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クラシックは「する」ものである(7)-ピアノについてー

2014 AUG 14 11:11:37 am by 東 賢太郎

写真 (17)

クラシックは「する」ものシリーズを書いていて、やはりどうしても最後はピアノという楽器の助けを借りたいという思いが出てまいります。それが「する」ことと「語る」ことの橋渡しになるからです。そこで今回は、ちょっと楽譜を忘れてお話しだけです。

 

 

ピアノができないとわからないという意味でないのはご理解賜りたいところです。なにより僕自身のピアノが初心者レベルなのですからそういうことを言える立場にないわけです。むしろ、一度もピアノを習ったことのない僕のような者ですら、クラシック好きであればピアノに触れているとあっと思うことがたくさん出てくるという妙なる経験をお伝えしたいのです。それは歌でオケに加わる合奏に加えてピアノで加わるという無限の喜びを手にすることになるからです。そしてそれは、ピアノ独奏曲を弾くよりもずっとやさしいからです。

先日、僕にとってクラシックのCDはカラオケであると書きました。それには例外があって、それこそがピアノ独奏曲なのです。これは口(くち)三味線で歌うことができないし、歌ってもつまらないでしょう。だから押し黙って聴くしかない。歌って踊ってが通用しない唯一のジャンルなのです。

そこに弦楽合奏が入る音楽とピアノ音楽との根本的な違いがあるようです。声と弦は親和性があり、打楽器であるピアノは声とははるかに異質なように思います。歌にピアノ伴奏がつく歌曲というジャンルはありますが歌を弦が伴奏する編成が発展しなかったのは、弦と同質性がある歌が引き立たないからではないでしょうか。

僕は楽器として多少は弾けるギター、チェロよりピアノに触れている時間が長く、といってピアノは完全独学なのでうまいはずはなく、うまくなる見込みもありません。一応の努力はしましたが通して初見でというとベートーベンのソナタ20番ト長調作品49-2がなんとかというのが現在の所です。この曲はソナチネですから、ちゃんと習っていれば小学校低学年ぐらいでしょうか。

ただ、こういうことを皆様にお薦めするわけではありませんが、何度か書いたように僕にとってのピアノは管弦楽曲のピアノ・リダクション譜で好きな部分を弾くという特別の用途があるのです。つまり音楽を分解して作曲家の頭に在った設計図を知ることには威力があります。ショスタコーヴィチは他人のオケ曲はピアノ譜を想像しながら聴いたそうですが、もちろんそんなことはできなませんが、その気持ちはわかる気がします。

ちなみにピアノを弾き始めたのは高校時代で、最初に弾けるようになったのはストラヴィンスキーの火の鳥の終曲です。そこが弾きたいから始めたという変わり種でした。そして目的を達してしまったのに慢心して基礎的なトレーニングはほとんど無視、バイエル、ツェルニー、クーラウ等は曲に全然興味がなくスキップ、ピアノ曲として初めて覚えたのは、ちゃんとした音楽に聞こえたバッハのハ長調のインヴェンションでした。

しかし色々な曲を知ってみると、オケ曲をピアノにしてしまうとスケルトン( 骸骨)状態になって失うものが多いことがわかってきました。また、音色からしても、ピアノは歌えないということは弦とは完全な別物になったということで、そうなるとさっぱり面白くない曲というのがあることも。しかし一方で、悲愴交響曲の終楽章のように、弦主体なのにピアノで弾いても「すごくいい」と納得する曲もあります。

リムスキーコルサコフの交響組曲「シェラザード」の第1楽章もいい例です。あの大海に漂う船のようなオケの感じがよく出るし、コーダは心が深く落ち着く。左手の分散和音によるコード進行が、あ、これはピアノで作った曲だなと手に取るようにわかるのです。意外に簡単だから経験者にはぜひお薦めします。オケの音を心でシミュレートしながら弾いていただけば、なぜ僕がそんなことに執心しているのかご理解いただけると思います。

つまりピアノ譜というスケルトンになっても名曲というのは名曲の価値をいささかも減じないばかりか、肉づきを欠く分だけごまかしがきかなくなります。歌の悦楽を喪失する代償に音にはぎりぎりの必然と集中力が込められ、オーケストラとは別種の美感と解像度が現れるのです。それはカラー写真を白黒にした方がくっきりと明暗が浮き出たように見えるのと似ているように思います。

825646760046ピアノ・リダクションが立派な別個の作品と聞こえる典型的な例がベートーベンの交響曲でしょう。シプリアン・カツァリスというピアニストが全9曲をピアノで弾いたCD(右)があり大変面白いものですが、僕はこれは立派なピアノ・ソナタだと思いました。ラヴェルの編曲した展覧会の絵を知ってから原曲を聴いた、その感じに近いでしょう。ソナタとして発想した曲を管弦楽化したといわれても違和感がなく、ベートーベンほど交響曲とピアノ・ソナタを写真のカラー・白黒の関係で書いた人はいないのではないかと思います。

彼はピアノという楽器が最も大きく進化した時代に生まれ、それと共に歩み、常にその時その時のピアノが与えてくれる最先端の機能を求めるソナタを書きました。よくいわれるように、楽器を壊すほど強い音をピアノに求めた最初の人ですし、それと同じ原理を楽器編成やダイナミズムの意図的な発揮という側面でオーケストラに求めた最初の人でもありました。同じように面白いことに、彼のピアノソナタの譜面を年代順に眺めると、メカニックな側面で逆に楽器の進化プロセスがおおよそ俯瞰できるのです。

そんなことがあるかと疑問に思われるかもしれません。別な例で見てみましょう。ミュージカルや宝塚は歌手の声をマイクロフォンで増幅しています。本格的な声楽家でなくても歌えるでしょう。歌というものが教会というよく響く場からオペラハウスに出た時代に、仮にですが、マイクロフォンが存在していたら?我々がカラオケを歌うような地声、喉声でも会場の隅々まで響き渡る。きっとそういう発声法の達人は出たでしょうが、我々はドミンゴやカラスのような歌手を聴く機会はなく、ヴェルディはトロヴァトーレや運命の力のようなオペラを発想しなかったのではないかと思います。

けだし、歌って踊っての申し子のようなミュージカルという音楽ジャンルは、クラシックの声楽の発声法を必要としない代わりに別種のフィジカルをそなえた歌手たちを前提としたもので、マイクという音響増幅器が産んだものです。歌手の体躯が大きな音響を産む楽器になることを求めず、そこは増幅器に機能集約する。CPU、メモリー機能を集約化してパソコンを身軽にしたクラウドコンピューティングと同じことです。いわゆる「音響」という、音楽を聴衆の鼓膜に伝えるメディアが音楽そのものを変質させる現象としてマクロ的に眺めるならば、それはハンマークラヴィールと呼ばれた音が増強された新しいピアノの出現がベートーベンをしてあの巨大なソナタを書かせたのと同質の現象でしょう。

管弦楽曲のピアノ・リダクション譜というものは、あたかも因数分解して最後に残った因数のようにその音楽の本質を他から区別する多くの情報を含んでいます。それをいろいろ知るようになると、現代の音楽は、ベートーベンにおけるピアノ譜というスケルトン(骨格)そのものの第一次成長期、そしてワーグナーを経てその骨格にオーケストラによる肉付きが増していく第二次成長期を経て進化したものであるという様子がよくわかるのです。ピアノの譜面を通して音楽を見ると、聴くだけの人間にも多くのことを学ばせてくれます。本で読んだ知識と違い、自分で体感したことというのは血肉となります。

