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カテゴリー: ______僕が聴いた名演奏家たち

僕が聴いた名演奏家たち(オスカー・シュムスキー)

2017 JAN 2 19:19:20 pm by 東 賢太郎

今年はチェアまで買って読書するぞという決意?なのですが、身辺整理をしようというのもあります。人生に21回も引越しをしていて、べつに好きでしたわけではないのですが結果としてこれだけ非定住型の人生を送りますと「身辺」というものがないというか、住む場所場所でそういうものを形成する時間もゆとりもなかったなあということに今更ながら思いが至ります。

どこへ行くにも家族の引越し荷物の6,7割は僕の音楽関係でしたが、それがまだどさっと荷物のままあるのがまずい、まずはこれを何とかしないといけません。ということで元旦からそれを引っ張り出して眺めています。

びっくりしたのはアメリカ、ヨーロッパに13年半いて聴きまくったコンサート、オペラのプログラムの量です。覚えていないのもありますが日記を見ると様子がわかります。いまは亡き巨匠の記録もたくさんありますから皆様の一興にはなるかもしれません。順不同で折を見て書き残しておこうと思います。

722053_1_fまずはヴァイオリンのオスカー・シュムスキー(Oscar Shumsky、1917-2000)からいきましょう。ロシアのユダヤ系で、8才でストコフスキーがフィラデルフィア管にソロ・デビューさせた神童でした。レオポルド・アウアー、エフレム・ジンバリスト、フリッツ・クライスラーに師事しましたがアウアーはチャイコフスキーの協奏曲の献呈を断ったことで有名でハイフェッツ、ミルシタインも弟子ですね。シュムスキーはグレン・グールドと共演したことでも有名ですがトスカニーニのNBC交響楽団で3年弾いていたこともあるそうです。

oscar1ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでシュムスキーを聴いたのはサイモン・ラトル指揮フィルハーモニア管弦楽団との共演によるベートーベンの協奏曲です。1985年というと僕は英国に赴任した翌年でまだ30才でした。19世紀の演奏の香りがぷんぷんある人を聴けたのは後にも先にもこれだけで、希少な経験となりました。なるほどヴァイオリンとはこういう馥郁とした音がするものかと感激したことを覚えています。あまりうまいとは思わなかったのですが、技術など忘れさせる柔らかくとろけるような美音。彼のクライスラーの録音はまさにその音で弾かれていますね。これぞ真打ち、音のごちそうでしょう。こんなヴァイオリニストはほんとうにいなくなりました。

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ネヴィル・マリナーの訃報

2016 OCT 4 0:00:43 am by 東 賢太郎

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いま、お客様から大事な案件を仰せつかっていて、今日もそれで昼に大きな会議があって、前夜もあんまりよく眠れていない。僕の仕事はそれなりの規模で自分でリスクも負うから気が休まることがなく、睡眠中もあれこれ考えているのだろう。

そんななか、朝がたにネヴィル・マリナーさんの訃報を知る。心底がっくりきてしまった。会議を乗り切るのがやっとで、会社にいてもメンタルにもたずお先に失礼した。

 

去年の11月末、マリナーさんがN響に来てブラームスの4番をきかせてくれた。その日のブログ(  マリナー/N響のブラームス4番を聴く)はこう締めくくられている。

ひょっとしてこれが最後かもしれないがいい4番を聴けて幸せでした

あの日、前半がモーツァルトPC24番で、この曲には半音階で天に昇るような音型が終楽章にたくさん出てくるが、なにかを感じたのだったかもしれない。

今年は1月にピエール・ブーレーズさんが、そしていよいよマリナーさんが鬼籍に入られた。おふたりは僕にとって現代音楽の、そしてバッハ、モーツァルトの先生であり、クラシックにのめり込むきっかけを与えてくださった。おふたりのレコードは耳に刷り込まれていて、無限の喜びを与えてくれ、まさしく「おふくろの味」になっている。

youtubeに見当たらないが、大学時代、ブランデンブルグ協奏曲第6番を下宿でたまたまFM放送から録音して、あまりに素敵なのでそのカセットを毎晩きいた。それがこのレコードだ。

J.S.バッハ「ブランデンブルグ協奏曲」BWV1046-1051

中古レコード屋を探し回るほど僕にとっては記念碑的な演奏であり、ほかの演奏では用が足りず、この6番のヴィオラとチェロの音が僕の一生の弦楽器の音色の好みを作ったと言って全く過言でない。

古典からキャリアをスタートしたマリナーさんが晩年に至ってロマン派を振り、それも英国音楽よりもドイツ、東欧物に向かったのは大正解だった。ご性格の、おそらく穏健で懐の深いおおらかさ、ロマンティックなやさしさはそれに適しているからだ。このドヴォルザーク7,8番も忘れ難いが一昨年の2月、雪の日のことだった。

ネヴィル・マリナーN響を振る

そして僕はこれをこう締めくくっていた。

楽しい時間を過ごさせていただきました。マリナーさん、お元気で末永くご活躍されることを祈っております。

そしてこれを上梓したのは英国のユーロ離脱(Brexit騒ぎ)にひっかけてのことだから去る6月、ほんのこの前のことで( 英国人がドイツのオーケストラを振ると?)、そこにこう書いた。

2010年だったか(マリナーさんが)N響を振ったライン交響曲があって、これにいたく感動したのです。僕にとってこの曲は人生のひとこまであって重たい。良いと思うことなどめったにないのですがあれは本当に名演だった。

この演奏会のビデオは大事にとってあって、客席には僕の顔も映っている。

そしてこのブログはこう締めくくっている。

いつまでもお元気で、もう一度、ドイツ物をきけたらいいなあ。

この言葉をもう一度、そのまま天にお届けしたいです。これからあなたの素晴らしい魔笛をききます。音楽の楽しさを教えてくださりほんとうにありがとうございましたこれは僕が米国時代にFM放送をカセット録音したもの。3cc8e046-dcf8-11e3_1068758k

 

これは僕が米国時代にFM放送をカセット録音したもの。1984年のミネソタ交響楽団を振ったライブです。マリナーさんのレパートリーにチャイコフスキーのイメージはないですが、これが見事な快演なのです。一聴の価値あり、ぜひお聴きください。

(こちらへどうぞ)

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

ロッシーニ 歌劇「ウィリアム・テル」序曲

 

 

 

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クルト・マズアの訃報

2015 DEC 21 1:01:46 am by 東 賢太郎

クルト・マズアさんが亡くなった。クラシックに熱中しはじめた高校時代におなじみの懐かしい名前だ。アズマの反対だけどスペルはMasuaで、ドイツ語ではSを濁ってズと読むことを初めて知った。クラスのクラシック仲間がふざけて僕をケント・マズアと呼んだが、さっき調べたら氏の息子さんはケン・マズアさんだった。

mazua1だからというわけじゃないが、彼のベートーベン交響曲第5番、9番(右)は僕が最初に買った記念すべき第九のレコードとなった。だからこれで第九を記憶したことになる。なぜこれにしたかは覚えてない。ひょっとしてライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(以下LGO)に興味があったかもしれないが、2枚組で3600円と少し安かったのが真相という気もする。

mazur感想は記録がなく不明だが、音は気に入ったと思われる。というのは第九を買った75年12月22日の4日後に同じマズア・LGOのシューマン交響曲第4番を購入しているからだ(右)。大学に入った75年はドイツ音楽を貪欲に吸収していた。5月病を克服した6月に買ったジョージ・セルの1,3番のLPでシューマンを覚え、4番にチャレンジしようと7月に買った同じLGOのコンヴィチュニー盤があまりピンとこなかったのだ。それはフォンタナ・レーベルの詰めこみすぎた冴えない録音のせいだったのだが・・・。ということはシューマン4番もマズアにお世話になったのだろう。

