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クラシックは「する」ものである(1)

2014 AUG 2 2:02:05 am by 東 賢太郎

先日書いた クラシック音楽の虚構をぶち壊そう  はずいぶんたくさんの方にお読みいただいているようでありがたく存じます。

音楽はもともと歌ったり踊ったりするものだったという考え方、いかがですか?ブログを書きながら自分のクラシック音楽50年史をふりかえる日々ですが、やっぱり音楽は聞くだけじゃもったいない。三島由紀夫にマゾって言われちまうし、そんならサドでいってやろう、こっちから能動的に音楽に作用してやろうと思うのです。

小さい頃だからまったく記憶がありませんが、ラジオドラマ「赤胴鈴之助」の歌が好きでおもちゃの刀を振りまわして踊っていたらそれが親戚に知れわたり、とうとう祖父のお通夜でリクエストが出て故人の枕元でやったそうです。このとき2歳でまだしゃべれません。どうも性根から歌ったり踊ったりが大好き人間だったようです。

歌って踊ってはそのまま鉄人28号、鉄腕アトム、スーパージェッタ―、宇宙少年ソラン、少年探偵団、エイトマンへと行って、どれもTVに合わせて歌ってました。そしてその流れでベンチャーズのテケテケに行きましたが最初は「口(くち)ギター」。体が小さいのでウクレレを与えられましたが、テケテケらしくないというのでさんざんねだってギターを買ってもらいました。もちろんそれを弾くのも歌って踊っての延長です。その先にクラシックがくるわけですが、では小学校の音楽の成績はどうだったかというと通信簿は堂々の「クラス最低」、要はビリでありました。

これはいいわけがあって、母は妹にピアノを僕にヴァイオリンを習わせたのですが、耳元でキーキーいうのが生理的にだめで鳥肌が立ってしまうのです。おけいこを泣いてボイコットしてついに野球小僧に転身が許されました。そのトラウマでしょう、学校の音楽も大嫌いになり、唱歌はいやだし笛のピーピーはこれまた鳥肌が立つしで先生がピアノに向かったすきについに窓から脱走までしました。当時の風潮ですが音楽は「女のやるもの」であり、そんなのが好きだなんて野球仲間に言おうもんならコケにされそうな空気もありました。

ということで、僕の「歌って踊って」は文部省指導要領と一度もクロスオーバーすることなくクラシックに突入していきます。そのへんのことはこのブログに書いてあります( ベンチャーズとクラシック)。「女の芸事」の世界に入るのかいやだなという羞恥心がありましたっけ。ビートルズ、ベンチャーズの曲はべつに卒業したという感じでもなく今でも聴きますし、2歳からそこまでの「歌って踊って」路線がクラシックで途切れたかというと、ぜんぜんそんなことはありません。だけどテケテケと女の芸事はあまりにちがう。俺のクラシックはきっと変なんだ、異端児なんだというコンプレックスがいつもありました。

ところが長いことヨーロッパに住んでいて、そこの文化にどっぷりつかり、現地のいろんな方々と飲んだり食べたり話したりしていると、キリスト教徒である彼らの人生には教会へ行って賛美歌を歌うというのが当たり前のように組み込まれていることがわかったのです。もう赤ちゃんのころからそうしてる。僕も何度も教会に行ったことがありますが、牧師がなんだか長々としゃべって眠たくなると、ちょうどいい頃合いにオルガンが鳴って歌になる。するとそのへんに讃美歌集の楽譜が置いてあって、それを順繰りに回してくれてみんな難なく上手に歌うんです。そういうことが学校で教わるんではなくて生活の一部になっているんですね。

ヨーゼフ・ハイドンやフランツ・シューベルトは子供のころ、ウィーンのシュテファン教会の合唱隊、今でいうウィーン少年合唱団で歌ってました。意外に思っていたのですが、あの文化を知ってみるとなんでもない自然なことですね。教会で歌い家庭で親に楽器を習いそういうプライベートな空間の中で空気を吸うみたいに音楽を「する」。才能があれば有名な先生の弟子になってその道で食っていく。でもそういう職業音楽家を聞くアマチュアも、楽譜を見て初見ですんなり歌えるぐらいの「する人」だったんですね。

そういう経験をしてみると、「赤胴鈴之助」にはじまる僕の音楽ヒストリーも意外にヨーロッパ的には普通なんじゃないかと思うようになりました。オギャーと生まれると僕らは僕らなりに讃美歌の代わりにそこらへんにある音楽を覚えます。それは面白いから自然に覚えるんで、誰かに言われてそうなるんじゃないわけです。この「面白い」というのが音楽を音楽たらしめているエッセンスだと思います。そして、子供は面白そうなことは自分でやりたくなる。そうやって自然に「する人」になるのです。

クラシックを「する」、これは楽器で弾くよりもっと簡単な方法があります。歌うのです。僕は家では大声で歌い、手はたぶん指揮者より動いてます。完全に音楽と一心同体というか、本当に入ってしまったときはトランス状態といいますか。何を歌うか?交響曲や協奏曲や室内楽をです。ベートーベンやらブラームスやらの。パートはその時の気分でチェロだったりヴィオラだったり、裏声でホルンなんかも。フルート、トランペットは口笛ですが僕のは隣りの部屋にいた人が今のモーツァルトのレコード、口笛入ってるんですかとまじめにきいたぐらい音程とリズムに細心の注意を払ってます。

コンサートホールではこれができないのでつまらない。じっと聴いてるのは苦手です。もうここまできたらいつかオーケストラ1日借り切って僕の趣味のとおり皆さんに弾いていただくぐらいしかないですね。魔笛なんかやりたいですね。あれは全曲オケパートを歌えるオペラです。ただ難点はパパゲーノの首つりのところ、それからパ・パ・パ・・・なんですね、あそこに来るとどうしても泣いてしまう。トシで涙腺がゆるんだわけではなく、若い頃からあそこに弱いのです。モーツァルトの音楽が強いんですね。

こうやって僕はクラシックを「して」います(そのレパートリーを順次ブログにしています)。オーケストラ曲を歌うなんて変だとお思いでしょうか。そうじゃないというのは、僕はチェロを習ってわかりました。あの楽器は僕のトラウマになったヴァイオリンのキーキーが出ません。だから弾きながら気持ち良くて一緒に歌う。すると男の声域ちょうどぐらいなんです。なるほどそれならオケのチェロパートを歌ってみよう。そうやってこの道にたどり着いたわけです。

嘘だと思われたら、男性のみなさんは「裏声」で、女性の方はそのままで、サン・サーンスの白鳥、これを一緒に歌ってみてください。

どうです、できましたか。けっこう気持ちよくありませんか?男の方、高いd(レ)がきれいに出ましたでしょうか(僕の声はそれがギリギリです)。この音域のチェロ、音質は男の裏声そのものということがわかりますね。しかも、天下の名チェリスト、ピエール・フルニエと合奏!彼の微妙なポルタメント、フレージングの秘密までよくわかってしまう。こうやって音楽の先生が教えてくれたら窓から逃げなくてもよかったなあ。

クラシックは「する」ものである(2)ー放浪記ー

 

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NHKスペシャル「STAP細胞不正の深層」の感想

2014 JUL 31 18:18:21 pm by 東 賢太郎

NHKスペシャルを拝見した。まず、NHKが「不正」と題して気合いの入った番組を作ったのだからそこまでの証拠があるのだろうというのが第一印象だ。

ただその証拠は番組では明示されず、関係者、学者らのインタビューから理研、小保方氏、笹井氏が論文不正をしたようだという推察を生み出そうというトーンで描かれた印象でもある。

これは日本人に限ったわけではないが、悪い人がするのは何でも悪いことだという思い込み(前提A)は広くある。「悪いこと」の証拠はなくても、その人が悪い人だと思わすことができれば「悪いことをした」(結論B)ことになってしまう。

これを演繹法というが、前提Aが常に正しいならBは正しいと証明される。しかし、悪人だって善行をすることがあるから間違っている。だから結論Bは正しいとは言えない。

そうやって問題になるのが冤罪であり、大昔の魔女裁判もその一例だ。そこまでいくと「トンデモ演繹法」だ。きっと続編があるのだろうが番組がここで終わるとそういうものだったようにも見えてしまう。

僕は科学の素人だし情報源はプレスとネットしかない。それでもアームチェア・ディテクティブは可能で、僕がもっと知る分野での仮説をもっている。それは3月のブログにある。ところがそれに2万4千のアクセスをいただいたのはいいが、インサイダー取引の傍証として各所に引用されてしまったのは非常に困る。

第一に、インサイダー取引=悪人⇒悪事、というトンデモ演繹法に加担する気は毛頭ない。第二に、内部者取引を構成する重要事実はないか立証が難しい。それでもインサイダー取引だと言ってしまうのは法学部卒業生の良心から堪えがたい。

