自然」、半音下のロ長調を「人間」と見立てているのがそれである。そしてさらに、このアルプス交響曲はそのさらに半音下の変ロ短調が開始と終止の登山家の立脚点になっている。

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このピアノ譜の右手は弱音器付の弦5部を10パートに分割した20の音から成るシ♭とシ♭の間の変ロ短調音階の全ての音が鳴る「トーンクラスター」となっている。そして全曲の頂点である「山頂にて」では、ツァラトゥストラと同じあの「自然」の象徴であるハ長調が世界を制圧したファンファーレを轟かせるのに当曲の思想性を見る。終結のヴァイオリンが上昇してラ♮、ドとシ♭を避けたまま不安定に終わる。畜群ではない人とはいえ、自然には太刀打ちがかなわないのである。シュトラウスは一見お気楽ディズニー風の風景画を装いつつ、「アンチ・キリスト」という重たい画題を封じ込めたのだと思う。

私事になるが先頃書いたようにチューリッヒに住んで顧客を毎週のようにスイスアルプスへお連れし、自宅からもその遠望を眺めるような環境に2年半もいるとこの曲はそれまでと親近感が変わってしまう。R・シュトラウスはスイスではなくミュンヘンの南、バイエルン州とスイスの境であるガルミッシュ・パルテンキルヘンからツークシュピッツェ山に登った印象を描いたのだが、書こうというその気持ちがよくわかるし「虹(幻影)」からカウベルの鳴る「山の牧場で」にかけては懐かしさに心が動くのを感じる。家族を連れてインターラーケンからグリンデルワルドへ登る道すがら、踏切を渡った右手の丘に雄大な放牧地がある。草の緑があまりに美しいので車を止めて娘たちを遊ばせた。乳牛がそこらじゅうにいた。

スイスに住んでいるとカウベルの音は慣れっこになるが、一頭ということはまずないからあちこちからカランカランと来る。「山の牧場で」では複数のベルが鳴る。楽器なのだから一つでいいようなものだがそれではカウベルに聞こえない。N響では左端の打楽器奏者と右のティンパニ奏者でステレオ効果を出していた。面白いのはカウベルはスコアにHeldengeläuteと指定されていることだ。直訳すると「(獣の)群れの鳴り物」でマーラーの7番のカウベルもHerdenglockenなのだが、いわゆる「群衆心理」はHerdengeistであり、前述の「畜群的人間」こそがHerdenmenschなるニーチェの造語なのである。僕はシュトラウスが嫌った畜群、つまり強者を妬み貶める群衆と牛をひっかけたような気がしてならない。

N響Cプロに移ろう。こう書いては失礼なのだが、アシュケナージとバレンボイムはすっかり指揮者になった。僕らの世代には彼らは若手ピアニストであったのだ。ところがだんだん20世紀のマエストロが亡くなっていって、彼らはもう巨匠指揮者の仲間入りしている。今回の座席はC14の左寄りだったがコンマスが伊藤 亮太郎だったせいなのだろうか、弦はいつもより粘度が高く良かったように思う。管もブレンドされ浮き出ることがなく、アシュケナージはピアノでは出せない音響の調合具合にこだわりがあるのかもしれないということは虹(幻影)の部分でかつてない高音部合奏の色彩を耳にしてそう思った。この曲はそういう方向性がよく活きるし、そういう音を練りだしたというのは指揮者の実力以外の何ものでもないだろう。

以下、僕の愛聴盤である。

ルドルフ・ケンペ/ ドレスデン国立管弦楽団

61LLIJysrCL__SL500_AA280_ この曲を初演し献呈されたのはこのDSKである。他のオケはもちろんDSKそのものも今やこういう音はせず、地球上から絶滅した東独産生物の化石のようなもの。R・シュトラウスということを度外視してもDSKの最高のフォームが記録されている世界文化遺産もののCDである。これを地味という人もいるがこの曲を派手に演奏すべきという考えはどこから出てくるのだろう?

ホルスト・シュタイン / バンベルグ交響楽団

655そういう人にはもっと地味に聴こえるはずだ。だがこのローカルな耳当たりと朴訥な味わいは地酒のようで何とも芳醇である。僕の知るアルプスの鄙びた風土にベルリン・フィルやシカゴシンフォニーの洗練はどうも似合わない気がする。ホルスト・シュタインのワーグナーの延長にある豪壮なオケのドライブ、しかし細かな部分の彫琢もおろそかになっていない。練達の指揮でないとこうはいかないと思う。

 

ゴルフの謎 (Thank you, but not for me.)

マーラー交響曲第6番イ短調(ついに聴く・読響定期)

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ドヴォルザーク チェロ協奏曲ロ短調作品104

2014 MAY 11 0:00:09 am by 東 賢太郎

米国ペンシルヴァニア大学に留学中、チェロを買い1年間個人レッスンを受けたことは以前に書きました。これを弾きたいと思ったのです。ド素人だったのにまじめにそう思える所が僕の僕たるゆえんであり、おかげでとんでもないことが出来てしまうこともありましたが、これはあえなく討ち死にに終わった方でした。

悔しいのですが、これは実にいい曲なんです。

僕は演歌が特に好きでもありませんが、ロンドンにいた頃、石川さゆりの津軽海峡・冬景色が野村ロンドンの社歌みたいになっていました。当時の社長が好きでカラオケの締めでみんなで熱唱してたんですがなんか琴線に触れるものがあり、ああやっぱり日本人なんだなと感じ入っていたものです。昨日広島のお客さんが「広島におるとカープなんかどうも思わんが東京に出て来るとどうも気になる」と言われてそれが思い当りました。

ドヴォルザークは米国楽壇のパトロンだったジャネット・サーバー女史の招きで渡米しました。ニューヨークの音楽院の院長になったのですが、この2年半ほどの滞在で極度のホームシックとなり強い望郷の念で作ったのがこの協奏曲といわれます。お客さんのカープ、僕の石川さゆり、やっぱり望郷の念というのは何か特別なものを生んだり感じさせたりするんでしょうか。この協奏曲は、ああこれはボヘミア人にとって演歌みたいな曲なんじゃないかなと思うのです。

ドヴォルザークがアメリカにいたのは1892年9月27日から1895年4月16日まで。実はこのちょうど100年後、1992年夏~1995年5月がほぼぴったりと僕のドイツ滞在期間だった関係で、それ以来この協奏曲は「なるほどなるほど、そうだよね」とあちこちに感情移入して聴くようになっています。言葉もよくわからん状態で住んだ異国。英語圏のロンドンとは似ても似つかない孤独感があって無性に懐かしく思った日本。当時のそういう気持ちを思い起こすとドヴォルザークの望郷の念が他人事でない気持ちになるのです。

チェロ演奏の思いが遂げられなかった欲求不満で、2000年に帰国してからとうとう第1楽章をシンセサイザーでMIDI録音してしまいました。大作業でしたがProteusという米国の音源ソースの独奏チェロはなかなかリアル感があって良く、苦労して作ったカラオケにのってあのすばらしい第2主題を弾いたときの喜びったらありません!いろいろテンポを変えて試して、いや本当にドヴォルザーク先生ありがとうという感動で一杯になりました。目頭が熱くなるしかないあの終楽章の最後の最後!名曲中の名曲、とにかく聴いていただくしかありません。

フランスのチェリスト、ゴーティエ・カプソン(Gautier Capuçon)、なかなかイケメンでもありいいですね。指揮のパーヴォ・イェルヴィは先日N響を振ったネーメの息子。両者とも非常にデリケートな解釈で素晴らしいです。

この曲はドヴォルザークが若い時に愛していた女性(ヨセフィーナ・カウニッツ伯爵夫人)が重病という知らせをニューヨークで聞き、帰国後1か月で彼女が亡くなるという極めてプライベートな事情が作曲と重なっています。だから第2楽章には彼女の好きだった主題(歌曲Lass’ mich allein)が使われ、そして彼女の死後にはあの第3楽章の長いコーダをつけ加えたのです。音楽は止まりそうになり、チェロのモノローグが第1楽章冒頭の主題を静かに回想します。こういう事情から彼は作曲依頼者のチェリストからの修正提案を「一音も変えるべからず」と言ってはねつけ、カデンツァを入れろと言われて激怒したのです。

「こんなチェロ協奏曲が書けるということを知っていたら自分も書いていたのに」と評したのはヨハネス・ブラームスでした。

 