マズアはドイツ人にしてはモーツァルト、シューベルト、ワーグナー、ブルックナー、R・シュトラウス、マーラーのイメージがないのが不思議だ。モーツァルトはシュミットとのP協全集はまあまあ、ブルックナーは4番を持っているがいまひとつだ。東独のオケ事情、レコード会社との契約事情があったかと思われる。

mazurそこで期待したのがブラームスだ。76年録音。ロンドンで盤質の最高に良い79年プレスの蘭フィリップス盤で全集(右)を入手できたのはよかったが、演奏がさっぱりでがっくりきたことだけをよく覚えている。4曲とも目録に記しているレーティングは「無印」だ。当時はまだ耳が子どもで激情型、劇場型のブラームスにくびったけだったからこの反応は仕方ない。とくに音質については当時持っていた安物のオーディオ装置の限界だったのだろうと思う。今年の4月現在の装置で聴きかえしてこう書いているからだ。

ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(9)

mazua2ところでここに「フランクフルトでフィデリオを聴いたが、まさにこの音だった」と書いたが記憶違いだった。プログラム(左)を探したところ、1988年10月3日にロイヤル・フェスティバルホールであり、しかもオケはロンドン・フィルであったので訂正したい。ケント公エドワードご来臨コンサートで英国国歌が演奏されたようだが記憶にない。当時のロンドンでドイツ人指揮者というとテンシュテット、ヨッフム、サバリッシュぐらいでカラヤンが来たのが事件だった。そこに登場したマズアはきっと神々しく見えたんだろう、響きも重くドイツ流ですっかりドイツのファイルにメモリーが飛んでしまっていたようだ。この4年後に言葉もできないのに憧れのドイツに住めたのが今となっては信じ難い。

この記憶はこっちと混線したようだ。

ブルックナー交響曲第7番ホ長調

94年8月28日、フランクフルトのアルテ・オーパー。これがマズア/LGOの生の音だったがこれよりもフィデリオの方がインパクトがあった。

マズアの録音で良いのはメンデルスゾーンとシューマンのSym全集だ。これはLGOというゆかりのオケに負うところもあるが低重心の重厚なサウンドで楽しめる。ブラームスもそうだが、細かいこと抜きにドイツの音に浸ろうという向きにはいい。ベートーベンSym全集はマズアの楽譜バージョン選択の是非と解釈の出来不出来があるが現代にこういうアプローチと音響はもう望めない。一聴の価値がある。

なにせLGOはモーツァルトやベートーベンの存命中からあるオーケストラなのであり、メンデルスゾーンは楽長だったのだ。61才までシェフとして君臨したコンヴィチュニーに比べ70年に43才で就任したマズアはメンゲルベルクと比較されたハイティンクと同じ境遇だったろうと推察する。若僧の「カブキ者」の解釈などオケが素直にのむはずもないのであって、正攻法でのぞむ。それが伝統だという唯一の許されたマーケティング。だからそこには当時のドイツ古典もの演奏の良識が詰まっているのである。

意外にいいのがチャイコフスキーSym全集で、カラヤン盤よりドイツ色濃厚のオケでやるとこうなるのかと目からうろこの名演だ。悲愴はすばらしく1-3番がちゃんと交響曲になっているのも括目だ。ドイツで買ったCDだがとびきり満足度が高い。そしてもうひとつ強力おすすめなのがブルッフSym全集で、シューマン2番の第1楽章などその例なのだが、LGOの内声部にわたって素朴で滋味あふれる音響が完璧に音楽にマッチして、特に最高である3番はこれでないと聴く気がしない。

エミール・ギレリス、ソビエト国立響のベートーベンP協全集は1番の稿に書いたとおりギレリスを聴く演奏ではあるが時々かけてしまう。お好きな方も多いだろう、不思議な磁力のある演奏だ。76年ごろのライブでこれがリアルタイムでFMで流れ、それをカセットに録って擦り切れるほど聴いていた自分がなつかしい。以上。ニューヨークに移ってからの録音が出てこないのは怠慢で聞いていないだけだ。

こうして振り返ると僕のドイツものレパートリー・ビルディングはLGO時代のマズアさんの演奏に大きく依存していたことがわかる。師のひとりといえる。初めて買った第九は、彼との出会いでもあった。75年12月22日のことだったが、それって明日じゃないか。40年も前のだけど。

心からご冥福をお祈りしたい。

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

(こちらをどうぞ)

ベートーベンピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15

ベートーベン ピアノ協奏曲第3番ハ短調作品37

メンデルスゾーン交響曲第4番イ長調作品90 「イタリア」

 

 

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僕が聴いた名演奏家たち(ルドルフ・フィルクシュニー)

2015 JUN 24 22:22:25 pm by 東 賢太郎

Firkusny

ルドルフ・フィルクシュニー (1912-94)はチェコを代表する名ピアニストです。日本ではフィルクスニー(ドイツ語)で知られますが、チェコ語はフィルクシュニーです。あまりご存じない方が多いでしょう。ぜひこれを機に知ってください。彼は、全ピアニストのうち僕が最も好きなひとりであります。

1978年、大学4年の夏休みに1か月ほどバッファロー大学のサマーコースに参加しました。いわゆる語学留学というやつで、本来こんなのは留学とはいいません、ただの遊びです。それでも2度目のアメリカ、初めての東海岸は刺激に満ちていました。

ボストンからサラトガスプリングズを経て、ボストン交響楽団がボストン・ポップスとしてサマーコンサートをやるタングル・ウッドへ。そこで幸いにも小澤征爾さんが振ってルドルフ・フィルクシュニーがソリストのコンサートを聴けました。

芝生にねころんで聴いたモーツァルトのピアノ協奏曲第24番。調律が悪いにもかかわらず、アメリカンなあけっぴろげムードにもかかわらず、きっちり覚えてます。オケだけのプログラム後半は何やったかも忘れてしまったのに。当時から24番は好きだったようでもあり、この演奏でそうなったかもしれません。これがこのブログに書いたコンサートでした。 クラシック徒然草-小澤征爾さんの思い出-

フィルクシュニーは有名なシンフォニエッタを書いたヤナーチェックの弟子というより子供のようにかわいがられた人です。ルドルフ・フィルクスニー – Wikipedia こうして彼のライブを聴けたというのは間接的にではあっても音楽史というものとすこし濃い時間を共有できたような、ありがたい気持ちがいたします。

ライブの24番がそうでしたが、彼のモーツァルトは短調と共振します。幻想曲ハ短調K.475をお聴き下さい。この曲にこれ以上のものを僕は探す気もありません。ここには魔笛とシューベルトの未完成が出てくるのにお気づきですか?

彼がコンチェルトの20番、24番はもちろん、ブログに既述のような深いものを孕んだ25番を愛奏したのはいわば当然の嗜好と思われます。20,24,25!もうこれだけで何が要りましょう。いま書いた6つの傑作。フィルクシュニーは全音楽の座標軸でこの6曲がある「そこ」に位置している音楽家なのです。そうして「そこ」こそが僕が最も共振する場所でもある。このピアニストを尊敬し、彼の録音を愛好するのは鳴っている音ではなく、人間としての相性だと感じます。

そして冬の澄んだ空のような透明なタッチが叙情と完璧にマッチしたブラームスの協奏曲第1番!名手並み居るこの曲の最高の名演の一つであります。

フィルクシュニーのタッチがフランス物に好適でもあるのはピアノ好きには自明でしょう。僕なりに長らくピアノと格闘していまだ自嘲気味の結果しか得ていないドビッシーの「ベルガマスク組曲」。フランス的ではなく東ヨーロッパの感性です。この「メヌエット」の音の綾のほぐし方、オーケストラのような聴感!技巧でどうだとうならせる現代の演奏とは一線を画した格調!「パスピエ」の節度あるペダル、そして感じ切った和声の出し方!チッコリーニとは対極ですが、どちらも多くのことを教えてくれます。

そして最後にこれをご紹介しないわけには参りません。師であるヤナーチェックの「草かげの小径」です。この録音は、音楽を長年かけて内面化しきった人でなければ聴かせようのない至福の時間を約束する演奏の典型です。夭折した娘を送る曲なのですが悲哀はあまり表に立たず、かえってやさしさがあふれることで純化した哀悼の精神をたたえています。美しい和声とヤナーチェック一流の語法で彩られた傑作中の傑作です。フィルクシュニーの表現はスタンダード、珠玉の名品などという月並みな美辞麗句を超越した美としてどこを聴いても耳をそばだてるしかないもの。価値が色褪せることは永遠にないでしょう。