そして、今回申し上げたかったことですが、それが「語る」ということにつながります。ピアノ曲は歌うことができないし、ピアノで歌の譜面を弾くこともあまり喜びをもたらすとは思えないのですが、「歌って踊って」は右脳が音楽を愛でる行為だとすれば、僕にとってピアノは左脳が愛でるための道具という位置づけにあります。そして、その両方の交わる所において、クラシックを聴こうと自分を動かしている衝動が何かあります。この左脳の出番があるという部分において、クラシックを「語る」という行為が成り立つし、こうしてブログを書くことにもなるわけです。

だから、あくまで僕のケースですが、「語る」ためにピアノに助けてもらっているということです。ハンマークラヴィールを弾けるようにはなれませんが、演奏家の方が「する」ために厳しい練習をされている、それとは別種の目的でピアノが活用されるということがあるということです。これは科学にたとえれば、宇宙のことを知るのに物理の知識が助けてくれるのと似ているかもしれません。何光年も離れた星に行きつくことはないのですが、そこで何が起きているかは、自分の理性が及ぶ範囲においてですが一応はわかるという意味でです。

聴いた音楽の感想を語るのに、ただ「良かった」、「感動した」ではつまらないのではないでしょうか。だからでしょう、ワインにテーストやアロマを語るためのヴォキャブラリーがあるように 、音楽にもそれは存在します。しかしワインの語彙は特徴を記憶し識別するためのものです。音楽にその必要はありません。音楽の聴き方というものは個人差があってしかるべきであり他人の感想に左右される必要はありません。あくまで自分がどう聴き、どう感じたかがすべてであり、それが他人と同じであることも他人に共感されることも必要ではありません。

ですから雑誌や新聞でCDや演奏会の批評家のコメントのようなものを読んでみて、その人固有の感じ方に面白いと思うことはあっても、自分が語るために役に立つということはないのです。あくまで他人の個人的意見にすぎません。一方、何か客観性のあることを語り合うという世界はもちろんあっていいでしょう。しかし、指揮者AとBで演奏時間がAが10秒長いのどうのという類の語りに何か自分の音楽鑑賞に関わる有意の価値があるとは僕には思えません。ではその曲のウンチクは?そういうことは今どきの世の中、wikipediaにいくらでも書いてあります。

ですから、僕はピアノを使って自分の頭と耳でその曲をよく知り、作曲家の脳みそに在ったものを自分なりに想像し、そこから彼が聴衆に与えようとした喜びを歌って踊ってのスタイルで享受し、その「体験録」を語るということをするのみです。それ以外に方法があるとは思いません。その喜びの源泉は必ず作品に内在しているものです。演奏家が超絶テクニックで無から有を産むようなことはありません。ですから作品に対する知見こそが語ることのベースであると考えています。仮に「今日の演奏」について何か語るとして、それは、それを何%引き出していたという語りで充分と思います。

皆様に楽譜をお示しして歌って下さい弾いて下さいとめんどうなことを申し上げているのは、ひとえに、喜びが作品に内在している事をご体感いただくためなのです。それなら娘のピアノを触ってみよう、スコアを見てみようなどと志される方がおられれば嬉しいことですし、もちろん歌うだけでもいいのです。僕ごときでできることですから音楽の専門的トレーニングはいりません。作品に対する知見を養うことが目的で、それは「する」ことでしか得られませんし、一度でも得てしまえばそれは一生にわたるその曲との深いつきあいの始まりになります。そこに秘められた財宝を手にされることになり、やがて皆さんは「語りたい人」になられると思います。

 

クラシックは「する」ものである(8)-「ニュルンベルグの名歌手」前奏曲ー

 

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甲子園名勝負と武士道

2014 AUG 13 22:22:21 pm by 東 賢太郎

夏の甲子園で何が面白いかというと様々でしょう。超高校級の選手を見るのもいいですが、やはり若さと若さのぶつかり合いの中で生まれてくる勝敗のドラマは他には代えがたい楽しみのように思います。

昨日の第4試合、岐阜の大垣日大と茨城の藤代の対戦は面白かった。藤代が1回表にいきなりホームランなどで8点を先取しました。いったい何点取るのかなという感じでしたが、結局、大垣日大がこれをひっくり返して12-10で勝ちました。

今日の第4試合、三重と広陵は好カード、好ゲームでした。やや広陵が押し気味で迎えた9回、ツーアウトから三重が2点取って同点に追いつき、延長戦に。双方ピンチをしのぎつつ11回までいって、その裏に満塁から押し出しで三重が5-4でサヨナラ勝ちしました。

両ゲームとも、見ている方も感動しましたが、終了後のインタビューで両監督が涙を浮かべて選手をたたえていたのがとても良いシーンでした。特にプロが注目するような選手はいなさそうな2試合でしたが、熱いドラマがありました。

プロはお金の世界ですから技術は素晴らしいが無理はしません。先日の阪神・ヤクルトで大敗ムードのヤクルトが投手に代打も出さずにバントさせるなど、高校野球とは似て非なる精神のスポーツといわざるを得ません。

高校生はお金のためでなく名誉をかけて戦っています。それだけであれほど真剣になるという経験は、彼らはひょっとしてこれを最後にもう人生で味わえないかもしれません。だから勝ち負けにこだわりつつも、負けてもすがすがしいものを漂わせています。

日本人はこれが好きなんじゃないでしょうか。この大会が広島・長崎の6日、9日、そして終戦の日の15日という時期にサイレンを鳴らして行われるというのは色々と考えさせられます。

僕は鹿児島へ行ったおりに特攻隊の知覧へ行きました。数千の若者の写真、手紙に圧倒され、最後の出撃が終戦のすぐ前だった等の悲劇を知るにつけ、彼らの一部が今なら元気に野球をやっている年代の子たちだったという事実に思い当たるのです。

我々はこういうメモリーを大事にしなくてはいけませんし、アメリカが都合のいいように作り変えた戦後日本の功利主義ではなく、日本人が本来持っている価値観を大切にすべきと思います。

それがどういうものかは色々な側面がありますが、僕は武士道という一言でそのほとんどが含有されるのではないかと思っています。甲子園の高校生たちのすがすがしさは、消えかけている武士道の名残理を感じることからくるのではないかと思いました。

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甲子園出場投手のその後

2014 AUG 12 16:16:48 pm by 東 賢太郎

台風で甲子園が2日順延になりました。いきなり開会式からというのは記憶にありませんが昨日やっと始まりました。

甲子園常連校などが、県外から選手をスカウトなどして集める「野球留学生」が増えているそうです。ちなみに青森県代表の八戸学院光星はベンチ入り18人のうち17人が他県の子です(大阪6 兵庫3 和歌山2 奈良1神奈川1 岩手1 宮城1 )。思えばダルビッシュ、マー君という日本を代表する投手も留学組でした。

箱根駅伝の2区をアフリカの留学生が走る学校がありますが、一人二人ならともかくほとんど外人はいかんだろうという理屈でしょうか。しかしそれを言うなら野球留学よりも各県の予選参加校数の差を問題にしないとだめでしょう。今年は神奈川190校、愛知189校、大阪180校に対し、鳥取は25校。これだと鳥取1校に対し神奈川は8校出場できることになり激戦区と分かります。東海大相模のエースで148km出ていた巨人の菅野は一度も出られませんでした。

もっといえば鳥取の高校生数は1万6千人、神奈川は20万1千人、東京は31万5千人ですから、単純にいえば東京は20校も甲子園に出られることになります。国会議員定数格差は4,5倍ですから、それと同じ問題と見れば格差はそんなものではありません。激戦区を避けて出馬したいというのは高校野球も同じことで、禁止されていないのですから一概に批判もできないと思います。