ピエール・フルニエ  /  ジョージ・セル / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

20140510-1300最高の格調とデリカシー。第1楽章、チェロが登場する場は決然とした千両役者、そして第1主題を経ていよいよあの優しい第2主題へ向かう美しい道のり。ここがこんなに澄んだ秋空のような孤独と悲しさに彩られる例は他に記憶がありません。素晴らしい音程とフレージングで高音がまるでヴィオラであるかのように歌い、全編にあふれわたる品格の高いロマンの息吹は何度聴いても深く心を打たれます。このフルニエのチェロこそ曲の神髄を描ききった神品であると断言してしまって後悔はありません。そして、セルとベルリンフィルのシンフォニックで引きしまった伴奏がまた最高のテンポとディナーミクでもうこれしかないだろうという説得力ある逸品。第3楽章の第2主題を呼び覚ますオーケストラの素晴らしさ!それを受けるフルニエ。指揮者とソリストの和声の流れに対する感性とオーラが奇跡ように一致した稀有な演奏であり、それに呼応してオーケストラメンバーの出す「気」の脈動まで一致しているのを感じます。音楽にこれ以上何が必要なんでしょう。これを持っておれば他は要らんということはあまり書きたくないがこの演奏は僕の中で完全にそういう位置にあります。これはぜひSACDなどの上級フォーマットで所有したいです。

リン・ハレル /  ウラディーミル・アシュケナージ /  フィルハーモニア管弦楽団

CL-130213011もしフルニエ以外で一枚だけと言われればこれです。僕は何種類もあるロストロポーヴィチのこの曲がぜんぶ大嫌いであり、カラヤンとやった有名な一枚は特に嫌いです。このハレル盤は曲への愛情が自然に伝わる名演で、アシュケナージのデリケートなサポートも実に見事です。彼はラフマニノフ、グリーグなど甘目の音楽を下品にならずに表現する達人です。第3楽章コーダの彼女の思い出のシーンだけはフルニエよりもこちらのほうが上であり、涙なくして聴けません。録音も良く、お薦めできます。

ハインリヒ・シフ  /  アンドレ・プレヴィン  /  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

050美演です。チェロもオケも暖かい木質の音で好ましく、録音はホールの空間、空気を感じさせる欧州系の上質のもの。実はこのCDを秋葉原のオーディオ店で試聴して僕はB&Wのフラッグシップ・スピーカーである801Dの購入を決めたという記念碑的CDなので挙げさせていただきます。

 

 

(補遺、3月21日)

1月7日にコメントを頂いたライヴ・イマジンのチェリスト西村様と先週食事をし、興味深いお話をたくさん伺いましたが、その際にいただいたのがこのCDです。

スティーヴン・イッサーリス / ダニエル・ハーディング / マーラー室内管弦楽団

51lBsRg5ykL._SX466_ガット弦の演奏が素晴らしく、文才にも長けたイッサーリスの解説がまた面白く勉強しました。ナイアガラの滝を前に5分間も立ち尽くしたドヴォルザークが、何かに憑かれたように、「神よ、これはロ短調交響曲になるでしょう」と叫んだ。その35年後に同じ景色にモーリス・ラヴェルが「なんて荘厳な変ロ長調だろう!」と述べた。僕は3回も行って、たぶん5分以上は立ち尽くしてますが、作曲家にならなくてよかったです。

その「ロ短調交響曲」は既にほぼできていた新世界交響曲ではなく、チェリストのハヌシュ・ヴィハーンの説得で書かれたこのロ短調協奏曲の壮大なヒロイズム、高貴なたたずまいに結実したかもしれないというイッサーリスの説は支持できそうです。息子の証言ではドヴォルザークは独奏楽器としてのチェロは低音がもごもごしてはっきりしないと嫌っていたのに、友人に1894年12月の手紙で、「キミ、驚くなかれ、私はヴィオロンチェロのための協奏曲の第1楽章を書き終えたのだよ。私がそれにいかに意欲的か、自分でびっくりしてるんだ」と書き送っているそうです。

自分がしている作業に自分が驚く。トリスタンを作曲中のワーグナーも「ピアノを弾く自分の指先から出てくる妙なる音に驚く」と述べていますが、天地神明から得た霊感を人間界に残す者(作曲家)と、その人間への共振を具現化する者(演奏家)がいかに違っていることか。轟々と爆音を立てて流れ落ちるあの滝を見てロ短調や変ロ長調が聴こえてくる人たちというのは人間界において特異な存在であって、ひょっとしてキリスト、アラーや仏陀がそうだったかもしれず、アインシュタインもそうだったのだろうかと思ってしまいます。

ニューヨーク滞在の終わりごろ病気のはずのドヴォルザークを家に訪ねると、散乱した数日分の残飯に埋もれて黙々と作曲中だった、病名は作曲熱だったという逸話もあります。ベートーベンの部屋も大家に追い出されるほどひどかったそうですが、こういう人たちは霊界と交信していて俗界など眼中にないのですね、まあ彼らのおかげで喜びをいただいている我々俗人の目線で評価することはナンセンスと思います。

この曲をドヴォルザークに書かせ、テクニカルな提言もしたのはハヌシュ・ヴィハーンですが、もうひとつ作曲に重要な契機を与えたのが音楽院の同僚教授ヴィクター・ハーバートのチェロ協奏曲第2番ホ短調でした。ドヴォルザークは94年3月に初演されたこれを少なくとも2回聴いており、終演後に興奮した大声でハーバートを素晴らしい!と祝福したそうで、これに触発されてヴィハーンのリクエストに応える気になったようです。ハーバートは93年12月16日、カーネギーホールで新世界交響曲を初演したニューヨーク・フィルの首席チェリストで、同じホ短調で2番の協奏曲を書いたのですが、緩徐楽章がロ短調でありこれもドヴォルザークに影響を与えた可能性が指摘されています(出典・wikipedia)。

イッサーリスのCDには初稿のエンディングが録音されていて初めて聴きました。割合に唐突でそっけないものだったのです。これが上記のとおり、ヨセフィーナからの重篤であるという手紙(94年11月)、上記の自分でびっくりの手紙(同12月)となり、ヴィハーンのカデンツァを拒絶、そしてヨセフィーナの死(95年5月)による改訂となっていくのですが、エンディングに縫い込まれた歌曲Lass’ mich allein(1888)がこれです。

イッサーリスはハイドン、モーツァルトもそうだがとしていますがヨセフィーナ・カウニッツ伯爵夫人は奥さんになったアンナの姉妹(お姉さん)であり、結婚後もドヴォルザークの気持ちは変わらなかったようで玄孫(孫の息子)であるトニー・ドヴォルザーク氏によると1990年代になってもヨセフィーナとの仲が家族のゴシップねたになっていたそうです。Lass’ mich alleinはコーダだけでなく第2楽章にも現れますが重篤の知らせ以前から、この曲は構想した時点から、忘れられなかったヨセフィーナのためのものだったかもしれません。

写真を探したらありました。左が奥さんのアンナ、右がヨセフィーナです。
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ところで大貢献したハヌシュ・ヴィハーンです。2つのカデンツァも含めて提言のほとんどをドヴォルザークにはねつけられてしまいましたが、それでも作曲家は彼に初演の独奏をさせたいと願っておりました。ロンドンのフィルハーモニー協会が95年4月に祖国へ戻っていた作曲家にクイーンズ・ホールで自作の指揮を依頼したのが11月で、彼はそこでチェロ協奏曲をヴィハーンの独奏で初演しようと応じました。ところが協会の指定した日にちにヴィハーンはボヘミア四重奏団として契約した別の公演があったのです。協会は日にちの変更は罷りならんとした挙句にドヴォルザークに相談もなく英国人チェリストのレオ・スターンを初演者として契約してしまいます。

それを知った作曲家はヴィハーンとの約束を反故にできない、それなら自分は指揮しないと断ります。すでに演奏会を宣伝していた協会は恐怖にかられ、赤恥であると大騒ぎなります。ドヴォルザークと協会は翌年3月初めについに折り合い、同19日にスターンによって初演は予定通り行われることになります。ここまでは有名な話であって、しかしその数か月の間に何があったかはそうでもなくて僕は以前から知りたかったのですが、それをイッサーリスは明らかにしてくれています。

34才のスターンはチェコに飛び、チェコ語を習い始め、ありとあらゆる手段でドヴォルザークの歓心を買おうとしたようです。微笑ましいのは珍しい鳩までプレゼントしていることでしょう。機関車、ボート、ビールと並んで、鳩は彼がハマっているものの一つだったのですね。この涙ぐましいセールスの甲斐あって、作曲家のピアノ伴奏で協奏曲の試演までして絶対の存在であったヴィハーンをとうとうひっくり返したのが翌年3月だったということでした。「音楽界って、何も変わってませんね!」というイッサーリスの注釈がこれまた笑えます。