 

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僕が聴いた名演奏家たち(アンドール・フォルデス)

2015 MAR 7 2:02:23 am by 東 賢太郎

1973年ですから18才の浪人中、この演奏会を聴きました。どうしてこのチケットを買ったかというと、当時バルトークに熱中しており、その弟子であったピアノのアンドール・フォルデス(1913-92)を聴いてみたかったのです。だから座席は最前列でピアニストのほぼ真下、いわゆる「かぶりつき」をあえて買ったのでした。

 

9/21(金)
18:30
東京文化会館

第56回 定期演奏会

[出演]
指揮/渡邉暁雄
オーボエ/バート・ギャスマン
ピアノ/アンドール・フォルデス
[曲目]
モーツァルト:交響曲第38番 ニ長調 K.504 《プラハ》
チマローザ(ベンジャミン編曲):オーボエ協奏曲 ハ長調
バルトーク:ピアノと管弦楽のためのラプソディ Sz.27
ラヴェル:バレエ音楽《ダフニスとクロエ》-第2組曲

 

思えば僕らは大作曲家たちのまな弟子親交のあった音楽家を生で聴けたぎりぎり最後の世代かもしれません。実際にきいた演奏家でいえば、バルトークのフォルデス、ラヴェルのペルルミュテール、ショスタコーヴィチのロストロポーヴィチ・バルシャイ、シェーンベルクのR・ゼルキン、コダーイのドラティ・ショルティ、プロコフィエフのリヒテル、シベリウス・ラフマニノフのオーマンディー、メシアンのブーレーズなどです。

クラシック音楽の楽しみ方は大きく分けて二通りのスタイルがあると思います。聴き手の価値観によるわけですが、作曲家の時代のオリジナルな表現に重きをおくか、それとも現代の演奏家のフレッシュな感覚による解釈を楽しむかです。僕はどちらも受け入れますが、作曲家の自作自演がベストのパフォーマンスではないケースも知っていますし、僕たち聴衆のほうも様々な音楽体験を経て趣味が変化するからです。

例えばマーラーやブルックナーの長大な交響曲が世界的に人気を得たのは高音質による長時間録音が可能になったLPというメディアが広く進化、普及した70年代からです。聴衆がなじめば演奏側への要求も高まり、それに応えた精度の高いリアライゼーションが複雑な作品の魅力をさらに認知させてますます人気が出るというサイクルに入ったのです。「耳の娯楽」という音楽の側面です。

しかし同時に、人気が高まれば高まるほどクラシック音楽は古典芸能であるという側面にも光が当たり、ではマーラーという人はどんな時代に生き、どんな音楽を聴き、どういう経緯でああいう曲を書いたのだろうという関心も喚起されます。これは知的な側面というかむしろ「考古学的関心」でしょう。古代遺跡を見て、それが美しいかどうかではなく歴史のロマンに酔う楽しみ方です。

僕個人は歴史遺産を見て回る趣味があるので後者が大好きです。音が悪いヴィンテージ録音でも、それは作曲家に近い時代の演奏だという絶対の価値があり、耳の娯楽を犠牲にしても考古学的関心がより満たされるからです。欧米に長く住んで意外だったのは、欧米ではそれは好事家のニッチな関心であって歴史的録音は音が悪いなりにしか評価されていないことでした。「耳の娯楽」の側面が強いと感じました。

ただ、ここが難しいところですが、彼らにとって音楽は自国の文化です。我々が双葉山を知らなくても相撲が楽しめるように、考古学は文化という大枠の中で空気のように存在しており、白鵬の相撲を自然に歴史の脈絡の中で楽しめるようにマーラーを聴いているということです。その文化がない異国の我々はまず教科書で歴史を学んでというプロセスを経てはじめて耳の娯楽にたどり着く様な、あたかも英文法から英語を学ぶような錯覚をしがちです。

僕が「クラシックの虚構をぶち壊そう」を書いた趣旨は、日本特有の教科書的(それも変な)教養主義が「耳の娯楽」という音楽の本来の側面をゆがめ、遠ざけていると感じるからです。僕は仕事で外人を蔵前国技館に案内しましたが、最低限教えるべきは勝ち負けのルールであって、それさえ知っていれば彼らは例外なく充分に相撲を楽しんだのです。クラシック音楽も、その程度の入門知識があれば誰でも簡単に楽しめます。

ただ、文化という根っこの共有がない僕らがクラシック音楽をより楽しむには、考古学的関心が助けになる、少なくとも僕の場合はそれはかなり大きなドライバーになりました。古いもの好き、遺跡好きでなければここまでのめりこむこともなかったように思います。英国人のお客さんで、日本語は話せないのに相撲の四十八手を全部いえる人がいましたがそれに近いのでしょう。彼はもちろん双葉山について僕よりずっと知識がありましたが、英国人は僕と西洋音楽の話をして同じような印象を持ったに違いありません。

だから、18才だった僕が日本では特段有名でも大スターでもない、しかしバルトークのまな弟子ではあったこのフォルデスのチケットを見つけて買った、そのことは自分の考古学趣味をまざまざと見るようであり、学校で教わったわけでも誰かに指導されたわけでもない、自分の根っこの確認という意味でとても思い出深いものです。

3877この曲は作品1であり、1905年に作曲され1909年にバルトーク自身のピアノ、オーマンディーの先生であるイエネー・フバイの指揮で初演されました。まだリストの影響が残るロマンティックな響きに満ちた和声音楽ですが、この時は食い入るように聴いていたもののさっぱりわかりませんでした。覚えているのはフォルデスのもの凄い気合いと強烈な打鍵です。細部は何も覚えてませんが、右手が高音にかけのぼってきて、つまり僕の座っている方にきてすぐそこで叩いたキーの音は今でも耳に残っています。ピアノってこんなに激しく弾くもんなんだと妙なことに感心しているうち、曲は終わってしまいました。

これがまさにフォルデスの弾く「ピアノと管弦楽のためのラプソディ Sz.27」 で、こんな感じだったです。初心者にはもったいないぐらいの特上のバルトーク原体験でした。聴きに行った演奏会は全部記録してますからこうしてプログラムまでわかるのですが、モーツァルトとチマローザはすっかり忘れていて、ラヴェルは覚えてます。渡邉暁雄の指揮を聴いたのはこれ1回でしたがこのダフニスは初めての実演で感動しました。

去年きいたのでももう忘れてるのがありますが、こうして42年前なのに覚えてるのもあります。これは人との出会いでも同じことです。全部覚えきれるわけではありません。だから、どちらも覚えていればそれだけで人生の宝物と思うことにしています。

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

(こちらもどうぞ)

デュトワ・N響Cプロ 最高のバルトークを聴く

 

 

 

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僕が聴いた名演奏家たち(クラウス・テンシュテット)

2015 FEB 9 1:01:53 am by 東 賢太郎

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クラウス・テンシュテット(Klaus Tennstedt, 1926年6月6日 – 1998年1月11日)は東ドイツに生まれ1971年に西ドイツに亡命し、カラヤンが自ら後継の本命と目したとされる名指揮者である。79年にH・S・イッセルシュミットが作った北ドイツ放送交響楽団の第3代首席指揮者に就任したが楽団との関係が悪化し、1981年の演奏旅行中に辞任してしまう(ギュンター・ヴァントはその次のシェフだ)。83年9月にロンドン・フィルハーモニーの音楽監督に就任したが、85年に咽頭癌が発覚し87年に惜しまれて辞任した。

 

tenn82-84年にフィラデルフィアに留学していた僕は、フィラデルフィア管弦団に客演に来た彼のドレス・リハーサルを妻と聴いた。どうやって入れてもらったのかは忘れたが本番のチケットが買えず、どうしても聴きたいのでなんとかしたのだった。大変に幸運ななことだった。83年3月10日、LPOシェフ就任の半年前のことである。場所はアカデミー・オブ・ミュージック、曲目はシュロモ・ミンツをソリストに迎えてプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番、そしてブラームス交響曲第4番だった。その時点では80年に買ったマーラーの1番のLP(写真)で知っているだけの人、ずいぶんひょろっと背の高い人だなというのが舞台に出てきた第一印象だった。