第三に、不正利得があった可能性があるとはブログに書いたことだが現行法の網にかからない、まさにインサイダー取引でない、そこに論点があるのであって、それをインサイダーだと騒いでしまったらなんのこっちゃなのだ。

米国ではかような経済犯をSEC、FBIが動いて逮捕しており法整備もされる。だからウブな日本を狙った可能性があるのであって、それが僕の仮説を構成している。論文不正があったのかということとその仮説は別の話だ(正確には、仮説の一部分の構成要素である)。

ただ僕の論法は「もしAならBがうまく説明できる」というものだ。それ以上はできない。これは帰納法(厳密にはアブダクション)といい前提が正しくても結論が絶対に正しいという証明力はない。

僕は「刑事コロンボ」が好きだが彼の方法はアブダクションだから物証がないと逮捕できない。それがない場合が面白い。アブダクションで得た結論Bを正しいと仮定して今度は華麗に演繹法に転じてみせ、犯人にカマをかけて尻尾をつかむ。だめを押すのは物証か演繹なのだ。

不正を立証するならコロンボみたいに「事実」と「論理」の組み立てによらなくてはならない。トンデモ演繹法はいけない。それで世論ごと追い込むのは政治手法であり、政治で人を裁くことは法治国家であってはならない。

僕個人的には小保方さんや笹井さんが悪い人という印象は別に持っていない、というよりも、どういう人かというプロフィールやご評判には関心がない。仮説に何の関係もないからだ。

少し前だが理学博士の竹内薫氏が「ES細胞との混合は超絶テクニックだ」として、「5年10年とずっと細胞培養をやった人じゃないと出来ないと思うんですよ」「小保方さんはそんなこと出来ないと思いますよ」とTVで指摘した。

だから彼女は「誤りによる混入の可能性は常に否定できません」と言っておいて「でもあるとしても過誤です。故意じゃありません。だってそもそも経験不足の私にそれはできないのになぜ私が疑われるのですか?」と言えば逃げられただろう。

ところが彼女は「コンタミ(混入)が起こらない状況が確保されていました」と言い、混入はない=STAP細胞なのだという路線でつっぱった。だから、論文撤回(=STAP細胞ではない)となると、混入があった、それは故意がないとできないと追いつめられている。「不正」とは故意があったと同義であることは言うまでもない。

一方、笹井さんは、「論文撤回でこれは仮説に戻った。しかし、STAP細胞が存在すると仮定しないと説明できないデータがある。検証する価値のある仮説だ。」とした。早稲田論文と同じで「草稿」段階でネイチャーに提出しました、勇み足でしたごめんなさいということだ。

論文不正?とんでもない。あれは単なるフライングです。まだ「存在すると仮定しないと説明できないデータ」解析のプロセスのさなかですよ。プロセスはまだ終了していないんです。だから検証実験をやるのです、というはこびになったと思われる。

この笹井さんの論法もアブダクションである。このロジックはホシを推理する手掛かりにはなるが、最後にはしかし、「コロンボくん、証拠はどこにあるんだね?」とうそぶくホシを観念させる「物証」がないと意味がないのは前述のとおりだ。

時効成立までに物証が出なかった、あるいは、そのデータも捏造だった、別な理由で説明できたということが「検証」される可能性もあるが、もしそうであれば、そのいずれにしても、STAP細胞は暗い闇の中に戻ったということを意味する。

NHKの論法がトンデモ演繹法ではないことを祈るが、不正を証明するならSTAP細胞とされたあの物体が何だったのか、伝聞ではなく即物的な事実を究明することだろう。

万一これが暗闇の幻、誘蛾灯だったとするなら、何かの理由で誘い出された日本の科学者の方々はむしろお気の毒に思う。本件はさらに大きい構図があると思うが、これもアブダクションゆえ物証がいるのだ。あの世からピーター・フォークを呼んでこないといけないだろうか。

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ドヴォルザーク 交響曲第8番ト長調 作品88

2014 JUL 30 15:15:29 pm by 東 賢太郎

ドヴォルザークというと新世界とくるが、僕はこの8番が好きです。それが嵩じて全曲をシンセでMIDI録音しています。ピアノでよく弾いています。あの長いフルート・ソロの部分を弾いていると生きててよかったと思います。音楽というのは何であれ、自分で演奏することで血管に入ります。

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これが幕開き。さあ大シンフォニーが始まるぞで!はなく、ト短調で切々と何かを訴えるようにそっと近寄る。新世界の終楽章のテーマと同じエオリアン・スケールで哀愁が漂います。たった10小節で遠い変二長調まで旅し、音楽はここまで人なつっこい。バスがf#になって主調Gを準備するとやがてトロンボーンとティンパニが荘厳にト長調の到来を告げ、ヴァイオリンが清澄なボヘミアの森の空気のようなトニック和音をppで奏でる。これは何か神性を暗示しますが、現れるのは神ではなく鳥の声!なのです(18小節目)。このさえずりのフルートの旋律がピッコロにバトンタッチします。この管弦楽法の魔法!ヴァイオリン、ヴィオラがそっとささやく和音(22小節目)の優しいこと!いよいよ生きる喜びに満ちあふれた交響曲の幕開けです。

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右が第4楽章の素晴らしい第1主題がチェロで出てくるところのピアノ譜です。心得のある方はぜひこれを弾いてみてください。こんな易しい譜面から「あの」音がする!夢のようではありませんか。

 

ドヴォルザークはこれを1889年に48歳で書きました。ヴィソカという静かな村に家を買って、ボヘミアの自然の息吹の中で一気に作曲したそうです。この頃、彼はあふれるような創作力があり、次々と湧き出てくる楽想を書きとめるのがもどかしいほどだったと言っています。この年の夏、ピアノ四重奏曲変ホ長調作品87を8月に作曲しながら、この交響曲の構想ができつつあったようです。

9月6日に作曲に本格的に着手、13日に第1楽章、16日に第2楽章、17日に第3楽章、そして23日に第4楽章ができています。あのアレグレット・グラツィオーゾの名旋律がある第3楽章がたった1日で出来てしまったというのは凄いを通り越してかえってあっけない。この曲は僕が高校のころ、たしかバルビローリ/ハレ管のLPの銀色と青のタスキに「イギリス」とタイトルが書いてあって不思議に思っていました。新世界がアメリカでこれがイギリスか、なるほどと勝手に納得していました。

真相は違いました。ドヴォルザークが使っていた出版社のジムロックとの間に版権料のひと悶着があったのです。そこで、まだ出版契約期間が残っていたにもかかわらず彼はイギリスのノヴェロ社から出版してしまった。たぶん法律問題にはなったでしょう。しかしそれだけ?おいおい、それで交響曲イギリスはないだろ。みんなそう思ったのでしょう、この名称はほどなく消えました。これを覚えているのはあの青・銀のタスキが気に入ったから。欲しかったが2000円が高くて買えず、手に入れたのは廉価版になってからでした。

ちなみにそのノヴェロ社の創業者、ヴィンセント・ノヴェロはモーツァルトの崇拝者で、姉ナンネルが晩年病の床に就き、生活にも困っていることを知らされ援助のためザルツブルク、ウィーンを夫人と共に訪ねています。コンスタンツェ、息子にも面談し、その内容を日記に綴ったのが「モーツァルト巡礼 : 1829年ノヴェロ夫妻の旅日記」(秀文インターナショナル)です。29年というとベートーベンが死んだ翌年、ベルリオーズが失恋して幻想を書こうという頃。いくら金持ちとはいえ当時イギリスからザルツブルグは大旅行です。まさに巡礼ですね。

8番のライブでは84年に母がアメリカに遊びに来てワシントンDCに行ったおり、JFケネディセンターでビエロフラヴィクがチェコ・フィハーモニーを振った演奏の出だしの弦のとろけるような質感が忘れがたいものです。当時習っていたチェロはこういう音がするものかと思い知りました。この他、スラットキン、ヤンソンス、アルブレヒト、サヴァリッシュ、小林研一郎、グローヴス、バーメルト等を聴きましたが記録を見ると全部無印です。理由は想像がつきます。あのレコードのせいです。

dvo8それは僕が8番の真価を知ったヘルベルト・ブロムシュテット/ ドレスデン国立歌劇場管弦楽団(以下DSK)のLPです。レコ芸で辛口の大木正興氏が激賞していて迷わず買いました。ドイッチェ・シャルプラッテン録音のエテルナ(徳間)盤です。これ1曲で1枚なので両面ともカッティングスペースは3分の2ほどで、つまり内周の3分の1はあいている。ずいぶんぜいたく品を買ったなあという第一印象でした。そしてその音と演奏の素晴らしさ!これ以来8番といえばこれでありDSKといえばやはりこれということになっています。ちなみに大木氏はスイトナーの8番も激賞していたが、こっちは少しも気に入りませんでした。人の好みは色々です。