ところが、今年の鳥取代表は留学生ゼロの県立八頭高校だそうです。留学生のいる高校は負けてしまった。ここが高校野球の面白いところでしょう。一人二人うまい子がいても負けます。投手の影響力が大きいと言われますがそれでも今年は図抜けた投手たちが予選で次々に敗退してしまいましたし、過去でも160kmの大谷や22奪三振の松井は3年の夏の甲子園を逃しました。

ただ個人的には思う所があります。甲子園をわかせて巨人入りした大阪桐蔭の156km投手辻内 崇伸の故障による引退など気の毒でなりません。似たケースですが、僕が実際にベンチから見た最速投手は日大一の保坂英二(3年連続で夏に投げた4人しかいない1人)で、直球とカーブだけでしたが甲子園で都城から17奪三振でした。恐怖感のある直球でした。その彼が71年ドラフト1位で東映に入りましたが故障で一勝もできず引退です。

プロでも、最速伝説の残る阪急の山口高志、巨人からセリーグ・タイの16奪三振のヤクルトの伊藤 智仁、甲子園で桑田・清原のPLを破って優勝した西武の渡辺 智男、初登板で巨人相手にノーヒットノーランをやった中日・近藤 真市など記憶に残る投手が若くして故障で散りました。野手でこういうことはまずありません。だから今年でいえば済美高校の安楽投手、浦和学院の小島投手、前橋育英の高橋投手、小山台の伊藤投手など、本人たちは悔しいでしょうが見ている側としては安心したという気持ちです。

ちなみにプロ野球名球会の投手21名中、甲子園に1度でも出た選手は3分の1の7名、特に3年生の夏に出られたのは東尾修(箕島/西武)、工藤公康(愛工大名電/西武ほか)、佐々木 主浩(東北/大洋ほか)、高津臣吾(広島工/ヤクルトほか)とたった4名しかいません(高津は野手で投げていない)。東尾、工藤がベスト4、佐々木がベスト8でした。

昭和21(1946)年からの夏の甲子園優勝投手は2011年まで77人いるそうです(チームに複数いる場合もある)。そのうち、大学、ノンプロを経た場合も含めてプロ野球入りした選手は32人(41%)ですからこれはさすがです。ところが、そのうち10勝以上を挙げた投手は11人(14%)、100勝以上となると尾崎行雄、野村弘、桑田真澄、松坂大輔の4人(5%)だそうです。全国の頂点に立った人たちにしては意外です。

これらのことから夏の投げ過ぎは危険と結論することはできませんが、甲子園大会がサドンデス(突然死、転じて、負けたら終わり)であるように、故障すると投手生命もサドンデスです。野手から投手への転向は少ないですが、高校時代に一塁手だった斉藤隆と外野手だった上原浩治がメジャーで、捕手だった阪神・久保田、大学で外野だった中日・岩瀬がプロで投手として活躍したのも、肩が消耗していなかったのがラッキーだったかもしれません。

こういうデータを見るとプロで大成することと甲子園出場はあまり関係ないようです。それよりも、大成した人の共通項は故障しなかったことにあると思います。甲子園と箱根駅伝は国民的学生イベントとして出ることに意義がある点が同じですが、投手だけに限っていえばリスクの高いイベントでもあります。

 

 

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クラシックは「する」ものである(6)ージュピター第4楽章ー

2014 AUG 9 13:13:48 pm by 東 賢太郎

「クラシックを歌う」、第5回です。それではいよいよオーケストラに参加してみましょう。

モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」の第4楽章です。チェロパートはほとんどコントラバスパートと同じ譜面(一番下)を弾きますが、一部分だけ別れます。わかりにくいので一番下のコントラバスを歌いましょう(音程はチェロのまま)。

女声だとオクターヴどうしても高くなります。低弦パートを歌って合奏として何ら問題ありませんが、より現実感があるという意味で女性は第1ヴァイオリン、フルート、オーボエから入り、より興味深い第2ヴァイオリン、ヴィオラに進まれるはどうでしょう?

まず、この曲はいままでよりもテンポが速いからそれに慣れてください。歌わないで目で追う練習が必要かもしれません。大事なことですが、他のパートは一切見ないでください(慣れない人はおそらくわからなくなります)。

拍子ですが「4分の4拍子」です。ですが四分音符を1・2・3・4と数えるより1・2/3・4と1小節を2つに割って1・2、1・2・・・と数えた方がいいでしょう(2分の2拍子に)。コントラバスパートだけを見て、イチ・ニ、イチ・ニと数を勘定しながら歌ってください。

イチでなく二から入る所があるので要注意です。速いところの音程はそこそこで結構、8分音符は速いのでタカタカ・・・と歌います。タンタターンタカタカタカタカタカタン、という風に。それでできます。

いかがでしょう?できるまで(できたと感じるまで)何度も挑戦されるとよろしいと思います。少々音程ははずしても「できた」と実感されることが大事です。

歌うのがどのパートであれ、音楽のあまりの見事さに打ちのめされるばかりです。

「モーツァルトが天才である」とは、誰かがそう言うからそうなのではなく、書かれた音符がそう実証していることです。こうして自分でその検証に立ち会うことで、初めて自分の言葉でそう語ることが許される。そう思います。

あくまで僕の場合ですが、この経験をすると「誰の指揮が良いか」等の議論は二次的なことになります。どんな名演奏に酔いしれるよりも、普通の演奏に自分で歌って参加する方がずっと楽しいからです。

つまり、その楽しみは演奏ではなく、スコアそのものが与えてくれることに気がつきます。以前のブログで「僕の拍手は作曲家に90%、演奏家に10%」と書いたのはそういうことです。

あえて申しますが、このモーツァルトのスコアを前にして、ベームとカラヤンのどちらの演奏が偉大かなど語っても仕方ありません。夜空を見上げて輝く星々を目にしながら、地球と月のどちらが大きいか考えるようなものです。

「スコアを読む」(score reading)とよく言います。これは何を意味しているのでしょうか。指揮者の方々は初見で全体の音が頭の中で聴こえる必要があるでしょう。そのためには移調楽器を含む全パートを歌えるのが当然の前提です。

僕らは単なる趣味ですからそこまで極める必要はないでしょう。ただ、鳴っている楽器の音符を図形としてあちこち目で追いかけるだけでは面白くない、やはり「する人」程度まではひとつひとつのパートを歌えるようになりたいというのが僕の願望です。

それが「読む」と言えるのかどうかは知りませんが、そうなれば音楽の深みがより味わえるというのはバッハのアリアでご経験済みと思います。素人にとってはそこまでいけばよろしいのではないでしょうか。

ドイツにいた頃ジュピターを全曲MIDI録音しました。G線上のアリアだとピアノで遊べますがこの曲になるともう僕の技術では弾けません。そういう場合にMIDIは強い味方になります。僕はPROTEUSとヤマハDOMという2台ののシンセサイザーをクラヴィノーバでパートごとに録音しPCに記録します。

音はダウンロードするのではなく全パートを自分の手で鍵盤で弾きます。音は生き物だからタッチがニュアンスに出ます。メトロノームは使いません。自分で自分の音と合奏します。そうしないとどこか機械的になります。それを積み上げれば50段のスコアでも演奏可能です。この過程で知ることが出てきます。

例えばこの第4楽章のフーガ風部分の入りで鳴るホルン、あるいは第3楽章のトリオでオーボエとからむファゴットなど、弾いていて実に気持ちがいいのです。これはオケのこのパートの人、たまらないだろう、うらやましいなと嫉妬を覚えるほど。