ミンツとの合わせは第1楽章展開部と終楽章コーダの大太鼓が入ってからの部分のバランスだけは入念に数回くりかえし、その他細かい部分はあまり覚えていないが比較的すいすいと進んだ。問題はブラームスだった。僕が2年間定期会員としてフィラデルフィア管弦団をきいたアカデミー・オブ・ミュージックの音のデッドさは既にブログにしたが、彼がブラームスをどう響かせるかに気を配ったのは当然だろう。

オケを流しながら管と弦のバランスチェックで何度もストップする。少なくとも細部のことでは一切なく、流れかバランスが悪いと止めたと思われる。指示は第1ヴァイオリンのフレージングと表情の起伏が多く、全奏でそれがどう響くか何度もくり返す。英語はドイツ語なまり。態度はけっして高飛車ではなくブラームスに敬意を払いつつオケを納得させて乗せていく。指揮姿に派手さや大仰なポーズはまったくなく、あおったり微細に振ったりする棒ではない。

曲の総体に確固としたコンセプトを持っていて、一切妥協がない頑固な人という印象だった。それに強いこだわりと熱意があって、オケに体当たりでぶつける。それに奏者が共感すると彼らの持っている音楽性が素直に出てきて自然にいい音楽ができてしまう。そういう感じのリハーサルだった。チェリビダッケともバーンスタインとも全く違う、融通無碍のスタイルだ。細かいことは省くが、僕自身思いの深い曲だっただけにこのことは強く記憶に焼きついた。

この本番は聴けず地元FMがステレオ放送してくれたのでそれをカセットに録音したが、それがこれだ。

翌週の18日にR・シュトラウスのドン・キホーテ、ワーグナーのタンホイザー序曲(パリ版)、ニュルンベルグの名歌手前奏曲というプログラムは聴いた。フィラデルフィア管では82年の11月にマーラー交響曲第3番(5日)、グリーグのピアノ協奏曲とチャイコフスキーの悲愴(12日)を聴いたことがプログラムからわかるが残念ながら記憶の彼方だ。最初の年であり死ぬ思いで勉強していた頃でそれどころではなかった。

卒業後、そこから僕はロンドンに赴任し、彼がLPOを振った演奏会を4回聴いた。まず84年9月29日にマウリツィオ・ポリーニとのブラームスのピアノ協奏曲第2番、そしてベートーベンの交響曲第3番。86年9月28日にはベートーベンを2曲、ピーター・ドノホーとのピアノ協奏曲第2番交響曲第3番。そして同年10月1日のベートーベンピアノ協奏曲1番(pf・マヤ・ヴェルトマン)とR・シュトラウス「英雄の生涯」、そして、10月5日のマーラー交響曲第3番(Ms・ヴァルトラウト・マイヤー)である。ピアノのヴェルトマンはたしか10才ぐらいのメガネの女の子だった。その後どうなったんだろう。「英雄の生涯」は録音を含めても僕がきいた最高の演奏の地位を今も譲っていない。フィラデルフィアで抱いた印象のとおり、LPOが彼に深く共感し食らいついていて、指揮者への敬意をもつとああいうことになるんだというものだ。

Mahler_sy3_ICAC5033しかし、僕が人生で聴いたベスト10に入るのは、何といってもあのマーラー3番だった。彼の3番は2度目ということになる。これはBBCがCDにしていて(右)、熱烈なマーラーファンの間では有名になっているとある人にうかがった。ご案内のとおり僕はマーラーには疎いし今も共感が持てない。そんな人間があのひょっとして彼が振った最後で最高の3番を聴いたというのは世のマーラーファンのお叱りを受けそうだが、CDを聴きかえしてみて、あることをはっきりと思い出した。恥ずかしながら、あの日涙を流しながらロイヤル・フェスティバルホールを後にして夜陰のなか運転がしばしできなかったことを告白して贖罪としたい。

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これがその日の録音である。残っているのが本当に有り難い。

思えばテンシュテットは50才でメジャー・オーケストラにデビューした超遅咲きの大物指揮者だ。同じ東独出身のクルト・マズアは共産党員になった世渡り上手であり、ゲヴァントハウスO.のポストを得て出世街道を登った。それに比べ、妥協知らずの彼はそれが下手で不遇の40代だった。想像だが彼の頑固さと短気さはドイツでは軋轢を生んだのではないか。いわばドイツを追い出されて、米国と英国で花咲いた人だ。

当時、ナチと無縁でドイツものを振れるドイツ人は英米で需要があった。フルトヴェングラーもだめカラヤンもだめだ。しかもマーラーに深く共感しているのだから米英の音楽メディア、マネジメントを牛耳るユダヤ人が歓迎した。彼はロンドンで最高の敬意を集めたクレンペラーの化身として登場したのだ。50になって急に運が開けたが、そうなったのも音楽家として絶対に手を抜かない彼の一途な性格を英米の音楽家、聴衆がしっかりと評価する眼力があったからでもある。

この2回の演奏会は咽頭癌が発覚した翌年であり、そういうえば我々聴衆はみな半分キャンセルを覚悟してチケットを買っていたのだ。この演奏会の後に8番を振り、その次のブルックナーはとうとう病魔の為に本当にキャンセルされた。そして翌年に闘病の為リタイアを余儀なくされてしまったのだ。この3番の終楽章を弾いていたLPOの弦の人たちの、彼をいつくしむように、動作を一つも見逃さぬように見つめる視線が忘れられない。とにかく彼は英国で愛されていた。

陽のあたる道での実働は10年余り、LPOとの蜜月はたったの4年で終わったが、一生忘れない宝もののような思い出をいただいた。思えば彼の人生行路には自分を重ねてしまう部分があって共感があるし、あのマーラー3番の演奏会の時、彼は60才の還暦だったのも何か感ずるものがある。

 

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僕が聴いた名演奏家たち(サー・コリン・デービス)

2015 JAN 10 0:00:11 am by 東 賢太郎

コリン・デービスの名はずいぶん早くから知っていた。それは名盤といわれていたアルトゥール・グリュミオーやイングリット・ヘブラーのモーツァルトの協奏曲の伴奏者としてだ。リパッティのグリーグ協奏曲を伴奏したアルチェオ・ガリエラやミケランジェリのラヴェルト長調のエットーレ・グラチスもそうだが、超大物とレコードを作るとどうしても小物の伴奏屋みたいなイメージができて損してしまう。

それを大幅に覆したのが僕が大学時代に出てきた春の祭典ハイドンの交響曲集だ。どちらもACO。何という素晴らしさか!演奏も格別だったが、さらにこれを聴いてコンセルトヘボウの音響に恋心が芽生えたことも大きい。いてもたってもいられず、後年になってついにそこへ行ってえいやっと指揮台に登って写真まで撮ってしまう。その情熱は今もいささかも衰えを知らない。

彼は最晩年のインタビューで「指揮者になる連中はパワフルだ」と語っている。これをきいて、子供のころ、男が憧れる3大職業は会社社長、オーケストラの指揮者、プロ野球の監督だったのを思い出した。ところが「でも、実は指揮にパワーなんていらない。音楽への何にも勝る情熱と楽団員への愛情があれば良いのだ」ともいっている。これは彼の音楽をよくあらわした言葉だと思う。

サー・コリンが一昨年の4月に亡くなった時、何か書こうと思って書けずにきてしまったのは、ロンドンに6年もいたのに驚くほど彼を聴いていないのに気がついたからだ。彼が晩年にLSOとライブ録音した一連のCDを聴いていちばん興味を持っていた指揮者だったのに・・・。youtubeにあるニューヨーク・フィルとのシベリウス3番のライブを聴いてみて欲しい。こんな演奏が生で聴けていたら!