 

 

 

 

 

 

 

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ショパン ピアノ協奏曲第1番ホ短調 作品11

2014 FEB 16 2:02:54 am by 東 賢太郎

ショパンのコンチェルトについて僕がなにか書こうというのは自分でもあまり予想していなかった。ショパンは聴かなくなって久しいけれど、嫌いというわけではない。というより一時はよく聴いていて、1番の録音は22枚も持っているし、何曲かは自分でも弾きたいと思った(挫折したが)。

シューマンという人は音楽と文学を結んだ「物語性」というか、必ず何か物語をもっている人間というもの、それが恋であれ嫉妬であれ絶望であれ、そういう生身の人間から生まれるものが共存するところに音楽というものを発想した。だから彼は著書の中でベルリオーズの幻想交響曲に強い共感を寄せている。そして同い年のショパンの「モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の『お手をどうぞ』による変奏曲」作品2を「諸君、帽子を取れ。天才だ!」と讃えた。

ところがショパンはそういう文学的な見られ方を、「このドイツ人の空想には死ぬほど笑わされた」と書いた。ロマン派と解釈されることを嫌い、敬愛したのはバッハとモーツァルトだった。マヨルカ島にもっていった印刷譜はバッハの平均律クラヴィーア曲集だけだったという。彼は恋人を思い浮かべて音楽を書いたこともあるが、その音楽に我々が感じる詩情というものは彼のまったく独自の「音楽語法」そのものであり、彼は何が作曲の契機であれ、自分の音を純粋に抽象的に紡ぎだしたと僕は考えている。

だから彼の音楽のロマンティックな表題はほとんどが後世の人間の創作である。彼の語法がはからずもロマン派の扉を開けることに貢献したのは事実だが、彼が開けなくとも開いたその扉が彼の曲に時代の空気に添ったレッテルを貼ってしまった。僕がショパンを聴きたくなくなった最大の原因は、その偽りのレッテル風情の演奏が増えてきて我慢がならなくなったからである。ベートーベンの5番を運命とアダ名しておいて、いかにも運命でございと無用に物々しく演奏することにアレルギーがあるのと同じことだ。

ショパンの協奏曲1、2番は両方とも20歳の若書きである。後に書かれた1番の方が音楽的にやや熟していると感じるが、2番の第1楽章の美しさは1番をしのいでいるかもしれないと思う。彼が3番を書かなかったのはこの2つが若さと関係しているからだ。こういう曲を大家がばりばり名人芸で弾くよりも、僕は20代の若いピアニストで聴くのが好きだ。若さは若者の感性でしか表現できない。たとえばマウリッツィオ・ポリーニ(1番)は18歳以来もう録音していない。アシュケナージにも18歳、ショパンコンクールでの素晴らしい2番がある。そのアシュケナージが伴奏に回って、ウズベキスタンの20歳、エルダー・ネボルシンが独奏した初々しい1番は格別に愛好している。

エルダー・ネボルシン(pf) / ウラディミール・アシュケナージ / ベルリン・ドイツ交響楽団

415WS8CFX6Lこれがそれ。ただこの録音は廃盤になってしまった。もったいないことだ。ドイツで買ってひとめぼれしてしまい、未だに、ほんのたまにだがこの曲を聴こうとなるとまず第一にこれに食指が動く。このピアノ、もぎたてのレモンとはこのことで、全編が夢のようにみずみずしい。二十歳のショパンがそこにいる。アシュケナージがまたそれに感じきっていい伴奏をつけている。録音も見事にそれをとらえきっている。満点。amazonで新品が6,314円の値がついていた。

 

クリスチャン・ツィマーマン(pf) / キリル・コンドラシン / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

245641879年録音(ピアニスト23歳)の快演。廃盤ばかりで申しわけないが、いいのだから仕方ない。ツィマーマンは何度も録音していて、ポーランド祝祭管との新録など立派な限りだがその貫禄が僕にはピンとこない。このACOとのライブと同時期にジュリーニ(ロス・フィル)とのスタジオ録音もあるがオケ(大事だ)が明るく、このライブの生命感のほうが断然素晴らしい。終楽章の出だしの若鮎のようなリズム感、オケとの感興の乗った受け渡しの見事さ!これぞショパン・コンクールで勝てる人だ。i-tunesでzimerman kondrashinと打ち込むと出てくる。

 

マルタ・アルゲリッチ(pf) /  ヴィトルト・ロヴィツキ/ ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団

41Y47N4ZYHL女性を一つとなるとこれ。8才でベートーベンの1番、9歳でモーツァルトの20番と協奏曲を弾いた天下のアルゲリッチの24才(1965年)ショパンコンクールのライブ。その5年前、19才ですでにドイチェ・グラモフォンからレコードを出していたわけで、この1番もあまりに称賛された演奏ゆえ書くのも気がひけるが、改めて聴きかえして、やっぱり素晴らしい。第1楽章展開部から鬼神が乗りうつった一期一会の演奏で、うまいというより破天荒な感性の勝利だ。彼女のその後の演奏もたくさんあるがポートレートと一緒でトシをとっても凌駕できないものがここにはたくさんある。

 

クラウディオ・アラウ / エリアフ・インバル / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

21467才のオトナの演奏をひとつ。アラウのピアノは何を聴いても和音のバランスが最高によく、「うまみ」のきいただし汁をいつも思い出す。すごい技術と想像するがちっともメカニックな感じがしない。普通の奏者が一所懸命弾いてどうだ!と見栄を切る部分もあっさり進み、うまいのでファインプレーに見えないというやつだ。すぐれたアートというものは常にごまかしのきかない最高の技術の上に成り立っているということを知る。極上の京料理のようであり、何もとんがったものはないが食後の満足感は絶妙。子供にはわからない味かもしれない。インバルのオケが序奏から大変にシンフォニックでドイツ音楽のような偉容を示すのも面白い。

 

(補遺、17June 17)

ロジーナ・レヴィーン / ジョン・バーネット/ NOA学友管弦楽団

youtubeでこれを見つけて驚いた。たいへんな名演だ。ロジーナ・レヴィーンはヨゼフ・レヴィーンの奥さんで、ジュリアードの名教師として多くの弟子、ヴァン・クライバーン、ジェームズ・レヴァイン、中村紘子などを世に出した。何というニュアンス豊かなフレージングだろう!第2楽章など夢のような歌に満ちるが最高の品格を伴い甘さに淫することがない。名技で唸らせようなどという魂胆はかけらも見えず、心の献身で音楽に奉仕するスタイルであり、オーケストラも同調する。管弦とも一流の奏者ぞろいと思われ立派きわまりない。最高だ。高雅で貴族的でないショパンなど僕は聴く気にもならない。こういう一級の芸術家が忘れられ、ショーマンや芸人風情のピアニストがもてはやされるならクラシック音楽はつまらない世界になっていくだろう。

クラシック徒然草-悲愴ソナタとショパン-

 

(こちらにどうぞ)

ショパン・コンクール勝手流評価

 

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ブルックナーとオランダとの不思議な縁

2014 FEB 13 1:01:10 am by 東 賢太郎

11日時点でのソチのメダル数はノルウエーが11個で1位、日本は2個の17位であります。ノルウエーの人口は500万人で世界の114位であり、北海道の550万人より少ない。考えさせられます。山と雪があればいいというものでもないようです。これも驚いているのがオランダの3位です。スケートはできてもオランダは山がないです。一番高い山でも322.5mしかありません。考えさせられます。

今回はそのオランダにまつわる思い出です。

僕の母方の祖母は長崎人です。いうまでもなく開国前の長崎というのは西洋への窓口でしたし、明治になっても中国(上海)への窓口でした。彼女が嫁いだ家は横浜の生糸貿易商、天下の糸平こと田中平八の傍系でした。長崎、横浜とくれば神戸ですが、僕の家内はその神戸人です。そしてソナーの取締役である僕のパートナーは英国人です。そしてもう畏友と呼ばしていただく神山先生は上海人です。長崎、横浜、神戸、英国、上海。そうしようと意図したわけでない、成り行きにまかせての結果なのですがそれが僕の人生をとりまく諸都市でありなにか強い運命の糸を感じます。