見事に引きしまった木質のオケの音響。大きな室内楽、有機体が秘蔵の練り薬でひとつになって、気迫と自発性に富んだ抜き差しならぬ緊密なアンサンブルを展開する(こんな感じの表現を大木氏はしていた。まさにそうだ)。それがドレスデン・ルカ教会の空間にあでやかな残響となって広がる。僕はEMI(サヴァリッシュのシューマン等)よりこのエテルナの方がDSKの感じをうまくとらえていると思います。ヴィオラ、チェロのビロードのような柔らかさはチェコ・フィルのライブを思わせ、金管は浮き上がらず、ティンパニはうるさくないが充分の存在感がある。抜群に音楽性の高いフルートは終楽章の難しいソロを見事に吹ききりますが、その前のトゥッティでもマイクが拾っていて良く聴こえます。録音技師たち、何もしてないようでいて各楽器の音をうまく引き出す工夫をしていることがわかります。

こういう録音をオーディオ評論家はほめないでしょう。どこといって特徴がなく、ハイファイ的でもないからです。しかし「音楽」を聴きたい人にはこれが貴重です。HiFiを売り物にするのはそうでもないと存在価値が薄いからでしょう。本当に良いものはワインでも車でも、至極真っ当に良質なものです。そういうものを高級、ハイエンドというわけです。DSKの音がオーケストラの高級品であることは間違いありません。耳を肥やしたい方はDSK、ウィーンPO、アムステルダム・コンセルトへボウの録音だけ1年聴き続けたらいい。ロマネ・コンティとペトリュスとムートンしばりみたいなもの。それだけ耳に焼きつけておけば、知らないものは全部安物と判断すればいいから便利です。別にベルリンPOやシカゴSOが入ってもいいですが、僕の好みとしてはその3つを高級品の最高峰としてお薦めします。

dvo8.1 もうひとつ。本当に耳を肥やしたいならLPをどうしてもお薦めしたいということです。例えばこのブロムシュテット盤、僕は写真の2枚のCDも買っています。もちろん上記LPとまったく同じ音源です。上がドイチェ・シャルプラッテン日本盤、下がベルリン・クラシックス(エテルナ)ドイツ盤。ところが両方ともいただけないのです。上は日本(徳間ジャパン)ですがミキシングし直したと見え不自然なつなぎが興ざめで、

音のヴィヴィッド感も消えdvo8.2ている。下は音のコクと重量感が無くなっておりスピーカーからLPの音楽の躍動感が聞こえてこない。要するに、どっちも全然ダメで、LPを100点とすると30点です。こういう音で聴いたら評価は変わってきてしまうでしょう。しかしこの場合が特別ではありません。オケに関するかぎりCDは音が悪いのです。僕のCDプレーヤーは値段でいえばレコードプレーヤーとカートリッジの5倍はします。それでもLPの方が音が良いのです。

この差は初心者でもaudible(聴き取り可能)です。国内ミキシングしたCDは音の分離が良い反面、弦の高音がキツい場合が多い。それがそれがHiFiイメージなのか、あるいはそういう音が良く聞こえる装置が普及しているからでしょうか。僕はこれが堪えられないので高音低音をバイアンプにしてブルメスターのプリアンプで高音低音を調節しています。しかしCDで高音を抑え気味にしようとすると中音域も死んでしまうケースがあるのです。同じソースでもLPならそれはありません。LPはすべての音域がぎっしり詰まっている。だから高音だけ浮くということがなく、あっても高音を抑えれば中音以下はしっかり鳴るのです。本格的にクラシックを聴こうという方はぜひLPを検討してみてください。ソフトは値段の安い(1枚500円ぐらい)中古で充分です。

8番についてあまり書いてませんが、こんな魅力的な曲でもあり、クラシックファンとしてはマスト・アイテムですからあまり細かいことは気にせずとにかく聴いていただくのみです。ミラン・ホルヴァート/ ORF交響楽団の非常に中欧的なローカル色にあふれたエネルギッシュな演奏をyou tubeからお借りしましょう。指揮者もオケも有名ではありませんが大変な名演であり、通の方もぜひご一聴をお薦めいたします。

(追記、2月11日)

この8番、ブロムシュテットのLPの洗礼が強烈だったせいか、好きなわりにこれだという演奏に出会ってません。おまけにもうひとつの原体験として、上記ワシントンでのチェコ・フィルのとろけるような冒頭部分のヴィオラ、チェロの音が耳に焼きついてしまっていて、どうも、どうしても、どれを聴いてもだめなのです。解釈の方も、自分の手でMIDI録音のために全曲を弾いてますから、やはり無形の換えがたい何かが僕の中にできてしまっています。というわけで、まったく個人的な事情ではありますが、LP、CDを37種類持ってますが定番とされるターリッヒ、アンチェル、カラヤン、ノイマン、セル、ケルテスらが全滅なのは悲しむしかありません。

一聴していいと思ったのは上記ホルヴァートぐらいで、演奏としてなんとか傾聴できるのは以下です。

ラファエル・クーベリック /  ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

zaP2_G2720940W第1楽章は文句なし。この楽章があるから聴く気になります。第2楽章は金管のフォルテがややドイツ風に強くて録音がきつく、ピアニシモはブロムシュテットのデリカシーに欠けます。第3楽章はポルタメントが嫌ですね、どうも趣味に合わない。終楽章は第1楽章より落ちますが、オケは好調でまずまずです。さて問題の音ですが、日本プレスのLP、フランクフルトで買ったドイツ・プレスのCDともいまひとつ未満です。先日中古でドイツ・プレスのLP全集を買いましたが、66年録音の限界なのかこれも期待ほどでなし。難しいものです。

 

 

カレル・アンチェル / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

アンチェルの8番は正規録音がなく、僕は9番を彼のチェコ・フィル盤で覚え感銘を受けていたので探しておりました。1995年に出たこのTAHRAの2枚組は天恵で、1970年に彼がアムステルダムで行った最後の6回の演奏会に8番があったものをリリースしたのです。期待にたがわぬ筋肉質の演奏で、ライブ録音ではありますがコンセルトヘボウのホール感もそこそこ伝わります。

 

ブルーノ・ワルター /  コロンビア交響楽団

MI0003456331第1楽章は最高に見事な解釈。オケも彫の深い演奏で、最善を尽くし老境のワルターの棒に応えています。決して枯れておらず、ティンパニの打ちこみで強い意志を表出するなど重量感ありです。緩徐楽章も詩情がある。ボヘミアの空気を感じられます。第3楽章も僕はヨーロッパの香りをかぎます。ポルタメントは目立たず、歌いすぎず品格を保ち、ねばらないテンポがいい。終楽章が僕としてはやや遅く、フルートの高音が飛び出したり録音のバランスが気になるのが玉に傷ですが、これがワルターのコンセプトなのであり傾聴すべきでしょう。僕のはCDですが再生の仕方次第では音も悪くありません。

(追記、2月14日)

 

クリストフ・フォン・ドホナーニ /  クリーヴランド管弦楽団

41RAD278KFLブロムシュテット盤のコンセプトに比較的近く、ポルタメントと終楽章コーダのテンポ以外は好感をもちました。アレグロの推進力、筋肉質の合奏、緩徐楽想のぬくもり、どれもいいですね。ティンパニを強打する骨格作りも素晴らしい。ドホナーニはベートーベン、シューマン、、ブラームスどれも非常に水準の高い録音を残しています。Deccaの技師が実にヨーロッパ調の品格ある音にしているのも効いていますね。

 

セルの8番論考

ジョージ・セル(1897-1970)。彼の8番は天下の名盤とされいておりこれらに否定的な人はあまりいません。僕自身セルは最も敬意を懐いている指揮者の一人であり、チェロ協奏曲の方は彼の指揮にこれしかないというほど感動してる。どうして8番が嫌いになってしまったのか?これは自分史で重大なことと思いACO盤(フィリップス)、クリーヴランドOの旧盤(CBS)、新盤(EMI)を聴き直してみました。

第1楽章で短調になる部分で両盤ともテンポがガクッと落ちる。これがまずだめ。 再現部は、提示部から遅い新盤はさらに遅すぎ。第2楽章は違和感なしで特に新盤はいいと思うとやはり短調部分は遅すぎ。問題は第3楽章のヴァイオリンのポルタメントで、新盤はやや控えめになってますが旧盤は救いがたいほどぞっとします。

僕は音楽というものを認識する根本的、根源的なところで流れを歌としてではなく和音で追うようにできているらしく、いつもピッチに耳がいっており、それを自ら大いに崩壊させるポルタメントというものはそれがいかに欧州の伝統であろうがなかろうが許し難いのです。これは完全なる趣味の領域だから仕方ありません。