僕がクラシック覚えたてのころ彼のお決まりの評価は「英国風の中庸を得た中堅指揮者」だ。当時、「中庸」は二流、「中堅」はどうでもいい指揮者の体の良い代名詞みたいなものだった。それはむしろほめている方で、ドイツ音楽ではまともな評価をされずほぼ無視に近かったように思う。若い頃のすり込みというのは怖い。2年の米国生活でドイツ音楽に飢えていた僕があえて英国人指揮者を聴こうというインセンティブはぜんぜんなかった、それがロンドンで彼を聴かなかった理由だ。

それを改める機会はあった。93年11月9日、フランクフルトのアルテ・オーパーでのドレスデンSKを振ったベートーベンの第1交響曲ベルリオーズの幻想だ。憧れのDSK、しかも幻想はACOとの名録音がある。しかし不幸なことに演奏は月並みで、オケの音も期待したあの昔の音でなかったことから失望感の方が勝っていた。これで彼への関心は失せてしまったのだ。もうひとつ98年5月にロンドンのバービカンでLSOとブラームスのドッペルを聴いているが、メインのプロが何だったかすら忘れてしまっているのだからお手上げだ。ご縁がなかったとしかしようがない。

davisしかし彼の録音には愛情のあるものがある。まずLSOを振ったモーツァルト。ヘレン・ドナートらとの「戴冠ミサ」K.317、テ・カナワとのエクスルターデなどが入ったphilips盤(右)である。このLPで知ったキリエK341の印象が痛烈であった。後にアラン・タイソンの研究で 1787年12月〜89年2月の作曲という説が出て我が意を得た。ミュンヘン時代の作品という説は間違いだろう。

5969523僕のデービスのベスト盤はこれだ。ACOとのハイドン交響曲第82,83番である。もし「素晴らしいオーケストラ演奏」のベスト10をあげろといわれたら彼のハイドン(ロンドンセットは全曲ある)は全部が候補だが、中でもこれだ。なんという自発性と有機性をそなえた見事なアンサンブルか。音が芳醇なワインのアロマのように名ホールに広がる様は聞き惚れるしかない。こういう天下の名盤が廃盤とはあきれるばかりだが、これをアプリシエートできない聴き手の責任でもあるのだ。

16668gこのハイドンと同様のタッチで描いたバイエルン放送SOとのメンデルスゾーン(交響曲3,4,5番と真夏の夜の夢序曲)も非常に素晴らしい。オーケストラの上質な柔軟性を活かして快適なテンポとバランスで鳴らすのが一見無個性だが、ではほかにこんな演奏があるかというとなかなかない。昔に「中庸」とされていたものは実は確固たる彼の個性であることがわかる。5番がこういう演奏で聴くとワーグナーのパルシファルにこだましているのが聞き取れる。

51BSnT5oJxL__SX425_シューベルトの交響曲全集で僕が最も気に入っているのはホルスト・シュタインだが後半がやや落ちる。全部のクオリティでいうならこれだ。DSKがあのライブは何だったんだというぐらい馥郁たる音で鳴っており1-3番に不可欠の整然とした弦のアーティキュレーションもさすが。僕は彼のベートーベン、ブラームス全集を特に楽しむ者ではないが、こういう地味なレパートリーで名演を成してくれるパッションには敬意を表したい。4番ハ短調にDSKの弦の魅力をみる。

41AQABHVRZL春の祭典、ペトルーシュカだけではない、この火の鳥もACOの音の木質な特性とホールトーンをうまくとらえたもので強く印象に残っている。この3大バレエこそ彼が中庸でも中堅でもないことを示したメルクマール的録音であり、数ある名演の中でも特別な地位で燦然と輝きを保っている。 オケの棒に対する反応の良さは驚異的で「火の鳥の踊り」から「火の鳥の嘆願」にかけてはうまさと気品を併せ持つ稀有の管弦楽演奏がきける。泥臭さには欠けるがハイセンスな名品。

51k8eFkIMIL__SX425_ブラームスのピアノ協奏曲第2番、ピアノはゲルハルト・オピッツである。1番はいまひとつだが2番はピアノのスケールが大きくオケがコクのある音で対峙しつつがっちりと骨格を支えている。オピッツはラインガウ音楽祭でベートーベンのソナタを聴いたがドイツものを骨っぽく聞かせるのが今どき貴重だ。この2番も過去の名演に比べてほぼ遜色がない。ヘブラーやグリュミオーのモーツァルトもそうだがデービスはソリストの個性をとらえるのがうまい。録音がいいのも魅力。

 

あとどうしてもふたつ。 ヘンデル メサイアより「ハレルヤ」(Handel, Hallelujah) に引用した彼のヘンデル「メサイア」は彼のヘンデルに対する敬意に満ちた骨太で威厳のあるもので愛聴している。そしてLSOとのエルガー「エニグマ変奏曲」も忘れるわけにはいかない代表盤である。

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クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

エルガー「エニグマ変奏曲」の謎

 

 

 

 

 

 

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クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

2015 JAN 5 21:21:36 pm by 東 賢太郎

自分史としてクラシック演奏家について書こうと思い調べていたら、実演をきいた演奏家がもうこんなに鬼籍に入っているではないですか。

カラヤン、バーンスタイン、チェリビダッケ、オーマンディー、テンシュテット、ヨッフム、ジュリーニ、ショルティ、ドラティ、フルネ、C・クライバー、シノーポリ、H・シュタイン、ヴァント、ベルグルンド、ラインスドルフ、スタインバーグ、デュファーロ、ザンデルリンク、ベルティーニ、アロノヴィッチ、ジョルダン、グローヴズ、ヒコックス、ハンドリー、ワルベルク、ライトナー、コシュラー、R・ショウ、クライツベルグ、バルシャイ、ギレリス、リヒテル、ルドルフ・ゼルキン、ペルルミュテール、フォルデス、ラローチャ、フィルクシュニー、ミケランジェリ、ホカンソン、シュムスキー、ワイセンベルク、ラドゥ・ルプー、ヘルマン・プライ、スターン、グッリ、ブレイニン、イダ・ヘンデル、ロストロポーヴィチ、ポール・トゥルトリエ、パバロッティ、ディミトローヴァ、フィッシャー・ディスカウ、アーリン・オジェ、クルト・モル、ウィルマ・リップ、ジェシー・ノーマン、マッケラス、サヴァリッシュ、デ・ブルゴス、コリン・デイヴィス、アバド、ゲルト・アルブレヒト、マゼール、ブリュッヘン、ホグウッド、チッコリーニ、マズア、ブーレーズ、アーノンクール、マリナー、アントン・ナヌート、スクロヴァチェフスキー、ロバート・マン、ビエロフラーヴェク、ジェフリー・テイト、ヘスス・ロペス・コボス、ロジェストヴェンスキー、プレヴィン、マリス・ヤンソンス、ミヒャエル・ギーレン、ペンデレツキ、ネルロ・サンティ、レイモンド・レッパード、ジェームズ・レヴァイン、ハイティンク、クリスタ・ルートヴィヒ、テオ・アダム、ラルス・フォークト、アンドレ・ワッツ、テミルカーノフ、ポリーニ、リン・ハレル、レイフ・セーゲルスタム、ブレンデル、ノリントン、日本人で朝比奈、山田、渡辺、若杉、芥川、羽田、中村紘子、遠山慶子、外山雄三、飯守泰次郎、小澤征爾、秋山和慶。

まあそれだけこっちも年輪を重ねたということで、どの時代に生まれてもこういうリストができて名前が増えていくんでしょう。ちがうのは顔ぶれだけです。

僕はマルケヴィッチ、アンチェル、アンセルメ、ミュンシュ、クリュイタンス、マルティノン、フランソワ、オイストラフ、コンドラシン、カザルス、セル、バックハウス、ケンプ、ルービンシュタインの来日公演を聴くにはちょっと若すぎた世代で、聴けたのにと後悔しているのがベーム、シェリング、ムラヴィンスキー、フルニエ、アラウ、クーベリック、スイトナー、マタチッチ、スヴェトラーノフ、グルダ、ヘブラーあたりです。晩年に来日したカラスは聴かず、ホロヴィッツは海外にいて聴けませんでした。

ご覧いただいて僕と同世代のクラシックファンはみなさん懐かしいのではないでしょうか。実演を聞かれた方も多いでしょう。これに現在活躍中の長老、ベテランを加えればほぼ20世紀後半のクラシック界を代表する演奏家リストができてしまいますし、この人たちの録音が後世もスタンダードとして永く聴きつがれていくのだと思います。