長崎とくれば出島のオランダでもありますが、僕は野村ロンドン時代に2年ほど「オランダ担当」をやらせていただき、この国には数々のかけがえのない思い出があります。そのひとつ、僕の16年の海外生活でも最高に痛快だったエピソードがこのブログにありますのでよろしければお読みください( オリックスのロべコ買収)。

オランダは米国留学中1983年夏休みに家内と欧州旅行したとき、イギリスからホーヴァークラフトで人生初めて上陸した欧州大陸の国だったという意味でも僕にとっては特別です。あの時は28歳と25歳の夫婦でした。身なりは完全なバックパッカーで、安宿のトイレもない屋根裏部屋に泊まりました。アンネ・フランクの家、ゴッホ美術館、それからフォーレンダムというオランダ情緒ある港町へ行って食事したり、とにかく失礼ながらアメリカの文化と歴史の乏しさに辟易していた僕にとって心のオアシスみたいに感じたことを覚えています。

そしてここで文化といえばなんといっても世界に冠たる名ホールであるアムステルダム・コンセルトヘボウがあるのです。cancsレコードでここの音にぞっこん惚れこんでいた僕がわくわくして訪れたのは言うまでもありません。しかし残念ながらここのレジデント・オーケストラは海外演奏旅行中とのこと、コンサートにはありつけなかったのです。よく考えるとその数日前にロンドンのロイヤル・アルバート・ホール(プロムス)でハイティンク指揮の同オケの演奏会を聴いていたわけで、当然でした(それは僕がヨーロッパで聴いた初めてのコンサートであり、曲目はブルックナー交響曲第9番ニ短調、素晴らしい高貴な演奏でした)。

ホールの音が聴けないのが悔しくて、正面ゲートの扉を押すとスッと開きました。やったぞ、しめしめ、と中へ侵入してみると、もぬけの空で誰もいません。こんなチャンスは2度となし。家内の制止をふりほどいてスタスタと舞台へ登り、撮ったのがこれです。31年前のことゆえなにとぞ時効ということでお許しください(なお、良い子の皆さんはぜったいにまねしないでくださいね)。

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ま、これで「コンセルトヘボウの指揮台に立つ」と履歴書に書けます。偽ハイティンクですが。それにしても28歳のわが身、細かったです。この翌年、84年にオランダ担当者になったのも運命の糸の続編という気がします。そしてその末に上記の拙稿に書いたことが起きたわけです。

ちなみにこのいたずら写真の貧乏旅行は、このアムスからベルギーの友人宅へ行って荷物を預けて、まずは鉄道で家内と2人で「シューマン交響曲第3番」の稿に書いたライン下りを経てザルツブルグで音楽祭(カラヤン、アバド)を聴き、あこがれのウィーンでパルシファルを聴き、ベルギーに戻って今度は友人一家と車でパリからフランスを南下してカンヌ、ニース、モナコを経てミラノはスカラ座で蝶々夫人を聴き、ベニス、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、ポンペイまで行きました。都合1か月のことでした。

ずいぶん優雅ですが実は大変な「コスト」を払っていたわけで、この間に他のウォートンスクールの日本人留学生は皆さん真面目にサマーコースを受講して2~4単位の貯金をします。夏休みなし。それが日本人にとって過酷なMBA取得の「常道」でした。しかし若さとカネとヒマの3拍子そろうなんて人生2度とないと、僕は落第するリスクを取ってサマーコースは放棄して1か月「丸遊び」したわけです。会社人事部には国内旅行と届け出、学校の教務課にはそういう人間は後にも先にもいないといわれましたが無視。そのツケで2年目は9単位取ることが必須ですが物理的に9科目しか受講は無理なので「1科目も不可を取れない」つまりサドンデスの状態になり、1つでも落としたらMBAを取れずに帰国した留学生という恥ずかしい汚名を一生きせられるというのは覚悟の上の旅行だったわけです。

それでも僕はのんきに2年目は80万円ぐらいでチェロを買って、フィラデルフィア・オペラカンパニー管弦楽団で目立っていた美人でグラマーの首席チェリストのお姉さんに個人レッスンを1年間受けて音楽をみっちり教わりました。楽譜がよく読めるようになったのはこの時です。しかも最後のセメスターは日本人が怖がって避けて通るウォートン最難関科目である「中級会計学」に日本人ただひとり挑戦。自信満々だったところが、受講生50人中15人が米国公認会計士資格者だったことを知り愕然とし、10%つまり5人は必ず不可がつく仕組みなので、最後の3か月はそれこそ死ぬほど勉強しました。ラストスパートでなんとかゴールインできたのですが、ファイナル(期末試験)がおわって数日後のパスできたかどうかの発表は東大の合格発表より緊張しました。それでもあれから30年が経過して、鮮烈に記憶に残って人生の糧になっているのは会計学よりもヨーロッパ旅行の1か月なのです。リスクは取ったもん勝ちです。

さてその翌84年に晴れてMBA(経営学修士号)を取ってロンドン現法の一員となってからは、そのヨーロッパは音楽の都ではなく戦場と化しました。それでも息抜きにはよく遊びました。男は若い時分は仕事よりも遊びで育つと勝手解釈してましたっけ。思い起こせば、ロンドン-アムスのフライトは1時間ぐらいであっという間でした。午後おそい便でヒースローを発って夕方にスキポール空港に着くと、まずは定宿のホテル・オークラの「山里」で日本食を食べます。そこからやおら先輩といっしょにタクシーを1時間飛ばして海辺のザンフォードという街まで繰り出し、カジノでひと勝負というのが毎度のパターンでした。勝ったり負けたり、ほんとうに元気でした。ゴルフもずいぶんやりました。オランダにはスコットランドやアイルランドに劣らない素晴らしいコースがたくさんあるのです。我が国を代表する名指揮者、コバケンこと小林研一郎さんとも2~3回ほどやりましたか。マエストロは54歳から始めたのに腕前はシングル級で、強いはずのベットはコテンパンにやられました。

コンセルトヘボウの話に戻りましょう。このホールの音の美しさは何度も書きましたが、一度行って聴かれたら二度と忘れないでしょう。だから僕は自宅のオーディオルームの設計はここの音をレファレンスにして部屋の縦横比率を工夫して黄金分割にしましたし、さんざんとっかえひっかえ試聴したパワーアンプの音色の選択もそれを意識しました。写真撮影に来た「ステレオ」誌のインタビューでは「コンセルトヘボウで鳴ったウィーンフィルが僕の理想の音」と答えました。ただしそのコメントは「その方がより面白い」というだけで、ここのオーケストラも世界最高水準の音と腕前を誇ることは疑いありません。そういえばコバケンさんは僕らとヒルバーサム・ゴルフクラブで1ラウンド回ってから急ぎコンセルトヘボウに駆けつけて演奏会を振るなんていうこともありました。もちろんチケットをいただいていて、リストとチャイコフスキーの名演を堪能させていただいたものです。

この名ホールで聴いたたくさんの演奏会の中でも最も鮮烈な記憶として残っているものが、オイゲン・ヨッフムが亡くなる3か月前、人生最後に登場したものでした。曲目はこれまたブルックナーの交響曲第5番変ロ長調で、1986年12月4日のことでした。その日の演奏会の録音(左)が素晴らしい音でCD化されているのを見つけた時の喜びは大変なものでした。これは僕の人生の宝物であり、オランダ国との深いご縁からいただいた天の贈り物でもあると思っております。なぜこの日にアムスにいたかというと無粋な理由でして、僕の同期がロンドンに転勤でやってきたために、「東、お前はロンドンの大手顧客をやれ」という上司の命が下って彼への引き継ぎに来たのです。クラシックに無縁な彼は誘っても来なかったので、一人でこれを聴いたのでした。アムスは卒業という記念すべき日でもありました。これがその録音です。

この録音を5番の最高峰とされる方も多いので覚えていることを書きますと、僕の席は第1ヴァイオリンの横手で、ヨッフムさんの指揮姿を左斜め前やや上方から見る位置でした。出だしからオーケストラの馥郁たる音は神々しいばかり。指揮者と作品への楽員たちの敬意がオーラのようにひしひしと感じられて客席は息をのみ、一期一会でもあるかのような只事でない雰囲気にホールごと包まれました。あんな経験はありません。皆さん、これでヨッフムとはお別れということを悟っていたと思います。このホールは客席後方からの反響が僕の位置だと聴こえてきます。膨大な空間を感じるのです。信じていただけないでしょうが、そのエコーのために音響が広い宇宙に鳴りわたっているようで、ブルックナーの混淆がえもいえない効果を醸し出しました。まるでご高齢で動きが小さいヨッフムさんの後光か霊力のようなものがオーケストラを動かしているように感じていました。テンポが落ちた終楽章のコーダの大地の鳴動は一生忘れません。ヨッフムさんは足元があぶなくて舞台のそでで立ち止まって拍手をうけていて、鳴りやまぬ拍手にこたえて第4楽章をもういちど演奏しました。