そして第3楽章コーダの速度です、これにびっくりしてしまった。あとで譜面にMolt vivaceとあることを知り、ああブロムシュテットよりセルが正しかったんだと思い直したが後の祭り。最初の擦り込みは恐ろしいのです。終楽章コーダの加速も旧盤はここまでやるとあざとい。そこにこれでもかとぴゃらぴゃら鳴るトランペットがアメリカンな下品さ丸出しで僕の趣味からは程遠いものであります。

ACO盤はモノラルで録音が楽器に近く、せっかくのホール音がいまひとつ生きていません。オケの良さ、セルが弦を締め上げていない感じでポルタメントは軽微。自然なのはプラスですが新盤のピッチの良さはなし。Molt vivaceの唐突感はこれが一番でスラブ舞曲が始まったかというほどです。

セルは古典派で見せた均整感をロマン派ではかなぐり捨てることがあり、この8番はその最たる例ですが、彼のイメージをアメリカのオケに微細に調教しすぎた観があり僕のような聴き手にはそれがうるさくてだめ、録音(特にCBS)が即物的にその表面づらを拾ってしまっていてますます気になるということのようでした。

 

 

 

(こちらへどうぞ)

ドヴォルザーク チェロ協奏曲ロ短調 作品104

クラシック徒然草《シェイナのドヴォルザーク5番》

 

 

 

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ベルリオーズ 「幻想交響曲」 作品14

2014 JUL 28 14:14:41 pm by 東 賢太郎

220px-Henrietta_Smithsonほれた女にふられるならまだいいが、無視されるのは堪え難いというのは男性諸氏は共感できるのではないか。まだ無名だった24歳のベルリオーズは、パリのオデオン座でイギリスから来たシェイクスピア劇団の舞台に接し、ハムレットのオフィーリアを演じたアイルランド人の女優、ハリエット・スミッソン(左)に夢中になってしまった。熱烈なラブレターを出すがしかし彼女は意に介さず、面会すらもできない。激しい嫉妬にさいなまれた彼はやがて彼女に憎しみを抱いてゆくことになる。

間もなく劇団はパリを去ってしまい、ハリエットをあきらめた彼はマリー・モークというピアニストと婚約した。ところが、踏んだりけったりとはこのことで、ローマ賞の栄冠に輝いてイタリア留学に行くとすぐに、モークの母から娘を別な男に嫁がせることにしたという手紙が届く。怒ったベルリオーズはパリに引き返し女中に変装してモーク母子を殺害して自殺しようと企んだ。婦人服一式、ピストル、自殺用の毒薬を買い馬車にまで乗ったのだから本気だった。幸いにして途中(ニース)で思いとどまったが彼は危ないところだった。

しかし、この事件の前に、彼はすでに殺人を犯し、自殺していた。

それは1830年にできたこの曲の中でのことである(幻想交響曲)。恋に深く絶望し阿片を吸った芸術家の物語だが、その芸術家は彼自身である。彼はおそらくハリエットを殺しており死刑になる。ギロチンで切られた彼の首がころがる。化け物になったハリエットが彼の葬儀に現れ奇っ怪な踊りをくりひろげる。これと同じことがモークの件で現実になる所だったわけだ。ベルリオーズが本当に阿片を吸ったかどうかはわからない。阿片は17世紀は医薬品とされ、19世紀にはイギリス、フランスなどで医薬用外で大流行し、詩人キーツのように常用した文化人がいた。ピストルと毒薬を買って殺人を企図したベルリオーズが服用したとしてもおかしくない。

そう思ってしまうほど幻想交響曲はぶっ飛んだ曲であり、「幻想」(fantastique、空想、夢幻)とはよく名づけたものだ。これが交響曲という古典的な入れ物に収まっていることが、かろうじてベートーベンの死後2年目にできた曲なのだと信じさせてくれる唯一の手掛かりだ。逆にその2年間にベルリオーズは入れ物以外をすべて粉々にぶち壊し、それでいてただ新奇なだけでなくスタンダードとして長く聴かれる曲に仕立て上げた。そういう音楽を探せと言われて、僕は幻想と春の祭典以外に思い浮かぶものはない。高校時代、この2つの音楽は寝ても覚めても頭の中で鳴りまくっていて受験会場で困った。

この曲のスコアを眺めることは喜びの宝庫である。これと春の祭典の相似は多い。第5楽章の冒頭の怪しげなムードは第2部の冒頭であり、お化けになったハリエットのEsクラリネットは第1部序奏で叫び声をあげる。練習番号68の後打ちの大太鼓のドスンドスンなどそのものだ。第4楽章のティンパニ・アンサンブル(最高音のファは祭典ではシに上がる)なくして祭典が書かれようか。第4楽章のファゴットソロ(同50)の最高音はラであり、これが祭典の冒頭ソロではレに上がる。第3楽章のコールアングレがそれに続くソロを思わせる。「賢者の行進」は「怒りの日と魔女のロンド」(同81)だ。第5楽章のスコアは一見して春の祭典と見まがうほどで僕にはわくわくの連続だ。

この交響曲の第1楽章と第3楽章は、まことにサイケデリックな音楽である。第1楽章「夢、情熱」の序奏部ハ短調の第1ヴァイオリンのパートをご覧いただきたい。弱音器をつけpからffへの大きな振幅のある、しかし4回もフェルマータで分断される主題は悩める若者の不安な声である。交響曲の開始としては異例であり、さらにベートーベンの第九のような自問自答が行われる。gensou1

感情が赤の部分へ向けてふくらんでfに登りつめると、チェロが5度で心臓の高鳴りのような音を入れる。そこで若者は同じ問いかけを2回する。青の部分、コントラバスがピッチカートでそれに答える。1度目はppでやさしく、2度目はfで決然と。まるでオペラであり、ワーグナーにこだまするものの萌芽を見る思いだ。

若者は納得し(弱音器を外す)、音楽は変イの音ただひとつになる。それがト音に自信こめたようにfで半音下がると、ハ長調でPiu mosso.となり若者は束の間の元気を取り戻す。この、まるで夢から覚めていきなり雑踏ではしゃいでいるような唐突で非現実的な場面転換、そこに至る2小節の混沌とした感じは、まったく筆者の主観であるが、レノン・マッカートニーがドラッグをやって書いた後期アルバムみたいだ。両者にそういう共通の遠因があったかどうかはともかく、常人の思いつく範疇をはるかに超え去ったぶっ飛んだ楽想である。

この後、弦による冒頭の不安な楽想と木管によるPiu mossoの楽想が混ざり、心臓高鳴りの動機で中断すると、再び第1ヴァイオリンと低弦の問答になる。ここでの木管の後打ちリズムはこの曲全体にわたって出現し、ざわざわした不安定な感情をあおる。やがて弦5部がそのリズムに引っぱられてシンコペートする。これが第2のサイケデリックな混沌だ。ここから長い長い低弦の変イ音にのっかって変ニ長調(4度上、明るい未来)になり、しばし夢の中に遊ぶ。フルート、クラリネットの和音にpppの第1ヴァイオリンとpのホルン・ソロがからむデリケートなこの部分の管弦楽法の斬新さはものすごい!これはリムスキー・コルサコフを経てストラヴィンスキーに遺伝し、火の鳥の、そして春の祭典のいくつかのページを強く連想させるものである。

この変イ音のバスが半音上がり、a、f、g、cというモーツァルトが偏愛した古典的進行を経てハ長調が用意される。ここからハリエットのイデー・フィックス(固定楽想)である第1主題がやっと出てきて提示部となる。つまりそこまでの色々は序奏部なのだ。この第1主題、フルートと第1ヴァイオリンが奏でるソードソーミミファーミミレードドーシである。山型をしている。ファが頂上だが、ミミファーと半音ずり上がる情熱と狂気の盛り上げは随所に出てくる。第2主題はフルートとクラリネットで出るがどこか影が薄い。しかしこの気分が第3楽章で支配的になる大事な主題だ。これはすぐに激した弦の上昇で断ち切られffのトゥッティを経て今度は深い谷型のパッセージが現れる。すべてが目まぐるしく、落ち着くという瞬間もない。ここからの数ページは、やはり感情が激して落ち着く間もないチャイコフスキーの悲愴の第1楽章展開部を想起させる。