演奏家の旬の時期が30年ぐらい自分が演奏会に出向けるのも30年ぐらいとして、両者がクロスオーバーしたのは縁だったんだと思います。日本に来なかった人もいるし、地理的な事情を考えるとタイムリーに出会える運というものもあります。聞かせていただいた人がこれだけいたというのは16年を海外で過ごしたからですから、どこか自分の人生の縮図を眺める気もいたします。

すでに何人かのコンサートについてはブログにしましたし、残念ながら印象が薄くて細かいことは忘れてしまったのもあります。

今年のテーマとして、まだ書いてない印象に残った名演奏家のコンサートやエピソードをピックアップして、その演奏家の録音への意見もふくめて何回かにわたって書いていこうと思います。「僕が聴いた名演奏家たち」というタイトルで「カテゴリー」に入れていきますのでお読みいただければ幸いです。

 

(追記、16年2月3日)

とうとう本稿のリストにピエール・ブーレーズと記す日が来てしまった。

彼との出会いがCBSの春の祭典であったことは何度も書いた。この空前絶後のレコードは、高校生だった僕の大脳にalignmentという作用を及ぼした。どういうことかというと、頭の中で細胞が一直線に整列するイメージだった。すべての音符にブーレーズの強靭な知性の引力を感じ、それに得も言われぬ魅力を感じたことで、その支配が僕の耳を通して脳細胞にまで及んでしまったことを意味していたように思う。

そこから、僕はそういう人間になった。

数学が好きになり、とくに整数題に凝った。整数というのはフィクションというか、あらゆる数の中に在るには在るが、在ると言うのは点に面積があると主張するぐらいに作り物めいた呪文のような存在だ。しかし「在る」ことにすると色々面白いことがあって、ひょんなことで実用性があったりする。いや、我々の現実社会はその面白いことだらけで成り立っている。猫が1.7匹いたりすることはないように。

ブーレーズは名前の発音を「前のーは後ろのーの半分の長さ」(ブ-レ--ズ)と説明した。1:2の整数比であり、ブが八分音符ならレは四分音符ということだ。この説明方法に彼の音符を支配する知性の秘密が垣間見える。彼は言語の要素に「音価」を見出している。「リズム」ではない。音楽を組成する諸要素、これ以上は分解できないエレメントのひとつとしてだ。それを僕は上記の春の祭典に見た。音価が整数である必然性はないが、「祭典」では、厳格な整数比のコントロールを導入することで、それまでの誰の演奏にもないもの、作曲家が恐らく本能的に選び取った神性に支配された秩序ある美を紡ぎ出したのである。

それを僕は数学の、非常に難しい整数問題がとうとう解けた瞬間に、いわばなんとなく「発見」した気分を味わった。それらは等しく美しいからだった。

ブーレーズがドデカフォニー(12音技法)から作曲をはじめ、音高ばかりでなく音価にも限定的選択による秩序を与え、その秩序に言及、開示することを好まなかったことは、音楽美(aesthetic)を感知させる根源的なエレメントの配列が宇宙に存在し、それを感知したままに書き下そうとしたかのように思える。それは神性によるものであり、人間である自分が今できるとは限らない。彼のwork-in-progressという発想はそういう思考形態の表れなのではないだろうか。

「非常に難しい整数問題」は、整数がフィクションだというメタファを使ってはみたものの、人間が恣意的に作ったものでないことだけは確実だ。神性に基づいた問題であり解なのであり、しかもそれを僕は音楽のように美しいと感じた厳然たる事実があるのである。ブーレーズが生涯通して求めた美はそういう存在であり、彼が作曲を通じて、まだ未完と考えておられたであろうことを割り引いても、宇宙の原理が作用することに依って我々の脳が感知するJ.S.バッハやモーツァルトの美と同質のものを残したことは疑いがないように思う。

僕の脳にalignmentという作用を及ぼしたものの実体は、彼の脳にあったaestheticの根源的なエレメントの配列の同期だったと信じる。それは人格という高次なレベルの影響であり、彼に会ったことはないが、そういうことがありえるのだと今は確信に至っている。彼の肉体は滅んでしまったが精神はこうして生きている。それは論語を通じて孔子の精神が人類に根づいているのと同じことだ。

永遠に感謝の意をこめて

 

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カルロス・クライバー指揮ベルリンフィルの思い出

クラシック徒然草-チェリビダッケと古澤巌-

クラシック徒然草-ユージン・オーマンディーの右手-

カラヤン最後のブラームス1番を聴く

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ブルックナーとオランダとの不思議な縁

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レナード・バーンスタインのお告げとしか考えられない出来事

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僕が聴いた名演奏家たち(クラウス・テンシュテット)

僕が聴いた名演奏家たち(サー・コリン・デービス)

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ウォルフガング・サヴァリッシュの訃報

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クリストファー・ホグウッドの訃報(追記あり)

エロイカこそ僕の宝である

クラシック徒然草-名指揮者カルロ・マリア・ジュリーニについて-

マーラー交響曲第1番ニ長調 「巨人」

ドビッシー 西風の見たもの

クラシック徒然草-ヴァイオリン・コンチェルトの魅惑-

音楽人生に「足るを知る」

クラシック徒然草-フィラデルフィア管弦楽団の思い出-

 

 

 

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カラヤン最後のブラームス1番を聴く

2014 APR 22 13:13:53 pm by 東 賢太郎

1988年の10月6日、愛車ボルボでテムズ川の真ん中あたりにかかるウォータールー・ブリッジをいつも通りに渡る。ヴィヴィアン・リー、ロバート・テイラー主演の名画「哀愁」の舞台となったあの橋だ。橋げたの少し先を右折してパーキングに車を駐めると、辺りはもう真っ暗である。湿気を含んだ空気はもう冷んやりしている。ロンドンの冬は早くて長いのだ。

ロイヤル・フェスティバル・ホールの1階ロビーは夕刻8時の開演を待つ人の熱気と煙草のにおいでむんむんしていました。まだ1時間半もある。妻とK夫妻で地下のビュッフェの軽食をとることになりました。いつもの3ポンドぐらいのパスタ、ハンバーガーは、これが毎度毎度おそろしくまずいのですが、空腹だと音楽に入れないから仕方ない。30分も並びサーブを待たされ、あわてて食事をかきこんでコーヒーは熱くて飲めないので残し、息せきこんでホールへの階段を駆け上がる。「開演は1時間遅れます」のアナウンスでずっこけたのはそのあたりでした。カラヤンと団員は到着したが、別送していた楽器がパリでストライキにあって着いていない?そこから情報の進展はなく、延々と待たされるうちに疑心暗鬼になってきて、まさかキャンセルはないよねと真顔で心配するほど周囲はざわざわし始めました。

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大拍手に迎えられてオケが正装で入場し開演はアナウンス通り9時でした。しーんと静まり返った緊張のなか、腰を少し曲げてゆっくりゆっくりと帝王カラヤンが登場。拍手は最高潮になります。彼も疲れているだろうに大丈夫だろうか、心配の方が先にたってしまうほどカラヤンは老い、そして僕らは待ちくたびれていたのです。

しかし指揮台に立って堂々と喝采に答礼する姿はそれは杞憂だということを物語っていました。最初のシェーンベルグ「浄夜」。僕らの席は1階正面やや向かって右手で、コントラバスが正面にずらっと並んでいます。その音たるや楽器が普通より大きんじゃないかと錯覚するほどごうごうと強くて太く、その低音ががっちり支える弦楽器群のピラミッド状の音響たるや、もうロンドンのオケとも日本のオケとも別個の存在とでもいうべきものでした。

この日のプログラム

休憩をはさんでいよいよメインのブラームス交響曲第1番です。リハーサルなしだったせいか、出だしの強烈なティンパニの2発目が棒より一瞬速すぎて心臓が凍りましたがすぐ修正。しかし、これだけ気合いの入った怒涛の出だしというのも記憶になく、ハ音の重低音が物凄い音圧で腹に響きます。カルロス・クライバーのブラームスでもそう感じましたが、本気になったベルリン・フィルの音はとにかく音波の振幅がとてつもなく大きいのが特徴です。