この日のブルックナー体験から、音楽を非常に微視的に聴く傾向のあった僕は、

「体と精神で聴く」

という聴き方があるということを初めて教わりました。今でも近代音楽を聴くときはものすごく細部まで耳がいっているのですが、ことブルックナーだけはその対極に位置していて、全身で音の波長と振動を感じながら聴いているのです。ドイツの森のなかのようであり、母の胎内に感じたかもしれない波動みたいでもあります。楽典についても、スコアを見たりシンセで再現したりということもなく、7番の第2楽章をピアノで弾いてみるぐらいです。何番が特に好きということもなく、彼が書いた楽章はすべて一様に宇宙の森羅万象を感じ、それが味わいたければどれでもいいのです。とにかく、そんな付きあい方をしてきた作曲家は他に一人もいません。

ブルックナーは曲の完成後も弟子の進言によってスコアを改変しており、優柔不断で自信家ではなかったように言われていますが、僕はすこし違うイメージを持っています。彼にとって交響曲を書くことは「神と宇宙の体現」であり、そこに「一つだけの回答」というものはなかったのだと思います。書こうと思うたびに異なった世界が眼前に現れ、そのどれもが正解であり、どれもが正解ではなかった。だからそれは改変ではなくてもっと正解に近づこうとする「もがき」だったし、何度もがいても近づけずに9番まで書く途上で亡くなってしまった。僕はそう思っています。ブルックナーは何番がいいのですか、誰の演奏を聴いたらいいですかという質問を受けたことがありますが、「何番でもいいから、誰のでもいいから、ちゃんと演奏したのを聴きなさい」とお答えしました。その「ちゃんと演奏する」のは難しいのですが成功している指揮者はたくさんいます。それに身をひたしていればいい。ブルックナーは頭で聴くものではなく、「体験」するものだからです。そういう音楽を前にしてやれ何番のどこのテーマがどう、誰の指揮の何楽章がどうというようなことは皮相的でふさわしくなく、僕はあまりしたくありません。

ブルックナーというと思いだすことがあります。東京からフランクフルトに92年夏に転勤が決まった僕は、まず一人で赴任して近郊のケーニヒシュタインという高台の美しい街に新居を探しました。家族が来るまではさびしく、毎日が長く感じられ我慢の限界でした。やっと家内と2人の小さな娘が来てくれた時の嬉しさは忘れません。毎週末、4人で石畳のこじんまりした街を散歩して食事をし、森を歩いたりお城へ登ったり。ドイツ語はわかりませんでしたが今振り返ると夢のように幸せな日々でした。翌年にドイツ現法社長になってフランクフルトの大きな社長宅に引っ越す必要があり、そこで今年成人した長男が誕生することになるのですが、大好きなケーニヒシュタインを去るのにはとても後ろ髪をひかれたものです。

そのケーニヒシュタインから車でほんの5分ぐらい丘を下ると牧草地の中にバート・ゾーデンというかわいい村があります。フェリックス・メンデルスゾーンはそこに住んでいた姉ファニーの家に避暑にきて、あの天下の名曲「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」を書いたのです!僕は毎朝そのバート・ゾーデンを車で通りぬけて出勤していましたが、メンデルスゾーンもケーニヒシュタインの森やお城を散策したに違いないでしょう。フランクフルトと反対方向に丘を下っていくとライン川のほとりにそってヴィースバーデンに着きます。ブラームスが交響曲第3番を書いた場所も思えばわが家のすぐそこでした。そんな聖地のような場所に4人で住んだ1年間は、もしかして僕の人生最高の幸福な年だったのかもしれないと思います。

あの家の近所の丘や森や高台や商店街を娘たちの手を引いて散策した風景、変わりやすいお天気、ぱらつく雨、霧に湿った空気、小川のせせらぎのかすかな音、森の木々の匂い、石畳の古びた細い路地、そういう懐かしいものが次々と、使い古された言葉ですが「走馬灯のように」フラッシュバックするのが僕にとってのブルックナーの音楽なのです。とても大切なものであり、他の作曲家の音楽を聴くときとは心の持ちようが明らかにちがっています。あえていいますと、僕は5番が大好きです。アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏で体感したブルックナーの真髄。それが5番と9番だったことは僕の音楽人生で大きな啓示となりました。これも僕とオランダ国との見えない糸の導きだったのかもしれません。

メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲ホ短調 作品64

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

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誰が偽ベートーベンを作ったのか?

2014 FEB 11 18:18:11 pm by 東 賢太郎

世の中は何を怒っているんだろう?ここの本質がつかめないでいる。

問題は「世を欺いたこと」であるように見える。「欺いた者」は法律が裁ける場合がある。「偽って障害者手帳を入手したら身体障害者福祉法違反。公金をだまし取ったら詐欺」、「『佐村河内さんの作曲でなければ、CDを買わなかった』『誰かに作らせたものだったら、コンサートに行かなかった』と主張すれば、理屈のうえでは詐欺にあたる」が前者にいたる弁護士の見解だ。詐欺というのは詐欺罪のことであり、刑法246条にある刑事罰が科される。

では誰が誰を欺いたのだろう。「誰が」は佐村河内氏であるとされているが新垣氏もそう(共犯)かが論点だ。「誰を」は国、聴衆、消費者、関連した企業などだが、お金を「だまし取られた」ことが前提だ。もし詐欺罪が成立するならばだが、新垣氏は幇助(刑法62条)に思えるが本邦で適用例は少なく大半は共同正犯(同60条)として処理されるそうだ。すると(一見だが)氏には共同して詐欺を働く意志(故意)はなかったように見えるので共犯性は否定されることになるのだろう。氏の「私も共犯者です」という潔い自白はその効果とリスクを法曹と計算してのことかもしれない。

しかし新垣氏はある時期より佐村河内氏の詐欺行為(あくまで、もしも立件されればの話であるが)を知ったうえでだまし取った報酬の一部(彼がそれを何と呼ぼうと金額がいくらであろうと)を得ていたのであり、自ら認識していた詐欺行為を構成するに不可欠な楽曲の提供という行為を停止しないという故意はあったのであり、それでも「詐欺を働く意志(故意)はなかった」と証明できるのかどうか。それはやってしまった行為の是非の法的判断の問題であって、巷が主張している彼がどれほど嘱望される音楽家かピアノがうまいか生徒に慕われている先生かなどということとは何ら関係がない。ここは関心を持って注視したい。

次に、もしもそれが犯罪でなければ、それなのに世の中は何を怒っているんだろう?「世を欺いたこと」への負の報酬がどこにどう支払われているかを分析するのがそれを解明する本筋だろう。だが、世論というのは理屈でなく種々雑多な人々の喜怒哀楽、利害関係の総体でつかみどころがない。そこで、視点をなぜ佐村河内氏がベートーベンに祭りあがったかの一点に集約させることにする。そのことは、ゴーストがいたこと(作曲無能力者だった)、健常者だったこと(耳が聞こえた)に世論の怒りが集中している理由をも説明すると思うからである。

佐村河内氏を非難するキーワードは「偽ベートーベン」に落ち着いてきている。だからここに解明のキーがあるだろう。「偽」という不名誉な形容詞がつけられた理由は、「ベートーベンと信じた」⇒「裏切られた」という行為こそが仕返しをしたい対象であることを示している。ではなぜベートーベンと信じたのだろう?2つ要因がある。①耳が聞こえない②立派な曲を書いた、の2つである。しかし本当に2つだっただろうか?実は1つ、①だけではないか。ほとんどの人にとってはNHK、マスコミ、出版社、レコード会社、音楽家、音楽評論家が「立派な曲だ」とはやしたことに影響されて②があっただけだ。その証拠に交響曲ヒロシマは表舞台から抹殺されたが公然とプロテストする声はあがってこない。「悲しい」「被災者がお気の毒」「裏切られた気持ち」・・・のようなものだけだ。