ですから自分もどうしてもそこをやってみたくなる。そう欲するかどうかが「する人」かどうかの分岐点だと思います。それにはもちろんホルン、ファゴットを習うのがベストになるでしょうが、それでもオケで両方を吹くのは無理です。全楽器を我がものにできるMIDIはそこでも強い味方です。

しかしもっと経済的で簡単な方法があります。両方とも歌ってしまえばいいわけです。ヴァイオリンを口笛で代用すれば、全曲にわたっていいとこ取りをする形で常にオケに参加していることができます。これが僕のお薦めすることです。

この方法が向かないのはピアノ、管弦の独奏曲です。agility(敏捷性)を売り物にする楽器は向きませんし、遅い曲でも打楽器的なピアノの音色に声はなじみません。しかしオケであればスコアが30段もある春の祭典でも不思議なマンダリンでも何でもできてしまいます。

それを50年やってきた結末として、主だった交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽、一部のオペラ、宗教曲はそうやって歌うレパートリーになってしまいました。それはビートルズのレコードに合わせて歌うのと何ら変わりません。クラシックのレコードやCDは、僕にとっては「カラオケ」です

歌って踊って楽しむというのはそういうことです。日本ではクラシックは高尚なものだ、かしこまって聞くものだという考え方が伝統的です。たしかに、クラシックは非常に知的な側面を秘めた音楽です。しかし、そのこととpassive(受け身)に聴くかactive(能動的、自発的)に聴くかということはぜんぜん別の話です。

ここまでお示ししたことをじっくりおやりになってみて下さい。音楽好きの方で熱意さえあれば誰でもできると思います。

 

クラシックは「する」ものシリーズ、歌うだけでなくピアノを使ってオケに参加することもあります。あるいはギターでも結構です。もちろん楽器をお持ちでなければ歌っても結構です。次回はワーグナーの「ニュルンベルグの名歌手」より第1幕への前奏曲です。

 

クラシックは「する」ものである(7)-ピアノについてー

 

 

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負けの記憶ばかりの高校野球

2014 AUG 7 19:19:50 pm by 東 賢太郎

暑い。一昨日の東京の最高気温は36.1度、昨日は35.7度と猛暑日が続く。今日も35度は行っているだろう。紀尾井町の赤プリ旧館から会社へ向かい千代田放送会館をすぎたところに緑地があって木々がこんもり繁っている。そこを歩いていたらどういう風の吹きまわしか、毎日皇居の周りを走りまわっていた高校時代のくそ暑い野球のユニフォームを着た感覚がよみがえってきた。この緑地は都心に似合わないぐらいミンミンと蝉の声がしていて、なるほど、九段高校の隣は靖国神社の森でいつも蝉しぐれの中で練習していたことを思い出した。

野球のユニフォームというのは思えば軍服みたいに重装備だ。上半身は綿のアンダーシャツと二枚重ね、下半身は厚手のスライディング・パンツ、ひざ下はアンダーソックス、ソックスと三枚重ねと、夏にはきわだって不向きである。そこに革靴みたいな黒くて重いスパイクを履いて、濃紺色ですぐ熱くなる帽子を頭にのせ、分厚い皮の手袋みたいなグローブをはめて炎天下にくりだす。こういう毎日だったから今も熱中症なんかなるはずがないという妙な自信だけある。

そういう服が汗を吸うから硬式野球部の部室の汗臭さというのは半端じゃない。犬なら気絶ものだ。何が置いてあろうがなかろうがもう部屋ごと廊下までくさい。お隣りの新聞部が気の毒だった。練習を終えると全員が汗まみれ泥まみれで、そのまま柔道場で相撲を取ったりなどしたがお互いの汗が汚いなどという感覚はみじんもなくなっている。そういうのが戦友というものなのか、戦場の兵士というのはきっとこんなものだったのだろうかと思う。

やはりうだるように暑かった中、そんな部室でユニフォームに着替えをして、最後に厚ぼったいソックスをはくあのわくわくする感じが、それが前後ろがわかりにくくていつももどかしくて、早くスパイクをはいて紐を結んで、早く早く、というあのはやる気持ちの感じが、40年前とは思えぬくらいにリアルに足に残っている。野球、野球、とにかく一秒でも早くグラウンドに出て、要は、野球がやりたかった。

夏の合宿は矢野口にある九段の尽性園で1週間。硬式野球部の専用球場はここにある。朝6時に起床して多摩川を3,4km走ったら朝食、砂漠の灼熱地獄みたいな日中は水飲み禁止。バケツの泥水に帽子を浸して頭を冷やすふりをして飲んだ。一年生はポジション決めのセレクションでもあって必死だ。外野をひたすらダッシュの連続で唾液というのは枯れるんだということを初めて知った。一人倒れて救急車が来たがそれもサイレンの音しか記憶がない。

そして日没で暗くなってボールが見えなくなる。やっと終わりかと思ったら、石灰をベースに塗って白くしてベーラン(ベースランニング)が始まる。この時点でもうあまり意識がない。大声でバットを振って駆け抜けが何本か、ツーベースとスライディングが何本か、最後が一周してホームにヘッドスライディングだ。土煙を吸いこむがもうそのままそこにずっと倒れていたいと思った。それでやっと一日が終わる。入部時の3年生のチームは夏の甲子園予選、1リーグ時代で東京都大会の第6シード校だからそこそこ強かった。

九段高校の校庭は狭くレフトに80mも打つと柵ごえで靖国神社の境内に入る。ライト側は校舎で2階あたりまでネットがあるが3階の生物室あたりはない。放課後はサッカー部と交代で使うため、毎週水曜日はアサレン(朝練)であった。始発電車で来てたしか7時から始業時間まで全体練習をする。全教室から間近に見えるので女の子の目線が気になっており、打撃は意外によくて6番バッターであった僕はフリーバッティングで生物室の窓ガラスを2度割った。

捕手は2年生のHさんで、気のない球を投げると心臓めがけて剛速球を投げ返してくる熱血漢だった。相手は忘れたが9回裏2-2の同点で走者2塁の場面で左打者の4番に6球(!)つづけてカーブのサインが出た。全部ファールとなり7球目。 サインはまたチョキ(カーブ)。もうやばいだろと思ったが先輩にはさからえずそれがレフトオーバーでサヨナラ負け。Hさん試合後に4番さんに「読んでた?」ときいてたのが聞こえた。別に、と答えててチクショーと思った。こういうつまらないことをなぜかよく覚えている。

初練習試合の海城高校戦、試合前の投球練習で人差し指のマメがつぶれた。皮がべろっとむけて球に血がつく。Hさんに見せたら、にべもなく投げろだ。痛いのでそこが触らないように投げたら先頭打者は直球がオジギして空振り三振だったことだけ覚えている。いま思えばあれはチェンジアップとかいう球だったかもしれない。学べばよかった。へなちょこと散々野次られてホームランを打たれて大敗した。野手の方々はマメのことは知らず株が一気に下がった。

都立大泉戦は監督が三振と四球しかないじゃないかと文句を言って喜ぶ快投を演じた。どこにどう投げても打たれないぐらい振り遅れていた8、9番をなめて手を抜いたらファーボールで一塁のTさんに怒鳴られ、結局最終回にレフトのバンザイで1-0で負けた。帰りの電車で自分だけは本来のボールが投げられて秘かに満足だった。10月の秋季大会の国学院久我山戦も悪くなく3回までゼロだったが2回り目から打たれ、結局7回9-0コールドで負けた。