展開部ではさらに凄いことが起こる。練習番号16からオーボエが主導する数ページの面妖な和声はまったく驚嘆すべきものだ。第381小節から記してみると、A、B♭m、B♭、Bm、B、Cm、C、C#m、C#、Csus4、C、Bsus4、B、B♭sus4、B♭、Bm、B、Cm、C、C#m、C#、Dm、D、D#m・・・・なんだこれは?何かが狂っている。和声の三半規管がふらふらになり、熱病みたいにうなされる。古典派ではまったくもってありえないコードプログレッションである。ベルリオーズは正式にピアノを習っておらず、彼の楽器はギターとフルートだった。この和声連結はピアノよりギター的だ。それが不自然でなく熱病になってしまう。チャイコフスキーは同じようなものを4番の第1楽章で「ピアノ的」に書いた。それをバーンスタインがyoung peoples’でピアノを弾いてやっている。

ところで、ハリエットは第4楽章でギロチンに首を乗せると幻影が脳裏に現れてあの世である終楽章でお化けになることになっているが、僕は異説を唱えたい。最初から殺されていて、全部がお化けだ。第1楽章の熱病部分に続くffのハリエット主題はG7が呼び覚ますが、そこでイヒヒヒヒと魔女の笑いが聞こえ終楽章の空飛ぶ妖怪の姿になっている。そこからもう一度ややしおらしくなって出てくるが、それに興奮して騒いだ彼の首がギロチンで落ちるピッチカートの予告だってもうここに聞こえているではないか。しかしそれはコーダの、この曲で初めてかつ唯一の讃美歌のような宗教的安らぎでいったん浄化される。だからとても印象に残るのだ。本当に天才的な曲だ!このC→Fm(Fではなく)→Cはワーグナーが長大な楽劇を閉じて聴衆の心に平安をもたらす常套手段となるが、ここにお手本があった。この第1楽章に勝るとも劣らないぶっ飛んだ第3楽章について書き出すとさすがに長くなる。別稿にしよう。

第2楽章「舞踏会」。ここの和声Am、F、D7、F#7、F#、Bm、G・・・も聞き手に胸騒ぎを引き起こす。スコアはハープ4台を要求しているが、この楽器が交響曲に登場してくるのがベートーベンをぶっ壊している。第3楽章のコールアングレ、終楽章の鐘、コルネット、オフィクレイドもそうだ。ティンパニ奏者は2人で4つを叩きコーダで2人のソロで合奏!になる。ラ♭、シ♭、ド、ファという不思議な和音を叩くがこのピッチがちゃんと聴こえた経験はない。同様に第4楽章の冒頭でコントラバスのピッチカートが4パートの分奏(!)でト短調の主和音を弾くが、これもピッチはわからない。これは春の祭典の最後のコントラバス(選ばれた乙女の死を示す暗号?)のレ・ミ・ラ・レ(dead!)の和音を思い出す。

この交響曲の初演指揮を委ねられたのはベルリオーズの友人であったフランソワ・アブネックであった。彼についてはこのブログに書いた。

ベートーベン第9初演の謎を解く

幻想交響曲はハリエットという女性への狂おしい思いが誘因となり、シュークスピアに触発されたものだが、音楽的には彼がパリで聴いたアブネック指揮のベートーベンの交響曲演奏に触発されたものである。ベートーベンの音楽が絶対音楽としてドイツロマン派の始祖となったことは言うまでもないが、もう一方で、ベルリオーズ、リスト、ワーグナーを経て標題音楽にも子孫を脈々と残し、20世紀に至って春の祭典やトゥーランガリラ交響曲を産んだことは特筆したい。そのビッグバンの起点が交響曲第3番エロイカであり、そこから生まれたアダムとイヴ、5番と6番である。このことは僕の西洋音楽史観の基本であり、ご関心があれば3,5,6番それぞれのブログをお読み下さい(カテゴリー⇒クラシック音楽⇒ベートーベンと入れば出てきます)。

最後に一言。男にこういう奇跡をおこさせてしまう女性の力というものはすごい。我がことを考えても男は女に支配されているとつくづく思う。そういえばモーツァルトもアロイジア・ウェーバーにふられた。彼が本当にブレークするのはそれを乗り越えてからだ。彼はアロイジアの妹コンスタンツェを選んだ。姉の名はマニアしか知らないだろうが天才の妻になった妹は歴史の表舞台に名を残した。しかしベルリオーズの方は後日談がある。幻想の作曲から2年して再度パリを訪れたハリエットはローマ留学から帰ったベルリオーズ主催の演奏会に行く。そこで幻想交響曲を聞き、そのヒロインが自分であることに気づく。感動した彼女は結局ベルリオーズと結ばれた。彼女の方は大作曲家の妻という名声ばかりか、天下の名曲の主題として永遠に残った。

 

シャルル・ミュンシュ / パリ管弦楽団

406僕はEMIのスタジオ録音でこの曲を知ったしそれは嫌いではない。ただし彼の演奏はかなりデフォルメがあり細部はアバウト、良くいえば一筆書きの勢いを魅力とする。それが好きない人にはたまらないだろうということで、どうせならその最たるものでこれを挙げる。鐘の音がスタジオ盤と同じでどこか安心する。幻想のスコアを眺めていると、書かれた記号にどこまで真実があるのかどうもわからない。そのまま音化して非常につまらなくなったブーレーズ盤がそれを物語る。これがベストとは思わないが、面白く鳴らすしかないならこれもありということ。フルトヴェングラーの運命の幻想版という感じだ。EMI盤と両方そろえて悔いはないだろう。

 

ジェームズ・コンロン/  フランス国立管弦楽団

gensouこの曲はフランスのオケで聴きたいという気持ちがいつもある。マルティノンもいいが、これがなかなか美しい。LP(右、フランスErato盤)の音のみずみずしさは絶品で愛聴している。演奏もややソフトフォーカスでどぎつさがないのは好みである(音楽が充分にどぎついのだから)。パリのコンサートで普通にやっている演奏という日常感がたまらなくいい。料亭メシに飽きたらこのお茶漬けさらさらが恋しい。終楽章のハリエットですら妖怪ではなく人間の女性という感じだからこんなの幻想ではないという声もありそうだが。

 

オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団

4118SYQZ5PL__SL500_AA300_ロンドン時代にLPで聴き、まず第一に音が良いと思った。音質ではない。音の鳴らし具合である。この曲のハーモニーが尖ることなく「ちゃんと」鳴っている。だからモーツァルトやベートーベンみたいに音楽的に聞こえる。簡単なようだがこんな演奏はざらにはない。第2楽章にコルネットが入る改訂版をなぜ選んだかは不明だが、彼なりに彼の眼力でスコアを見据えていておざなりにスコアをなぞった演奏ではない。ご自身かなりぶっ飛んだ方であられたクレンペラーの波長が音楽と共振している。第4楽章の細部から入念に組み立ててリズムが浮わつかない凄味。終楽章もスコアのからくりを全部見通したうえで音自体に最大の効果をあげさせるアプローチである。こういうプロフェッショナルな指揮は心から敬意を覚える。

 

(補遺、2月29日)

ダニエル・バレンボイム / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

51iMEuehZVLベルリン・イエス・キリスト教会の広大な空間を感じる音場で、オーケストラが残響と音のブレンドを自ら楽しむように気持ちよく弾き、良く鳴っていることに関して屈指の録音である。音を聞くだけでも最高の快感が得られる。第1楽章は提示部をくり返し、コーダは加速する。第2楽章はワルツらしくない。第3楽章の雷鳴は超弩級で、どうせ聴こえない音程より音量を採ったのか。第4楽章のティンパニの高いf がきれいに聞こえるのが心地よい。終楽章コーダは最も凄まじい演奏のひとつである。たしかBPOのCBSデビュー録音で、僕は89年にロンドンで中古で安いので買っただけだが、バレンボイムの振幅の大きい表現にBPOが自発性をもって乗っていて感銘を受けたのを昨日のように覚えている。ライブだったら打ちのめされたろう。彼はつまらない演奏も多いが、時にこういうことをやるから面白い。

 

(補遺、2018年8月25日)

ポール・パレー / デトロイト交響楽団

第2楽章の快速で乾燥したアンサンブルはパレーの面目躍如。これだけ内声部が浮き彫りに聞こえるのも珍しい。第3楽章も室内楽で、田園交響曲の末裔の音を感知させる面白さだ。ティンパニの音程が最もよくわかる録音かもしれない。指揮台にマイクを置いたかのようなMercuryのアメリカンなHiFi概念は鑑賞の一形態を作った。終楽章の細密な音響は刺激的でさえある。パレーは木管による妖怪のグリッサンドをせず常時楷書的だが、それをせずともスコアは十分に妖怪的なのであり、僕は彼のザッハリッヒ(sachlich)な解釈の支持者だ。

 

 

クラシック徒然草―ミュンシュのシューマン1番―

 

 

 

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音楽にご関心のある方

ストラヴィンスキー バレエ音楽 「春の祭典」

クラシック徒然草-田園交響曲とサブドミナント-

フランク 交響曲ニ短調 作品48

女性にご関心のある方

「女性はソクラテスより強いかもしれない」という一考察

日本が圧勝する21世紀<女性原理の時代>

 