ブラームス1番は僕の音楽人生にとって特別に重い意味のある曲ですが、カラヤンが指揮した生涯最後の1番がこれということになったという意味でも格別の思い出を残してくれることになりました。カラヤンの指揮姿は老人のものではなく、一切の振り違いや危なげすらもなく、翌年7月16日の彼の訃報をきいても実感がわかなかったほどです。

この日のブラームスはごつごつせず流麗に音楽の内包する摂理にのって流れる、磨き抜かれた美音とffの強烈な威力で形どられた生々流転のドラマでした。彼の音楽は日本では形だけの空虚な美のように評価されていましたが決してそうではなく重い実質を伴った音楽です。同じオケを振った先輩フルトヴェングラーの1番とは似ず、しかし先輩はカラヤンを強く嫉妬したのはその実質を生む実力を音楽家の嗅覚で見抜いたからと思います。

どこがどうということはなく、一流の演奏だけが持つ輝きとオーラを放って見事に全体の均整がとれた1番だったのです。ウィーン・フィルを振ってDeccaに録音した1番とコンセプトが違うということがなく、指揮台の彼は最後まで老いるということが許されなかった、ヘルベルト・フォン・カラヤンでなくてはいけなかったのだと思います。老成、大家然を拒むところに彼の芸術は存立していました。だから1番こそが彼にふさわしいものだったし、それがロンドンでの最後の姿を飾ったのは天の配剤だったのでしょう。鳴りやまないブラヴォーと拍手にはお疲れさまという気持ちがこもっていた気がします。

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この演奏がCDになって出ましたが、まさかと思ってジャケットを見てみると、やはりそのまさかが起きていました。このジャケット写真をよーくご覧ください。カラヤンの左手の高さ、彼の背中側後方の客席に日本人風の女性が映っています。左がK夫人、右が家内、そしてその右が僕であります。記念写真まで残ってしまいました。BBCに深謝です。

 

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(6)

 

 

ブルックナーとオランダとの不思議な縁

2014 FEB 13 1:01:10 am by 東 賢太郎

11日時点でのソチのメダル数はノルウエーが11個で1位、日本は2個の17位であります。ノルウエーの人口は500万人で世界の114位であり、北海道の550万人より少ない。考えさせられます。山と雪があればいいというものでもないようです。これも驚いているのがオランダの3位です。スケートはできてもオランダは山がないです。一番高い山でも322.5mしかありません。考えさせられます。

今回はそのオランダにまつわる思い出です。

僕の母方の祖母は長崎人です。いうまでもなく開国前の長崎というのは西洋への窓口でしたし、明治になっても中国(上海)への窓口でした。彼女が嫁いだ家は横浜の生糸貿易商、天下の糸平こと田中平八の傍系でした。長崎、横浜とくれば神戸ですが、僕の家内はその神戸人です。そしてソナーの取締役である僕のパートナーは英国人です。そしてもう畏友と呼ばしていただく神山先生は上海人です。長崎、横浜、神戸、英国、上海。そうしようと意図したわけでない、成り行きにまかせての結果なのですがそれが僕の人生をとりまく諸都市でありなにか強い運命の糸を感じます。

長崎とくれば出島のオランダでもありますが、僕は野村ロンドン時代に2年ほど「オランダ担当」をやらせていただき、この国には数々のかけがえのない思い出があります。そのひとつ、僕の16年の海外生活でも最高に痛快だったエピソードがこのブログにありますのでよろしければお読みください( オリックスのロべコ買収)。

オランダは米国留学中1983年夏休みに家内と欧州旅行したとき、イギリスからホーヴァークラフトで人生初めて上陸した欧州大陸の国だったという意味でも僕にとっては特別です。あの時は28歳と25歳の夫婦でした。身なりは完全なバックパッカーで、安宿のトイレもない屋根裏部屋に泊まりました。アンネ・フランクの家、ゴッホ美術館、それからフォーレンダムというオランダ情緒ある港町へ行って食事したり、とにかく失礼ながらアメリカの文化と歴史の乏しさに辟易していた僕にとって心のオアシスみたいに感じたことを覚えています。

そしてここで文化といえばなんといっても世界に冠たる名ホールであるアムステルダム・コンセルトヘボウがあるのです。cancsレコードでここの音にぞっこん惚れこんでいた僕がわくわくして訪れたのは言うまでもありません。しかし残念ながらここのレジデント・オーケストラは海外演奏旅行中とのこと、コンサートにはありつけなかったのです。よく考えるとその数日前にロンドンのロイヤル・アルバート・ホール(プロムス)でハイティンク指揮の同オケの演奏会を聴いていたわけで、当然でした(それは僕がヨーロッパで聴いた初めてのコンサートであり、曲目はブルックナー交響曲第9番ニ短調、素晴らしい高貴な演奏でした)。

ホールの音が聴けないのが悔しくて、正面ゲートの扉を押すとスッと開きました。やったぞ、しめしめ、と中へ侵入してみると、もぬけの空で誰もいません。こんなチャンスは2度となし。家内の制止をふりほどいてスタスタと舞台へ登り、撮ったのがこれです。31年前のことゆえなにとぞ時効ということでお許しください(なお、良い子の皆さんはぜったいにまねしないでくださいね)。

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イメージ

ま、これで「コンセルトヘボウの指揮台に立つ」と履歴書に書けます。偽ハイティンクですが。それにしても28歳のわが身、細かったです。この翌年、84年にオランダ担当者になったのも運命の糸の続編という気がします。そしてその末に上記の拙稿に書いたことが起きたわけです。

ちなみにこのいたずら写真の貧乏旅行は、このアムスからベルギーの友人宅へ行って荷物を預けて、まずは鉄道で家内と2人で「シューマン交響曲第3番」の稿に書いたライン下りを経てザルツブルグで音楽祭(カラヤン、アバド)を聴き、あこがれのウィーンでパルシファルを聴き、ベルギーに戻って今度は友人一家と車でパリからフランスを南下してカンヌ、ニース、モナコを経てミラノはスカラ座で蝶々夫人を聴き、ベニス、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、ポンペイまで行きました。都合1か月のことでした。

ずいぶん優雅ですが実は大変な「コスト」を払っていたわけで、この間に他のウォートンスクールの日本人留学生は皆さん真面目にサマーコースを受講して2~4単位の貯金をします。夏休みなし。それが日本人にとって過酷なMBA取得の「常道」でした。しかし若さとカネとヒマの3拍子そろうなんて人生2度とないと、僕は落第するリスクを取ってサマーコースは放棄して1か月「丸遊び」したわけです。会社人事部には国内旅行と届け出、学校の教務課にはそういう人間は後にも先にもいないといわれましたが無視。そのツケで2年目は9単位取ることが必須ですが物理的に9科目しか受講は無理なので「1科目も不可を取れない」つまりサドンデスの状態になり、1つでも落としたらMBAを取れずに帰国した留学生という恥ずかしい汚名を一生きせられるというのは覚悟の上の旅行だったわけです。

それでも僕はのんきに2年目は80万円ぐらいでチェロを買って、フィラデルフィア・オペラカンパニー管弦楽団で目立っていた美人でグラマーの首席チェリストのお姉さんに個人レッスンを1年間受けて音楽をみっちり教わりました。楽譜がよく読めるようになったのはこの時です。しかも最後のセメスターは日本人が怖がって避けて通るウォートン最難関科目である「中級会計学」に日本人ただひとり挑戦。自信満々だったところが、受講生50人中15人が米国公認会計士資格者だったことを知り愕然とし、10%つまり5人は必ず不可がつく仕組みなので、最後の3か月はそれこそ死ぬほど勉強しました。ラストスパートでなんとかゴールインできたのですが、ファイナル(期末試験)がおわって数日後のパスできたかどうかの発表は東大の合格発表より緊張しました。それでもあれから30年が経過して、鮮烈に記憶に残って人生の糧になっているのは会計学よりもヨーロッパ旅行の1か月なのです。リスクは取ったもん勝ちです。