勝った試合も同じぐらいはあるがこっちはあまり鮮明な記憶がなく、どういうわけか負けたゲームは細かい場面までがよみがえってくる。この翌年夏の前にまずヒジを故障して球が投げられなくなった。それが治って投げていたら今度は肩に来た。尽性園で試合中にマウンド上でおかしくなってとんでもないところに球が行き降板という忘れてしまいたい記憶がある。ベンチで茫然としながらああやっちゃったなと思った。この肩は致命傷だった。大会で投げることはできずに終わってしまった。秋季大会はブロック代表決定戦まで行ったが日大一に12-2で負けた。この試合は故障上がりで代打で出てファーストゴロ併殺打だった。

こうしてふりかえるとこんなにたくさん負けてたかと感心するしエースから補欠に陥落もしているし、まぎれもなく辛酸をなめた思い出ばかりだ。だからこの翌年、スピードは別人のように落ちたが投げられるようにはなって、1回ノーアウト満塁で急遽リリーフで登板してそこから完封した墨田工業との練習試合が最高のメモリーになった。こういうことで高校生活を終わってしまって悔しいし負け惜しみにしかならないが、それでも野球をやってよかったと思う。

卒業まじかのころ、東洋大でも野球をやった4番で主将のNと休み時間に軟球でトスバッティングしてよく遊んだ。始めは受験勉強の気晴らしにじゃれてただけなのにお互い闘争本能に火がついてきてだんだん本気になり、最後はいつも全力投球対マン振りの勝負になってしまった。まともに当たってたらまた生物室の窓を割ったろうが打たれるはずがないと思ってやってしまう。これが野球バカである。

大学では野球部のお誘いがあって1、2か月ぐらい練習に参加はした。当時は法政に江川がいて、東大は慶応、立教に勝って4位だった。結局淡い期待をもった肩がもう使い物にならないとわかってがっくりしたのと違う人生がばら色に見えたのとで、女の子のいるクラブなんかの方に釣られてしまった。だから次の野球はもうだいぶ先の野村證券の野球大会とニューヨークでの企業対抗野球大会までおあずけになった。両方で元球児の名を汚さない程度には投げてトロフィーを1個づつもらい、野球人生が終わった。

野球に教わったのは、強い者は強いということに尽きる。強ければ勝つしそれには努力しかない。裏技や裏口入学は絶対にない。そういうフェアな世界が自分の性に合っていることを知った。ピッチャーをしなければ選手生命は高2で断たれなかったが、それ以外が能力的にも性格的にもできたとは思わない。やっぱり自分に合っていたのは投手であり、やったからこうなったのかこうだからやったのかは知らないが、もう一回生まれたらピッチャーをしたい。

そこからは今度はゴルフになるが、これは僕にとっては野球と比べるべくもないただの遊びだ。それでもベットという野球にない要素があって面白く自分なりに一生懸命やった。15年ぐらい前がピークだったようだ。ゴルフは考えようによっては一生できるフレンドリーなゲームだが、考えようによっては老いや衰えがはっきり見えてしまう酷なゲームでもある。絶対にもうできない野球はそれがないからいい。夏が来れば思い出す、僕は最後までこれでOK。今年の甲子園はどうなるんだろう。

 

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歴史的にお粗末な試合

2014 AUG 6 22:22:10 pm by 東 賢太郎

昨日幸運にも目撃した歴史的な試合のスコアボードの写真を貼っておこう。詳しくは中村兄のブログをご参照いただきたい。

31ten

長年野球をやったり見たりしているが、こういうスコアは草野球でも相当に恥ずかしい試合である。両軍できればなかったことにしたいというレベルに優に到達している。セ・リーグで両軍の合計得点が31点以上は99年7月22日横浜22-11ヤクルト以来、15年ぶりであり、両軍合わせて31打点はプロ野球記録2位タイだそうだ。

たしかに昨日は暑かった。東京は36.1℃までいった。試合前のだれた手抜き練習そのままに試合は両軍の野手が何でもないフライや送球をポロポロ。投手は球威不足。一言でしめくくるなら貧打戦ならぬ貧投戦であった。ヤクルトの八木は19球で肉離れで降板。突然のお呼びとはいえ山中、阿部はバッティングピッチャー未満の状態で試合をボロボロに。それが2人とも代打が出ず阿部は10点ビハインドでバントという空前絶後の場面まであり絶句した。

この試合はやはり神宮で見た2012(平成24)年7月26日のヤクルト×広島12回戦を思わせるものがあった。4回までカープが13-0として先発はマエケン。そのまま完封で楽勝と思いきや最終スコアは16-12と緊迫感を生み出しファンサービスをしてくれたことに感謝している。ちなみにこの16得点は草野球まで入れてもわが生涯で接した最多得点であったが、あっさりと更新されてしまった。

昨日も味方に15点もらったセの三振奪取王メッセンジャーがなぜか崩れて5回で8失点と、それで勝ち投手でも嬉しくないでしょという結末に。あの日のマエケンと同様に、気合いが抜けると人間こうなるよという人生の警鐘を鳴らしてくれたのだと解釈したい。

前代未聞のクオリティの低さであったが、それでも同じ4600円で1.5倍の時間一応野球というものを見られたというのは唯一の救いであり、ビールの売り上げを通じて第3四半期のGDPにいくばくかの貢献ができたかもしれない。

15年ぶりということは次は2029年か。生きていたとしても確率的にもう見ることもないだろうなといいながら中村兄とはカンパイを見送って帰途に。記録にも記憶にも残る一日だ。人生のいい記念にはなった。

 

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クラシックは「する」ものである(5)-J.S.バッハ「G線上のアリア」ー

2014 AUG 6 13:13:46 pm by 東 賢太郎

第5回目です。ちょっとだけ中級コースに入ります。

バッハの管弦楽組曲第3番のアリア(いわゆる「G線上のアリア」)です。ゆっくりな曲なので格好の練習曲です。

有名な曲ですから音楽の教科書で多くの方がご存知でしょう。初心者用の入門曲と思っておられる方も多いかもしれません。

とんでもない。この曲をピアノ独奏でちゃんと弾くのは素人にはなかなか難しいです。そして歌ってみればその難しさがわかります。

まずは女性はソプラノ、男性はバスを歌ってください。バスはオクターヴをちゃんと取ってください。うまくいかなくても結構。あきらめないで何度も挑戦して下さい。譜面が音名で読めない場合は楽器で弾いて耳で覚えてください。

できた方、ではさらにアルトとテノールをいきましょう。

これはちょっとむずかしいかもしれません。じっくりゆっくり、しかし手を抜かずに正確にどうぞ。

テノール(ヴィオラ)のパートは「ハ音記号」なので音をひとつ上げて(シをドとして)読んでください。ドレミをレミファにするということです。音名で読める方はいいですが僕は始めはギブアップでピアノの助けを借りました。

アルト(第2ヴァイオリン)男性はオクターヴ低くてもOKです。特に臨時記号の#がつく所は音程に気をつけて下さい。テノールは原音どおり(裏声)で歌いましょう。

バッハの時代(バロック)の音楽は「通奏低音」(バッソ・コンティヌオ)といってバス(楽器は指定なし)の音に数字を振って、あたかもギターコードのように和音をつけました。