 

 

 

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キャッチボールと挨拶

2014 JUL 26 21:21:00 pm by 東 賢太郎

 

人を知りたければ友達を見よ、といわれる。目は口ほどにものを言いともいう。しかし僕の場合、その人を知りたければキャッチボールをしようというのが最も信頼度が高い。

もちろん野球ができない人やほとんどの女性には使えない。でも、ちょっとやった人なら、うまいへたではなくもっと鋭い本質的なことを見出すことができるのである。これにごまかしは一切きかないことは野球経験者ならば納得して下さるだろう。

僕は球場に入ると試合前のキャッチボールを必ず見る。何万人の客の誰よりも真剣に見ているに違いない。プロは例外なくうまい。当たり前と思われだろうがキャッチボールは実は難しい。相手の胸にピシッと「礼儀正しい球」を投げなくてはいけない。この「礼儀」という感覚を説明するのはむずかしい。スピードではない。ただ胸に来ればいいわけではない。不思議と投げた人の人格や気持が球質となって見えるのである。良い球を受けると、ああ良い野球をしなくちゃと思う。監督や先輩に言われなくたって勝手にそう思う。だから僕はそれにはうるさくて、礼儀のない、だらしない球を投げる奴は二度と相手に選ばなかった。

これは何か古くさい精神論を振り回しているように聞こえるかもしれないが、実践的なことである。たとえば投球が必ずシュート回転している人がいる。たまたまでなく全部。内野投げの人に多いのだが、実は内野が一番だめだ。ファーストが捕りにくいから内野ゴロの捕殺率が落ちる。しかしいけないのはシュート回転ではない。それに一向に気がつかない自己修正能力のなさ、神経の目の粗さこそ癌なのだ。自分がゴロを追ってどういう姿勢になろうと相手が捕りやすい所に捕りやすい球質で投げてあげる、それが捕殺率の高い内野手だ。そういう心の姿勢こそが「礼儀」なのであり、だからこれは精神論ではなく戦術論である。

自分が礼儀ある球を投げると、ちゃんとした受け手はそれがわかる。無言でグラブを固定して、ピシッと威儀を正して捕球してくれる。パーンといい音がする。これが上級者同志のキャッチボールである。お主やるなの世界だ。いいボールにはおのずと威厳があるのであり、いい選手はそれに必ず畏怖の念を覚え、例外なく敬意を表してくれる。これができないのにいくら練習してもいい野球は無理だ。硬式野球部でも全員がうまいとは限らないし、だめだと例外なく下手だ。だから5球もやれば、相手の実力というのはわかってしまう。

球場に行ってこれを見るだけでも金を払う価値がある。先日もカープの丸、赤松、菊池、木村、田中の球を見ていた。本気で投げてないが捕球した感じはリアルに想像できてしまう。は素直だ。人柄もたぶんそうだろうから投手向きでなかったかもしれない(甲子園で投げた投手だが)。田中が一番重い。彼はああいうストレートな人だろう。才人である赤松のはちょっと癖がある。結局、投げた球には人が出ている。でも誰もが相手をリスペクトした礼儀正しい球を投げている。良い野球をしようといつも心がけている。だからその結果として、プロなのだ。

キャッチボールはそうした奥深い、投球というものの小宇宙である。人間、生きていくには挨拶や会話やメールのやり取りをしているが、これもキャッチボールと同じだとつくづく思う。うちのノイ(ねこ)は名前を呼ぶと返事でちゃんと挨拶してくれる。礼儀がある。ネコだってきっとなにかしらのキャッチボール的な意味をこめて返事している。これが阿吽の呼吸ですっといくと、人ともネコともうまくいく。会社や世の中で「コミュニケーションを大事に」と言っている。それは挨拶しましょうと同じだ。キャッチボール・野球の関係と同じで、挨拶できない人はコミュニケーションも下手だ。

ネット社会はメールで意思疎通する。一度もお世話してない人から「お世話になっております」と来る。ということは、こっちはそう思わなくても、これが挨拶であるということらしい。挨拶が定型化して、意味も感情もネコの挨拶ほどもこもっていない無機的な「記号」になっている。記号はないと変だからついているだけだ。キャッチボールは記号化して「やったことにしましょう」という世の中ということだ。ということは確実に野球は下手になっている。コミュニケーション能力は劣化している。まして礼儀など育つ土壌はないということだ。

ネット社会は便利だが、恐ろしいこともある。こうして誰も気づかぬところで人間と社会を変質させているからだ。それが恋愛や友情や人間関係も犯罪も変質させている。だから引きこもりで妄想にふけった挙句の犯罪者が出たり、なりすましや捏造で世間を平気で騙しておきながら、悪いと思っていませんでしたなどとしゃあしゃあと答える不気味な人間が出てくる。ここまで病が進むと「キャッチボールをしっかりやろう」では無理だ。それが下手なのは問答無用で落とす、それを社会に認識させる、そして努力する者には手をさしのべる、努力した者だけが栄冠を得る、そういう当たり前の順回転のプロセスを社会にもう一度確立するしかない。

なりすましや捏造で悪いことをした者は「それが悪いことなのだ」ということを厳罰に処して性根に叩き込み、青少年にそう教育することが社会全体のため、日本国の健全な発展のために必要である。特別なことは必要ないし、逆回転に振れることは危険でもある。しかし別に難しいことではない。罪刑法定主義を順守して、当たり前のことを司法当局がやればいいだけである。

 

 

 

ねこだまし

2014 JUL 25 17:17:48 pm by 東 賢太郎

ねこだまし(猫騙し)

相撲で,立ち合いに相手の目の前で手を叩き,相手がひるんだすきに組み付いたり,技を掛けたりすること (三省堂 大辞林 第三版)

noi1

 

 

ウチの「のい」は手を叩いたぐらいではひるまない(手は止まるが)。

 

 

noi2

 

 

 

一度見据えた獲物はのがさない。

 

 

 

もう忘れてかけていたSTAP問題。パチンパチンとねこだましの音でかえって思い出した。ねこと国民と、どっちが騙しやすいか。

地方議員問題。あまりにくだらぬゆえ「ねこまたぎ」したが、3万人もいればああいうのが通ってしまう。

税金を使う側への監視を制度的に強めるしかない。オンブズマン制度である。行政の悪事は国民が摘発する。ネットの眼は天網恢恢、欺けない。そしてネット選挙につなげる。大臣にも国会議員にも審判を下し、だめなのは落とす。2つの問題が示唆しているのはそれである。

 

 

猫にステンドグラス

 

 

 

 

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今年の甲子園予選・東京大会

2014 JUL 24 19:19:24 pm by 東 賢太郎

先日のこと、外苑前から神宮球場へ歩いていたら100mぐらい向こうから高校生らしい学生服の男くさい集団がやってきました。日焼けで真っ黒な顔、鋭い目、いかつい体、用具をかつぐ下級生、軍隊みたいな硬派な雰囲気は見るからにまわりから異彩とオーラを放っていて硬式野球部とすぐわかります。すれちがうと感じる一種独特の殺気のようなあのムード。ああなつかしいな、夏なんだなあと思いました。

女子マネがもっていたカバンに足立西高校とあり、球場で見ると残念ながら負けちゃったようでした。でも神宮でできてよかったね。できなかった僕にはうらやましい。ネットで調べると足立西は1回戦では筑波大付属に8-0のコールド勝ち。そして、その足立西を6-0で破った文京はシード校の修徳に6-3で負け、その修徳はノーシードの岩倉に6-4で負けました。その岩倉が今度はシードの東亜学園に8-6(逆転サヨナラ)で負けます。まるでジャングルの弱肉強食の食物連鎖。しかしこれで東亜学園はやっとこさ東東京のベスト8になっただけなのです。明日準々決勝で成立学園と当たります。そこから準決勝、決勝と死闘を勝ちぬいてやっと地区大会優勝。いかに東京では甲子園が遠いかおわかりでしょうか。

つまり、足立西が甲子園に出るためには8連勝しなくてはなりません。後になるほど暑く、相手は強く、投手は疲弊します。好投手でも調子を落とすこともあります。サドンデス、負けたら終わりだから強豪校でも気は抜けません。僕が球児だったころは東と西の2校ではなく東京代表は1校でした(だから甲子園は出るものでも目指すものでもなくテレビで見るものでしたが)。ちなみに今年の我が九段は、1回戦は独協に12-0で5回コールド勝ちしましたが正則学園に5-0で負けました。その正則は朋優学院に負けましたがスコアは3-1の接戦で、朋優の石井投手はプロ4球団のスカウトが視察に来た今大会屈指の左腕です。だから正則との5-0はよくやったと思います。