ここでよく考えてみたい。クラシック音楽と呼ばれるジャンルにおいて価値のある音楽の譜面というものは、僕の見る限り人類の内でも最も高度な部類に属する知性を有する作曲家が、長時間を要する専門的な訓練によってしか絶対に取得できない特殊技術によってのみ初めて完成するものである。ところが巷はベートーベンは小川のほとりを散策しながら「ひらめいて」田園交響曲を作曲したと信じている。これはやはり巷で「数学はひらめきだ」と言われているのを連想させる。基礎の基礎である受験数学に限れば「ひらめき」は5%もないと思う。95%はパターン認識力と記憶力と計算力であり、訓練すれば誰でもできるが訓練していないと誰もできない。つまり、訓練を受けていない人がいくら「ひらめき」や「神の啓示」を得ても数学答案や管弦楽スコアというものは書けないのであり、受験数学もできない人が一般相対性理論を発見して「現代のアインシュタイン」とはやされることなど天地がひっくり返ってもあり得ないのである。

だから僕自身を含めて正規の音楽教育を受けていない人間が演奏に70分もかかる膨大な4管編成の管弦楽スコアをプロの三枝成彰をして「私がめざす音楽と共通するところを感じる」と評価せしめる水準で書けるなどと、当の三枝氏を含むどこの誰が真面目に信用していたのだろう。音楽評論家を含む「しろうと衆」が騙されたのは仕方ないだろう。プロが神輿を担いだのだから。つまり②「立派な曲を書いた」という判断は世論レベルでは積極的には存在しなかったのであり、ひとえに『①耳が聞こえない』に曲の価値判断も含むすべての判断基準が集約していたのである。仮に「ベートーベンが実は耳が聞こえていた」という事実が発見されても9曲の交響曲がCD屋の店頭から消えたりコンサートが取り止めになることはたぶんないだろう。それがヒロシマで起きるということは、ほとんどの人は曲ではなく全聾で書いたというストーリーに感動し金を払っていたということだ。

世の中は何を怒っているんだろう?

CDやチケットや本を買ったという実害のない人まで怒っている。それは自分がだまされたという不快感(認知的不協和)に対してだろう。次は現代のアインシュタインも信じてしまうかもしれないお人好しの自分に対してではない、不快感を与えた相手に対してである。これはヌードポスターを貼って女性が不快だと訴えただけで成立するセクハラというものに似ている。しかし、セクハラで訴えられている佐村河内氏は本当にポスターを貼った人なのだろうか?彼はポスターに写ってお気に入りのポーズをとっているモデルに過ぎないのではないのか。芸術的なポスターだとされていたヌードモデルが実はオカマでしたと暴露があり、不愉快だ撤去しろとなったのではないのか。そして、オカマと知りつつそれを貼った真犯人は他にいたのではないのか?誰が偽ベートーベンを作ったのか?

詐欺罪の真犯人はその連中に違いない。世の中はそれをつきとめ、それに怒り、糾弾しなくてはいけないのではないか。

新垣氏は、ここからの展開がどうであれ、ご自分の才能と音楽家を職業に選ばれた使命を自覚されて活躍していただきたいと思う。ヒロシマを聴いた聴衆側の事情や思いこみがどうであれ、また作曲動機がどうであれ、あの曲は70分を費やすに足る交響曲であると僕は思う。あのような一般受けする調性感のある部分を含む音楽を書くとご業界では「商業主義に手を染めた」と言われるそうだ。本物のベートーベンだってモーツァルトだって商業っ気丸出しだったのにどういう理屈で現在の作曲家はいけないのか理解に苦しむばかりだ。

僕は科学の世界で先人の書いた論文をなぞるような行為がいかに愚劣で恥ずかしく、研究者としての評価も地位も剥奪されかねないことをわかっているつもりだ。それと同じことが作曲の世界でも何百年にわたって存在し、そうして数えきれない作曲家と作品が歴史の闇に葬られたかも知っている。時代の先を行った作品が同時代人には無視され、後世が評価した例も知っている。そう予言はしなかったモーツァルト、予言したマーラーはそうなったが、同じく予言したレーガーはまだそうとはいえないことも知っている。もちろん彼らはお金や人気だけのために曲を書いていたわけではないだろう。

新垣氏のような才能が、作曲界では高評価を受け、一般社会では全聾ストーリーで評価を受け、そしてこの悲しい事件で歴史に名を留めるというのはどこかで何かが歪んでいないだろうか。ストーリーを求める聴衆にも問題があるが、内部の高評価が外部に伝播しない作曲界にも問題があるのではないだろうか。スポーツ界のオールスターを選ぶのに、「選手投票」と「ファン投票」で結果が大きく食い違うということは想像しがたいことだ。クラシック作曲界の選手投票がファン投票を全く無視して堕落のようにみなすならば、それはもはや日本国から独立した共産国家か秘密結社に近い性格のものだろう。

新垣氏は控えめで自己顕示欲の少ない人だという趣旨の記事を見たが、お金や地位や名声を求めないことが評価の重要項目となる業界でもあるのだろうか。そこまでいくとF1レーサーに安全運転を強いるような定義矛盾だ。自分の曲の鑑賞に他人の時間を費消させる作曲という行為が自己顕示以外の一体何であるのか後学のためにぜひ教えてほしいものだ。試験問題の解答を代筆する新垣氏の自己顕示欲がだんだん膨らんで、初めは中学生の答案にとどめるつもりが大学生から博士課程のになる衝動を抑えきれず、そんな事とは知らずに試験場で演技を無邪気に続ける小学生の姿とのあまりのギャップに真のプロである彼は恐れをなしたのだろう。

調性音楽を書いてまで商業主義に淫するなというプロのプライドには敬意を表するが、先人の論文である調性音楽や人口に膾炙する方法を使った瞬間にお手付きで失格、というほど音楽は科学と同列のものでもないだろうと考えるのは僕だけだろうか。新垣氏はプロの作曲家の良心に従って健全な自己顕示欲をこれから大いに発揮されればいいし、あれだけの仕事のクオリティにふさわしい経済的繁栄も手にする当然の権利がある。早く彼の交響曲第2番を聴いてみたいと願うのも僕だけではないだろう。1000人程度の同僚が堕落の烙印を押そうがどうしようが、1億人が1000年後まで聴いてくれる音楽を書いた人の方が偉い作曲家であることなど論じる必要すらない自明のことである。本当に良い音楽かどうかは音大の先生やコンクールの審査員ではなく歴史が決めることだ。歴史を動かすのは民衆なのである。

 

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交響曲ゴーストライター事件について

2014 FEB 7 17:17:44 pm by 東 賢太郎

佐村河内守氏の交響曲が何万枚も売れているという話は聴いていましたが、クラシックなのにそれは素晴らしいなと思う反面、どこか聴くのは敬遠していました。CDショップでそれがかかっていて物々しい不協和音が鳴っており、そもそもそういう曲は好きでないと思ったせいもあります。全聾の・・・というキャッチコピーを見るとストーリーで売ろうとしているように聞こえてしまい、本当はいい曲かもしれないと思う心を抑え込む感情が即座に湧いてしまったこともあります。

単なる連想ですが、ロンドン赴任時代にグレツキというたしかポーランドの現代作曲家の交響曲が突然ヒットチャート上位の売上げを記録したことを思いだしました。CDを買って全曲聴いてみましたが、その1度が最後になって今に至っています。英国の権威ある雑誌グラモフォンが絶賛していて、あれは何だったんだろうという気持ちが強く、今も謎です。それを思い出したのも敬遠していた理由です。

ゴーストライター問題で大騒ぎのようなのでYoutubeでさがしてHIROSHIMAという交響曲を聴いてみました。第一印象ですが、これはしっかりと作られたプロフェッショナルな曲と思います。最後の静かな部分でハープが入る雰囲気、感動的な盛り上げを導く和声進行や対位法などお見事であり、もし今回のことを知らずに聞いていたら、こんなマーラー見え見えの書き方はプロなら恥ずかしくてできないだろうからプロはだしの素人の作曲に違いないと逆読みしたかもしれません。

後出しジャンケンではありますが、新垣隆氏にロックは書けないのでしょうが元ロッカーにもこれは書けないというのは音楽をたしなむ人なら誰でもわかるのではないでしょうか。ということは、音楽をたしなんでしまった人はこれを自分が書いたなどとは言えない、つまり楽譜を書けないぐらいの人でなければ怖くてつけないウソでしょう。脳に蓄積のない音が「天から降ってくる」のを信じてTV放映しようというなら、NHKは自局の視聴者が巫女の顔を見ながら死者の霊とまじめに会話できる人ばかりかどうかということをまず確認しておくべきでした。それなのに音楽のプロまでが騙されて絶賛していたというのが僕には一番不可解なポイントです。