鍵盤楽器であれば左手でバス・ラインを弾いて右手で数字が示す和音を即興で入れたそうです(通奏低音の弾き方に関しては僕はまだ勉強不足なのでコメントを控えます)。

このアリアもソプラノ(第1ヴァイオリン)の旋律にバスがついていて、真ん中の2声があたかも即興であるかのごとく協奏しながら装飾的に和声を縫っていきます。

しかし譜面を見れば見るほど実はそうではなく、計算され尽くした音が大理石のように見事に配置され完璧な宇宙の調和を体現しているという様なのです。

後半で第2ヴァイオリンが半音ずつ上がっていき、最後にバスのe(ミ)に対してd#(レ#)の長7度で軋む部分など息をのむほどの美しさ。絶句するしかありません。

歌い終わってつぶやくのはバッハは凄いの一言です。この4声の糸が織りなす綾のすばらしさ、これにまさる天上の調べは考えがたく僕は娘の名に「綾」の字をつけました。

ぜひ真ん中の2声をじっくり練習なさってください。それでこの曲が完全に違って聴こえてきます。僕の経験です。漫然とお聴きになっていた時とは格段に違うものがそこに現れてきます。

 

ここまで修了された方はもうオーケストラ曲のチェロパート、ヴィオラパートをそこそこ歌える準備ができています。ただ音だけを聴いていたご自分とは別な自分を発見されることでしょう。「歌ったり踊ったり」の効用を一人でも多くの方に体験していただきたいと願っております。

 

クラシックは「する」ものである(6)ージュピター第4楽章ー

 

 

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クラシックは「する」ものである(4) -モーツァルト「クラリネット五重奏曲」-

2014 AUG 4 12:12:59 pm by 東 賢太郎

「歌うチェロパート」、僕が大好きなのはこれです。最高の音楽、最高のチェロパート、それも男性の地声(裏声でない)で自然に歌いやすい。3拍子揃ったモーツァルトのクラリネット五重奏曲の第1楽章です。ンーでもアーでも結構。なるべく大きくていい声で歌ってみて下さい(五つある一番下のパートです)。

どうです、簡単な割においしい音をやらせてもらえるでしょう?中間部は速くて難しいですが無視して結構ですよ。

 

では次に同曲の第3楽章にいきましょう。こっちはもっと易しくて楽しいですよ。

冒頭の9小節のメヌエット主題(下の楽譜)は弱起(四分音符ひとつ)で始まります。弱起とはドイツ語でアウフタクトといい、普通は強拍ではありません。しかしモーツァルトはここでそうしたくない。あえて曲頭の音に (フォルテ)と書いて強拍にしています。そして3小節目の2度目の弱起は (ピアノ)と書いて弱拍にしています。

どうして?

これは物語の伏線なんです。三拍子の頭(イチ、ニー、サンのイチ)にアクセントを置かない。いきなりサンから強く始めてびっくりさせる。弱起というのはドイツ語の歌だと前置詞やデア、ダスのような定冠詞にあてる音符であることが多いので、だからアクセントがない(フォルテでない)のです。

ここのようにいきなりアクセントがつくと、僕の語感では、これは命令形に聞こえます。いきなり「何かしろ」と言われてる。主張されて説得されてるような感じです。

皆さんがわかりやすいように、この楽章のイメージをちょっと寸劇風にしてみました。こういうことなんです。

いきなり強気で迫る男()が女に自信満々にプロポーズする(弦楽器は1拍お休み)。すると女()がやさしく「うれしいわ、でもわたし・・・」と小声で不安げに答える。すると男がまた大きな声で「君、何を心配してるんだ、大丈夫だよ」とそれを打ち消す。(男)と (女)の会話です。

ところが2つあるトリオ(中間部)の最初の方で女の悲しい身の上話しが始まり、「実はわたし・・・」よよと泣きくずれる女を男がそんなこと関係ないさと元気づけます。ここはクラリネットは居場所がなくなって沈黙します。

もう一度冒頭の会話が戻り、女の元気が少し戻ります。

そこでやってくる2つ目のトリオ。上機嫌なクラリネットの伴奏でついに2人は仲よくワルツを踊りはじめる。そして、もう一度冒頭の会話が。女はすっかり安心、2人はめでたくハッピーエンドに。うーん、このカップル、何なんでしょうね?

以上僕の創作ですが、「男」と「女」なのかはともかく、冒頭のメヌエット主題の中の対比、これが重要だからモーツァルトははっきりと f  と p  と書いてるんです。

moz clt qt

さてこの楽譜にやや細かいことですが重要な音があるんです。5小節目の青丸で囲ったd(レ)の音です。

この音が和音をE7というドミナントを7の和音(セブンスコード)にする唯一の音です。ヴィオラのe(ミ)に対してd(レ)を長2度音程でぶつけますが、その音をモーツァルトはわざわざチェロという低音楽器の高い音に割り振っています。

第2ヴァイオリンでもヴィオラでもいいのになぜそうしないのか?

この音はチェロとしては高い方で楽器の特性から必然的に「緊張感を孕んだ目立つ音」になり、ちょっと唐突感すらあります。ただでさえ緊張感のある長2度のぶつかり、それをチェロの高音域の音色の緊張感で倍加したいというのがモーツァルトの意図です。

「君!何を心配してるんだ、大丈夫だよ」、男の言葉はいきなり割って入って女をはっとさせ、たった4小節で安心させて曲が結ばれるのです。短いメヌエット旋律に仕掛けられたドラマ。モーツァルトの天才の秘密がこんなちょっとしたところにもあるんです。

だからこのd(レ)の音がアバウトになってしまうのは絶対にだめなんです。おわかりですね?ちょうど真ん中にあるこの音こそ旋律の頂点で、女をはっとさせ、わかったわともっていく大事な一声。

これが緊張感がなくふにゃっとしてたら?まして音がはずれてたら?

そうね、考えとくわ、でおしまい。プロポーズ失敗。

この楽章のチェロはマッチョでエネルギッシュなイケメンじゃなくてはいかんのです。そうじゃないのに女の方だってよよと泣きくずれたりせんし、楽章全体の寸劇が「なんのこっちゃ?」の茶番劇になってしまうのです。

だから僕たちこの曲を何百回も聴いている手練れの聴衆は、この「レ」がきれいに、しかも緊張感とつややかな張りをもって鳴ることを知っているし、当然に期待しています。だからそうでないと、ああこいつらだめだなという判断に即座になること必至です。

モーツァルトはこわいんです。

僕らは人に聴かせる必要はないのですが、クラシック音楽というのはそういう「ツボ」があって、そういうものを大事にするのが大事だということ、それが暗黙に了解できている「する人」と「聞く人」がいる、そういう場があると素晴らしい演奏というものが生まれます。そういう体験を僕は何度もしています。

それはこのブログに書いた「上級者同士のキャッチボール」に非常に近いものがあると思います(キャッチボールと挨拶)。

ところが、プロの演奏家といってもいろいろあって、この「レ」以前の問題で、女の「うれしいわ、でもわたし・・・」が充分にp にならないなど、のっけから話にならない人はいくらでもいます。いくら指が回ったり超絶技巧があっても、剛速球だけどノーコンのピッチャーみたいなもので・・・。

さて、シロウトの我々ですが、僕の言いたいことは「チェロを歌うというのはただ音を出すんじゃないですよ、作曲家が音にこめた魂、ツボ、カンどころをおさえて、味わいながら歌うことですよ」とお分かりいただけましたでしょうか?