そしてその朋優学院を1-0で破ったのが選抜で甲子園に出た都立小山台でした。小山台は明日神宮での準々決勝です(日大一高をコールドで下している帝京と当ります)。伊藤投手もプロ注目の好投手ですし甲子園メンバーの小山台が今大会ノーシードとは大変意外でした。それだけ力が分散しているのかもしれず甲子園で戦うにはやや不利ですね。野球はやはりピッチャーなのですが、ちなみに昨日の広島戦で好投したヤクルトの秋吉投手は都立足立新田高校出身ですし最近は都立もあなどれません。また、大学ですと149km出る京大(工学部)の田中投手は日米プロ14球団のスカウトが見に来る逸材で阪神がドラフト指名しそうです。意外なところに好投手ありという時代になっているようです。とにかく、雪谷が負けてしまったので明日は小山台にぜひ頑張ってもらいたい。

 

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広島vsヤクルト(7月23日神宮球場)興奮のるつぼに

2014 JUL 24 1:01:43 am by 東 賢太郎

むし暑い一日でした。平日だしすいているかと思いましたが、甘かった。試合開始ごろからお客さんが増え、外野は満員。いつもはがらがらの僕の指定席(三塁側33段目)あたりまで満席でびっくりです。このへん、一応S指定席4,600円だから安くはないですが右隣りは赤いユニフォーム姿のうら若きカープ女子。熱いですね。東京でもカープファンは大爆発、凄いことになっています。

左はご年配のパリーグファンの方でしたが、一度見てみようと来られたそうです。カープカープの大合唱と好プレーでの耳をつんざく大歓声の中でみんな自然と仲良くなってしまいます。この方とはプロ野球昔話で大変盛り上がり、楽しい時間を過ごさせていただきました。ここでこんなに周囲と肩寄せあって団結したことはなく、カープ躍進のおかげ様でございます。

好ゲームでした。先発はカープ戸田、ヤクルト石山。初回にヤクルトが先制しますが2回に田中の本塁打で追いつきます。左腕戸田は適度に荒れていて2~5回を無安打に抑えていましたが、ついに6回にバレンティンに1発くらいました。これで2-1と1点ビハインドに。

一方、ヤクルト石山の調子は素晴らしく、カープは8奪三振とひねられて4~7回とノーヒット、点が入る気配もありません。エルドレッド、キラの4,5番が無安打に抑えこまれお荷物状態というのはお決まりの負けパターンなのです。8回終了時点でまだ2対1だったのが信じられないぐらいヤクルトが押しまくったゲーム展開でした。何度もやばい!という当たりがさく裂しましたが外野が転びながら捕ったり野手の真正面だったり。「今日は野球の神様が味方だね。これで勝てないとカープは後を引くだろうね・・・」とお隣さん。ほんとにそういう稀に見る展開でした。

そして最終回、ヤクルトは抑えの150km剛腕バーネットを出して1点差死守の必勝体勢に。隣り近所は「もう丸にホームラン打ってもらうしかないですよね」と半ばヤケのあきらめムードでした。そうしたらその丸がレフトに同点ホームラン。まわりのボルテージは凄まじく、僕も気がつくと立ち上がってよくやった!と絶叫しておりました。

そうして入った延長戦。11回に出てきた左腕の久古投手に2死から赤松が会心のセンター前ヒットで出てすぐ盗塁。代打広瀬が歩いた1,2塁で捕手の會澤がライト前でついに1点勝ち越し。木村が続いて2点目。これで4対2。またまたスタンドのボルテージは最高潮です。あまりの騒ぎと熱狂に耳が遠くなるかと思いました。

ついに迎えた11回裏ヤクルトの攻撃。総力戦だったカープはもうピッチャーがおらず、ちょっと経験の浅い中崎がマウンドへ。まあ2点あるから大丈夫でしょう、なんて言っていたら一球もストライクが入らず先頭の中村を歩かせてくれました。2死はなんとか取ったものの打席にはオールスターも出て15ホーマーも打っている最もこわい山田が入りました。この勝負のドキドキ感はもうこれだから野球観戦はやめられんというスリルに満ちておりました。

そして・・・中崎の投じた高めを振りぬくと打球は快音を残して右中間へ。周囲からは悲鳴が・・・。背走したセンター丸がフェンス際であきらめた、そう見えました。動きが止まり、どうしたんだと球場全体が一瞬静まり返ったのです。そうしたらセカンドの菊池が万歳。丸がちゃんと捕球していました。こうしてぼくの周囲でまたまたお祭りが再開。うーん、すごいゲームを見せていただきました。あの静寂は鳥肌もので「いやーおめでとう!でもなんか勝ったっていう気がしないよね」、カープ女子にそういって帰りました。

 

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クラシック音楽の虚構をぶち壊そう

2014 JUL 23 1:01:27 am by 東 賢太郎

岡田暁生著「音楽の聴き方」(中央公論新社)を読んだ。これは勉強になった。クラシックに関心を持つ人に広く薦めたい。氏によれば音楽は「する人」、「聴く人」、「語る人」によって成り立っている。この語る人という視点設定は面白い。

18世紀までは「する人」と「聴く人」はほぼ重なっていたが、ブラームス以降は曲が複雑になって聴く人がする(弾く)のは不可能になって今に至る。演奏は専門的訓練をうけた特殊技能者だけの占有物になった。納得である。また、クラシック音楽は形式のある音楽である故に語られることを想定して書かれた音楽であり、語り合う人間から成っている社会というものに訴えかけ、またその社会から影響も制約も受けるという指摘も意味深い。語り合うことで聴衆は音楽をする側と相互に関わりを持つ。クラシック音楽を聴く楽しみは言葉で語りあうことでさらに深まるのだということが著者の主張のようだ。

三島由紀夫は音楽を「触れてくる芸術」として嫌い、音楽愛好家はマゾヒストであると言った。あまり音楽に興味のなかったカントは「香水を振りかけたハンカチと同列で理性という観点からは最低の芸術だ」と言った(同書から筆者要約)。音楽が触れてくるのは事実だし香水程度の音楽もある。しかし三島がそう言っているのは「聴く人」の立場からにすぎない。音楽は本来歌ったり踊ったりするものだ。聴くだけの人が現れたのは19世紀の終わりごろからだから「音楽愛好家にマゾヒストも含まれるようになった」というのが正確だ。マゾヒストではない音楽愛好家である僕は、実はその点では三島と同質の感覚を持っているかもしれない。

聴く人が「する」のはピアノか室内楽だ。レコードのない当時、モーツァルトやベートーベンの交響曲を劇場で聴く機会は非常に限られており、家でピアノ連弾譜を弾いたり弦楽四重奏版を合奏して「聴いた」のだ。僕はこれがクラシックに限らずすべての音楽を楽しむ基本形だと思う。カラオケがそうだし、ロックやジャズが現代に広く支持されているのはギターという比較的修得しやすい和声楽器の普及で室内楽が容易にできるからだ(それを一般に「バンド」と呼んでいるわけだ)。しかしR・シュトラウスのアルプス交響曲をカラオケで歌ったりピアノやバンドやカルテットでやるのは不可能だ。つまりそのころから演奏家と聴衆は分化していったに相違ない。「専業的聴衆」の誕生だ。

僕はブログで楽譜が欲しい場合、Category:Composers からコピペさせていただいている。それも専門家しか読めない総譜でなくピアノリダクション(ピアノ版)だ。ピアノ譜は曲の構造や和声を俯瞰するのに便利だし習った人なら読める。弾くのは容易でないが、それでも僕は可能な限り弾いてみたい。なぜかというと、耳で知る「あの音」が自分の指先から出るのが楽しいからだ。ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲を見つけてたどたどしく鳴らしてみたときのことが忘れられない。これは昔、ベンチャーズのダイヤモンドヘッドをバンドで弾いたり、ヘルプ!を弾き語りしたり、イエスタデイをカラオケで歌ったりして気持ちが良かったのとなんら変わらない。ワーグナーのころはそれと同じことが家で行われていたわけだ。

一方で僕は音楽を文学的脈絡で聴いたり語ったりすることは不得手だ。そういう試みはベルリオーズやシューマンのようにロマン派の幕開けのころからあるが、三島が嫌った19世紀以降のロマンティックな専業的聴衆の世界でより開花したように思う。音楽ではない何か別なもののために劇場へ足を運ぶ人たちの世界に見える。著者岡田暁生氏は、一人で楽しむのもいいが感動を言葉で他人と共有することが喜びを倍加するという趣旨のことを書いておられるが、僕は専業的聴衆の仲間に入って今日のマーラーのアダージョは感動的でしたなどと意見交換をする時間があるならそれを家でピアノで弾いていたい。なるべく「する人」に近いところにいることで、音楽といつも「本来の在り方」で接していたいからである。