さてその翌84年に晴れてMBA(経営学修士号)を取ってロンドン現法の一員となってからは、そのヨーロッパは音楽の都ではなく戦場と化しました。それでも息抜きにはよく遊びました。男は若い時分は仕事よりも遊びで育つと勝手解釈してましたっけ。思い起こせば、ロンドン-アムスのフライトは1時間ぐらいであっという間でした。午後おそい便でヒースローを発って夕方にスキポール空港に着くと、まずは定宿のホテル・オークラの「山里」で日本食を食べます。そこからやおら先輩といっしょにタクシーを1時間飛ばして海辺のザンフォードという街まで繰り出し、カジノでひと勝負というのが毎度のパターンでした。勝ったり負けたり、ほんとうに元気でした。ゴルフもずいぶんやりました。オランダにはスコットランドやアイルランドに劣らない素晴らしいコースがたくさんあるのです。我が国を代表する名指揮者、コバケンこと小林研一郎さんとも2~3回ほどやりましたか。マエストロは54歳から始めたのに腕前はシングル級で、強いはずのベットはコテンパンにやられました。

コンセルトヘボウの話に戻りましょう。このホールの音の美しさは何度も書きましたが、一度行って聴かれたら二度と忘れないでしょう。だから僕は自宅のオーディオルームの設計はここの音をレファレンスにして部屋の縦横比率を工夫して黄金分割にしましたし、さんざんとっかえひっかえ試聴したパワーアンプの音色の選択もそれを意識しました。写真撮影に来た「ステレオ」誌のインタビューでは「コンセルトヘボウで鳴ったウィーンフィルが僕の理想の音」と答えました。ただしそのコメントは「その方がより面白い」というだけで、ここのオーケストラも世界最高水準の音と腕前を誇ることは疑いありません。そういえばコバケンさんは僕らとヒルバーサム・ゴルフクラブで1ラウンド回ってから急ぎコンセルトヘボウに駆けつけて演奏会を振るなんていうこともありました。もちろんチケットをいただいていて、リストとチャイコフスキーの名演を堪能させていただいたものです。

この名ホールで聴いたたくさんの演奏会の中でも最も鮮烈な記憶として残っているものが、オイゲン・ヨッフムが亡くなる3か月前、人生最後に登場したものでした。曲目はこれまたブルックナーの交響曲第5番変ロ長調で、1986年12月4日のことでした。その日の演奏会の録音(左)が素晴らしい音でCD化されているのを見つけた時の喜びは大変なものでした。これは僕の人生の宝物であり、オランダ国との深いご縁からいただいた天の贈り物でもあると思っております。なぜこの日にアムスにいたかというと無粋な理由でして、僕の同期がロンドンに転勤でやってきたために、「東、お前はロンドンの大手顧客をやれ」という上司の命が下って彼への引き継ぎに来たのです。クラシックに無縁な彼は誘っても来なかったので、一人でこれを聴いたのでした。アムスは卒業という記念すべき日でもありました。これがその録音です。

この録音を5番の最高峰とされる方も多いので覚えていることを書きますと、僕の席は第1ヴァイオリンの横手で、ヨッフムさんの指揮姿を左斜め前やや上方から見る位置でした。出だしからオーケストラの馥郁たる音は神々しいばかり。指揮者と作品への楽員たちの敬意がオーラのようにひしひしと感じられて客席は息をのみ、一期一会でもあるかのような只事でない雰囲気にホールごと包まれました。あんな経験はありません。皆さん、これでヨッフムとはお別れということを悟っていたと思います。このホールは客席後方からの反響が僕の位置だと聴こえてきます。膨大な空間を感じるのです。信じていただけないでしょうが、そのエコーのために音響が広い宇宙に鳴りわたっているようで、ブルックナーの混淆がえもいえない効果を醸し出しました。まるでご高齢で動きが小さいヨッフムさんの後光か霊力のようなものがオーケストラを動かしているように感じていました。テンポが落ちた終楽章のコーダの大地の鳴動は一生忘れません。ヨッフムさんは足元があぶなくて舞台のそでで立ち止まって拍手をうけていて、鳴りやまぬ拍手にこたえて第4楽章をもういちど演奏しました。

この日のブルックナー体験から、音楽を非常に微視的に聴く傾向のあった僕は、

「体と精神で聴く」

という聴き方があるということを初めて教わりました。今でも近代音楽を聴くときはものすごく細部まで耳がいっているのですが、ことブルックナーだけはその対極に位置していて、全身で音の波長と振動を感じながら聴いているのです。ドイツの森のなかのようであり、母の胎内に感じたかもしれない波動みたいでもあります。楽典についても、スコアを見たりシンセで再現したりということもなく、7番の第2楽章をピアノで弾いてみるぐらいです。何番が特に好きということもなく、彼が書いた楽章はすべて一様に宇宙の森羅万象を感じ、それが味わいたければどれでもいいのです。とにかく、そんな付きあい方をしてきた作曲家は他に一人もいません。

ブルックナーは曲の完成後も弟子の進言によってスコアを改変しており、優柔不断で自信家ではなかったように言われていますが、僕はすこし違うイメージを持っています。彼にとって交響曲を書くことは「神と宇宙の体現」であり、そこに「一つだけの回答」というものはなかったのだと思います。書こうと思うたびに異なった世界が眼前に現れ、そのどれもが正解であり、どれもが正解ではなかった。だからそれは改変ではなくてもっと正解に近づこうとする「もがき」だったし、何度もがいても近づけずに9番まで書く途上で亡くなってしまった。僕はそう思っています。ブルックナーは何番がいいのですか、誰の演奏を聴いたらいいですかという質問を受けたことがありますが、「何番でもいいから、誰のでもいいから、ちゃんと演奏したのを聴きなさい」とお答えしました。その「ちゃんと演奏する」のは難しいのですが成功している指揮者はたくさんいます。それに身をひたしていればいい。ブルックナーは頭で聴くものではなく、「体験」するものだからです。そういう音楽を前にしてやれ何番のどこのテーマがどう、誰の指揮の何楽章がどうというようなことは皮相的でふさわしくなく、僕はあまりしたくありません。

ブルックナーというと思いだすことがあります。東京からフランクフルトに92年夏に転勤が決まった僕は、まず一人で赴任して近郊のケーニヒシュタインという高台の美しい街に新居を探しました。家族が来るまではさびしく、毎日が長く感じられ我慢の限界でした。やっと家内と2人の小さな娘が来てくれた時の嬉しさは忘れません。毎週末、4人で石畳のこじんまりした街を散歩して食事をし、森を歩いたりお城へ登ったり。ドイツ語はわかりませんでしたが今振り返ると夢のように幸せな日々でした。翌年にドイツ現法社長になってフランクフルトの大きな社長宅に引っ越す必要があり、そこで今年成人した長男が誕生することになるのですが、大好きなケーニヒシュタインを去るのにはとても後ろ髪をひかれたものです。

そのケーニヒシュタインから車でほんの5分ぐらい丘を下ると牧草地の中にバート・ゾーデンというかわいい村があります。フェリックス・メンデルスゾーンはそこに住んでいた姉ファニーの家に避暑にきて、あの天下の名曲「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」を書いたのです!僕は毎朝そのバート・ゾーデンを車で通りぬけて出勤していましたが、メンデルスゾーンもケーニヒシュタインの森やお城を散策したに違いないでしょう。フランクフルトと反対方向に丘を下っていくとライン川のほとりにそってヴィースバーデンに着きます。ブラームスが交響曲第3番を書いた場所も思えばわが家のすぐそこでした。そんな聖地のような場所に4人で住んだ1年間は、もしかして僕の人生最高の幸福な年だったのかもしれないと思います。

あの家の近所の丘や森や高台や商店街を娘たちの手を引いて散策した風景、変わりやすいお天気、ぱらつく雨、霧に湿った空気、小川のせせらぎのかすかな音、森の木々の匂い、石畳の古びた細い路地、そういう懐かしいものが次々と、使い古された言葉ですが「走馬灯のように」フラッシュバックするのが僕にとってのブルックナーの音楽なのです。とても大切なものであり、他の作曲家の音楽を聴くときとは心の持ちようが明らかにちがっています。あえていいますと、僕は5番が大好きです。アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏で体感したブルックナーの真髄。それが5番と9番だったことは僕の音楽人生で大きな啓示となりました。これも僕とオランダ国との見えない糸の導きだったのかもしれません。

メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲ホ短調 作品64

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

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