歌ってくださいと僕が申し上げているのは、歌っているとそういうことが自然と分かるようになるからなんです。

そして、その経験の積み重ねこそが皆さんの「クラシックを聞く耳」を鍛えていきます。今ここに書いたことはすぐにわからなくても大丈夫です。歌っているうちにいずれわかる人はわかります。

予習おわり。では第3楽章をどうぞ。

低音のd(レ)はちょっと苦しい(僕はミまでしか出ない)。無視しましょう。こういうことはぜんぜんかまいません。この練習はオケを歌うためのものです。オケでは常にチェロにおいしいメロディーが来るわけではありません。来たときにつかまえればいい。その練習なのでダメな部分は気楽に飛ばしていただいて結構なのです。それでも、ここだ!という所だけはうまく乗っかれること。それが大事です。いずれ楽譜を見ないで自然に乗っかれるようになります。そうなったらしめたものです。練習で第2,4楽章もやってしまってください。

 

モーツァルトではチェロにサン・サーンスやボロディンみたいな息の長いメロディーが出てこないことにお気づきでしょうか。それが古典派とロマン派の違いです。古典派ではオケでもチェロとコントラバスが分離せずバスを担当しています。それが別れてチェロが独立してメロディーを与えられたのはモーツァルトでもキャリアの最後の方(例・ジュピター)あたりで、本格的にはベートーベンからです。

古典派のバスはそういう意味で単純なのですが、これを歌うことで、さきほど指摘した「レ」が大事ですよということとはまた違った学習効果が得られます。つまり和声というものをいかにバス(一番下の音)が作って支えているかを経験的に理解できるようになるのです

覚えておいていただきたいのですが、クラシック音楽というのは和声の流れがいろいろな気分や情景の変化を雄弁に物語る音楽です。英語を学ぶときに「イディオム」というのが出てきましたね。あれと同じで、ギヴとアップという単語があってそれぞれは「与える」、「上に」という意味ですが、ギヴアップというイディオムになると「諦める」という別の意味になります。

和声の連結(英語ではコード・プログレッションといいます)は和声のイディオムであって、C(ドミソ)の次にG(ソシレ)が来るかF(ドファラ)が来るかでまったく雰囲気(意味)が変わります。ドの音を長く伸ばして伴奏にC⇒F⇒CでもいいしC⇒Am⇒CでもいいしC⇒A♭⇒Cでもいいですが、全部気分が違いますね。

クラシックの作曲家はそういう和声連結をパートごとに横の線で行い(対位法といいます)、それを縦に見ると和声になっているという書き方をするのが基本なのです。大学のころ僕はこの対位法と和声法を受験のノリで勉強し、これぞ音楽の「文法」だ!と妙に納得した記憶があります。

バスがドミソのどの音になることもありますが、それを歌っていると連結のルールがよくわかるようになります。このルールに慣れると和声のイディオムの意味がよりよくわかるようになって、音楽の流れの大きな文脈がつかめるようになってきます。

ギターコードだとC⇒Gならバスもドからソに「ドスンと」落っこちますが、クラシックだとそのバスをチェロが弾いてドスンが来るとコントラストが強い。あえてコントラストを強調しているように聞こえてしまいます。ですからドがシに半音だけ下がるという解決が多々出てきます。

そのバス(ド)が半音下がるという動きが次々と継続していくと、例えばC、G、C7、F、Fm、C、G7、Cなんていうもっともらしい和声連結になります。これにメロディーを乗っければ「クラシックっぽい感じ」になるというのがお分かりでしょうか?こういう「階段を下りる(上る)バス」はチャイコフスキーが専売特許みたいに多用します。

モーツァルトだってやってますよ。先ほどの青丸の「レ」をもう一度ご覧下さい。E7のバスのレは唐突感がありますね。ところがそれがド、シ、ラ、ソと音階どおり階段を下りてくるとなーるほどそういうことだったのかとだんだんそれが消えます。最後はミ、ミ、ミ、ラ!と盤石の安定感でE7⇒Aで終了します。

かようにバスの動き方次第でいつもドからソになるギターとは違ったニュアンスのC⇒Gになります。同じC⇒Gというイディオムなのに違う意味、ギヴアップの例なら「あきらめる」ではない新たな意味が出てくるのです。だからクラシックの和声イディオムは実に多種多様で、そこから「転調」という調性の枝分かれの可能性が生まれます。

このクラシックの和声イディオムを機能和声といいます。おおざっぱに言いますと、それを行き着くところまで実験したのがワーグナーで、ブルックナー、ブラームス、マーラーという後期ロマン派の人たちが「使い尽くす」ところまで行きました。

ところがワーグナーがその機能和声という文法をぶち壊す実験もしていて、その実験台として書かれたのが「トリスタンとイゾルデ」です。そして、その実験から発想して和声連結に新たな進化の道を開いたのはブルックナー、ブラームス、マーラーではなくドビッシーです。

だからドビッシーまで行くと「クラシックの文法で書いてない」、いわば異国語になります。そしてクラシック以外の音楽ジャンルで、僕の知る限り機能和声的にできていない音楽はジャズだけです。

ジャズピアノの和声は感覚的ですが非常に洗練されています。ドビッシーを始祖としているかどうかは知りませんが、そうでない機能和声的な音楽はどうしたって強力なクラシックの引力圏につかまります。

そこから脱出するにはああなった、つまりドビッシーもそうなのですが、「バスが支配するロジックを捨てた」んです。ピアノが弾けなかったベルリオーズの音楽もそういう感じがあります。だから斬新になったかもしれません。

「トリスタンとイゾルデ」はバスを追っかけても無意味です。何の調性感ももたらしてくれません。ワーグナーはわざとそう書いたからです。それとドビッシーの掟(文法)破りは正確にいえば違うのですが、ぶち壊しの精神は似たものです。

彼らはバスというものの強力な磁場、引力圏から逃れようとした。つまり、逆説的ではありますが、機能和声音楽というのはバスが支配しているということです。バスというのは?室内楽のチェロパートのことであります。

ですから、バスを歌ってたどるということは、皆さんがふだん耳にしている音楽の99%である機能和声音楽をよく知り、よく味わって楽しむための最強の方法であると僕は信じています。

例えばですが、これが身につくと単純な曲のコードは一発でわかるようになります。このクラリネット五重奏曲のドリルを繰り返しやれば、その程度のことは簡単にできるようになりますよ。

 

さて次回はいよいよヨハン・セバスチャン・バッハの曲を使って、もう少し上級コースに進みましょう。バスでなくアルトとテノールのパートも歌っていただき、いよいよオーケストラスコアに至る下準備のトレーニングをいたします。

 

 

クラシックは「する」ものである(5)-J.S.バッハ「G線上のアリア」ー

(こちらもどうぞ)

モーツァルト クラリネット協奏曲 イ長調 K.622

 

 

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クラシックは「する」ものである(3)ーボロディン弦楽四重奏曲第2番ー

2014 AUG 3 12:12:14 pm by 東 賢太郎

 

サン・サーンスの白鳥と言えば思い出があります。

94年ごろでしょうか、フランクフルトにいた頃、SMCメンバーである二木君が野村ドイツの同僚で、拙宅にお招きして食事をしました。さんざんワインが回ったところで彼がピアノが弾けるとわかり、それはいいすぐやろうと地下に引っぱっていっていきなり伴奏頼むとその「白鳥」の譜面を渡しました。二木は覚えてないかもしれないが、あんまり知らないんですが・・・といいながらも初見でそれなりに弾いて(すごいね)、僕はというともちろんチェロを気持ちよく弾かせてもらいました。

でも歌うんでもいいんですよ。声よりチェロの方がちょっといい音が出るんで楽器を持つだけでなんですから。もちろん速いパッセージは歌は限界があります。だけど歌うことのできるチェロの名旋律はたくさんあるんです。たとえば、これも歌えますよ。裏声になるがこれが美しく歌えたら最高の気分になれます。ボロディンの弦楽四重奏曲第2番第3楽章「ノクターン」です(これも有名曲ですね)。