では「語る人」とは何か?ロベルト・シューマンが評論家としてショパンのある曲をほめた。ところがショパンはあまりに文学的なその批評を見て、「このドイツ人の空想には死ぬほど笑わされた」と言っている。僕は音楽ではショパンよりシューマンを好む人間だが、ことこの点においてはショパン寄りだ。スタンダールや小林秀雄がモーツァルトの音楽に見出したというtristesse(かなしさ)という言葉も、作曲家の晩年が涙腺を刺激する悲劇に仕立てられた瞬間から何やら文学用語めいてきて僕は鳥肌が立ってくる。それを知れば、モーツァルトもショパンと同じ言葉を返したのではないかと思う。

作品ではなく演奏の記録までが文学の対象となるのが20世紀だ。トスカニーニが引退を決意した演奏会、リパッティの最後の演奏会、終戦でフルトヴェングラーが指揮台に復帰した演奏会のようなレコードは、それを聞く前から文学として感動している人たちによって格別の価値を見出されている。そういうものまで含めたのが音楽の感動なのだと主張されれば反論は難しいだろう。何に感動しようが人それぞれだ。そう、だからこそ、僕は演奏会の感動を言葉で誰かと共有しようという努力をギブアップしているのだ。同じ寿司をつまんだ隣の人に、あの7番目に出てきた小肌の仕事具合はようごザンしたと言ってなにか時候の挨拶以上の意味を見出す能力は、僕にはない。

音楽鑑賞の会のようなサークル、つまり音楽を語る人たちの集まりというのは一見すると外向きに開かれているようだが、僕にはかえって閉鎖的に見える。ベートーベンはこういうものですよ、シューベルトの冬の旅はこう歌うものですよなどのように御託と手垢にまみれて見える。古典芸能であるクラシックにはしきたりがあるし、5・7・5や季語のようなルールを知らなければ俳句を味わえないようにクラシックもソナタ形式やフーガのような基礎知識がないとうまく聴けないということはある。しかし、それさえふまえておけば、現代では現代の耳でもって冬の旅を聞いてもいいだろうというのが僕の立場だ。

クラシックを味わうにはたくさんの知識やウンチクが必要であり、だから勉強を積んだ通人、知識人、インテリにしかわからないというのは真っ赤な嘘だ。それは是非とも世間にそう見られたいという一群の偽エリートが作り上げているスノビッシュ(俗物的)な虚構にすぎない。教会と王侯貴族の所有物だった音楽を新たに所有した市民階級の中には、初めて高級ワインを手にしたワイン・スノッブのような者が現れて不思議ではない。しかしその一方で、イケメン芸能人のリストやパガニーニは今なら嵐かミスチルみたいなものだった。演奏会に殺到した女の子や貴婦人たちにとっては、彼らの音楽がわかるもわからないもなかったろう。

ドイツはバイエルン州にノイシュヴァンシュタイン城という気のふれたワーグナーフェチの王様が建てた城がある。一度行ってみた。ガイドが美辞麗句を並べて(浪費癖で暗殺されたかもしれない)ルートヴィッヒ2世の悲劇などを語る。ご一緒した御一行様からは「なるほど、美しい、壮麗だ、どこか悲しげだ」と称賛の声が漏れる。お好きな方には申しわけないが、あれは外見はディズニーランドのモデルになるほどロマンティックな風情だが内装のごてごては僕の目には悪趣味かつ醜怪きわまりなく、一度見れば充分だ。本音ではそう思った人もいると想像するが、「いいね」連発の集団の中でそれを公言するのはなかなか勇気がいることだ。これと我が国のオペラ会場特有のスノビッシュな空気は同じようなところがある。

何度も書いているが僕はマーラーが嫌いである。関心がないという消極的嫌いではない。積極的に聞いてみてちっとも面白くなく、よって積極的に嫌いであり、定期演奏会にかかってしまい仕方なく行くとだいたいアダージョで居眠りとなり、最後のから騒ぎで驚いて起きる。いびきをかかなかったか心配であり、できることならやって欲しくない。鑑賞会で皆さんが「いいね」を連発する中でそんなことを言おうものなら即退場だろう。思うにクラシックのそういう目に見えない「ねばならぬ」的な風圧、「いいね」を押しておかないといけない空気、宗教みたいにうさんくさい誉め言葉の虚構臭とでもいうようなものに直感的に気がついていて、興味はあるのに「ひいてしまう」という方が我が国にはとても多いのではないだろうか。

それはその方の人生にとっても、作曲家にとっても、演奏家にとっても、なによりその音楽にとっても、等しく不幸なことだ。だから僕はその虚構を徹底的にぶち壊したいと思っている。ベルリオーズはASKAみたいに阿片をやってたかもしれないぞ(幻想交響曲はルーシー・イン・ザ・スカイだ)、トリスタン前奏曲は男のセックスのアダルト風激写だなどと教えれば、いままでひいていたけれど聴いてみようかという人がいるかもしれない。クラシック音楽を「語る人」になるということは、骨董品の鑑定法教室や趣味の押し売りをするのではなく、虚構をぶち壊し、当たり前の事実や本当に思ったことを誰にも気兼ねなく、何憚ることもなく、明明白白にお示しすることに尽きると思う。

 

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かなしさ)

 

 

 

 

 

 

テレビを消しなさい

2014 JUL 22 12:12:22 pm by 東 賢太郎

認知科学者の苫米地英人氏によると「貧乏脳」というものがある。

金持ちとは収入が多い人ではなく、収入より支出が少ない人のことをいう。金持ちになる方法は収入を増やすだけではない。ところがそれでは税収が減るので政府、官僚は困る。だから「貧乏脳」を増幅する仕組みを作り知らず知らず国民を洗脳している。以上、「金持ち脳」・捨てることから幸せは始まる(苫米地英人著、徳間書店)(筆者要約)である。

その仕組みの最たるものがテレビであり、CMもドラマも「貧乏は悪だ、消費はすばらしい」という刷り込みを毎日繰り返している。氏によると貧乏脳は2種類から成っていて、「不満足脳」と「低自己評価脳」である。それから逃れるにはテレビを消しなさいと彼は言っている。日本のテレビの対象想定年齢は小学校高学年程度である。人をバカに変え、欲望の権化とする元凶と断じている。

それは知らなかったが僕はたまたま野球とニュース以外はテレビを見ない。そう教わったわけでなく単につまらないからだが、それで人生困ったことは一度もない。だから本を読んだりブログを書いたりできる。時間の問題ではない。テレビから学べることはないということだ。小学生レベルだからあるはずがない。インプットがなければアウトプットもない。だからブログも書けない。

ああいうものを見ていると大脳辺縁系が優位になるらしい。怒り、悲しみ、恐怖など動物としての原初的行動を司る部位だ。そういう貧乏脳から逃れるには前頭前野による「抽象化思考」の必要がある。具体的なお札やコインをイメージしていては金持ち脳はできないらしい。うーん、この辺になるとそういう仕事である僕は自信がない。彼の言う金持ち脳ではないような気もしてくる。

「お金で買えないモノを多く持つほど本当の金持ち」、これはしかりだ。皆さんはどうだろう。それを知れば金を使わなくても手に入るモノの価値がわかり、手に入れる方法が見えてくる。したがって続々と手に入り、満足するようになる。実収入とは無関係に金持ちになれる。これはいい考え方だ。脳が満足すればエフィカシーが上がるからだ。この「満足する」という実感、実体験こそが大事だ。テレビはこれを打ち砕いてしまう。

コーチング用語でエフィカシーとは「自己能力に対する自己評価」という意味だそうだ。だからエフィカシーを上げれば自分はカネを稼げる人間だという自己評価を上げられる。日本人は総じてこれが低い。だから稼げる人間と稼げない人間との差が生じる。稼げる人は稼ぎ方の研究をしているわけでもうまいわけでもない。できると確信しているから稼ぎ方が「見える」のである、と言っている。しかりだ。

別にカネを稼ぐのが人生ではない。僕は死ぬまで人生を楽しむために必要十分な資産額がベストと信じている。ありすぎも害である。もっと増やしたい、取られたくないという邪念が出るからだ。あってもなくてもカネに人生を支配される。これは良くない。しかし「お金で買えないモノ」だけでは食っていけない。だからエフィカシーを上げて、がつがつせず自然に稼げるような脳にするのがいい。この本の教えはそんな所だと思う。

米国カーネギーメロン大学Ph.D.である苫米地氏は博学の合理主義者のようだが言っていることがはっきりして分かりやすい。こういう人は優秀である。要は、むずかしいことはない。テレビを消しなさい、本を読みなさい、だ。お子様、お孫さんがおられる方、実践されてはいかがでしょうか。面白い本であり1時間で読める。お薦めします。

 

ホリエモンの「多動力」と「独りぼっち」の関係

 

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