ただ、一般の方々が騙されたと騒ぎ立てる必要があるのでしょうか。新垣氏の交響曲に多くの人が、特に被災地の方々が感動したのは事実であり、そうであっておかしくないものをこれは秘めていると思います。佐村河内氏なくして新垣氏はこれを書かなかったろうということは、モーツァルトのレクイエムは田舎の貴族が自分の曲だと世間に偽って発表するために注文して生まれたのであり、発注動機は不純でもそれなくして我々はあの名曲を耳にすることはなかったのだという事実と似ていないでしょうか。つまり佐村河内氏がどんな人かということと生まれ出た作品の価値は関係がないということです。

前回バレエ・リュスについて書きましたが、芸術作品というのは何らかの動機づけ、ミッション、トリガーがないと生まれにくいでしょう。その理由から僕はモーツァルトが3大交響曲を「自分の芸術の発露のため」に書いたという説に組みしません。交響曲という最高度の頭脳を要する音楽を作れる人間が、誰にも頼まれないのに他の仕事を投げうって70分の大曲を仕上げるというのは現代の世においては甚だ非現実的なことです。佐村河内氏のしたことを是とする気はありませんが、彼がディアギレフで新垣氏がストラヴィンスキーだという位置づけで最初から公表して進めていれば2人とも讃えられた可能性もあるのではないでしょうか。

この事件の良い面があるとすれば、聴くに堪える交響曲を生み出せる作曲家が今も存在していて(これは素晴らしい発見だ!)、売り出し方さえ工夫すれば現代音楽という特殊な世界を浮世に引き寄せるひとつの方法があるのだと取ることも可能です。ゲンダイオンガク専門家の閉じたサークルでの作曲コンクールではなく、素人の聴衆の人気投票で1位を決めて賞金に大枚をはたく企業でも出てくればシケたメセナなどよりよほど文化貢献の高い活動となり、世の中に幸福を与えることができると思うのですが。

 

ヘンデル メサイアより「ハレルヤ」(Handel, Hallelujah)

2013 DEC 27 14:14:47 pm by 東 賢太郎

ライト・クラシックのクリスマス定番が「そりすべり」なら、本格派はこれです。ジョージ・フレデリック・ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイア」です。

年の瀬の第九は日本の年中行事です。欧米では第九はなくて、まず「メサイア」ハイドンのオラトリオ「四季」、「天地創造」、それからチャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形」フンパーディンクの歌劇「ヘンゼルとグレーテル」あたりが定番でしょう。後者2つは子連れOKなのでドイツ時代にヴィースバーデン歌劇場に行きましたが下の娘はねずみや魔女が怖くて大変でした。メサイアはメシア(Messiah、救世主)の英語読みで、もちろん子供向けではなく宗教曲です。

僕はこの曲の大ファンであり、コンサートで第九と重なれば100%こっちへ行きます。家で聴きはじめると2時間半はあっという間に過ぎ去りますが、オラトリオというのは聖書の教えを広めるためにできた中世の音楽劇が歌詞と音楽だけになったものです。だから聖書の文句による讃美歌集という感じであり、クリスチャンでない僕には日本語でも意味が分からない部分がけっこうあります。それでも聴きたくなるのだからキリスト教伝播にオラトリオの果たした役割は小さくなかったでしょう。

z00052v50lu                               1685年ドイツのハレで生まれたヘンデル(Georg Friedrich Händel)はJ.S.バッハと同い年、同期ということになります。バッハが一生ドイツにとどまった純ドメス派だったのに対し、ヘンデルはドイツ国外でも有名なグローバル派であり、英国に渡ってゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデルからジョージ・フレデリック・ハンデルとなって活躍しました。そのまま英国に骨をうずめ、ウエストミンスター寺院にお墓があります。だから英語名で呼ぼうと思いますが、「ハンデル」では誰も分からないので「ヘンデル」とします。

メサイアは1742年にアイルランドのダブリンで初演され、歌詞は英語です。英語のクラシック音楽でこんなに世界的に大ヒットした曲はあとにも先にもないでしょう。宗教音楽はラテン語(レクイエム)、ドイツ語(バッハ)のイメージがありますから、最初のころメサイアの英語はロックを連想して妙な感じがしました。我が国の一世代前の音楽評論家、教育者にはドイツ楽派が多くて英米人の作曲家や演奏家を大いに馬鹿にする傾向があり、僕もその影響で初めのころは英語ということだけでこの曲を軽く見ていました。

たしかに大作曲家の国籍比率を見れば仕方がないのですが、オペラ発祥国イタリアでさえ下に見られていましたから英米蔑視に加えて明白なドイツ偏重でした。その栄えあるドイツのゲオルグからジョージになってしまったヘンデルは彼らの感性からすれば脱藩浪人の格下げものだったでしょう。英米風の名前はクラシック界では重みがないという印象は日本だけの現象ではないらしく、指揮者のマイケル・トーマスはミドルネームの「ティルソン」を入れているし、ピアニストのスティーブン・ビショップは「コヴァセビッチ」を最後に加えているのはそのせいかなと思います。本人はどう説明しているか知りませんが・・・。

これはどこか漢方薬のネーミングに似ています。有名な「男宝」をご存知の方も多いでしょうが「だんほう」じゃだめですね、読み方が。効く気がしない。なんといっても「ナンパオ」と中国風に読まないと。こういうのは理屈じゃありません。フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、カイルベルト、クレンペラー・・・・う~ん、ジワッと効きそうですね、ベートーベンに。ニューマン、ハリス、スミス、ジャクソン・・・・どうも、効かなさそうに感じてしまいます。ジョン・スミスのベートーベンはいいぞなんていうと(そんな指揮者いませんが)それだけで通っぽくなくてかっこ悪いと感じてしまう。特に日本人はです。

こういうつまらないイメージバイアスは音楽鑑賞の邪魔です。矛盾した話ですがそれは学校教育でもあって、みなさん教科書にバッハが「音楽の父」、ヘンデルは「音楽の母」とあったのをご記憶と思います。僕の場合この「母」というのが妙にひっかかって、長いこと何となくバッハの方が偉いんだろうと勘違いしていました。父>母という儒教的バイアスもありますが、作曲家に女性がいませんからね。大相撲の母とかいわれたようなもんです。だから、力士が慕う国技館の弁当屋のおかみさんみたいなニュアンスまで混ざっていました、僕の場合。2人は同期だし並んで覚えさせようという本邦教育者の苦心の作だったかもしれませんが裏目でした。

全曲について書きたいのですが、この曲をよく知らないとつまらないでしょう。そこで今回はメサイアの中で最も有名である天下の大名曲「ハレルヤ」をいくつか聴いていただき、さわりからメサイアのミラクル・ワールドにお立ち入りいただきたいと思います。これを初めてロンドンで聴いた時、ハレルヤのところで聴衆がみんな起立するので驚きました。ロンドン初演の時に国王ジョージ2世が起立したことが習慣化したといわれ、確かにこの曲がメサイアのハイライトでもあるのですが、くどいようですが、これが気にいったら全曲を聴かれることをお薦めします。全部が天下の大名曲だからです。

 

まずは正統派からいきましょう。どう正統派か?女性がいません。少年合唱です。教会の聖歌隊は女人禁制で、その伝統は世俗化したオペラにもひきつがれて去勢したカストラートという男性歌手が高音パートを歌いました。イタリア語でソプラノ、アルトという単語は男性名詞であることが、それらのパートを歌うべき者たちが男性歌手であったことを証明しています。キングズ・カレッジ合唱団によるケンブリッジ大学チャペルでの演奏です。

次は現代のスタンダードなブリティッシュの名演を。指揮のサー・コリン・デーヴィスは今年亡くなった英国を代表する名指揮者です。CDもそうですが骨太で男性的な解釈はいいですね。最後の部分のティンパニ強打はブラームス4番第1楽章そっくりです。

このメサイアにはあのモーツァルトによる編曲版(K.572)があります。彼はスヴィーテン男爵のライブラリーでバッハ、ヘンデルの楽譜を広範に研究しましたがその成果のひとつがそれです。歌詞はドイツ語に、オーケストラは大胆に増強されていてシューマンのマーラー版を思い出します。彼のレクイエムにはメサイアの明白な引用があり、魔笛やドン・ジョバンニの合唱にもエコーが聞こえます。僕はモーツァルトは気質的にもバッハよりヘンデルを好んでいたと確信しています。ヘルムート・リリング指揮シュトゥットガルト・バッハ・コレギウム、ドイツ人によるドイツ流演奏です。モーツァルトの要求より少なめの編成ですが、それでも大変シンフォニックです。