伴奏に回るところの低音部もしっかり楽譜を見て歌ってください。要はこのカルテットのチェリストになりきることです。

譜面が読めない?大丈夫です。音が取れなくても一番下のチェロパートを目で追えますよね。この曲はゆっくりだしそれがものすごくわかりやすいんです。チェロを聴き分けてそのメロディーを耳で覚えちゃってください。チェロだけ聴くんです。

目が不自由な音楽家の方は普通は点字の譜面で覚えるそうですがピアニストの辻井 伸行さんは右手と左手を別々に耳で聴いて覚えてしまう。楽譜は使わないそうです。そんな記憶力は普通の人にはないですが、この曲ぐらいなら誰でもできますね。

ちなみに、そうやってパートを聴き分ける練習をすれば必ず耳が良くなります。同時に鳴っている音の仕分け能力がつくんです。それに強くなれば交響曲のような複雑な曲を聴いても楽器の聴き分けができるようになります。

そうすると曲からの情報量がぐっと増えるから、いいことがあります。その曲がもっと楽しめる?そうですね、それもありますがそれだけではありません。増えた情報がマーカーとなって曲を早く覚えられるようになります。これが実はクラシックのレパートリーをどんどん増やしてくれる、つまり通になる近道なのです。

ワインだって日本酒の利き酒だって、飲んだものを覚えてないと次のと比べられませんね。覚えるには特徴をなるべくたくさん見つけておくのがいいですね。それと同じことです。カルテットのような、音の少ない曲から練習して、だんだんと編成を増やしていかれるとコツをつかむのに効果があるでしょう。

楽譜にアレルギーのある方もきっとおられると思います。でも所詮は記号だからパソコンの文字とキーボードの関係と同じです。恐れることはありません。楽譜を見ながら聴くと、情報量はますます増えますから、ますます早くますますたくさんの曲を覚えられるのです。そんなにご利益があるんです。チャレンジし甲斐があるではないですか。

次回は天下の大名曲、モーツァルトのクラリネット五重奏曲を使って、和声についてもう少しご説明をしましょう。

 

クラシックは「する」ものである(4) -モーツァルト「クラリネット五重奏曲」-

 

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クラシックは「する」ものである(2)ー放浪記ー

2014 AUG 3 1:01:15 am by 東 賢太郎

アメリカ留学中の楽しい思い出ですが、試験がすむと必ず「打ち上げパーティ」になります。普通はバーでやるんですが、ある時、なんとなく僕のアパートでやろうということになって日本人はもちろん、ケニア人、インド人、スイス人、メキシコ人、韓国人なんかが入り乱れてやってきました。うるさいことうるさいこと。我ながら、英語が下手くそで授業で疎外感を味わってる連中同志の憂さ晴らし大会でもありましたね。

家内が日本メシを振るまうわけですが、みんな独身でそれ目当てみたいなもんで、普段は犬のエサみたいなのしか食ってない連中だからそりゃあうまい。一気に平らげ、安バーボンが何本もころがってへべれけになってしまう。ケニア人は家内にカレーの作り方なんか教えてる。誰かがなんか歌いだすと僕は日本語でよーしやるぞーとどなっていきなりギター弾いてビートルズを歌う。そうするとくだ巻いてた奴らや半分寝てた奴らが寄ってきてレット・イット・ビーの大合唱になる。いっぱしのラ・ボエームでした。

大学時代はというと、六本木にニューヨーク・ニューヨークというディスコがあってよく出没してました。あのころは学校などご無沙汰で真正ヤンキー状態。ディスコから雀荘いってそのまま翌日も徹マンなんてのもざらでした。それで夏休みになると1か月ふらっとアメリカ行ってレンタカーで1800kmぐらいカリフォルニアを突っ走ったりで。ディスコというのはあれっきりですが昭和50年代が予感してたバブルの予兆みたいなもんで、夜中までへばるまで踊んですが、何であんなに夢中だったんでしょうね?とにかくあの腹に響く強烈なビートと耳をつんざく騒音みたいな音楽が良かった。若かったです。

ああいう歌って踊っては、音楽で人間と、じゃなく、音楽で音楽そのものとボディ・ランゲージしている感じですね。頭を迂回して体だけで音楽に反応してる。アフリカの原住民の太鼓がそんな感じじゃないでしょうか。理屈をこねる左脳はオフになってて、すっからかんになって感覚だけの右脳でやってる感じです。

面白いかどうかだけが音楽を音楽たらしめるエッセンスと前回書きました。そいつを決めるのは右脳です。それで終わってみて、今度は左脳がでてきて「右脳の奴、どうしてあんなに面白がったんだろう?」なんて理屈をこねだす。そこに「語る人」たちのウンチク話があると、なるほどと左脳は納得するんです。

そうか、そんな大天才の立派な曲なのか!ちょっと舟漕いだけどそれが理解できたオレもまんざらじゃない。そこで今度は自分がウンチクを友達に語ってみたりもする。そうやってウンチクは自己増殖していく。でもディスコの曲みたいに小難しいウンチクがないと、納得しないまま酔っぱらってそのまま忘れるんです。

ワインがそうですよね。82年はどういう気候でどうのこうので、だからボルドーは当たり年でその中でもペトリュスはもう何本も残ってなくって・・・はい、お客さん、だから100万円なんでございます。ウンチクの嵐です。それに値段がついてる。こんなの大学の時に渋谷でポン引きに騙されてボリまくられた暴力バーと変わらんじゃないか。ところがウンチクが乏しいワインはうまかったねえでおしまい。本当においしくてもすぐ忘れられちゃう。

だからウンチクは日々そこいら中で貯まってふくらんでいくし、ないものは永遠にない。その貯まりまくったほうを僕らはクラシック音楽って呼んでるんですよ、きっと。ワインだってイタリア(トスカーナ)のキャンティなんてたいしたことないけど伝統的に黒い鶏の紋章がついたのはキャンティ・クラシコなんて呼んで差別してる。クラシックになるとセレブ御用達感が出るんザーマスよ。

僕はワインだって「うまければいい」というリアリストです。ウンチクはどうでもいい。酒の値段というのはごまかしがないという定説がありますが、僕はちょっと異論がある。高い酒でまずいのはない、そういう意味なら(暴力バーの5000円のビールを除いて)ほぼ正しい。しかし、安くてもそこそこうまいものはあるのでそこは違う。

同じクラスの酒の値段は世界的にほぼ同じというなら、より正しい。その昔、英国の友人は世界最古の職業(**)と最古の酒(ワイン)にはその法則が当てはまると力説した。前者はちなみに世界どこでも200ドルというのが彼の豊富な知見から導かれた学説なのであった。まあどうでもいいが。

ウンチクが貯まった音楽はいい音楽だ。これはまあ正しいでしょう。しかし酒と一緒でリアリストの僕は、ウンチクなんかなくてもいい音楽はたくさんあるよと思ってます。「語る人」は得てして教養人である。教養人は左脳型が多く、歌って踊っての右脳型は少ない。よってディスコミュージックにはウンチクが貯まらない。明快ですな。

左脳型人種がウンチクで塗り固めてしまったクラシックには、実は右脳型、ディスコミュージック型の「歌って踊っての要素」というものが大いにあるのであって、それをそうやって楽しまなきゃもったいないですよ、というのが『クラシックは「する」ものである』シリーズのいいたいこと。同じなら阿呆なら踊らにゃソンソン、これです。

次回から、それの実践編をやります。皆様に「お歌」を歌って遊んでいただき、ちょっと楽譜も見ていただき、堂々たる本格的クラシックリスナーになっていただけることをお約束いたしましょう。

 

クラシックは「する」ものである(3)ーボロディン弦楽四重奏曲第2番ー

 

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