次はだんだん国籍不明になります。ニューヨークのラジオ・シティでの演奏。アーチストは誰も知りません。最初のケンブリッジ大学と比べてください。女人禁制?なにそれ?ですね。こりゃあもうロック・ミュージカルです。めちゃくちゃアメリカンでけっこう笑える。音楽は比較文化人類学にもなるんです。

東洋人がいなかったようなので最後にご登場願いましょう。来年の日韓の経済交流円滑化を祈って、ハングル版ハレルヤです。

Bravoティンパニのお姉さんのプレイが素敵です。合唱もオケも活気があって大変すばらしい。

5つお聴きいただきました。どれがお好きでしょうか?底抜けに明るく、祝典的で、高貴で、生きるエネルギーに満ちあふれた音楽!こういうのを毎日聴いて暮らせば鬱病にはたぶんならないでしょう。

(補遺)

グスタフ・シェークヴィスト指揮 スウェーデン放送交響楽団のメンバーによるこれはティンパニがヴィヴィッドに録音されていて好きだ。

 

クラシック徒然草-テレサ・テン「つぐない」はブラームス交響曲4番である-

2013 DEC 15 14:14:52 pm by 東 賢太郎

きょうTV でたまたま今年のカラオケで歌われたランキング上位曲でテレサ・テンの「つぐない」をやっていました。この曲は昔からちょっと気になっていました。

つぐない1984年の曲のようです。だから僕はロンドンにいてこれもテレサ・テンもたぶんあまり知らなかったし、そもそも興味がなかった。東京本社に転勤になった90-92年のどこかです。僕の課の忘年会か何かでカラオケに行き、部下の女性がこれを歌ったのは。「えっ、Fさんなに償うの?」ときいてしまうような明るい人で、不思議な笑顔でひょうひょうと彼女が歌った意味ありげな歌詞にみんな爆笑でよく覚えているのです。92年にドイツへ転勤になり、2000年に帰るまでこれを聴く機会はほぼなかったと思います。

海外生活16年の僕にとってカラオケで知ってあとから本人の歌をきくなんてことは日常茶飯事。これもそのひとつで、「つぐない」はテレサでなくFさんの曲だったのです。聴いていきなり気になったのは、とてもstickyでsoulfulな和音です。何ともいえず体にまとわりついてくる。「優しすぎたのあーなたー」のところのバス!これはすごい。弾いてみたい。と思いつつ、いつもカラオケで誰かのを聴いていつもそれっきりで忘れてしまっていたのでした。

ということで家でこれを聴けて思い出したのは僥倖であり、さっそくピアノに向かい、そして驚きました。

これが今も歌われている。なるほど。納得です。耳コピですが和音をコードネームでふってみました。

(Aaug)窓に(Dm9)西陽があたる部屋(Gm)は                      いつも(A7)あなの 匂る(Dm)わ                         (Aaug)とり(Dm9)暮らせば (D)お(Daug)もい(Gm9)出すから         壁の傷(Dm)も 残したま(A7)ま おく(Dm)わ

愛をつぐ(Gm7)なえ(Gm6)ば (A7)別れな(Dm9)けど
こんなおん(Gm9)でも (C7)忘れないで(F)ね
(F7)優し(D7)すぎの (Gm9)なた
(A7)子供みたいな(Dm9) なた
(B♭)あすは人(E7)志に(A7)なる(Aaug)けれ(Dm)ど

コードネームの所で和音を変えます。太字はaug(オーグメント、増三和音)というコードが現れる部分です。augが四か所ではっきりと鳴りますが、ご覧のように、メロディーの通り道でも各所で一瞬だけ鳴っています。augの哀調が全曲を染めあげているのです。それから、下線はメロディの頭が倚音といって三和音からはずれた非和声音の部分ですが、ご覧のように、7度、9度の倚音があちこちに散りばめられています。主音をめぐってさまよいながらフラフラと落ち着くことがない。あーなたー、あーなたー、と2回もあーに倚音でアクセントがつくのは男心にグッと響きます。うまい。もうニクイかぎりです。

この曲はニ短調(Dm)なのに「まーどーにーにしーびがー」という出だしで主音の「レ」が出てくるのは「びがー」からです。そこまでにまずラーファード#-と来て(この部分がaugです)じらされる。さてやっと「レ」が出るかと思いきやまたまたミミ-(倚音)に飛んで、それからやっとレレーが出ます。このうじうじして主音になかなかたどり着かない様は主人公の迷い、切なさでしょうか。彼女が何をつぐなっているのかは明かにされませんが、詩と音楽が見事に融合して女心の葛藤を描いていると思いませんか。

そのぐらいはまだかわいい。この曲を大名曲にした決定打はご覧のようにaugに始まりaugに終わることでしょう。augで終わる曲は?ほとんどないですが、クラシック好きならまず一つ浮かびます。J.S.バッハの最高傑作である「マタイ受難曲」です。曲の最後の最後、ハ短調Cm主和音(ド・ミ♭・ソ)に無理やりシを食い込ませ、あえて強烈な不協和音として血のにじむような苦しみ、心に突き刺さるような痛切な音でマタイ受難曲は幕を閉じます(だから厳密に言えばCm+7であってGaugではないが、バスがcかgかの違いです)。「つぐない」の最後は僕にこの音を思い出させます。

しかし「つぐない」の救いようのない哀調、失っていくものへの後悔のような感情をもっとよく表している曲があります。ブラームス4番第1楽章です。曲頭のシソー、ミドー、ラファ#ー、レ#シーの最後のシーにレ#が残る形でaugがすぐ出てきます。「愛をーつぐ(Gm7)なーえ(Gm6)ばー」の部分も非常にブラームス4番的であります。「明日は他人同士にー」の「同志にー」の所のE7も、ブラームス(ホ短調なのでF#7)にまったく同じ和声的脈絡で出てきます。そして、コーダではまぎれもないBaugが3回痛烈にたたきつけられ、有無を言わさぬ悲痛な終結となる。これもaugで終わる曲なのです。

作曲家の三木たかしさんがそれを意識したのかどうか。亡くなったのでお聞きすることはできないのが残念でなりませんが、(F7)優し(D7)すぎたの(Gm)あーなたー、こんな素晴らしいメロディーを書かれる作曲家にそんな想像はかえって失礼な話かもしれません。三木さんには「津軽海峡冬景色」という名曲もあって、やはりマイナーキーの哀調を生かし切っています。今時のテレビで短調の曲が流れることはまれではないでしょうか。これがもう戻ってこない昭和なんでしょうか。しかし平成の世でも、「つぐない」が日本の女性に広く歌われ愛されているのはなにかほっとする気もいたします。ちなみに娘も好きだそうです。

最後に、 これを歌ったテレサ・テンさんは外省人であった軍人の娘で4種の中国語、日本語、英語、マレー語、フランス語を話せたそうです。台湾の国民的歌手、アジアの歌姫として国内外で一世を風靡したのに気取りのない人柄だったそうです。彼女をほとんど知らず、95年に亡くなったときもニュースとして淡々と聞いただけ。今初めてじっくりと聴きました。透明なのにあたたかくて癒される声です。何となくずーっと聴いてしまいました。何とも気の毒なことに旅立たれたのは42歳だった。

お知らせ

Yahoo、Googleからお入りの皆様。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

 

 

ルロイ・アンダーソン「トランペット吹きの休日」 (Leroy Anderson: Bugler’s Holiday)

2013 DEC 1 21:21:11 pm by 東 賢太郎

次もルロイ・アンダーソンの名曲、Bugler’s Holidayです。bugle(ビューグル)は角笛、ラッパの意味でbuglerはラッパ吹きですね。日本語では「トランペット吹きの休日」となっていますが「ラッパ吹きの休日」ともいいます。

米国陸軍師団バンドのトランペット・セクションの演奏です。女性もいてアメリカですね。

負けてるわけにはいかないのでこれも聴きましょう。わが海上自衛隊東京音楽隊です。これもカッコいい!

本来は弦楽器入りです。

いい曲です。小さいころの運動会を思い出しますね。

 

ルロイ・アンダーソン「タイプライター」

 

ガーシュイン 「パリのアメリカ人」

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